生命の樹(き)の実を食べること
“ 罪の子 ” という人類に対する呪いを解(と)くにはどうしたらいいかというと、
それは 生命の樹の実を食べればいいということになっているのであります。
これは、キリスト教の創世記に、アダムとイヴ 即ち人類の祖先が
“ 智慧の樹(き)の果(み) ” を食べて
“ エデンの楽園 ” から追い出されたとあります。
そして再び “ エデンの楽園 ” に帰って来るためには
“ 生命の樹の実 ” を食べなければならない。
ところがエホバの神様がお怒りになって、 “ 生命の樹 ” のところへ行く道を、
ケルビムという天の使いを遣(つか)わして、
焔(ほのお)の燃えている回転する剣(つるぎ)をその道の真中に置いて、
どうしてもその道を横切って “ 生命の樹 ” に達して “ 生命の実 ” を食べられないようにして
永遠に楽園から人間を追放するようにせられた ー ということが書いてあるのです。
けれども、新約聖書の終りのところへいくと、
人間が生命の樹の実を自由にたべられる世界が来ることが書いてあります。
すなわち 黙示録の第二十二章に、 “ 生命の樹 ” が川の両岸に繁(しげ)っておって、
「 今より後 詛(のろ)わるべき者一つもなかるべし 」 とあります。
これで見るとエデンの常楽の世界が人類に奪い還(かえ)されて、
永遠常楽の常に楽しい世界が現われて来たことが書かれているのであります。
“梅の木の実”を “ 梅の実 ” と称しますように
“ 生命の樹の実 ” というのは “ 生命の実 ” であります。
“ 実(み) ” というのは “ 実相(じっそう) ” です。
実(じつ)の相(すがた)です。
人間が再び “ 生命の実 ” を食べてエデンの楽園に還(かえ)るというのは
“ 蛇 ” 即ち 地を匍(は)う(物に執着する)唯物論に教えられた智慧の樹の実を食(く)って、
人間が単なる物質の化学作用で出来た肉体という塊(かたまり)だというような人間観を吐(は)き出して、
そして本当に生命というものは神の生命が宿っているんだということを自覚したときに、
その時に、天国浄土が奪い還(かえ)されて、
人間は再び “ エデンの楽園 ” のような極楽世界に住むことが出来るという真理を
説いた神話であります。
それで、そのような唯物論的人間観を棄(す)てて、
生命の実相、人間のいのちの実の相が ー 実は物質の化学作用じゃないのであって、
神様の生命(いのち)が宿っているんだということを自覚するですね、
そのときに、 “ 生命の樹の実 ” を食べたということになるわけなんです。
“ 智慧の樹の果(み) ” を食べたとか “ 生命の樹の実 ” を食べるとかいうことは、
象徴的な物語でありまして、一種の神話である。
それを本当に解すると、即ち 生命の実の相は 如何(いか)なるものであるかということを
充分 咀嚼(そしゃく)して 魂の底にしみ込ましめ 自覚することが
「 生命の樹の実を食べる 」 ということになるのであります。
つづく・・・