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潜水艦「シルバーサイズ」〜第五恵比寿丸との死闘、ハービン3等水兵の死

2022-08-18 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに係留されてその姿を残す
第二次世界大戦中の最初の「ガトー」級潜水艦「シルバーサイズ」。

前回は、その進水式についてお話しました。
その後彼女は第一の哨戒に乗り出しますが、そこで
「シルバーサイズ」の歴史上、最も悲惨な事件が起こるのです。




■ 第一の哨戒  1942年4月〜6月

メア・アイランド海軍造船所で完成し、就役した「シルバーサイズ」は
カリフォルニア沖でのシェイクダウン(慣熟航行)の後、
ハワイに向かい、1942年4月4日にパールハーバーに到着しました。

4月30日、真珠湾を出発した「シルバーサイズ」は、
最初の哨戒のために日本近海へ向かいました。

【特設監視艇 第五恵比寿丸との遭遇】

最初の哨区の紀伊水道に向かう途中の5月10日6時ごろ、
日本本土からおよそ600海里、南鳥島の北に位置する海上でのことです。


北緯33度00分 東経152度00分付近

「シルバーサイズ」は1隻の漁船を発見しました。
しかしこれは、ただの漁船ではなく、戦時徴用船でした。

徴用船は、戦時において軍部から徴用された民間の漁船などで、
海軍の徴用船は特設監視艇として、
北東太平洋に展開している米軍を監視する役目を担っていました。

「シルバーサイズ」が発見したのは、日本の東方洋上を哨戒していた
第二監視艇隊所属の特設監視艇第五恵比寿丸(昭和漁業、131トン)で、
哨戒線の最南端付近を西に向かって微速航行していました。

ほぼ同時に「第五恵比寿丸」も南西約2,000メートルの位置に
「シルバーサイズ」を発見し、6時5分、

「敵潜水艦ラシキモノ見ユ 一隻」

と打電していました。

ちなみに、海軍は徴用船に海域の監視を行わせ、
アメリカ軍艦を発見した場合は無線で連絡させていましたが、
その無線内容はほとんど米軍に解読されていたため、
日本軍および徴用船の被害は拡大する結果になったと言われています。




【第五恵比寿丸との戦闘】

6時20分、「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」との距離が
右舷側後方約700メートルまでのところに接近すると、
3インチ砲と機銃で攻撃を仕掛けました。

この「3インチ砲」と言うのは、

3-inch/50-caliber gun

のことで、この「Mk.21」が1935年〜1942年にかけて進水した
「ポーポイズ」級、「ガトー」級の標準甲板砲として指定されていました。

「シルバーサイズ」の甲板砲は、コニングタワー後方に搭載されています。

「ガトー級」潜水艦の甲板砲は当初これが標準だったのですが、
(してその心は潜水の際の抵抗を減らすため)第二次大戦が始まると、
指揮官の選択により、前方に移動させることもありました。



しかし、現在「シルバーサイズ」に残されているこの艦砲は、

4-inch/50-caliber gun

戦争に突入すると、戦闘により大型の砲を必要になったため、
1942年後半から搭載された4インチ/50口径砲です。

「シルバーサイズ」はこの戦闘の時にはまだ3インチ砲を積んでおり、
「第五恵比寿丸」と戦ったのも3インチ砲だったのですが、
その後、搭載場所は後方のまま、4インチに換装されたものと思われます。



そもそもこの甲板砲もレストアされたものであり、
どこまで史実に正確かは議論の分かれるところかもしれません。



一応レストアした会社が責任を持って名前を名乗っています。


そしてこれが機銃となります。
ボフォース40mmで、見たところこれも載っているデッキは
つい最近改装されたようにピカピカの状態です。
ちなみにここには見学者の立ち入りは禁じられていました。


【マイク・ハービン水兵の死】

さて、「シルバーサイズ」と「第五恵比寿丸」の戦闘に戻りましょう。

「シルバーサイズ」はただの漁船と思ったかもしれませんが、
戦時徴用船で偵察の役割を担っていた「第五恵比寿丸」は武装しており、
搭載の7.7ミリ機銃と三八式歩兵銃で応戦してきたのです。

最新式の潜水艦であった「シルバーサイズ」は優速であることを生かし、
転舵して「第五恵比寿丸」の射撃圏外に逃れてから、
6時27分、3インチ砲弾で相手の無線機を破壊しました。

「第五恵比寿丸」の通信は最初に敵発見の報告をしてから
この破壊によって通信はそれきり途絶えてしまっています。

その3分後には艦橋に弾が命中し、「第五恵比寿丸」幹部は戦死。

その後「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」の左舷約300mに接近し
機銃掃射による攻撃を加え始めましたが、その時、
「第五恵比寿丸」は反撃を試み、3インチ砲砲座周辺が掃射され、
砲の装填を担当していた水兵マイク・ハービンが被弾しました。

ハービンはほぼ即死だったようです。


3等水兵 マイク・ハービン(Mike Harbin)


そして、これがマイク・ハービンが撮られた最後の写真となります。

マイクはちょうどデッキガンの後方から弾を押し込んでいる人物で、
説明によると「この直後死亡」ということなので、この写真は
まさに「第五恵比寿丸」との戦闘中、戦闘に参加していない乗員が
記録のために撮っていたものの可能性があります。

それではここで、「シルバーサイズ」乗員が語ったふうに綴られた
パネルの「第1哨戒」についての記述をどうぞ。

「最初のパトロールが始まって10日たったとき、
バーリンゲーム大尉(艦長)が最初の標的を発見しました。

小さなセイルスクーナーは魚雷を撃ち込むほどの価値はないとして、
艦長は乗員の銃手を集合させ、まず船首を横切るように
警告のショットを撃ち、相手に停止を求めるようにさせました。

ところがこの船は撃ちかえしてきたのです!

「シルバーサイズ」にとってこれが最初の哨戒でしたし、
全員が戦時下での任務は初めてのことだったので、
漁船がまさか反撃してくるとは夢にも思っておらず、
このことは乗員にかなりの衝撃を与えたと思われます。

この記述では「第五恵比寿丸」のことをスクーナーと呼んでいますが、
スクーナーの定義はマスト2本以上の「帆船」です。

「途端に銃担当の乗員たちは前後に走り、
弾丸を大きなデッキガンに大急ぎで押し込みました」


先ほどの写真はこの瞬間を捉えたものだったのでしょう。

「スクーナーの乗員は機関銃でわたしたちを攻撃してきました。
突然、オクラホマ出身の少年、マイク・ハービンが
甲板にどうと倒れ、そのまま動かなくなりました。

わたしたちは彼の身体が弾丸を受けないように庇いながら
彼に向かって起き上がるようにと叫びましたが、反応はありませんでした。

そして見張に向かって軍医に見せるようにと叫びましたが、
すでにそれは手遅れでした。
彼の受けた銃弾は、甲板に倒れる前にその命を奪っていたのです。」

不運なことに、マイク・ハービンへの一発は致命傷で、彼は即死でした。
おそらく自分が撃たれたことも気付かず死んだに違いありません。


【戦時徴用船 第五恵比寿丸】

「シルバーサイズ」の攻撃で「第五恵比寿丸」も操舵不能に陥りました。

戦死者、負傷者が続出していましたが、射撃を止めず、
7時20分には体当たりを企図して「シルバーサイズ」に突進してきました。

以前も当ブログで戦時徴用船の話を扱ったことがありますが、
彼らは、特に漁船の場合、最後の瞬間、必ずといっていいほど
相手を道連れにするために体当たりを試みています。

民間の漁師でありながら、軍に徴用された責任感が
彼らをしてそのような行動を当たり前のように取らせるのでしょう。

ちなみに「第五恵比寿丸」は焼津漁港所属の漁船でした。
焼津の漁業組合では、「宣戦の大詔に応え奉る」という言葉のもと、
自ら協力の願書を陸軍大臣 東条英機 宛に出された願書には

  「大東亜共栄圏建設の先駆たらん熱意を抱き、練成待機すること」

などとして徴用に積極的な姿勢で臨みました。

そしてその結果、焼津の大手船元、昭和漁業株式会社などは、
徴用船貸出し会社と化し、操業がままならない状況に陥りました。

漁港の80%の船が徴用されて帰らない状態だったのです。


「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」の体当たりを避けるため、
速力を上げて、7時55分頃に南西方向に向けて戦場を離脱しました。

この戦いで「シルバーサイズ」は3インチ砲弾約50発、
機銃弾を約4,000発消費し、うち砲弾13発、機銃弾多数を命中させ、
これによって「第五恵比寿丸」を大破させたものの、
「シルバーサイズ」自身も艦橋構造物に多数被弾しました。

「第五恵比寿丸」については焼津漁港の記録によると次の通り。

徴用年月 1941年8月
トン数 131トン
所管 海軍
艦隊等 第五艦隊
部等 監視艇隊
確認年月 43/4
消息 沈没
戦況・消失場所など 戦闘
戦死者数 31名

31名は、焼津漁港から徴用された戦時徴用船の中でも
最も多い戦死者数となりました。



【薄暮の海への水葬】

マイク・ハービンは、第二次世界大戦でのアメリカ潜水艦隊最初の、
銃火を交えた行為における戦死者となりました。

「シルバーサイズ」はその日の夜、ハービンを水葬で弔って送りました。

「私たちは、燃えるスクーナーの船体から離脱した後、
その日の日没の海に彼を完全な名誉を持って水葬しました。

このことはわれわれにとって手痛い出だしとなりましたが、
しかし、何人かの男たちは、

『マイクはこれからも、俺たちのことを
無事に帰還できるように見守ってくれるに違いない』

と言い合いました。」



「1942年4月30日に真珠湾を出港した『シルバーサイズ』は
その後いくつもの彼女の成功した哨戒の最初の任務として、
紀伊水道海域にある日本の本土に向かいました。

5月10日、現地時間の0800すぎ、潜水艦は3インチ砲を用いて
日本の砲艦に大きな損害を与えました。

TM3マイク・ハービンは、第二次世界大戦中に
潜水艦の最上部デッキで死亡した唯一の兵士になりました。

ハービン水兵はその夜海に水葬されました。」

砲艦ではなく漁船なんですが、殉職・戦死した者にとっては
武装漁船よりこのように表現した方が良かれと思ってのことでしょう。



「ハービンの家族はマイクの制服と共にこの花瓶と大皿を
五大湖海軍記念館と、マイクを偲ぶよすがをもつ博物館に贈りました」

マイク・ハービンの写真の横にあるこの花瓶には、
当時の「シルバーサイズ」乗員の名前がサインされています。

錨のマークの上にある「クリード・C・バーリンゲーム」は
艦長の名前となります。



「マイク・ハービンの思い出に 1942年8月10日」

と記された大皿にも、乗員全員のサインがされています。
当時は陶器の上に描くような塗料はなかったので、
おそらくサインしたものに釉薬をかけて焼いたのだと思われます。



現在4インチ砲がある当時の3インチ砲の左後ろ部分、
この写真でマイク・ハービン水兵が立っているところには、
このようなプレートがあります。


 DEDICATES TO THE MEMORY OF

MIKE HARBIN  

TM3 USN

KILLED ON THIS SPOT MAY 10 1942

BY ENEMY MACHINE GUN FIRE

アメリカ海軍三等砲手 マイク・ハービンの思い出に捧ぐ

1942年5月10日 敵の機銃砲火によってこの場で死亡



結局、「シルバーサイズ」は第二次世界大戦を生きぬきましたから、
その全艦歴を通じ、彼は戦死したたった一人の乗員となったのです。



続く。




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4 Comments

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特設監視艇 (お節介船屋)
2022-08-18 09:53:09
開戦時211隻在籍し、総計407隻となっていましたが終戦時約100隻となってしまいました。30t級から200t級まで様々な木造漁船を改造したもので100~150tと80t~90t級が多かった。乗員は準士官1名、下士官兵20名ぐらいであり、「第五恵比寿丸」の31名は多かったです。
本土東方海面、千島、アリュ-シャン水域、ソロモン、インド洋、内南洋、豪州北方水域等あらゆる海域での活動でした。出動期間は長く、地道で過酷であり、危険な哨戒任務で、兵装は7.7㎜機銃1基等貧弱であり、見張り兵器の8㎝双眼鏡さえ装備されていない艇も多かったとのことです。13㎜機銃や5㎝砲、爆雷数個を装備した艇も少数ありました。
最も重要な任務は本州東方海域で敵機動部隊出現に備えての布陣で1隊約40隻で3隊が編成されていました。

敵発見がそのまま艇の最後となることが多く、浮上潜水艦の砲撃や航空機の銃撃になんら有効な防御手段がなく、速力も10kt以下で、発見後逃げることもできませんでした。監視任務に服したまま消息を絶った艇が多くいました。
ただ食料政策上魚は必要であり、遠洋漁船や公官庁所有の漁業指導船、監視船が多く用いられましたが小型漁船の徴用は極力抑えら漁業は続けられ、後半は海軍が木造哨戒艇を建造しました。

参照文献光人社「写真日本の軍艦第14巻小艦艇Ⅱ」

米潜水艦は日本海軍が有効な対策を講じない戦訓から、1943年以降、水上砲戦による通商破壊を企図して7.6㎝砲から10.2㎝砲、12.7㎝砲を搭載しました。艦によってはより水上戦闘を重視し、砲の2基増備や艦橋前後に40㎜、12.7㎜、7.6㎜機銃装備した艦が多くありました。
1943年以降標準装備は後甲板12.7㎝25口径砲1基、艦橋前部40㎜機銃1基、艦橋後部20㎜機銃等でした。

潜水艦は僅かな損傷でも潜航が出来なくなる性能にも関わらず、日本海軍の対潜戦は全く有効な対策が実施されず、上記を見ても情けなくなります。

参照海人社「世界の艦船」アメリカ潜水艦史
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初戦だから「所詮」 (Unknown)
2022-08-18 13:01:26
>ちなみに、海軍は徴用船に海域の監視を行わせ、アメリカ軍艦を発見した場合は無線で連絡させていましたが、その無線内容はほとんど米軍に解読されていたため、日本軍および徴用船の被害は拡大する結果になったと言われています。

通信を複数局で傍受し、発信源の方位測定を行えば、方位線の交点が発信源になります。米軍から見て、味方がいないと思われる場所が発信源なら、日本軍の可能性が高いので、必ずしも暗号を解読出来なくても、日本軍の位置の特定は出来ます。

>その後「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」の左舷約300mに接近し、機銃掃射による攻撃を加え始めましたが、その時、「第五恵比寿丸」は反撃を試み、3インチ砲砲座周辺が掃射され、砲の装填を担当していた水兵マイク・ハービンが被弾しました。

距離300メートル。揺れる海上で7.7mmを命中させるとは「第五恵比寿丸」の射手はゴルゴ13並みです。1998年の九州南西沖での北朝鮮工作船追跡時にも、北朝鮮の工作船は距離250メートルで、巡視船の船橋に多数の命中弾(AK-47小銃。7.7mm)を得ています。

>この戦いで「シルバーサイズ」は3インチ砲弾約50発、機銃弾を約4,000発消費し、うち砲弾13発、機銃弾多数を命中させ、これによって「第五恵比寿丸」を大破させたものの、「シルバーサイズ」自身も艦橋構造物に多数被弾しました。

初回だから仕方ないですが、長さ131メートルの漁船に3インチ砲弾50発も発射って、ヤバい(練度が低い)ですよ。水線付近に2、3発命中したら、沈みます。射距離数百メートル。恐ろしく命中精度は低かったことになります。
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練度低かった件 (エリス中尉)
2022-08-20 02:13:04
指摘されて初めて弾数に気がつきました。
ただの漁船だと思って油断していたところを撃ち返され、しかも序盤でハービン水兵がやられてしまったので、パニクったんでしょうね。
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補足(3インチ砲) (Unknown)
2022-08-20 08:56:38
二枚目の上甲板を写した写真ですが、レンコン状の丸いものに穴が十個開いているのは、3インチ砲弾の砲側格納庫(即応弾格納庫)です。「撃て」と言われると、まずはここを開いて、装てんし、撃ちます。見た目開いているのが二つ。真ん中は閉じているので、即応弾は合計三十発となります。これでも足りない場合、その前(船で言うと艦尾側)に写っている揚弾筒で、艦内の弾薬庫から弾を揚げて装てん、発射します。

ハービン水兵は恐らく、一番下っ端だったでしょうから、この砲側格納庫から弾を引き出して、実際に砲に装てんする装てん手に手渡す役目だったと思います。一発7キロくらいあるので、装てん訓練を毎日やると、結構ムキムキになります(笑)

自衛隊では、すべて自動装てんになってしまったので、もうやりませんが、以前は「シルバーサイズ」と、見た目はかなり違います(砲塔が付いている)が、装てんや発射機構は同様の3インチ砲を保有していたので、当時は新人が来ると夕食後は大抵、装てん訓練でした。装てんの速さが発射速度を左右するからです。慣れると、一発5秒以内で装てん、発射出来ます。

砲には台長(右側に座る)と左操作員(左側に座る)が付いて、台長が旋回ハンドルを操作して、砲を目標に向け、左操が俯仰(上下動)ハンドルを回して、俯仰角を調整しますが、射距離300なら、ほぼ水平でしょう。目標も「シルバーサイズ」も動揺するので、一発必中とは行かないと思いますが、50発も撃たないでも当たりそうな気がします。
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