モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

2020-04-29 07:11:38 | 今日の一言
何もしなければ
何も見つからない

何かをすれば
何かが見つかる



暇を持て余すのは”価値のあること”を何もしていないということです。
どうせ暇なのであれば何でもしてみれば… と思うのですが、いかがでしょうか。

求める気持ちのある人は、何でもよいから価値のあることを探し求めて行動し、
そのように行動する人は必ずそれを見出します。

そう信じない人は何も行わないし、信じる人は行う、
それだけの違いですが、その結果は…     想像にお任せします。
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福音を伝える

2020-04-29 07:07:11 | モルモン書
「わたしが…志すのは、人々が…神のもとに来て救われるように説き勧めること」1ニーファイ6:4

福音を信じている人は皆、福音を伝えたいと思っており、
福音を伝えることができたなら、双方ともに大きな喜びがあると信じています。

チャンスさえあれば神の救いを説き勧めたいと願っているのですが、
それと同時に「説き勧める」ことの難しさを感じていることも少なくありません。

福音について語るときに「これは福音です」という意味の前置きをすると、
福音を喜んで受け入れている相手の場合はよいのですが、
福音に対して理解がなく、偏見があるなら尚更、それは効果的ではないようです。
本題に入る前に拒否されて偏見が更に強まることもあり得ます。

「福音を伝える」という行為が、自己満足にならず、相手の気持ちを思いやることは、
関係を保つためのマナーかもしれません。
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預言

2020-04-27 21:57:38 | モルモン書
「御霊に満たされ…て預言し始めた」1ニーファイ5:17

「予言」と「預言」は混同されることがよくありますが、
予言とは将来を予測して言い当てることであり、
預言とは神から与えられる言葉を語ることです。

予言は多くの人が想像を掻き立てられ興味を惹かれる面白いものですが、
預言は神から与えられるごく平凡な教えに過ぎないことが多いのようです。

主を信じて御霊の証を受けることのできる人は預言を喜びます。
そのような人は自分自身も御霊を受けて預言しています。
気付かないうちに御霊によって与えられた言葉を語っているものです。

「御霊によって御言葉を受ける者は…御霊によって述べられるままにそれを受ける、
それゆえ説く者と受ける者が互いに理解し合い…教化されて、共に喜ぶ」教義と聖約50:21~

互いが神から与えられた言葉、つまり「預言」を語り合い、互いに教化されて喜び合う、
それが本来の教会の姿です。
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犠牲

2020-04-27 06:12:32 | モルモン書
「非常に喜び、犠牲…を主に捧げ、イスラエルの神に感謝した」1ニーファイ5:9

当時は神に感謝を示す意味でも犠牲として生贄を捧げたようですが、
そのような習慣がない現代、わたしたちは何を捧げればよいのでしょうか。

旧約の時代には形にして表すことが信仰の表れだったようですが、
イエスはこの世に生きたときに「心にして表す」ことを教えました。

「あなたは…神に…打ち砕かれた心と悔いる霊の犠牲を捧げなければならない」教義と聖約59:8
すなわち「悔い改めが神の求めている犠牲」ということのようです。

主を信じて感謝するなら悔い改めてバプテスマを受け、
主に近づきたいと望むなら常に悔い改めて生まれ変わることが求められます。

それは生涯を通じて犠牲としてわたしたちの捧げるものであり、主への感謝と愛の表れです。
言い換えれば「悔い改めようとしないなら主への感謝も愛もない」ということかも知れません。
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主の方法

2020-04-26 21:47:00 | 福音について
エジプトの地に七年の豊作があり、その後七年の飢饉が起こりました。(創世41~)
そのとき主はエジプトに救いを与え、そのことによってイスラエルを救いました。

なぜ主はイスラエルに直接の救いを与えず、異教の民であるエジプトを祝福したのでしょうか。
そのことについて考えてみる価値はあるかもしれません。
なぜならいつの時代にも同様のことがあるからです。

わたしたちはよく救いを求めて主に祈ります。
その祈りに応えて主は別の人に祝福を与え、”その人”の前にへりくだることによって
わたしたちに祝福がもたらされることは少なくありません。

”その人”に対して「怒りや赦せない気持ち」があったりすると
「どうして”その人”を通じての祝福なのか」といぶかしく感じてしまうこともあります。
心が高慢であるときにはその祝福を拒否してしまうことさえあるかもしれません。

なぜ主は祝福をもたらすためにそのような手段をとるのか、
その理由を知り、受け入れることができれば、その愛に感謝することでしょう。
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