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あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

お百度詣りは・・・

2009-08-17 12:13:20 | ある被爆者の 記憶
本日をもって、「 忘れ水物語 」の お百度詣り( 1~9 )は 終了いたしました。
日々 お起こしくださいまして、誠にありがとうございました。

お百度詣りの物語は、八月中に、八月六日、広島原爆記念の日 に移す予定にしています。

>写真は、今年の八月六日、出雲の日御碕灯台の朝。
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お百度詣り  ( その1 )

2009-08-06 08:15:00 | ある被爆者の 記憶
篠山の二月は、雪が降らない限り、まるで枯死した屍のように自然が動かない。雪国にあるような、ひっそり冬越ししている感じなら、まだどこかにぬくもりがある。篠山は雪国とはいえない。来る日、来る日、寒気が生きの根を止めてしまうのだ。だから、雪でも舞い始めると、却って救われた気になる。
 夜にでも入ろうものなら、凍てついた道は、死人に薄化粧したように冷たく光り、道端の枯葉は、霜に焼かれたというより、霜の挑梁にのたうっている。
 私には、忌わしい篠山の冬の二月の思い出があるから、なおさらそうなのであろうか。それにしても、私たち兄弟とその母は、この篠山の冬の二月の夜の寒気に翻弄されねばならなかった。
 母は、私と弟の手を引いた。もう手を引かれる年齢でもないのに、家を出るとき、決まってそうしたのには、凍てついた道に転ばぬためというより、やっぱり、悲しみと興奮を押えるために、そうせずにはいられなかったにちがいない。
 さすがに、家を出るときは、母の手のぬくもりが伝わるのだが、帰り道は、私も弟も、母と手をつながなかった。その手が氷よりも冷たくなっていることを知っていたからである。
 お百度詣りというものが、どういうものか、まだその名前すら、兄弟は聞いたこともなかったはずである。おそらく、なぜお百度詣りをするのか、それをすれば、どんな効能があるのか、また、どうして、深夜に行わなければならないのか、等々について、母は教えたにちがいない。また、私たち兄弟の方が先に尋ねたかもしれないのに、どんな言葉をやりとりしたのか、何一つ確かなことは覚えていない。母と私たち兄弟の間にやりとりされたいたわりや励ましの言葉よりも、子ども心にも、つらくて、悲しくて、そして訴えようもなく、深みに沈み込んでいく思いの方ばかりが、ずっと ゝ 大きかったからであろう。
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お百度詣り  ( その2 )

2009-08-06 08:14:45 | ある被爆者の 記憶
私と弟とは、黙々と、ただ、母のする通り、母の背後に従って、石畳の参道を行ったり来たりした。母は何か口の中で、祈りごとを唱えているらしかったが、われゝ兄弟は何も言わなかった。何を言ってよいか分からなかったのである。お宮に備えつけのおみくじ百本を、三人で分けて持って、桜門から、拝殿までの参道一往復毎に一本を、神前に神妙に献ずることを繰り返した。
 二、三日経って慣れてくると、私たち兄弟は駈け出して、少しでも早く、自分の手に持ったおみくじの数を減らそうと競争したりした。本当は、お百度詣りは三人それぞれの往復を合わせて百回になればよいというものではないはずである。けれども、母は、それを抗って、とがめようとはしなかった。でも幼い者たちにも、母のさびしい笑いの中に、このいたずらが過ぎてはまずいことが、充分直観できた。だから、決して、兄弟が手に分けて持ったおみくじを、神前で、弟が先に置いたら、私はもう置かなかったし、私が先の場合は、弟も置こうとはしなかった。ただ、先着を争うわずかばかりのゲームを加えたまでのことであった。でもせめて、そうでもしない限り、昼間は、神殿の背後は、春日山と呼ばれて、子どもたちの遊び場でもある岩肌が、お百度詣りのこの時間ばかりは、耳なりがするほどに静まり返って、母子三人の足音だけを不気味に反響させるのが、薄気味わるかった。
 お百度詣りは、丑の刻詣りではない。それだのに、人目を避けての行為であることが、なおさらに、私たちをびくつかせていた。
 神様、どうか、父を助けて下さい。
 こう祈る行為が、どうして怖いのだろう。そう改めて考えてみる勇気もないほどに、私たちはおびえていた。
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お百度詣り  ( その3 )

2009-08-06 08:13:35 | ある被爆者の 記憶
 「 父は悪いことをしたのではない。人の罪を着て、警察に引かれて行ったのだ。悪者は姿をくらました。その身代わりに、警察に留置されたのだ。」
母からも、姉からも、親戚の叔父からも何度もそう聞かされた。私はそれを疑いはしなかった。あの父が悪事を働くなど、私には考えられないことであった。
 でも、父を信じることとは全く無関係に、お百度詣りそのものが、悲しく、後暗さを思わされたものであった。― 恐怖感は、罪の有無にかかわらず、もと ゝ後暗いことと同質なのではないか。それにどういうものか、思いが前に進まない。たとえば、父はいつになったら釈放されるのだろう。一体、公金を横領して逃げている奴は、摑まるのだろうか、等々、これからの事が頭に浮かんでもよさそうなものだのに、およそ、父の事件とつながることは、意識してもすぐ途絶えてしまって、またしても、私の頭の中を蔽うものは、決まって、母方の祖父の幻影であった。
 それは父が警察に留置されたことと、祖父が警察官であったという連想にすぎないことかもしれないけれど、そんなことよりも、もっと生々しく、この春日社の境内には祖父の印象が焼きつけられていることからくるものであった。
 「 あの春日社の岩山を知っとってやろ。近郷近在を荒らしまわったピスケンちゅう賊が、あの岩肌を、よじ登って逃げようとしたんやそうな。爺さまはな、逃がしてなるものかと、下から手裏剣を投げはったそうな。そうしたらな、その手裏剣が、朝日にきら ゝっと光ったと思うとな、ピスケンの足に突き刺さったそうな。爺さまは、もとお侍で、御一新から警察官にならはったんや。ほいで、武芸はなんでもよう出来なはったんや。」
祖母が寝物語に、私たちに語って聞かせた祖父の武勇伝の一節である。私は、母の実家の長押に掛けられた一筋の長槍を思い出すのだった。
 「 ほんなら、弓も上手やったか。」
 弟のみずほは、決まって、その話のくだりで、そう聞いた。祖母の語り口も決まっていたが、みずほの合いの手も決まっているみたいに思われた。みずほは、私が、長押の槍を思い出したように、同じく床の間に飾られた胡簶(やなぐい)を、いたずらしたことでも思い出しているにちがいない。
 「 弓も上手じゃったし、馬に乗ったまんま射る流鏑馬(やぶさめ)ちゅうもんが、えろう名人じゃった。」
 私は、祖父が馬にも乗れたことを感心もし、羨しくも思う。
 母方にもせよ、祖父が武士の出であることは、肩身が広かった。
 祖母はそれを意識して話していたのかもしれない。その話しっぷりは、悪びれもせず、とにかく爺さまを最高の讃辞で飾り立てた。
 祖母は、つまり祖父の配偶(つれあい)である。年齢(とし)をとると、自分の亭主のことを、こんなにも手放しでほめても気にならないものなのかと、また、ちらっと私のおませな心が動いたりしたが、祖母は気がつかなかった。
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お百度詣り  ( その4 )

2009-08-06 08:12:58 | ある被爆者の 記憶
私たちがこの祖父贔屓になると、父はよい顔をしなかった。
 「 なにが貧乏士族が。」
 何度かそう言って、私たちの心に水を差した。
 母方の山路なる姓が、維新の転換期に、お家に功ありとして、お殿様より頂戴したものであるということに及ぶと、
 「 時代が変わろうとする時に、苗字を頂いたと有難がる。お殿様もお殿様なら、家来も家来、時代遅れも甚しい。そうなふうだから、あの時代に、こんな京都に一番近くいながら、誰一人として、維新の時に人物を出せなかった。」
 まるで、学校の歴史の先生が、歴史の汚点を説明する時のように、わざと、侮蔑の語調を強めた。母は争わなかった。決して、それが正論であるからと思っているわけではなく、父の母方に対するひがみからだと信じており、いわば弱者に対する情けとして、口をつぐんでいたのである。
 しかし、母は、父は憐れな天涯の孤児だと、子どもたちにはこっそり言った。そして、父の父、与三次だけが与次兵衛を名告っていないことをその引き合いに出した。どういう意味か、よく分からなかったが、表立って、両親の愛を受けることが出来なかった境遇であったことが言いたかったのであろう。天涯の孤児にしては、ある程度の教養を持ち、特に能書家であることが、母の言を鵜呑みに出来ないところであったが、父の前では何も抗弁しない母が、そっと私たちに洩らした、折角の腹癒せかと思えば、却って、母をいたわって聞き流していた。それでも、内心には、家の持つ秘密めいた歴史が重くのしかかっていることを直感していた。
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お百度詣り  ( その5 )

2009-08-06 08:11:11 | ある被爆者の 記憶
 「 爺さまはな。そんな武芸の達人じゃったが、また一方では、優しいお人でな、人形づくりも名人といわれなさった。その一つがな、春日社の鳥居をくぐってから、暫く行くと、桜門があるやろ、あの桜門の左右に、左大臣、右大臣が入ってござらっしゃるのを知っておいでか。その右大臣、顔の赤い方やない。白い方でっせ。あの白い方は、爺さまが作りなはった。今度、お詣りする時は、よう拝みなはれや。」
 強くて、優しい、こうした両面を備えることが、人格の完全さとして、祖母は、孫たちに語ったのにちがいないが、孫たちはもっと一方的で、この人形づくりの名人の話は、私を嬉しがらせはしなかった。それどころか、私はふと、人形をつくる祖父を想像して、何か祖父に暗い歴史の影があるように思えて、その話になると、なんとか早く打ち切らせて、強くて勇ましい話に切り換えて貰うように、祖母にせがんだ。そして切り換えるにふさわしい話というのが、私に決まっていたし、祖母も、いつの間にか、おかしな子だと笑いながら、そんならといって、話し出す話というのが、決まっていた。
 「 西園寺公望といいなさる、それはそれは若くて綺麗なお公家さんがの、薩摩、長州の軍隊に守られて、山陰道鎮撫使といいなはってな、天朝様の御名代として、京都を発って、いの一番に、この篠山入りなさったんじゃ。
 ところがの、福住(篠山に至る四里の地点)まで来て、勝ちに乗じた薩長の軍隊がぴたりと動かんのじゃて。それはの、篠山藩の出かたを窺う作戦じゃったそうな。というのはの、篠山のお殿様の青山さんは、三河以来の徳川さんの大事な家来筋じゃ、そいでの、篠山藩は、この官軍を相手に一戦交えるか、それとも素直に城明け渡すか、会津の白虎隊のこと知っとっなはるやろ、ちょうどあの会津の戦が起こるより前のことじゃから、官軍の方も大事をとったやろうし、御家中の方たちも、どうしたものかと迷いなはったということじゃ。それにその時、お殿様は、鳥羽伏見の敗け戦で、将軍様といっしょに、江戸に移っておしまいなされて、篠山にはおいでにならず、天地がひっくり返るような騒ぎは、この静かな篠山が、あとにも先にも、あの時ばかりであったと言いますがな。
 でものう、この篠山にも、偉いお人がおいでなはったもので、篠山の大石内蔵助じゃと人々は言うたそうな。首席家老の吉原善右衛門利恒というお方での。爺様も直接には、この方の命令によって動きなはったとじゃ。
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お百度詣り  ( その6 )

2009-08-06 08:10:41 | ある被爆者の 記憶
 まず、御家老様は、竈(かまど)の煙さえ立ててはならぬと町中にお触れをお出しになったそうじゃ。それは、官軍が、戦の合図の狼煙と間違えて発砲してきたりせぬための用心と、もう一つは、火の不始末で、大事の時に、火事を出したりせぬことが、ねらいじゃったそうな。
 それから、御家中の侍たちには、鎧はもちろん、陣羽織までも着用一切罷りならぬと、御沙汰なされ、町中の取締まりにまで、お役人は、熨斗目(のしめ)麻裃 を着用させ、麻裏の草履ばきをお命じになったと言いますがな。熨斗目麻裃草履ばきというのは、侍の礼服なんでおます。これでは、血気に逸る若侍たちでも、拍子抜けして、軽はずみが出来ませなんだといな。お侍衆がこうなれば、町人たちも大八車を引っ張って、引っ越し騒ぎもなりませぬ。
 こうしておいて、御家老様はな、御自身もとより、熨斗目麻裃のお姿で、お供はたった二人召し連れなされて、騎馬で官軍陣営に向かわれなすったそうな。そのたった二人のお供の一人に、爺様が選ばれなさったというわけじゃ。」
 このあたりまで、話し込んでくる時の祖母の顔は、孫に話しているというより、自分の夢を追っているように若やいだ。そしてこのくだりで、かならずといってよいほどに、
 「 爺様々々というが、爺様が十九の時だもの、爺様にはちがいないが、その頃はおじいさんじゃない、町でも西の大関と評判の美少年じゃったそうな。」
と、つけ加えて、嬉しそうに笑った。
 この祖母は、祖父の後妻にきた人だから、町で西の大関という評判の美少年の頃も知らないし、実際、祖父と、十一歳も違っていたのである。もちろん、この話を聞かされていた頃の私は、そんなことまで計算しなかった。
 だが、不思議に、お百度詣りの石畳の上では、しきりと、この祖母の顔が浮かんだし、祖母の顔が見え隠れするのにつれて、見たこともない祖父が、見えるような気がしてならなかったのである。
 どうやら、その原因は、人目を避けて、このお宮の鳥居をくぐり、桜門を入る時に、そうしなければならないように、桜門の左の格子の中の、祖父の手になるという右大臣の像を、弟のみずほがしげ ゝと懐中電灯で照らしだすことにあるらしかった。
 だから、見たこともない祖父の顔が、右大臣の顔と一つであったり、またその顔が、麻裃をつけて馬に跨ったまま、私たちのお百度詣りの行く手に立ちはだかったり、またある時は、例の岩山に逃げる賊を追って、明治時代の警察官の厳めしい官服姿の祖父に早変わりしたりした。
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お百度詣り  ( その7 )

2009-08-06 08:09:45 | ある被爆者の 記憶
 その何日目かの夜。
 珍しく雪明りして、いつもの暗さはないが、却って風がびゅうとなる、そのうなりに気もそぞろなお百度詣りだった。
 風がどう廻るものやら、境内の老杉の梢の雪が、思わぬところでどどおっと落ちる。
 「 兄ちゃん、杉が身震いしとる。」
 「 うん。」
とは言ったものの、みずほは勝手なことを言うと思う。
 頭上が怖ろしいと思っていると、地面に、引っぱたくような音がして、雪饅頭が砕ける。昨夜の雪は水っぽいのだと、無理にでも思おうとした。
 怖い、怖いと思いながらも、どこかで、留置所とやらで、骨の髄まで沁みとおる寒さに震える父のことを考えねばいけないと思った。
 いつものように、桜門の木像に懐中電灯をみずほが当てようとした時、私はどうしたのか、まるで喧嘩ごしのようにみずほを怒鳴っていた。
 「 止めンか!」
 懐中電灯は、雪の上に叩き落とされて、鈍く泥雪を照らしていた。
 「 怖いょ!」
 みずほは母にしがみついた。
 母はみずほを抱えて、私を見張った。
 私は、神前に駆け出していくと、いつものおみくじをわしづかみにして、そのまま、岩山の真下まで、まるで気が狂ったように一息で駆け抜けた。
 そして、祖母の話にあったように、祖父がそうしたように、手にしたおみくじを岩肌めがけて力一杯投げつけた。
 どういうのか、この場合、私が見た賊は、いつか軽便鉄道に乗り合わせた老山伏であった。私は祖父であり、私は老山伏に向って、おみくじの手裏剣を放っていたのである。
 山伏の右足に手裏剣はみごとに突き立った。
 そして、その時、軽便鉄道の中の山伏が跛を引いていた理由が、ああ、そうだったのかと思った。闇の中から、跛の老山伏が顔をつき出し、振りかえってにっこと笑った。
 私はがく ゝと震えながら、わあっと声を上げて泣いた。なぜ、そんなことをしたのか、私には分からない。ただ分かっていたことは、自分の泣き声が自分の耳に入ってきたが、構うものかと思ったことだけである。 
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お百度詣り  ( その8 )

2009-08-06 08:08:06 | ある被爆者の 記憶
 その翌日からのお百度詣りは、続けられたのかどうか、私は憶えていない。多分私たち兄弟は行かなかったと思う。また母も行かせなかっただろう。ただ、母は、私たちが眠った後で、恐らく、私たちを連れていったときよりも熱心に、あの石畳の参道を行ったり来たりしたにちがいない。それも、てるほ、みずほのために、早く父を釈放せしめ給えと、祈誓したのだと思う。私の気狂いじみた行為の故に、そう言うのではない。私たち兄弟を連れて出かけた最初の意図からして、大事なこの二人の子のために、父は帰えさせねばならぬ。神よ、この幼な子二人が、お目に止まらぬのか。母は、神に、そうかけ合ったにちがいない。
 母とは、そういう人であった。

 春日社へのお百度詣りも、直ちに父の釈放とは結びつかなかった。
 父が、帰宅を許されたのは、私が中学生になってからであった。
 二月はじめに拘留されて、四月半ばまで、実に二か月有余日間、検事局送りにもならず、全くの未決のまま、留置所にただ留置されっ放しであった。
 母は、祖父の警察官時代の部下であった曾ての老刑事やら、あらゆるコネを利用して、父釈放の運動を積極的に試みた。でも、効果はなかった。
 効果はなかったはずである。拘留されはしたものの、釈放の前日まで、ただの一度の訊問すらなかったという。折も折、国家総動員法が公布され、反時局行為者の摘発が相次ぎ、御時勢と関係のない父の事件など、まるで無視されて、顧みる暇もなかったというのである。
 これではお百度詣りも、時局という国家非常時体制には、全く通用しなかったらしいのである。
 そんな我が家の非常事態の中で、私は中学に進学していた。
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お百度詣り  ( その9 )

2009-08-06 08:07:07 | ある被爆者の 記憶
合格発表の日、降りしきる粉雪の中を、襟巻を頭から冠り、母と姉は、中学に私の名を見に行った。既に小学校の担任から合格と知らされていたのに、わざ ゝ、雪を冒して出かけて行った。私は、それを笑った。母や姉の情の愚かしさと思ったのである。
 この日の嬉しさを、当の本人より、母と姉は何度も語った。襟巻の中から目だけ出して、私の名を見た瞬間、と言い差しては、母と姉とは、その時もそうであったように目頭を熱くした。私はそのたびに、口にこそ出さなかったが、馬鹿々々しい、中学ぐらい受からなくて、どうするんだと思った。
 ところが、私の判断が全くの誤りであったことを知った。父の釈放時に、母と姉は、やっぱりこの話を報告した。私ははっとした。母と姉が、わざと雪の降る中を出かけたのは、襟巻で顔が隠せるという利点があったからであること、そんなにまでしても出かけるというのは、彼女たちにしてみれば、二月以来の世間からの白眼視に対する雪辱として、合格者発表の名前の中に私の名を我が目で確認したかった、という。
 父が警察に拘留されてから、私自体の生活に影響があったわけではなかった。公金横領の罪をかぶるということが、どういう意味を持つことかもはっきり知らなかった。だから、私の中学進学と、父の嫌疑とが絡みあうなど、夢にも思わぬことであった。
 私はこの時、世間様という、しつこくて、それでいてわびしい単語を習った。私は身のまわりにある世間様に油断なく身構えることにした。すると、篠山とうところは、何から何までが、世間様のように見えた。
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