都立高校の今【応援する会通信より】
◎ 都立高校におけるアンシャン=レジームと一元的世界観
1 偶像崇拝と都立高校の植民地化
この数年入学式・卒業式で見られる光景でとても気になることがある。これまでなかった壇上の「日の丸」に、頭を深々下げてから舞台に上がる者が多くなった。いやほとんどの人がそうしてると思う。そのようなことは、都教委の規則や通達にもなく、来賓や保護者にもお願いしてもいない。にもかかわらず、このように深々と旗に頭を下げる行為が、なぜ出現することになったのか。
ちなみに昨年の政権交代の際、新閣僚がお披露目の記者会見をする際に、某新聞が、記者会見会場の「日の丸」に誰が頭を下げ、下げていないかを調査し報道していた。(頭を下げた新閣僚に某社民党の党首がいたらしい)。そもそも、キリスト教やイスラム教では偶像崇拝は禁止されている。旗も同じである。日本人の多数派仏教徒はどうなのか。お寺さんに「日の丸」は見たことはない。
壇上に昇り降りするたびにペコペコする姿は滑稽と言えよう。虚空に向かって誰に、何に向かって頭を下げているのだろう。たんに「日の丸」だけなのか。もし、1人だけしなかったならば、一体、どうなるのだろうか興味深い。これもまた、教職員なら懲戒、来賓なら社会的非難が待っているのだろうか。
しかし、このような自発的服従ともいえるありようはなぜ生じるのだろうか。戦前の教育の残滓か、あるいは無言の社会的圧力なのか。他国の自由や民主主義のありようについてあれこれいう前に、自分たちの行為について胸に手を当てて考えてみたいものだ。
「君が代」のほうもまだ多くの教職員は、大声で歌ってはいない。では小声で歌っているのか。なるべく自分の顔が、口の動きが見られないように誰もが気にしているに違いない。
古来他国に支配された民が、支配者たる国の国歌を唱わざるを得なかったときの気持ちが、わかるような気がする。いやまさに都立高校がある種の勢力に征服されたといってよいのかもしれない。
「君が代」への「斉唱拒否」、「口パク」、「小声」は、まさに古来征服された側の必死の民衆の抵抗と同じものである。人びとが征服者の象徴である旗や歌に裏では舌を出しているのに変わりはない。
今年は「韓国併合100年」である。日帝の朝鮮総督府による神社参拝、宮城遙拝、君が代斉唱、日の丸掲揚は、植民地解放から65年たって、いまこの都立高校で復活し、再度歴史が繰り返されているのである。
2 アンシャン=レジーム
都立高校の学校現場の滑稽さについては、この通信でも実に様々報告されているが、まだまだ言い足りない。
学校経営支援センターというものがある。もともと都教委のどこかの部署の誰かが自分の業績のために自己申告書に書いて出来上がったのかもしれないが、要するに、都教委と学校との間にもう一つ、教育行政の組織をおいたものである。中間管理職ともいえる代物である。間に入って、人事や予算、さらには教育内容に口を出す組織であるが、保護者等の学校へのクレームも回されるらしい。
東部、中部、西部に別れて、それぞれ所長のもと、さらに支援チームがA B C D と配置されている。支援チームのトップは、学校経営支援担当副参事と呼ばれる。その多くは、校長がなるらしい。2年ぐらい担当するとまた学校現場に校長として復帰するようだ。
この副参事は校長級であるが、担当する地域の校長を指導する。校長はこの副参事に蛇ににらまれた蛙である。校長はなにか必要があり都教委に話をする前に、このセンターの副参事なり主事に話を通す必要がある。物にもよるが、直接話をすることはできなくなってきたらしい。
また月1回学校にこの支援チームが来校する。この来校日を調整するのが高校の副校長の仕事である。やれ授業を見せろヒアリングをしたいだのいろいろあるようだ。東京都の教育行政はこのように*階層化を進めている。そして、それぞれの階層ごとにその内部で業績を競わせているのである。センターの所長、副参事、主事、高校の校長、副校長、主幹と上下の階層を作るだけでなく、その中で横同士で競争させるのである。この縦と横の巧妙な支配原理と競争原理が、行き着く先はロボットのような教員と生徒の姿である。
しかも学校現場では学校支援センターとは呼ばれず、学校遅延センターと酷評されている。あるいは、学校妨害センターとも呼ばれる。
その理由は、お伺いを立てるために沢山の階層の階段を昇らなければならないからである。支援センターにお伺いたてると、教育庁(本庁?)に聞いてみる、という具合に、学校からの要望に対する回答が回りまわって、遅くなるからである。そして結果的に、だめです、できません、という回答が送られてくる。
また学校で必要な物品も支援センターで購入することになったので、必要なものが数ヶ月遅れで届くことになった。
さらに教職員の人事も支援センターがすることになったので、センター間とセンター内でそれぞれ人事が混乱してしまうと聞く。いずれにせよ、官僚的で意味のない組織改編は現場ではた迷惑であり、即刻廃止ものである。
3 一元的思考回路
最近の学校現場で、気になることを一つ。20~30代の若い教職員たち見ていて感じることがある。
厳しい採用試験を勝ち抜いてきただけあって、またその後の気の毒な初任研や各種の研修を受講させられたせいか、なんというか、事務能力やパソコンの使い方、文章の書き方が手慣れている。また司会や報告等を会議でさせると上手に見える。そつなくといったほうが良いかもしれない。しかし、物足りない。
職員会議や分掌で発言するのは、ベテランばかりである。あるいは、発言しても管理職に真っ向から反対したり、意見を述べることも少ないようだ。また意見を述べることができても何か教育や社会のことで根本的な見方に立った、あるいは何らかの教職員としての使命感に基づいた原理的な意見を語ることがほとんど見られない。一元的なものの見方しかできていないように見える。
このような若い教職員たちが教職員組合に加入しないのもこんなところに理由があるのかもしれない。一元的な見方しかできないだめ、組合運動(労働運動)や市民運動の世界と都教委の世界がそれぞれあり、両者が対立することが必然であり、当然であることを理解できていない。つまり、自分が歴史や社会の主体であること、人間の歴史は名も無き無数の人々が動かしてきたこと、底辺に置かれ、差別され、抑圧されてきた側にできるだけ立とうとすることが歴史的に、普遍的に正義であること等を知らない、あるいは理解しようとしないのでないだろうか。都教委が都立高校の歴史をつくってきたのでは断じてない。では誰がつくってきたのか、言うまでもない。
これまで学校の管理職が都教委の指導や通達を絶対視して、まるで融通のきかない小役人のような姿をいやという程見せ付けられてきたが、若い教職員たちを見ていて未来の管理職を想像してしまうのは、私だけだろうか。
この人たちは、歴史を自分のこととして感じたり見たりすることができていない。ただ、現体制の法秩序を前提にし、寄りかかっているだけである。これでは未来の主権者たる生徒たちを、歴史の主体として畏怖を持って向き合うことはできない。しかし、管理職はともかく、若い教職員たちがこれでは困る。
あなたが親御さんなら、こんな先生に子どもを預けることができるのだろうか。子どもは大学進学率や学力向上、部活動への参加率の数字として、あたかも物や商品のように客体として扱われてしまってよいのだろうか。
かつては、大学で、また学校の職場の先輩たちや同僚から自身の教育観や人間観を意見され、批判され、さまざま教わってきたのである。教職員組合も平和や人権や福祉について語り、あるべき学校の姿、社会のありようについて若手教職員に投げかけることができた。
しかし、学校現場は急速に変貌し、一元的な世界観に支配され、アンシャン=レジームのような秩序階層的なモンスター化しつつある。
『藤田先生を応援する会通信』(第43号 2010/9/9)
◎ 都立高校におけるアンシャン=レジームと一元的世界観
都立高校 教育労働者 U.I
1 偶像崇拝と都立高校の植民地化
この数年入学式・卒業式で見られる光景でとても気になることがある。これまでなかった壇上の「日の丸」に、頭を深々下げてから舞台に上がる者が多くなった。いやほとんどの人がそうしてると思う。そのようなことは、都教委の規則や通達にもなく、来賓や保護者にもお願いしてもいない。にもかかわらず、このように深々と旗に頭を下げる行為が、なぜ出現することになったのか。
ちなみに昨年の政権交代の際、新閣僚がお披露目の記者会見をする際に、某新聞が、記者会見会場の「日の丸」に誰が頭を下げ、下げていないかを調査し報道していた。(頭を下げた新閣僚に某社民党の党首がいたらしい)。そもそも、キリスト教やイスラム教では偶像崇拝は禁止されている。旗も同じである。日本人の多数派仏教徒はどうなのか。お寺さんに「日の丸」は見たことはない。
壇上に昇り降りするたびにペコペコする姿は滑稽と言えよう。虚空に向かって誰に、何に向かって頭を下げているのだろう。たんに「日の丸」だけなのか。もし、1人だけしなかったならば、一体、どうなるのだろうか興味深い。これもまた、教職員なら懲戒、来賓なら社会的非難が待っているのだろうか。
しかし、このような自発的服従ともいえるありようはなぜ生じるのだろうか。戦前の教育の残滓か、あるいは無言の社会的圧力なのか。他国の自由や民主主義のありようについてあれこれいう前に、自分たちの行為について胸に手を当てて考えてみたいものだ。
「君が代」のほうもまだ多くの教職員は、大声で歌ってはいない。では小声で歌っているのか。なるべく自分の顔が、口の動きが見られないように誰もが気にしているに違いない。
古来他国に支配された民が、支配者たる国の国歌を唱わざるを得なかったときの気持ちが、わかるような気がする。いやまさに都立高校がある種の勢力に征服されたといってよいのかもしれない。
「君が代」への「斉唱拒否」、「口パク」、「小声」は、まさに古来征服された側の必死の民衆の抵抗と同じものである。人びとが征服者の象徴である旗や歌に裏では舌を出しているのに変わりはない。
今年は「韓国併合100年」である。日帝の朝鮮総督府による神社参拝、宮城遙拝、君が代斉唱、日の丸掲揚は、植民地解放から65年たって、いまこの都立高校で復活し、再度歴史が繰り返されているのである。
2 アンシャン=レジーム
都立高校の学校現場の滑稽さについては、この通信でも実に様々報告されているが、まだまだ言い足りない。
学校経営支援センターというものがある。もともと都教委のどこかの部署の誰かが自分の業績のために自己申告書に書いて出来上がったのかもしれないが、要するに、都教委と学校との間にもう一つ、教育行政の組織をおいたものである。中間管理職ともいえる代物である。間に入って、人事や予算、さらには教育内容に口を出す組織であるが、保護者等の学校へのクレームも回されるらしい。
東部、中部、西部に別れて、それぞれ所長のもと、さらに支援チームがA B C D と配置されている。支援チームのトップは、学校経営支援担当副参事と呼ばれる。その多くは、校長がなるらしい。2年ぐらい担当するとまた学校現場に校長として復帰するようだ。
この副参事は校長級であるが、担当する地域の校長を指導する。校長はこの副参事に蛇ににらまれた蛙である。校長はなにか必要があり都教委に話をする前に、このセンターの副参事なり主事に話を通す必要がある。物にもよるが、直接話をすることはできなくなってきたらしい。
また月1回学校にこの支援チームが来校する。この来校日を調整するのが高校の副校長の仕事である。やれ授業を見せろヒアリングをしたいだのいろいろあるようだ。東京都の教育行政はこのように*階層化を進めている。そして、それぞれの階層ごとにその内部で業績を競わせているのである。センターの所長、副参事、主事、高校の校長、副校長、主幹と上下の階層を作るだけでなく、その中で横同士で競争させるのである。この縦と横の巧妙な支配原理と競争原理が、行き着く先はロボットのような教員と生徒の姿である。
しかも学校現場では学校支援センターとは呼ばれず、学校遅延センターと酷評されている。あるいは、学校妨害センターとも呼ばれる。
その理由は、お伺いを立てるために沢山の階層の階段を昇らなければならないからである。支援センターにお伺いたてると、教育庁(本庁?)に聞いてみる、という具合に、学校からの要望に対する回答が回りまわって、遅くなるからである。そして結果的に、だめです、できません、という回答が送られてくる。
また学校で必要な物品も支援センターで購入することになったので、必要なものが数ヶ月遅れで届くことになった。
さらに教職員の人事も支援センターがすることになったので、センター間とセンター内でそれぞれ人事が混乱してしまうと聞く。いずれにせよ、官僚的で意味のない組織改編は現場ではた迷惑であり、即刻廃止ものである。
3 一元的思考回路
最近の学校現場で、気になることを一つ。20~30代の若い教職員たち見ていて感じることがある。
厳しい採用試験を勝ち抜いてきただけあって、またその後の気の毒な初任研や各種の研修を受講させられたせいか、なんというか、事務能力やパソコンの使い方、文章の書き方が手慣れている。また司会や報告等を会議でさせると上手に見える。そつなくといったほうが良いかもしれない。しかし、物足りない。
職員会議や分掌で発言するのは、ベテランばかりである。あるいは、発言しても管理職に真っ向から反対したり、意見を述べることも少ないようだ。また意見を述べることができても何か教育や社会のことで根本的な見方に立った、あるいは何らかの教職員としての使命感に基づいた原理的な意見を語ることがほとんど見られない。一元的なものの見方しかできていないように見える。
このような若い教職員たちが教職員組合に加入しないのもこんなところに理由があるのかもしれない。一元的な見方しかできないだめ、組合運動(労働運動)や市民運動の世界と都教委の世界がそれぞれあり、両者が対立することが必然であり、当然であることを理解できていない。つまり、自分が歴史や社会の主体であること、人間の歴史は名も無き無数の人々が動かしてきたこと、底辺に置かれ、差別され、抑圧されてきた側にできるだけ立とうとすることが歴史的に、普遍的に正義であること等を知らない、あるいは理解しようとしないのでないだろうか。都教委が都立高校の歴史をつくってきたのでは断じてない。では誰がつくってきたのか、言うまでもない。
これまで学校の管理職が都教委の指導や通達を絶対視して、まるで融通のきかない小役人のような姿をいやという程見せ付けられてきたが、若い教職員たちを見ていて未来の管理職を想像してしまうのは、私だけだろうか。
この人たちは、歴史を自分のこととして感じたり見たりすることができていない。ただ、現体制の法秩序を前提にし、寄りかかっているだけである。これでは未来の主権者たる生徒たちを、歴史の主体として畏怖を持って向き合うことはできない。しかし、管理職はともかく、若い教職員たちがこれでは困る。
あなたが親御さんなら、こんな先生に子どもを預けることができるのだろうか。子どもは大学進学率や学力向上、部活動への参加率の数字として、あたかも物や商品のように客体として扱われてしまってよいのだろうか。
かつては、大学で、また学校の職場の先輩たちや同僚から自身の教育観や人間観を意見され、批判され、さまざま教わってきたのである。教職員組合も平和や人権や福祉について語り、あるべき学校の姿、社会のありようについて若手教職員に投げかけることができた。
しかし、学校現場は急速に変貌し、一元的な世界観に支配され、アンシャン=レジームのような秩序階層的なモンスター化しつつある。
『藤田先生を応援する会通信』(第43号 2010/9/9)
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