ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

”And Then There Were None” ミッドウェイ海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-31 | 歴史

冒頭の絵画は、R.G. スミスの作品で、

「赤城への攻撃ーミッドウェイ」

というタイトルです。
スミソニアンの横の説明によるとタイトルはなぜか「ダグラスSBD−3」

スミスはリンドバーグの大西洋横断成功をきっかけに航空ファンとなり、
ダグラスエアクラフトのエンジニアとして海軍戦闘機の開発に携わった人です。

彼が関わった航空機はSBDドーントレス、ADスカイレイダー、A-3Dスカイウォリアー、
F-4Dスカイレイ、そして彼の個人的なお気に入りであるA-4Dスカイホークなど。

絵画は独学でしたが、エンジニアとして飛行機の構造と機能を知悉していた
彼は、キャンバスの中の航空機に命を吹き込みました。

絵画の正確さを確保するために、彼は目的のシーンやイベントを研究し、
あらゆる角度から被写体を観察するのはもちろん、細部にもこだわり、
航空機からペイントのかけらを収集し、場合によっては、

戦闘中や海上で実際に航空機を観察することまでしています。

戦争が始まった時、彼は海軍に入隊しようとしたのですが、
戦争遂行のためにはダグラスでの仕事の方が重要だからと当局から断られています。
そこで彼は、新しい航空機の設計のためと言い張って?
戦闘参加中の空母に乗り込むことを志望し、ようやく許可されたということです。

彼は後年まで戦争に参加できなかったことを後悔していました。

しかし、ほぼ30年後、スミスは50歳半ばになって、スケッチアーティストとして
ベトナムをツアーする機会が訪れたのですが、このとき彼には海軍から特別に

「大尉」の地位を与えられて各種「作戦に参加」することになりました。

なんと彼はアーティストとしての「勇敢な行動」によって、1973年に米国海軍の
「名誉海軍飛行士」(第10号)に指名され、
それに加えて任官までさせてもらったということのようです。

よかったね。というか、アメリカ海軍って粋なことをするなあ。

彼は海軍への貢献に対する栄誉賞を他にもいくつか授けられているほか、
名誉ブルーエンジェル」(ブルーエンジェルスの特別メンバー)
の称号も持っているということです。


2000年、スミソニアン国立航空宇宙博物館で、

「オールド・マスター・オブ・ザ・スカイ」

というタイトルによる、スミスの25枚の航空絵画とデッサンの特別展が6か月間開催されました。
この「赤城」はそのうちの一枚で、特別展の後、当館が買い取ったものと思われます。

ミッドウェイ海戦を描いたその他のスミス作品には、

「有名な4分間」「ターニングポイント」

などという、ゾクゾクするようなタイトルが付けられています。
スミス氏のその他の作品に興味がある方はここをどうぞ。

航空芸術の格納庫

 

■ VICTORY AT SEA ヴィクトリー・アット・シー

さて、スミソニアンが語るところのミッドウェイ海戦の経緯です。

最初にミッドウェイ爆撃隊が日本の空母部隊を攻撃したのはちょうど午前7時過ぎでした。
南雲忠一提督

「ミッドウェイに対し再攻撃の必要ありと認む」

という電文を艦隊司令部から受け取っていました。

そのとき彼の指揮する4隻の空母の飛行甲板は魚雷を装備し、
米空母艦隊を攻撃する態勢になっていましたが、南雲は
「しぶしぶ」(Reluctantly)ミッドウェイ島攻撃のために
それらを爆雷に換装するように命令を出したばかりでした。

ちょうどそのとき、ミッドウェイ島の攻撃部隊が日本艦隊に接近し、
給油作業と換装作業の最中である甲板に二度目の攻撃を始めたのです。

300キロメートル以上の東方へ「エンタープライズ」「ホーネット」
から飛来したアメリカ軍の戦闘機と爆撃機は、西に進行方向を変え、
敵を見つけるための3時間に及ぶ「不確実な」航行を始めていました。

”エンタープライズが攻撃準備を始める”

6月4日の朝、雷撃隊のTBD デバステーターが飛行甲板で準備を始めています。
これらの米国空母から派遣された3隻の魚雷攻撃部隊は、
日本の空母部隊への攻撃中に敵のゼロ戦闘機によって全て撃墜されました。

雷撃隊全部でいうと、41機の米国艦隊の雷撃機のうち、6機が帰還しましたが、
結論として、敵に効果的な魚雷の攻撃を与えることはできませんでした。

しかしながら、ミッドウェイを拠点とする爆撃機による、
より早い破壊的打撃に続く敵雷撃機との低高度戦闘は、
日本の戦闘機パイロットの注目を完全にここに引き付けることができたのです。

Dive-bombers attacking a Japanese ship, 1942.

”美しい銀色の滝”

「ヨークタウン」の戦闘機隊長、ジョン・サッチ司令官は、
日本の空母を攻撃する雷撃機隊を護衛していました。

のちに語られたサッチの証言は次のようなものです。

「何機かの零戦が雷撃機に正面攻撃をかけてきた。
そして何機かのゼロが我々の戦闘機の前に降りてきた。
まるで蜂の巣のなかにいるようだった。
あまりに敵の数が多いので、我々が全員生還することはないだろうと完全に確信した。

そのとき、わたしは美しい銀色の滝のように見える太陽の輝きを見た。
それはその場に現れた急降下爆撃機であった。

彼らはゼロと同じ方向から来たので、その動きは我々からはよく見えた。
私はそのときほど素晴らしい急降下爆撃を見たことがない。

攻撃が終わった後も、私はそこにとどまっていた。
海面には三隻の空母が残っていて、そのうち一隻は
ときおり青い炎の混じる明るいピンクの炎によって燃えていた。

炎の高さは艦体の長さと距離はほぼ同じで、
炎はそれに向かって噴き上がり、上空にはたくさんの煙があった

その場を離れる前に、三隻の空母がかなり激しく燃えているのを見た」



サッチはこの後「ヨークタウン」への日本の急降下爆撃機による攻撃も目撃しました。

「今や雷撃機が飛来していた。
私は敵にサイドから進入し、それを撃った。
左翼全体が燃え、炎を通して翼の中の構造物がはっきり見えた。

しかし、この悪魔は獲物に十分に近づいて魚雷を落とすまで
空中にで耐え続け、その魚雷は『ヨークタウン』を襲った。

この献身的な雷撃機パイロットは、飛行機が炎上して墜落寸前にもかかわらず、
一歩も引くことなく自分の任務を果たしたのである。

そして、雷撃を行った直後、艦のすぐ近くの海中に墜落した。

日本人パイロットたちは戦術に長け、なおかつ不退転の決意を持っていた。
実際、こと『覚悟』に関する限り、日本とアメリカの艦載パイロットに
全く違いはなかったし、彼ら自身にもおそらく異論はないと思う」

”運命の6分間”

マクラスキー隊が、発進後、戦闘機隊と合流できないまま索敵を行っていたところ、
空母部隊と合流しようとしている駆逐艦(『嵐』という噂もあるが当事者は否定している)
を発見し、その進行方向延長線沿いに日本艦隊を発見、という経過は
マクラスキー隊長の紹介の時にお話ししました。

ここでいう「運命の6分間」とは、10時22分「エンタープライズ」艦爆隊と
「ヨークタウン」艦爆隊の同時攻撃が始まった瞬間から、リチャード・ベスト大尉
3機が旗艦「赤城」に爆弾を命中させるまでの時間です。

そしてたった6分が、戦争のそして歴史の流れを変えたのでした。

ちなみに、もしこの攻撃が仮に5分遅かったら、日本側は換装を終え、
零戦隊が発進してこのような流れにはならなかったかもしれないという仮定もあります。

”The Hiryu Strikes Back(飛龍の反撃)”

この運命の6分間に、「飛龍」は他の3隻の空母から離れていたため、
アメリカ軍急降下爆撃機群の攻撃を受けることはありませんでした。

山口多聞少将

「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」

の命令のもと、1054、「飛龍」からは小林道雄大尉指揮の艦爆隊、零戦隊が発進。

このときミッドウェイ島の攻撃から帰還した友永丈市大尉の艦攻も
「飛龍」に帰還していましたが、友永大尉は機銃弾によって破損したタンクを
修理することなく、さらに片道燃料で出撃したといわれます。

もっとも本人は、敵艦までの距離が近いので帰れる、といっていたとされます。

 

そして、「飛龍」第一波攻撃隊(22機)は「ヨークタウン」を発見し、
九九艦爆8機による急降下攻撃で5機が爆弾投下に成功、爆弾3発が命中、
1発がボイラー室に火災を発生させ、「ヨークタウン」は動力を失い航行不能となりました。

そして14:30、友永大尉らの攻撃隊が「ヨークタウン」を発見、
両舷から挟み撃ちの形で投下した爆弾のうち2本が左舷に命中します。

”And Then There Were None(そして誰もいなくなった)”

南雲提督に残された最後の空母「飛龍」に、6月5日、
「エンタープライズ」「ヨークタウン」の艦爆隊が四発の爆弾を命中させ、
これを炎上させました。

山口少将は駆逐艦「巻雲」の魚雷による「飛龍」の処理を命じ、
自らは加来止男艦長とともに艦に止まって、艦と運命を共にしました。


最終的に米軍が勝利を収めた、という認識にもかかわらず、
「ヨークタウン」を失ったことを受けて、スプルーアンス少将

事実上フレッチャー少将に指揮権を委譲しました。

その理由として、彼が圧倒的な日本の戦闘部隊による夜間攻撃を恐れていたからといわれます。
そして自分の艦隊を敵艦隊から離れさせるため、深夜過ぎ、西に航路を変えました。

6月5日早朝、山本五十六大将はそれ以上の交戦が無意味と判断し、
艦隊にミッドウェイから帰還する命令を下しました。

 翌日、「エンタープライズ」と「ホーネット」の爆撃機が
約1,000人の乗員を乗せた「三隈」を撃沈し、
 日没までに、残りの日本艦隊は海域を脱しました。

 スプルーアンスの艦隊もすでに燃料は不足しており、パイロットたちは
何より3日間の連続戦闘の後、消耗し尽くしていました。

6月6日、TF16は真珠湾に戻りました。

戦いは終わりました。
そして潮目が変わったのです。

”THE OUTCOME(結果)”

ミッドウェイ海戦の結果は、日本にとって壊滅的な大惨事となりました。
数百人の経験豊富な搭乗員を擁する太平洋艦隊の空母を失い、
その莫大な犠牲に対して、1隻の空母と駆逐艦、重巡、そしてミッドウェイ基地の
41機の航空機という僅少な戦果しか得ることがなかったのです。

逆に、アメリカ側が敵艦に与えたダメージについていうと、
ミッドウェイ飛行隊の戦果は
ごくわずかでしたが、
彼らの繰り返しの攻撃によって敵に引き起こした
混乱と判断の遅れは、
空母雷撃機のそれと組み合わさって、
間違いなく
空母急降下爆撃機隊の成功に貢献したということができるでしょう。

 

”追記”

ミッドウェー海戦の「北フェーズ」は、日本にとって比較的成功を治めたといえます。
ベーリング海にある2つの不毛の島、キスカ島とアッツ島について言及しておくと、
1943年半ばまで北アメリカ大陸の最西端にありながら敵地となっていましたが、
アメリカ側は血なまぐさい戦いの後でアッツ島を奪還し、そののち、
日本軍の迅速な撤退後、キスカ島を占領しました。

 

さて、ミッドウェイシリーズはこれで終わりですが、
「空母の戦争シリーズ」は続きます。

ターニングポイント通過の後、日本本土にコマを進めたアメリカ海軍が
その攻撃を発進させたのも、また空母だったのです。


続く。

 


「ヨークタウン」と日米の男たち ミッドウェイ海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-29 | 歴史

スミソニアン博物館の空母を模してほぼ実物大に、
実際の空母から採取した素材でハンガーデッキの一部を作り上げた展示では、
人類史上はじめて、空母同士のガチンコ対決となった日米の海戦について
写真を上げながら紹介する親切なコーナーがあります。

前回はアメリカ側の「ア・フュー・ヒーローズ」(大勢のヒーローの中の一部)
を紹介しましたが、このコーナーを包括するテーマとなっていたのは、

■ The Gallant worriers(勇敢な男たち)

という言葉です。

太平洋の戦争での敵味方、両側には、有能な指導者、優秀な戦略家、
そして勇敢な戦闘員たちがいました。

この戦争において様々な空母での戦いに対し捧げられた各展示では、
主要な海軍の司令官たちについて言及されています。
ここに展示されているのは、太平洋における戦争を計画し、そして
それを戦った両側の男たちの厳選された写真です。

そして、英雄たちの写真とともに、誰のものとは記されていない
航空搭乗員のヘルメットが飾られています。

そしてまず、当時の日米両軍の搭乗員の衣装を着たマネキンが並んでいます。

まずこの右側は海軍搭乗員の典型的なスタイルで、S-2タイプといわれるものです。
カーキのコットン製スーツは夏用で、これにライフベストをつけています。

左は海兵隊エースだったジョセフ・フォスが寄贈した搭乗員用衣装一式です。

ジョー・フォスらVMF-121のパイロットと航空機は、
8月中旬からガダルカナル島上空の制空権を争っていたVMF-223を救援するため、
「ウォッチタワー作戦」の一環としてガダルカナルに派遣されました。

護衛空母「コパヒー」からカタパルトで発進し、ガダルカナルに到着した後は、
ヘンダーソン飛行場を拠点としたコードネーム「カクタス」と呼ばれる航空隊、
つまりあの有名なカクタス航空隊の一員となりました。

その後は零戦と対決して落としたり落とされたり(被撃墜2回)して
それでもなんとか生き延びた彼は、ワイルドキャット8機の小隊長として、

「フォスのフライング・サーカス」

を率いることになります。
部隊が撃墜した日本軍機は72機で、そのうち26機は彼の手によるものでした。

第一次世界大戦のエース、エディ・リッケンバッカーの26機撃墜の記録に並んだことで、
フォスは第二次世界大戦におけるアメリカ初の

「エース・オブ・エース」

の名誉を手に入れましたが、その後は実戦配備されるも、
戦時中の記録を塗り替えることなく引退しました。

 

そして、日本海軍航空搭乗員の冬用フライングスーツが展示してあります。
(実はアメリカ軍のもありましたが、写真を撮り忘れました)

説明によると、搭乗員服の素材は絹、綿、ウールの混紡で、裏地は綿のキルトです。
しかし、

「日本軍は海軍、陸軍の搭乗員服は見た目が同じです」

とあるのは何かの間違いではないかと・・・。
海軍の場合ダブルボタンで搭乗員はそれを開けてスカーフを見せていましたし、
陸軍はスタンドカラー風で、ぱっと見で違うとわかるんですがね。

また、こんなことにも言及しています。

陸軍の冬のスーツは裏地にキルトより毛皮がよく使われ、そして
服の内部には電気式ヒーターが内蔵されていました」

まじか。

なんとさすがはメイドインジャパン、ハイテク仕様だったんですか。

今では発熱コード内蔵のダウンという商品が一般にも出回っていますが、
この当時、電源はどこから引いていたのでしょうか。
というかこれなんかとっても構造的に危険な気がするんですが・・・。

また、海軍搭乗員用には二つバージョンがあったことも書かれています。

「JN-1は、JN-2シリーズの特徴である大きなウサギの毛皮の襟がなく、
頭の動きが容易だったため、搭乗員たちに人気がありました」

く、詳しい。詳しすぎる。
ちうか、搭乗員にどちらが人気があったなんてことをなんでアメリカ人が知っているのか。

JN-1とかJN-2はジャパンネイビーのことで、おそらく
スミソニアンが便宜上展示物につけた分類番号だと思われますが、
アメリカ軍の搭乗員服につけられている「S」は何の略かわかりません。

 

■ 日本海軍の「A Few Heroes」

スミソニアンの素晴らしいところは、「戦いの両側に勇敢な男たちがいた」
として、ちゃんと日本の搭乗員とその「戦果」を紹介していることです。

友永丈市海軍大尉 飛龍航空隊

「両側の英雄たち」ということで、日本側の「英雄」の紹介もあります。

この辺りがついうっかり「ジャップ」とか展示物の解説に書いてしまう
地方の軍事博物館とは違い、
国が運営しているスミソニアンだけのことはあります。

ここは現地の説明をそのまま翻訳しておきます。

友永大尉は真珠湾攻撃にも参加した、敢闘精神溢れ冷静な雷撃機パイロットでした。
彼はその日の早い段階でミッドウェイ島における空母打撃の航空を主導しました。
彼はミッドウェイ島への第二攻撃の必要ありと要求していますが、このことは
爆弾を換装するという南雲提督の運命的な決定に影響を与えました。

午後、友永大尉は「飛龍」の残った最後の10機の雷撃機を率いて、
アメリカ軍の空母を攻撃するための「片道任務」を遂行しました。

戦闘によるダメージのため、彼の航空機には敵艦隊海域まで到達して
攻撃するのに足りる燃料しか搭載していなかったのです。

友永大尉と彼のクルー4名は「ヨークタウン」への魚雷攻撃に次ぐ
体当たり攻撃で命を落としましたが、二発の魚雷命中を記録しています。

小林道夫大尉 「飛龍」艦爆隊

6月4日の深夜までに3隻の空母が壊滅したため、「飛龍」は迅速に
反撃を余儀なくされました。
真珠湾攻撃にも参加したベテランで、経験豊富な戦闘機パイロットである
小林大尉は、18機の急降下爆撃機の小隊を米軍空母に対し率いました。

小林大尉は爆撃隊を率いて「ヨークタウン」への攻撃を行いました。

彼と彼の部下は、爆弾を投下する前に航空機を異常ともいえるほど
低い高度に勇敢に滑らせ、優れた結果をもたらすことに成功しています。

18機の爆撃機のうち7機が急降下爆撃を行い、そのうち3機が
クリーンヒットを記録しました。

しかし、小林大尉とその同胞12人は、誰一人として
「飛龍」に戻ることはありませんでした。

mw17072701

ちなみに小林大尉はこちらの写真の方がかっこいいので貼っておきます。

1976年版「ミッドウェイ」の小林大尉。
搭乗員服姿の小林大尉に似た雰囲気の人が配役されているように見えます。


■ ヨークタウン撃沈す

前回ご紹介できなかったアメリカ軍側の「ミッドウェイ戦士録」から、
今日はこの人を取り上げます。

Elliott Buckmaster.jpg

エリオット・バックマスター大佐 
Cap. Elliott Buckmaster

ミッドウェイ海戦で唯一撃沈された米空母、「ヨークタウン」の艦長です。

「ヨークタウン」は空母「飛龍」から出撃した友永大尉の攻撃によって
航行不能に陥ったところ、伊168からの雷撃によってついに沈没したわけですが、
この「ヨークタウン」、実は内部に開戦前からこの艦長をめぐって
内部にかなりの不協和音があったことが明らかになっています。

 

開戦前にバックマスター大佐は「ヨークタウン」艦長を命ぜられました。

彼はアナポリス卒業後、長年にわたり艦艇勤務をしてきた艦乗りで、
ペンサコーラで
航空免許を取ったのはなんと47歳になってからでした。

当時、アメリカ海軍では、空母指揮官になるため、形だけ航空技術を学んできた
経験の浅い士官搭乗員を
「キーウィ」と呼んで見下す傾向があったのですが、
バックマスターはまさにこのキーウィのお手本のような艦長だったわけです。

「ヨークタウン」では副長のジョセフ”ジョッコー”クラーク始め、
多くの古参パイロットたちがこの人事に不満で猛反発しました。

当然ながら指揮系統には軋轢が生じ、内部も当然分裂は避けられず、
パイロットたちは艦長を無視して副長の命令しか聞かず互いを嫌悪し合う・・
不幸なことに「ヨークタウン」はそういう状態で開戦を迎えたのです。

さらに、開戦後、「ヨークタウン」に指揮官として座乗してきた
フレッチャー少将が
航空畑ではなかったということで、クラークらは完全にキレました。

「2人の”キーウィ”に艦を指揮されるのは耐えがたい!」

ということで、公然と反旗を翻し、副長のクラークは上層部やマスコミ、
あらゆる方面に二人の悪口を繰り広げて引き摺り落としにかかっていたというのです。

Rear Admiral Joseph J Clark.jpg「ジョッコー」クラーク

ちなみにクラークはチェロキーインディアン部族出身で、
初めてアナポリスを出たという「闘志あふれる」軍人でしたが、
この激しさは、初代「ヨークタウン」沈没によってバックマスターが退き、
彼自身が二代目の「ヨークタウン」艦長に就任してからも相変わらずでした。

今度は空母任務部隊司令官のパウナル少将に噛みつき、同じように
あたり構わず不満を訴えるという挙に及んでいます。

ちなみにパウナルを任命したのはスプルーアンスだったので、
クラークの「告げ口」先は、ニミッツなどの海軍上層部はもちろん、
フランクリン・ルーズベルトにまで及び、結局パウナルは更迭され、
「ピート」マーク・ミッチャーが空母艦隊司令官に就任しました。

最終的にミッチャーが功績をあげたので、クラークの「告げ口作戦」は
今日結果的に是だったとされています。

勝てば官軍ってやつですか。(棒)

クラークがこのように何かと激しい人だったというのは、その顔にも現れている気がします。
(ちなみにわたしはこの人については以前も紹介したことがあったのを
この時まで忘れていたのですが、あだ名の『ジョッコー』でソッコー思い出しました)

 

もちろん、ミッドウェイで「ヨークタウン」が沈没したのは
指揮系統の不和とは直接関係なく、ただ単純に不運であり、
友永大尉らの攻撃が巧みだったからに過ぎない、ということもできます。

少なくとも、もし艦長と副長がうまくいっていたら沈まずに済んだかも、
などというたらればの可能性は捨てるべきでしょう。


しかし、いずれにしても、この後も海軍の戦闘で一線に立ち続けたクラークとは違い、
バックマスターがこれ以降戦線の表舞台に立つことがなかったのは事実です。



さて、「ヨークタウン」は小林道雄大尉率いる18機の艦爆の攻撃を受けました。

艦上からは5インチ砲から27mm機銃、20mm機銃、12.7mm機銃、7.62mm機銃、
挙げ句の果てにはスプリングフィールド小銃まで使って反撃を試みましたが、
爆弾三発が命中し炎上、全ての動力を喪失、航行不能に陥りました。

写真は明らかに傾きがわかる「ヨークタウン」艦上の乗員たちです。

さらに応急処理の直後、友永丈市大尉率いる艦攻10機、さらには
次席指揮官橋本敏男大尉率いる第二中隊の魚雷2本を受け、再び航行不能になり、
バックマスター艦長はついにここで総員退艦を命じました。

最後まであきらめず救出の策を講じたものの、結局状態は悪化する一方で、
そのうち伊168に発見されて魚雷を受けることになります。

 
「ヨークタウン」は対潜戦を行いながらも艦を救おうとしましたが、
1942年6月7日、ついに沈没しました。

 

ちなみにこのとき「ヨークタウン」を発見後8時間待機、哨戒ののちに攻撃した
伊168は、その後の戦闘によって撃沈されていますが、攻撃時の艦長
田辺弥八少佐(海兵56期)は他の潜水艦に転勤となっていたため、終戦まで生き延びました。

Tanabe Yahachi.jpg

伊168はミッドウェイ島への砲撃を行ったのち「ヨークタウン」を発見、
これに水中速力3ノットで接近し、探信音が頻繁に感知される厳重な警戒を突破して
右舷を目標に距離1200メートルから魚雷を4本発射したところ、
これが空母に3発(アメリカ側では2発)、駆逐艦「ハムマン」に1発、同時に命中し、
両艦はこれによって沈没することになります。

魚雷の命中した瞬間の「ハムマン」、アメリカ海軍の公式再現ジオラマより。

その後の潜水艦に対する駆逐艦の攻撃は熾烈なものでしたが、
伊168は爆雷を避けるために米空母「ヨークタウン」の真下に潜み
5時間にわたるアメリカ軍駆逐艦の爆雷攻撃から離脱し生還したのでした。

 

戦後になって、艦長の田辺少佐はGHQから「ヨークタウン」への攻撃について
執拗な聞き取り調査(というかもはや尋問的な)を受けることになります。
アメリカ海軍はこのときの敗北をとても重視していたということになります。

そしてその結果、

「その慎重かつ大胆な攻撃方法に、調査を担当した米軍関係者も驚いたとされている」Wiki

1998年5月19日には、海底の「ヨークタウン」艦体が発見されています。
艦体には魚雷を受けたためにできた破口がはっきりと確認できるそうです。

続く。

 


A FEW HEROES ミッドウェイ の英雄たち〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-27 | 歴史

スミソニアン航空宇宙博物館の「空母展示」から、
空母を使って行われた日米間の戦争についてご紹介しています。

というわけで、いよいよミッドウェイ海戦の登場人物についてです。

■ ミッドウェイ海戦の英雄たち

「A Few Goodmen」という映画がありましたね。
直訳すると「一握りの善人」ですが、この意味は「他にも(善人は)いる」
ということでいいかと思います。
このコーナーのタイトルは、

「A Few Heroes」

となっているのですが、これが同じ意味であることは次の文章でわかります。

「戦いの間には陣営の両側に記録に残された英雄たちがいます。
ミッドウェイ海戦においては、フライトデッキに、機関室に、
操舵室に、
そしてコクピットに、祖国のために勇敢に戦い、
そして斃れていった日米の男たちがいました。

ここに紹介するのはそれらの英雄たちのごく一部(a few)です」

A Few Good Men

と題された写真です。(そのものですね)

ミッドウェイ島の海兵隊の守備隊は、
彼らの持てるもの全てをもって反撃しました。

日本軍の爆撃を受けて地上にあった航空機は全て飛行が不可能になり、
さらには各種迎撃用武器も多くがダメージを受けていたのです。

しかしこのような集中的な攻撃を受けたにもかかわらず、
死者11名、負傷者18名と被害は比較的軽微でした。

マリオン・ユージン・カール Marion E. Carl USMC

最初にその一部の英雄として紹介されているのがマリオン・カール海兵隊大尉です。
(最終階級少将)

わたしはこの名前を帝国海軍のエースの一人である台南航空隊の
笹井醇一少佐
ラバウルで撃墜したパイロットとして記憶していたわけですが、
この時になって初めて、カール大尉が海兵隊パイロットであること、
そして、彼がミッドウェイ海戦に参加していたことを知りました。

カール大尉は海兵隊戦闘部隊221(VMF 221)所属で、
ミッドウェイ海戦では海兵隊迎撃部隊に属していました。

この時海兵隊は、時代遅れのブリュースター・バッファローワイルドキャット
完璧に凌駕する、恐ろしい敵「ゼロ・ファイター」に直面することになります。

そして多くの戦闘機パイロットたちの英雄的な健闘にもかかわらず、
VMF221の25機のバッファロー戦闘機のうち、23機が撃墜あるいは撃破されました。

このときカール大尉はミッドウェイの激戦を生き残ったのみならず、
旧式の「不利な機体で」零戦1機を撃墜したとされています。

彼はミッドウェイで、この後、笹井少佐を撃墜することになった
ガダルカナルの戦いを経て
海兵隊航空隊最初の戦闘機エースとなりました。



ミッドウェイで生き残った海兵隊パイロットの記念写真。
輸送機から降りてきたところか、あるいは搭乗の前でしょうか。
マリオン・カール大尉は一番左端です。

ところで今久しぶりにカール少将の英語Wikiを見てみたら、
前には見た記憶のない笹井少佐の写真が同ページに掲載されており、

Junichi Sasai wearing flight gear.
This 1942 photo shows Sasai shortly before his death over Guadalcanal on August 26.
(この1942年の写真は笹井がガダルカナルで8月26日に戦死する直前のものである)

とキャプションがありました。

当ブログ調べによると、この写真のトリミングされた部分には
笹井中尉の兵学校時代のクラスメートが彼と肩を組んでいるのが写っており、
そのクラスメートは同クラスの戦闘機専攻の学生であることもわかりました。

つまり写真の撮られたのはラバウルでもましてや死の直前でもなく、
霞ヶ浦の訓練時代に撮られたものということになるので、
彼が微笑んでいても当然の状況ということが言えると思いますが、

誰が言い出したのやら、この写真が「死の直前」ということになってしまい、
いつの間にかワールドワイドに間違った情報が上書きされているのです。

まったく困ったものですね。

ランス・エドワード・マッセイ少佐 
Ens. Lance E.Massey

海軍兵学校卒のパイロットであったマッセイは、ミッドウェイ海戦において
VT-3(魚雷部隊)の小隊を率いて「飛龍」に低空からの攻撃を試みるも、
「飛龍」からの反撃に落とされ、戦死しました。

このときVT-3のTBDはジョン・サッチ少佐率いる6機のF4Fワイルドキャットに
掩護されていたにもかかわらず、12機のうち10機が失われることになりました。

彼の名前は駆逐USSマッセイ(DD-778に残され、
遺児は兵学校を出て海軍軍人となり、司令官まで昇進して引退しています。

この写真に写っている機体の旭日旗ですが、クェゼリンで沈没させた軍艦を意味しているそうです。

John C Waldron.jpg

ジョン・ウォルドロン少佐 
Lt. Com. John Charles Waldron 

「ホーネット」の第8雷撃機部隊の隊長であったウォルドロン少佐は、
ミッドウェイ海戦で最初に隊を率いて出撃しましたが、
戦闘機の掩護なしの旧式機であるデバステーターは、当時最新型の
零戦の餌食となって、出撃した15機は全て撃墜されました。

出撃の前の日、ウォルドロン少佐は隊員にこう訓示しています。

「もし君たちの誰かが最後の一機になったら、そのときは
相手に体当たりしてでも攻撃してもらいたい。

神の御加護が我々に有らんことを。
グッドラック、そしてハッピーランディングで彼らを地獄に落とせ」

Improbable: Ensign George Gay at Midway

「失われた飛行中隊」

そして、デバステーター隊の15機は全て撃墜され、ここに写っている
15名のパイロットのうち生き残ったのは赤丸のジョージ・ゲイ少尉だけでした。

ちなみに映画「ミッドウェイ」についてここでお話ししたとき、南雲中将が
この全滅の報を受け、

「15名の勇敢な若者が・・・・」

と涙を浮かべるシーンについて、今にして思えばまことに早計ながら、

「デバステーターは二人乗りなので15名はおかしい」

と突っ込んだのですが、南雲中将のいう15名はパイロットのことでした。
つまりここに写っている15名ということになります。

しかしながら、各機には一人ずつ通信兼後部射手が乗っていたので、
正確な戦死者は
29名ということになります。

同乗者の存在が無視されがちなのは相変わらずで、彼らの写真は残っておらず、
この時パイロットと一緒に死んだのにもかかわらず、歴史から抜け落ちた存在となっています。

ジョージ・ゲイ少尉 Ens. George H. Gay jr.

そして彼がウォルドロン少佐の第8雷撃部隊で唯一生き残ったゲイ少尉です。

ゲイ機は「蒼龍」に魚雷攻撃を試みましたが、回避され、同乗の通信&後部射手、
ハンティントンが銃撃によって死亡した後、
撃墜され着水しました。

映画「ミッドウェイ」でも描かれていましたが、ゲイ少尉は海に逃れ、
機銃掃射されないようにずっとシートクッションを頭にかぶって、
海の上から三隻の日本の空母が沈没する様子を丸一日見ていました。

暗くなってから救命筏を膨らませ、撃墜されてから約30時間後、
カタリナ水上艇に救出されて生還することができました。

そんな状態でも微笑んでいるのはさすが名前の通り陽気な青年みたいですね。

ちなみに彼は1994年、77歳で亡くなり、その遺灰は、本人の遺言により
彼の部隊が攻撃のため発進したのと同じ海域に撒かれたそうです。

クラレンス・ウェイド・マクラスキー少将 
C. Wade MacClusky

「エンタープライズの艦爆部隊を、日本の駆逐艦の航跡に沿って進ませ、
敵の主力空母艦隊を捜索したという彼の判断は重要でした」

といきなり書いてあります。
これだけ読んでも、ミッドウェイ海戦について詳しくない人には
何のことやらさっぱり、
という説明ですが、これは、わかりやすく書くと、

発進!

→「発艦する数が多すぎる!じゃ上空で待ち合わせして各自出発な」

→艦攻隊、戦闘機隊と全く反対の方向に行ってしまう><

→「隊長!1機どこかにいってしまいました!」(T_T)

→「燃料がありません!」「1機着水します!」

→「もうだめだ・・・帰還するしかない・・
  おや、駆逐艦が一隻航行している・・

  あの駆逐艦はどこにいくんだ?
  もしかしたら進行方向に敵の艦隊がいるんじゃないか?」

「ビンゴ!」←いまここ

ということになります。
そしてマクラスキーが後年いうところの、

「発見した青いカーペットを切り裂いたような白いカーブ」

は、逸れた雷撃隊がまさに「赤城」を攻撃しているところでした。

いわゆる青絨毯の切れ込み

この後、マクラスキー隊はそのまま攻撃を開始し、
彼の部下であるリチャード・ベスト大尉の部隊とともに
「赤城」「加賀」を沈没に至らしめたというわけです。

負傷して帰還してからは艦上から指揮を執り、それによって
「飛龍」も撃沈したため、直接指揮により2隻、指揮により1隻、
合計3隻を沈没させるという海戦史初の戦果を挙げた指揮官になりました。

ちなみに前にも書いたことですが、このときアメリカ側が発見したのは
駆逐艦「嵐」だった、
と言っているのにもかかわらず、戦後「嵐」の乗員は全員が、

「そのようなことはなかった」「空母の近くを離れたことはない」

とまで証言しているというというんですねー。

それではマクラスキーが発見した「駆逐艦」とは何だったのでしょうか(怖)

ジョン・サッチ少佐 Lt.Com. John S. Thach

第3戦闘機部隊(VF-3)指揮官

サッチ少佐は「ヨークタウン」爆撃隊を目標まで6機のワイルドキャットで掩護しました。
その体勢は、上空のドーントレス艦爆部隊、低空の雷撃部隊の間4キロの空間に
サンドウィッチ状態で掩護戦闘機隊が飛ぶというものです。

そしてサッチ隊は20機の零戦部隊に攻撃されました。

「まるで蜂の巣に突っ込んだようだった」

と後年かれはこのときのことをこのように述懐しています。
この交戦により生き残ったサッチ隊長とわずかのグループは
その後も雷撃隊をエスコートし続けました。

最終的に彼の部隊で「ヨークタウン」に戻ってくることができたのは
彼を入れて3機の戦闘機、そしてたった1機の雷撃機だけでした。

 

 


続く。

 


「ミッドウェイ燃ゆ」〜空母展示・スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-25 | 歴史

スミソニアン博物館の中に空母の一部を作り、そこでは
歴史的に空母を使った戦争の歴史について説明されています。

真珠湾攻撃、世界初の空母決戦となった珊瑚海海戦とくれば、
次はやはりミッドウェイ海戦がくるわけです。

まず、ミッドウェイ海戦における両艦隊の行動図から。
赤が日本でブルーが米海軍艦隊です。

まずミッドウェイ海戦における両艦隊の行動図を地図で説明です。
赤が日本、青が米海軍艦隊です。

海戦海域を赤で囲んでくれています。
千島列島線から出ている赤い矢印には

「アリューシャンフォース」

とあります。

「ミッドウェイ海戦 太平洋戦線におけるターニングポイント」

とタイトルされた地図は、このような解説から始まります。

珊瑚海の戦いでの米国の戦略的勝利にもかかわらず、日本軍は引き続き
防御境界のさらなる拡大と米国太平洋艦隊との決定的な関与を試みました。

山本五十六大将は、日本は1942年に米艦隊を全滅させることができなければ
それは敗北を意味するということを確信していました。

山本大将とその参謀は、日本の海軍令部の反対を覆し、ミッドウェー島、そして
アリューシャン列島西部を占領することで真珠湾の基地から米艦隊をおびき出し、
破壊するという計画を立てたのでした。

そうすれば、1942年の冬の前にオアフ島への攻撃の道が開かれると考えたのです。

いろんな解釈があろうかと思いますが、この解説だと、まるで
山本と一部の参謀が軍令部の反対を押し切って作戦強行したかのようです。

信じがたい勝利

通常の基準でいうと、アメリカ軍の勝利は絶望的でした。
彼らは戦艦を持っていませんでしたが、敵は11隻保有。
重巡洋艦はこちらが8隻に対し敵は23隻。
軽巡洋艦は3隻でしたがそのうちの1つは動かないのに、
敵は8隻を持っていました。

海岸防衛の前線には時代遅れの銃がしばしばみられ、
しかも彼らは肝心の戦争についてほとんど知りませんでした。

海軍の空母パイロットは誰一人として戦闘の経験はなく、
もちろん陸軍も海兵隊もそれは同じ事情です。

21人のパイロットのうち17人は飛行学校を卒業したばかりでした。
彼らは疲弊し、そして斃されていきました。
機器の問題もあり、彼らは壊滅的な損失を被りました。

つまり彼らは勝つための要素をまったく持っていなかったのです。

それでも彼らは戦いました。
戦うことでで彼らは戦争の行く末を変えました。

なによりそれ以上に、彼らはきらりと光る何人かの男たちの名前を
ミッドウェイという新しいリストに書き込んだのです。

斃れて行った男たちの中から雄々しく立ち上がった男たちは、
いくつかの敗北から信じられないほどの勝利へと導いて行ったのでした。

ポエムです(笑)

アメリカのこういう「敵は強かったがしかし我々は」という論法を、
わたしは永らく「スイカに塩理論」と呼んで、苦労して得た勝利ほど尊い、
ということを強調するためのレトリックのようなものだと決め付けていたのですが、
ことミッドウェイ海戦に関する限り、これは必ずしもそうではないらしいことがわかってきました。

アメリカにとってミッドウェイ海戦というのは、状況的に
勝てる要素のない絶望的な状態を、あらゆる偶然とそれを引き寄せるガッツで
ひっくり返した輝かしい勝利、という位置づけであるということなのです。

ここで両軍司令官の紹介があります。

山本五十六大将

IJN最高司令官、連合艦隊司令官

山本提督は、ミッドウェー海戦を北軍による米軍への空母攻撃で開始する予定でした。
アリューシャン列島でのインスタレーション、続いて
米国のミッドウェイからの注意をそらすためのアダック、キスカ、アッツ上陸。

南雲提督の空母打撃部隊による途中での空襲は6月5日に始まり、
6月7日に侵攻部隊による水陸両用攻撃が続き、米艦隊は
これと戦うために出動しました。

南雲忠一中将 

IJN 空母打撃部隊司令官

南雲忠一中将は、ミッドウェイ海戦で主要な役割を果たしました。
ミッドウェイ島の防衛力と航空戦力を破壊し、太平洋艦隊を排除しようとしました。

チェスター・ミニッツ大将

USN司令官 太平洋艦隊司令官

ニミッツ大将は「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」
この三隻の空母しか使えず、さらに戦艦もなく、ほんの一握りの巡洋艦と
護衛駆逐艦だけの戦力でミッドウェイ海戦を戦うことになりました。

しかし、米海軍の暗号解読者は日本軍の暗号を解読することに成功し、
山本提督の計画と意図を知ることができたので、この情報から
ニミッツはミッドウェイと彼の海軍が日本からの攻撃に備えるための作戦を講じました。

フランク・ジャック・フレッチャー中将

USN司令官、空母打撃軍司令官

珊瑚海海戦の指揮を執ったあと、米海軍の戦術指揮案に任命され、
ミッドウェイ海戦ではTF17(旗艦ヨークタウン)に加え空母部隊を率いました。

「ヨークタウン」とその護衛部隊は5月30日に真珠湾を出発し、
6月2日にミッドウェイの北東約523kmでTF16と合流しました。

レイモンド・A・スプルーアンス中将

USN司令官、第16任務部隊(TF 16)

ハルゼー提督が病気になったため、代わって第16任務部隊司令官に就任しました。
スプルーアンスは飛行出身ではありませんでしたが、 戦闘が進むにつれ、
ハルゼーの戦術を継承した優秀で細心かつ高度な知識を持つ戦略家としての評価を固めました。

フレッチャー提督が戦術指揮を執っていたにもかかわらず、スプルーアンスは
最終的にTF16とは別行動でアメリカの勝利につながる重要な決定の1つを行いました。

この写真の軍服の襟でもわかるように、スプルーアンスは後に提督の階級に達しました。

ミッドウェイ島は前部のイースタンアイランドと後部のサンドアイランドで構成されています。
陸地は環礁全体のうち7.7平方キロメートルにすぎません。

そして地理的な位置はハワイからわずか1828メートルの中央太平洋に位置していたことが、
ミッドウェイの名前を歴史に止めることになるのです。

■ ミッドウエイ島 戦いに参加

1942年の終わりまでに、ミッドウェイ島はいわば「浮沈艦」となりました。

陸軍航空隊のB-17と、双発エンジンのB-26中型爆撃機、
同時に海兵隊の各種戦闘機、そして爆撃機が発進する「母艦」となったのです。
また、PBYカタリナ飛行艇と6機のTBMアベンジャー爆撃機もおり、
トータルで121機の航空機が日本軍の攻撃を待ち受けていました。

 

中でも「インペスベンサブル(欠くことのできない)カタリナ」と呼ばれた
カタリナ飛行艇は、日本艦隊を見つけるためにミッドウェイから扇状に展開して哨戒を行いました。

6月3日午前9時、ジャック・リード少尉(左写真後列右から二人目)率いる哨戒隊は、
ミッドウェイ西方1126キロの海域でミッドウェイに向かってくる敵艦隊を発見しました。

リード少尉の報告を受けて、陸軍のB-17 が爆撃任務のため出撃しましたが、戦果なし。
その夜遅く、4機のPBYが魚雷爆撃を試み、一発のヒットをスコアしています。

さらに6月4日の5時53分、ミッドウェイ島基地のレーダーが150キロの距離に
敵の爆撃機を発見しました。

■ ミッドウェイ島 反撃

7時10分。

ミッドウェイの航空部隊が初めてPBYが発見した敵空母部隊に反撃を行いました。
連続した、しかし組織されない攻撃が数時間にわたって展開され、その過程で
6機のTBMアベンジャー雷撃機が投入されました。

魚雷を換装したBー26爆撃機4機、16機の海兵隊SBD爆撃機、15機の陸軍B-17重爆撃機
そしてついに11機の海兵隊SB2Uヴィンティケイター急降下爆撃機が出撃しました。

Vindicator

アメリカ側の喪失は「驚異的」で、敵にダメージを与えることもできませんでした。
しかしながら、継続的な攻撃は敵の指揮官を混乱させたのも事実です。
このことはアメリカ側の勝利のための条件の潜在的要素となりました。

■ ミッドウェイ燃ゆ

午前6時30分、日本軍の爆撃機がミッドウェイを攻撃しました。
このとき爆撃は海兵隊の司令部、資材庫、飛行艇格納庫に命中し、被害を受けます。

この写真は、戦いの最中にもかかわらず、星条旗を掲揚している海兵隊員たち。
炎上する燃料タンクが向こうに見えています。


続く。

 

 


世界初の空母決戦、珊瑚海海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-23 | 海軍

さて、スミソニアン博物館の空母展示、空母の開発の歴史に続いて
空母の歴史を語ろうとすればそれは当然真珠湾攻撃から始まるわけです。

日本軍のこの歴史的な奇襲攻撃が「空母元年」の幕を開いたといえます。

■ 1941年の憂鬱な日々

次のコーナーは、連合国にとっての臥薪嘗胆な時期、つまりそれは
日本の立場から見ると日本が快進撃していた時期についてです。

「The Groomy Days Of 1941」

と題された最初の文章を見てみましょう。

太平洋艦隊の3隻の空母は真珠湾における戦艦と同じ運命となることから逃れたものの、
日本軍は少なくとも米国艦隊を封じ込めるという目的に一部成功しました。
彼らは今や、米海軍による深刻な脅威を恐れることなく、
東南アジアの征服を進めることができるようになったのです。

グアム、ウェイク、香港はすぐに陥落し、1941年が終わる前に
フィリピンとマレーシアが侵略されました。


12月10日、英国のみならず世界を震撼とさせたのは、
戦艦H.M.S. 「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦H.M.S.「レパルス」が
シンガポールから航空援護なしでマラヤ東部に向けて航行中、
サイゴンからの日本の航空機の攻撃によっていとも簡単に撃破されたことです。

1942年の春までに、ニューギニアの一部を除いて、
日本はオーストラリアの北にある南西太平洋地域全体を征服し、
戦争を続けるために必要な石油と原材料をタンカーと商船で持ち帰ることができました。

「インド洋の惨事」

と題された写真です。

セイロン島(スリランカ)を拠点とするイギリス艦隊の脅威に対抗するため、
そしてインドからの連合軍の援軍が、ブルーマとベンガル湾での
日本の前進を妨害するのを阻止するために、
空母攻撃部隊は1942年3月出航しました。

それは連合国海軍にもたらされる一連の災厄の始まりでした。

「日本の勝利」

他国の空母艦載機によって沈められた世界最初の空母の最後の姿です。
「勝利の神ハーメス」は、インド洋セイロン島でのイギリス軍施設への
日本の襲撃によって失われました。

運命の1942年4月9日 、英国の巡洋艦、駆逐艦、商船、航空機の損失はあまりに大きく、
英海軍東洋艦隊の残党はアフリカの東海岸に撤退することを余儀なくされ、
これにより残りのインド艦隊は完全に日本軍に掌握されました。

 

■ デスティネーション・トーキョー

Doolittle Raid

おなじみ?ドーリットル空襲の歴史的な位置付けは、
それまで優位だった日本に脅威を感じていた連合国が、
この出来事ですっかりやる気?を取り戻したことかもしれません。

現地の解説にもこのようにあります。

1942年4月18日、日本の首都が爆撃されたというニュースで、
連合国全体の士気が大幅に向上しました。
空母「ホーネット」から飛び立った16機の陸軍B-25爆撃機が、
日本のさまざまな標的に直接の攻撃を与えたのです。

ここでスミソニアンのテーマ的には、空母で始まり、空母で押されていた戦局を、
空母から飛び立った爆撃隊をきっかけに押し戻すことになった、という
「空母尽くし」で美しくまとまっていることにご注意ください。

 

The Doolittle Raid l Photos | Defense Media Network

空母の甲板から大きな爆撃機を発進させるというのは
あまりにも画期的で、飛ぶB-25の搭乗員はもちろんのこと、彼らを甲板から
飛ばせる「ホーネット」の海軍軍人たちも冷や汗ものだったことでしょう。

そもそも、空母というものは
「飛行機を積んで現場に行き、帰ってきた飛行機を甲板に着艦させて持って帰る」
ためのものです。

爆撃機B-25ミッチェルの場合、何とか飛び立つことはできても、
着艦することは物理的にも構造的にも100%無理なのですから、
真珠湾でアメリカ人の度肝を抜いたはずの日本側が、
この意表をつく作戦にそれ以上に驚いたのはいうまでもありません。

何度も当ブログでいうように、ドーリットル隊の日本攻撃の
実質的被害ははっきりいって「Do little」なものでしたが、実は
この作戦はどんな被害を与えたかということよりも、
それまでの歴史上何人たりとも考えつかなかった作戦を練り上げ、
形にしたということに意味があったといえましょう。

WORLD WAR II: The Doolittle Raid proved America and the Allies could win |  Features | albanyherald.com

スミソニアンの解説にもこうあります。

B-25の襲撃は完全な驚きであり、全機がほとんど、
または全く失敗することなく目標を達成しました。

よく言われるように、勝敗の転換点はミッドウェイ海戦でしたが、
ドーリットル爆撃が転換させたものは英語でいうところの「モラル」、
つまり国民全体の士気が大であったということになります。

ドーリットル隊のうちの15機の爆撃機が燃料を使い果たし、
8人の乗組員が作戦後中国で墜落しました。

彼らは1943年に中国大陸からイランに逃亡しています。


■ ザ・ファースト・オブ・メニー

この写真を貼るのは少なくとも二度目という記憶があります。
シカゴのオヘア空港の一隅にあるオヘアミュージアムを紹介したときです。

空港の名前となったエドワード「ブッチ」オヘア少佐
大きな目で日米戦を見た場合の「個人の勝敗の転換点」のシンボルとして
「サッチ・ウィーブ」を編み出したサッチ少佐と共に名前を挙げられています。

博物館の解説を見てみましょう。

 

戦争の初期にはアメリカ側は勝利と英雄に縁のない状態でしたが、
1942年初頭の災厄と敗北のなかから、戦闘において際立った戦果を出した
2人の戦闘機パイロットが出現しました。

「ブッチ」オヘア少佐(左)とJ・S「ジミー」サッチ少佐(右)は、
南西太平洋での最初の日米海軍の戦いが行われた時、これに参加していた
空母「レキシントン」戦闘機戦隊3(VF-3)の戦隊の仲間でした。

戦隊の司令官であるサッチは、優れた性能の日本のゼロ戦を戦うため、
戦闘戦術を編み出し、機動の開発を支援した貢献者です。

ブッチ・オヘア少佐は海軍の最初のエースになり、
卓越した空中戦で名誉勲章を授与されました。

1942年2月20日、彼はグラマンF4Fワイルドキャットで
「レキシントン」を攻撃してきた
5機の日本の爆撃機を4分で撃墜しています。

オヘアは1943年の夜戦中に撃墜され戦死していますが、
米海軍機によるフレンドリーファイアー(同志討ち)と言われています。

そうだったのか・・・知らんかった(´・ω・`)←ワスレテタダケカモ

「長生きしたければチームで戦え」

海軍のF4Fワイルドキャット戦闘機が、一騎打ちでは
日本のゼロ戦に勝てないことが明らかになったとき、

ジミー・サッチの哲学は発展しました。

いわゆる「サッチウィーブ」がその答えでした。

これはチームの攻撃的な戦闘機の狙いを捨てるように設計された独創的な着用戦術です。

図を見ていただけば、零戦と一騎討ちを避け、一機が逃げると見せかけて
進路を誘導し、そこに「ウィーブ」(編み込む)ように割り込んできた別機が、
零戦の進入路をカウンターして迎え撃つメソッドが描かれています。

「サッチウィーブ」は米海軍の標準的な手順となり、他の連合国空軍に採用されました。

■ ウェーク島攻撃

1942年初頭、米軍の空母部隊は、マーシャル諸島の日本軍の施設と、
1941年12月23日に米海兵隊駐屯地から日本軍に奪われたウェーク島に対して
報復攻撃を行いました。

写真は「エンタープライズ」所属のダグラスTBDデバステーター魚雷爆撃機で、
1942年2月24日、ウェイク環礁上空を飛行しています。

これらの先駆的な攻撃作戦は敵にほとんど損害を与えませんでしたが、
米国の空母パイロットたちにに貴重な経験値を提供しました。

 

■ 珊瑚海海戦

 

1942年1月、日本軍はニューブリテン島でラバウルを占領し、
そこで主要基地を構築していました。

日本の次の目的はポートモレスビーでした。
しかし珊瑚海のオーストラリアの基地は日本の空爆に対して脆弱ではありませんでした。

日本軍が計画したMO作戦(ポートモレスビー攻略作戦、モ号作戦とも)では、
日本軍はソロモン諸島のツラギ島とニューギニア南東端のルイジアデス島に
水上飛行場を設置することを目的としていました。

しかし、4月中旬までに、真珠湾の米国太平洋艦隊のコードブレーカーは、
日本軍が南太平洋での攻撃の準備をしていること、
そしてポートモレスビーが目的であることを知っていたのです。

画像が不明瞭でもうしわけありません。
現地の説明によると、これは日本製の爆撃照準器で

IJIN BOMB AIMING APPARATUS MODEL2

というものだそうです。
初めて見聞きするのですがIJINで調べてもわかりませんでした。

説明によると、

「日本海軍では2種類の爆撃照準器が使用されていました。

1つはオプションの照準器で、もう1つはモデル2のような機械式の照準器でした。

このタイプの照準器は、通常の急降下爆撃ではなく水平爆撃に使用されました。

使われたのはほとんどが空母ベースの戦闘機と爆撃機です。

正しい爆弾の照準点は、ターゲット、そして風向、速度などの要素によって補正するために
さまざまなレバーとノブを調整することによって決定されました。
この照準器1932年に東京ケイキセイサクショによって製造されました」

トウキョウケイキセイサクショはおそらく現在の東京計器だとおもわれます。

同社の沿革には照準器を作っていたとの記述はありませんが、

古くは「三笠」「大和」「武蔵」の羅針儀も作っている会社で、
現在もレーダ警戒装置や慣性航法装置を防衛省に納入している会社です。

それにしてもIJINの漢字がなんだったのか気になるなあ・・・。

偉人?

■ 珊瑚海海戦

珊瑚海海戦の概要図です。

まず赤が日本軍、青が米艦隊で、右上の赤線は「翔鶴」「瑞鶴」。
左上からの赤線は「祥鳳」で、レキシントン艦載機に撃沈されたことがわかります。

沈む「祥鳳」

「祥鳳」は第二次世界大戦で最初に沈没した日本の船になりました。
魚雷二発を受けて数分の間に轟沈したということです。


そしてみ右下から進行している青線が「レキシントン」「ヨークタウン」です。

その「レキシントン」は駆逐艦「オネショー」(そんなのあるのか)「シムズ」とともに、
「瑞鶴」の高橋赫一率いる急降下爆撃隊に沈められました。

「ヨークタウン」の爆撃機に攻撃を受ける「翔鶴」ですが、
このときに「翔鶴」が受けたのは一発だけでした。

フランク・ジャック・フレッチャー中将は航空畑ではなく、
南太平洋に進出してくる日本軍を迎え撃つために集められた
連合国海軍の司令官(TF17)でした。

フレッチャーは二隻の空母、二隻のオーストラリア海軍の巡洋艦を含む
補助艦隊としての巡洋艦、駆逐艦、油槽艦の指揮を執りました。

アダム・オーブリー・W・フィッチ中将は「レキシントン」勤務などの経歴もある
海軍の最も経験豊かな搭乗員で、機動部隊の航空指揮官として組織を行った人物です。
高木中将率いる真珠湾攻撃にも出撃した「翔鶴」「瑞鶴」含む機動部隊に対し、
これを「レキシントン」「ヨークタウン」で迎え撃った珊瑚海海戦は、
歴史始まって最初の空母艦隊同士の決戦となりました。

高木武雄中将は帝国海軍の空母機動部隊を指揮し、
ポートモレスビー、ツラギなどへ進攻を阻む同盟国の軍艦を撃破し、
オーストラリアの海軍基地の空襲による撃破を試みました。

2隻の大型巡洋艦に加えて、軽空母「祥鳳」が
五藤存知中将の護衛艦隊に配属され、侵攻グループを保護していました。

五藤存知(ごとうありとも)などという軍人名をアメリカで見ることになろうとは・・。

「戦闘の生存者」

ダメージを受けたドーントレスがかろうじて「ヨークタウン」に着艦しました。
日本の空母が攻撃されている間、「レキシントン」のレーダーは、
こちらに向かってくる日本の爆撃機を察知していました。

その後「 ヨークタウン」は、日本の雷撃機によって発射された8つの魚雷を
身をよじるようにしてかわしましたが、
363 kg爆弾がフライトデッキを直撃し、4階下のデッキまで突き抜けてから爆発し、
乗員のうち66人が重度の火傷によって亡くなるという惨事になりました。
しかし「ヨークタウン」は生き残ることができました。

「淑女の死」Death of A Lady

フレデリック・シャーマン大尉による必死の機動にもかかわらず、
レキシントンは魚雷と爆弾に見舞われながらなんとか航行を続けましたが、
1時間以内に火災が発生し、午後12時47分に突然、
貯蔵タンクからのガソリン蒸気が発火し、壊滅的な内部爆発が船を揺さぶりました。

さらに爆発が続き、火事が制御不可能になったため、
午後5時7分、シャーマン大尉は総員退艦を命じました。

乗員が舫を伝って海に脱出している様子がわかります。
近くには駆逐艦が控えていて怪我人を収容しました。
このとき艦内に取り残された乗員は一人もいなかったそうです。

駆逐艦に移乗したシャーマン艦長は魚雷による沈没を命じ、
彼女は216名の乗員の亡骸と共に海に姿を消していきました。

 

続く。

(前回の予告は何かの間違いで、ミッドウェイはこの次でした。<(_ _)>)


真珠湾攻撃と日本軍機のいろいろ〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-21 | 航空機

スミソニアン博物館の空母展示では、世界初めての
空母機動部隊による奇襲となった真珠湾攻撃に始まり、
日米の第二次世界大戦の空母艦隊戦について
けっこうなボリュームを持って紹介されていました。

今日は真珠湾攻撃の続きです。

真珠湾攻撃の日本軍オペレーションが大地図で紹介されていました。

皆さんもご存知の経緯ですが、赤い動線について説明しておくと、

●1 単冠湾から出発(地図上部)

●2、3 3400マイルで12/3に到達

●4 12月8日

先遣部隊 潜水艦27

打撃部隊 空母6 駆逐艦9

補助部隊 戦艦2 巡洋艦3 潜水艦3

●5にて航空機回収

●6「蒼龍」「飛龍」「利根」「筑摩」駆逐艦群はウェーク島攻撃の補助のためここで別れる

●7 12月21日〜28日 ウェーク島攻撃

●8 帰還

左下の赤い台形で囲んだ部分が本作戦の行動範囲ということです。

ところで黄色でハイライトを入れた部分ですが、
日本の潜水艦って5隻の特殊潜航艇とそれを運んだ母潜水艦しかいなかったんじゃあ・・・。
27隻って本当にそうだったのかしら(調べてません)

 

ハワイ・オペレーション

日本軍が1941年12月7日を奇襲決行日に選んだ理由は、
アメリカ艦隊が週末でそのほとんどが入港していたからだといわれます。

空母機動部隊から発進した航空機はオアフ島の軍事施設を攻撃し、
潜水艦の部隊は我が軍艦を破壊するために島の周りに配備されました。

いやだからそんなに潜水艦いたんですかって聞いてるんですけど。
この書き方だと本当に潜水艦が27隻来ていたみたいですが(調べてません)

オアフへの攻撃中、2隻の駆逐艦がミッドウェイの構造物を砲撃しました。

ミッドウェイ島を日本の駆逐艦が攻撃したってことでOk?

国際法に従い、宣戦布告はワシントン時間午後1時(ハワイ時間8:00a.m)、
ハワイ攻撃の30分前に米国政府に提出されることになっていました。

しかし、暗号解読とタイピングに時間がかかり、手交できたのは
ワシントン時間の午後2時20分となってしまい、1時間25分の遅れとなりました。

開戦通知の遅れの原因は、そもそもこの非常時に人がいなかったこと、
そして(アメリカ人にはとても理解できないことかもしれませんが)
もっとも時間がかかったのは、英語への翻訳で揉めていたためだったと言われていますね。

 

わたしなど多少プロトコルに則っていなくても意味さえ通じればいいから、
ちゃっちゃとメモみたいなのでも渡しておけばよかったのにと思うんですけど。

日本人の英語が下手な原因は、間違えるのを恥ずかしがるあまり、
文法を組み立ててからしゃべるせいだという話もあるくらいですが、
このときの大使館にもその傾向を見る気がするのはわたしだけでしょうか。

それはともかく、開戦通知遅れについては当時ハル長官は
卑怯な騙し討ちだと怒り、散々これをプロパガンダに使ったわけですが、
現在ではちゃんとそのときのお粗末な遅延事情が(正確にではないですが)
少なくともスミソニアンには(ということは一般的な歴史認識として)
ちゃんと伝わっているようでよかったです。

なお、地図の下部には日米軍双方の戦力が記されています。

発進

第一波である日本海軍のB5N2 「ケイト」艦上爆撃機が
真珠湾攻撃を行うため空母のデッキからテイクオフしています。

攻撃軍はオアフ島の北370キロ沖の発艦ポイントに早朝6時に到達し、
そして1時間15分後、嶋崎重和中佐率いる第二波の攻撃グループが発進しました。

スミソニアンの記述に出てくるこの嶋崎中佐は、あまりに有名になった
淵田指揮官の高名に霞んでしまい、ほぼ無名といっていいのですが、
ここではちゃんと名前が明記されています。

Shigekazu Shimazaki cropped.jpg嶋崎少将(最終)

嶋崎重和は昭和20年1月、第3航空艦隊司令部付となった翌日、
台湾方面で戦死し、戦争が終わってからその年の末に
二階級特進して海軍少将に任ぜられています。

 

「真珠湾空襲、演習にあらず」

50席以上の艦船が埠頭に錨を落とし、休んでいる、
典型的な戦前の真珠湾の写真です。

この写真の港中央に見えているのがフォードアイランドで、
ここには戦艦が島の左側に並んで係留されていました。

陸軍の航空基地であるヒッカム飛行場は、この写真の
メインの海岸線に沿って画面の外に行ったところにあります。

映画「ファイナルカウントダウン」で有名になった(かもしれない)写真。

何かのはずみで何の必然性もないのに真珠湾攻撃の日にタイムスリップした空母が、
そのまま普通に現代に帰ってきてバタフライエフェクト起こしまくる怪作でしたね。

なんかわからんけど偵察機を出したら偵察員が撮ってきたという設定の写真がこれで、
なわけあるかーい!とツッコミがいのある映画でした(遠い目)

 

この写真が歴史的なのは、真珠湾攻撃のその日、
攻撃をしている日本軍の航空機から撮られたものだからです。

画面奥には炎上するヒッカムフィールドが確認できます。
そして7隻の戦艦がフォード島沿岸に沿って係留されているのが見えます。

"AIR RAID PEARL HARBOR-THIS IS NO DRILL"
(パールハーバーは爆撃を受けているーこれは訓練にあらず)

真珠湾に爆弾が落とされると同時にこのメッセージは全ての部隊に発せられました。
これらの写真は米国太平洋戦艦部隊のほぼ完全な壊滅を劇的に示しています。

時代の終わり

パールハーバーの悲劇から最も逃げるべきであった戦闘艦は、
つまり敵の第一目標である三隻の空母だったということになりますが、
「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊航空隊を輸送して帰還中、
「レキシントン」は偵察爆撃機をミッドウェイに届けてやはり帰還中、
そして
「サラトガ」は本国の西海岸にいたため三隻共に無事でした。

たった二隻を残してほぼ全部が何らかの損害を受けたのが戦艦群でした。
(その二隻とは『アリゾナ』と『オクラホマ』)
彼女らは最終的に戦争が終わるまでに全部艦隊に戻ることができたとはいえ、
真珠湾は、空母が海上での戦争で主力艦として戦艦に取って代わるきっかけでした。

物理的にも、そして相手から得た戦略的教訓としても。

U.S.S. 「カリフォルニア」

五発の魚雷を撃ち込まれた「カリフォルニア」はゆっくり泥中に着底します。
写真の一番右に「オクラホマ」の艦隊が微かに確認できますが。
この艦は横転しマストが泥中に突き刺さるように沈没し、
415名の乗員が亡くなりました。

U.S.S 「ウェストバージニア」

「ウェストバージニア」から立ち昇る黒煙、そしてボート。
この写真で見ると、ボートのエンジンは白波を立てており、

今から「ウェストバージニア」に向かうのであろうことがわかります。

半ダースの魚雷が撃ち込まれ、そのうち二本が命中して炎の中海底に沈み、
艦内では105名の乗員が亡くなりました。

 U.S.S 「ネバダ」

「ネバダ」はフォード島に単独で係留されていました。

他の7隻の戦艦が攻撃を受けている間、「ネバダ」にも魚雷が命中し、
航空爆弾も二発うけたにもかかわらず、
どうにか始動することができました。

ネバダの航行ルート

「ネバダ」は湾を出ようとしている間に爆弾を受けましたが、
入江で沈没し湾を塞いでしまうことを懸念し、

ホスピタル・ポイントで自力で座礁して沈没を回避し、
タグボートによってワイピオ・ポイントに再度座礁しています。

「ネバダ」の乗員は50名が死亡し、109名が負傷しました。

 

航空基地

オアフ航空基地

真珠湾の艦船が実に「システマティックに」破壊されていく間、
オアフの航空基地もまた攻撃下にありました。

このOS2U偵察機はフォード島の航空基地で破壊された
海軍と海兵隊の数多くの航空機のひとつにすぎません。

オアフ島の北側にあるカネオヘ湾と、パールハーバー近くのエワでも
爆撃などに遭い多くの航空機が発進できなかったり壊されたりしました。


■ 日本軍機模型

三菱 A6M3 零式艦上戦闘機”ジーク”

さすがはスミソニアン、あの世紀の迷作、マイケル・ベイの「パールハーバー」には
緑で塗装した後期の零戦が、この20型と混じって仲良く飛んでいましたが、
模型は真珠湾コーナーであることもあって当時のバージョンです。(当たり前か)

あれは映画撮影時、アメリカ国内に現存する可動機を動員し、
実際に飛ばせることに拘ったためあんなことになってしまったようですね。

今ならCGでどうとでもなるので、お金をわざわざ払ってこんなを犯す監督はいません。

中島 B5N2 九七式艦上攻撃機 ”ケイト”(左)

真珠湾攻撃の時日本軍機にも迎撃された艦載機があったわけですが、
第二波でもっとも損害が多かったのがこの九七式でした。

水平爆撃を行うというその攻撃特性上、低空飛行で比較的速度が遅く、
大きな機体であるため地上からの砲撃を受けやすかったのです。

特に未帰還機が多かったのは第二波攻撃陣でした。

中島一式戦闘機キ431 隼 ”オスカー”(右)

「♫は〜やぶ〜さ〜は〜ゆ〜く〜」

という歌でも有名(名曲だよね)ですが、この戦闘機を有名にしたのは
「隼」という愛称が一助を担っていたことはまちがいありません。(と思う)


最初単に「一式戦闘機」という名称だった戦闘機に、

敵連合軍の「バッファロー」や「ハリケーン」のようなニックネームが欲しい、
という声を受け、陸軍航空本部発表の正式な愛称として
一式戦は「隼」と命名(発案者は陸軍航空本部報道官西原勝少佐)、
太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には
「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。Wiki

名前って大事(確信)

三菱 G4M1 一式陸上攻撃機 ”ベティ”

海軍の主力攻撃機となった一式陸攻です。
急降下爆撃を行えるものを「爆撃機」、そして水平爆撃を行うものを
「攻撃機」といい、これは日本軍同時のカテゴライズでした。

爆撃機の搭乗員は気質が荒っぽく、攻撃機は紳士的、などという傾向を
海学徒士官出身の映画監督、松林宗恵氏が対談で語っていましたっけ。

愛知 E13A1 零式水上偵察機”ジェイク”

略して「零水」は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に偵察の要して開発され、
基地にも配備されて艦隊や外地の基地の目として盛んに活動しました。

大戦の序盤はそれなりの成果を納めていましたが、昭和18年以降は
「下駄」と呼ばれたフロートによる速度不足・加速力不足のため、
敵のターゲットとなり情報活動が不可能になっていきました。

川崎二式複座戦闘機 キ45改 屠龍 ”ニック”

「屠龍」といえば想起するのが本土防衛におけるB-29との戦闘です。
巨大な竜つまりB-29を屠る、というその名前も鮮烈なイメージ。

 

■Aftermath(余波)

午前10時までに、最後の日本の攻撃隊は海上で待機中の空母に向かって航行し、
4隻の戦艦が沈没または撃破、4隻が沈没、3隻が駆逐艦が沈没、
2隻の巡洋艦が深刻な被害を受け、
いくつかの小型艦艇と補助艦が被害を受けました。

そして2008名の海軍関係者を含む合計2403人のアメリカ人が犠牲になりました。
(なんだかんだ一般人多かったんですね)

しかし、真珠湾の修理施設、石油タンクを破壊できなかったのは
日本軍の大きな誤算となりました。
そして、このことは米海軍の早急な回復の主要な要因となったのです。

さて、というわけで真珠湾攻撃コーナーがおわりました。

となると次は当然・・・・・?
そう、あれですよあれ。

ミッドウェイ海戦です。

 

続く。

 

 


真珠湾攻撃と空母〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-19 | 海軍

スミソニアン博物館の空母展示、館内に艦内を再現し、
パイロットのレディルームを再現しただけではありません。

ちょっとした「空母の歴史コーナー」が展開されていました。

 

■ 史上初の軍艦での離着艦

このブログでも何度か取り上げたことのある、
ユージーン・イーリー(Eugene Ely)USS「ペンシルバニア」に着艦した瞬間です。

Eugene Ely and the Birth of Naval Aviation—January 18, 1911 | National Air  and Space Museum

自動車のセールスマンだったイーリーが歴史に残る飛行家になったのは、
たまたま彼が飛行機の操縦を始めた時期にカーティスに出会い、さらに
海軍の初期の軍事的野望をかなえる計画の段階に関わったからといえます。

最初の実験は軍艦からの離艦でした。
カーティス・プッシャーというこの飛行機をの写真を見ると、
よくもこんなもので空を飛ぶ気になるなというくらいデンジャラスです。

しかもパイロットの服装がスーツに革靴、身を守るものが
上半身に巻いた自転車のチューブと皮のゴーグルっていうね。

Eugene Ely Taking Off From Uss Pennsylvania Photograph by Us Navy/science  Photo Library

USS「バーミンガム」で行われた史上最初の航空機離艦実験の瞬間です。
ランディングする甲板が下向きになっているのはツッコミどころ?

これじゃ飛行機は普通落ちますよね。

と思ったらこの後想像通りカーティス・プッシャーは下降し、
車輪が海面に取られてイリーは水浸しになりながらなんとか海岸に着陸しました。

しかし、これが記録としては史上初の発艦ということになりました。

San Bruno and the birthplace of naval aviation | Local News |  smdailyjournal.com

発艦が完璧なものではなかったにもかかわらず、海軍は
今度はさらに難問である着艦に挑戦することになりました。

「ペンシルバニア」の甲板には、着艦ロープが何本も
砂袋に繋げられて飛行機の制動を止めるために設置されています。

飛行機の機体にフックをつけ、甲板のロープをひっかけて止める、
という着艦のセオリーはこの時に生まれ、現在も変わっていません。
カーティス・プッシャーもホーネットも、理論としては同じ方法で着艦しているのです。

これが1911年1月のことです。

Eugene Ely

わずか9ヶ月後、「死ぬまで飛び続ける」と豪語したイーリーは
その言葉通りUSS「メーコン」からの着艦エキジビジョンの際、
機体が着艦失敗して海に落ちる前に甲板に飛び降り、首の骨を折って死亡しました。

「観客は記念品を求めて残骸に群がり、手袋や帽子を綺麗に持ち去った」

という嫌な逸話が残されていますが、彼の手袋と帽子は
おそらく彼とともに甲板にあったものだと思うし、
この写真によると皆残骸を遠巻きにして眺めていますよね。

「手袋と帽子を持ち去った」

のは、甲板にいた人のような気がするのですが、まあどうでもいいか。

■ 最初の空母

空母「ラングレー」USS Langrey CV−1 1922

と写真を出したところでなんですが、「ラングレー」は実は
アメリカ海軍最初の航空母艦ではありません。

実は石炭輸送船を改造した「ジュピター」が最初となります。
全長165mで排水量1万1千トン、航空機の格納とマシンショップのために
十分なスペースがあるとされていました。

その後ノーフォーク海軍工廠でフライトデッキや艦載機エレベーターに
様々な改装が試みられたすえ、USS「ラングレー」が1922年に誕生しました。
「ラングレー」の名前は、偉大な天文学者であり、第三代スミソニアン協会会長
サミュエル・P・ラングレーに敬意を表して付けられました。

就役後何年にもわたって「ラングレー」は、初期の海軍航空の基礎、
戦略やその組織を含む体制づくりに大きな成果を残しました。

1937年にはUSS「テンダー」(航空輸送艦)に改造されて就役していましたが、
1942年2月27日、ジャワで陸軍の飛行機を輸送中日本軍の攻撃によって沈没しています。

空母「レンジャー」USS Ranger CV-4 1934

1920年代の終わり頃、アメリカ海軍は「ラングレー」、「レキシントン」
そして「サラトガ」の三隻を保有していました。
その3隻の運用経験は初めて空母として起工されることになる
次世代の空母USS「レンジャー」に生かされることになります。

1934年の6月4日に命名が行われた「レンジャー」は、わずか1万4千500トン、
最高速度は時速55kmで、米国で最も遅い「艦隊」空母という特徴?がありました。

排気は、飛行中に水平位置にスイングできる6本の煙突(3本は横)
によって払われるという仕組みになっています。

実際のところ「レンジャー」の低速、装備兵器の少なさ、そして限られた武器庫などは、
彼女が太平洋の戦線にでることに向いていたとはとても言えませんでした。

しかしながら、彼女は第二次世界大戦に突入した1942年、大西洋艦隊にあって
北アメリカで効果的に戦い、さらにアメリカ軍の侵攻作戦をサポートし、
戦争期間、最後は練習艦として任務を全うしました。

 

■ 開戦時の空母事情

 

最初の空母は1917年から1920年半ばまでに装備されましたが、
アメリカにおける初期のそれらは巡洋艦や商船、補助艦などを改造したものでした。

この期間、大英帝国ではH.M.S「ハーメス」が最初の空母として建造されています。

1922年のワシントン会議の結果、当時の海軍保有国はいずれも
戦艦と巡洋艦から改造された第二世代の空母を保有することになります。
その時点で米国、英国、日本に2隻、フランスに1隻、つまり
世界には7隻の空母が存在していました。

そしてそれらの中でも当時空母「レキシントン」「サラトガ」は、世界でも最大、
かつ最強の軍艦とされていました。

USS Lexington (CV-2) leaving San Diego on 14 October 1941 (80-G-416362).jpg

空母 レキシントン USS Lexinton  CV-2

USS Saratoga(CV-3)

空母「サラトガ」USS Saratoga CV-3 a.k.a "Sara-maru"

 

1930年代になると艦載機のオペレーションを最初から目的として建造された
空母第三世代が登場します。

しかし英国は1939年から1941年、といっても特に1941年の12月までに
10隻の空母を敵との交戦によって失うことになり、
アメリカが戦争を始めた頃の空母保有数は、

日本ー9隻
英国ー8隻
アメリカー7隻

という状態でした。

 

ここにモニターがあっていきなり日の丸が現れたので、
おお!と注目してしまいました。

ここで放映されていたフィルムは、当時の3主要海軍が
1941年12月7日当時運用していた空母を紹介しています。

フィルムで紹介されていたのは「翔鶴」に続き、

「瑞鳳」

しかしこうして漢字で表す日本の軍艦の名前って、なんて美しいんでしょうか。

わたくしごとですが、MKの名前にはこの時代の空母に使われている
ある漢字が含まれていて、このことをわたしはすごく気に入っています。
(本人はそうでもないらしいけど)

■ 真珠湾攻撃当時における日米主要人物

空母というものの歴史を語ろうとすれば、日本海軍について触れないわけにいきません。
この分野で日本は先陣を切り、当時は先に進んでいたということもできます。

帝国海軍聯合艦隊司令 山本五十六

まずはご丁寧に人物紹介から始まりました。
あくまでスミソニアンによる解説をとご理解ください。

真珠湾を奇襲するという計画は、海軍航空隊の組織と管理に精通した、
海軍航空隊の確固たる支持者である山本提督の発案でした。

山本は、その少し前である1940年、イギリス艦隊がタロントにおいて
イタリア艦隊を攻撃し成功したのからこの攻撃の着想を得ています。

彼はアメリカの工業力と戦争遂行のための潜在能力を知悉しており、
敬意も抱いていたことから、開戦には当初反対の立場でした。

山本元帥は1943年4月18日、ソロモン諸島上空で乗っていた航空機が
ガダルカナルのヘンダーソン基地から飛び立ったP-38戦闘機に撃墜され、
戦死しています。

淵田美津雄帝国海軍少佐

淵田少佐は第一艦隊の空母航空隊の指揮官であり、真珠湾攻撃の第一陣となる
183機の艦載機を率いて飛びました。

淵田は1924年海軍兵学校を卒業し、この攻撃までに

飛行時間は3000時間に達したベテランでした。

この奇襲攻撃に際して淵田が発したドラマティックな通信文は

「トラ・トラ・トラ(Tiger...Tiger...Tiger)」

でした。

淵田はこの攻撃で得た栄達とともに戦争中海軍に仕え、

終戦の時には大佐とし海軍総隊兼連合艦隊航空参謀となっていました。


あの、「トラ・トラ・トラ」って、タイガーのことじゃないんですが・・。

あれはハワイ奇襲攻撃作戦の間だけ使用する通信略語として、
「ト」の次に「ム・ラ・サ・キ」(紫)をつけて作った

「トム」「トラ」「トサ」「トキ」

の四つの略語のうちの「トラ」に、たまたま「奇襲成功」の意味が当てはめられただけで、
実際には深い意味はなかったっていうじゃありませんか。


淵田大佐はああいう人なので()自分の干支が寅ということから
こいつは縁起がいいわいと普通に喜んでいたそうですが、

これが、

「トサ・トサ・トサ」

「トキ・トキ・トキ」

になる可能性だってなきにしもあらずだったわけです。
もし

「トム・トム・トム」

だったらアメリカ軍は、これはアメリカ人を表すよくある名前の連呼、
つまり『アメリカ人をやっつけろという意味』だとか言ってたかもしれません。

しらんけど。

南雲忠一帝国海軍中将 第一航空艦隊指揮官

真珠湾攻撃の機動部隊を指揮しました。
南雲は水上艦勤務が長く、巡洋艦、戦艦、駆逐艦艦長の経験を積み
艦乗りとして高く評価されてきた指揮官でした。

彼は大成功となった真珠湾攻撃に続き、インド洋と太平洋南西における
連合国への空母攻撃を成功させました。

南雲提督は最終的に中部太平洋方面艦隊司令長官として
1944年8月、サイパン攻撃の際洞窟において自決しました。




続く。

 

 


空母着艦にまつわる色々〜スミソニアン航空宇宙博物館・空母展示

2021-03-17 | 航空機

USS「スミソニアン」CVMという架空の空母のハンガーデッキを
そのまま再現したスミソニアン博物館の空母航空コーナーは、
もちろんそこで終わりではありません。

ハンガーデッキから隣の区画に抜けていくと現れるのが
艦載機パイロットの控室である「レディルーム」です。

まず「レディルームとは」という解説を見てみましょう。

空母の各スコードロン(squadron飛行大隊、英国では飛行中隊)は
レディルームにアサインされます。
レディルームとは、家庭のリビングルームのおよそ2倍のサイズです。

アメリカ家庭のリビングルームの2倍ということは、日本の家屋における
リビングルームとは比べ物にならないくらい広い、と考えられます(笑)

リビングルームに喩えたのは、ここが故郷を離れてやってきた
飛行大隊フライトクルーの「ホーム」でもあるからです。
「オフィス」があり、教室があり、映画館があり、リビングルームもあり・・。

バルクヘッド(壁)には掲示板、地図、ポスター、ブリーフィングガイド、
気象情報とナビゲーション情報を流すモニター、フライトデッキのモニターで埋め尽くされ、
テレビはネットワークが届かない状態でも放映することのできる番組を流しています。

 

また、空母艦載機パイロットというのは、着艦ごとに
「成績」をつけられるということがわかりました。

「ファイナル・グレード」

パイロットの空母着艦の際のアプローチが上手いかどうかは
ナンバー3のワイヤーを捉えることができるかで判断します。

全部で4本あるワイヤの4番目に引っかかるなら、それは
おそらく「高すぎ」「速過ぎ」を意味し、もしナンバー1、2なら
機体の侵入速度は「低過ぎ」「遅過ぎ」るということなのです。

LSOと呼ばれる信号員は、全てのアプローチに対し評価グレードをつけ、
各パイロットの個人成績としてその記録は残されます。

次に挙げるのは典型的なLSOのアプローチに対するコメントです。
これらのコメントはすべて略語(short hand)でログブックに書きつけられます。

「オーケイアプローチ、コメントなし、3ワイヤー」=OK3

「アプローチ失敗、Settle in the middle, Flat in close,4ワイヤー」
OK SIM FIC4

「グレードなし、 Not Enough attitude in close1ワイヤー」
NEATTIC SAR1

真ん中のは「可」でしょうか。
最後のは最終アプローチで高度が低過ぎたため、最初のワイヤーにひっかけても
グレードなし、つまり失格というやつです。
これがが続けば残念ながらパイロット適性なしとして勤務を外されます。

非情なのではなく、命に関わっているからこその措置です。

ロックコンサートのフィナーレでマイクを高く掲げているのではありません。
お仕事中のLSO、The Landing Signal Officerです。

もし着艦の体勢が正しくないときには、「ウェイブオフ」が命令され、
そうすればパイロットは決して着艦することはできません。
もう一回やりなおしです。

 

ちなみにログブックの略語のいくつかを書き出しておきます。

OK パーフェクトパス

OK 正しい判断による理由のある逸脱

(OK) 理由のある逸脱

_ 最低の方法だが一応安全にパス

C 危険、大幅な逸脱、離艦ポイントに侵入

B Bolter

ボルターとはワイヤーをキャッチできなかった場合です。
その場合をボルターといい、ボルターしてしまったらフルスロットルで加速し、
再アプローチをするためにもう一度発艦して一周回ってきます。

Photograph from behind a twin-engined jet fighter. The aircraft's wheels are on the surface, but the engines are still active, and a hook on the underside of the aircraft is in contact with the surface and trailing sparks

空母「ジョン・C・ステニス」のアレスターワイヤに接合失敗したAN F / A-18Cホーネットが
絶賛ボルター中で、機体の車輪は甲板にありますが、エンジンはまだアクティブであり、
機体の下側のフックが甲板に引きずられて火花が起こっています。

ボルターは「失敗」には数えられません。

ログブックの略語は、このほかに「LO=Low」「H=High」など基本から
「L-R=Left to Right」「NC=Nice Correction」(良い修正)など、
なかなかきめ細やかにいろいろとあります。

LSOとパイロットたちは、この略語を隠語として日常生活に使用していると思います。

「ラインアップ」Line Up

フライトデッキにノーズを向ける最終進入体勢をラインアップと言います。
侵入角度をここで調整し、「ミートボール」を見ます。

空母着艦の際に「ミートボール」と呼ばれる機器が活躍することについては
当ブログでも何度かお話ししていますが、ここにも出てきたのでまた説明します。

ファイナルアプローチに入るとパイロットは「ミートボール」を見ます。
ボールとは垂直のフレネルレンズ上に見えているのライトのことで、
もしグライドパス上にいればボールは二つの水平の緑のライトと並んで見えます。
もしグライドパスより高いと、ボールは緑のライトの上に見えるので、そのときは
操縦桿をすぐさま下降に動かすと、ボールも下に見えるはずです。
ボールが下に行ったらあとは簡単、そのまま降下するだけです。

「スムーズに操縦桿を動かさなければクラッシュしてしまい、
あなたはもうおしまいです!
操縦桿さえちゃんと動かせば朝飯前です!( a piece of cake!)」

「エアスピード」Airspeed

近代空母搭載の航空機は着艦の速度調整はパイロットが行うことも、
コンピュータで行うこともできます。
この時にはラインアップとミートボールに集中します。

画質が荒いのでわかりにくいですが、パイロット視線で
いまから着艦をするという設定です。

横のレンズはほぼ一列に並んで見えます。

フレネルレンズ使用によって暗い日でも着艦し易くなりました。

 

 

「トラップ」A TRAP

着艦成功のことを「トラップ」と呼びます。

航空機がデッキにタッチすると同時にパイロットはスロットルをフルパワーポジションに入れます。
もしテイルフックが4本あるロープのどれかに引っかかれば、パイロットは
すぐさまパワーを減速させ、エンジンをアイドリング状態にして自然に機体が止まるようにします。


しかし、フックを引っ掛けることができなかったときには、
先ほど説明した「ボルター」となり、パイロットはフルパワーのまま離艦します。

ただし、このボルターが行われるのは昼間だけで、夜間、嵐の日、
あるいは燃料がないなどのときには行われません。

じゃ失敗しそうな夜間や暗い日はどうやって着艦するのか、って?
ご安心ください。その時にはコンピュータが全てを終わらせてくれます。

しかし基本着艦はパイロットの操縦によって行われます。
全てをコンピュータで行わないわけはおわかりですね?

艦載機飛行隊の部隊章のいろいろ。
真ん中の虎のマークの「ATCRON」ですが、

ATTACK SQUADRON

の造語だろうと思われます。
VA65「Tiger」飛行部隊は、スカイレイダーからイントルーダー部隊となり、
1993年に解散した飛行部隊です。

トランプマークの

ブラックエイセス第41戦闘攻撃飛行隊(Strike Fighter Squadron Forty one)

はアメリカ海軍の戦闘攻撃飛行隊1948年に一旦解隊したあと1950年に再発足しました。
別のコーナーに第41飛行隊の歴史スナップがありました。

1953−1959 マクドネル F2H-4 バンシー

1959ー1962 マクドネルF3H -2 デーモン

1962-1976 マクドネル・ダグラス F-4ファントムII

1976-現在 グラマン F-14 トムキャット

はて、トムキャットっていくらなんでも現役だったっけ?
とさすがのわたしもふと気がついて調べてみたら、やっぱりF-14は
アメリカ海軍からは2006年にはもう引退していました。

スミソニアンともあろうものが、データを書き換えるのを忘れていたと見えます。

ブラックエイセスは現在F/A-18Fスーパーホーネット部隊としてアクティブです。

 

このレディルームは第14戦闘飛行大隊(VF-14)、第41戦闘飛行大隊(VF-41)
どちらも空母USS「ジョン・F・ケネディ」に配属されていた第8飛行隊
実際に使用していたものです。

緑のユニフォームを着ているのはCPO。
CPOと向かい合って立っているおじさんは本物の人間です。

パイロットたちの「着艦成績表」は常に貼り出されます。

=OK、黄色=普通、茶色=グレードなし、=やり直し

となるので、「ルーキー」「スライ」はできる子、「スラマー」はできない子です。

成績優秀者は名前が「トップ・フッカーズ」(トップひっかけ人)として貼り出されます。

「セオドア・ルーズベルト」第71飛行隊の飛行計画書。

「フォッド・ウォークダウン」は飛行甲板のゴミ拾いです(大事)

フライトクルーの記念写真。
髪型と髭率の多さから、70年代の写真かと思われ。

説明がなかったんですが、この上の赤い付きの飛行機、なんだと思います?

 

続く。

 

 

 


原子力空母「エンタープライズ」100分の1模型〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の空母ハンガーデッキを模した
CVS「スミソニアン」の一隅には、巨大なシップモデルが展示されています。

 

どんな状態かというとこんな感じ。
レシプロ戦闘機ワイルドキャットの下に備えられた
ライト内蔵の巨大なケースの中にそれはあります。

空母の100分の1スケールの模型というのは圧巻です。
模型ファンならずともこの迫力には皆等しく目を見張る迫力でした。

模型ケースの端に展示されているこの盾には

この展示のメンテナンスの一部は、
USS ENTERPRISE CVN-65ASSOCIATION
によって資金提供されています。

「We are Legend」(1961-2017)

と記されています。

本家のエンタープライズアソシエーションと関係がある、
と誇らしく表明しているわけですね。

エンタープライズが就役していたのは1961年から2012年。
その名前を受け継ぐ艦は8隻目ではありますが、
原子力空母としては世界初となります。


バウデッキ左舷側にはブライドル・レトリーバーが二本突き出しています。
このブライダル・レトリーバーについては「ミッドウェイ」のログで
詳しくお話ししたことがあります。

”MAN OVERBOARD!"(人が落ちた!)〜空母「ミッドウェイ」博物館

この甲板左舷部分に駐機してある艦載機はおそらくA-7コルセアIIでしょう。
ということは模型で再現されているのはベトナム戦争時代と見ていいかと思います。

この頃はカタパルトによる射出の際、シャトルと航空機の主翼基部や胴体とを連結する
「ブライドル」「ブライドル・ワイヤー」を使っていましたが、
「エンタープライズ」の長い歴史上、特に最後の方では
このシステムは不要となり、この部分も必要が無くなったはずなのですが、
どんな時代の写真にもこれが付いているんですね。

甲板を改装することでもあれば無くしてしまったのかもしれませんが、
ブライドル射出式の名残りとして機能しなくなったあとも
あえてシンボルのように残しておいたのかもしれません。

それに、実際にあそこに立ったことのある人間として言わせてもらうと、
なかなか開放感があって他では味わえない眺めなんですよね。

軍艦は「ミッドウェイ」のように柵を立てないので尚更でしょう。

どうやら今から
偵察機Northrop Grumman E-2「ホークアイ」 Hawkeye
が発艦するところのようです。


よく見ると人の動きも非常に細部まで表現されており、
走っている緑シャツ、向こうのクルセイダーの横の赤シャツが
この場面に躍動感を与えています。

ここだけ見ていると、カタパルトがもう立ち上がっているので、
ホークアイのプロペラが回っているように思えてきます。

ブリッジの後方デッキにも航空機が満載です。 
ちなみにこの甲板の航空機の現在地を統括する係が
飛行機の形のマグネットを貼り付けていくボードのことを
西洋版コックリさんを意味する「ウィジャボードOui-ja board」
という、という話は一度書いたことがあります。

最後尾に並べられているのはヘリコプター。
シースプライト、という名称が思い浮かびましたが、
自信がないので思い浮かべただけにしておきます。

艦載機エレベーターに1翼を畳んで乗っているのは、
可変翼機といえばこれしかない、グラマンのF-14トムキャットに違いありません。

そして左はRA-5ビジランティ・・・・かな?

ところで、ハンガーデッキにも何やら機影が見えるではないですか。

ほおおおおお〜〜〜〜〜!

さすがスミソニアン、こんなところにも決して手を抜かないね。
この写真はスミソニアンHPから許可される使用条件でダウンロードしたものです。

こちらで運んでいるのはA-6イントルーダー、それともプラウラー?

ハンガーデッキの中のイントルーダーさん。

この展示コーナーで最初に目撃したインテリパパの二人の息子も
この模型を前に気色満面というやつです。
男の子の模型(あるいは飛行機、船)好きってもうこの頃にはすっかり萌芽しているのね。

絶賛ポリコレ文化革命中のアメリカでは、おもちゃ売り場での
「男の子用おもちゃ」「女の子用おもちゃ」のコーナーをなくせとか
アホなことを言い出しているそうですが、自分たちの小さい時とか、
あるいは自分の子供たちが、誰もそのように仕込まないのに、
彼あるいは彼女が、赤ちゃんの時から男の子は乗り物、女の子は
ぬいぐるみや人形に手を伸ばすのをどう思っているんでしょうか。

って全く関係なかったですね。<(_ _)>

画面手前後ろ向きに駐機されているのもビジランティではないかと思われます。

甲板の上にいるヘリはCH-46ーキング、そしてその後ろは
ボーイングのバートルV-107ではないかと思われます。

どちらも「ミッドウェイ」博物館で実物を見ることができました。

この辺(甲板後部)はトムキャットの巣になっております。

ハンガーデッキにもトムキャットが。

翼を立てた状態なのでこれはクルセイダーでしょうか。

こうやって航空機を紹介していくと、この艦載模型が
ベトナム戦争当時のステイタスに基づいているのがよくわかります。

スミソニアンのHPで答え合わせしたところ、この模型は
1975年当時の艦と艦載機の構成を再現しているということでした。

模型製作者はステファン・ヘニンガーStephen Henninger 氏。
アメリカでも有名なシップモデラーだそうです。

2016年になって従来のライトをLEDに取り換える作業が行われました。

ヘニンガー氏が
ハンガーデッキの内部にアクセスしやすくするため、
後部右舷の艦載機エレベーターを取り外す作業をしているところです。

完成した頃はお若かったはずのヘニンガー氏も、今や立派なおじいちゃん。
しかし、作業中のこの気色満面の様子を見よ。

 

ヘニンガー氏は、数学の学士号を取得しており、最近、大手航空宇宙企業の
技術スペシャリストとしてのキャリアを退職したという人です。

つまり元々模型製作は本職ではなく「趣味」であったということになりますが、
引退してからは個人や企業向けのヨットやクルーズ船の模型制作をしているそうです。

彼は兼ねてから空母に興味を持ち、機会があれば模型を作ってみたいと
切望していたこともあり、スミソニアン博物館の、

USS「エンタープライズ」の1:100スケールモデルを制作する
12年間にわたるプロジェクトを引き受けたということです。

85機の航空機を搭載したこの11フィートのモデルは、1982年に完成しています。

ということは、計画が起こったのは1960年代。
「エンタープライズ」就役間もない頃だったということになります。


計画が立ち上がった頃には最新式の空母だったのが、
模型を作っている間にそうではなくなっていたということですね。

素材はプラスチックのボード、アルミニウムのシート、ポリエチレン、
真鍮とアルミニウムのチューブ、木(バルサ)、ソフトワイヤ、ベニヤ合板など。

接着のために飯田、スーパーグルー、エポキシ、そしてプラスティックセメントが使われています。

A-7コルセアII、A-6イントルーダー、SH-3シーキング、CHー46シーナイト、
A-4スカイホーク(あれ?どこにいたんだろ)F-14トムキャット

などが艦載機として制作されました。

E-2ホークアイとRAー5ビジランティスクラッチビルドといって、
プラモデルのように組み立てキットで作るのではなく、各種材料を用いて
ゼロから制作、つまり文字通り素材から削り出して作られています。

一方、EA-6B プラウラー(うろうろする人の意味)はイントルーダーのキットを
大幅に変更して制作されました。

これら航空機の製作には全部で4000時間費やされたそうです。
航空機だけに1日10時間かけたとして・・・のべ400日!

うーん・・・気が遠くなりそうです。

完成までの模型製作の歴史

● 1970年11月、ヴァーモント州のナサ・ワロップス島で模型考案

●  1971年1月〜7月ペルーにて断面図制作

●  1972年−1975年、南アフリカのヨハネスブルグにて、ハル構造の図面化

●  マサチューセッツ州アーリントンで(わたし昔住んでましたここに艦体と航空機の製作

●  1976年コロラド州に完成したプロジェクトがUホールで運搬される

●  1982年5月26日、プロジェクト開始から11年後、艦載航空機82機が全て完成

●  1980年、二つのパーツに分けて制作された艦体が接続される

●  1982年、ハンガーデッキが接続され細部の調整と仕上げを行う

●  プロジェクト完成 1982年8月

 

 

続く。


CVMスミソニアンの艦載機〜スカイホークと慈善家になったパイロット

2021-03-13 | 航空機

 

空母のハンガーデッキを再現し、海軍長官に正式に就役を認証された
CVM(MはmuseumのM)「スミソニアン」

こうして全体を写してみると、じつに空母です。
ニューヨークの「イントレピッド」、サンディエゴの「ミッドウェイ」の経験者には

この写真がどこかの博物館空母の中といわれても何の違和感も感じられません。

素材に本物の空母の内装をちょっとずつ持ってきて組み立てたわけですから、
本物っぽくて当然なのですが。

 

しかし、このとき、どうしてこの二階のデッキ部分に上がらなかったのか、
いまでも悔やまれて仕方がありません。
二階に上がれば、もっと本物の空母らしさを味わえたと思うのですが・・。

以前なら、また行くことがあったら次は必ず、と思えましたが、
今のこの状態では、それもいつになることやら全く予想もつきません。

まあ、このときもこれを見て十分おどろいていたんですけどね。
「本物の空母の床」です。

実際に空母(自衛隊のヘリ搭載型護衛艦含む)に乗ったことがある方なら、きっと
デッキの床に写真に見えているような膠着装置をごらんになったことがあるでしょう。



まず、この床はさすがに「どこかの空母から剥がしてきたもの」ではなく、
空母や軍艦の施工を請け負っている、

American Abrasive Metals Co.

という会社が現場に再現したもの、とあります。

会社自体は小さな規模らしく、wikiすらありませんでしたが、
社名のabrasiveというのは「研磨剤」という意味なので、
研磨することでノンスキッドの床を作る専門の企業なのでしょう。

ノンスキッド(滑り止め)デッキ表面

この床部分はアメリカ海軍の空母のハンガーデッキとフライトデッキ、
つまり航空機が収納され、そして移動するノンスキッド仕様となっています。

これは、特に雨天時に航空機や人が行き来するデッキで、
防滑性を保持する軽量の滑り止めコーティングという
アメリカ海軍の要求を満たすため、1940年に最初に開発されました。

コーティングは、エポキシ樹脂と骨材(コンクリートや
アスファルト混合物を作る際に用いられる材料のこと)でできています。

素材はデッキ表面に施され、硬化して堅いコーティングとなりますが、
同時に、研磨剤としての骨材が樹脂基盤の上に突き出るようになって、
これが滑り止めとしての機能を保持するのです。

軍艦を見学したことのある人なら必ず見たことがあるはず。
溺者救助用担架ですね。

それと、皆普通に見逃していますが、115v アウトレット、
と書かれた左上の「艦内区画」を表す部分に

GALLARY DECK」(展示室デッキ)

と軍艦の中と同じような調子で書かれています。

また、担架の横の非常用の医療器具ケースですが、
拡大してよくよく見ると、留め金がありません。
本当に中に何か入っているわけではなさそうです。

電気のコードは本物で、ここから電源を取っているようです。

■ ダグラスA4D-2N / A-4Cスカイホーク SKYHAWK

ダグラスA-4スカイホークは、どんな場面にも使える軽攻撃爆撃機であり、
長年にわたってアメリカ海軍の第一線の航空機であったといっても過言ではありません。

比較的小さな機体のサイズにもかかわらず、多様な重量級の兵器運ぶことができます。

ベトナム戦争の期間を通じて、この名機は地上目標を攻撃する際の
「異常な正確さ」で知られていました。


さて、スカイホーク出現前の1950年代の初頭、傾向として戦闘機のシステムは
より複雑になり、その結果、機体の重量が増加していく傾向にありました。

ダグラス・エアクラフトカンパニーの航空機設計グループの一部は、
この傾向に懸念を抱くようになりました。

このグループを率いていたのが、あの天才エンジニアエド・ハイネマンです。

Ed Heinemann aircraft designer c1955.jpgいかにもハイネマン的な風貌

エド・ハイネマンの設計哲学、それは一言で言うと
「簡素化と軽量化」でした。

彼は、軽量、小型、空力的な洗練を追求すれば
そこにおのずと高性能が加わるという信念を持っていたのです。

というわけで、ハイネマンが率いるチームは、総重量が公式仕様重量の、
なんと約半分である30,000ポンド(14トン)の新しい攻撃機を提案しました。

海軍はこの設計を受け入れ、初期契約を結びました。
1952年6月のことです。

■ ハイネマンの”ホットロッド”

それではハイネマンは、どうやって機体の軽量化を実現したのでしょうか。

まず一つは翼の形態です。

この「空母スミソニアン」のハンガーデッキに展示されている、たとえば
グラマンのワイルドキャットのように、一般的なそれまでの艦載機は、
艦載機用のエレベーターに乗せるため翼が畳めなくてはなりませんでしたが、
スカイホークの翼はデルタ型で畳まなくてもエレベーターに載せられます。

翼の重量だけでなく、画期的だったのは、従来の爆弾倉を省略し、
外部兵装は翼の下のパイロンに吊って運ぶという仕様でした。

これで航空機の重量そのものが劇的に軽くなり、結果的には6.7トン、
この時点で海軍の要求の半分以下の重量となったわけです。

ほんっとうに近くからしか写真が撮れないので、全体像がわかりにくいのですが、
これがスカイホークが外部兵装をパイロンに吊下した状態です。

上を飛んでいるドーントレスとの翼の違いを比べてみてください。
パイロンに吊られた爆弾の上には「フライト前に外すこと」の赤いタグがあります。

A-4スカイホークは「ハイネマンのホットロッド」と呼ばれることもありました。
この話は前にもしたことがありますが、Hot Rod というのは1930年代に生まれた
アメリカのカスタムカーの一ジャンルです。

ホットロッド一例

アメリカ男性の「少年の夢」を叶えるともいえる手作りカー、ホットロッド。
このスカイホークも、軽量で工夫が効いている手作り感満載なところが、
ホットロッドに通じる「遊び心」を感じさせたのかもしれません。

知らんけど。

 

ホットロッドことスカイホークの初飛行は、1954年6月22日のことです。
最初のエンジン、カーチスライトJ65-W-2エンジンを積んだ最初のスカイホークは
1956年10月に海軍攻撃飛行隊VA-72に引き渡されました。

テスト飛行のプログラム中、テストパイロット、ゴードン・グレイ海軍大尉は、
500kmのコースをを時速695マイル(1120キロ)で跳び、世界最高速度を記録しました。

スカイホークは、この記録を保持した最初の攻撃機となりました。

スカイホーク試験飛行のときのグレイ大尉。

テストが終わった後、グレイ大尉を囲んで和気藹々のスカイホークチーム。
ハイネマンは・・・左のメガネの人かな?

 

次に開発されたスカイホークモデルはA4D-2(A-4B)で、機内給油
(レシーバーとタンカーの両方として)、動力付き舵、
およびいくつかの機能の構造強化が試みられました。

次の、1959年に最初に飛行したA4D-2N(A-4C)は、
機首にレーダーが組み込まれ、射出座席が改良されたものです。

さらに次のモデルであるA4D-5は、8,500ポンドの推力の
プラットアンドホイットニーJ52-P-2エンジンを搭載していました。
これは画期的な変化で、エンジンの低燃費性により、航続距離が約25%向上しました。

そして訓練機用にA-4E2席バージョンが設計されました。

ちなみにその次のA-4Fは、9,300ポンドの推力のJ52-P-8Aエンジンを使用し、
ゼロゼロ射出座席(ゼロ高度およびゼロ対気速度で安全な射出が可能)
のシステムと、コックピットの後ろの胴体のこぶの下に取り付けられた
新しい電子システムを備えていました。 

 

という具合に毎回性能向上を淡々と行なってきたスカイホークですが、
最初から備わっていた優秀な機能は、外部兵装種類を選ばないことでした。

初期のA-4は、爆弾、ミサイル、燃料タンク、ロケット、
そしてガンポッドを3つのステーションで合計で約5,000ポンド運ぶことができ、
その後のモデルでは、5つのステーションで8,200ポンドを搭載できました。

標準兵装は、2門の20mm機関銃です。

 

A-4は海軍と海兵隊によって広く使用され、東南アジアでの主要な戦闘に参加しました。
(おもにベトナム戦争ということですね)
海外ではアルゼンチン、オーストラリア、イスラエルなどでも使用されています。

スカイホークが使用されていたのは2003年までといいますから、
アメリカではF-4よりも長生きだったということになりますね。

ここで、機体のペイントにご注目ください。

展示してあるスミソニアン国立航空宇宙博物館のA-4Cスカイホークは、
1975年7月に海軍から譲渡されたものですが、移管の直前まで
USS「ボノム・リシャール」VA-76(海軍攻撃飛行隊)に割り当てられており、
それに敬意を表して、同じマーキングが施されています。


そういえば、サンフランシスコの「ホーネット」の見学の時、
案内してくれたボランティアのヴェテランが、元パイロットで、
ベトナム戦争時代に現役だったのですが
(現役の時はさぞかし、と思うくらいイケメンの爺ちゃんだった)
彼の着ていたボマージャケットに「ボノム・リシャール」のワッペンがあったので、
案内が終わってから、

「ボノム・リシャールに乗ってたんですか?」

と聞いたら、ちょっと、というかかなり驚いた顔をされたことを思い出しました。
(大抵のアメリカ人は『ボンホーム・リチャード』と発音するからだと思う)

このヴェテランも、確かスカイホークに乗っていたと言っていたような気が
(違っていたらすまん)するのですが、もしかしたらもしかして、
その人の乗ったことのある機体だったりしないかな。

ここに展示されているスカイホークが、「ボノム・リシャール」勤務時代、
1967年のベトナム沿岸で出撃するところです。

■ 慈善家となったワイルドキャットのパイロット

このハンガーデッキで紹介されていた一人のパイロットがいます。

ロバート・ウィリアム”ビル”・ダニエルズ(1920−2000)

アメリカ人パイロットであり、ケーブルテレビの創始者であり、
そして傑出した慈善家でもありました。

輸送パイロットとして彼はキャリアをスタートさせました。
写真はF8Fベアキャット戦闘機を輸送する任務のときのダニエルズです。

第二次世界大戦時、彼はグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機のパイロットとして
1942年には連合国の北アフリカ進攻作戦に参加、そして翌年には
ソロモン諸島での戦闘に加わりました。

そこで当展示室のワイルドキャットがすかさず登場。

 

空母「サンガモン」乗組の第26戦闘機隊の一員として
護衛任務にも就いたことがありました。

左の赤いリボンのものはブロンズスターメダル

これは、1944年11月25日、USS「イントレピッド」に、2機の
日本軍機が特攻を行った後、海面の乗員を救出したことに対する受賞です。

右の青いリボンはエア・メダル。
第二次世界大戦中
航空任務を遂行した勇気をたたえる意味で授けられました。

彼が第二次世界大戦中着用していたゴーグルとヘルメットです。

 

戦後、1953年にダニエルズは彼の最初のケーブルテレビ事業を起こし、
その後は
全米の100箇所以上の現場に自ら出向いて指揮を執りました。

戦前は無敗のゴールデングローブ・ボクシングチャンピオンであり、
スポーツ番組に焦点を当てた最初のケーブルテレビ起業家でもありました。

Bill Williams, University of Idaho boxer | Donald R. Theophilus Boxing  Photograph Collection

また全米バスケットボール協会の会長を務め、
ロスアンジェルス・レーカーズなどのチームを持っていました。

そして数え切れないほどの慈善寄付をした無私の人道主義者として知られています。
死後、彼の全財産は「ダニエルズ基金」として地域で最大の慈善財団になりました。

 

 

続く。

 


ウェーク島に戻ったワイルドキャットのカウル〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-11 | 航空機

博物館の一部に空母を再現した空母「スミソニアン」のハンガーデッキに
並べられた艦載機の紹介、続きと参ります。

まず冒頭写真は皆様ご存知の「ワイルドキャット」ですが、
その前に、一緒に写り込んでいる家族、特にお父さんの佇まいに
「いい意味でアメリカ人らしくない」オーセンティックさを感じますね。

 (8月のアメリカでTシャツ短パンビーサンプラス野球帽という
アメリカン・スターターセットを着用していない男性も珍しいという意味です)

息子二人の格好もその辺のガキじゃなくてキッズとは少し違うし、
どういう職業の人なんだろうなーと興味深く思いました。イギリス人かな。

 

さて、彼らが前に立っているのが、空母「スミソニアン」艦載機の

イースタン・ディヴィジョンEastern Division FM-1
(グラマンF4F-4)ワイルドキャットWildcat

です。
自慢ではありませんが、自称かなりの機体音痴であるわたしですら、
グラマンの「猫」であることがわかってしまうこの独特のシルエット。

このいかにも鈍重そうなずんぐりしたシルエットが表すように、
ルロイ・グラマンのF4Fワイルドキャットは、第二次世界大戦中の戦闘機で
最速というわけではありませんでしたし、もとより最新でもありませんでした。

しかし真珠湾攻撃が起こった時、ワイルドキャットのパイロットたちは
雄々しく立ち上がり(スミソニアンの説明ですので念のため)、ともに手を携えて
当時無敵であった帝国日本空軍
(スミソニアンの説明ですので念のため)
を阻止したのです。

 

さて、太平洋で戦争が勃発した頃、グラマンF4Fワイルドキャットは、
アメリカ海軍と海兵隊が運用する主要な戦闘機となっていました。

1942年までに、アメリカ海軍戦闘機のすべてががF4Fとなっていて、
ワイルドキャットのパイロットは、他のどの敵機よりも頻繁に

三菱A6M 零式艦上戦闘機 ZERO

を操縦する日本のパイロットと対峙することになりました。

スペック的に優れた零戦は、まともに対決するとF4Fを打ち負かすことができましたが、
ワイルドキャットの重火器と頑丈な構造は、熟練したパイロットによって
能力以上の結果を出すことができ、結局零戦に対し有利となったのです。


■ F4F ワイルドキャット誕生までの経緯

1930年代半ばまでに、世界のすべての主要なエアアームの複葉機が
高速で馬力のある単葉機に次々と置き換えられていきました。

グラマンのチーフデザイナーであるウィリアムT.シュウェンドラーが率いるチームは、
最初のグラマン単葉戦闘機XF4F-2を開発しました。

しかしグラマンの開発試験期間があまりに長期に渡ったので、
待ちきれなかった海軍は、
1936年に、アイミツではありませんが、ブリュースター(ブルースターとも)
エアロノーティカルと試作競争させ、こちらを採用することにしました。

つまり、アメリカ初の単葉戦闘機は、

F2Aバッファロー

ということになります。

ジョセフ・C・クリフトン少佐の搭乗するF2A-3 (1942年8月2日撮影)ど〜〜〜ん

こちらも猫に負けず劣らず不細工ですが、これがとにかく
アメリカ初の引き込み脚式の艦上戦闘機となったわけでございます。

バッファローは高い評価を得、ブリュースターはこれを張り切って生産し始めたのですが、
好事魔多し、画期的な全金属式の機体は、自社生産の経験がない同社には
生産ラインの構築と工員の養成に予想外に時間を取られることになり、
海軍が受注した数百機という生産をこなすには工場規模も小さすぎたのです。

半年で5機納入、というあまりにも悠長な進捗ぶりに海軍はキレて

「やっぱりグラマンに頼むわ#」

と掌返しをしたのです。

海軍は一旦切ったグラマンにグラマンF3Fの改良型を注文しました。

飛行するF3F-1 0232号機 (空母レンジャー艦載、 VF-4戦闘飛行隊所属、1939年撮影)ど〜〜〜〜〜ん
F3F

前にもご紹介した「フライングバレル」、空飛ぶ樽ですね。
この複葉戦闘機を作り替えて単葉にしてくれない?と海軍は頼んだわけです。

 

グラマンはXF4Fを作り直し、大幅に改良されたモデルを考案しました。
バッファローを凌ぐ性能を持つ戦闘機、それがF4Fワイルドキャットでした。

そして海軍はグラマンの設計を受け入れ、F4F戦闘機の契約を行いました。

 

何千機と大量に生産されたワイルドキャットは、米海軍と海兵隊、
そして当時軍用機を切実に必要としていたフランス空軍に配備されました。

のちにフランスが降伏したとき、イギリスがその生産契約を引き受けました。
F4Fはフランスではマートレット」と名付けられ、艦載機として使用されました。

File:Grumman F4F Martlet Wildcat Duxford 2008.JPG - Wikimedia Commonsマートレット

マートレットが初撃墜の記録を挙げたのは、1940年のクリスマスです。

当ブログ的にはすでにおなじみの名前、スコットランドのスキャパフロー上空で
マートレットはユンカースJu 88双発爆撃機を撃墜し、機体は英海軍基地に墜落しました。

これは第二次世界大戦でドイツ機を撃墜した最初の米国の航空機になりました。

 

■ ワイルドキャットのデビュー

1941年12月、太平洋。

アメリカ軍のワイルドキャットパイロットは、
ウェーク島防衛戦において敵と遭遇することになりました。

戦闘初日となった12月8日、海兵隊航空部隊はVMF-211は、空戦の末
12機のF4F-3ワイルドキャットのうち8機を失いました。

残りの4機は2週間もの間昼夜を問わず出撃を繰り返し、英雄的に戦い、
その結果、巡洋艦と潜水艦を100ポンドの爆弾で沈めるという戦果を上げましたが、
12月22日に最後のワイルドキャット2機は撃墜されました。

太平洋戦線において、ワイルドキャットの損失の割合は
この最初のウェーク島でのそれと同様ではありましたが、
このタフな戦闘機を操縦するパイロットたちは、1機が失われるたびに
平均7機の敵機を破壊することに成功しています。

F4Fは燃料タンクに漏れ防止機能を搭載している上、防弾ガラス仕様、
そして操縦席後部の防弾鋼板を装備していました。

その機体がどれだけ丈夫であったかは、Wikiに載っている
以下のエピソードにも表れています。

1942年8月7日、ガダルカナルにおいてジェームズ・サザーランドのF4Fは
日本軍機を1機撃墜後に一式陸攻からの攻撃で被弾。

さらに3機の零戦(柿本円次、羽藤一志、山崎市郎平)に攻撃され、
機銃が故障するも機体は墜落しなかった。

その後、坂井三郎も加勢に来たが、火災発生により脱出、生還して
パイロットとして復帰した後、4機撃墜してエース・パイロットとなった。

坂井三郎氏によると、零戦の7.7ミリ銃では頑丈な同機にほとんど効果がないため、
20ミリ(重さで弾道が下を向いてしまう)を当てるために近づいたが、結局
近づきすぎてオーバーシュートしてしまい、とどめを刺すことができなかったそうです。

 

1943年までに、グラマンは新しい海軍戦闘機、

飛行する米海軍のF6F-3 (第36戦闘飛行隊所属、1943年撮影)

F6Fヘルキャット

を導入する準備ができていましたが、海軍は依然としてF4Fを必要としていました。
小型で適度な重量があるため、護衛空母で運用するのに適していたのです。

世代交代が急がれ、ヘルキャットの生産スペースを確保するため、
グラマンはワイルドキャットの製造ツールと機器を、まるごと
ゼネラルモーターズの東部航空機部門に移管しました。

そこでGMは、FM-1FM-22つのバージョンを作成しています。

■ スミソニアンのワイルドキャット

国立航空宇宙博物館のワイルドキャットは、ニュージャージーで生産され、
1943年7月からオクラホマ州にあるノーマン海軍航空基地で運用されました。
ただし、1943年というのは世代交代が進められていた時期なので、
実際に勤務に就いていたのはたった13か月の間です。

1974年、グラマン航空宇宙公社は、1976年にオープンする予定の
新しい国立航空宇宙博物館にワイルドキャットを展示することに同意し、
すでに退社していた当時のグラマンのスタッフと現在のメンバーが取り組みました。

彼らの多くは実際に戦争を体験していました。

1975年の初めに、ワイルドキャットは新品とみまごうばかりになり、
しかもほぼ飛行可能な状態であったということです。

スタッフは戦争初期に使用された米海軍の青灰色のカモフラージュを
そのまま復元するために、新しい塗料を開発しました。

マーキングは、1943年半ばに太平洋戦線に出撃した

USS Breton (CVE-23) underway 1943.jpeg

護衛空母USS「ブレトン」
USS Breton, AVG/ACV/CVE-23)

で運用された航空部隊FM-1の航空機番号E-10として塗装が行われました。

ところで、どうしてこの展示機にカウルリングがないのか、
ちょっと疑問に思われた方はおられませんでしょうか。

カウル「Cowl」とは、航空機の走行風を整流するために
エンジンなどをカバーする部分のことで、「カウリング Cowling」とか
「フェアリングFairing」などともいいます。

日本ではカウリングと呼ぶことが多いような気がします。

とくにレシプロエンジン搭載の飛行機でエンジンを覆うカバーが
エンジンカウル( engine cowl)です。

 

まだ複葉機が主流であった時代、飛行機の速度が低かったころには
エンジン本体は剥き出しになっていたものですが、第一次世界大戦後の
1920 - 30年代から空気抵抗(抗力)を低減する方策の1つとして
エンジンを覆った方がいいのではないかという流れになってきました。

同時に複葉機の時代は終わり、主翼が単葉にかわっていくにつれ、
空気抵抗が重視されるようになり、機体全体がより流線型に近づいていきます。
膠着装置を引き込み式に変えたのも、操縦席に風防(ウィンド・シールド)をつけたのも、
すべてこの目的のためでした。

ワイルドキャットに装備されていたカウルは

NACAカウル

というものです。
NACAカウルは国家航空宇宙諮問委員会 (NACA) によって1927年に開発され、
星型エンジンを搭載した航空機において使用されたカウルの一種です。

空気抵抗が低減するとその結果燃費が向上するわけですが、カウルだけでも
その効果は大きく、つまり費用対効果としても大きな利益があったというわけです。

もう一つのカウルのもたらす恩恵は冷却機能でした。
星型エンジンにはシリンダーが固定されていたので熱を持つわけですが、
NACAカウルを装着することによって冷気がシリンダーやさらに重要な
シリンダーヘッドを通るように冷気をエンジンに導くことができるとわかり、
1932年以降のほぼすべての星型エンジン搭載機に装着されていたのです。

 

 

さて、博物館取得時にワイルドキャットのエンジンの前部を覆っていた
ノーズカウルリングは、保管中、外したまま別のところに移してしまったせいか、
いつの間にか紛失してしまっていました。

空母コーナーが新設され、あらたにワイルドキャットを展示することが決まったので、
NASMの職員はあらたに展示を行うために代わりのカウルリングを探していたところ、
なんと偶然にも、バージニア州にある海兵隊博物館の「ウェーク島メモリアル」
ウェーク島で発見された撃墜されたワイルドキャットのノーズカ​​ウルリングだけ
展示されているということがわかりました。

この写真はウェーク島メモリアルに展示されていた単体のカウルです。

ちょうどカウルリングが見つかったので、博物館側は交渉し、
なくしたカウリングにこれをつけることに一旦決定したのです。

しかしそれを受け取ったグラマンのスタッフは一眼見て絶句しました。
リングカウルにはまだ日本軍の攻撃で生じた銃痕が生々しく残っていたのです。

一旦展示機にカウリングを付ける、というところまではいったようです。

本来ならば、新品と見まごうばかりにレストアされた機体に付けるのですから、
カウリングもそれに合わせて修復するのが筋というものですが、
やはり修復スタッフにはどうしてもその銃痕を補修することができず
当初は綺麗な機体に銃弾の残るカウリングをとりつけたと思われます。

 

しかし、どういう経過を経たかは全くわかりませんが、結論として
そのカウリングを取り付ける案は中止になり、本体から外して
ウェーク島の海兵隊博物館に送り返されることになりました。

傷痕はそのままこの島で戦って死んだ海兵隊員の記憶を語り継ぐものである

ということが、実物を目の当たりにした関係者一同の胸に改めて迫り、
このカウルリングは遠く離れたワシントンにあるよりも、海兵隊員の魂が眠る
ウェーク島にあるべきだということになったのかもしれません。

 

カウルリングの返還後、グラマンとスミソニアン博物館のスタッフはその後の充填を諦めました。
そしてカウルのない剥き出しのノーズのワイルドキャットを誇らしげに展示しています。


CVMスミソニアンの「艦載機」 F-4B-4とドーントレス〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-09 | 航空機

スミソニアン博物館の「空母ハンガーデッキ」再現コーナー、
今日はCV"M"スミソニアンの艦載機をご紹介します。

空母に乗艦するとき例外なく皆が最初に足を踏み入れるのはハンガーデッキです。
その例に倣い、「スミソニアン」でも乗艦して最初に現れるのは艦載機の格納された
紛れもないハンガーデッキそのもの。

この独特のブルーをみただけで機種がお分かりの方もいそうですね。

ただし、次元を超えていろんな世代の艦載機が同居しています。
デッキに収まらないので空を飛んじゃってる飛行機も(笑)

言い訳をするつもりではないですが、とにかく狭いところに並んでいるので
飛行機の全体像まで画角に収まりませんでした。

 

ボーイング F-4B-4

1930年代初頭に米海軍と米陸軍航空隊の主要戦闘機として採用され、
1940年代初頭まで運用されていました。

ボーイングが製造し、米軍が使用した最後の木製翼の複葉戦闘機です。

この製造によってボーイングは航空機メーカーとして地位を確立し、
大恐慌下にもかかわらず会社を維持できたといわれています。

最高速度は298kph(186 mph)4基の56.2 kg爆弾を運ぶことができました。

海軍での成功をみた陸軍はキャリアフックなしの10機を注文しました。
この陸軍バージョンで中央アメリカにテスト飛行したのが、あのアイラ・イーカーです。

当バージョンはF4Bシリーズの4番目であり、海兵隊に割り当てられました。
従来より重量が大きくなり、出力が増加したにもかかわらず、
以前のバージョンの優れた飛行特性を維持することができました。

海外に輸出されたうち3機は中国に売却されましたが、
日本軍と交戦して撃墜されたということです。

NASMコレクションのこの飛行機は海兵隊のために作られた21機のF4B-4の1つで、
海軍のとは違いテールフックはありません。

完璧にお腹を見せてくれる展示もあり。
この部分は本物の空母のように上階から下を見ることもできます。

ダグラス SBD-6 ドーントレス

実は戦争が始まる前に時代遅れと見なされ、交換が予定されていましたが、
結果として大戦中最も重要な役割を果たしたと言ってもいいかもしれません。

乗組員によって付けられたニックネームは

Slow But Deadly(鈍重だが致命的)

その名の通り、ドーントレスは戦争中を通じ潜水艦から戦艦に至るまで、
少なくとも18隻の軍艦を含む、30万トン以上の敵艦を沈めています。

「急降下爆撃」という言葉がまだ海軍に存在していない頃から、
そう、最初の空母「ラングレー」の就役以降、海軍搭乗員は
海上で使用されるべき飛行機の適正な大きさと正確に当弾する能力を必要とし、
その答えがつまり急降下爆撃だったのです。

 

ダグラスはエドハイネマンとノースロップの従業員ごとプロジェクトを引き抜き、
さらにマイナーな変更を加えた後、海軍にSBDを引き渡しました。

SBDは他のダグラス航空機と同様に頭文字『D』で始まる、
ドーントレスという名前をつけられました。

■ 真珠湾攻撃から珊瑚海海戦まで

ドーントレスの最初の2つのモデルは、1941年12月7日の真珠湾攻撃によって
太平洋での最初の戦闘を経験することになりました。

第11海兵航空群(MAG)のSBDはすべて地上で損傷または破壊されました。

また、ウェーク島から帰還していた「エンタープライズ」から発進した
18機の海軍SBD-2が、日本軍の攻撃中到着し、そのうち7機が撃墜され、
日本機を2機撃墜したと主張しています。

3日後、VS-6のディキンソン中尉は帝国海軍の潜水艦伊-70を撃沈し、
これによってSBDは大戦開始後最初の日本軍艦を破壊したと認定されました。

特筆すべきはこの機種の改装が常に乗員の命を守る防御に特化していたことです。
セルフシールの翼タンク、乗組員の鎧、および装甲のフロントガラスなど。

1942年5月、日本軍のオーストラリアへの進攻を阻止すべく、珊瑚海の戦いで
ニミッツ提督が「ヨークタウン」と「レキシントン」を送りました。

これは、対峙する艦艇がお互いに見えない世界初の空母決闘となりました。

ドーントレスが日本の小型空母「祥鳳」を沈没させ、日本軍は
より大きな空母「レキシントン」を沈めたという事実にもかかわらず、
結果的に日本軍の南への進攻を止めたことはアメリカの戦略的な勝利でした。

 

■ ミッドウェー海戦

南下に失敗した日本軍はミッドウェー島の米軍基地を攻撃することを決定しました。

計画は、まずハワイ諸島を脅かす可能性のある基地を獲得し、
米空母をおびき寄せて主要な艦隊の交戦で破壊することでした。

アメリカ海軍は日本軍の暗号を解読し、攻撃を事前に察知していました。
加えて日本軍は珊瑚海で損壊した(日本では沈んだと信じられていた)
「ヨークタウン」がすでに修理され、ミッドウェーで「エンタープライズ」と
「ホーネット」とともに機動部隊に加わることができたのも気づいていませんでした。

この米海軍の3隻の空母は112隻のドーントレスを搭載していました。
ほとんどが最新モデルでしたが、SBD-1と-2もいくつかあったと言います。

日本軍は4隻の空母というはるかに大規模の艦隊を持っていましたが、
空軍力の重要な領域だけでいうと両陣営の兵力は均衡していたということができます。

アメリカは6月3日までに空母の出撃準備が整い、敵軍の輸送機関を発見しました。
翌日、日本人はミッドウェー島の攻略のため、戦闘を開始します。

その間、PBYカタリナは日本艦隊を発見し、米海軍の空母は航空機を発進させました。

航空機によって速度が異なるため、発進の時刻は時差を持たせて、
これもダグラスのDであるディバステイターTBD雷撃機が最初に攻撃しました。

すでに陳腐化していた遅いディバステイターは日本の戦闘機にとって簡単な標的であり、
全く的にダメージを与えることなくすぐに壊滅しました。

続いて発進したSBD戦隊は敵空母を見つけるのに苦労しました。
「ホーネット」のSBDはそれを見つけることができませんでした。

「エンタープライズ」戦闘機隊の司令官であるウェイド・マクラスキー中尉は、
上空で待ち合わせしたのが仇となって戦闘機隊や艦攻部隊と全く別の方向にいってしまいます。

つまり戦闘機の護衛なしで進撃することになってしまい、1機が不時着水、
燃料切れのタイムリミットと戦っているとき、駆逐艦「嵐」を発見し、
その進路上を索敵したところ、「赤城」「加賀」「蒼龍」を発見。

マクラスキーのグループが攻撃すると同時に、「ヨークタウン」からVB-3が到着し、
このダブル攻撃は3〜4分で3隻の日本の空母に39発の爆弾を降らせ、
11回の直撃で「赤城」「加賀」「蒼龍」に致命傷を負わせました。

そして4番目の空母である「飛龍」も後にドーントレスによって沈められました。

この戦いで日本は4隻の空母と経験豊富な飛行士の多くを失い、
アメリカは引き換えに6個の海軍部隊、1個の海兵隊部隊から
35機のドーントレスを失いました。

このとき日本軍の進撃を止めたのはSBDだったのであり、
同時に米国に太平洋での戦いを対等な立場に押し上げたのです。


■ 太平洋戦線におけるドーントレスの活躍

ドーントレスはまた、その後の最初の主要なアメリカの攻撃、
ガダルカナルの戦いで重要な役割を果たしました。

島を根拠地としていた海兵隊のSBDは「東京エクスプレス」といわれた日本の船を攻撃し、
キャリアベースのSBDも、ソロモン東部の戦線に参加し、別の日本の空母を沈めました。

■ 大西洋におけるドーントレス

SBDの活躍はほとんどの場合、太平洋の戦線にのみ顕著で、
大西洋では投入されなかったわけではありませんが、あまり機能していません。

1942年11月、ドーントレスは北アフリカへの侵攻である
トーチ作戦を支援するために空母「レンジャー」護衛空母「サンガモン」
そして「サンティー」から飛び立ちました。

太平洋の海軍による行動とは対照的に、ここでのSBDの攻撃は、
連合国の着陸を支援するための地上攻撃が主な任務だったのですが、
今回、彼らは連合軍を攻撃するために出発した7隻の
ヴィシー-フランス軍の巡洋艦を攻撃することがミッションでした。

11月10日、「レンジャー」から発進した9機のSBDが、
係留された状態で砲撃を行っていた戦艦「ジャンバール」を沈めました。

その3日前には日本の戦艦「比叡」を太平洋で撃沈させており、
ドーントレスは1週間以内に2隻の敵戦艦を沈めたことになります。

「サンティー」のSBDも大西洋で対潜水艦パトロールを実施しましたが、
この任務にはTBMアベンジャーの方が適していると見なされていたようです。

海兵隊のドーントレスは、1944年半ばまでバージン諸島で
パトロールと偵察の役割を果たしました。

大西洋でのドーントレスの最後の攻撃任務は、ノルウェーにおける
リーダー作戦と呼ばれる敵艦船への攻撃でした。

空母「レンジャー」のSBDは、ボーデ港において数隻の船を攻撃し、
2隻撃沈、2隻を破壊させ、さらに2隻を損傷させたという記録があります。

■ 「長生き」だったドーントレス

ダグラスは、パフォーマンス向上のため戦争中ずっとドーントレスを改造し続けました。

1942年に導入されたSBD-4は最高速度245 mphで最も遅いバージョンとなりました。
1943年の初め、より大きなエンジンを搭載したSBD-5が戦隊に就役し始めました。
爆撃の精度を向上させるために、照準器を改良し、フロントガラスの曇りを防ぎ、
レーダー装備もこのモデルでより一般的になります。
しかし、機器を追加しすぎて重量が増え、せっかく増加した馬力は大幅に相殺されました。

 

1943年6月までに、米海軍は4隻の新しい大型の「エセックス」級CV空母を保有していました。
新しい空母には急降下爆撃機「ヘルダイバー」が搭載される予定でしたが、
間に合わず、したがって、ドーントレスが継続して載せられることになりました。

しかし、空母が新しくなることで艦載機の役割は変わりました。

新しいCVは100機の航空機を搭載することができました。
旧型の空母の80機と比べるとかなりの増大ですが、
新しい空母で斥候・偵察戦隊は排除されました。

斥候偵察の任務は航続性の高いヘルキャットアベンジャーズに引き継がれたので、
それ以降、ドーントレスはほぼ攻撃機専門になりました。

ヘルダイバーに置き換えられるまでの繋ぎと言いながら、年末まで
一向に就役しないので、結果としてSBDは1943年を通して飛行を続けました。

そもそもほとんどの海軍パイロットは、ヘルダイバーがドーントレスよりも
大幅に改善されているとは考えていなかったようです。

海軍パイロットがSBDのより応答性の高い操縦性能を好んだわけは、
軽負荷時に飛行機を簡単に飛ばすことができたからです。

それに加え、ダグラスの航空機はカーチス製よりもメンテが簡単で
かかる時間もかなり短くて済んだということもありました。

 

というわけで、ヘルダイバーが導入されたあとも、ドーントレスは
1944年7月のグアム攻撃まで海軍での任務を続けました。

さらに海兵隊はフィリピンのでそれらを使い続けました。

第二次世界大戦の終わりまでに、ほとんどのドーントレスは
訓練機と雑用の役割に追いやられていたのですが、いくつかの海兵隊のSBDは、
終戦までソロモンの敵駐屯地を無力化する作業を続けていました。

 

ドーントレスは陸軍でも使用されていました。

ヨーロッパでの戦線の初期、ドイツの急降下爆撃機が成功したことで、
一部の陸軍指導者は米国版の急降下爆撃機必要性を確信しました。

しかし、このタイプの航空機の経験は限られており、
新しい設計を開発する時間がないため、米国陸軍空軍(USAAF)は
海軍のSBDを注文し、A-24バンシーという名前で使用していました。

陸軍仕様なのでテールフックを持たず、大きな空気圧後輪を持っていました。
にもかかわらず、急降下爆撃のアイデアそのものがそもそもUSAAFで
広く支持されていなかったため、バンシーはあまり活躍していません。

 

アメリカ以外ではニュージーランド(ソロモン)と自由フランス(ヨーロッパ)が
SBDを採用していました。
フランスは戦後も使い続け、1949年、インドシナにおいて
共産主義テロリストに対する攻撃のためにSBDを使用していました。

メキシコは、第二次世界大戦中にメキシコ湾でのパトロール任務のために
アメリカ陸軍からもらい受けたバンシーを、1959年まで国境警備隊で使っていました。

■ スミソニアンのドーントレス

 

これが当博物館展示のドーントレスのかつての勇姿です。
パイロットがちゃんと?カメラ目線ですね。

そういえば、零戦搭乗員だった坂井三郎氏がガダルカナルからの帰還途中、
攻撃されたのはこのドーントレスの後部銃だった記憶があります。

これは展示機ではありません。
ウェーク島への爆撃任務に向かうドーントレスです。

 

NASMのドーントレスは、6番目に製造されたSBD-6モデルです。
1944年に製造され、メリーランド州パタクセントリバー海軍航空基地に置かれて
戦術テスト、飛行試験に使用されていました。

これはおそらく、米海軍が実際に使っていた最後のSBDだといわれています。

 

続く。

 


海上運用航空(空母と艦載機)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

以前、スミソニアン航空宇宙博物館の第一次大戦の航空シリーズを終了しましたが、
この膨大な展示を誇るアメリカ随一の博物館については、
実はまだお話しすべきことのほんの一部しか語っていません。

その中でも、当ブログ的に大変取り上げ甲斐のあるテーマが、
本日よりシリーズとなる

Sea-Air Operations  海軍航空隊の行動展開

要するに航空博物館のフォーカスを当てたこの博物館が、総力を上げて取り組んだ
空母機動部隊を中心とする一連の展示と考えてくださって結構です。

わたし自身も大変興味を持って観覧し、そしてここでお話しするのを
楽しみにしてきたテーマですので、張り切って参りたいと思います。

このギャラリーエントランスに立ったとたん、展示内容をほぼ完全に理解したわたし、何者?

武漢肺炎前ということで、まだ見学者で賑わっているスミソニアンです。

今久しぶりにHPを見に行ったら、まったく再開の予定は立っていないようです。
観られる時に観ておいてよかった、と改めて思いました。

エントランスの前に立っただけでこれが空母の一部を象っているとわかったのは
全体的にも、そして細部にも海軍を想起させるものがあしらわれているからです。

たとえば、この写真の入り口上部の舫っぽい装飾とか。
このマクラメは海軍&海兵隊の退役軍人、ジョン・オーガスティン氏の手作りで
その作り方は第一次世界大戦中、彼が水兵時代に習ったものだそうです。

スミソニアン博物館に対して大変ありがたく思うのは、説明の各国語が、
英語のほかはスペイン、フランス、ドイツ、そして日本語であることです。

日本についてかつて干戈を交え空戦を戦った相手であるということ、
そして旧日本軍の機体がいくつも所蔵されているからかもしれませんが、
特に第二次世界大戦についての展示でなくとも日本語表示がありました。

これがいつの間にか中国語(しかも簡体字)にとって変わられるという
わりとアメリカではよくあることが、ここに今後起こらないことを祈ります。

 海上作戦ギャラリー入口

エントランス全体を見ると、より空母らしさを感じていただけるでしょう。
「76」はつまり艦番号を表しているようですよ。

 

エントランスから内部に続くこの床にあるのも軍艦のデッキです。
壁の色も軍艦そのものですね。

いったいこれはどうなっているのでしょうか。

CVM-76 USS SMITHSONIAN

・・・・いかにも実際にありそうですが、まずCVは航空母艦の船体分類番号ですね。
アメリカの空母はCVに「役割」を意味する分類番号、たとえば

CVE=Escort carrier、護衛空母

CVN= Nuclear-Powered 、核動力空母

というのがありますが、それでいうと、

CVM=Museum carrier (博物館空母)

ではないか、とわたしは推察するものです。

しかし、どこを探してもその答えが見つかりませんでした。
おそらく間違ってないと思いますが、どなたか正解をご存知でしたら
是非教えていただきたく存じます。

さて、いかにも船上を思わせるラティスのデッキ風通路には、

Sea-Air Operations

USS SMITHSONIAN  CVM-76

QUARTER DECK

という展示説明があります。
クォーターデッキというのは「後甲板」と訳していいと思います。

我々アメリカ海軍の艦船において、クォーターデッキは
公式の儀式が行われるメインデッキの一部分を指します。
訪問者と海軍の高官(dignitaries)はこの部分から乗艦します。
航空母艦のフライトデッキは標準的なドック施設からアクセスするには
高すぎるため、通常格納庫(ハンガーデッキ)のレベルから出入りするのです。

まあ、この辺りは一度でも空母や航空機搭載型護衛艦に乗ったことがあれば
子供でも知っている知識の第一歩ですね。

格納庫デッキは海上では通常の格納庫としての機能を果たしますが、
港にいる間は簡易的なバルクヘッドを追加して、左舷入口に隣接する部分を
クォーターデッキに変換します。

バルクヘッドは日本でもそのまま「バルクヘッド」と言っているかもしれませんが、
意味そのものは「隔壁」となっています。

アメリカは知りませんが、海自だとハンガーデッキで公式の行事を行うことは
普通に多かった気がします。

クォーターデッキのデザインは空母によってバリエーションがありますが、
必ず艦の徽章が掲げられていること、公式の入口であること、そして
そこで公式の行事が行われることだけは共通しています。

絵や置物などのアート、艦が獲得したトロフィー、時鐘、そしてその他の
例えば乗員の装具や携行品などもここにあるのがスタンダードです。

海軍の空母におけるクォーターデッキを再現しているので、このように
いちから説明をしてくれているわけですね。
さらにその横には、この展示に出資してくれた企業の名前がお礼方々書かれています。

飛行機を直接寄贈したボーイング、ニューポートニュース造船の他、ボーイング、
ジェネラルダイナミクス、GE、マクドネルダグラス、ノースロップ、レイセオン、
ロックウェル、ロールスロイス、ウェスティングハウスエレクトリック

そして「スペシャルアシスタンス」を得たとして、アメリカ海軍と並んで
ソニーコーポレーションが名前を連ねていました。
(ははーん、日本語表記の理由はソニーかな?なんて)

さて、見学者が乗艦し、進んでいくと、そこはハンガーデッキ。
ハンガーデッキですから、当然そこには艦載機が格納してあるというわけです。

空母の中という設定なので、中は結構な暗さです。
ハンガーデッキの説明があるので、これも翻訳しておきましょう。

空母のハンガーデッキの本来の役目は航空機収納、保管、そしてメンテナンスのスペースです。
およそ8100平方メートル(なぜかm表記)の広さで、その幅は艦の幅であり、
長さは艦体のほぼ3分の2となります。
そのスペースは絶対的に艦のなかで大事な空間であり、そこに航空機は
翼を折りたたまれ、互いに数インチの隙間に膠着されて並べられます。

デッキのスペースは航空機のためだけではなく、そこには試験用器具、
メンテ用のパーツ、コンプレッサー、スペアのエンジンなどが所狭しと並びます。
全ての機器は高度で複雑な航空機と装備する武器システムのためにあるといってよく、
さらに作業場、倉庫、エンジンテスト設備、そして消火装備が周りを囲んでいます。

鉄扉が時々開き、運搬エレベーターが地下デッキにある厳重に保護された
弾薬庫から弾薬をこの階に配送します。

ハンガーデッキは各セクションやベイと呼ばれる区画と大きな可動式ドアで区切られており、
非常時や火災の際には遮断されるしくみになっています。
航空機はハンガーデッキとフライトデッキの間を専用のエレベーターで移動させます。
このエレベーターは往々にして艦のサイド部分を延長させるように付属しています。

フライトオペレーションとメインテナンスが行われている間、ハンガーデッキでは
集中的にアクディビティが行われます。
フライトデッキから下ろされてきた航空機は次のフライトスケジュールに合わせて
迅速に手入れなり修理なり点検なりのサービスが行われるのです。

深刻な不具合が認められる航空機は脇に避けられ、集中的な修理が行われます。

当博物館のキュレーターは、つまりその道の専門家でもありますから、
普通に著書などもあったりするわけです。
左から

First Flight Around The World      Tim Grove

1924年に最初に世界一周を試みたアメリカ陸軍の八人の男たちの話。

In  The Cockpit    John Travolta

ちょっと待って?ジョン・トラボルタなんてキュレーターいたの?
と思って調べたら、やっぱりあの人でした。

ジョン・トラボルタの「コックピットで」は、各方面のパイロットに
短いインタビューをしたものをあつめた本で、その中に
俳優のトラボルタもいる、ということのようです。

トラボルタは、少年時代に飛行に魅了され、1970年に「サタデーナイトフィーバー」で
稼いだお金で飛行訓練を受け始め、19歳のときにソロになりました。
飛行機を愛する彼はパトロンとしても航空大学に飛行機を寄贈したりしています。

彼は、ガルフストリーム、リア24、ホーカー1A、カナディアテブアン(スノーバード)、
デハビランドヴァンパイアジェットの副操縦士、
そしてボーイング707と747の副操縦士の資格を持っています。

著者兼編集者のDiFreezeは、10年近くにわたって多くの有名な飛行士にインタビューしました。
軍の英雄、有名人のパイロット、曲技飛行のパイロット、宇宙飛行士、慈善家、起業家などです。

(トラボルタがどこに入るのかはわからず・・・慈善家かな)

John Travolta: The AVIATOR

サタデーナイトフィーバーの後消えたと思っていたら
稼いだお金で飛行機に乗っていたのか・・・。

Carrier Warfare In The Pacific     E.T. Woolgrigge

「日本の真珠湾攻撃は、戦艦の終焉であり
空母が艦隊の主役になる歴史の幕開けだった」


国立航空宇宙博物館のフェローであるウールドリッジが編集したこのオーラルヒストリーでは、
ジミードーリットル大佐、ジョン・S・サッチ提督などのインタビューを元に構成されました。

たとえばサッチは、彼の編み出した「サッチウィーブ」は、速度の遅いアメリカの飛行機が
速い日本のゼロ戦を同等の条件で戦うことを可能にした戦闘戦術だと言っています。
また「率直に」、ミッドウェイ海戦で、しフレッチャーとスプルーアンスが空母提督だったら、
ヨークタウンは沈没しなかったであろうと非難しているということです。(読んでみたい)

また、フランクリンが800人の乗組員を失ったとき、神風特攻隊の破壊力を目の当たりにした人、
二つの台風によって破壊された艦隊に乗っていた人などからも話を聞いています。

人々はこうしてハンガーデッキにいる気分を味わえるわけですが、
これらの部分は、驚くなかれ、全て実際の空母の一部分だったものです。
壁も、装備も、デッキの鎖も全て!

そして、映し出されている海上の写真は、実際に空母「セオドア・ルーズベルト」
艦内から撮影された「本物の乗員目線」です。
ということはこの海はサンディエゴ近海かな?

CVM(笑)スミソニアンが「コミッション」引き渡しされたのは1976年6月28日。
当時のアメリカ合衆国海軍長官(Secretary of the Navy)ウィリアム・ミッデンドルフは
委託式のとき、本式の「海軍用語」で

 「床ではなくデッキ、壁はバルクヘッド、そして階段はラダーズ(ラッタル)と呼びます」

 「Welcome Aboard!」

とあいさつしました。

そしてこれらの内装は、実際の空母で使われてきたものです。
5隻の除籍になったその空母とは以下の通り。

USS「エセックス」CVS-9

USS「イントレピッド」CV-11

USS「ランドルフ」CV-15

USS「ハンコック」CV-19

USS「シャングリラ」CVS-38

そして1975年に除籍になったいくつかの軍艦が、
これらの展示にその部分を提供することになりました。

階下に続くラッタルへのハッチ。

そしてハンガーデッキには必須の消火装備も。

これらの「本物」に囲まれて展示されているのは、
かつてアメリカ海軍で実際に空母のデッキから飛び立った
艦載機の数々です。

 

続きます。


My 600 lbs- Life 「リアリティ番組の現実」〜アメリカのTV番組

2021-03-06 | アメリカ

アメリカの超肥満減量番組、「My 600lbs-Life」、後半です。

ヨウナン・ナウザラダン博士はイランのテヘラン大学医学部で博士号を取りました。
肥満と腹腔鏡検査の専門医です。

博士が肥満者に行う胃バイパス手術などの外科処置は大変危険なもので、
だからこそ博士は手術前に患者に自力で可能な限り体重を下げることを要求するのですが、
それでも何件かの医療訴訟が起こされたことがあります。

● 術後1年で死亡した女性患者の家族から、リスクについて説明がなかった

●術後亡くなった男性患者の遺族から、患者の重症度を適切に診断できなかったとして

●麻酔医がチューブで結腸に穴を開けたとして

●腹壁形成術を失敗し、痛みを伴う腹部の変形が起こったとして

●72歳の女性が、ステンレス鋼のコネクタとチューブを彼女の中に残したと主張

しかしこれらはいずれも最終的に告訴取下げとなっており、情報を見る限り
ナウザラダン博士が医療過誤で法律的に罰せられた過去はありません。

さて、脚部が異常に肥大してしまい、炎症を起こしてしまっている
トレイシーさんに、ナウザラダン博士はさらなる減量を命じました。

生活、とくに食生活の立て直しが急務なので、彼女には番組から
栄養士が派遣され、生活指導が行われました。

病院にいる間、炎症でたいへんな状態の脚部に手当てを受けます。

メディカルディレクターということなので、患部を診察する医師でしょうかね。

問題の脚部の治療について方針を決めるドクターです。
とにかく目標は、患部の「水分を除去すること」。
炎症を起こすようなリスクをできるだけ取り除くことです。

 

最後の診察の時、彼女の体重は471パウンド(213kg)でしたが、
ナウザラダン博士はあと30パウンド減らさなくては手術に適応しない、
といわれていたのです。

というわけで、439パウンド。
ねらったようにギリギリ30パウンドの減量にこぎつけました。

やったねトレイシー、手術ができるよ!

「心配だし不安」

といいながら、彼女の表情は晴れやかです。

どんなことになっても今までの惨めさから比べれば悪くなどなりようがない、
と信じているかのようです。

彼女が最初にナウザラダン博士のクリニックにきてから1年が経っていました。
手術に至るまでに、減らした体重は200パウンド(90キロ)。

もちろんこんなところが目標ではありませんが、彼女はこれが
自分の「新しい人生」への道につながるポイントであると知っています。

ただ、いかに腕のいいと評判の医師も、神様ではないので、
当然失敗するかもしれないということです。

そして手術開始。
普通ナウザラダン博士は患者に対し腸バイパス手術を施しますが、
彼女の場合はどうやら違うようです。

こちら手術の間その成功を祈り続ける夫のアンソニーさん。

「大きな塊を完全に取り除いたぞ」

これは・・・どこの大きな塊なんでしょうか。
脚ですね。

 

「巨大な塊」とおっしゃいますがたったの4.5キロしかありません。
彼女の体重全体からは微々たるものです。

しかし、ナウザラダン博士の博士のとった方法は、彼女の体重が集中していた場所から
余分な脂肪を取り除き負荷を減らすことで、リンパ浮腫の腫れを減少させ、
そのことが結果的に体重そのものを落としていくというものでした。

そして術後退院の日がやってきました。

つまり、彼女が受けたのは大きな肉の塊を物理的に取り除く手術だけで、
「上半身は普通」の彼女には腸バイパス手術は行われませんでした。

患部を取り除き、生活改善をすればとりあえず最悪は避けられる、
とナウザラダン博士は判断したということでしょうか。

この時点で彼女の体重は388パウンド(176kg)。
最初からトータルで99キログラムを減らしました。

脂肪切除とダイエットでこれだけ減ったのですから、
この時点ではまあまあの成功ということなのでしょうか。

しかし彼女にとってこれは大きな変化をもたらしました。
なんと、車の助手席に座れるようになったのです。

荷物のようにトランクで運送されることはもうありません。

二人はヒューストンからの帰り道、このようなところにやってきました。
オハイオまでは大陸を縦断することになるので、これはおそらく
無理をしてテキサス州の海岸に寄った(寄らされた)のではないかと思われます。

「わたしは多くの人生を無駄にしてきました。
もう一秒でもそうしたくありません。
人生を楽しみたい。アンソニーと家族と一緒に。

このプロセスそのものがわたしたちにとって大変なストレスであり、
わたしとアンソニーの関係は、少しの間、難しくなったのは事実です。

でも手術以来、彼はわたしのためにすべてを犠牲にする必要もなくなり、
そのことがわたしたちを新しい方向に成長させ始めているような気がします。

それで、わたしはもう一度未来に、そしてわたしたち二人に興奮しています。
そのためにこの旅を続けることになんの躊躇いもありません」

「わたしのための未来にワクワクしているわ」

というトレイシーさんと彼女を支える夫が海岸にたたずみ互いを抱き寄せて
番組は終わります。

めでだしめでたし、といいたいところですが、しかし、わたしには
彼女の、というより彼らの今後について懸念を感じずにいられません。
優しいことは優しいけれど、彼女が望むことを彼女に必要なことより優先させて
何も考えずに与え続けてきたこと。

彼が今後彼女の食生活を改善させていくような知恵を持った男性かというと、
残念ながらあまりそんなふうには見えないのが問題です。

トレイシーさんも、誰が見ても深刻な状態にいる自分のことを
正常性バイアスからたいしたことはないということにしてしまい、
ナウザラダン博士の言いつけを嘘までついてごまかし、

「こんなにがんばっているのになぜ減らないんでしょう」

などというような自分への甘さというか脆さが、物理的に取り除いた体重に
安心してしまい、元の木阿弥となってしまうのが目に見えるようです。

 

彼女がこの手術を行ったのは2019年ごろのことだそうですが、
番組によってその後がフォローされていないかを検索してみたところ、
大変残念なことがわかりました。

彼女が手術の甲斐もなくまた元に戻ってしまったのかって?

じつはそうではないのです。


彼女は番組スタッフによるフォローアップとしてではなく、
「番組の裏を告発する人」としてインタビューを受けていました。

結論から言うと、トレーシーはいまだにリンパ浮腫に苦しんでいます。
わたしは驚いてしまったのですが、手術によって切除した脂肪の塊は「ひとつだけ」だったのです。
せめて両足公平に施術すべきだと思うのはわたしだけはないでしょう。

術前のダイエットとこの5キロの塊を切除したことによって脚は少し小さくなり
彼女は以前よりも体を動かすことができるようになり、それには感謝していますが、
彼女自身はもう少し他のやり方があったのではと考えずにいられないそうです。

不思議なことにナウザラダン博士は

「皮膚を除去した後は痛みがないはずだ」

と言い放ったそうですが、そんなはずないでしょう。
事実、彼女曰く、それは今までに経験した中で最悪の痛みだったそうです。

 

トレーシーマシューズ

彼女の「暴露」によると、出演者は1,500ドルの「タレントフィー」を受け取ります。
治療の関係でヒューストンに引っ越す要がある場合、番組からは2,500ドルの手当が出ます。

しかし、これらのフィーは、出演したエピソードがテレビで放映されるまで
支払われないので、それまでにかかる経費は全て持ち出しとなるのだそうです。

「オハイオからテキサスに移動中、部屋を確保しなければならないと言われたので
予約をしましたが、初日はそのホテルの近くに到着しなかったので
ホテル代を無駄にした上、別のホテルをこれも自費で取りました。

ヒューストンに着くまでに、所持金は13ドルになってしまい、
食料品や他のすべてを手に入れるのに苦労しました。

車はヒューストンに着いた数日後に故障しましたが、
もちろん補償はなく、撮影が終わったら、一部を請求できただけでした」

トレーシーはまた、ショーの再放送についての長年の神話を暴きました。
たいていこれらのショーは何年にもわたって再現なく再放送されますが、
出演者にはこれに対し報酬はまったく支払われません。

次にわたしもこれにはびっくりしてしまったのですが、
番組制作はほとんどの医療費を払ってくれないのだそうです。

支払いが番組から行われるのはナウザラダン博士の手術に対してだけで、
トレーシーは2万ドル以上を自分で支払っています。

移動費、ホテル代、家賃、それらは全て自分で賄わなければなりません。

出演者が財政的に不安定な状況に置かれれば、それだけドラマが生まれる、
というのがどうやらプロデューサーの意図するところのようです。

「ドラマ(困難)が増えれば評価も上がる」

といったところでしょうか。

こういったリアリティ番組が主張するのは全て「現実」ではないことは
誰でも知っているし、現実にこの番組を訴える出演者は
引きもきらない、と言うレベルで次々と現れています。

それにも関わらず、劇的に痩せた人たちには「ファン」がつくなど、
この番組が悪評にも関わらず人気があるのも事実です。

出演者には大変失礼ですが、尋常ならぬ太り方をした人間の体は、
それだけで人々の興味を引くのに十分であり、昔は堂々と行われていた
「フリークショー」のような位置づけがされているといえます。

そのために番組は、出演者のシャワーシーンを必ず取り入れます。

トレーシーによると、

「数分間のシャワーシーンのために、わたしは1時間以上撮影されていました。
それはわたしの人生でも最悪の経験だったといえます。

誰が裸になってシャワーを浴びるのを知らない男に撮影されたいと思いますか」

 

歴代の出演者の中には番組を訴えたり、減量がうまくいかずに自殺したり、
出演後(これは撮影のせいではありませんが)肥満による疾患で亡くなってしまったり、
とかくネガティブな「怨念」がまとわりついているような印象もありますが、
それでもトレーシーは彼女の全体的な経験を振り返り、
悪い面も良かった面もあった、と率直に語っています。

少なくとも彼女はベッドの上だけの生活から歩き出すことができました。
つまり、苦痛を耐え忍ぶだけの価値はあったと信じているのです。

「ショーに参加するのはとても大変でしたが、わたしの出演が
少なくともひとりくらいの誰かを救うことができたと信じたい。

体重が5〜700ポンドの人生なんて惨めで意味がありません。
そう、自分の身体を世界に曝して人生の物語を伝えるのは辛いことですが、
最終的に得られる結果はそれだけの価値があると思います。

ショーに出演した非常に多くの人々が新しい人生を送っています。
彼らには自由が戻ってくるのです。
一日中ベッドに閉じ込められる代わりに、自分の行きたい場所に行って
何かをすることができるのはとても素晴らしいことなのです」


自分の弱さと怠惰から堕ちるところまで堕ちてしまうような人々は、
リアリティショーという毒にも薬にもなりうる劇薬の力を借りないと、
ダイナミックな人生の切り替えができない、というのも悲しい現実なのです。

 

 

 


My 600lbs Life〜体重272キロの人生 アメリカTV番組

2021-03-05 | アメリカ

さて、ピッツバーグの記念館シリーズが終わったので、ここで
思いっきり息抜きをさせていただきたいと思います。


というわけで、またアメリカ滞在中にキャプチャした番組を取り上げます。
日本では信じられないレベルの肥満症の患者を取り上げて、
その人が外科的手術を経て社会復帰に挑戦する過程を描く、

My 600 -lb Life

600パウンドというのは272キログラムのことです。
日本では「百貫デブ」という悪口もあるのですが、それでは
100貫って何キロですか、ということになると、これが375キロ。

272キロの日本人はほぼ存在しないことから、これはあくまでも
誇張した(あり得ない数字だから悪口として成立する)数字だろうと思います。

しかし、それより控えめとはいえ、アメリカには実際に272キロの体重の人が
存在するわけで、これは決して誇張した数字ではないのです。

本日の「被験者」?はオハイオ州のロレインに住んでいます。

「わたしは人生に絶望しているの」

といきなりネガティブなのはトレイシーさん、44歳。

トレイシーさんの太り方というのは
異常に脚が肥大してしまうという特殊なものです。

欧米の白人系は、体の真ん中がかなり大きくても、
膝から下が細い人が結構いて、太る時には満遍なく太る東洋人とは違うんだなー、
とよく思うのですが、これだけ人間がいると一括りにはできないタイプもでてきます。

こうなってしまっては足を覆うのもままなりません。
肥大した脚はリンパ浮腫を起こしてひどい状態に・・。

リンパ浮腫とはリンパ管内に回収されなかったリンパ液がたまって
浮腫を起こすことですが、そもそも脚がいくら大きくなっても
リンパ管の細さはもともとの仕様なので、リンパ液も行き所をなくしてしまいます。

「惨めだわ。
わたしは二つの錨がつけられているみたいなの」

皮膚は、レンサ球菌や黄色ブドウ球菌が原因で起こる蜂巣炎(ほうそうえん)
感染症によって、見るからに痛々しい状態になってしまっています。

まだしもの救いは、彼女が結婚していて、夫は彼女の生活の手助けを
ちゃんと行ってくれているということです。

夫のアンソニーさんの助けがなければベッドから起き上がることもできません。

しかし、アメリカの肥満者には往々にしてベッドから起き上がることも、
その気力もなくなってしまう重篤なケースが多いことを考えると、
トレーシーはこれでも「まだ少しマシな方」といえます。

「たくさんの『クレバス』があるので洗うのが大変」

だとしても、とりあえず自分で体を洗うことができるのですから。
しかも彼女によると毎日必ずシャワーを浴びているようです。

これは、このシリーズの出演者から実によく聞かれる悲しい言葉です。
誰もが自分のことをこういうのです。

「自分がまるで化け物のように感じるわ」

彼女は慢性的な痛みの感覚にいつも耐えており、
立っていることができないのでシャワーも座って行います。

番組を見ている人は皆思います。

どうして彼女はこうなってしまったんだろう。
もし幼い時が他の人と同じだったのだとしたら、こうなったのはいつからで
そしてそこに何か尋常でない理由があったのだろうか?

彼女は二人の弟を「ラフ」から守っていた、と言っていますね。

しかし、父親はジャンキーや酒浸りにはとても見えません。

両親ともにアメリカ人としては超スマートな体型で、後の彼女が
変化する遺伝子の片鱗もそこに見出すことはできませんが、
どうも母親はイライラすると娘に虐待をおこなっていたようです。

顕在化こそしないまでも、両親のどちらからか子供時代に
虐待を受けて育つ子供は世の中に少なからずいます。

子供というのは人生の最初の頃に受ける親からの影響を、
良くも悪くも全面的に受け取ってしまい、それによってトラウマになったり、
いつまでもそのことで親を恨んだり、甚だしい場合は、それが
彼らの人間性を歪めることにもなるのですが、
その代償行為として、過食に向かう例は決して少なくありません。

そして、これが核心だと思われるのですが、

「もしそれをしたらおまえの弟を殺すから、
おまえは私のすることをママとパパに言いつけることはできない、
といわれたのでどうしようもできなかった」

と言っています。

どうも第三者から性的虐待を受けたのではないかと思われる発言です。
が、肝心の主語を聴き逃してしまいました。

彼女がそういった心の傷から逃れるのに、
食べることに走ったというのは自然な流れに思えます。

順調に太っていっていますね。
このころには彼女はすでに170パウンド(77kg)あったそうです。

食べ物に慰めを求める彼女を母親は「追い出した」と言っています。

家を出た彼女はその後結婚しました。

これが最初の夫のようですが、どうやら子供は
彼の連れ子だったようですね。

「良い家族だった」にもかかわらず、離婚した彼女は
今の夫となる人に出会ったのでした。

夫が黒人、妻が白人という結婚の例は結構多いのだそうですが、
彼女が次に結婚した人も黒人です。

夫になったアンソニーさんも、自分を必要としてくれる誰かを求めていた、
と語っています。
もちろん、彼女の「良い人間性」に惹かれた、とも。

そんな彼ですから、彼女が1日ベッドに寝たきりの生活になっても
それを非難することは全くありません。

妻のために食事を作り、全ての買い物も行ないます。

その食事は彼女にとって唯一の楽しみになっているというのですが、
この食事内容を見ても、夫はとりあえず彼女の好きなもの、簡単に作れるもの、
つまりカロリーばかり高く彼女の体質改善には1ミリもつながらないものばかりを
機械的に与えているのではないかと思われます。

「ジャンクフードやブラウニー、ドーナツ、チョコレートケーキ、
アイスクリームが大好きなの」

カートの中もそれに加えて炭酸飲料ばかり。

さて、そんな彼女がどういう経緯かわかりませんが、当番組に採用されて、
番組オリジナルの減量プログラムに挑むことになりました。

とりあえず最初の関門は、オハイオから番組の「痩せさせ専門外科医」である
ナウザラダン博士のクリニックのあるヒューストン(テキサス)まで行くことです。

この番組に出演する人は、飛行機ではなく必ず車でクリニックまで行きます。
たいていの出演者は太りすぎていて飛行機に乗れないからかもしれません。

太りすぎていて車のシートに乗らないので(!)バンのトランクに
毛布を敷いて輸送していくことになりました。

本人も心配していますが、これは体がきつそうだなあ・・。

普通の人でもこんな状態で車に乗ったら脚むくんじゃいますよね。

道中、パーキングに止めては血行の悪くなった脚を
マッサージしてあげるやさしい夫です。


本人も「耐えがたいくらい辛い」と言っております。

さて、ナウザラダン博士の診察室でまずすることは体重を測ること。

タイトルそのまんまの600lbs、275キロからのスタートです。
多分本人もびっくりしたんじゃないでしょうか。

ナウザラダン博士登場。
トレイシーを見るなり、足のリンパ浮腫はいつからか、と聞きます。

2001年頃に気づいた、ということなので、もう20年近く。

どんなものを食べているか聞いて、生活改善が必要だ、と
誰にでもわかることをいう博士の言葉を悲壮な顔で聞くトレイシー。

彼女の幼い頃の過食の原因となった母親も同伴しています。
あのスマートだった女性がこうなってしまうんですね。

これも番組の「お約束」なのですが、手術の前に
自力でなんとか体重を減らすことを命令されます。
もしこのテストにパスしなければ手術はしてもらえません。

 

ナウザラダン博士は彼女の体重のほとんどは下半身に集中していて
上半身は普通とは言わないまでも「ノーマル」の類だと言いました。

彼女に言明された減量は300〜400ポンド。
軽く言いますが、キロにすると136〜181kgとなります。

これを読んでいる人のほとんどはこの2分の1とか3分の1の体重でしょう。
つまりノーマルな人間の体重二人か三人分を減らせ、というわけです。

「そしてまずそのためには生活を見直すことです」

そしてあっという間に何ヶ月か経ちました。
トレイシーさん、なぜか調子が悪そうです。

あまり生活改善はうまくいっていないんでしょうか。

オンラインによる再診で、ナウ博士(患者はよくこうやって名前を略す)に
彼女は食餌内容が変わっていないことについて厳しく指摘されました。

脚の状態も前より悪くなっているようだし、蜂窩織炎も酷くなっているとのこと。

「このままだとあなた死にますよ!」

「・・・・・・・・」

次の診察での体重は517パウンド(234kg)。
40キロの減量は普通なら凄いですが、いかんせん元が凄すぎて
焼け石に水っていうか、とても博士の要求には届いていません。

次の診察でも520パウンドと全く進捗なし。

脚の状態も悪くなる一方です。

とにかく減量しなければ体重は増えるのだから、
とこんこんと諭すように当たり前のことをいう博士に対し、
トレイシーは、

「いわれたとおりにたくさんタンパク質をとっているんですが」

と言い訳するのですが、その端から、

「彼女チョコレートも食べてましたよ。
昨日の晩は3箱全部食べてました」

と夫に告げ口されてしまいます。

「チョコレートの小さなひとかけらはそれだけで160カロリーあるんですよ!」

まあつまり食べ過ぎってことです。
当たり前なんですが、食べすぎるからあんなになってしまうのです。

「彼女はわたしにも嘘をついている。
なぜなら、おそらく彼女は自分の置かれた深刻な状況に気がついていないんです」

「少なくとも30パウンド(14kg)は落としてもらいたい」

彼女は果たしてナウザラダン博士の手術を受けることができるのでしょうか。

 

続く。