ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「ジークフリート線に洗濯物を干す日」連合軍ドイツ侵攻〜国立米空軍博物館

2024-09-30 | 航空機

1945年までにドイツ空軍は事実上壊滅しました。

今日は、制空権を得た連合国の空軍がやりたい放題の攻撃によって
近接支援を行い、その結果、連合軍地上部隊が進攻を果たし、
ドイツを降伏に至らしめるまでを博物館の展示を元にお話しします。


■ ”ジークフリート線” に洗濯物を干す日


ジークフリート線に爆撃を行うB-26

ジークフリートライン( Siegfried-Linie)は、

西方の壁(Westwall)とも呼ばれ、1930年代後半に構築された
ドイツの対フランス要塞線のことです。

🟥 ジークフリートライン
🟦マジノライン
ー青線ーライン川

伝説上の英雄ジークフリートの名を冠したこともあって、
ドイツはこれを国家防衛の象徴としてプロパガンダに利用し、
彼らが作った「不落の要塞」というイメージは敵側の心理に功を奏し、
ドイツのチェコスロバキアとポーランド侵攻を成功させました。

連合国もその実態よりジークフリート線の防御力を過大評価していたことは
こんな英語の歌ができたことにも表れています。

We're Going to Hang out the Washing on the Siegfried Line - British World War II Era Song

ジークフリート・ラインで洗濯物を干そう
汚れた洗濯物はないか、母さん?
ジークフリート・ラインで洗濯物を干すぞ
洗濯の日がやってきたから
天気が雨だろうが晴れだろうが
気にせずやるだけさ
ジークフリート・ラインで洗濯物を干すつもりだ
ジークフリート・ラインがまだそこにあったら

ラインは「洗濯ロープ」の意味もあることからできた歌詞は、
フランス語バージョンもあり、

小柄なトミー(英兵)が軽快に歌う
キャンプに着くと
幸せなポワル(仏兵)たちは皆、このリフレインを覚えた
やがて連隊は陽気に歌った:

ジークフリート線に洗濯物を干そう
洗濯物を干そう 今がその時だ
ジークフリート線に 洗濯物を干そう
白いリネンの時間だ
古いハンカチもパパのセーターも
家族みんなで洗おう
ジークフリード線に洗濯物を干そう
まだそれがそこにあるのなら 

英仏の歌詞はどちらも、


「僕らはジークフリート線に洗濯物を干しにゆく
まだジークフリート線があるのなら」

という「オチ」で終わっています。

しかし、連合軍が戦況不利になってくると、今度はドイツ軍が
こんな「アンサーソング」を作るのでした。


宣伝中隊のうた

„Lied der Kampfgruppen“ • DDR-Marschlied [+Liedtext]

そうとも坊や、君がごく軽く考えた通り
ドイツのライン川沿いは素晴らしい洗濯日和だ
もし諸君がズボンを濡らして困っていても
悲しむ必要はないのだ!
我々がすぐ徹底的に洗ってやろう
上から下までしっかりと
ドイツの洗濯日和が終わったなら、
諸君には洗濯物などもう必要ないのだ!

これが本当の歌合戦。

両曲を比べると、いかにもアメリカンな調子の前者、
あくまでもドイツ風な曲調の後者と、わかりやすくて面白いですね。

しかし、ジークフリート線で実際に衝突が起こり、
ヒュトゲンバルトで双方に大きな犠牲が出た後、
バルジの戦いでドイツが攻勢をかけるも失敗に終わり、
1945年春に最後のジークフリート線上の掩体壕が陥落します。


そして実際にジークフリート線に洗濯物を干すの図

彼が洗濯「ライン」をかけている鉄条網を縛っているコンクリートは
その名も「竜の歯」という対戦車用障害物です。

ジークフリート線の衝突の際には、航空軍の近接支援が大きく関与しました。



■ ドイツ国内への進攻

ルフトバッフェ壊滅後、第9空軍の航空機はドイツ上空を自由に闊歩し、
隙あらば目標を攻撃し、連合軍部隊に近接支援を提供しました。

そして、ジークフリート線を突破したのち、完全な航空優勢という傘の下、
連合軍は3月下旬にライン川を渡り、ドイツに迅速に進攻します。



アルテンキルヒェン(Altenkirchen)近郊で、
航空爆撃によって破壊されたドイツ軍の戦車。
遠景にも道路の反対側に破壊された車両が写り込んでいます。

アルテンキルヒェンはライン川を超えたところにあるボンの東側の都市です。


ケムニッツ近郊で、連合軍の戦闘爆撃機の攻撃を受けるドイツ車両。

ケムニッツ(Chemnitz)はドイツの東寄りで、チェコとの国境に割と近く、
ライプツィヒ、ドレスデンが近郊にあるところです。


ライン進攻後の1945年4月、 A-20のナビゲーター兼爆撃手である
ジェームズ・ニコルズ大尉からドイツ軍兵器庫空襲後の報告を受ける
第9空軍の軽・中爆撃機部隊司令官、サミュエル・アンダーソン少将


同じ頃、第9空軍がデッゲンドルフの貯油場に爆撃している

■ ドイツ軍の最後の反撃 対空砲



ドイツ空軍が敗北したといっても、対空砲火は依然として脅威でした。

1945年3月、ホイト・ベンジ大尉(Hoyt Benge)はドイツ上空で
P-47による急降下爆撃任務中に88ミリ砲弾に被弾しましたが、
なんとか基地まで飛ばして胴体着陸し、生還しました。

ちなみにベンジ大尉は第二次世界大戦中はP-51、P-38のパイロットで、
戦後は州兵として RF-101(ヴードゥー)に乗り、中佐まで昇進しました。

ギターやバイオリンでカントリーミュージックを演奏すること、
ゴルフを愛し、たくさんの子孫に囲まれて、
2012年に90歳の人生を閉じています。

アーカンサスでのホイト中佐告別式のお知らせ


爆撃によって破壊し尽くされた港湾

そして、1945年5月8日、ドイツは降伏しました。



第9空軍司令部
本日の命令
1945年5月9日

全ドイツ軍の無条件降伏は、欧州における我々の目標の達成を意味する。

これは、陸海空における敵の完全な敗北に続くものである。
敵味方双方から、この歴史的な成功を達成する上で

航空戦力が果たした役割の大きさを示す多くの証拠が寄せられている。

誇りを胸に、全能の神が私たちの大義に与えてくださった信念と力に

謙虚な感謝を捧げ、また戦いで失われた人々が
神の恩寵を祈ることができますように祈りを捧げようではないか。

戦って死んだ者は、戦って生きた者と切っても切れない関係にある。

信仰の強さと決意を抱き、諸君は何千マイルも上空から

強大な敵を追い払うためにやってきた。
地上の敵に武器を向け、抵抗する力を破壊するために。

諸君の一人ひとりに、この功績がある。
一人ひとりのたゆまぬ努力なしには、わが軍は戦うことができなかった。

我々は、最終的な成功の幻想を抱いてはならない。
残された敵を打ち負かすだけでなく、戦争の原因に対する

将来の警戒も怠らないようにしなければならない。

世界が再び冷酷な征服者に苦しめられることがないように。

 この究極の成功の中に、我々は、亡くなった者や生き残った者が

成し遂げた業績に対する正当性を見出すべきなのである。

アメリカ軍司令 ホイト・ヴァンデンバーグ少将



続く。

シリコンバレー誕生の地に住む〜ベイエリア生活

2024-09-27 | アメリカ

冒頭写真は、今住んでいるマウンテンビューの、
MKが住むことになったアパートの近くにある「X」、
MK曰く「グーグルのスカンクワークス」ことX. カンパニーです。

今更ですが、グーグル以外にもアップル、フェイスブック、テスラなど、
いわゆるシリコンバレーには世界を席巻する企業が集中しています。

シリコンバレー有名企業マップ



今回MKが住むことになったのはシリコンバレーワーカーをターゲットにした
ホテル、レストラン、大型スーパーを含む複合商業施設内のアパートです。



敷地内にはちょっとしたドッグランも完備。



ドッグラン入り口のアート作品、題名「眉毛犬」。



その2、「マッド・ドッグ」。



「ろくろ首猫」。



夕暮れに黄昏る犬。



アパートにはジムもありますが、敷地内に24時間営業のジムがあり、
いつもその前のパーキングには車が停まっています。

日本ではおそらく普及しないであろうテスラのサイバートラックも、
ここでは最近全く珍しくなくなりました。



一度、これから子供がわらわらと降りてきたので驚きました。
もはやここではファミリーカーとしても使われているようです。

おそらく、こんな車に乗りたがる人間がこんなに大量にいるなんて、
アメリカ広しといえどもシリコンバレーだけに違いありません。


今借りているAirbnbとMKの新しい住まいは歩いて10分ほどです。
契約してから実際に部屋に入るまで、朝の散歩で周りを探索しました。



ここがシリコンバレー誕生の地であるとの説明発見。
確かもう少し北のパロアルトにもそんな説明があった記憶が・・。
シリコンバレーという概念が広すぎて、何を以て誕生の地とするかは、
色々な説があり、それぞれが主張しているってことでしょうか。

まず、左上に書かれた
IEEE(アイ・トリプル・イー )
Institute of Electrical and Electronics Engineers
が何かと言いますと、
米国の電気情報工学分野の学術研究団体(学会)技術標準化機関です。

そのIEEEが、ここをマイルストーンと定めた、ってことは
ここがシリコンバレー誕生の地というのにお墨付きを与えたといえます。



ここにはかつて物理学者、発明家でノーベル物理学賞受賞者だった、
ウィリアム・ショックレーJr.のショックレー半導体研究所がありました。

ここが「シリコンバレーの発祥の地」と定められています。



カリフォルニア州マウンテンビューのサンアントニオロード 391番地は、 
シリコン バレーのささやかな始まりの中心地である。

半導体産業が東海岸とテキサスに集中していた頃、1956年、
シリコンデバイスの研究施設、ショックレー半導体研究所が開設された。

この技術をめぐって生まれた創造的な才能、勤勉さ、
経済的インセンティブのユニークな融合により、
この地域は「シリコン バレー」と呼ばれるようになった。

ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテン、

そしてウィリアム・ショックレーは、1947年、
ベル研究所でバーディーンとブラッテンがトランジスタ効果を発見、
次いでショックレーが接合型トランジスタを発明したことで、
1956 年の ノーベル物理学賞を共同受賞した。



ベル研究所を離れたショックレーは、1955年、
アーノルド・O・ベックマンと提携し、
シリコン製品の開発を目的として、ショックレー半導体研究所を設立した。

ショックレーは国内外から才能ある若い科学者やエンジニアを集めた。
ショックレー博士とシリコンデバイスに関する研究ができる、
という魅力に惹かれてこの地域に集まった聡明で革新的な頭脳集団である。

サンアントニオ通り391番地でショックレーの4層ダイオードが開発され、
シリコンバレー初のシリコントランジスタが製造され、
新興のシリコン処理技術が開発されることになった。

ショックニー博士のノーベル賞受賞パーティ



歩道沿いに設置されたこの作品は、
ショックレー半導体研究所の遺産を称えるモニュメントです。

手前の2つの突起を持つ彫刻は、4層ダイオードを表しています。




1つは生産されていたであろう保護キャップ付き(この手前のもの)
もう1つはキャップが取り外されシリコンチップが露出した状態です。


これは、シリコンバレーで製造された初の市販トランジスタである

2N696シリコントランジスタを表しています。

ショックレーは優秀な研究者だったが、トップとしては人気がなかった。 

彼は4層ダイオードの研究をシリコントランジスタよりも重視していたが、
スタッフはそれを支持しなかった。

1957年、研究所の主要スタッフのグループが独立して会社を設立した。
彼らは近くのパロアルトにフェアチャイルド半導体を設立し、
数か月以内に高度なシリコントランジスタを市場に投入している。

ショックレーは、この8人の成功については懐疑的だったが、
フェアチャイルド半導体は、シリコンバレーでも名だたる成功例となり、 
その疑念は誤りであることが証明された。

The Traitrous Eight「裏切り者八人衆」 


ジャン・ ホーニ、ジュリアス・ブランク、ヴィクター・グリニッチ、
ユージン・クライナー、ゴードン・ムーア、
C・シェルドン・ロバーツ、ジェイ・ラスト、
ロバート・ノイス

メガネ率高し。
ロバーツは「ビッグバンセオリー」のシェルドンのモデルかしら。

ショックレーがシリコンバレー発祥の地に集めた、

才能ある若い科学者や エンジニアたちは、
この地域が今日知られている創意工夫と起業家精神の原動力となった。

数十年経った今でも、シリコンバレーはリスクを恐れず挑むという
 前向きな考え方に支えられた、技術革新のメッカであり続けている。


マウンテンビュー市長、ローズマリー・ステイセクを取り囲む、
かつてのショックレー研究所のスタッフたち。


タッチスクリーンモニュメント

これは1998年に研究所跡地をシリコンバレーの発祥の地とする
これらのモニュメントが設置された時のものです。


モニュメントの年表の原初には、ショックレー研究所があり、
それが「裏切り8人衆」の設立したフェアチャイルド半導体に受け継がれ、
1970年ごろまでに次々と立ち上がった半導体会社に枝分かれしていきます。



恥ずかしながら私の知っている会社名は、
1968年に創業したインテルだけです。



さて、何日か待って、ついに入居の日がやってきました。
事務所に行って鍵を受け取り・・などというアナログなことは、
シリコンバレー発祥の地から数十メートルしか離れていない、
このアパートでは行われるはずがありません。

鍵は、アプリからダウンロードし、ウィジェットに入れておいて、
部屋の前でクリックするとオープンする仕組みです。

これって携帯忘れたり、電池がなくなったらアウトってことか?
その場合は暗証番号で解除できるそうですが、なんか不安・・。

わたしもキーをダウンロードして、いつでも入れるようになりました。


記念すべきアパートへの初入室の感慨に耽るMK。
朝の光が降り注ぐ南向きの最上階で、眺めは抜群。

これから始まるシリコンバレーのお膝元での社会人生活、
実りの多い体験を通じ豊かな人生を歩んでほしいと親として願うばかりです。

続く。




「戦後日本空軍の父」だったウェイランド大将〜国立アメリカ空軍博物館

2024-09-24 | 航空機

今日は、国立空軍博物館展示より、ヨーロッパの侵攻作戦に関与した
航空団の有名な指揮官二人をご紹介しようと思います。


■エルウッド・"ピート"・ケサダ将軍

Maj. Gen. Elwood "Pete" Quesada

エルウッド・ケサダ大将については、以前当ブログで
陸軍航空のパイオニアの一人として紹介したことがあります。


航空機がまだ対空記録を伸ばすことが史上問題だった頃、
その最長記録に挑戦したのが、若き日のケサダでした。

このプロジェクトに関わったカール・スパーツ、アイラ・イーカー、
ケサダの陸軍航空隊の若い搭乗員はいずれも後の空軍の指導者となりました。

この項で、ケサダ大将のことを、
「戦術の革新者」
というタイトルでご紹介していますが、それは彼が
第九戦術航空軍団(第九空軍)の司令官として、
「装甲列カバー」システム
"armored column cover" system
を開発したという実績からきています。

どのような戦術かというと、

武装した戦闘爆撃機の小編隊が装甲部隊の前方を飛行する
隊列の戦車の1台には米空軍の飛行士官が乗り、航空隊と交信する

この手順により、戦闘爆撃機は上空からの偵察によって
敵戦車をいち早く発見し、脅威になる前に撃破することができます。

同作戦中
赤丸で囲まれたところはアメリカ軍装甲車の隊列
その上空を飛ぶP-47


エルウッド・ケサダ大将(左)と作戦部長のギルバート・マイヤーズ大佐
バルジの戦いで戦闘爆撃機に撃破されたドイツ軍戦車を調査している

左から、ケサダ少将、第12空軍ゴードン・サビール准将
第9空軍指揮官ホイト・ヴァンデンバーグ少将
南フランス侵攻作戦「オペレーション・ドラグーン」にて

ドラグーン作戦とは、プロヴァンス地方への上陸作戦のことで、
ノルマンディ侵攻作戦のあと、8月15日に実施されました。

ノルマンディに比べると配備されていたドイツ軍は二線級だったこともあって
ほとんど楽勝という感じで空挺と上陸を成功させ、
北部から上陸したパットンの第3軍とディジョン(マスタードで有名)
で合流し、これでフランス国内の南北戦線がつながりました。


■ オットー・ウェイランド空軍大将

”日本空軍の父”??


Maj. Gen. Otto Paul Weyland

第IX戦術航空軍団(第9空軍)の指揮官として、
ジョージ・パットン中将率いる第3軍と緊密に連携し、
効果をあげたのがオットー・ウェイランド陸軍大将(最終)でした。

ノルマンディー上陸作戦中、敵の攻撃を受けやすい第3軍の
装甲部隊の右翼を防御したのがウェイランドの戦闘爆撃機隊でした。

第9空軍と連携することによって、第3軍は1944年8月のフランス縦断と
1945年春のドイツ縦断を成功させ、ウェイランドは少将になり、
ジョージ・パットン将軍は

「ウェイランドを "航空隊最高のD⭐︎⭐︎⭐︎将軍 "と呼んだ。」

なぜここで伏字が?
と思ったら、案の定ここに入るのは「教育上いっちゃだめな言葉」で、
実際に何をいったかというと、なんのこたあない、

"the best damn general in the Air Corps."

だったというわけです。

ジョージ・パットンという人は、新興貴族の大金持ちの出で、



おぼっちゃまとして育ちましたが、軍人一族でもあったせいか、
いつしか根っからの野心的な軍人らしく振る舞いだし、

自慢が激しく、人に傲慢に思われることを楽しむような人物で、
ふてぶてしく、嘘がうまく、勝手で、悪口を頻繁に口にする


という傾向があったくらいですから、軍人を褒めるのに
これくらいのラフな言葉遣いは普通だったのかもしれません。

方や言われたウェイランドはというと、写真を見る限りそんなことは
決して公的に口に出すことはなさそうな・・。
(ウェイランドは予備士官で、テキサスA&M大学では
機械工学の理学士号を取得して航空隊入隊している)


左肩に第9空軍のパッチ。
誰かは知りませんが、フランス軍の大将に叙勲されているウェイランド。


ところで、ウェイランドという将軍の名前は、
我々日本人にとってほぼ無名と言っても差し支えないと思うのですが、
この人のwiki(ちなみに日本語翻訳はない)の最後に
見逃せないこんな言葉を見つけてしまいました。

 the "father of the new Japanese air force."

日本空軍の父だと・・・・?

■ 朝鮮戦争後のウェイランド


写真は、沖縄の嘉手納基地に駐留していた313航空師団とウェイランド大将。

第二次世界大戦後、米空軍が独立すると計画作戦部に勤務し、その後
ワシントンの国立陸軍大学校の副司令官を務めていたウェイランド少将は、
朝鮮戦争が始まると、一ヶ月だけ東京の極東空軍司令部(FEAF)で
作戦担当副司令官として赴任していました。

帰国して中将に昇進したのですが、ちょうどその時、FEAFの司令官だった
ジョージ・ストラテマイヤー中将が心臓発作を起こしたため、
FEAFと国際連合空軍の司令官として東京に戻り、後任を務めます。

第二次世界大戦で得たウェイランドの戦術戦における能力と経験は
パットンのお墨付きもあってこの時も期待されていましたが、
朝鮮半島における10回の主要作戦ではそれが実証される形となり、
彼は1952年についに四つ星大将に昇進することとなります。



そして、その経歴の最後がこのように締めくくられます。

彼は日本に留まり、防空部隊と航空機産業の再編成を支援し、
"新日本空軍の父 "として知られるようになった。


いや・・・少なくともわたしは初めて知りますが。
どなたかこの人が「空軍の父」であるという記述を、
本人のwiki以外で見たという方、おられますか?

検索したところ、沖縄の歴史資料として、上の閲兵中写真が出てきました。
おそらく、朝鮮戦争中、嘉手納から航空作戦に多くの隊が参加したことで
ウェイランドが313航空師団の視察に来たということでしょう。

註:この件についてはお節介船屋さんが当時の航空自衛隊設立までの経緯に
将軍が関わったことをコメントに書いてくださっていますのでご覧ください。


もう一つの写真がこれ。

真ん中の空軍制服がウェイランド将軍で、周りにいるのは海軍軍人。
嘉手納での歓迎レセプションだと写真説明にはあります。

文章では日本語はもちろん、英語でも、
ウェイランド大将と日本、ましてや自衛隊との関係を示す資料は
一切見つかりませんでした。



最後に有名な写真を。
第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線に赴いた米陸軍司令官クラス。

前列左から:
ウィリアム・H・シンプソン中将(第2軍司令官)
ジョージ・S・パットン中将(第3軍司令官)
カール・A・スパーツ中将(在欧アメリカ戦略空軍司令官)
ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(連合国遠征軍最高司令官)
オマール・S・ブレッドレー大将(第21軍集団司令官)
コートニー・H・ホッジス中将(第1軍司令官)
レオナード・T・ジェロウ少将(第5軍団司令官)

後列左から:
ラルフ・S・スターリー准将(第9戦術航空軍団司令官)
ホイト・S・ヴァンデンバーグ中将(第9空軍司令官)
ウォルター・B・スミス中将(連合国遠征軍最高司令部参謀長)
オットー・P・ウェイランド少将(第19戦術航空軍団司令官)
リチャード・E・ヌージェント准将(第29戦術航空軍団司令官)

前列真ん中が一番偉く、その横に従って階級が下がり、
同じ中将でも空軍関係は後列、というのがアメリカ陸軍の写真の撮り方。

やっぱりどこの組織も軍隊の序列並び方は似ていますね。

続く。


チェックアウトまで@ミサイルルーム〜タロス巡洋艦「リトルロック」

2024-09-21 | 軍艦

タロス巡洋艦「リトルロック」のミサイルルームシリーズ最終回です。

このシリーズでご紹介しているビデオは「オクラホマシティ」の映像です。
それではビデオの続きを見ていきましょう。

前回、ミサイルは弾倉からクレーンとクレードルで移動し、
レディ・ミサイルルームでブースターと嵌合させられ、天井のレールで
最終エリアまで移動すると言うところまでお話ししました。



そこは「ウィング&フィンルーム」「チェックアウトエリア」とも呼ばれ、
ミサイルをランチャーに送り出す最後の工程が行われます。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation

ビデオは10:10〜からご覧ください。



(ドアが開き)
ミサイルは秒速12フィートでウィング&フィンエリアに移動すると、

クルーは迅速にウィングとフィンをミサイルとブースターに取り付け、



ウィングとフィンが手動で取り付けられた状態



アーミングプラグが取り付けられると、ミサイルは準備完了だ。

アーミングプラグとは、安全上機能が停止されているハードウェア
(飛行するもの)を有効にするため取り付けるプラグのことで、
ミサイルや爆弾の場合、プラグを取り付けることで初めて爆発可となります。

航空機でカバーや安全装置の「はずし忘れ」を防ぐための
「Remove before Flight」タグとは反対の発想です。


ウィング&フィンエリアは、右舷側の通路を歩いていると、
目の高さに床があって、ガラスで覆われた窓を通して見えます。

ウィングとフィンが取り付けられると、クルーは安全のため、
金属スクリーンの後ろに回り、フットスイッチを押します。
(ミサイルの移動経路に人がいるとウィングやフィンに当たるため大変危険)


ブラストドアが開くと、ローダーレールがランチャーアームまで伸びていく。


ちなみに写真は「リトルロック」現役時代のブラストドアです。

アメリカ海軍が何につけても装備をラフに運用するのは周知の事実ですが、
それにしてもこの汚さはいかがなものか。

一回運用するだけでミサイルの排気?をまともに受けるので、
いちいち綺麗になんかしてられっか、みたいな意思を感じますね。



今は嘘のように綺麗な状態に塗装されています。
ブラストドアは下のドアが先に下向きに、
後から上のドアが上向きにスウィングして開きます。

ブラストドアは油圧式で、その動きは非常に早く、
ミサイル・ハウスの外のドアの前に万が一人がいようものなら
巨大な下側のドアが開くと同時に圧縮されてしまうでしょう。

そのため、非発射試験中はミサイル・ハウスの外に監視員が配置され、
ドアが開く前に周囲が安全であるという確認がされました。

外といっても甲板の上に立っているのではなく、
発射訓練中は、メインデッキから1フィートほど上に伸びた
ファンテール上の小さな装甲「ハウス」にある窓から監視が行われました。

また、ミサイルハウスの表面には狭い回転窓があり、
そこにも監視員がいて、ファンテイルの監視員には見えない部分、
発射装置とハウスの間の領域を見ることができた。

この窓は、ミサイルが発射される前に装甲カバーの後ろで回転して閉じます。

そして、ミサイルはランチャーまで運ばれる。


両側のミサイルがランチャーに向かってブラストドアから出てきました。

ランチャーのレールとエリア1のレールの間には、
発射レールが延長してミサイルを前に送ります。

ミサイルがランチャーに移動し、ブラストドアが閉じると、
兵器管制と誘導コンピュータがランチャーとミサイルの制御を引き継ぎます。



ブラストドアが閉まると、ランチャーは旋回を始め、上昇する。

ターゲットに向かって「撃(て)ー!」

タロス、核弾頭を持つ装備は空に向かって放たれた。
我が艦隊を、そして我が祖国を守るために、
タロスはいつでも準備されている。

(終)

とかっこよく終わったわけですが、残りの写真を見ていきます。


ブロウアウトパッチ。(表示通り)


「マニホールド」とは、シリンダー機関の吸気管や、
油圧、空気圧回路の配管をひとまとめにしたものです。

ミサイルを動かすためのリボルバー式回転機の圧縮窒素の配管図のようです。
出口近く(左舷側)にありました。


貼り紙にはミサイルルームの各エリアの基本的任務が書かれています。



ミサイルルームの指令はこの電話を通じて受けていたようです。
このコーナーはミサイルルーム出口近くにありました。



試射における各ミサイルのデータ一覧表。

ミサイルのタイプ、弾頭の種類、バッテリー、TOD、最終チェック日、
次回チェック予定、GO/N0-GO、などなどがメモされています。

最後の任務日から消されずに残されていたものかもしれません。


これでミサイルルームの中を見終わりました。
中を一周して、入ってきたところと反対にあるドアから出ていきます。



通路にはちゃんとアンカーのマークが記されていました。
ここを出ると、ミサイルの発射孔があるファンテイル部分になります。


続く。


ONE TREE〜シリコンバレー家具探し散歩

2024-09-16 | アメリカ

マウンテンビューというアメリカ西海岸の街に滞在していますが、
何がありがたいと言って、とにかく湿度が低いことです。
昼間日差しが強くても、日陰に入るとひんやりしていて、
9月になってからは朝寒いくらいに感じることがあります。

なので、朝早く起きたら太陽を浴びるため、外を散歩します。
朝光を浴びるとメラトニンの分泌が14時間後から行われ、
その作用で寝つきが良くなると聞いたからですが、効果を実感しています。

陽を浴びるのが目的なのでガチのウォーキングではなく、
近隣の老人専用アパート(老人ホームではなく、一戸建てが並んでいる)
の住人である老夫婦のルーチン散歩と運動強度は同じくらいです。


先日散歩中、自分の身体くらいの大きさマツカサを咥えたリス発見。
びっくりして立ち止まり、スマホを向けると、固まってしまいました。


人が見てたらそりゃ怖いよね、と立ち去るフリをしてこっそり振り返ったら、
獲物をフンガー!と咥えて再び引っ張ろうとしていました。

しかし次の日、この松ぼっくりがポツンと木の根元に転がっていました。
木の上の巣まで持って上がることは不可能だと悟った模様。


この日は初めてアパートのジムに行ってみました。

高級いかんに関わらず、アパートにプールがあるのは珍しくありません。
先日MKの家探しで2番目に見た鯉のいるアパートも、
大きなプールがあって、住民がプールサイドで憩っていました。

このアパートには小さなドッグラン、バーベキューグリル、
卓球台、ビリヤード台のあるプレイルームなども完備しています。
実は一応ここのワンルームも見せてもらったのですが、
現在のところ、空きはないとのことでした。

■ ソファベッドを決める



家が決まった次の日から、早速家具探しが始まりました。
一応ネットで検索してから、実物を見ることができるお店を訪ねます。
ここはマウンテンビューの中心となるカストロストリート沿い。
レストランが立ち並ぶ通りですが、文化会館的なホールもあります。


この近くにあるGINKO(銀杏)という家具屋さんで、
MKが興味を示したのはこのソファー。
最初からベッドになるソファーにすることは決めていましたが、
どうも彼はこれをメインのベッドにして部屋を広く使いたい模様。


ホテルなどのソファベッドと違い、ベッドにするとこのように
ほぼ完璧なクィーンサイズのマットレスとして機能します。
寝心地も、ベッドを目指して?いるので問題ないだろうとのこと。
結局1週間迷って、これを買うことに決めました。

毎日ベッドメイキングも口うるさく言わないとしない奴が、
一人暮らしで毎日ベッドを片付けられるわけないだろう、
とわたしは内心思っているのですが、まあそれは自己責任です。


■レイトショーで「エイリアン」を観る


この日、MKが友達と観て面白かったということでおすすめされ、
IMAXで「エイリアン・ロルムス」を鑑賞することになりました。

思い立ってすぐということで、夜の10時開始(実際は10時半)のため
サンタクララまで車を飛ばしたのですが、アメリカでレイトショーは初めて。



ロビーのお店には人影はなく、かろうじて一つのブースが営業しています。
ところでこの映画館スタッフには絵を描くのが好きな人がいるらしく、



元ネタは分かりませんが、カウンターを閉めるカバーに、
左:初日は静かに
右:おっと、もう品切れです。すまんねXOXO
と書いてあります。

映画館には最初の30分私たち家族しかいませんでした。
上映ギリギリに数組のアメリカ人が入ってきましたが、
昼間と同じ設定で冷房しているのか、寒くて困りました。

映画は、一口で言って面白かったです。
途中で絶対寝るだろうなと思ったのですが、気がついたら最後まで観ました。
アメリカの映画なのでもちろん字幕はありませんが、
そんなものはまず必要ない展開でしたし。

ところで、主人公の一人、タイラーを演じた俳優(アーチー・ルノー)
が出てきた途端、この人無茶苦茶見覚えがある!と思ったのですが、
なんと飛行機の中で見た「アップグレード」の主演男優でした。
彼にとってこの2作品はどちらも今年出演作なんだそうで。

ところでなぜこんなタイトルだけで内容の予想がつく映画を観たかというと、
自分自身がアップグレードされた直後だったからです。

今回の飛行機、いつものように特典航空券枠でのビジネスが取れず、
わたしだけがプレミアムエコノミーの席で来る予定でした。

一応カウンターでアップグレードできるかどうか聞いてみたら、
お盆の繁忙期のため140万円必要だと言われ(係員も驚いていた)、
勿論それは諦めたのですが、いざゲートを通ろうとしたら呼び止められ、


「空きがでたのでビジネス席を(無料で)用意させていただきました」

という奇跡が起こったのです。

どういう理屈かは分かりませんが、なぜそうなったか聞いても、

「当社の都合です」としか言わないので、いまだに理由は不明です。

その直後だったので映画も「アップグレード」を選んでしまったのですが、
お話は案の定、オークション会社でこき使われていた下っ端の女の子が、
航空会社の係員に同情され、アップグレードしてもらい乗ったファースト席で
隣同士になったイギリス富豪の息子と恋に落ちるという陳腐な内容。

富豪息子を演じていたのがこのアーチーだったのですが、
わたしの目には爆笑問題太田の上位変換&拡大版にしか見えず、
イケメン扱いされているのに大いに違和感を抱いたものです。

で、ここから本題なのですが、終了後、英語聞き取れた?と聴かれたので、

「前半はあまり聞き取れなかったけど後半は問題なかった」
(その心はほとんどセリフなしのシーンが続いたため)

というと、MKが衝撃の発言を。

「多分観ていたほとんどのアメリカ人もそうだったと思う」

そもそもこの映画の監督、リドリー・スコットはイギリス人で、
主演級はほとんどイギリス人俳優が演じているため、

アメリカ人には彼らの英語が聞き取りにくかったはず、いうのが彼の説。

日本人にはイギリス英語の方が聞き取り易いなどと常々豪語していたくせに、
その割に米語か英語かなど全く気づきもしなかったわたしって一体。


■ スタンフォードショッピングセンターに保護猫センター出現



家具を探してこの日はスタンフォードショッピングセンターに行きました。
ここの家具店は全体的に高級すぎたので収穫はありませんでしたが、
なんと、しばらく来なかった間に、猫カフェらしきものができていました。
中で飲んだり食べたりはできないので「カフェ」ではありませんが。



「ミニキャットタウン」というこの施設は、12歳以上の大人15ドル、
以下は10ドル払うと、30分中で猫と触れ合えるようになっています。


入場申し込みと支払いは全て外からオンラインで行う仕組み。


この日は週末で子供づれの家族で賑わっていました。
気に入った猫がいれば、アダプション(養子縁組)を行うこともでき、
値段は猫の年齢に応じて色々のようです。

入場する時には手を消毒し、靴には鑑識が履くようなカバーをつけます。



猫の首輪には名前が書いてあります。
この施設を立ち上げたのはアジア系の若い女性3人だそうです。

ところでこの写真、たまたま窓際に黒猫がいるだけだと思うのですが、
キリスト教圏では、いまだに黒猫を避ける傾向があり、
引き取り手に困っているという話を以前聞いた覚えがあります。

このとき後ろから中国人のグループが来て、主に女性が口々に
「シャオヘイ」「シャオヘイ」とはしゃぎだしたのですが、
確か「シャオヘイ」とは「小黒」のことだと思い出しました。

昔勉強した中国語のテキストに登場した黒猫の名前が小黒だったのです。
中国では黒猫(ヘイマオ)=シャオヘイなのかもしれません。

■ 無印良品の夢の跡


ブリッジを渡った向こう岸の巨大な倉庫型家具店にも足を運びました。
あまりにも広大でもうそれだけで驚いてしまったのですが、
一応全部見て回った結果、特に家具というものは
たくさん展示されていればいいというものではないと悟ることになりました。

その理由:値段的にもセンスの点でも振り幅が大きすぎて、
その中から自分の好みに合うものを探し出すのは大変です。


同じことは、この古い家具屋にも言えました。

店主のおじいさんに言わせると、「サンフランシスコ一の品数」
を揃えているというこのお店、黄色い看板には、「緊急セール」として、
次々入ってくる家具を入れる場所がないので安く売ります、とあります。

しかし、玉石混交というのか、品揃えも見せ方もイマイチ。
この店で素敵だなという展示をされている商品は一つもありませんでした。



実際の船のスクリューを利用したガラステーブルとか。



初めて見る、二段ベッドになるソファベッドとか、
確かに変わったもの、ここにしかないものもあるのですが、


お値段、12ドル59セント(これだけ貰ってもいらん)



極限までカットされた美容師のヘアカット練習用マネキンの頭とか、
ある意味ネタの宝庫とでもいうべき品揃えでしたが、
ここで驚いたのはそれではありませんでした。


2階で繋がっているフロアを下に降りていくと、
なんと無印良品の店舗の跡地?があるではないですか。


無印が撤退したので、家具店は溢れかえる家具を置くため、

店舗だったスペースを改装せず、商品が残った状態で使っているのです。

無印良品は、アメリカやヨーロッパに事業進出したものの、
駐在員を置くことや賃貸契約、在庫管理が甘いなどの問題で苦しむ中、
新型コロナウイルスのせいで業績を落とし、
アメリカからは全面撤退したということをこのとき知りました。


日本ではお馴染みの商品が、ディスプレイされたままで埃まみれです。

階段から手の届く部分の商品は、持ち去られたのかもしれません。
キャラメルポップコーンを盗っていった人もいる模様。

■ 棚が見つかった



ソファベッドが決まれば、次はベッド横の棚です。
ワンルームなので、寝室とその他の区切りになるように、
ベッドと同じ横長の低いラックを探していたところ、ネットで見つけ、
サンフランシスコのマリポサにあるお店に行ってみました。

マリポサはサンフランシスコの東南ミッション地区で、
昔MKの幼稚園探しで訪れた時には、何もない殺伐とした雰囲気が漂い、
あまり住もうとは思わない地域だった記憶があるのですが、
いつの間にか立派な子供病院や高層ビルが立ち並ぶ街に変貌していました。

そして周辺は、家具などのアーティスティックな工房がある、
ちょっとヒップな雰囲気のSOHOエリアとなっています。


この工房はシンプルで少しミッドセンチュリーを思わせるコンセプトです。
ここでラックを注文することに決まりました。


この日のランチは、家具屋近くのベーカリーカフェに行きました。
煙突がまだ残っている工場の建物をそのまま利用しています。

後からここが、世界的に有名になりつつある、
チャド・ロバートソンのターティン・ベーカリーだったと知りました。


Tartine(タルティーヌ)という名前が期待させます。
タルティーヌは、バケットなどのスライスに具材を乗せるオープンサンド。


ターティン・ベーカリーは元々サンフランシスコのご当地パン、
サワードウを「カントリーブレッド」として有名にした伝説の店です。

日本のパンにはないずっしりとした食べ応えがいかにも「ごパン」。

わたしは日常グルテンを控えめにする食生活をしているのですが、
S・ガンドリー博士の「サワードウならセーフ」という説を読んで以来、
アメリカに来るとサワードウに限りパンを解禁します。


建物の半分は陶芸工房で、窯がトイレに行くときに見えるので、
食事が終わった人の多くは、工房の物販店を冷やかして帰ります。

さすが陶芸というだけあって、日本製品多し。
この可愛らしい一輪挿しなどは長野にある工房から輸入されたもの。


「Meiji Lantern Kojima Syoten」

京都に江戸時代(1798年ごろ)開業した提灯屋、
小嶋商店の伝統的提灯「明治提灯」をランプにしたもの。

英語の説明によると、「自張り式」という伝統の手法を用いており、
制作には職人の高い技術が必要な逸品とのことです。

小嶋商店ホームページより、提灯の作り方

ちなみにお値段ですが、614ドルということです。

■ ONE TREE

冒頭画像は、サンフランシスコの高速に入るところにある、
「ONE WAY」に合わせて描かれた「ONE TREE」とその木の現在。


木が大きくなって、「ONE TREE」をほぼ覆い隠していました。


2019年に撮影した時のONE TREE。
この時はまだONEくらいは読めます。

2006年。この頃壁は青かった。

 ONETREE




白黒写真の頃。

この時の後ろ壁は何かの事情で建て替えになり、
現在の壁になったので微妙に矢印の場所が違うことに気がつきました。

ところで、右下の小さな木がこれだけ育つのに、何年かかったのでしょうか。


続く。


レディサービスエリア出発 ミサイルルーム〜タロス巡洋艦「リトルロック」

2024-09-15 | 軍艦

エリー郡バッファローにある海事軍事公園の展示から、
タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」のミサイルルームを紹介しています。

ここでタロスについて”ちょっと深掘り”(つまり浅堀り)しましょう。

タロスミサイルは正式にはRIM-8 TALOS といい、
世界で唯一アメリカ海軍で1958年から79年までの間運用されました。
ほぼ20年間だったわけで、その存在は、

バンブルビー作戦

という対空防衛を目標とした地対空ミサイル(SAMs)開発の、
ある意味最終成果物と言うべきものです。

前にも説明していますが、「タロス」(英語発音はテイロス)は、

「クレタ島を毎日三回走り回って警邏し、船が近づくと石を投げつけて破壊
不審者を見ると身体から高熱を発し、赤く熱した体で抱きついて焼く」

と言うギリシャ神話の意思を持たない(これが怖い)青銅の人形のことです。

他にも米海軍は「ターター」(タルタロス、奈落の神)
「タイフォン」(テューポン、ギリシャ神話のラスボスでゼウスに勝った)
と、やばい奴の名前ばかりを、好んでミサイルにつけております。


バンブルビー作戦は、ドイツ軍のHs 293(ヘンシェル)ミサイル
ルールシュタール/クラマーX-1、そしてなんといっても、
沖縄戦で米海軍を恐怖に陥れた神風特攻への対策として生まれ、
対空武器の開発にアメリカ海軍は16年を費やしました。


全長9.9メートル、3.5トンのミサイルは小型戦闘機の大きさに匹敵し、
「ガルベストン」「リトルロック」「オクラホマシティ」の
3隻からなる「ガルベストン級」に最初に搭載されました。

■ タロスミサイルと実戦

タロスミサイルの地対空バージョンはベトナム戦争で使われ、
USS「シカゴ」と「ロングビーチ」が計4機のMiGを撃墜しています。

1968年5月23日、「ロングビーチ」から発射されたタロスによって
約65マイルの距離からMiGを撃墜したとき、これは、
史上初の艦船から発射されたミサイルによる敵機撃墜となります。

この時の命中弾は、破片の中を飛んでいた別のミグも破壊しています。

1968年9月「ロングビーチ」は61マイル先のミグを撃墜。

1972年5月9日、「シカゴ」の前方タロスがMiGの長距離キルを達成。

ベトナムでの「シカゴ」「オクラホマシティ」「ロングビーチ」は、
北ベトナムのSAMレーダーを攻撃し、
「オクラホマ・シティ」は1972年、RIM-8Hの戦闘射撃を成功させて、
米海軍史上初の戦闘用地対地ミサイルの発射を記録しています。


さて、見学者は左下から入って反時計回りに内部を歩くのですが、
入室してすぐのところに名メイティング(嵌合)エリアがあります。

写真による弾頭組み立てエリアの説明

タロスミサイルは核弾頭と通常弾頭が使い分けられられますが、
その換装が行われるのも、ここ弾頭組み立てエリアです。


核弾頭から通常弾頭へ、またその逆に換装する場合、
使用するミサイル弾頭は天井クレーン(D)により、
下の弾頭取扱室からデッキハッチを通って吊り上げられます。

クレーンは頭上のトラック(E)に沿って弾頭を
ミサイル・アセンブリおよびブースターと結合させます。

その後、ストライクダウンカートがミサイルをレディエリアに戻します。

その後ミサイルは頭上のレールに乗って発射アームに移動します。
ここでは最終工程としてミサイルにフィンが取り付けられるので、
「フィン・ルーム」と呼ばれています。

今日はラックがレールに取り付けられて移動し、
フィンルームに行くという部分についてです。





レディサービスエリアに運ばれたブースターは、嵌合スタンドに位置され、
ミサイルと組み合わされてクレーンで持ち上げられ、
上のレディサービストレイに収納されます。


赤い目盛りのついた計器には、

NAVY CALIBRATION PROGRAM(海軍点検プログラム)
CALIBRATED(計器の点検済み)

と書かれたシールが貼ってあり、左の機器には

⇩DOWN

右には

NEUTRAL
BRAKE OFF

とあるので、おそらくミサイルを持ち上げるクレーンの操縦器でしょう。


クレーンの操縦レバーそのものはその下方赤丸で囲んだ部分にあります。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation

ビデオは7:49からとなります。
前回同様、ビデオの説明を翻訳した文は青色で示します。

レディサービスエリアのミサイルがテストで必要となった時には、
レディサービスクレーンによって収納トレイから取り出され、
嵌合ステーションに配置される。


ここでブースターは切り離され、そしてレディサービストレイに戻される。



パワーカートでミサイルをチェックアウトエリアに移動させるが
そこでは
「TATI」テスターのケーブルが接続される。

途中で見つけたパワーカートそのもののテスト指標

「TATI」とは
TALOS Tactical Tester Equipmentを意味する。

テスターは各テストセットが自動的に実行され、
テストが正しく迅速に終了すると、
障害分離パネルの50個の赤いライトが消える。

全てのテストが完了したとき、緑のメインゴールライトが点灯する。



この時ミサイルが準備OKとなるのである。

その後、ミサイルはもう一度レディサービスエリアに戻され、

そこでブースターと嵌合されてそしてもう一度トレイに収納される。

この状態

いつでも発射可能なミサイルが装填された準備サービストレイは、
リボルバーのシリンダーとほぼ同じ仕組みでローテーションされ、
銃のチェンバー(薬室)と同じような状態になる。

つまり、このラック群が前回も説明したように全体で回転し、
必要なミサイルのラックを上のレールの真下に来るよう持ち上げるのです。



トレイはリモートコントロールパネルで任意に選択することができ、
その時特別なオーダーは必要なく、任意のミサイルをランダムに選択できる。

ミサイルの発射を選択すると、トレイは位置を定め、
ローダーレールが準備される。

するとセンタートレイホイストがミサイルをローダーレールまで持ち上げ、
レイルはミサイルのブースターシューズ(フック鉤)に取り付けられる。



奥にある黒いドアは「ファイアドア」といいます。



ファイア(発射)ドアが開くとセンタートレイが下に落ち、
ミサイルは秒速12フィートで
(結構速い)移動を始め、
ウィング&シン(Thin)エリアまで運ばれていく。



この図ではエリア1になります。




続く。




バルジの戦いと第二次世界大戦の友軍誤射事件〜国立アメリカ空軍博物館

2024-09-12 | 歴史

昔、わたしが全くそちら方面の知識がなかったころ、
知り合いにいわゆるミリタリーオタクな人がいました。

特に親しいという関係ではなかったのに、わたしが戦争映画に
興味がないわけではない、程度の反応をしたところ、なぜか張り切って
いくつもの戦争映画DVDやなぜか小説を無理やり?貸してくれたものです。

そんな彼のミリオタっぷりは、広島に仕事に行ったとき、
泊まっていたホテルのウェイトレスのお父さんが
海上自衛隊の佐官というだけで彼女をナンパするほどでした。
(今にして思えば彼女の父上は呉勤務だったのだと思う)

別の知人とそんな彼のミリオタっぷりを話題にしたとき、わたしが、

「〇〇さん、戦争映画が好きらしいですよ」

というと、もう一人が、へー、どの辺の?と聞くので、
第二次世界大戦の、しかも日本ではなくヨーロッパの、というと、

「蛤御門の変とかじゃダメなんだ」

いや、蛤御門の変の映画はないから。

という彼が貸してくれた中にあったのが、
「メンフィス・ベル」小説版とDVD、そして「バルジ大作戦」でした。

予告編「バルジ大作戦」(Battle of the Bulge)trailer
ヘンリーフォンダ ロバートショウ チャールズブロンソン

主役ヘンリー・フォンダにチャールズ・ブロンソンとは。
当時の超人気俳優を使っていたわけですね。
ちなみに今検索したら、ドイツ軍伍長役として、当ブログで取り上げた映画、
「モリツリ」のドンキー、「戦線の08/15 Zweiter Teil」の伍長役だった、
ハンス・クリスチャン・ブレヒが出演していることがわかりました。

この映画の有名なシーンが、これ。
映画「バルジ大作戦」"BATTLE OF THE BULGE" 戦車兵の唄

「ドイツ兵が歌って元気になるシリーズ」。
装甲師団のみんなが「パンツァー・リート」で誇りを取り戻すシーンです。

このドイツ軍将校は今にして思えばパイパー少佐がモデル?

■ バルジの戦い

バルジの戦いにはよく「ヒットラー最後の賭け」というタイトルが付きます。

1944年12月16日、ドイツ軍はアルデンヌの森の守備が薄いところを狙い、
大規模な奇襲攻撃を開始しました。

後世にいう「バルジの戦い」です。

最初の7日間、霧、雲、雪により連合軍の戦術航空戦力は著しく制限され、
先鋒部隊として投入されたヨアヒム・パイパー大佐の機甲戦闘団
目覚ましい活躍などもあって、12月24日までに
ドイツ軍に西方50マイルまで侵攻を許すなど絶望的な状況に陥りました。


ヨッヘン・パイパー

ここで、航空戦力の点からこの経緯を見ていきます。

連合軍とドイツ軍の航空戦力は、12月23日に天候が回復すると、
どちらも地上部隊を支援するためにすぐさま出撃しました。

この時多勢に無勢だったドイツ空軍は主に戦闘機を出しましたが、
第9空軍は戦闘機だけでなく、爆撃機、グライダー、輸送機を投入。

マイナスDデイの時点で航空勢力が削がれていたドイツ側は立ち向かえず、
地上のドイツ軍は次第に補給を断たれ、苛烈な攻撃に後退を始めます。




12月のヨーロッパ北部の寒さは異常。

というわけで、荒れた冬の現場での飛行作業は
第9空軍の整備要員にとって厳しい労働条件となりました。

この写真では、乗組員は P-38の凍ったエンジンを外部ヒーターで暖め、
エンジンを始動できるようにしているところです。
手前に見えているダクトホースで空気を送り込むのでしょうか。

メカニックは急拵えの作業足場スタンドの上に乗って、
機首の銃の整備をしているところです。


アルデンヌの地で陸軍地上砲兵部隊と航空士官が握手する歴史的瞬間。
(多分日頃は仲が悪いに違いないのでそういう意味でも)

カリフォルニア州バークレー出身のローウェル・B・スミス少佐(右)が、
第9空軍の366FG、390FSに所属し、任務は地上部隊との協力でしたが、
このときは地上部隊からの「掩護」を受けた、という状況でした。

弾薬を使い果たして基地に帰還してきたスミス少佐は、Bf109の攻撃を受け、
味方の対空砲座の上空を低空飛行したところ、対空部隊が敵機を発見し、
数回の攻撃の末撃墜し、少佐を助けることに成功しました。

というわけで、これは少佐が礼を言いにきて握手を交わしているところです。

このときドイツ軍が「最後のサイコロ」として行った
「ボーデンプラット作戦Bodenplatte」
において、スミス少佐は近接支援任務のために15分早く離陸したところ、
Fw190とMe109が部隊空襲をしかけてきました。


スミス少佐はこのときFw190と交戦し、2機を撃墜しています。


このスキーを履いている人はP−47サンダーボルトのパイロットです。
そして後ろのテントは「ブリーフィングルーム」。

駐機場までスキーで移動する第9空軍ジョージ・ブルッキング少佐。


真ん中、ブルッキング少佐。全員パイロット。


バルジの戦いで好天に恵まれた最初の日、1944年12月23日。
第9空軍の軽・中型爆撃機に襲われたドイツ・リンブルク近郊の鉄道操車場。

鉄道車両にはジュネーブ条約に基づく攻撃制限がなかったため、
輸送中の連合軍捕虜が鉄道攻撃で命を落とすことがありました。

究極の友軍誤射、フレンドリーファイアーです。

■ 最悪のフレンドリー・ファイアー

余談ですが、第二次世界大戦中起こったアメリカ軍友軍攻撃の悲劇の一つ、
アッレローナ鉄橋爆撃について取り上げておきます。

第二次世界大戦中最悪の友軍誤射事件はイタリアで起こりました。

1944年1月28日、米空軍機がイタリア中部オルヴィエートの北にある
アッレローナの橋を爆撃し、この攻撃によって、
40~50両の列車が直撃を受け、10両が破壊され、3両が脱線し、
残りの1両はアーチの中で座屈するという大被害となりました。

米軍のパイロットが知らなかったのは、その列車には
1,000人以上の連合軍捕虜が乗っていたということでした。

捕虜の出身はアメリカ、イギリス、南アフリカなどでしたが、
今日に至るまで、何人が死亡したのか確かなことすらわかっていません。
推定死亡者数は200人〜600人と、えらく誤差がありますが、

どちらにしても結構とんでもない人数です。

近くの村に住む人々は、その処理のためにドイツ軍に駆り出され、
その結果、惨劇を目の当たりにすることになりました。

付近住民の証言によると、

「村人らが到着すると、死体の山があった。
彼らは死体を爆弾のクレーターに入れ、ガソリンをかけて火をつけた」


捕虜たちは、有刺鉄線で固定されたトラックの上部の隅に
小さな窓があるだけの家畜用車両で運搬されていました。

爆撃の後、橋の上で働いていたイタリア人がツルハシを手に、
荷車の鉄格子や錠前を壊してくれたためかろうじて助かった者、
また、トラックで現地を通りかかった南アフリカの軍人が、
爆撃の最中に列車を外から開放し、逃げることができた者もいました。

しかし、この第320爆撃群の公式戦史によると、この事件は
友軍誤射ではなく、単なる「任務成功」として讃えられています。
そこにはこう書かれているそうです。

「オルヴィエート北橋で擱座したドイツ軍の兵員列車を捕らえ、
逃げ惑う敵兵の間で爆弾を炸裂させた。」

5 Devastating Cases of Friendly Fire In WW2...

このビデオでは、第二次世界大戦の5つの友軍誤射事件を取り上げています。

1、バーキング・クリークの戦い・イギリス空軍

レーダー障害によりハリケーンを敵と認識したRAFがこれを迎撃、犠牲者二人
ちなみにIFFは当時開発中

2、生物学的ミス・日本陸軍

中国で731部隊が実験した生物兵器で大陸に住んでいた日本人が死亡

3、アンバー事件・イギリス空軍

1942年4月13日、航空デモしていたRAFホーカー・ハリケーン戦闘機が
観客にいきなり発砲、その結果25人が死亡、71人が負傷
パイロットが悪天候で観客をダミーだと誤認して銃撃したことによる

4、PT-346 誤射事件・アメリカ海軍

1944年、海兵隊コルセアがPTボート347を日本の砲艦と誤認し攻撃、
一緒にいたPT350はコルセアを零戦だと勘違いし、これを撃墜、
コルセアは飛行隊を引き連れて来襲し、珊瑚礁で立ち往生しているPTを攻撃
最終的にPT346、347、350の21名が死亡・行方不明、14名負傷、
海兵隊コルセアのパイロット2名が死亡


攻撃が終わり、漂流していた何人かは全く別のアメリカ軍機に射殺されている

5、コブラ・カラミティ

ノルマンディでの脱出作戦「コブラ作戦」中、
アメリカ軍の爆弾が友軍部隊に落下し、111人が死亡、490人が負傷

ノルマンディ関係では、この後、空挺部隊の乗った輸送機を味方が攻撃し、
しかも脱出した空挺降下中の兵を、下から撃ちまくった事件もあります。


バルジの戦いの結果は連合軍の勝利で、1945年1月末までに、
ドイツに奪われていた領土を実質的にすべて取り戻す結果になりました。


続く。




西海岸で引越し&家探し〜アメリカ・シリコンバレー生活

2024-09-10 | アメリカ

MKの大学院卒業式に出席した後、一度帰国したのですが、
8月半ばになってもう一度アメリカに渡り、現在に至ります。

彼は卒業後、地元でインターンシップと就職もすることになりましたが、
8月に大学の寮を退去することになったので、
とりあえずその後は一緒に住みつつ、秋からの家を探す計画です。

社会に出た息子に親がここまでしてやるのもどうかという説もありますが、
彼はここでは外国人ですし、第一まだ車の免許を持っていないので、
家探しや引っ越しなど、車を持っている友達にそこまで頼るのも
流石に憚られることもあり、親の出番となったわけです。

そういうわけで、今回わたしも8月半ばまで日本にいたわけですが、
その間の暑さにはもう殆(ほとほと)身体も心も参ってしまいました。
ここ20年というもの、8月中日本にいたことがなかったこともあり、
身体が全く酷暑に順応できなかったものと思われます。

ニッポンの夏ですから、蒸し暑くて当たり前なのですが、
それにしても昔は30℃を超えると今日は暑いなくらいだったのに、
いつの間に熊谷でもないのに34℃が普通になったと声を大にして問いたい。

ちょうど昨日、海軍写真を提供してくださったKさんが、
「湿度52%」という画面のスクショを送ってこられたのを見て驚きました。
気温があれで湿度がこれって、もうほとんどサウナだよね。
日本はトータルで最高の国だと国民として思いますが、夏は最低です。

元々夏苦手なわたし、出発前はほとんど死んだ魚の目で生きていましたが、
こちらに来て時差ボケが解消するにつれ、調子を取り戻し、
最近はようやく西海岸の砂漠気候を楽しんでいるところです。

さて、飛行機到着後、すぐに契約していたAirbnbの部屋に向かいました。


昨今カリフォルニアは物価が高騰し、そのせいでホテルが高いので、
できるだけ良心的なAirbnbの物件を探すことにしています。


最初の部屋は、オーナーがまだAirbnbを始めてすぐということで、
まだ評価がついておらず、そのためリーズナブルなお値段で借りた
ベルモントの丘の上の素敵な一軒家でした。



2ベッド1バスルームでキッチンは独立。



とにかく清潔で全てが揃ったAirbnbでした。



下に小さな庭を望むウッドデッキのテラスで、
朝のコーヒーを楽しんだものです。


その晩はアサートンの日本風居酒屋「酔尚Dranken Monk」で食べました。


つくねは夜だけの居酒屋メニュー。

前回、家族3人でお昼を食べに行ったら、その日はたまたま父の日で、
お勘定の時にお店は「父の日おめでとう」カードを造花をくれたのですが、
同じメンバーで行ったため、ウェイトレスが覚えていてくれて、
「ウェルカムバック」と挨拶してくれました。

■ 大学寮を退出


わたしたちが到着して1週間後、寮の退出日になりました。
2年間何かとお世話になったこのドームも今日で最後です。
滞在中利用させてもらったピアノにもお礼を言ってお別れをしました。


パッキングもわたしが手をつけるまで何もしていなかったのですが、
週末だけでなんとかここまでまとめ、あとは運び出すだけ。

今回は引っ越しのために大きめの荷台を持つSUVを借り、
20分の距離に借りた次の宿泊先との間を往復する作戦です。



全部荷物を運び出しました。
このキッチンにも大変お世話になりました。


もう今頃は次の住人がここで暮らしていることでしょう。


最後に部屋で記念撮影。
2年間の学生生活を送った部屋を感慨深そうに後にしました。

部屋を出て駐車場で最後に携帯から「チェックアウト」すると、
自動的にIDは抹消され、キーとして使えなくなります。

余談ですが、最近ニュースで知ったところによると、彼が在学していた時期、
同大学に在籍した日本人は学部・院合わせてたった6人だったそうです。

機械工学部卒の日本人が二人だったことは確認しましたが、
やっぱりこれはいくらなんでも少なくないでしょうか。

■ 次のAirbnbに住んでアパート探し



寮から引き揚げた引っ越し荷物を持って、
家族3人でしばらくここに住むことになりました。
マウンテンビューにある比較的新しい2ベッドルームのアパートです。



わたしは、スタンディングデスクのあるこの小さな方の寝室。


MKはここでエアベッドを敷くことになりました。



Airbnbのホストに頼んで持ってきてもらったエアベッド。
昔ボストンに住み始めた日、知人が貸してくれたエアベッドは
手動で空気を入れなくてはいけないタイプで、寝心地も悪かったのですが、
今どきのエアベッドは、空気入れなど全く必要ありません。

ベッドエンドのコンセントを繋ぎ、スイッチを入れると、
勝手に空気が入って膨らんでいくという驚異の仕組みに進化していました。

あれよあれよという間にヘッド付きのツインサイズベッドの出来上がり。
ちなみにアメリカでは日本の「シングル」が「ツイン」です。


この間料理ができないので外食ばかりになりましたが、
幸いカリフォルニアというところは美味しいレストランがたくさんあります。

まず、カストロストリートというこの辺りのレストラン街で、
良さげなラーメン屋さんを見つけたのでGO。
店名が「遊玄」というあたり、日本人の経営であることは間違いないでしょう。


トッピングを追加していく方式で、普通に美味しかったです。
アメリカの日本食も、わたしが住んでいた頃とは様変わりし、
本物か本物に近い、美味しいものが食べられるようになって嬉しい限り。

これもインターネットが世界を狭くした結果でしょう。


夜はMKが友達と行って美味しかったというフードトラックのタコス。
ストリートタコスというジャンルで、お店のトラックは
営業の終わった後の酒屋のパーキングで営業しています。

ストリートタコスについては、無認可の違法出店で食べたタコスの豚肉に
寄生虫がいて、脳で繁殖したという怖い話があるのですが、
とりあえずここはヒスパニック系のお客さんが詰めかけていて、
近隣では人気ということらしいので心配はしていません。



メキシコ系客にテーブルを占領されてしまったので、家で食べました。
見た目あまり美味しそうではありませんが、さすが本場?の味でした。



次の日、早速家探しにかかりました。
前もってネットで条件の合うところをピックアップしておき、
内覧できるかどうかアポイントを入れていきます。

これはその一軒め。
マウンテンビューのカリフォルニアストリートには
このような2階建ての囲み式アパートがいくつも並んでいます。


四角い中庭に入るには、オートロックの解除が必要なので、
セキュリティはそれなりですが、わたしとしてはピンときません。


理由:リノベーション後で写真では良く見えますが、なんか部屋が臭い。
交通量の多いカリフォルニアストリートに面した窓が小さくて部屋が暗い。
しかもあなた、ワンベッドルーム月2,900ドルってどう思います?

カリフォルニア、ことにシリコンバレーの物価は上がり、
今や年収800万円以下は貧困層という位置付けです。
このしょぼいアパートも、新規入居者にはとんでもなく吹っ掛けてます。

暗い顔のわたしにMK、「だめかな?俺はいいと思うけど」
就職して最初に住む家だから多くは望まない、と考えているようですが、
親としては、もう少しちゃんとした?ところに住んでほしい。
何かあってすぐに飛んでいける距離じゃないですから。


このアパートで唯一評価できた、よそのうちの窓猫。



二つめのアパートはセルフツァーでした。
テキストで指示を受け、鍵を解除して勝手に見ることができる方式です。

比較的大きな敷地で、中には人口の日本風?池があり、
なんと「鯉の孤児院」という立札がありました。


見ると立派な錦鯉がざっと10匹以上泳いでいます。
どこからか引き取って、池を日本風に改装しているようでした。



部屋は値段の割に(2600ドル)広くて、まあまあかなという感じ。


わたしが評価したのはこの作り付けのクローゼット。
しかし、クーラーは付いておらず、(自分で取り付けるのは可とのこと)
共用のランドリーが遠いのが気になりました。

そして予定を入れていた3件目が冒頭の写真のアパートです。

Trader Joe's、コールズ、TARGET、Walmart、その他ジム、ホテル、
レストランも多数ある施設の一部となっているアパートで、
ワンルームに当たるStudioが3000ドルからという物件ですが、
車を持たなくとも買い物ができること、建物が新しく、
セキュリティ面など安心できることも多いなど、メリット多数。



唯一の懸念材料は家賃でしたが、この賃貸オフィスの人が、
今日契約したら家賃を6週間分差し引くとネゴしてきたので、
こちらも散々家族でオフィスに居座り、鳩首会談して向こうに圧をかけ、
(向こうには想定内だったかもしれませんが)結局、
最初に見たアパートよりも安くなり、納得のいく結果に落ち着きました。

それにしても、この辺の地価の高さよ・・・。

MKの現在のインターンシップの給料も、初任給も、
日本なら大手企業の部長職以上のレベルですが、547スクエアフィート
(51平米、15.43坪)の部屋の賃料が日本円で月40万というこの地域では、
全体的に高給とは言えないというのが辛いところです。

さて、想像もしていませんでしたが、部屋探し1日目にして、
ホップ、ステップと部屋がグレードアップして行った結果、
ジャンプの物件であっさりと決めることになりました。

あとは、必要最低限の家具探し、そしてまたしても引っ越しです。

続く。


映画「Here Come The Waves」(WAVESがやってきた)2

2024-09-07 | 映画

第二次世界大戦時のアメリカのWAVES勧誘映画、
「Here Come The WAVES」、二日目です。


ジョン・キャボットを責任者、ウィンディをアシスタントにした
WAVES勧誘のためのコンサートの企画が進められていました。

そこにやってきたスージーは、嬉しさのあまり、ウィンディに
この計画のためにジョンを騙って嘆願書を書いたことを言ってしまい、
「ダグラス」を降ろされて不満だった彼は、彼女に腹を立てます。



しかも、スージーからローズマリーとジョンが接近していると聞かされ、
ローズマリーを好きだったウィンディは、
彼女にウソを言って、ジョンの印象を悪くさせようとします。

「彼は本当は艦に乗りたくなかったんだ。
なぜって海の上には女の子がいないからね」

「信じないわ」

「僕は本人から聞いたからね」




これを聞いて、ローズマリーは

「誰かが僕を嵌めて艦から追い出し、この任務に就かせたんだ」

と言うジョンの言葉をもう信じられなくなってしまいました。



そして二人は「ダグラス」を揃って降りることになりました。
昨日入隊したと思ったらもう下士官になっているのはさすが映画。



彼が指揮を執ってプロデュースした最初のショーは、
空母USS「トラバース・ベイ」のハンガーを使って行われました。

この「Traverse Bay」はもちろん架空の空母です。
ハンガーなので、画面の手前には航空機の翼が見えています。


観客は海軍軍人ばかりのはずなのに、今更勧誘色があからさま。


で、これが、この映画が後世の一部から「糾弾」される問題のシーンです。
ジョンとウィンディは顔を黒塗りにして黒人の郵便屋に扮し、

「Ac-Cen-Tchu-Ate the Positive」

という、日本では無名ですがアメリカでは何度もカバーされ、
スタンダードナンバーのようになっている曲を歌い踊ります。

タイトルは

「Accentuate the Positive」
(ポジティブを強調=ポジティブでいこう)?

Ac-Cent-Tchu-Ate The Positive - Bing Crosby & The Andrews Sisters (Lyrics in Description)

フレーズになんだか聞き覚えがある!と言う方もおられるかもしれません。
それくらいキャッチーなメロディです。

Clint Eastwood ~ Ac-cent-tchu-ate the positive

クリント・イーストウッドが歌っているバージョン。
決して上手くありませんが、クリント好きだから許す。というか(・∀・)イイ!!

内容を一言で言えば、


「何事も積極的に、どっちつかずになるな」

どっちつかずの人のことを「ミスター・イン・ビトウィーン」と言ってます。

ハロルド・アーレンとジョニー・マーサーという、
知っている人は誰でも知っているゴールデンコンビの曲だけあって、
1945年度のアカデミー優秀音楽賞を受賞しています。

(戦時中でもアメリカって普通にこういうことしてたんですね。余裕の違い)

ただ、この映画のシーンについては、当時の流行りに乗って
顔を黒塗りしてしまったことが祟って、近年では大変不評です。


「1940年台だから許された」

という感想もありますが、それをいうなら日本では、1980年台にも関わらず
顔を黒塗りにした「シャネルズ」というバンドがあってだな・・・。



ジョンは自分の「潔白」(好きで『ダグラス』を降りたのではないこと)
を証明するために、自分のサインが(スージーによって)偽造された書類を
ローズマリーに見せて誤解を解こうとしていました。

スージーは、
彼がローズマリーに見せる前に書類を奪取しようとします。
姉が見れば、筆跡で書類の偽造をしたのが自分だとバレるからです。

ウィンディに唆された奥の手として、彼と一緒に甲板から海に飛び込み、
どさくさに紛れて書類を奪うつもりをしていたスージー。


ローズマリーを待っていたジョンに密着するためキスをお願いしたところ、
流れとはいえ、あっさり応じてくれるではありませんか。

(すかさず『深い意味のないただのキスだよ』と念を押すズルい男ジョン)

熱烈なファンだった彼女は、隙を見て書類を奪うのに成功しますが、
憧れのアイドルにキスされて一瞬気を失い、



ジョンが去ったあと、海に落下してしまいました。

「Man Over Board ! (人が落ちた)」

さすがは海軍、瞬時にあちこちからMOBの声がかかります。
もし本当に空母の甲板から落ちていたら、もっと大事になると思うけど。

近くにいたウィンディがMOBに応じ、救助に飛び込んでびっくり。

「スージー!何してんだこんなところで」

ジョンから体を張って奪った書類は、海に沈んでいきました。



書類がスージーに奪われたことに気づかないジョンは、
ローズマリーに見せようとしますが、

「あれ・・・?誰かに盗られたかのな」

「・・・もういいわよ」


ここは海軍航空基地管制塔。
WAVES勧誘映画ですから、たぶん本物です。


ローズマリーは管制官としてここに配置されていました。
有線によるアナログな通信や、管制塔から発光信号を送るなど、
この頃のシステムでの管制塔の様子が興味深いです。

中でも、(おそらく発進する)航空機への通信の中に、

「Anchor away」

と聞こえるのですが、海軍では航空機に対してもこれを言うんですね。

今現在でもそうなんでしょうか。



任務があるからショーには参加しない、と友人のルースにいうローズマリー。
その理由は・・・明らかです。



そこに空気読まないことでは天性のスージーがやってきて、

「ジョニーが歌を皆わたしに歌わせてくれるって!」

暗い顔をいっそう曇らせるローズマリー。
しかしルースの奨めでショーが行われるニューヨークに行くことにします。



楽屋でスージーはたまたまローズマリーと同じ髪のカツラを見つけ、
冗談半分で被ってみました。



茶色い髪のスージーに驚いたウィンディは、
またまたとんでもないことを思い付きます。



ローズマリーのフリをして、ジョンを失望させる作戦発動。
飲み物をローズマリー(と思っているが実はスージー)に勧める彼に、

「ここだけの話、ジンジャエールなんかつまらないわ」

びっくりしているジョンの前でボトル一気飲み。
(中身はウィンディが用意したお茶)

思いっきりぷはー!とやってから、

「もう一杯(another nip)やってもいい?」

「・・・Nip?」

この言い方にはかなりドン引きのようです。

多分かなり下品な言葉なんでしょう。



そしてジョンがこっそり見ているのを意識しつつ、
ウィンディと(間に手のひらを入れて)熱いキス(のふり)を・・・。



当然ショックを受けるジョン。



ウィンディはパーティ会場にいた本物のローズマリーをスージーだと思い、
さっきの続きをしようとして引っ叩かれております。


失意のジョンは、ショー直前、「ダグラス」が出航することを知ります。
何とか自分を乗せてくれるように頼むのですが・・。


彼の企画した今宵のショーは、

「もしウェーブがセーラーみたいだったら」
"If WAVES Acted Like Sailors"


WAVEなのに水兵みたいな喋り方や掛け声、腕に彼氏の刺青をしていたり、
港港に男がいる、と自慢したり・・・。



彼女らの集うバーに掛かっている絵は半裸の男性が寝そべる姿。
バーテンダーもよくよく見れば女性です。


そこで歌われるのが、

1944 June Hutton - There’s A Fellow Waiting In Poughkeepsie

「ポキプシーに私を待ってる男がいる」

ポキプシーはニューヨークとアルバニーの間にある都市ですが、
響きが面白いせいか、いろんなシーンで引用されます。
(『アリー・マクヴィール』のジョン・ケージ弁護士の口癖とか)

寸劇の内容通り、女性なのに水兵のセリフのような歌詞です。

ポキプシーで待っている男がいる
彼はとても優しい
(略)
それとは別にポモナで待っている男がいる
(略)
そして、デイトナでも一人
(略)
でも、もしあなたがわたしの手を握ってくれたら
みんなわかってくれるわ

わたしがただのジプシーだと思わないで
でもわたしはあなたを正したいの

ここからは、本物の女性ではなく水兵のセリフになります。

ビロクシで俺を待つWAVEがいる
結婚できなきゃ死んでやると言ってくる
もし信頼できる狼を見つけたら代理結婚させてやる

ウォーキガンで待つSUPER(女子海兵隊)がいる

彼女は他の女と一味違う
名前はレーガン
俺はその名を胸に刺青している

ハッケンサックにはWAC
ポンティアックにもWAC
至る所に

中にはボビー・ソックス(グルーピー)みたいなのもいる
(略)
ビロクシで待っているWAVEがいる
でも今夜は俺、ひとりぼっち


映画ではこの歌詞よりバリエーション豊かに、
サンディエゴ、パームビーチ等各地に女がいる、と言っています。

このショーは実際とても楽しいものですが、
実際に見ないと全く伝わらないと思いますので内容は省略。


ショーの合間に大変なことが発覚しました。
なんと、ジョンが「ダグラス」に乗るために
ショーをすっぽかしかけていたのです。



なぜそれが自分のせいなのか、全く理解できないローズマリー。



ウィンディとスージーは荷造りしているジョンを引き止めようとします。
せめてショーの出演だけでも最後まで果たして、というのですが、
彼はガンとしていうことを聞こうとしません。


いつもの変装をして空港に向かうためにホールを出て行きました。


スージーは人通りの多い街路で彼に足をかけて転ばせ、

「ちょっと!ここにジョン・キャボットがいるわよ!」

たちまち女性に群がられて身動きできなくなるジョン。
もう今日は飛行機に乗ることはできなくなりました。


ジョンはスージーが自分を陥れたことを本人の告白によって知りますが、
ローズマリーとウィンディが「できている」と信じているので、
舞台の袖で彼女に冷たく当たり、義務的にステージに上がります。
そしてその心と裏腹にこんな歌を歌うのでした。

誠実な心を約束するよ
いつも自由だったから
夜には腕いっぱいの星
僕はそれを自分のものだというフリをする

富める時も貧しき時も
分かち合えたら幸せ
あなたが取った僕の手
草原の太陽、暗がりのなかの炎
約束しよう 僕はそこにいると


「約束しよう」(I Promise You)という曲をデュエットしながら、
男の心が自分にないと知って、切なそうなローズマリー。

ところであれ?いつのまにこの人少尉になったんだ。
ショーの役柄ってことかな。



という二人とは全く関係なく、ショーはフィナーレを迎えていました。

「Here Come The Waves」というマーチ風の女性コーラスに乗って、
ステージには本物のWAVESたちが続々と登場します。



そして後ろのスクリーンにはジョンのアイデアで、
WAVESの軍隊生活がフィルムで映し出されていきます。

この二人は職場恋愛に発展しそうな雰囲気ありですが、
こういうシーンも志願者を増やすためと思われます。



飛行訓練のシミュレーション機のオペレーターとして。



以前当ブログでご紹介したことがあるシミュレーターですね。



開発機の実験にもWAVESが協力します。





スクリーンを使った銃撃シミュレーターのオペレーション。



通信オペレーターにタイプはWAVESの独壇場です。



航空機の整備は日本軍でも女性がおこなっていました。



こんな場所(空母甲板)なのにタイトスカートにパンプス。
このスカートでどうやって飛行機の翼の上に乗ったんだろうか。



曳航機を使った砲塔の実験も主導します。


二人はエンターテインメントを成功させた今、
海上勤務に戻っていいとWAVESのヘッドオフィスから通達を受けます。
左のWAVES隊長タウンゼント中尉が、

「スペシャリスト・ローズマリー・アリソンが、
あなたが艦に戻ることを強く望んでいると言っていましたよ」

「ローズマリーがそんなことを・・・?」

しかし、彼らの鑑はもうすでに出航した後のはず。
すると隊司令である大佐は、

「今ロスアンジェルス港に停泊しているから海軍の輸送機で送らせる」


司令室を出たジョニーはローズマリーとすれ違いますが、
彼女とウィンディがキスしていたと信じているので、冷たくあしらいます。

しかしこの男、自分はスージーに「意味のないキス」とかしたくせに・・。



そこで今や反省?したスージーが、あの時ウィンディとキスしていたのは、
ローズマリーのフリをした自分だったと打ち明けます。

喜んでローズマリーのもとにかけていくジョニー。



そして、ウィンディとスージーですが、瓢箪から出た駒?とでもいうのか、
フラれたもの同士で発作的に付き合うことにしたようです。

お互いそんなことでいいのか。


ショーのラストシーン、ステージ奥のスクリーンには、なぜかリアルタイムで
二等水兵として「ダグラス」に乗るジョンとウィンディの姿が映し出され、



スクリーンに手を振るスージーとローズマリーの姿で終焉となります。

ローズマリーは涙を浮かべていますが、実際、この時期、
西海岸から出撃する駆逐艦は、おそらく太平洋の激戦地に向かったはず。

姉妹二人の愛する人たちを乗せた「ダグラス」が、
無事に帰ってこられるかどうかは、映画で描かれることはありません。



終わり。



映画「Here Come The WAVES」(WAVESがやってきた)

2024-09-04 | 映画

以前陸軍女子WACの入隊宣伝映画「陸軍の美人トリオ」(常に備えあり)
を紹介しましたが、今日は海軍WAVES勧誘映画を取り上げます。



タイトルは「Here Come The WAVES」
直訳すれば「波が来た」ですが、このウェーブスとは

Women Accepted for Volunteer Emergency Service

の頭文字を取った志願緊急任務女性軍人のことです。

日本の海上自衛隊では女子隊員を「WAVE」としていますが、
その成り立ちを考えるとこの言葉は正鵠を得ておらず、
しかも(こちらは推測の域を出ませんが)ウェーブスだと、

語尾の響きがあまり好ましくないという理由で、
肝心の「任務」を意味する「S」が省かれた名称となっています。


ただ、アメリカでも名称は「WAVES」としながら、
口語では映画を聞く限りSを省略することが多いようですので
本稿も単体に関してはこの名称に倣います。

本作は戦時コメディばかり8本が収録された2枚組CDの中の一編でした。


直輸入版でリージョンが違い、(海外で購入したCDプレーヤーが活躍)
英語字幕すらついておらず、youtubeでも予告編しか見つからなかったので、
正直セリフを細部まで聞き取れたという自信は全くありませんが、

そこはそれ、コメディ&ミュージカルなので、なんとかなるでしょう。

Betty Hutton - "Here Come The Waves" Trailer (1944)

とりあえず、まずトレーラーを上げておきます。
最後まで見た方はお気づきだと思いますが、
本編に登場するWAVEさんたちは一部を除き本物です。

海軍の協力によって1944年に公開されたこの映画は、
ストーリーの中心のドタバタ恋愛劇と音楽の合間に、
WAVESの訓練や任務の映像を盛り込んでくるのを忘れません。

当時カリスマ的人気を誇ったスター、
ビング・クロスビーを主役に配したのも、
WAVES入隊資格のある若い女性にアピールするのが目的です。


ローズマリーとスーザンは双子の姉妹で活躍する人気歌手です。
最初に歌う曲は「ジョイン・ザ・ネイビー」。



赤毛のローズマリーと金髪のスーザン、
この双子を一人二役で演じるのはベティ・ハットンです。

ショーのシーンをはじめ、何度も同時に画面に現れるのですが、
何回見てもハットン一人がやっているとは思えません。



ブルネットの姉のローズマリーは物静かで落ち着いた物腰の、
今や死語ですが「おしとやか」を絵に描いたような女性です。



対して12分後に生まれた金髪のスージーは、典型的な陽キャタイプで、
いつも騒がしいハッピーゴーラッキーな、姉とは正反対のタイプ。



彼女は人気歌手ジョン・キャボット(クロスビー)の熱烈なファンです。

ここで話はいきなり、ショーの後、愛国心の強い姉が、
国のために海軍に入隊すると妹に打ち明けるところから始まります。

最初スージーは反発しますが、姉と離れたくないというそれだけで、
歌手をやめて、一緒にWAVEになることをすぐ決めてしまいます。

展開早すぎ。

そして高らかな「錨を揚げて」が鳴り響きます。


次のシーンからはニューヨークのブロンクスにあった
海軍の訓練学校での撮影となります。

一糸乱れぬWAVESの行進がグラウンドで行われています。



それぞれの私服に貸与されたWAVESの帽子姿の新入生たち。

最初に行うのは海軍式敬礼の練習です。



なんでもそつなくこなす姉に対し、少々不器用な妹のスージーは、
何度も敬礼の角度を直されています。



ベッドメーキングもシーマンとして最初に叩き込まれます。
うまくいかず癇癪を起こすスージーに、担当教官(多分本物)は、

「トライ・アゲイン」(ニッコリ)



制服が出来上がり、ハイヒールを黒のパンプスに履き替えても、
まだスージーは歩調を皆と揃えられず、大変苦労しています。

彼女の周りにいるのもおそらく全員本物のWAVESです。


海軍軍人として必要な基礎を学びます。
艦隊模型を見ながらフォーメーションにについて学んでいるのでしょうか。



スポーツは野球、そして、



バレーボール。

どんなスポーツの時にもスカートを履いて行うのがこの頃の女性です。
スカートの下にはショートパンツが基本でした。
(戦時中結成された女子プロ野球がそうだったように)


両足を組み替える美容体操(死語)みたいなのをしています。
なんなんだこれは。



牧師のお話を伺うレリジョンの時間もあり。

(ここだけ音楽はオルガンのコラール風)


食事は食堂でいただきます。



「食事の前には口紅を落としましょう」


今ではありえない注意書きですが、当時の女性は、
口紅なしで人前に出るのはみっともないとか恥ずかしいとされていたのです。
加えて当時の口紅は食器に付いたら大変落ちにくかったようですね。


そして、「錨を揚げて」がエンディングを迎える頃には、
スージーもすっかり行進がサマになってきていました。


そんなある日、ローズマリーが宿舎に戻ると、
スージーが洗面室に立てこもってジョン・キャボットの曲を聞いていました。

誰にも邪魔されず、一人で彼の歌に酔いしれるスージー。


我慢できなくなったみんながスージーをトイレから引き摺り出したとき、
なんと上官が、明日ジョン・キャボットのコンサートに行くから、と、

「That Old Black Magic」のレコードを借りにきました。


翌日、その「That Old Black Magic」を歌っているジョン・キャボット。

演じるのがビング・クロスビー(しかも絶頂期)なので、
当たり前と言えば当たり前ですが、素晴らしい歌唱です。


彼が現れると会場の女性は熱狂して叫びながら一斉に立ち上がり、
歌い終わると、何人もが彼の甘い声に失神するほど。

アイドルに熱狂し、泣いたり失神したりするファンというのは、
ビートルズやプレスリー以前の時代にもいたんだ、とちょっと驚きました。

カリスマに対する一種の集団催眠的な狂乱は古今東西どこにでもあり、
そんなことがなさそうなヨーロッパのクラシック演奏家でも、人気のある人、
たとえばピアニストでポーランド大統領になったパデレフスキーという人は、
若い頃、熱狂的なファンに何度も髪の毛をむしられて困ったそうだし、
あのフランツ・リストのコンサートでは失神する女性もいたと伝えられます。

この映画で、クロスビーの演じるジョニー・キャボットという歌手は、
ビング・クロスビーというより、当時のフランク・シナトラの要素を持ち、

特にこのステージはシナトラのパロディのように演出されています。


スージーもついきゃーっと叫びながら立ち上がってしまい、
ローズマリーに「制服着てることを忘れないで!」と嗜められています。


ジョンの楽屋に海軍に入った友人のウィンディが訪れました。
彼は楽屋でウィンディが配属された「ダグラス」での様子を尋ねます。

ここで、ジョンが海軍に入れなかったのが、
色覚障害(カラーブラインド)のせいだったという話になるのですが、
実は、ビング・クロスビー自身が有名な色覚障害でした。

彼が自分でブルーだと思って選んだ服は大抵他の人には派手すぎたとか、
それにまつわるエピソードがたくさん残されています。

色覚障害は、男性に20人に一人の確率で現れる症状なので、
有名人の中にも驚くほど多く、たとえばロッド・スチュアート、
ジミー・ヘンドリックス、ニール・ヤング、フレッド・ロジャース、
團伊玖磨、丹波哲郎、ビル・クリントン、タイガー・ウッズ、
キアヌ・リーブス、マーク・ザッカーバーグなど錚々?たるメンバーです。

流石に画家にはいないだろうと思ったら、なんと
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホもそうだったらしいです。
後世に残っているゴッホの絵、彼の思ったのとは違う色だったんですね。

ゴッホは自分の作品がこう見えていた

ちなみに、女性は遺伝子を受け継ぐだけで本人に症状は出ず、
彼女が生んだ男児にそれが発現することが多いようです。



このウィンディ、実はアリソン姉妹と同郷の知り合いでした。
彼はジョンを「知り合いが出演しているクラブに行こう」と誘います。

ジョンは、ファンに見つからないように変装しました。
(この変装は一つの伏線)



しかし、アリソン姉妹はすでにステージを引退して、
今日は海軍軍人として客席に座っていました。

ウィンディは実は姉のローズマリーに想いを寄せています。
クラブで彼女らにジョンを紹介すると、スージーは大喜び。

ジョンはというと、ほぼ瞬時にローズマリーを気に入り、
メニューにいつものように自分のサインをして渡したのですが、
彼女は気を悪くしてメニューをビリビリっと破き、

「ご親切ね。でもわたしが何が欲しいか勝手に決めつけないで」

「すみません・・」


(´・ω・`)となるジョン。
世の中の女が全て自分を好きだなんて思うなよ?

ところで、同じ女優が演じる同じ顔の二人という設定なのに、
二人の男のどちらもが、騒がしいスージーには見向きもしないのです。
顔が同じならエレガントな方を男は選ぶってことですかね。

ローズマリーは思い上がった男に反発し、
ダンスの誘いを受けるとウィンディと踊り出しました。



必然的にジョンはスージーと踊ることに。


耳元で彼が流れる音楽(That Old Black Magic)に合わせて鼻歌を歌うと、
それだけでスージーはあまりの興奮に失神してしまいました。

しかし、この夜、ジョンはローズマリーに本格的に恋をしてしまうのです。


そして次の瞬間、なんと彼はいきなり(40歳にして)海軍に志願しました。

戦争中ということで、身体的条件が緩和され、
色覚異常の男性も入隊が可能になったのを受けてのことです。

WAVESのローズマリーを好きになったからと言いたいところですが、
それより彼は海軍軍人だった父の後を継ぎたかったから、
そして、正直ファンに追い回される生活に嫌気がさしていたからです。



国民的アイドルの入隊ということで、西海岸に向かう汽車に乗るキャボットに
ファンが詰めかけて群がり、落とした私物を奪い合う騒ぎに。

「何か言ってえ、ジョニー!」

「ヘルプ!」


着く駅着く駅彼を見ようとファンが押しかけ、うかうか窓も開けられません。



そしてサンディエゴの海軍訓練センターに到着。
ピカピカのプレートを水兵がさらに磨き上げています。

1923年に開始したこのセンターは、1997年まで使用されていました。
閉鎖されてからも「トップガン」など映画の撮影に利用されています。



ここからは、トレーニングセンターの実際の映像が紹介されます。
キャボットを含む新入隊者がゲートをくぐって着任してきました。




グラウンドでこれでもかと訓練が繰り広げられています。
キャボットはこれから6週間のブートキャンプをここで行います。


同じ訓練センターに新入WAVESも着任してきました。
この船はWAVES専用なのか、名前が「WAVE」です。


宿舎に到着してベッドが割り当てられます。



ブルックリンの新兵訓練所の僚友、ルースとテックスに再会しました。
彼女らはヨーマン(事務職)に配置されたようです。

そこで「故郷への通信はテレグラムでできるわよ」という会話があり、
海軍を志望したいが、家族との連絡が取れなくなるのでは?

と心配するお嬢さんたちの懸念を払拭しようとしているのがわかります。


シーマン・キャボットは「ダグラス」乗組が希望です。
彼の父親は第一次世界大戦の際水兵としてこの艦に乗っていました。


しかし、艦は改修中なので、済むまでは歩哨の任務です。

そこにスージーがジョンの配置場所を突き止め、押しかけたものだから
周りが気づき、またしても女の子が群がる騒ぎになってしまいました。

ジョンはこれが嫌で海軍に入隊したのに、と激怒。
スージーもWAVEがなぜこんなところにいるのかと士官に叱責されます。



ローズマリーをなんとかして口説きたいジョンは、

ウィンディと彼女のディナーの席に割り込み、
隣の席の女性にナッツや氷をぶつけてそれをウィンディのせいにして、
騒ぎを起こし、憲兵に連行させるという汚い手で恋敵を追い払い、
彼女と二人きりになることに成功しました。



ここまで来ればもうこっちのもの。


最大の武器である歌を使って落とすだけ、といえば聞こえが悪いですが、
ローズマリーは否定しながらも彼に惹かれている自分に気がつきました。



その夜宿舎に帰ってきてジョンと会ったという姉を妹は問い詰めますが、
肝心のことを話せない姉は、ただ彼が、父親の遺志を継いで
「ダグラス」乗組を希望しているということを聞いた、といい、
スージーは、それでは彼が前線に行ってしまう!とパニクります。

そして、彼を内地に留めるために策略を巡らしました。



それは、ジョン・キャボットをレクリエーション担当に任命させること。

スージーはなんとジョン本人になりすまし、嘆願書を出します。
WAVES勧誘のための娯楽部門を設置し、
自分がその指揮を執りたいと。

カリスマアイドルである彼が女性軍人勧誘の広告塔になるというアイデアが

ワシントンに受け入れられないはずがありません。
彼がヘッドオフィスに呼ばれた時には、
すでにその責任者としてCPOに昇任するという話にまでなっていました。

覚えのない「嘆願書」に驚愕するキャボット。

「父の後を継いで『ダグラス』に乗れると思っていたんですが・・」

「君の父上のことは知っているよ。君の気持ちもわかる。
しかし、それはその任務を終えてからでもいいんじゃないかな」



「ダグラス」に戻ると皆が周りを取り囲みました。

「なんだったんだ?」

「CPOになった」

「嘘だろ?本当に合衆国海軍のか?」

「WAVESのレクリエーション担当オフィサーなんだと」

「ほー、WAVEのねえ(ニヤニヤ)」

「気をつけ!かしら中!」

「・・・・な」

「俺は上官だ。
いいかウィンディ、お前『ダグラス』を降りて俺を手伝え」

「いや、俺は『ダグラス』で戦いますよ」

「ダメだ。上官命令だ」

「それが変更できるかどうか貴様の顔に聞いてやろうか?」

「やれよ。すぐに上官反逆罪で海軍警察行きだ。
いいか、命令だ。今夜中にショーの構成についての報告書を書け」


いきなり上官ヅラして友人を同じ穴に引き入れるジョン・キャボット。
なんかこいつ色々といい性格してんなー。


続く。



各国海軍はなぜ日本に集結したのか〜K氏提供写真その2

2024-09-01 | 軍艦

Kさん提供による各国海軍軍艦写真、続きです。



ドイチュ・マリーネの「バーデン・ビュルテンベルグ」と同じ岸壁には

🇯🇵「むらさめ」JS Murasame DD-101
🇯🇵「おおなみ」JS Oonami DD-111
🇯🇵「ゆうぎり」JS Yugiri DD-153

が肩寄せあうように並んでいます。
「ゆうぎり」は給油中。


横須賀のいつもの顔、
🇺🇸「チャンセラーズビル」USS Chancellorsville CG-62

・・・ではありませんでした。


わたし同様ご存知なかった方もおられると思いますが、この艦は

🇺🇸 ロバート・スモールズ (USS Robert Smalls, CG-62)


にいつのまにか名前を変えていたのです。

2023年2月)

元の艦名は、南北戦争中のチャンセラーズヴィルの戦いに由来しており、
南軍が勝利を収めた戦いに因んで命名された数少ない艦だったのですが、
ロバート・スモールズ下院議員に因んだ名前に改名することになりました。

スモールズは、サウスカロライナ州で生まれた元奴隷の下院議員です。


南北戦争中の1862年に南軍に徴兵された後、
南軍の蒸気船「プランター」を家族や乗組員と共に鹵獲して脱出し、
「プランター」とその搭載物資を米海軍に引き渡したことで知られ、

その後北部の英雄となったことから政治家まで上り詰めました。

「ヘイト南軍が勝利した戦いの名前など軍艦に残す必要なし!」
「何なら南軍を裏切って北軍に協力した黒人議員の名前に変えろ!」


とポリコレ界隈がゴリ押しした結果に違いありません。
しかし、みなさん、そういうポリコレ的斟酌なしで公平に見たとき、

「チャンセラーズビル」
「ロバート・スモールズ」


どちらが軍艦として「らしい」名前だと思います?


以前もほぼ同じ岩壁に係留されていた記憶があるカナダ海軍の

🇨🇦「バンクーバー」HMCS Vancouver, FFH 331

「ハリファックス」級フリゲートの2番艦です。
前も思いましたが、カナダ海軍の艦体のグレーはかなり青みがかっています。


同じくカナダ海軍の「ハリファックス」級12番艦

🇨🇦「オタワ」HMCS Otawa FFH-341

前回は同級の「ウィニペグ」「モントリオール」が来ていた記憶。
同級はカナダの都市名を艦名にしています。



シンガポール海軍は比較的よく来日している印象があります。
「フォーミダブル」級(『トライデント』級とも)フリゲートの5番艦、

🇸🇬「ストルワート」RSS Stalwart72




ちな「ストルワート」の義兄弟(Kさん談)

🇯🇵「くまの」JS Kumano, FFM-2


この、どこを見ても新しい?形の給油艦は、ニュージーランド海軍の

🇳🇿HMNZS「アオテアロア」Aotearoa (A11)

HMNZSは、His Majesty's New Zealand Shipの略です。
前回来日してわたしも見学しましたが、その時は「Her Majesty」でした。



ニュージーランド海軍の正式名はRoyal New Zealand Navyです。
こうしてみると、RNZNの艦も青みがかっていますね。
もしかしたらイギリス系の艦の傾向なのかな。

■ 8月25日の横須賀


いつもは我が自衛隊の空母(じゃないけど)が係留されている岩壁に
なんとイタリア海軍の空母と駆逐艦が!



向こう側は空母「カブール」と一緒に来航したイタリア海軍のフリゲート、

🇮🇹「アルピーノ」Alpino F581



🇮🇹空母「カブール」Cavour C550

この大きさで軽空母です。
でも、「いずも」と比べて3000トンしか違わないらしいです。
(『しか違わない』じゃなくて『も違う』という説も)

「ジュゼッペ・ガリバルディ」に続くイタリア海軍2隻目で、
現在唯一所有する軽空母となります。



上から見るとこんな。
固定翼機はスキージャンプ勾配から発艦する仕組みだそうです。


勾配の上部から甲板を見たところ(wiki)
傾斜角は15度です。


甲板に居並ぶハリアーIIとヘリ。
ヘリの機体に、中心が緑の赤いラウンデル(国籍マーク)が見えています。


「カブール」はオーストラリアやグアムに寄港しながら共同訓練を行い、
8月22日から27日まで横須賀に寄港していたそうです。



おお、旭日旗とイタリア海軍旗がこの横須賀で並んだのは、
少なくとも初めてではなかったはず。
(井上成美大将の話にもありましたね・・伊軍への評価は辛辣でしたが)
イタリア空母打撃群の来日は史上初ということでした。

このときは、日独伊で共同訓練も行われたということで胸熱です。

こちらに並んでいるのはもしかしたら「ライトニングII」?
消去法で言っていますので例によって間違えていたらすみません。


下から艦首を眺めたところ。



ここ、いつもは「いずも」(韻を踏んでる)の定位置だったはず。
それでは「いずも」はいずこ?(韻を略)


「いずも」はここでした。
「カブール」に定位置を開け渡してその間沖に停泊していたそうです。


何とフランス海軍までがアンシャンテ。
「アキテーヌ」Aquitaine級フリゲート艦の5番艦、

🇫🇷「ブルターニュ」Bretagne D655




「ブルターニュ」艦尾部分に翻るトリコロールが美しいですね。

艦尾に「NO TUG」と読めます。
母国語を愛することにかけては世界一を自任するフランス人なのに、
軍艦では流石に「公用語」として英語を用いると知った一枚です。

ところで、どうしてこの夏、こんな賑々しい国際観艦式状態になったか、
理由がわからずKさんにお尋ねしたところ、近隣での訓練(リムパック)、
友好行事等で来日していた(墨・土海軍)、そして台風、
いろいろな理由が重なり「たまたま」そういうことになったそうです。

海自広報も「補給と休養のため」と説明しましたが、だが待ってほしい。
それは表向きで、パンダ(プーかも)と黒電話への示威を兼ねていたのでは?

まあ、それが計画だったか、単なる偶然だったかはともかく、
これがこちらチームの結束を見せつける結果になったのは間違いありません。


我々日本人にとってはこの集結が心強く感じられるものでしたし、
各国ネイビーたちも一堂に集結して、海軍同士の絆を一層深めたことでしょう。

■ 「アメリゴ・ヴェスプッチ」



最後に、息を呑むように美しいイタリア海軍の練習帆船、

🇮🇹「アメリゴ・ヴェスプッチ」Amerigo Vespicci

をご紹介します。
ご存知のようにアメリカ大陸を発見したとされる人の名前を持つこの帆船は、
2023年7月から31カ国に寄港するワールドツァーを行なっています。

1931年に進水(90歳)、全長101メートル。



船首部分。
さすが帆船、装備品入れも木製なんですね。



マストに上るのは練習生の最初の難関に違いありません。
メキシコ海軍、イタリア海軍ではなぜ帆船を士官候補生教育に用いるのか。

 1931年以来行われている古代の公開術では、
六分儀で太陽と星を観察したり、海岸の地点の光学測量で現在船位を知ります。
このようにして、伝統と革新を継続的に比較応用することで、
将来の士官たちは海の上での確かな認識と自信を得ることができるのです。


気が遠くなりそうな数の舫が檣に。
一本一本が船の動力である風を帆が受けるための大事な部分です。

帆は24 枚、そして舫の全長は34 km以上に上ります。



きりりとした表情の警衛。

さすがはファッション王国の軍服、デザインが美しい。



一般公開の日は上陸が許されていた模様。
「銀座にでも行くのかな」とKさんは書いておられましたが、
この格好で街中を歩くのはさぞ暑かっただろうと同情します。



寄港地の翻訳とともに紹介される「アメリゴ・ヴェスプッチ」のモットーは、

Non chi comincia, ma quel che persevera
「始める者が誰かではなく、誰が続けることができるかだ」

これはレオナルド・ダ・ビンチの言葉です。
ある人が彼に向かって

「始めが良ければもう途中まで終わったのと同じ」

と言ったことに対する返答であると言われています。

経験を始めることはもちろんであるが、目標を達成するために
一貫性と粘り強さを持って耐えることが基本的に重要である。


これがイタリア海軍の士官候補生に与えられる最初のメッセージなのです。


最後になりましたが、史上稀に見る過酷な暑さの中、
これだけの船を追いかけて写真を撮ってくださったKさんの熱意に敬礼!

シリーズ終わり