◎かつて死んだ者も生きている者も
最後の審判というのは、人間が死後中有において、閻魔大王の前で個人的に生涯の善悪の軽重を確定させられて、天国や地獄に行くイベントではなく、この世の生きている人のみならず死んでしまった人すべてが再度呼び出されて、みんなまとめて裁きを受けるもので、キリスト教にある。
『よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』
(ヨハネによる福音書5章25~29節。)
『また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。
かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。』
(ヨハネの黙示録20章11~15節)
『死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。』とは、凡夫の耳も菊の年であって、誰も彼もが切羽詰まって神を祈る時期。
これはイエス存命中には起こらなかったが、起こるのは今の時代だろう。我々と全然関係なさそうな過去の死者が呼び出されるというのが注目ポイントである。
最後の審判はキリスト教だけでなく、似たようなのがゾロアスター教にある。
ゾロアスター教では、歴史は3区分であり、第一期創造、第二期混合(善悪が混じり合っている意)、第三期分離(善悪が分離する意)。
第三期の始めに善と悪は分離し、悪は永遠に撲滅される。このイベントがフラシェギルドと呼ばれ、最後の審判に該当し、この時歴史は終結する(北欧神話でも歴史の終わりは似たようなものだ)。
チベット密教では、中有(メーノーグ)の中で個人の審判が為されるが、中有とは善と悪が混じっている状態。善と悪が混じっている状態は、ゾロアスター教では、最後の審判フラシェギルドまで続き、この時天国に行った者も、地獄に落ちた者も一旦大復活を遂げる(大地は死者の骨を引き渡す)。
そこで復活したものも、生きている者も、まとめて善と悪とが立て分けられる。邪悪な者は第二の死を迎えて地上から消滅するであろう。その後人間は不死者となって地上の神の王国を満喫する。
(参考:ゾロアスター教 3500年の歴史/メアリー・ボイス/筑摩書房P37-42)
これらは、アトランティス滅亡時に、次の1万2千年を見据えて準備した神話の一つであろう。ここ1万2千年は、善悪の入り混じる中有(バルド)的世界だったが、ここで善のみの至福千年に切り替わる。その際に、生者の世界は、善人のみに切り替わるが、生者は、毎度死の世界から出てきて死の世界に帰って行くことを見れば、死の世界に残された煉獄なる中有の住人や地獄の人々も一掃しなければ、世界全体の至福千年は完成しない。よって死者向けの最後の審判イベントがある。
だが、この説明はとても人情味に欠けた話ではある。
そういう話を生者向けにする必要があったのだろうか。
またこの最後の審判説はマンツーマン輪廻を否定している話でもある。