モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

批判

2019-05-15 23:07:18 | 福音について
人のあやまちを見つけると批判したくなることがあります。
自分の考え、理解が正しいと信じているからです。
自分の信じていることを主張するのはよいことです。

しかし、批判する気持ちのある時には、
自分には信じていることを主張する権利があっても、
相手にはその権利を認めていないのです。

福音は誰にも「自らが正しいと信じることを選ぶ権利」があると教えています。
それを「自由意思」といいます。
相手の自由意思を認めようとしない心から批判が生まれるのです。

自分の信じる考え、理解を率直に述べることが、
聞く相手にとっては批判と受け止められることもあり、
言葉を選ぶことの難しさを痛感します。

自分と違う考え、価値観を面白いと捉えることができるといいのですが。
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経験

2019-05-15 22:19:21 | 福音について
経験しなければ理解できないことがあります。
祈りの応えについて語り合えるのはそれを受けたことのある人だけで、
経験のない人は不思議に思うことしかできません。

経験しても理解できないこともあります。
聖霊の訪れを受け、全身に満たされるものを受けたとしても、
それが何を意味するのかさえも理解できないこともあります。

経験していないことは信じるしかありません。
復活や裁きなどはその時が来るまで信じるしかないのです。
それでも他の経験があるので確信をもって待つことができます。

経験によって様々なことを学ぶことができます。
理解できることもあり、理解を超えたものもあり、
時が来るまで信じることを求められるものもあります。

神の御心として受け入れることができるなら、それも祝福です。
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聖霊

2019-05-15 15:20:26 | 福音について
聖霊の働きというと、まず挙げられるのは「祈りの応え」でしょうか。
もっと身近で普段の生活に直結したところで挙げると、
気付き、思い起こす、理解するの三つがあります。

心に迷いがあって選びに戸惑ったときに、
ふと心に思いついたことがあって、
それが正しい選び、行いへの導きとなったことはありませんか。

何かについて思い悩んでいたときに、
過去の経験や学びが思い起こされて、
それが解決のための糸口となったことはないでしょうか。

イエス・キリストや福音について学んだとき、
理解力が与えられ、他に何の根拠も無いにも関わらず、
否定できない真実として心に刻まれた経験はないでしょうか。

経験のある人にこれ以上の説明は必要ありません、それが聖霊の働きです。
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あやまち

2019-05-15 11:24:03 | 福音について
わたしには多くのあやまちがあります。
それ自体も問題ですが、あやまちに気づかないことはさらに問題です。
過去がそうだったので、今もこれからも同様でしょう。

周りにとってはいい迷惑です。
しかも本人はあやまちに気づくことができず、正しいと信じている。
このようなときにはどうすればいいのでしょうか。

人の不完全さとして理解していただきたい、
というのは無責任なムシのいい話かも知れませんが、
わたしの信仰もこのブログの記事もその程度のものです。

自らのあやまちに気づいたときには恥じ入るしかないのですが、
その経験のおかげで、それは忘れられないものになります。
落ち込みもしますが、あやまちに気付くことなく一生を送るよりはよいでしょう。

わたしの人生はその連続でしたし、これからもそうでしょう。
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家族の一致

2019-05-15 09:43:24 | 福音について
小学校で長縄跳びの流行った時期がありましたが、今はどうなのでしょうか。

両側で長縄を回す二人のタイミングを合わせるのは跳ぶ以前の問題です。
長縄を上手に回すことができるようになると、
一人ずつその中に走りこんで徐々に人数が増えて行きます。

それを家庭に例えることができます。
結婚した男女が、まず二人での一致を目指します。
一致した夫婦のもとに生まれてくる子供は幸せでしょう。

子供が生まれると生活は一変しますが、今度は三人での一致を目指します。
上手に回すことができた長縄の中に、人が入って跳ぶ様子は見ていて楽しいものです。
最初は上手にできなくても、練習するうちに上手になり喜びも増します。

やがて人数が増えてくると最初は一致できないこともあるでしょう。
いら立つこともあるでしょうし、不平の出ることもあるでしょうが、
そこで優しく教え、導くことができるようになるのも見ていて嬉しいものです。

そのような様子は周りで見ていても微笑ましく喜べるものです。
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