27日 (土曜日)
我が家にたぬき先生がやってきた。本日家庭教師2回目。葉山で行われた『 児童の言語生態研究会 』(=児言態)の冬合宿(=忘年会)の帰り道 立ち寄っていただいた。
合宿の方は例によって、3時間半の睡眠でずっと話あいだったらしい。昔からこの会は子供たちの教育に心血を注ぐようなところがあった。ワタシはマンマミーヤの家庭教師もさることながら、合宿でどのような話あいがなされたのか?大層興味ぶかかった。
< 興味深い 話 >
N先生(=H大学の先生)のお話。H大学の学生さんたちの話。
注)ワタクシの素晴らしい、よく聞く(ことのできる)耳を通し、かつまた 素晴らしい(素晴らしく上手な)伝達を通しているため、正確にお伝えできないこと、”児言態もどき”であることを考慮しながらお読みいただければ幸い。
学生の国語の答案を見て?思うこと。その回答によって学生が、およそ二通りに分けることができるのではないだろうか?
A、筆者の考えを理解しようとしないで、設問に対して自分の考えを勝手にのべるもの。
B、設問の線を引いてある近くの答えらしきものを そのまま写すもの。
これを聞いてワタシ達は”おおうけ”だった。なぜならば、Aはワタクシ。Bはマンマミーヤ そのものの姿を表わしているようだったから。
++++ ++++
中学の受験時から、マンマミーヤの国語に関しては、ちょっと頭を悩ますようなところがあった。自分の生活実態とかけ離れたところにある文章や世界を本当の意味で理解するのは難しいことだからだ。
国語というのは、切り取られた文章を沢山読んで、瞬間的に正答をはじき出すことではない。沢山の知識を詰め込んでいくことでもない。
国語を学ぶ意義はどこにあるのだろうか?
人は、各々がお互いを生きていて、ある時は喧嘩をし、ある時は話あい、ある時は泣き 笑い こころを通い合わせて初めて相手のことを理解できるのではないかと思う。
友達と出会う、自分ではない者。どんな家庭に育ち、どんな両親がいて、兄弟は何人いて、どんな価値観をもっていて、何を食べ、何が好きで何が嫌いであるか・・・。様々な生活環境にあるものが、何かのご縁で出会う。
自分ではない ”ひと”と出会って、話し、相手を知り、自分とは違う世界をかいまみ、自分の世界を広げていくことにこそ意味があるのだ。それだって一生に出会える人の数など高がしれている。
その時、人は「言葉」を媒体として、お互いを理解しようとする。
ワタシはこのような”ひと”である。
自分の只今の気持ちを「言葉」(=用具言語)を使って伝えるとこのようである。
言いたいことを「言葉」によって表現しなければ何も伝わらない。と、そのように思っている。
しかし、本当にそうなのだろうか?
言葉にならない言葉 ・ 感極まって泣く・ 無言の抵抗 ・ 目は口ほどにものを言う
ひとは「言葉」だけで、こころを通わせてきたわけではない。限界まで闘った、”とき”を生きた人を見たとき( たとえばオリンピックの選手のインタビューなど )その選手は言葉を失うではないか。そして私たちは その姿に感動するではないか。その涙する姿に 同じく涙するではないか。
児言態では 子供の声音(こわね)、表情、一挙手一投足に注目するのだ。
ここで、 いまを 生きている子供 そのものに こころを向けるのだ。
・・・つづく
次回は アイデンティティー(=自己同一性)の確立と日本文化のゆらぎについて たぬき先生に教えていただいたことを基にして書きたい。
この日の授業5時間 びっちり。マンマミーヤもワタシも大変楽しかった。時のたつのもわからないほどだった。自分の子育てにおいて、ワタシは、実は苦手だったたぬき先生に再び出会えたことに感謝するのだ。
我が家にたぬき先生がやってきた。本日家庭教師2回目。葉山で行われた『 児童の言語生態研究会 』(=児言態)の冬合宿(=忘年会)の帰り道 立ち寄っていただいた。
合宿の方は例によって、3時間半の睡眠でずっと話あいだったらしい。昔からこの会は子供たちの教育に心血を注ぐようなところがあった。ワタシはマンマミーヤの家庭教師もさることながら、合宿でどのような話あいがなされたのか?大層興味ぶかかった。
< 興味深い 話 >
N先生(=H大学の先生)のお話。H大学の学生さんたちの話。
注)ワタクシの素晴らしい、よく聞く(ことのできる)耳を通し、かつまた 素晴らしい(素晴らしく上手な)伝達を通しているため、正確にお伝えできないこと、”児言態もどき”であることを考慮しながらお読みいただければ幸い。
学生の国語の答案を見て?思うこと。その回答によって学生が、およそ二通りに分けることができるのではないだろうか?
A、筆者の考えを理解しようとしないで、設問に対して自分の考えを勝手にのべるもの。
B、設問の線を引いてある近くの答えらしきものを そのまま写すもの。
これを聞いてワタシ達は”おおうけ”だった。なぜならば、Aはワタクシ。Bはマンマミーヤ そのものの姿を表わしているようだったから。
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中学の受験時から、マンマミーヤの国語に関しては、ちょっと頭を悩ますようなところがあった。自分の生活実態とかけ離れたところにある文章や世界を本当の意味で理解するのは難しいことだからだ。
国語というのは、切り取られた文章を沢山読んで、瞬間的に正答をはじき出すことではない。沢山の知識を詰め込んでいくことでもない。
国語を学ぶ意義はどこにあるのだろうか?
人は、各々がお互いを生きていて、ある時は喧嘩をし、ある時は話あい、ある時は泣き 笑い こころを通い合わせて初めて相手のことを理解できるのではないかと思う。
友達と出会う、自分ではない者。どんな家庭に育ち、どんな両親がいて、兄弟は何人いて、どんな価値観をもっていて、何を食べ、何が好きで何が嫌いであるか・・・。様々な生活環境にあるものが、何かのご縁で出会う。
自分ではない ”ひと”と出会って、話し、相手を知り、自分とは違う世界をかいまみ、自分の世界を広げていくことにこそ意味があるのだ。それだって一生に出会える人の数など高がしれている。
その時、人は「言葉」を媒体として、お互いを理解しようとする。
ワタシはこのような”ひと”である。
自分の只今の気持ちを「言葉」(=用具言語)を使って伝えるとこのようである。
言いたいことを「言葉」によって表現しなければ何も伝わらない。と、そのように思っている。
しかし、本当にそうなのだろうか?
言葉にならない言葉 ・ 感極まって泣く・ 無言の抵抗 ・ 目は口ほどにものを言う
ひとは「言葉」だけで、こころを通わせてきたわけではない。限界まで闘った、”とき”を生きた人を見たとき( たとえばオリンピックの選手のインタビューなど )その選手は言葉を失うではないか。そして私たちは その姿に感動するではないか。その涙する姿に 同じく涙するではないか。
児言態では 子供の声音(こわね)、表情、一挙手一投足に注目するのだ。
ここで、 いまを 生きている子供 そのものに こころを向けるのだ。
・・・つづく
次回は アイデンティティー(=自己同一性)の確立と日本文化のゆらぎについて たぬき先生に教えていただいたことを基にして書きたい。
この日の授業5時間 びっちり。マンマミーヤもワタシも大変楽しかった。時のたつのもわからないほどだった。自分の子育てにおいて、ワタシは、実は苦手だったたぬき先生に再び出会えたことに感謝するのだ。