ただの修養では人間は善くなれぬ
修養というものは 『 現象の中で悪いものを それを見別(みわ)けて、
それを握って捨てようとする 』 のでありますが、
それも修養しないよりは結構であるけれども、
それは悪い現象であるとして取扱っていますから、
その悪い現象がどうも捨て難いのであります。
『 腹立つ自分 』 があると思って 『 私はもう腹が立って鬼見たいな心だ 』 と思っているときには
この 『 神々しさ 』 はその人の心の中には無くなって
『 鬼々(おにおに)しさ 』 の人間という自覚が出てくることになりましょう。
そうすると、其処(そこ)に鬼々しさの人間があらわれ、
鬼どもの住む いまわしい地獄の世界があらわれてまいります。
自分を 『 鬼々しい人間 』 だと思っている限り、『 神々しさ 』 は現われてまいりません。
そこに今までの 『 修養 』 というものでは不完全な、物足りなさがあるわけであります。
つづく・・・