“ 言葉の力 ” で実相を喚(よ)び出すこと
それでは、どうしたら実用に供せられるかというと、コトバで唱えるということです。
コトバは創(つく)る力がある。
聖書にも、「 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。・・・
万(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし」と
書いてありますが、言葉に出すんです。
そうすればそれが形にあらわれてくるんです。
「太郎さん」と言うと太郎さんが出てくるんです。
「次郎さん」と言えば次郎さんが出て来るんです。
「太郎さん」と言うのに次郎さんが出てきたりやしない。
だから宗教はコトバを使うんです。
日蓮宗では お題目といって「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という言葉を使う。
或いは浄土真宗とか浄土宗なんかでは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」「南無阿弥陀仏」と
言葉を称(とな)える、即ち言葉によって自分の中に宿っているところの阿弥陀仏なるものを
喚び出す ー これが南無阿弥陀仏です。
南無というのは帰命(きみょう)である。或いは帰依(きえ)と訳した人もあるし、
或いは帰投(きとう)と約した人もある。
自分と言うものを空(むな)しくして仏の生命(いのち)の中へスカーッと投げ入れて、
“ここに仏の生命がある”“私は仏の生命と一つである”というそういう思いに変わるんです。
それが「 南無阿弥陀仏 」という言葉の力であって、そのコトバの力によって、
ここに生きている生命は 阿弥陀仏が生きているのである、
本当に阿弥陀さんがここに生きているのである。
自分が阿弥陀になる。なるんじゃない、始めから阿弥陀仏が宿っているんです。
気が付かなかったんです。気が付くんです。思い出すんです。
仏典に、「 衆生(しゅじょう)仏を憶念(おくねん)すれば、仏、衆生を憶念し給う 」 と
いう語(ことば)がありますが、自分が仏を憶(おも)えば、仏を念ずれば、仏を唱えれば、
ここに仏があらわれてくるんです。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)も、 「 念仏を称えるには至誠心(しじょうしん)が必要である 」 と
言われた。即ち “ 最高の誠の心が必要である ” とこう言われたんです。
決して唇(くちびる)念仏ではいかんのです。
コトバの力といっても、ただ耳に聞える空気の振動が “ 南無阿弥陀 ” と出て来たら
極楽へ行けるんだったら、こんな簡単なことはない。
それでは、お寺もお坊さんも何も要らん、一ぺん蓄音機に南無阿弥陀仏と吹き込んで、
それを永久に回転するようにしておいたら、皆(みん)な極楽へ往(い)ってしまうが、
そういうことにはならんのであります。
やっぱり、この至誠心が必要である。
霊の底から真心を出して “ ここに仏の命があるんだ ”
“ 私の生命(いのち)と仏の生命とは一つである ” という自覚を喚び起すことが必要なのであります。
つづく・・・