アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クリヤ・ヨーガの道程

2022-11-21 10:10:05 | クンダリーニ・ヨーガneo
◎肉体と心を支配し、死をも征服

パラマンサ・ヨガナンダの説明では、
1.人間は睡眠時に、肉体や呼吸を意識せず、自分自身を肉体意識から解放し、生命エネルギーを脳や六つの脊髄中枢に補給する行を行っているので、宇宙エネルギーが体内に補充される。

2.だが人間は、適当な食物、健全な思想、日光を浴びて生活しても解脱に至るには百万年かかる。

3.クリヤ・ヨーギは、呼吸というくびきを解いて、肉体寿命を延ばしたり、意識を無限に拡大することで、感覚の束縛を脱する。こうして肉体と心を支配したクリヤ・ヨーギは、死をも征服する。死を征服すればもはや死ぬことはない。
(以上参照:あるヨギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP248)

「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき」至道無難(江戸時代の禅僧)

死を征服すれば、自分が殺されるという恐怖から他国を侵略することもなくなる。解脱者にとっては、『自分が殺されるかどうかは、自分の知ったことではない』からだ。

2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻。日本の立替は外国の手によって。3、4月。半年しかかからぬ。尾張半田。モンゴル。
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処女たちの秘密

2022-11-19 18:43:53 | クンダリーニ・ヨーガneo
◎目覚めると問題になるが目覚めないと問題ではない

処女には求道的側面から何かあるとは、真面目な求道者なら容易に感づいているところである。昨今の女性マッチョを主人公にした映画、トゥーム・レイダーとかバイオ・ハザードとかのアメリカ文化の潮流に染まっていると、そんな繊細なことには気がつかないかもしれないが、処女にはとても深遠な秘密がある。

以下のOSHOバグワンの説明は、タントリズムにおける第一身体から第四身体の男性女性の区別からそれぞれのボディ間の結合の問題を前提にしている。

そのメカニズムの基本は、余剰な生体エネルギーは、必ずどこかに動く必要があるが、外側に動く場合はセックスとなり、内側に動いていく場合は、以下のような自分のボディ相互の結合となる、ということ。

まず次のように、男女それぞれのボディに性別がある。
1. 男性の場合
肉体:男性
エーテル体:女性
アストラル体:男性
メンタル体:女性
 
2.女性の場合
肉体:女性
エーテル体:男性
アストラル体:女性
メンタル体:男性

而して、男性の場合なら、肉体はエーテル体に結合し、新たな男性Aとなる。アストラル体とメンタル体は結合し新たな男性Bとなる。男性Aと男性Bが出会うと、出会った瞬間に一つに溶け合い完全な男性らしさを二重に達成する。

同様に、女性の場合なら、肉体はエーテル体に結合し、新たな女性Aとなる。アストラル体とメンタル体は結合し新たな女性Bとなる。女性Aと女性Bが出会うと、出会った瞬間に一つに溶け合い完全な女性らしさを二重に達成する。

処女の場合は、この完全なる女性に至るルートを辿り得るのだ。バグワンはその先どうなるかとディテールについては、はぐらかしているのではあるが。

『女性の探求者にとってセックスは、男性の探求者ほど問題にはならない。私はジャイナ教の尼僧をたくさん知っているが、彼女たちにとって、セックスは大きな問題とはなっていない。
これは女性のセックスが受動的であるためだ。いったんそれが目覚めると問題になるが、目覚めなければ、女性は生涯を通じて決して問題だとは思わない。

女性は伝授されることを求める----- セックスにおいてさえそうだ。いったん男性が女性をセックスへといざなうと、女性の内側ではエネルギーが急激に上昇する。
しかしそれが起こらなければ、女性は生涯処女のままだ。女性は生まれながらに受動的なので、こうしたことは、ごくたやすく起こりやすい。女性の本来のマインドは非攻撃的だ。女性は待って、待って、ひたすら待ち続けられる。だから私は、内なる男性との合一を教えられないかぎり、既婚の女性の入道を受け入れるのは危険だと感じる。

処女の得度は可能だ。彼女は少年よりも恵まれた位置にいる。彼女には攻撃性がないため
セックスにいざなわれるまで、ひたすら待ち続けられる。外部からの攻撃を受けなければ、次第に内なる男性が外側の女性と合一し始める。彼女の第二身体は、攻撃的な男性の身体だ。』
(奇跡の探究2/OSHO/市民出版社P396-397から引用)
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預流果から阿羅漢果

2022-11-10 06:18:00 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎ノーリターン・ポイント

 

上座部仏教における修行の最上位には4段階ある。平たくいえば、

 

1.預流果

 7回転生すれば、悟りを得るレベル。

 

2.一来果

 一回転生すれば悟りを得るレベル

 

3.不還果

  欲界には再び還らず色界に上って悟るとは、もう一回転生を必要とするレベルの後半くらいの意味か。不退転であるレベルとはノーリターン・ポイントである。

 

4.阿羅漢果

  今生で悟って、二度と再転生しないレベル。

 

全体としては、輪廻して悟りに近づくという世界観なので、クンダリーニ・ヨーガ型である。ヴィパッサナーとは、クンダリーニ・ヨーガ型世界観を前提とした修行体系なのだろう。

 

7回転生すれば悟りを得るレベルとは、地球での転生を選ぶ人間は皆、7回転生後の悟りがセットされたコースだという説もあり、一概に預流果だから悟りに近いなどとは言えない。みんなが預流果からスタートしている可能性はあると思う。

 

阿羅漢果ならば転生しないのは、マンツーマン輪廻説であって直線型の輪廻転生が念頭にあるのだろうが、一人の人間が本当に直線型の転生ルートをたどるのかどうかは、現在の世界人口70億の霊魂が過去も70億本の輪廻転生ルートをたどってきたかどうか確認できないと確たることは言えない。世界人口が過去70億だったことはないのだから。

 

そして何より、現代人には、転生しないということの意味が心に響かない。転生のないキリスト教はどうするんだということもある。

 

今の時代では、二度と転生しないことを関心の焦点にするのではなく、クンダリーニ・ヨーガ型の悟りの本質がニルヴァーナへの突入だったと認めてそれが日常生活とどう関係するのか再評価することのほうが、説得力があるのではないか。一見関係ないけど、それが涅槃、ニルヴァーナ、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)というものではないだろうか。

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本山博の行のストラクチャー

2022-11-09 11:51:36 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎心と身体

 

クンダリーニ・ヨーガのピークは肉体死の状態からの復活というきわどいものであるが、その前段として本山博は、行の最初は肉体コントロールから入ると説く。

 

『行をしていて、たしかに今言った、眠りたい(休みたい)、食べたい、それから性的な欲望、この三つは非常に強いのです。それをコントロールする方法というのはなかなか難しくて、断食をしたり、菜食をしたり、一生懸命に水をかぶって、ともかく身体が参るようにする。

 

断食をするのも、眠らないのも、休みをとらないのも、菜食するのも、要するに物理的な次元での肉体の働きが弱まるように一生懸命に行をする。それであるところまで行ったら、今度は身体というものを自由にコントロールできるようになるのです。

 

呼吸にしても心臓の動きにしても、いろいろな臓器の動きにしても、自分の心でコントロールできるようになる。すると心が身体というものにあまり関わらなくなってしまう。

 

身体があっても心は自由になれるわけです。

 

身体に心がひっついて動いている限りは、心は身体から自由でない。前回にも、息を止めたらわりあいに気やサイ(psi)のエネルギーがよく出るという話をしましたが、息を止めるということは、或る意味では身体の動きを止めるということなのです。』

(神秘体験の種々相2/本山博/宗教心理出版P107から引用)

 

呼吸では、空気を呼吸するかにみえるが、気を呼吸し想念をも呼吸する。止息とは、死の世界の入口であり、あらゆる行の入口である。ただし生兵法は大怪我のもと。クンダリーニ・ヨーガでは、正師につかなければ、廃人になるなど身の破滅になることがままある。

 

この行において、別れを告げるのは肉体だけではないのだ。

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クリヤー・ヨーガ修行メニューと日課

2022-11-09 11:40:38 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎午前3時から午前12時45分までのカリキュラム

 

以下はアメリカのクリヤー・ヨーガ・センターの修行メニュー。クリヤー・ヨーガとは、クンダリーニ・ヨーガを中心としたハタ・ヨーガ、呼吸法、マントラ・ヨーガなどの総合的な冥想体系であり、ここにその典型を見ることができる。狭義のクンダリーニ・ヨーガばかりやっているわけではない。それは、小乗仏教でもヴィパッサナー冥想だけしているわけでもなく、曹洞宗永平寺で只管打坐だけやっているわけではないのと同じ。

 

健康と身体の血行、柔軟性の維持、精神の平静の保持など、肉体と精神の精妙な調整が企図されたカリキュラムになっている。この日課はいわゆる合宿的、修道院的、専門道場的なメニューであって、日常生活をやっていてはできない日課になっている。

 

こうした場の設定には、資金と人間が必要ではある。組織宗教はこうした環境の整備には優れているが、指導者に恵まれることが成否の鍵だろうと思う。

OSHOバグワンのコミューンではこんな風でもなかった。もっと信者任せだったようだ。

 

環境が整えば覚者は出やすいと見えるのだろうが、イエスのグループなど見ても環境が整わなくとも、真正のリーダー、マスター、グルがいれば覚者は出るものである。グルなしでクンダリーニ・ヨーガは難しい。働きながらクンダリーニ・ヨーガの修行はできない。

 

1.食事:菜食とする。甘味、酸味、塩味、辛味、渋味の5種の味を含む食事を毎食とる。

2.断食:毎週1日は流動食だけの「断食」をする。この断食を終えるときには、季節の果物をとるか、隔週ごとに塩分を含まない食事をとる。

3.沈黙:週に1日、できれば週末に、最低24時間を無言で過ごす。

4.家庭生活:クリヤー・ヨーガを生活の基盤とするパートナーがいない場合、またはそうしたパートナーが見つかるまでの間は禁欲生活を守る。

5.サーダナ:1日平均8時間はヨーガを実践する。その際、次の5分野の行法を実践する。

 (1) ヨーガのポーズ(アーサナ)

 (2) 呼吸法

 (3) 瞑想法

 (4) マントラ・ヨーガ

 (5)バクティ(最も心を引きつけられる神の側面を表す献身的な活動)を行う

 

ヨーガの行法を以下の日限にしたがって実践する。

・午前3 時~6 時:アーサナ、呼吸法、瞑想法。

・正午~午後1時:瞑想法とマントラ・ヨーガ。

・午後3時~4時:瞑想法。

・午後6 時~8 時:5 種の行法のすべて

・午後11時45分~午前12時45分:瞑想法とマントラ・ヨーガ

 

仕事の都合でこれら行法の一部が実践できない場合は、同じ日の時間に必ず時間をとって実践する。』

(ババジと18人のシッダ―クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道/マーシャル ゴーヴィンダン/P282-283から引用)

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窮極の呼吸法・胎息

2022-10-28 12:27:03 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎まず食事のコントロールから

 

道教でこれぞ窮極の呼吸法というべきものは胎息である。胎息を極めた葛玄は、ひどく酔った時や夏の暑い盛りには、必ず深淵の底に潜って一日ほど経ってから上がってきたそうだ。

 

抱朴子によると胎息のやり方は次のとおり

1.鼻の中に気を引き入れて閉ざし、心の中で120まで数える。

 

2.120になったら、かすかに口から息を吐き出す。吸うのも吐くのも音が聞こえないほどにして、水鳥の羽毛を鼻と口の上に付けておいても、羽毛が動かない程度。入る方が多く、出る方が少ないようにする。

 

3.慣れてきたら120から段々数を増やしていく。千になると老人も日一日と若返る。

 

4.気を巡らすのは、毎日夜半から正午までの生気の時間帯とすること。

 

5.大食してはいけない。生の野菜や脂っこいもの、生魚などを食べると、気が強くなって閉ざしにくくなるので、これを食べてはだめ。それに、怒ると気が乱れ、気が自然に溢れ出ることができなくなるので、怒ってはならない。

(参考:平凡社/抱朴子)

 

 

抱朴子では、房中術だけやってもだめ、呼吸法だけやってもだめで、この二つに金丹を飲むことを併せた3つやって初めて成るとしているので、これはクンダリーニ・ヨーガの厳格な修行ルールと見た。

 

平素から高級食材コーナーを見て回るグルメの方や、油料理の多い外食中心の方では、まずトライする前提条件がないということになるだろう。ダイエットでも、まず食事のコントロールからということだが、食事のコントロールもそれなりに志が必要なのものだと思う。

 

 

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臨死からの生還とその後の死

2022-10-27 18:31:31 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎全身虚血と再灌流症候群

 

一般に一度死んでから生還した者の多くが、蘇生措置を受けた数時間後か数日後に再びあるいは三度死ぬという。

 

これは、クンダリーニ・ヨーガの究極の起きる条件が、心停止と呼吸停止であることからすると、やや不都合な事象である。死んでから生還することを臨死体験と呼ぶが、臨死体験をしたからといって、そのほとんどの人が神に出会うかというと、それはどうもその逆である。

 

更には、クンダリーニ・ヨーガは、死の世界を窮めるからして、死を体験するのは当然だが、クンダリーニ・ヨーガの窮極に際しては、人はしばしばこの世界に戻る必要性を感じず、そのまま生の世界に戻らない人もいるらしい。それではこの世に何の寄与もしないし、本人のためにもならないではないかと考える人もいるかもしれないが、そうした絶対光明、ニルヴァーナというものは、人間の都合を優先に考えてくれるものでもないことに思いを致すべきだろう。

 

1972年ソ連の科学者ウラジミール・A・ネゴフスキーは、蘇生して生還した人に特有の二つの病気を指摘している。一つは、全身虚血であり、全身性の酸素欠乏。もう一つは、再灌流症候群であり、通常なら細胞を生かす酸素が、逆に細胞の死を早める物質に変わること。

 

サム・パーニアは、この全身虚血と再灌流症候群を避ける手段は、死の時間が非常に短かった場合と医師の正しい介入の二つを挙げる。実際問題として、いわゆる体験とは言えない体験後のこの二つの蘇生後症候群を避けるには、死の時間が非常に短いことを神に祈り、またグルがタイムリーに適切に対応することが必要なのだと思う。

 

冥想修行のグル、師匠が医師免許を持っているとは限らないので、グルの適切な対応を可能ならしめるのは、グルが修行者の危険な状態を見抜き適切な対応をとれるほどの力量あるクンダリーニ・ヨーガの達人であることが条件となる。

 

クンダリーニ・ヨーガというのは、その意味でも文字通り死の修行であり、だからこそ社会的に問題とされがちなところがあるから、密教なのだと思う。

 

また蘇生術の本には宇宙飛行士はしばしば宇宙で死にかけ、あるいは実際に死に、あるいは生還した場合でもその過酷な(死にかけた?)体験がトラウマになることが多いことも書いてある。先日テレビで日本人宇宙飛行士山崎直子さんが、宇宙飛行士の訓練は予期せぬ突発的な事象に対応していく過酷な内容が多いと語っていたが、宇宙飛行士は生還してもPTSDにもならず閉所恐怖症でもない人間を選抜して送り込むのだろうと想像された。宇宙飛行士は、目的こそ異なれ、生死を賭している点では特攻隊にも似ているように思う。

 

出口王仁三郎は、6度死んだが、その1回については、呼吸も心拍もあったが身体も動かず口もきけずで、鼻に松葉を焦がした煙を吹き込まれるなど、蘇生にひどく苦労したエピソードが残されている。他の五回については、サポート神霊の指導を得たのか自分で対応したのかはしらないが、とにかく生還してきた。

 

最近何でも情報公開すれば良いみたいな風潮があるが、軍事、インテリジェンスと並んで、死の技術あるいは密教系の情報には、公開されてはならない情報がある。

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本山博の神様とのコンタクト

2022-10-26 19:12:23 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎その体験を見ている自分

 

本山博の最初の神様とのコンタクトは、20歳くらいの時。

 

本山博は、戦時中、鉄道の大きなレールみたいなものの先を尖らせて、それを吊るして、10人くらいで山の岩を掘ってトンネルを掘る作業をしていた。

 

そうした合間に、彼が一週間ほど前に亡くなった義弟が成仏するように壕のトンネルの中で一生懸命お祈りをしていたら、急に回りが光ったというか彼の身体も多分光った。その時に本当に神様とつながりができた。これが最初の神様とのコンタクト。

 

2回目は、最初の体験から7年くらい経って、二十四、五歳の時で、ヨーガを初めて1~2年経った時。この時に神様はこういう方で、自分の役目はこうで、自分はどういうところに神様によって上げられたかということが自覚できたそうだ。

(出所:神秘体験の種々相2/本山博/宗教心理出版P144-145)

 

霊がかり気味だし、体験とは言えない体験とまでは言えないかも知れないが、神様とのコンタクトは起きることは起きたのだろう。

 

ただそれをきちんと自覚して、評価するまでは、何年もかかることがある。評価するためには、「見ている自分」を冥想によって養っていくということが必要なのだろうと思った。

 

こういう話を率直にできる本山博氏は極めてフランクな人である。フランクなのは覚者の特徴ではある。

 

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最後の審判はなぜあるのか

2022-10-23 21:05:08 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎かつて死んだ者も生きている者も

 

最後の審判というのは、人間が死後中有において、閻魔大王の前で個人的に生涯の善悪の軽重を確定させられて、天国や地獄に行くイベントではなく、この世の生きている人のみならず死んでしまった人すべてが再度呼び出されて、みんなまとめて裁きを受けるもので、キリスト教にある。

 

『よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

 

そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』

(ヨハネによる福音書5章25~29節。)

 

『また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。

 

かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。

 

それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。』

(ヨハネの黙示録20章11~15節)

 

『死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。』とは、凡夫の耳も菊の年であって、誰も彼もが切羽詰まって神を祈る時期。

 

これはイエス存命中には起こらなかったが、起こるのは今の時代だろう。我々と全然関係なさそうな過去の死者が呼び出されるというのが注目ポイントである。

 

最後の審判はキリスト教だけでなく、似たようなのがゾロアスター教にある。

 

ゾロアスター教では、歴史は3区分であり、第一期創造、第二期混合(善悪が混じり合っている意)、第三期分離(善悪が分離する意)。

 

第三期の始めに善と悪は分離し、悪は永遠に撲滅される。このイベントがフラシェギルドと呼ばれ、最後の審判に該当し、この時歴史は終結する(北欧神話でも歴史の終わりは似たようなものだ)。

 

チベット密教では、中有(メーノーグ)の中で個人の審判が為されるが、中有とは善と悪が混じっている状態。善と悪が混じっている状態は、ゾロアスター教では、最後の審判フラシェギルドまで続き、この時天国に行った者も、地獄に落ちた者も一旦大復活を遂げる(大地は死者の骨を引き渡す)。

 

そこで復活したものも、生きている者も、まとめて善と悪とが立て分けられる。邪悪な者は第二の死を迎えて地上から消滅するであろう。その後人間は不死者となって地上の神の王国を満喫する。

(参考:ゾロアスター教 3500年の歴史/メアリー・ボイス/筑摩書房P37-42)

 

これらは、アトランティス滅亡時に、次の1万2千年を見据えて準備した神話の一つであろう。ここ1万2千年は、善悪の入り混じる中有(バルド)的世界だったが、ここで善のみの至福千年に切り替わる。その際に、生者の世界は、善人のみに切り替わるが、生者は、毎度死の世界から出てきて死の世界に帰って行くことを見れば、死の世界に残された煉獄なる中有の住人や地獄の人々も一掃しなければ、世界全体の至福千年は完成しない。よって死者向けの最後の審判イベントがある。

だが、この説明はとても人情味に欠けた話ではある。

そういう話を生者向けにする必要があったのだろうか。

 

またこの最後の審判説はマンツーマン輪廻を否定している話でもある。

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OSHOが青いオームの字を見る

2022-10-22 12:31:25 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎オームの文字は死ぬときにしか見えない

 

OSHOバグワンは、死の前年の8月、オームの字を見た。これは『和尚と過ごしたダイアモンドの日々/マ・プレム・シュンニョ/和尚エンタープライズジャパンP429-430』に出ている話。

 

彼は死の前年にずっと体調が悪く、8月には徐々に衰弱する自分の肉体が、これ以上の生存に堪えられなくなりつつあることを感じていた。

 

8月20日彼は、「これは本当に不思議なことだ。オームの文字が目の前に見える。オームの文字は死ぬときにしか見えないのだが」と語って、サンスクリットのオーム字をノートに書いて、弟子たちに見せた。

 

9日後、彼はこんどは「青い色をしたオームの文字がいつも私の目の前に見える」と言い出した。

 

側近のシュンニョによれば、当時OSHOバグワンの骨は急激に脆化していて、その原因は医師の所見によれば、放射線を浴びせられたことによる。

 

OSHOバグワンは、アメリカでの拘置中にタリウムという猛毒を摂取させられた他に、強力な放射線をも浴びたのだろう。それにしてもアメリカで被爆して5年後に歯や骨の脆化が起こるとは、結構な線量だったに相違ない。

 

シヴァ・サンヒター3.73

『ヨーギーはこれらの業(カルマ)の元素を聖音オームを以って滅ぼすべし。彼は業の果報をこの一生の間に味わいつくすためにカーヤヴューハの行法を修了すべし』(カーヤヴューハとは肉体の種々の部分を配列する神秘的な方法。)

 

一生の最後に吽字(オーム)が出現して、その一生の善行悪行の精算にかかるというのはありそうなことである。

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重金属の体内蓄積

2022-10-13 18:17:32 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎効果的排出法の模索

 

熱核戦争ともなれば、核爆弾による死の灰や放射線の被害だけでなく、全国各地に立地する原発の破壊の結果として放射性物質の拡散による被曝対策も重要になる事は、福島原発事故の教訓の一つである。

 

放射能では放射線による細胞破壊による影響が第一に問題になるが、それ以外のアスペクトとしては放射性物質が重金属であるが故の重金属の体内蓄積が課題となる。

 

重金属の体内蓄積は日本では水俣病、イタイイタイ病など過去の公害での前例があり、肝臓、腎臓などに重金属が蓄積するようであるが、著効ある治療方法は発見できていないようだ。

 

公害以外に重金属を体内蓄積した人として有名なのは中国唐代の歴代帝王である。一説には唐代の22人の皇帝中、7人が丹薬、仙薬を服用し、6人が中毒死したとも言われる。

 

そうした中で、則天武后は、70代になっても男妾を何度も取り替えては近侍させ、精力絶倫を誇ったが、なんと丹薬大好きな女帝であった。現代でも70代の女優の中には若い燕と毎夜同衾するケースもあるようだから、その絶倫は一概に丹薬の効果とは言えないが、むしろ丹薬(外丹)を常用して、その副作用の出ないように効果的に体外に排出する技を持っていた可能性があるのではないかと思う。

 

丹薬では、ヒ素は軽金属だが、雄黄や砒石はヒ素化合物、丹砂は重金属の水銀化合物、水銀単体は不老不死の効果あるとされる。

 

こうした技は、クンダリーニ・ヨーガの技の一つであって、ビートルズがインドのグルに多量のLSDかなんかを騙して服用させたが、効かなかった例があったと思うが、できる人はできるのだろうと思う。

 

なぜか則天武后の愛男妾に如意というのがいた。

 

体内の重金属排出は通常の医学でできれば良いのだが、そうもいかないので、「クンダリーニ・ヨーガの技術でもって云々」ということを言い出さなければいけないほど困難かつ深刻な問題となるのだろうと思う。

 

それとクンダリーニ・ヨーガなのだから、本流は内丹なのだと思うが、外丹修行をやるのであれば、その前提として重金属の体外排出術ができることという条件があったに違いない。

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OSHOの高弟の死

2022-10-07 16:58:47 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎肉体へ帰還せず

 

OSHOの高弟で、元ハノーヴァー公国のウェルフ王子30歳(道名ヴィマルキルティ)は、1981年1月5日、日課のウォーミングアップをしている時に脳出血で倒れた。そして1月9日の晩に悟りを得て、翌10日に亡くなった。

 

OSHOの弔辞

「ヴィマルキルティは、祝福されている。彼はわたしのサニヤシン(弟子の修行者)の中でも数少ない選り抜きの一人て、ここにいる間中その信頼は一瞬たりとも揺らがなかった。

 

その信頼はトータルだった。彼は一度として質問をせず、一度として手紙もよこさず、一度として問題を持ってくることもなかった。彼の信頼は、だんだんと彼をして完全にわたしと溶け合わせてしまうほどのものだった。

 

彼は世にもまれなハートをもった一人だった。あのような質のハートは、この世界から消えてしまった。彼こそ本当の王子だ。本当に気高い、真の貴族だと言える。

 

貴族の位というは、生まれとは関係ない。それはハートの質と関係があるのだ。そして私のみた限り、かれはこの地上でもっともまれな、最も美しい魂のひとりだった。」

(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社から引用)

 

OSHOは、ヴィマルキルティは、脳出血で倒れた時にまだ悟っていないのを知っていた。それで倒れてから7日間プーナの病院の呼吸装置にかけておくように命じた。死の前日ヴィマルキルティが、「すること」から「しないこと」への境界線を超えたことをOSHOは確認した。(「すること」は、人間としてすること。「しないこと」は人間としてしないこと、つまり神としてすること)

 

この境界線を超えるためには、肉体と魂が別であることを熟知していることの他に肉体を持っていなければならないので、その肉体の内臓は、もうぼろぼろだったけれど、境界線をを超えるまで、病院の人工呼吸装置で延命させたというニュアンスのことを、OSHOは解説している。

 

OSHOは、「ヴィマルキルティが、二度と肉体に戻って来る必要がないだろう。彼は目覚めて去ってゆく。ブッダフッド(悟り)の状態で去っていく。」と評した。OSHOは、肉体への帰還についてはあまり関心がなかったようだ。インド人は、宇宙意識(ニルヴァーナ)まで到達することについて関心は高いが、そこから日常に戻ってくることには関心が薄いのだろう。それがインド的伝統なのだろう。

 

ヴィマルキルティが、インド・プーナの同じコミュニティでOSHOと暮らしながら、一度として、質問しにも来なかったというのは、覚者OSHOのバイブレーションを味わうだけでよかった段階だったのだと思う。

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