関西の小中学校の修学旅行の定番は「伊勢巡り」だった頃があったそうです。
わたしの中学は広島の原爆ドームをメインに、四国の旅でしたので、
結局ここに来たのは人生で初めてということになります。
今ではこの辺に来ても伊勢神宮ではなくスペイン村に行く学校が多いとか。
マージンをもらって父兄が反対しても韓国への修学旅行を強行するのは論外としても、
「修学」旅行に、テーマパークって一体どうなの、とつい小姑のようなことを言いたくなります。
日本の学校なら、ちゃんと伊勢神宮で神様への礼儀をきちんと教えるべきなのでは?
さて、伊勢参りの最後の締めとして、お約束、夫婦岩にも行きました。
ところで皆さん。
この伊勢参りシリーズの写真ですが、カメラじゃないんですよ。
慌てて飛び出しカメラを忘れてしまった相変わらずのエリス中尉でしたが、
今回はそれほどショックを受けずにすみました。
というのは、この間の観閲式の悲劇で水死した携帯をiPhone5に替えていたからです。
ブログに乗せる程度ならカメラとiPhoneは画像の質にあまり変わりはない、という、
以前婆娑羅大将のブログで読んだ一言が思い出されました。
iPhoneを選ぶとき、新しい5のSとCの違いは
「チップの数」
「指紋認証があるかどうか」
「カメラの性能」
であると聞いたのですが、どれも大した意味がないと思いCにしました。
カメラ代わりにiPhoneを使うことになり、こんなことならSにしておけば良かったと後悔したのですが、
しかし・・・・・どうですか?
なんだか、というか、婆娑羅大将ではありませんが、あまり画像の質は変わってないと思いません?
一眼レフを持つような人はともかく、今の特に若い人はカメラ離れが酷い、
というニュースを最近読んだばかりですが、こうして実際に比べると、
一眼どころかニコン1とも画像の質に大差ないような・・・・・。
かなりがっくりしてしまったのですが、ともかくも今回の旅行は
それで全部賄えてしまって、何の不満もないという。
あらためて
「カメラって・・・・何」
と一人ごちてしまった秋の夕暮れです。
この夫婦岩の注連縄は、どれくらいに一回かけかえると思います?
わたしは一年に一度、と思っていたのですが、
だいたい三ヶ月に一度、年四回ペースだそうです。
これだけを作るのだけが仕事の、専門の業者でもいるんでしょうか。
夫婦岩といえばカエル。
なぜカエルなのか。
実は夫婦岩の沖合700メートルには、祭神、猿田彦大神の石である、
興玉石が沈んでいます。
猿田彦大神は
「天つ神と国つ神を繋ぐ象徴である異様な風貌をした神」
とされていて、天孫降臨の際、高天原と豊葦原中津国の道案内を務めた神。
この猿田彦大神の神使が、このカエルなのです。
今までカエルの像が神徳を受けた人々によって献納され、
あちらこちらにこのカエルさんがいます。
やはり大スポンサーはこのような立派なカエルを寄進。
手水にもしっかりカエル。
なんと全カエル口から水を吹き出しています。
その合間を縫って「小さなカエル」も多数。
水場の中に沈んでいる陶器のカエルには、皆水をかけてやります。
水の中から顔を出しているカエルさんは二匹。
夫婦岩を臨む岸壁に、点々と並ぶカエル。
石像、陶器、金属製といろいろです。
神殿には真っ白の親子カエルもいました。
これは白磁でしょうか。
特別大事にされているらしく、紫の座布団の上に鎮座しています。
昔、1918年(大正7年)の台風で、根尻岩(女岩)が根元から折れてしまいました。
で、三年後に修理が行われたのですが、いかんせん当時の技術では、
全くその通りに修復することができず、角度が変わってしまったとか。
「烏帽子岩」などと言っていたこともあるのですが、削れて烏帽子に見えなくなり、
今ではその名は使われていません。
夫婦岩の向こうにある岩の背中に、まるでカエルのような岩を見つけました。
これ、誰もそう言っていないみたいなんですけど、カエルですよね?
皆ここに立って、鳥居からのショットを写真に収めています。
わたしのように携帯で写す人が殆ど。
出なければがっつりでかいキヤノンとかニコン、どちらかです。
一つ言えることは、この右側のコーナーで営業していた
「1500円で写真を撮ってくれる写真屋さん」
は全く儲かっていないということです。
そんなに出して、紙プリントの写真なんか、今どき誰も撮らないよね・・・。
なぜか沖縄のシャコガイが展示されていました。
これに脚を挟まれた少年を助けるのに貝柱を切った、
という話をブラックジャックで読んだなあ。
信楽焼や、黒い土の焼きものもあり。
右写真の向かい合っているカエル二匹が可愛い。
というわけで、タクシーの観光案内コースはこれで終わり。
5時間あれば、もっと連れて行くところがあったと仰っていましたが、
のんびり旅行派のわたしたちには十分です。
あとは駅まで送ってもらい、駅前でご飯を食べて帰るだけ、
ということになったのですが、駅までの車中、運転手さん、
「この近くに伊勢で一番美味しい伊勢うどんの店があって、わたしもよくいくんです」
後から考えたら、お店とちょっとした契約でもしているのかと思ったのですが、
どちらにしても運転手が行きつけのところにまずいものがあるわけがなし。
(広島で一度ありましたがそれはともかく)
「じゃ、お昼はそこで頂きますので連れて行ってください」
わたしの一言で即決。
噂の伊勢うどんとやらを食べてみることにしました。
ご飯屋さんのような店構えの、ひなびたうどん屋さんです。
息子のとり南蛮と、わたしのおろしうどん。
おろしうどんは運転手さんの
「女の人にはおろしがおすすめです」
という言葉に素直に従ったもの。
TOの頼んだ、この店おすすめの肉卵。
「必ず底から混ぜて食べるように」
というのも、前もって教えてもらっていましたので、混ぜました。
「真っ黒なだしやけど、辛くないんです」
とのお言葉通り、濃厚でコクはありこそすれ、辛くありません。
よく関西人が東京に行って
「あんな真っ黒なだしのうどんやそばなんか食べられへん!」
と激怒するという伝説がありますが、東京ほどその気になれば
関西風や京風の薄味料理が食べられるお店がたくさんあるところもないし、
関西のうどんなのにこんなだしを使う地方もあるわけだし。
現にわたしは関西出身ですが、こちらでだしが黒くてびっくりしたことなど
一度もありません。
東北の人が奥さんの実家の京都で「味が薄くて参った」と言ったのは聞いたことがありますが。
このお店です。「ちとせ」
お世辞抜きで美味しかったので、宣伝しておきます。
こういうお店なので、店内タバコをあちこちで吸われたのは辛かったですが。
場所は近鉄宇治山田駅の近く。
ここから新幹線に乗るため、名古屋まで行きました。
式年遷宮はこの辺りの観光業、鉄道にとっても大切なイベントです。
室町時代後期に、戦乱で124年の長きにわたって遷宮が途絶えたことがあります。
その影響は絶大で、この中絶により技術継承が途絶え、
この間に様々な伝統が失われることになってしまったのです。
100年以上途絶え、祭祀を行う後継者の育成もできなくなっていたのに、
天正13年にまた遷宮が復活したのは奇跡のようなものだったそうです。
その後江戸時代、明治時代を通して古儀復興が進められ、
文献を元に当時の学者や関係者が涙ぐましい努力を傾けて遷宮は復活しました。
その到達点が、昭和4年(1929)の式年遷宮です。
このときには古儀に則した御装束や神宝が全て新調され、
「史上最高の荘厳な式年遷宮」
であるとうたわれ、これをもって復興は完全に成ったとされています。
このときの式年遷宮は、ちょうど大日本帝国の最盛期と重なっており、
そういう精神高揚もあいまって一層盛大なものとなったのでしょう。
次の遷宮が行われる20年後まで、日本はどんな時代をすごすのでしょうか。
近鉄がなにやらすごい企画をやっています。
ペンギン列車。乗りたい~!
電車が急ブレーキを踏んだら、ペンギンが将棋倒しで滑って行くのとか、見たい~!
というわけで、自宅に近い駅まで戻り、そこからタクシーに乗ろうとすると、
猫集会中でした。
三年前、観閲式を執り行ったのは菅直人でした。
言われるまで自分が自衛隊の最高指揮官であることを知らなかったそうです。
そんな人間が一国の軍隊である自衛隊を閲兵した、
歴史にも類を見ない観閲式について三年前記事にしました。
そのときの菅の訓示は、勿論代々そうであるように官僚の書いたもので、
「わが国周辺の安全保障環境は、ミサイルや核兵器の開発が懸念される北朝鮮、軍事力の
近代化を進め海洋における活動を活発化させている中国に見られるように厳しさを増している」
「自衛隊は多様な事態に実効的に対処し得る態勢を常に取っておく必要がある」
という至極真っ当で常識的な内容に終始したわけですが、わたしはこの政権のこの男の日頃の態度から、
おそらく直前まで観閲式で自分が訓示する内容については全くノータッチで、
「官僚の文章を渡されたから(ルビ付きで)読んだだけ」なのだと今でも思っています。
しかし、そんな仏つくって魂入れずの訓示に対して、中国政府が、尖閣事件の最中だったこともあり
「軍国化」を懸念している!
と中国のスポークスマンと化している日本の新聞が、親切にも解釈してこれを報道していました。
今回の観閲式、民主党から政権を取り戻し、憲法の改正に意欲を燃やす安倍総理が、
集団自衛権の問題で大きく意味を持つ「戦力」としての自衛隊員に対し、
どのような訓示を行うのか。
そして、それを各マスコミが、どう色をつけて報じるのか(笑)
菅直人の訓示すら「軍国化」として伝えるこの手法、安倍首相だと果たしてどうなるのか(笑)
わたしの興味は、報道でカットされない首相訓示をこの耳で聞くことにありました。
取りあえず、首相訓示の前の閲兵、じゃなくて巡閲を待つ隊員たち。
台の上の旗ふり係も待機。
空自女性部隊。
延々とお話ししてきましたが、今までは「観閲部隊の入場」。
つまり、まだ何も始まっていません。
まず、観閲官の臨場。
これが式次第の一番最初に行われるのです。
観閲官臨場に対し、旗を振る陸自部隊の旗手。
この旗はずっと掲げているだけでも結構な力が必要そうです。
女性自衛官ならこの旗手のような立派な体格をしていないと無理かも。
儀仗隊の入場。
観閲官に対し、栄誉礼を行います。
栄誉礼とは栄誉礼を受ける有資格者が自衛隊を訪問またはする場合行われ、
その後栄誉礼を受けるものは儀仗隊を巡閲するというしきたりです。
儀仗隊はこのような喇叭の奏楽とともに入場してきます。
わたしの席からは遠くてちょうど見えないところに(観閲官の右翼)いたので、
儀仗隊が何をしていたのか全く分かりませんでしたが、
栄誉礼とはすなわち「捧げ銃」を行うことがメインです。
栄誉礼を受けるときの観閲台。
肉眼では豆粒のようですが、写真を拡大するとちゃんと安倍首相、小野寺大臣、
そして後ろの団体の中に防衛大学校の校長である国文良成氏が認められます。
国分氏は中国情勢が専門の学者ですが、夏前あちらこちらで講演を行っていました。
この人物が一体どんなことを語るのか非常に興味があったのですが、
ついに聴く機会がないままでした。
そして続いては国旗掲揚。
来賓の各国軍人はほとんどが国旗掲揚の間敬礼をしています。
そして巡閲が始まりました。
観閲部隊の前を車の上に立ち、心臓をシルクハットで押さえたポーズで、まずは観閲部隊の前を閲兵。
自分が動く形で閲兵することを巡閲と言います。
観閲部隊は観閲官が前に来たときには前列の指揮官および旗手は敬礼、
後は頭を観閲官に向けて見送ります。
取りあえず一番向こうまで巡閲したら、今度は帰ってきます。
このとき、音楽隊は「巡閲の譜」を演奏し続けています。
その後、自衛官に導かれたマスコミの一群が、まさにぞろぞろといった感じで入場。
自衛官たちの背筋ののびた緊張の姿勢による行進を見た目には、
この一団は正直言ってかっこわるく、わたしの周りからは、明らかに彼らに対し
「揶揄」とか「嘲笑」といったニュアンスを含んだような忍び笑いが上がりました。
わたしの周りは前後左右、全て漏れ聴こえてくる会話から察するに、
多少なりとも関係のある人たちばかりでした。
たとえば前の中年女性たちは、いずれも息子が自衛官。
後ろのおじさんたちは、自衛官の知り合いに頼んでチケットをわざわざ譲ってもらった組。
(券をくれた自衛官にお礼をしてきた、というセリフあり)
斜め上の一団は、まさに海上自衛隊の観閲部隊に家族がいるらしい人々。
そんな人たちが、日頃からこの国のマスコミというものに対して
決して良い感情を持っていないであろうことは想像に難くないのですが、
この時の彼らに対する空気は、それに加えて
「安倍首相の訓示をいかに軍国主義への傾斜であるかのように報じて、
中国韓国に『御注進報道』をする気なんだ?」
という冷ややかなものであったという気がした、というのは穿っているでしょうか。
いよいよ観閲官の訓示が始まりました。
訓示を聞く通信科部隊。
高等看護学院学生隊。
航空自衛隊部隊。
海上自衛隊部隊。
さて、この日安倍総理の訓示をどのようにメディアは伝えたか。
まず、産經新聞です。
「力での現状変更許さぬ」 首相、観閲式で中国牽制
安倍晋三首相は27日、陸上自衛隊朝霞駐屯地で行われた自衛隊観閲式で訓示し、
力による現状変更は許さないとの確固たる国家意志を示すため、
警戒監視などさまざまな活動を行っていかねばならない」
と述べ、尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺などで挑発を強める中国を牽制した。
同時に「防衛力は存在だけで抑止力となるといった従来の発想は捨て去らないといけない」
と強調。
「防衛体制を強化し、集団的自衛権や集団安全保障に関する事項も含め
安全保障の法的基盤の検討を進める。世界の平和と安定の確保は私たちの問題だ。
『積極的平和主義』こそわが国の21世紀の看板だ」と訴えた。
お次ぎは、共同通信。
首相「現状変更許さず」 自衛隊観閲式で中国けん制
安倍晋三首相は(略)「現状変更を許さないとのわが国の国家意思を示す。
そのために警戒監視や情報収集の活動を行っていかないといけない」と述べ、
沖縄県・尖閣諸島付近で海洋活動を活発化させる中国を強くけん制した。
同時に「防衛力は存在だけで抑止になるとの考えは捨て去ってもらいたい」と強調。
「集団的自衛権や集団安全保障の法的基盤の検討を進める」と語り、
安全保障政策を見直す姿勢を重ねて示した。
ふむ。
タイトルが全く同じ、ってどういうことですかね。
というか、内容がほとんど同じではないですか。
これ、皆で示し合わせているとしか思えないほど似ていますね。
もう一つ、日経新聞。
「集団的自衛権、集団安全保障の法的基盤の検討を進める。
国民のための自衛隊であり続けるための改革だ」と強調。
「力による現状変更は許さないという確固たる国家意思を示す」とも述べ、
沖縄県の尖閣諸島周辺での動きを活発化する中国をけん制した。
首相は「安全保障環境は厳しさを増している。
防衛力はその存在だけで抑止力になるという従来の発想は完全に捨て去ってもらわなければならない」
と指摘。そのうえで「戦略的に取り組むための見取り図が国家安全保障戦略だ。
厳しい現実を踏まえればこれ以上立ち止まっている余裕はない」と述べた。
これもほとんど同じですね。
ネットでは見ることの出来ない朝日新聞、毎日新聞もほぼ同じ。
「そりゃそうだろう、安倍総理はそのように訓示したのだろうから」
そう思われますか?
わたしは、この日初めて首相訓示をこの耳で聴き、改めて思いましたね。
「マスコミは、マスコミの報じたいことしか報じない」
確かに新聞記事に書かれた発言はありました。
しかし、「我が国を取り巻く状況」「世界の平和の危機的状況」は、
北朝鮮初め全般的に述べられ、決して中国だけを対象にしたものではありませんでした。
訓示は自衛隊員を頼もしく思うこと、その国防に対する気構えに
首相として心から期待しているといったような激励で始まりました。
「事に臨んでは危険を顧みず、身を以て責務の完遂に務め、
もって国民の負託に答える」
という自衛隊員服務の宣誓文からの引用を交えたその内容は、
「訓示という命令」
というよりは、すでにそのような気概で職務に当たっている自衛隊の、
隊員一人一人を労っているように思われました。
そして、最後に安倍首相はこの会場に多く訪れ、我が子の晴れ姿に
声援を送っている彼らの父、母、家族に呼びかけるような調子で、
任務を全うしようとしている自衛隊員一人一人に、彼らの身を案じ、安全を見守る、
その気持ちを最高指揮官として常に重く感じている、そして、彼らが
任務を遂行する事が出来るよう万全を期す事を約束する、と述べました。
安倍首相は、実はその前日の26日、市ヶ谷の防衛省で行われた
自衛隊員殉職者の慰霊祭に出席しています。
トラックの整備中にタイヤの破裂事故で亡くなった女性陸士長=当時(20)=ら、
新たに9柱(防衛医科大学校1柱、陸自5柱、海自3柱)の名簿が慰霊碑に奉納された。
殉職隊員は昭和26年度以降、今回を含めて計1840柱となった。(産經新聞)
総理は
「御霊の尊い犠牲を無にすることなく、そのご遺志を受け継ぎわが国の平和と独立を守り、
世界の平和と安定に貢献し、よりよい世界を作るため全力を尽くす」
とこのように追悼の辞を述べたそうです。
この両日の予定は、常に連続して行われるわけではありませんから、
追悼式に続いて観閲式に出席したのは勿論安倍首相に取っても偶然でしょう。
しかし、この日の新聞が報じなかった訓示の部分が、前日の慰霊祭における
殉職隊員への感謝とねぎらいに重なります。
勿論、どちらの文も官僚の作成によるものだとは思いますが、
菅直人のそれとは違い、この部分には特に安倍総理の意向が反映されていたはずです。
わたしは、もしこれだけに終始したら、マスコミはこの観閲式の「色付け」というか、
落としどころを失ってさぞかし慌てるだろうな、と、
あり得ない事ながらそうなったら面白いのになどと考えつつ聞いていました。
しかし、やっぱりそれだけではなく、さっそく最初に
「北朝鮮のミサイル始め我が国を取り巻く国際関係の厳しさ」
という文言が現れ、さらに
「座して平和は得られるものではない。
防衛さえしていれば即抑止力になるという考えは捨て去ってほしい」
と、いかにもマスコミの喜びそうな言葉もありました。
これすなわち、産經新聞しか報じなかったようですが、
「積極的平和で日本が世界の中心となる」
ということにつながるわけです。
わたしはこの足並みそろえたがごとき同じ文章の新聞記事を読んで、
マジで不思議なのですが(笑)、安倍首相が
「中国を牽制した」
というのはどの辺りのことを言うのでしょうか。
「積極的平和」が、たとえば「無人機を撃ち落とすというようなこと」
も含むとすれば、どんな抱負も今中国が積極的に尖閣を取りにきている限り
「牽制」と解釈できなくはありませんが、なんと言うか、
たとえ安倍首相が何を言ったとしても、マスコミは無理矢理こじつけて最初から
「中国を牽制」
と言うつもりだったのじゃないか?とつい突っ込みたくなります。
それからもう一つ。
そこにいる隊員たちの家族に向けて、
「自衛隊員の命に責任を持ち、先頭に立って進むつもりだ」
という内容であったことを報じたメディアは一つもなかったことは、
まあ、この国の所詮マスコミですから不思議だとは思いませんが、
安倍首相ははっきりと
「年末までに防衛大綱を見直します。
勿論過去の延長線上の見直しではありません」
と言ったんですよ?
これはすごいことを聞いたなあ、とわたしは思い、そこにいるメディアが
一斉にそのことを記事に書くのだと思っていたのですが、「今年中に」というのは
なぜか記事になってないんですよね。
あまり報道的には意味がないってこと?
それとも、これもあまり報道したくない範疇のこと?
いずれにせよ、あの訓示が「中国への牽制」一言でまとまってしまうとは
マスコミってどれだけ中国のことしか考えてないんだよ、って感じです。
これらをしてやはり「中国への御注進報道」とはあながち間違いではないと思いました。
さて、明日からはまた色々な話を並行させながらダラダラと参ります。
次回は自衛隊装備であるところの車両部隊の事などを・・・。
前日の雨がまだ地面を濡らしている払暁、
平成25年度自衛隊観閲式に参加するため、わたしは朝4時半に起き、
取りあえず六本木に車を走らせていました。
基地周辺は首相初め政府関係者の参加のため厳戒態勢になっており、
とても車では近づくこともどこか駐車することもできません。
車のとめやすいミッドタウンから有楽町線で移動する、という作戦です。
早朝なのになぜか六本木周辺は警察と機動隊が。
そして、公安警察を上回る、変な格好をした若者たちの群れ。
魔法使い、囚人、カボチャ、幽霊・・・。
「ハロウィーンか・・・・」
仮装して盛り場を夜通し騒ぎ、挙げ句は警察が出動しなければいけないくらい
狼藉を働いて善良な市民に迷惑をかける。
日本のハロウィーンとはこういうノリのイベントになってるんですね。
仮装が「いつもと違った自分でない自分になれた」気にさせるんでしょうか。
永田町から和光市まで電車で37分。
和光市に到着したのは7時過ぎでした。
開門は7時です。
迷わずタクシーに乗り、朝霞駐屯地到着は7時20分。
ところが。
なんなのこのディズニーランドの人気ライド状態は。
総理臨席というイベントの性質上、手荷物検査は厳格に行われます。
空港のようなX線検査機までは導入していないので(笑)、
手荷物検査は全て手作業。
いちいち鞄を開け、全ての内部ポケットも開けてみせる入念さ。
そりゃ時間もかかるわ。
ここでパンフレットをもらい、チケットをもぎってもらいます。
ここにたどり着いたのが並びだしてほぼ20分後。
ようやく金属ゲートを抜けたら、そこには・・・
りくのサイポンが!
陸自の迷彩服を着ていますが、こいつはサイです。
なぜサイなのか。
サイポンの「ぽん」とは何か。
採用の「さい」と地本の「ほん」ではないか、と安易な想像をしてみたけど、
実は、これ「自衛隊に親しみを持ってもらうためのゆるキャラ」で、
埼玉の「サイ」、そして「勾玉の顔の形」なんですわ。
埼玉地本のキャラクターなので、「ポン」が地本のほんであるという想像は
当たっていたということになりますね。
わたしはそれよりサイポンの横にいる企画の腕章を付けた自衛官の方が
キャラが立っていると思いました。
陸自のサイポンの次に待ち構えるのは空自サイポンだっ!
そしてわかりやすくペンネントに「埼玉地本」と書かれた
海自のサイポンが・・・・!
海自サイポン、顔色が青ざめているし。
ゆるキャラといいながら目が笑っていない。
ノルマもあるって言うし、地本の勧誘業務ってハードなんだなあきっと。
かわいいじゃないかおい。
これはゆるキャラ認定してもいいよ。可愛いし。
調べてみたら、これは東京地本のゆるキャラでその名も
「トウチくん」。
昨日のエントリで勝手に「ハトである」と決めつけたのですが、
どっこいこれはユリカモメ。
そう言えば翼の先がグレイをしているから、カモメかもしれない。
迷彩のまあるいおなかがチャームポイント。
中の人が自前の制服を来たまま着用できるデザインが非常に機能的ですね。
ここからみるとまだスタンドにはだれもいず、いい席よりどりみどり?
楽勝だわ!と思ったのですが、それは勘違いでした(笑)
観閲式の文字の下には小さな戦車が待機しています。
地面はまだ前日の雨で濡れていました。
各車両には隊員が一人ずつ乗っています。
まさかそんなことはないとは思いますが、
無人の車両に人が近づき何かを仕掛けるという危険の防止でしょう。
観閲台のまわりは「黄色いチケット」を持っている人のみ。
赤チケットはその両脇です。
つまり前回と同じだったわけですが、前回と違って
すでにたくさんの人が席を占めていて、上段から埋まってしまっていました。
上に空席がないか確かめようとして段を登って行ったら、
「もうどこも空いてないよ」
と上の方から男の人に言われました。
最初、観閲台近くの下から二段目に三人分の席を取ったのですが、
自衛官が「三段目以上が見易くなっております。上に席があればそちらにどうぞ」
と繰り返すので、隣の、つまり前回と同じ区画の三段目に移動しました。
これじゃ今日も大した写真は撮れそうにありません。
前に関係者のパイプ椅子が並んでいて、視界最悪。
戦車の向こう側は「緑席」。
一応ヒエラルキー的にはわたしの頂いた赤チケットは、
「超関係者」の紫、「関係者」の黄色の次にいい場所なのですが、
それに甘えて油断したのが失敗でした。
しかし、わたしなどまだ早い方です。
同じ赤チケットでも、観閲路の向こう側(遠い)に行かざるを得なかった人もいます。
さて、席を確保したので、後から来る家族のために食べ物を買いに出ました。
アヒル隊長。初めて見ました。
海自のフネバージョンが一番しっくりしますね。
戦車に乗っているアヒル隊長の絵は、マンホールの穴から首を出していた
YouTubeのスズメ画像を思い出してしまいました。
がんばれ!すずめ
自衛隊グッズやお菓子の企画を考えるお仕事ってきっと楽しいだろうなあ。
この辺に駐車してある車両にも必ず隊員が番をしています。
観客席の前には、客席だけを見張る係が多数。
後ろをちらっと振り向くことすら許されません。
地元警察からも応援が来ています。
わたしたちの前には婦警さんがいました。
観閲会場の滑走路の向こうは自衛隊装備展示会場。
隊員が移動の行進する姿も見られます。
観閲場中央にいるのは米軍の制服着用の軍人。
式の後演奏をする軍楽隊の隊長で、
彼と話をしているのは、東部方面音楽隊の隊長のようです。
迷彩服を着ているのですが、陸自はこれが音楽隊の制服でもあるんですね。
警備のための隊員、警察官に加えて、政府のSPも到着。
いつの間にか前の席が一杯になりました。
一番前列はともかく、二列目以降は前の人の頭でほとんど見えない場所かも知れません。
空をしょっちゅうヘリコプターが旋回していました。
首相到着が近いので、上空警戒でしょう。
VIP臨席の行事は何度もやっていて手順も決まっているのでしょうが、
毎年のように大変なことだと思われます。
うちの家族は開始の9時半に滑り込んできたのですが、
朝霞の入り口に到着したときに割と上官っぽい自衛官が
「遅れてくる国会議員がどーたらこーたら」
と皆が聴こえるところで言うので、下の人が「あーまずい、聞かれてるのに大きな声で」
みたいな表情をしていた、と報告してくれました。
遅れてきた国会議員って、誰。
さて、先週と同じ、入場行進はこの二人のスネアによって行われます。
後ろに立っているだけの一人が何のためなのかはわかりませんでした。
行進は常に防衛大学校が最初です。
相変わらずしゅっとしてピカッとした凛々しい制服姿ですね。(うっとり)
先週雨に濡れた制服は、その日のうちに乾かし、アイロンがけしたんでしょうね。
(対番生徒)「アイロンがけはいい感じにな」
(新入生)「いい感じとはなんでありますか」
(対番生徒)「人間には不可能な精度でという意味だ」
みたいな?(ジエイのお仕事by岡山地本広報HPより)
観閲部隊は勿論部隊の全員参加ではありません。
一体どのように観閲部隊が決まるのでしょうか。
と思っていたところ、先日ふとした弾みで、防大の父兄の方からの情報をいただき、
この参加が「志願制」であるらしいことを知りました。
お父さんお母さんは息子の「晴れ姿」を見ることを切望するのだと思いますが、
何か不可避の事情で参加を辞退、ということもあるようなのです。
それで少しがっかりされるご父兄もおられるのかな、と思った次第です。
二番目の学生の腰に下がっているのは、「カバー」ではありません。
鞘です鞘。
あらためて思うのですが、行進のときに担ぐのって「銃剣」なんですね。
自衛隊では銃剣術なんて訓練をしたりするんでしょうか。
同じ制服ですが、女子学生がスカートを履いているのは、防衛医大。
ブルーの旗の翼の中心にあるのはアスクレピオスの杖(の蛇のいないバージョン)?
かっこいいなあ・・防衛医大の女性。
人生がもう一回あれば、女性に生まれて防衛医大を受験したいなあ。
いや、やっぱり男性に生まれて防衛医大かな。
息子には将来防衛医大に行ってほしい、と真剣に思っていたこともありますが、
刷り込みの戦略が拙速だったためか失敗し、全くこういう世界に興味を持ってくれません。
防衛大学校と防衛医大の行進隊列の大きな違いは、
「銃剣を携えているかどうか」
彼らが左手に携えているのは医療用の用具を象徴する行進用のバッグ。
かもしれません。想像ですが。
ちなみにやはり隊列の先頭に立っている4人は、主席を始め成績優秀者であるとのこと。
ということはこの写真の女子学生は主席かもしれないということなんですね。
超頭脳優秀な若者たちの集団。
ところで、旧軍では「軍医」と軍隊付きの医師を呼びました。
「軍医どの~ッ!」
というセリフが戦争映画にはしょっちゅう出てくるわけですが、
階級に慣例的に「殿」をつけない海軍ではやはり
「軍医~~ッ!」
だったんでしょうか。
なんだか据わりが悪いというか、呼び捨てみたいで気が引けますね。
そして今は
「医官~ッ!」
なんでしょうか。もっと言いにくいですね。
まるで「イカ~ンッ!」って怒ってるように聴こえませんでしょうか。
しかしなんでいちいち叫ぶ場面を想定しているんだエリス中尉~ッ!(笑)
そして普通科連隊の入場。
左手がウェーブしている(笑)
彼らの右太もものラインは、飾りではなく、
物入れ(レッグバッグといってこの日も売店で売っていた)を
装着するベルトになっている、と想像。
滑走路向こう側の席は結構ガラガラです。
多少遠くてもこの上段の方がよかったかな。
(と未練がましく今更考えるエリス中尉)
空挺隊。
前を歩く隊長の首の太さをご覧ください。
精鋭部隊、陸自空挺団の入場。
開始前、先週と同じく「自衛隊ソング」が流されていましたが、
そのなかに
「あ~あ堂々の~じ~え~い~た~い~」
という歌詞がありまして、思わずこういう光景を見ると思い出してしまいました。
「ああ、堂々の自衛隊」って、「不肖宮島」茂樹さんの著書にありましたね。
てっきりこれは「暁に祈る」という軍歌の歌詞
「ああ堂々の輸送船」のパロディだと思っていたんですが、そう言う歌があったんですね。
海自の部隊旗は、旭日軍艦旗と同じく、旧軍と同じデザインの
「桜に錨」をそのまま流用しています。
後ろを行進している青いマフラーの隊員は通信科。
通信科の青は戦後決められたようですが、たとえば旧軍の歩兵に相当する
普通科のマフラーの赤(正確には緋色)
砲兵科の黄色
航空科の浅葱色(旧軍では淡紺青)
施設科のえび茶(旧軍工兵科のとび色)
などは旧軍時代のものをそのまま受け継いでいます。
上の防衛医大の部隊旗が緑なのは、衛生科の色なのです。
航空自衛隊の向こうに立っているのはオレンジのマフラー、
つまり機甲科。
機甲科は、戦車隊と偵察部隊に大別されます。
女性自衛官部隊。
髪を纏めている、つまりロングヘアの隊員が多いですね。
陸海空女性部隊の隊長三人。
こちらは高等看護学院の隊員たち。
男子学生は救難ヘリなどに配置されるのでしょうか。
海自ですが、US2に乗り込んでいたのも看護士の資格を持つ隊員でした。
救難救命の現場で大きな力となる看護士を育成する組織です。
女性部隊隊長たちの行進。
最後に入場してくるのが音楽隊です。
左から東京音楽隊隊長川邉一彦二等海佐、
陸上中央運楽隊隊長武田晃一等陸佐、
航空中央音楽隊隊長。(どこを探してもわかりませんでした。すみません)
後ろのおじさんたちが「小学校の運動会を思い出すねえ」
などと、少し失礼な感想を述べておられましたが、小学校の鼓笛隊でも、
こういうドラムメジャーは、背が高い生徒が選ばれていた覚えがあります。
ここだけの話なのですが、先週の予行演習のとき、ドラムメジャーがバトンを落としました。
雨が強く、傘なしでは目も開けていられないくらいの状態のときでもあったので、
もしかしたら濡れたバトンが滑ったのかもしれません。
無言で進行を眺めていた(笑)周りの人たちは一斉に
あっ!と声を上げたのですが、一番心臓が凍ったのはご本人だったでしょう。
しかしそれはあくまでも予行演習のこと。
晴れた本番のこの日は勿論そのようなミスは起こりませんでした。
音楽隊のこちらに見えている陸自隊員のは、行進の間スネアを叩いていた太鼓手です。
ちょうど音楽隊が前にさしかかった瞬間、後ろにいた隊員(やっと役目がわかりました)が、
合図の笛を吹くと同時に演奏交代するという仕組みです。
ブースから出て退出中。
というわけで、儀仗隊を除く全ての観閲部隊が入場したところで次回に続きます。
ところで、わたしはここにいる若い隊員たちと、同日の朝六本木で見た、
ハロウィーンの仮装をした若者たちをどうしても比べずにはいられませんでした。
彼らは同年代。
同じ時代の、同じ日本に生まれても、かたや一晩の放埒に目の下を疲労で黒ずませ、
タクシーを拾って朝帰りをする若者がいるかと思えば、
かたやこれから国の護り手としての激励を一国の総理から受けようとしている若者がいる。
どちらの青春もが共存するこの日本という国は、それだけ平和だということなのでしょう。
放埒の青春どころか、普通の生活すら捨て、命に代えて国を護ることが全ての若者たちに強要される、
それは日本がかつて辿った暗黒の道であり、二度と選択されるべきではない歴史です。
平和で豊かな社会であれば、その選択肢は無限にあり、その選択にいいも悪いもありません。
六本木の若者たちを非難する権利は勿論誰にもないのです。
しかし、仮装して朝まで集団でばか騒ぎの末警察のお世話になるような享楽的な若者もまた、
意識するしないにかかわらず、日本の平和を日本人として享受しているのであり、
つまり、かれらの安穏の根幹には、彼らは決して知ることはないでしょうが、
これから朝霞で観閲を受ける自衛隊の若者たちの力が礎を為しているということでもあります。
今の平和な日本ならではの数多の選択肢の中から、誰かの、
しかも見知らぬ他人の役に立つ職業を選択する若者がここにいます。
日本という国の国民である他人を護ることを自分の使命と決めた若者たちが。
人生に何を求めるかはその人間の自由です。
しかし、何より誰かに必要とされる人生はそれだけで幸いであるとわたしは思います。
何事も言ってみるものです。
雨の観閲式予行演習で過酷な一日を過ごし、
このままで終わってはあまりにも口惜しいと涙ながらに訴えてみたところ、
本番チケットをさる方から頂くことになりました。
しかも、このブログを読んでくださっていた防衛大学の関係の方が、
「もしまだ手に入らないようでしたら送ります」
という涙が出るほど有り難いお申し出をしてくださったのです。
ご心配を頂いたばかりか、わざわざ手配のためにお手を煩わせてしまったことを
感謝するとともに申し訳ない気持ちで一杯です。
ご好意により、観閲式本番の見学が可能になりました。
心よりこの場を借りてお礼を申し上げる次第です。
さて、朝4時半起きの観閲式。実は写真の整理だけで疲れきったので、
明日から観閲式について本格的にご報告をさせていただくとして、
今晩は取りあえず予告編と題して、写真をピックアップしお届けします。
ところで冒頭写真を見て
「なんだか前回と同じような場所なんじゃ?」
と思われた方、そうなんですよ。
前回は予行演習で雨が降っていたため、7時半頃訪れてもゲートは待たずに通れましたが、
今日は7時の開門直後に着いたにもかかわらず、セキュリティチェックに30分かかり、
席がもうすでに上の段、観閲台に近いところから埋まってしまっていて、
結局前回と同じような(しかももっと下)場所しか取れなかったのです。
うーん、本番を甘く見ていたわ。
観閲官臨場の前に、全観閲部隊が入場行進をします。
これが9時45分から。
普通科部隊です。
防衛大学は一番最初。
海軍旗がはためいているとつい何枚も写真を撮ってしまいます。
入場行進の一番最後は音楽隊。
観閲を受けるために整列した陸自女性部隊。
迫力です。
そして巡閲をする観閲官たる安倍総理大臣。
総理大臣の巡閲を受けた後、観閲行進のために外に出ます。
観閲台から見て左手から全観閲部隊は入場行進。
これが本日の観閲式のメインイベントなのです。
戦車なども全て一旦外へ。
一時に多くの重車両が移動するさまは圧巻です。
そして観閲行進。
部隊の先頭には指揮官が車上に立ちます。
観閲官の前を通るときには旗とともに敬礼をしつつ過ぎます。
やっぱり撮ってしまう海自の自衛艦旗。
美しいですよね。
後ろのおじさんたちも「やっぱりデザインが粋だよね」とはしゃいでいました。
陸自の8条を見て
「あれ軍艦旗?」
「違います。海自のは14条です」
・・・・惜しい。
観閲台の安倍総理と小野寺防衛大臣。
総理大臣旗や防衛大臣旗が前に並んでいます。
ちなみに天皇陛下の旗は紫です。
観閲行進が終わったら、すぐさま観閲飛行が始まります。
ちなみに本日は強風のため空挺降下は中止となりました。
陸自装備品の展示がメインです。
これはOH-6D。
わたしの大好きなOH-1も。
勿論宙返りはなしです。
我が(とまたもや勝手に身内認定略)海自からは今話題の
US-1AとUS-2。
実はこの観閲式の2日前、わたしはUS−2の所属している基地に行ってました。
その話はまたいずれ。
そして観閲飛行に続いては車両行進。
行進はこれで終わりです。
国旗が降下され、式は終了。
この後、イベントが行われました。
高等工科学校の儀仗隊による演技。
米海軍音楽隊によるマーチ演奏。
そして東部方面の太鼓隊の合同演奏。
最後にはこの太鼓隊と、東部音楽隊のセッションもありました。
基地内にはこの日装備が展示され、見学することができます。
一番人気のヒトマル式。
これは後で隊員が稼働するデモンストレーションあり。
米海兵隊から特別ゲスト。
実はこの二日前に、わたしは米海兵隊基地にいました。
この話もまたいずれ。
装備の展示はこんな小物にも至ります。
一度で懲りたのか、空砲を触らせてもくれないしロープで囲いまでしてありました。
着ぐるみ部隊もあちこちにゲリラ的に現れて愛想を振りまいていました。
たぶんこれは、ハトです。
しかしこのゴーグルだと目がはみ出しちゃいますね。
ヒトマル式戦車の実演。
しかし戦車好きの青少年、中年もですが、多いです。
前列でかぶりつきしているのは皆男性。
昨日まで雨やら風やら、はたまた地震まで起こったというのに、
この日は好天に恵まれて全く観閲式日和でした。
チケットをくださった方が「当日は晴れるそうです」と書いてこられたのですが、
「そんな先の天気予報、当たるんだろうか」
という内心の心配は杞憂に終わりました。
しかし、たとえ先週と同じような荒天であったとしても、
皆様のご好意を頂いた以上、わたしは何が何でも行っていたでしょう。
ですから、今日晴れてくれたのは本当に嬉しかったです(笑)
伊勢参拝は江戸時代に庶民の大ブームとなったのですが、
これには仕掛人がいました。
御師という宗教家で、神宮の神髄を説きながら全国を布教して回り、
お札や伊勢暦などの勧誘グッズを配り、参詣曼荼羅などのカタログで
庶民の憧れを誘い、一大ブームの元を作り上げたのです。
このとき配ったお札は、一年間神棚に祀ったのち、木箱に入れて処分する、
という慣習もでき、これが「お払い箱」の語源となっています。
御師はまた、伊勢参りの旅のコーディネイトもしていました。
人々は伊勢までの費用を賄うために「講」という積み立て制度を作り、
村単位で旅費を貯め、くじで代表を選んでお参りをさせたのですが、
この講からは前もって御師にお金を送金します。
旅行代金は先払い、ということです。
御師はその代金で道中の茶屋や宿を予約しておくのですが、
予約がなくとも、「契約済」の店であれば、予約者はお金を払わずに
宿泊や飲食をすることが出来ました。
まさに、現在のトラベルデスクのパッケージツァーの仕組みです。
このような信用商売がしかも全国ネットで成立していたというのが、
日本人の「民度」の熟成を現していると思いませんか?
何でもない敷石ですが、これも「お地蔵さまに見える」と言われているそうです。
「いくら日本の神様が寛容でも、そのこじつけは不適切なのでは・・・・」
でも、そのうち誰かがこれにも手を合わせ始めるんだろうなと予想。
この日は平日の午前中ということで、かなり空いていたとのことです。
ポツンと放置されたベビーカー。
中には生後3ヶ月くらいの赤さんがいました。
周りのばばたちが大騒ぎして、
「子供捨てる気なん?」
「放置して親はどこいったん、親は!」
「さらわれたらどうする気これ?」
などといきりたっていました。
アメリカじゃあるまいし、日本で、しかもお伊勢参りの客が赤ん坊を連れて行くだろうか。
とはいえわたしが親でも絶対これはできませんけどね。
この写真を撮った直後、向かいから2歳くらいの男の子を抱えて、
若いお母さんが必死でベビーカーのところまで戻ってきました。
きっと、上の子を急いでトイレに連れて行く極限状態だったのでしょう。
子供を育てたことがある母親として、理解できます。
本当にどうしようもないときって、あるんですよね。
泣きそうな顔をしてもう大きな子供を抱えていましたが、
ベビーカーのところで待ち構えているばばたちから、これからさぞかし
鬼の首を取ったような調子の非難叱責を受けて、悲しい思いをするのだろうと、
心からこのお母さんに同情しました。
これは立て替え前。
20年経つとこのようになるという見本です。
逆にどうせ20年したら建て替えるのだから、
という意識で作っているので、そう堅牢なものではないという感じ。
しかし、どんな地震が来ても鳥居だけは倒れず、残るのが
今や世界の不思議となっています。
揺れがねじれて伝わるからなんですね。一言で言うと。
タクシーで内宮へと向かいます。
鳥居の中は右側通行。
ここは車を留めることができないので、ガイドなし。
おじさんはそんなときのための解説本を貸してくれました。
内宮のことを皇大神宮というのが正式の名称です。
橋の上流側に立っていた柱。
何のためなのか分かりませんでしたが、川が氾濫したときに、
大きな木材が橋桁を直撃するのを防ぐため、と予想。
本当はどうだかはわかりません。
境内でのライブ・パフォーマンスもあり。
外国人観光客が食いついて写真を撮りだしたのは・・・・。
15歳くらいに見える巫女さんの舞。
神楽舞楽といいます。
江戸時代の一生一度の伊勢参りの目的とは、
この御神楽をあげることと言われていました。
神楽とは「神遊び」ともいい、神事です。
神楽殿では申し込みによって神楽奏奏をしてもらうことができます。
興味津々で値段を見たところ、一番安価なもので1万5千円。
最も高価なランクが「50万円以上」とのことです。
神楽奏奏は初穂料を添えて住所氏名を書き申し込みます。
ちゃんと名前にはふりがなも書かなくては、
神様に伝わらないのだそうです。
神職が名前を読み上げてくれ、そのあと、
「自分がスポンサーになって行われるショウ」
によって、神様を楽しませ、ついでにお願いを聞いてもらう。
御神楽を捧げるとは、つまりこういうことなのです。
「じゃ、たくさんお金を出せば神様もお願いを聞いてくれ易いってこと?」
「そう。地獄の沙汰も金次第ってやつですね」
「・・・・そのたとえはさすがに適切ではないのでは」
この巫女さんたちは、いわゆる¥50万クラスの舞いをするのには
少々若くて経験不足のクラスではないかと言う気がしました。
ところでここだけの話ですが、わたし、その昔(学生時代)アルバイトで
結婚式の巫女さんをやったことがあります。
知り合いに頼まれたので3ヶ月の間、土日に一件くらいの割りでやりました。
あのときエリス中尉の注いだお神酒でかための杯をし、
ついでに振った御榊で結婚の儀式をされた何組かの夫婦の方、すみません。
こんなインチキ巫女の御仕えで一生一度の大切な神事を執り行うことになって。
今でもお幸せでおられるといいなと心から思います。
さて、そんな懺悔の気持ちを(笑)全て水に流す場所がここにはあります。
ここはいわば神様にお願いをするためのの一大アミューズメントパークですから、
当然そういうコーナーもちゃんと用意されているわけです。
それがこの河原。
水辺に立って、流れで手を清めれば、過去の色々を流し去ってくれるという
脛に傷持つ大抵の煩悩深い人間には非常に都合のいいありがたいコーナー。
危なっかしい足取りなのに、それでもこんなところに無理矢理立つ老人。
やめろー!
隣でおばあさんがよろめいたのでヒヤっとしました。
昨日の雨で増水していて流れも早く、
お年寄りが水に流されたらまず助かるまいと思われます。
もしそうなったら、これが本当の三途の川を渡ったってやつですか。
「さすがにその例えは適切ではないのでは・・・・」
落ち葉かきや枯れ枝を拾ったりする作業のための道具にも、
ポリバケツのような無粋なものは決して使いません。
おしゃれな手編みのカゴ。
消火用ホースだってこの通り。
これも20年おきに作り替えるんですね。
高床式の神事に使う道具を収納する倉。
新しいので檜の香りが満ち満ちています。
こんな風に周りを囲ってある木があれば、皆がなぜか両手をつきまくって
「千年のパワーをもらおうとしている木」もありました。
そんな木は通りがかる人が次々と同じことをするので、
つるつるになってしまっていました。
こちらは、神様がすでに転居された古いお社。
新しいのは隣に建っていて、皆が祈りを捧げていますが、
そちらは撮影禁止です。
古い方はこれから壊すので、写真を撮ってもOK。
ここまでお参りをして疲れた善男善女のために、真新しい休憩所が。
伊勢神宮にまつわる映画をずっと流しているほか、
自動販売機もありますし、無料でお茶もいただけます。
頂いたあとの湯のみを入れる場所。
この男性は「お茶、美味しいわ」とつぶやいていました。
わたしは水を頂きましたが、お水も美味しかったです。
帰りに、また先ほどの欄干のある橋を渡ります。
日本の国旗が高いところに見えるように翻っています。
ここ伊勢神宮の内宮に祀られるのは天照大神。
つまり、高天原の神が地上世界を治めるために自分の身内を送り込んだ、
その子孫が天皇であり、地上の代理統治を神から託されたのが天皇である、
というのがここ伊勢神宮と皇室とのゆかりなのです。
伊勢神宮に祀られているのが「皇祖伸」であるがゆえに、総理大臣の参拝も
昔から慣例的になされてきたわけですが、そういう歴史を何も知らずか、
浜口首相以来の安倍総理の遷御参列を
「戦前回帰」「政教分離に反する」「賛否両論」
などと書き立てるマスゴミというのは、つまりこの「日本の旗」「天皇制」
に反対している一派と同じ考えってことでいいですか?
この欄干だけがツルツルに光っているのは、これをなでると
お願いが聞いてもらえるという言い伝えがあるからです。
たまたまそれを知っていたわたしたちが立ち止まって触ると、
それまで周りに誰もいなかったのに、急に欄干をなでるための人だかりができました。
三ツ石の「パワー」とやらも、最初になんとなく思いついてやる人がいて、
通りがかりの人が次々とそれをみて同じようなことをするので、
いつのまにか囲いまでができてしまったんでしょうね。
ここには毎月一の付く日のみ、神馬(しんめ)が繋がれます。
馬ならぜひ見たかったのですが、やはり神様の馬なので白馬だと言うことでした。
ここには境内を歩き回る鶏がいて、それは
天石屋戸神話(天の岩戸伝説)に登場する「長鳴き鶏」、
つまり天照大神の神使として大切にされている「神鶏」なのですが、
どちらもこの日見ることが出来ませんでした。
ところが鳥居を渡りきったところに・・・。
妙に人馴れした、人懐こい猫がいます。
尻尾を前足の上にちゃんと乗せてお行儀も良い。
屈んでなでてやると、身体にすりすりしてきて、
尻尾も握らせてくれました。
驚くほど毛艶が良く、触るとまるで天鵞絨のような手触り。
後で運転手さんに言うと、ここには三匹の猫が可愛がられていて、
近所のお店から餌ももらっているとのこと。
後二匹は白黒の猫だそうですが、どれも人馴れしていて、
参拝客のアイドルなのだそうです。
わたしたちの次は、ほら、この通り。
誰ですか「猫になりたい」なんて思ってるのは。
「でも、ここに住み着く猫って賢いよね」
「伊勢参りに来るような人たちが、いじめたりするわけないしね」
そのせいなのか不思議なくらいおっとりして気品の感じられる猫。
神馬も神使も見られなかったけど、この神猫みたいなのに会えたので大満足です。
息子の秋休みを利用して伊勢神宮参りをして参りました。
今年の10月、20年に一度の社殿を建て替える儀式、式年遷宮を迎えるからです。
式年遷宮の年、伊勢神宮に参拝する客は大変な人数になるそうで、
先日読者の森のくまさんが明野航空祭に合わせて行かれたところ
「人に酔った」
というご報告をくださったように、神殿に近づくことすら大変な状態が
ここのところずっと続いているのだそうです。
どうせ行くなら、とついでに一泊してきました。
新幹線で名古屋まで行き、そこから近鉄に乗り換えて2時間。
近鉄の駅にはお伊勢さん参りらしい中高年の団体客。
「第62回伊勢神宮式年遷宮」という幟の前にいます。
伊勢神宮で最初に式年遷宮が行われたのは飛鳥時代。
間に戦乱で途絶えたことはあっても、ずっと続けられてきた
日本の神社の頂点に立つ神社の大事な行事です。
たくさんのツアーも組まれているようですね。
近鉄の車両は、古いものになると未だにタバコの匂いがこびりつき、
決して快適とは言えませんでした。
車両で見かけたのも、中高年のグループばかり。
終点の賢島に到着。
この駅にも式年遷宮の幟。
駅前からは本日のホテル「志摩観光ホテル」のシャトルバスが出ています。
「30分です」
と仰るので
「(ホテルまで)30分かかるんですか!」
というと、
「いえ、30分に出発です」
駅の横の坂道を登ったらもうそこはホテルでした。
歩いてもおそらく3分くらいだったんではないでしょうか。
普通のホテルなら、駅前なので歩かせるところですが、このホテルは
何しろ「あの」志摩観光ホテル。
それこそ宿泊客は中高年ばかりなので、たとえ3分でも坂道を客に歩かせたりしません。
チェックインに時間があったので、ラウンジでお昼にしました。
ラウンジからの眺め。
このホテルは「華麗なる一族」の舞台になったことで有名です。
作者の山崎豊子氏は、ここのレストラン「ラメール」(海)でずっと夕日を眺め、
万俵家が一同に会すあの正月の食事シーンを書き上げました。
このシーンを、読んだことのあるわたしが読んだことのないTOに説明してあげました。
「娘がここで『サ・セ・ボン・グー。
嫌だわお父様、今日は日本のお正月ですのよ』って言うのよね。
つまり、万俵家では、食卓で、日本語、英語、フランス語を毎日ローテーションで、
フランス語ならフランス語しか使ってはダメ、って決めてるわけ」
「うちもなんとか二カ国語ならできるな」
「ママはそれだめじゃね?」
「何を失礼な。自分がちょっと流暢にしゃべれるからって。
それから、娘が『お父様、二階のロビーで素晴らしい(真珠の)珠を見つけましたのよ』
ってネックレスをおねだりするの。
見ただけで真珠の善し悪しなんてわかるものかな」
「わかるんじゃない?華麗なる一族なんだから」
作者の山崎豊子さんは先月29日亡くなりましたね。
そう言えば知り合いのお医者さんから、
「豊子ちゃんの小説の、何とか博士(忘れた)って、僕がモデルなんだよ~!」
と聞いたことがあります。
この方は某大阪大学の教授でしたが、この小説とは決して「白い巨塔」のことではありません。
その方も、もうすでにこの世の人ではなくなってしまいました。
ラウンジではきゅうりとハムのサンドイッチを頂きました。
ようやく2時になり、部屋に入ることが出来ました。
さすがの老舗ホテル、全体に漂う古ぼけた感じは否めません。
当然ですが、インターネット環境など全く配慮されていません。
わたしは携帯のWi-Fiをいつも使っているので無問題でしたが、
通信速度が異様に遅いのには参りました。
旅行中くらいインターネットなしで過ごしたいのは山々ですが、
わたしの場合、何と言っても毎日ブログをアップするという使命があって・・・。
窓はこれだけしか開けられません。
英虞湾に向いているだけでもいい部屋なんだとは思うんですが・・・。
やはり昔の旅館の豪華版、って感じです。
部屋から見える景色。
真珠養殖の筏が所々に見えます。
この頃は雨がかなり強く降っており、近くの水族館に行く気にも慣れず、
夕食の予約時間まで部屋でのんびりとしていました。
東京で仕事があったため後から来たTOが到着するのを待って、
レストラン「ラ・メール」に食事に行きました。
わたしは実は家族と昔ここに来たことがあるはずなのですが、
小さかったので全く記憶にありません。
広いダイニングルームは、ほとんどが年配の客。
志摩観光ホテルは、近年もっと海に面した場所に新館を造り、
そこには若い人たちが泊まるようにきっとインターネット環境も整っているのでしょう。
このようなシャンデリアがゴージャスの証であった時代がありました。
宿泊とディナー朝食がセットになったプランなので、
何が出てくるのかはメニューを見るまでわかりません。
このようなプリフィックスメニューですが、事前に、
アレルギーとか嫌いな食材について聞かれました。
このトマトスープはとても美味しかったのですが、
息子が「生のトマトがアレルギー」と言ったところ、
火を通しているにもかかわらず「トマトが濃厚なので」という理由で
息子のだけがパンプキンスープに代わっていました。
トマトスープはむしろ大好物なので、こっそり取り替えてやりました。
前菜の、エビ、タコ、イカなどシーフードのサラダ。
この小さいのも一応「伊勢エビ」。
ここは伊勢なので。
再び伊勢エビのアメリケーヌソース。
エビの味はあってないようなものですが、このソースが絶品なので、
非常に美味しく頂くことが出来ました。
お口直しのグラニテ。確かザクロだったかと・・・。
メインの肉料理は、松坂牛とポークのレクタングル(長方形)仕上げ。
変な名前ですが、要は四角いハンバーグです。
ハンバーグとするより、何となく高級感がありますね。
しかし、素材がいい上、さすがは華麗なる一族万俵家御用達のホテルのキッチンだけあって、
そのような大衆っぽさの感じられない上品なお味でした。
嵩を出すため(笑)お肉の下にはポテトを敷いて上げ底にしています。
デザートは小さなパンケーキの上に乗ったムース。
キャラメリゼされたナッツがアクセントです。
さすがは志摩観光ホテル。
老いたりといえども、関西の財界人初め古くからの客がついている老舗ホテルは
何と言ってもプライドにかけても味を落としていません。
次の日の朝。
昨日あれだけ降ったのに、伊勢参りの日にはピタリと止むあたり、
(決してわたしではなく)日頃のTOの行いがいいからに違いありません。
今回のお参りも、彼の強い希望で実現したものです。
ホテルを一歩出ると、強いキンモクセイの香りがしました。
関東では少し前に終わってしまっていて、関西ではいつも
一足遅いので、この季節関西旅行をするわたしたちは、
例年この金木犀を年に二度楽しんでいます。
この特急電車で一時間、賢島から伊勢まで乗ります。
伊勢駅前は妙にあちらこちらが奇麗にされていました。
もしかしたら遷宮に合わせて駅周辺も再開発されたのでしょうか。
駅前で予約していたタクシーの運転手さんと待ち合わせます。
伊勢参りのためにガイドツァーを頼んでおいたのです。
運転手さんの案内で、まず下宮から。
ここもきれいに舗装されたばかりと言った感じ。
観光客はあまり知らない、運転手さんが解説してくれた一本の楠。
一本なのに幹の根元で割れたまま成長したので二本に見えるのです。
樹齢は千年なのだそうで、これを割ったのは平清盛だとか。
伝説にすぎないのだとは思いますが。
わたしはしょっちゅう靖国神社で手水を行うので慣れていますが、
TOと息子は運転手さんにやり方を教えてもらっていました。
手洗い場も建て直ししたらしく、きれいです。
皆さんはまさか柄杓に口を付けたりしてませんね?
正しいやり方はちゃんと手にすくって手から口に含みます。
ここも新しくできた資料館のようなところ。
神楽の舞台になったりする池の上のステージ。
この池は勾玉の形をしています。
昔々、わざわざその形に池を作り上げたんですね。
日本人って、凝り性だなあ。
この日ガイドをしてくださった運転手さん。
こういうところでタクシーをしているだけあって、博識でした。
ズボンのポケットからヴィトンの財布がちら見えしています(笑)
「ワシは小物にはこだわるんや!」
人ごみの中を何度もこのスタイルで案内している方だと思うのですが、
今まで一度もこの無防備なヴィトンが狙われたことがないとは、さすが伊勢神宮。
伊勢参りに来ている人の財布を掏る不信心なスリはいないってことですか。
まだまだ日本も捨てたものではないかも、ですね。
これから何かを建てる予定のある土地には、
このような囲いがされています。
この向こう側はお札を売っていたり、お神楽の申し込みをしたり、
そういう売店ですが、中には神職の方、巫女さんがつめていて、
そのせいか中に向けての撮影は禁止となっていました。
もともと遷宮は天武天皇が壬申の乱で勝利をおさめ、その「戦勝記念」
として神宮にご恩奉じの意味で行ったのが始めでした。
それまでは、神社が破損したり災害で何かあったときだけ行われていたのが、
定期的な立て替えを慣例として定められたのは女帝、持統天皇の時代です。
建て替えには8年を要します。
用材の搬入から始まって、新社殿の完成、その後、
遷御によって神霊が新社殿に迎えられると遷宮はクライマックスを迎え、
内宮、下宮、別宮の遷御が全て終わって、式年遷宮の完了となります。
下宮にある「三ツ石」。
今どきを反映して、ここは「パワースポット」などと言われているそうです。
手をかざすと温かい感じを受ける人が多いとか、
某総理大臣も手をかざした際に温かみを感じたとかいう噂があるそうですが、
これはある識者に言わせると「風評」のたぐいで、
こんなもの?にパワーはなく単なる道標みたいなものなので、
拝むならちゃんと神殿に祈りなさい、ということでした。
まあイワシの頭も信心からなんて言うことですし、皆が拝んだり
パワーを勝手に感じたりしたりするうちに、本当に霊験灼かになるかも知れません。
いや、もうすでにそうなりつつあるし(笑)
特に日本人はそういう何でもないものをいつのまにか「神様扱い」して、
本当に神様にしてしまう習性があるみたいなのですが、これもまた、
そう非難するには値しない微笑ましい現象だとわたしは思います。
というか、日本の神様って、そんなに心が狭くないと思うんですよね。
前日の雨で白濁した池。
この池にかかっているのは巨大な岩の「橋」。
水滴が穿ったこの橋の穴に、こうやって「お賽銭」をはめ込む、
それが日本人。
こんな人通りの多いところにお金が落ちていても、
誰一人それを取ろうなどとは夢にも考えません。
木の幹もその年代の気候によって成長の度合いが違います。
基本的に鳥居をくぐったら写真は撮らない方がいいと思うのですが、
皆おかまいなしに撮ります。
あちらこちらに「写真撮影禁止」と貼ってあるのに、それでも撮る。
大抵いい年をして、と思うような年配の人で、若者は見ませんでした。
たまたまかもしれませんが。
20年に一度の総建て替え、というのはあまりにサイクルが早すぎると思われませんか?
お寺は何百年経っていても、むしろそれが価値となったりするのですが、
神社、ことにこの伊勢神宮は、遷宮を神事として必ず行います。
その理由の大きなものは、今回知って驚いたのですが
「技術力の伝承」
つまり、宮大工とか、工芸職人の技術を維持し、次代に伝承するためなのだとか。
勿論それだけが理由ではありません。
次回、そんなことと、伊勢で味わった美味しいものについてご報告します。
本日もう一人ご紹介するソ連の女性飛行士マリナ・ラスコヴァとともに、
この人物はこのように描けと言われたような気がしたので、
今日はマンガ風肖像でお送りしております。
リディア・ヴラジミロブナ・リトヴァク。
ソ連邦の英雄で、ドイツ空軍からは「スターリングラードの白薔薇」
とあだ名されていたという戦闘機パイロットです。
やはりソ連のエカテリーナ・ブダノワとともに、史上ただ二人の女性エースの一人として、
とくに近年日本の萌界ではその名が有名になったリトヴァクですが、
このRytviaKは、どちらかというと「リトビャーク」という発音が近いのではないかと思います。
また、アメリカの博物館では彼女の名前はLilyaとなっているのですが、これは
ロシア文字を発音通りに表記した場合、こういう解釈をすることもあるということでしょう。
ここでは日本での通例通り、「リディア・リトヴァク」と表記することにします。
1912年、モスクワに生まれた彼女は11歳の時に「空に恋をした」といいます。
14歳で飛行クラブに在籍し、翌年には最初の単独飛行を果たしました。
Kherson(ヘルソン)の軍飛行学校を優秀な成績で卒業した彼女は
カリーニン飛行クラブで教官として働きだします。
14歳で希望すれば飛行機に乗れるというのもすごいですが、当時のソ連は共産主義革命後で
労働は美しい!額に汗して働く者がが報われる社会!みたいなことになってたせいでしょうか、
高校生くらいの若い女の子でも教官職にも就けたのですね。
彼女はそこで17歳までに旧式の複葉機を用いて、
45人ものソ連空軍パイロットを教官として指導しています。
1941年独ソ戦が勃発します。
もともと不倶戴天の敵同士であった両国の4年に亘る戦闘で、
共産主義革命を起こしたソ連と反共の尖峰であるドイツのあいだに
ポーランド分割を巡って利益が衝突した結果起きたものです。
ドイツ攻撃の報せを聴いた彼女は、軍航空隊に入隊することを希望しますが、
経験不足を理由にその志願は却下されてしまいます。
しかしおそらく優秀な彼女に活路を与えるために、上層部は意図的に100時間、
戦前の飛行時間を水増しして第586飛行部隊に配属されることになります。
これは、マリナ・ミハイロヴナ・ラスコワによって組織された女性だけの飛行部隊です。
宮崎駿監督には、もう一度(笑)引退を留まっていただいて、
ぜひこんなノリで架空女子飛行隊の映画など創っていただきたくなります。
余談ですが、このロシア名、女性形と男性形があって、
たとえば彼女の名前「ミヒャイロブナ・ラスコワ」であれば、男性形は
「ミヒャイロビッチ・ラスコフ」
と、同じ家族でも語尾が変わってくるんですね。
ラスコワも、ラスコフさんと結婚したのでこの名になったわけです。
わたしはロシア系アメリカ人で「スキー」のつく名前を持つ人物を知っていますが、
彼に、
「お母さんはやっぱり『スカヤ』なのか」と尋ねたところ、
「アメリカではそれは絶対にない」
という返事でした。ご参考までに。
ドイツ側には「東部戦線」、ソ連側では「大祖国戦争」と呼ばれた独ソ戦争勃発の時、
マリーナはすでに飛行士としてヨシフ・スターリンとの知己を得るほどの有名人で、
そのスターリンに頼んで女性ばかりの三つの飛行部隊を作らせます。
そのうち一つが戦闘機Yak-1を主力とする第586戦闘飛行連隊で、
リディアが入隊することができた部隊でした。
このマリーナですが、他のほとんどの女性飛行家のように小さい時から
飛行機に憧れていたわけではありません。
彼女は歌の教師であった父親の影響でオペラ歌手になることを夢みて育ち、
実際にも音楽の勉強をしていたのですが、父親が事故による障害で亡くなってからは
生活のために音楽をやめ、化学を勉強して染料工場で働きだします。
セルゲイ・ラスコフと結婚した彼女は女児を設けましたが、
図案工として、空軍のエアロナビゲーション研究所で仕事をするようになったことが
彼女の人生を変えます。
その後、彼女は爆撃機による長距離飛行記録を立て、パイロットとして、
そしてソ連初の女性ナヴィゲイターとしても国家的に有名な存在になります。
彼女の創設した女性だけの部隊、ことに夜戦専門の攻撃隊はきわめて成功し、
ドイツ軍は彼女らを
”ナハト・ヘクセン”(夜の魔女)
と呼んで恐れました。
さて、リディアの話に戻りましょう。
いったんは女性部隊に入ったリディアですが、
なんと初空戦一か月後に、男性ばかりの(ってこっちが普通ですが)飛行隊に配属されます。
このときに同時に移動になったのがもう一人の女性エース、カーチャ・ブダノワ、そして
マリア・M・クズネツォワとライサ・ヴァリァエワの計4人です。
女性部隊の中でも最も優秀な「四天王」(笑)というわけですね。
リディアは二回目の初空戦で戦果をあげ、隊長のボリス・エレーミン(のちの空将)をして
「非常に闘争精神に富む人物」
「戦闘機に乗るために生まれてきたような人物」
と激賞させています。
彼女はまた、リヒトフォーヘンの遠い親戚にあたる
ヴォルフラム・フライヒャー・フォン・リヒトフォーヘン将軍が司令を務める
第54戦闘航空団第2飛行隊のエース、鉄十字賞三回受賞の勇者、
アーヴィン・マイヤーの乗ったメッサーシュミットBf 109を撃墜しています。
パラシュートで脱出したマイヤーはロシア軍の捕虜になるのですが、そこで
「自分を撃墜した『ロシアのエース』に会わせてほしい」
と頼みます。
よっぽど悔しかったか、あるいはその腕に舌を巻いたんでしょうね。
ところが彼の前に現れたのは楚々とした二十歳そこそこの女の子。
「おいふざけんなよんなわけあるか!」
とは言わなかったとしても、マイヤー空曹はてっきり自分が馬鹿にされていると思い、
最初は全く信じませんでした。
しかし、彼女が空戦について当人しか知りえない経緯を説明したため
初めて自分を撃墜したのが目の前の女性であることを認めたそうです。
知らない方が幸せだったってことって・・・・・・・・ありますよね。
ちなみにドイツ空軍はスターリングラードで、それ以外のBf 109を失ったことはありません。
1943年にはレッドスター賞授与、そして中尉に昇進したリトヴァクは、ブダノワとともに
okhotniki(狩人)あるいはフリー・ハンターと呼ばれるエリート部隊に配属され、
熟練パイロットがペアで索敵するという戦法で空戦を行います。
このころ彼女は二度被撃墜を受け、負傷もしています。
リトヴァクの知人によると、彼女は
「ロマンチックで、かつ反抗的なキャラクター」
の持ち主で、戦果をあげた空戦から戻ってくると、基地上空で禁じられていたアクロバット飛行を、
しかも司令が激怒していることを知りながらやってのけるようなところがあったそうです。
さらに友人によると
「彼女は自分が無敵だなんて信じていませんでした。
パイロットの生死なんて所詮運だと思っていたわ。
彼女はもし最初の空戦から生きて帰れたとしたら、さらに飛んでさらに経験を積むことで
生き延びるチャンスがさらに増えるだけのことだと固く信じていたの。
ただ、運をいつも味方につけておくべきだとは言っていた」
彼女はそして戦闘機隊という荒々しい職場にあっても女性らしさを意識して保っていました。
今日残る写真の髪はブロンドに見えますが、これは病院に勤める女友達に頼んで
過酸化水素水を送ってもらい、それで染めた色です。
彼女はまたパラシュートの端切れをいろんな色に染めてそれを縫い合わせたスカーフを巻き、
お洒落を楽しんでいましたし、機会をとらえては花を摘みブーケを作ることが大好きでした。
特に赤いバラが。
そして彼女の搭乗した後の座席にはにはしばしば花束が置かれていて、
機を共有するほかの男性パイロットはそれをコクピットから捨てることになったようです。
前述のラスコヴァは若い時に結婚した相手と、空で活躍するようになってから離婚しています。
若い、そして「ロマンチックな」リトヴァクはやはり恋をしていたのでしょうか。
彼女の僚機であったアレクセイ・ソロマチン大尉は彼女の婚約者だったともいわれています。
彼は15機撃墜した同じエリート部隊のエースでしたが、ある日の空戦で戦死します。
ヴェルニス・ポレタという小説家の記述によると、ソロマチン大尉は弾薬を使い果たしたところを
BF109に撃墜され、その空戦の模様をリトヴァクは飛行場から目撃した、
ということになっているそうです。
しかし、同じ作者の別のバージョンでは
「新人パイロットの訓練中に事故で殉職」
となっていて、こちらは日本語のウィキペディアの記述に採用されているようです。
どこの国の戦記小説にも創作はつきものですが、同じ作者が全く違うことを言っている、
というのはあまりない例かと思われます。
このポレタとかいう作家には、どちらが創作なのかはっきりとしていただきたいですね(怒)
しかし、動かぬ事実としてリトヴァクが彼の死後、母親にあてた手紙で
「お母さんも知ってるように、彼はわたしのタイプじゃありませんでした。
でも、彼がわたしを愛し、告白してくれたので、わたしも彼を愛していることを確信したの。
今言えることは、わたしはもう二度と彼のようなひとには会えないだろうということです」
という報告があり、これが彼女が結婚を申し込まれていたということの論拠になっているようです。
それにしてもソロマチン大尉の写真が出てこなかったので彼女の言う
「タイプじゃない」
というのがどういう顔かわからなかったのが残念です。
この部分も日本のウィキでは「死んでから初めて彼を愛していることに気づいた」
となっていますが、英語版の手紙を翻訳しても、そのような意味にはどうしてもなりません。
まあそのように多少の解釈の違いはありますが、
とにかく彼女は愛している人を失い、その後衝かれたように空戦にのめりこんでいき、
そして21歳のまだ咲き初めた花のような命を空に散らすことになるのです。
1943年、出撃した彼女はついに基地に戻ることはありませんでした。
一緒に出撃したイワン・ボリシェンコは
「リリーは(どうもこれが愛称だったらしい)ドイツの爆撃機援護のために飛んでいた
メッサーシュミットBF109に気づかなかったんだ。
ペアになったドイツ機が急降下してきて、それを彼女は迎え撃とうとした」
ボリシェンコはその後雲間に彼女の機を見失い、パラシュートも見ませんでした。
ドイツ軍の二人のパイロット、ハンス‐ヨルク・メルケル、そしてハンス・シュリーフの二人が
リトヴァクを撃墜したと今日では信じられています。
戦死したことが確定的になっても、すぐに彼女の戦功が称えられ英雄となったわけではありません。
彼女が捕虜になっていないこと、つまり完全に死んでしまったことを確かめるため、
ソ連は彼女の遺体を・・・・金属探知機まで動員して探しました。
そしてその結果、彼女らしい女性搭乗員がロシアのある小さな村に葬られており、
その搭乗員は頭部の損傷によって死亡していたらしいことが突き止められました。
これが1979年、彼女が死んでから実に36年後のことです。
捕虜になっていなかったことがわかり、ソ連政府のキャッチフレーズ呼ぶところの
「スターリングラードの白百合」、リディア・リトヴァクは、
初めてソ連の英雄として認められたというわけです。
ちなみに、敵だったドイツと英語圏では彼女を「スターリングラードの白薔薇」と呼んでいますが、
彼女が生前好きだった花を思えば、こちらの方がその名に相応しいといえるかもしれません。
彼女の短くドラマチックな生涯は内外の作家の手で様々な著書に記されていますが、
その中でも、わたしはロシアの作家による
「アハトゥング!アハトゥング!上空に『白い百合』」
(Achtungはドイツ語で『警戒』)
「 天空のディアナ リディア・リトヴァク」
(ディアナは狩りの女神)
が気に入りました。
どうしてもこの人物はこのように表現されるのですね。
同じエースだったブダノワが、三機のフォッケウルフと交戦し、二機撃墜するも
被弾し撃墜されるという壮絶な最期を遂げて国民的英雄になったにもかかわらず、
今日の両者の知名度に全くの差があるのも
リトヴァクが美少女だったからということは否定できません。
いや・・・・ブダノワさんだって、戦死したのは若干27歳の時で、
しかも、もっと若い時はかなりおきれいな方なんですがね。
ロシア女性というのは若い時は妖精のように美しいのに、
ある年齢を超えると全く別のものになってしまう生き物のようで・・・おっと。
不謹慎ですがリトヴァクももしあと5 、6年戦死するのが遅ければ
果たしてここまで信奉者を生んでいたかどうか。
マリーナ・ラスコヴァは、第125爆撃守備隊の司令であった1943年1月4日、
スターリングラード近くのヴォルガ川土手に不時着する際失敗して殉職しました。
彼女の死に対し、ソビエト連邦は独ソ戦始まって以来最初の国葬を行っています。
そのとき彼女は32歳でした。
くどくどと繰り返してきた理由によりろくな写真撮れなかったこの日の予行演習。
そんな写真を挙げて報告をするのはどうも気合いが入らないのですが、
乗りかかったフネにもう一日だけおつき合いください。
ところで、携帯のデータが抹消されてしまったことによって、
いくつかの「データだけ」の連絡先も消えました。
縁が永久に途絶えてしまったわけです。
しかし、考えようによってはそれは所詮電話番号が失われれば切れてしまう関係。
携帯の交換と同時に人間関係も整理されたということです。
ということで業務連絡ですが、これを読んでおられるわたしの個人的なお知り合いの方。
(記憶する限りそれは2~3人なのですが)
そういうことですので、次回連絡は携帯電話ではなくメールにてお願いします。
まるでカーレースのようなスピード感(笑)
車両行進のために移動する車です。
国旗掲揚の後、式次第は巡閲。
これこそが観閲式のメインイベントです。
本番ではないので、この日は観閲部隊指揮官である第一師団長が訓示しました。
このときに思ったのですが、自衛隊の訓示というのはすべからく軍隊調。
ですますではなく、
「諸君の奮闘努力の成果を見ることが出来て嬉しく思う!」
みたいな感じです。
そういえば、防衛大学の学長もこんな調子で訓示していました。
今まで考えたこともなかったのですが、「自衛隊の訓示用口調」というのは
ちゃんと決められていて、旧軍時代から変わっていないのかもしれません。
訓示が終われば本来は空挺降下が行われるはずなのですが、この日は中止。
徒歩行進の後の観閲飛行も中止です。
ところで、この観閲飛行のための訓練は、朝霞市の広報、自衛隊の広報でも
前もって告知されているわけですが、毎年のように「騒音に苦情」をつけたり
「怖いと首をすくめる」市民が10~20人くらいはいるようです。
今年のコラムではないですが、労組系のブログでこんなのを見つけました。
読売新聞朝刊 観閲式訓練 自衛隊機騒音に苦情 曇り空の低空飛行一因か
記事によれば埼玉県や南部の川口、草加市(2日間で20件)、
自衛隊などへ騒音に対する住民からの「家が揺れる怖い」など苦情が相次いだとしている。
会場の陸上自衛隊朝霞訓練場上空や周辺空域で合計86機が編隊で待機するためとある。
F15ジェット戦闘機からヘリコプターなど全国からやってくるらしい。
HPによればその記事の場所は川口市や草加市など上空約300メートルと記載されている。
東京タワーとほぼ同じ高さでぐるぐる旋回飛行をくっり返したのだろう。
新聞によれば自衛隊の言い分としては「市街地は避けて飛んでいる」とあるが、
朝霞市も川口市も人口70万人の練馬区も市街地である、自衛隊機は毎日飛び回ってるのが現状である。
航空機騒音の影響でガラスはびりびり音を立てている。
自衛隊に隣接する練馬区大泉学園町に住む女性は、
飛行を管理する立川の自衛隊基地に苦情を電話で申し立てたようだ。
朝霞訓練場に北側に隣接している朝霞高校や南側の新座総合技術高校の教員たちは
「学校の校舎すれすれに編隊飛行のジェット機やヘリコプターが通過する、
墜落したら、空からはジェット機、地面は地響きのような戦車の轟音に授業は・・・
1ヶ月間の原油代金モッタイナイですね、
これから月末は28日の観閲式に向けてもっと酷くなります」と危険性を指摘する。
ヘタクソで間違いの多い文章を、悪意からあえて訂正せずに掲載しました。
毎日自衛隊機が飛び回っていることを承知で基地周辺にに住み始めたはずの住人が、
今更どうして苦情の電話を入れたりするんでしょうか。
他にいくらでも住む場所はあるのに、わざわざここを選んでおいて、
どうして電話をしてもどうにもならない苦情を申し立てるのでしょうか。
それから朝霞高校の先生や技術高校の教員たちというのは、
揃いも揃ってこんな意味不明なことをいう人たちばかりだったんでしょうか。
「墜落したら」「原油代金モッタイナイ」「もっとひどくなります」
と危険性を指摘する(冷笑)
オスプレイの反対運動をしている人たちと全く同じことを言うんですね。
まあ、同じ人たちなんでしょうけど。
そんな人たちが見たら観閲式などは「軍靴の足音が聴こえまくり」な、
とんでもない危険で軍国主義への逆行で現代のナチスで右傾化の象徴なんでしょうね。
現在の世界情勢というものを冷静に客観的に見るアタマさえあれば、
自衛隊というものが日本の脅威に対し抑止および対処にどれだけ実効力となっているか、
現在進行形で攻撃と侵略が懸念される島嶼部においていかに相手の脅威となっているか、
もしそれがなければ、今頃日本国内の安全はどうなっているかわかりそうなものですが。
大規模、特殊災害で救援活動をするのはヘリコプターや航空機でもあります。
通過しただけでびりびりと震えるようなちゃちな家に住んでいる一部の人たちに配慮して
これらがもし訓練を疎かにしたら、いざというときどうやって国民を助けるんでしょうか。
文句を言ってる奴に限って、周りの注意も聞かずに中州にテントを張って、
周りに水が出て動けなくなってから「自衛隊のヘリを呼べ」なんて言うんですよね。
この際言わせてもらうけど、訓練の音がうるさいからといってクレームを入れるような「市民」は、
たとえ津波でビルの屋上に残されても、土砂で家が埋まっても、海に流されても、
自衛隊に救出されることだけは断固拒否して、あくまでも自力でなんとかするべきです。
車両行進のために観閲台から見て左手に移動する89式。
上の写真で隊員が車体に飛び乗っているのを見て、「戦車の乗車のしかた」がわかりました。
はしごやステップなんて付いてないんですね。戦車。
そして下の写真、この場合戦車を操縦しているのは、ハッチから顔を出している人?
確か通信科部隊の車両だったような・・・・。
衛生科部隊。
朝霞には、生物、化学、核、放射能などのNBC兵器、つまり大量破壊兵器に対応するための
対特殊武器衛生隊があります。
サリンなどの被害にも対応しています。
自衛隊に文句を言う人は、万が一サリンや核の被害にあっても(略)
徒歩行進のために一旦退出~。
写真部隊は、長い竿のような一脚で写真を撮っています。
徒歩部隊の行進が始まりました。
先頭を切るのは自衛隊合同音楽隊です。
つまり、陸海空音楽隊の隊長が観閲官たる総理大臣に最初に敬礼をするんですね。
前にも書きましたが、海自の隊長は東京音楽隊の河邊一彦二佐です。
陸自からは朝霞に所在する防衛大臣直轄の中央音楽隊、(方面音楽隊は方面総監管轄)
空自も中央音楽隊の隊長だと思われます。
海自、陸自の隊長は共に武蔵野音大出身。
東京音楽隊は陸空の中央音楽隊に相当し、やはり防衛大臣直轄で、
地方総監直轄の他の音楽隊とは別枠の組織となります。
陸海空合同音楽隊。
レンズに水滴、どころかレンズがびしょぬれで撮るとこうなります(笑)
チューバの中にはさぞ雨が大量に流れ込んだのではなかったでしょうか。
国旗を先頭に、まず防衛大学から。
同じ行進をするなら、前列で抜刀したい・・・・。
と皆思うのでしょうか。
普通科部隊。
普通科って何?と思われる方、これはすなわち「歩兵」です。
「歩兵の本領」の歩兵。
徒歩で行動し、近接戦闘力 を備える兵力ですが、車両で火力を使用する部隊でもあります。
む、マフラーが黄色?
この色は野戦特科、つまり砲兵の色?
後ろに続く集団の写真がないので何とも言えないんですが・・・。
隊旗がオレンジということは機甲科、そしてこのちょっとかわいい奴は、
装輪装甲車の、コマンダー(指揮通信車)かブラックアイ(偵察)のどちらか。
以上です。(笑)
圧巻だった戦車隊の写真は全滅しておりました。
ここに待機しているゼッケンの人たちは皆女性。
ゼッケンに書かれていたのは「観閲官夫人」
おお、当日は奥様方も来られるんですか。
もうエリス中尉、レンズの水滴をなんとかしようという気力すら残っていません(笑)
この後、人の波に乗って、自衛官の誘導する退出路を出口に向かいます。
途中の市バス乗り場は長蛇の列。
じっと立っていたら寒いので、多くの人が歩くことを選択していました。
痺れる足とちっともか乾かない手と、そしてそのころには鞄の中で水死していた
携帯とともに、わたしもまた朝霞駅まで彼らと一緒に黙々と歩きました。
というわけで長く辛かった半日。
しかし喉元すぎれば暑さ寒さも彼岸過ぎまでby夏目漱石。
そんなことより撮れなかった写真や行われなかった航空展示のリベンジをしたい!
という気持ちがわき起こってくるのを、どうしても押さえられない、
ある意味全く懲りないエリス中尉だったのでございます。
(To be continued)
さんざん思わせぶりに引っ張って、なんだ、被害は携帯だけかつまらん。
とタイトルを見て思われた方。
あなたは携帯を水に落としたらすべてのデータがこの世から
一瞬で消え去ってしまうということをご存じないに違いない。
そして、実際そうなったとき、人はどれだけ困るかということも。
前回、豪雨のため、外からは決して中のものが濡れない仕様の、
エナメル加工したトートバッグを膝の下に置いて、傘をささず約4時間、
バッグカバーと自分の膝だけで雨よけにしていたつもりのエリス中尉。
全てが終わり、地下鉄の座席に座るのすら躊躇われるほど濡れそぼった状態で(座ったけど)
なんとか車の置いてあるミッドタウンまでたどり着き、
朝から飲まず食わずのため空腹の極であった身体に「酢重」の暖かいごはんを夢中で詰め込み、
家で待つ家族のために、メゾンカイザーのパンやら、茅の家の温素麺や、
糖朝のマンゴープリンなどのお土産を買い込んで車に乗り、家にたどり着くまで、
自分の鞄の中を一回もちゃんとチェックしませんでした。
玄関に着くなりTOがお風呂を入れてくれたので、わたしはまず芯まで冷えた身体を温めたのですが、
妻思いのTOは、鞄の中のものを全部出して、タオルの上に並べてくれていました。
一度も手に取っていないのに、中でぼろぼろになっていたパンフレットの惨状もさることながら、
何より彼が驚いたのが携帯電話。
「バッグの底に水たまりがあって、水没してたよ!」
エナメルで外からの水分を受け付けないこの日のバッグ。
完全防水なので、中にたまった水も決して出て行かなかったのです。
まいったまいった。
驚いて調べると、充電は出来るのですが起動しません。
つまり、壊れてしまっていました。
ドライヤーで乾かしていると、息子が
「お米の中に入れておくと水分を吸ってくれるらしいよ」
汚れを拭って早速お米ケースの中に携帯を広げて縦に差し込み、インスタント墓標の出来上がり。
これそのものがわたしの携帯のお墓ってとこですか。
様々な思い出をありがとう、携帯。
安らかに眠・・・・・る前に、なんとかデータを残してから逝きたまえ。
「本当にするかな」
呆れるTO。
「シュールだなー。写真撮っとこう」
そんなもの撮らなくてよろしい。
そもそも、バッグの中で確か携帯には通電していたはず。
それが消えていたのだから、よっぽど長時間浸かっていたってことなんでしょう。
どちらにしても折りたたみ式の旧型携帯で、替え時でもありました。
次の朝一番でauショップに行き、iPhoneのブルーに電話をお取り替え。
「うーん、電源、入りませんね。データもたぶん・・・」
「・・・ダメですか」
「通電しないってことはメモリもダメなんです・・・・あっ」
電池の蓋を開けた店員さん、慌てて床から何か拾っています。
「お客様・・・・・電池パックの中からこのようなものが・・・・」
「・・・・・・・・・・(赤面)」
彼が拾ったのは米粒。
一体どこから電池ケースに入り込んだのか。
米粒が入るくらいだから、水が入り込むのは当たりまえ。
携帯ってこんなに水に弱いものだったとは・・・。
さて、気を取り直して本来の話題に戻ります。
陸自朝霞駐屯地で行われた自衛隊観閲式予行演習。
観閲部隊が一旦入場しました。
高等看護学院学生部隊。
女性自衛官部隊。
陸海空自衛隊、女性部隊専用の旗もあるようです。
一番前に立っている陸自の隊員は、女性部隊の連隊指揮官のようですね。
強そうだなあ。
腕立て伏せ100回とか平気でやってしまうんだろうなあ。
陸自女性隊員。
前に立っている隊長の帽子の鍔は、明らかに他の隊員に比べ飾りが多い、
女性隊員も階級によって帽子にそれが記されるんですね。
空自女性部隊。
注目していただきたいのは彼女らの脚。
男性と同じく、「休め」状態のときには、脚を60度に開いて仁王立ちです。
テレビドラマの自衛隊員に扮した女優さんなら、ここでモデル立ち(しかも斜めに構える)
をするところですが、本物はこの通り。
まあ、脚をそろえてまっすぐ立つと見た目には奇麗ですが、
長時間立ち続ける姿勢ではありませんからね。
海自女性部隊前。
風が強く、持っている旗が容赦なく顔に叩き付けているのに微動だにしない旗手。
しかし、こうして陸海空の女性隊員を一瞥してみると、
どうも陸自女性隊員が強面が多く、一番イカツイような気がします。
いや、あくまで印象ですが。
海自部隊。
向こうには空挺部隊が見えます。
「空の神兵」で見た空挺隊の降下ヘルメットと同じようなヘルメット着用。
車両行進のためにスタンバイしているこちらは正真正銘イカツイ迷彩柄の車の前には、
車両部隊の隊員。
ところで今回、防衛医大について調べていて、ある質問を発見しました。
「防衛医大に行きたいのですが、どんなところでしょうか」
これに対し、防衛医大の分刻みのスケジュールと制服着用、厳しい訓練に恐れをなして、
普通医大に進んだという回答者が答えて言うには
「防医大の説明を聞いてすぐにやめました。
今私は普通医大で学生生活をエンジョイしています。
何から何まで防衛医大とは逆の生活で、とても満足です」
人生に何を求めるかは人それぞれ。
彼(彼女?)にとって防衛医大とは、選択する価値もない「マイルドな地獄」だったのですね。
しかし、世の中の医学部志望学生が、全てこの回答者のように考える社会なら、
きっとこの世は秩序無きカオスになってしまっていたと思います。
自衛隊への入隊そのものがそうですが、厳しい生活が待っていると知っていても、
むしろ、だからこそ挑戦する若者がいるからこそ、日本の防衛は成り立っているということであるし、
そういう人間が一定数いる限り、少なくともこの国はまだまだ捨てたものではないと思えます。
人間社会は欲望のみにて動くにあらず。
わたしが自衛隊という組織に惹かれるのは、つまり欲望と対極の無私の精神がそこにあるからなのです。
まったくこの式典にそぐわないピンクのバス登場。
これはよくわかりませんが、招待客(つまりVIP)の関係者、
奥様とか家族のバスではないかと思われます。
向かいの観覧席の高いところには、映像班が待機。
やはりわたしと同じように本体には雨よけのビニールを掛けていますが、
レンズはどうしてもそう言うわけにいかないのでむき出しです。
雨に濡れたレンズに自衛隊ではどう対処しているのだろうか。
これはわたしの座っていたところの一段高いところの旗ふり係。
彼の指示により、観閲部隊の各連隊が出発したりします。
全体を見て列が詰まってしまったりしないように判断し指示しているようでした。
航空自衛隊部隊。
連隊旗がスカイブルーです。
前列全員がつけている飾緒が空の精鋭って感じでスマートですね。
陸海空から二人ずつが国旗を押し立てて定位置に着きます。
国旗と旭日旗、そして連隊旗が一斉に立ち上げられた様子。
空自の連隊が「旗の敬礼」をした瞬間。
相変わらずシャッタースピードのせいでろくな写真が撮れてませんね。
銃を持っている隊員は、「捧げ筒」をし、隊長は敬礼です。
この緊張感とは対照的に、後ろに座っている人たちが下を向き、
いかにも意気消沈している様子をご覧ください。
この頃、雨足は一層強くなり、下を向いていないと顔がびしょぬれになるような状態でした。
写っていませんが、皆わたしと同じく能面のような顔をしているはず、です。
人はこのようなとき、ただ無表情になってしまうものなんですね。
旗の敬礼全体図。
しゃがんで写真を撮っているのは陸自の写真部隊だと思うのですが、
この人たちが皆「グリーンベレー」でした。
グリーンベレー部隊が陸自にあったとは知らなんだ。
海自女性部隊の「注目」。
先ほどの仁王立ちとは違い、まっすぐ脚をそろえて立っています。
ただ、つま先の角度も90度と決められているらしく、
よく見たら結構不自然な姿勢で皆立っています。
観閲部隊は観閲式のための訓練をかなりするそうですから、
姿勢や脚の角度まで厳しく指導されているのでしょう。
敬礼の後、旗は一旦上に振り上げられて、地面と垂直に立てられ「直れ」です。
観閲官である総理大臣の受ける栄誉礼のための儀仗隊入場。
国旗掲揚の準備が整いました。
紅白の観閲台の前にいるのは、偽の観閲官。
総理大臣、防衛大臣などが観閲官となります。
今日は予行演習なので、総理大臣役に緑のゼッケンをつけさせて代理をさせます。
ちなみにゼッケンには「観閲官」と大きく書いてあります(笑)
自衛隊旗の見本各種。
中央で振られている黄色の模様は、師団長旗。
右に二竿ある赤い旗は普通科大隊旗。
旭日旗の隣は旅団長旗とおそらく団長旗。
向こうに見える青いのは防衛大学校旗です。
ずっと雨に濡れた旗で顔を叩かれっぱなしの気の毒な旗手。
何年か前の女子部隊は戦闘服に銃の行進をしたことがあると読みましたが、
またどこからかいらん横槍でも入ったんでしょうか。
国旗掲揚。
客席には起立が呼びかけられます。
勿論全員立ちましたが、何となく「不承不承」な空気が漂いました。
あまりの雨脚の強さに、少しでも席を立つと、その間に座っていたところが濡れてしまうからです。
わたしのシートクッションもこの間にたっぷりと水を含みました(泣)
ここで観閲官たる内閣総理大臣が、車両で観閲部隊を車上から観閲。
それにしても安倍総理に似た感じの人をよく見つけてきたものだ。
おそらくこの人も当日出番のない隊から選ばれた自衛官だと思われます。
車上の安倍総理(の偽者)は、本番同様、右手を胸に乗せる「観閲ポーズ」で、
左手をバーの上に置いて観閲を行います。
観閲官車を見送る女性部隊。
車両の動きに伴って、隊長クラスは身体ごと見送りつつ敬礼。
その他は首から上だけ注目して見送りです。
そして、この後観閲官が観閲台に就き、いよいよ観閲行進が始まるのです。
みゆみゆさんへのコメントにも書きましたが、この日の観閲式は
身体的にあまりにも過酷な状況にあったため、いつも季節天候を問わず
厳しい訓練に日常的に耐え、そして今現在も災害派遣で自らの身を省みず、
まさに過酷な状況でも黙々と任務に当たる自衛隊の方々の気持ちを、
笑止とは思いますがわずかながらでも慮ることが出来たような気がしました。
そもそも、ちょっと雨に長時間濡れたくらいで意気消沈してしまうなどというのは、
これすなわちそういう安逸を貪る生活が当たり前だと思っているからこそ。
そして、その日々の安穏の先には、内外で日本国民の安全を守っている自衛官の皆さんの、
日頃からの肉体的精神的な鍛錬や切磋琢磨に支えられた力があるのです。
自衛隊の年に一度の観閲部隊による行進。
その力強く歩を進める晴れ姿を我々に見せてくれるならば、万難を排してでも行くのが国民の務め。
たかが豪雨くらいでやめてしまうなどというのは、彼らに幸福の基礎たる安全を守っていただいている
日本国民の一人としてのわたしの気持ちがそれを許すものではない。
・・・・とそのときにはそこまで考えていたわけではもちろんありませんが(おい)、
チケットが手に入ったからには何が何でも行くことを決めていたエリス中尉。
上から下まで、装備は万全にチェックして望みました。
まず、普通のトレーナーの下は乗馬ズボン。
足下は乗馬にも使える完全防水のゴム製ライディングブーツ。
うえに、フード付きのモンベルで買ったレインパーカー、(息子の)
さらにそのうえからエナメル状加工した膝丈のレインコート。
腰掛けは、飛行機の中で脚を置くために買った、膨らませて使うエアクッション。
これは本当に役に立ちました。
冷たい座席に長時間腰掛けていたら、もっと大変だったでしょう。
このエアクッションのおかげで取りあえず座っている部分だけは柔らかく、
しかも比較的暖かいという、効果抜群のお役立ちでした。
これから航空祭などで地面に座る予定のある方は、必携です。
そしてバッグは、買ったものの「こんなのいつ使うの」と思いつつタンスの肥やしだった
シーバイクロエのトートバッグ。
黒いエナメル加工の馬鹿でかい肩掛けだったのですが、防水は完璧!
・・・・・・この仕様がのちに災いします。
しかし、神ならぬ身のエリス中尉には待ち受ける災難を知る由もなかった。
9時30分、やっとのことで観閲行進のための「入場」が始まりました。
観閲部隊は一旦観閲官より先に会場にスタンバイし、
観閲官の前を、あの「敬礼」「旗横あげ」(旗の敬礼)「抜刀」で観閲を受けるのです。
これはあくまでもスタンバイのための入場ですので、音楽はありません。
ちょうどわたしの真ん前に、マイクの置かれたアクリルの囲いがあり、
そこに太鼓手二人が立って、延々とマーチのリズムを刻みます。
そのリズムに乗って、全観閲部隊が観閲会場に入場してくるのです。
この二人も大役です。
一瞬の途切れもなく、数十分間、全観閲部隊が入場するまで演奏を続けるのですから。
そして一番最初に入場してくるのは、防衛大学学生部隊。
彼らは常に最初に入場します。
防大の行進でも思いましたが、若い軍人(って言ってもいいよね)がきりりとした制服に身を包み、
集団で歩を進める様子というのは、どうしてこう感動的なんでしょうか。
一人一人の容貌には色々あれど、こうして行進していると全員がその使命を帯びた緊張感と
全体の醸し出す高揚のオーラに照らされて、皆男前に見えます。
そして、こうして遠目に見ると、彼らの姿はまさに旧海軍士官候補生のそれそっくり。
戦後、制服から「旧軍調」を出来るだけ排除した自衛隊ですが、
「表に出ない」防衛大学校の制服に兵学校ならびに候補生と同じ制服を採用したのです。
この決断をしてくれた関係者には心から「ありがとう」と言いたい。
わたしはまた、この日の雨のおかげで神宮球場の「雨の学徒出陣壮行会」の映像を思い出しました。
地面の水たまりに彼らのゲートルを巻いた脚が交互に進むあの映像です。
あのときに鳴っていたのが、「陸軍分列行進曲」でした。
ところで、防衛大学、という言い方は正確ではありません。
「防衛大学校」と言わなくては行けないのをご存知ですか?
普通の「大学」とは違い、防大の管轄は防衛省下にあります。
つまり彼らは「学生」という名の「国家公務員」で公務員手当をもらう立場。
決して普通「大学」ではないのです。
この観閲行進には防衛大学医学部も、同じ制服で行進してきます。
両者の大きな違いは、まず女子学生。
防衛医大の女性学生は、防大と違って制服がスカートです。
そして、見る人にはわかる。
制服は同じでも違うのは彼らの「体型」。
4年にもなると、防大生と防衛医大生の首の太さは全く違ってくるのだとか。
防大がどんな訓練をしているのかこれからも推察できますね。
いいわけは一度にしておきますが、この日の雨がもたらしたのは、
身体上の苦痛だけではありませんでした。
カメラはこのブログのなぜか人気ページ「ミラーレスと呼ばないで」でもおなじみ?
ニコン1を持っていったわけですが、いくらある程度そのような仕様になっているとはいえ、
レンズ交換式カメラをザーザー降りの雨に晒していいわけがありません。
一応、透明のシャワーキャップを持っていき、雨よけにするつもりでした。
でも、シャワーキャップなんかかぶせて、写せるわけないのよね。
せめてもの気休めに、本体の上にかけてみたりしたのだけど、
そんなもので防げるレベルの雨じゃなかったんですよ実際のところ。
周りのものが「ざー」という激しい音に包まれるくらい強い雨が降り出してきたとき、
わたしの近くに座っていた人がのんびりと
「本降りになってきたねえ」
と言ったのですが、それを聞いていたわたし始め周りの人は心の中で一斉に
「知ってる。」
と突っ込んでいたのではないかと思われます。
バスキャップなどカメラの濡れを防ぐのに何の役にも立たず、
かえって邪魔なので、自衛隊の映像班カメラ部隊(って言うのかどうか知らないけど)
がやっているように、持ってきたタオルをカメラの上に乗せて雨を吸い込ませましたが、
それもすぐに水を極限まで吸い込んで重くなってしまう有様。
レンズは水に濡れ放題。
ファインダーをのぞくと幻想的なフォーカスがかかりっぱなし。
傷が付かないように布で拭っても、水滴は取れません。
しかも、そんな無益な戦いを繰り返していると、どんな写真が撮れたか確認して
その都度カメラの調整をするような余裕は全く失われていました。
で、帰ってから初めてパソコンに落とした画像を見て、頭を抱えてしまったというわけです。
それでも上の写真はそれでも比較的ましな方なのです。
ちなみに彼らの振っている手が写っておらず、白い手袋がぶれて写っているのは、
シャッタースピードの変更を一切途中でしなかったためです。
雨のため、航空展示はありませんでしたが、もしこのまま撮っていたら、
飛行機らしきものすら収めることは出来なかったと思います。
ああ、本番にもう一度行って撮り直ししたい・・・・。(願望)
しかしそんな写真でも彼らの制服が濡れているのがはっきりとわかります。
防大の制服に似ていますが、この集団は、高等工科学校生徒隊。
高校生なのにみな大人びて見えますね。
高等工科学校は陸上自衛隊の一組織で、普通高校と同じ一般教育に加え、
陸上自衛官(曹)になるための「防衛基礎学」を学ぶ学校です。
高校進学から国防に携わる仕事に就こうと、こういう学校を選ぶ青少年がいる、
ということすら今まで(というか三年前まで)わたしは全く知りませんでした。
続いて陸自普通科部隊。
陸上自衛隊が主催ですので、大人数です。
行けども行けども途切れないカーキと赤の大集団。
視界に入るのはすべてカーキ色。
この普通科部隊のマフラーの「赤」は、何と言っても
旧陸軍の襟章ならびに帽子のあの「赤」から取っているのでしょう。
旧陸軍の制服は、あの赤が非常に美しいアクセントとなっていましたが、
こんな形で昔の名残が生きているというわけです。
そして赤は、日章旗の赤、旭日旗の赤でもあります。
彼らが持つ8条旭日旗は、陸自の隊旗であり、連隊旗でもあります。
デザインは旭日を取り囲むようにして金色のトリミングがなされています。
ちなみに先ほどの高等工科学校では、これを学校旗としています。
海自の16条旭日、護衛艦旗とともに、自衛隊法施行例によって、
これらは制式が定められており、唱和29年から殆ど変わりません。
余談ですが・・・・。
最近反日に我を忘れ、道理も義理もついでにどこかに置き去って来た感のある某隣の国。
この国が世界でただ一国だけ、この旭日旗を法律で規制しようとしているそうです。
世界中で似たデザインを見つけては騒ぎ立て、廃止させようとする動きから、
ついに国単位で愚かな、取り返しのつかない挙に及んでしまいました。
しかしこれが現行の自衛隊旗であることを、彼らは知らないはずはないと思うのですが。
一応同盟国である韓国軍と自衛隊の共同による訓練は、それでは今後どうするのか、
旭日旗をつけた護衛艦は、韓国に今後一切寄港させないつもりなのか。
寄港するなら護衛艦旗を外せとでも言うつもりなのか。
そして、防衛大学校、そして幹部学校に留学している韓国からの留学生
(旭日旗の下に勉学している)を今後国賊扱いにでもする気なのか。
先日述べたようにフネ同士の儀礼ですら(訪問国の国旗を揚げるなど)、
なにやらプライドらしきものが邪魔して素直に出来ないような、余裕のない、田舎軍隊。
この厄介なメンタリティは、どう見ても自らの首を絞めているとしか思えません。
シャッタースピードを切り替えなかったせいで、全員手のない人みたいです。
まあ・・・躍動感は感じられますよね。
問題は、こういう写真を撮ろうと思って撮ったんじゃないってことです。
空挺部隊の写真もご覧の通り。
食う鼎談(という変換が出てくる新しいマック・・・)じゃなくて空挺団は、
行進の際、銃を前身に構えています。
簡単に見えるけど、これ大変でしょうね。
肩に担ぐのより重量を一層感じそうです。
しかし、陸自最強の精鋭部隊である空挺団に取ってこんなものは基本中の基本。
海軍来たー。
昔のおぜうさんたちは海軍行進で、きりりと巻かれた彼らのゲートルの白にときめいたそうですが、
今は巻くゲートルではなく。装着式のチャップスなんですね。
セーラー服に水兵帽。
やはり海軍伝統の制服はいいなあ。
ところで、水兵さんたち、左の腰に何か吊っていますね。
短剣のように見えるのですが、旗手の海曹は装着していません。
今の海軍は、水兵だけが短剣を吊れるのか・・・・?
この後、女性自衛官の混成部隊が続き、(撮れませんでした)
その次、高等看護学院学生隊。
つまり防衛省管轄の看護学校です。
少数ながら今は男性看護士もいるんですね。
後ろには普通科部隊と、たぶんですが機甲科部隊か戦車部隊が車両前に整列するところ。
高等看護学院も工科学校と同じく、8条旭日旗が校旗である模様。
女子学生は、他の女性自衛官と同じくショルダーバッグですが、
男子生徒は赤十字のマークのついた医療バッグを方に斜めがけしています。
写真に撮れなかったのは(撮ってもちゃんと写っていなかった)女性自衛官部隊と防医大学生部隊。
これらは、もし今度の27日の本番のチケットが天から降ってくるようなことでもあれば、
こんどはまともに撮ってくることを心から誓います。
そして、二人の鼓手は、この団体が前を通り過ぎる瞬間を以て演奏を終了。
切れ目なく後を引き継ぐのが、
陸海空合同音楽隊。
各隊三人ずつ計9人のチューバ奏者を従えた大編成マーチングバンド。
先頭を歩くのは、方面隊の隊長三人。
我が(とまたもや勝手に身内認定するエリス中尉である)海上自衛隊は
東京音楽隊の川辺一彦二佐が率います。
やっぱり、こういう音楽隊を率いる隊長は、「自衛隊音楽隊の本懐これにあり」
みたいな気持ちになったりするものなのでしょうか。
ちなみに、全行程終了後、グラウンドでは音楽隊の演奏が行われました。
いつもなら何をおいても聴いていくところですが、わたしの座っていた席からは
実地場所が遠かったため、それを聴くには移動する必要がありました。
しかし、一度立ち上がってしまうと、また再び場所を変えてそこにまた荷物を広げ、
新たな水溜まりの中に腰を下ろす気力が残されていませんでした。
何しろ、座っている間にレインブーツの中の脚は完璧に麻痺して無感覚となり、
体が芯まで冷えて10月だというのに歯の根が合わない有様。
立ち上がった瞬間階段席の途中で転倒しているお年寄りがおられましたが、
きっと同じように脚が痺れて思うように階段が降りられなかったのでしょう。
というわけで、雨の中任務とはいえ演奏を続ける音楽隊の皆さんに心の中で謝りながら
観閲式会場を後にしたのでございます。
観閲部隊が入場し終わったところで次に続きます。
雨の観閲式参加記、もう一日だけおつき合いください。
そして、最後にももう一度、念のためお願いを書いておきます。
27日が晴れますように。
そもそも、その前に、27日本番のチケットが手に入りますように。
自衛隊は、毎年一回、内閣総理大臣を観閲官とする観閲式を陸海空持ち回りで行います。
まだ民主党政権の、しかも菅直人が総理大臣をしていた頃、
つまりそれは三年前ということになりますが、このブログ開始とともに
怒濤の勢いで自衛隊についてのあれこれを知ることになったエリス中尉、
陸自主催観閲式の模様を見て、菅元総理に突っ込むためのエントリを書きました。
去年の海上自衛隊の観艦式も、何となく「行きたい」とつぶやくことによって、
意外な方面からのご縁を得、参加が叶うことになったわけですが、今年、
順番で言うと陸自の担当である朝霞の観閲式にも、「行きたい」と書いておけば叶うかもしれない、
と思い、一応そのようにブログ文中で希望をそれとなく伝えておきました。(誰に?)
すると、あら不思議。
さる筋の方からまず「可能であれば」とのお話をいただきました。
吉報をお待ちしていたところ、どうやらそれは今回はご縁がなかった様子。
「やっぱりね。そんなに毎回毎回うまく行くはずないし」
と潔く諦めかけたその日に、
さるルートから予行演習のチケットがいただけることになりました!
わーい、きっと日頃の行いがいいからだわ。
などとあつかましく喜んでいると、やっぱり、罰が当たってしまいました。
20日は雨の確率80%、しかも朝から
という無慈悲な天気予報。
当たらないこともあるけど当たってほしくないときには必ず当たる、
そんな天気予報のセオリー通り、前日から雨が降り出してしまったのです。
チケットは実は三枚いただいており、家族で行くつもりをしていたのですが、
わたし一人の興味のために家族を豪雨にさらすには忍びません。
特に、「アンタは張り子の虎か」と突っ込みを入れたくなるくらい、
「濡れてその後風邪を引くこと」
をまるでペストのように恐れているTOなど連れて行ったら、
おそらく10分雨に打たれただけで日頃の神様のような温厚さをかなぐり捨て、
「もう帰る!」
と青筋立てて席も蹴立てて一人でも帰ってしまうかもしれません。
というわけで、前日からわたし一人で参加することを決意し、
朝まだ開けやらぬ時間に家を出て、電車に乗りました。
車を留めたミッドタウン周辺には、明らかに「前夜から起きている人たち」
が、目の回りに隈を作って家路に急いでいます。
地下鉄に乗れば、目の前には
こんこんと座席で眠る・・・・・女性。
わたしは猛烈に感動していました。
お隣中国では、川に入水自殺しようとした女性を助けようと、
外国人が川に飛び込み、彼女を助けて帰ってきてみると、
脱ぎ捨てた服も、荷物も、皆盗まれていた、という話がありましたが、
女性が、人気のない車内で、しかも荷物をこのようにしながら
熟睡しても、身の危険どころか盗難にも遭わない国、にっぽん。
まあ、たまたまみのもんたの息子が乗り合わせていなかっただけで、
荷物が取られずにすんだのはラッキーだっただけなのかもしれませんが。
有楽町線の終点は和光市です。
昔々、TOと結婚する前、かれはここで今のお仕事のための研修をしていて、
一度だけ遊びにきたことがあります。
そのときには意識の隅にも引っかかりませんでしたが、ここには朝霞駐屯地があったんですね。
自衛隊が駅前から駐屯地までシャトルバスを運行していましたが、
少しでも早く行きたいわたしは、迷わずタクシーに乗りました。
基本料金プラス2メーターくらいで駐屯地前に到着。
初めて知ったのですが、ここには「あの」りっくんランドもあります。
本来ならばここを人の波が埋め尽くしていたと思うのですが、
さすがにこの天気では人もまばらです。
ちなみにこのとき、開場7時から1時間くらい経過して8時頃だったと思います。
大勢の人のチケット確認と手荷物検査、金属探知機などを捌くため、
たくさんのテントが敷設されていましたがご覧の通り。
どのテントを通過するか、選び放題です。
ちなみに、手荷物は自分でバッグを開けてみせます。
聞かれたのが
「ペットボトルはありませんね?」
ペットボトルがだめというのは前もって知っていましたが、
それなら自前の水筒ならいいのだろうか。
赤ちゃんのミルクのための水とかはどうなんだろう。
27日の本番に行かれる方は、そう言うことなのでご参考までに。
どちらにしても、乳幼児は連れて行かない方がいいイベントだと思います。
こんな雨の日なら尚更のこと。
中に入れば足下は舗装されていない土なので、バギーを押すのも大変ですし、
観覧席は段になっているので、移動一つとっても大変ですよ。
手荷物検査を受け、チケットを水戸黄門の印籠のようにかざしながら、
どこに行けばいいのか指示を受けつつ進みます。
ちなみにわたしは赤チケットで、松竹梅で言う「松」でした。
噂によると「紫」という幻の「松の上」があるそうですが、
おそらく国会議員待遇のシートなのだと思います。
この雨の降る中、傘もささずに歩いているのは、自衛隊員の皆さん。
皆制服の上に、鶯色のレインコートを着ています。
傘をさしてはいけない、それが世界基準の軍人の掟。(イタリア軍除く)
まだレインコートを着ることが出来る隊員はいいんだけど、
迷彩軍服の人たちは、当たり前のように濡れるがまま。
この濡れた軍服は、一晩で乾くのだろうか。
ちゃんと着替えがあって、ローテーションできるのだろうか。
とても防水加工などしていないように見えるけど、下まで染みないのだろうか。
そんな心配をついしてしまいます。
その自衛隊員気分がのちにたっぷり味わえることになるが、
このときにはまだそれを知る由もないエリス中尉であった。
というわけで、適当に席を選びました。
もう少し向こう側の方がよかったかな~。
そう思い出すも、このときには既に雨が激しく降っており、
いったん腰を下ろして、頭から足先までレインコートやらビニールやらで
身を覆ってしまうと、なかなか席を立ち、隣に移ることができません。
まあ今日はどうせ予行演習だから、安倍総理や小野寺大臣が来るわけじゃないし。
そう考えて、ここに落ち着くことにしました。
ちなみに観覧席での傘の使用は禁止です。
さすがは自衛隊。
一般のイベント業者ならそんなことには決してしないでしょう。
早く来て場所を取ったら、あちこちに展示してある装備品を見学する、
というのも本来の「正しい観閲式の参加の仕方」だと思うのですが、
言ったように、あまりに天気が悪くて、「荷物を置いたまま」ということが出来ません。
わたしは床に荷物を置いて、その上にエルメスを買ったときにおまけでついてきた
雨用のバッグカバーをかけたのですが、それを膝の下にいれ、膝を持参したレインコートで覆っても、
情け容赦なく降り注ぐ雨は、バッグの中に入る一方。
しかも風が強く、一人で来たわたしが、自分の場所を示す何かを置いておいても、
あっという間に飛ばされてしまうことは必至。
到着時間から開始時間までの間にも、一回も立ち上がりすらせず、雨を受けていました。
ここも一応赤チケットの席なのですが、この時点では誰もいません。
当日、やめてしまった人も結構いるのだろうなと推察。
上の段にいるのは海自の方達ですね。
客席の前にいて誘導したり、質問に答えたりする役目の隊員。
「あちらにいくと・・・・・」
と丁寧に観客の質問に答えています。
なかなかハンサムな隊員さんですね。
ちなみに彼は、白い手袋が雨で貼り付いていて気持ち悪そうでした。
このような任務でなぜ白手袋をしなくてはいけないのか分かりませんが、
任務終了後、きっと彼は手はふやけてしまったでしょう。
何を隠そう、わたしも、観覧席では傘を使えないことをしらなかったため、
手は覆うものが何もなく、ずっと雨に降られたまま。
4時間がすぎてから見ると、まるで長湯をした後のように手の指がふやけて白くなっていました。
帰途、駅まで約30分歩き、電車に乗っている間、すでに1時間以上経っているのに
手が濡れたまま全く乾かない、という経験を初めてしました。
自衛隊員は雨でも普通に訓練を行うわけですが、日常的にそんな生活をしていると、
皮膚の保水能力がもしかしたら退化してくるのでしょうか。
それとも若いから脂分が多くて、水を弾いてしまうんでしょうか。
96式装輪装甲車が軽装甲機動車が並んで車両部隊の行進のためにスタンバイ。
客席を見張る係の隊員もスタンバイ。
この人は姿勢が良くて立ち姿がかっこよかったので撮りました。
それにしても、この見張り番の彼らの様子を興味津々で観察していたのですが、
一度たりとも欠伸をしたり、鼻を掻いたり、くしゃみをしたり立ったまま寝たりしていませんでした。
雨が降ろうと突風が吹こうと、まるで人形のように微動だにせず。
訓練の賜物だと思うのですが、自衛官の基礎身体能力には驚愕するばかりです。
もしかして、立って目を開けたまま寝ていたとか?
それはそれですごいですが。
向こうに見える並木の下の(ん、これは、桜並木?)歩道にも、
ボツボツと人影が見えてきました。
こんなに朝から雨が降り続いているのに、そんなにしてまで、君たちは観るのか。
わたしのような好き者、じゃなくて物好きでなければ、隊員の家族?
この天気にもかかわらず観覧席がほぼ全部人で埋め尽くされ、
前後左右にすべて人が座ったとき、自衛隊行事に興味を持つ人間というのが
世の中にいかに多いかがわかり、これはちょっとした驚きでした。
向こうに観閲行進のための観閲部隊がスタンバイを始めました。
傘の人たちはそれを見物する観客。
わけもなく通り過ぎるトヨタの車。
なぜか携帯サイレンをつけています。
続いてマイクロバス。
到着したと思ったら、中から陸海空の制服が出てきました。
うむ、これは陸海空将クラスの「偉い人」に違いない。
ほら、ちゃんとスクランブルエッグがいるでしょ?
観閲式の実地責任者は陸上幕僚長。
執行者は、東部方面総監の、これも陸将です。
ついでに、観閲部隊というこの日のための特別編成部隊にも指揮官がいまして、
これは第一師団長たる陸将がなります。
これに観閲飛行部隊の指揮官である陸将補をいれて、4人の「偉い人」が、
ここに到着したということのようです。
青チケットは、向こう側に席があります。
上の方で8人、ちんまりと座っている陸上自衛官がいたので、
ちょっと写真を撮ってみました。
雨で空いているから、自衛官が客席に座っても良かったんですね。
ここは観閲台ですが、お掃除部隊がやってきて、水たまりがないように掃除しています。
もし本番がこんな雨でも、やはり総理大臣はここに立つのだろうか・・・・。
もしかしたら、爆発物が置かれていないかのチェックでもあるのかもしれません。
海上自衛官と航空自衛官が何やら打ち合わせ中。
海自の制服がなんでネイビーじゃなくて黒なんだ!
とわたしは日頃不満なのですが、空自に紺色を取られてしまったんですね。
空自はスカイブルーなんだから、もっと明るい色にして、海自は次回の制服改定の際は
何が何でもネイビーブルーを奪還することを、このブログ主催者として強く希望します。
さて、到着から9時45分の観閲部隊入場までの間、
装備品展示を見に行ったり、あるいは席に着いたままiPadやiPhoneを見たり、
単行本を読んだり、そうやって時間を潰すのが本来の過ごし方というものですが、
朝から一段と強さを益した雨は、単行本は勿論のこと、うっかり外に出すと
電子機器は水に濡れて駄目になってしまうくらい
電子機器は水に濡れて駄目になってしまうくらい
電子機器は水に濡れて駄目になってしまうくらい
情け容赦なく観覧席に降り注ぎました。(伏線)
周りの人々も、仲間内で来ていてもなぜか無口になり、
深々と体の芯まで冷やしながら、時間つぶしさえできないまま、ただ待ち続けるのみ。
そんな観覧客のために、せめてもというわけではありませんが、
会場には次々と「自衛隊歌」「行進曲」が流されます。
陸自開隊の記念に作られたもの、50周年記念に作られた行進曲、
なかでも
「栄光の旗の下に」
という古関裕而先生作曲の歌はいっぺんで覚えてしまいました。
「山がある 川がある 海がある 空がある
美しき みどりなす国 この静けさを守り抜く 陸上自衛隊
われら日本 日本の 平和の使者は 今日も行く」
歌っている歌手が、やたら半音ずらしたりする変な歌い方をするので、
「こんな歌なら、佐々木功に歌わせればいいのに」
などと心の中で突っ込んでいるうちにも、次々と流される「自衛隊ソング」。
「日米海の競演」
と称して、「碇を上げて」と「軍艦」、そして題名は知りませんが海兵隊のマーチ、とか。
初めて聴く曲もありましたが、防衛大学校のために作られた黛敏郎の「黎明」とか、
あるいは「大空」など、わたしのiPodに入っているものもかなりありました。
(っていうか、こんなものiPodに入れてるヒトって、少数派?)
とにかく、自由になるのがただ耳だけの状態で、これらの音楽を流してくれたのは、
本当に待っている身にはありがたかったです・・・・・・。
写真が思うように撮れず、しかも航空部隊の展示もなかったわりには
長くなってしまったので続きはまた明日。
そして、この雨に数時間濡れ続けたエリス中尉を襲った悲劇とは・・・・!
待て次回。
横須賀音楽隊の妙香寺でのコンサートについて書くと、
必然的に「君が代」のことにまで言及することになってしまい、
「フェントン君が代」「音楽取調掛」の君が代のことまで、
三日を費やしてお話しすることになってしまいました。
わたし自身も知らなかった「薩摩琵琶」や、文部省「君が代」のことについて
改めて知り、大変勉強をさせていただいたわけですが、
ある方からこの「薩摩琵琶」についての参考映像をいただいています。
薩摩琵琶奏者、島津義秀氏による蓬莱山
なんでも、ご紹介くださった方が鹿児島に赴任されているとき、
知己でおられたそうです。
島津義秀氏は、加治木島津家と呼ばれる猛将島津義弘の流れを汲む家系で、
ご本人は 島津義弘を祀る精矛神社(くわしほこじんじゃ)の宮司、
島津義弘公奉賛会の代表 を務めておられるとのことです。
なお、島津氏は、野太刀自顕流の指導者、薩摩琵琶、天吹(小型の尺八)の
奏者としての演奏活動も行われているほか、
現代音楽やバレエ等とのコラボレーションなどにも積極的に参加されています。
「君が代」というものは全部で5つあった、として、二日にわたり
その説明をしたわけですが、
1、薩摩琵琶
2、フェントン作曲
3、雅楽部伶人作曲、エッケルト編曲
4、ウェッブ作曲、文部省音楽取調掛編纂
5、喇叭譜
このうち、周知の事実であろうと5番の喇叭譜については触れませんでした。
わたしも当初は知らなかったので、改めて知らない方のために説明しておくと、
「喇叭譜」というのは、一言で言うと軍隊の信号、通信を行うための合図で、
式典や行事にも使われ、この「喇叭譜君が代」は全く「君が代」とは
似てもいないし非なるメロディの、全く違う旋律です。
護衛艦と喇叭譜のことについてもまた教えていただいたので、それらを記しておきます。
護衛艦における自衛艦旗掲揚(毎朝0800)
すべての自衛艦は、自衛艦旗を午前8時に掲揚、日没時に降下しますが、
その際に吹奏 されるのがラッパ君が代です。
0755に「自衛艦旗揚げ方5分前」、日没5分前に「自衛艦旗降ろし方5分前」
という艦内 号令がかかります。
陸自や空自の基地では定時に国旗掲揚降下を行っていますが、
世界中の海軍基地においては国旗降下は日没時に行われています。
なお、航海中、艦旗を降ろすことはありません。
通常航海中は艦尾旗竿に、戦闘状態においてはマストに掲げます。
ここでふと思い出してしまったのですが、 こんな隣国海軍がいましたね。
韓国海軍 (AOE 58)補給艦「デーチョン」大清 Taechong 横須賀入港時の出来事。
軍艦の表敬訪問時には、訪問先に敬意を表して大きい自国国旗は掲げないのがマナーです。
にもかかわらず、デーチョンは、自国の旗を、デカデカと掲揚していました。
しかも、軍艦旗をメインマストに掲げていたそうです。
戦闘旗すなわち戦闘行為の宣言。つまりこれは挑発行為。
通常、親善訪問なら軍艦旗は艦尾で、メインマストには相手国の国旗を掲げるのが慣例なのですが。
呆れて口が塞がらない海上自衛隊関係者が見守る中、
突然デーチョンの煙突が爆発して黒煙が・・・。
そしてそのまま入港せずに帰っていってしまったとのこと。
一体何がしたかったのか。
さて、もう一件、興味深い海自の儀式を教えていただきました。
冒頭写真の「自衛艦旗授与式」です。
造船所で建造を成ったフネは、防衛省自衛隊に引き渡されて初めて
“自衛艦”として就 役することになります。
その就役の日に行われるのが
「自衛艦引き渡し式、自衛艦旗授与式」です。
「自衛艦引き渡し式」は、造船所と防衛省との間で行われる儀式であり、
フネを建造 した造船所の社長から防衛省代表に引き渡され、
マストに掲揚していた造船所の社旗が降下されます。
その後、防衛省代表から艤装員長(初代艦長)に自衛艦旗が授与され、
初代乗組員が乗艦。
このときに演奏されるのは?
そう、もちろんのこと、
行進曲「軍艦」です。
そして、艤装艦長が乗艦。この瞬間。艤装艦長は「艦長」となります。
この間ピー、ピー、と笛が鳴らされます。
ラッタルには細かく紅白でテープの飾り付けが・・・。
「男が一生にいちどはやってみたい仕事」連合艦隊の艦長、
という話がありますが、
♪海の民なら男なら みんな一度は憧れた
太平洋の黒潮を 共に勇んで行ける日が
来たぞ 歓喜の血が燃える ♪
という歌を彷彿としてしまうシーンですね。
最近、海自、特に船乗りは昔と違って、どうも志願という点で「人気がない」
という、ネイビーファンにはがっくり来るような話もありますが、
まあ、ここは置いておいて。
海自に入ったからには、これをするのが男として、ふなのりとしての本懐。
それにしても、海の男の儀式というのは、どうしてこう美しく、
無条件で心を奪われるのでしょうか。
調子に乗って、旧海軍の軍艦旗掲揚シーンも貼ります。
まさに「ネイビーブルーに恋」とはこういうのにときめく気持ちなんですよ。
お分かりいただけますよね。
ジョン・フェントンの「君が代候補」があまりに日本語のリズム無視の、
歌うのも過酷なものだったため、しばらくは外人さんの曲だからと、
首を傾げながら演奏していた日本人は、海軍軍楽隊隊長、中村祐庸の
「王様は裸だ」ならぬ
「フェントンの曲は駄作だ」
という勇気ある批判と上申によってはっと目が覚め、(たぶん)
「んじゃ君が代作り直すか!」
ということになった、というところまでお話ししました。
ちょっと待て、一体日本には何曲「君が代」があったんだ?
そう不思議に思われる方のために、答えを出しておきましょう。
正解は5つ。
1、薩摩琵琶の 「蓬莱山」の一節「君が代」
2、フェントン作曲「君が代」
3、林廣守とその仲間、式部寮伶人何人かによる「君が代」エッケルト編曲
4、サミュエル・ウェブ一世の曲から作った文部省唱歌「君が代」
5、ラッパ譜「君が代」
まず1についてですが、「君が代以前」というか、もともと最初にフェントンが
国歌を作るべきだと(ついでに自分で作りたいとも言ったらしい)進言したとき、
歌詞の選定を一任されたのちの明治の元勲大山巌は、薩摩琵琶の「鳳来山」の一節、
「君が代はさざれ石の巌となりて苔の生すまで」
という古今和歌集のから取られた歌詞を定めました。
つまり、「君が代」の材料となったのがこの「鳳来山」です。
2は前回説明したフェントン作曲。
この曲があまりにあまりだったので、海軍軍楽隊長の中村が廃止を提言し、
新しい「君が代」の制定が始まります。
経過はすっ飛ばしますが、フェントン去りし後やってきたお抱え外国人、
海軍がドイツから招聘した、フランツ・エッケルト、中村祐庸、そして林廣守、
その他一名の4人で国歌選定作業を行ったということです。
そこで、宮内庁雅楽部の林に、西洋音楽の基礎を学ばせ、彼個人というより、
宮内庁式部寮伶人に作らせたいくつかの旋律をまとめ、そしてそれに西洋和声をつけて
現在の「君が代」と同じ形にしたのが「エッケルト」だと言うことです。
これが、上記5つの君が代のうちの3です。
そう言えば、「君が代」を聴いたヨーロッパ人が、
「響きがワグナーのようだ」
という感想を述べたという話を読んだことがありますが、エッケルトがドイツ人であることも
その印象に若干関与していたかもしれませんね。
現在、「林廣守」という名で検索すると「君が代の作曲者」と紹介されています。
では林が一人でこれを作ったのか?というと、それは違うのです。
元々の旋律は宮内庁の伶人奥好義が作ったもので、林はそれを採譜・編曲しました。
どうしてはっきりと個人名が残っていないかというと、宮内庁雅楽部というのは
慣例的に何かを作曲しても個人名は出さず、「式部寮伶人作」と表明していたからです。
大東亜戦争中、敵機撃墜は個人の成果ではなく、これすなわち共同の戦果である、とした
日本陸海軍の戦闘機隊もそうですが、これもまた和を重んじる日本の組織らしいですね。
そして、本日冒頭の君が代。
それが、4であるところの「文部省唱歌・君が代」です。
1882年、東京藝術大学の前身である、音楽取調掛が、
「小学唱歌集」
という歌集を編纂しました。
ほとんどが外国の曲に日本語の歌詞をつけたもので、
「蛍の光」
「庭の千草」
「才女」(アニーローリー)
「むすんでひらいて」(ルソー作曲)
など、現在も同じ歌詞で歌われているものであり、その23番にこの
「君が代」
があったのです。
エッケルト編曲の「君が代」は完成後式典に使われてきましたが、
それは正式な「国歌」として定められてのことではありません。
ここでふと考えると「君が代」が国歌として法律によって決まったのは、
1999年に発布された「国旗国歌法」が最初なのです。
エッケルト編曲、林廣守主導の「君が代」は完成後の評判も上々で、
これが国歌になってもちっともおかしくはなかったのですが、
この「君が代」を作るにあたって海軍軍楽隊長の中村祐庸が音頭をとったことから、
「海軍省と宮内省で勝手に作ったもので、国歌とは認めがたい」
と、どこからともなく(?)横槍が入ってきたというのです。
この「どこから」というのは、わたしが昔そう推測したようにまず
「陸軍」
そして
「文部省」
そのなかでも
「音楽取調掛」
であったらしい、ということになっているようです。
つまり、この「第二十三番・君が代」を含む、欧米からの音楽導入書であるところの
「小学唱歌」の編纂によって、音楽取調掛は、
日本人に西洋音楽の基礎を啓蒙し、あわよくば「君が代」を唱歌として浸透させ、
自然発生的にそれを国歌として制定するという流れを作ろう
と計画したらしいのです。
「君が代」の歌詞には、Samuel Webbe(サミュエル・ウェッブ)の曲を当てはめました。
このウェッブは、1740年生まれのイギリスのオルガニスト兼作曲家で、
現在も教会音楽にはその作品が残っているそうです。
で、冒頭の楽譜が読める方は、ぜひ歌ってみていただきたいのですが、
これって・・・・・。
フェントンのより変じゃないですか?
ちなみに、楽譜の読めない方のために、初音ミクさんの歌を貼っておきます。
文部省唱歌「君が代」初音ミクさん
(うっかり15小節目のC(ド)にナチュラルをつけるのを忘れてます。失礼しました)
日本が近代化に向けて大きく動き出したとき、そこには
「初めて」の名誉を我がものにしようとする野心家があらゆる分野で現れました。
フェントンが、本国では決して作曲家として認知されているレベルでもないにも関わらず、
日本の国歌を自分が作りたいと申し出たのもそうですし、
音楽取調掛が、「海軍省と宮内省に国歌作曲の栄誉を渡したくない」
とやっきになってウェッブの曲に歌詞を当てはめ、歌詞が足りないので後半は作って付け足す、
というような暴挙に及んだのも(笑)その野心ゆえだったでしょう。
未来永劫国民に歌われ、歌とともに自分(たち)の名も残る。
たとえ自分が死んでしまっても、国歌が残る限り、自分の生した作品は永遠に残る。
この栄誉を何としてでも手に入れたい、と思う気持ちはわからないではありません。
そして、確かにこの「君が代」は、フェントンのような「日本語の音節無視」という、
無茶苦茶なものではなく、取りあえず音節はちゃんとしており、言葉とメロディも
一応はリンクして自然です。
しかし決定的なことは、この曲には全く音楽としての説得力がありません。
あえていいところを探してみると、第4段後ろ二小節の順次進行で、
5度上5度和音を使ってVに到達しているサブドミナントの使い方くらいでしょうか。
(分からない方は読み飛ばしてください)
散漫さにかけてはフェントン君が代の上を行くほどで、その理由は、
「君が代は」・・・二小節
「千代に八千代に」・・・三小節
「さざれ石の」・・・三小節
西洋音楽の伝統的な手法では、基本メロディは「4の倍数の小節数」で区切れます。
それが「2」になることもありますが、あえて効果を狙ってするもので、
2・3・3でいきなり始まるこの曲は、とても「まともな進行」とは言えません。
民謡や戯れ歌ならいざ知らず、こういう「奇をてらった」区切り方は、
フェントンの「メロディと言葉の乖離した歌」と同じく、国歌にふさわしいとも思えません。
もしこの「唱歌」の「君が代」が名曲なら、それが国歌になる可能性もあったのでしょうが、
誰が聴いてもおかしな曲だったので、それゆえ音楽取調掛の野望は潰えました。
「庭の千草」「蛍の光」などが日本人のDNAレベルに浸透する「魂の歌」になったのに対し、
現在、この「君が代」を歌える人どころか、知っている人すらほとんどいません。
動機が不純とかいう以前に、音楽として全くイケてなかったのですから仕方ありませんね。
最後に余談ですが、終戦後の1950年ごろ、
「日本の軍国主義の象徴である君が代を廃止し、新しい国歌を作ろう!」
と張り切った日本教職員組合と、サントリーの前身である壽屋の佐治敬三が一緒になって、
「新国民歌」を選定したことがあります。
日教組の方が「緑の山河」(なんだか北朝鮮っぽい響き・・・)
壽屋は「我ら愛す」(変な日本語ですね。これも共産主義国の国歌みたい)
と言う曲を「国民歌」としたのですが、これが国歌に変わるはずもなく、それっきりでした。
日教組と佐治敬三の野望もこうして潰えたのです。
音楽としてこれらの曲がどうだったのかはわかりませんが、どうあれ日本人がずっと歌い続け、
我々の先人の歴史に刻まれてきた「君が代」に、今更取って代われるような曲が
そう簡単にできるとはわたしにはとても思えません。
彼らの言う「負の歴史」のさなかにも国歌であったからこそ、未来に語り継ぐべき歴史とともに
「君が代」は決して失くしてはいけないという考え方もあると思うのですが。
昨日お話ししましたが、日本吹奏楽発祥144年記念演奏会は、
どうやらこの「フェントン作曲・君が代」と藤田玄播「先人を仰ぎて」を、
必ずプログラムの前に演奏することを決めているようです。
昨日「長くなりすぎるので」取り出して語ることにしたこの「君が代」、
「仮君が代」「習作君が代」
というべきもので、だからこそ取りあえずは敬意を表して、この式典では
必ず最初に演奏することにしているのかと思われます。
以前エントリを制作したときには、浅学の身ゆえ原曲が現存していることを
全く知らなかったのですが、ここで初めて聴くことが出来ました。
楽器演奏で唄の無いバージョンです。
この日の演奏を聴いた感想を一言で言うと、
「失敗作である」
しかも、それに「大」がつきます。
皆様は、コラールという形式をご存知でしょうか。
もともとはルター派の賛美歌のことですが、それらの典型的な形式を持つ曲を
現在はコラールと呼びます。
賛美歌というものは「すべての人に歌ってもらえるように容易なもの」
という観点から作られていますので、難しい跳躍やリズムを擁しません。
単純で単調、一言で言うとコラールはこのような特徴を持ちます。
この、フェントンの君が代は、一言で言って「コラール」なんですね。
この日妙香寺で聴いたコラール風君が代は、
君が代と思わなければ、
宗教曲としてこういうのもあるだろうな、と思われる程度には出来ていました。
しかし、正直なところを言うと、ダラダラ流れるだけの単調で、起承転結のない、
まあ強いて長所を探すなら響きだけは荘厳な、そう、まるでそれは
音大の作曲科を目指す高校生が和音進行のセオリーを学ぶために解く、
「ソプラノ課題」そっくりの代物です。
論より証拠が冒頭の譜面。
決定的に大失敗なのは、これにあの「君が代」の歌詞がつけられていること。
譜面の読める方、ぜひ歌ってみてください。
明らかに日本語というものを全く知らない外国人が、一音一語のセオリーだけ踏まえて、
意味はもちろん、フレーズの切れ目も、息継ぎも、何も考えずに作った、
歌以前の「なにか」であることがたちどころに理解できると思います。
とくに「さざれ」のあとに休符を挟んで「いしの」と続くところなんか、最悪ですね。
フェントンと言う人物はもともとイギリス陸軍の軍楽隊長でした。
以前、日本が招聘した13人の「お雇い外国人」について調べたときに、
さらにその中で有名なのは
フランス人ラッパ伍長ギュスティッグ(日本における最初の五線譜を取り入れさせた)
ジョン・ウィリアム・フェントン (英国陸軍軍楽隊長)
ラッパ教官ブラン (ラッパ手)
ギュスターブ・ダグロン(陸軍軍楽隊の指導)
フランツ・エッケルト(海軍軍楽隊がドイツから迎えた)
アンナ・レール (ピアノを海軍に教えた)
シャルル・エドアール・ガブリエル・ルルー(抜刀隊の作曲者、陸軍で指導)
である、とお話ししました。
この「お雇い外人」が、果たして本国では音楽家としてどの程度の人物であったのか。
それはすでに知ることも出来ないわけですが、一つ分かっていることは、このなかで
「本国でも一流として通用する音楽家は、ルルーだけだった」
ということです。
名前の残らなかった6人には「箸にも棒にもかからない」といった手合いもいたとのこと。
もちろんフェントンはその手合いとは全く違うし、現に日本の吹奏楽の発祥に力を尽くしました。
軍楽隊の隊長として、音楽指導者として、確かに力を持っていたのでしょう。
しかし、同時代の後期ロマン派音楽家、ブルックナーやブラームス、あるいはフランク、ワグナー、
彼らの音楽が生まれていた頃であることを考えると、この「君が代」はあまりに凡庸で、
何のオリジナリティやインスピレーションも与えるものではありません。
しかし、いいも悪いも、当時日本にはそれを評価できる人物が皆無だったのですから、
この「フェントン君が代」は、明治3年、「フェントンのサツマ・バンド」、すなわち、
その前年度に薩摩藩の若い藩士30名によって御親覧され、
しばらくのあいだ「国歌のような位置づけで」使われていました。
その2年後の明治5年、ある人物が海軍の軍楽隊長に就任します。
中村祐庸(なかむら・すけつね)。
わたしは、もしこの人物がいなかったら、フェントンのこの君が代が、
いつまでか分かりませんが、日本の国家として正式に決まってしまい、
皆が納得のいかないままこのわけわかめな曲を朝に夕に奏上していたのでは、
と結構真剣に信じています。
中村は若くして軍楽隊長に選ばれただけあって技量はもちろん耳も良かったらしく、
皆が首を傾げながらも
「でも、一応外国人の音楽家が作ったんだし・・・・・」
という、そう、まるで「裸の王様」状態のこのフェントン君が代に対し、
王様は裸だ、じゃなくて、
「独立国の隆栄と君主の威厳を表すには国歌は欠くべからざるもので、
人情を感動せしむる音楽の効用は遥かに優るが、
正しい声響に競合しない音楽にはその効能はない」
つまり、日本語に全くこの歌合ってないんじゃね?とし、フェントン君が代を
廃止するように上申します。
フェントン左。中村右。
いつの写真かは分かりませんが、このとき中村が内心、フェントンのことを
「お抱え外人というが、曲は大したことないじゃなか!」(鹿児島弁)
と内心見くびっていたことは十分想像されます。(考え過ぎ?)
当時の音楽情報量であれを一番乗りで「駄作」と決めつけるなど、
よっぽど自信がなければできることではありませんが、その自信もあったのでしょう。
ともあれ、内心みんな「この曲って・・・・もしかしたら変な曲なんじゃ・・・」
と思っていたところに中村がこのように声を上げてくれたため、あっという間に
フェントン君が代は廃止され、その代わりに新国歌を作ることが決まります。
(たぶん)傷心のフェントンは、翌年日本を離れて、日本で迎えた後妻(前妻は横浜外人墓地に墓がある)
の故郷であるアメリカに帰っていきました。
(本当は単に任期が切れただけなんですけど、ここは話を盛り上げるためにそういうことで)
鹿児島県吹奏楽連盟のHPには、この辺りのことが年表にされています。
これを見ていて、わたしはあることに気がつきました。
中村がフェントンの君が代を批判し、廃止を求めたのは、
まだフェントンが日本に滞在しているときです。
それが決まって一年後、フェントンは日本を離れるわけです。
年表の明治10年のところを良かったら見ていただきたいのですが、
すこしこの文章はわかりにくいながら、どうやら中村は、
品川から熊本に出航するフェントンを、
西郷隆盛の葬送のために書かれた曲で見送った、
ということのようなのです。
(そうですよね?)
うーん。
中村、フェントンを無茶苦茶嫌っていたのではないか?
確かに西郷の葬送曲はその少し前に作曲されたばかりの勇壮な曲であったそうですが、
わざわざ葬送のために書かれた曲で、帰国の途につく人物を見送ったりするものだろうか?
いくらたいした出来ではなく、廃止させようとしていたとはいえ、最後くらい花を持たせて、
国歌になりそこなった彼自身の「君が代」で送ってあげるべきだったのではないか?
この、歴史に残る中村の「選曲」からは、若い彼がかなりの勢いで、
しかも情け容赦なくフェントン君が代を排除しようとした、という「裏」が透けて見える気がする、
というのは穿ち過ぎでしょうか。
中村がフェントンを嫌いだったかどうかはともかく、
「確かに少し変なんだけど、フェントン先生にはほら、お世話になってるし」
とばかり、情実を優先して完璧な音楽でなくても妥協し、
角を立てないように任務をやり過ごすような事なかれ主義(そう言う話、多いですね)
の音楽家でなかったことだけは確かです。
さて、それでは、楽譜が読めない、という方にも、これがどんなものであったか知っていただくため、
やはり妙香寺で行われた演奏会のものであると思われる、
「フェントン作曲・君が代(歌詞付き)」
を貼っておきます。
あとは皆様ご自身で評価してみてください。
というわけで、ようやく演奏会そのものについてです。
冒頭図は、この日のプログラムの表紙なのですが、あまりにも後援が多くて、
表紙なのに字ばかり。
そこであらためて後援団体を見てみると、
朝日新聞
時事通信
毎日新聞
NHK
など、今となっては思わず二度見してしまう面々が名を連ねています。
何しろこれは文化庁の名の下に、「横浜音祭り」のイベントの一環で行われ、
しかも、いつからやっているのかは知りませんが、結構な回を重ねており、
これらのメンバーが協賛を始めたときには
「まだそういう勢力に食い込まれていなかった」
と考えるのがよさそうです。
そして、まともな人たちも結構まだ内部にはいると信じたいですね。
さて、何度もお伝えしているように(笑)、記念式典の献花が終わり、
観客がお堂の中に移動してしばらくして、楽団員がスタンバイを始めます。
14時きっかり、音楽隊長、内堀豊三佐のタクトが一閃、
プログラムはこの曲で始まりました。
君が代 ジョン・ウィリアム・フェントン
この曲で始まってしまうと、わたしとしては大変困ります。(笑)
なぜならば、この「君が代」に関しては色々とお話しすることがあるので、
その話を始めてしまうと、このエントリがそれで終わってしまう危険があるのです。
というわけで今日は概要だけに触れますが、そもそも
「君が代って外国人の作曲だったのか?」
と思われる方がおられるといけないので、ざっと予告編をしておくと、
今の日本国国家として認識されている「君が代」以外にも、
この世には、というか歴史上
「君が代以前」「仮君が代」「習作君が代」
というべき三つの君が代が存在しており、しかもこれ以外にも
「何曲か『君が代候補』が存在する」
というのが本当のところなのです。
この、プログラム最初の「フェントン君が代」は、このうち「仮君が代」で、
一時とはいえ、これが「国歌代わり」に演奏されていたことがわかっています。
2年ほど前、当ブログでもその話をしたのですが、そのときエリス中尉、
「楽譜が残っていないのはおかしい」
などと文句を付けて、疑っております。
しかし、あったんですね~。楽譜。
この日、教えていただいてこの演奏会に行って本当に価値があったと思ったのは、
このフェントンの「幻の仮君が代」が聴けたことです。
「当時の日本人には全くなじまなかった」
という、その曲が、どうなじまなかったのかかねがね聴きたいと思っていたのですが、
実際に楽譜が現存していて、しかも自衛隊のレパートリーになっていたと。
この曲については、別にエントリを立ててお話したいと思います。
先人を仰ぎて 藤田玄播
ここにある記念碑建立の際、記念行進曲が作曲されました。
藤田玄播(ふじた・げんば)は、吹奏楽界では有名な作、編曲家で、
吹奏楽コンクールの課題曲の作曲などもしていたようです。
今年の1月、76歳で亡くなっていますが、この曲はこの式典で毎年演奏されてきました。
いわば、この行事のテーマソングというべき曲であるようです。
藤田氏は、元日本吹奏楽指導者教会の会長も務めていました。
第一部
1、76本のトロンボーン M・ウィルソン
ミュージック・マンというミュージカルの曲です。
主人公は楽器のセールスマン。
楽器を売るために、「76本のトロンボーンを含むマーチングバンドの行進」
を説明(つまり歌う)シーンで使われた曲。
国民の象徴 星条旗よ永遠なれ ワシントンポストのメロディが順に現れ、
吹奏楽の重要なレパートリーの一つになっています。
2、スーパーカリフラジスティックエクスピアリドーシャス
ミュージカル「メアリーポピンズ」の挿入歌で、この題、一応意味はあるようですが、
単に「素敵なこと」みたいな意味の、おまじないという感じです。
劇中でもおまじないとして使われていましたね。
そういけば、ディズニーリゾートの一環として「エクスピアリ」という施設がありましたね。
あれはこれだったのか。
当日の進行は、女性の隊員がマイクを持って行ったのですが、彼女がこの
「スーパーカリフラジスティックエクスピアリドーシャス」
を繰り返すたびに、客席から笑い声が起こっていました。
3、わたしのお気に入り リチャード・ロジャース
今でも全曲そらんじて歌えるくらい好きな曲です。
これもミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌。
フルートをフィーチャーして演奏されました。
4、美空ひばりメドレー
ここは横浜。そういえば美空ひばりの出身地です。
横須賀音楽隊の大事なレパートリーでもあるのでしょう。
これをやるとアナウンスしたとき、会場が期待でどよめきました。
改めて見ると、この日会場にいたのは、まさに「ひばり世代」の皆さん。
特に手前の方など、ドンピシャリって感じですか。
この赤いシャツのおばちゃんは、本当に嬉しいらしく、
体全体を大きく動かして、おまけに一緒になって歌っていました。
かわいい・・・。
いままで何回か自衛隊の音楽を聴いてきましたが、なんと言うか
彼らの音楽は、人の心を掴むツボを心得ているなあ、と思います。
「リンゴ追分」に始まり、「愛燦々」などを経て(すみません、あまり詳しくないんです)
「お祭りマンボ」になったときには、おばちゃんの興奮も佳境に。
彼女だけでなく、会場中に「自分の好きな曲をやってくれている!」
という幸せのオーラが満ち満ちた瞬間でした。
いいですよね・・・・・美空ひばり。
第二部
5、オリンピック東京大会ファンファーレ 今井光弥
6、東京オリンピック・マーチ 古関裕而
東京でオリンピックが決まったことで、この選曲です。
というか、東京オリンピックのときって、古関裕而先生はご存命だったのね。
と思って調べたら、平成元年までご存命だったとのこと。
1964年当時の日本音楽会の最重鎮作曲家というのがこの方だったのですね。
そこでふと、2020年の音楽は誰になるんだろう、とか、誰が国歌を歌うんだろう、
とか、色々考えてしまいますね。
三宅三曹に国歌独唱をさせてはどうか、なんて話をこの間しましたが、こういうのを狙って
各「重鎮候補」が虎視眈々とアップを始めているんでしょうね。
開催が決まってすぐ、北島三郎が「国歌独唱に意欲」とか、AKBの誰やらが
「わたしも何か出たい」などと言っている話を読んで、文字通り苦笑しました。
北島三郎が7年後演歌界の大物として生き残っているのは確実でしょうが、
7年後、AKBとやらが一人でも残っているのか。
たとえ残っていたとしても、何が出来るのか。
だからって、北島三郎を世界にさらすのもいかがなものかとは思いますが。
音楽が坂本龍一にならないように、それだけはちょっと祈っておこうっと(笑)
7、風笛~あすかのテーマ~ 大島ミチル
わたしにとってはとても懐かしい曲です。
いまではテレビすらなく、あまちゃんが何なのか全く知らなくても生きているわけですが、
1999年当時、わたしはインターネットどころかパソコンすら持っておらず、
しかも息子を出産してうちに籠もりっきり。
仕事がやたら忙しかったTOは朝刊の配達とどちらが早いか競って帰宅していたくらいで、
実質0歳児との母子家庭みたいなものでした。
そんな状況では、読書と、あとは朝の連続テレビ小説だけが楽しみの毎日。
ちょうど息子を出産した秋から始まった「あすか」のテーマがこれでした。
昔オーボエ奏者と仲が良かったこともあり、宮本文昭さんのオーボエのCDは
全部持っていたというくらいのファンだったのですが、このテーマは
その宮本氏をフィーチャーしていたので、より思い入れもありました。
あまり外に出たり旅行もしなかったあの半年、一日も欠かさずドラマを見通したことなど、
後にも先にもありません。
この日は、原曲通りオーボエをフィーチャーして行われました。
いまでもこの曲を聴くと、あのときの楽しいような悲しいような、大変なような楽なような、
重力が逆になったような不思議な半年を思い出して胸が痛くなります。
8、「八重の桜」メインテーマ 坂本龍一
観ていないので初めて聴きましたが、さすがは坂本大先生、いい曲です。
この人の音楽、好きなんですけどね。
どうしてしなくてもいい政治発言なんかするんでしょうか。
最近すっかり、
小説界の大江健三郎
アニメ界の宮崎駿
音楽界の坂本龍一
という三大「左翼思想芸術家」になっちゃっているじゃないですか。
その方がメディア的には「持ち上げてもらいやすい」のかもしれないけど、
元々の音楽のファンとしてはがっかりする人も多いでしょうね。
9、吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」 伊藤康英
初めて聴きましたが、「こんな曲があったのか!」とちょっとした興奮を感じました。
「ぐるりよざ」は、長崎のキリシタンが、当時
インフェルノ=「いんへるの」
パードレ=「ばてれん」
パラダイス=「はらいそ」
などと言ったキリシタン用語で、「グロリオーサ」のことです。
「神のご威光を讃える聖歌」のことで、
このタイトルを持つカンタータやモテットは多くあります。
元々この曲は、佐世保音楽隊の岩下昌二が、作曲家伊藤康英に委託した作品です。
佐世保音楽隊に取っての「ご当地」隠れキリシタンを描いたこの音楽は、
第一楽章 「祈り(Oratrio)」
第二楽章 「唄 (Cantus)」
第三楽章 「祭(Dies Festus)」
と言う構成です。
第一楽章「祈り」では、いきなりグレゴリウス聖歌風の男声の唄から始まり、
これは手の、じゃなくて口の空いている男性隊員が歌っていました。
構成は、この男声のメロディの変奏曲の展開で成り立っています。
全部で13変奏行われ、この13という数は、キリストの受難の13、
13日の金曜日の13から取られているということです。
第二楽章で特筆すべきは、原曲に「竜笛」使用の指示があること。
竜笛とは雅楽でおなじみの、あの音程の悪い笛のことですが、
ピッコロで代用することもでき、この日はピッコロがそれらしい音を出していました。
こういうのってかえって難しくないんでしょうか。
第三楽章では、他のメンバーはもちろんですが、打楽器が大活躍でした。
一人で走り回って、いろいろとやっておられました。
その活躍ぶりに、ついいろいろ写真を撮ってしまいました。
彼が男前であったからではなく、わたしのいるところからは
立っている隊員しかちゃんと写真が撮れなかったのです。orz
しかも暗くて遠いのでこんな感じ。
ちなみにこの日はニコンではなくソニーのコンデジです。
「私のお気に入り」のソロだったと思います。
この三楽章には、長崎民謡である「長崎ぶらぶら節」が使われています。
そして、個人的に非常に面白かったのは、フーガの技法が使われていたこと。
テーマ提示の後、応唱といって、別の声部(この場合別の楽器)で5度上のテーマが追随し、
拡大フーガへとつながっていくというフーガのお手本のような形式で、
最終楽章らしい華やかさと迫力に満ちた素晴らしい構成だと思われました。
横須賀音楽隊の演奏も、これらを表現するのに非常に明確なメリハリをつけ、
しかもくっきりとした輪郭を持たせたため、わかりやすかったです。
この「ぐるりよざ」は吹奏楽のみならず管弦楽バージョンも世界的に有名で、
いろんな団体によって過去演奏されているということでした。
というわけでプログラム終了。
アンコールは「故郷」。
相変わらずというか案の定というか、どなたが編曲したか存じませんが、
何度も繰り返されるメロディのコード進行がその都度違うんですね~。
これだけでも憎たらしいくらいセンスのいい「ふるさと」でした。
しかし、ここで言いたいのはそういうことではありません。
なぜこの「ふるさと」がアンコールに演奏されたかというと。
この曲の後、隊長の内堀三等海佐がもうすぐ退官すること、そして
公的な場所での演奏はこの演奏会が最後であることがアナウンスされました。
そして、内堀三佐がマイクを握り、挨拶をされました。
内堀三佐の出身地は長野県で、唱歌「故郷」の作詞者、高野辰之の出身地近く。
つまり「故郷の故郷出身」なのです。
それで、自衛隊生活最後の演奏に、この曲を選んだ、とのことでした。
入隊して41年の自衛隊音楽隊生活。
さぞ、感慨を込めての演奏をなさったのではないかと拝察されます。
さる方からお聴きしたところによると、内堀隊長はフルート出身。
指揮者になってからはフルートを演奏することをやめておられたそうです。
しかし、退官される内堀隊長を「送る夕べ」では、
その封印していたフルートを演奏なさったということでした。
(そのときに隊長とデュエットでフルートを披露されたのは、
『自衛隊シャドウ・フルーティスト」で「陰の音楽総監」である、
某海将であったという情報が入ってきております)
長い自衛隊音楽生活の、最後の公開演奏。
たまたまそういう記念すべき演奏会を聴く偶然、そして、
一人の人物の人生の節目に立ち会ったことは、わたしを感動させました。
海上自衛隊音楽隊が演奏するときに必ず最後に行われる
行進曲「軍艦」
の響きはそれゆえ感動が弥増し、そしてタクトを振る隊長の心中を思うと、
この瞬間が少しでも長く続きますように、と祈らずにはいられませんでした。