モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

書物から知恵を

2020-04-22 20:41:48 | 福音について
「最良の書物から知恵…を探し求め…なさい」教義と聖約109:7

アメリカではキリストの福音を基として創作された書物が多くあるそうです。
日本語に翻訳されて出版されることもあり、その内容について質問を受けることもあります。

「素晴らしい内容に感動した、記されている事実に驚いた」という評価が多いようですが、
わたしが尋ねたいのは「その感動は聖典と同じものですか?」ということです。

それは「聖霊の証が伴い、啓示が与えられるものですか?」という意味です。
サタンは「人々に好評なのは神の教えと人の理論が入り混じったもの」と言っています。

人は「ウサギとカメの競争」の童話からでも大切な教訓を学べるのですから、
人の考えであっても善い教えを学ぶことはできるし、それは良いことです。

ただし「ウサギとカメが競争した」と信じるのはナンセンスでしょう。
笑い話のようですが、似たようなレベルのことを信じてしまうこともあるのです。
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天の宝

2020-04-22 14:25:03 | 新約聖書
「自分のために…地上に宝を蓄えてはならない、むしろ…天に宝を蓄えなさい」マタイ6:19~

”宝”とは何でしょうか、それは自分の心に「喜びと幸福をもたらしてくれるもの」です。
もしも”お金や富、財産”が喜びと幸福をもたらすなら、それがが宝となるでしょう。

”伴侶や子供”が喜びと幸福をもたらしてくれるなら家族が宝となります。
家族の喜びと幸福のためにお金や財産が必要であるなら、それを求めることは正しい判断ですが、
その場合にお金や財産が家族に勝る宝となることはあり得ません。

お金や富、財産はこの世にあって良いものですが、この世の宝でしかないことは明らかです。
次の世で宝となるもの、次の世でも喜びと幸福をもたらしてくれるものは何でしょうか。
主の教えを信じる人はそれを探し求めます。

”地上に蓄える宝”と”天に蓄える宝”のどちらにより価値があるか、
どちらがより喜びと幸福をもたらしてくれるものであるかを判断するのは自分自身です。

その選びがその人の信仰を表すものとなります。
「あなたの宝のある所には、心もあるからである」マタイ6:21
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10万円

2020-04-22 09:43:25 | 福音について
「父の心をその子供たちに向け…、わたしが…呪いをもって…撃つことのないように」マラキ4:6

「コロナウィルス対策で一人当たり10万円」が話題になっています。
合計で約12兆円だそうですが、このお金はどこから出るのでしょうか、誰が負担するのでしょうか。
次世代の人たち、つまりわたしたちの子孫がその負債を負うことになるのでしょう。

政府は全国民に支給するということで話を進めているようですが、
それは「全国民にその目的と結果として生じる負債に責任を求める」ということです。

わたしたちは”子孫のため”に現在のこの混乱を打破しなくてはなりません。
そのために本当に必要であるなら国債という形で子孫に援助を求める覚悟も今必要です。
同時に”子孫のため”に不要な負債を上積みすることのないようにもすべきではないでしょうか。

「10万円もらったら何をする?」という楽し気な会話が聞こえてくるときに、
日本語に「あさましい」という言葉があったことを思い出してしまったのはわたしだけでしょうか。
(批判的な言葉で申し訳ありません。それを承知の上で正直な気持ちを書きました。)

この忌まわしい疫病に苦しむ方々に癒しと助けの手が差し伸べられるように心から祈ります。
それと共に、神が呪いをもってこの地を撃つことのないようにとも祈っています。
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忘れない

2020-04-22 08:48:23 | 今日の一言
良い習慣を続けるための秘訣は忘れないこと
良くない習慣を改めるための秘訣は忘れないこと
それらのほとんどは忘れさえしなければ誰にでもできる簡単なこと



もっとも難しいのは、心に決めたときの気持ちを忘れないことかも知れません。
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断食

2020-04-22 06:19:50 | 新約聖書
「断食するときには…それ…が人に知れないで…父に知られるため」マタイ6:17

食欲は人間の基本的欲求の一つですが、それを犠牲として神に捧げることが「断食」です。
犠牲を伴う祈りは力強いものとなり、それは「願いの強さ」を神に証明するものとなります。

子どもが自分の大切にしているものを差し出して、
「その代わりに願いを聞いて欲しい」と言ったら、その真剣さを感じないでしょうか。

断食をするときには特別な祈りが必要でしょうか。
わたしには「断食の時だけの特別な祈り」とは考えられません。

普段の祈りが心からの祈りであれば、それで十分だし、それ以上のものはないでしょうし、
断食を伴う祈りが心からの願いであるなら、それが普段の祈りになるのではないでしょうか。
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