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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

関東大震災になぜ「安房では朝鮮人虐殺は無かった!」のか

2019年09月25日 | 増田の部屋
 ◆ 「関東大震災朝鮮人虐殺」防止した大橋高四郎安房郡長の情報、求む!
皆様 こんばんは。増田です。これは、BCCでお知らせしています。重複・超々長文、ご容赦を!
 先日、「安房では朝鮮人虐殺は無かった!」と、東京全労協学習合宿で学んだことをお知らせしました。やっと時間ができたので、ネットで『千葉県安房郡誌』『安房震災誌』を検索しましたら、前者は国会図書館、後者は『津波ディジタルライブラリィ』HP 「報告書」77番にありました。
 これはテキストでコピーできましたので、こちらを***以下でお知らせします。

 読めば読むほど、この大橋高四郎という当時の安房郡長は、本当に立派な人です。でも、ネットには、ほとんど出ていません。
 この人の行政のリーダーとしての素晴らしい判断力、また、当時、たまたま館山にいたという「大審院検事 落合芳藏」と「東京から館山港に入港した某水雷艇」の「艇長」という二人の人物も、冷静な立派な判断力を有していたという幸運が重なったのですね。
 でも、この「大審院検事 落合芳藏」についてもネットではほとんど情報がありません。
 私など、大橋さんの顕彰碑を建てるべきだ、くらいに思いますけど…関東地方のほとんどの行政担当官が不作為によって「地震の天災の上に、更らに人災を加ふる」無残極まりない「朝鮮人虐殺」に加担したことを思えば…
 もし、この大橋高四郎さんについて情報をお持ちでしたら、教えていただけないでしょうか。
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 第二編 慰問と救護(『千葉県安房郡誌 第6章「慰問と救護」』と同じ記述)

 総説
 一
 (前半略)

 中にも震災と殆ど同時に大々的必要を感じたのは、(1)医藥、食料、小屋掛材料の欠乏と(2)人心安定の方法であつた。
 北條、館山だけでも三千戸以上も潰れ、死傷者一千百余人も出したほどの大地震である。
 (中略)

 そこで、郡長は、聲を大にして「此際 家屋の潰れたのは人並である。死んだ人のことを思へ、重傷者の苦痛を思へ。身體の無事であつたのが此の上もない仕合せだ。カを尽して不幸な人々に同情せよ。死んだ人々に對して相濟まないではないか。」といつて、郡民を導き、且つ励ましたのである。そして此の叫びは實際に於て、多大な効を奏した。萬事此の態度で救護に當つたのである。
 九月三日の晩であつた、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、聞けば船形から食料掠奪に來るといふ話である。田内 北條署長及び警官十數名は、之を鎭静すべく那古方面へ向て出發したが、掠奪隊の來るべき様子もなかつた。
 思ふに是れは人心が不安に襲はれて、神経過敏に陥つた爲めに、何かの聞き誤りが基となつたのであらう。
 すると、郡長は「食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ」といふ意味の掲示をした。可なり放膽な掲示ではあるが、將に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、此の掲示が多大に効果があつたのである。果して掠奪さわぎはそれで沮止された。
 又 是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。安房郡は館山港をひかへてゐるので、震災直後東京の鮮人騒ぎが、汽船の來往によつて傳はつて來た。
 果然 人心穏やかならぬ情勢である。郡では此の不穏の噂を打消す爲めにも亦た大なる苦心をした。
 丁度 滞在中であつた大審院検事落合芳藏氏も鮮人問題には少からず心を痛め、東京から館山港に入港した某水雷艇を訪ひ、艇長に鮮人問題の事を聞いて見ると、同艇長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであつた。そしてそれを郡長に物語つた。
 物語つたばかりではない、人心安定の爲めに自分の名を以て艇長の談を發表しても差支なしとのことであつた。
 之を聞いた郡長は、大に喜び直ちにさうした意昧を記載して、北條、館山、那古、船形に十余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。而かも落合氏の言ふ如く大審院検事落合芳蔵の名を以てしたのであつた。
 此の掲示は初めは大に効果があつたのであるが、東京の騒擾が 實際大きかつたので、後ちに東京から來る船舶が、東京騒擾の事實を傳へるので最早 疑を容るるの余地がなかつた。
 そこで、一旦 掲げた掲示を撒去しやうかとの議もあつた。然し、郡長は艇長の談として事實である。それを掲示したとて偽りではない。而かも、之れが爲めに幾分なりとも、人心安定の効果ある以上、之れを取去るは宜しからずと主張して、遂に其の儘にしておいた。
 兎角するうつちに郡衙を去ること遠き旧長狭地方に鮮人防衛の夜警を始めた土地があつた。爲めに青年團が震災應援の業に事欠かんとする虞れがあつた。加之ならず、人心に大なる不安を與へることを看取した。
 其處で田内 北條署長と共に、「此際 鮮人を恐るゝは房州人の恥辱である。鮮人襲來など決してあるべき筈でない」といつた意味の掲示を要所々々に出した。加之ならず、「若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖してゐるに相違ない、宜しく十分の保護を加へらるべきである」とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。
 要するに、斯うした苦心は刹那の情勢が雲散すると共に、形跡を留めざることであるが、一朝 騒擾を惹起したらんには、地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。
 郡長が細心の用意は實に此處にあつたのである。蓋し安房に忌まはしき「鮮人事件」の一つも起らなかつたのは、此の用意のあつた爲めであらう。
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