いきなりですが、このブログでお話しした映画「海底軍艦」の
ストーリー設定を覚えておられるでしょうか。
敗戦を受け入れない海軍軍人たちが終戦後、伊号403で南方に向かい、
そこで海底軍艦轟天号を秘密裡に建造するというもので、
彼らが乗り捨てた伊号403は敵となるムウ帝国に鹵獲され、
その神殿に神々しく飾ってあるというものでしたね。
海底軍艦「轟天号」のインスピレーションの元となったのは
実在した日本海軍の潜水艦伊400型であることになっていたわけです。
伊四〇〇型潜水艦は第二次世界大戦中に就航した潜水艦で最大であり、
特殊水上戦闘機「晴嵐」を3機搭載することが可能な潜水空母でした。
2012年、人民海軍の032型が竣工するまで史上最大だったこの潜水艦は
理論上地球を1周半航行可能であり、日本から地球の何処へでも
攻撃を行なって日本にまた帰ってくることが可能とされていました。
終戦間際に三隻が完成しましたが、連合国はその存在を知らず、
終戦を受け入れて内地に帰る時に2隻の四〇〇型を拿捕したアメリカ軍は
その大きさにさぞ驚愕したことと思われます。
400 submarine
帰投命令を受けアメリカの駆逐艦「ブルー」に接収され、
横須賀に回航中のフィルムが残されているのでこれをご覧ください。
「ブルー」の甲板から写した伊400には多くのアメリカ軍人が乗り込み、
士官から説明を受けている様子も見ることができます。
拿捕された伊400の艦尾には星条旗が揚げられていますが、
日本海軍の旭日旗は降ろさずにそのまま並べて揚げたままです。
これをわたしはアメリカ海軍軍人たちの敬意の表れと見ますがどう思われますか。
さて、アメリカ人が驚いたのは伊四百型の大きさだけではありませんでした。
航空機を搭載し、敵地近くまで潜行して行き航空攻撃を行う。
同じことをするのにアメリカが何万人もの兵士の命を犠牲として
サイパン、グアム、そして硫黄島を奪取しようとしたわけですが、
この攻撃法はそんなアメリカにしてみれば
「その考えはなかったわー」
というべき視点に立った武器だったと言えます。
さて、それではスミソニアンの解説はどうこの潜水艦搭載型
水上戦闘機を説明しているでしょうか。
愛知 M6A1「晴嵐」CLEAR SKY STORM
愛知航空機のチーフエンジニア、尾崎紀男は、潜水艦に搭載し
作戦展開させる爆撃機の要件を満たすためにM6A1 Seiranを設計しました。
アメリカ本土やパナマ運河のような、日本から数千キロ離れた
戦略目標に潜水艦空母の艦隊で近づき直接攻撃するための航空機です。
この航空機/潜水艦システムは航空技術と海洋技術を巧妙に組み合わせたものでした。
米国が第二次世界大戦に参加する前に、日本海軍はすでに潜水艦から
偵察機を運航しており、そのうちの1つは実際にアメリカ本土を爆撃しています。
1942年9月9日、潜水艦伊-25からカタパルトによって打ち上げられた
横須賀工廠E14Y1 グレン(連合国コードネーム)偵察用水上機が、
オレゴン州沿岸の森林に4つの即席リン爆弾を投下したのです。
その5か月前、日本海軍は伊新しい潜水艦空母伊四〇〇型の製造を命じました。
海軍の計画では大艦隊を想定していましたが、最終的には
伊-400、伊-401、伊-402の3機しか完成しませんでした。
この3隻の潜水艦は1962年に原子力潜水艦「USSラファイエット」ができるまで
かつて建造された最大の潜水艦でした。
伊-400潜は6,560トン、巡航速度は18.7ノット。
それぞれ3機の「晴嵐」を防水コンパートメントに搭載し
60,000 kmの航続距離を持っていました。
AMクラス(伊13型)と呼ばれる、より小さな日本の潜水艦も
2機の「晴嵐」を運ぶために改装されました。
この巡潜甲型(旗艦)を建造していたのも改装したのも、
神戸の川崎重工業株式会社です。
それにしても改めて驚くのは「晴嵐」の機体の大きさです。
隣にはB-29の翼の下に紫電改がいますが、どう見てもこれより大きい。
これを折りたたんで3機も搭載できた潜水艦の大きさとは、一体・・・・。
って感じです。
伊-400プログラムを開始した直後、海軍は愛知航空機に
プロトタイプ特別攻撃機M6A1の開発を指示します。
最高技術責任者の尾崎は、ここで野心的な挑戦に立ち向かいました。
つまり250 kgの爆弾または800 kgの魚雷を牽引し、投棄可能なフロートで
少なくとも時速474 km、フロートなしで559 km出せる航空機。
海軍はまた、3台の「晴嵐」を組み立てて飛ばすのに
30分以内でなければならないと規定しました。
尾崎は機体が直径3.5 mの円筒形の格納庫の中に収まるように、
2つのフロートを取り除いたときに主翼桁が90度回転するよう設計しました。
翼を回転させた後、胴体に対して平らになるように折りたたむことができ、
水平尾翼の両側の約2/3も、垂直尾翼の先端と同様に折り畳めます。
すげー!(笑)
いやー、細かい工夫、特に省スペース技術にかけては日本人に勝るものはない、
と兼ねてから思っていましたが、まさに本領発揮って感じです。
ちなみにフロートなしの「晴嵐」を搭載する場合、機体は回収できないので
一旦射出すれば使い捨て、ということになります。
日本の美しい言葉「勿体無い」はどうした、とつい問い質したくなりますし、
その場合搭乗員はどうやって帰還させるつもりだったのか・・。
愛知航空機は1943年10月に最初のプロトタイプを完成させ、
11月に飛行試験を開始しました。
1944年2月、2台目の試作機がテスト飛行を行なっています。
初期の結果が満足のいくものだったため、海軍は
愛知が残りの試作機を納入する前に生産開始を命じました。
しかし、1944年12月に発生した大地震(昭和東南海地震、震度6震源津)
が生産ラインを激しく混乱させた後、進捗は事実上停止しました。
さらにB-29爆撃機が空襲を行うようになり、プロジェクトはさらに混乱。
1945年3月には戦況がさらに悪化したため、潜水艦計画は縮小されました。
最初の伊-400は1944年12月30日、伊-401はその1週間後に完成しました。
しかし、伊-402は潜水艦の燃料タンカーに改造され、
実質作業は伊-404と405で終了することになったので、
自然と「晴嵐」の生産計画もまた縮小されることになりました。
最終的に26台の「晴嵐」(プロトタイプを含む)と「晴嵐」を陸上機化した
「南山」2機、合計28機が生産されています。
ちなみに地震大国の悲劇というのか、戦争中でもおかまい無しにこの国は
鳥取大震災(昭和18年9月10日)マグニチュード7.2
東南海地震(昭和19年12月7日)マグニチュード8
三河地震(昭和20年1月13日)マグニチュード6.8~7.1
と短期間に三つの大地震に見舞われています。
まさに泣きっ面に蜂。
三河地震は特に軍需工場地域が被災し、まともな被災者数も
情報統制で明らかにされませんでした。
海軍上層部は、伊-400と401、2隻のAMクラス潜水艦、伊-13と14、
そして10機の「晴嵐」爆撃機から構成される第1潜水艦艦隊と
第631航空隊を編成し、指揮官にキャプテン・タツノケ・アリズミ
(有泉龍之助大佐のこと)を配置ししました。
海上試運転の間、部隊は「晴嵐」の組み立て時間を
少しでも減らすために猛訓練を行い、最終的に、乗組員は15分以内に
3機の航空機を(フロートなしで)発射させることができました!
スミソニアンの解説には本当に「!」が付いています。
揺れる潜水艦上でネジ一本無くしても成り立たない航空機の組み立てを
分単位でできるような日本人の器用さなど一切持ち合わせないアメリカ人にとって、
何十年も経った今でも、この事実は驚異でしかないのでしょう。
ここで、わたしが先ほど呈した疑問への答えが出てきます。
この作戦の欠点は、「晴嵐」はフロートがないと安全に着水できない事です。
その場合、パイロットは潜水艦の近くで飛行機を捨てて水に飛び込み
救助を待つしかありませんでした。
やっぱり・・・・。
伊四百型と「晴嵐」の運用はおそらく第二次世界大戦中でも
最も野心的な戦略だったといってもいいでしょう。
日本海軍は、第1潜水艦小艦隊に搭載した第631航空隊を使用して、
パナマ運河を破壊することを考えました。
計画立案者は6つの魚雷と4つの爆弾でガトゥン閘門を攻撃するために
「晴嵐」を10機割り当てました。
パイロットは真珠湾を攻撃する前に彼らの前任者がしたように、
運河の閘門の大きな模型をつくり重要な特徴を記憶しました。
しかしそうこうしているうちに英米の艦隊は移動していることがわかり、
目標はウルシー環礁に停泊しているアメリカ軍艦隊の攻撃に変更されました。
1945年6月25日、有泉は「光作戦」の命令を受けました。
この計画は6機の「晴嵐」と4機の 偵察機「彩雲」を必要としました。
これは結果的に特攻作戦でした。
伊-13と14はそれぞれ2機のMYRT「彩雲」を運び、それらをトラック島で降ろします。
偵察機はウルシーのアメリカ艦隊を偵察し標的の情報を「晴嵐」に伝えると、
6機の「晴嵐」が最も重要な標的、すなわち
アメリカの空母と輸送船団に対して神風攻撃を仕掛けるのです。
しかしこの作戦はトラブルに見舞われます。
2機の「彩雲」が乗っていた伊-13は、空爆で損害を受け、
その後アメリカの駆逐艦に撃沈されてしまいます。
伊-400は旗艦からの重要な無線を逃し、間違った合流点に行ってしまいました。
そうこうしていた1945年8月16日、有泉司令は終戦の知らせを受け取ります。
乗組員は「晴嵐」のフロートに穴を開け、海中に投棄しました。
この時、伊−400の乗組員は10分で「晴嵐」3機を組み立て、
エンジンを停止し翼を畳んだ無人のまま射出したそうです。
有泉司令は弾薬、秘密書類を投棄させた後、艦内で自決しました。
自室の机には真珠湾攻撃で戦死した九軍神の写真があったということです。
国立航空宇宙博物館のM6A1は、最後に作られた機体(シリアル番号28)で、
今日でも唯一の現存する「晴嵐」です。
アカツカカズオ海軍中尉は福山から横須賀までこの「晴嵐」を輸送し、
そこでアメリカの占領軍に引き渡しました。
航空機はアメリカに輸送され、カリフォルニア州アラメダの海軍航空基地で
定期的に展示されていました。
その後1962年11月にメリーランドのガーバー倉庫に到着しましたが、
屋内の表示/保管スペースが利用可能になるまで12年間屋外で保管されたままでした。
修復作業は1989年6月に始まり、2000年2月に終了しましたが、これらは
スタッフの専門家チーム、多くのボランティア、そしてGarberと日本で働いている
何人かの日本の関係者の傑出した作業のおかげです。
製造図面は残っていなかったため、修復チームはいくつかの欠けている部品を
正確に再現するために様々な航空機システムの徹底的な調査を行いました。
彼らは、独創的なものから不条理といえるようなものまで、
「晴嵐」に組み込まれた興味深い設計機能を見つけました。
この遺産はまた、戦争末期に日本の航空業界を悩ませていた
「困難な労働条件」を表していました。
つまり、働き手を戦線に奪われたために専門職の労働者が不足し
現場で作業に当たっていたのが女子高校生だったりして、
品質と技量は深刻なくらい劣化しているのが明らかな上、
工場が爆撃に度々見舞われていたことを示す証拠さえありました。
例えば、工場が爆撃されてできたらしい金属製のフラップの損傷が
布のパッチで応急的に覆われていた、などということです。
またスタッフは燃料タンクの内部に書き損じが貼られているのを発見しました。
部品の基本的な装着と配置もあちらこちらで不十分と見られました。
翼からは誰か・・おそらく作業をした学生でしょうが、彼なり彼女が
引っ掻いて記した完璧な英語のアルファベットが見つかりました。
のみならず機体のさまざまな場所から
工場で彼らが刻んだらしい落書きが見つかっています。
そして、驚くべきことに、フロートが「投棄可能である」となっていた
設計者の主張にも関わらず、実際の機体からはフロートを切り離すことができる
という証拠はどんなに精査しても見つけることはできませんでした。
愛知航空機は、「晴嵐」生産終了間際には、すでにこの機能を廃止し、
フロートは投棄しないことにしてしまったのかもしれません。
徴用されて労働していた学生たちは、自分の組み立てる機体に
作業の合間にこっそりなんと落書きをしたのか。
戦争中で、しかも軍の飛行機を作っているのにやっていることは
子供っぽく、まるで今の高校生みたいだなあとスミソニアンの修復員たちも
苦笑したか、それとも、そんな学生たちが現場で労働しなくてはいけなかった
当時の日本の追い詰められた国情に思いを馳せたかもしれません。
続く。