アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

自分と神仏が大逆転

2024-04-24 03:09:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-22

◎垂直上昇への仕掛け-22

◎大逆転と倒立-1

◎本当の愛や本当の善や本当の安らぎに出会う

 

悟りとは自分と神仏が逆転することだが、悟りによってその世界を逆転させないと、人は本当の愛や、本当の善や、本当の安らぎに出会うことはない。

 

そこで悟りにアプローチしていくには古来冥想が、主たるメソッドとして存在していた。しかしながらそれには、ディレンマがあり、自分と神仏が逆転するというポジションに内在しているものだが、見ている立場が全く異なった視座になるということに起因している。それが故に、見ている立場を一定させる現代科学の視点からは、悟りで起こるその逆転を肯定的に評価することはできないということ。(見ている立場が、自分個人から世界のすべてである神仏に変わってしまうというディレンマ)

要するに悟りを肯定的に見るということもできないし、また悟りに至るメソッドとして冥想があるということも論証はできないということ。

 

【アヴァターラ・神のまにまに】では、メインのテーマの一つが、逆転、倒立の明確化。古今東西様々な悟りのステップが呈示されているわけだが、

現代人には、一気通貫、一直線タイプのカリキュラム体系が受け入れやすいが、最も重要な最終バック・ストレートが逆転、倒立になっていることは、わりに強調されていなかったり、隠されたり、はぐらかしたり、未公開になったり、口伝になったりしている。すなわち、神人合一後に、見ている自分がなくなってしまう時点での逆転とか倒立という驚きやら感激については、なぜかあまり語られていない。

もっとも、最重要な事柄は、往々にして平素日常から慣れ親しんで公開されている言葉だったりするのだが。

 

人間が神仏になるとは、個人が世界全体宇宙全体になるのだから、逆転である。その想像を絶するさわりの部分は謎に包まれている。そこは、ユダヤ教の生命の樹(セフィロト)では、深淵として表現されている。禅の十牛図では、忘牛存人と世界全体である牛がいつのまにか消えたとだけ、結果報告だけですましている。

第五身体コーザル体の先は、第六身体アートマンであり、神であり仏である。ところが諸聖典、古伝承、神話には、第五身体コーザル体のことはさらっと書いており、どうすれば神仏に到達できるかどうかを微に入り細に入り書いているものはない。

 

さて、善のサイド、天国の側を窮めることだけが神仏への道である。悪魔は神になることだけはできないからである(ダンテス・ダイジ)。

そして天国から神仏へはジャンプ・アウトしなければならない。だからタロット・カードでは、吊るされた男として世界の逆転を暗示し、世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にして、これも上下逆転をシンボライズしている。天国と神仏の間には大逆転があるのだ。

 

西洋錬金術書、逃げるアタランタXXVIIでは、『鍵』は知的理解、『錠前』は冥想法。『鍵』はそれまでの一切の固定観念、世界観を全く逆転するものであるから、『「毀ち、衝撃を撥ね返し、人々を破壊する風とともに見つかるだろう」』という表現になる。鍵は、賢者の石であって卑しいと言うのは、価値観の逆転後(世界の逆転後)での表現。精神的なものにこそ価値があると見る世界観にあって、初めて賢者の石の価値が高いものとわかる。このカネ至上の人々の多い時代には、賢者の石は卑しく見える無用の長物。無用の用。

 

そして大逆転への準備は、成熟である。自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言っている。

なお、それまでの苦闘の途中では、すべてを望めば、すべてが手に入らないという現実に直面する。これが、「全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出方の一つ」(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ)であって、世界の逆転となる。

 

ギリシア神話の逃げるアタランタでは、アタランタが神仏であり、どこまでも彼女を追うヒッポメネスがエゴである。エゴが残っている限り神仏にはなれないが、徒競走で、ヒッポメネスは三度黄金の林檎を投げ、先行するアタランタが黄金の林檎に気をとられている隙に逆転し、最終的に先にゴールすることができた。これによりヒッポメネスは、アタランタと結婚し、神となれた。

 

一方古事記では、伊弉諾(イザナギ)命が、黄泉の国から退却する際に、黄泉比良坂で、追手の黄泉醜女(よもつしこめ)や八柱の雷神などに対し三度桃の実を投げつけることで、生還することができた。

黄泉比良坂が逆転の均衡点。その坂は、

善悪、正邪、治乱、興廃を分ける坂であって、坂を上りきるのが逆転。

 

人が全知全能の神になるのが、『大逆転、倒立』であって、それは大変なことである。縁のない人とっては、それは、しばしば信じられない出来事、想像もできない出来事である。

 

出口王仁三郎から。

『立替と立直しは一緒や。立替せねば、立直しはできぬ。

(昭和二十一年六月十五日)』

(新月の光 下巻/木庭次守/八幡書店P367から引用)

と言っているが、これは、まず自分が死ななければ、自分が覚醒することはないということ。新時代は、覚醒した人、悟りを開いた人だけの時代となるからには、多くの人が自我が死んで甦るという体験とは言えない体験を経ないと実現しない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする