アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

隙間理論とヴィパッサナー-1

2024-07-05 05:51:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎呼吸のすき間を見守る

 

隙間理論は、ヴィパッサナーとも親縁性がある。

隙間理論とは、時間とは、〈有〉〈有〉〈有〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、       

〈有〉だけが現象であるというもの。

これがヴィパッサナーによると、〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉になる。人間は、〈呼気〉で死に、〈吸気〉で再生を繰り返している。ただし、厳密に見ると、これらは、連続しているわけでなく、〈隙間〉で分断している。〈隙間〉には何もない。これぞ色即是空の実態。

 

OSHOバグワンによると、ヴィパッサナーは、もともとはインド発祥だが、東洋全体に広がったテクニックだという。釈迦がこれで菩提樹下で悟ったテクニック。

 

以下の引用文は、『新瞑想法入門』からだが、日本語の字面は違うが、元の英語がほぼ同じであろうという内容の記述が、『内なる宇宙の発見』にもある。OSHOバグワンが詳細を丁寧に語ってくれている部分であって、とてもわかりやすい。

 

『呼吸のすき間を見守る

 

シヴァいわく

「光り輝く者よ、この体験が二つの息のあいだに現れ出さんことを・・・・・。息が入った後(下降)、まさに上へ向かう直前(外側)――― そこに恩恵がある」

 

息が入ってくるとき、よく見なさい。息が上へ向かうまえ、それが外向きに変わるまえ、一瞬、または 一瞬のなかのごくわずかな瞬間では、呼吸がなされていない。息が入り、それから、ある地点にきて呼吸が止まる。それからまた、呼吸が出てゆく。息が出てゆくと、再び、一瞬、または一瞬のなかのどこかで呼吸が止まる。それから、呼吸が入ってくる。息の出入りのまえに、呼吸していない瞬間がある。その瞬間、何かが可能だ。

 

呼吸していないときには世界のなかにいないからだ。いいかね。呼吸をしていなければ死んでいる。あなたは静止しているが、死んでいるのだ。だがその瞬間があまりにも短いため、それに 見入ることはけっしてない。

 

吸う息は再誕生で、吐く息は死だ。外へ出る息は死と同義で、内へ入る息は生と同義だ。人はそれぞれの息で死に、再び生まれる。その二つのすき間(合い間)は非常に短い。だが、熱心な観察と細心の注意力があれば、そのすき間を感じ取れるだろう。そしたら、それ以外には何も必要ではない。あなたは祝福されている。あなたは知っている。それが起こったのだ。

 

呼吸を訓練するのではない。呼吸はありのままでよい。なんという単純な技法だろう。それは実に単純にみえる。真理を知るのにこんな単純な技法でよいのだろうか。真理を知るとは、不生不滅のものを知ることだ。つねに変わらずにある永遠の原理を知ることだ。吐く息や、吸う息なら知ることもできる。が、この二つの息の狭間について、人は何も知らない。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P165-166から引用)

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冥想における意識と無意識-2

2024-07-04 06:13:13 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)と不眠

 

冥想とは一般に意識的である訓練であるが、只管打坐も意識的であり、ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)も出入りの息を見つめ続けるのだから意識的である。

 

ある日、OSHOバグワンのところに三か月眠れない仏教僧がやってきた。彼の手足は震え、絶えず汗をかき、ひどいノイローゼだった。精神安定剤も不眠には効かず、落ち着かないまま横たわるだけだった。

彼が、ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)をやっていたことを確認すると、OSHOバグワンは、なんと、眠ろうとするのはあきらめなさい、ヴィパッサナーは、眠りを不可能にする修行だから、と宣告した。

OSHOバグワンは、実はヴィパッサナーには、不眠の第一ステップのままでは、狂ったり死んだりすることがあるので、それを避ける第二ステップの冥想法があると言う。

ただし、第二ステップの冥想法はどの本にも載っていない。なぜならヴィパッサナーで不眠になった修行者だけに与えられるべき「鍵」だからであると。

 

OSHOバグワンは、「鍵」は、それを与えられるべき準備ができた修行者だけが受けるべきであり、「鍵」とは、そのような修行者に与えられるべき秘密の隠された巡礼地であるという。

(参照:隠された神秘/和尚/市民出版社p70-72)

 

世には隠されたマントラ、秘境、秘密の冥想法がある。だが、それを大金を出しただけで与えるというようなのは、準備ができているいないにかかわらず与えるということで、それだけでまともではないのはわかるのではないか。

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論語と算盤

2024-07-04 04:40:29 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎ある一定の時期に達するまでは

(2011-10-16)

 

さすがに私の本棚には、論語はない。孔子は、晩年に覚醒したのだが、論語は孔子の若い時の言行録であって、未悟なる者の言行は、絶対的なものとして採用することなどできないからである。苦心の経過として参考になるところはあるのだが。

 

孔子の言行は、荘子などの求道者から見て妙なことを大真面目にやっているようなところがあって、荘子などでは、論語そのものではないが孔子をネタに大ボケをかましている部分がしばしばある。

 

「論語と算盤」は、明治の実業家渋沢栄一の口述になるものだが、論語の一条一句を説明しているものでなく、論語をネタに処世、人生をコメントしているもの。

 

渋沢栄一は、悟ってはいないが、私心のない人物とされており、後の三井、住友、三菱などといった、自分の一族郎党の勢力を数世代にわたって拡大しようというような野心を持たなかった。

 

『わたしは今日でももちろん、争うべきところは争いもするが、人生の半分以上にわたる長い経験によって、少しばかり悟ったところがある。なので若い時のように、争い事をあまり多くは起こさないようになったと自分でも思う。というのはこんな事情があるからだ。

 

世の中のことは、「こうすれば必ずこうなるものだ」という原因と結果の関係がある。ところがそれを無視して、すでにある事情が原因となってある結果を生じてしまっているのに、突然横からあらわれて形勢を変えようとし、いかに争ってみたところで、因果関係はすぐに断ち切ることができない。ある一定の時期に達するまでは、成り行きを変えることなど人の力ではとてもできない、と思い至ったのだ。

 

人が世の中を渡っていくためには、成り行きを広く眺めつつ、気長にチャンスが来るのを待つということも、決して忘れてはならない心がけである。正しいことをねじ曲げようとする者、信じることを踏みつけにしようとする者とは、何があってもこれと争わなければならない。このことを若いみなさんに勧める一方で、わたしはまた気長にチャンスが来るのを待つ忍耐もなければならないことを、ぜひ若いみなさんには考えてもらいたいのである。』

(現代語訳 論語と算盤/渋沢栄一/ちくま新書P25-26から引用)

 

『ある一定の時期に達するまでは、成り行きを変えることなど人の力ではとてもできない』これは、物事の成り行きをその手で何回も変えてきた人物ならではの発言である。魔法や手品のように見えても、その実は物事の成る時節の見極めがきちんとできる人物がタイムリーに動くから成るだけのこと。

 

人も、精神とカルマの成熟を待って動かないとダメ。ついこの間まで、「道」のことなど関心の端にも上らなかった。ノストラダムスの1999年も実現せぬままに「ある一定の時期」を待っているのだろう。

 

世の中の行く末のメイン・シナリオは変わることなどなく、クリシュナムルティ、OSHOバグワンなどの有名覚者は世を去って久しい。目覚め、悟りは他人ごとでなく、自分でどう取り組むかにかかっている。取り組み方を変えるのは自分の力だが、それが成るかどうかは、人の力ではないところがある。それは取り組んだ人だけに言えるのであって、取り組まない人があれこれ言っても始まらない。

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渋沢栄一の実験論語処世談を読む

2024-07-03 20:04:09 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎魂年齢が若い

(2021-05-31)

 

渋沢栄一は、老子や禅は読まないそうだ。その点では、西郷隆盛や勝海舟に比べると、魂年齢が若い。西郷隆盛や勝海舟も相当に禅で行けているのに比べると、人生への洞察は未だしの感がある。

 

渋沢栄一は、論語を座右の銘として処世してきた。彼は易はこれから学ぶなどと云っているので、孔子の域には達していない。

 

最近のスピリチュアルに関心のある人向けに言えば、四書五経の中で、ストレートで究極を説いているのは、大学、中庸、書経。あの世とこの世の構造を描いているのは易経。

 

孔子は晩年大悟したと思われるのだが、それ以前の言行は論語に多く拾われているものの、禅家、道家から見れば、この世にまだ未練が残っている段階であって、自分を死ぬ準備はできていない。

 

そんな具合だから、荘子においては孔子の言行は突っ込みどころ満載のトピック提供者として重宝されている。

 

孔子もその生涯で最後は論語レベルに飽き足らず易経に進んだ。禅にも老荘にも関心を持てないようであれば、転生の最終ターンではない。

 

NHKの大河ドラマで出口王仁三郎でもやれば面白いのだが、旧内務省の流れでそうはなるまい。

 

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冥想修行者の人生観

2024-07-03 06:33:27 | 人と神の「実際のところ」

◎神である自分と人間である自分の両様の自分を生きる人生観

 

冥想修行者の人生観とは、覚者の人生観に近づくことである。思想、信教の自由の下では、人間の人生観など他人に教えてもらうものではないと思っているのだろうが、その自分の考えの9割以上が外からきたものであるからには、その人生観とは現代のあらゆる形でのマインド・コントロールの結果であって、いわば自分の人生観は、「自分の」ではなく、どこかの知らない他人の人生観の複合物であろう。

 

人間には、社会人・肉体人としての公生活とあらゆるとんでもない思いまで含む私生活がある。

だが、ジェイド・タブレットに示した通り、本来人は、神である自分と人間である自分の両様の自分を生きるべきものである。本来あるべき人生観とは、『時間も空間も現象もない神仏である私は、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、人間である私は、私にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。

これが、神仏と人間を同時に生きる二重性。』。

 

この立場から出て来た会話が、達磨が梁の武帝に「私がしてきた仏教支援策はどんな功徳があるだろうか」と問われ、「無功徳」と言い放った事例や、花園天皇が「仏法不思議、王法と対坐す」というと、これに対し大徳寺の宗峰妙超が「王法不思議、仏法と対坐す」と言い返した例がある。

 

ところが、生活にも不安なく、地位も名誉も問題のない天皇陛下ですら、神事がまず先と教えてもらわねばならなかった。第84代順徳天皇の著された「禁秘御抄」の冒頭に、「凡(およ)そ禁中の作法まず神事、後に他事」とあるように天皇も神事がまず先だった。人々も食べられるなら、神事すなわち冥想がまず先。仲哀天皇は、冥想修行を怠けて、結果がよろしくなかったという例まで古事記に載っている。

 

西洋占星術のホロスコープは、上半球が公生活、下半球が私生活で、12室のカテゴリーは、人生上の出来事の区分をすべて網羅しているなどと感心していてはいけない。神として生きる自分の視点が全体の中に隠されているが、そのことがホロスコープには欠落しているのだ。神として生きる自分には、

宿命もカルマの改善もそこからの解脱も含め、あらゆる可能性がある。それには、チート技はないが、方法はある。

 

だが、その修行の仕方は、調子に乗って図に乗れば、パエトーンのようにあっという間に叩き落とされるのが常であり、すべてを棄てることが求められるシーンが必ずあるものである。

 

また見神者、菩薩の人生観には、見るべきものがある。

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冥想における意識と無意識-1

2024-07-02 07:16:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎肉体意識から夢を見ないまで

 

古代インドでプラジャーパティが熟眠中でも夢を見ない意識状態を至高のものとして求めて以来、冥想修行者にとって無意識をすべて意識化することが、最終的目標である。アメリカの覚者ケン・ウィルバーですら、熟眠中でも夢を見ない意識状態到達には苦戦した。

 

無意識の意識化について、OSHOバグワンは、一歩踏み込んだことを言っている。薬物のように肉体レベルの化学作用が人を酔ったり無意識にしたりできるということは、一般に薬物の方が人間の意識より強力だということ。ところが、タントラの技法では、人を酔ったり無意識にしたりする薬物を摂取しても人は意識的なままでいることができるとする。

 

このような例としては、ラム・ダスの出会ったニーム・カロリ・ババ(マハラジ)が、普通の人が飲む6倍もの強烈な効き目のLSDを3錠飲ませても平気だった例や階段から落ちて大けがで痛みに苦しむ人が観想法で痛みを感じなくなった例などがある。

 

OSHOバグワンは、薬剤による効果や、怒りや性欲、嫉妬ですら肉体レベルで起こる、無意識が意識を押しのける作用だが、それが起きた時にそれに翻弄されないようにするには冥想すればよいという。こうした肉体レベルの作用が起きた時に、意識的であって観照者でいなさいと、彼は言う。(参照:秘教の心理学/OSHO/めるくまーるP268-270)

 

肉体死のプロセスも容易に無意識になっていくプロセスだが、そこで意識的になれば、神に出会うことができるとチベット死者の書では言っている。

 

ソクラテスは、毒杯を飲みながら自分の肉体が麻痺していく様を自分で実況中継した。

スーフィのホセイン・マンスール・ハッラージは、斬首台の上でしか語れぬ、神との秘密を明かした。

 

こうした例は、肉体意識が意識のすべてではないという側面が強いが、熟眠中でも夢を見ない意識状態とは、肉体意識のことでなく、微細身レベルのことで一歩進んでいる。

 

無意識には生の世界も死の世界もあり、冥想修行とは、無意識を意識化することだと一言で云うのは易いが、底知れぬ深みがある。

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コア オブ ジェイド・タブレット 

2024-07-01 03:14:23 | ジェイド・タブレット

1.人間には、各々霊線があって、これを根源までさかのぼると、自分がすべてのすべてである神仏であることに気がつくことができる。


2.すべての他人が、神仏である自分の一部であることがわかれば、もはや他人を傷つけることはできない。そこには愛だけがある。

3.時間も空間も現象もない神仏である私は、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、人間である私は、私にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。
これが、神仏と人間を同時に生きる二重性。

 

ジェイド・タブレットのストラクチャー

 

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和歌に見えるアストラル・トリップ

2024-06-30 06:05:11 | 古神道の手振りneo

◎神を知らない段階でのアストラル体の漏出は危険

(2010-06-07)

 

アストラル・トリップと中心太陽突入とは全く異なるもので、昨今世間で話題の体外離脱はほとんどがアストラル・トリップのことである。そして人間の根本的救済、あるいは苦悩からの超脱は、アストラル・トリップにはなく、中心太陽への突入の側にしかない。

そもそも肉体レベル(物質レベル)には無数の銀河、宇宙があり、エーテル体レベルにもおそらくは無数の宇宙があり、またアストラル体レベルにも無数の宇宙があるのだろうから、たとえばポイント50やエリア70を探検したからといって、それは実に膨大な宇宙の中の極く一部を垣間見たに過ぎないのだと思う。

 

出口王仁三郎の雑誌神霊界の中に鎮魂御伝という文章があり、和歌に見えるアストラル・トリップを特集している。鎮魂とは、瞑目静座し、一心不乱に、一切の妄想なり感覚を蕩尽して、身体外の玉に向ってわが霊魂を集中すること。

 

細流抄に、「魂の出ぬるを結び止むる事あればなり 結びとどめよ」とは、浮かれる心を本心に返しなさいとのことであると王仁三郎のコメントがあるので、アストラル・トリップで霊線につながって飛び出しているアストラル体を(改めて)しっかりつなぎ止めなさいということ(へそから出るケースは当時から目撃されていたのだろう)ではなく、一心不乱に行に集中しなさいと戒めている意味なのだろう。

 

今はテレビゲーム、モバイルゲームに熱中する人がアストラル体が出るというが、昔は激しい恋愛でアストラル体がしばしば漏出したのだろうか。

トランスに入れば、意識より無意識が優勢になり、臍に穴が開いてアストラル体が遊離することがあるのだろう。だが、神を知らない段階でのアストラル体の漏出は、意図せざる霊能力の開顕ということになり、百害あって一利ないものである。

 

たまむすび

思ひあまり出にし玉の有(しる)ならむ 夜深く見えば玉むすびせよ

(伊勢物語 下)

 

もの思ふ人の魂は、げにあこがるる物になん有りけると、なつかしげにいひて

なげきわび貌(そら)にみだるゝわがたまを むすびとゞめよしたがひのつま

                              (源氏物語 葵)

※あこがるる:ふらふらと出歩く。

※したがひのつまとは、着物の下前の褄だから、臍下丹田=スワジスターナ・チャクラのことを指すと見る。

 

魂ひも あこかるるとは誠にぞ いまはうつし心も無き心地して

あくがるゝわがたましひも復(かへ)りなん おもふあたりにむすびとゞめば

玉しひのかよふあたりにあらずとも むすびやせまししだへのつま

(狭衣物語)

 

見人魂歌

たまは見つ 主は誰ともしらねども 結びとゞめよしたがひのつま

(袋草子 四) 

 

物おもへば 沢のほたるも我身より あくかれ出る魂かとぞ見る

(後拾遺集の和泉式部)

 

古代日本の人は、自我の殻が薄く、ちょっとした情動の高まりでトランスに入り、肉体からアストラル体が出てしまうことがままあったのだろう。源氏物語の六条御息所の生霊もそういうことなのだろう。漏出すれば、丹田スワジスターナ・チャクラに戻しなさいと言い慣わしていることはわかる。だが、オカルトだが、神仏とは関係ないのだ。今の人はゲームのやり過ぎで出るが、パンクとかサタニズムとかはそれと全く関係のないことでもないのかもしれない。ドラッグだけが誘因ではないかもしれない。

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エッセンス オブ ジェイド・タブレット(裏)

2024-06-30 03:22:03 | ジェイド・タブレット

《1.出生と乳児》 
 意識することなく、神(仏)と人間の結節点(結び)を生きている。
  
《2.三歳》 
 一旦神を喪失し、再び神を生きることを目指す探求の旅が始まった。
  
《3.思春期の水平の道》 
 心身のアンバランスをてこに、自分自身に向き合い、物質、時間、空間という固定観念を打破する。
  
《4.思春期の垂直の道》 
 霊能力や超能力にこだわらず、トランスに入り、脱身して神人合一を真似ぶ。
  
《5.青春期以降の水平の道》 
 大悟覚醒し、その馥郁たる香気を持ちながら仕事も家事も行う。
  
《6.青春期以降の垂直の道》 
 あらゆるマインド・コントロールを払拭し、一段一段、脱身から神人合一を目指す。
 
 《7.天国まで》 
 ひたすら天国的に生きて行けば、神も悪魔も超える試練があるが、それが自分自身に直面するということ。

《8.地獄も超えて》 
 天国を乞い願う気持がピークになると、なぜか悪魔が登場するが、そこで神に復(か)えるのだ。
  
《9.コーザル体・完全人・両性具有》 
 見る自分が残っていると悟りを開けないが、見る自分が最後の人間であって、逆転の直前である。
  
《10.垂直上昇への仕掛け》 
 個別の自分である一直線の光り輝くエネルギーが、中心太陽に突入する不可思議。 
 
《11.アートマン》 
 君という神と僕という神とのドラマが終わったところに神のドラマが始まる。
  
《12.ニルヴァーナ》 
 時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。
  
《13.冥想自在》 
 冥想自在とは出入自在のことで、 あらゆる宇宙を自由自在に出入する。

ジェイド・タブレットのストラクチャー

 

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エッセンス オブ ジェイド・タブレット(表)

2024-06-29 03:10:23 | ジェイド・タブレット

《1.出生と乳児》      

乳児は幼き帝王だが、生まれながらにして覚醒しておらず、無意識にいる。

      

《2.三歳》   

人は三歳で、全能感を感じ、初めて神を喪失する。

      

《3.思春期の水平の道》  

神を感じやすい時期で、自分の希望を持ち、生への希望を持って生きる。

      

《4.思春期の垂直の道》  

しみじみとした心で、目覚めた神秘のエネルギーにより究極を目指す。

      

《5.青春期以降の水平の道》  

大悟徹底を目指し、中間段階はなく、身心脱落した後は、日常生活がそのまま真理あるいは仏法として生きる。

      

《6.青春期以降の垂直の道》  

まず見神見仏を目指し、中間の段階をステップアップしつつ、最終的に神人合一する。

      

《7.天国まで》  

人はまず天国的なものを希求するが、肝心の神仏は、天国にはなく、天国の先にあるけれど、天国の側を窮めることだけが神仏への道。

             

《8.地獄も超えて》  

その生は地獄のようであって恐ろしく悲惨だが、真に幸福に生きるための神秘の段階を履む隠された道がある。

      

《9.コーザル体・完全人・両性具有》 

個たる人間の最後の姿は、あらゆる正反対のものを包含して完全人であり、ミクロコスモスのようなものである。

      

《10.垂直上昇への仕掛け》   

どこから歩いても同じ一つの終着点に至るような、人間共通の神に至る道が垂直上昇。

      

《11.アートマン》    

個人間は、すべてのすべてである神であったことに気づく。

             

《12.ニルヴァーナ》

もはや体験とはいえない体験を経て、なにもかもなし。

      

《13.冥想自在》

神である自分を生きることと人間である自分を生きること。

 

ジェイド・タブレットのストラクチャー

 

     

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禅の孤独と寄る辺なさ

2024-06-28 06:46:48 | 達磨の片方の草履

◎枯淡、峻厳、孤独

 

伝灯録15の洞山の章から。洞山の室に、燈明もつけないで真っ暗なところに、一人の僧が参禅にきた。以下の先生とは洞山のこと。

 

『ある夜、灯明に火がついていなかった。僧がでてきて、質問した。あとで、先生は侍者に火をつけさせて、今の僧をよび出させる。僧は、進みよる。

 

先生、「二つぶ三つぶ、香をもってきて、この上座にやってくれ」

僧は、袖をはらってさがるが、これがもとで道理に気づく。そこで、持っていた衣を売りはらって、みんなに食事を供養した。

 

僧は三年たって、先生にいとまをつげる。

先生、「気をつけてな」

ちょうど、雪峰がそばにひかえていて、こうたずねる。

「この僧、あんなふうに出ていって、いつ帰ってくることか」

 

先生、「あいつは行くことしか知らん、再来はできまい。」

僧は僧堂にかえり、自分の座席で、坐ったまま死んだ。雪峰がやってきて、先生に報告する。

先生、「それにしても老僧とは、三度生まれかわるほど距離がある」』

(禅の山河/柳田聖山/禅文化研究所p458から引用)

 

この僧は、暗がりで香をもらって大悟した。そして3年を洞山の下で過ごしたが、自分の座席で坐ったままの往生となった。誰も看取ることもなく、殺風景な僧堂でたった一人で死んでいったのだ。

 

大悟できずに逝った僧と洞山には三生の差がある。つまり今生でかの僧は死んだが、同様の生死を三回やって師の洞山の境涯に追いつくだろうと言っている。

僧は、衣を売ってすべてを棄てたかに見えたが、それでもすべてを棄て切れなかった。洞山と雪峰が見るところ、かの僧は臨終時にも大悟できなかった。肉体死と自我の死は異なる。

 

昨今欧米や日本に向けて難民が多いが、実は人間は皆難民である。人生に仮の宿はあるが、人生の荒野に安住できる安全安心な家などない。来ることは来たが、どこかに行こうにも行く場所などない。だがそれでも何の問題もないことを知っている。

 

これが禅僧の世界観であって、枯淡、峻厳、孤独が好きだから禅画もあのように孤独で取りつくしまがないというわけではない。彼らは寄る辺などない世界に生きているのだ。その世界こそが真実の世界だが、それは大逆転の先にある世界なのだ。

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炊事の繰り返しで悟る

2024-06-27 07:09:01 | 達磨の片方の草履

◎焼餅屋だった龍潭

 

道元のことにも出てくるが、禅寺の典座(炊事係)でも悟りの修行ができる。以下に示す龍潭は、もともと門前の焼餅屋さんであったが、出家してからは、食事係ばかりやらせられて、一年経っても和尚が悟れる秘訣を教えてくれないとぼやく話である。

禅の六祖恵能は、坐らせてもらえず、ずっと寺で米つきばかりやってた。

実は、これらは坐らないからには、一行専心の修行であって、坐る冥想とは全く異なる行である。

禅の坐る冥想とは、只管打坐、隻手や無字などのマントラ禅、公案禅に大別されるが、一行専心は、坐らないので全く別種。

 

一行専心とは、仕事を精密にやり続ける事上磨錬、武道(柔道、剣道、合気道)、芸道(書道、茶道、華道、香道、歌道、舞踊、ダンスなど)に加え、絵画、彫刻、建築、工芸、デザイン、写真、作曲、声楽、器楽、指揮、ダンス、演劇からスポーツといったものまで含まれる。ただしそれが道と呼ばれるためには、神仏への敬虔があって、人間の努力の限界を超えようとするモチベーションがなければならない。

ただし、一行専心は、往々にして見神見仏見道にとどまる。要するに禅の十牛図で言えば、見牛第三止まりである。稀に一行専心でもニルヴァーナに至る者もいるが、見神見仏見道から先に進むには、やはり冥想による方が早いのではないかと思う。

 

祖堂集巻四の天皇道悟の章から。

『澧州龍潭崇信禅師〈天皇に嗣ぐ〉は、焼餅をつくる家業であった。天皇和尚を礼して出家した。

天皇は言った、「あなたが、わたしに師事してから後に、あなたに心要法門を説いてあげよう」。

 

およそ一年が経過した。 龍潭、「ここに来ました時に、和尚さんは、心要法門を説いてあげるといわれながら、いまだに指示していただけません」。

天皇、「わたしは、あなたに説いてあげてから永い間たった」。

龍潭、「どこに和尚さんはわたくしのために説かれましたか」。

天皇、「あなたが『ごきげんいかがですか』といえば、わたしは、すぐさま合掌する。わたしが坐っている場合、あなたがすぐさま側に控える。あなたが茶を運んでくれば、わたしが受け取る」。

龍潭はしばらく黙った。

 

天皇、「見るときはそのまま見る。思慮せんとすれば、とたんに間違う(見則便見、擬思即差)」。

龍潭はそこで大悟した。(河村本-150頁)』

(中国禅宗史話/石井修道/禅文化研究所P455-456から引用)

 

龍潭は、もともと悟っていたが、一年かけてそれに気づいただけと言うのは簡単である。龍潭が、寺で坐ることなく悟ったのはなぜだろうか。禅寺の炊事係なら誰でも悟るわけでもない。

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禅問答の二つの相

2024-06-26 06:11:34 | 達磨の片方の草履

◎いつまでも続けることができない

 

禅は、悟っているか悟っていないかであって、中間段階はない。そして禅問答の大半は、悟っていない弟子が悟った師に問答をしかけるが、けんもほろろに相手にされていない問答になっている。

だから退屈なのが多い。

禅の公案は、ジュニャーナ・ヨーガのネタであり、そもそも正解のない問題を「正解のない」ことを世界全体が受け容れるまでやる。

 

だが、そのような問答の中には、悟った後の世界の二重性について言及しているものがある。

 

長沙和尚の話。

『三百則下56則の「長沙刈茅割稲」の話も、自己の立場を明確に示している。

ある僧が長沙に問うた、「本来人は、一体、成仏するのでしょうか」。

長沙、「あなたは「中国の天子が茅(かや)を刈り稲を割(か)るかどうか』言ってみよ」。

僧 、「成仏するのは、誰でしょうか」。

長沙、「外ならぬあなたが成仏してるのだ。わからぬのか」。(河村本一八九頁)

出典は「円悟頌古」39則である。本来人が実体視されるのも誤りであり、自己の外にあるのも誤りである。

 

長沙は、自己について、『光明』『十方』『諸法実相』の巻に引用される『伝燈録』巻一〇で、次のように言っている。

長沙和尚は、上堂して言われた、「わたしがいちずに宗教を宣伝したら法堂の中は一丈の草が生い茂るであろう。

わたしは、だから、やむなく諸君らに言うのだ、「宇宙とぶっつづきが出家 者の眼であり、宇宙とぶっつづきが出家者の全身であり、宇宙とぶっつづきが自己の光明であり(尽十方世界是自己光明)、宇宙とぶっつづきが自己の光明の中に在り、宇宙とぶっつづきが自己でないものは一人もいないのだ」と。

わたしはいつも諸君らに言っているだろう、『過去・現在・未来の諸仏たちと全世界の衆生とが摩訶般若(偉大な智慧)の光である』と。光が発しない時は、諸君らはどこに任(まか)せるのか。光が発しない時は、まだ仏もいない衆生もいない様子であり、どこに山河国土を得ようか。」。

 

その時、ある僧が問うた、「出家者の眼とは何ですか」。

長沙、「いつまでも続けることができない」。また、答えた、「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」。

僧、「一体、何を続けることができないのですか」。

長沙、「昼に太陽を見て、夜に星を見る」。

僧 「わたくしにはわかりません」。

長沙「妙高山(スメール)の色はどこまでも青い」。(四部叢刊本二丁左~三丁右)

 

自己が摩訶般若の光と説く長沙の言葉に接して、一種の驚きを感じる。一般に弥陀の絶対他力を説く浄土系の信仰に対しては、禅は自力の宗教と枠組みされる。長沙の宗教は自力といえるようなところは全くない。道元禅師の宗教も一般にいう自力と把握するのは誤りであることを、この長沙の説法は教えてくれる。』

(中国禅宗史話/石井修道/禅文化研究所P270-272から引用)

 

この『長沙、「いつまでも続けることができない」。また、答えた、「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」。』(上掲書から引用)という箇所が、みじめでなさけない人間である自分と、すべてのすべてである仏である自分の二重性の実感を説いている箇所。

 

これは、ダンテス・ダイジの詩『おれは神』と同じことを言っている。

 

同様に『「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」』(上掲書から引用)は、同時に二者でいられないことを示し、それは、山本常朝の葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』で感じとれる。

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米欧ロ核戦争の噂

2024-06-25 06:43:09 | 時代にFace it

◎かいなき終わり世の終わり

 

2024年6月4日米紙ニューヨーク・タイムズは4日、米国製の武器を使って、ウクライナ軍がロシア国内を初めて攻撃したと報じた。

米国製武器をウクライナがロシア領攻撃に使用するのは、核兵器を保有するロシアと米国の直接戦闘につながると懸念されていたが、これでNATOの欧州とアメリカ対ロシアの核戦争の可能性がぐっと高まった。実際に各紙や専門家の論調は、数か月以内の欧米とロシア間での核戦争を予想するものが増えている。なぜ数か月以内かというと2024年11月の米大統領選挙以前での開戦の可能性を予想しているからである。

 

NEWSWEEK日本版“ 【動画】米ロ全面核戦争シミュレーション”2022年9月15日(木)19時07分では、米ロ核戦争がエスカレーションして、両国とも全滅する核戦争が上がっている。

【動画】米ロ全面核戦争シミュレーション|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (newsweekjapan.jp)

 

これは、プリンストン大学のシミュレーションであって、最初は、ロシアとNATOが警告と報復で放った一発づつの戦術核の応酬ではじまるが、4時間半後には、全面核戦争になり終了し、米ロ合計犠牲者9150万人(うち死者3610万人)であり、両国とも復興できない状況になることを予想している。

国連の中核である五大国の軍事コントロールがロ中により効かなくなっている現在、それは非現実的な夢物語とは言えない段階まできている。

 

ネットニュースでは、日本の大手メディアでは、そうしたのっぴきならない情報はヘッドラインには上がらず、人々はそれを知らないままで、日々野球やサッカーやゲームや芸能やどうでもよい動画やロ中筋の流した煙幕情報に踊る。これをマインド・コントロールと言わないのだろうか。

 

出口王仁三郎予言などでは、人類の生存率三分の一を唱えるが、このシミュレーションの犠牲者1億人弱は、世界人口80億に比べたらいかにも少ない。

それよりも、このように自国の経済も文化も日々の生活もすべて壊滅せしめるような政策をとっている人物たちが国際政治の実権を持ち続けている異様さに驚愕せざるを得ない。

 

仏教は日本以外ではほぼ壊滅。欧米のキリスト教バックボーンの社会は、思想信教の自由の旗の下に実質無神論に転化。そして大規模移民により先進国の文化・伝統は内から蝕まれ、風前の灯となっている。

 

これを反転させるには、一人一人が冥想により意識の限界状況を通過して神を知り、本当の愛を知ることしかない。そう考えている人はとても少ないが。

 

※かいなき終わり世の終わり:

『れん合の国の軍は強くとも、心は割れて四ツ五ツ、いつか勝負の果も無く、力は既にイングリス、艮に以太利て雨リカの、フランス跡に地固めの、望みもつきてカイゼルの、甲斐なき終り世の終り、金も兵糧も尽き果てて、互に臍を噛みながら、猶ほ懲りづまに向きを替ヘ、良き支那物を奪はんと、命限りに寄せ来る、其時こそは面白き、茲に仁義の神の国、豊葦原の足に掛け、蹴え放ららかし息の根を、絶ちて悪魔を絶滅し、世界一つに統べ守り、祭政一致の神政を、天地と共に楽しまむ。』

(瑞能神歌 いろは歌/出口王仁三郎より引用)

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少年宗峰妙超、ペットの子犬を難詰する

2024-06-24 04:50:37 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎播磨の悪童

(2017-11-11)

 

今の日本の禅は、曹洞宗と臨済宗に分かれ、臨済の方は大燈国師宗峰妙超の系流だけが残っている。

宗峰妙超は、大徳寺の開山だけあって、日本人の精神性に相当に大きな影響を残してきた。

 

少年宗峰妙超は、ある時子犬を綱でつないで引っ張ったが、犬はついてこようとせず、一歩も動かなかった。

彼は怒り、子犬を竹杖でたたいた。あわれ子犬は、悲しそうにキャンキャンと吠える。なおも彼は「畜生のくせに死を恐れるのか」と子犬を叱る。

これを見かねた通りすがりの人が、「お前だって死を恐れるだろう。まして子犬のことだ。」

宗峰妙超は、「生あれば必ず死がある。人が死を恐れるようでは、犬と何ら異なることはないではないか。」と。

通りすがりの人は、この小童の言葉を聞いて舌を巻いて驚いたという。

 

一日、ある人が刀を磨いていた。その人に向かって少年宗峰が、「刀を磨いて、いったいどうするのか」と問うた。その人は「よく切れるようにするためさ」と答えた。

宗峰「切れないところに、却って切れるところがあるのを知っているか」

その人がおやっと思って刀を磨く手を休めたところ、宗峰は呵々大笑した。両親がこれを見てはらはらして「もうやめなさい」というと、宗峰は逆に親のことを棒でたたいた。

 

宗峰妙超は、播磨に育ったが、少年の頃から相当にキテいた人物であって、いわゆる前世で相当に修行の進んだ人物と見える。禅をやりに来たのだ。

いまでもこういう子供は、動物虐待で親にも暴力を振るうとんでもないガキだが、当時はもっと悪評だったのだろう。

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