◎ジェイド・タブレット-05-27
◎青春期の水平の道-26
中国の寧波のそばの杭州湾に臨む古刹が阿育王山阿育王寺。阿育王は、インド古代のアショーカ王のことであり、お決まりの如く仏舎利を収めてある。
平清盛も後白河法皇もここ伝来の仏舎利を保有していたという。
平安、鎌倉、室町の日本人にとって、この寺は、イスラムにおけるメッカ、チベット密教におけるポタラ宮のように最高に崇拝された寺であって、一生のうちに一回は参詣するのが知識階級の夢だった。
東大寺の大仏再建の際の首を鋳造した仏師陳和卿は前世において阿育王寺の寺男だったのだが、その当時の住持が三代将軍実朝であったことを告げ、それを受け実朝は、阿育王寺参りの船を製造させようとする。
実朝は1219年、暗殺されて本懐は遂げられなかったのだが、実朝の歌が残っている。
世も知らず 我も得知らず唐国の
いはくら山にたき木こりしを
それから数年、嘉定16年(1223)秋と宝慶元年(1226)に道元がここを訪れる。
さて日本臨済宗のルーツ、虚堂智愚は、74歳にして阿育王山の住持であったのだが、1256年(宝祐三年)讒言にあい、僧籍を剥奪されて一か月獄に入った。
その直後の1259年、大応国師南浦紹明は、虚堂智愚に出会い、嗣法して帰国。その後大徳寺隆盛の端緒となる。
さて虚堂智愚は、入獄して、臨済より伝わる伝法の衣を破れ草鞋のように捨て去った。もっとも臨済自身も自分の法を伝える弟子がないことに怒って死んでいった。
伝えるものなどない。
なにもかもなし。
禅は、肉身のマンツーマンで伝承され、一休は虚堂七世の孫と称している。
虚堂-大応-大燈-徹翁-言外-(謙翁)華叟-一休
伝わることは伝わったが・・・・。
一休は、21歳で自殺未遂。27歳で大悟。冥想法は、公案禅と只管打坐なのだろうから、水平の道。
以後の人生は、十牛図でいえば、第十入鄽垂手(にってんすいしゅ)であって、悟りを持って、街の人々と友人として暮らすというもの。悟っていない街の人々を異類などと区別することもない。
最後は、念仏者として終わった。