ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

令和6年度 歳忘れ映画タイトルギャラリー〜日米国策映画を考える

2024-12-29 | 映画


早いもので、令和6年ももう終わろうとしています。
今年も恒例の映画タイトルギャラリーをやります。

今日は、令和6年度に掲載した日米のプロパガンダ映画について。

■「愛機南へ飛ぶ」
2023年の年末に掲載した国策映画です。

この映画を制作したのは、その名も「映画配給社」という、
戦時国策映画を制作するために1942年に作られた御用映画会社でした。

政府は1942年2月にすべての娯楽映画の制作を禁止する
「映画統制令」を作ったため、既存の映画会社のスタッフは、
徴兵されるか、志願して戦争に行くか、あるいは
国内で国策映画を作るかのどれかしか道がなくなりました。

監督は、当時松竹に在籍していた早撮りのできる佐々木康が務め、
陸軍の全面協力によって当時国民的ヒットを果たしました。

娯楽映画がなくなって、他に観るものがなくみんなが観た、
という非常にわかりやすいヒットの理由があったとはいえ、
国家予算が費やされていることもあり、決して駄作ではありません。



国策映画の目的はまず戦意発揚と戦争遂行への理解を深めることですが、
本作の場合、これに「航空兵」「偵察」の増員という目的が加わります。

主人公の青年は、外国航路の船員だった父が客死したため、
自分は航空士官となることを目指すのですが、配属先は偵察。

従来映画に取り上げられやすい海軍の船乗りや戦闘機、
爆撃機乗りという配置と比べると比較的地味です。

しかし、この映画で取り上げることで、おそらく陸軍は、
地味だが重要な偵察任務の重要性とその魅力を伝え、
希望者を増やそうと計画したのだろうと思われます。

本作は当時の映画館の慣例に従い、単体ではなく、
東宝映画の「決戦の大空へ」と同時に上映されました。

松竹と東宝作品の二本立ては本来ならばあり得ない組み合わせですが、
それは当時の配給会社が「映画配給社」しか存在しなかったからです。

既存の映画制作会社は統廃合されたわけではなく、
「映画配給社」が企画したものを各社で個別に制作し、
それを一括して配給していたので、こういうことも起こり得たのでした。

映画配給社が陸海軍のバランスをとったのか、
「決戦」は海軍後援映画で、予科練の航空兵を描いた作品でした。

こちらも出演者に人気絶頂だった原節子、高田稔、
練習生に木村功というなかなか豪華な陣容となっており、
特筆すべきは、この映画からあの「若鷲の歌」が生まれたことでしょう。


映画に戻りますが、本作では主人公が陸軍予科士官学校に入るという設定で、
朝霞にあった陸軍予科士官学校の様子を見ることができます。

予科士官学校のあった場所は現在陸上自衛隊朝霞駐屯地になっています。

そして、埼玉県の所沢にあった、陸軍航空士官学校の訓練の様子、
現在航空自衛隊入間基地となった修武台の内部を見ることもでき、
歴史的に貴重な映像資料としても後世に伝えるべき作品です。

そして、この映画では、当時霧ヶ峰で訓練していた
女子航空員のグライダー滑走の貴重な映像を見ることができます。


前半が主人公の立志と錬成、そして陸軍士官学校卒業までで、
後半は日米開戦、主人公が台湾に出征するところから描かれます。

映画にはフィルムが欠損している部分が多々あり、それはほとんどが
主人公の母の働く航空機工場における「銃後の人々」の様子なので無問題。

映画のクライマックスで、主人公は偵察任務の際、
ガソリンの残量が少ないのを覚悟で任務を遂行し、無人島に不時着。
しかし爆撃部隊は彼らの偵察によって大戦果を挙げます。

生還した主人公は褒賞として(たぶん)帰郷を許され、
母親と二人水入らずの(最後になるかもしれない)旅行を終えて、
また南へと飛行機が飛ぶ(戦地に帰っていく)ところで映画は終わります。



この作品が宣伝映画としてなかなかよく出来ていると思うのは、
青少年、父母層、働く若い女性と、各層について満遍なく描写し、
全方向からの共感を得られやすくしてあるという点でしょう。

ただ生真面目で説教臭く、理想化されすぎた人々の描写など、
プロパガンダ映画ならではの致命傷はあるものの、
当時の映画人たちが、娯楽映画の制作を禁じられ、
軍の各種縛りという制限下における創作活動においても、
彼らの状況でプロとしてやり遂げた一つの仕事といった感じです。

【「若鷲の歌」と「索敵行」】


「愛機」の挿入歌「索敵行」がヒットしたと前回書きましたが、
そうは言っても、1年間のレコード売り上げは6万5千枚止まりでした。

これに対し、同時上映された「決戦の大空に」の挿入歌、
「若い血潮の予科練の」で有名な「若鷲の歌」
全く同じ時期に発売され、1年間の売り上げは23万3000と海軍圧勝でした。

「若鷲の歌」の作曲者、大作曲家古関裕而は、戦後、
土浦航空隊跡地である自衛隊武器学校に「若鷲の歌の碑」が建造された際、
その式典の席でこんなことを述べています。

「この歌に刺激され、発奮され、大空に国難に殉じようと
何万という青少年が予科練に志願したという話を聞き、
更に祖国のために身を捧げられたことを聞き、
いたく責任を感じ、只、英霊の冥福を祈るのみである

自分の優れた歌曲が多くの若者を戦地に追いやったと言うのでしょうか。

しかし、肝心の作詞を手がけた西条八十はというと、
戦争中従軍文士として大陸に渡り、日本文学報国会の会員として
まあ言うたら全面的に戦争協力を行なっていたわけですが、
戦後は歌謡界の重鎮としてさらなる創作活動を行い、
戦争中の活動については反省どころか特に言及もしていないようです。

古関裕而はきっと誠実で良心的な人物だったのでしょう。
しかし「死に追いやった責任を感じる」は、
芸術家としていうべきではなかったとわたしは思います。



■ 海兵隊魂とともに Salute to the Marines




意識したわけではありませんが、カラーの扉絵を描こうとして
カラー作品を選んだところ、日本の国策映画の次は、
アメリカの国策映画を紹介することになってしまいました。

主人公にウォレス・ビーリーという当時落ち目の俳優、
(しかも落ち目になった理由が因果応報自業自得としか言えない人格破綻者)
加えて、いわゆる出演者に有名どころが一人もいないという、
こちらはハリウッドにしては思いっきり低予算映画。

だらしなく太った海兵隊曹長という設定もさることながら、
いくら国策映画だからと言って、その主人公が日本人を何度も何度も
口汚くイエローモンキー、ジャップと罵る映画というのは、
プロパガンダとわかっていても決して愉快なものではありませんでした。

たとえわたしが日本人でなかったとしても、それは同じ。

「FBI vs ナチス」や「Uボート基地爆破作戦」における
ドイツ人&ドイツ軍の描き方が単純に不快なのと同じことです。

本作は、開戦直後からフィリピン陥落までの頃、つまり、
アメリカが日本相手に何かと苦戦していた頃に制作されたもので、
退役した海兵隊軍曹が悪の日本軍相手に戦いを挑み、
最終的には敗れて死んでいくというストーリーです。


【プロパガンダ映画とは】

戦時プロパガンダ映画というのは、国民の戦争協力を得るため、
特定の思想、世論、意識、行動へと誘導する意思のもとに制作されます。

かつてアメリカ合衆国に戦時中のみ存在した、
宣伝分析研究所(Institute for Propaganda Analysis)
の分析によると、プロパガンダの手法の一つに、

ネーム・コーリング(名指し=罵詈雑言)


というものがありますが、それは、個人または集団に対し、侮辱的、
卑下的なレッテルを貼り、攻撃対象をネガティブなイメージと結びつけ、
「恐怖に訴える論証」(Appeal to fear)を用いて、
観衆に恐怖、不安、疑念と先入観を植え付けることを目的とします。

「海兵隊に敬礼」(原題直訳)というこの作品の主人公は、
粗野で二言目には罵詈雑言を吐き散らし、隙あらば大ボラを吹いて
自分を大きく見せるような海兵隊曹長ですが、不思議なことに
酔って暴れて憲兵に収監されようが、不名誉除隊にもならず、
全ての狼藉は「微笑ましいエピソード」として大目に見られます。

しかも彼の周りには、美人の妻と父親に似ても似つかない娘を始めとして、
妻の所属する「平和同好会」のメンバーも、教会に集う隣人たちも、
全てが善良で、口汚く敵を罵る役目は、主人公ただ一人に任されています。

(しかも、彼が下士官なのに、妻の兄は士官であり、
娘は司令の姪としてイケメン士官二人を両天秤にかけているなど、
主人公の生息するコミュニティには階級的にもあり得ない事象が多々)

それに対比する意味で登場するのが、市民に溶け込んでいると思われた
日系のラジオ局オーナーと、ドイツ系の薬屋です。

彼らは日本軍の侵攻と同時に正体を表して武器を取って暴れ出し、
善良な隣人を傷つけ始めますが、このような描写や、
民間船に偽装して兵隊を密かに運んでいた日本軍の描写は、
ネーム・コーリングで言う、「恐怖や嫌悪を煽る目的」によるものです。

イギリスの政治家、アーサー・ポンソンピーによると、
戦争プロパガンダの10の主張とは以下のとおり。

1.我々は戦争をしたくはない
2.しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3.敵(の指導者)は悪魔のような人間だ
4.我々は領土や覇権のためではなく偉大な使命(大義)のために戦う
5.我々も誤って犠牲を出すことがあるが、敵はわざと残虐行為に及ぶ
6.敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7.我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大(大本営発表)
8.芸術家や知識人も、正義の戦いを支持している
9.我々の大義は、神聖(崇高)なものである(聖戦論)
10.この正義に疑問を投げかける者は、裏切り者(売国奴、非国民)である

このうち、本作に見られるプロパガンダは赤字が顕著です。

そこであらためて、「愛機南へ飛ぶ」と日本の国策映画の傾向はというと、
敵を貶めたり悪魔化するような表現はあまり用いられず、
ただ戦いに臨む軍人を理想化、英雄化し、周りの人物の覚悟を美化し、
上の主張で言うと9番の聖戦論を拡大したものであると考えられます。



ストーリーは、主人公夫妻が死後に海兵隊から勲章を与えられ、
その叙勲式で娘がいきなり海兵隊軍曹になるところで終了します。

まあこれはなんだ、美人の女優さんに海兵隊の素敵な軍服を着せて、
あわよくば女子の入隊も見込めないかってことだったんだろうなあ。


最後に、本作を不快に耐えて取り上げて良かったと思ったことは、
なんと言っても、このシーンです。



1980年度作品「ファイナル・カウントダウン」で登場した「零戦」シーンが
実は1943年作品のこの映画から流用されていたと知った時の驚き。

おそらくこんなとんでもない事実に最初に気づいたのは、
世界広しと言えども、わたしだけではないかとすら思えました。

「ファイナル・カウントダウン」のスタッフは、
この映画のあまりに無名なことから、流用がバレないと思ってたんだろな。

ところがわたしのミスは、英語のある映画サイトで、この映画の日本機は
ヴィンディケーター Vought SB2U Vindicatorであると書いてあったのを
検証せず鵜呑みにして、本文でヴィンディケーター連呼したことです。

ただちにこれテキサンじゃね?と皆様に間違いをご指摘をいただきました。
うむ、確かにテキサンと言われて見れば、テキサンの形をしておるわ。

しかし、この間違いのおかげで、「ヴィンディケーター」が
当時のパイロットにめっっぽう評判が悪く、「バイブレーター」とか、
特に「ウィンド・インディケーター」(風向指示器)なんていう
誰がうまいこと言えと的なあだ名がついていたことを知ったので、
これは転んでもタダでは起きないってやつか?と自分を慰めています。


続く。


「戦艦のように戦った駆逐艦」サミュエル・B・ロバーツ〜「リトルロック」展示

2024-12-26 | 軍艦

「リトルロック」艦内の展示、駆逐艦水兵協会シリーズより、
今日はまずサマール沖で日本海軍と戦った、ある駆逐艦についてのお話です。

■ In Footsteps of Brave Men
勇者たちの足跡

1986年4月、「オリバー・ハザード・ペリー」級ミサイルフリゲート艦、


「サミュエル・B・ロバーツ」
USS Samuel B. Roberts (FFG-58)

が就役しました。



上の記事に添えられた写真の左端が就役時の「サミーB」です。

このフリゲート艦は、第二次世界大戦中、
ガダルカナル島で孤立した海兵隊員を救助した功績により、
死後海軍十字章を受章した海軍水兵、

サミュエル・ブッカー・ロバーツ・ジュニア
Samuel B. Roberts jr.(1921-1942)

にちなんで命名された3隻目の艦です。
ちなみに一代目は、

USS Samuel B. Roberts (DE-413)

二代目は、「ギアリング」型駆逐艦、


USS Samuel B. Roberts (DD-823)

それでは、その横の2隻との関係は何でしょうか。

■サマール沖海戦

まず、真ん中の艦番号52は、同級の

USS「カー」Carr (FFG-52) 

1944年10月25日のサマール島沖海戦に参加した
USS 「サミュエル・B・ロバーツ」で後部砲の配置だった三等砲手、
ポール・ヘンリー・カーの戦功を称えて建造されたフリゲート艦です。

そして、325の艦は、やはり同級の17番艦、

USS 「コープランド」Copeland (FFG-25)

この名前は、やはり「サミュエル・B・ロバーツ」艦長だった、
ロバート・W・コープランド中将(最終)にちなみます。

コープランド

このときカー水兵は戦死し、コープランド艦長は救出されています。
それでは「サミーB」は帝国海軍とどのような戦いをしたのでしょうか。

「ジョン・C・バトラー」級駆逐艦護衛艦である
SS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)は、
サマール沖海戦で日本海軍によって撃沈されました。

サマール沖開戦は、1944年10月のレイテ沖海戦の一部で
同艦はタスクユニット77.4.3(「タフィ3」)の一員として
少数の駆逐艦、護衛駆逐艦とともに護衛空母を守っていました。

そして、サマール島沖で重武装した日本の戦艦、巡洋艦、
駆逐艦からなる栗田艦隊と対峙することになります。

10月25日の夜明け直後。

陸軍の攻撃を航空支援していたタフィ3がサマール島東岸沖を航行中、
栗田健男中将の指揮下にある23隻の日本海軍の機動部隊
(センターフォース)が水平線上に現れ、攻撃を加えてきました。

状況を見たコープランド艦長は、乗組員に向かってこう艦内放送します。

「この圧倒的不利な戦いにおいて、おそらく生き残ることは不可能だ。
我々は、やれる限りやって損害を相手に与える

駆逐艦の煙幕に隠れて、発見されず突進した「サミーB」が
2.5海里(4.6km)まで艦隊に迫ったとき、砲弾がマストに命中し、
それが魚雷発射装置を詰まらせましたが、すぐさま修復。

「鳥海」に2.0海里の距離まで潜り込み(射程放線より低い)魚雷発射。

この時見張りは少なくとも1本の魚雷が命中したと報告していましたが、
実際には「鳥海」に魚雷は命中していません。
(但し同じ英語のWikiでも、『カー』の項では艦尾に命中とされている)

そのとき重巡洋艦「筑摩」が現れ、米空母に向かって幅射撃を行ったため、
コープランド艦長はそちらに進路を変更し、砲撃を命令しました。

このとき艦長は、

「魚雷を発射する。
効果があるかは疑問だが、我々は任務を遂行する」

と放送しました。

このとき「筑摩」は空母と「サミーB」の間に位置していました。
「サミーB」は小型で高速の相手に対して難しい攻撃を強いられます。

この後35分間、「サミーB」の艦砲は5インチ弾全弾、600発以上を発射し、
「筑摩」と交戦を行いますが、すぐに「筑摩」だけでなく、
「大和」「長門」「榛名」からの砲撃をも受けることになります。

8時51分、巡洋艦の砲弾が「命中し、ボイラーの1つが損傷。
「金剛」が0900に「サミーB」の機関に決定的な打撃を与えました。
そしてついに0935、総員退艦の命令が下されます。

「サミーB」はその30分後に沈没し、乗組員90名が死亡。
コープランド艦長含む乗組員120名の生存者は、救助されるまでの50時間、
3つの救命いかだにしがみついていました。


ポール・カー3等砲手

このとき「サミーB」で砲架52、後部5インチ砲を担当していたのは
ポール・H・カー3等砲手(21歳)でした。

砲架52は、攻撃を受けて爆発するまでの35分間で、
貯蔵されていた325発の弾丸をほぼすべて発射していました。

52を担当していたカーは爆発を受けて倒れ、
腸に重傷を負って瀕死の状態で発見されましたが、
そのとき彼は手に最後の弾丸を抱いたままで、
破壊された砲に最後の砲弾を手で装填しようと繰り返し試みていました。
そして、救助に来た者に弾丸を装填するのを手伝ってくれと懇願しました。

そして「サミュエル・B・ロバーツ」が日本帝国海軍の砲撃で沈没する直前、
カーは砲塔の横で息を引き取りました。

彼には死後銀星章が授与され、誘導ミサイルフリゲート艦に名を遺しました。



■ メトカーフ3世中将の演説


「軍隊、特に海軍ほど伝統が重要な職業はない」

これはグレナダ侵攻で指揮を執ったメトカーフ3世中将の演説です。
「サミュエル・B・ロバーツ」に見られる水兵、特にカーの勇敢な戦い、
自らを犠牲にして戦ったヒロイズムについて以下のように述べています。


「タイコンデロガ」「ヨークタウン」「ヴァンセンヌ」・・。

これらの独立戦争における戦いの名が、現在は
アメリカ海軍のイージス艦の名前となっていることが表すように、
伝統を受け継ぐもの、それが海軍でもある。

伝統にまつわるもう一つの重要な出来事は、今年4月12日に行われる
USS「サミュエル・B・ロバーツ」(FFG 58)の就役である。

この日、3隻の水上戦士は、1944年10月25日のレイテ湾制圧戦における
サマール沖海戦のように、再び足並みを揃えることになる。

その歴史的な日に、LCDRロバート・W・コープランドは
USS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE413)を率いて、
数でも火力でも圧倒的に勝る敵との戦いに臨んだ。

「ロバーツ」には、オクラホマ州出身、19歳の3等砲手、
ポール・ヘンリー・カーも同乗していた。
戦闘に勝利し、レイテ湾への上陸を確実にしたのは、
コープランドLCDRの優れたリーダーシップ、勇気、専門知識、
そしてカー下士官の並外れた勇気と活躍によるものだった。

しかし、その代償は大きかった。
下士官カー兵曹と多くの乗組員は生き残れなかった。
 
「サミー B.」は沈没したが、その前に彼女は
「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」という賞賛を獲得したのである。

この艦、艦長、そしてインスピレーションを与えてくれた乗組員が、
USS「 コープランド」 (FFG 25)、USS「カー」(FFG 52)、
USS「サミュエル B. ロバーツ」FFG 30
として艦隊に戻ることになる。

これは今日の海上戦士にとって何を意味するか?
これら戦闘フリゲート艦とイージス巡洋艦との関係は何だろうか?

非常に簡単に言うと、それは地上の戦士と過去、
つまり戦闘と革命の伝統とのつながりなのである。

イージスの新たな戦術を模索する際には、
アイデアの革命を起こさなければならない。
「古いやり方」にだけ埋め込まれた慣習をやめなければならない。
しかし同時に、戦いの伝統は維持しなければならない。

今日地上の戦士は、過去の戦いに斃れた人々の英雄的行為と闘志を忘れず、
また先を見据えて新たな革命が近づいていることを認識しなければならぬ。
卓越した戦闘の伝統を築くことは我々の責任である。

そうすることで我々は世界で最も偉大な海軍であり続ける保証がされる。



海軍作戦部長 J・メトカーフ3世アメリカ海軍中将

このような感動的な演説を紹介した後に残念速報ですが、
このメトカーフ3世中将ったら、そのグレナダ侵攻作戦後、
補佐官数名とともに、捕獲したソ連製のAK-47を国内に持ち込み、
ノーフォークの海軍基地で乗っていた機からそれら24丁と弾倉が押収され、

逮捕?されるという不祥事を起こしています。

軍規則と米国関税法のどちらにも違反していたからです。

しかし、ロナルド・レーガン大統領が介入したこともあって、
メトカーフは海軍から警告を受けただけですみ、しかもその後、
海軍作戦部副参謀長に任命されるなど、全く昇進にも影響なしでした。

ただし、この特別扱いが適応されたのはメトカーフだけで、
一緒に同じことをした下士官6名と下級将校1名
(うち2人は海兵隊員、5人は第82空挺師団の兵士)は全員降格、
しかも不名誉除隊となり、少なくとも1年の懲役刑を受けています。

本人にはどうしようもなかったのかもしれませんが、それを差し置いても
そうと聞くと、このご立派な演説の有り難みもあまりなくなりますね。

同じことをやっておいて、というか一番階級が上の彼が責任者なのに、
彼だけが無傷どころか出世して、部下を見捨てた?ことには違いありません。

■ 「サミュエル・B・ロバーツ」

最後にサマール沖での「サミーB」と、三代目「サミーB」の因縁の話を。

1988年、「サミュエル・B・ロバーツ」はイラン・イラク戦争のとき、
クウェートのタンカーを保護する作戦に参加しました。

補給艦と合流するとき、見張りが付近に機雷を発見し、
艦長のポール・リン中佐は、艦が機雷原に入ったことを確認すると、
乗組員を戦闘配置に送り、艦底の乗組員を甲板に上げました。

艦はエンジンを逆転させて機雷原から後退しましたが、
係留されていたイランの接触機雷に接触し、その爆発は
竜骨を破壊し、左舷に穴をあけ、2つの区画に 2,000トンの水が浸水し、
大火災が発生したため、5分間とはいえ停電に見舞われ、
消火活動もままならない状態になりました。

必死のダメコンで艦は一応安定しましたが、乗組員10人が重傷を負い、
4人が重度の火傷を負い、リン艦長も機雷の衝撃波で左足を骨折しました。

上層部から艦を失う可能性について尋ねられたリン艦長は、
我々は決して艦を放棄しない、という答えの最後に、

これに勝る栄誉はない」

と付け加えました。

「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)の艦長、
コープランド少佐が、サマール沖戦闘後の報告書に記した、

「これらの人々と共に任務に就いたこと以上に名誉なことはない」

という言葉をこの時に引用したのです。


アメリカ海軍士官学校の同窓会ホールには、レイテ湾海戦で

「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」

という名声を得た「サミュエル・B・ロバーツ」と、
その乗員を顕彰するコンコースが存在します。


続く。


護衛駆逐艦セイラーアソシエイション〜USS「リトルロック」艦内展示

2024-12-23 | 軍艦
 
バッファローネイバルパークに係留展示されている
巡洋艦「リトルロック」艦内の展示物をご紹介しています。




「デストロイヤー・エスコート・セイラーズ・アソシエイション」
Destroyer Escort Sairors Association

「駆逐護衛艦水兵協会」(直訳)バッファロー支部のマークです。
ここからは、DEタイプ駆逐艦とその乗員に関係するものが展示されています。



で、最初に冒頭写真の士官のマネキンが登場するのですが、
その靴の近くには、
「ボトムポリッシング キット」=靴磨きセット
があります。

古今東西、軍人は靴を磨き上げるのがデフォになっていますが、
その関係で、欧米の靴墨には、「ミリタリー」という商品名が多いです。

グリフィンというメーカーは、この缶の文字から見ても
おそらくフランス語圏の会社だと思うのですが、
アメリカの国旗、無茶苦茶怒ってる曹長、所々英語というのが
靴磨き=アメリカ軍のイメージで商品を売っていることがわかります。

また、マネキンが着ている制服の寄贈者は、名札によると

Harry G. Engster大尉

この名前で検索すると、同氏の訃報とお葬式の告知が出てきました。
アメリカ人名を検索すると、有名人以外はこの死亡告知がよくヒットします。


obituaryは訃報という意味です。

アメリカでは、故人の生前の業績と遺族についての情報、
そしてどこでお葬式が行われるかの情報をオンラインで検索でき、
そのページに辿り着いた人が「オンライン献花」することもできます。

遺族が見たとき、どんな人が故人に弔意を示したかわかります。

その情報によると、エングスター氏は、

ハリー・G・エングスター
1920年11月4日~2011年11月16日

91歳、ウォーレン在住、2011年11月16日水曜日、自宅で安らかに死去。

ウォーレン・G・ハーディング高校とヤングスタウン・ステート大学を卒業し
第二次世界大戦中は米海軍大尉を務め、海軍予備役中佐として退役した。

引退前はパッカー・トーマス社の公認会計士であり、
狩猟、ボート、テニス、ゴルフを楽しみ、
毎年子どもたちのためにサンタクロースを演じていた。
彼は第一長老派教会の会員であり、長老と助祭を務めた。


第一長老派協会はプロテスタントの教派です。

なお、同氏のお葬式の際の献金は、退役軍人に盲導犬を提供する
「4 Paws 4 Patriots 」プログラムの資金となることが記されています。


■ シルバースタイン中尉



士官のマネキンと反対側にあるのがセーラー服の人形。
足元には映画でお馴染み、水兵用のダッフルバッグと脚絆などが見えます。

おそらく右下のUSS「シルバースタイン」乗員だったベテランの寄贈です。

1944年に就役した「ジョン・C・バトラー」級護衛艦、
「シルバースタイン」の命名由来は、
USS「シムズ」DD-409の機関長であり、珊瑚海海戦で戦死した
マックス・シルバースタイン中尉です。


シルバースタイン兵学校時代

1942年5月7日、珊瑚海海戦で、「ネオショー」の護衛だった「シムズ」は
日本軍の航空攻撃によって7発の直撃弾を受け、
急降下爆撃の攻撃により爆発炎上して沈没しました。

駆逐艦「シムズ」の機関長だった彼は、最初の直撃で意識を失うも、回復し、

「冷静にボイラーの固定、安定性を保つための上部の重りの投棄、
沈没を防ぐための修理の準備を指示しました。」
(生存者談)

その後、「シムズ」の機関室では250キロ爆弾が2発爆発し、
その数分以内に艦体は中央部で座屈し、波間に沈むと同時に大爆発しました。
そのときの爆発で船の残骸は海面から数メートル跳ね上がったそうです。

そして、シルバースタイン中尉の名前は
「バトラー」級護衛護衛艦「シルバースタイン」に遺されました。

■ 護衛駆逐艦「シルバースタイン」

さて、その「シルバースタイン」は1944年7月14日に就役しました。

太平洋に投入されてエニウェトク、グアム、ウルシーで行動し、
4月に予定された沖縄侵攻に向かう軍艦を護衛するうち終戦を迎えます。

終戦を受けてすぐさま不活性化され退役し予備役となっていましたが、
朝鮮戦争で再活性化されて横須賀に向かいました。

キャプテンと砲塔から顔をだす砲員二人 朝鮮戦争中、元山にて

このとき元山(ウォンサン)では同港の敵陣地の砲撃も行っています。
その任務のあとは室蘭に向かい、横須賀を母港にしていました。

「シルバースタイン」にとって最大の事故は、1958年5月29日、
ハワイで、潜水艦
USS「スティックルバック」(SS-415)と衝突
したことです。

事故状況が非常にわかりやすい衝突
潜水艦は沈まないように頑張って浮上モードにしている?

この写真を見てもなんとなくわかりますが、事故後しばらく
潜水艦の方は浮いていたため、乗組員82名全員は無事救出されました。

あわよくば潜水艦も助けたかったはずですが、それは叶わず、
その後、潜水艦は二度と浮上しない最後の潜航を行ったということです。

■ USS「アール・V・ジョンソン」


USS「アール・V・ジョンソン」乗組員だったバッファロー出身者の、
現役時代&ベテランとしての思い出アルバム。

USS Earl V. Jhonson(DE-702)は、
「ヨークタウン」偵察飛行隊の一員で、予備士官アール・ジョンソン中尉が、
太平洋における日本空軍との交戦中、戦死したことを受けて建造されました。

1944年に就役した同駆逐艦は、第二次世界大戦中はニューギニア、
レイテ、ウルシーなどに展開し、中でも8月4日には、
日本の潜水艦との3時間に及ぶ死闘を繰り広げたりしています。
終戦後すぐに退役しました。

■ USS「イングランド」

USS England(DE-635)

1943年就役した護衛駆逐艦で、太平洋に展開しました。



艦名由来となったジョン・イングランド少尉(享年20)は、
真珠湾攻撃の時に「オクラホマ」で戦死しました。

カリフォルニアの裕福な街パサデナ生まれで、
高校時代は演劇青年だった彼は、予備士官に任官し、
「オクラホマ」の無線室に配備されました。

1941年12月7日、その日彼は本来なら休暇だったのですが、
新婚の妻と生後3週間の娘が訪ねてくる予定に合わせて休むため、
同僚と勤務を交代して無線室に勤務していました。

午前7時、真珠湾を攻撃してきた日本軍の主標的は「オクラホマ」で、
最初に落とされた3発の魚雷に壊滅的な破壊を受けます。

イングランド少尉は総員退艦の命令にもかかわらず、
艦内と無線室に3回戻って、3人の乗員を救出しました。
そして4人目を救出するため艦内に戻り、そのまま助かりませんでした。

「イングランドの仇」

と題された、対潜用深度魚雷を撃ち込みまくっているこの絵。
ここでいう「リベンジ」が何を意味するのかはもうお分かりですね。
「イングランド」がイングランドの仇を取っているの図。

「イングランド」は12日の間に6隻の潜水艦を撃沈し、
対潜水艦戦史上類を見ない成績を挙げた駆逐艦として有名です。

1945年5月、日本の急降下爆撃機の攻撃によってダメージを受け、
修理中に戦争が終わってしまったので、あっさり廃艦処分となりました。

ちなみに、「オクラホマ」で戦死したのは429名で、
当時はそのほとんど(388人)が身元不明者のまま埋葬されました。

そのとき、海から引き揚げて身元確認せず埋葬してしまったこともあり、
後に行ったDNA鑑定によると、ひとつの棺の中に、
少なくとも95人分の遺体が混じっていたということです。

2007年になって「オクラホマ」の乗員の埋葬遺体は全て発掘されましたが、
2019年の段階で身元特定されたのは236名であり、152体は不明のまま、
そして当時から今日まで行方不明で全く手掛かりがない乗組員は267名です。

イングランド少尉の身元はミトコンドリアDNAの検査で明らかになり、
彼は両親の墓の隣に軍の栄誉をもって再埋葬されました。

■ USS「ホーエル」



「ホーエル」 (USS Hoel, DD-533) は、「フレッチャー」級駆逐艦で、
命名由来は南北戦争中戦功を挙げたウィリアム・R・ホーエル中佐です。

1943年7月に就役し、11月にはマキンの戦いに参加。
そこで日本潜水艦が撃沈した「リスカム・ベイ」の生存者救助を行いました。

1944年10月25日、レイテ湾で栗田健男中将率いる第二遊撃部隊が
対空射撃をしながら接近してきて、「ホーエル」の艦隊は3分以内に
戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻及び11隻の駆逐艦からの猛攻に曝されました。

「ジープ空母」と「ブリキ缶」からなる小艦隊は南に逃走。
「ホーエル」ら護衛艦は、煙幕を張って「ベビー空母」を
栗田艦隊から覆い隠そうと、無我夢中で駆けずり回りました。

しかし、戦力差は圧倒的でした。

もはやこれまでと、艦長は反転して栗田艦隊に立ち向かうよう命じ、
「ホーエル」は即座に戦艦「金剛」と重巡「羽黒」に向かって突き進みます。

「金剛」の36cm砲の射程内を突き進みながら攻撃を続けた「ホーエル」は、
その結果「羽黒」から猛攻を浴び、マーク37射撃指揮装置、
機関室、艦橋、レーダー、操舵装置など、40発の命中弾を受けて、
(その中の一つは『大和』からものだったという話もあり)
総員退艦の末、横転し、多くの乗員とともに沈没していきました。

このとき、駆逐艦「磯風」が、沈没寸前の「ホーエル」に接近し、
機銃員が「ホーエル」の生存者に照準を合わせたそうですが、
艦長前田實穂中佐が攻撃中止を命じてやめたという話が残されています。

前田艦長の命令は、おそらく艦が沈むことが確実なので、
これ以上の攻撃は無駄という合理的な考えからだったのかもしれませんが、
このときの乗組員は、海上の日本兵を容赦無く射殺していた米軍に対し、
絶好の仇を取るチャンスを潰され、忸怩たる思いだったと語っています。


■ 戦争は終わった


日本の降伏を報じる「ザ・スターズ・アンド・ストライプス」号外



そして、前にも説明した「セイラーの像」のポスターです。

「駆逐艦水兵協会」の展示、もう少し続けます。

続く。


公式には「紛争」だったベトナム戦争〜USS「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-20 | 歴史

「ベトナムルーム」を終わったつもりでしたが、あと一回続けます。
USS「リトルロック」艦内を利用した展示室、
「ベトナムルーム」の展示から、主に戦死者の遺品を中心に紹介します。

■ 戦死したフットボール選手



ベトナムルームのケース内に、こんなコーナーがありました。
陸軍のアメリカンフットボール選手で、プロチームでも活躍した、



ジェームズ・ロバート(ボブ)・カルス
James Robert Kalsu(1945−1970)


の着用した帽子が展示されています。

アメリカ史上、ベトナム戦争で戦死した二人のプロフットボール選手
(もう一人はクリーブランド・クラウンズのドン・スタインブルンナー)
のうちの一人でした。

その後、2004年にアフガニスタンで、陸軍レンジャー部隊の軍曹、



パトリック・ダニエル・ティルマンJr.
Patrick Daniel Tillman Jr. 1976-2004

が戦死するまで、史上最後の戦没プロフットボール選手とされていました。

オクラホマ大学でフットボール選手として活躍したカルスは、
バッファロー・ビルズに指名され、プロ選手となりました。

ベトナム戦争が始まると、予備役将校訓練課程(ROTC)だったカルスは、
1968年のシーズンが終了していたこともあり、少尉として陸軍に入隊し、
第101空挺師団の一員として1969年南ベトナムに着任しました。

そして1970年7月21日、駐留していた彼の部隊は
敵の82ミリ迫撃砲の攻撃を受け、彼はその砲撃で亡くなりました。

彼が、ベトナムの丘の上に位置する駐屯地で
妻からの手紙を読んでいるときに攻撃が始まりました。

迫撃砲が直撃したとき、彼は今日が彼女の出産予定日であることを知らせる
その手紙を持ったままだったといいます。


この攻撃でキャンプに撃ち込まれた砲弾はおよそ600発と言われ、
そのうちの1発がカルスの後頭部に炸裂したのでした。

彼の妻は予定日きっかり(つまり彼の戦死した日)に自宅で産気付き、
第二子であるジェームス・ロバート・カルスJr.を出産しましたが、
二日後、夫が息子の誕生日に戦死したという通知を受け取りました。。


カルスの遺族(右側息子:父の生まれ変わりかというくらい瓜二つ)

戦死時のカルスの階級は中尉。
空挺バッジの他にブロンズスター、パープルハート勲章を授与しています。


あとは誰のものかはわからないベトナム土産の数々が飾ってありました。
左のはベトナム獅子舞の頭でしょうか。

ベトナムでは、テト(旧正月)が明けた仕事始めや、
あるいは店開きなどの際に獅子舞を行う風習があります。
(テトというと、『テト攻勢』を思い出しますね)

獅子舞は中国発祥でアジア全域に伝播していますが、
いずれの国でも正月を祝うために舞うという共通点があります。


手前のアオザイには英語で「Ao Dai」と説明があります。
あとはほとんど土産店で売っているようなものです。

■ POWブレスレット


円筒形のアクリルに被されたブレスレットが並べられたケース。

各ブレスレットにはベトナム戦争中に捕虜/行方不明とされた
23人のニューヨーク州西部の軍人の名前が刻まれています。

このケースは博物館が独自に製作したもの。
行方不明者全員がアメリカの土を踏み、
ブレスレットが全て取り外される日までこのまま保管されます。


POW/MIA BRACELETA Prisoner Of War Bracelet 
(またはPOW/MIA Bracelet)は、ベトナム戦争中に捕虜となった
アメリカ軍人の名前、階級、行方不明となった日付が刻まれた、
メッキまたは銅製の記念ブレスレットのことです。



このブレスレットは、1970年5月、カリフォルニアの学生グループ
「ヴォイス・イン・バイタル・アメリカ」(VIVA)が、
ベトナム戦争で捕虜となったアメリカ人を忘れてはならない、
という意図のもとに作られたのがきっかけになりました。

このブレスレットは現在も販売されており、
収益は、捕虜/行方不明者の家族に寄付されています。

フロリダ州タラハシーにあるブレスレット記念碑

ブレスレットをつけていた人たち、そして今もつけている人たちは、
ブレスレットに名前が記された兵士、あるいはその遺骨が
アメリカに帰還するまで、ブレスレットをつけ続けることを誓っています。

1970年から1976年の間に、およそ500万個が配布されました。



アメリカに来たことがある人は、おそらく一度はどこかで見る
POW/ MIAフラッグの意匠です。

You are not Forgotten
(あなたたちは忘れられていない)

という捕虜・行方不明者へのメッセージが書かれています。
そしてこのような作者不明の詩も。

私は捕虜だ

第一次世界大戦中に生まれた
以来、すべての戦争に参加してきた
兵士になったとき、捕虜になるつもりはなかった
- 上官に命じられたから仕事をしただけだ

凍え、熱され、空腹で、拷問され、こきつかわれ、虐待され、殴られた
生きて帰るためにできることをした

捕虜として経験したことは、誰も理解できない
捕虜になり、行方不明者の名簿に名前が載せられる
これ以上悪いことがあるだろうか

MIAを忘れさせないで
彼らを見捨てないで
彼らは兄弟なのだ
彼らは帰還を叫び求めているのだ



ベトナムルームの展示を見終わったと思ったら、
そこに、この展示全体についての説明がありました。

・・・・・わたしはもしかして逆から見学していたのか?

この展示品には、ベトナム帰還兵から寄贈された記念品が含まれています。

展示の目的は、この史上最も評価されなかった戦争に従軍した、
多くの人々の勇気と犠牲を思い起こさせることです。

ベトナム戦争で58,300人の軍人が全力を尽くしましたが、
その中にはラオスとカンボジアで亡くなった軍人も含まれています。

「史上最も評価されなかった」

というのは、「most unpopular war」が原文です。
「最も人気のない」と訳してもまあ間違いではない気がしますが、
じゃ逆に聞くけど、「人気のある戦争」って何?

そして、わたしはここから先に心底驚きました。

米国議会が実際にはこれを「公式戦争」 と宣言していないため、
公式には「紛争」と呼ばれていますが、軍にとってその違いはありません。


そ、そうだったの〜〜?
アメリカ的にはベトナム戦争は「War」でなく「conflict」だったってこと?

でも、ベトナム戦争のことを「ベトナム紛争」って呼ぶ人なんて、
古今東西公人民間人問わず存在しませんよね?

これって、宣言しなかったというより、し忘れただけじゃないか?
っていうか、必要以上にだらだらやっている間になんで決議しなかったのか。

気を取り直して続き。

ベトナム戦争は1955 年に「始まり」、1975年にサイゴン
(現在はホー チミン市と呼ばれる)の陥落で終わりました。

この戦争では、南ベトナムの民間人19万5,000人から43万人、
北ベトナムの民間人5万人から 6万5,000人、
さらに、少なくとも4万人のカンボジアの民間人、
約110万人の共産主義北ベトナム軍とベトコン軍が殺害されたとされ、
未だに1600 名以上の兵士が戦闘中行方不明(MIA)に、
720〜840名の米軍兵士が捕虜になったまま(POW)となっています。



WNY VIETNAM VETERAN'S MONUMENT
ベトナム帰還兵記念碑

これは前回バッファローを訪れた時、写真を撮って紹介した記念碑です。





WNYとは「ウェスタンニューヨーク」のことで、
つまりここバッファローも含まれるニューヨーク州東部出身の
ベトナム戦争ベテランの名前が記された記念碑となります。

で、このお知らせが何かというと、

修復プロジェクト

30年の歳月を経て、改装が必要です。

究極の犠牲を払った私たちの英雄を讃えるために、
活気を取り戻すためにご協力をお願いします。
税控除の対象となる寄付は、
Western New York Veteran's Housing Coalition, Inc.にお願いします。
小切手の宛先は:Vietnam Monument Restoration Fundです。

どこがどう不具合で修復が必要なのか、
少なくとも近くで写真を撮ったわたしにはわかりませんでしたが、
寄付を募って資金集めをしなければならない事情があるようです。


最後に、このコーナーを締めくくるのは
ウッドロー・ウィルソン第28代アメリカ合衆国大統領の言葉です。

ウィルソン大統領は初めて「国旗を公式に記念する日」として、
1777年に議会が「星条旗を採択した」6月14日に制定を行いました。

これを受けて6月14日、海岸から海岸までの大通りに国旗がはためき、
マーチングバンドは「星条旗よ永遠なれ」や「ディキシー」を演奏し、
議員は町の広場で演説を行われ、しばらくはそういうこともありましたが、
今日では、6月14日の演説やパレードはほとんど見られません。

たとえ6月14日に大通りに国旗が並んでいるのを見ても、多くの人は
「7月4日にしては早すぎる」「何の日だろう」と思うでしょう。

それどころか、もし昨今議員が愛国的な演説をこういう場で行えば、
下手すると罵声を浴びせられたりしかねないご時世でもあります。
(それもこれもアメリカが昨今陥っている分断化の影響ですが、
トランプ大統領復活で多少は空気も変わってくるかもしれません)

それはともかく、ウィルソン大統領は、記念日制定に際して
以下のような演説を行い、それがここに書かれています。

我々が称え、その下で奉仕するこの旗は、
我々の団結、力、国家としての思想と目的の象徴である。

この旗は、我々が世代から世代へと与えてきた以外の何ものでもない。
その選択は我々に委ねられている。

平和であろうと戦争であろうと、
その選択を実行する軍勢の上に堂々と静かに翻っている。

そして、たとえ沈黙していようとも、
それは我々に語りかけてくるのである。

なお、オールド・グローリーとはアメリカ合衆国の国旗の愛称です。

続く。



ブルーノーズ〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」の勲章

2024-12-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

USS「リトルロック」艦内展示をご紹介しています。
ベトナム戦争記念関係を終わり、今日は「リトルロック」の歴史に触れます。

■ USS「オクラホマ・シティ」艦内図


と言いながら、USS「オクラホマ・シティ」の図が登場しました。

「オクラホマシティ」は「リトルロック」と同じ船体設計に基づいており、
姉妹艦のように似た区画化がされていました。

図を見てわかるように(というか軍艦はどのタイプもそうなのですが)
迷路のように入り組んだスペースに作業室、居住スペース、貯蔵室が位置し、
そのため無期限に自らを維持し、防御し、推進することができます。

以下、色分けされた区画の役割です。

 Ship Control Spaces (船舶制御機関)

■ Weapons Spaces(武器)

Engineering Spaces(エンジン)

Rader And Radio Spaces(レーダー・ラジオ)

 Living Quaters(居住区画)

 Work Spaces

 Offices(オフィス)

 Supply Stoage(倉庫)

この横にあった、「船の構造」という文を見てみます。
当たり前すぎることがきちんと書かれています。

【船の構造】

リトル・ロックのような12,000トンを超える積載量を誇る船を見るとき、
その船の大部分が上よりも水中にあることを理解するのは難しい。

また、この船が何千トンもの鋼鉄で造られ、
その鋼鉄の厚さが6インチもあるにもかかわらず、船が浮いているのは、
周りの水よりも軽いからと考えることもなかなか難しい。

船は基本的に中空の鉄の箱であり、橋の箱桁と同じように作られている。
家を建てるのと同じように、それは梁と板で構成する。

まず、船の骨となるキールが船体の中央に縦に敷かれる。

次に、キールに対して直角に横方向のフレームが肋骨のように配置される。

縦方向の骨組みは船首から船尾まで長く続き、
横方向の骨組みをつなぎ合わせる。

船は、横から横へ、船首から船尾へと走る隔壁
(壁)によって区画されている。

船の側面、船底、上甲板は鋼板で覆われる。

船の一番上の甲板はメイン・デッキと呼ばれ、
メイン・デッキの上にあるコニング・タワーなどは上部構造物と呼ばれる。


船は水雷や魚雷などの水中爆発に対して、二重底、
あるいは「リトルロック」のようなクリーブランド級巡洋艦の場合は
ブリスターボイドとともに「三重底」になっている。

voidとは、void space: 船内の利用されていない空間部分のこと。
他の荷物を引き出すためなどの理由で荷物を 積むことができない空所。

空船腹(=void space); 死角 (射撃できない地域)ともいいます。

ブリスター(blister)は「水膨れ」の意味で、船のブリスターといえば、
塗装に出てくる水膨れ状態のものであるらしいのですが、
ここでは構造の状態を指しているようなので、
そのように見える部分(バルバス構造のような)のことでしょうか。

ちょっと自信がありません。

三重底は、船の片側からもう片側まで、
3つの小さな区画が連なって構成されていることをいう。

これらの区画の1つ以上が損傷することになっても、
浸水は船全体に及ぶことはなく、比較的狭い範囲にとどめられる。

もし魚雷が爆発し、そのうちのいくつかが損傷することがあっても、
ダメージは船の外側の部分に限られ、
保持隔壁を貫通して重要な部分に及ぶことはない。

■ ブルーノーズ勲章



これは、「リトルロック」が授与された「ブルーノーズ・オーダー」です。
はて、「青鼻の勲章」とは何ぞ。

有名な「赤道まつり」は、船が赤道を越えたときの記念のお祝いですが、
それに倣い、船が北極圏に到達した時も、それを寿ぐ行事が行われます。

そして、北極圏内に到達したメンバーは自動的に友愛会に入会するのですが、
その友愛会の名前が「ブルーノーズ・オーダー」なのです。

北極圏は、地球の地図を示す5つの主要な「緯度圏」の1つです。
これは、赤道の北66度33分44インチ (または66.5622 度)を走る緯線です。

1946 年11月30日、 USS「リトルロック」は、CL -92として初めての、
そして1965年9月25日、CLG-4として北極圏に2度目の到達を果たし、
このとき乗務していた乗員すべての人々は、北極越えの式典に参加し、
永遠に「ブルーノーズ」の友愛会員資格を得ることになりました。

なおこの1度目の証明書には、以下のように記されています。

 ウィリス・ジェームズ R. S1が乗務する
USS「リトルロック」 (CA-92) は
西暦1946年11月30日に北極圏を横断し、
ホッキョクグマの北の領域に達したことを証明します


この儀式は伝統に則り、「ブルーノーズ」と呼ばれるのは資格者だけです。
ちなみに、海軍には他に次のようなフラタニティ(友愛会)があります。

「シェルバック」Shellback
赤道通過

「赤鼻勲章」Order of the Red Nose
南極圏横断

「黄金の龍勲章」Order of the Golden Dragon
日付変更線通過

「溝の勲章」Order of the Ditch
パナマ運河通過

「サファリ・トゥ・スエズ」Safari to Suez
スエズ運河通過

「ゴールデン・シェルバック」Golden Shellback
赤道と国際日付変更線が交差する地点を通過

「エメラルド・シェルバック」Emerald Shellback
「ロイヤル・ダイヤモンド・シェルバック」Royal Diamond Shellback

西アフリカ沖0度(赤道と主子午線が交差する地点)を通過

「マゼラン勲章」Order of Magellan
(船で)地球一周

「湖水勲章」Order of the Lakes
五大湖すべてを航海


ちなみに、USS「リトルロック」は北極圏を横断したことを記念して、
艦首は青く塗られており、桟橋からそれを確かめることができます。


ノーズって、これ(フェアリード?)のことだったんですね。
言われるまで、全く色が青いのに気づきませんでした。

■ アメリカ海軍讃歌
”永遠の父よ、救いたもう強きものよ”



            アメリカ海軍の公式賛歌が展示されていました。

それぞれの聖句は、三位一体の主がその被造物に対する主権者であり、
人がそれに完全に依存していることを表しています。

永遠の父よ、救い給う強き者よ
その腕は荒れ狂う波を縛り、
大海の深みにその定められた限界を守らせ給う

救い主よ,その声を水は聞き
汝の言葉に,荒れ狂う水を静めた
泡立つ深海の上を歩まれた方
その荒れ狂う中にあって、静かに眠っておられた
我らが汝に叫ぶ時、聞け
大海の危機にある者たちのために

最も聖なる御霊は
暗黒の荒れ狂う水の上に
その怒りの騒動を止めさせ
荒れ狂う混乱に平和を与えた
海上の危機のために

父よ、地と海の王よ
この船を汝に捧ぐ
汝を信じ、謹んで祈る
天より我ら船乗りの叫びを聞け
高みよりこの船を見守り給え!

そして、やがてその航路が行われる時われは汝に祈る
凡ての魂を受け継ぐ者よ
一人の命も失われぬように
天より我ら船乗りの叫びを聞け
そして、永遠の命を天から与えたまえ!



The US Navy Hymn

続く。


戦死した女性軍人たち〜USS「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-14 | 歴史

巡洋艦「リトルロック」艦内を利用したベトナム戦争関連展示から、
今日はベトナム戦争に参加した女性軍人についてご紹介します。

■ ベトナム女性記念碑


以前ピッツバーグのハインツミュージアムで開催されていた
ベトナム戦争展示をご紹介する際、この
ベトナム女性慰霊碑に触れ、画像を上げたことがあります。


女性彫刻家、グレンナ・グッドエーカーが制作し、
ワシントンD.C.に設置されたこの作品は、負傷した兵士と女性二人、
どちらも看護師で一人は兵士を抱き抱え、アフリカ系看護師は空を見て、
ヘリの到着を待っているかのような瞬間を表現しています。

ベトナム戦争がようやく過去のこととなった1984年、
看護師としてベトナムに派遣されたダイアン・カールソン・エバンスは、
ベトナム戦争に参加した女性の勇気と、犠牲者を称えるため、
他二人とともにベトナム女性慰霊財団(VWMF)を設立しました。

戦争中、延べ26万5千人以上の女性軍人と民間人女性が従軍しましたが、
ベトナムに駐留した米国女性は約1万人で、その90%は看護師でした。

その他は、医師、理学療法士、医療関係者、航空管制官、
軍事情報部、行政部などで、民間人は、赤十字、USO、
スペシャルサービス、アメリカン・フレンズ・サービス委員会、
カトリック・リリーフ・サービス、その他の人道支援組織や、
報道特派員やワーカーとしてベトナムに派遣されていたわけです。

その中の8名が、命を落としました。

しかし、記念碑設立計画は、なぜか男性だけでなく女性から反対されました。
もとタスクフォース勤務で当時コネチカット知事だった
ジル・A・ミシュケル
の反対理由は以下の通り。

「退役軍人(ベテラン)という言葉は男性を意味する。
私たち(女性)が称えられるべきという提案すら不快である」


また、ベトナム慰霊壁の設計を行った中国系デザイナー、マヤ・リンも、

「(この追加を許可することは)記念碑が適切な、
法的および美的承認プロセスを経てから何年も経った後でも、
我々の国定記念物が民間の利益団体によって改ざんされる可能性」

というよく意味のわからない反対意見を出しています。

しかし結局、男性の上院議員2名、下院議員1名によって法案が提出され、
レーガン政権時代に、記念碑の設置の署名がまず行われました。

今にして思えば大変不思議なのですが、
国のため出征して戦場で任務を果たし身を危険にさらし、
その結果命を失った女性を顕彰することの一体何が問題だったのでしょうか。

エレノア・グレース・アレキサンダー大尉


冒頭写真の装備は、海兵隊の外科看護師であった、
Cap.  Eleanor Grace Alexander 

エレノア・グレース・アレキサンダー大尉

が着用していた迷彩服とブーツです。

彼女のマネキンは、愛用していた聴診器を首にかけ、
マネキンの後ろの彼女の認識票が大きく拡大されたポスターには、

”Not all women wore love beads in the sixties.”

直訳すれば「60年代、全ての女性が首飾りを愛したわけではない」
つまり戦場に自ら身を投じる女性もいた、という意味のフレーズが見えます。

1940年生まれのアレクサンダー大尉は、
ニューヨークの病院で外科看護師として勤務していましたが、
政治的関心の高さから陸軍看護部隊を志願しました。

友人は彼女が入隊したとき、危険を感じて、
代わりに平和部隊で国のために尽くしてはどうかと助言したのですが、
彼女の意思は固く、国内で訓練を受けたのち、医療旅団に配属されます。

1967年11月30日、アレキサンダー大尉は、戦闘で負傷した兵士のため、
プレイクで治療任務を行ないましたが、任務後基地に戻る飛行機が墜落し、
同乗していた25名と共に、27歳の若さで亡くなりました。

彼女がベトナムに着任してまだ1年も経っていませんでした。


国防総省は数日間この事故を公表しませんでした。
敵に情報が漏れることで捜索活動に障害をきたすからです。

ある新聞記事はこのことを以下のように伝えました。

「先週の木曜日、双発の輸送機がクイニョン南のジャングルの中で墜落し、
乗員全員となるアメリカ人26名が死亡した。
飛行機には4人の乗組員、2人のアメリカ民間人、
18人の陸軍兵士、2人の空軍兵士が乗っていた。

墜落の原因は不明。
飛行機はプレイクからクイニョンに向かう途中であった。」

彼女はベトナムで仲間の兵士たちから信頼され賞賛を受けていました。
ある兵士は、こう回想しています。

「アレクサンダー大尉を失ったとき、誰もがとても悲しみました。

戦場の常として我々は部隊から兵士を戦死によって失っていましたが、
そのような損失に対しては、こう言ってはなんですが、
元々覚悟があったというか、心のどこかで予期するものがありました。

しかし、アレクサンダー大尉の場合は少し違いました。

彼女を失ったことはいつもより皆を落ち込ませ、
喪失の悲しみで部隊には暗雲が垂れ込めたようになったのです。

彼女がいなくなって、私たちは皆、彼女をなんというか、

いかに理想化していたか、何より愛していたことに気づいたんだと思います」

同僚の看護師も、エレノアの戦士による喪失感に苦しめられました。

看護師で友人のローナ・プレスコットは、自らの心的外傷から
戦後看護師を辞めることになりましたが、その後、経験を活かして
心的外傷後ストレス症候群に苦しむ退役軍人のカウンセラーになりました。

彼女は戦後23年経って、エレノアにこんな手紙を書きました。

エレノア、あなたは私より数カ月年上。

「スーパーナース」としてO.R.を支えていましたね。

あなたは決して慌てず、ミスをせず、
身だしなみさえきちんとしていて、一流だと思った。

一方、私は目の前の生活に追われて、怒り、苛立ち、
ついでにくせ毛と毎日格闘していたわ。

どうやって持ちこたえたの?
みんな、あなたに頼っていたよ。

あなたと私は、トリアージし、仕事をこなし、兵士たちを動かし、祈った。
私はいつも怒鳴ってばかりだったけど、あなたはそうしなかった。
私はあなたの強さに感心してたし、羨ましかった。

テントの下で働いたり、ヘリからすぐに負傷者を運び出したり、
暑さの真っ只中に身を置いたりしましたね。

私が緊急外科チームに配属されたとき、
あなたはそこには自分が行きたい、といっていたっけ。

そのチームは1日24時間対応が基本だったのに。

あの時、プレイク出張の電話は緊急外科チームの私にかかってきた。
私がそこにいなかったので、あなたは私の装備とジャケットをつかんで、
私の代わりに激しい戦闘と死傷者の多いプレイクに行ってしまった。

それを知って、私は内心あなたのためにはよかったと思ってたの。
でもそれから6週間後、クィニョンに帰るあなたの飛行機が墜落した。

あの日はとても風が強かったわ。
あなたはV.C.領土の奥深くの山に墜落した。
機体には弾痕があったと聞かされた。

数日後、あなたの遺体が回収された。
少なくとも捕虜にはならなかったようだけど・・即死だったの?
・・・・痛みはあった?

私は追悼式に行くことができなかった。
精神安定剤を手に入れて薬を全部飲んだ後、眠り続けた。

どうして私は生き残って、あなたは死んだの?

エレノア、「壁」に行くと涙が出て止まらない。
あなたの死に涙が止まらないの。

23年経った今も、そのことをよく考える。

神のご意志なのか、それとも私があなたの運命を狂わせたのか。
申し訳ないのか、罪悪感を感じるべきなのか。
どうすればいいのかわからない。

私はあなたから命を奪ったの?


それとも、チームの一員として究極の看護をするという経験を、
無謀にもあなたにさせてしまったのかしら?

そのことを知りたかったけど、本当は知りたくなかったのかもしれない。

私があなたの統率力と冷静さに驚嘆すれば、
あなたは手術、点滴、剥離をフルでこなした私の経験を羨ましがった。

「わたしも本当に重要な仕事をするチャンスが欲しいわ」

って。

私はいつも、第85師団でのあなたの仕事の方が、
第616師団での私よりもうまくいっていると思っていたけどね。

エレノア、あなたは死ぬ前に「チャンス」を得たのよ。

それは私のおかげなのよ。
チャンスを得たあと、あなたが死んだことも。

それは違うと自分に言い聞かせてきたけど、でも、本当はそうなんだわ。

私はもがきながら、相変わらず不完全ながらも、
今も何かを世の中に与えようとしています。

私のように傷ついた他の生存者を助けること。
あなたのためにもそうしなければならないと思っています。

あなたの友人

ローナ



アレクサンダー大尉のマネキンの足元には、死亡記事、
彼女の追悼式のプログラム、戦後、彼女の兄が
手術室の制服を着た彼女を描いた絵と一緒に写っている追悼記事があります。

こうして、エレノア・アレクサンダー大尉は戦死後、
青銅星章とパープルハートを授与されました。


■戦死した8名の女性軍人

ベトナム戦争では、8名の女性軍人が任務中死亡し、
ワシントンD.C.にある壁に名前を追加で刻まれました。

シャロン・アン・レーン陸軍中尉(ロケット弾直撃による死亡)

エリザベス・アン・ジョーンズ陸軍少尉(ヘリが高圧線に触れ墜落)

キャロル・アン・エリザベス・ドラズバ陸軍少尉(ヘリ墜落)

アニー・ルース・グラハム陸軍中佐(脳卒中:搬送先の日本で死亡)

ヘドウィグ・ダイアン・オルロウスキー陸軍中尉(輸送機墜落)

メアリー・テレーズ・クリンカー大尉(輸送機の墜落)

パメラ・ドロシー・ドノバン陸軍少尉(戦病死)

圧倒的に多いのが輸送中の事故による戦死です。



続く。



レイモンド大佐とフライトオフィサークーガン〜ハリウッドセレブIN航空隊

2024-12-11 | 飛行家列伝

ジェームズ・ステュアート、クラーク・ゲーブルと、共に
第二次世界大戦に陸軍航空隊に入隊したスターを取り上げてきましたが、
今日は二人ほどビッグネームではないものの、戦争が始まったとき志願し、
航空隊に貢献した二人のハリウッドセレブをご紹介します。

■ ジーン・レイモンド大佐 USAFR


まず、ジーン・レイモンドという俳優の名前を知っている人は、
日本人にはあまりないのではないかと思います。
(日本語のwikiのページはない)

しかし、アメリカでは俳優としてだけでなく、歌手、作曲家、脚本家、
監督、プロデューサー、つまりハリウッドセレブとしての顔と、
軍パイロットという肩書きで広く知られる存在です。



しかし、この顔にも、出演した作品名にも正直全く記憶がありませんでした。
10 Things You Should Know About Gene Raymond 航空隊での写真は1:12~

まあ、そういう才人でセレブだったということでよろしいでしょうか。
(適当)

1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻したとき、
当時31歳の俳優、ジーン・レイモンドは、
アメリカもいつか戦争に巻き込まれると確信していました。

共和党支持であった彼は、自費でパイロットになるための飛行訓練を受け、
1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃が勃発すると、
即座に映画製作のキャリアを中断して少尉の任命を受けました。


レイモンドが陸軍入隊試験で面接をした中佐の合格通知です。

1942年2月13日、ワシントンD.C.空軍司令部
覚書:
陸軍航空部隊A-2本部参謀長補佐ワシントンD.C.へ

私は、ジーン・レイモンド氏の合衆国陸軍への志願に際し、
個人的に面接を行いました。

彼の人格、性格、知性、そして一般的な適性は、
将校としての任務に適任であります。
人を扱った経験、パイロットの等級と航空経験、
そしてこの種の仕事に対する主体性と興味、
いずれも情報部の任務に適任であると考えます。

レイモンド氏の申請が承認された場合、空軍戦闘司令部本部に配属し、
G-2課に配属されることが望ましいと考えます。

その計画・訓練ユニットで、動画、シルエット、
模型、写真などの視覚情報訓練に従事するのが適任と思われます。

私はレイモンド氏がこの特別な仕事に十分な資格を持っていると信じます。

ローリス・ノースタッド 空軍中佐




米国陸軍宣誓(暫定)

私ジーン・レイモンド(自筆)は、合衆国陸軍の暫定的大尉に任命され、
内外を問わずあらゆる敵から合衆国憲法を支持し擁護すること、
同憲法に忠誠を誓うこと、
この義務をいかなる精神的留保や忌避の目的もなく自由に負うこと、そして、
これから就く職務の義務を十分かつ誠実に果たすことを厳粛に誓います:

ジーン・レイモンド(サイン)



当初はB-17の偵察員として大西洋沿岸の対潜哨戒に従事。
次に情報学校に通い、卒業後の1942年7月に、イギリスに展開していた
第97爆撃隊に配属になり、同地に渡りました。

第97爆撃隊は、1944年になってからですが、
当ブログでも取り上げたルーマニアのプロイェシュチ爆撃、
そして一連の「ビッグウィーク」、フランティック作戦に参加しています。

具体的に彼の任務について記された資料が見つからないのが残念ですが、
ここでおそらく淡々と、偵察任務を果たしたのでしょう。

あっという間に第8爆撃機司令部の作戦将校補助
(アシスタントオペレーションオフィサー)に昇進してしまいました。



1943年にはアメリカに戻るも、軍隊に在籍し、B-17フォートレス、
B-25ミッチェル、B-26マローダー
の爆撃機、
戦闘機P-39エアコブラの操縦をマスターしました。

写真は、T-33シューティングスタージェット練習機のコックピットで
指導を受けるジーン・レイモンド大佐ですが、上記以外にも、
退役するまでT-39 セイバーライナー、KC-97 ストラトファイター、
KC-135ストラトタンカー、輸送機C-141 スターリフター
の操縦もしました。

もしヨーロッパの戦争が長引いていたら、その時には
自分が爆撃機の操縦席に座ろうと考えていたのでしょうか。

彼が、1942年のヨーロッパ戦線という、アメリカ航空隊にとって
暗黒の時期における実戦に参加しそれを知っていたことを思うと、
単純に、その勇気には感嘆させられますし、何より
これだけの機種の操縦を次々とこなすのは努力だけでは無理でしょう。

何をやらせても器用にこなしてしまうその才能は、
飛行機の操縦にも大いに発揮されたようです。


B-25マローダー移行クラスでのレイモンド。
若いクラスメートに混じっていると、どう見ても上官。


1943年、こちらは大尉時代のレイモンド。
司令の視察のようですが、今からB -25に同僚と乗り込むところです。

第二次世界大戦が終わった後、レイモンドは
1945年10月22日に少佐として現役を解かれましたが、
その後も予備役としてアメリカ空軍に留まりました。



そして1968年8月13日、5,000時間以上の飛行時間を記録し、
司令パイロットのウィングマークを授与され、
大佐として米空軍予備役から退役したのでした。

このアイゼンハワージャケット(通称アイクジャケット)は、
ロスアンジェルスのパシフィック・パリセーズ在住のリタイアした大佐、
ジーン・レイモンドが寄贈した、と書かれています。

パシフィック・パリセーズは豪邸が多く、
ハリウッドセレブなどが数多く住むことで有名な地域です。


■ ジャッキー・クーガン
「キッド」の子役から航空士官に



それでは、国立空軍博物館プレゼンツ、
「航空士官になったハリウッドセレブシリーズ」第二弾は、

ジャッキー・クーガン(Jackie Leslie Coogan)1914−1984

と言われても、こちらも聞いたことがないという方が多いかもしれません。
しかし、この写真を見ていただければお分かりでしょう。


チャップリンの無声映画「キッド」で捨て子の少年を演じました。
クーガンは映画史上初めての子役スターとなった人物ですが、
彼が巨額のお金を稼ぐと、母親と義父がそのお金を使い果たし、
彼には1ドルも残されていなかったことから、25歳になった時訴えを起こし、
その結果クーガン法(California Child Actor's Bill)が制定されました。

この法律によると、18歳以下の子役は、「クーガン口座」というのを持ち、
報酬総額の一定割合(15%)がその口座に振り込まれて、
保護されることが義務付けられています。


それにしてもこの可愛い子供がああなるのか、
と考えたあなた、こんなもので驚いてはいけない。



さらに時は過ぎ、1964年。
彼は「アダムス・ファミリー」のフェスター・フランプになっていました。
つまり、俳優としては、レイモンドより有名だったということになります。

さて、それでは彼はいつ、どんなきっかけで陸軍に入隊したのでしょうか。

■ フライトオフィサー ジャッキー・クーガン



ジャッキー・クーガンが陸軍入隊したのは1941年3月4日でした。
つまり、レイモンドやクーパーのように開戦がきっかけだったのではなく、
その前から志願入隊していたことになります。



彼の入隊の理由というのは、女優ベティ・グレイブルとの破局でした。
彼らの結婚生活は1937年から39年まで、たった2年間で終わりました。

失意のクーガンは、半ばヤケクソで陸軍に入隊しましたが(たぶん)
特に目標があったわけではなかったので、
軍隊では平凡な兵士、歩兵にでもなるのだろうと考えていたそうです。

しかし、入隊してみると、彼は他の兵隊より有利な点がありました。
俳優だったおかげで?個人的にパイロット免許を取っていたのです。

彼は大学を卒業していないため、学位が必要な軍パイロットには
普通ならばなれないのですが、戦争が始まったことで事情が変わりました。

大学を出ていなくても唯一パイロットになる道があったのです。
それがフライト・オフィサー=グライダーパイロットでした。

彼はテキサス、続いてカリフォルニア州のグライダー学校で訓練を受け、
卒業してフライト・オフィサーとなりました。

■フライトオフィサーとは

ところで「フライトオフィサー」というタイトルに違和感を感じた方、
あなたは大変鋭い。

このタイトルは、第二次世界大戦中、の1942年から1945年までの間、
アメリカ陸軍航空隊でのみ使用された階級です。

1942年9月に創設され、陸軍のグライダーパイロットに限り、
訓練終了後すぐさまこのタイトルを与えられ、グライダーパイロット、
航法士、航空機関士として勤務しました。

「ブルー・ピックル」と呼ばれたフライトオフィサーの徽章

限定的な階級であったため、第二次世界大戦が終了すると同時に
陸軍航空隊はフライトオフィサーの階級を廃止しましたが、
その時までに彼らは全員戦争中に士官に昇進するか、除隊していました。

普通部隊の階級でいうとウォラントオフィサージュニアグレード、
WOJGと同等で、今日の階級では准尉に相当します。

ちなみに大戦後、陸軍ではパイロット要員を確保するため、
フライトオフィサーの代わりに准尉を航空に確保する作戦を取りました。

このプログラムの養成士官はほとんどヘリコプターパイロットで、
年齢枠も広く、17歳から訓練開始することができたそうです。

■ グライダーパイロットとして

さて、クーガンはその後、有名なフィル・コクラン大佐によって結成された、
第1エアコマンドーグループでの危険な任務に志願します。

1943年12月、クーガンの所属部隊はインドに派遣され、
ビルマへの夜間空中侵攻(1944年3月5日)の際、
イギリス軍部隊をWACO CG-4Aグライダーを使って輸送し、
日本軍戦線の100マイル後方の小さなジャングルの空き地に着陸させました。

上の写真のクーガンの左腕には、「チャイナ-ビルマ-インド」
を表すパッチが装着されています。


ビルマに飛ぶ前の第一エアコマンドグループメンバー全員。
前列右で銃を持っているのがクーガンです。


WACO CG-4Aグライダー部隊の名簿。

CG-4Aが大きく評価されたのは、1944年のフランス空挺侵攻でしたが、
この部隊はその数ヶ月前にビルマのジャングルでの戦闘で使用していました。

寄贈者:ジャッキー・クーガン(カリフォルニア州パームスプリングス)


L-2連絡機の「ホップ」が終わった後、
飛行時間を記入しているクーガン。

このときのクーガンの戦地での戦いを書き表した文章があります。

地球の反対側のビルマでWACOグライダーの操縦席に座っていたジャッキーは
まさに兵士が経験したくない最悪の戦闘状況に陥っていた。

北大西洋より、冬のロシアより、一年中悪臭が漂う
パプアニューギニアより、ガダルカナル島の海岸より、彼の戦場は
第二次世界大戦における地球上で最も過酷な場所であった。

ミャンマー近郊の地域で兵士たちは、年間平均200インチのモンスーン雨、
熱中症、感染症、そして日本軍の銃弾と同じくらい
兵士を殺したり無力化したりする現地の病気に身を晒していた。

この夜、ジャッキーはジャングルの上空を暗闇の中、
別の飛行機に牽引されて、何か起こっても打つてのない上、
安全に着陸できる場所もなさそうなまま飛んでいた。

彼はチンディットと呼ばれるイギリス軍特殊部隊を満載した飛行機を
敵陣の後方100マイルまで安全に運び、
日本軍部隊の通信回線を遮断するという任務を負っていた。

この夜、ジャッキーはアメリカ空軍特殊部隊の一員として、
敵陣の背後に連合軍を着陸させた最初のパイロットとなった。

彼は巧みに、地元の原住民しかいない地域に機体を着陸させた。
しばらく後のインタビューで、ジャッキーは、着陸したとき、
特にグライダーの前部を開けてジープを運転して出てきたときは、
地元の人から神のように崇め恐れられたと述べている。

原住民のうち 2 人がジャッキーの後をついて回り、
毎晩バナナの葉で彼のベッドを作ってくれた。

4 日間、彼は疲れ果てていたが、特殊部隊の主力が着陸できるように、
より大きな滑走路を建設するために働いた。

しかし、空から来た「神」として原住民から扱われた。

ジャッキーは、主力部隊の到着は夜間だったとも述べている。
彼は、英兵とグルカナイフ使いからなる特殊部隊を誘導するために、
照明弾の設置を手伝った。

部隊を運ぶために合計 57 機のグライダーが送り込まれたが、
到着したのは 37 機のみで、戦闘部隊は 350 名ほどしか残らなかった。


この作戦の犠牲は甚大だったが、最終的に任務は成功みなされた。




クーガンは1944年5月に米国に戻り、12月に除隊しました。





■ クーガンが鹵獲した日章旗



スミソニアン所蔵のクーガンのフライトジャケットです。
それはどうでもよくて()ジャケットの下部分をご覧ください。



ビルマ戦線でジャッキー・クーガンは日章旗を拾って帰ったようです。
自分の現役時代に着ていたジャケットとともに博物館に寄贈したそれは、
ジャケットの下にくしゃくしゃに(しかも裏向けに)敷かれていて、
仮にも他国の国旗に対し失礼としか思えない展示をされていました。

この時も逆さまに持ってるし

添えられた説明によると、この日章旗の寄せ書きは、クーガンが
日本人将校(大佐)の遺体から盗んだ?ものだとのことです。

日本軍の上陸部隊は、インダウ近郊の北ビルマ鉄道を挟んだ
英国陣地を急襲し、結果として失敗に終わりました。
現地には日本軍の兵士たちの遺体があり、クーガンはおそらく
その中の高位と目される軍人の持ち物を「漁った」のでしょう。

これは当時戦地にいた多くのアメリカ軍人がやっていたことでした。

旗には”May you have new military fortune forever!”とあったそうで、
これはつまり「武運長久を祈る!」だったのではないかと思われます。

そして、興味深いのは、この寄せ書きをしたのは、

富山高等学校の級友一同
大阪帝国大学卒業生一同

と書かれていたということ。

帝大卒の予備士官がこの時期果たして大佐にまで出世できるものなのか、
この陸軍大佐の経歴を知りたいと思いましたが、それもなりませんでした。

せめて旗を広げて展示してくれていたら何か手がかりも得られたでしょうに。


続く。


ファーレン・ヒーローズ(ヘリ部隊戦死者の肖像)〜「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

エリー湖沿いにあるバッファローネイバルパークの展示より、
巡洋艦「リトルロック」艦内をご紹介しています。



兵員用の寝室を通りすぎ、次に進みます。
この廊下部分は鎖で通行禁止にされていました。
見学者は黄色い見学通路を表すラインのあるところしか歩けません。

廊下突き当たりに人の姿がありますが、そこは
見学通路のおそらく前方だと思われます。




大きめの縦型ロッカーがありました。
(兵員用のロッカーの一人分はせいぜい40センチくらい)

現在、キャンプ参加者が自分の使った後を掃除するための
掃除道具入れとなっており、箒とちりとりが一つずつ収納されています。

アメリカの教育現場では、日本の学校のように掃除をさせず、
それらは業者が行うことになっているのですが、
流石にボーイスカウトやこのようなキャンプでは自分で掃除をさせます。

「キャンプ終了時の区画の掃き掃除は各自の責任で行ってください。
ゴミはすべてゴミ箱に入れてください。」


という真っ当な?ことが書いてあって安心させられます。

キャンプ参加者だけでなく、例のシーカデットコーア
(青少年海軍組織)においても、この規則は厳密に守られ、
ロッカーの横には掃除をする場所が細かく明記された紙があります。

■ベトナムルーム


足元の黄色い線を進むと、次の部屋はベトナム戦争関連展示室でした。



この南ベトナムの地図ですが、北との国境より下の部分にあった
アメリカ軍の駐屯地を黄色いテプラで示しています。



左側の兵士のマネキンは、ベトナムでのフル装備。
首にタオルを巻いて、その端が軍服に固定できる仕様です。

全体写真のこのマネキンの足元には、
こみ袋のようなものが見えますが、これは
彼らがベトナムに装備していった「必需品」のようです。

■ 第282”ブラックキャット”強襲ヘリ中隊


この男性ですが、ダナンの近く、マーブルマウンテン飛行場に駐屯した
アメリカ軍のヘリコプター中隊、第282強襲ヘリ中隊、
通称「ブラックキャッツ」
のヘリパイロットの遺品をまとっています。

「ブラックキャッツ」は、ベテランのためのホームページを持っており、
その歴史を語り継ぐと同時に、戦死した仲間の顕彰を行っています。

ベテランの一人が始めたこのリユニオンは現在大きく実を結び、
今では600人もの名簿を持ちその名も「黒猫会」として活動をしています。


背中と尻尾の毛が(怒りで)逆立っている

つい宅急便を思い出すのが日本人

谷間を飛ぶヘリ部隊
使用機材はHUEY

「ブラックキャット・オン・ブラックキャット」
無理やりヘリの上に乗せられて怖がってる猫さん気の毒

ところでこのベトナムルームのマネキンが着ているスーツの持ち主ですが、
会報「黒猫ハウス」の記事によると、1968年5月10日、戦死した、

ジョセフ・A・レイクリン・ジュニアWO
Joseph A.Reichlin Jr.


であることがわかりました。

「レイクリン」という読み方は英語ならこうだろうという想像ですが、
ドイツ系だと「ライヒリン」「レイヒリン」とも読めるので、
もしかしたらアメリカでもこう発音していたかもしれません。

なお、WOは「ウォラント・オフィサー」の略で、つまり准尉です。

なぜこの人がクローズアップされているかというと、
それは彼が、ここバッファロー出身だったからです。



「バッファロー出身者二人を含む、戦死者最多の週」

とされたこの新聞記事には 、こうあります。

ベトナム戦争で最も血なまぐさい1週間で、
さらに2人のニューヨーク西部の男性の死亡が報告された。

アマースト通り569番地在住の
ジョセフ・A・レイクリン1/C准尉(22歳)
は、金曜日に乗っていたヘリコプターが撃墜され、死亡した。

また、着任して7日目の
ジェームズ・ヒル上等兵19歳)は、
土曜日の戦闘中に射殺され、先週のアメリカ人戦死者562人のうち、
この地域の戦死者は7名となった。

アメリカ人戦死者のトータルは戦争が始まって以来最高となり、
バッファロー出身の死者としてはこれが68人目と69人目となる。

レイクリン氏は、1月15日からダナンの第282突撃中隊で飛行する
陸軍ヘリコプター・ガンシップのパイロットだった。

ビショップ・ファロン高校を卒業後、1965年に
バッファロー州立大学で経営学の準学士号を取得している。

卒業後まもなく陸軍に入隊し、フォート・ポーク(ロスアンジェルス)、
フォート・ウォルターズ(テキサス州)、
フォート・ラッカー(アラバマ州)で訓練を受けた。

遺族は両親、ジョセフ・A・レイクリン夫妻、妹のダイアン・レイクリン。

バッファロー州立大は難易度でいうと5段階の3で、
64校あるニューヨーク州立大学群(SUNY)の本校です。
GPAも4.0満点の3.8ないと入れません。

なお、写真上のヒル上等兵(歩兵)については、以下の通り。

ヒル上等兵は1967年にイースト高校を卒業し、9月に陸軍に入隊した。

フォート・ディックス(ニュージャージー州)で基礎訓練を、
フォート・ベニング(ジョージア州)と
フォート・ジャクソン(サウスカロライナ州)で上級訓練を受けた。

ベトナムでは第26歩兵師団に所属。
遺族は両親、ジェームス・W・ヒル夫妻。



また、レイクリン准尉の死亡状況について書かれた別の記事によると、

ジョセフ・レイクリン准尉は、マーブルマウンテン南西、

トゥン・デュック付近で敵と交戦中に戦死した。

弾薬切れの中、ガンシップがドアガンで最後の追い込みをかけていた時、
レイクリン准尉は一発の銃弾に倒れた。

彼を乗せたヘリがマーブルマウンテンに帰投したとき、
Sp5ジェフ・ペレスが、報道陣に向かって、

「准尉の遺体の写真を撮ったらただじゃ済まさないぞ」

と威嚇したため、写真が撮られることはなかった。
乗組員は救護所でレイクリン准尉のために献杯を行なった。


ドアガンというのは、レイクリン准尉のマネキンの左上にある絵のこれです。


ヘリのドア付近のガンだからドアガンと言われています。
最初のドアガンはベトナム戦争の時に登場しました。


■ パラレスキュー「PJ’s」キング


ベトナム戦争といえばヘリコプター、のイメージがあります。

ヘリコプターがこの戦争で攻撃、輸送、そして救難とフルに活躍したのも、
ベトナムのジャングルの多い国土には最適だったからです。

飛行機の模型の後ろに飾ってあるのは、寄贈された
海軍ヘリパイロットが受賞した海軍メダルとリボンの数々です。

このコーナーで紹介されているパラレスキュー隊員、
別名「パラシュートジャンパー=PJ」ですが、米軍の全兵科にあり、
主に戦闘環境における隊員の回復医療を任務としています。

これらの特殊作戦ユニットはNASAのミッション支援にも使用され、
着水後の宇宙飛行士の回収にも使用されています。

NASAの宇宙ミッションに必ず海軍が協力するのはこのユニットが理由です。

彼らのモットーは、

"That Others May Live"(他者を生かす)

チャールズ・キング(これで23歳)


パラレスキューの偉大な伝統を体現した "PJ "の一人が、
アメリカ空軍の”ダグ” チャールズ・キング上級曹長でした。

1968年のクリスマス・イブのことです。

ラオスのバン・カライ上空でアメリカ空軍のF-105が撃墜されました。
パイロットのチャールズ・R・ブラウンリー少佐は脱出に成功し、
パラシュートは敵軍が占領している地域に着地したと目されました。

その時タイのナコンフェノム空軍基地の、
第40航空救助回収飛行隊に所属していたキング上級曹長は、
翌日12月25日、シコルスキー・シーキング捜索救助ヘリコプター、
HH-3E "ジョリー・グリーン・ジャイアント "
13号機と17号機2機のうち1機に乗り込み、直ちに現場へ向かいました。

現場指揮官は木立の中にパラシュートを発見し、
無線でブラウンリー少佐を呼び出そうと何度も試みますが、
返答はなく、ジャングルは暗闇に覆われて全く様子がわかりません。

夜間戦闘能力を持たない救難ヘリはNKPへの帰還を余儀なくされますが、
夜明けとともに「クリスマスに帰還を」目標に救難隊が再組織されました。

メンバーは、ウィリアム・キャメロン中佐(強襲隊司令官)、
ロバート・ヘロン大尉(副操縦士)、
ジャードロー・ケイシー軍曹(フライトエンジニア)、そして、
チャールズ・D・キング二等軍曹(パラ・レスキューマン)で、
全員が志願による参加でした。

地上から攻撃が始まる前にパラシュートの牽引を試みることにして、まず、
ヘリは木に引っかかっているパラシュートの上空にホバリングしました。

ケイシー軍曹は目視により、パラシュートの先にハーネスをつけたまま、
人がぶら下がっているのを確認しましたが、引っかかっているのが
地面からほんの2フィートの高さにも関わらず、全く動きません。

死亡している可能性もありますが、重傷で生きているかもしれません。
そこで、キング軍曹が森に降下し、救出することを申し出ました。

キングが降下を始めると、敵がヘリコプターに気づいて攻撃してきました。
最初はヘリを攻撃していましたが、キングに気づくと、彼を狙い始めます。

キングはブラウンリー少佐の身体からパラシュートを外すと、
パラレスキュー用のケーブルを装着し、引き揚げるよう合図をしました。

「撃たれた!撃たれた!引きあげてくれ!」

通常であれば、救助ヘリが前進飛行を再開する前に、
牽引している人は木の上まで引きあげられていなければならないのですが、
敵軍はすでに小火砲でヘリコプターそのものを狙ってきていました。

二人が木の上まで引き上げられるのを待ってホバリングしていれば、
間違いなくヘリコプターは撃墜され、
ブラウンリー少佐とキング飛行士は機体の下敷きになるでしょう。

指揮官キャメロン中佐はホバリングの中止を決定せざるを得ませんでした。

断腸の思いでヘリを上昇させる指令を下しましたが、
ホイストケーブルか何かが木に引っかかり、
何かが折れる音がしたと思った瞬間、キング軍曹とブラウンリー少佐の体は
約10フィート上空から地上に落下していました。

この落下で重傷を負い、敵の小火器による攻撃で負傷したキング軍曹は、
最後に無線でヘリの乗員こう呼びかけました。

" ジェリー、ここから脱出しろ。
奴らがもう俺の上に来ているから”
(ジェリーが何を/誰を指しているのかは不明)

ヘリコプターもダメージを負っていたのですが、やむなく上昇を始めました。
そのとき敵軍がブラウンリーとキングの上に群がっているのが見えましたが、
二人がいるとわかっている場所に攻撃を加えることはできませんでした。

その後、二日間にわたってキング軍曹らの捜索が行われましたが、
見つからなかったため、彼はMIA(任務中行方不明)扱いとなり、
そしてMIAとして上級曹長(Chief Master Sergeant )に特進しました。

二人に関するニュースはその後ずっと途絶えたままでしたが、
1986年2月、渡米したラオスの難民が、キング軍曹が捕まって、
トラックで連行されるのを見たと証言しており、その話の細部は、
そのアメリカ人がキング軍曹であると思わせるに足るものでした。

しかし、ブラウンリー少佐のその後についての情報はほとんどありません。



戦後、現地からチャールズ・ダグラス・キングの名前、兵役番号、
生年月日が書かれた身分証明書が発見されましたが、
元北ベトナム兵士で現地にいたという人の証言によると、

「パイロットがもう一人のパイロットをヘリコプターに引き上げていたが、
ケーブルが切れて、パイロットは二人とも死んだ。」

ということで、ヘリ乗員が知っている情報にとどまりました。




壁には、アメリカ軍の戦死者を意味する
「Fallen Heroes」のパッチが飾られていました。

チャールズ・キング上級曹長のエピタフは以下のようなものです。

あなたはもうこの世にいないかもしれない。

しかしあなたを知る人々の中にはいつもあなたの一部が生きている。
我々があなたを忘れない限り、あなたは生き続けるのだ。


続く。


ブルージャケット〜巡洋艦「リトルロック」艦内探訪

2024-12-05 | 軍艦

巡洋艦「リトルロック」艦内探訪を続けましょう。
ここは上甲板から1階下にあたるデッキですが、
ここからさらに1階下の「サードデッキ」にアクセスすることができます。

サードデッキにはダメージコントロールルーム、消防機関室、
下士官兵用理髪店、図書室(誰でも使用可)、
ベーシングコンパートメント(兵寝室)生鮮食品用の冷蔵室などがあります。

しかし残念ながら、安全上の理由でこのエリアは公開されていません。


説明がありませんでしたが、これはなんでしょうか。
上部が閉じてあること、大きな円形の継ぎ目があることから、
昔は何かに使われていたが、改装に伴い用がなくなった何か、と思いますが。


このドアの向こうは、「ウェポンズ・オフィス」
自衛隊だと砲雷科で、砲、ミサイル、魚雷を管理する部署の事務所です。

ドアに書いてあるWEPSはウェポンズの略ですが、アメリカ海軍では、
兵器システム士官を「ウェップス」と呼ぶ習慣があります。

旧海軍で砲雷長が「テッポー」と呼ばれていたようなものでしょう。

映画「クリムゾン・タイド」で、「ウェップス」と呼ばれていた士官、
インス大尉も、役職名があだ名になったパターンです。

当ブログ読者にも同名の方がおられるわけですが、映画感想サイトなどでは
これを個人名だと思って観ているような書き方がよくされています。

ついでに、自衛隊では砲雷科の長は砲雷長(3佐or1尉)であり、
その下に砲術(砲、ミサイル)と水雷(魚雷、ソナー)があり、
砲術長、水雷長をトップとして、その下に砲術士、水雷士がいます。

■ 乗員寝室




次のコンパートメントは、クルーズ・クォーターズ、兵寝室です。

2nd Division Crew's Quarters

ここに金属寝台とマットレスは80名分あります。


そして通路に面したこの「コフィン・ロッカー」(棺桶ロッカー)が
一人分開けられ、兵員の持ち物が展示されていました。

説明によると、展示されているものは当時よりアップデートされており、
今日の海軍で使用されているものと似ている、ということなのですが、
見たところ少なくとも電子デバイス関係のグッズが全くないことから、
「最新」とは言えないのではないかと思います。

しかし、海軍艦船内で私物を置くスペースが限られているのは事実。

クルーには「ラック」として知られる6×2フィートの「棺桶ロッカー 」、
そしてそれとは別に制服を収納する縦型ロッカーが一つずつ与えられます。

この頃と現在の違いは、現在では「プライバシー」保護のため、
ベッド三方にカーテンが引け、個人スペースが確保されることです。

半分のスペースにはタオル、シーツ類、
「二等兵曹に求められる兵員義務」海軍履修用「基礎電子工学」、
そして「ブルージャケットのマニュアル」という本があります。

ブルージャケット=Bluejacket

は、海軍の下級兵の別名です。

海軍下級兵としての基礎を書いた本で、いずれにしても
この寝台の主は真面目な海軍水兵であることがうかがえます。

しかし、一人の水兵に与えられる保管場所はここが全てではありません。
勤務現場に配置された水兵は、通常、その任務内容に応じて
悪天候用の装備とか、甲板で必要なギアとかを収納する倉庫を

保管場所として確保することができるからです。

「セカンド・ディビジョン(第2部門)」である特定の居住スペースには、

最大80人の乗組員を収容することができ、ここは乗組員によって
「berthing(停泊所の意)」とか「coop(小屋)」と呼ばれます。



石鹸や洗面セット、毎日濡れるものもここに入れるんだ・・・。
タバコもちゃんとワンカートン買い置きしているんですね。

畳んである作業服のネームによると、ロッカーの主はギルマン君。
ここにも「ブルージャケットのマニュアル」なる本が見えます。



一番右は下着と水兵用の「ブルージャケット」、そして靴。
下着の横に靴を入れるのはアメリカ人的にはアリなのね。


三段の垂直寝台で、寝台下が六つのラックとなっているというこの仕様は、
おそらく現代のアメリカ海軍も変わっていないと思われます。

当たり前ですが、海軍艦艇のスペースは大変狭いものです。
しかしながら、ほとんどの時間、特に日中、
乗組員はあちこちに行って準備をしたり、任務に当たったり、
あるいは「リバティ」(上陸休暇)で留守をしている者もいるでしょう。

全ての乗組員は、昼も夜も「12時間オン、12時間オフ」で任務を行います。
艦上のスケジュールは決まっているため、通常、
海上ではこの部屋の半分だけが使われている状態で、
残りの半分の人間は稼働し、一斉に寝台が埋まることはありません。

■ キャンパーに告ぐ!



「リトルロック」では、ほとんどのアメリカにある展示艦と同じく、
艦内で一泊して艦上体験をするキャンプを実施しています。

キャンプインフォメーション

バッファロー海軍公園のUSS 「リトル ロック」で夜を過ごしましょう。
当施設の夜間青少年キャンプは、スカウト、青少年グループ、
友人同士、家族で参加できるユニークな冒険です。

一晩のキャンプ中に、次のようなことができます。

–「リトル ロック」の乗組員が実際に住んでいた、復元された寝室で眠る
– 乗組員食堂で夕食と朝食を楽しむ
– USS「リトルロック」、「ザ・サリバンズ」、「クローカー」を見学する
– 艦上生活について学ぶための教育プログラムやアクティビティに参加する
(教育プログラムは異なる場合があります)

春のキャンプセッションは 4 月〜6 月の各土曜日
秋のセッションは 9 月〜11 月の各土曜日に開催

一部の「ファミリーフライデー」はシーズン中いつでもご利用いただけます。

セッションの空き状況は天候によって決まる場合があります。

料金: 1 人あたり 75 ドル
集合時間:土曜日午後 4 時
解散:日曜日午前 10 時
 (参加者は日曜日の営業時間中に海軍公園への入場自由)


楽しそう

で、ここは実際にキャンパーたちの宿泊に使われているため、
彼らに対し、特に人身事故について以下の注意がありました。


すべてのキャンパーに告ぐ!

万が一人身事故が発生した場合、部隊の応急手当係が応急手当を行います。

すべての負傷は深刻であり、直ちに
ENCAMPMENT DUTY OFFICERに報告され、
すべてのケースで事故報告書に記載されます。

お客様の安全と安心は私たちにとって非常に重要です。

わからない場合は911にコールしてください

■ ブルージャケッツ


先ほど海軍の下級兵士を「ブルージャケット」と称すると言いましたが、
このクォーターを出たところに、こんなポスターがありました。

その名もズバリの「ブルージャケット」。



海軍によるブルージャケットの任務内容についてのポスターです。
白黒であることからかなり昔に制作されたものだと思います。
せっかくなので全部紹介していきましょう。


と思ったら、なぜかこの10から始まっています。
どうも右半分の1から9までは欠損しているようですが、仕方ありません。


10. 射的訓練(Target Practice)

射撃戦のために、新兵は兵曹長から個別にライフル銃の指導を受けます。
CPOの左袖 の「ハッシュマーク」は16年の経験を示しています。

ベテラン下士官の袖にはラインが4本。
1本が4年在籍を表すのでもう立派な洗濯板です。



11.水泳中(In The Swim)

昔から「泳げない水兵」についてのジョークはたくさんありますが、

(もちろん悲劇も)
新しい海軍では、ブートキャンプ前に50ヤード泳げるようになること、
これが全ての者に対し厳しく定められています。



12. バレーボール(Volly Ball)

新兵のエクササイズ量は大変多いものです。
バレーボールはもちろん肉体的な訓練の意味もありますが、
大抵は単純に楽しいものとして皆の人気です。
ボクシング、レスリング、綱引き(!!)も海軍で人気のスポーツです。


綱引きか・・・まあロープならいくらでもあるしね。



16. 適性検査(Aptitude Test)

適性検査は、訓練生がさらに専門的な訓練を受け、等級を取得するか、
新兵学校を卒業後、すぐに海へ出るかを決めるのに役立ちます。

いきなり16まで飛びました。
おそらく左ページに13から15までがあったようです。



17. ヒービング・ザ・リード (Heaving saw Lead)

新兵は、浅瀬で船底を探るために、この伝統的な方法を学びます。
ニューソニック測深機に加え、リードは今でも海軍でよく使われます。

海深を図る方法として、この頃の海軍の新兵たちは
「ヒービング・ザ・リード」という昔ながらの方法を学んだようです。

大航海時代からイギリスの船乗りに受け継がれてきた方法で、
水深を測るのにサウンディング・リード(鉛の錘がついた紐)を使います。

船員(「リードマン」)は、入港時、できるだけ前方にリードラインを投げ、
リードが着水した場所に船が近づくと、ライン上のマークを数えます。

マークはその海域の水深を表しているので、それを水先案内人に伝えます。

この「ヒーブ・ザ・リード」Heave the leadという言葉は
そのまま日本語で「水深を測る」と訳されます。

また、この鉛のついた紐のことを、日本語では手用測鉛といいます。

ただ、今のアメリカ海軍ではこんな悠長なことはやっていないでしょう。
近年では海底地形図を即座に測定作図する


MBES(マルチビームエコーサウンディング、音響測深)

もありますし。



18. 手旗信号(Semaphore)

一人の新兵が文字「Q」を手旗信号で送信し、
もう一人が受信をワッチします。
手旗信号、ブリンカー(発光信号)および信号旗、
これらは海軍で艦船同士視覚的に信号を送るための方法です。


22. 出発準備完了(Ready to Go)

新兵訓練が終わると、「ブルージャケット」たちは艦隊、
そして海上勤務に就くために汽車を待ちます。

彼らが汽車に積み込む荷物が整然と並べられています。



23. 上級学校(Advanced School)

 海軍は技術的スキルを持った人材を必要としているため、 
多くの新兵が上級学校に送られていきます。

この写真は、航空機械工学校での実技指導のシーンです。


24. 出航(Going to Sea)

ついにビックモーメントがやってきました。
彼らが海上任務につく日です。
乗艦する水兵たちは、まずクォーターデッキに向かって、
次にこの写真のように甲板士官に向かって敬礼を行います。

そして出航です

The voyage begins.


続く。


アイクとリトルロック〜巡洋艦「リトルロック」艦内展示

2024-12-01 | 軍艦

タロスミサイル搭載艦「リトルロック」に乗艦し、
甲板から一階下のデッキを探索しています。

兵員用、そしてチーフ用に分けられた食堂を見ながら歩くと、
このようなドアが現れました。

■ 海軍候補生隊控え室



U.S. Naval Sea Cadet Corps
USNSCC

というパッチがドアに貼られています。
「リトルロック」に乗艦したときから気がついて言及してきた、
アメリカのユース海軍、日本でいうと海洋少年団である組織、

アメリカ海軍候補生隊

のオフィスがここにあるようです。
正確にいうとこの組織は年齢に応じて二つに分かれており、

10歳〜13歳まで NLCC
13歳〜18歳まで NSCC

となっています。
以前にもお話ししたように、これはガチの海軍下部組織なので、
指導には本物の軍人が当たりますし、なんちゃって訓練などではなく、
SEAL訓練、EOD(爆発物処理)訓練、ヘリ捜索救助訓練などのほか、
音楽トレーニングやフォトジャーナリズム専攻もあります。


活動報告を兼ねた秋コースの参加勧誘コーナー。
このポスターの下に連絡先を書いたスリップがあったのですが、
もうこの段階では希望者によって全部取られています。

そして、つくづく驚くのが左下の少年の写真。
おそらくまだ中学生だと思うのですが、彼は士官候補生の訓練で
射撃技能を認められ、狙撃資格を取得した凄腕スナイパーです。

自衛隊のイベントで装備を紹介するために銃を持たせただけで
大騒ぎになるどこぞの国とはえらい違うものですね。
まあ、銃の所持については両国の根本的な姿勢が違うので、
これはどちらがいいとか悪いとかの話ではありませんが。

■ 海水ストレーナー



艦船内で赤くペイントされたものがあれば、
それは消火関係と相場が決まっている・・・と思ったのですが、
ここにある説明によるとこれは、

クイック-クリーニング(海洋)ストレーナー
Quick-Cleaning( marine) strainer

キッチンで使うザルのことをストレーナーといいますが、
これはつまり、ホース、ノズル、ノズルの先端を詰まらせる原因になる
海洋生物、スケール(水アカ)付着物などの異物を除去するものです。



上部はパイプに繋がっていて、作動させるときには
この二つのハンドルを目一杯回転させます。

■ ストーク・バスケット・リッター


ストレッチャーが、なぜか甲板より下の階に。
上甲板にはミサイル関係の装備が多すぎて、置けなかった?

ところで、わたくし初めて知ったのですが、この担架、

ストークス・バスケット・リッター(ストレッチャー)
Stokes Basket Litter(Storetchers)


というそうです。
「リッター」だけで、救助用バスケットを意味する言葉で、
一般的にステンレスで作られた救助用担架のことです。

ストークスというのは、もともと陸軍航空隊のパイロットだった
ローウェル・ストークスによって設計されたことから来ており、
「ストークス」でこれだと通じるほど一般化された名称です。

通常、大人を仰向けの姿勢で運ぶことができる形状になっていて、
障害物やその他の危険がある場所で使用するように設計されたもの。

アメリカ海軍は何十年にもわたってストークスを使用してきました。

用途としては、捜索救助活動、狭い廊下や出入り口を通した患者の搬送、
船間の患者の移送、患者の(ヘリによる)垂直避難などですが、
ヘリでの牽引の際、ブレードからの下降気流で激しく回転するという
輸送される人に意識があったら無茶怖い欠点があります。

Gopro helmet mounted footage of Stokes basket rescue from NCL Ship
これは回らずに引き揚げられた模様

■ ヘッド




ストレッチャーの横のドアは、「メールヘッド」。
もちろんお分かりのように「男の頭」ではなく男子トイレです。

なぜ船のトイレに限り「ヘッド」なのかについては、
当ブログでは何度も説明しましたが、ここの説明によると、

「船のトイレを指す『ヘッド』という 用語の使用は、
少なくとも 1708 年に は遡ります。

この用語は、通常の船員用のトイレエリアが船の「ヘッド」、
=船首に設置されていた帆船に由来しています。

帆船で、この位置にトイレがあることは 2 つの理由から合理的でした。

第一に 、当時のほとんどの船の構造にあります。
帆船は風に向かって航行 することができません。
つまり、風は常に船の後方からやってくることになり、
船首はこのためいつも風下にあるということになります。

トイレを風下に置くことでニオイ対策をしたのです。

第二に、トイレを清潔に保つ(極力)工夫です。

喫水線より少し高い位置に設置することで、
床面付近に設けられた通気孔やスロットが、波を適度に受け、
水洗式となって洗い流してくれたのでした。

これは、海が荒れているときにはトイレは危険な環境になり、
下手すると人が危ないこともあったという意味かと思われます。


■ ウォーターライン基準マーク


注目していただきたいのは、左のバッテリーボックスではなく、
その右側の丸いプレートです。

WATERLINE REFERENCE MARKS
(喫水線基準マーク)


気をつけてみれば、このプレートは艦内の隔壁に取り付けられています。
これはウォーターライン(W.L)とこのマークの相対的な位置関係を表し、
例えばここにあるプレートは、ウォーターラインがこのマークの40フィート
(12.192m)下にあることを示しています。

■ アイゼンハワーの「平和のための提言」


B-203-L

というのは艦内における現在地を表すアドレスです。
その下にある説明なので、てっきりその数字の見方と思ったのですが、
全く関係のないアイゼンハワー閣下のお言葉でした。

「平和を維持する上で極めて重要な要素は、我が国の軍事施設です。
我々の武器は精強かつ即応の準備ができていなければなりません。
潜在的な侵略者が自らを破滅の危険を冒す誘惑に駆られることがないように。

巨大な軍事組織と大規模な兵器産業という組み合わせは、
アメリカの経験において新しいものといえます。
総合的な影響ー経済的、政治的、精神的な影響さえも含めたそれらは、
全ての州会議事堂、全ての連邦政府においても感じられます。

我々は、この発展が必要不可欠であることを認識しています。
しかし、その重大な意味を理解し損なってはなりません。

我々の労苦、資源、生活のすべては関係しあっています。
私たちの社会の構造そのものも同様でしょう。

政府の評議会において、求めようが求めまいが、
軍産複合体による不当な影響力の獲得を警戒しなければなりません。
見当違いの権力による悲惨な台頭の可能性は、存在し、今後も続きます。

この組み合わせの重みが、我々の自由、そして
民主的プロセスを危険に晒すようなことがあってはならないのです。
何事も 当然のことだなどと考えるべきではありません。

用心深く、知識豊富な国民だけが、安全と自由を共存繁栄させるために、
巨大産業および軍事防衛機構と我々の平和的手段と目標を
適切に組み合わせる ことができるのです。」

ドワイト・D・アイゼンハワー


一言でまとめると、

「平和のために抑止力の獲得は必要であるが、
企業と軍事力を暴走させず民主的な声によって慎重に制御せよ」

ってことかと思います。

■ アイゼンハワー大統領とリトルロック高校事件

アイクの政治的立ち位置については、
原爆投下に関しては強硬に反対の立場で、戦後も否定的だった、
という話から、日本人としては悪い印象を持っていませんでしたが、
軍産複合体に対して不信感を持っていたという噂も、
このスピーチで実証されているといえそうです。

そして、なぜここに彼の言葉がわざわざ貼ってあるかは、
以前当ブログでも取り上げた、リトルロックでの人種差別問題、
「リトルロック高校事件」の際、事態の収集命令を意識的に
白人至上主義者の民主党知事が無視したため、
101空挺師団を送り込んで黒人学生を護衛させたからかもしれません。


US 101st Airborne Division guards arrive at Little Rock High School during Operat...HD Stock Footage

最強の空挺団に護衛された学生たちにちょっかいかける学生なし。

1957 SPECIAL REPORT: " LITTLE ROCK"
動画は主がアカウント削除されたせいで見られませんが、
内容は、リトルロック高校の生徒代表が自主集会で、

「学校は分離教室制度(有色人種を分けること)にするべきだ」

というと、後ろで白人学生がキャーキャーと支持の叫びを上げ、
代表の生徒は言い終わった後、言ってやったぜ!みたいなドヤ顔をし、
記者はなんとも言えない複雑な表情をしているというものです。

これが、大人が気を遣って言えない、白人の本音だったのでしょう。

当時の世相ではおそらくその後価値観が大逆転して
このときの「正義派」が人種差別者として糾弾される日が来るとは、
おそらく誰も思っていなかったと思いますし、穿ったことを言えば、
アイクがもし再選を狙っていたら、この措置に躊躇ったかもしれません。

アメリカの教育現場での人種差別は根深くあり、これから20年後、
1970年代に統合を行ったボストンの学校では、黒人生徒が暴行を受け、
スクールバスが燃やされるという事件が起こっています。

そんな世相の中、よくやったアイク、というのがわたしの素直な感想です。

続く。