◎ジェイド・タブレット-11-4
◎アートマン-4
◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-3
◎冥想の効用のない部分-3
◎語り得ることは何もない
第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性についてOSHOバグワンは、最も詳しく説明している。
『第六から第七へ入っていくことは、究極の死だ。これを知ったらあなたは驚くだろうが、アチャリアとは、古くは最後の死を教える者という意味だった。「教師(アチャリア)は死だ」という格言がある。 だから、ナチケタが死の神に至った時、彼はアチャリアに至った。死の神は死の事以外、何も教えられない。アチャリアとは、ただ、死滅、崩壊、消滅だけを説くことができる者への名称だ。
(中略)
第六から第七に入る時に、放棄は起こる。そこではあなたというものを投げ捨てる ― なぜならあなたには、それ以外に何もないのだから。あなたはまさに、自分の実存を捨て去る。
唯一、意味ある放棄は、第六から第七の次元に入ることだ。それ以前では放棄について語ろうと、すべて子供じみている。「これは私のものだ」と言う人は愚かだ。「私は自分の物をすべて捨てた」と言う人も愚かだ。彼は、依然として所有者だと主張しているのだから。ただ自分自身だけが、自分のものだ―――しかし、人々はこれを理解していない。
だからあなたは、第五から第六にかけて自分が誰かを知り、第六から第七へは、自分であるものを放棄できるようになる。
自分であるものを放棄した瞬間、もはや成就すべきものは何も残らず、放棄されるものも何もない。そして、どんな問いすらも残っていない。そこには限りなき静寂、永遠の沈黙がある。その後は、至福や平和があるとも言えない。真実や偽りがあるとも、光や闇があるとも言えない。語り得ることは何もない。これが第七の次元の世界だ。』
(奇跡の探求2-七身体の神秘/和尚/市民出版社P367-368から引用)
ナチケータの故事は、古代インドのカタ・ウパシャッドに出てくる。ナチケータが死神にいろいろ教わるが、結局個人なる自分が死んで、アートマンに至る。
次に「自分であるもの」とは第六身体アートマンのことだが、これは個人でなく、個人を含む宇宙全体、世界全体のこと。それを前提に、第六から第七へは、自分であるものを放棄する。これが秘儀中の秘儀。これを説明した文章にはなかなかお目にかかることはない。
更に第七身体には、限りなき静寂、永遠の沈黙だけがあって、至福も平和も真実も偽りもなく、光や闇すらない。
この点で、至福だ平和だ、真理だ偽りだ、光だ闇だを究極と位置づけている宗教は、考えてみる必要があるのだろうと思う。
OSHOバグワンは、究極ニルヴァーナのことを仮に限りなき静寂、永遠の沈黙と称しているだけのこと。だが、大衆宗教、世界宗教で、「究極とは、何だかよくわからないものです。」とやれば、収拾がつかず組織の統制はとれにくいものだろう。それでも、禅はそれをやり続けてきたということはある。