モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

預言

2020-04-27 21:57:38 | モルモン書
「御霊に満たされ…て預言し始めた」1ニーファイ5:17

「予言」と「預言」は混同されることがよくありますが、
予言とは将来を予測して言い当てることであり、
預言とは神から与えられる言葉を語ることです。

予言は多くの人が想像を掻き立てられ興味を惹かれる面白いものですが、
預言は神から与えられるごく平凡な教えに過ぎないことが多いのようです。

主を信じて御霊の証を受けることのできる人は預言を喜びます。
そのような人は自分自身も御霊を受けて預言しています。
気付かないうちに御霊によって与えられた言葉を語っているものです。

「御霊によって御言葉を受ける者は…御霊によって述べられるままにそれを受ける、
それゆえ説く者と受ける者が互いに理解し合い…教化されて、共に喜ぶ」教義と聖約50:21~

互いが神から与えられた言葉、つまり「預言」を語り合い、互いに教化されて喜び合う、
それが本来の教会の姿です。
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犠牲

2020-04-27 06:12:32 | モルモン書
「非常に喜び、犠牲…を主に捧げ、イスラエルの神に感謝した」1ニーファイ5:9

当時は神に感謝を示す意味でも犠牲として生贄を捧げたようですが、
そのような習慣がない現代、わたしたちは何を捧げればよいのでしょうか。

旧約の時代には形にして表すことが信仰の表れだったようですが、
イエスはこの世に生きたときに「心にして表す」ことを教えました。

「あなたは…神に…打ち砕かれた心と悔いる霊の犠牲を捧げなければならない」教義と聖約59:8
すなわち「悔い改めが神の求めている犠牲」ということのようです。

主を信じて感謝するなら悔い改めてバプテスマを受け、
主に近づきたいと望むなら常に悔い改めて生まれ変わることが求められます。

それは生涯を通じて犠牲としてわたしたちの捧げるものであり、主への感謝と愛の表れです。
言い換えれば「悔い改めようとしないなら主への感謝も愛もない」ということかも知れません。
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