その阿弥陀仏と一体の自分を自覚しないで、唯 未来往生のための呪文として
南無阿弥陀仏を唱えるから、だからそういう間違いが起ってくるんです。
「 いまここに仏の命がある 」 「 神々しい仏の命がましますんだ 」 と思うことが必要である。
“ 仏壇の中に金 鍍金(めっき)して光っているあの仏像が仏様で、
自分は罪悪深重の凡夫である ” なんて考えておったら、
どこにも本当の宗教的悟りも本当の救いもないということになるのであります。
そんな悪い自分はナイんだということを悟るのが、これが一向専心である。 ―
「 悪い自分 」 があるから斯(こ)うしなければならぬなんて
考えるのが雑行雑修(ぞうぎょうぞうしゅう)である。
「 悪い自分 」 をなんとか善くしようとするのは、それは修養である。 ―
南無阿弥陀仏の信仰は、そういうものじゃないのであって、
阿弥陀仏が尽十方に満ちていらしてその他には何もない。
もうそんな 「 悪いもの 」 がなんにも無くなる。
光の方ばかり向けば陰がなくなる。
これが宗教の本当の悟りであります。
つづく・・・