アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ソーマ・パイロットの言葉

2024-04-29 06:18:20 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-9

◎芸術と武道とスポーツと仕事での見神、見仏

 

ダンテス・ダイジの『ソーマ・パイロットの言葉』の調子の高さには、当時も驚かされたし、今読んでもみずみずしい感動を呼び起こされる。

これまで私はソーマに触れることはなかったが、20代の頃は、『ソーマ・パイロットの言葉』が何を言っているのかわからなかったが、今ならこう思う。

  1. ソーマ・ヨーガは薬効が切れたらもとの黙阿弥にもどる。

 

  1. 古代インド・アーリア時代に、ソーマ讃歌は起こったが、現代のイランに当たる地域もそれに含まれる。その地域で活躍した聖者としては、ゾロアスターがいるが、彼とソーマが無関係だったとは思えない。その謙譲を基本とする風。

 

  1. ソーマでは、見神、見仏は、おそらくは容易に起こる(だが稀である)。そして神人合一すらも起こり得る。だが悟後の修行である聖胎長養には言及されない。それは、おそらく薬効が切れたらもとの黙阿弥にもどるからではないだろうか。

 

  1. 様々な芸術は、窮極たる神仏の周りを周回し、傑作においてはワンタッチするのが基本線みたいなことを言われる。このワンタッチというのは、とりも直さず、見神、見仏、一瞥のことである。これが、ソーマのあり方に似ている部分がある。様々な芸術とは、絵画、彫刻、建築、工芸、デザイン、写真、作曲、声楽、器楽、指揮、ダンス、演劇からスポーツ、武道までを含む。仕事で悟る事上磨錬もその一種。一瞥したらもとに戻ることが結構あるのではないか。

 

ソーマ・パイロットの言葉』の前半。

 

『ソーマ・パイロットの言葉

 

精神変容をもたらす薬物は、そのドラッグ・トリップ自体が、すでに神ソーマ自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットである。

あらゆる個別的な生命形態は、そのどうしようもない束縛の中の有限性から自由になろうと永遠に願い続けている。しかし有限性という妄想は、実に陰険で楽しいトリックを個生命達に与えていて、あらゆる生命が本当は無限そのものであることを自覚しようとするのにブレーキをかけている。

有限性に慣れた人間は、有限な自己を唯一の本当の自分自身のようにいつのまにか見誤ってしまう。これが、無限な君を邪魔するブレーキであり無明である。

 

だから、君は死なねばならない。君は、君の見ている「現実」という名の妄想に別れを告げねばならないのだ。

何のために?それは君が最高に楽しくゆかいで愛と安心に満ち自由になるために、あるいは、それらすべてから解放されるためだ。

単純明快なことだ、あたりまえなことだ。

 

君が、君を脱して君自身になろうとする働きが、ソーマ・パイロットで、そのパイロットあるいはガイドには、旅している君だけに与えられる言葉がある。ソーマは、あらゆる姿をとって君に君の消滅を最終的に告げている。君が無限である最後通告を語り続けている。』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

※この引用文は自殺を勧めるものではなく、自我の死すなわち禅でいう大死一番を言っているものです。

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ソーマ・パイロットの逆転

2024-04-29 03:54:54 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-27

◎垂直上昇への仕掛け-27

◎大逆転と倒立-6

◎私はソーマを飲んだのか?

 

ソーマ賛歌は、古代インドのヴェーダであり、調子が高いとは言い難い。

向精神性薬物であるソーマにより大悟徹底、神人合一、宇宙意識への突入を目指すものであるという立場が明らかにされてはいるが、散佚したのか、最初からバラバラに採録されたのかは解らないが、通して読んでも盛り上がりを欠いている。

 

そこで、ダンテス・ダイジが、それを翻案し、『ソーマ賛歌』を歌い上げた。

『ソーマ賛歌

 

果てしなく吹きあれる嵐のごとく

それが私の眼を目覚ましめた

私はソーマを飲んだのか?

 

たくましき軍馬が戦車を引いて天翔るように

それが私を限りなく成長させた

私はソーマを飲んだのか?

 

母なる牛が子牛を抱くように

激しい歓喜が私を包んだ

私はソーマを飲んだのか?

 

戦士が戦車のうちに魂をこめるように

私はこの歓喜にすべてを委ねた

私はソーマを飲んだのか?

 

世界のあらゆる国々なぞ

私の眼のちりほどにも価値はない

私はソーマを飲んだのか?

 

天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ

私はソーマを飲んだのか?

 

輝かしい光明のうちに

私は天空と大地のかなたを越えた

私はソーマを飲んだのか?

 

私は地球やあらゆる星星をつまみあげ

ここに あるいはあそこに置いてみては戯れる

私はソーマを飲んだのか?

それともソーマが私を飲んだのだろうか?

 

ハリ・オーム・ソーマ

ソーマ・アムリタ・ソーマ』

(ダンテス・ダイジ/メディテーション・トラベルガイドから引用)

 

LSDの宣伝者となったティモシー・リアリー、マサテコ族のシロシベ(マジック・マッシュルーム)使いの治療師マリア・サビナ。そして草原の草を食べたら海神に変身した古代ギリシアのグラウコス(変身の際の原初の光)。さらに道教外丹の上薬、中薬、下薬と洋の東西を問わず、ソーマをきっかけに神人合一した者はいる。

またドン・ファン・マトゥスは、カルロス・カスタネダにより、1960年代、70年代アメリカのドラッグ・シーンに大きな衝撃を与え、その影響は未だに続いているし、悪影響も大きい。

一方でソーマ・ヨーガは廃人になったり日常生活ができなくなる危険性をはらむが、クンダリーニを勝手に上げたり、我流で気を回したり、ただ固定した姿勢で静坐し続けたりしても、妄想にとり殺される様なことがある。またセックス・ヨーガであるカーマ・ヨーガにも依存性とカルマをぐちゃぐちゃなものにされる危険性をはらむ。

ソーマの危険性は、社会によく知られるところであるが、正師の指導の下、使いようによっては、大悟徹底するものというのが公平な見方ではないだろうか。

どんなまともな行法であっても、人生のすべてを賭けねば大きなリターンはないという原則は共通しており、賭けたからといって必ずしも成功するとは限らないものである。

だが道教の魏伯陽の外丹の故事を見てもすべてを賭けられるものだけが、道に至る。

それでもソーマ・ヨーガは、古代インドでもゾロアスターのペルシャでもハオマと尊称され、重要な悟りに至るメソッドとして命脈を保ち続けている。

ダンテス・ダイジの別の詩にはソーマを水先案内人と見ているものもあり、もう少しで大悟しそうな人や、一度大悟した人がもう一度それをゲットしたり、維持したりするためにソーマを用いる場合もあることが唆めかされている。

また酒をソーマとして使う人もいる。

北欧神話では、ミーミルの泉の水である。

インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。この尿もソーマである。

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