南無阿弥陀仏本当の意味
そこで「 至誠心(しじょうしん)」の問題でありますが、
『 愛と光との生活 』の二百十三頁の終りから四行目のところを、ちょっと朗読します。
「熟(つくづく)考えまするに、至誠心を以(もっ)て南無阿弥陀仏と唱えますと、
阿弥陀仏の命に帰一し、阿弥陀仏と一つになっているわけでありますから、
『此処に仏が在(おわ)す』の自覚が湧いてくるのであります。
『此処に仏在す』の自覚が出来てきましたら 此処に極楽が現前することになるのであります。
お寺にお祀(まつ)りしてある金色(こんじき)の阿弥陀仏を見ますと、
『 神々しい 』 と合掌したいような気持ちが起ってまいります。
その合掌したい気持 ― その心が既に仏である。
既に自分の中に仏が来られたのであります。
仏と自分が一つになったのであります。
至誠の心が自然に湧いて来て自分自身が神々しくなったのであります。
自分自身が神々しくなれば嫁を虐(いじ)めたり、
親不幸をしたりすることが出来なくなってくる筈(はず)であります。
今迄の念仏宗の信者のお婆(ばあ)さんなどが片手で念仏を唱えながら
片手で嫁をいじめたりしたのは、あまりに『未来成仏』を強調し、
現世は煩悩(ぼんのう)具足を強調し過ぎたために、
言葉の力で現世が煩悩熾盛(しじょう)の状態となったのでありまして、
南無阿弥陀仏と唱えるところ、此処に既に仏ましますと自覚出来たら、
決してそんなことにはならなかっただろうと思います 」
このように書かれております。
つづく・・・