ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「晴嵐」に刻まれた落書き〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-06-30 | 航空機

いきなりですが、このブログでお話しした映画「海底軍艦」
ストーリー設定を覚えておられるでしょうか。

敗戦を受け入れない海軍軍人たちが終戦後、伊号403で南方に向かい、
そこで海底軍艦轟天号を秘密裡に建造するというもので、
彼らが乗り捨てた伊号403は敵となるムウ帝国に鹵獲され、
その神殿に神々しく飾ってあるというものでしたね。

海底軍艦「轟天号」のインスピレーションの元となったのは
実在した日本海軍の潜水艦伊400型であることになっていたわけです。

伊四〇〇型潜水艦は第二次世界大戦中に就航した潜水艦で最大であり、
特殊水上戦闘機「晴嵐」を3機搭載することが可能な潜水空母でした。

2012年、人民海軍の032型が竣工するまで史上最大だったこの潜水艦は
理論上地球を1周半航行可能であり、日本から地球の何処へでも
攻撃を行なって日本にまた帰ってくることが可能とされていました。

終戦間際に三隻が完成しましたが、連合国はその存在を知らず、
終戦を受け入れて内地に帰る時に2隻の四〇〇型を拿捕したアメリカ軍は
その大きさにさぞ驚愕したことと思われます。

400 submarine 

帰投命令を受けアメリカの駆逐艦「ブルー」に接収され、
横須賀に回航中のフィルムが残されているのでこれをご覧ください。

「ブルー」の甲板から写した伊400には多くのアメリカ軍人が乗り込み、
士官から説明を受けている様子も見ることができます。
拿捕された伊400の艦尾には星条旗が揚げられていますが、
日本海軍の旭日旗は降ろさずにそのまま並べて揚げたままです。

これをわたしはアメリカ海軍軍人たちの敬意の表れと見ますがどう思われますか。

さて、アメリカ人が驚いたのは伊四百型の大きさだけではありませんでした。
航空機を搭載し、敵地近くまで潜行して行き航空攻撃を行う。

同じことをするのにアメリカが何万人もの兵士の命を犠牲として
サイパン、グアム、そして硫黄島を奪取しようとしたわけですが、
この攻撃法はそんなアメリカにしてみれば

「その考えはなかったわー」

というべき視点に立った武器だったと言えます。

さて、それではスミソニアンの解説はどうこの潜水艦搭載型
水上戦闘機を説明しているでしょうか。

愛知 M6A1「晴嵐」CLEAR SKY STORM

愛知航空機のチーフエンジニア、尾崎紀男は、潜水艦に搭載し
作戦展開させる爆撃機の要件を満たすためにM6A1 Seiranを設計しました。

アメリカ本土やパナマ運河のような、日本から数千キロ離れた
戦略目標に潜水艦空母の艦隊で近づき直接攻撃するための航空機です。

この航空機/潜水艦システムは航空技術と海洋技術を巧妙に組み合わせたものでした。

米国が第二次世界大戦に参加する前に、日本海軍はすでに潜水艦から
偵察機を運航しており、そのうちの1つは実際にアメリカ本土を爆撃しています。

1942年9月9日、潜水艦伊-25からカタパルトによって打ち上げられた
横須賀工廠E14Y1 グレン(連合国コードネーム)偵察用水上機が、
オレゴン州沿岸の森林に4つの即席リン爆弾を投下したのです。

その5か月前、日本海軍は伊新しい潜水艦空母伊四〇〇型の製造を命じました。
海軍の計画では大艦隊を想定していましたが、最終的には
伊-400、伊-401、伊-402の3機しか完成しませんでした。

この3隻の潜水艦は1962年に原子力潜水艦「USSラファイエット」ができるまで
かつて建造された最大の潜水艦でした。

伊-400潜は6,560トン、巡航速度は18.7ノット。

それぞれ3機の「晴嵐」を防水コンパートメントに搭載し
60,000 kmの航続距離を持っていました。

AMクラス(伊13型)と呼ばれる、より小さな日本の潜水艦も
2機の「晴嵐」を運ぶために改装されました。

この巡潜甲型(旗艦)を建造していたのも改装したのも、
神戸の川崎重工業株式会社です。 

それにしても改めて驚くのは「晴嵐」の機体の大きさです。
隣にはB-29の翼の下に紫電改がいますが、どう見てもこれより大きい。

これを折りたたんで3機も搭載できた潜水艦の大きさとは、一体・・・・。
って感じです。 

伊-400プログラムを開始した直後、海軍は愛知航空機に
プロトタイプ特別攻撃機M6A1の開発を指示します。
最高技術責任者の尾崎は、ここで野心的な挑戦に立ち向かいました。

つまり250 kgの爆弾または800 kgの魚雷を牽引し、投棄可能なフロートで
少なくとも時速474 km、フロートなしで559 km出せる航空機。

海軍はまた、3台の「晴嵐」を組み立てて飛ばすのに
30分以内でなければならないと規定しました。

尾崎は機体が直径3.5 mの円筒形の格納庫の中に収まるように、
2つのフロートを取り除いたときに主翼桁が90度回転するよう設計しました。
翼を回転させた後、胴体に対して平らになるように折りたたむことができ、
水平尾翼の両側の約2/3も、垂直尾翼の先端と同様に折り畳めます。

すげー!(笑)

いやー、細かい工夫、特に省スペース技術にかけては日本人に勝るものはない、
と兼ねてから思っていましたが、まさに本領発揮って感じです。

ちなみにフロートなしの「晴嵐」を搭載する場合、機体は回収できないので
一旦射出すれば使い捨て、ということになります。

日本の美しい言葉「勿体無い」はどうした、とつい問い質したくなりますし、
その場合搭乗員はどうやって帰還させるつもりだったのか・・。

 

愛知航空機は1943年10月に最初のプロトタイプを完成させ、
11月に飛行試験を開始しました。
1944年2月、2台目の試作機がテスト飛行を行なっています。

初期の結果が満足のいくものだったため、海軍は
愛知が残りの試作機を納入する前に生産開始を命じました。

しかし、1944年12月に発生した大地震(昭和東南海地震、震度6震源津)
が生産ラインを激しく混乱させた後、進捗は事実上停止しました。
さらにB-29爆撃機が空襲を行うようになり、プロジェクトはさらに混乱。
1945年3月には戦況がさらに悪化したため、潜水艦計画は縮小されました。

最初の伊-400は1944年12月30日、伊-401はその1週間後に完成しました。

しかし、伊-402は潜水艦の燃料タンカーに改造され、
実質作業は伊-404と405で終了することになったので、
自然と「晴嵐」の生産計画もまた縮小されることになりました。

最終的に26台の「晴嵐」(プロトタイプを含む)と「晴嵐」を陸上機化した
「南山」2機、合計28機が生産されています。


ちなみに地震大国の悲劇というのか、戦争中でもおかまい無しにこの国は

鳥取大震災(昭和18年9月10日)マグニチュード7.2

東南海地震(昭和19年12月7日)マグニチュード8

三河地震(昭和20年1月13日)マグニチュード6.8~7.1

と短期間に三つの大地震に見舞われています。
まさに泣きっ面に蜂。
三河地震は特に軍需工場地域が被災し、まともな被災者数も
情報統制で明らかにされませんでした。

 

海軍上層部は、伊-400と401、2隻のAMクラス潜水艦、伊-13と14、
そして10機の「晴嵐」爆撃機から構成される第1潜水艦艦隊と
第631航空隊を編成し、指揮官にキャプテン・タツノケ・アリズミ
(有泉龍之助大佐のこと)を配置ししました。

海上試運転の間、部隊は「晴嵐」の組み立て時間を
少しでも減らすために猛訓練を行い、最終的に、乗組員は15分以内に
3機の航空機を(フロートなしで)発射させることができました

スミソニアンの解説には本当に「!」が付いています。
揺れる潜水艦上でネジ一本無くしても成り立たない航空機の組み立てを
分単位でできるような日本人の器用さなど一切持ち合わせないアメリカ人にとって、
何十年も経った今でも、この事実は驚異でしかないのでしょう。

ここで、わたしが先ほど呈した疑問への答えが出てきます。

この作戦の欠点は、「晴嵐」はフロートがないと安全に着水できない事です。
その場合、パイロットは潜水艦の近くで飛行機を捨てて水に飛び込み
救助を待つしかありませんでした。

やっぱり・・・・。

 

伊四百型と「晴嵐」の運用はおそらく第二次世界大戦中でも
最も野心的な戦略だったといってもいいでしょう。

日本海軍は、第1潜水艦小艦隊に搭載した第631航空隊を使用して、
パナマ運河を破壊することを考えました。
計画立案者は6つの魚雷と4つの爆弾でガトゥン閘門を攻撃するために
「晴嵐」を10機割り当てました。
パイロットは真珠湾を攻撃する前に彼らの前任者がしたように、
運河の閘門の大きな模型をつくり重要な特徴を記憶しました。

しかしそうこうしているうちに英米の艦隊は移動していることがわかり、
目標はウルシー環礁に停泊しているアメリカ軍艦隊の攻撃に変更されました。

1945年6月25日、有泉は「光作戦」の命令を受けました。
この計画は6機の「晴嵐」と4機の 偵察機「彩雲」を必要としました。

これは結果的に特攻作戦でした。

伊-13と14はそれぞれ2機のMYRT「彩雲」を運び、それらをトラック島で降ろします。
偵察機はウルシーのアメリカ艦隊を偵察し標的の情報を「晴嵐」に伝えると、
6機の「晴嵐」が最も重要な標的、すなわち
アメリカの空母と輸送船団に対して神風攻撃を仕掛けるのです。

しかしこの作戦はトラブルに見舞われます。

2機の「彩雲」が乗っていた伊-13は、空爆で損害を受け、
その後アメリカの駆逐艦に撃沈されてしまいます。
伊-400は旗艦からの重要な無線を逃し、間違った合流点に行ってしまいました。

そうこうしていた1945年8月16日、有泉司令は終戦の知らせを受け取ります。
乗組員は「晴嵐」のフロートに穴を開け、海中に投棄しました。

この時、伊−400の乗組員は10分で「晴嵐」3機を組み立て、
エンジンを停止し翼を畳んだ無人のまま射出したそうです。

有泉司令は弾薬、秘密書類を投棄させた後、艦内で自決しました。
自室の机には真珠湾攻撃で戦死した九軍神の写真があったということです。

国立航空宇宙博物館のM6A1は、最後に作られた機体(シリアル番号28)で、
今日でも唯一の現存する「晴嵐」です。

アカツカカズオ海軍中尉は福山から横須賀までこの「晴嵐」を輸送し、
そこでアメリカの占領軍に引き渡しました。
航空機はアメリカに輸送され、カリフォルニア州アラメダの海軍航空基地で
定期的に展示されていました。
その後1962年11月にメリーランドのガーバー倉庫に到着しましたが、
屋内の表示/保管スペースが利用可能になるまで12年間屋外で保管されたままでした。

修復作業は1989年6月に始まり、2000年2月に終了しましたが、これらは
スタッフの専門家チーム、多くのボランティア、そしてGarberと日本で働いている

何人かの日本の関係者の傑出した作業のおかげです。

製造図面は残っていなかったため、修復チームはいくつかの欠けている部品を
正確に再現するために様々な航空機システムの徹底的な調査を行いました。

彼らは、独創的なものから不条理といえるようなものまで、
「晴嵐」に組み込まれた興味深い設計機能を見つけました。

この遺産はまた、戦争末期に日本の航空業界を悩ませていた
「困難な労働条件」を表していました。

つまり、働き手を戦線に奪われたために専門職の労働者が不足し
現場で作業に当たっていたのが女子高校生だったりして、
品質と技量は深刻なくらい劣化しているのが明らかな上、
工場が爆撃に度々見舞われていたことを示す証拠さえありました。

例えば、工場が爆撃されてできたらしい金属製のフラップの損傷が
布のパッチで応急的に覆われていた、などということです。

またスタッフは燃料タンクの内部に書き損じが貼られているのを発見しました。
部品の基本的な装着と配置もあちらこちらで不十分と見られました。

翼からは誰か・・おそらく作業をした学生でしょうが、彼なり彼女が
引っ掻いて記した完璧な英語のアルファベットが見つかりました。
のみならず機体のさまざまな場所から
工場で彼らが刻んだらしい落書きが見つかっています。


そして、驚くべきことに、フロートが「投棄可能である」となっていた
設計者の主張にも関わらず、実際の機体からはフロートを切り離すことができる
という証拠はどんなに精査しても見つけることはできませんでした。

愛知航空機は、「晴嵐」生産終了間際には、すでにこの機能を廃止し、
フロートは投棄しないことにしてしまったのかもしれません。


徴用されて労働していた学生たちは、自分の組み立てる機体に
作業の合間にこっそりなんと落書きをしたのか。

戦争中で、しかも軍の飛行機を作っているのにやっていることは
子供っぽく、まるで今の高校生みたいだなあとスミソニアンの修復員たちも
苦笑したか、それとも、そんな学生たちが現場で労働しなくてはいけなかった
当時の日本の追い詰められた国情に思いを馳せたかもしれません。

 

続く。



エクストリーム・クーポニング〜アメリカのテレビ番組

2019-06-29 | アメリカ

うちにはテレビがありません。

20年近くそうやって暮らしていますし、ホテルに泊まったときでも
映画を観るときくらいしかテレビというものの存在すら思い出さないのが普通です。
たまにホテルで映画を見ようということになって、モードを変える前、
バラエティ番組の音声やナレーション流れただけで、申し訳ありませんが
ものすごく不快な気分になるというくらいのアンチテレビ派なので、
当然ながらタレントや俳優の名前と顔はほとんど一致しません。

それで不便なことなどまずないので、これからもそうだと思いますが、
アメリカにいるときだけは、テレビを付けて、流行りの番組をチェックします。

全てはネタとしてここでお話ししようという下心あってのことです。

長寿番組で、ネタゲットの意図を抜きにしても、付けてしまったら
何とく観てしまうのが、「Ninja Warrior」。
日本の番組「サスケ」のアメリカ版です。

番組でよく「ミドリヤマにいくぞ!」と行っているのですが、それは
本家「サスケ」の収録場所である緑山スタジオ・シティのことらしいですね。

この日はご覧のように超イケメンの日系アメリカ人が登場したので撮っておきました。

「サスケ」ではどうか知りませんが、アメリカでは出場者のバックグラウンドや
ストーリーを加えて散々盛り上げて本番というのが定石です。

彼の場合、いとこがガンの治療を受けたということが、
わざわざエピソードとして紹介されております。

こういうのに出てくる人は大抵何か専門のスポーツをやっているのですが、
このトシオさんの場合はロッククライミング、柔道、大道芸など種目多数。

チャレンジが始まると、たとえ最後までいっても数分で終わってしまうので、
バックグラウンド紹介などに時間をかけないと番組が保たないのです。

ガタイもいいし、平井堅風というか彫りが深くエキゾチックですが、
アメリカ人から見ると一目で「アジア系」に属する風貌となります。

そしてほとんどのアメリカ人女性は彼のようなタイプを

「キュート!」

と評するに違いありません。

ここで初めて彼がトシオ・シドニー-アンドウであることが明らかになりました。

Toshio the Ninja Warrior.mp4

調べてみたらこんなYouTubeが見つかりました。
いやー、肉体エリートというのはいるもんですね。

さて、お次。
英語でおめでたのことを「エクスペクティング」と言いますが、
これは「期待する」「予定する」という意味合いです。

それに否定の「UN」をつけることで「予期せぬ妊娠」。

そのつもりがないのに赤ちゃんができてしまい、産むことを選んだ女性を取り上げ、
現在進行形でその周りの人々や起こる出来事を描くドキュメンタリー。

マッケイラさんは17歳で母親になることを選択しました。

しかし化粧がケバい。
お母さんと病院にいく車の中で、なぜか

「駐車の仕方なんてわからないのよ!ちゃんと習ってないし」

としょうもない喧嘩をしておりますが、撮影のカメラがあってもお構いなしなんですね。

駐車の仕方がわからない、という話ですが、確かにアメリカの免許の実技は
どこか駐車場とか空き地などで同乗者を横に乗せ練習して受けにいくと、

これもモールの周りを警官が同乗して一周するだけでもらえるというものなので、
パーキングに入れられない初心者は多いと思われます。

妊娠している17歳が車の運転をする、というのは日本ではあまりない例かもしれません。

マッケイラさんもあと13年くらいでこうなってしまうのか。(しみじみ)
彼女の心配はもちろん父親も17歳であることです。

これがお父さんですよ〜。

なのでこれから大変、というような話がデレデレと続きます。
が、ここまでしか観なかったのでこの話はおしまい。(投げやり)


さて本題、今日ご紹介するのは、新聞やパンフレットに印刷されている
クーポンを駆使して、安く買い物することに命をかけている人を
紹介する、

「エクストリーム・クーポニング」(EXTREAMING COUPONING)

という番組です。
クーポンを使うという意味でクーポニングと言っているのでしょう。
もちろんクーポニングという動詞は存在しません。

そして今日もクーポニングに命をかける人たちが買い物にやってきました。

アンジェリークさんはとにかくクーポンが使えるものだけを買う主義。

アメリカのスーパーマーケットは、このように子供を乗せられる
バギータイプのカートがあります。
普通のカートも大きくて、一週間分の食物を搭載するのは楽勝です。

食べ物が終わったら次は日用品。
ちょっと待って?なんで歯磨き粉をそんなにいっぱい買うの?

爪磨き(エメリーボード)毛抜き(ツィーザー)まで買い込んで、
今のところ合計は約380ドル。(4万円くらい)

これはまだまだ途中経過ですので念のため。

アンジェリークさん、ドキドキのお勘定です。(そこですかさずコマーシャル)

オーマイガー、合計15万円7千円になりました。

彼女らの持ってくるクーポンとはこんな感じのものです。

別の家族ですが、やっぱり「クーポニング」のある主夫の家庭では、
家族全員がハサミでクーポンを切ることを強制されています。

おばあちゃんは娘にクーポンを切ることを強制されていて、
手を休めると文句を言われるのだとか。
老後の生活をこんなことに忙殺されて一体何を思うのか。

というかこのおばあちゃんのTシャツが・・・

「危険 次の5分で機嫌が変わる!」

このシャツ、アメリカでは結構流行っているようです。

「というわけで、合計は2123.5ドル(約23万6千800円)です」

スーパーマーケットで何を買えばそんなに・・・・。

ここにクーポンを入力していくわけですな。
いつの間にかスーパーの従業員が集まってきて皆で見物する騒ぎに。

ほとんど息を飲んでレジを凝視しております(笑)

「トータルはマイナス33.64ドルになりました」

マイナス?
クーポンを使えば、マイナスもありなんですか?
マイナスが出たらそれはどうなるかというと・・・。

なんと、ギフトカードをマイナス分もらえるらしいですよ。
どうして金額がまた増えて57ドルになっているのかはわかりませんが。

20万分買い物してさらにギフト券をもらえてしまう、こんなのなら
誰でもやってみたいと思うのかもしれません。

周りに詰め掛けて見物していた従業員一同が拍手。
みなさん仕事はもうしなくていいんですかね。

レジ係も彼女をハグして検討を称えます。ってなんでやねん。

荷物をお店のオーナーらしき人物は車に運ぶのを手伝ってくれます。
クーポンのシステムというのをよく知らないのですが、お店にすれば
別に損にはならないということなんでしょうか。

こちら別のクーポンマニア、ミッシーさん。
たった18ドルでこれだけのものを手に入れたの、とご満悦です。

ミッシーさんはどうやら右側の女性と同棲しているLGBTな方である模様。
今日は集めに集めたクープポンを持ち満を辞してのお買い物です。

「クーポン783枚あるのよ」「ええ〜」

そのうちスキャンできないクーポンは775枚。
ということは彼女らはそれを手打ちしないといけないということです。

(-人-)ナムー

とりあえずお勘定ですが、941ドル40セントとなりました。
さっきと比べると大したことないと思ってしまいますが、10万くらいです。

長く伸びたレシートで遊んでおられますが・・・。
そういうこともあって閉店後に撮影したのかな?

クーポニングの結果、お代金は30ドル85セントになりました。

 

ただちょっと気になりませんか?
スーパーで何にそんなにお金を使えるのでしょうか。

 

わたしがこのクーポニングを冷笑的に見てしまう理由がこれです。
とにかく彼女らは、同じものを大量に買い込んでいるのですが、
12個のプロテインバー。これはわからんでもない。

もちろんわたしは1本以上同時にバーなど買ったことがありませんが。
(それもなぜか食べると胃が痛くなるのですぐにやめた)

しかしこれはどうなのと。
40本の痛み止めクリーム。
どこの痛みに使うものかは知らないけど、そんなもん40本もいるか?

全身が痛むならともかく、痛みがある患部にだけ塗るためなら、
おそらく一生かかってもなくならないのでは?

それに一応消費期限てものもあるよね?

95の生理用品。というかカゴにものを放り投げるんじゃない!

おそらくこれも使い切らないうちに・・いやなんでもない。

それそんなにたくさん必要?と思えるものばかり買い込んでるわけです。
586ドルが30ドルになれば確かにマニアとしては嬉しいかもしれませんが、

メントスとかリーズとか、こんなに溜め込んでどうするの?
毎日これを一つづつ片付けていくの?

でも、アメリカ人はそんなことまで考えていません。

とにかくスポーツの試合のように、クーポンによって多額の買い物が
マイナスにでもなろうものならそれでグレイトなのでしょう。

見物していた従業員やお客が拍手するのもそういったスポーツ観戦的な感覚です。
このテレビショーはたちまち有名になり、人気が出たそうなので、
撮影を皆が楽しんでいるようです。

戦利品に囲まれてうっとりするニコルさん。
しかし2000個のライナーを使い切る前にまたクーポンで買い物してしまいませんかね。
毎日使ったとしても6年かかるわけですが、そもそもライナーって
毎日洗濯するのなら滅多に必要になんかなりませんよね?

こんな馬鹿げた買い物に皆が喝采するのも、アメリカの家が広くて、
そういったものを収納するストアージのスペースに困らないからに他なりません。

「ミニマリスト」や「断捨離」などという言葉が流行る日本では
全く理解できないテレビ番組であることだけは確かです。

この洗剤を見てわたしはやっぱりこいつら理解できん・・・と思ってしまいました。
2800回分ってことは、毎日洗濯しても8年・・・。

いや8年前の洗剤っていくらなんでも品質的にどうなのよ。

 

というアメリカ人の煩悩のありようをあからさまに見ることができる番組ですが、
実は、もっと「変な番組」が次々と登場しているのがこの国の恐ろしいところなのです。


また日をあらためてご紹介しようと思います。

 

 


トロフィーポイント〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

2019-06-27 | アメリカ

 

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学ツァーは、チャペルに始まり、
将来の陸軍指揮官がゴルフやサッカーをしているスクールヤードまできました。

バスを停めたまま、ガイドの男性は皆をハドソン川の見える河岸に案内していきました。

ウェストポイントの象徴ともいえる石碑が見えてきました。
これは「バトルモニュメント」といい、南北戦争のあと、戦死者の顕彰を目的として
生き残った退役軍人などの出資で建立されました。

ハドソン川を臨む峡谷の上一帯を、「トロフィーポイント」と呼びます。
昔のまま残る芝の上、樹齢を重ねた大木が作る爽やかな日陰には、
ご覧のようにアメリカ陸軍が使用した大砲などが展示されているのです。

トロフィーポイントは、

「1812年の戦い」

「独立戦争」

「米西戦争」

などのエリアに分かれていて、各ゾーンには
その戦争で使用された武器などが置かれています。

看板に書かれた説明によると、大砲はほとんどが戦争で鹵獲したもので、
ここにある中で一番古いのは1812年の「サラトガの戦い」のものだそうですが、
残念ながらそれがどれかまではわかりませんでした。

独立戦争へと繋がっていく「アメリカ革命」の頃には、ここウェストポイントには
160もの大砲があり、武器研究に使われた後は候補生部隊が訓練のために使用しました。

ゾーンごとにいつの戦争の武器か決まっているということですが、
個体には何の説明もついていません。

この一帯を「トロフィーポイント」というのは、キューバ、フィリピン、
そして米西戦争で得たトロフィーが置いてあるから、という説明ですが、
ここでいう「トロフィー」というのが具体的にどれかはわかりませんでした。

第一次世界大戦以降のトロフィーは、この後見学したウェストポイント博物館に
全て展示されている、ということでしたが・・・。

アメリカの学校組織は同窓会を「クラスオブ〇〇年」と呼び、例えば
このモニュメントを寄贈した「クラスオブ1934年」はその年に卒業したという意味です。

入学した時からこの名称が付与されるので、今年2019年に入学した学生は
その瞬間「クラスオブ2024」と呼ばれることになります。

1930年に入学したこのクラスは、1984年、全員が70を超えて、
ここトロフィーポイントに記念碑を寄贈しました。

彼らはその後第二次世界大戦で、欧州に、そして太平洋で戦い、
少なくない指揮官が戦死したことでしょう。

この碑文中、「かつて我々が卒業したALMA MATER」
とありますが、このアルマ・マータとは、ギリシャ語由来で、
欧米では「自分を育んだ母校」という時に(主に文章で)使われます。

ここは米西戦争のエリアです。
この隣にあった説明を読んで、初めて「トロフィー」が何かわかりました。

「ここには三つのトロフィーがあるが」

つまり、戦闘で獲得してきた相手の武器をもって「トロフィー」と言っとるのです。

それを念頭に”trophy”をあらためて検索してみると、我々日本人のイメージ、
『コンテストなどでもらえるカップ』というのは一つの派生的な意味に過ぎず、

戦利品; 戦勝[成功]記念物 《敵の連隊旗,シカの角,獣の頭など》

こちらが第一義となる意味だったのです。

なるほどー、戦利品か。
俗に「トロフィー・ワイフ」などというあれは、こちらの意味なのね。

ご存知ない方に説明しておくと、トロフィーワイフとは、男性が社会的に成功してから
その地位なり財産なり名声なりを利用してゲットする若い美人妻のことです。

ちなみに日本ではトロフィーワイフのために糟糠の妻を捨てる男は
女性からはもちろん男の側からもあまり評価されないようですね。

女性に対しても「金と地位目当て」という眼が向けられるのは、これはもう
ご本人たちには気の毒ですが、致し方ないかなという気がします。

ということは、これはスペイン軍の大砲なんですね。

米西戦争は、キューバに侵攻したスペイン軍が現地でやらかしたのをネタに
アメリカがハーストなどのジャーナリズムを使って煽り、国民を焚きつけ、
まず世論を形成しました。

当時キューバとフィリピンに権益のあったアメリカの実業界は開戦を望んでいたのです。
ちょうどその時偶然()ハバナでアメリカの戦艦「メイン」が謎の爆発を起こしたので、
アメリカは、ここぞと、

「リメンバー・メイン!スペインを地獄に!」

を合言葉に戦争に突入しました。
(アメリカ史をご存知の方は、この『リメンバー』が真珠湾だけでないことを

よおおおおっく知っておられると思います)

ここは独立戦争のエリアです。

ここにはハドソン川を閉鎖するために使われた防鎖が展示されていて、
これがウェストポイントにとって独立戦争のシンボルとされています。

「ハドソンリバー・チェイン」とか「グレート・チェイン」と言われるこの鎖は、
イギリス軍のハドソン川帆走を防ぐために河に渡された文字通り「防鎖」です。

ここにチェーンが実際に渡されたわけです。

これが現在のウェストポイントとハドソン川。
ここに残されている以外にも、コネチカットのコーストガードアカデミーに
鎖のごく一部が展示されているのを見たことがありますが、
ほとんどは使用後、溶解されてリサイクル処分になったということです。

全体的に綺麗すぎるので、砲筒以外の部分はレプリカかもしれません。

ハドソン川を臨むポイント付近では業者がメインテナンスを行なっていました。

見学客に「グレートチェーン」の説明をしているツァーガイドは
退役軍人で、かつてここで訓練生活を送っていた人です。

アメリカでは軍人恩給があるのでリタイア後は悠々自適ですが、
ボランティアとしてツァーガイドを引き受ける人は多そうです。

ガイドに案内されて、ハドソン川を臨むビューポイントに近づいていきます。

この一帯は1812年戦争のエリアのはず。

1812戦争とは、アメリカとイギリスの間に起きた戦争のことです。
米英が奪い合った土地がネイティブインディアンの土地でもあったことから、

アメリカ対イギリス・カナダ・インディアン連合軍

の戦いとなりました。
くのインディアン部族は虐殺され、その土地はアメリカの植民地になります。

先ほどフィールドに舞い降りたヘリは、陸軍の偉い人が用事をしている間、
ここでひっそりと帰りを待っている模様。

かつてチェーンが張られたポイントを一望できる高台に展望所があります

「イギリス艦隊は二度とウェストポイントに接近することも
鎖を突破することを試みることもしようとしなかった」

1938年に卒業したクラスの生存者によって建造された岸壁の碑文には

「祖国のために戦い傷つき、あるいは捕虜となって死亡した旧友の魂が
この自然美に囲まれた神聖な我々の魂の故郷にとどまらんことを」

対岸は「コンスティチューション島」。
島というより突き出した半島ですが、根元が水路で絶たれているので一応島です。

ここに見えている家屋は、グーグルマップで確認する限り廃屋のようです。
ついでにグーグルマップには同じポイントのこんな瞬間が捉えられていました。

船着場近くの簡易トイレを待つ候補生たち。

解説を受けている間に近づいてきたのはカリブ海のイギリス連邦、
アンティグア・バーブーダ船籍の貨物船です。

クラスツリーとして、記念植樹をするクラスもあります。
1981年に卒業したクラスが卒業記念に植えました。 

 独立戦争で交戦したイギリス軍が降伏した時に召し上げた戦利品の一部。
1779年7月16日という日付がかろうじて読み取れます。

AMPHITHEATERとはローマの円形劇場のことですが、ここにもそれがあります。
野外コンサートが行われるようです。

バトル・モニュメントを近くで見ました。
南北戦争が終わってから、戦死者を顕彰するため1897年に建てられました。

「長い灰色の線」にも登場します。
「星の降るクラス」の卒業式で証書をもらうアイゼンハワー。

日本と開戦が決定してすぐに士官に任官するクラスの「宣誓式」もここで。

根本にある大砲には、南北戦争での有名な戦いの名前がつけられています。

「長い灰色の線」で、上級生がプリーブ(新入生)にいきなり質問する慣習が
描かれていますが、このバトルモニュメントについての質問も定番で、

"How are they all?"

(彼らは全員どうしている?)

"They are all fickle but one, sir."

(一人を除いていなくなりました)

"Who is the one?"

(その一人とは誰か?)

"She who stands atop Battle Monument,
for she has been on the same shaft since 1897;" 

(バトルモニュメントの上に立っている彼女であります。
彼女は同じ円筒の上に1897年からずっと立っています)

というやりとりがされたものだそうです。
『たった一人ずっと経ち続けている彼女』とはもちろんモニュメントの上の女神のこと。
今はそういう「問答」そのものが行われなくなったらしいですが。

これで構内ツァーは終わり。
出口のウェストポイント博物館までバスで移動です。

車窓からは士官候補生が戦闘服で移動している姿を見ることができました。
今見えている二人は男女ですが、ウェストポイントは学内恋愛は奨励されないがOKだとか。

降りる時にツァーガイドにチップを渡すとたいそう喜んで相好を崩し、

「チップは大歓迎ですよ」

アメリカ人は意外とこういう時お金を出さない傾向にあります。

帽子をかぶらずに私服で歩いているのは一般人だと思われます。

この中世の城のような校舎の佇まいにも見覚えがあります。

マーティ・マーがアイルランドからウェストポイントにウェイターとして就職する最初のシーン。
胸に値札のようなものをつけていますが、これは当時の「入場証」だと思われます。

いろんな事務所が入っているビルです。

「スタッフ・ジャッジ・アドボケートオフィス」

候補生の処罰などを判定する事務所?

「クレームなどの法律センター」

「一般市民のアドバイザリーセンター」

「ソルジャー・フォー・ライフ」

「運送関係オフィス」

などなど。

一棟全部がボウリングセンター。

 

さて、これで見学を終わり、次に連れて行ってもらったのは
ウェストポイント博物館でした。

 

続く。


ビートネイビーハウスにようこそ〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

2019-06-26 | アメリカ

 

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学記です。

見学コースはバスで広い構内をまずチャペル、そしてグラウンドまで
案内の人の説明を聴きながらやってきました。

その中で、

「勉強がついていけなくて辞めざるを得なかったり、
自分の意思で中途退学した場合、莫大な費用を返還しなければならない」

という話がありました。

ウェストポイントでは最下位の成績のことを「ゴート」といって、
毎年華々しく名前が発表されるいう羞恥プレイがあるのですが、
ゴートは最下位とはいってもとりあえず卒業できたわけですから、
ついていけなくて辞めた人(結構多い)と比べれば「偉い」のです。

どちらかというと、退学させられずに最下位になるのは至難の技かも。

そのため、ゴートは卒業生全員から1ドルずつの
これ以上ない暖かい?施しを受けることができます。
(卒業生は1000人はいるので、ちょっとしたお金持ちになれます)

しかし、途中で辞めて行く者には冷たい、しかしそれが国が経営する
軍学校というものです。

我が日本国の士官学校である防衛大学校は、2012年から任官辞退者に
250万円、任官6年以内の自主退官者からも年数に応じて償還金という名で
返還を求めるということになっています。

ところで、成績最下位ドンケツが「ゴート」と呼ばれる理由なんですが、
わたしは、ライバル校である海軍士官学校アナポリスのマスコットがヤギ
「ビル・ザ・ゴート」であることと関係あるのでは?と思ってます。

そのアナポリスの最下位成績者ですが、やはり華々しく名前が公表され、
こちらは「アンカーマン⚓︎」というそうで(笑)

バスは広大なグラウンドの通路にやってきました。
これはきっと名のある軍人さん。

と思って調べてみたら、

ジョン・セジウィック少将(1813−1864)

うーん、日本人には全くあずかり知らぬ名前であったわ。

何をした人かというと、南北戦争で弾が飛んでくる中歩き回り、

「そんなふうに弾から逃げる諸君らが恥ずかしい。
彼らはこの距離では象でも当てることはできないだろう」

といった数秒後に左目の下に弾丸を受けて死んだ人です。
弾に当たりさえしなければ豪傑の英雄譚で終わったのに・・・。

ちなみに、銅像の靴の後ろの拍車を夜中、誰にも見られずに回すと
何かいいことがあるという噂もあるそうです。

ま、候補生にとっていいことなんて、落第しないくらいしか考えられませんが。

さて、セジウィック少将の向こう側のサークルはなんなのかな?
え・・・?もしかしたら皆ゴルフやってます?

こりゃ驚いた、ウェストポイントは体育の時間にゴルフをするのね。
まあ確かに構内にゴルフ場があったりするわけですから、
体育の時間に基礎を叩き込んだら、コースに出ることもあるのかもしれない。

しかし士官候補生の体育のゴルフ、かなり本気っぽい気がします。

もしかしたら将来政治家になって、まかり間違って大統領になったりして、
日本の首相との外交で必要になるという場面もあるかもしれないですから、
基礎をやっておいて損はないかもしれません。

ところで、グラウンドの向こうの国旗が半旗になっていますが、
これはマケイン・ジュニアが亡くなったことに対する弔意だと思います。

亡くなった人の位に応じて、半旗を揚げる期間は決まっているらしいですが、
軍学校はそれとは関係なく長期間に亘って行っているように思われました。

授業でゴルフをやるということは、全員の分のクラブなりなんなりがあるってことです。
それも、ちゃんと校庭にホールが設けてあるわけですから。

彼らが練習をしているのはサッカーグラウンドです。
グラウンドはもちろん、それ以外のところまできれいに芝が敷かれています。

業者による手入れを行なっていないとこんなきれいになりません。

さて、こちらでは体育の授業でサッカーが行われています。
体が資本の陸軍ですから、サッカーの授業なんて遊びみたいなもの。
やっぱり楽しいのか、彼らの表情は授業だというのにやたら明るい。

よく見たら女子生徒がいるではないですか。
体格がほぼ男性と同格なので、髪の毛が長くなければ気づきません。

皆でたくさんのボールを蹴りあって、試合でもないしこれは楽しそう^^

さて、前回もお話ししたウェストポイントの人気者、体育教官だった
マーティ・マー軍曹を描いた映画「長い灰色の線」には、
1913年に行われたという実際のフットボールの試合が登場します。

ウェストポイントの相手はノートルダム大。

「まるで教会みたいな名前だな」

とマーティたちはすっかり勝つ気。

教会みたいも何も、キリスト教系大学なんです。
ノートルダムの応援バンドは尼僧の指揮する小学生だったりします。

確かに前半は勝っていたのですが、後半になって、
相手が予想外の「フォワードパス」という戦法を使ってきたので、
ウェストポイントは35対15で大敗を喫してしまいました。(実話)

しかしこのころのフットボールの装備って・・・・。

(´・ω・`)ショボーンとするウェストポイントチーム。

コーチは、今日のゲームは新しいタイプのものだったことを告げ、
さらにこう言います。

「士官として出陣する時戦場では予想外の事態が続出するものと肝に銘じよ」💢

Notre Dame vs. Army 1913 - The Game

フットボールのことを知らないので、映画を見ても、何が新しくて
どう変わった戦法に出られたのか全くわからないままなのですが、
検索したところ、この試合はカレッジフットボールの歴史を変えたというくらい
画期的なものだったらしいことがわかりました。

1913年 フォワード・パス

youtubeの最後には、試合後に相手の検討を称え合う両校のコーチの手紙とともに、
それ以降アーミーvsノートルダムがゴールデンゲームとなったとも紹介されています。

ところでこのパスがなぜここまで意表を突く作戦で、歴史的なものになったのか、
どなたかお分かりの方、素人にもわかるように教えていただけませんでしょうか。


 さて、チャペル見学を終えてグランドに移動するバスの車窓から、
こんな昔風の(でもアメリカにはよくあるタイプの)家を見ました。

建物の前には、

「ビート・ネイビーハウス」

とあるではありませんか(笑)

スポーツの試合における海軍アナポリスとのライバル意識は、
「ビートネイビー!」が寝言にも出てくるくらいカデット(士官候補生)の
脳髄に叩き込まれるという話を以前もさせていただいたことがあります。

Go Army! Beat Navy!〜アメリカ陸軍士官学校ウェストポイント

相手のマスコットを深夜盗み出したり、人質がスパイをしたり、
シャレにならない両者の相克があるわけですが、はてさて、
この「ビートネイビーハウス」って何?

検索してみると、

「チェックイン4時、チェックアウト11時」

なんとベッドアンドブレックファーストではないですか。

ビルディング109、ビートネイビーハウスにようこそ!
陸軍を象徴するという意味で重要な役割をする歴史的ホテルです。
各スウィートルームは最近新しく改装された共用のフルキッチンにアクセス可能です。
(HPより)

なんと!誰でも泊まれたりするのかしら。
例えば「ビートアーミー」関係の人でも。

ビートネイビーハウスの隣にあった家。
もしかしたらこれもホテルの一つかもしれません。

実はこの家、「長い灰色の線」に登場しています。
映画を見ていて気がつきました。

なんと、マーティ・マー軍曹メアリー・オドネルと結婚し、住んでいた家という設定です。
実際には二人は別のところに住んでいたということですが、
撮影が行われたのはまさにここだったのです。

この家は映画の最後のシーンにも出てきました。

30年ウェストポイントに務め、慕われたマーティのために、
ウェストポイントではその退職の日、分列行進を行います。

「誰のための分列行進です?」

「きみだよ。候補生たちが君のために行進をしたいと申し出たのだ」

呆然と感動しつつ長き灰色の線を見るマーティの目にはいつの間にか涙が・・。

真ん中は学校長、一番右の人も手袋で目をぬぐっています。

戦争で死んだマーティの教え子の妻とその息子。
息子も第二次世界大戦で南方に出征しましたが、
名誉の負傷で帰国しました。

「皆に見せたかったな」

「いいえ、みんなここに来ているわ」

マーティの目には見えていました。
自分を引き上げてくれた体育教師のキーラー大尉が。
出征を見送り、そのまま帰って来なかった彼の
教え子たちが。

 

そして、この家で静かに息を引き取っていった妻のメアリーオドネルが。

分列行進の音楽はアイリッシュ風のメロディの行進曲から、
「マイティー・マー」の歌に代わり、最後には「オウルド・ロング・サイン」になります。

ちなみに、映画の撮影は行われましたが、妻メアリーが息を引き取ったのも
ここではなく、当時二人が住んでいた家のポーチだったということです。

 

 

続く。

 

 


「長い灰色の線」マーティ・マーとは〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

2019-06-24 | アメリカ

 

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学記ですが、
今回は、陸軍士官学校奉職しその人生をウェストポイントに捧げた
実在の人物マーティー・マーを主人公にしたジョン・フォードの映画、
「長い灰色の線」の一部をご紹介しながら話してみたいと思います。

本物かどうかわかりませんが、映画は士官学校候補生が、グレイの制服に身を包み、
皆で校歌?らしきものを合唱するシーンから始まります。

タイトルの「グレイ」はまさに彼らの制服の色であるわけですが、
彼らのアイテムである火薬にちなんでいるらしいですね。

帽子の黒、ジャケットの灰、飾りなどの黄色、全て火薬の色とか。

なんかこじつけとしか思えないんですが、まあ海軍のように錨とか、
海を表すブルーとか、一目でそうとわかるシンボルがないものでね。

 

世紀のイケメン、タイロン・パワーが若者から退職時までを演じる
マーティ・マー(Marty Maher)とはそれではどんな人物だったのか。

「marty maher west point」の画像検索結果

Martin "Marty" Maher、Jr. (1876年6月25日 - 1961年1月17日)は
アイルランド生まれ、 1899年から1928年まで
アメリカ陸軍士官学校で水泳のインストラクターを務めました。

ウェストポイントの士官候補生やスタッフに非常に尊敬され、
賞賛された彼は、三回クラスの名誉会員に選ばれています。

84歳で亡くなった後、ウェストポイント墓地に埋葬されました。

最初の二年間、彼は候補生食堂のウェイターでした。
候補生食堂で、ウェストポイントの「下級生しごき」の一種、
いきなり「レザーとは何か」という質問をぶつけられ、

「動物の皮を剥ぎ毛や脂などを除去しタンニン酸に浸したもの!
するとゼラチン質が非腐敗性の物質に変成し水に強くなる!それが皮です」

ととてつもない早口で答えているプリーブ(一年生)を
不思議そうに眺めるマーティ。


派手に皿を割って給料から差し引かれるなど、ウェイター生活は
彼にとって決して楽しいものではありませんでした。

ウェイターを2年間続けた後、マーティは陸軍入隊を決心しました。
宣誓立会い担当の大尉はジョン・パーシングといいます(本物)

マーティはキーラー大佐のもと、体育のインストラクターになります。

彼はウェストポイントの給養だった同郷のメアリーオドネルと結婚。
(彼が陸軍に志願したのは彼女の気を引きたかったからという説も)

子供は映画でも描かれているように生まれて数時間で死亡してしまいます。

二人は候補生たちを子供と思ってウェストポイントで生きて行く決心をし、
そして、任官し戦争に赴く教え子たちの幾多の死を見届けることになる・・・
というのが映画のストーリー。

さて、わたしたちのツァーはチャペルの見学を終えました。
校内見学ツァーのためにこんな立派なバスがあります。

コースはロングコースとショートコース。
わたしたちのは短い方でした。

走るバスの窓からもいろんな軍学校ならではの施設が見られます。
こんな石碑だとか・・

トレーニング中の女子学生とか。
自衛隊と同じく暇さえあれば校内を縦横無尽に走り回る模様。
友人同士らしい二人のアフリカ系女子学生、辛そうです。

フィジカルデベロップメントセンター、それはすなわち体育館だと思われ。

体育館がこんなに広いわけかい、と今更ながらに驚きます。
先ほどの資料によるとウェストポイントは某大の千倍の広さですから、
体育館も単純にそれくらい大きいと考えると納得です。

某大だってここと比べなければかなか立派な施設だと思うんですけどね。 

ところでマーティ・マーですが、経歴によると、陸軍入隊後、彼は
体育教官として軍曹待遇で仕事を始めました。

今はそんなことはないと思うのですが、当時の体育教官(の偉い人)
キーラー大佐の引きがあったからだと思われます。

そして割り当てられたのが、水泳のインストラクター。

ところが彼は実際にも泳ぐことはできなかったのですから驚きます。
ものすごい原始的な方法で水泳の訓練を行うマーティ。

みんなの前で教官らしく取り繕うマーティ。
ところが実際のマーティ・マーは、教官としては大変優れていたらしく、
自分が泳げないのにどんな指導をしたのか、泳げなかった士官候補生も、
彼の元を去るときには泳げるようになっていた、というから驚きます。

オーストラリアから来た兵隊上がりの士官候補生は、水泳の腕は抜群でしたが、
学科についていけなくて悩んでいました。

マーティはそんな彼を自宅に呼び、家庭教師をつけてフォローしてやります。

この生徒はのちに家庭教師と結婚し、二人の間に生まれた男子は
長じて士官学校に入学することになるのでした。

うっかりプールに落ち、泳げないことがバレてしまいました。
でも候補生たちの彼に対する信頼と愛情は揺らぎません。

彼がいかにウェストポイントで愛されていたかは、まだ彼が生きているうちに
この自伝的映画が制作されたことに表れています。

マーティ・マーはタイロン・パワー演じる自分の映画を観ているのです。

サッカーグラウンドの向こうにそびえ立つオベリスク。
その頂上の天使像はハドソン川を眺めるように立っています。

バスの中からグラウンドにヘリコプターが降りたのに気がつきました。
系統としてはフライング・エッグの進化系ですかね。
ドアには陸軍のマークが描かれ、VIP専用機であることがうかがえます。

ヘリの乗員らしい人に候補生が話しかけていますね。

偉い人が用事を済ませるまでここで見張りをしているのだと思われます。

キャンパスのいたるところには迷彩服に大きな黒いバックパックを背負った
士官候補生たちの姿を見ることができます。

ここウェストポイントはニューヨーク州のハドソンリバー沿いにあり、
夏はこの日のように死ぬほど蒸し暑くて冬は凍死するほど寒いお土地柄。

いずれも外に出たくない過酷な環境という、軍学校としてはこれ以上ない
「鍛錬の場」であるからかもしれませんが、
どこかのアナポリスのように地下道で建物同士をつなげたりしないのです。

当然、罰則の「歩け歩け運動」も、この人に優しくない天候のもと粛々と行われ、
いやでも反省が骨身にこたえるという効果があるというわけです。

某大で第4大隊に当たったくらいで遠いの損だの思っている人、世界には
上には上があるということを覚えておくと、ちょっとは気持ちも楽に・・

ならないか(笑)


続く。


カデット・チャペルと「長い灰色の線」〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

2019-06-23 | アメリカ

もう随分と昔になってしまった気がしますが、ウェストポイントを見学し、
見学者向けの「ウェストポイント紹介ミュージアム」について
ようやく話が終わったところまでこぎつけました。

考えたら校内ツァーの前で終わってしまい申し訳ない。
ということで、見学者が訪れるツァーデスクに12ドルくらい出して申し込んだ
バスで巡る見学に出発するところから始めたいと思います。

ツァーバスは案内デスクの外側から出発します。
たまたまわたしたちが到着したとき、ツァーが始まる20分前くらいで、
しかもその日最終だったのは大変ラッキーでした。

いくら物好きでもこんなところにもう一度来るとは思えないしね。

バスに乗り込むと、案内のおじさんが、

「今からゲートを通りますが、絶対に写真は撮らないように」

と気のせいか怖い顔をして言い渡しました。
軍学校なのでゲートの写真が世の中に出回ってはセキュリティ上問題ありなのです。

わたしはその雰囲気に大変緊張してしまい、ゲートを通過し、おそらく
もう写真を撮っても問題のないところに来ても、カメラを取り出せませんでした。

今にして思えば撮っておけばよかったと思うのが、入ってすぐのところにある
いかにも築何百年クラスの花コウ岩建築による、セイヤーホテル。

Thayer-hotel.jpgwiki

学校内部にホテルがあるとはさすがはアメリカ陸軍の士官学校です。

ところでわたしは、前回までの当ブログエントリで、一度マッカーサーと
その息子離れできない過保護の母親について話したことがあるのですが、
可愛い息子のボクちゃん(=マッカーサー)が心配のあまり、母親はずっと
ウェストポイントのホテルに住んでいた、という史実を知った瞬間、
このホテルのことだと納得がいきました。

学校の近くではなく、学校の中に住んでいたわけです。

その証拠写真

「macarthur's mother」の画像検索結果

これによると、母親のメアリー・ピンクニー・マッカーサーは
13歳まで息子を学校に通わせず、自分で教育を施し、さらには
ウェストポイントで近くに住んでいただけでなく、息子が行進するときには
一緒に行進を行い(!)、息子がデートするときは付いてきて、1935年に
マニラに転勤になったときには一緒にフィリピンに行っています。

おかげでマッカーサーは、開校以来の超優秀な成績だったにも関わらず、
アンチからは

「カーチャンと一緒に士官学校を卒業したマザコン」

と死後も言われてしまうことになりました。
ちなみにフィリピンに母親が付いていったのは、これによると、

「彼が母親と離れたくなかったから」

だということですが・・・どっちもどっちってやつですか。

マッカーサーは第一次世界大戦ののちウェストポイントの校長を勤めていますが、
そのときにホテルの拡張工事を行なって部屋数を増やしています。

死の二年前にはウェストポイントに帰ってきてあの、歴史的な演説を行いました。

「生い先短い思い出で、私はいつもウエスト・ポイントに戻る。
そこでは常に『義務・名誉・祖国』という言葉が繰り返しこだまする。
今日は私にとって諸君との最後の点呼となる。
しかし諸君、どうか忘れないでいただきたい。
私が黄泉路の川を渡る時、最後まで残った心は士官候補生団とともにあることを。

では諸君、さらば!」

このときに滞在したホテルも、もちろんセイヤーホテルです。

わたしたちの乗ったバスは、こんなよく言えば壮麗で歴史を感じさせる
ゴシック建築っぽい建物の前にやってきました。
見学コースその1は、ウェストポイント内にある教会です。

ところで皆さん、前回まとめてウェストポイントについて書いたとき、

「ロング・グレイ・ライン」

が陸軍士官学校を象徴的に表す言葉だと説明したことがありますが、
そのときに同名の映画(邦題は『長い灰色の線』)があるということも
話題にさせていただいたのを覚えておられますでしょうか。

陸軍士官学校で体育教官をしていた実在の人物、マーティ・マーをタイロンパワー、
その妻をモーリン・オハラが演じた1955年、ジョン・フォード作品です。

このタイトルシーン、後ろに写っているのがこの教会となります。

1975年(昭和50年)防衛大学校を卒業したという方から聞いた話ですが、
そのかたが在学中、防大でこの映画を鑑賞するということがあったそうです。

アメリカにはニューヨークでもボストンでも、街角には
古くから伝わる教会が取り壊されずに残っているのですが、
それらのどれよりも立派で大きい気がします。

感覚としては、パリのノートルダム寺院くらいの規模でしょうか。

ここが軍施設となったのは1778年のことであり、陸軍士官学校となったのは
1802年と言いますから、もう200年を余裕でぶっ超えてるわけです。

ここは「カデットチャペル」と呼ばれ、1902年に建造されました。

チャペルは映画のシーンを見てもお分かりのように、キャンパス(っていうのかな)
の比較的高いところに位置しています。

なので、このチャペルの横に立つとこのような眺めが展開しているわけです。

敷地面積は65万キロ平方メートル、校内にはゴルフ場、スキー場、墓地、
なんなら原子炉まであったりします。
とにかくおそらく世界で一番広い士官学校であることは間違いありません。

すごい偶然ですが、我が日本国の士官学校である防衛大学校は、
その面積65万平方メートルです。

防大ってウェストポイントと同じ大きさだったのか!!

と驚いた人、もちつけ(笑)

見学した日は、ボンネットで卵が焼けそうなくらい暑い日でしたが、
このキャンパス(っていうのかな)の灰色な重苦しい世界をご覧ください。

重厚といえば聞こえがいいけれど、重々し過ぎて軽佻なところ皆無。

アメリカ社会の「軽さ」みたいなのを日頃いやっというほど見ていると、
思わずこれを刮目して見よ、とどやしつけられている気分になります。
ああ、これもまたアメリカ。

噂によると同じ士官学校でも、空軍はもちろん海軍のアナポリスは
この灰色の世界に比べるととんでもなく「チャラい」のだとか。
もちろん比較の問題だとは思いますけどね。

ところでこれも「長い灰色の線」の一シーンです。
上の写真とは別の建物のようですが、実に似た感じの灰色の建物。
制服の灰色もつまりこのキャンパス(っていうの?)の色彩と合わせているのでは。

何をしているかというと、罰則として歩かされているのです。
飲酒が見つかったとか、門限に遅れたとか、そういう
倫理委員会にかけられるまでもないチョンボに対しては、
とにかく歩け歩け歩けば罪は軽くなるとばかり歩くのが陸軍流。

やっぱりこれは陸軍の基本が歩兵だからだと思うんですが、
それならアナポリスはどうなっているのか知りたいですね。

我が海上自衛隊の幹部候補生学校では走らされたり腕立て伏せだったりでしたが、
どうやら今ではパワハラに当たるとかで体罰はなくなっているとか。

他の学校ならともかく、そんなことで軍隊の指揮官が養成できるのか、
と外部の者は単純に疑問なんですが、その話はともかく。

 

ところでこの写真は、タップス(就寝前のラッパ)が鳴るときに、
部屋に帰らず、パーティに遅れてきた彼女と別れを惜しんでいた生徒が、
マーティが見てみないふりをしてやったのにも関わらず、
自己申告して自ら罰を受けているシーンです。

ウェストポイントにやってきたばかりのマーティは、

「黙っていれば誰にもわからないのに」

というのですが、生徒は

「それでも自分は規則を破ったことを知っているから」

と答え、マーティを感動させるのです。

この作品は、スコットランドからウェイターの職を求めてやってきて、
士官候補生を間近でみているうちに彼らを深く愛し、いつの間にか体育教師となって、
その生涯をウェストポイントに捧げた人物を描いた「伝記映画」でもあります。

チャペルのかなたに広がる山麓にポツンと建っていた豪邸。
ここもウェストポイント関係の設備だと思うのですが、わかりません。

別の年代に建ってつぎはぎ状態になっている建物同士を
無理やり行き来するための空中回廊をつけてしまった例。

どうみても使われている様子がありませんが、非常用でしょうか。

さて、チャペルの中に入ってみました。
ここに写っているのは同じバスで見学した人たちです。
年配の夫婦が多く、この左は東洋系のアメリカ人家族。

ツァーは1日に何度かおこなわれるようで、アメリカ人にとって
ウェストポイント見学は観光にもなっているらしいことがわかりました。

壮大なステンドグラスは圧巻です。
聖人といっても左のほうの人のように戦いの神みたいなのが多い気がします。

ところどころに見える文字、

「FAITHFUL ONTO」

「DEATH AND I WILL」

「CROWN OF LIFE」

など、聖書に詳しくないとわからないのかもしれません。

説明の人が壁のランプを指し示しました。
砲弾の形を象っているそうです。

チャペルの一角では何やら運動部が集まって準備の真っ最中。

教会の壁にはアメリカ国旗(12星)と陸軍の旗が交互に並んでいます。
昔ならともかく、多民族国家のアメリカで士官学校といえども
キリスト教ばかりではないはずなのに、と思ったのですが、これも説明によると、
構内にはシナゴーグ(ユダヤ教会)もカトリック教会も別にあるのだそうです。

流石にその他の宗教まではカバーしていないようでした。

大礼拝堂なので、パイプオルガンも壮大なものです。

演奏者席がどこかまではわかりませんでした。

映画「長い灰色の線」ではこのオルガンの音色を劇中聴くことができます。

そして、この祭壇も映画に登場します。

まず、カデットチャペルのシーンはこんなカットから始まります。

礼拝が始まるや、伝令が校長など偉い人のところにメモを持って走ってきます。

校長が司祭に何事かを伝え、周りの何人かが立ち上がって、
なぜか騒然と教会を出て行きます。
司祭は皆に向かって

「今日の早朝、日本軍の航空機が真珠湾を攻撃しました。
公式な発表はまだですが、我が国は日本と交戦状態に入りました」

と発表します。

「ジャパン」

という司祭の言葉が終わるや否や、全員がなんの合図もなく立ち上がり、
イギリス国歌の「ゴッド・ブレス・ザ・クィーン」のメロディーの賛美歌を
パイプオルガンの伴奏で歌い始めるのが実に映画的。

この曲は聖書の曲ではなく、

"America" ("My country 'tis of thee.")

という詩がつけられた「替え歌」です。

時々思い悩むように口を動かさなくなる彼は、マーティが最初に指導し、
第一次世界大戦で亡くなった生徒の息子です。

マーティとその妻が引き合わせて彼の父親と結婚させた女性。
愛する夫に続いて息子もまた戦争に行かなければならないことを知り、
母親の顔は悲痛に曇ります。

ちょうど開戦の時に士官となり、マーティは父親に続いてその息子を
戦争に送り出すことになったのです。

という映画の撮影が行われた頃から何も変わっていないチャペルの内部。

ただしこのシーケンスには大きな矛盾があります。

真珠湾攻撃が起きたのはローカルタイム0755。
司祭は「今朝真珠湾で」と言いますが、攻撃が起きた時、すでに
ウェストポイントのニューヨーク時間は1255です。

この一報がウェストポイントにもたらされた時間は早くともその1時間後としても
昼の2時頃だったはずなので、すでにミサを行う時間ではなくなっていました。

椅子には聖書が備え付けてあります。

士官学校卒業生がここで結婚式を挙げることは多く、シーズンには
結婚式ラッシュとなるそうですが、軍学校の常として、
映画のような開戦の他、戦争に出て亡くなった卒業生のミサも行われるわけです。

アメリカという国は実際になんども戦争を行なっており、
その度に陸軍士官学校からは戦死者を出しているのです。

戦争に行く可能性が大きくなれば軍に入隊する人数が減る、入隊が増えるのは不況の時だけ、
などというどこかの国とは、軍に身を投じるということに対する国民の意識は全く違う。

戦争による「死」が可能性として確実にあるとわかっていても、
難関をくぐり抜けた優秀な人物が毎年何千人も士官学校の門をくぐる。
このアメリカという国には昔から一貫してブレない「愛国の発露」たる国防の形がある。

そんなことを考えずにいられなかったカデット・チャペルでした。



続く。




ファントムII のレディルーム#6〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-06-21 | 航空機

朝一番に切符を買い、その日一番のアイランドツァーに参加し、
フライトデッキの新しくなった展示の写真を撮って「ミートボール」まで来た時、
わたしはキャットウォークに降りていくことができるのに気がつきました。

この階段を降りたところは、かつてのレディルーム、搭乗員控え室に繋がっているのです。

一人乗りのボートが「ミッドウェイ」の左舷後方すぐ横を走って行きます。
わたしがもしここでボートに乗るなら、同じコースを航走してみるでしょう。

中に入っていくと、まずメイルボックスが現れました。

「郵便物のピックアップは入港時 0730と1800

海上では通知のあった時に行われる」

ポストのあるホールの右側にはレディルームのドアがあります。
ドアのポスターには

「注意 ここからは戦闘機の領分(カントリー)です」

入ってすぐ左はまっすぐ艦体を左舷から右舷に抜けられる通路となっています。
突き当たりに見えるのが右舷側の区画というわけ。

レディルームは、左側に偉い人の机やロッカーのあるコンパートメントがあります。

角にあるデスクは置いてある帽子から推察してシーマン、右側は
士官が使用しているとわかります。
ダイヤルキー付きの金庫状のもの、書類ロッカーなども。

どの椅子にも占有者の上着がかけてあるのがいかにも使用中って感じ。

士官の机の上にはパイロットを象ったブロンズ像、そして
洗面器のような

「1975年 ミグ撃墜アワード(MIG KILLERS)」

のカップが。
以前、「ミッドウェイ」艦載機部隊が撃墜したミグについて、
いかにそれがずば抜けていたか実際の数字をあげてお話ししたことがあります。

ミッドウェイ戦闘機隊 vs.MiG〜空母「ミッドウェイ」博物館

1975年というのはベトナム戦争終結の年ですから、
戦争が終わって、もっともミグを撃墜した艦載機部隊に
このカップが授与されたということなのでしょう。

さらにその横には着艦信号士官(LSO)の白いベストとゴーグル、
そしてヘッドフォンとヘルメットなどの装備一式が展示されていました。

このレディルームすぐ上にあった「ボール」または「ミートボール」こと
光学着艦装置と無線を駆使して、白いベストを着た着艦信号士官(LSO)たちが
全ての艦載機の着艦をモニターし、着艦しようとする機の各パイロットに
進入角度や速度が適正であるかどうかなどの指示を送ります。

無事に着艦させればそれでおしまいというわけではなく、LSOは着艦を評価し、
フライトオペレーション終了後にパイロットにブリーフィングで
よかった点や改善点をしっかりと確認するのです。

そんなLSOは、飛行隊に所属する現役のパイロットでもあります。
LSOになるには、パイロットとしてすぐれているのはもちろん、
指導者としての資質も要求されることになります。

なるほど、レディルームにLSOの「シマ」があるのは、つまりここで
パイロット達にアフターブリーフィングを行う必要性があるからなんですね。

 
ところで在日米海軍のツィッターに書いてあった情報で驚いたのは、
艦載機パイロットには常に「空母に着艦する資格の更新」というのが必要で、
それも、最後に着艦してから29日経つと、自動的に消滅してしまうということ。
昔から、そして今でもそうですが、空母の着艦には高度な技術が必要なので、
29日経つともう腕が鈍るという理由からです。
 
着艦資格を得るには陸上で模擬空母に着艦する試験を受けますが、
それを採点するのも、この着艦信号士官、LSOなのです。
 
LSOはもうお判りのように、Lはランディング、Sはシグナルの意味ですね。

レディルームを前に立って全体を眺めたところ。
男の子とそのお母さんを案内してきたのはボランティアの元軍人。

もしかしたら自分のこの日のエスコートが、将来、有望な
海軍軍人を一人増やすことになるかもしれないわけですから、
説明に力も入ろうというものです。

この部屋は「レディルーム#6」といい、かつてあった
F-4 ファントムII戦闘機隊の控え室を再現したものです。
ここにある金色のプレートには、レストアに当たって寄付をしてくれた人の
名前や団体名、家族名が刻まれています。

寄付をした人の中には当然ですがパイロットもいるようで、
名前に

「ホークアイ」「コンドル」「キラー」「フィンガーズ」「10G」

などのかつてのタックネームを付け足しています。

そして壁にずらりと並んだ歴代航空隊のエンブレム。壮観です。

左から順番に

VF-14「トップハッターズ」、VF-21「フリーアンサーズ」、
VF-31「トムキャッターズ」、VF-32「スウォーズマンズ」、
VF-33「ターシャーズ」

どれもF-4ファントムIIの部隊で、最後のTARSIERとは
「メガネザル」のことです。

右から

「ビジランティス」(自警団)「ブラックナイツ」
「チャージャーズ」
「エーシズ」「サタンズ・キティーズ」

ここでなぜか「ブルーエンジェルス」が挟まって、

「レッドライティングス」「ブラックライオンズ」

ブルーエンジェルスも含め、全てファントムIIの部隊です。

右より、有名な

ジョリーロジャース」、「シルバーキングス」
「ファイティング・ファルコンズ」「グリム・リーパーズ」
「ダイヤモンド・バックス」「スラッガーズ」

そしてあの

 別名日の丸やっつけ隊、「サン・ダウナーズ」

そして「ピースメーカーズ」

一番左は戦闘機学校のマークです。
これら全てファントムII時代の部隊です。

この鐘とプラーク(銘板)は、フィリピンのバターンにあった
「キュビ・ポイント」士官クラブのバーに飾ってあったものだそうです。

第213戦闘機部隊「ブラックライオンズ」の初級士官たちが
1967〜8年の「ウェストパック・クルーズ」において、
当地に訪れた空母「キティホーク」に持ち帰ったもので、
祖国への任務に命を捧げたファントム機乗りたちの慰霊の鐘となっています。

「ファントムの真実」とは。

「マクドネル・ダグラスのF−4ファントムIIは20年以上にわたって
アメリカの戦闘機の第一線にありました」

はいそうですね。
もっと長く使っていた国も東洋にあるわけですが。

1957年から79年にかけて、5,057機が生産されました。

これは月平均にすると72機が生まれていたことになります。
ファントムはアメリカ海軍、海兵隊、空軍にも使用され、
同時に多くの同盟国でも活躍しました。

また、海軍の「ブルーエンジェルス」、空軍の「サンダーバーズ」など
アクロバット飛行部隊でも
この機体が使用されているのはよく知られるところです。

 

ファントムは高速かつ駆動性に優れているうえ大変丈夫でした。
攻撃型戦闘機としてだけでなく、大型の武器を搭載して敵地にやすやすと進入し、
目的を果たして帰還して来ることができました。

ベトナム戦争時代は海軍、海兵隊、空軍で同じファントムに乗っていましたが、
海軍の戦闘機隊は空母から発進し、トンキン湾においてキルレシオ13:1という
ダントツの記録を打ち立てています。

典型的な空母への着艦のパターンが図解で記されています。

黒いリボンの右側から空母の上を左旋回して、高度を落としながらアプローチ。
ここでフラップを下ろす、とか、ここでは高度600フィート、とか、
とにかく最後の瞬間まで細かく決められています。

もしウェイブオフタッチアンドゴーの事態になったら(点線)
向こうまでまっすぐ行って、
帰ってきてもう一度同じアプローチをするようです。

パイロット用の教材に書かれているような図解がパネルになっていました。

左はイジェクション・シート、脱出シートの詳細。
右側はファントムのコクピット周りの説明のようです。

我が航空自衛隊の現役パイロットには、今でもこれが
完璧に理解できる人がいっぱいいるはず。

「LOOSE DEUSE 」というのはチームでタッグを組む空戦のスタイルで、
そのマニューバだと思うのですが、どうも「タリホー」とか「ボギーズ」とか
「コブラ」とかの意味がわかりません。

説明を読む限り、「タリホー」はこれから交戦する、「ボギーズ」は敵、
「コブラ1」「コブラ2」はこちらの味方ではないかと(適当)

どなたかこの言葉についてご存知でしたら教えてください。

左は敵地に急降下爆撃を行う際のアプローチの仕方。
敵の防御ラインを突破し、的確に爆撃をおこなて離脱する方法が図解で示されています。

下に「RIO」とありますが二人乗りのファントムの「レーダー・インターセプト・オフィサー」
つまり「ファントム無頼」でいうと栗原航空士のことです。

下の図のように急降下爆撃を行うときに航空士は的確な高度をモニターします。

右はミサイルなどを発射するときの角度などについて。(適当)

こちらも着艦のアプローチの方法だと思います。
巨大な扇風機が邪魔だったので説明はなしです。


続く。


「ミートボールで着艦を」フライトデッキ雑景〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-06-19 | 軍艦

懸案だったアイランド・ツァー参加を果たし、ホッと一息。
朝一番のオープンと同時に飛び込み、さらに今回のサンディエゴはわたし一人旅、
時間をどう使おうが全くの自由で、時間はたっぷりあります。

前回見たところも、見落としたところもとにかくもう一度
新しくなったカメラで撮りまくろう、とハンガーデッキに降り立ちました。

アイランドのフライトデッキ階には、前にも買いたことがありますが、
フライトデッキ・コントロールルームがあります。

英語で「こっくりさん」を意味する「ウィジャボード」という名の
(フランス語のOuiとドイツ語のJa、はいという言葉の組み合わせ)
ハンガーデッキでの航空機の現在位置をミニチュアの模型で表します。

今ではウイジャボードの代わりにデジタルの画面が使用されているのでしょう。

PINOLOGYという言葉の意味がそもそもわからないのですが、
おそらくウィジャボードに使用する航空機以外のマークでしょう。

Jack spot なんて全く想像もつきませんが、ジャックポット(大当たり)
とかけているのかな。

「ファウルデッキ」は、デッキが航空機によって占有されているとき、
他の航空機が着陸するのを防ぐことを指す専門用語です。

さて、フライトデッキに出てきました。
まだあまり人がデッキに出てきていません。
A-6イントルーダーが鬼のように両側に吊っているミサイルが壮観です。

(これはミサイルではなくMk-82《250ポンド》爆弾というご指摘いただきました)

さすがは全天候型爆撃機、よく見たら胴体の下にもミサイルが。

イントルーダーの向こうでは、映像を交え元艦載機パイロットが
空母へのランディングについての薀蓄を語るイベント、
「ベテランズ・トーク」が始まっており、盛況です。

♫♪ 今は、もう、動かない〜おじいさんのカタパルト~🎵

というわけでカタパルトのレールは塞がれていますが、レールのあったところに
飛行機を打ち上げるためのカタパルトのクレイドルがポツンと置かれています。

空母の脇にある通路兼退避場所をキャットウォークといいます。
もともと高所にあるネコの通り道のような形状のものをこう呼び、
ファッションショーのランウェイのこともなぜかキャットウォークと言いますが、
こちらは高所だからというよりモデルさんが歩くからのような気がします。

何についていたか忘れましたが(ファントムIIだったかも)、
翼のAIM-9サイドワインダー空対空ミサイル

HEATSEEKERとありますが、サイドワインダー光波誘導型、
つまり赤外線誘導弾です。

甲羅を背負っているけど前から見たらスヌーピー。
E-2ホークアイは、プロペラ機です。

大きなレドームを乗っけている上、横方向の操縦を行う垂直尾翼の動翼が
左右非対称(4枚ある垂直尾翼のうち、左から2枚目にだけ動翼方向舵がない)
なので、操縦は大変難しく、「じゃじゃ馬」と呼ばれているそうです。

さて、ヘリの展示は昨年見たときと大幅に変わっている部分がありました。
このH-60シーホークのコクピットには・・・

去年はいなかった美人すぎるTACOが!
「ミッドウェイ」現役の頃も、アメリカ海軍には女性のパイロットが
(主に輸送機)少数とはいえ存在していました。

「空母ミッドウェイ」という回想録にも、綺麗なトレーダーのパイロットに
トイレに入っている間見張りを仰せつかるという話がありました。

シーホークの後部です。

内部のほとんどを占めるのが牽引のための巻き上げ機という感じですね。

こちらはUH-1ですが・・・、

このコクピットにも去年はいなかったイケメンすぎるパイロットとコパイが。
ちなみにヘリコプターの場合は固定翼機と違い、右席が種操縦士だそうです。

汎用ヘリで、艦載機としてはトンボ釣りなどが重要な任務だそうですが、
ガンシップのように見える武器も搭載しております。

エンジン部分を綺麗に塗装して見せてくれています。
これも去年には見られない展示方法でした。
「ミッドウェイ博物館」にいかに資金が潤沢に投入されているかがわかります。

去年中を見学しそこなったHH-46 シーナイト、中から人が出てきました。
入ってみることにします。

軽量化のためキャンバスを張っただけの椅子。
シーナイトはバートル社のCH-46です。
日本ではこの派生型川崎重工製品が陸海空すべてに導入されていました。

海自では対機雷戦用「しらさぎ」という名前で運用されています。

ベルのようなものがたくさんくっついた部分は
非常用の脱出口のようですが、上に「消火器」の表示もあり。

このベル、なんだろう。

まさかとは思うけど、いざとなったときドアを噴き飛ばす爆破装置とか?

後部から見たシーナイトのコクピット。

丸窓上部の装備はほぼ新品に見えるので、多分再現されたものでしょう。

エンジンが小さいので陸軍からは敬遠されていたのを、エンジン換装して
海兵隊が採用したことで「シーナイト」として軍利用されるようになったそうです。

アポロ計画で活躍したことでも有名なSH-3シーキング。
期待には誇らしげにリカバーしたカプセルの数が5個マークされています。

この内部にも入ることができるようになっていました。

コクピットには侵入できないようにアクリルの衝立が全面的に張られ、
さらに「バリアーを越えないでください」とわざわざ断り書きがありました。

インスタ蝿が入り込んで写真をアップしたことでもあったんでしょうか。

アポロ計画で帰還した宇宙飛行士たちが乗り込んだシーキング機内。
ジム・ラベル船長もこの赤いキャンバスの椅子に座ったと思うと胸熱ですね。
おそらく本物は張り替えられてしまったと思いますが。

「シースプライト」という名前を爽やかな炭酸飲料のように思い込んでいたけど、
実は「海の小鬼」だと知ってちょっとびっくりした、と前にも書いたSH-2。

まあ、おそらく炭酸飲料の方は「妖精」という意味で採用したのだと思われます。

ここにも乗員がアサインされていました。

シースプライトの機体のスコードロンマークに採用されているのは、
海事用語で「ファウルド・アンカー」と呼ばれる意匠です。

先ほど「ファウル・デッキ」で調べた時に「ファウル(Foul)」という言葉が
海事の専門用語で、「難しい」とか「間違い」という時に使う単語、
ということがわかったばかりなのですが、もともとは
錨に鎖が絡みついた状態=「ファウル」から派生しています。

例えば、底質のよくない海底のことを「ファウルボトム」
帆船が目的の進路を維持できないくらいの風を「ファウルウィンド」
そして空母の甲板がビジー状態でもうこれ以上着艦できない状態を「ファウルデッキ」

あと、「ファウルホーズ」(Hawse-錨鎖孔)というのが

「二つの錨で舫がクロスするその上に船が横たわること」

という状態だそうです。
よくない事態であることはわかりますが、具体的にどんな状態か全くわかりません。

空母の航空機着艦に「ミートボール」が使われるということをご存知でしょうか。

ここには「フライング・ザ・ボール」とあり、さらに

「ランディング・ウィズ・ザ・ミートボール」(ミートボールで着艦)

としてこんな説明があります。

フレネルレンズ・オプティカル・ランディング・システム
(FLOLS、
日本語では光学着艦装置)は、
今日のハイスピードな航空機の着艦にも使われています。

着艦態勢に入ったパイロットは「コール・ザ・ボール」を行い
「ミートボール」と呼ばれる明るいオレンジの縦ライトを頼りにします。

パイロットから見て飛行機がグライドパスより高い位置にあるときは
ボールは基準ライトより上に、低いときは基準ライトより下に見えるのです。

飛行機が危険なほど低すぎる場合は、ボールは下端で赤く、
飛行機が高すぎる場合、ボールは上端で点灯し警告を与えます。

前にも紹介しましたが、「ミッドウェイ」アイランドのてっぺんで
(目もくらむような高所です)工事をしている人がいました。

ハーネスをつけているようですが、高所恐怖症にはとても務まりますまい。
このように、毎日どこかしらの補修・改修を行なっているのがミッドウェイ博物館です。

ミートボールの近くに、レディルーム、パイロットの控え室に続く階段を見つけました。
これも三年目にして初めてたどり着くことができた展示です。

早速階段を降りて行ってみることにしましょう。

 

続く。




ドラゴン・スレイヤー「屠龍」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-06-18 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館別館に当たるダレス空港の隣、
スチーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターに保存展示されている
航空機の中から、帝國陸海軍の軍機をご紹介しています。

冒頭写真を見て、わたしが本日テーマの屠龍と桜花を勘違いしているのでは、
と疑った一部の皆さんにお断りしておきますが、そうではありません。
散々機体の認識を間違えて、ここで指摘されるという前科を持つ
わたしですが、
さすがに屠龍と桜花を間違えるはずがないじゃないですか。

なぜこの写真を扉に採用したかというと、ここの「屠龍」はこんな状態なので、

なんとなく完全体の飛行機の方が収まりがいい気がしまして。


川崎 キ45改 二式複座戦闘機 「屠龍」

現地の説明では

KAWASAKI Ki-45 Kai Hei (Mod. C ) Type 2

TORYU (Dragon Killer) Nick

「龍を屠る」という日本語の意味をそのまま「ドラゴンキラー」とし、
連合国軍からの呼び名「ニック」を付け加えています。

アメリカではより直接的な「Dragon Slayer」(スレイヤーは虐殺者)
という言い方をすることもあるようです。

 "Kai" は「改」、”Hei" とは甲乙丙の「丙」を意味します。
甲乙丙を「ABC」と同じ型番の順番であるとして、「Mod. C」と説明しています。

「屠龍」はご覧のように、水上戦闘機「晴嵐」の翼の下に、
まるで庇護されるように展示されています。

日本語のWikipediaでは

「二式複戦の現存機としては、当センターが収蔵する
丙型丁装備(キ45改丙)ないし丁型(キ45改丁)キの胴体部分が唯一となる」

英語Wikiに記載されている現存機についての説明は、

今日現存するキ45改はたった一機である。
第二次世界大戦の後アメリカが、日本軍の航空機を「評価」するため
USS「バーンズ」に積んで持ち帰った145機のうちの一機で、
ペンシルバニアのミッドタウン空技廠にオーバーホールのため送られ、
その後オハイオのライト・フィールドとワシントンのアナスコーシアで
試験飛行を行ったのち、空軍からスミソニアン研究所に1946年寄贈された。
胴体だけが現在スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターで、
「月光」と「晴嵐」と並んで展示されている。

というものです。

補足すると、「バーンズ」が最初にアメリカにこれらの航空機群を
荷揚げしたのはバージニア州ノーフォークだったということです。

さらに博物館の説明を翻訳しておきます。

Kawasaki Ki-45は、第二次世界大戦の他のほぼすべての日本の戦闘機よりも
開発と運用に時間がかかりました。

設計主任だった土木武夫は、1938年1月にこの設計に着手しましたが、
量産機型は1942年の秋まで戦闘には投入されていません。

実戦に投入されることになると、キー45はすぐに米海軍の哨戒魚雷艇
(PTーパトロール・トルピード・ボート)

地上目標の攻撃任務を負った搭乗員達にとっての脅威になりました。

「屠龍」はまた唯一戦時中に運用された帝国陸軍の夜間戦闘機です。

 

日本軍は1930年代半ばから後半にかけて、双発エンジンで複座の
重戦闘機のようなもの、さらに
太平洋の戦場に投入するための
長距離戦闘機を必要としていました。

1937年3月、陸軍は多くの製造業者にそのコンセプトでの戦闘機を発注し、
川崎、中島飛行機、三菱はそれに一応手を挙げたものの、中島と三菱は
他のプロジェクトに集中するために競争から降りています。

結局、軍は仕様を追加情報で修正し、川崎に設計作業を受注しました。

指定は速度336mphの二人乗りの戦闘機。
2〜5000メートルの動作高度、および5時間以上の航続距離があること。
さらに軍はブリストル水星エンジンを指定しました。

SFUHセンターには展示されていない機体の部品も、また大切に
人類の遺産として保存されています。

機体から取り外した ハ102 空冷複列星型14気筒エンジン。
星型エンジンとはシリンダーが放射状に配列されたレシプロエンジンで、
これは最初の実験の後修正して換装されたものとなります。

1939年1月に、川崎は最初のプロトタイプを発表し、テスト飛行をしたのですが
速度は軍の要件を満たすには遅すぎたため、エンジンを取り替え、
エンジンナセルとプロペラスピナーを改訂しました。

これらの修正は最高速度を520 kph(323 mph)に高めましたが、
その後も胴体を狭め、翼の長さと面積を増やし、ナセルをもう一度改造、
そして武装を換装するなどの改造を繰り返しました。

スミソニアンには「屠龍」の翼を所蔵しています。
なぜ展示されている胴体に翼を取り付けないのかという気もしますが、
日本語のWikiの
情報がある程度正しければ、これは展示機の翼ではなく、
別のもう一機の(丁型)飛行機のものだからという説明ができます。

翼部分は「ローン」つまり貸し出しされていることもあるそうです。

Miscellaneous Parts(ミセレーニアスパーツ)つまり「パーツその他」です。
アメリカで、「その他色々」という意味で「Misc」(ミスク)という言葉は
よく使われ、学校の「何でもいれ」にMiscと書いたシールが貼ってあったりします。

外側だけを展示するので必要のないのパーツは抜いてしまったようですが、
破棄せずにちゃんと残してくれているのはありがたいことです。

取り外してしまったコクピットのシートクッションもちゃんと保存してありますよ。
これらも展示はしておらず、倉庫に入ったままのようですが。

クッションの中身は綿のようです。
合皮の無い時代なので、シート素材は皮革のようですが、
だからこそここまで形態を保ったと言えましょう。

合皮は本当にすぐに劣化してしまいますからね。

川崎は1942年8月に最初のKi-45 Kai(修正版)を完成させました。
しかし中国戦線に投入されることはありませんでした。

同年6月、二式複座戦闘機は爆撃機の護衛として
中国で「フライング・タイガース」のトマホークと対戦していますが、
結果は惨敗、キティホークにも負け続け、部隊からの評判は散々だったそうです。

ただし、

多くの日本海軍の戦闘機とは異なり、「屠龍」は
乗組員の装甲と
耐火性の燃料タンクを持っていました。

さすが、海軍の飛行機、特に零式艦上戦闘機は重量を軽くするために
搭乗員席のバックシートに穴まで空けて装甲を薄くしていた、
などという事情を踏まえていないと到底書けない文章ですなあ。

とにかく、対戦闘機戦では初戦散々だったこの「屠龍」が
もっともその威力を発揮したのは、本土防空戦における対B29戦でした。
龍を屠る者の名前通り、龍=B29を屠る飛行機となったのです。


SFUHセンターの解説の続きを翻訳します。

「屠龍」は通常20 mmと37 mmの重機関銃を搭載していました。

ニューギニア地域で連合軍の船団攻撃に投入され、第5空軍の
コンソリデーテッドB-24「リベレーター」爆撃機を攻撃しています。

日本軍は夜間戦闘機としてキ-45の派生系をいくつかを採用しましたが、
部隊でははこれらの「屠龍」を改造し、機体上部に、ターゲットの弱点である
腹部分の燃料タンクを斜め上向きに射撃するように取り付けられた
2本の12.7 mm機関銃に置き換えたりして非常に高い戦果を得ました。

「月光」にも取り付けられた「斜め銃」、「上向き銃」のことですね。

「屠龍」が特に効果的だったのは、エース樫出勇大尉を筆頭にした
精鋭ばかりで固めた山口県小月の防空部隊が運用した時であり、
その後、上向き銃を搭載する頃にはレーダーを使っていなかったこともあって
かなり苦しい戦いをしていたというのが事実のようです。

当初は二式複座戦闘機には「屠龍」という名前はつけられてなかったのですが、
北九州を防衛する防空隊の活躍が日本の一般市民に知られた結果、
樫出大尉のいた小月と芦屋の飛行戦隊を「屠龍部隊」と皆が呼ぶようになりました。

また彼らには被撃墜時には必ず敵機を道づれとする信念があったそうです。

昭和19年8月20日、B-29の邀撃戦において、屠龍戦隊は来襲した80機のうち
23機撃墜、被撃墜については3機未帰還、5機が被弾という損害であった。

同じ戦闘についてアメリカ側の記録では爆撃機61機のうち14機喪失、
そのうち航空機による損失が4機(空対空爆撃による1機と体当りによる1機を含む)、
対空砲火による損失が1機としており、日本機17機撃墜となっています。

この数字が正確で、このとき日本側が来襲機の28%を撃墜していたとすれば、
ヨーロッパ戦線での平均である
来襲機の10~15%撃墜を大幅に上回り、
世界的に見てもこのときの防御率はトップクラスだったことになります。

 

この国土防衛戦についてスミソニアンの解説はどうなっているかというと、

1944年6月、2年前のドーリットル隊の攻撃以来、
日本本土に対する最初の急襲としてB-29 スーパーフォートレスが襲撃しました。
キ-45 「屠龍」を含む日本の迎撃機はこれらを迎え撃ち、
あるキ-45パイロットは8機のスーパーフォートレスを撃墜しています。

このパイロットが誰を指すのかはわかりませんでした。

1945年3月9日、米陸軍第20爆撃集団は焼夷弾による夜間の低高度攻撃を始めました。

日本では3月10日、つまりあの悪名高き東京大空襲です。

これらの任務は、アメリカの伝統的な高高度からの日中爆撃からの
急進的な離脱を示しました。

やんわりとぼかして書いているようですがね。
つまりそれまでは昼間にピンポイント爆撃していたのが、この辺りから
夜間の一般市民無差別爆撃に舵を切ったということですよ。

そしてこれをわざわざ進言したのがあのカーチス・ルメイですよ。
なぜか日本は戦後このおっさんに叙勲しておりますが。

日本は対空砲火と夜間戦闘機攻撃で反撃しました。
ニックの6つのSentais(グループ)が終戦まで故郷の島を守りつづけたのです。

 

アメリカ側の無差別爆撃をちゃんと書いていないあたりはともかく、
こういう視点から語ってくれると実にニュートラルな印象を受けますね。

さて、最後に、「屠龍」が戦後、アメリカ軍に接収され、
そこでのテスト飛行でどんな評価を得たかを書いておきます。
これらもスミソニアンのキュレーターの記述によるものです。

 

アメリカに輸送されてから2〜3ヶ月の間、「屠龍」は集中的に
ライトフィールドとアナスコーシアでテスト飛行を受けました。

陸軍のテスト飛行ではパイロットは

「ニックの地表での操作性は大変に悪い」

と報告しています。
窮屈なコックピット、過度の振動、そして視界不良に対しても低評価でしたが、
ただ離陸距離、上昇速度、飛行特性、進入および着陸、および操縦性は
すべて良好から優秀と言っていい、と高い評価を与えられています。

テストが全て終わった1946年6月、陸軍はイリノイ州パークリッジにある
スミソニアン協会の国立航空博物館(NASMの前身)博物館保管場所に
運ばれた「屠龍」は、現在世界で唯一の現存するその姿をここに留めています。

 


続く。

 

 


創作された「悪の憲兵」像〜新東宝映画「憲兵二部作」

2019-06-16 | 映画

新東宝の当時のポスターが資料として映画の解説に掲載されていたので、
それをご紹介することにします。

まず冒頭は、天知茂主演の「憲兵と幽霊」ですが、
これ見て主演が天知茂だと思う人はいませんよね。
真ん中で拷問されているのも、右上の血まみれのフランケンも
中川昭二で、天知茂は左上になぜか二体、右下で
三原葉子とキスしているシーンと一つのポスターで三様あるのに、
扱いがどうも端役っぽい。

こちらも、いかにも冷酷そうな天知を採用しておりますが、
中心となる構図はほぼ同じ。
これはつまり、拷問される人と亡霊のイメージを打ち出して、
猟奇的な映画であることをアピールする目的だと思われます。

わたしたちが思うほど、天知茂はこの頃
単体で客が呼べるというほどの俳優ではなかったってことですかね。

ところで、このポスターの煽り文句を見ていただきますと、

「生きていた血まみれの銃殺死体」(生きてたんじゃなくて幽霊ですが)

の他には、

日本陸軍の怪奇事件!」

「仕組まれた陰謀の犠牲!断末魔の呪いが呼び起こす日本陸軍の怪奇!」

など、とにかく宣伝部は「日本陸軍」を強調したかったらしいことがわかります。

こちら、「憲兵とバラバラ死美人」のポスター。
中心となっているのは中山昭二と犯人役の江見渉で、
天知茂は拷問されているシーンのみ。(拷問されただけの役ですので)

こちらもポスターはタイトルの「憲兵」という言葉と憲兵制服姿の中山、
わざわざ「軍隊の古井戸」として軍隊を強調しています。

この猟奇事件が特に有名になったのは、それが陸軍内の事件であったこと、
さらにその捜査が憲兵隊でのみ行われ、犯人が軍人であったからでした。

戦後においても、これらがただの猟奇映画でなく、軍隊を舞台にしていることで、
好奇心を刺激されて映画館に足を運ぶ客が多かったのに違いありません。

 

 

二つの作品に共通する、

憲兵=拷問で無理やり口を割らせる、権威をかさにきた非情の集団

という表現は、戦後の創作物では手を替え品を替え、
そのイメージを何度もなぞって既成事実化してきた経緯があります。

それはもはや「憲兵というだけでイコール悪」というもので、
ナチス・ドイツの「絶対悪」視を思わせるものがあります。

 

こんなエントリのときについでに話すことではない気もしますが、
一応ひっそりご報告しておきますと、わたくし先日、
海上幕僚長を表敬訪問するために市ヶ谷に伺ってまいりました。

その会談については、下手にここでご報告をすると、わたしのことですので、
そこでの体験をいらないことまで微に入り細に入り書いてしまいそうなので
自粛しますがそれはともかく、訪問が終わり、出口に向かって歩いていた時のこと。

迷彩服を着た二人の自衛官がいかついバイクに乗っている珍しい光景を目撃し、
あれはどういう人たちか、とエスコートの自衛官に聞いてみたところ、

「儀仗隊の隊員です。儀仗隊も本来は警備が任務なんですよ」

保安警務中隊は全国の駐屯地に置かれ、司法警察職務を行う部隊ですが、
東部方面警務隊もその一つで、決して儀仗だけをやっている部隊ではないのです。

陸自保安警務中隊って、つまり昔でいう憲兵だったてことですよね。

 

保安警務中隊も選抜された隊員で構成されているそうですが、
(特に儀仗を行う第302保安警務中隊は、容姿も選定の対象になる)
それでは憲兵はどうだったかというと、志願者の中から勤務態度、
身辺調査、学科試験、そして面接を経て選ばれました。

陸軍には憲兵を教育するための「陸軍憲兵学校」という組織が置かれ、
そこでは兵卒から採用されたものから将校までが一堂に教育を受けていました。

将校は初等教育を受けてから憲兵科に所属して憲兵将校となります。

 

音楽まつりなどの警務に当たる隊員の腕章には『MP』と書かれていますが、
これは全世界共通の「ミリタリーポリス」の頭文字で、陸軍憲兵隊もまた、
普通に警察権を行使できる保安部隊という位置付けでした。

ただ、現代と決定的に違っているのは、当時憲兵はMP、つまり
「軍事警察」の範疇を超えて、「国家憲兵」の性格を有していたことです。
自衛隊の警務隊がその職務を自衛隊内だけに限定されているのとは違い、
憲兵は軍人や軍の施設以外に対しても警察権を行使できたのです。

「バラバラ死美人」には、地元の警察が捜査を開始し、事件現場を
検証させて欲しいという依頼を、憲兵隊がにべもなく撥ね付け、

「軍隊の中のことは憲兵が片付ける」

と彼らを追い払うシーンがありますが、映画のモデルとなった事件でも、
仙台憲兵隊は仙台警察の捜査介入を拒み、そのため、メンツにかけても
自分たちだけで事件を解決せねばならなくなった、ということです。


この件に限らず、憲兵隊は国と軍を後ろ盾に強権的に振る舞うことが多く、
そのため戦前からすでに市民には嫌われる存在であり、のみならず、
彼らは軍隊内に於いて秩序維持を行う警察としての立場ゆえ、
他兵科の下士官兵からも、つまり内外から煙たがられる損な役割でした。

特に、驚天動地のゾルゲ事件(1941年)以降は、治安維持法に基づき、
一般市民を夜に昼に監視する国家の目となり耳となって、必要とあらば
それこそ拷問上等の荒っぽい手口でスパイや反社会組織、そして
思想犯を炙り出すことも辞さない仕事ぶりが、戦後のイメージを
決定づけ、その刷り込みに寄与したと言ってもいいでしょう。

近年「テロ等準備罪」を「現代の治安維持法」だとする反対派が、
社会主義者に対する憲兵の取り締まりを引用し、その悪のイメージを
反対論の補強として最大限利用したのは記憶に新しいところです。


本作、「憲兵とバラバラ死美人」において、主人公小坂曹長を、
正義感溢れる好青年で、民間に対しても腰の低い「良い憲兵」として描いたのは、
むしろ戦後の物語において常に悪役であり続けた憲兵の地位向上を図る試みであり、
従来の「拷問型憲兵」で、彼を敵視する仙台憲兵隊の萩山曹長と対比させることで、
「こんな憲兵もいましたよ」と宣伝する意味もあるやに見えます。

そもそも「バラバラ死美人」の原作「のたうつ憲兵」の著者
小坂慶助は、22歳で憲兵上等兵を拝命してから順調に出世し、

昭和7年には憲兵曹長となって叙勲された、というバラバラ、じゃなくて
バリバリの憲兵エリートの道を歩んだ人でした。

右側が小坂慶助。撮影の時にも役者に演技指導を行ったようです。

小坂慶助は、昭和10年に起きた相沢事件で、永田鉄山を刺殺した
相沢三郎の拘束を行なった憲兵であり、翌年に起きた二・二六事件では
襲撃された岡田啓介
首相がまだ邸内に生存していることをいち早く突き止め、
反乱部隊の監視下、
首相を弔問客に変装させて救出することに成功した
憲兵オブ憲兵ズでした。

戦後は多くの憲兵と同じく戦犯指名を受け、巣鴨プリズンで収監されますが、
不運だった他の憲兵たちのようにB・C級戦犯として処刑されることは免れ、
小説家となって憲兵時代の体験をもとに著作を残しました。

そんな小坂氏の著作ですから、憲兵と言っても人間社会の普通の集団と同じく

「良い憲兵、悪い憲兵、普通の憲兵」

がいたことを踏まえて書かれていて当然かと思われます。

ここで留意すべきは、本職の彼が書いた「のたうつ憲兵」には、
細川俊夫が演じた、ちょいワル憲兵など出てこないばかりか、
自白を引き出すための拷問シーンなど、全くないということです。

しかしながら、映画化に際しては

「拷問のない憲兵ものなんて」

とばかり、かわいそうな天知茂を痛めつけるシーンがこれでもかと盛り込まれ、
これが一つのハイライトとなっていますし、
翌年の「憲兵と幽霊」も、拷問によってやってもいない罪を自白させる、
という具合に、こちらも拷問がなかったら成り立たない話だったりします。


この理由を、ディアゴスティーニのブックレット解説は

『憲兵とバラバラ死美人』『憲兵と幽霊』の姿勢は、
戦時体制下での
憲兵の権力が、如何に無軌道になりうるかを通して、
戦争や
軍国社会の恐ろしさを訴えるものだともいえる。

と、それこそ「お定まりの」結論に落としこみ、平然としていますが、
これはわたしに言わせると、戦中嫌われていた憲兵を、常に悪役として
再生産してきた全ての創作者たちの、ていのいい自己正当化のようなものです。

 

よく、論敵を攻撃するのに、相手が言ってもないことを作り上げ、
酷い時には本人のセリフを捏造して相手を悪魔化し、それを非難するという、
ストローマン(藁人形)理論を用いる言論者がいますね。
(最近酷かった例は、杉田水脈議員を非難していた某漫画家の取り巻き)

憲兵隊が暇さえあれば罪のない人に拷問していたかのような創作物を構成し、
それをもって「戦争や軍隊の恐ろしさを訴える」というのは、
この藁人形理論以外のなにものでもないとわたしは思っています。

近年、韓国が慰安婦の強制連行や軍艦島での強制労働を描いた映画を制作し、
証拠がないから映画を作って世界にこれを訴える、と表明したとき、
われわれは驚愕し呆れたものですが、本質はこれと似たようなことです。


戦時下で治安維持の名の下に憲兵が行なったことは、当時の状況に照らすと
(誤解を恐れずに言わせてもらえば)憲兵に命じられた任務の範囲です。
自白の手段として拷問が用いられたことは現代の日本の価値観では間違いですが、
それをいうならCIAは?KGBは?シュタージは?

およそ世界の国家警察組織は全て悪であり間違っているということになりますが、
そもそもそれは善悪で論じるべき事柄なのでしょうか。


いかなる物事も、見る位置と時間が変われば、違う面が見えてくるものです。
例えば戦時下、国に忠誠を尽くし国家の命を受けて任務を遂行した憲兵と、
アメリカ共産党とソ連に国の情報を売っていたスパイについて、
戦後の価値観は、前者が悪で後者を被害者と断じ、今でも
特に前者への評価はほとんど変わらずにいるわけですが、果たして
その価値観とはどこに軸足を置いた状態でのものなのでしょうか。

 

戦後、旧陸軍、特に憲兵隊が、創作物などで悪しき面のみを強調され、
藁人形理論によってデモナイズされ続けてきたという一面を、
わたしはあらためて本稿の最後に強調しておきたいと思います。

 

さて、靖国神社境内には「憲兵之碑」なるものがあります。
その碑文は当時の靖国神社宮司の揮毫によるもので、全文はこのようなものです。

憲兵の任務は監軍護法に存したが、大東亜戦争中は
更に占領地の行政に或は現地民族の独立指導に至誠を尽した。

又昭和二十年三月十日の東京大空襲の戦火が靖國の神域を襲うや
神殿を挺身護持したのも憲兵であった。

然しその陰には異国の戦線に散華した幾百万の英霊と、
いわれなき罪に問われ非命に斃れた同僚憲友があったことを
忘れてはならない。

「謂れなき罪」とは、彼らが戦後、特に外地で果たした任務ゆえに
戦犯裁判で有罪となったことを指しているのですが、
憲兵が国家のために、時として我が身を賭して果たした任務への感謝どころか、
それらが全て「拷問」というパワーワードに上書きされてきたことそのものが
「謂れなき罪」=汚名を着せられてきたに等しいといえるのではないでしょうか。

 

さて、ついでと言っては何ですが、残りのポスターもご紹介しておきましょう。

「生きていた血塗れの銃殺死体!?」

→銃殺死体は生きてたんじゃないってば。

断末魔の呪いが呼び起こす日本陸軍の怪奇!

→日本陸軍の怪奇じゃなくて、怪奇現象は
犯罪を犯した人の脳内でのみ起こったことです。

「憲兵とバラバラ死美人」

「スーパージャイアンツ 鋼鉄の巨人」

「肉体の乱舞」(総天然色ヌード映画)

グロ・ナンセンス・エロの豪華三本立て。
半日映画館でこれを全部観たとしたらなんか脳内がすごいことになりそう。

STARMAN VS. THE EVIL BRAIN AND THE INVADERS FROM OUTER SPACE - clip 2

すかさず「スーパージャイアンツ」の英語バージョンを貼っておきます。

STARMANがSTRAWMANに見えてしまった(笑)
ちなみに宇津井健の登場は0:50から。(一応お知らせ)

というか、「バラバラ死美人」ってやっぱりこういう扱いの映画だったのね。

「今更驚きませんが『憲兵とバラバラ死美人』について
かくも熱く語る日本女性は中尉くらいのものでしょう(°_°)」

なんて裏コメが来るはずだよ(泣)

 

シリーズ終わり


新東宝映画「憲兵二部作」〜「憲兵とバラバラ死美人」

2019-06-15 | 映画

「憲兵二部作」にまとめて見たものの、ここに至って

「憲兵とバラバラ死美人」1958年 大蔵貢作品

は、戦争ものや軍隊ものではもちろんなく、かといって
憲兵ものでもないような気がしてきました。

人格高潔な正義漢、冷静で民間人にも低姿勢の憲兵曹長が
難問を解決していく。
つまりこれは軍隊を舞台にした「名探偵もの」に属する話のようです。

さて、名探偵もののサスペンス、特に日本のテレビドラマには
当たり前すぎてまたか、というパターンですが、本作における

「逆玉狙いの野心家の男が、妊娠したそれまでの愛人を殺す」

という動機が「お約束」になったのはいつからのことでしょうか。


ただ、小説のモデルとなった実在の事件で、妊娠した恋人を殺した兵隊には
逆玉とかいう事情はなかったようです。

軍隊ラッパ(らしきメロディのラッパ)とともに浮かび上がるタイトル。
画面がグラグラ揺れていかにもおどろおどろしげですが、
これは単にフィルムの質が悪く安定していないだけのようです。

いきなりネタバレですが、この人がバラバラ死美人。
男の子供を妊娠しているというのに、男が結婚しようと言わないので、

「あなたの隊長にわたしたちのことを話すから」

男は軍服姿だけで顔は見せませんが、とりあえずなだめるために

「わかったよ。君と結婚するよ」

「うれしいわ。きっと、きっとよ」

男がどんな態度でもとりあえず結婚しちまえばこっちのもの、
ということなんでしょうか。

映画では、実際の殺人事件が起きた仙台歩兵4連隊が舞台です。

事件後半年ほどして、第4連隊営庭の炊事用井戸を汲んでいた兵隊たちが、

「水が臭い」

と口々に騒ぎ出します。

クレジットもされていませんが、細川俊之にちょい似の軍曹が、

「連隊の命の水にケチをつけやがって」

と部下を、事情も聞かず確かめもせず、問答無用で殴りまくります。
なのに、その後水を飲むなり吐き出して、

「臭い!魚のはらわたのようだ」

こういう脳筋バカが当時の軍隊にはいて、不条理を絵に描いたような
パワハラを日常的に行っていた、といいたいようです。
まあ実際、それに近いかそんなものだったという話もありますが。


それはともかく、水が臭いのも当たり前、なんと井戸からは
菰で包んだ人間の胴体が出てきました。

ということがわかったのに、その水を使った賄いが作られ、
下士官が新兵に無理やり食べさせるという罰ゲーム展開に。

下士官の口からはとても書けないようなグロい冗談が飛び交います。

そこに士官がやってきて、ゲラゲラ笑っている下士官を叱りつけ、

「初年兵をいじめるとは何事か。お前らも食え!」

って、あなたのやっているのも下士官いじめだと思うんですが。

「どうだ、バラバラ死体の味がようついとるじゃろうが」

いやそれって、さっきまで下士官が言ってた・・・・。

「だらしがないぞ!こんな飯が食えんようで戦地の飯が食えるか」

じゃあ自分は食ったのか、とは士官なので誰も言えません。
しかし、戦地の飯とか以前に、こんなもの食べて集団食中毒起こしませんかね。

ちなみに、出演しているほぼ全員が坊主刈り風のヅラを被っています。
陸軍ものはこれがねえ・・・。

憲兵隊は早速事件の全容解明に向け動き出しますが、
被害者が民間の女性だったということで仙台警察も捜査を始めました。

憲兵は内部のことに外部が関わるべきではないという理由でそれを阻止しようとします。
実際にも仙台憲兵隊は、統帥権干犯という言葉まで使って警察の介入を拒否しました。

一ヶ月経っても事件の手がかりが掴めないため、応援を要請された
東京の憲兵隊から、エース(とそのカバン持ち)が投入されました。

本編の主人公、小坂憲兵(中山昭二)です。

もちろん仙台の憲兵はこの東京からの憲兵派遣が面白くありません。

「東京の憲兵に先にホシを挙げられては仙台憲兵の恥辱ぞ」

憲兵曹長萩山(細川俊夫)を筆頭に、チクチク嫌味を言ったり、
先回りしようとしたり、縄張り意識丸出しで東京組に全力で反抗してきます。

さすがにムッとした小坂は、憲兵隊の紹介を断って、
同行の高山(鮎川浩)の知り合いの旅館に投宿することになりました。

旅館の女将兼おでん屋マダム(若杉嘉津子)とその妹(江畑洵子)。
実は高山、妹のおしのちゃんに想いを寄せています。

 

捜査が進まず焦る仙台憲兵隊チームがようやく証言者を得ました。

彼は、深夜、井戸にものを投げ込む音を聞いたあと、恒吉軍曹(天知茂)が現れ、
口止めのタバコを渡していったと証言したのです。

「恒吉軍曹はが男前で女にモテたので、いつも帰りが遅かったのであります」

それを聞いた萩山曹長、おもむろにペンを取り、一言書き記して
丁寧に折りたたんでから
部下に渡しました。

一礼して受け取った部下がおもむろに開いてみるとそこには。

恒吉を洗へ

これくらい口で言えばいいと思うのですが、証言者に聞かれないようにかな?

さらに、恒吉の女が働いていた料亭の女将から、
彼女が退職して今行方不明と聞き、さらに疑惑を深めます。

一方小坂は、下宿のおでん屋で働いている老婆の息子が
陸軍病院に入院していて、
明日手術だということを知ります。

息子の手術成功を祈って一心不乱に祈りを捧げる老婆。

その後ろ姿を見ながら小坂が考えたのは全く別のことでした。

「陸軍病院の手術室なら短時間に遺体をバラバラにできるのでは・・・」

翌日、陸軍病院を訪ねた小坂は、手術で亡くなってしまったらしい
昨夜の老婆の息子の通夜に遭遇します。

読経の流れる中、猫の鳴き声が聞こえてきて、ふと目をあげた小坂が窓に見たものは・・。
なんとまたしても「憲兵と幽霊」状態か?

窓から外を覗くと、陸軍病院にある井戸の上に猫が。
ここは黒猫にしていただきたいところですが、スタッフの飼い猫
(首輪をしている)には三毛しかいなかったようです。

翌日、小坂が井戸を浚わせると、長い髪のついた頭皮が出てきました。
素手で手にとって持ったまま嬉しそうに笑う小坂と高山。

でたあああ!

というわけでついに行方不明だった頭部発見。

「悔しいだろう。犯人は必ず挙げてやるよ」

というわけで、現時点で容疑者ナンバーワンの恒吉が尋問を受けることに。

天知茂はこの一年後、「憲兵と幽霊」で妖艶なワル憲兵を演じることになりますが、
兵隊ヅラをつけてしおらしく座っている様子は、小物臭満点です。

種明かしをしておくと、恒吉は確かに軍の衣服を横流しして
小銭を不当に稼ぐという犯罪を犯していたものの、所詮は小悪党。
もちろんいなくなったという女中を殺した覚えなどないので、
否定するしかなく、そうなると憲兵も拷問するしかありません。

「そんなにしらばっくれるなら貴様の体にきいてやる」

でたよお約束の憲兵のセリフ。


やってないものはやっていないので、恒吉も口を割らないのですが、
そうなると拷問がエスカレートしていくのもお約束。

っていうか、拷問って、無実の人を冤罪にするためのシステムですよね。

拷問で自白させたって真実の証言が得られるとは限らない、
とやんわりたしなめる小山ですが、
案の定萩山は烈火のごとくこれに反発し、

「恒吉が犯人じゃないという証拠はあるんですか!」

と悪魔の証明を求めてくるのでした。

何が何でも恒吉に自白をさせるのが自分のやり方、と意固地になり、
拷問はさらにエスカレートしていきます。


しかし、鞭打ちこそないものの、撮影で逆さ吊りにされて水をぶっかけられる
(絶対これ鼻に入ってる)拷問シーンに耐えたこの時の天知茂は偉かった。

20歳から映画界入りしたものの、大部屋時代が長く、まだこの頃は
ちょい役しかもらえず困窮していたという天知は、
食費にも事欠く生活のためか
ご覧のようにガリガリに痩せています。

だからこそ逆さ吊りにも耐えられたっていう説もありますが、とにかく
東宝が経費節減のため安いギャラで使える男優を使い回しするようになって、
天知茂がようやく主役と言える作品に抜擢されるようになったのは、
この「憲兵とバラバラ殺人」の次に制作された「暁の非常線」からなのです。

逆さ吊りされても文句言わず頑張った甲斐があったね(涙)

文句なしの主役だった「憲兵と幽霊」(変な役でしたが)に至るまで、
7本もの映画でソコソコの役を演じ、59年には東海道四谷怪談で演じた
伊右衛門の役で評価された天知は、その後、明智小五郎が当たり役となって
押しも押されもせぬスターダムにのし上がりました。

東京組と仙台組憲兵隊の対立は場外乱闘にも及ぶようになり、
おでん屋で伍長同士の取っ組み合いが始まってしまいます。

小坂はそんな雑音など耳に入らぬほど一心不乱に捜査に邁進していました。

事件当時、陸軍病院に勤務していた内部の者を四人ピックアップし、
写真を提出させて一人ずつ洗っていくという科学的捜査の開始です。

おでん屋の女将で小坂の短期下宿の家主、喜代子は、彼の誠実な態度や
仕事に対する熱心さにいつの間にか惹かれていきます。

「こんなおばさんですもの、貰い手があるかしら」

などと自虐して、否定して欲しそうですが、鈍感な小坂はこれをスルー。

しかし、次の瞬間、着替えを手伝う手が彼の手に重なってしまうという
巧妙な作戦が見事功を奏して小坂の心をぎゅっと鷲掴みに(個人の主観です)

そんな時、ひょんなことから、妹の友人妙子の婚約者、君塚軍曹が
事件当時陸軍病院に勤めていた四人のうちの一人であることがわかりました。

聞き込みによって、彼が不審な荷物を使役に運ばせていたということも明らかになります。

小坂は仙台警察の老刑事と協力して証拠固めに入りました。

被害者が生きているように偽装した手紙の筆跡、写真館で撮った
君塚と被害者の写真、そして歯科医に照合させた歯型。

全てが君塚が犯人であることを裏付けるものとなりました。

満州で独身ライフを謳歌している君塚、姑娘とイチャイチャしているところに
突如彼を捕まえるために派遣された小坂憲兵が現れてビビりまくり。

そんな君塚に、小坂は被害者の写真と遺体の胴体の写真を突きつけて、
火曜サスペンスのように、滔々と自分の推理を語るのでした。

全ては小坂の推理通りでした。

衛生兵だった君塚は遺体を手術室に運び、医療器具で切断していたのです。
死んだ百合子を手術台に乗せた時の、自分を見ているかのような
彼女の眼が思い出され、今さらのように彼は絶叫するのでした。

「百合子お!許してくれえ!」

 

さて、それでは次回最終回として、憲兵とこれらの映画について
もう少しだけお話ししたいと思います。

続く。

 


新東宝映画「憲兵二部作」〜「憲兵と幽霊」

2019-06-14 | 映画

ディアゴスティーニでコレクションした戦争映画のDVDの整理をしていて、
題名だけでこれはもうキワモノに違いないと確信する、二つの
「憲兵もの」を見つけました。

「憲兵とバラバラ死美人」1958年

「憲兵と幽霊」1958年

毎回言うのですが、この東宝戦争映画コレクションには、
舞台が軍隊であるというだけで絶対戦争ものじゃないよね?
というのが多々含まれており、これもその二つです。

どちらの映画も取ってつけたように戦争に突入する頃のニュースを
輪転機に字幕という安易な方法とはいえワケありげに挿入し、
出征する兵士を見送る行列のシーンなどを挟んでおりますが、
もちろんのこと戦闘シーンなど、一切出てきません。

ただ、両作品は、どちらにもそれぞれに憲兵を主人公にする意味があり、
憲兵でないとなりたたないという内容となっているので、厳密には、
軍隊ものでも戦争ものでもなく、「憲兵もの」にカテゴライズするべきだと思います。

わたしがこれを取り上げる気になったのは、どちらにもあの、

「太平洋戦争 謎の戦艦陸奥」

で「謎の陸奥副長」を演じた、当代一のマダムキラー兼流し目スター、
天知茂が登場していたからです。

彼が軍人を演じるだけで、アンビバレントな、背徳のにほひが漂うのに、
さらにそれが「憲兵」だなんて、これは期待するしかありません。(変な意味で)

しかし、意外だったのは、確かに「幽霊」では背徳の憲兵となって、
ピカレスクものの主人公という美味しい役を演じている彼が、その前年制作された

「バラバラ死美人」では、兵曹Aという端役に過ぎなかったことです。

そして主役を入れ替えるように中山昭二(のちのキリヤマ隊長)が、
嵌められて処刑される下士官を「幽霊」で、「バラバラ」では
事件を解決する有能憲兵隊長、つまり主人公を演じています。


監督が違うのに、どうしてこんなに役者がカブっているかというと、
新東宝が手持ちのスターを使い回ししていたからだと思われます。

中山昭二という俳優はどちらかというとバイプレーヤーのイメージで、
ウルトラセブンが代表作、と思っている人も多いと思いますが、実際
彼が主演を演じることができたのは新東宝時代だけだったそうです。

この頃は同等か、少し下だった天知茂の方がこの後メキメキ売れて、
結局有名になってしまいましたよね。

 

それでは、年代的に後作になりますが、「憲兵と幽霊」から参ります。

昭和16年、大東亜戦争直前の秋、(あまり筋には関係ないけど一応)
神社である憲兵の結婚式が行われました。

田沢憲兵伍長と美しい花嫁、明子を取り合って負けた波島少尉は、
宴会の席でも粘着質丸出しのジト目で高砂を凝視しております。

「絶対あいつを奪ってやる」

どういう経緯で彼が恋の鞘当てに負けたか全く描かれていないので、
観ている者には波島の異常な嫉妬の理由がイマイチよくわかりません。

しかも、新郎新婦はこんな目つきで睨まれていても無頓着です。
フラれた女にこれほどの執着があるからには、その前提として
男と喧嘩するとか女に言い寄って振られるとか、諍いのようなものが
絶対何かないとおかしいのですが、その辺は尺の関係で一切スルー。

 

この波島という男、もともと大変な秀才だったのに、父親が自殺したので、
陸軍大学に入ることができなかった、という過去があるようですが・・。

波島は、同じ料亭に呼ばれていたダンサーの紅蘭が酔客に絡まれているのを
憲兵の威光でもって助けてやります。

一眼会うなり互いに同類を認め、惹かれ会う二人。

波島、さっきとは打って変わってしおらしい表情になります。
その後も紅蘭と会う時には、彼はなぜか「善人波島」モードなのです。

映画では描かれていませんが、紅蘭は大陸生まれの日本人で、
彼女の父親も色々あって自殺しているという設定です。

早速紅蘭の出演しているナイトクラブに行ってしまう波島。
歌っている時には彼女の顔を凝視しているのに、彼女が近づいてくると

目をそらして横を向く彼の屈折した態度に、本気度が現れています(多分)

二回目の邂逅にして、ダンスをしながら、感極まった紅蘭、

「好き・・・・・・・」

これをイヤフォンで聴きながら観ていたわたし、思わず

「なんでやねん!」

と大声でツッコミを入れたら、息子にビビられました。

 

しかしここからがエグい。
波島、軍の機密書類を盗まれた部下をそそのかし、その罪を
田沢(中山昭二)に押し付けさせます。

早速、拷問で口を割らせるというお約束の展開に。

この二つの憲兵映画は、世間の思っている憲兵のイメージをそのまま
なぞり、そのパターンを踏襲しているわけですが、後半では
そんなことも語ってみたいと思います。

あらんことか、口を割らない(そりゃそうだ)田沢に自白させるため、
波島は嫁と母親をしょっ引いてきて拷問というあくどい手を。

お婆さんでなく、若妻だけをベッドのむき出しの架台に襦袢一枚で縛り付ける、
という、一部のお好きな方にはたまらないサービスシーンも盛り込んで、
エログロナンセンス路線に舵を切った新東宝の真骨頂って感じです。

高校生の時読んだ大江健三郎(その頃は何も知らなかったんです)の
「セブンティーン」という小説に、(居場所のない高校生が最後に右翼になって
心身ともに満たされるという話)クラスの陽キャ(道化ともいう)のあだ名が
「新東宝」だったという一節があったのを今にして思い出してしまいました。

 

妻と母を守るために心ならずも嘘の自白をして、速攻銃殺刑になる田沢。

今際の際に思いっきり恨み骨髄の怨嗟を吐き散らかしたため、
銃殺隊に組み入れられていた彼の双子の弟は卒倒。

しかし、人がドン引きするこんな光景を見ても、波島は
相変わらず片頬でニヤリ、ニヤリとほくそ笑むのでした。

陸軍大学に入れなかったくらいでこんな血も涙もない極悪人になる、
というのがまずあまり説得力がないんですが、そのワルぶりは冷血にとどまらず、
実はこの男、怪しげな中国人に軍機を売って小銭を稼いでおったのです。

そう、機密書類紛失は、波島が自分で盗んだものでした。

サイドビジネス犯行のの証拠隠滅のついでに恋のライバルを消す。
誰がどう見ても売国奴ですありがとうございます。

しかし父が自殺して陸大を落ちたぐらいで、こんなになるものかしら。
陸軍に入った時点ではお国に奉職しようと思ってたわけでしょ?
その国を売り飛ばすに至るというのは、なんか設定としてやりすぎな気も。

それだけではありません。

手始めに明子の言動を捏造して義母に吹き込み、彼女を自殺に追い込みます。
さらに夫を亡くした明子に会社を紹介しますが、それはおためごかしで、
会社に裏から手を回し、明子をクビにさせるのが目的。

そうやって散々弱らせておいて、ついにある夜、酒で酔い潰し、
無理やり彼女を押し倒して思いを遂げます。

空襲警報発令中にも関わらずお仕事中の波島さんをご覧ください。

こうして見ると、男前なのに卑しさが溢れ出ていて(歯並びのせいという説も)
これが演技なら凄いなあと感心してしまいます。

その後、散々彼女を弄んだ波島は、半年後にはすっかり飽きて、

「手切れ金だ」

「わたしをあんな酷い目に遭わせて・・・なんということを。
それにわたし、子供ができちゃったの」

「一体誰の子だ」

「誰の子ですって?」

「酔えばすぐに体を任す女、手切れ金をもらうだけでもできすぎじゃないか」

イヤフォンで聴きながら観ていたわたし、思わずここで

「#はああああ?」

と叫んで、息子に「さっきから何観てるの」と不審がられました。

波島から軍機密を買っている怪しげな中国人スパイ、張。
実はこの張さんの愛人が、偶然あの紅蘭でした。

イッツアスモールワールド。

張のアジトでバッタリ紅蘭に出会い、驚愕する波島。

愛人紅蘭がお風呂に入ったり、しどけない姿で寝っ転がったりと、
殿方へのサービスシーンもふんだんに。
戦後のバンプ女優ナンバーワンと言われた三原葉子が演じています。

惹かれあっていた二人は張の屋敷であることも忘れ思わず抱き合って、
案の定それを見ていた張は激しく嫉妬するのでした。

嫉妬する者が嫉妬される、これが本当のエンドレスシッティング(意味不明)

その後、張の存在が憲兵隊に知れ、彼を捕らえるために憲兵隊が動きます。
そこでなぜか波島の元にやってきた田沢の瓜二つの弟。

兄の銃殺の時には一兵卒だったのに、いつの間に憲兵に?
などとつっこんではいけません。

とにかく、自分の部下として同じ憲兵となって現れた田沢の存在に
波島は動揺を隠せません。

自分が死に追いやった男と同じ顔がいつも近くにあるっていうのも
一般的にいやなものだろうと思います。

弟を見るたびに田沢の最後の形相が思い浮かび、波島は自分にも
良心のかけららしきものがあったことを思い知るのでした。

 

張を捕まえる命令を受けた波島は、情報を流し、張が寄越した身代わりを捕まえます。
それが張ではなく王という男であることを証明するために
田沢の弟が連れてきた看護師は、自分が手篭めにした明子だったのです。

イッツアスモールワールドアゲイン。

主婦をやっていたと思ったら会社に就職するなりタイピストになってるし、
いつの間にか看護師の資格を取っている明子さん超有能。

男が張ではなく王であることを証言するついでに、柳眉を逆立て、

「この人(波島)の悪人ぶりならいつでも証言して差し上げますわ!」

と言い放つ明子。
動揺する波島。怪しむ田沢弟。
というわけで、この証言がきっかけで憲兵隊が波島の身元を洗ったところ、
出てくるわ出てくるわ真っ黒な証拠が。

万事休すの波島、紅蘭を連れて逃げようとしますが、嫉妬に狂った張に
彼女を撃ち殺されてしまいました。

そのままなぜか墓場に迷い込んでしまった波島を迎えたのは、
その辺に放置されている骸骨で、眼から蛇がこんにちはしています。

その後は、貼り付けにされた田沢とか、棺が開いたら、中から
水浸しで現れる行きがかり上殺した部下Aとか、自殺した田沢の母親とかが、
スリラーのMV並みに出てきて、これが本当の「憲兵と幽霊」状態。

実際のことなのか、波島の良心が作り出した幻想かはわかりませんが、
次々と現れる幽霊から逃げ惑い、怯える波島。

やっぱり悪いことしたらそれ相応の報いがあるよってことかな。

それにしても、この墓場でのシーンの天知茂が美しい。
流し目をしているときより、恐怖に目を見開いている表情、
苦痛の表情が実に似合う彼の美貌に見惚れてしまいました。

つくづく幸福より不幸、善より背徳が似合う男優だったんだなあ。

そしてついにお縄になる波島。
諦めたような(´・ω・`)ショボーンとした表情もまたいとおかし。

最後はいきなり女性コーラスメインの爽やか系な音楽鳴り響き、
田沢の未亡人と田沢弟がこれからどうにかなりそうな展開を示唆して、
映画は終わります。


さて、続いて「憲兵とバラバラ死美人」という映画についてですが、
本編説明に入る前に、この映画の元になった実際の事件について少し
お話ししておきたいと思います。

題名だけでどんな事件かほぼ全容がわかってしまわれるでしょうが、
あえて説明すると、映画のストーリーでは

「金持ちの娘と結婚したい軍人が、妊娠したそれまでの女を殺し、
バラバラにしてその遺体を捨てた」

という事件となっています。

この映画のベースになったのは、

小坂慶助著「のたうつ憲兵ー首なし胴体捜査64日ー」

という、実在の殺人事件を基に書かれた小説でした。
当時世間を震撼させたその殺人事件とは、次のようなものです。

昭和13年1月23日、仙台の第二師団歩兵第四連隊営庭の炊事用井戸で
性別不明の腐乱死体が発見された。

急報を受けた仙台憲兵分隊長少佐が屍体を引き揚げて検証したところ、
それは頭部、両腕、両膝から下が切断された妊娠中の女性の死体とわかる。

仙台憲兵分隊では捜査班を作り、全容解明に向け捜査を開始。
頭部と両脚の捜索を行ったが、発見には至らなかった。

その後、検事正ら検事局が介入してきたのを、憲兵側は統帥権干犯として拒否。
(このことも映画には盛り込まれている)

そのため、憲兵隊は面目にかけても犯人を挙げなければならなくなった。

本格的な営内調査で、聞き込みはもちろん、出入り商人や除隊者、
営内に立ち入った面会人などあらゆる線の捜査が行われたが、
手がかりは全くつかめず、捜査は行き詰まった。

動揺した憲兵隊は祈祷師に占いまでしてもらうという動揺ぶりを見せる。

そのうち、連隊近くの家で女中をしていた23歳の女性が行方不明であること、
彼女が歩兵第四連隊の衛生軍曹に子供ができたので認知せよと迫ったことがわかる。

そこで憲兵隊は佐藤衛生軍曹が以前勤めていた病院の井戸を捜索した。
すると、中から頭蓋骨を始め切断された各部が発見された。

 

歯科医の治療記録から本人確認をし、佐藤軍曹の身柄を確保。
佐藤は護送中に列車から飛び降りて脱走を図るが負傷して捕まり、
半年後の裁判では殺人及び死体遺棄によって懲役7年の刑に処された。

 

次回、小説と映画の相違についてもお話していこうと思います。

 

続く。

 


ウェストパックの大きなお婆ちゃん〜空母「ミッドウェイ 」アイランド・ツァー

2019-06-12 | 軍艦

 

サンディエゴの記念艦「ミッドウェイ」、念願の艦橋ツァーに参加できることになり、
十人くらいの見学者と一緒に艦橋に入っていったというところまでお話ししました。

乗艦に際してはボランティアの爺さんが各自持っているトランシーバーで

「次のツァー出発OK」「ラジャー」

みたいなかっこいいやり取りを行って(笑)後発が出発するという感じで、
きっかり何時に行われる、という形態ではありません。
おそらく人が多い週末や日中は、長蛇の列ができることになるでしょう。

わたしは最初から艦橋ツァーが目当てだったので、入館すると
脇目も振らずツァー出発地点に向かい、最初のツァーに参加できました。

階段を4つくらい(4段ではありません)上り最初に到達したデッキには、
このようにカメラを操作するシーマンが立っています。

 艦橋からの映像をここで撮影していたのはこの人?

今ではもちろん無人化されているでしょう。

このシーマンがいるところは外から見るとこんな風になります。

航空管制を行うデッキにやってきました。

おじさんの体で隠れている椅子は「エアボス」、隣の「MINI」がミニボスの席。

エアボスは飛行長、ミニボスは副飛行長のことで、エアボスは
艦長と同等の権限を持ち「ミッドウェイ」では同じ大佐職となっています。

ミニボスは中佐、艦によっては少佐のこともあります。


こういう座ってもいい椅子があると必ず座って写真を取りたがるのは、
子供、さもなければほとんどが中国人。

「ランチ・ステイタス」というのは航空機の状態を示すボードです。
どちらから見られ、視界を邪魔しないようにアクリルでできています。

書かれているのは「F-8」「F-4」「A-4」などの当時の艦載機、
パイロットは全員が士官です。

甲板が死角なく見える角度に窓は斜めになっており、エアボスの席は
さらに一段高いところから俯瞰できるように設えてあります。

左の出っ張ったところがエアボスたちの席のあるところです。

外から見るとこんな感じ。

航空管制室を出ると、デッキを通って階段を降りていきます。

そこにあるのはナビゲータールームです。

左の小さなモニターがついているのはナビゲーションシステム。
テンキーがついているのがアナログな感じですね。

昔ながらの航法を行うための用具も。

海上自衛隊でも、体験航海や観艦式で、チャートルームで
コンパスと定規を使ってチャートに向かう乗員(三尉が多い気がする)
の姿を見ることがあります。

どんなに航法システムがデジタル化されても、完全にAIとなっても、
基本その手助けを借りずに船を動かすことができるだけの備えをするのです。

ミッドウェイで使われていた六分儀だろうと思われます。

六分儀、という名前は(この写真では分かりにくいですが)その枠が
円周の6分の1の形をしていることからきています。

簡単にいうと、これで天体と水平線の角度を測ったり、月と天体の間の距離から
現在位置や現在時刻までがわかるという昔ながらのアナログ機器です。

wikiのアニメーションが分かりやすいので貼っておきます。

ナビゲーションルームにある本は、やはりチャートそのものとか、
「太陽の高度による航法」(つまり六分儀の使い方)など。

ソナーのトランスミッター。
横には「ソナーセットの取り扱い方」という説明が貼ってあります。

ナビゲーションルームを出てまた移動です。

この場所はちょうどホークアイの真上なので、お皿の上が観察できます。

最後に見学したのは巨大な空母「ミッドウェイ」の中枢であるブリッジでした。
「CO」と書かれた椅子はほかでもない艦長の席です。

ミッドウェイの艦長は1945年9月10日に就役した時の初代艦長、
J・F・ボルガー大佐から始まって、1992年の退役までの間40名。

40名の艦長がここでこの巨艦の指揮を執ってきました。

この47年間の間、艦長がいなかった時期が二回ありますが、
これはいずれも大改修の時であったと推測されます。

艦長席の横にあるスイッチ各種。
命令伝達をする際のスピーカーの切り替えかなんかでしょうか。

軍艦の艦橋はこのように二重構造になっていることが多いようです。
特に航空攻撃によって艦橋が狙われやすかった時代の戦艦「マサチューセッツ」などは
まるで日銀の金庫並みに分厚い二重構造になっていたのを思い出します。

海戦における航空機の攻撃という形態が変わってきたので
その頃ほどではありませんが、それでもこの中のものを守るために
このような構造を取っているのかと思われます。

その「守るもの」とは・・・・もちろん操舵装置。

ブリッジから見た甲板と海軍基地(とプラウラー)。

中国本土から来たらしい一家。
最近はミッドウェイでも中国人観光客が激増しています。

ブリッジのステイタスですが、略語の意味わからず。

このステイタスボードも二重構造の内側にあります。

艦全体の現在状況を把握するための計器類だと思われます。
下の真ん中に「フロアアングル」とありますが、「ミッドウェイ」は
日本の技術者による「伝説の改装」を受けた後、ただでさえ揺れやすい艦体が
さらに揺れるようになり、ついに揺れ角24という最高記録を打ち立てて、
記念のTシャツが作られたという逸話を持っています。

その時、この計器は華々しく?24ディグリーを指し示し、
周りの乗員たちの注目を集めたはずです。

ちなみに、日本人技術者は、2年かかるはずの改修を半年で済ませましたが、
その設計がミスで、「ミッドウェイ」の揺れが酷くなると気づいていたそうです。

「ミッドウェイ」の方位磁針。別名羅針盤。

このチェアに座ると、「ミッドウェイ」の右舷側を一望することができます。
それではここにはなんのために座るんでしたっけ?

そう、英語でアンダーウェイ・リプレニッシュメントと称しているところの
洋上給油の監視ですね。

空母の場合、甲板の反対側、右舷と給油艦がホースで結ばれるので、
この椅子に座って右舷側の状況を監視するわけです。

この写真は真ん中が補給艦、右側で同時に補給しているのは
駆逐艦だろうと思われます。

「非常時における脱出について」とあります。

非常時になると短く6回ホイッスルが鳴らされる。
これを「ブレーク・イマージェンシー・シックス」といい、
給油をしていたらすぐに中止し、荷物を運んでいたらやめて、
次の行動に備えよ、という様なことが書かれていました。

「スキッパーは眠らない」というタイトルで書いたことがありますが、
艦長はいつ寝ているかわからないほどいつも人の目に触れています。

艦長用のちゃんとした寝室はアイランドの下の階にあるのですが、
ブリッジのすぐ横には艦長専用の個室があって、ここで
仮眠をとったり食事をすることもしょっちゅうなのだそうです。

ちなみに寝ないことにかけてはエアボスも艦長並みなのだとか。

当時は喫煙をする艦長も結構いたようですね。
おそらく今のアメリカ海軍では特に士官はほぼ喫煙率は0に近いと思われます。

枕元の本棚には「海上での指揮とは」(実用書?)の他に、
トム・クランシーの小説「パトリオット・ゲーム」があります。

確かジャック・ライアンがアナポリスの教官であるシーンから始まるんですよね。

アメリカのどの家庭にもある、扉の後ろが薬棚になっている鏡があり、
当時は最新型だったに違いないビデオ内臓の小さなテレビが供えてあります。

ここまでちゃんとしていたら、ずっとここで生活する艦長も多かったでしょう。

アイランドツァーをしてくれたのは、退役軍人のボランティアです。
飛行甲板からブリッジまで、狭い階段を48段(と言っていた気がする)
上って下りて、をするにはかなりのお年にお見受けしますが、
自分の経験を交えて「ミッドウェイ」の説明をすることを
きっと何よりも生きがいのようにしておられるのでしょう。

現役時代を彷彿とさせる眼光の鋭いおじいちゃまでした。

さて、というところで三年かけてやっと実現したアイランドツァー、
これで終了です。

ブリッジの階から48段の階段を下りていきます。

飛行甲板にたどり着きました。

Welcome Aboard 

' The grand Ole Lady of West-pac'

ウェストパックというのは今でも例えばアメリカの空母打撃群が
南シナ海での「自由の航行作戦」や北朝鮮への威嚇のために
アジアまでのツァーを行う際に使われます。

「ミッドウェイ」の艦歴はその全てが日本での勤務にあり、
バリバリの現役艦であった頃は、そのため

「剣の切っ先」

と呼ばれることもありました。

おそらくですが、この「大きなお婆さん」呼ばわりは、
彼女が600隻艦隊構想で延命措置を受けた頃のものではないでしょうか。

今、このお婆ちゃんは、その役目を終え、その歴史を後世に残すことを役目に、
静かにサンディエゴにその艦体を休めています。

 

続く。

 

 

 


へランティスブロン(HELANTISUBRON)の謎〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-06-10 | 航空機

前回の「ミッドウェイ」シリーズでは、2年前の訪問時の写真をご紹介しましたが、
今回から最新(といっても昨年夏ですが)のものを挙げながらお話します。

昨年夏、三度目となる「ミッドウェイ」見学のため、サンディエゴに滞在しました。
部屋からは以前ここでもご紹介した「パール・オブ・インディア」が見えます。
アラスカに鮭を採りにいっていたこともある帆船です。

エレベーターを待つフロアは全面ガラス張りで、「ミッドウェイ」がこんな風に見えます。

この写真もエレベーターホールからガラス越しに撮ったもの。
「ニミッツ」級空母3番艦の「カール・ヴィンソン」です。

カール・ヴィンソンは民主党の下院議員で、1981年に97歳で亡くなりました。

その活動は戦前からで、なんでも日本が海軍条約脱退した後、
アメリカの海軍力を拡張するのに大変貢献し、戦後も海軍委員会の議長として
原子力空母の調達実現への原動力となったという人物です。

「カール・ヴィンソン」が進水式を行なった時、彼は96歳でこれに出席し、
存命中の人物の名前がつけられた最初の空母となりました。

「ミッドウェイ」に来るときには必ず宿泊するレジデンスイン・バイマリオット。
去年まで工事中だった向かいのホテルも今年は開業しています。

地の利もあって結構お高いのですが、今回はカードのポイントが使えました。

「ミッドウェイ」開館の時間前にわたしは現地に向かいました。
歩いて数分で到着です。

埠頭は朝早い時間はホームレス、日が昇ってくると観光客で大変な人出となります。

後部デッキにはおなじみ、二体の乗員の人形があるのですが、
ちょっとこれ見てくださいます?

2年前の写真。
ぽ、ポーズが変わってるっぽい。((((;゚Д゚)))))))

作業船がメンバーを載せて準備中でした。
左から2番目の人はダイバーだったりしませんかね。

何をするつもりかはわかりませんが、とにかく「ミッドウェイ」は
このように切れ目なくメンテナンスを行なっているようです。

連日かなりの人数が観光に訪れるだけでなく、企業からのファンドや寄付も集めています。
民間人にも寄付を呼びかけており、ボランティアを募ることによって
この「国家遺産」の維持を図っているのです。

「軍事遺産」への対応が冷たい日本などとは比較にもならないレベルですが、
アメリカでも「ミッドウェイ」は特殊な部類といえるでしょう。
東部の重巡「セーラム」のように、ほぼ放置されたまま、という遺産も結構あるのです。

オープン前だというのに、チケット売り場にはもうこんな列ができています。

「ミッドウェイ」入館料は大人22ドルと結構高い方です。
(だいたいアメリカの博物館の相場は12ドルといったところ)

入館してすぐハンガーデッキにあるエンジンは、

R-2800 ツイン・ワスプエンジン(プラット・アンド・ホイットニー)

空冷星型複列18気筒の航空用エンジンで、F4Uコルセアなどが搭載していたものです。
説明のタイトルは

THE ENGINE THAT WON THE WAR」(戦争を勝利に導いたエンジン)

はいはい。

いつもちゃんと撮れなくて、今度来た時は、と思っていたアクリルの「ミッドウェイ」。
透明な素材で作ることで内部構造がよくわかるというわけです。

とにかくこの構造がすごい。
他のところならこれだけでも博物館の展示の目玉になりそうな手の込みようです。

この日もサンディエゴは雲ひとつない超晴天。
まだほとんど人のいないフライトデッキの様子をご覧ください。

くるたびに少しずつ塗装や展示が変わっているのが「ミッドウェイ」。
このT-2『バックアイ』ですが・・・・、

去年いなかったパイロットがコクピットにいます。

左からF-2/3 「フューリー」、F9F-8P「クーガー」、F9F「パンサー」

ほぼ同時代の戦闘機が羽を上げた状態でまとめられています。

今年修復作業を行なっていたのはF-8「クルセイダー」

まず塗装を剥いで継ぎ目の錆止めから下処理を行い、風防は全て交換するようです。
現役機並みに手をかけるんですね。

ハンガーデッキにテントを立てて設えられた「ヴェテラントーク」のコーナーでは、
一番乗りしてきた男性に、元艦載機パイロットのヴェテランが早速
「ランディング・トーク」で、自分の現役時代の体験を披露していました。

この向こうは全てヘリコプター。
手前の「シコルスキーHO3S」「シーバット」など、第二次大戦後の
「ヘリコプター黎明期」に活躍したヘリが並びます。

朝鮮戦争下で北朝鮮の爆撃を行った米海軍を描いたウィリアム・ホールデン主演、
グレース・ケリー助演、なんと横須賀などが舞台になるせいで、
淡路恵子が出演しているという

「トコリの橋」(The Bridges at Toko-Ri)1954年

ではシコルスキーHO3Sが活躍するシーンが観られます。

そのHO-3Sのコクピットにも、去年まではいなかったこんな人が。
ウィリー・ウォンカか?

と思っていたら、なんとですね。

The Bridges At Toko-Ri Theatrical Movie Trailer (1953)

この「トコリの橋」の予告編、最初からご覧になってください。

1:00〜から、これと同じような帽子をかぶった人(ミッキー・ルーニー)が
出てきて、わたしは思わずあっ!と声を出してしまいました。

1:10からは酔っ払いに絡まれる淡路恵子姉さんが出てきますし、
1:15から映るのは富士屋ホテルです。

2:00からはなぜか空母甲板の上で着物を着た日本女性が踊ってるという・・・・。

この映画、俄然観たくなりました。

というわけで、映画を知っている人は、なるほど!とこのマネキンを見て
ちょっと嬉しくなってしまうという仕掛けです。

これも朝鮮戦争で活躍したヘリ、「HUPレトリーバー」
いつの間にか全ての座席にパイロットが乗っています。
当時のヘリパイがどんな装備で乗務していたかわかります。

「SH-2 シースプライト」など、乗員を3人乗せるという大盤振る舞い。
ヘリコプターのハッチを開けたままにして、落ちないように
防護網を貼って飛ぶというのは当時のやり方だったのでしょうか。

「シースプライト」は対潜ヘリです。
「沈黙の艦隊」ではすぐそこに停泊している「カール・ヴィンソン」に搭載され
原子力潜水艦「やまと」を迎撃するという設定でした。

定員は三名。
後部座席にはイケメンすぎるクルー(TACO?)がいました。

もともとカマン・エアクラフトがあの無人対潜ヘリ「 DASH」の代替に
開発したヘリなので、武装もしています。

機体に描かれた部隊マークの「HELANTISBRON」とは、
おそらくですが、

HEL=ヘリ ANTI=アンチ SB=潜水艦 RON=ロン

だと思います。
だからロンってなんなんだって話ですが、多分これは
「スコードロン」のロンなんだと思われます。

「対潜ヘリ部隊」を一言で言ってみました的な。

さて、今日はですね。
三年越しの懸案だった艦橋の見学がやっと実現することになりました。
満を持して朝一番に乗り込んできたのも、週末は艦橋ツァーが激混みで、
早い時間に受付終了してしまうからです。

ツァーがどこから始まるかは行ってみたらわかるだろうと、案の定今回も
全く調べずに現地に乗り込んできたわたしです。
とりあえず、艦橋の周りをぐるっと回れば必ずそれらしいところがあるはず。

機体を日よけにして座るベンチがあるのがアメリカ式。
特にこのE-2「ホークアイ」偵察機は大きなお皿を背負っているので、
下で休憩するには十分な日陰が確保されるというわけ。

さて、このホークアイの後ろには・・・・、

いえーい

艦橋に続いているらしい通路が左舷側にあったぞ。

一目でわかる艦橋(アイランド)ツァーの案内図。
ボランティアらしいじいさまたちが立っているところまで行くと、

「ちょうど今最初のツァーが出発するところだから」

よし!

解説役のボランティアを先頭に、グループは狭いラッタルを登っていきます。
さあ、いよいよ「ミッドウェイ」のアイランドツァーの始まりです。

 

続く。

 


橘花と燕(メッサーシュミットMe262)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-06-09 | 航空機

 世界の航空博物館数あれど、旧日本軍の軍用機をこれほど数多く、
しかも完璧な状態にそのほとんどを修復して後世に残してくれている
博物館は、ここスミソニアン航空宇宙博物館の別館、正式名
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターをおいてないでしょう。

ただし、完全な姿で見つからなかったものについては、
修復をあえてせず
そのままの形で展示されていたりします。

この写真の中心になっているのは海軍の水上攻撃機「晴嵐」M6A1
その右側が川崎の「紫電改」ですが、「晴嵐」の翼の下にあるのは
キ45改「屠龍」の胴体で、取得されたそのままの状態。

「晴嵐」の尻尾の下に見えているのが今日取り上げる「橘花」です。

この「橘花」の置き場所がものすごく微妙で、どこに立っても
必ず何かの陰になってしまうので、写真を撮るのに苦労しました。
この写真では「紫電改」の向こう側にひっそりと見えています。

ちなみに、右側に黄色い台の上に見えている車輪はB-29、
スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」のものです。

「晴嵐」のフロート越しに見る「橘花」。

「橘花」を現地の説明では「オレンジブロッサム」と翻訳していました。
柑橘、の「橘」であり、日本ではみかんなどの木の総称としても「橘」が使われます。

正確には「ヤマトタチバナ」「ニッポンタチバナ」という
日本固有の種目で、みかんのような実が成ります。
日常的に生垣などから生い茂って実をつけているのを見ますが、
人に盗られたりカラスがついばんだりしないのは、実は酸っぱく、
とても生食には向いていないからなんだそうです。

というわけで「橘花」は正確には「オレンジの花」ではないのですが、
わざわざこういう翻訳をして紹介する意図はなんだったのでしょうか。


英語圏の戦闘機の名前は一般的に猛禽類や猛獣、剣の別名などがよく使われます。
そのものの「ラプター(猛禽類)」の他には「ヘルキャット」、
「コルセア」(私掠海賊)
「カットラス」(海賊の刀)「バッファロー」
イギリスの「デーモン」、アメリカには「ファントム」など、
そのものに力があり、相手を威嚇するような強い動物や想像上の存在など、
何れにしても花の名前を選ぶのは少数派ということができるでしょう。

しつこいようですが、紹介の説明板の前に立っても、肝心の本体が
どこにあるのか
すぐにわかる人はあまりいないでしょう。
ここからも、しゃがんで姿勢を低くし、「晴嵐」越しに見るしかないのです。

おそらくわたしのように日本機に特別な興味を持って来る見学者以外は、
「橘花」の存在を確かめることなく通り過ぎてしまうでしょう。

「橘花」の全体像がちゃんと見えるのは、逆側のこの角度だけです。
(しかしそこでは機体が何か確かめるすべがないという・・・・)

「橘花」の現地の説明を読むと、まずこうあります。

中島 「橘花」(オレンジブロッサム)

中島「橘花」は、第二次世界大戦における唯一自力発進が可能だったジェット機です。

capable of taking off under its own power. 
とあるのでこのように翻訳してみたものの、ジェット推進の「秋水」も、
一応自力でテイクオフできていたはずなので、この書き方にはちょっと疑問です。

ドイツがジェット推進のメッサーシュミットMe262戦闘機の試験を始めた頃、
日本は空軍の武官をドイツに派遣し、いくつかの航空実験を目撃しました。

正確には日本海軍、空技廠の武官ですが、当時は空軍のなかったアメリカでも、
航空に関わる軍事のことを「空軍」というので別に間違いではありません。

がしかし、

彼の作成した熱狂的なレポートに着想を得て、日本海軍の関係者は
Me262をベースにした双発ジェットエンジンで単座の攻撃機を
1944年に開発しました。

「熱狂的にレポートを作成した空技廠の武官」というのが誰なのか、
こうなるとぜひ知りたいところですが、日本側の記述によると
これは少し違っていて、本当のところはこのようなものです。

燃料事情が悪くなった日本では、低質燃料、潤滑油でも稼働する
高性能なジェットエンジンの開発が喫緊の課題となっていました。

そのとき同盟国ドイツに駐在していた陸海軍の将校と技術者が、
メッサーシュミット Me262の技術資料を、日本側の
哨戒艇用のディーゼルエンジンの技術と交換することを決めたのです。

ここに、ドイツの技術が欲しい日本と、日本の植民地などで入手できる
車両や航空機制作に必要な原材料が欲しいドイツの利害関係が一致し、
シンガポールなどの中継地からドイツとの間に潜水艦を往復させる

「遣独潜水艦作戦」

が5次にわたり実施されることになりました。

しかし、その4回目の遣独作戦でMe262の資料を搭載した潜水艦は、
パシー海峡でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されてしまったのです。



この時、シンガポールで潜水艦を降りて輸送機に乗り換え命拾いをした
巌谷英一技術中佐
辛うじて資料を日本に持ち帰っています。

ただし、巌谷中佐が持ち帰った資料は本当にごく一部に過ぎず、
肝心のエンジンの心臓部分、そして機体のほとんどの情報は失われたため、
結局ほとんどが日本独自の開発になりました。

機体の形がうっすらとMe262に似ているのは、おそらく
記憶スケッチで設計したからだと思います。


しかしスミソニアンではそこまで情報を精査していないらしく、
ただ、「橘花」はドイツの技術を取り入れて作った、という前提で、
さらに、こんなことまで・・・。

スペックは幾分ドイツの戦闘機よりも厳密さに欠けます。
レンジは500kgの爆弾を搭載した時で205km 、250kg爆弾搭載時で278km。
最高速度はたった696kph、着陸時速度は148kph、
ロケット補助システムによって離陸時には最大速度時速350mでした。

躯体はメッサーシュミットの設計より少し短いものでした。

だから機体もエンジンもドイツの技術じゃないと何度言ったら(略)

スミソニアンが橘花を「オレンジブロッサム」とわざわざ英訳し、
機体の紹介に付け加えたのには、ある印象が込められていたとわたしは考えます。

散りゆく花を日本人が航空機の名前に選ぶとき、そこには
最初から特攻兵器として生産された「桜花」がそうであったように、
機体を特攻に投入するつもりがあったに違いないという先入観です。

果たしてそれは正しかったでしょうか。

「橘花」は終戦の詔勅の8日前の8月7日、松の根油を含む低質油を積んで
12分間だけ空を飛ぶことに成功しました。
これが日本でジェット機が初めて空を飛んだ瞬間です。

2回目の実験で離陸中に滑走路をオーバーランして擱座し、
破損した機体を修理中、終戦を迎えてしまいました。

終戦の知らせを受けた工場作業員によって即座に操縦席が破壊されましたが、
研究用に接収しようとした進駐軍の命令によって、彼らは
自分で壊した部分を修理させられることになりました。

ここにある「橘花」の由来については詳しくはわかっていませんが、
何れにしてもその時接収されたものに違いありません。


さて、「橘花」が特攻兵器になった可能性についてです。

「橘花」のエンジンを艤装した技術者は「これは特攻兵器ではない」
としていましたが、
もし終戦がもう少し遅く、計画通り数十機が量産されていたら、
熟練パイロットがほとんど残っていなかったあの頃、やはり
ジェット機「橘花」は体当たりをするしかなかったのではないでしょうか。

スミソニアンもおそらくそう考えていたのでしょう。

さて、結果的にそうはなりませんでしたが、日本海軍が設計図を手に入れ、
同じものを作ろうとしたメッサーシュミットのMe 262は、スミソニアンの
本館の方で見ることができます。

Messerschmtt Me 262 A-1A SCHWALBE

ニックネームは「シュワルベ」=燕。
メッサーシュミットMe 262は第二次世界大戦の世界の全ての戦闘機を
はるかに凌駕する性能を持っていました。

時速190キロメートルでアメリカ軍のP-51マスタングより速く、
戦争の初期に落ち込んでいたルフトヴァッフェの優位性を
わずかな期間とはいえ取り戻す役割を果たしたとまでいわれています。

Me 262は第二次世界大戦の終結の年に1442機生産され、
そのうち戦闘に上ったのはわずか約300機だけ、その他のほとんどは
訓練事故や連合軍の爆撃によって破壊されました。

Me 262がいかに性能において優位性に立っていたとしても、
すでにその頃には連合軍が絶対的な航空力において制空権を取っており、
パワーバランスはその優位性を相殺してもお釣りがくるほどだったのです。

つまりこのことは、いかに革命的な戦闘機をもってしても、それだけでは
不利な戦局を挽回するほどの力はないことを証明することになりました。

ミュージアムに展示されているMe262A-1aのコクピット。

メッサーシュミットの工場が爆撃された後、技術者と工員は
Me262の機体を森を切り開いたところで組み立て、
アウトバーンをタキシングして輸送し、部隊に配達したそうです。

最初にメッサーシュミット社に栄誉をもたらしたのは、
メッサーシュミットBf109という飛行機でした。

1936年から1945年にかけて、メッサーシュミット社は
7種類、合計3万3千機の航空機を生産しています。

テストパイロットフリッツ・ヴェンデルに話しかける
ヴィルヘルム・”ウィリー”・メッサーシュミット教授

彼は第二次世界大戦期で最も有名なドイツの航空機設計者でした。
彼の会社はルフトヴァッフェにとって最高の航空機を生み出しましたが、
それがこのMe262とメッサーシュミットBf109です。

1898年生まれの彼は、航空の世界の初期に彗星のように現れ、
56年の生涯を通じて航空機に携わり、仕事を愛し続けました。

優れたエンジニアであったのみならず、指導者としても傑出しており、
部下の能力を最大限に引き出して最高の結果を得ることができた彼ですが、
バトル・オブ・ブリテンでBf109が爆撃機の護衛に失敗してからは
ナチの指導者たちは露骨に彼を批判するようになったということです。

尾翼に鉤十字、胴体に鉄十字をつけて離陸するMe262。
ランディングギアに三輪をつけるというアイデアは今ではよくありますが、
実際に採用されたのはこの機体が初めてでした。

世界中の博物館に現存しているMe 262は9機だけです。

ここにある機体はJagdgeschwader(ヤークシュワーダー)7
有名な第7戦闘飛行隊が使ったものです。

記録によるとこのシュワルベのパイロット、ハインツ・アルノルド
ソ連軍のピストンエンジン戦闘機を42機、アメリカの爆撃機と戦闘機を
7機撃墜したということです。

「注意! 鼻車輪を引きずらないでください」

とあります。鼻車輪ってなんだ?

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空諜報部隊はヨーロッパにチームを派遣し、
敵の航空機、技術的および科学的な報告書、研究施設、そして
米国で研究するための武器を入手していました。

ドイツが降伏すると、「オペレーション・ラスティ」(元気作戦?)
としてドイツの科学文書、研究施設、および航空機を接収して研究を行う
チームが派遣されますが、その一つのチームは「ワトソンの魔法使いたち」といい、
元テストパイロットだったハロルド・E・ワトソン大佐の指導の下、
アメリカでのさらなる調査のために敵の航空機と武器を集めまくりました。

パイロット、エンジニア、整備士からなるワトソンのチームは
 "ブラックリスト"を使って航空機を集めました。
強制収用所との二択でルフトヴァッフェのテストパイロットを脅し、
米軍に雇い入れる、というようなあくどいこともやっています。

Me 262も彼の部下によって集められた飛行機の一つで、これに
「Marge」と命名し、パイロットは後に
 "Lady Jess IV"と改名したそうです。

マージからレディに昇格させたい何かをパイロットは感じたのでしょうか。

 右下の写真では「マージ」が高速低空飛行で「飛ばされて」いるところ。

機体は当時と同じ迷彩に塗装され、第7航空団のマーク
(犬かな)が鮮やかに書き込まれています。

「橘花」とMe262。

ドイツの名機と、同じものを作り出そうとして、諸事情から
劣化コピーのようになってしまった日本のジェット戦闘機は、
そのあだ名を合わせると「橘花と燕」です。


5月から6月にかけて咲く橘の白い花に燕。
まるで日本画の題材になりそうな光景が浮かんでくるではありませんか。

 

 

続く。