唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

アマデウス

2010年12月26日 | 映画 あ行
アマデウス [DVD]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ


オーケストラの最後の場面が残ってしまって、何となくクラシックマイブームになってます。まあ、いつまで続くのやらって感じですけど・・・

それで、ちょっと前に、友達が「キースリチャーズがモーツァルトを聴いてロックだと言った」と言っていたのを思いだして、何となくアマデウスを借りちゃったわけです。

天才というのは、すごいですね。
頭の中で音楽が完成されていて、それも、音がちょっと変わると破綻をきたす、そういう微妙なメロディの構成が頭の中にびっちりと組み込まれていて、それを音符に書き込むだけ。頭の中に音がわき出てくるんでしょうか。

サリエリがモーツァルトの譜面を読んでいるときに頭の中にその楽器一つ一つの音が重なってきて感動するシーンがありましたが、譜面を見るだけで、音が頭の中で構成されていくのもすごいと思いました。

サリエリが自分が神に求めても手に入れられなかった才能をモーツァルトが持っているということに嫉妬し、モーツァルト(めんどくさいので今後、モーさんと書きます)を苦しめ、殺そうとするという話ですが、でも本当は、サリエリは、モーさんのつくった音を心底愛してしまっているんですね。

本当はモーさんを愛したいと思っていたのですが、モーさんに出会ったときに音と人間性のギャップでショックを受けちゃったんですね。
天才というのは、どこかああいうところがあるのかもしれません。
生活にだらしなく、人とのコミュニケーションもまともにできない。思ったことを簡単に口にしてしまう。自分は、音楽を極めるために神に誓って、よい行いをして純潔を守り生きてきたのに。そういった、純粋な精神によって純粋に素晴らしい音楽はできるはずだと思っていたのでしょうが…よりによって、あんなげすやろうにあんな美しい音楽を神は与えるなんて!神はなんと無慈悲な存在であろうか。
清く正しく生きてきたサリエリさんはここでひねくれて不良になってしまいました。

モーさんのセリフで、「自分はガサツな人間だ!でも、僕の音楽は違う!」みたいなことを言ってましたが、あの言葉がとても印象的でした。

純粋に美しい音楽、心に響く音楽は、必ずしも人の生きざまを反映するわけではないんですね。

モーさんが最後の方にサリエリのことを誤解していたと謝るシーンがあります。
あそこもとても印象的でした。もーさんは、サリエリは自分のことをとても心配してくれていい人だと思って死ぬわけです。彼に追い詰められたことも知らずに。でも、これは、もしかしたら、違う可能性、本当に友人になれる可能性が存在していたことも事実で、サリエリが愛したモーさんの音楽と同様にモーさん自身も愛する・・・いや、愛するまでいかなくても、存在を認めてあげるだけでよかったのかもしれないけれど、それだけで、展開は違っていたかも知れません。

そして、モーさんを支えた親友として歴史に名が残ったかもしれません。

しかし、そうはならなかったのは、やっぱり、モーさんの存在は、サリエリの、自分の生きてきた生きざまの否定、人生の否定、人間の否定だったからでしょうね。自分を立てるには、自分を否定するモーさんの存在を消してしまうしかない。そういうことでしょう。
ただ、じっさいに、モーさんを消してしまったけれども、モーさんの作った音楽を消すことはできなかったわけです。サリエリ自身の頭の中からも、その音楽は消し去ることはできないわけです。

でも、よく考えたら、社会的には存在を否定されてしまったのは、モーさんの方だったんですよね。最後の集団墓地みたいのにドスンと遺体を落とされるシーンは、とてもむなしい話です。美しい音楽をつくた人の人生そのものは、音楽のようには美しくはならなかった。社会的にはサリエリのが成功しているのも皮肉なもんですね。