地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

お国入り   その1

2006-08-06 08:11:05 | ある被爆者の 記憶
 その時、私の体は四人の学生の担いでくれている担架の上に在ったはずである。その傍らか後方かに、つい今しがた会ったばかりの、小学生時代から最も親しかった友人も歩いていたことになる。
 それは遠い記憶だから思い出せないのではなくて、その時、私は事実認識を放棄していたと言ったほうが正しいように思うから、こんな言い方になってしまう。
 福知山線の篠山口駅から、戦時下に硅石輸送を目的として敷かれた篠山線に乗り換えて篠山駅で下車、そこからこの一行は、篠山の町を目指し、担架の上の負傷者を、その親元へ送り届けようとしていた。今から思うと、当の本人を除いて、この一行は、さぞかし篠山という町の辺鄙さをうらめしく思ったにちがいない。篠山口、篠山と名づけられた駅ではあっても、それらの駅からは、篠山の町を望むことさえできない。一行は、町はずれという言葉も当てはまらない田舎道をひたすら歩いていた。
 そう高くはないが深い山々が折り重なる中に、そこだけは、忘れたように平地を形づくっている。東西は長く南北はやや迫っているが、大概の地図には篠山盆地と記されている。
 丹波篠山山奥なれど、霧の降るときゃ海の底、と謳われているが、その通りの地形で、その海の底にあたる場所に城下町がある。
 鉄道がこの盆地を通過しなかったのも、この城下町のせいだったともいわれている。煤煙で町を汚すというのである。
 時刻からいって、真夏の太陽は西に傾いている頃ではあったが、却って、西日になってからの方がたまらなく暑い。この土地では、それをいら虫が出るという。子どもの時からの長い間、いら虫というのはどんな虫だろうと思っていた。結局、その暑さに耐えることの譬えだと知ってからも、がっかりするよりも、以前にましてそのいら虫に悩まされて、篠山の夏を暑いと思うようになっていた。
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お国入り   その2

2006-08-06 08:10:28 | ある被爆者の 記憶
 そのいら虫に悩まされながら、一行は篠山川にかかる監物大橋を渡ったはずである。篠山川は町の南を西に流れている。お城を守る自然の陣構えともなっている。
忘れてしまったが、監物大橋などと厳めしい名前がついているのも、堤防を築いた侍の名前であったか、この方面守備を任された宿将の名前であったかとも思う。
 仮駅舎みたような篠山駅からこの監物大橋を渡りきるまで、西日を避けて立ち寄る木陰さえない。ただ、そんな時は、道端の叢の中で、油ひでりの音の証明のようにジージーと鳴く、夏の虫声だけがあたりを蔽っていなければならない。しかし、私はそれを聞いていない。おそらく担架を担いだ一行はそれを耳にしながら、黙々と歩いたにちがいない。でも、担架の上の負傷者にだけは時折、言葉かけも忘れなかったはずであるのに、私にはこの間の記憶は全くない。意識を失っていたとは思わない。後の診察結果からいうのだが、この時、私の左の耳は聴覚を失っている。また失明はしていなかったが、左眼は瞼が垂れ下がって開けなかった。だが、右眼、右耳は異常がなかった。私はこの時、何を見、何を聞いていたのだろう。なぜ、事実に関することの一つ、二つぐらいは覚えていないのか―あの日の衝撃から既に丸四日も経過しているのに、と思う。一つだけ思い当たることがある。死者の柩を運ぶのに、どうして肩の上に担ぐのだろうと思うことと重なっている。その昔、負傷者を運ぶのに戸板の上に乗せたのは、果たして合理的な方法とだけ考えてよいものかどうか。実際、経験のある私にとって、それは負傷者を事実認識と切り離してしまう古代からの方法であったかもしれないと、今では思うようになっている。理由は簡単である。死に近い負傷者が戸板にのせられると、視界には空以外に何も飛び込んではこない。ということは、負傷者は空しか見ていないことになるが、そうなると、負傷者は、いつの間にか空を見ている意識は失せて、中空の世界に吸い込まれてしまう。
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お国入り   その3

2006-08-06 08:09:35 | ある被爆者の 記憶
先程もいうように、私は意識を失ってはいなかった。自分の生まれ育った土地である。どこをどう運ばれて帰り着こうとしているのか、体は知っているように思えた。仮にあの時、誰かがそこがどこかと私に問うことをしたら、私はやっぱり中空を見つめたままで、ぴったりと言い当てただろうと思う。それほどまでに私は中空の世界に住み替えてしまって、半死半生になって、今、親許に帰り着こうとしていることも、担架に担がれていることも、まるで下界の出来事のように遠のいて、自分の魂だけが中空に広がっていた。
 今日の精神医学では、これを説明する用語があるかもしれない。意識の混濁、放心状態、自我喪失、精神錯乱、どれも当たっているようで当たっていない。その理由は、悟りを開くということがどういうことか、凡愚な私に分かろうはずもないが、ある透明感があったようには思うからである。
 それが証拠のように、その澄み切った中空に広がった心象風景だけは、今も忘れていないのである。
 監物大橋を渡りきると、幕藩時代の下級武士の小さな家並みが見える。実際は何も見ていないのだが、土堤と土堤の間に、崩れかけた小さな侍屋敷が肩を並べて建っていて、これが、お城の守りの第一線となる配置だと思い、ここが戦場になった歴史もないのに、最下層の足軽たちが陣笠をかぶり、竹槍をもってひしめき合って、この監物河原に倒れていく姿を見ていた。
 まだ、身を焼かれたのは原子爆弾であったということも知らない。もちろん、戦って負傷したという自覚もないのに、意識の底は阿鼻叫喚の修羅の巷であったからかもしれない。
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お国入り   その4

2006-08-06 08:08:18 | ある被爆者の 記憶
 監物大橋が南から篠山の城下に入る橋なら、その上流に京口橋があり、その名の通り、そこは京に通ずる篠山の東の入口である。これは、どうしたことか、橋詰から商家が軒を連ね、城の守備体制は見えず、現在も「妻入(つまいり)商家群」などと名づけられて、国の指定を受けている。慶長十四年、篠山築城と時を同じうして、街はこの京口筋より出来始め、河原町と今もいう。なぜここには城の守備がないのか―、
そんなことまで、どこかで考えていたように思う。でもその答えを探すよりも、戦乱の中、この京口橋を渡って篠山入場を果たす絵模様を見ていた。事実においては無血入城なのだから、戦乱というのは当たらない。篠山の城は築城後、戦火に遭ったことはないが、蛤御門の変の時には、京に最も近い徳川譜代の藩として出兵もしている。鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜、会津の松平容保などが大阪から江戸に脱出した話は有名だが、この敗軍の将の中に、城山城主も数えられなければならないのである。だから、京を手中にした官軍は、錦旗を押し立て、山陰道鎮撫使として、天皇の名代西園寺公望を先頭に、篠山に迫っている。慶応四年正月十二日のことであった。
 宮さん ヽ お馬の前にヒラヽするのは何じゃいな、の日本最初の軍歌を歌って、有栖川宮を戴き、西郷隆盛が参謀となって、東海道を江戸へ進軍しただけではなかった。
 幼い頃から祖母に聞かされていた話が、まさしくよみがえって、まるで映画でも見ている気持ちになるのはどうしてだったか、今も分からない。ただ、篠山というような山国で生まれ育った者にとって、この国をでること、入ることには、異常なほどに執心するのだということだけは分かっていた。
 出て行った自分が、今、異様な姿で、しかも、担がれてお国入りする。襤褸を身にまとっているのではない。皮膚が襤褸となって体に海草のようにまつわりついている姿を、馬上ゆたかに稚児髷を結い上げ、公家眉墨化粧した若い西園寺公望の篠山入城に見替えていたとしたら、それは幼さの故とばかりではすまされない、みずから備えた死化粧のような気さえする。
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お国入り   その5

2006-08-06 08:07:08 | ある被爆者の 記憶
 藤原高虎が縄張りしたというお城の石垣が、最も威容を示す場所は東堀端である。堀を距てて、お城に正対して、もと家格の高かった士族屋敷が並んでいる。道は堀に副って、全く平坦となる。この東堀が尽き、北堀と交わる処に東馬出しがあって、東堀と北堀とでは水面の高さがちがう。これが築城術の一つなのであろう。
標高差が十米以上は優にある。だから、道は真直ぐだが、当然、急坂となる。私が我に返って、担いでくれている友人に、「すまんな」と口を利いたのはこの時であった。
 急坂になって、友人が担ぐ肩を入れ替えたからである。
 「なあに、もうすぐだ。」
 元気者の小稲の声であった。
 その通り、我が家は、もうすぐであった。
 意識が現実に戻ったのはこの数刻で、確かに、今まで空(くう)しか見ていなかった私の隻眼に、幾重にも重なる松の下枝が飛び込んでいた。馬出しの際にある巨松が道まではみだし、その下を通過したにちがいない。しかし、現実を見る視力は忽ち萎えて、また夢心地となった。
 この東馬出しの真向かいには、篠山の者なら誰でも知っている本郷屋敷がある。この土地が生んだ最初の陸軍大将の生家で、私は母に連れられて、何度か仲間長屋門付のこの屋敷に出入りしている。母は娘の頃、この屋敷に奉公に上がっていたことによる。
 母は、そのことを、”塩踏み”に出ていたといつも言った。子ども心に”塩踏み”という言葉が妙に哀しくて、一体どんなことをするのかと母に尋ねた。母は行儀見習いだと言った。
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お国入り   その6

2006-08-06 08:06:20 | ある被爆者の 記憶
 それで 私の哀しみが消えたわけではなかった。奉公ということばの重さ、暗さを感じる者に、”塩踏み”と言い替えられても、加えて、試練、虐待を思わされてしまうからであった。母はそれを察知してか、上女中、下女中と区別があること、男でいえば、下男と書生とはちがうだろうと納得させた。奉公先が、お堀端筋のお家柄の家も家、本郷大将の家かと嬉しくもあったが、母の実家はそれ以下の身分なのかと哀しくもあった。当時の子どもにとって、特に篠山の子どもは口にこそださなかったが、不安と忌わしさを感じさせるのが、出生と身分であった。
 商家の子、士族の子と区別されたり、士族の家といっても、あれはもと卒族という足軽身分だと言われたり、中には、もっと詳しいのがいて、町方とか郷組などという身分を知っていて、お前の家はこうだと、烙印のように押してまわる奴もいた。
 母が本郷家に奉公に上がった時の話を思い出させたのは、どうしても、偶然だとは思われない。子ども心につきまとった忌まわしさが、昔の残像をよみがえらしている。それとも、やっぱり、広島での地獄図がそうするのだろうか―。
 ある年の大晦日の晩、この土地、唯一の芝居小屋から火を出した。
 本郷屋敷から数百米の距離である。母はその家の先祖代々の位牌の悉くを、その家の定紋のついた一反風呂敷に包み、背負われて、逃げたという。それが緊急の時の母の務めとされていたという。大きさの不揃いの位牌は、形よくなどとても包めなかったという。形など気にはしておれないと、背負いにかかると、結い上げたばかりの桃割れの髷にそれが当たった。わけも分からず哀しかったが、大きな荷物を背負ったこの小柄な娘は、飛び出すと、人をかき分けかき分け、火事場へ向かっていた。
 
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お国入り   その7

2006-08-06 08:05:00 | ある被爆者の 記憶
 その年、設置されたばかりの篠山鎮台( 歩兵第七十連隊 )の兵隊さん達が、本郷大将の生家を焼いてはならじと出動していたという。劇場の大きな棟木が、どおっと火柱を立て、目の前で燃え落ちた。
 母は、歯の根も合わないほどに怖しかったという。
 母が歯の根も合わないほどに怖しかったのは、紅蓮の炎を目のあたりにしたせいだと、私は思い直そうとするのだが、どうしても、母の背中に背負われた位牌が気になって、本当は、母も話をすり替えているのではないかと疑ったりしていた。
 というのも、母の話は、いつも、ここで、火事場の炎の中から、影法師のような人がふらヽ と現れては消えたといった。
 火焔を背にして、逃げおくれた人間がよろめきながら出てくるのだから、影法師のように見えて当然なのだが、母の目には、地獄の底から這い出して来た幽鬼としか見えなかったのも無理はない。その幽鬼は、手に手に、既にぐったりとした人間を抱えて、ひどいのになると、足首を摑んで、逆さに引きずりながら出てきたという。
 母は身の毛もよだつ思いで、思わず目を蔽ったという。その時、背中の位牌がぐらりと傾くのを体に感じたのもいっしょだったとも言った。
 母の言う通り、明治四十一年の大晦日の夜、確かに、当時東雲(しののめ)座といった劇場は全焼している。
 その日、その芝居小屋には、正月興行として、淡路源之丞の人形芝居一座が乗り込み、明荷を解いたばかりであった。
『 篠山町七十五年史 』には、こう記している。
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 お国入り   その8

2006-08-06 08:04:55 | ある被爆者の 記憶
 『東雲座の被った損害も大きかったが、貴重な文化財であった我が国唯一の等身大人形を悉く消失した事は、何ものにも代え難い一大損害であった。爾後、文楽同様の小人形を用いる事として再考されはするものの、由緒ある文化財が、この日、この篠山を最後の地として消滅し、もはや過去のものとなってしまった事は、我が国古典芸能の一大痛恨事で、特筆銘記すべきことといわねばならぬ。」
 影法師が、ぐったりとなった人間を抱えたり、足首を摑んで、逆さに引きずっていたと見た地獄絵は、淡路の人形遣いが、等身大の人形を救出してくる姿であったことによる。
 しかし、事実と想像との境を知らぬ幼な心に、その後、この話がどう説明されようとも、忌まわしさと不安の入り混じったまぼろしの華として、消えてはいなかったのだと思う。私にとって、やっぱり、火柱の立つ炎の中に、幽鬼が人を抱え、足首を摑み、引きずっている地獄絵を、位牌の包みを背負い、崩れかかった桃割れ髪の小娘が、震えながら眺めていなければならなかったのである。
 私が、東堀端、東馬出し通過時点で見ていた夢は、子どもの時に想像したものと寸分ちがいなかった。
 寸分のちがいもないものを見ておれたから、現実を完全に遮断することが出来たともいえる。
 あとからの話に聞いたことだが、私の担架の後は、まるで行列のようであったという。憲兵まで出て、篠山の新駅から、ずっと我が家まで付き添っていたという。何が目的でそうしたのか分からないのに、我が家の者に言わせれば、大変に親切で情深く、あんな憲兵さんもいるものかと喜んでいた。

 私はせっせと昔の夢を追っていた。今と昔とがごっちゃになっていると、どこかで思いはするものの、時間の歯車が摩滅したように、平気で重ね絵となり、それでいて、それらの映像は、何かの謎ときのように、私には思われた。
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「 忘れ水 物語 」 2006 より

2006-08-06 08:03:12 | ある被爆者の 記憶
 「 お国入り 」 お付き合いくださいましてありがとうございました。

 もし お時間許せば、2005・8・6 にお出かけください。順不同になっていますけれど・・・

 「 かぼちゃの少女 」 1~39を 転載させていただいております。
 
 さいごには 童話 「 あとかくしの雪 」を転載させていただいております。上原先生が 私に紹介してくださったものです。  
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