モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

忠実

2020-05-17 22:01:52 | 教義と聖約
「戒めを忠実かつ熱心に守りなさい、そうすれば…わたしの愛の腕の中に抱く」教義と聖約6:20

”忠実”とは「心を込めて努めること」であって、完全を求めるものではありません。

イエスの時代にモーセの律法を守る人々がそうであったように、
完全を求めるあまり「戒めがおかしな方に向いている」ことはないでしょうか。

知恵の言葉についての質問に「昔の人はお酒を飲んでいたのになぜ?」というものがありました。
ある人は「ブドウ液がアルコール醗酵する前に飲んでいた」と説明したそうです。
「ノアは…ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた」創世9:20~
「このお話をどう説明するのでしょうか」と尋ねました。

人の考えで、しかも完全を目指そうとするときに、このようなおかしな解釈が生まれるようです。
主が命じられた理由を知らなくても、主に”忠実”であることはできます。

忠実であって、主がそれを認めたときに、
命じられたことの理由を知ることが許されることは少なくありません。
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信仰

2020-05-17 16:04:59 | 教義と聖約
「忍耐強く…真面目であり…自制し…信仰、希望、慈愛を持ちなさい」教義と聖約6:19

この言葉は「イエス・キリストのようであるためにどうあるべきか」を説いているようです。
主がこの世に生きたときに示した「忍耐、真面目、自制」の模範と、
そのためには「信仰と希望、慈愛」が必要であることを教えています。

この言葉の一つひとつを聖書に記された主の生涯から読み取ることは難しいことではありません。
しかし”ただの人である自分”に主のような生き方ができるとは到底思えないのも事実です。

では何ができるでしょうか。
「そうありたいと望む」こと、その望みのために「自分にできることを探す」こと、
そして「できることをする努力」くらいは行えます。

それ以上は無理だし、それ以下であっては”主の前にふさわしい”とは言えないでしょう。
”主を信じる信仰”とはそういうものではないのでしょうか。
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思いと志

2020-05-17 11:50:37 | 教義と聖約
「あなたの心の思いと志を知っている者は神のほかには誰もいない」教義と聖約6:16

主の前に恥じることのない”思いと志”を持ちたいと願い、奮闘したことがあります。
あるとき諦めてこう祈りました。「わたしの心はあなたにはよく分かっています」

努力はしているつもりですが、「主の前に恥じることのないほどの清い心」を持つことは
自分には無理だと諦めた頃から素直に祈ることができるようになったと思います。

「主…の声が聞こえ…アダム…は…身を隠した」モーセ4:14
恥じる心があると、主の前からそれを隠そうとする思いが生まれるようです。

「主の前に恥じることのないほどの清い心」を持てる人があるのでしょうか。
預言者でさえも日々悔い改めをすると聞きます。

”開き直り”と言われればその通りですが、主の前に全てを知られているのだから
素直になって、包み隠すことなく、心からの思いを祈るのが最善かもしれません。

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尋ねる

2020-05-17 08:56:23 | 教義と聖約
「あなたは…尋ねる度に…御霊からの教えを受けて来た」教義と聖約6:14

親しい関係での日常会話のほとんどは”質問と応え”で成り立っています。
家族や友人同士で楽しむ気軽な会話を、質問なしで試してみるとよく分かります。

「何してるの?」とか「どう?」とか、”?”のつくものを一切取り除くと
親しさが遠のいて、なんとなく不自然な”ぎこちない”会話になるようです。

「祈りは天父との会話である」と言われます。
祈りを親しい会話にしたいなら感謝とお願いだけでなく、ぜひ”尋ねて”みましょう。

「祈りが応えを感じられない、理解できない」という不安を聞くことがありますが、
祈りの応えは必ず与えられ、繰り返すうちに気付くことができるようになります。

日常会話ではほとんどが無意識の気軽な質問であり、応える側も無意識ですが、
重要なのは”尋ねるので応えが返ってくる”ということです。

「あなたがわたしに尋ねたので…あなたは…真理の御霊に照らされた」教義と聖約6:15
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