昨日、東京芸術劇場で「蜘蛛女のキス」のマチネ公演を観てきました。
「蜘蛛女のキス」は、初演を観ています。
でも、ほとんど記憶がありませんでした。
なんか凄い作品なんだけど、あまり見たくないタイプのミュージカル、というカテゴリーにしまい込んでありました。
手元に残っているチケットの半券によると、1996年11月9日(土)のマチネ公演。
たぶん、正親さんの大ファンだった友人に誘われて出かけたものでしょう。
市村正親さんのマリーナがいじらしく、オーロラ・蜘蛛女の麻美れいさんが怖くて仕方なかったというもやっとした記憶だけが残っていました。
幕が上がるとすぐに、その謎が解けた気がしました。
とにかく、直視したくない世界が、この作品にはいっぱい詰め込まれていたのです。
世界は、不公平で不平等で不寛容で、暴力に支配されている。
分断された世界。
昔話じゃない、今の物語。
愛さえも、利用され、踏み躙られていく世界。
そんな救いのない世界の中で、心を守るために、映画の中のヒロインに憧れ、空想の世界に救いを求めるマリーナ。
マリーナは性的マイノリティーで、初演当時は市村さんの好演もあいまって、そこだけが印象に残ったのだと思います。
とてもグロテスクな世界から、自分を守るために必死に縋ったのが、映画スターのオーロラ。
マリーナにとってオーロラは優しく美しい憧れの女性。
けれども、彼女が演じた蜘蛛女だけは「死」の象徴として、恐れてもいる。
麻美さんのオーロラは「蜘蛛女」のインパクトが強すぎて、他のいろんな役柄の後ろにも蜘蛛女が透けて見えるようで、だから、ものすごく怖かったのだと思います。
今回、石丸幹二さんのマリーナは、ゲイの側面を戯画化するのではなく、ひとりの人間の個性として演じている印象を受けました。
そして、オーロラが演じたさまざまな役は、マリーノにとっては生きる道標。
安蘭さんのオーロラは、まさしく「生」の輝きや美しさを体現していて、そこには「蜘蛛女」の影はなく、宝塚時代のキラキラしたトップスターのオーラが満ち溢れていました。
だから、最後のマリーナの行動は、決してバレンティンに利用されたのではなく、ひとりの人間が愛のために強く生きた証なんだと納得できました。
オーロラの演じるさまざまなミュージカル・シーンは、ただのショー・タイムではなく、有機的な繋がりがあったのだと、今回ようやく答え合わせができた気がします。
なぜ、これが愛の物語なのかと、多分、当時は全く理解出来なかったと思うのですが、今なら、まだうまく説明できないけれど「人を強くするのは愛よ」と言うオーロラの言葉も、わかったような気がするのです。
劇場の闇にまぎれて、たくさん泣きました。
つらい作品です。
観たくないけど、観て良かったと思います。