その時、私の体は四人の学生の担いでくれている担架の上に在ったはずである。その傍らか後方かに、つい今しがた会ったばかりの、小学生時代から最も親しかった友人も歩いていたことになる。
それは遠い記憶だから思い出せないのではなくて、その時、私は事実認識を放棄していたと言ったほうが正しいように思うから、こんな言い方になってしまう。
福知山線の篠山口駅から、戦時下に硅石輸送を目的として敷かれた篠山線に乗り換えて篠山駅で下車、そこからこの一行は、篠山の町を目指し、担架の上の負傷者を、その親元へ送り届けようとしていた。今から思うと、当の本人を除いて、この一行は、さぞかし篠山という町の辺鄙さをうらめしく思ったにちがいない。篠山口、篠山と名づけられた駅ではあっても、それらの駅からは、篠山の町を望むことさえできない。一行は、町はずれという言葉も当てはまらない田舎道をひたすら歩いていた。
そう高くはないが深い山々が折り重なる中に、そこだけは、忘れたように平地を形づくっている。東西は長く南北はやや迫っているが、大概の地図には篠山盆地と記されている。
丹波篠山山奥なれど、霧の降るときゃ海の底、と謳われているが、その通りの地形で、その海の底にあたる場所に城下町がある。
鉄道がこの盆地を通過しなかったのも、この城下町のせいだったともいわれている。煤煙で町を汚すというのである。
時刻からいって、真夏の太陽は西に傾いている頃ではあったが、却って、西日になってからの方がたまらなく暑い。この土地では、それをいら虫が出るという。子どもの時からの長い間、いら虫というのはどんな虫だろうと思っていた。結局、その暑さに耐えることの譬えだと知ってからも、がっかりするよりも、以前にましてそのいら虫に悩まされて、篠山の夏を暑いと思うようになっていた。
それは遠い記憶だから思い出せないのではなくて、その時、私は事実認識を放棄していたと言ったほうが正しいように思うから、こんな言い方になってしまう。
福知山線の篠山口駅から、戦時下に硅石輸送を目的として敷かれた篠山線に乗り換えて篠山駅で下車、そこからこの一行は、篠山の町を目指し、担架の上の負傷者を、その親元へ送り届けようとしていた。今から思うと、当の本人を除いて、この一行は、さぞかし篠山という町の辺鄙さをうらめしく思ったにちがいない。篠山口、篠山と名づけられた駅ではあっても、それらの駅からは、篠山の町を望むことさえできない。一行は、町はずれという言葉も当てはまらない田舎道をひたすら歩いていた。
そう高くはないが深い山々が折り重なる中に、そこだけは、忘れたように平地を形づくっている。東西は長く南北はやや迫っているが、大概の地図には篠山盆地と記されている。
丹波篠山山奥なれど、霧の降るときゃ海の底、と謳われているが、その通りの地形で、その海の底にあたる場所に城下町がある。
鉄道がこの盆地を通過しなかったのも、この城下町のせいだったともいわれている。煤煙で町を汚すというのである。
時刻からいって、真夏の太陽は西に傾いている頃ではあったが、却って、西日になってからの方がたまらなく暑い。この土地では、それをいら虫が出るという。子どもの時からの長い間、いら虫というのはどんな虫だろうと思っていた。結局、その暑さに耐えることの譬えだと知ってからも、がっかりするよりも、以前にましてそのいら虫に悩まされて、篠山の夏を暑いと思うようになっていた。