アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

プレアデスの7姉妹

2025-01-14 07:25:27 | チャクラと七つの身体neo

◎第一身体のシンボルとしてのシーシュポス

(2010-11-20)

 

ギリシア神話によると、巨人アトラースとニンフのプレーイオネーの間には、プレイアデスの7姉妹(アステロペー、メロペー、エーレクトラー、マイア、ターユゲテー、ケライノー、アルキュオネー)があった。

 

このうち、マイア、エーレクトラー、ターユゲテーは、ゼウスと交わって子を産んだ。特にマイアは長女であって、ヘルメスの母となった。

 

ケライノー、アルキュオネーは海神ポセイドーンと交わって子をなした。

 

ステロペーは、軍神アレスと交わってオイノマオスを産んだ。

 

メロペーは、ただの人間であったコリントスのシーシュポスと結婚したので、天上の星座に加えられることはなかった。

 

シーシュポスは、冥界で、一個の巨大な岩(太陽を暗示する)を山頂までころがし上げ、もう一息で山頂に着こうとするところで、無情にも岩の重さでシーシュポスは押し戻され、岩は斜面をころがり落ちる。彼はその都度これをやり直すのである。これは救いがない。

 

人間である以上は救いがないので、シーシュポスは人間のシンボルである。そして滅びを繰り返すので肉体(第一身体)のシンボルでもある。

 

7つの星をチャクラに当てるのは、破軍星などの北斗七星に当てるものが知られているが、ギリシャ神話では、プレアデスに当てたようだ。第二身体以上は、星座として天体に揚げ、肉体でないことを暗喩する。

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西洋には一生を夢で見て求道に入る寓話がない

2025-01-14 07:16:06 | 人と神の「実際のところ」

◎キリスト教では「自分は罪人だ」から始まる

 

西洋には高粱一炊の夢のような一生を夢で見て虚無を感じ求道に入るというタイプの寓話がない。これは、キリスト教の神へのアプローチの第一歩が「自分は罪人だ」という自分に対するネガティブ方向への自覚から始まっているせいなのだろうと思う。「自分は罪人だ」「自分は罪人だ」と繰り返すことで、自意識に対する圧力をかけ続け、その圧力が極点に達したところで破裂させ、神人合一に至らせる。キリストの求道プロセスの根幹はそういうところではないだろうか。だからゾイゼみたいに肉体を苛める苦行まである。

 

現代人のように一生をライフ・プランでシミュレーションして、最後に死ですべてを失うという、一生全体の虚無性を人生の最初に見せてしまえば、もっと自然に冥想修行に入って行ける。一方「自分は罪人だ」から始まるアプローチはとても苦しくつらいので、もっと自然な入り方を知ればそちらの方に流れがちなので、キリスト教は、槿花一朝の夢のような観じ方を封じたのだろう。

 

よって西洋では人生の虚無性の表現は、単発で出てくる。

1.シェイクスピアの「マクベス」では、主人公マクベスが、夫人の死去の知らせを受け、

「人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。 あわれな役者だ。

明日、また明日、また明日と、時は

小きざみな足どりで一日一日を歩み、

ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、

昨日という日はすべて愚かな人間が塵(ちり)と化す

死への道を照らしてきた。

消えろ、消えろ、 つかの間の燈火(ともしび)!

人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、

舞台の上でおおげさにみえをきっても

出場が終われば消えてしまう。

白痴のしゃべる 物語だ、

わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、

意味はなに一つありはしない。」

 

2.シェイクスピアの「テンペスト」ではプロスペローが

「この地上に在るー切のものは、結局は溶け去って、

いま消え失せた幻影と同様に、

あとには一片の浮雲も残りはしない。

我々人間は、夢と同じもので織りなされている。

はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。」

 

3.ギリシャ神話の「シーシュポスの神話」では、シーシュポスは、永遠に岩を山の頂上まで運び続ける罰を受けるが、岩は毎回頂上から転げ落ちてしまう。

 

キリスト教に限らないが、人は一生の間積善陰徳を重ねて天国極楽的に生きるのはよいが、そうやって積み上げてきたものを一生の最後に死によって失う。これも虚無、不条理、理不尽である。死の直前までそういう目に遭わなかった人でも、必ず遭う。人によっては人生早期に虚無、不条理、理不尽に遭う。何のための日々の努力の積み上げだったのだろうか。

そして死の直前に求道、冥想修行に入っても、大方は間に合わないのだろうと思う。

よって早期からの冥想修行が好ましい。

神に至る道は、大別すると三種。神に憑依してもらう、神を見る、神人合一。

成熟バロメータ

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積善陰徳したその後

2025-01-13 07:16:21 | 人と神の「実際のところ」

◎社会的成功と巨額寄付、だが死はすべてを奪うこと

 

嘘を言わない、善い事をする、悪いことをしない。そういう禁欲的な日々の積み重ねの結果、過去の悪業、悪因縁は徐々に払拭され、お金はたまり、結婚相手にも恵まれ、子孫も繁栄し、畳の上で大往生し、死後は、天国極楽に行く。大学生の初期は、そいう人生観、世界観を当然のものとして信じていた。

ところが先日笹目秀和の『ストップ・ザ・富士大爆発 相楽予言に挑戦!人類の業障と因縁を解く/笹目秀和』を読んでいたら、貧困卑賎の一男性が、北京で屋台から始めて一流レストランを成功させた話がでてきて、彼がたまった財産の半分を紅卍会に寄付したことが大変な善行を積んだみたいに書いてあった。

これは、勤勉な世間的成功者に宗教教団が巨額寄付を募る話であって、本人の大悟覚醒とは、ほとんど何も関係ない。

そこで、槿花一朝の夢、黄梁一炊の夢、邯鄲の夢など、中国では高級官僚になって栄華を極めるが、最後没落して亡くなるいう似たモチーフの話がいくつかあることに気づく。この夢をきっかけに、彼らは道教修行に入って行くのだが、道教修行の目的は、恭喜発財などの財産形成や出世や安楽でリッチな生活や魂の伴侶との結婚ではない。

この世の苦悩と絶望、不条理、理不尽を超越しようとしているのであって、死後天国に再生しようとして、冥想修行しているわけではない。

 

宗教修行、冥想修行、瞑想修行、ヨーガ修行している人は、ほとんどの人は最初はこうした現世利益から入っていくが、それは本筋ではない。また本筋に入って行くには本人の成熟が必要ではある。成熟の兆しは、倦怠(アンニュイ)と憂鬱。

 

スピリチュアル周辺には、山医命卜相と言って、西洋占星術、四柱推命、紫微斗数、0学占い、手相、人相、タロット、ルノルマン、易、姓名判断、風水、九星気学、おみくじ、霊感占い、神下ろし(チャネリング)など多数の占いがあるが、それらは本来現世利益目的ではなかったはず。冥想修行で大悟覚醒・神人合一した結果、神通力・霊能力が発現し、それを利用して無辜の人を善導しようとしてこうした占いを用いるのが本来の姿だと思う。

つまり、悟っていない人による占いアドバイスは危険であり、悟っている人による占いアドバイスだけが厳密な意味で有効なのだと思う。

 

つまりは、世俗的価値観を捨てて無用の用を生きるということだが、それはまま周辺の人には理解されがたい。それでも無用の用に生きるのだ。それだけが、地上天国、至福千年、みろくの世を実現する道であり、人類生存率を上昇させる道だから。

 

よって日々、悪いことをしない、善いことをする。

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逍遥訣解読-1

2025-01-12 06:29:42 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎日月合体のプロセス

(2018-07-23)

 

昨夜は、戸外の気温が遂に30度を下回らずに終わった。25度以上は熱帯夜というが、

来るところまで来ている感がある。

 

火力文明の末路は、風水火の威力を目の当たりにするのだろうと思う。海水面の上昇は、埋め立て地や海浜都市の放棄につながっていくことは、科学者が予想していることであり、似非オカルティストの大予言などではない。

 

太乙金華宗旨は、気を回していく初めはこうなって、その次はこうなってなどという初歩や中間段階の説明はほとんどない。

 

いい線を行っているケースに関してのメタファーと、最終段階についての解説ばかりであり、ちょっとかじりたいアマチュアに呈示できる情報とすれば、これが限度と思える。

 

OSHOバグワンの「黄金の華の秘密」は、英訳で読んでいるようなので、(易経・八卦の素養のない人が訳したみたいで)変な英訳の部分もあるようだが、彼の実地の経験に即した解説であり、参考になる部分も多い。

 

『逍遥訣

 

第一句

天心(タオ/玉清)は、魂の逍遥する秘訣を留め下ろしてきた。

 

第二句

「無為にして為す」の教えとは、精神の働きを集中させて、サハスラーラ・チャクラ(気の穴・金華)に入ることである。』

 

呂洞賓の解説では、この第一句、二句については、金華の作用の全容である、と。

 

『第三句

六月に、にわかに白い雪が飛ぶのを見る。

 

第四句

真夜中に、日輪が輝くのを見る。』

 

呂洞賓の解説では、この句は日月が相互に交差することを示している、と。

 

太乙金華宗旨では、目光と耳光を言う。目光は外部であり離火、耳光は内部であり坎水とみれば、離火は、乾陽が純陽に変化し、坎水は、坎陽も上騰すれば純陽に変化するということか。

 

この火水が合体して、最初はもやもやもくもくと浮いたり沈んだり、恍惚として太虚が無量であるようであって、いわゆる雲千山に満つる状態。

 

火水の合体の次の段階は、行ったり来たりする痕跡もないままに浮いたり沈んだりしても自覚はなく、脈拍停止し、気も止まる。これが合体の本番である。これをいわゆる月が満水を涵(ひた)すという。

これは肉体死の様態である。

 

更に呂洞賓は、この冥々の時に突然天心が一たび動き出すとする。これが死からの復活。

 

『六月に、にわかに白い雪』とは、離卦中の陰がまさに陰の極限である坤に帰っていこうとする動き。

一方『真夜中に、日輪が輝く』とは、坎卦中の陽がまさに陽の極限である乾に帰っていこうとする動き。

ここで『坎を取り去って離を填(うず)める』とは、坎陽も乾陽に転じて純陽・金華となることをいうか。

 

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神人合一の実感を語る-7

2025-01-12 06:23:13 | 現代冥想の到達点neo

◎一瞬間を梅毒病みの娼婦として生き

(2021-11-29)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『私は一瞬間を聖クリシュナとして生き

一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた

梅毒の苦痛が陣痛と出産の苦痛であり

性愛の享楽が聖者の清らかな解脱である

そしてすべては去ることもなく去り

また来ることもなく

新しい生涯が来る

 

止まることのない生々流転よ

私は生々流転のあったためしのないここで

ゴーヴィンダ・クリシュナの

美しい横笛の音を奏でる

 

今でない今、ここでないここで

私はクリシュナとして生き

クリシュナとして死んだ』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120-121から引用)

※ゴーヴィンダ・クリシュナ:牛飼いのクリシュナ

 

この詩の劈頭は、クリシュナとして生き、クリシュナとして死にたいから始まっているので、それを受けた形。クリシュナと言っても日本ではあまりなじみがない。聖者には、組織宗教のトップ型の聖者と単独での遊戯者タイプの聖者が存在するが、クリシュナは、遊戯者タイプの代表格。ダンテス・ダイジは、釈迦を遊戯者タイプと分類しているが、王子として生まれ、妻をもらい子までなしながら一切を棄てて出家遊行したのは、遊戯者なのだろう。たとえその後の釈迦教が、東洋全体を席巻したにせよ。

 

インドでのクリシュナは、村の既婚女性も未婚女性も一箇所に集めてその魅力で説法遊戯したことが知られるが、聖人は存在するだけでポジティブな影響を与えるが、社会性という点では、その社会に物議を醸しだしがちである。

 

『一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた』という一節には違和感を抱かれるかもしれない。彼の韻文には、別に釈迦の後世の一つが新宿のトルコ嬢(ソープランド)であったことを示唆するものもあり、聖者の前世が風俗嬢であっても何の抵抗もあるまい。覚者とは人類全体の実感、宇宙の実感を生きるものだから。

 

また彼の地球上の最初の前世は、高級娼婦ナツノだったということもある。

 

性病から苦痛が起こり、セックスから解脱が発する如く、『すべては去ることもなく去り、また来ることもなく』新たな人生を繰り返す。

 

解脱とは、一般に輪廻転生の責め苦から脱出することだと思われているのだが、真相はそうではなく、迷いも不条理も理不尽も含めて『すべては去ることもなく去り、また来ることもなく』転生が無際限に行われることを示す。

 

そこで改めて、クリシュナは、生々流転を否定する。

『止まることのない生々流転よ

私は生々流転のあったためしのないここで

ゴーヴィンダ・クリシュナの

美しい横笛の音を奏でる』

 

そして『今でない今、ここでないここで

私はクリシュナとして生き

クリシュナとして死んだ』

と時間も空間もない世界の表現を繰り返す。

 

神人合一とは、このようなダブルの世界を同時に生きることであって、手近には、その実感は知的に想像し、感情的に共感することしかできないが、同じ体験とはいえない体験をすることによってまさに実感できよう。

 

そのためには、意識の絶対的な極限状態を通過せねばならないと、彼は言う。

(完)

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神人合一の実感を語る-6

2025-01-12 06:07:56 | 現代冥想の到達点neo

◎私は私自身の中を旅し続けている

(2021-11-28)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『精神の広大さも

物質宇宙の戯曲も

私には何のかかわりもない

 

私は私の冥想の旅を続ける

旅は方向をもって続けられるが

その旅は私に理由のない確信を与えても

決してどこかに行き着くことはない

 

私は私自身の中を旅し続けている』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120から引用)

 

未知の虚空にもともとありもしない手と足とを放ち去ったので、精神の広大さも物質宇宙の精妙にも全く関わりなく生きている。

 

生と死をフル・コートとした冥想の旅は、『今でない今、ここでないここ』であるが故に、いつまでも終わることはない。その全体を確信してはいるが、今でない今、ここでないここであるから、終着駅にたどり着くことはない。

 

今でない今、ここでないここは、太乙金華宗旨の逍遥訣の第八句

どこにもない場所こそ真の家である。

無何有郷は是れ真宅なり)

に通ずる。

 

単純に個生命であれば、個の死を以って終着点と見そうなものだが、チベット死者の書で示唆されるような、生のある瞬間に、神なる全体、今ここ、或いは『今でない今、ここでないここ』なる死の側の故郷に戻って、その後再び個として別の人生を歩むというようなサイクルを想像する。

 

『私自身の中を旅している』という時、その私は神なる全体であり、みじめで情けない個人でもある二重性、二重のリアリティ。

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痛みや苦しみを忘れようとする人、打ち破ろうとする人

2025-01-12 05:59:10 | 人と神の「実際のところ」

◎無意識から意識へ、冥想の道

 

人間の覚醒のためには、未だに先入観と抑圧が必要な時代。不条理・理不尽で人を追い込むと、意識と無意識のせめぎ合いが起こる。苦しいけれどそこで飽くまで意識を持ち続けると意識が全体に広がる瞬間がある。それが大悟覚醒。

 

痛みや苦しみを忘れようとすることは、一種の無意識だ。人は一日二十四時間、痛みや苦しみを忘れる方法を探している。内側に多くの痛みや苦しみを抱えていることを忘れるために、人と話したり、音楽を聴いたり、酒を飲んだり、トランプをしたり、かけ事をしたり、モバゲーをしたり、自分を忘れられるような何らかの悪さに熱中したりしている。

 

人は一日二十四時間、自分を忘れる方法を探している。見れば怖いから、あなたは痛みも苦しみも見たがらない。だから、ありとあらゆることをして痛みを忘れ、苦しみを隠す。だがこの痛みも苦しみも、忘れたら消え去っていくものではない。傷を隠すことで傷が癒えることはないのと同様に、痛みも苦しみも忘れることで消え去りはしない。美しいファッションや外聞で覆っても、何も変わらない。それどころか美しいファッションや外聞で取り繕うと、それらは毒となり致命的になる。

 

だから、傷を隠してはいけない。カバーを払い、痛みや苦しみに直面するのだ。忘れようとしてはせず―――カバーを取り払い、それを知り打ち破る方法を、冥想(瞑想)により見つけなさい。積極的に痛みを打ち破ろう、超越しようとチャレンジし、それを忘れない人だけが、生の神秘を知ることができる。

 

痛みや苦しみに直面し、それを打ち破る方法を探している人は、宗教的な人。痛みや苦しみを忘れる方法を探している人は、非宗教的な人。

 

いつも自分のしていることを見つめてみよう。すると、自分が痛みや苦しみを忘れる方法を探している人かどうかわかる。そして、いつかそんな気を紛らす方法がすべて奪われたら、自分はいっそう惨めになるだけだ。

 

痛みや苦しみを忘れようとすることは、無意識方向に退行すること。一方痛みや苦しみに直面し、打ち破ろうとすることは、意識方向に進むことであり、意識的であろうとすること。その方向性は、大悟覚醒、神人合一、身心脱落神のなかへの消滅(ファナー・フィーアッラー)までの道程においても変わらない。

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ディヤン・スートラの七つの段階-1

2025-01-11 07:29:54 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎サマーディとは神になること

(2021-11-04)

 

サマーディへの七段階などというと、あたかも三昧というものが、個人的体験の一つであって世間でも共通認識のあるテクニカル・タームであるように誤解されがちである。ところが、サマーディとは、神になること、仏になること、宇宙意識になることであり、七つの身体論でいえば、第六身体と第七身体。つまりサマーディ以前とサマーディ以後には連続性はないのだ。

 

『ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO』は、三日間の瞑想初心者向けの冥想合宿での講話。OSHOにしては、飽きないで体系だって説明しているところは珍しい。こういう真面目な語り口の講話は、1970年代や世界逃亡開始以後のウルグアイ以後に多い印象がある。

 

さて『ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO』に出てくるOSHOバグワンの説くサマーディへの七段階とは、

1.身体の浄化

2.思考(マインド)の浄化

3.感情の浄化

4.無身体

5.無思考

6.感情からの自由

7.サマーディ

 

ここでは、テクニック・技法が6までであって、6までと7のサマーディには、体験としての連続性はない。体験する者がいないからである。

 

7のサマーディは、二度生まれた者とか、エックハルトは自分自身に出会っていたからさみしくないなど、連続性があるかのような説明をしているが、実際はそんなことはない。

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神人合一の実感を語る-5

2025-01-11 07:02:45 | 現代冥想の到達点neo

◎死:もともとありもしない手と足とを未知の虚空に放ち去ろう

(2021-11-27)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『私達はこの世では狐独であり続ける

私達の眼は

私達の故郷を見知らぬものとして眺め

私達の家族を初めて見る

これは私達の眼がかすんだゆえではない

私達の眼がより透明になったせいだ

 

何もかもが常に未知なものとしてあり

何もかもが常に新しい

 

何もかもが未知な新しさであれば

私達の脳髄は

尽虚空中に砕破する

 

死は何と私達の身近かにあったことだろう

最も身近かな死だけが

人類の唯一最大の教師だ

 

手足を放ち去ろう未知の虚空に

もともとありもしない手と足とを』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP119から引用)

※尽虚空:顕れない宇宙全体。

 

神人合一の実感を人間の側から語るとこのようになるだろうという叙述。

 

ここで言う死は、勿論肉体死のことでなく自我の死の方。だから自殺礼賛のことではない。最近世の中には、非二元、ノンデュアリティ体験者を広言する人もいるらしいが、彼らは、自分の家族や社会や故郷の街ですら、常に未知であり、見慣れぬという実感に生きている人物なのだろうか。

 

もしその実感を得ているならば、何もかもが未知の新しさであり、その場合、脳髄が隠された宇宙全体に砕破するとは、転じて天意のみに生きるということだと思う。ディヤン・スートラでoshoバグワンが最後には思考が死ぬことを言っているが、その辺の消息を指しているのではないか。達磨も同様のことを言っている

 

そして社会的人間として、これら実感の他に、『善いことをする、悪いことはしない。(諸悪莫作、衆善奉行)』という行動スタイルも、 未悟の者が覚者を見分けるクリテリアとしてはずせない。たとえ、未悟の者は絶対にその人物が本当の大悟者かどうか見分けられぬという法則はあるにしても。

 

極悪カルトの教祖の行動が、信者にとって大聖人に見えても、実は悪人のそれそのものだったということは、最近でも古来でも枚挙に暇はない。それを見分ける目を一隻眼とも言うが(アジナー・チャクラ)、人はそうやって目を凝らすしかないのだ。

この詩に顕れた基準は基準だが、それだけのものではあるまい。見る側の透明さが問われる。

 

上掲『手足を放ち去ろう未知の虚空に もともとありもしない手と足とを』では、大燈国師の逸話が思い起こされる。行方不明の大燈国師を捜そうと鴨川の河原で役人がまくわ瓜を乞食に無料配布した。その際、役人が「手を出さずに受け取れ」と言ったので、皆困惑していたところ、そこで何年も乞食をやっていた大燈国師が「それでは、手を使わずに渡してくれ」と言ったので大燈国師であることが身バレした。

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神人合一の実感を語る-4

2025-01-11 06:47:09 | 現代冥想の到達点neo

◎一刹那を神の御意のままに生き死ぬ、神人合一

(2021-11-26)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『一刹那の生涯でよい

神の御意のままに生き

神の御意のままに死にたい

 

一刹那の神の御意は

すべての生命達の生涯と

すべての生命達のそれぞれの宇宙であった

 

神のみが終対無の中に

久遠の安住を続け

あくび一つも神には無縁だ

 

私は私という心身の

異郷の客であり

何一つとして

私のかつて見知った事柄はない

 

この悲しみが

人間に理解できるだろうか』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP118から引用)

 

『一刹那の神の御意』こそが神人合一の瞬間。この時、神には久遠の安住なる至福、実在・智慧・歓喜(サット・チット・アーナンダ)

の充溢だけがあり、あくびのような個なる弛緩はない。

 

だが、ここに我が身に還えれば、

『私は私という心身の

異郷の客であり

何一つとして

私のかつて見知った事柄はない』

と透徹した孤独感がある。これが、無常、不条理、もののあはれの行きつく先。

 

この悲しみは、神のものなのか。

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冬の日や馬上に凍る影法師

2025-01-11 06:37:18 | 達磨の片方の草履

◎孤舟蓑笠の翁、透徹した孤独感を生きる

 

豊橋から渥美湾に沿って田の中に細い道があったが、これを天津繩手と言い、不遇な友人を思う芭蕉の句

 

二人見し 雪は今年も 降けるか

芭蕉

(大意:去年は配所にあって不遇の君と二人で見たあの天津繩手の雪はまた今年も降っているだろうか? )

 

そんな感慨も漂泊の旅人として、やや力んで暮らす自分がある。

月雪(つきゆき)とのさばりけらし年の暮

芭蕉

(大意:花鳥風月と一年中突っ張って生きたことよ、年の暮れ)

(1686年作、『あつめ句』所収)

 

さらに冬の天津繩手でもう一句。

あまつ縄手は、田の中に細道があって、海から吹上がる風がとても寒い所。

 

冬の日や馬上に凍る影法師

芭蕉

 

これは、山水画の孤舟蓑笠の翁の姿であって、透徹した孤独感を生きる覚者の姿であって、『さび』の極み。雪国の今度の冬は雪が多い。

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神人合一の実感を語る-3

2025-01-10 18:44:13 | 現代冥想の到達点neo

◎快楽は苦痛の種となり、老衰と病のない健康もない

(2021-11-25)

  

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『ソロモン王の英知が

ソロモンの栄華と幸福を実現し

そして又ソロモンの英知が

その英知ゆえに

愚迷のうちに滅亡したように

 

死のないどのような生もあり得ない

愚かさを持たぬどのような智慧もなく

安心のある所に不安があり

愛のある所に憎悪が

勇気のある所に恐怖が

 

幸福のある所に不幸があり

快楽は苦痛の種となる

老衰と病のない

どのような健康もあり得ぬように

 

善は悪とともにいつもあり

宿善の功徳は

天人の天国を実現するが

その天人にも

五つの衰亡を避ける手だてはない』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP117-118から引用)

 

夢の宇宙はあのように戯れ続け、人は人である以上、この世を天国的に生きようと希求し努力もする。地上天国、天人の天国は、時にこの世にあるいはあの世に実現もしたりするが、栄耀栄華の時代は衰亡を免れることはできず、折角積み上げた善行の果報も王侯を一代やったりすることで使い果たしたりもする。

 

戯れには人をとろかす夢幻の魅力もあるが、寝覚めぬ人の目を覚ます幻滅の顔もある。

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神人合一の実感を語る-2

2025-01-10 13:10:01 | 現代冥想の到達点neo

◎夢の宇宙はあのようにも戯れる

(2021-11-18 )

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『無限の中には

時間も空間も因果律も存在していない

無限の中に

宇宙の果ては

私の小指の長さにあり

 

千億光年の天体生命の光茫が

私の肉体の心臓の一鼓動とともに

生まれ来たり滅び去る

 

熟したリンゴの樹の果実が

地面から枝へと昇る

 

神の絶対無の中に

夢見続ける宇宙

 

夢の宇宙はこのように戯れ

夢の宇宙はあのようにも戯れる』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP116から引用)

 

無限という言葉は日常感覚で問題にする人は少ない。その実感が『時間も空間も因果律も存在していない』であって、それを敷衍したのが、宇宙の果ての長さが小指だったり、遠距離の辰星が鼓動とともに生滅するということ。

世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にする。林檎の実が熟していく姿は、根源から生へと進み、やがて根源なる死の世界へと帰って行く様。この辺は集合的無意識におけるビジョンなのだろう。

絶対無という言葉は、哲学者西田幾多郎が多用した。元は無であって、ニルヴァーナ。そこで有は夢であり、夢の夢なる戯れを繰り返す宇宙。

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神人合一の実感を語る-1

2025-01-10 13:05:39 | 現代冥想の到達点neo

◎ダンテス・ダイジ-今でない今、ここでないここで

(2021-11-17)

 

神人合一した人物がその境地を語ることは、時に沈黙だったり、片言隻句だったり、短歌だったりするのだが、ダンテス・ダイジは、韻文で残してくれている。

 

『今でない今、ここでないここで

 

一刹那 の 生 涯 で も よ い

クリシュナと し て 生き

クリシュナ と し て 死に た い

 

あらゆる演戯を越えた―つの戯れ

根本無明の演戯がなければ

神は神自体を観照することができぬ

 

根本無明のこの移し世が

神自身の唯一の演戯道場

神は人間の作り出した

どんな思想の中にも

宗教の中にもいない

 

人間自体の死の虚無性が

人間からすべてを奪い

人間をも奪う』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP115-116から引用)

 

ダンテス・ダイジの前世の一つはインドの神人クリシュナとして知られるが、戯れる者、マーヤの演技者としてクリシュナを出して来ている。

 

光明、善、真理などはポジティブであって、人はそのように生きねばならないので、ニルヴァーナに居さえすればよいなどと考えがちなのだが、さに非ず。

根本無明、マーヤ、迷いがなければ、神は神を観照できない。つまり迷いがあって初めて悟りであると、世間の先入観とは逆の真実を表明している。

 

この世は霊界が時至って現実化する移し世なのだが、あらゆる人間の作り出したものを捜し回ったとて、どこにも永遠不壊なる神は見つかるものでない。人間の作り出した思想にも宗教にも神はない。死がそれをことごとく奪い去るからである。

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Dream Truth

2025-01-10 06:55:27 | 覚醒のアーキテクチャー

◎あらゆる個生命達の、夢と真実と愛のストーリー

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言から。

 

『Dream Truth

 

この世のあらゆることには、

完成ということがない。

それは、時計が回るように回帰する。

人生それは、また時計のように成熟し得る。

時計には、個生命としての生老病死がある。

あらゆる個生命達の、

夢と真実と愛のストーリー。

 

THIS IS DREAM-TRUTH. 』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

私が18歳で東京に出てきた時、初めて三重複線の電車を見て、その壮観に驚いたものだ。回帰と言えば、人は何回かの輪廻転生を経て、ニルヴァーナへの突入あるいは神人合一をイメージする人が多いかもしれない。

 

上掲『時計が回るように回帰する。』について、今の私が見る限り回帰には、三重の回帰がある。

 

一つは、始まりはダンテス・ダイジ自身が示したように、未悟の愛妾ナツノやほとんど未悟の人生だった初期アトランティスのダンテス・ダイジの迷いと求道の人生。そして13番目の覚者ダンテス・ケンタウロス・アメンティの人生。そして、以後のヘルメスとしての人生、クリシュナとしての人生、雨宮第慈などの人生、そしてネオ・アトランティスの次の人生など7、8回の地上転生をへて、地球の転生コースを終えるというような複数転生で、大悟覚醒に至るというような回帰。事実インドのヨーガでは大悟覚醒後の再転生はない。

 

またダンテス・ダイジの韻文では『一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた』という一節や釈迦の後世が新宿のトルコ嬢(ソープランド)であったことを示唆するものもあり、聖者の前世が風俗嬢であっても何の抵抗もあるまい。覚者とは人類全体の実感、宇宙の実感を生きるものだから。またこの一説があることは、彼のやさしさそのものである。※

 

もう一つの回帰は、チベット密教で言うものであって、肉体死の瞬間に人は神(母の光明、原初の光)に出会っているが、実はその時神人合一(回帰)しているのであって、気がつかない人が大半なだけ。

 

いま一つの回帰は、隙間理論であって、現象の一刹那は、人間は、『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れている。『隙間』がニルヴァーナであって君自身の側、『現象』が有であって君の頭の側。ここに君の頭と君自身が並立して、個人と全体(神)の二重性が見える。

 

このように三重の回帰の説明が可能だが、実際のダンテス・ダイジの説明は、“今ここ”(過去現在未来と時間空間物質が一緒)に終始している印象があり、ひどくわかりにくいが、禅問答よりはましか。

 

※関係する謎の部分。

『二度とこの世に生まれることはないと

解脱涅槃を成就した仏陀が

新宿のホステスの私生児として生まれ

酒と麻薬の中に

トルコ風呂の女として死んだ

蟻達を殺して面白がっている子供は

蟻の時を持ち

蟻は人間の子供としての時を持つ時

昆虫を殺すことを楽しむ』

(【絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ】の詩『ただいのちだけが』の一部、P128-129から引用。)

 

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