つまり、南無阿弥陀仏と唱えながら嫁いびりをして嫁を虐(いじ)めたりするのは
何故であるかというと、あまりに未来成仏を強調し過ぎて
ここに阿弥陀仏の命がいま生きているのであるということを忘れてしまった、
そして南無阿弥陀仏の本当の意味を忘れてしまった。
意味なしに唯(ただ)呪文(じゅもん)の如く未来往生(おうじょう)のために念仏を唱えながら、
鬼のような心をもちつづけている。
すると、やっぱり三界唯心である。自分の心の思う通りに鬼が現われる。
どうせ此の世の中では私は鬼婆(おにばば)みたいな煩悩熾盛の、
罪悪深重(じんじゅう)の凡夫だから、どうせ悪いことをするのは当たりまえじゃと、
そんな自己劣等感が働いて、罪を作りつづけるのです ―
そんな劣等感を捨てて、今此処に阿弥陀仏と一体の自分があると自覚するのが
本当の南無阿弥陀仏なんです。
ですから大無量寿経には、「一向専心、ただ南無阿弥陀仏と念じたら即得往生・・・」と
お経に書いてある。
“ 即得 ” と書いてあるところに注意して下さい。
即は即座である。そのままである。
そのまま、極楽浄土へいま即座に往くんだ。死んでからじゃない。
いま往くんです、いま行(ゆ)かずして往くんです。
何処(どこ)へも行かなくって此処に既にあるんです極楽が。
自分の生命(いのち)が南無阿弥陀仏 ― 阿弥陀仏に帰一したのだ。
阿弥陀仏に帰命(きみょう)したという自覚が本当に起ったら、
自分の命と阿弥陀仏と一体なんだから、その阿弥陀仏の命がここにいるんだから、
阿弥陀仏のいらっしゃる世界がそのまま極楽の筈である、
そのまま極楽のそのまま此処に阿弥陀仏がいらっしゃる。
つづく・・・