◎太乙金華宗旨
クンダリーニ・ヨーガでは、クンダリーニのエネルギーコードを上昇させ、周天では身体の前後に気を周回させる。ほとんどの人は、クンダリーニのエネルギーコードと気は別物と考えているのだろうと思うが、OSHOバグワンは、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見ている。
クンダリーニのエネルギーコードは、玉の緒と呼ばれるように第二身体エーテル体から第七身体エーテル体まで、各身体を通貫して存在している。これを基本認識とせねば、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見れないように思う。というのは、気は、エーテル体が基地であるが、呂洞賓の太乙金華宗旨(黄金の華の秘密)では、気あるいは回光も同一物が次元を越えて運動、作用しているように見えるからである。
そういう見方が可能なのは、OSHOバグワンが正師につかず、試行錯誤と知性と好奇心で大変な苦労でクンダリーニ・ヨーガで究極に至った稀有な人だからだと思う。
以下は、OSHOバグワンの太乙金華宗旨の冒頭部分。太字は経文。
『ゆえに、汝の為すべきことは光を巡らせることのみ、これが最も深遠で霊妙な秘法だ。光は動きやすいが、一点に定めがたい。だが久しく巡らせば、光はおのずと結晶する。「汝は黙して朝に飛翔す」と記された境地はそれだ。
ひじょうに重要なことがこの経文のなかで語られている。光は動きやすく、固定させるのがむずかしい。だから光を一点にとどめておこうとしないこと。ここでヨーガは容易にはできないことをやろうとする。ヨーガがむずかしく、骨が折れるのはそのためだ。
ヨーガは光を一点にとどめておこうとする。ヨーガはまた両目のあいだ眉間のちょうど真ん中、第三の目のセンターに光をとどめておこうとする。ヨーガは光を一点に固定させようとする。タオとヨーガの違いはそこにある。ヨーガは光をとどまらせようとする。「第三の目に意識を集中させなさい」―要約するなら、ヨーガの哲学はそれにつきる。「すべての意識を第三の目に集中させることができたら、人は変容する。両目はひとつになり、人は光で満たされる」
そして第三の目を超えると――第三の目はヨーガの意識の地図では第六のセンターだ――六番目を超えると七番目のセンターがある。第七のセンターは「一千枚の花弁をもつ蓮華」と呼ばれている。光を第三の目に集中させると、容量の限界に達した光は、第七のセンターを押し開こうとする。それは貯水池の水のように上昇しはじめる。第七のセンターに圧力が加えられることで、何世紀にもわたり、何百万もの生にわたって閉じたままだったつぼみが開く。
タオは別の観点から働きかける。タオは言う――光を一点にとどめておくことはひじょうにむずかしい。光をとどめておくことに気を取られてはいけない。光を巡らせるやり方が簡単だ。心にとっては巡らせることがいつもやさしい。動くことが心の本性だ。心にとって集中することはつねにむずかしい。そうだとしたら、なぜ心の潜在能力を使わないのか?なぜそれを活用しないのか?
タオは自然であることを大切にする科学だ。手を加えないこと。無理強いしないこと。自分で不必要なもめごとをつくりださないこと。心にそなわる自然な能力―動くという能力、動くことを好むという能力、さまようという能力を活かしなさい。それを使うのだ。光を巡らせなさい――光を巡らせる方法については後で語り合うことになるだろう――経路を見いだして、光を巡らせなさい。
光を巡らせることで、道家の人々は七〇〇の鍼の経穴を発見した。光を全身に巡らせることによって、彼らは光が強烈に輝くポイントが七〇〇あることに気づいた。彼らはそれらを正確に数えあげた。今や科学がそれを立証している。正確に七〇〇の経穴がある。今や人体の七〇〇の経穴を画像でとらえ、どの経穴で光が失われているか、どの経絡に気が流れていないかを示す機械さえもが発明されている。道家の人々はどのようにしてそれを知ったのだろう?彼らには機械も科学技術もなかった。彼らの唯一の技法は、内側に入って光を巡らせることだった。
どのようにして光を巡らせるか、その具体的な技法についてはあとで触れる。今は道家の人々の方法がどういうものかを正確に理解する下地をつくっているだけだ。
彼らは言う――光を巡らせ、さらにそれをまわしつづけてゆくと、ある地点で光はおのずと結晶化する、と。
光を一点にとどめておくことは心配しなくてもいい。それをぐるぐるぐるぐるまわしてゆくと、ある瞬間、すべてのものが止まっているのに気づく。ヨーガが懸命に起こそうとしていることが起こっている。タオにおいては、それは自然に起こることだ。ヨーガにおいては、それは長く険しい努力の旅になる。ヨーガは男性指向だ。』
(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP38-39から引用)