アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-1

2025-01-31 07:02:15 | 覚醒のアーキテクチャー

◎太乙金華宗旨

 

クンダリーニ・ヨーガでは、クンダリーニのエネルギーコードを上昇させ、周天では身体の前後に気を周回させる。ほとんどの人は、クンダリーニのエネルギーコードと気は別物と考えているのだろうと思うが、OSHOバグワンは、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見ている。

クンダリーニのエネルギーコードは、玉の緒と呼ばれるように第二身体エーテル体から第七身体エーテル体まで、各身体を通貫して存在している。これを基本認識とせねば、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見れないように思う。というのは、気は、エーテル体が基地であるが、呂洞賓の太乙金華宗旨(黄金の華の秘密)では、気あるいは回光も同一物が次元を越えて運動、作用しているように見えるからである。

そういう見方が可能なのは、OSHOバグワンが正師につかず、試行錯誤と知性と好奇心で大変な苦労でクンダリーニ・ヨーガで究極に至った稀有な人だからだと思う。

 

以下は、OSHOバグワンの太乙金華宗旨の冒頭部分。太字は経文。

ゆえに、汝の為すべきことは光を巡らせることのみ、これが最も深遠で霊妙な秘法だ。光は動きやすいが、一点に定めがたい。だが久しく巡らせば、光はおのずと結晶する。「汝は黙して朝に飛翔す」と記された境地はそれだ。

 

ひじょうに重要なことがこの経文のなかで語られている。光は動きやすく、固定させるのがむずかしい。だから光を一点にとどめておこうとしないこと。ここでヨーガは容易にはできないことをやろうとする。ヨーガがむずかしく、骨が折れるのはそのためだ。

 

ヨーガは光を一点にとどめておこうとする。ヨーガはまた両目のあいだ眉間のちょうど真ん中、第三の目のセンターに光をとどめておこうとする。ヨーガは光を一点に固定させようとする。タオとヨーガの違いはそこにある。ヨーガは光をとどまらせようとする。「第三の目に意識を集中させなさい」―要約するなら、ヨーガの哲学はそれにつきる。「すべての意識を第三の目に集中させることができたら、人は変容する。両目はひとつになり、人は光で満たされる」

 

そして第三の目を超えると――第三の目はヨーガの意識の地図では第六のセンターだ――六番目を超えると七番目のセンターがある。第七のセンターは「一千枚の花弁をもつ蓮華」と呼ばれている。光を第三の目に集中させると、容量の限界に達した光は、第七のセンターを押し開こうとする。それは貯水池の水のように上昇しはじめる。第七のセンターに圧力が加えられることで、何世紀にもわたり、何百万もの生にわたって閉じたままだったつぼみが開く。

 

タオは別の観点から働きかける。タオは言う――光を一点にとどめておくことはひじょうにむずかしい。光をとどめておくことに気を取られてはいけない。光を巡らせるやり方が簡単だ。心にとっては巡らせることがいつもやさしい。動くことが心の本性だ。心にとって集中することはつねにむずかしい。そうだとしたら、なぜ心の潜在能力を使わないのか?なぜそれを活用しないのか?

 

タオは自然であることを大切にする科学だ。手を加えないこと。無理強いしないこと。自分で不必要なもめごとをつくりださないこと。心にそなわる自然な能力―動くという能力、動くことを好むという能力、さまようという能力を活かしなさい。それを使うのだ。光を巡らせなさい――光を巡らせる方法については後で語り合うことになるだろう――経路を見いだして、光を巡らせなさい。

 

光を巡らせることで、道家の人々は七〇〇の鍼の経穴を発見した。光を全身に巡らせることによって、彼らは光が強烈に輝くポイントが七〇〇あることに気づいた。彼らはそれらを正確に数えあげた。今や科学がそれを立証している。正確に七〇〇の経穴がある。今や人体の七〇〇の経穴を画像でとらえ、どの経穴で光が失われているか、どの経絡に気が流れていないかを示す機械さえもが発明されている。道家の人々はどのようにしてそれを知ったのだろう?彼らには機械も科学技術もなかった。彼らの唯一の技法は、内側に入って光を巡らせることだった。

 

どのようにして光を巡らせるか、その具体的な技法についてはあとで触れる。今は道家の人々の方法がどういうものかを正確に理解する下地をつくっているだけだ。

彼らは言う――光を巡らせ、さらにそれをまわしつづけてゆくと、ある地点で光はおのずと結晶化する、と。

 

光を一点にとどめておくことは心配しなくてもいい。それをぐるぐるぐるぐるまわしてゆくと、ある瞬間、すべてのものが止まっているのに気づく。ヨーガが懸命に起こそうとしていることが起こっている。タオにおいては、それは自然に起こることだ。ヨーガにおいては、それは長く険しい努力の旅になる。ヨーガは男性指向だ。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP38-39から引用)

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なにもかもないそれが老子

2025-01-30 03:20:52 | ダンテス・ダイジの風光

◎老子狂言の老子

 

老子

 

老子について何も知らない。

ただ

気楽な人だったなあと、

私は思う。

 

そうなってゆく、そのままの人。

そうなってゆく石ころ

そうなっていく雨だれ。

 

ただ

素直にやわらかく、

豊かだったなあと、

私は思う。

 

イエスのように純真だが、

そのオトボケは、ソクラテスを楽々とノイローゼにさせるほどの俗物中の俗物。

 

もちろん、

老子とは個人の名前でもなく、

老子という本の名前でもない。

 

宇宙の名前だといったらよいのか?

無限の名前といったらいいのか?

否、否、三たび否!

 

なにもかもないそれを、

老子が老子と名付けたらしい。

ありとあらゆるものそれ自身を、

誰かが仮りに

老子 と名づけたようだ。

 

それだからこそ、

老子はあたりまえな人間なのだ・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

『気楽な人』と『そのオトボケ』は、クンダリーニ・ヨーガに比し、ある程度の鈍感さが、水平の悟りにあることと関係がある。

 

タオの高みにある人は、その崇高な生き方を意気がってやや得意げに語ったりしないものだが、老子にはそういうところが見え隠れする。

老子第10章 載営魄

 

柔弱な生き方を老子は自在にできていて、得意げである。気楽さが見える。

老子第43章 天下之至柔

 

老子の中には、人間という視点が全くないものがあって、取り付く島もないものがあるが、それがややデリカシーに欠けた生の側から極めるということである。石ころのようだ。

老子第34章 大道汎兮

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言わずして大道に帰する

2025-01-29 21:08:42 | 老子neo

◎老子第34章 大道汎兮

(2006-03-02)

 

老子の中には、人間という視点が全くないものが時々ある。この一篇もそうである。使われている言葉は、自分が作ったとは言わない、そして主人顔をしないなどというものだが、書かれていることは、個人という人間や人間という心理は全く顧慮されていない。

ここで老子は、タオ・道に成りきって、その属性を語っている。

限りない夢と真実の裏側に常にひそむ「何物か」は、この世のどこにでも遍満しているけれども、自分勝手な奴ではなかった。

 

『道は天下に普く 満ちわたっていて、右にでも左にでも何処にでも見出される。

万物すべてこの道を恃んで生じるけれども、しかも彼は決してこれを辞するということがない。そして功成っても自分が為したと主張しない。

彼はすべてものを養い育てる。けれども決してそれの主人顔をしない。実に常になんの要求も持っていないのだ。まことに小というべしではないか。

しかも万物は言わずして彼に帰する。だのに彼はその主人顔を為さない。実に大と名付くべきではないか。

だから聖人は、いつでもついに自らを大としないのである。だからこそ彼は何時でもその大を為すのである。』

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玄徳-道そのものの徳

2025-01-29 21:06:56 | 老子neo

◎老子第10章 載営魄

(2010-11-13)

 

『私たちはよく、その身体の上にその精神的欲望を司る魂と感覚的欲望を司る魄との二つともを、たちまち守りながら、しかも道の発動現成にあたって、道から離れずに生きてゆけるか。

この自分の中にある生々の原動力、無意識的生本能そのものの発動のままに生きることを専らにし、自分の欲望的意識は、極力これを抑えて発動せしめず、ちょうどあの赤ん坊のように生きることができるか。

民を愛し、国を治めるにあたって能く無為たることができるか。天門の治乱興亡の諸事件、諸現象にあたって、自分の力で自由にすることができることを知りながら、よくそれをしないで、人為的発動をしないで、無為を守っていることができるか。あらゆる方面において聡明でありながら、しかも能く知なきが如くしていることができるか。

道は万物を生じ、万物を畜っているが、しかもこれを生じさせても自分のものとしない。またすべてのそれらのことを自分が為したからといってそれらのものに対して何の期待も持たず、要求も持たない。又それらを長じさせ、養うたからとって、自分がそれを主宰しようとしない。これを玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)という。』

 

道を発動現成するという立場にあっては、自分と道の区別は、もはやない。ともすれば、肉体側、物質側であるところの「魄」寄りに動きたがるところを、能動的にコントロールする必要があるとする。

その必要があるのは、少なくとも一度は道を見た人間であって、仏教でいうならば菩薩のことである。つまり菩薩として生きる場合のテーマがここにある。

仏教では諸悪莫作 衆善奉行を道(真理)を知る人の生きる姿であるというが、老子ではその生き方を一言で玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)と称す。

 

今更ながらであるが、道を一瞥しても、道を体現した生き方が簡単ではないことが知られる。

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之に及ぶもの希(まれ)なり

2025-01-29 21:05:06 | 老子neo

◎老子第43章 天下之至柔

(2008-09-08)

 

『この世で最も柔弱なものが却って最も剛強なものを自由にする。

形のないものは、隙間のないところへも入れる。

だから私は、無の作用の大きな意義を知るのだ。この天地の言わずしてあらわれる教と無のはたらきの大きな意義と、これに及ぶ偉大なものは、この世の中にない。』

 

この世で最も柔弱なものが、最も剛強なものとしてあらわれている。もとより一定の形のないものであるから、隙間のないところへも入れる。

この道とは何者か。それを見るためには、人間の果てまで行き着いてみなければならない。これ以上偉大なものはないと言いきるところに、それを確証した老子の立ち位置の至高であることがわかる。

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中国という現実感覚

2025-01-29 07:34:49 | 時代のおわりneo

◎大観園の解剖=戦前の中国のアヘン窟

(2015-10-22)

 

日本では上水道が行き渡り、山中などよほどの不便なところでない限りは、手汲みの井戸にお目にかかることはなくなった。

 

私の少ない経験で言えば、水の悪い中国での生活に対して、昭和10年代の生まれくらいの人まではあまり抵抗がなかったように記憶している。水事情が悪ければ、風呂もシャワーもなかなか浴びれない。

 

明治や大正の人は、中国に留学し、中国語の舌の訓練が要る発音と「礼節」を学んだ人がいたものだが、彼らにさほどの中国での生活に違和感があったことは聞かない。中国での生活をやや不便と感じこそすれ、そこでの生活に耐えられないとまで思うことはなかったのではないか。

 

そうしたやや慣れた日本人であっても、中国人の徹底した虚無に近い部分の人生観に暗澹とし、また驚異の眼を見張るケースが時にあったようだ。

 

『大観園の解剖/佐藤慎一郎/原書房』は、そうした最もディープな中国人の生態と哲学と人生観に焦点を当てている。大観園は、戦前の旧満州ハルビンにあったアヘン窟。ここで中国人は、アヘン吸飲に終日を充て、アヘン購入を繰り返すため、やがて金も尽き、飢えと麻痺で最後は路傍に死体として捨てられる。

 

死体は大方衣服をはぎ取られ、寒中に真っ裸であり、その衣服はたちまち売られ、取得した者のおこづかいになる。日本におけるような死者への「仏」に対する尊崇などかけらもない。

 

中国人は本能的であり、人間より動物に近い。その国土では永久に飢饉が繰り返される。これに対し、日本では、本能を脱却することが人間の理性の発露であることを誰もが自然に理解し行動のベクトルはそちらに向かおうとする。日本でも飢餓の時期はないことはないが、その都度少ないものを分け与えて清貧に暮らすことを恥じない民族の知恵がある。

 

大観園では、瀕死の病人(アヘン中毒者)の衣服を生きているうちに剥いで金にする。衣服は金になり、宿で死なれては他の宿泊者が迷惑するからだそうだ。裸で病人を街頭に置けば凍死するのだが、中国人はそれを自業自得だとし、同情すらしない。

 

こうした個人主義の極みについて中国人は、「誰不管誰」(人のことは人のこと)言い、隣家に盗賊が来ても構いやしないという、ものすごい通念があることで説明する。

 

中国共産党だってたかだか略100年の歴史だが、漢民族は4千年こうやって生きてきた部分がある。これでは、孔子の儒教が大いに必要とされるわけだと思う。道教から出てきた功過格がどこか上滑りなままで終わっているのもわかる。

 

中国の風土、社会、伝統の下では、このように最低限の人間の尊厳すら簡単に侵されるのであるから、甘ちゃんで苦労なく育った今の若い日本人には、漢民族あるいは中国人の本質というのは、ますます想像もできない人間像なのだと思う。

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OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方-2

2025-01-29 07:22:20 | 冥想いろいろ

◎問題はソーマではなく、本人の準備ができているかどうか。

 

悟り薬、それは一回服用すればニルヴァーナに到達できる薬であって、まるで一かけらを鉛に投入したけで全体が黄金に変成する賢者の石のような薬。それが実際にあれば、ニルヴァーナに入りっぱなしで、ラーマクリシュナのように横になったきりで何日も過ごすような人が続々と出るのではないか。そのようにニルヴァーナの至福感は強烈なのだろう。

ただしニルヴァーナに入りっぱなしというのは、よさげに聞こえるが、ダンテス・ダイジは、そのような状態には否定的だった。実際ラーマクリシュナ(バクティ・ヨーガの覚者)は、数日その姿勢のままなので侍者が口に水を含ませたりなど世話が必要だったようだ。

以下の文では、ドラッグの効果は、現実(ニルヴァーナという意味)に到達できず、幻覚に過ぎないとし、薬物の効果は必ず切れるので、その時冥想しなさいと示している。薬を服用しただけでは悟れないのだ。

そうした非常に科学的な方法で、インドでは過去何万年、ヒンドゥー教のすべての流派がドラッグを使用し続けてきたのだろう。

インドの街頭にコブラ使いがいるのは、リグヴェーダ以来のソーマ・ヨーガの伝統だったわけだ。

まずは、本人の成熟、そしてドン・ファン・マトゥスのような正師との出会いが必要。

これは、旧満州のアヘン窟やアメリカ大都市のフェンタニル依存者あふれる様子とは大分違う。

 

OSHOバグワンがソーマ使用に反対している意見の続き。

『(OSHOバグワンのThe Last Testament, Vol 4 Chapter #6の一部を仮訳)

そして私自身の理解としては、これらの人々も瞑想を試みたのは、ドラッグがある時点で無効になるからだ。免疫がつくのだ。最初は途方もない体験をもたらすが、やがてそれはほとんど体の化学反応の一部となる。それを摂取しないと困難に陥る。体の全てがそれを求めるようになる。摂取しても何も得られない。服用量を増やし続けるだけだ。

インドでは、ドラッグの実験が最も古いものであるはずで、なぜなら世界最古の聖典はリグ・ヴェーダであり、ヒンドゥー教徒の宗教的な源であるからだ。リグ・ヴェーダはソムラスと呼ばれる特定の薬物について言及している。このソムラスのため、オルダス・ハクスリーは、LSDが精製され、 副作用がない究極の薬物が現れた時、それを「ソーマ」と呼ぶだろうと述べた。

名前はリグ・ヴェーダに由来している。 リグ・ヴェーダはヒンドゥー教徒によれば九万年前のものであり、これが間違いだと証明できた人はいない。その古さを証明する議論はほとんど反駁不可能だからだ。それらは論理的ではなく、そうでなければ簡単だろうが、天文学的なのだ。

リグ・ヴェーダには現代の天文学者によれば九万年前に起こった星の特定の組み合わせの記述がある。リグ・ヴェーダを書いていた人々がそれを詳細に記述できる方法は、それを見たことがない限り、ない。 これはどうすることもできない証拠だ。その組み合わせは九万年間再び天空に現れていないという天文学者たちの発言。このため、その当時それを完全に理解していた人々によって書かれたのだろう。 九万年間、ヒンドゥー教徒は薬物を宗教儀式の一部としてほぼ受け入れてきた。

イギリスの統治下で初めて、ドラッグが問題を引き起こしたが、これは宗教的儀式の一部であり、世界で最も古い宗教であったため、イギリス政府も干渉することを恐れた。それでも続いた。

私が子供の頃でも、ドラッグは市場で手に入れることができた。違法性の問題もなかった。ヒンドゥー教のすべての流派がドラッグを使用していたが、それを非常に科学的な方法で使用していた。

特定の量のドラッグを投与し、人に特定の体験をさせ、それからその体験が終わった後に「これはただの錯覚でした。それはドラッグの影響、つまり化学反応によるものです」と説明するのだ。

現実の中で体験してみたいですか? もし幻覚がこんなに素晴らしいのなら、現実がどれだけすごいか考えてみてください。ドラッグによって作られた体験は数時間しか続かず、再び同じ古い腐った世界に戻ってきます。

でも、もしその体験が本物なら、それは永遠にあなたのものです。決して失うことはありません。それはあなたに起こったものではなく、もともとあなたの中にあったものです。それを発見したのです。

だから私は、この方法でドラッグを使用することが間違っているとは思いません。実際、これが現代の人々にとって世界中で取り入れるべきアプローチだと思います。

(中略)

適切な指導--医学的、瞑想的--の下で、薬は大いに役立つことがあります。 薬物が中毒性を持つと、自己への旅において最も破壊的なものになるため、私は薬物に反対しています。その結果、幻覚に魅了されます。そして、それは手間がかからないので、人々は大きな用量をますます取るだけで済むため、安易に進みます。

インドでは、ある時点に達しました.... 今日でも、寺院では毒蛇を飼っています。というのも、人々があらゆる種類の薬物に中毒し、それらの薬物が彼らには全く効果がなかったからです。どんな用量を取っても、彼らは正常の状態を保っています。唯一少しの体験を得るためには、コブラの舌に噛まれることです。それは誰にとっても致命的ですが、彼らにとっては美しい薬物体験です。』

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体験ではない体験

2025-01-28 14:58:08 | 現代冥想の到達点neo

◎体験ではない体験それ自身を再体験

(2021-10-20)

 

このブログでは、人間から見た究極の体験を「体験とはいえない体験」と呼んで多用している。

そのoriginが、ダンテス・ダイジの未公刊の詩集「老子狂言」のメシアン・ハンドブックという詩にある。

 

『メシアン・ハンドブック

 

救世主は知っている 

いかなる人であっても 

自分を神の子だと考えるのは 

もっともなことだと

 

健康と病気 

豊富と貧困 

解放と束縛 

これらを受け入れるかどうか 

決めるのは君達だ

 

パッと手を離したらいい 

あとのことは 

流れがやってくれている

 

君達に命ずる 

これからずっと幸福でいなさい

思い出してごらん 

すでに君は

死んだことがあるんだよ

 

立派な救世主は 

自由に行きたい道を行く

 

できないことは

できない

 

救世主でいるくらいなら 

手品師か催眠術師のほうがましだ

 

君は

つねに神でいることはできない 

だが、

素直でいようとすることはできる

 

知るべし 

君は何もできはしない 

春夏秋冬があるように

 

あたりまえでいる・・・ 

これが救世主の極意だ

 

よう君 

いい役 

演じてるじゃねえか!

決して

情熱をやめないこと 

情熱なんぞどうでもいいなぞと

カタイことは言わないでくれたまえ

何ものかへの情熱こそ 

世界を世界にしているのだから

 

君は 

あらゆるものとともに死ぬ 

君も世界も 

もともとありもしないここに

あらゆるものが戯れている

 

いうなれば 

君達は

体験ではない体験

それ自身を 

再体験しようとしている』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

これを見ると「体験とはいえない体験」ではなくて「体験ではない体験」だったようだ。しかしながら「体験ではない体験」では、唐突であり他の文脈で使うには使いづらいかも。

 

人は自我の死に際し、あらゆるものとともに死ぬのだが、そこで自分も世界ももともとありもしないここにあらゆるものが戯れていることに気づく。

 

そこで人は、体験する者と体験それ自体が合一して「体験ではない体験」となったそれ自身を再体験しようとしているのだ。

 

※2025年1月28日追記:

上掲『君達に命ずる 

これからずっと幸福でいなさい

思い出してごらん 

すでに君は

死んだことがあるんだよ』の死とは、タオでありニルヴァーナである。隙間理論でいえば、現象と現象の間の隙間がタオであり、呼吸の合間がニルヴァーナである。

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OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方-1

2025-01-28 07:00:05 | 冥想いろいろ

◎ソーマ依存になって廃人になる危険が大

 

OSHOバグワンのアシュラムでもソーマ摂取が盛んだったようだが、OSHOバグワンはこれに対して否定的な意見だった。要するにソーマ・ヨーガによって悟りに至る可能性は否定はできないが、実際のところソーマ依存になって冥想修行どころか、生活すらできなくなる危険の方が大きいと見ていた。

OSHOバグワンは、ソーマ・ヨーガによって悟りに至る方法としては、ソーマによって、幻想の世界、夢の世界があることを自覚させること(霊道を開くということでもある)をきっかけにより、以後冥想修行に邁進できる可能性を見ていた。だが、そのケースでもソーマの使用はいわば最初の一回に限定している。

 

ソーマの使用は、未悟者は禁止だが、覚者の中にはソーマや酒でもって悟りを維持する場合があるらしい。冥想パワーで体内の毒性を意識で排出できるような連中だけが、それを可能なのだと思う。

 

唐代の知識人や貴族の間には、外丹という向精神性薬物摂取が流行したが、かなりの人が水銀中毒やヒ素中毒で死んだ。ところが則天武后だけは晩年までばんばん外丹摂取し元気はつらつだったという。則天武后は、冥想パワーで体内の毒性を意識で排出できるようなレベルまで行っていたのだろう。

 

以下は、OSHOバグワンがソーマ使用に反対している意見の冒頭。

『(OSHOバグワンのThe Last Testament, Vol 4 Chapter #6の一部を仮訳)

薬物は人類と同じくらい古く、確かにそれほど重要な価値を持っている。私は薬物に反対だが、私が薬物に反対する理由は、何千年もの間、人々が薬物に依存している理由と同じだ。奇妙に見えるかもしれない。薬物は、日常の世界を超えた幻覚的な体験を与える能力がある。それが瞑想によって探求される体験だ。 瞑想は実際の体験に連れて行ってくれ、薬物はただの幻覚、夢のような体験だが非常に似ている。瞑想することは難しい。

 

薬物は安い。しかし、薬物の魅力は精神的なものだ。人は日常の存在に満足していない。彼は何かもっと知りたいと思っている。彼はもっと存在したいと思っている。ただの平凡な人生はあまりにも平坦で、意味がなくて、もしそれがすべてなら、唯一の救いは自殺だと思われる。それはエクスタシーも喜びも与えない。それどころか、ますます多くの不幸、心配、病気、老齢、そして最終的には死を積み重ねる。生から死まで、普通の人生はただの足かせだ。人々は臆病だから、それを生き続けている。さもなければ自殺するだろう。彼らには自殺するだけの勇気がない。しかし、これは誰も喜べるものではない。

 

ずっと続けられるけど、それは生きるとは言えない。そこにダンスもなければ、色彩もない。ただ見渡す限り広がる砂漠があり、どこにもオアシスはない。 レオ・トルストイの夢の一つを思い出す。それは珍しい夢だ。それが彼の人生のほとんどの間、繰り返し現れたという点でも、また独特だ。彼が覚えている限り、その夢は起こり続けた。そしてその夢はとても奇妙だ。 彼の夢の中では、広大な砂漠と、中に誰も入っていない2つの長靴が見える。足のないその2つの長靴がただ歩いていて、歩き続けて、歩き続ける。歩くのが終わることはない。砂漠は果てしない。そして彼はいつも汗をかいて目を覚まし、心臓が激しく鼓動し、恐怖に襲われた。

彼は精神分析医に行かずとも、その意味を理解していた。彼自身が天才だったのだ。彼はこれが彼の人生であり、夢ではないことを知っていた。それは象徴的ですらない。それはまさに彼の人生そのものだった。

彼はどこへ行こうとしているのか?どこへ行っても、最終的には墓にたどり着くだろう。誰が歩いているのかはわからない。長靴は空っぽだ。彼の中には誰もいないことがわかる。彼は長靴を履いている人を知らない。彼は見えない。見えるのは長靴と砂漠、そして果てしない、無意味な旅だけだ。

これが、人々が初めからドラッグに惹かれてきた理由だ。それが一時的な救いを彼に与えたからだ。しかし、瞑想を試みた人はわずかだった。』

 

※冥想は現実そのもの(今ここ、カイヴァリヤ)に連れて行くが、薬物はただの幻覚、夢のような体験を出ない。瞑想することは難しい。

ただし、カルロス・カスタネダのようにソーマ使用を繰り返して究極に至る道もあることは不思議なことである。

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自意識の頂点では英雄の夢は破れる

2025-01-27 19:14:01 | 現代冥想の到達点neo

◎戦争の代わりにオルガズムを

(2021-07-20)

 

ダンテス・ダイジの老子狂言から、若い頃から気に入っている詩。

 

『大志をもて!

 

かつて男にも

大志があった。

地位・名声・権力———

それらは、一種のオルガズムであり得た。

あるいは、知的探求・芸術的創作———

少なくとも幾ばくかの陶酔を与えてくれた。

 

男の性的悦楽なぞ淡いものだ。

だから男は

いつの日か英雄になることを夢見た。

だが、自意識の頂点では、

英雄の夢は破れる———

それは生物学的必然なのだ。

 

破れた夢は、一つの暴力と化す。

戦争はすぐまじかにある。

 

人間を大自然に憩わしめるのは、

オルガズム以外にはない。

 

悟りとは、究極的なオルガズムなのだ。

 

今や文明は終わった。

究極的オルガズムに帰る最適の時だ。

 

女はと言うと、

女は女でなくなった。

現代女性は、男のように自意識的に快楽を求めつつある。

だが、自意識のあるところに全身全霊的オルガズムのあったためしはない。

 

独立した女は、もう奴隷になることができない。

奴隷になれなければ、本当の性的悦楽などありっこない。

慢性的欲求不満の女達は、自分の産んだ子供を愛することもできない。

 

おお、宇宙よ!

女には性的オルガズムを、

男には宇宙的オルガズムを与えたまえ!』

 

先の第二次世界大戦における敗戦は、軍部が悪いとか、フリーメーソンの陰謀だとか、日本の貴族層が策動したとか、国家神道による国民洗脳のせいだとかいろいろのことが言われる。最後は、日本の主要都市は空襲で焼け野原になり、核を落とされて敗戦となった。

 

この詩を読むと、戦争はまさしく、僕たち私たち自身が原因となって起こしている。その発想法、世界的に均質化されたライフスタイル、それを基盤として、70億人をマインド・コントロールしつつ、すべての個人のありとあらゆる欲望を満足させることを是として、地球ロゴスの巨大想念が形成される。

 

万人の全欲望をすべて満足させるなどあり得ないから、『戦争はすぐまじかにあり、戦争を回避するには、万人が冥想によりオルガズムに憩う』しかない。

文明は、一定の年数が経つと、石器時代から核戦争ができるほどに技術が発達し、核戦争を起して元の原始時代に戻り、のサイクルを繰り返すようだ。そのことは、プラトンやマハー・バーラタの核戦争の記述などでも察しがつくものだ。

物証がないというが、現代においてすら、エコの名のもとに土に帰る素材、水に溶ける素材がベターとされ、技術が進化するほど元の原始時代に戻った時には物証は残りにくい方向に発展するものではないだろうか。

そうした物質文明的な巨大な流れは、もう誰も止められやしない。ただ自分のことだけを自分が何とかできる。

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ダンテス・ダイジのホワイト・フォックス

2025-01-27 18:40:03 | 現代冥想の到達点neo

◎だが、おまえもおれなのだ。

(2015-09-19)

 

今日も外国人観光客の人気ナンバーワンの観光スポットは、ホワイト・フォックスの伏見稲荷でござる。

 

そこで、ダンテス・ダイジのホワイト・フォックスの詩。

 

愛も愛情も不安な灰色と化したこの現代に、まだ大金を儲けようという考えから抜け出せない人は、ダンテス・ダイジの歓迎する客ではない。しかしそんな我利我利亡者も彼の一部である。そうした見方は彼のやさしさではあるが、ろくでもない影響を時代に与え続けているという一側面もある・・・・・ダンテスの悪影響。

 

『ホワイト・フォックス

 

ホワイト・フォックス。

おれは、長いこと、

おまえを嫌っていたらしい。

 

女の汚れの中の女。

何一つ見ることのないホワイト・フォックス。

 

おまえの頭は打算だけだ。

フォックス———

だが、

おまえもおれなのだ。

 

666の

黒光りしたクンダリニーとともに

今、

おれはホワイト・フォックスをも飲む・・・

 

白狐。

所詮、おまえの神通力も、

愛の代用品に過ぎない。

 

そして、

いかなる愛も愛情も不安な灰色と化した時、

ホワイト・フォックス 

おまえに一体、

何ができよう。

 

快適で豊富なる暮らしの神。

聖なるマンモン。

白狐。

 

もう、

おれは、

おまえについて、

どんな判断もしやしない!』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言からの引用。)

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ダンテス・ダイジのアートマン

2025-01-27 13:12:47 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎有相三昧=ウィリアム・ブレイク

(2014-12-25)

 

ダンテス・ダイジのアートマンとは「この一なるもの」であり、

「一切万象、多様次元自身が目覚めている」ことであり、

彼はそれを未公刊の詩集『老子狂言』のウィリアム・ブレイクという詩で表現している。

 

『ウィリアム・ブレイク

 

そうなってゆく

そのままでよいのだ。

人は喜び悲しむために産まれて来たのだ。

 

だが、この絶対者は違う。

絶対者は

喜怒哀楽から離れて、

喜怒哀楽を戯れ、

そしてまったく同時に

喜怒哀楽を超越して

絶対の流れを流れ続ける

 

そして絶対者は、

すべてのすべてで久遠にいませり!

存在と非存在とに何のかかわることもなく。

 

私が絶対者なのだ。

ほんの卵だけれどもね・・・』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

人の視点と絶対者の視点は違うものだ。個人の感傷や倦怠やこだわりなど意に介することもなく、久遠に流れ下る大河の如く、永遠不滅の絶対者は、在る。

 

逝くものはかくの如きか。

 

個は、永遠不壊の絶対者から出るのだが、個であるときは、ちっぽけで卵だと、謙譲こそが基本姿勢であることを忘れない。

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心の底から満足できない

2025-01-27 13:05:49 | 現代冥想の到達点neo

◎決定的根拠

(2007-07-22)

 

エスニックなグルメ、ジャパネスクなグルメ、アヴァンギャルドでキュートなファッション、魅惑的な異性との出会いとメイク・ラブ、異国の旅先で感じるほのかなエキゾチズムなど人の心を惹きつけるものは、この情報あふれる時代で、価値観の多様化した今でも数多いものだ。

 

何があっても心の底から満足しえないことを知っている21世紀初頭の日本人にとって、本当の満足へのメソッドとはこのようなものか。

 

『決定的根拠

 

いかなる根拠もないということが、

これそのものなのだ。

 

理屈と保証がないからこそ

これは久遠の安楽なのだ。

 

喜びもなく苦しみもないからこそ、

あなたは永遠の平安を生きて死ぬ。

 

そして、

あなたは喜びを求めて飛び続ける。

 

ニルヴァーナという妄想

エクスタシーというマーヤ-

それを欲すること-----

これが人間という戯れの正体だ!

 

何もかもなし!

ただただ、これの戯れでない戯れ・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

これは人間にとって最後に求めるものが涅槃、タオ、アセンションであることを無意識の前提であることを暴いて見せている。そして、それには何の理屈も保証もない。

ただ最後は坐って、クンダリーニ・ヨーガ型か只管打坐型の冥想を行うことで、この詩を書いた同じ世界(実感ではない)にいることができるはず。

けれどもこの詩の外見は、錬金術文献のような、とりつくしまのない二律背反が並べてある姿。

何の理屈も何の保証もないとは、冥想しさえすれば、だれでも窮極のエクスタシーたる実在(ニルヴァーナ)に出会えたり、実在であることを体感したりすることは保証されないし、そうであることの理論的裏付けなどありはしないということ。

それでも日々冥想を!

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長く読めなかった老子狂言-2

2025-01-27 06:46:42 | 現代冥想の到達点neo

◎何も知らないうちが花なのだ

(2022-01-18)

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』の中に、長く読めなかった詩が二篇ある。その二。

 

『すべてを知り尽くす

 

この世とあの世―――

存在と絶対無―――

生と死の秘密を、

すべて知り尽くすことほど、

大きなわざわいはない。

 

何も知らないうちが花なのだ。

それでも、

花はかれ果て、

実になろうと欲する。

 

余りの苦痛にもかかわらず

花は散って、

実を結ぼうとする。

 

私は、なぜそうなっていくのか知らない。』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

大悟した後に彼の人生で出会うすべての人物の顔を事前に見たダンテス・ダイジほどの人物が、

『すべて知り尽くすことほど、大きなわざわいはない。』と言ってみせる。

 

人間や社会や世界の最も醜悪な部分をも知ることほど気が滅入るものはないから、ロマンも叙情もへったくれもなくなる。

 

至福を知るあるいは窮極を知る智慧(般若波羅蜜多)とは、そのような不愉快、面白からざることを知ることという反面がある。そういう実もふたもないことは、冥想修行者のやる気を削ぐのであまり言わないのだが、そういうことなのだろう。

 

リアリズムとは時に露悪だが、自分自身なる神を知るということはそういう面もなければ、悪魔の誘惑を退けられまい。

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長く読めなかった老子狂言-1

2025-01-27 06:35:40 | 現代冥想の到達点neo

◎悟りとは至福のことではなかったのか?

(2022-01-17)

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』の中に、長く読めなかった詩が二篇ある。その一。

 

『果てしない旅

 

幸福は、外的な状態に依存してあるのではない。

 

あらゆる方法や修錬によって、

至福を知るのだ。

内面のただ一人だけの充実に向かって、

苦難の果てしのない道を

やみくもに走り続けるのだ。

 

君が君にオーケーと宣言した時が

君の情熱の消える時だ。

そして君は、

灰色の穴ぐらの中に自己満足と

あきらめの日々を暮して死んでいく。

 

ただ量り知れぬ秘められた情熱だけが、

幸福や至福の彼方へ甦える。

 

何と果てしない旅だろう!』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

大悟覚醒して、至福の何たるかを知った後も一個の人間として『灰色の穴ぐらの中に自己満足とあきらめの日々を暮して死んでいく。』

のだとは、ね。

 

なるほど。読めないわけだ。

 

※2025年1月27日追記:いわゆる覚者の二重性の視点を持って読まないと間違える。

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