ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

栗林公園動物園のシロクマと再会する〜「ぶんご」艦上レセプション

2016-05-31 | お出かけ

次の日の掃海慰霊式の予行演習が終わったので、わたしたちは
階段をさらに降りて車を停めた「海の秘宝館」の駐車場に向かいました。



下から高校生の群れが押し寄せてくる予感。
そういえばわたし、中学の修学旅行でここに来てるんですよね。
バスケットボール部でしごかれていたせいか、本殿までの750段(だっけ)を
息も切らさず登りきった記憶があります。



商店街にはうどん県副知事の要潤等身大ポスターが。
この人のデビュー作、仮面ライダーアギトをDVDで見ていました。
確かこの劇中でも「香川に帰る」というシーンがあったような・・。



来てみて確かにここはうどん県だと思いますが、それだけじゃないそうです。



これらのポスターは惧れ多くも皇太子陛下の賜宿泊であった元旅館の門
(もう営業していないらしい)に貼ってありました。



ふりかけさんがここで「へそまんじゅう」なるお菓子を買い求めている間、
わたしは商品の中に「キョンシー変身セット」を発見。
今時キョンシーに変身したがる日本人の子供がどこにいるというのか。



お店の人がネコ好きだった場合、この辺に生息している野良ネコを
写真に撮ってポスターにしたりします。



見たら幸せになるという金目銀目の白猫さん。

 

そして車を停めた「海の秘宝館」駐車場に帰ってきました。
車を出そうとして、船のプロペラが屋外展示してあるのに気付き、
カメラを渡してふりかけさんに撮ってもらいました。 
寄贈したのはナカシマプロペラだそうです。



少し車を走らせると、なんと駐車場の隅でつがいの孔雀が飼われていました。

「この狭いカゴではろくに羽を広げることもできませんねー」

「もう求愛する必要ないからいいんじゃないですか? 」



伊勢もそうでしたが、こういう観光地でもある大きな神社の周りの地域には
独特の、「いつも人がいるのに寂れた感じ」があるのはなんでなんでしょうか。
昔ながらの建物を、結構いいかげんな改装でつぎはぎにしつつ使っている
風情のあるような無いような家並みがその感じに輪をかけています。 



アイデアは「かに道楽」だけど、経年劣化に耐えない仕様のため、
とっても怖いことになってしまった「たこ道楽」。
こんなものがあっては客寄せどころか逆効果だと思うのはわたしだけ?

ともあれ、それもこれも含めて日頃見られないものを発見する地方の旅は楽しいものです。

この後香川に向かう高速道路に乗ったら、掃海隊御一行様を乗せた
マイクロバス2台と女性自衛官二人の公用車とが一緒に走っていました。
わたしがバックミラーを見ながら、

「あ、後ろの車自衛隊だ!追い抜かせますから誰が乗ってるか見てください」

自衛隊の車というのは陸海(空は見たことない)問わず、法定速度を
わりときっちり守って運転するので、抜かせるのに苦労しましたが、
追い越し車線でスピードを落として抜いていく車を覗き込んでもらったら、

「・・・・全員寝てるし」(ふりかけさん)

わたしもちらっと確認したところ、ほとんどの頭ががっくりと陥没しています。

「まあ、朝早かったんでしょうから無理もないですよ」

「いや、あれは昨日の夜宴会をしていたからです」(きっぱり)




お昼ご飯が「神椿」のバケットつきスープだったので、うどん県に来たからには
一度くらい「その辺のうどん」を食べるべきである、と二議一決し、
栗林公園のあるあの妙に広い官公庁通りの商店街に入りました。

セルフサービス方式の店でカウンターに注文するのですが、お勘定でこれが
380円だと聞いて耳を疑い、お店の人に聞き返しました。

「・・1380円かと思った」

まあそれだと高すぎですけどね。



この通りを海に向かっていくと、高松城址があります。
ここは現在玉藻公園といって有料で公開されているそうですが、ふりかけさんによると、
お堀には潮水が入れられていて鯛が生息しているんだそうです。

「人から餌をもらって生きてるんだそうですよ」

「鯛がですか?鯛ともあろうものがというか鯛の風上にも置けないというか」

これぞまさに「家畜の安寧」というやつですな。
そうそう、家畜の安寧で思い出したのですが、昔栗林公園には動物園がありまして、
昔友達と学生のノリで無計画にここにやって来たとき見たことがあります。

無計画なので友達の誰もがお金を持っておらず、何も食べられないので、
わたしが母に電話して
ATMにお金を振り込んでもらい、銀行で引き出しました。
ATMの営業が土曜日の12時にばしっと終了してしまうという時代で、
振り込まれたお金を引き出した時、12時1分前というスリリングな展開でした。

そのときに栗林公園の動物園を見ました。
今調べたところ、昭和5年にオープンして、2002年に閉園していました。
閉園前の動物園はそのとき閑散として人影もまばら。

栗林動物園

写真を見てもおわかりのように、へたすると動物虐待ではないのか?というくらい
その環境は劣悪に見え、中でも狭い檻を激しく苛立ちがならうろうろしていた
シロクマは、檻の前に人が立つと、水の中に飛び込んで水をかけるのです。

「あれわざとやってない?」 

一人が言い出し、皆で人が通るのを待って観察していたところ、
シロクマは向かいの檻に人が背中を向けて立ったところを狙って、 
それをわざとやって楽しんでいることが判明しました。

「かわいそうに。こんな暗くて狭いところにいたらストレスたまるよね」

と言い合ったことを思い出し、ふりかけさんに話していたのです。
その後うどんを食べるために駐車場に車を停め歩いていくと、
通り沿いのお店のウィンドーに
シロクマの剥製があるのに気付きました。

「シロクマだ」

「なぜこんなところにシロクマの剥製が・・・・・はっ!」

「もしかしたら栗林公園のあいつ?」

高松市のお店がシロクマの剥製をわざわざどこかで買い求めるとは思えないので、
この剥製があの水かけシロクマである可能性は高い、とこれも二議一決。 

「だとしたら、劣悪な環境で一生を終え、死してなおさらしものに・・」

「うっ・・・(´;ω;`)」

数少ない高松市の思い出と、わたしはこんな形で再会を果たすことになった
・・・・のかもしれません。(違ってたらごめん)

ちなみに、上に貼ったページでシロクマの生息を確認したところ、
閉園の時点でもうすでにお亡くなりになっていたことが判明しました。
このときすでに彼は商店街のウィンドーにいた可能性高し。



今夜のお宿は城址の向かいにあるJR系のホテルクレメント。
飛行機代と宿泊がセットになっているプランで取ったのですが、
チェックインするとフロントの方が

「いいお部屋をご用意させていただきました」



たしかにいいお部屋だ〜!


なんと、これから艦上パーティの行われる「ぶんご」が停泊している
港を一望できる角部屋でした。
せっかくいい部屋なのにほとんど寝て荷物を置くだけだったのが残念です。
出入りする船を見ながらこの窓際でゆっくりしたかったなあ・・。



瀬戸大橋で繋がって電車も通るようになり、すっかり四国は
本州への通勤圏となったわけですが、やはりフェリーに乗る人もあります。

さて、チェックインして1時間でシャワーを浴びたり着替えたり、
カメラの電池を充電したりして過ごし、駐車場で待ち合わせて
わたしたちは「ぶんご」に艦上レセプションに出席するために向かいました。



指定された駐車スペースに行こうとすると、自衛官が制止します。
なんだなんだ、と見ていると、横から黒塗りの車が追い越し、
呉地方総監が乗艦するところでした。

わたしたちは盛り上がり車の中からこうやって写真を撮っていたのですが、
制止している自衛官がそれはそれは申し訳なさそうでした。

まあ、自衛隊にすればレセプション出席者は「お客様」。
そのお客様を自分のところのボスの通行のために制止したら、中には
「俺を誰だと思ってるんだ!」とキレる危ない人だっているかもしれませんしね。




サイドパイプの「ほひーほー」が鳴り響く中階段を上る呉地方総監。
前総監には表敬訪問でご挨拶しましたが、こちらの方にお目にかかるのは初めてです。



今感じた疑問。

ラッタルに上がったとき、自衛官が艦尾に向かって敬礼するのは
自衛艦旗に敬意を表しているということですが、それでは夜になって
自衛艦旗が降納されてから偉い人が船に乗る時、この敬礼は行われるのでしょうか。 

わたしたちもこの後お迎えの敬礼のなか乗艦したわけですが、
わたしは今回初めてこの位置から、軽くではありますが艦尾の旗に向かって
頭を下げるという偉業(わたしのなかで)を成し遂げました。

今までやろうやろうと思っていたけど、大抵乗員たちが注目しているので
恥ずかしくてできなかったのです。

場慣れの賜物というやつですか。


続く。


 


第65回掃海殉職者追悼式に出席(式予行演習)

2016-05-30 | 自衛隊

毎年5月の最終土曜日、終戦直後から数年間の航路啓開の殉職者への
追悼式が、香川県琴平の金刀比羅神社境内にある
掃海殉職者顕彰碑の前で行われます。

去年から今年にかけて、

「掃海部隊の機雷戦訓練・掃海特別訓練・潜水訓練(日向灘)」
「掃海部隊の機雷戦(伊勢湾)」

に連続して参加し、その任務の一端をこの目で確認したわたしですが、そのことで
改めて戦後の機雷除去に携わった掃海殉職者の尊い犠牲を思うようになり、

毎年行われる金刀比羅神社での慰霊式にも出席したいものだと考えるようになりました。

たまたまそんな折、地球防衛会(仮名)の代表で参列するという話があり、
前日の艦上レセプションも込みでご招待をいただきました。

本来であればその艦上レセプションに間に合うように前日の昼間の飛行機に乗るのですが、
このときにはわたしの「掃海部隊のグル(指導者)」であるところのカメラマン、
ふりかけさん(仮名) のご指導により、式前日の予行演習と設営から見学することにしました。



というわけで、雨もようの羽田空港を発ったのは朝9時半。
後から思えば、これは天佑とも言える英断だったのです。
といいますのは、その日の12時過ぎ、大韓航空の飛行機が羽田で事故を起こし、
空港が閉鎖になってしまったからです。

翌日、わたしは前々掃海隊群司令に式典会場でご挨拶しましたが、その方は
1時半の飛行機が欠航となったため、陸路に変えてようやく8時(レセプション終了後)
に到着したということでした。

というわけで、何も知らずに無事高松に到着。
今回はわけあってレンタカーを借りました。

うどん屋ばかりが連なる幹線を走ること40分で金刀比羅神社に到着し、
まずはお昼ご飯を食べようとふりかけさんに連絡をすると、

「海の科学館っていう、まるで秘宝館みたいな雰囲気の博物館がありますから、
そこの駐車場に車を止めてタクシーで”神椿”まで来てください」



これが「海の秘宝館」か・・・。
いつかとてつもなく時間を持てあましたら観てみようっと。

そして、タクシーに乗り、運転手さんに

「玉椿お願いします!」

「神椿」を勝手に脳内変換して玉椿だと思い込んでいたのですが、
運転手さんは、日頃その手の脳内変換性ボケ老人を散々相手にしているので、
わかりましたとだけ言って、訂正もせず「神椿」に連れて行ってくれました。

わたしが脳内変換したのにも一応理由があって、この「神椿」、
実際に資生堂の経営によるパーラーなのです。



よくまあこんな、途中一車線しか通れないような山道を登りつめた
山のてっぺんにぽつんとこんなカフェを作ったものだといぶかしむレベル。

調べてみると、香川県は戦前の資生堂第二代社長から戦後にも
同県出身の社長を輩出している土地柄だそうで、この話も、

資生堂の歴代社長と、フランスの礼拝堂再生事業などを通じて親交のあった
金比羅宮文化顧問という方が、協力を仰いだというきっかけだそうです。


 
カフェは金比羅宮本殿まで500段目のところにあります。
ここは上の階の軽食喫茶のコーナー。
素晴らしい眺めで、こんなところに本格的なパーラーがあるのが
(大抵こういうところの飲食業はぼったくり系でイマイチ)
まるで奇跡のようです。

ところでなぜふりかけさんがここでのランチを指定したかといいますと、



下のレストラン階では慰霊式に出席する 海自の幹部たちが
会食を行っていたのでした。
彼らはこの前に自衛隊全員での参拝を済ませたばかりだそうです。
ということは、これだけの人々が皆で石段を登って行ったのか・・・。



彼らが何を食べているのか、望遠レンズで盗撮したいくらいでしたが、
残念ながらわたしが到着したときにはみなさま食後のコーヒーをお楽しみでしたので、
代わりに撮った荷物置き場の帽子。

密度の濃いスクランブルエッグ(あ、海自ではカレーでしたか)の付いた
正帽が椅子の上にきっちりと並べてあります。

こういうとき、副官の帽子の上にボスの帽子を乗っけるらしいですね。
子供用椅子の上と下を利用している人もいます(笑)



さて、このあとは神椿のある500段目から140段下の、
慰霊碑のあるところまで下りていくことになりました。
登るより楽とはいえ急な石段をパンプスで降りていくのはかなり大変でした。 



御書院。
社務所を除くすべての建物が重要文化財に指定されています。 




寄進した者の名前を刻む欄干は、時代を経てもうすでに解読不能なものも。
森千蔵さんほど大きな名前で書かれていればこれからも残るのでしょうけど。




これを大門といい、これより内が境内です。
「琴平山」の額が掲げられており、門をくぐると特別に境内での営業を許された
「五人百姓」が加美代飴を売っています。
五人百姓は全員が女性で、お互いに世間話をしていました。



この大門を何段か降りて左に入っていくと(下からだと右です)、
奥に掃海殉職者碑があることを示すような大きな錨があります。

これを見ながらさらに進んでいくと、



このように開けた部分があり、ここで追悼式が毎年行われるのです。



わたしたちが到着したとき、ちょうどリハーサルが始まろうとしていました。
来賓や司令などの札をつけてその人の役を演じるエキストラに説明が行われています。



国旗掲揚台の下では、掲揚の際の綱の引き方指導が行われています。



エキストラ以外は先ほどの自衛官だけの参拝に参加したあとなので、
半袖の白い制服着用。




慰霊碑に使われた石は4トンあるそうです。
このあと広報の方にお聞きしたところ、あまりにも大きな石だったので、
選定してからここに運搬するのが一苦労で、吉田茂首相が参列した
第1回慰霊式にはどうしても石碑の設置が間に合わなかったということでした。



次の日の本番、わたしはこの椅子席から式典に臨むことになり、
つまり全く写真は撮れないということがこのときにわかりました。

前日のリハーサルにお誘いくださったふりかけさんには感謝です。



呉音楽隊の面々とももうすっかり顔なじみのふりかけさん。
ロングスカートに遠目にもまぶしい金髪、サングラスがトレードマーク。
隊員たちは入港したときに彼女が港にいることが一目でわかるのだそうです。



慰霊碑前では儀仗隊の打ち合わせが始まりました。



整列の仕方からちゃんとやります。



ご遺族のエキストラも遺族席で待機。



慰霊碑の反対側はこんな感じ。
奥に儀仗隊などが控えるスペースを設けてあります。



奥から呉地方総監登場。



まず国旗掲揚のために儀仗隊が入場です。
彼らの歩き方は小刻みに早く、「儀仗隊の歩くテンポ」があるのだと知りました。
普通の行進が「アンダンテ」だとすれば、(アンダンテの定義は人の歩く速さ)
儀仗隊の行進は「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」といった感じ。



儀仗隊長は幹部なので靴の色は白です。
何年か前、女性隊員がこの慰霊式で儀仗隊長を務めたことがあったそうです。



セーラー服の行進というのは、ことにわたしのような人間にとっては
リハーサルであっても胸がきゅーんとなるくらい惚れ惚れするものです。
その心理の中には「写真で見た旧海軍の水兵と寸分変わらず同じ姿」というのが
とても大きいと思うんですが。



位置について整列。
本番では椅子から離れることなどとうていできなかったので、
もちろんこんな写真はこのときしか撮れませんでした。



整列してから隊長の号令によって銃に着剣が行われます。



ここからは読みにくいですが、海士つまり水兵さんたちの帽子には
「護衛艦ぶんご」のリボンが付けられています。



国旗掲揚。
音楽隊による君が代演奏が行われます。



国旗掲揚の間全ての自衛官(奥の人のぞく)は敬礼します。
儀仗隊は「捧げ銃」をおこない頭中(かしらなか)。



皆そうですが、自衛官の姿勢はこういうとき特に美しいですね。
これも日常のたゆまぬ訓練の賜物だと、彼らはどのくらい自覚しているでしょうか。



体の反り方まで完璧にシンクロしている・・・。



国旗掲揚のち、またしてもアレグロ・マ・ノン・トロッポで引き上げます。
実はこの慰霊式においてもっとも活躍?するのがこの儀仗隊(と音楽隊)です。



戦後の海を啓開するために命を捧げた殉職者の霊名簿が奉安されます。



この顕彰碑の揮毫を行ったのは、当時(昭和27年)の内閣総理大臣、
吉田茂でした。



そのあとは、水交会会長や地元町長、国会議員などの弔辞。
これもいちいち代理の隊員によって行われます。



再び儀仗隊入場。



まず捧げ銃で霊前に挨拶。これは「敬礼」です。



しかるのち弔銃発射。
わたしはこのときの写真をストップモーションで撮影したのですが、
銃から硝煙が立ち上っているのは一番右の人だけでした。
もしかしたらリハーサルだったからでしょうか。



弔銃発射は全部で3回、一発撃つと音楽隊が短いフレーズを演奏、
また発射、演奏、発射、演奏というふうに行われます。



儀仗隊退場。



続いて参列者による献花が行われます。
本番ではわたしも地球防衛会の会長とともにこれを行いました。

本番でもこの二人の女子隊員が献花の花を渡す役目をします。
二人の顔にマスクをしたのは、女性自衛官ばかりを追いかけて撮っているという
「マニア」が何かのはずみで彼女らに目をつけるようなことがあってはいけないので。

ふりかけさんの話によると、女性自衛官の写真を撮ってツィッターにあげるために
イベントに行くといった種類のマニアがいるらしいです。
 
話は少し逸れますが、マニアといえば、以前、自衛隊の艦船に信号を送ってくる
厄介なマニア(もちろん素人)がいるという話をここで書いたことがありますが、
この慰霊祭でお近づきになったある自衛官の母上の談によると、こういう行為は

「懐中電灯でチカチカやるので危なくてしょうがない」

と艦乗りの間で大変顰蹙を買っているということです。
まさかとは思いますが、もしこれを読んでいるなかで、胸に手を当ててみて
このような行為に覚えのある方は、即刻やめてくださいね。



幹部、海曹、海士の代表も3人揃って献花します。
これも本番とは違う人が行いました。



こちら本物。
霊名簿を降納する呉地方総監。



そして国旗が降下されます。



儀仗隊隊長の腰右後ろの白いホルダーは短銃?



儀仗隊、又しても退場。
呉地方総監が彼らの動きをスルドい目で見ていますが、これはリハーサルなので、
呉総監は「ダメだし」するという役回りでもあるのです。


この日はさしたる問題点もなかったようで平穏に終了したそうですが、
ただ、霊名簿降納のときに、テントにいる幹部が帽子を取るかどうかで
だいぶ紛糾?していたという噂です。(ふりかけさんによる)

こういう儀式のときにどのように所作を行い、いつ帽子を取るとかとらないとかも
全部海軍儀礼によりキッチリ決まっているわけですが、
かといって文書にかいてあるわけではないので、いざとなると


「あれ、これ去年はどうしたっけ」

みたいになることもあるのか、とおかしく思った次第です。



リハーサル終了後、広報の方が、

「明日になったらもう見られませんから」

とおっしゃるので
巨大な石碑の裏にある碑文を見せてもらいました。
当時の海保長官による顕彰碑文と各市町村の市長が名前を並べた発起人名簿です。



そして七十九柱の掃海殉職者名。

明日はこの方々の遺族13名をこの場に迎え、その魂を鎮めるための
追悼式が厳粛に執り行われます。



続く。



 


戦後を生き抜いたパイン~料亭小松の物語

2016-05-29 | 海軍

戦争末期、海軍の根拠地である横須賀の料亭は
「それどころではない」ということで閑古鳥が鳴いていたでしょうか。
それが意外なことにそうではなかったのです。

昭和18年にはガダルカナルで力尽き、日本軍はもう戦う余力もなく
南方では撤退に次ぐ撤退を余儀なくされて敗戦一方となっていました。
連合艦隊も残り少ない艦艇を南方に送ってしまっており、
横須賀軍港そのものは閑散としていたのですが、料亭小松だけは
慌ただしく人が出入りしていました。

横須賀は軍事行動の際ここを経由することが多く、さらには
特務士官、予備士官など海軍士官の数そのものが増えていたため、
従来の鎮守府の面々に加え艦艇の修理で帰港したとか、転勤できたとか、
あるいはここから出航していくという軍人が一度は足を向けたのでしょう。

「でも皆さんあまり元気がなかったですね。
開戦初頭の頃は『これからどこそこへ行く』と威勢が良く、
活気にあふれていましたけど、日が経つにつれてその元気が見られず、
憔悴が目立つようになりました」

と小松の女将は当時をこう語っています。 

「もう今度行ったら生きて還れない」

「もう破れかぶれだ」

そんな弱音を漏らす士官もいました。
決して表向きには表せないこんな本音も、小松であるからこそ
心置きなく口にすることができたのでしょう。
そして、一度出撃していった彼らのほとんどが、その言葉通り
二度と横須賀の土を踏むことはなかったのです。

前回、トラック・パインを出店したとき、小松従業員のために
防空壕などが全く用意されていなかったことに女将が激怒し、

「横須賀では豊田さんが先頭に立ってそれをやっているのに」

と食ってかかった話をしましたが、昭和19年になると、横須賀市は
「一般疎開促進」という条例を出して空襲への備えを行っています。
横須賀鎮守府長官だった豊田副武がその陣頭指揮を取ったというのが
女将の言う「先に立って」という意味で、日本政府が閣議において

「 学童疎開ノ促進ニ関スル件ヲ定ム」

とする疎開促進条例を制定したのは19年の6月30日のことでしたから、
軍港の町である横須賀はそれに3ヶ月も先駆けていたことになります。

閣議で決定された疎開の条項第二項には

「疎開先 疎開先ハ差当り関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス」

とあり、神奈川県つまり横須賀が空襲を受ける最前線とされていました。

豊田長官は待避壕の設営、疎開地域の整備現場にも自ら足を運んだと言います。
 
昭和20年に入ると敵機襲来はさらに頻繁になり、空襲警報がでると
小松でも戸は全部閉め、電気は全部消すということになり、
飲んでいた海軍士官たちもさっと引き上げて部署に戻っていく、
というような毎日が繰り返されるようになります。

そして3月10日、東京大空襲がありました。
現在でも民間人の大殺戮としてドレスデン空襲と並んで挙げられる空襲で、
過去行われた空襲としてはその犠牲者の多さから(推定10万人)
史上最大規模の大量虐殺とする学者もいます。

アメリカは日本の戦意を失わせるために東京を執拗に攻撃し、
昭和19年11月から終戦までに行われた空襲の回数は数え切れないほどですが、
この時の大空襲で東京は一面の焼け野原になりました。

そして5月29日には横浜大空襲があります。
ちなみに、東京だけで4月には12回、5月には10回の空襲がありました。
横浜の空襲では攻撃地点がはっきりと決まっていました。

「東神奈川駅」「平沼橋」「横浜市役所」「日枝神社」「大鳥国民学校」

の5ヶ所です。
この空襲が白昼に行われたことから、小学校が攻撃目標だったというのは
無差別攻撃どころか、意図的に非戦闘員を殺戮したということになります。

横須賀はドーリットル空襲以降東京のように頻繁な攻撃にさらされることもなく、
20年2月に行われた大規模な空襲では軍設備が狙われただけでいた。

現在でも戦前の建物が案外そこここに残されているのを、
横須賀に訪れるたびに知って意外な気がしていたのですが、実際にも
終戦後に周辺施設を視察したアメリカ海軍のニミッツ元帥やハルゼー大将は、
横須賀の被害が予想より軽微であったことに驚いたとされます。

しかし、じっさいには戦時中には警戒警報や空襲警報の発令が頻発し、
小松の女将の証言にもあるように一般市民は精神的消耗を強いられていました。

しかし、2000年代頃まで風説としてあった「横須賀には空襲はなかった」
というのは間違いです。
横須賀への空襲は東京の絨毯爆撃のようなものではありませんでしたが、
それなりに何度か行われており、とくに7月に入ってからの2回は
被害規模は甚大でした。

このときも攻撃されたのは軍事施設で、料亭小松では屋根に落ちた破片が
天井を突き抜けて広間の畳に穴を開けるという被害に遭いました。
幸いにしてけが人もなく大した被害には至っていません。

わたしが横須賀を歩いて感じただけでなく、戦後に軍港および周辺施設が
アメリカ軍に接収され横須賀海軍施設として使用されることになったため、

「横須賀の旧海軍施設は戦後の基地利用の目的のため温存された」

とする見方があるそうです。
わたしも何を隠そうそのように感じた一人ですが、横須賀市市史編纂室の
歴史学者による


「米軍基地化のための温存との見解が、
さしたる根拠のないまま一人歩きしてしまっている」


という指摘もあるそうです。
また、戦時中に

「米軍による占領後、軍港として利用する目的があるため横須賀への爆撃はない。
安心するように」

と書かれたビラが撒布されたとの証言も風説の類だとされます。
この学者によると、呉に比べて横須賀の被害が軽微に終わったのは、

呉は横須賀に比べ在港艦艇が多く、兵器の生産基盤となる砲煩部、
製鋼部が置かれていたこと

が、市街地への被害がなかった理由ではないかということです。
軍港ゆえ集中的に鐵工所を叩き、その結果市民には被害があまりなかった
ということからこのような風説も出てきたのに違いありません。
 

さて、そんなこんなで昭和20年8月15日がやってきました。

最初に日本に”勝者”として上陸したのはアメリカ海軍の艦船
「サンディエゴ号」で、場所は他でもない横須賀港でした。 
この日、横須賀市内は全域で市民の外出が禁じられ、厳戒態勢が取られました。

鎮守府は接収され、残務整理は今の第二術科学校に移って行われましたが、
そのうち進駐軍に場所を明け渡さなければならなくなりました。
料亭小松はせめてもの助けになればと、例の大広間を提供することにし、
行き場所に困っていた鎮守府は書類とともに机や蚊帳、布団を運び込んで
そこで寝泊りしながら作業を続けることになったと言います。

当初は彼らを缶詰でもてなしつつも負けたとはこういうことかと
悲哀を感じていた女将(山本直枝さん)ですが、そのうちそんな関係で
小松に出入りしていた人々から戦後の商売の糸口がもたされたのです。

日本に不慣れな将兵たちが安心して遊べるところを探していた米軍が
まず許可を出して「公認料亭」としてくれたので、女将は
芸者衆に声をかけて戻ってきてもらいました。

昨日まで海軍芸者といわれていた人たちが昨日の敵に酌をし
踊りを見せるのですから、最初は怖いと思い抵抗もあったでしょうが、
時折暴行事件や誘拐騒ぎなどがあったとはいえ、進駐軍は聞いていたほど酷くなく、
むしろ彼らを相手に商売するのはこの時代最も「時流に乗って」いるともいえ、
小松もまた戦後を無我夢中でこのように凌いだのでした。

アメリカ軍人を相手にするので、井上成美大将に接客英語を
レクチャーしてもらったというのもこのときのことです。

アメリカ軍を呼ぶに当たって、小松の女将は有り金をはたいて
家を改装し、手入れをし綺麗にして店を開けました。
グリル、ソーシャルサロンを整備し、バンドを入れて連合軍兵士らに対応できる設備を整えたのです。

「外も内も結構荒れていまして、これではアメリカが来て
日本のオフィサーはこういうところで暴れて出て行ったから負けたのだ、
などと言われるとシャクだと思って」

のことでした。
行きていくためにはかつての敵も迎え入れる覚悟であったとはいえ、
かつての海軍料亭の女将の矜持がうかがえます。

この頃になると、米軍軍人だけではなく旧海軍の軍人もやってきました。
増築されたグリルバーでは、日米の海軍軍人が同じフロアーで
酒やダンスを楽しむという光景すら見られるようになりました。

海軍軍人同士の仲間意識というものは特別で、どの国の軍人とも
「ネイビー」という一点で他の職種にはありえないほどの連帯と
親近感を持つという現象がありますが、戦争が終わったばかりで
昨日の敵同士であった日米海軍軍人もその例外ではなかったのです。

いや、お互いに真剣にやりあったからこそ到達しうる共感が
今日にもつながる両軍の友情を取り持ったのかもしれません。




小松がかつて海軍のための料亭であったことが米海軍軍人の歓心を誘い、
アメリカの新聞で紹介されるまでになりました。
そして、海上自衛隊が生まれ、第7艦隊との間に相互訓練や
交流が持たれるようになっていからも、小松は両者にとって
特別の場所であり続けました。

懇親会や米軍の離着任時の歓送迎会などのレセプションは
おそらく今でも旗艦艦上や田戸台の庁舎で行うのだと思いますが、
当時はその後にディナーをする場合、必ず小松が会場になりました。
ですから、米海軍の将士たちは、小松が海上自衛隊の施設なのだと
勘違いするようなことがあったのだそうです。 

本稿に登場する二代目女将の山本直枝さんは2006年、95歳で亡くなりました。
彼女は初代女将のコマツ刀自の遺志を継いで、戦後の海上自衛隊に対しても
小松で会合を開くときには採算を無視して計らい、各種公式行事に祝い、
練習艦隊への餞別を届けるなど気を遣い、さらには殉職隊員の遺族にの面倒を
密かに見る、また「小松基金」を設立して志ある若い士官を支援するなど、
本当の意味で海上自衛隊を支援していたと云います。

しかしわたしが「小松」を外観だけ眺めるに、そこは確かに歴史的価値はあれど、
その歴史の遺産だけを細々と「切り売り」している感が否定できなかったのも事実です。

かつてのように若い海軍士官が毎日のように予約なしでふらりと訪れ、
お金がなければあるとき払いで飲んで帰るような個人的な信頼関係もなく、
またその頃のように「そこしか安心して安く遊べるところがなかった」
というわけではさらにないのですから、それも時代の流れで致し方なかったのでしょう。



「パートさん募集」の張り紙の画鋲が錆びており、恒常的に
人を集めないといけないのかとなにか不安な気持ちになったものです。

聞けば、昔ほどではないにせよ、海上自衛隊と小松の縁は切れておらず、
海軍料亭の息をつなぐという意思で海自は小松を細々とではありますが
使い続けていたというところに今回の火事が起こったもののようです。

今の海自将士にとって、小松は、昔の海軍軍人たちが
「おかみさん達者かね」「また来たよ」
といいながら通った「横須賀のふるさと」ではなくなっていたのは確かで、
そんな折の消失は一つの時代が終わったという意味だったのかと感じ入った次第です。



後日お話しするつもりですが、横須賀にバスで行った時に帰りの車窓から見えた小松の焼け跡。

上の写真の直後とは思えないほど跡形もなく建物は倒壊したようです。



もう重機がはいっているようでしたから、おそらくすぐにここは更地になるでしょう。
たまたまですが、取り壊し寸前の姿もこの目に収めました。



かつて室内だった部分が焼け落ちたため、窓から向こうの建物が見えています。
この写真を見て、あらためて胸に大きな穴が空いたような悲しみを覚えたわたしです。


さようなら、海軍料亭「小松」。




シリーズ終わり



 


トラック・パインと井上成美大将〜料亭小松の物語

2016-05-27 | 海軍

正面玄関からみて左を塀沿いに歩いて行くと、料亭「小松」の
敷地の終わるところにこのような勝手口があります。
ここから出入りの商人が商品を運び入れたりしたのでしょう。

塀の上の小屋根をささえる金具は今日すっかり錆びてしまっていますが、
唐草模様を描き、かつてはこれも粋だったのだろうなと思わせます。

さて、 海軍士官たるもの遊ぶときもスマートに、決して二流三流の店に
コソコソ行ったり怪しげな店の敷居をまたぐな、というのは初級士官となって
最初に厳しくいわれることだったそうです。

今と違って若い海軍士官がフネを降りて行くところといったら映画か料亭くらい。
特に軍服を着ているときの行動は人目もあるので厳しく律しざるを得ません。
というわけで安心できる小松のようなレスに毎日足を運ぶことになります。 

あまりにも度々なので、ほとんど皆予約をせずにいきなり店に行き、
もし席がなければ女中部屋やプライベートスペースで飲みながら時間を潰し、
偉い人が出て行ったらそちらに移るというような調子だったそうです。

今ならカラオケといったところですが、このころも酔えば
芸者さんの三味線で「軍港節」「磯節」 などを歌い、
また芸者さんに踊りを手ほどきしてもらって一緒に踊ったり・・。

新呉節(軍港節)


「死んでも命があるように」

って、どこかで聞いたことがありますが、この歌の一節だったんですね。

このような海軍士官の遊びを「Sプレー」と申しました。
「S」が「シンガー」あるいは「シスター」(姐さん)を意味する芸者の隠語で、
エスさんの方も士官のことを「山本ニイさん」「草鹿ニイさん」
などと親しみを込めて呼んで、ほのぼのとしたものであったといわれ、
明らかに今の金銭の介在する男女関係とは違う暖かさがあった、というのが
当時のエスプレーを知る士官たちの一致した意見でした。

海軍士官は決して「ホワイト」(素人)に手を出すな、遊ぶなら
「ブラック」(玄人)にせよ、と耳にタコができるほど聴かされているので、
エスに対しては「遊び相手」と割り切っていたというわりには、
士官の方も相手の人格を尊重していて、無体なことは御法度であったようです。

前にも一度書いたことがありますが、海軍軍人と芸者の関係は、ごく限られた
レスという世界でのみ有効なものなので、どちらも割り切っていて、
料亭の中だけでバーチャルな恋愛(ただし深い)を楽しんだのです。

士官の方は好きな芸者ができると、芸者の了解を得て「インチ宣言」をします。
それによって、自分の周りの士官との無用な軋轢を避けるわけです。
その独占権は彼女を宴席ではべらせるときに限られ、彼女が他の宴席で別の「インチ」
にはべることまで嫉妬するなどとは野暮の極みとされました。

芸者の方では「それが商売」なので、自分をインチと宣言する士官を
たくさん抱えていてもなんら責められることはありませんでした。
士官も心得ていて、実際に連合艦隊が入港して、インチ士官同士がバッティングして
(それを海軍用語で「コリジョン」(衝突のこと)と称します)
コリジョンが起こっても、やり手の女将がなだめると、実にあっさりと
出直したり、一人で飲んで帰ったり、つまりこだわらないのが粋だったのです。


巷の小唄にも「かと言って大尉にゃ妻があり」とあるように、仮想恋愛を含む
エスプレーを行う士官というのは大抵が少尉・中尉クラスです。

当時の海軍料亭の飲み代は芸者をあげても今のように高額ではなかったようですが、
ただでさえ小唄のごとく「若い少尉さんは金がない」のに、毎日のような飲み食い。

いったい支払いはどうなっていたかというと、やはり”あるとき払い”。
月末に月給が出されたらそれを持って飲みに来て払う、というのが普通でした。



士官の方も甘えがあるのか、上陸すると押しかけて飲むだけ飲み、
飲み終わるとさっさと艦に帰ってしまうのが常だったのですが、女将の方も
最初の頃こそ困って気に病んだりしていたものの、相手が踏み倒す心配もなく、
出港前には

「俺にマイナス(ツケのこと)があっただろう」

といって飲みに来ては多めに払ったり、中には給料袋の封を切らず
そのまま女将に渡す士官がいたりで、次第に気にしなくなったようです。

マイナスに関してはこんな話があります。

日清戦争が起こり、軍艦はすべて出航してしまい、横須賀の街から
海軍軍人の姿が消えてしまいました。
まさに街から火が消えたようになり、飲食業は軒並み開店休業状態。
日頃「あるとき払い」システムを取っていた小松もこれには困りました。
ツケを払わないまま皆が戦地に行ってしまったのですから、
永遠にとりはぐれる可能性もでてきたのです。
途方に暮れていると、思いがけないことが起こりました。


戦地の士官たちから毎日、小松に何十通という為替が届き始めたのです。

「生きて帰ったらまた飲みに行くよ」

という簡単な手紙と共に・・・。 


このような海軍軍人たちの小松に寄せる心と信頼関係が、その後、
昭和の世の戦争において、前線に小松が支店を出すという心意気につながりました。
それがWikipediaにも項を立てて解説のある「トラック・パイン」です。

「トラック・パイン」は小松の海軍料亭の意地を示したものでした。

トラック諸島は開戦前から第4艦隊の根拠地となっていましたが、
昭和17年8月以降連合艦隊旗艦の根拠地となりました。

 小松のトラック支店出店は、第四艦隊司令長官であった井上成美中将が、

「トラックには下士官用の料亭しかないので、小松の支店を出してくれないか」

と直枝夫人に要請したのがきっかけでした。
それは17年2月のシンガポール陥落のあとで、発案は井上中将でしたが、
話は鎮守府から直接あったとのことです。

支店についてはシンガポールに開設される話もありましたが、
シンガポールは陸軍が多く、直枝夫人の


「陸軍の方のお気持ちはあまりわかりませんから」

というひとことで、海軍軍人しかいないトラックに決まったのでした。

開業は昭和17年7月でしたが、直枝夫人の夫が女中と芸者衆を連れて行ったところ
場所はここ、といわれるもそこにはなにもなく、皆アンペラ(むしろ)

の上で寝て、飲み水もろくにないところに家を建てるところから始めたのです。
できるだけ内地の雰囲気をそのまま再現しようと、畳、建具、蚊帳、
そして部屋にかける額まで持っていきました。

芸者衆を横須賀から連れて行こうとしたところ、鎮守府の方から

「それでは横須賀が困るから絶対によしてくれ」

と強く(笑)要望が出たので、横浜や東京で人を集め、一ヶ月で
横須賀の踊りを覚えさせ「横須賀芸者」として送り込みました。 

暑いところなのに芸者さんは着物を着なければいけない、というので
1日に2〜3回着替えられるように着物と、髪結いも二人連れて行きました。

トラック・パインができたころ、ここにはソロモンに向かう軍人で賑わいました。
南方に行くことが決まった時点で、たいていの軍人は覚悟を決め、
もう二度と日本女性を見ることはないだろうという気持ちで日本を後にしていました。
そんな彼らですから、トラック・パインのさながら横須賀小松をそのままもってきたような内装、
そして美味い料理、内地とほとんど変わらぬ芸者たちに目を見張りました。

彼らにとってここが文字通り最後の内地であり、ここを一歩出ればそこは戦場。
誰もが決して口に出さなかったけれど、皆「これが最後かもしれない」
と内心思いながらトラック・パインでの一夜を楽しんだのです。

以前「クラスヘッド・モグ」という項で、66期のクラスヘッド、
坂井知行大尉がここトラック・パインで一夕の宴席を過ごし、
ラバウルに進出して一週間も経たずに戦死した話を書いたことがあります。
パインの酒席で坂井大尉は”米軍機など鎧袖一触、モノの数ではない”という
自信をみなぎらせており、皆も彼に期待していただけに、
そのあっけない戦死は関係者に
強い衝撃を与えた、という話でした。

坂井大尉のように、このトラック・パインが”最後の内地”になってしまった
青年士官は決して少なくはなかったのです。



直枝夫人はトラックに2回行っていますが、その2回目の来訪時、
小松の従業員のための退避壕が何一つ用意されていないのに驚き、
根拠地隊司令官に食ってかかりました。

「なんのために子どもたちをこんな遠くまで連れてくるんですか?
あなた方の命も大切ですが、この子たちも命がけで来ているのだから、
いざ空襲に備えて防空壕の一つも完備したものを作っていただかないと、
すぐ引き揚げさせちゃいますよ!」

海軍の要請で来たのに、しかも軍の退避壕はちゃんとあるのに、
こちらにはなにもしてくれない
では困る、とガンガン言ったのです。
すると司令官は

「悪かった。早速造らせる」

女将は治らず、 

「 悪かったじゃないですよ!
横須賀では豊田(副武)さんが先頭に立って、 長官ご自身がどこに退避したら良い、
ここは疎開させるようにと指示して回っていらっしゃるのに、 
ここは戦場に近いというのに、なんで呑気なことをしていらっしゃるんですか!」

女将の呆れたのは不思議なくらいの現地ののんびりぶりでした。
それから彼女は現地の病院に行き、院長にこんなことを頼みました。

「うちの子たちに包帯巻きの練習をさせていただけませんか。
空襲を受けたら商売どころではないし、そちらも手が足りなくなるでしょうから」

それを聞いて院長は殊の外喜び、そのような指導を従業員に行い、
実際に彼女らが包帯巻きで奉仕する日は本当にやってきました。
彼女はのちに南方から引き揚げてきた士官から

「あんたのところの店の子に包帯巻いてもらったよ」

とその指導が役に立っていたことを知らされています。


小松が店を開いたのはトラック諸島の「夏島」です。
トラックには春夏秋冬の名前がついた島がありましたが、夏島は
飛行場や病院のある、いわば根拠となる島でした。

昭和19年2月17〜18日、二日にわたる大空襲がトラックを襲いました。
アメリカ海軍が「南方の真珠湾」と胸を張ったこの空襲には、

「海軍丁事件」

という名前がついています。
(Wikipediaには小松が被害にあったのは3月30日とあるが、おそらく間違い)

なぜ空襲が「事件」と呼ばれたかというと、海軍はこの直前から
通常黎明・薄暮に一日2回行っていた哨戒を黎明の一回だけにし、
もし警備の手を緩めなかったら敵空母の早期発見によってトラックから
艦艇をパラオに避難させていたところ、それをせず、空襲によって
多数の艦艇と航空機を失う結果になった『人災』だったからです。

ちなみにこのとき失われた艦艇はというと、戦闘艦艇は

軽巡洋艦 - 阿賀野、那珂

練習巡洋艦 - 香取

駆逐艦 - 舞風、太刀風、追風、文月

小型艇 - 第24号駆潜艇、第29号駆潜艇、第10号魚雷艇

補助艦船はほとんど避難させないまま被害にあったので、

特設巡洋艦 - 赤城丸
特設潜水母艦 - 平安丸
特設駆潜艇 - 第十五昭南丸
海軍特設給油船 - 第三図南丸、神国丸、富士山丸、宝洋丸
海軍特設給水船 - 日豊丸

その他海軍輸送船 - 愛国丸、清澄丸、りおでじゃねろ丸、瑞海丸、
国永丸、伯耆丸、花川丸、桃川丸、松丹丸、麗洋丸、大邦丸、西江丸、
北洋丸、乾祥丸、桑港丸、五星丸、山霧丸、第六雲海丸、山鬼山丸、
富士川丸、天城山丸(航空燃料輸送に使用)

陸軍輸送船 - 暁天丸、辰羽丸、夕映丸、長野丸

と多数でした。
ちなみにこれは沈没した艦艇のみで、損壊艦艇は別となります。

爆発する愛国丸



しかしこのとき、なぜトラックでは警備の手を緩めたのでしょうか。
ここにこんな説があるのです。

陸軍参謀本部の瀬島龍三や服部卓四郎らと海軍軍令部の
伊藤整一次長一行が南方視察行の帰路トラックに立寄っており、
16日の晩に夏島の料理屋で宴を催していたことを挙げる者がある。(wiki)

この「夏島の料理屋」って、トラック・パインのことですよね?
これについては551空の飛田真幸飛行隊長(67期)の言によると

「司令部が接待をしているのに部隊だけ警戒配備でもあるまい」

という空気と、さらに警戒心が弛緩していた傾向があったというのです。
防空壕も作らず、なんだか呑気な気がした、という女将の感じた懸念は
決して思い過ごしではなかったということになります。

このときに、瀬島の回顧によるとパインには「泊まった士官もいた」
そうですが、彼らは一日の差で難を免れたことになります。

翌日の空襲によってトラック・パインは滅茶苦茶にやられ6人が犠牲になりました。

従業員は6人の遺骨を抱いてパラオに避難しましたが、
そのパラオが次に空襲に遭ったため、結局台湾廻りで3ヶ月かかって
命からがら
日本に帰ってきたのでした。


ところで戦後、営業を続けていた小松に進駐米軍が客としてくるようになったとき、
女将は井上成美大将に頼んで従業員に英語を教えてもらっています。

「海軍がお世話になった店だから」

と井上大将は二つ返事で引き受け、ビジネス英語を従業員に仕込んだそうです。



かつてトラックに「パイン」がありました。


戦地で出撃していく海軍軍人たちを励まし、慰め、そしてあるときには
最後を見送って海軍料亭の役目を果たした小松ですが、
殉職者を6人も出すという悲劇でその幕を閉じることになりました。



井上大将はこの結果を受け、もしかしたらトラック・パインの出店が
自分の要請であったことを
内心苦にしていて、そのせめてもの償いをしようと、
1時間に1本しかないバスに乗って毎週小松にやってきていたのかもしれません。


 

 


開戦から海軍甲事件まで~料亭小松の物語

2016-05-26 | 海軍

「海軍おばさん」として母のように海軍軍人に慕われた
 山本コマツが明治年間に開業した料亭「小松」。

小松の歴史には、日清・日露戦争の戦勝で繁栄を極めた時期があれば
不況で店をたたんでいた時期もあるというくらい時代の波がありましたが、
大東亜戦争中、小松はこの戦争をどう見ていたのでしょうか。


昭和16年12月8日、帝国海軍航空隊が真珠湾を奇襲し、日米は開戦しました。

海軍軍人が繁く立ち寄っていた「海軍料亭」小松においても
この動きは全く事前に察知されることなく、女将もその養女である若女将も、
誰からもその気配すらかんじることもないまま、報道によってそれを知り

「一体どうなるのかしら?」と頭が混乱した(山本直枝さん談)

 ということです。
ただ、後にして思えば、例年12月になると連合艦隊が後期の訓練を終えて
続々と入港してくるものなのに、その年はその気配が全くないのが
不審といえば不審に思われるということもあったそうです。

海軍軍人に寄り添うように営業を続けてきた小松にしてこうですから、
あとこのような密かな変化に思い当たったとすれば、横須賀地元の
船舶関係者くらいだったでしょうか。

真珠湾への攻撃に備えて、連合艦隊は9月末から内海西部に集まり
訓練開始しています。(それまでの期間は乗員交代と戦備作業)
山本五十六長官は10月9日、「長門」艦上において、図上演習に先立ち

「聯合艦隊集合に際し各級指揮官に訓示」

という訓示によって司令官の決意を述べました。

この訓練について戦史叢書は以下のように記述します。

その後集合した各艦は特別訓練と呼称してもう空練を開始したが
工廠の稼働能力などの関係から一部鑑定は軍港で整備を続け、
整備を終えたものからボツボツと訓練地に集まってくるという有様。
従って関係者の必死の努力にもかかわらず、艦隊術力の回復ははかどらず、
各艦の足並みも一向に揃わなかったので、結局戦隊、艦隊としての
まとまった訓練はほとんどできなかった。

こんな状況であったから、連合艦隊はようやく10月31日と11月1日に
ほぼ全兵力による総合訓練を行うことができましたが、結局
術力は回復しないままだったようです。

この時の宇垣参謀長の日記「戦藻録」から抜粋してみます。

10月21日 

早朝出航
秋晴れの良い天気に潜水艦飛行機の襲撃訓練を実地し薄暮帰港す
やはり出動訓練は効果大にして愉快である \(^o^)/
佐伯湾錨地において見張り訓練の目標艦として潜行中の伊66潜は
横合いから入港中の伊7潜に衝突せられ前者は艦橋前方圧潰
後者はメーンタンクに損傷を被れり Σ(゜д゜;) ヌオォ!?

なんという事故の多き事ぞ  (-゛-メ)

10月24日

伊61戦の沈没遭難(九州で衝突沈没、上とはまた別の事故)に対し
長官は別府行きを止めて現場と佐鎮に行くと云われる
誠にありがたい意思である  ( ̄∇ ̄ノノ"パチパチパチ!!

この心ありて始めて部下は上長のために喜んで死ねるのだ (T_T)

10月28日

士官幹部の大移動と下士官兵20%の転出に伴う50%の配置変更により
戦力は著しく低下せる事を如実に認めざるを得ず  (`×´) プンプン!!

まことに遺憾千万なるも今後格段の努力を強要して万全を期する他なし


10月31日

7時半出航
所在の聯合艦隊兵力を挙げて応用訓練を土佐沖にて実地す
朝から昼へ 昼から夜へ第5次まで場面場面の戦術訓練、
けだし1日のうち命いくらありても足らざるべし

基礎的なるもやるだけやはり効果あるなり( ̄ー ̄)(ー_ー)( ̄ー ̄)(ー_-)

11月1日

風強し 午後10時出動

昨日来の応用訓練、野戦訓練などを行う
前者においては強風のため相当波をかぶり相当のできなりしも
後者は月明かりの大部隊野戦としては突撃時「珍無類」 (・_・?)
のものとなれり
同じ型をやるにしても天象地象などそのときの模様に合致するごとく
指導するの精神なかるべからず

11月4日

本日多数飛行機の来襲あり
碇泊艦攻撃はだいぶ上達せるものと認め得る ( ̄Λ ̄)ゞ
 

この訓練期間、事故とかいろいろあったようで、気を揉みながらも
訓練を「愉快」などといっていたりして興味深いですね。
なお顔文字はおせっかいながら宇垣参謀長の心情をビジュアルでわかりやすく表してみました。

この日誌にもある11月1日には攻撃を含む国策要項が御前会議で承認されています。
とにかくこれで見てもわかるように、訓練の期間はいつも通りでも、
その後11月13日に聯合艦隊の最後の打ち合わせが行われ、12月7日に向けて
聯合艦隊が総掛かりになっていたわけで、主力艦隊はもちろん、重巡を主体とする
第二艦隊は南方に展開していたわけですから、さぞかし横須賀は閑散として
小松の人々が不審に思っても当然のことであったと思われます。

しかし開戦してからは艦艇の修理や補給は乗員の休養も兼ねていたので
基本的に母港に寄港するという原則に変化はなく、したがって
横須賀の艦艇の出入り(=小松に立ち寄る士官の数)には変化はなかったようです。



ところで戦史叢書を読んでいて南雲忠一長官が途上ふと漏らした一言に
ちょっとウケてしまったので、それを書いておきます。

「参謀長(草鹿)、君はどう思うかね。
僕はエライことを引き受けてしまった。
僕がもう少し気を強くして、きっぱり断ればよかったと思うが、
一体出るには出たがうまくいくかしら

「うまくいくかしら」に南雲長官の不安が集約されていますが、
なんか可愛らしい物言いをする人だったのですね。


さて、開戦してからは日本は、というより海軍は連勝で、
形勢不利を一気に押し返すためにアメリカは真珠湾の報復をうたった
ドーリットル空襲で「ガツンと一発」やってきました。
昭和17年の4月18日のことです。

日本側にはこの空襲は全く予期しなかったことで、その衝撃たるや

「まるで青天の霹靂のごとく日本本土上空に現れた」

と軍令部の福留繁中将が書き残した通りでした。
つまりアメリカの作戦はこれほどに功を奏したということです。

この空襲における最大の被害地は横須賀であったと言ってもいいでしょう。
小松の芸者さんがこのとき横須賀に飛来したB-25を目撃しています。

「浦賀水道の方から一機、すっと入ってきたのを見て、
こわくて木の陰に隠れてました」

この飛行機はエドワード・E・マックエロイ中尉を機長とする13番機で、
房総半島の南部を横断して横須賀に侵入しています。

13番機は1300頃、記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、
3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドックで潜水母艦から空母へと改装中だった
「大鯨」(龍鳳)に命中し、「大鯨」では火災が発生しています。

このときにやはり目撃していた若女将の直江夫人は

「高いところを飛行機が飛んでいるので、練習でもしているのかしら、
とおもっていたら、うち一機が急に低空飛行に移って突っ込んできました。
すぐに高射砲が応酬しましたけど、当たりませんでしたね」

と言っています。
13番機は海軍の中枢である横須賀鎮守府を爆撃し、
対空砲火の中を悠々と離脱することに成功した「殊勲機」でした。

この後、横須賀の海軍艦は13番機を認め、大砲を撃ち、
さらには敵空母を房総沖に求めて哨戒を続けましたが、
ドーリットル攻撃隊は当初の予定通り、攻撃が済んだ後は
全機とっとと中国大陸に向かっており、これははっきりいって
まったく無駄で無意味な行動であったと言えましょう。

まあ、それくらい海軍は動揺したということなのだと思いますが。

ドーリットル空襲による被害、ことに「大鯨」の損傷は秘匿され、
海軍内でも当時まったく知らない人が多くいたとされます。
軍港横須賀では機密保持の点で大変厳格で、写真撮影は一切禁止されていました。

ところが、ミッドウェー作戦のときにはどういうわけか、
道行く人までがこれを知っていて、

「海軍さん、今度ミッドウェーでやるそうですね。頑張って下さい」

などと声をかけられて軍人が呆然とするなどといったことがありました。
これはいかなることかというと、一言で言うと

「初戦の勝利による気の緩み」

に尽きたようです。
横須賀市稲岡町、現在の米海軍基地内の丘の中腹にあった水交社では
ミッドウェー攻撃に向かう海軍士官が集まって、連日談論風発、

「我ら行くところに敵なし」といった風に気勢をあげていたようですが、
それも後世を知る我々から見るとなんとも虚しさを感じずにはいられません。

まあもっとも、アメリカ側が日本の作戦行動を読んでいたのは
巷の噂から情報を得たわけではなく、電文が解読されていたためなので、
もしここで海軍の皆さんが真珠湾のときのように口を固くして、
”勝って兜の緒を締めよ”という東郷元帥の教えの通りに気を引き締め、
訓練を黙々と繰り返していたとしても、結果は同じだったということになります。

だからよく「ミッドウェーは初戦の勝利による驕りで負けた」
というようなこともききますが、それは微妙に当たらないと思います。


ミッドウェーに進出する件こそそういった雰囲気の中でいつの間にか
だだ漏れ状態になりましたが、「海軍甲事件」、山本五十六長官が
戦死したのは4月17日、公表された5月21日までの一ヶ月あまり、
それを国民が知ることは全くありませんでした。

この極秘期間、小松では横須賀鎮守府の面々が会食を行った後
その席で使った杯を一つ残らず持ち帰ったということがありました。

山本五十六の後任には横須賀鎮守府長官だった古賀峯一が選ばれ、
古賀大将はすぐさま山本の遺骨を引き取るためにトラックに飛んだのです。
後から思えば、小松から借りて行った杯は、古賀大将の送別会、
人目に触れずおそらく横須賀鎮守府庁舎でひっそりと行われた席で
無事を祈ってあげるのに使われたのでしょう。

古賀大将が山本五十六の遺骨を迎えに行った「武蔵」には、護衛として
戦艦「金剛」「榛名」、空母「隼鷹」「飛鷹」、重巡洋艦「利根」「筑摩」
らが付き添いました。
万が一、途上遺骨を乗せた「武蔵」が敵の攻撃を受けた時には
彼女ら護衛は我が身を呈してでも旗艦を守るつもりだったに違いありません。

「武蔵」にはそれまで山本大将の長官公室があり、そのデスクからは
関係者と家族に宛てた遺書と遺髪が発見されました。
遺骨は日本に戻る1ヶ月弱の航海中ずっとその長官公室に安置されており、
山本の後任となった古賀もそこで起居していたということになります。

その古賀は、このほぼ一年後、「甲事件」と対をなす「乙事件」において
パラオからダバオに向かう飛行機が行方不明になり殉職を遂げました。

料亭小松の創始者である女将の山本コマツは、くしくも山本長官戦死の
前日である昭和18年4月17日、96歳の長寿を全うして世を去りました。

彼女にとって何より幸せだったのは、彼女が山本五十六の戦死も、
日本の敗戦も知らないまま逝ったことであったでしょう。


ただ、あの世の入り口をくぐろうとしてそこでばったり五十六に出会い、
大いに
驚愕するということがあったかもしれませんが。


続く。





 


関東大震災における海軍の災害派遣と料亭小松

2016-05-25 | 海軍

歴史ウォークの「小松」見学は、玄関の中に数歩入るだけで終わり、
(なんといっても営業しているわけですから)
あとは建物の塀ごしに見える大宴会場のある棟を見ながら歩いて行きました。



この直後、この部分が全て焼け落ちてしまったのがまだ信じられません。
この建物の二階に160畳敷きの大広間があったのだそうです。
ここにいったことのあるガイドさんによると、「広すぎて向こうが見えない」
くらいの広大な宴会場だったとのこと。

ここは、大正12年、9月1日に起きた関東大震災のとき、
ちょうど新築中でした。


小松が隆盛を誇ったのは明治時代のことです。
日本海海戦の勝利により人々が祝賀ムードのうえ、毎日のように
横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が開かれたのです。

その勢いをかって、小松は100畳の大広間の建設が行われました。

しかし大正年間に入ってからの小松の営業は決してうまくいっていたとは言えません。
昔女将が「いつでも働きながら海と海軍の艦が見られるように」と、
をわざわざ田戸の海辺に建てた小松の目の前の海が埋め立てられてしまい、
白砂に青松の立地を奪われて客足が遠のいたところに、
世界大恐慌のあおりを受け、娼妓がストライキを起こしたりしました。

そして山本コマツは一端料亭小松を休業して置屋に仮寓していました。
 
しかし多くの海軍軍人たちの小松の閉店を惜しむ声に後押しされる形で、
彼女は当時景色が良かった現在の店舗がある米が浜に約400坪の土地を購入し、
大正12年(つまり震災の年の)春頃から料亭小松の再建工事を開始しました。

それがこの建物です。
大正12年当初は、ここ米が浜もまだ海岸沿いだったんですね。 

地震が起こったとき、コマツや彼女の孫の山本直江さんは置屋にいましたが、
ぐらっと揺れた瞬間全員がわーっと言って飛び出そうとしたのを、女将は

「出ちゃダメ!」

と大声で制して皆を止めました。
そのとき建物の外に出ていたら、倒れてきた前の家の下敷きになっていたそうです。
さすがはおばあちゃんの知恵袋、亀の甲より年の功。

頃合いを見て「いまだ!」と女将が号令をかけ、みんなで走り出て
海岸に逃げて20人ばかりは一人も怪我すらせずにすみました。



さて、先日起こった熊本大地震では、自衛隊の動きが大変早かったので
国民はむしろ驚いたくらいでした。

4月14日21時46分 震災発生 


    
21時26分 最初の災害派遣要請 
    熊本県知事→陸上自衛隊第8師団長 大分県知事→西部方面特科隊長(16日)

    防衛省、初動対処部隊「ファストフォース」を派遣
    陸海空が情報収取のため「F2」2機、「P3C」1機、「UH-1」1機を派遣


4月16日2時45分 陸海空統合任務部隊を編成するための自衛隊行動命令が発令
   2時間後陸災部隊(13,000名)、海災部隊(1,000名)、空災部隊(1,000名)
   いずれも活動開始


4月17日  
   陸自 全国にある方面隊が部隊を投入
      中央即応集団 第1ヘリコプター団 航空学校

   海自 護衛艦「ひゅうが」「いずも」「やまぎり」「あたご」「きりさめ」など
      救難飛行隊を有する航空部隊投入

   空自 航空隊や救難隊などを投入
  
   即応予備自衛官招集 最大300人程度 招集は東日本大震災以来2回目


これだけ初動が早かったのも、阪神大震災の教訓の賜物だと言えましょう。

 

それでは関東大震災のとき、海軍はどのように動いたのでしょうか。


当時の横須賀鎮守府長官野間口兼雄中将は、地震発生後ただちに部署を発動し、
艦船部隊をあげて鎮守府構内に起こった火災を消火し、
派遣防火隊と警備隊を海軍内で編成して市の活動に協力させました。



第9代の温厚厚顔なおじいちゃま風が野間口中将です。


横須賀鎮守府はすぐさま艦艇を品川と横山に派遣し、現地の治安維持にあたらせ、
艦艇で東京方面との連絡、救護物資の輸送を行っています。
関東大震災のとき、艦船の被害はほとんどありませんでした。

そして佐世保鎮守府長官に打電で食料と医療品の収集を依頼し、
たまたま帰ってきた特務艦(水上機母艦)「神威」(かもい)には、
伊勢湾方面での食糧収集を命じました。

神威

横須賀鎮守府の動きは全てすぐさま海軍省から下された命令に基づいており、
海軍省がいかに初動を起こすのが早かったかということになります。

海軍省は同時に連合艦隊と火各鎮守府に物資と人員の輸送を命じていますが、
当時の通信で命令が全て到達したのは9月2日のことでした。
全海軍に向けて最初に非常事態を発信したのは送信局指揮官だった一大尉で、

彼はこれを独断で9月1日の午後3時に行っています。

独断といえば、呉鎮守府長官だった鈴木貫太郎も艦艇の派遣を
上からの裁可を仰がずに行いました。

地震発生当時、連合艦隊は裏長山列島(遼東半島沖)で訓練中でしたが、
すぐさま東京湾に向かい、一部艦艇には食糧と救急品が搭載されました。
そしてまず巡洋艦や駆逐艦など、軽量の艦船が品川沖に到着。
「長門」「伊勢」「日向」「陸奥」は一旦九州に向かい、

「長門」に物資を積み替えて東京湾に向かわせます。

そして9月5日、「長門」は品川沖に到着。

このとき、「長門」は震災の救援を申し出た英海軍の巡洋艦に監視追随されていましたが、
公表されている船速23ノットよりも速い全速力で東京に向かっています。

連合艦隊は海軍省内に指揮所を置き、そこから指揮をして、被災地に物資を運んだり、
避難民を輸送するといったように全軍あげての救難活動を行いました。
このとき連合艦隊司令長官だったのが竹下勇中将で、旗艦の「長門」に座乗していました。

竹下勇中将・駐米武官時代

竹下中将はナイト(勲功爵)位を持っていたので、タイトルは「Sir」です。
このとき、英海軍巡洋艦は竹下中将に敬意を表して礼砲を撃っています。
ちなみに原宿の「竹下通り」はこの人の家があったことからついた地名です。


このとき東京湾には続いて「金剛」が、そして呉から「陸奥」が到着し、

海軍の総力を挙げて救援に当たりました。


さて、熊本地震での発生は4月14日9時26分。
その5分後の9時31分には、政府は首相官邸の危機管理センターに
官邸対策室を設置、さらにその5分後には首相が談話を出しています。

現代の大災害発生直後の政府が行うことが対策室の設置であれば、当時は
その災害の規模にもよりますが、戒厳令の布告が行われました。

戒厳令というとクーデターのときに布かれるものというイメージがありますが、

「戦時もしくは事変に際し、兵備をもって全国もしくは地方を警戒する法」

と明治憲法下で定義されるものです。

兵力を用いて警戒を行う必要がある場合を戒厳とするものですが、重要なのは
戒厳の際、

「平時には法律の規定で保護されているものを一時停止して、包括的な
執行の権限を軍司令官に与えることである」

と定義していることです。
つまり、兵力で警戒、鎮圧を行わなければいけない関係で、その間
軍司令官に指揮権が与えられる、ということなんですね。

震災が発生して政府がすぐさま戒厳令を布告したので、関東大震災のときには
軍がどこにも伺うことなく迅速に行動を起こしたということがありました。
もっとも、「戒厳令」という緊迫した響きに当時の国民が不安を感じ、

朝鮮人の暴動の噂に必要以上の猜疑心を煽られたというマイナス面も否定できません。



戦後の日本では、災害の際にも憲法に縛られて、危急を要するのに自衛隊は動けない、
という問題があったにもかかわらず、それが戦後未曾有の災害となった
阪神大震災が起こるまで、表面化することがなかったという不幸がありました。


今回のように、知事からの自衛隊出動要請が災害発生から1分以内に
(派遣要請9時26分であるのに注意)行われるならともかく、それができずに
阪神大震災のときには救うことのできる命が救えなかったといわれています。

たとえば、兵庫と隣接した京都府にある福知山の陸自駐屯地の連隊長は、
全く知事からの要請がこないので、とりあえず部下を連れて駐屯地を出て、
京都府と兵庫県の県境で命令が出るのを待ち続けていたそうですし、
当時の村山総理大臣がテレビを見ながら呆然と「どうしたらいいのか」
とつぶやいたとか、自衛隊をわざと派遣させなかったとかいわれますが、

とりあえず当時の関係者は、

「要請をためらったなんてありえない。自衛隊に連絡が取れなかっただけだ」

「渋滞で主力部隊が被災地に入ってこられなかった」

などと言っており、貝原兵庫県知事(当時)に至っては

「要請が遅れたというのは自衛隊の言い訳だ」


とまで断言しています。
今となっては真相は藪の中でこの言い分を証明しようがありませんが、
少なくとも福知山の連隊などの例は実際に多数あったのです。



その後、法律が改正され災害が起きた時には自衛隊の独自の判断で動ける、

と仕組みが変えられ、東日本大震災にはその成果を挙げることができています。


その点、戦前の日本は、大災害の時に戒厳令を敷くことで動く権限を軍が持つことになり、

軍隊の出動を必要とする事態に対応するという仕組みだったので、ようやく
災害派遣に関してのみ、このころの即応性を取り戻したと言えるかもしれません。




関東大震災による横須賀の被害について少し述べておきましょう。

全所帯17,010世帯のうちほぼ74パーセントに当たる12,488世帯が被害を受け、
2094世帯が焼失しました。

死者は市内だけで683人。
被害で多かったのは崩れ落ちた岩石で生き埋めとなったケースでした。
なかでも、修学旅行で横須賀軍港を見学に来ていて山崩れに遭い、
全員が生き埋めになった静岡の女学校もあったということです。

海軍工廠の被害は、あまり公にはなっていませんが甚大でした。
まず、ドックに入っていた潜水艦が揺れで横倒しになり、
どちらも全損していますし、工廠の各工場では煉瓦の建物の倒壊が起こり、
その結果即死107名、重軽傷者290名という被害が出ました。

このとき「天城」型1番艦の「天城」も全損してしまったため、代艦として

「加賀」型戦艦1番艦「加賀」の空母改造が決定されることになっています。

損害額でいうと、横須賀市の被害が約20万円だったのに対し、
海軍関係だけの被害では約7000万円という巨額に上ったということです。


なお、関東大震災のときの流言飛語によってパニックに陥った人々が
自警団を結成して朝鮮人を殺害したという事件が起こりました。
間違えてろうあ者や方言を持つ日本人まで殺されたという惨事でしたが、
特筆すべきはこのとき、海軍が多くの朝鮮人を民衆から保護した事実です。

野間口長官の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は、

「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」

といった類のデマを受け入れず、海軍陸戦隊が実弾の使用を要請してきたり
在郷軍人が武器放出を要求してきたのに対しても断固として許可を出しませんでした。

それだけでなく、このとき横須賀鎮守府は、戒厳司令部の命により避難所として
朝鮮人をここに集めてかくまっているのです。
(この件に対して、現在「虐殺」を主張する韓国人団体や日本の団体が決して
当時の軍について触れないのは、このことを明らかにしたくないためだと思われます。)

 

さて、料亭小松ですが、営業していなかった田戸の旧小松の建物が無事だったので、
女将はそこに戻って生活をし、例の160畳の大広間は被災者に
開放して避難所として被災者を泊めたということです。
160畳ですから、おそらく近隣の人々はほとんどここで過ごしたのではないでしょうか。

この写真に残る建築中のこの米が浜の新館の方は、幸いなんの被害もなく、
工事は継続され、震災の2ヶ月後の11月には落成して、
小松はその秋から営業を再開することができたということです。



なお、海軍の一連の活動に対して市民は感激し、翌年の2月、

奥宮横須賀市長は横須賀鎮守府の野間口長官にあてて、

「吾人横須賀市民の全てが前横須賀鎮守府司令長官野間口大将閣下に
負うところの鴻恩に至りては、けだし最も広汎に、最も深刻に
個々感銘して、ながえに忘るる能わざるところなりとす」

という感謝状を送っています。


続く。



 


平成28年度自衛隊遠洋練習艦隊出港

2016-05-23 | 自衛隊

練習艦隊とは、帝国海軍の昔から初任幹部の訓練のために、
江田島卒業後約半年の遠洋航海にでる艦隊を称します。

この練習艦隊を英語で言うとTraining Squadron、つまり「練習戦隊」
ということになるのですが、日本では昔からこれを「艦隊」と訳します。

海軍の昔から同じく、江田島の幹部候補生学校の過程を終了し
帽振れで送られた初級幹部たちは、まず近海練習航海によって
大阪、佐世保、鳥羽沖(伊勢神宮がある)、大湊、舞鶴と
旧鎮守府のあった基地に投錨しながら、各地での寄港・歓迎行事と訓練を
重ねて遠洋航海に必要な基礎と礼式、マナーなど、幹部として必要な
素養の数々とシーマンシップを身につけていきます。

水交会で行われる壮行会は、それらがすべてすんで、遠洋航海への
出港地である晴海や横須賀において行われる最後の激励行事の一つです。
初級幹部たちは、まず水交会の敷地内にある東郷神社に拝礼を行い、
遠洋航海の無事と目標の達成をを祈念するのです。



壮行会には水交会の会員と自衛隊の司令官等高級幹部が出席します。
水交会の主催ですので、会員は会費を払って参加する形です。

車を敷地内に停めて時間ちょうどに会場入りしますと、
会場はこんな状態。
ガラガラのように見えますが、ここに実習幹部たちが入ってくると
立錐の余地もなくなるのです。

開始時間になりましたが、実習幹部は東郷神社の参拝を行っている
ということで、少し待つようにというアナウンスがありました。



暇なので廊下のポスターを見たりして時間を潰します(笑)

「水交会は海上自衛隊の支援が第一です」

そうだったのか・・・・って当然そうですよね。
水交会は明治年間に海軍省の外郭団体としてできた「水交社」が
戦後名前を変えたもので、当時は旧陸海軍の残務整理を管轄していた
厚生省所管による財団法人「水交会」として設立されました。

ここ原宿の東郷神社境内の水交会館に本部が移ったのは1969(昭和44年)です。



 「我軍占領栄城湾上陸之図」

明治28年(1895年)1月20日、前年の11月に旅順を占領していた日本軍は、
清国艦隊(北洋艦隊)の拠点である威海衛の攻撃を行うために
海路山東半島に進み、栄城湾からの上陸を行いました。

軍艦からボートに乗り換えて上陸を行う日本軍兵士たちの様子が描かれており、
右下の岩礁と波間には中国兵のものらしい屍体が見えます。
当時何枚か発行された錦絵の一つです。
これが現物なのか複製なのかはわかりません。



程なく練習艦隊司令官岩崎秀俊(防大31期)海将補を先頭に、
実習幹部が入場してきました。
入場音楽は「海をゆく」、退場は「軍艦」と決まっているようです。



まだ全員の入場が終わっていない段階で、
肩章の金線も真新しい新少尉たちがイモ洗いです。



水交会会長のあいさつ、練習艦隊司令官の決意表明が行われております。



場内の来賓及び自衛隊幹部の紹介。
武居海幕長は名前が呼ばれて皆が振り向き拍手をすると、
「あ、もういいです前見てください」というように手を振られました。
 


そして乾杯。
用意されていた飲み物のための氷はなんと南極の氷!
これでオンザロックなど飲んだらさぞ美味しいのであろう、
と全く飲めないわたしはウーロン茶を飲んでひとり頷くのでした。



そして歓談・会食の時間・・・・・・・
となったとたん、テーブルを囲んでいた新少尉たちが食べ物に殺到。
当分テーブルに近づくことはできないとあきらめ・・・、



例の海軍カレー本舗、調味商事が開発した「水交会オリジナルカレー」。
単に海軍カレーをここではそう称しているだけなのではないか?
といううっすらとした疑惑も感じないでもありませんが、
それはともかく、せめてこれだけでも食べて帰ることにしました。


 
結局このカレー一皿とウーロン茶2杯が、わたしがここで口にしたものの全てでした。
念のため帰る前に見てみたら、全ての食べ物が綺麗になくなっていました。
青少年の食欲恐るべし。 

余談ですが、わたしがここで実習幹部の行く末を励ます会に参加していたとき、
後から思えば横須賀の料亭「小松」はまさに火事によってその姿を永遠に
この世から消そうとしていたのでした。



そしてその週末の朝、わたしは横須賀駅にいました。
今回の練習艦隊出港には正式なご招待をいただいていたわけではないので、
水交会の壮行会だけ参加して彼らをお見送りする予定だったのですが、
急遽横須賀基地での出港行事(自主)参加のお誘いが入ったのです。



例年晴海埠頭で行われる練習艦隊の出港ですが、今年は横須賀地方総監の
速水岸壁からの出港です。
この変更にも色々と理由があるようですが、昔は横須賀出港が基本だったそうです。

おなじみ「かしま」以外に練習艦隊を組むのは
TV-3518 せとゆき・DD-151 あさぎり。
「かしま」のうしろにひっそりと繋留されているのは「せとゆき」です。 


わたしたちが到着した時には「かしま」には実習幹部たちの家族の姿が見えました。
出港前に実習幹部が家族や恋人に艦内ツァーを行うのも恒例です。

なかには地方から来て荷物を預けることができなかったのか、「かしま」甲板を
大きなキャリーバッグを引っぱりながら歩いているお父さんがいました。
あれでは艦橋に上がることはできなかったと思われます。

かしまの前では式典が行われるので人がいっぱいでしたが、
「あさぎり」の前には乗員の家族だけなのでこの通り。

艦尾の自衛艦旗が綺麗になびいていますが、この日は風が強く、
曇りがちで肌寒い天気となりました。
一緒にいた人たちが半袖なので寒くないですか、と聞いたところ、
やっぱり寒かったそうです。



最初、「かしま」艦尾側から見ていたのですが、防衛副大臣のヘリが着陸するため、
その辺りの人々は艦首がわに「運動一旒」で案内されていきました。

このあたりは家族章をつけた人たちがいましたが、その一団の中に
海自の白とは違うクリームの制服を着た人を発見。



同行者と「海保かな」「海保でしょうね」とひそひそ言っていたのですが、
そのとき近くに来られたのでわたしが直接「海保の方ですか」と
声をかけてみました。

式典に海保から海将クラスに相当する一等海上保安監が賓客として出席しており、
その随伴で来られてカメラ係もしているのだそうです。
この海保職員の階級は三等海佐に相当する三等海上保安正ということでした。



そして式典が始まり、防衛副大臣の挨拶、海幕長の激励の辞、
練習艦隊司令の決意表明などがいろいろ行われたのですが、
なぜか(なぜかじゃないんだけど)いきなりこのシーンに。

自衛隊幹部の向こうには陸空の幹部、そして在日外国武官。
一番先に出向していく「あさぎり」はもう岸壁を離れています。

なぜか。

実は、二台のカメラの一つに入れていたSDカードが読み込めないのに
それに気づかずずっと撮っていたのでしたorz
なぜそのカードが読み込めなかったかは謎。(ロックではありません)


望遠レンズで実習幹部の行進の様子や舷側に並ぶ一人ひとりの表情、
ことにわたしたちの近くにいたおばあちゃまが、嬉しくてたまらない様子で、

「あの、一番端に立ってるのが孫なんですよ!」

と指差した青年のアップもしっかりカメラに収めたはずだったのに・・・。

ちなみにこのおばあちゃまは、「かしま」が岸壁を離れていくと、
孫をできるだけ近くで見るために、慌てて移動していかれました。

今あの女性の様子を思い出しただけで、わたしは心が温かくなると同時に
泣きたくなるような切ない気持ちがこみ上げてきます。



赤絨毯にはちゃんとそこに立つ人のポジションのシールが貼られています。
わたしたちの前は幹部学校長とSBF司令官でした。



そのとき「あさぎり」に「帽ふれ」がかかりました。
やはり陸空外国武官は皆がやっているのを見てから振るので
海自のひとたちよりワンテンポ遅いですね。



手前三人の制服の白が微妙に違うのがわかりますね。
海自の制服は基本特別誂えしてもかまわないので、仕立てによって
生地もずいぶん違ってくるということを以前書いたことがあります。

ただ、さきほどの海保の制服について同行者と話題になったときに
聞いた話ですが、こういう儀式のときには、今写っているクラスはともかく、
その他の隊員たちは官品を着るようにと最近ではお達しがでているとかなんとか。
特に夏服の白の違いは大きいので、見た目を統一するためなんだと思います。



自衛艦の出港を何度となく見ていると、出港作業までは長いですが、
一度出港ラッパが鳴った後岸壁を離れるのはあっという間です。



陸空の自衛官たちは海の行事に呼ばれたとき、色々と段取りが違うので
慣れないと結構ドギマギするものらしいということを、陸自の方から聞きました。

前列にいて、後ろを見たら皆敬礼していたのであわてて自分もした、
というトホホな話も結構あるようです。



そして、「かしま」が岸壁を離れていきます。



せめてものアップ。
あのおばあちゃまの自慢の孫はこの一番左です。
って全く顔がわかりませんが。



練習艦隊は今年「世界一周」の年です。
北米・欧州・インド洋・東南アジアと、6ヶ月弱で寄港します。
いやでも潮気がつきそうですし、これだけを回れば、人生観も変わりそうです。




参加人数は約700名。
実習幹部の中には海外からもタイ王国留学生、東ティモール共和国留学生が
それぞれ1名ずつ乗り組んでいます。

留学生は毎年1〜2人必ず乗り組むようです。




かしまに乗り込む実習幹部の表情をカメラに残すことができなかったのは残念ですが、
こうやって出港していく艦の姿とその礼式を見ることができたのは幸いでした。
お誘いを受けなかったらおそらく見ることのなかった
これらの光景に立ち会えただけで満足です。



行事が終わり、防衛副大臣の若宮 健嗣氏が退場。



さて、このあとわたしは誘われて艦艇見学を行い、12時に横須賀を立ちました。
実はこの日、午後から地球防衛協会の総会がありまして、防衛部長という
たいそうな肩書きを持つわたしは出席しないわけにはいかなかったのです。
桟橋から基地の外に出るまでにたっぷり時間がかかってしまいましたが、
渋滞していなかったので、湾岸線を飛ばして1時間で市ヶ谷に到着しました。

朝は横須賀、そのあと市ヶ谷で会議って、こいついったい何者?



面白くない会計監査報告が一通り済んだあと、100歳の名誉会長という方が
挨拶をされ、英霊の遺骨収集がやっと法案化されたことについて、自民党の宇土議員を
「何も知らないところから勉強してここまでよくやってくれた」
と褒めておられました。
そして、「来年はもうここにいられるかどうかはわからないので遺言だと思って」

「草生す屍、水漬く屍となって散っていった人々のご遺骨をなんとかして
日本に帰してあげてください」

と最後におっしゃいました。
2年前の練習艦隊は、南方からの遺骨帰還事業に参加し、
ご遺骨を「かしま」に乗せて日本に連れて帰るということが行われました。
ちょうどそのとき、宇土議員や佐藤議員が取り組んでいた法案が
ようやく今年になって法制化されたということになります。

「これで安心してはいけない」

とこの方もおっしゃっていましたが、まだ緒に就いたばかりの
この事業を、なんとか未来に繋げていかなければなりません。




総会のあとの来賓にはいつものように政治家の面々が顔を出しました。
後ろで顔を掻いているのは佐藤議員ですがこの人も佐藤議員。



ヒゲの隊長の方の佐藤議員は挨拶のあとすぐに退去されました。
とにかくお忙しいようです。

この総会には顔見知りの元将官の方がおられまして、
水交会壮行会に続きご挨拶させていただいたのですが、
朝練習艦隊を見送ってきたと申し上げると、

「わたしは今回は行けなかったのでどうもありがとうございました」

とお礼を言われてしまいました。

「で、今日はどの肩書きで参加されたんですか」

「えー、今日は(艦艇見学に誘われた)ひとりのファンとして・・・」

それは肩書きではない(笑)




 


酒飲み提督は誰だ〜料亭「小松」の物語

2016-05-22 | 海軍

横須賀の米が浜にある「小松」。
パインと呼ばれて海軍軍人のオアシスになっていたレス(料亭)です。 

現在の海上自衛隊の艦艇では夕食が午後4時半となっています。
4時半に夕食なんか食べたら夜お腹が空くんじゃないかと思うのですが、
そこは「夜食」というもので補うのでご心配なく。
冬に見学した掃海母艦でも、食堂にはおにぎりが置いてあり、
これを小腹の空いた人はつまむというのが慣例のようです。

で、この4時半夕食の慣習ですが、旧海軍時代からのものなんですね。
海軍時代は4時45分だったそうですが、なぜか現在は切り上げです。
理由はわかりません。

昔は夕食の後上陸が許されていたのでこの時間だったそうです。
半舷上陸 (乗員の半数を当直に残し、半数を上陸させること)とか
入湯上陸(文字通りお風呂に入るのが目的。一日置きに許される上陸)
で下士官兵は上陸が許されています。

士官はというと自由ですが、そうなると当時のことですから
レスの灯が無性に恋しくなって「運動一旒!」と声をかけてしまう。
そうすると、同じように思っていた者がぞろぞろ背広に着替えて集まってくるのです。

前にも一度書きましたが、海軍軍人は外で飲むとき背広に着替えることが多く、
軍服で飲みに行くことをあまりイケてると思わなかったようです。
隆とした背広を誂え、帽子をかぶって上陸することも海軍の「粋」であり、
オンとオフを切り替えるための大事なスイッチでもありました。

その点、陸軍は酒席にも長刀を「がっちゃんがっちゃんいわせながら」
やってくるので、海軍はそれを「野暮」だと見ていました。
陸軍は陸軍で、海軍がわざわざ着替えるのを

「ケシからん、軍服を着ないでちょろちょろと隠れて悪いところに行く」

と非難していたそうです。
まあ、何かにつけて反目し合っていたんですね。

着替えるといっても、毎日のことになると簡単に、上着だけを
たとえば夏の第2種軍装であれば白いズボンの上に上をグレーとか
紺ブレ?とかにして出かけるのです。
ところで夏はいいけど冬は上にどんな背広を合わせたのか、気になります。
ネイビーのズボンに合う別色の背広って難しそう・・。

陸軍と海軍の違いというのはいろいろありますが、上官と部下の距離感というのも
やはり海は狭い艦内で行動を共にするということからか、大変近いのが海軍、
きちんとしすぎるくらい間をおくのが陸軍、となっています。

東郷元帥に甲板掃除をする水兵が「どいてください」と直接言ったので
それを見ていた陸軍の偉い人が卒倒するくらい驚いたという話がありますが、
海軍ではたとえば飲むときも、副官は同じ部屋で同席。
もちろん上座と下座の違いは厳格だったと思いますが。

これも、海軍副官が陸軍副官(東条閣下の副官)に

「あんたら長官と一緒でよく飯がのどを通りますな」

と感心されたというか呆れられたという話があります。
現代の自衛隊でももちろん偉い人と部下が一緒にご飯を食べますが、
その階級の開きによっては

「カレーがのどを通らない」

というくらい緊張するものらしいですから、戦前の海軍は軍隊として
少し規格が外れていた(といっても陸軍と違うというだけですが)
というしかありません。

ところが海軍軍人はこのことを「それもまた勉強」としており、
若い軍人に上のものの振る舞いを見、話を聞いて何かを得る場として
あえてそれを公開していた節があります。

海軍将官でも、お酒が好きな人、そうでもない人がいるわけですが、
及川古志郎などはあまり好きでなかったといいます。

及川古志郎

吉田善吾大将(海軍大臣も務めた)はお酒好き。

吉田善吾

嶋田繁太郎もいける口。

嶋田繁太郎

米内光政は超酒好き。



おっとこちらでした。

米内光政

酒好きというより「酒豪」でならしたというくらいだったそうです。
wikiでは「酒が米内か、米内が酒か」というタイトルで、米内の酒豪ぶりを
それだけで一つの項にまとめてあるくらいです。

「小松」ではお酒を注ぐと杯をおかずにグイと飲み、
さらに酌ぐとまた一気に開けるので、杯はいつもカラ。

酒の席でもあまり喋ることのない無口な方で、黙ってこの調子で
グイグイとやるのが米内長官の酒でした。

あまりの強さに、ある日若女将(山本直江夫人)が芸者衆に

「誰か米内さんを酔いつぶさせたらご褒美をあげるわ」

と言いだしました。
酒に強く、これまで一度も酔いつぶれたことのない芸妓が、
その難題に挑戦し、さしつさされつが始まったのですが、
若女将が様子を見に行くと、なんと米内長官の膝枕で
酔いつぶれて寝ている彼女の姿が。

「しようがないわね。
わたしが米内さんを酔わせるといっていたのに醜態演じちゃって」

若女将がこぼすのに、米内、

「いいよ、いいよ、そのままにしておけ」

にこりと笑って言ったのだそうです。

「連合艦隊司令長官山本五十六以下略」という映画で、米内光政を演じた
柄本明は、気味が悪いほど軟弱に描かれており、女好きを強調していましたが、
実際の米内はとにかく芸者衆にMMK(もててもてて困る)で、
芸者のストーカーなどもいたという話です。

ただ、このころの海軍士官というのは「遊ぶときにはブラックときれいに」
遊び、それを酒の席以外に引きずらなかったので、映画の柄本演じる米内のように
任務中にもそれを匂わすような醜態は見せなかったはずです。

ちなみに米内がもてたという件については、わたしはこの写真を見て納得しました。




東條英機が陸軍大臣だったときの海軍大臣は嶋田繁太郎。
東条の副官というのは当時飛ぶ鳥を落とす勢いの権勢を振るったものですが、
それでも宴会のときには副官は同席などあり得ません。
陸軍側が主催する合同宴会では、副官は隣の部屋でお酒を飲みます。
しかし、海軍の嶋田が主催の宴会だと、副官は同席しなくてはいけません。

そこで陸軍副官の「あんたらよく飯がのどを通りますな」となるのですが、
海軍の副官だって好きで同席するんじゃありません。
現代の海自でも「カレーがのどに通らない」くらいですから、
この時代の副官だってお酒くらい別室で気楽に飲みたいに決まっています。

このことを当時の豊田貞二郎の副官が長官に向かって

「こんなことはうち(海軍)だけですがね」

といったのだそうです。
こういうことを長官に直々にいうこと自体陸軍には信じられないことでしょう。
ともかく、それに対する豊田の答えは

「これもお前たちの教育だ」

だったそうです。

豊田貞二郎

そして、

「つまらなくて肩がこるかもしれんが、ここにいて、
上のアドミラルたちがどんな話をしているか聞くのが君たちの勉強だから
絶対に逃げてはいかん」

と諭したのだそうです。 
そんなことを言われたらもう二度と文句は言えませんね(笑)

そのうち若い参謀や副官も慣れてきて、窮屈だとは感じなくなってくるので、
偉い人たち(艦隊の長官たちとか)の会議の後の宴会でも、末席で
適当にやっていると、若い芸者さんたちは年寄りよりも若い方がいいので
末席に集まってくるわけです。

一般に、繁くレス通いをするのはなりたての少尉と中尉までで、
だいたいは中尉の三年目くらいで所帯を持ち大尉は勉強があって足が遠くなり、
中佐、大佐になると単身赴任が多くなるのでまたやってくるのですが、

 ♪大佐中佐少佐は老いぼれで〜

という唄にもあるように、芸者さん方にからはもうすでにジジイ扱いなので、モテません。
「小松」などでは、たとえインチ(馴染み)や好きな士官が来る日でも、
上の人を立てて接待しないといけない、と言い聞かされていたようですが、
芸者さんも所詮若い女性、どうしても自分たちと近い世代と話す方が
気が合うし楽しいに決まっています。

で、艦隊司令長官が居並ぶ宴席でも末席に芸者さんが集中するわけですが、
偉い人たちもそこのところはかつて来た道なので鷹揚に

「おーい秘書官、ひとりふたりこっちに回さんか」

と冗談交じりに言って決して場はわるくならないのです。
いかにも海軍らしいリベラルな空気を表していますね。



陸軍と海軍の違いというのは、大臣の伊勢神宮参拝にも表れました。
陸軍大臣の参拝には列車も特別車両を用意して移動します。
秘書官の他には部長クラス、局長クラス、課長クラスが3人、
それにお付きのものが加わって総勢15〜6人になってしまうのです。

対して海軍大臣の伊勢参拝は秘書官と二人っきり。
そんなぞろぞろ行ってもしょうがないとか、特別車両なんて勿体ないとか、
海軍には海軍なりの合理的な理由があってそうなったのでしょう。

ただし、こうなるとたった一人で随行する秘書官が大変なんだな。

当時は東京から伊勢神宮まで行くのに一昼夜かかりましたから、
東京駅から出発する寝台車でいくわけです。
その道中、地元の管轄警察署から護衛の警官が乗り込んでくるわけです。

いまならシークレットサービス、SP(PはポリスのP)がずっとついていますが、
当時はそういうシステムではなかったんですね。
これはいまでもそうですが、警察は管轄下のことしかやりませんので、
たとえば神奈川を通過している時には神奈川県警から警備が乗り込みます。
で、各県の県境ごとに、護衛が交代するわけです。

交代した警官はその旨随伴員にそのことを報告しないといけないので、
県境に来るたびに交代が来て降りる警官に寝台車で寝ているのを起こされます。

「護衛変わります!」

と敬礼するのに、1円札のチップを何枚か用意しておいて

「ご苦労様でした、まあいっぱい飲んでください」

と渡すのが眠くてとても辛かった、という秘書官の告白があります。
それにしても、当時の警官はチップを受け取ったんですね。
今なら収賄とかに抵触して大変なことになりそう。

 

ちなみに本項で「秘書官」として各大臣の思い出を語っているのは
福地 誠夫(ふくち のぶお、1904年(明治37年)- 2007年(平成19年)) 
元海軍大佐、そして元横須賀地方総監。

文中にもあるように、戦中は海軍大臣秘書官として歴代の海軍大臣に仕え、
戦後は海上自衛隊退官後、記念艦「三笠」の艦長を務めていました。


子息の福地健夫氏は父親と同じ横須賀地方総監を経て海幕長に。
2007年に103歳という長寿で老衰のため亡くなる前に、
息子が海上自衛隊のトップになったのを見届けたことになります。




参考文献*「錨とパイン〜日本海軍側面史〜」外山三郎著 静山社

 


加藤寛治と飛行機献納運動〜料亭小松の物語

2016-05-21 | 海軍


さて、日露戦争の立役者ともいえる何人かの海軍軍人と、横須賀にある
料亭小松のかかわりについてお話ししましたが、あの加藤寛治
当然小松の常連で、女将を「おっかさん」と呼んで親しく付き合っていました。

日露戦争のことを少し知っている人でこの名前を聞いたことがない、
という人はまずいますまい。
加藤寛治は日露戦争で戦功を立てただけでなく、大正から昭和の
日本海軍における「キーパーソン」ともいえる重要な働きをした軍人です。

小松の女将の養女は加藤と兵学校24期の士官と結婚したのですが、
その結婚に際し同級生の加藤は何かと骨を折ってやったという縁もありました。



先日見学した旧横須賀鎮守府の歴代長官の写真の中に
中将時代の加藤寛治の名前があります。(大正13〜15年)

当時の小松は長官官舎と同じ田戸台にあり、歩いて帰ることができました。
加藤中将は朝帰りを子供(家族で住んでたんですね)に見られてはいけないと、
一旦副官と一緒に副官宅に寄り、そこで時間を潰してから帰宅していたそうです。

副官に子供がいてそこで朝帰りを見られる心配はなかったのかとか、
副官の(独身でなければですが)奥さんは迷惑ではなかったのかとか、
いろいろ考えてしまいますが、 当時は副官の官舎が近所にあり、
お互いの官舎は抜け道で行き来できたのでした。

横須賀鎮守府長官当時の加藤中将は、あの長官庁舎に四斗樽のお酒を置いて
若い士官を庁舎に招いては皆で飲むというような面もあったようです。

ウィキペディアには、日露戦争時代「三笠」の砲術長であった頃の加藤について

各砲塔単独による射撃を、檣楼上の弾着観測員からの報告に基いて
砲術長が統制する方式に改め、遠距離砲戦における命中率向上に貢献した

としか書かれていませんが、小松の女将は「三笠」の信号兵曹だった
特進少佐から

「三笠」戦闘中、後部の大砲一門が敵の砲弾によって吹き飛ばされた。
その報告を受けても砲術長であった加藤は平然としながら撃ち方待てを命じ、
悠々とその中で照尺(敵艦までの距離)を測り直して「撃て」の号令を出し、
このことが東郷長官をいたく感心させた。

という逸話を聞き及んでいます。
戦後、記念艦となっていた「三笠」は連合軍の遊興施設にされ、
「キャバレー・トーゴー」「バー・カトウ」があったという噂が流れました。
どちらも風評に過ぎなかったのですが、ここで注目すべきは、連合軍的には
東郷と並んで「カトウ」にそれだけのネームバリューがあったということです。

今では想像つきませんが、加藤寛治は戦前の日本では

「第二の東郷」と呼ばれていたくらいだったのです。

加藤寛治の戦後評は猪突猛進型の猛将というふうに落ち着いているようですが、
実際彼は兵学校主席卒の秀才で、博識・理論的でありながら実戦においても
肝の据わった勇猛果敢な指揮を行い、かつ外国勤務が多く、英仏米など
諸外国からの勲章も受けたこともあるというスーパー軍人でありました。

ロンドン軍縮条約をめぐっては条約派と対立する立場だったことで
おそらく戦後、彼の評価はそれほど高くないのではないか、
とわたしは実は勝手に考えているのですが、このときの賛成派を善、
反対派を悪とする後世の歴史観にはいささか異論を唱えるものです。


ご存知のようにワシントンで1921年(大正10)に行われた軍縮会議で
日本は自国防衛のために対英米7割を主張しましたが、この意見は
全権首席随員であった加藤大将の主張そのものでした。
結果、それは受け入れられず5:5:3となったわけですが、
加藤大将は事後にこのような文を発表しています。

「会議に臨むにあたって我が国の軍備に対する研究と準備は
決してずさんなものではなかったが、國民の十分な理解がなく
従って世論の後援が足りなかったのは残念だった」 

これをタイプしながら、現在の安保法にも同じことが言えるとふと思いました。

現在「国民の十分な理解がない」のは、まともに審議に応じず、

対案を出さず、「戦争法案」などというレッテルを貼って、
国民をポピュリズムで煽ろうとする一部野党と、反政府の点からしか報道をせず
まるで政治結社のようになってしまった各マスコミが足を引っ張って、
日本を取り巻く現状を含めて理解させまいとしている面があるせいなので、
このころの「理解がない」
とは全く性質を異にするものではありますが。


ワシントン会議の9年後、ロンドンで再び軍縮会議が行われました。

このとき総理大臣だった濱口雄幸(おさち)は日露戦争後の財政再建を謳っていたため、
軍縮にはたいへん積極的でした。

この会議で全権団は、海軍軍令部の「対英米7割」というラインを携えていきながら、

対6割に抑えられるという結果となりました。

この会議にまつわる統帥権干犯問題という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。


統帥権とは明治憲法における天皇の指揮権のことを言いますが、
特に規定がなければ国務大臣が輔弼することとなっていました。
それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)
については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)
が補翼することになっていたのです。

条約は国の責任者によって批准されるものであり、その批准権は天皇にありましたが、
ときの濱口内閣は議会で多数決によりこれを承認し、天皇に上奏して裁可を仰ぎ
批准するという「裏技」にでたのです。

このとき濱口首相が軍令部の、簡単に言うと「口を封じるため」、
対米6割で条約を飲ませるために統帥権を「干犯した」というのが
このときの海軍の言い分でした。


後世の歴史は、このことを「加藤寛治など強硬派が軍拡を主張」
「明治憲法のこの欠陥が、日本を軍国主義化を助長した」などと記し、
あたかもこのころの艦隊派が軍国主義であり、反対派が平和主義であったかのように
わかりやすく善と悪で片付ける傾向にあります。

加藤寛治大将がこのときに東郷元帥を担いで(実際は親密だったので相談したくらい)
これを井上大将が「東郷元帥は平和なときに口を出すとろくなことにならない」
などと非難したため、これをもって東郷元帥は晩節を汚したという者すらありました。

とんでもない!

とわたしは改めてここで声を大にしていっておきたいと思います。
この一連の出来事を先入観を交えずに眺めてみると、そこには戦後の
「軍国主義は悪」「軍拡は悪」という価値観が深く影響を及ぼしているのに気づきます。


加藤大将が憂えていたの単に兵器の割合を減らされていざとなったときの
防御が不安になるということだけではありません。
そこで危惧されたのは国際間のパワーバランスの崩れだったのです。
ロンドン条約の前に、加藤大将は全権顧問安保清種大将にこんな手紙を出しました。

「ここまで背水の陣を敷いて強硬かつ理義公明正大な主張をして
それを譲歩することになったら、それはすなわち
米国の瀬踏みに落第したのと同じことになる。
そうなると、彼らはいよいよ日本をあからさまに蔑視し、
満州問題についても高圧的態度にでるようになるだろう。
これはもはや海軍だけ問題はなく、国家の威信信用問題である」 

そして、濱口首相に対してはもし条約を向こうのいうまま飲んだら

「作戦計画を立てることが困難で国防上不安になるので、
統帥権を受け入れるくらいならむしろ決裂が望ましい」

と強調しています。
これらの一連の加藤大将の意見を読んでみると、対米7割の固守も
決して「軍国主義」「覇権主義」などという見地からではなく、
厳しい事実認識の上に立った自国防衛のための切望であったとしか思えません。


このロンドン条約によって日本はより厳しい条件を押し付けられました。
艦隊戦が主流であった当時、海軍が厳密な研究によってはじき出した比率を
なんとか死守したいというのを一言で軍国主義と決めつけるのは、
あたかも現代日本の左派が、

「防衛費を増やせば戦争になる、安保法案を改正すれば徴兵制になる」

と言っているのと同じようなことなのではないでしょうか。


加藤寛治大将は条約が批准されたのち、軍令部長を辞任しました。
濱口首相はその後、右翼青年に東京駅で襲撃され、その傷が元で死去。

条約の批准後、鳩山一郎や犬養毅ら野党が与党を攻撃するために
国会で統帥権
を持ちだして問題を大きくしたため、その後議会は
なにかというと統帥権を主張する軍部の動きを押さえられなくなります。


要するに議会が統帥権を政争の道具にして争い、その結果、
自分(議会)の実権が弱まる=自分の首を絞めるに至るという
なんとも皮肉な結果を生んだとも言えます。



話題を変えましょう。

小松と加藤寛治、いや山本コマツと加藤の親交は、当時全国的な動きとなった
民間の遊興業者の飛行機献納運動に発展しています。
加藤はある日(ワシントン会議の後)女将に向かってこんなことを言いました。

「おっかさん、これからの戦争は優秀な飛行機をたくさん持ってる方が勝つ。
日本はイギリスやアメリカの奴らに、軍艦は5・5・3に押し付けられたけど、
いざ鎌倉というときに航空隊がしっかりしていれば引けを取らない。
ただ残念なのは、飛行機を建造しようとすると、
戦争のことを知らない
政治家がなんのかんのと反対する。
民間からも建造費を出してくれなければどうにもならんよ」

これを聞いたコマツは、そんなに飛行機が大事なのなら、
全国に呼びかけて献納しようと思い立ち、同業者に声をかけました。
当初運動は決して順調ではなかったのですが、全国料理業者大会が
行われたとき、77歳でありながら単身乗り込み、皆に向かって
飛行機の必要性と献納をしようと演説をぶったのです。

この作戦に満場一致の賛成が寄せられ、それからというもの、
横須賀を中心に飛行機が、料亭や待合、芸者の組合などによる団体にはじまり
全国の民間団体から陸海軍に寄付されることになりました。
一度ここでも、歌舞伎座で行われた芸者の組合による献納飛行機の授与式に
出席した海軍大尉の話を書いたことがあります。

舞台の上に上がってみると、歌舞伎座の席上は一面に脂粉の香り漂う
お姐さんで埋め尽くされていて大いに戸惑った、というような(笑)

皆さんも一度くらいは飛行機が献納されている式典の写真、
また機体に「報国号」「愛国号」と書かれた機体をご覧になったことがあるでしょう。
「報国号」が海軍、「愛国号」が陸軍に献納された飛行機です。

陸軍献納飛行機命名式案内状

海軍報国号リスト

海軍報国号のリストを見ると、どんな団体から献納されてどんな名前がついたか、
それを見ているだけで大変興味深いのですが、面白いので抜粋してみると、

ニッケ号(日本毛織株式会社従業員)

三越号、高島屋号、明治生命号、伊勢丹号

新潟号、兵庫号、鹿児島号、沖縄号(県民)日向号(宮崎県民)

中学生号(全国中学校職員生徒)女学生号(全国女学生)

横浜号、川崎号(各市民)大銀座号(銀座連合町会)

神谷号(神谷さん)文明号(文明さん)

福助号、丸善号、近鉄快速号、三和号(銀行)大林号

相撲号(力士の組合)池坊号(華道)、銭高号

日本盲人号、日本楽器号、

第1〜30日本号(朝日新聞による呼びかけ)

忠南号(朝鮮忠清南道 愛国機献納期成会 鄭僑源)

・・・・


飛行機献納運動はその飛行機に出資団体や個人の名がつけられたため、
企業宣伝にもなったので運動の広がりが早かったとも言えます。


それにしても驚くのですが、朝日新聞が呼びかけて献納飛行機30機ですか・・・。

しかも名前が「日本号」ねえ。

一番最後はどうも朝鮮在住の朝鮮人の資産家だったみたいですね。
過酷な植民支配とやらを受け、文化抹殺を受け迫害されていた支配民が、
支配国の軍隊に飛行機を献納するため、
そのための団体まで作って
しかも現地で資金を集めたということになりますが、これ本当でしょうか。


という嫌味はともかく(笑)、このようにリストアップされている
海軍への献納飛行機だけで1000機はあるわけで、それもこれも小松の女将に
加藤寛治が酒の席でふと漏らした一言が発端だったとすれば、

これだけの一大ブームを引き起こすことのできた小松の女将は、
海軍軍人に慕われただけでなく、人の心を動かすカリスマ性も
備えた女傑であったらしいということがわかります。


続く。
 


軍艦「初瀬」機関長殴打事件〜料亭小松の物語

2016-05-19 | 海軍

平成28年5月16日、焼失した歴史的な海軍料亭「小松」について
お話ししています。



料亭「小松」の女将である山本コマツは、時分の経営する「小松」で

起こったことや女将として知り得た海軍軍人たちの素顔について

「山本小松刀自伝」

という本で様々なことを語っています。
その名前だけで海軍の歴史が語れてしまうような錚々たるメンバーは、
東郷平八郎、山本権兵衛、広瀬武夫、加藤寛治・・。

当たり前のようにそんな人々が通った「小松」という料亭は、

海軍士官にとって港に帰った船が錨を下ろす母港のようなものであり、
ここに出入りできることを誇りにすらしていたといいます。

「小松」が火事で焼けるまで営業を細々と続けていることを知ったのは
靖国神社の会報や、横須賀市の事業で三笠公園に「軍艦の碑」を建てた時の
記念冊子に広告を載せていたからでした。


旧海軍軍人たちが戦後も集まりににここを使ったのはもちろんですが、
終戦時にまだ兵学校、機関学校などの生徒だった人たちが健在だった頃、 
クラス会や
分隊の会の際にはこの「小松」に集ったものだそうです。

学生のまま終戦を迎え、士官となっていつかここにくることを夢見ながら
果たせなかった思いを、彼らは戦後そんな形で叶えてきました。

「少尉になったらあそこで飲める」

と彼らが憧れた小松での「遊び」はどのようなものだったのでしょうか。



たとえば艦隊勤務の甲板士官などだと、楽しみは料理屋で飲むくらい。

夜、火灯し頃になると陸(おか)が恋しくなるので、晩御飯を済ますと
「ト」(当直将校)でなければ

「運動一旒、我が航跡に続け」

で数人から多いときには10人くらいが連れ立って上陸します。
「運動一旒」が旗艦のマストに上がると、二番艦以下、先頭艦の航跡を
ついていくことから、海軍軍人は仲間を飲みに誘う時にはこう言いました。

直行することもあれば、水交社で一杯ひっかけてくることもあるのですが、
予約などせず、いきなり行くので満員になっていることがあります。
そんなときには女中部屋やおばあちゃん(女将?)の部屋に入れてもらって
そこで部屋の空くのを飲みながら待つというのが通例であり、
むしろそんな扱いを受けることを彼らは”誇りに思って”いたと云います。

だいたい7時から飲み始めて、10時半に逸見の波止場から最終の
定期便に乗るのが自制心のある飲み方というものなのですが、
そこはそれ、現代で言うところの「最終便逃した」という時間まで
飲み過ぎてしまうことも多々あるわけです。

現代ならタクシーで帰ったりカプセルホテルにとまったりするわけですが、
当時の横須賀にはそんな飲兵衛の士官さんを艦まで送り届けるのが
専門の「通船」という仕事がありました。

なんのことはない一人で漕ぐ小舟なのですが、横須賀港内だけで
10隻ほどが仕事をしていたといいますから、定期便に乗り損ねる
士官さんはけっこう多かったものと思われます。


これも海軍隠語で「ロディコン」(語源不明)といったそうですが、
定期船の波止場に立って

「おーい、つうせーん」

と叫ぶと、爺さんが「へー」と答えてぎっこらぎっこら漕いできます。
それに乗って「磐手」とか「涼風」「伊勢」とかいうと、爺さんは間違えずに
艦まで漕いでいってくれますから、船の上で寝ていればいいのです。
本当に今のタクシーそのものですね。


規則上では少尉になれば陸上の泊まり(ストップ)は許されていたのですが、
若い者に外泊を許すとろくなことにならん、朝の甲板掃除の時に
赤い目をしていたり酒の匂いをプンプンさせるなどもってのほか、
ということでそれを禁止する上官
(たいていはケプガンことキャプテン・オブ・ザ・ガンルーム)
もいたようです。

ケプガンや艦長が緩いと、甲板掃除の30分前に艦に帰り、
靴を脱いで裸足になって裾を捲り上げて総員起こし5分前には
甲板に立って早起きしたような振りをする豪傑甲板士官もいました。

ケプガンというのはだいたい中尉になって三年目くらいに
割り当てられるのですが、このころは遊びも落ち着いて、むしろ
新少尉たちに「遊び方指導」を行ったりします。

海軍はこの辺りの境目がはっきりしていて、少尉候補生までは
ストップどころかレス(料亭)にくるのも許されていないのですが、
少尉さんになった途端全てが許されるので、新少尉たちは開放感と好奇心から
ついつい変な料理屋でボラれたり、良からぬ病気
(Rとかプラム、サードシックと称した)をもらったりという失敗をしがちなので、

「上陸してレスに行く時にはケプガン先頭」

「楽しむ時には皆一緒に、一人でコソコソ行くな」

「”パイン”のような一流の料亭で一流の芸者を呼んで公然と遊べ」

などといったルールを作って自粛を促すケプガンもいました。



さて、「小松」女将の山本コマツの回想には、きっと当時は「守秘義務」により
決して外にでなかったであろう
酒の上の話がいくつか含まれています。

軍艦「初瀬」の沈没に関わる話もその一つでしょう。

第二術科学校の海軍資料室で、かつて横須賀の機関学校で嫌々ながら(笑)
教鞭をとっていた芥川龍之介の話をしたことがありますが、そのとき、
軍嫌いだった芥川が海軍に対してはそうでもなかった理由として、
彼の妻の父親、つまり義父が海軍軍人であったから?と書きました。

この父親というのは第一艦隊第一戦隊先任参謀であった塚本善五郎で、
第二次旅順港閉塞作戦において旅順港で触雷し沈没した
軍艦「初瀬」に乗り組んでいて戦死しています。


初瀬(wiki)

この時の経緯は以下の通りです。

1904年(明治37年)2月9日からの旅順口攻撃に参加し、5月15日
旅順港閉塞作戦で旅順港外、老鉄山沖を航行中に左舷艦底に触雷し航行不能となる。
「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分に2回目の触雷をし
後部火薬庫が誘爆、大爆発を起こして約2分で沈没した。(wiki)


この一連の攻撃で喪失したのは「初瀬」だけではなく、やはり触雷で
「八島」が同じ日に沈没し、水雷艇48号が掃海中に触雷。
そして特務艦(砲艦)「大島」が濃霧の中同じ砲艦の「赤城」と衝突して
旅順港の海底に消えていきました。

この1週間以内に主力艦を8隻失うことになったわけで、
当時海軍は上から下まで色を失ったと言われています。

その周章狼狽ぶりを、小松の女将はたまたま海軍大臣であった
山本権兵衛に会うため海軍省にいたので、目撃することになりました。
応接室に通されたものの、山本大臣も一瞬顔を出しただけであとは誰も出てこず、
ただ廊下を人が慌ただしく行ったり来たりして騒然とした様子だったそうです。


ところで触雷した「初瀬」は、爆発後わずか2分で沈没しました。
機関科の乗員などひとたまりもなかったわけですが、機関長であった
佐藤某という大佐だけは、触雷当時機関室にいながら救助されました。
異変を感じてすぐさま甲板に駆け上がったので沈没を免れたのです。

機関長が爆破音を聞いて甲板に上がったとき、艦はすでに沈没しかけていました。
そのときに彼は機雷に触れたのだと初めて気がついたそうですが、
同時に胸まで海水が押し寄せてきました。
無我夢中で手に触れた板にしがみ付いていたところ、救助されたというのです。

佐藤大佐にすれば偶然による僥倖というしかなかったのですが、

問題は、機関室の乗員は全員機関長を除いて戦死したことです。

戦後、佐藤大佐は機関少将に進級しました。
しかし、部下全員を殺しながら自分一人生き残っただけでなく、
昇進したというので、まわりの目は冷たいものであったといいます。

そんなある日、佐藤少将の昇任祝いが小松で行われました。

海軍の昇任というのは、同じ時期に該当者が同時に辞令を受けるので、
このときの祝賀会というのも同時に昇進した8人の宴会でした。

ところがこの日、同じ小松で行われていた第三艦隊の士官の宴会に、

酒豪で手も足も早い大尉がいて、この大尉が4階級も上の少将に向かって
喧嘩をふっかけ・・というか一方的に小突きまわすという暴挙に出ました。

どうもこの大尉は、「初瀬」の沈没の件を聞いて、佐藤少将の行いを
腹に据えかねていたところにもって、酒席でその名を聞きおよび、

酔いの勢いでこの挙に及んだものとみられています。

伝わるところによると、大尉は宴席真っ最中の部屋に踏み入るや、
佐藤少将の前に仁王立ちとなり、

佐藤!(呼び捨て)
貴公は部下が皆戦死しているのに自分だけ助かって良いと思うか。
恥を知らんにもほどがある!
この木村が死んだ人たちに代わり制裁を加える!」
 
と怒鳴るが早いか手や足を出したということです。
因みに木村大尉は翌朝、ほとんどそれを覚えていませんでした。
が、それでもやはり彼は

「僕が佐藤少将であったならば部下が助かった助からんにかかわらず、
機関長としての責任上、艦と運命を共にする。
まして部下が皆死んでしまったと聞けば、なおさら自殺して部下の後を追う。
それなのに佐藤少将は責任も取らず、自殺もせず、出世をしたとて
昇進祝いとは何事だ。それで日本の武士道がたつと思うか」

という意見を決して変えることはなかったそうです。
女将は理由はどうあれ下級の者が上官を殴ったことを看過できず、 
「それでは道が立たない」と大尉を説得して謝罪をさせたのだそうですが、
佐藤少将はよっぽどこれに傷ついたのか、木村大尉の謝罪を受け入れず、
事情を海軍省に言いつけたため、海軍省の取り調べが行われることになりました。

ただ、海軍省的には木村大尉の理屈にも分があるとしたのか、処分は

大変軽いものであったそうで、佐藤少将には不満の残る結果となりました。




艦と運命を共にした艦長というと、山口多門司令と二人「飛龍」とともに

沈んだ加来止男艦長、燃え盛る「蒼龍」の艦橋で仁王立ちになって
壮絶な最期を遂げた柳本柳作艦長などがいます。

1942年には、機雷に触雷した民間船「長崎丸」の船長、菅源三郎
最後まで船橋にあって指揮を取ったのち救出され、
軍側の伝達不足が原因だったため長崎丸側の責任は無しとされたにもかかわらず、
菅船長は死者13名と行方不明26名という惨事の責任をとって、3日後に
東亜海運長崎支店ビルの屋上で割腹自決を遂げたという事件もありました。


海軍の歴史には艦と共に死ななかったからということで、同調圧力?というのか、
上層部から暗に卑怯者呼ばわりされて左遷された不遇な艦長もいましたが、
沈む艦に殉じるというのは精神論というか美学的な観点からは賞賛されても
戦争を遂行していく戦略的な意味では決して利益とはなりません。

しかし明治時代の海軍においてはまだまだ「武士道」が重んじられ、

「義」を体現する行為が賞賛される一方、佐藤少将のようなケースは
「命を惜しんだ」「恥知らず」「武士の名折れ」という言葉で非難されがちでした。

道義的にももちろん実際にも殉職の義務は全くないにもかかわらず、
この若い士官だけでなく、皆が佐藤少将を内心どう思っていたかが窺い知れます。


この場合、佐藤機関長の部下が全員戦死したことと、
あまりにもその助かり方が奇跡的だったのと、早々に昇進したこと、
(これはさっきも言うように機械的なものである側面もあるのですが)
佐藤少将にとって幸運が重なったことが、逆に海軍内の反発を呼んだと思われます。

ただ、こういう僥倖を喜ばれず反発されるというのは、大変言いにくいことですが、
本人に日頃からあまり人望がなかった可能性もなきにしもあらずです。


「初瀬」の沈没時の乗員数は834名、そのうち半数以上の492名が戦死しました。




続く。


 


緊急寄稿 海軍料亭「小松」焼失に寄せて

2016-05-18 | 海軍

16日午後5時すぎ、横須賀市米が浜通にある「料亭小松」から火が出ていると通報があった。
消防車12台が出動して消火活動を行っている。
午後6時13分にほぼ火は消し止められたが、木造二階建ての建物が全焼したという。
この火事で、隣のマンションの住人1人が煙を吸って病院に搬送された。
店のホームページなどによると、「料亭・小松」は明治18年に
大日本帝国海軍ゆかりの地・横須賀で創業して以来、東郷平八郎や山本五十六など
多くの海軍大将らに愛され、戦後は海上自衛隊や在日米海軍関係者も利用していることから、
『海軍料亭』とも呼ばれている。店内には歴代海軍大将自筆の掛け軸が飾られていたという。



17日の朝、いつものようにブログのコメントチェックをしたわたしは思わず
unknownさんのコメントに声を出して驚いてしまいました。
海軍料亭小松全焼・・・・。

16日の午後5時、小松から出火したとされる時刻、わたしは東郷神社敷地内の水交会にいました。

本年度の練習艦隊壮行会が出火時刻の5時から行われており、
これに参加していたのです。
(鉄火お嬢さんではないかと思われるキヤノン武装の黒髪女性を車から目撃しましたが
人大杉とわたし自身が乾杯直後に引き上げたため、ついにご挨拶できませんでした)


なぜわたしがこれほどまでに衝撃を受けたかというと、この火事が起こったのが

先日参加した横須賀歴史ウォークの行程で見学した料亭小松の外観を元に
例によって数項を費やして小松の歴史とそれにまつわるサイドストーリーを製作し、
完成したのがその日の朝だったからです。

最終エントリを製作するにあたって、わたしは元自衛官であった方に
現在の小松と海上自衛隊の関係について調べてもわからなかった部分を
質問していたのですが、その返事をいただいたのが日曜日の午後3時。

その方もよもやご自分が小松について質問を受け返信した次の日に
明治開業以来連綿と続く海軍の歴史を見てきたこの海軍料亭が焼失、つまり
永遠にこの世から姿を消すことになるとは思われなかったご様子で、

昨日、小松に関するメールをお送りした矢先のことで、驚いています。」

というメールがすでに当日中にはわたしのメールボックスに届いていました。




今回、さんぽさんに横須賀ツァーのページを教えていただき
そのツァー内容を見ていたとき目を捉えたのが今回参加したツァーにあった
「料亭小松」の文字でした。

今まで気になってはいたけど、どこにあるのか知らなかった小松。
ツァーで外観を見るだけでもその意味はあろうと考え、参加を決めたのです。

そしてその姿をこの目に刻み、
写真を撮ってその海軍とともに歩んだ歴史について
本を取り寄せて調べ終わった時、
つまりまだわたしの中の「モード」がオンであるのに、
それがこの世から消えてしまったことに、何か因縁めいたものを感じずにはいられません。

ツァーから帰ってきて横須賀歴史ウォーク最終シリーズとして小松のエントリ作成に
取り掛かってすぐ、わたしはTOに

「小松っていう海軍料亭見てきたんだけど、今度行きたい。
東郷元帥が飲んだ長官室があって、掛け軸も残ってるんだって」

と声をかけました。
近々時間があれば行ってみよう、と夫婦で会話し、わたしはHPを見ながら
やっぱり5月27日は混むんだろうか、などと日取りを思案したりしていたのです。
外から見た160畳の大広間も、海軍軍人たちの揮毫した掛け軸も、
この目で見てここでお話しすることは永遠に不可能になってしまいました。

そのことは泣きたいほどに残念ですが、せめてもの慰めは失われる直前に
その姿をひとめこの目で見ることが叶ったことでしょうか。


というわけで、本来は横須賀ツァーについて全部お話しした後、
フィナーレとして?小松を取り上げるつもりでいたのですが、
この焼失を受けて急遽6月に掲載予定だったシリーズ、

「料亭小松の物語」

を始めたいと思います。
なお、これらはすべて焼失前に作成されたものであることを
ご了承ください。





さて、わたしがなぜこの平均年齢68歳(推定)の歴史ウォークに

参加したかなんですが、その理由はただ、これ。

「小松」です。

海軍について調べていると嫌でも目に入ってくる士官の遊興事情、
料亭=レス、芸者=エス、お泊まり=ストップ、馴染みの芸者=インチ、
などといった海軍隠語の中に「パイン」というものがあり、これが
他でもない、横須賀の料亭「小松」のことなのですが、なんと小松、
2016年現在も横須賀田戸において営業中であり、今回の歴史ツァーでは
そのコースに「門の前まで行く」というのがあるとわかったから。

門の前まで行くならなにもグーグルマップで見るだけでも事足りるし、
なんだったら訳あって横須賀に転勤になった後もうちの担当をしてくれている
セールスマンのいる近所のディーラーに車を預け、
そこから歩いてきたっていいわけなんですが、なんとなく
ツァーに参加したら今まで知らなかったことがわかるかも、と思った訳です。

しかし結論として、そんなことは全くありませんでした。

ガイドも含めて参加者の誰一人、おそらくわたし以上に
海軍について関心のある人はいる気配もなく、従ってその説明も
失礼ながらここに限ってはむしろわたしがレクチャーしたほうがいいのでは、
というくらい表面的なものであったからです。



ここがあの伝説の料亭「小松」の角。
敷地はどうやら三角形をしているようですね。
赤いパーカーをきたガイドさんが貼り紙を読んでいます。



なんと、パートさん募集の貼り紙でした。
これによると、配膳は時給1200円、洗い場は900円。

いや、そんなことはどうでもいいのです。



ここが海軍料亭「小松」だ!

料亭小松は、山本小松さんという方が明治18年開いたお店です。
海軍ファンであった彼女の持った料亭、ということで士官たちの人気となり、
「海軍おばさんのレス、パイン(小松)」とあだ名が付きました。

海軍士官はなんでも英語系の隠語で読んだので、小松だけでなく

「吉川」=「グッド」、「ときわ」=「グリーン」、
「いくよ」=「ジェネレーション」、「港月」=「ハーバー」
「楓」=「メープル」、

など、ほとんど直訳がそのあだ名になっていました。
直訳といえば、なんでも直訳を隠語にしてしまっていた海軍さん、
料亭のおかみのことも「ゴッド」と呼んでいたそうで、
なんとも罰当たりと言わざるを得ません。

この英語隠語でわたしがちょっとウケたのは

「アフター・フィールド・マウンテン」=後は野となれ山となれ

でしょうか。

ちなみに最近まで現役であった自衛官によると、いまだに営業している料亭は

 ”金沢八景の「千代本」、呉にはメイこと「五月荘」、ロックと言われた「岩惣」、
戸田本店、佐世保には山と呼ばれた「萬松楼」、”


”舞鶴のホワイトと呼ばれた「白糸」は、私が若
いころにはあったのですが、
閉店に至りました。”


ということだそうです。 

さて、海軍おばさんの山本小松さん、本名を悦さんといいます。
この命名はなんと小松宮殿下であったという話は有名ですが、
悦さんが殿下と指相撲をして勝ったので、宮様が

「お前の立派な体にわたしもあやかりたい」

といって小松の名前を与えたのだそうです。
それも、酒の上の冗談であだ名をつけたというものではなく、
翌日になって宮様は郡長に正式な手続きを取らせ、悦本人を驚かせました。

この話はおそらく海軍のサイドストーリーに詳しい方なら
一度は聞いたことがあるかもしれません。
しかし、このとき、なぜ小松宮が横須賀に来ていたかということも
当ブログとしてはこだわって書いておきたいと思います。

明治8年、浦賀沖で水雷発火の試験が行われました。
この時代の水雷とは、魚雷水雷以前のもので、いわゆる外装魚雷です。
どういうものかというと、棒の先端に火薬缶を装着し、これを艦首から突き出させ、
敵艦に突撃するときにその先端を水中に下ろすと、火薬缶が敵艦の底に触れて
発火し、爆発するというものでした。

これでは敵艦を撃破すると同時に自艦も爆破されてしまうではないか、
と思った方、あなたは正しい。
これは普通に特攻兵器ということになるのですが、当時は戦法がシンプルだったので
このような兵器も生み出されたということみたいです。

日本海軍はまだ貧弱な艦しか所持しておらず、こういう方法で戦うしかなかったんですね。

ともあれ、この

「浦賀沖水雷発火試験」

は生地での試験としては最初のものであり、3年後の明治11年、
今度は横浜の本牧沖で天皇陛下の御行幸を仰いで行われた生地試験の
先駆となるものでした。
以降、このような発火試験が頻繁に行われるようになります。




このときの視察団は今見ると錚々たるメンバーでした。

北白川、小松、伏見、山階ら4名の宮様

山県有朋(陸軍卿)山田顕義陸軍大将、西郷従道(陸軍卿)

御一行様はのちの山本コマツ、山本悦が女中をしていた吉川、
これも海軍隠語で言うところの「グッド」に投宿しました。
小松宮殿下との指相撲対決はこの夜の宴会での出来事です。

ちなみにこのエピソードから、小松宮彰仁親王はてっきり中年か
初老だったようなイメージを持っていましたが、実際にはまだ29歳。
おじさんどころかまだ青年というべきころの話です。

小松宮彰仁親王

対してコマツはというとこれもまだ28歳。
つまり同年代同士の飲み会で盛り上がっていた中の出来事でした。
彼女は宮様にお酌をしていたということですが、彼女の体重は
18貫300目、つまり66〜7キロという立派な体格だったそうで、
同席した宮様方は誰一人として彼女に勝てなかったようです。

このとき、彼女が西郷従道とは勝負をしたのか気になるところです。


今年のお正月映画に「海難1890」をご覧になった方はおられるでしょうか。
昨年は日本とトルコが世にもまれな友好関係を結ぶきっかけとなった
エルトゥールル号の海難事件から125年の節目にあたり、
様々な友好・記念行事が両国で開催されました。

このエルトゥールル号の事故とその後の日土友好について知っている人も、
そのきっかけがこの小松宮にあることはご存知なかったかもしれません。

エルトゥールル号がこのときはるばるイスタンブールから日本にやってきた理由は、

明治天皇が小松宮殿下を欧州に差遣し、トルコ皇帝に勲章を献呈したことに対する
答礼の意が込められていたのです。





吉川のお座敷女中として、コマツとなるまえの悦は海軍士官の
客に真心を込めて尽くしました。
何しろ彼女は10歳のときに江戸で見た軍艦旗(旭日旗)に感動し、
それ以来海好き、海軍好きとして筋金が入っています。

酒の席で士官たちの話を聞くだけでなく、彼女は実際にも訓練に詳しく、

「そのころの海軍では船に酔うと、帆柱に縛り付けられていた」

などという話をその自叙伝に記しているようです。
おそらく、じっさいに現場を見に行くことも度々であったのでしょう。

彼女は38歳にして自分の料亭「小松」を田戸に開業しますが、
田戸はそのころ波打ち際にあり、竹やぶに取り囲まれていました。
これは現在の聖徳寺坂の中程だったそうです。

今地図で見ると、ここが波打ち際であったなどとても考えられません。

彼女がここに店を持ったのは、田戸沖は軍艦の仮停泊地であったため、
いながらにして海と軍艦を眺めることができたからです。


海軍料亭の有名な「ゴッド」として、彼女は錚々たる海軍軍人に
贔屓にされ、また彼らと親密な付き合いがありました。

例えば、山本権兵衛

「わしのことは小松のバアさんに聞けばわかる」

というのが口癖だったそうです。
一緒に歌舞伎見物に行ったり、横須賀鎮守府のあたらしい長官のせいで
途端に横須賀に入港する軍艦が減ったのでその陳情にいったり、
私宅に招じられて山本権兵衛夫人を交えて3人で痛飲したり・・・。

喧嘩をしてもそのあと仲直りしたりという仲だったようです。

東郷平八郎元帥は、「龍驤」乗組(明治3〜4年)時代、
また、イギリスから帰国して「比叡」に乗り組んでいた時代、そして
「迅鯨」副長時代、「大和」艦長時代と、コンスタントに「小松」に現れました。
つまりあの有名なイケメン写真の頃です。

東郷の飲みっぷりはというと、いつもいたって物静かで、唄ったり踊ったり、
もちろんのこと酔っ払って芋掘り(酔って暴れること)などとんでもない、
それどころか仲のいい軍医と二人っきりで来て、飲み始めるとこれが長くて(笑)

流連(いつづけ)という言葉を皆さんはご存知ですかね。

辞書で引きますと、東京の俗語で

幾日も妓楼に淹留して遊ぶこと。
遊廓などで日を重ねて遊ぶ事、流連とも書く。
遊廓などで何日も何日も日を重ねて遊ぶことをいふ。
妓楼に日を重ねて遊び居ること。留連。
遊廓などで幾日もとまつて遊びつづけること。居続けの意。

とまあ、現代は死語となっているのも無理はない意味だとわかりますが、
東郷平八郎のお酒が「流連」だったのだというのです。

あまりにもいつまでも小松に流連(いつづけ)するので、女将が二人に


「東郷さんも島原さん(軍医)も今日はお艦にお帰りになって、
一度皆さんにお顔をお見せしてまた出直していらっしゃい」

と追い立てると、東郷は決まって

「こんな顔、見せたって仕方ないや」

と苦笑いしながら帰って行ったそうですが、東郷が「浪速」艦長時代に「高陞号事件」
で最後通牒を無視して朝鮮領海内を突破しようとした高陞号を撃沈したとき、
あのおとなしい東郷さんが、とコマツ以下小松一同は驚いたそうです。

それにしても、何日も料亭に居続けても問題がなかったとは、
結構当時の海軍というのはいい加減もできたんだなと思うのですが、
フネに帰らずにちびちび飲んだり、眠くなったら寝たり、ご飯食べたりとなると

困るのが接待する方なんですね。

(飲食業の方にはっきりいって一番嫌われるタイプです)

しかし、「小松」の浦という女中は東郷(当時は大佐)に
「ぞっこん惚れていて」(山本コマツ談)、他の女中が東郷の座敷を嫌がるのを
買って出ていたばかりか、呉に転勤になってしまった東郷を追いかけて、
思いのほどをぶちまけ、いや打ち明けたのだそうです。

東郷平八郎には個人的な逸話らしい逸話があまりないといわれています。
酒の席でもちびちびやっていただけの実に無口で物静かな青年だったので、
逸話の残りようがなかったという説もありますが、特に女性関係についいては
夫人のことですらあまり話題にならないのに、山本コマツが本を書いてくれたので
この小さなエピソードが後世に残されることになりました。

wikiの「東郷平八郎」には、


「体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子であり、
壮年期においては料亭「小松
」においては芸者より随分もてたとされる」

とあまり上手くない文章で(だってそうでしょ〜?)書かれていますが、

どうやら「もてたとされる」の真偽はこのエピソードからきているようなのです。

実際は東郷は「流連」の常習で、芸者をあげて飲むよりも軍医と二人で
しんみりとやっているのが好きだったわけですし、実は小松の女中たちも
そんな東郷の終わりのない酒席につかされるのを歓迎していなかったそうですから、
「芸者にずいぶんもてた」は少し違うかなという印象です。


お浦が後を追ってきたとき、東郷は、なにがしかの金を握らせて
彼女を横須賀に帰したそうです。
おそらく彼は当惑し、若い女中を傷つけないように気を遣ったのでしょう。





「船乗り将軍」という題でこのブログでも取り上げた
上村彦之丞将軍もコマツと親交を持っていました。

当ブログ「船乗り将軍」の項でもそのありあまるエピソードの一端をお話ししましたが、
とにかくコマツに言わせると植村は若い時から気性が激しく短気で、
気に入らないと相手がだれでも遠慮なく怒鳴りつけ、とにかく酒癖が悪かったそうです。
一旦荒れるとその辺のものを破壊しまくるので、足にしがみついて止めなくてはならなかったとか。

酒癖は悪いが女癖は悪いどころか全くなく、
「惚れたことも惚れられたこともない」
というバンカラさんでした。


これもブログに書いた、

「濃霧で相手を逃したとはむのう(霧濃、無能)なり」


と世間から糾弾されていた時、上村はコマツにその苦しい胸の内を打ち明け、

彼女はとめどなく涙を流しながらその話を聞いています。 


 なんと、広瀬武夫中佐も小松の客の一人でした。
広瀬は酒の席で無邪気にロシア時代の自慢話などもしています。

「坂の上の雲」では、ロシア人の海軍士官3人相手に
喧嘩をして柔道で投げ飛ばしたというエピソードがあったかと思いますが、
どうもこの話の出処は、広瀬が「小松」で話したことが元になっています。
それによると、実際は少し「坂の上の雲」と違って

「ロシア皇帝の前で、ロシア海軍の士官で拳闘の強い
3人を相手に試合して、全員を投げ飛ばした」

と本人が語っていたということです。
小松での広瀬は、決して酒が強いほうではなかったのですが、少し酔うと
”荒城の月”を『透き通ったような良い声で』歌うのだそうです。
尺八を吹く者がいると、一緒に合わせて歌い、その様は
本人が恰幅のいい好男子であったこともあって、まるで一服の絵のよう。

広瀬に夢中になる女中も多数で、女将のコマツとしては万が一
女中と間違いでも起こして広瀬の将来に傷がついてはと気を揉み、
取り締まり(もちろん女中の)を厳しくせざるをえなかったということです。




料亭小松の物語、続きます。 


 


ワスプの赤道まつり〜空母「ワスプ」の戦後

2016-05-17 | 軍艦

アラメダの「ホーネット」博物館の展示をご紹介してきましたが、
そろそろ終わりに近づいています。
いろいろなアメリカ海軍の軍艦ごとに展示がされているわけですが、
空母「ワスプ」(USS Wasp, CV-18コーナーにやってきました。

「ワスプ」というと、どうしても(特にジパングの読者などは)、
日本が撃沈したあの、と思ってしまうわけですが、
その違いについて以前ここの展示を元に書きましたね。

ワスプ」メモリアル

つまり今日の写真は、そのとき(2014年)に撮り損なって、見覚えのない
展示品や写真を翌年もう一度行ったときに撮ったものです。



そのページを読んでいただければ、「ワスプ」が戦後しばらく日本に滞在していて、
1952年になってようやくアラメダに帰港することができた、と書きましたが、
この年、掃海駆逐艦「ホブソン」と衝突して「ホブソン」は沈没、
「ワスプ」の艦首部分は大きく引き裂かれるという大事故を起こしています。

「ホブソン」は艦長以下172名が沈没によって殉職しました。


これらが展示されている博物館となった空母「ホーネット」もそうですが、
先代が沈められた同名艦は、恨みはらさでおくものかとでもいった強い復讐心のせいか、
それともこのころになると、日本の国力がジリ貧になってくるのと相乗効果で
イケイケの戦果を挙げることができたのか、とにかくこの「ワスプ」も、
ウェーク島、サイパン・テニアン、そして本土攻撃と負けなしでした。

「ワスプ」が初めて日本軍によって損傷を与えられたのは、昭和20年3月19日の
いわゆる「九州沖航空戦」でのことになります。

ちばてつやの戦記漫画「紫電改のタカ」では、このときの空戦に主人公である
滝城太郎が所属する松山基地の第343航空部隊(通称『剣部隊』)が迎撃し、
主に滝城太郎の機転によって(基地上空に飛来した風船爆弾を空港に大規模な火を放ち
取り除いて出撃を可能にするという)大勝利を収めた、というシーケンスがあります。

このとき、米軍機動部隊の航空機と源田実大佐の剣部隊が交戦したのは史実です。
(風船爆弾は創作ですが)

「紫電・紫電改」約60機(3個飛行隊の可動機全機)が松山周辺上空で迎撃し、
日本側は、F6Fヘルキャット戦闘機など50機あまりを撃墜、
損失は被撃墜・未帰還16機とし、海軍航空隊「最後の大勝利」と言われてきましたが、
米軍の記録によると未帰還機・修理不能機数は日本側とほぼ同数だったそうです。


この日の損害が大きかったのはむしろ室戸岬に近づいていた空母だったでしょう。
マーク・ミッチャー率いる機動部隊は、 日本側の出撃可能な全航空兵力による反撃に遭い、
前日の18日は特別攻撃隊によって「フランクリン」「イントレピッド」「ヨークタウン」、
19日には「ワスプ」は「フランクリン」と共に大破しています。

ゲイリー・クーパー主演の映画「機動部隊」について書いたことがありますが、
主人公が艦長という設定であった空母(フランクリンがモデル)は、恐ろしい
「カマカゼ」(笑)によって戦闘不可能になり、戦線離脱を余儀なくされました。

このときのことを、日本のウィキでは「ワスプ大破」と記しているのですが、
どういうわけか英語の「ワスプ」のページにはこのようにしか書かれていません。

During this week, Wasp was under almost continuous attack
by shore-based aircraft and experienced several close kamikaze
attacks.
The carrier's gunners fired more than 10,000 rounds
at the determined Japanese attackers.

この週、「ワスプ」は沿岸基地の絶え間ない攻撃にさらされ、
数機の神風攻撃機の接近に遭った。
ガナーは繰り返しやってくる日本軍の攻撃に対し1万回以上にわたる砲撃を行った。

そしていきなり「4月13日、ワスプは爆弾ヒットの損害を修理するため帰国」
となっております。

日本側のWikipedia筆者はえてして、日本軍の、特に特攻隊による米軍の損害を
僅少に記す傾向があり、このことを「特攻の成果を矮小化する動き」
とわたしは穿った見方をここで披露したことがありますが、英語でも
個人が製作するWikipediaの記述では、特攻の被害が軽微であるかのように、
あるいは全くスルーして書いていなかったりすることが多いのに気づきます。


日本とアメリカではそうする理由は全く別ですが。




のちに「ワスプ」は日本近海で一機の特攻機の攻撃を受けました。
突っ込んでくる特攻機を発見したのは一人の機銃手でしたが、かれは
自分の方に向かってくる飛行機の操縦席を狙い続け、搭乗員が死亡するのが見えました。
しかし惰性を持った特攻機はそのまま「ワスプ」にむかってきたので、
機銃手はこんどは飛行機の翼だけを狙い、船への激突を防いだという話があります。

終戦1週間前の、8月9日のことでした。



さて、戦後修理を済ませた「ワスプ」は、一旦保管されていましたが、
1951年に再就役したとたん、「ホブソン」との衝突事故を起こし、
またまたドック入りとなりました。

このクリスマスカードの年号は1955年となっており、トナカイやサンタに
顔をすげられてしまっているのは、「ワスプ」の幹部であろうと思われます。
おそらくサンタクロースが艦長でしょうね。

冒頭のペナントは、1956年に行われた「極東クルーズ」のもので、
日本と台湾に就航したことがわかりますが、この年「ワスプ」は
CVからCVS、つまり対戦空母に変更されています。

ペナントにCVAとあるのは「攻撃空母」( Aはアタックの意)を意味し、
もしかしたら「CVS」(SはもちろんサブマリンのS)になる前だったからかも。


蛇足ですが、わたしは今回、CVは戦前の空母のことで、

C  CRUISER (巡洋艦規模の大きさの船)

V  VOLER (フランス語の”飛ぶ”)

C + V=(飛行機が)飛ぶ大型船=空母

だったことがわかりました。
てっきりCはキャリアー、Vはベッセル(船)だと思ってましたよ。ショック。 



少し時間は遡って1952年。
「ワスプ」がホブソンとの衝突事故を起こしたのは4月26日ですが、その後
10日で修理を終え、(なんと破損した艦首をホーネットの古い艦首部分と取り替えたらしい)
6月にはジブラルタルのタラワ、地中海に向けて航海を行いました。

ここにある一連の写真は、そのときの「赤道まつり」の様子です。
ありったけの船にあるシーツやタオル類で仮装した人たち。 
一番左は「ロイヤルジャッジ」だそうです。
女装する権利はやはりイケメンに限ります。 



画面下では、まるで西欧の拷問道具のような板に首とつっこまされ、
しかもズボンを脱がされて棒で叩かれている人が!
いじめか?



部分拡大図。やっぱりいじめられている。血まみれだし。
首をこんな風に固定して足元がこれって、実はすごい危険なんじゃないの?

うーん、アメリカ海軍の赤道まつり、なんだか殺伐としていますなあ。



ニコニコしながら整列しています。
艦長からの「本日の殊勲賞」とかの発表を待っているとみた。



両側から何かを投げられる中、走り抜けたら勝ち?みたいなゲーム。
走っている人の顔が必死です。



これは怖い。椅子に座った人を「処刑人」が死刑執行している。
マスクを被らされた人を椅子ごとプールに突き落としている瞬間なんですが、
プールといっても腰の高さもないので、これ危険なんじゃあ・・。

と、今頃言ってもどうしようもないですけど。

まあ、この2ヶ月前に大事故の大惨事を経験しているので
これくらいなんとも思わなくなってるってことなのかもしれませんが。



アメリカ人はこういうの好きですね。
息子が夏に参加するキャンプでも、毎週の「打ち上げ」で、くじにあたった参加者は
カウンセラー(先生)に水をかけたり、泡を顔に塗りたくる権利がもらえます。

ここでもかわいそうな犠牲者がわざわざドクロの旗を持たされ、
顔中に泡を塗りたくられております。



笑えねえ(笑)

後手に縛られ、床に転がされた人の顔は、白黒なので
わかりませんが、おそらく真っ赤なのではないでしょうか。

すでに戦争は遥か昔のことになり、よほどのベテランでないと、
実際にこの船で戦闘に参加した乗員はいなかったでしょうが、
それだけに何かこの殺伐とした笑いが不気味です。



この方は本物の従軍神父さんでしょうか。
右の人のTシャツには「ロイヤルCOP」とあります(笑)
あんたらロイヤルネイビーじゃないだろっての。

神父さん?が持っているのは「クライングタオル」。
これで涙を拭くようにゴールで持っているということだけはわかった。



もっと笑えねえ(笑)

なんか二人の人がすごく急いでいるっぽいので、どうもこの棺?を
今から二人でどこかに運んでいく競争かもしれません。



いやいやいやいや(笑)

あなたたち、それぜんっぜんしゃれになってませんから。
甲板でやってるから多分赤道まつりの出し物なんだろうとは思いますが、
この写真だけ単体で見せられたら、これ大事故かなんかで
甲板での緊急手術でも行ったのかと思ってしまいますよ。

やばい。この感覚はやばすぎる。


さて、冒頭写真の「極東クルーズ」に日本の旗があるので、
彼女がそのクルーズで日本に来た時の話をしておきます。

1956年の4月、サンディエゴを出発した「ワスプ」は真珠湾に向かい
まずそこで検査とトレーニングを受けました。
グアム経由で6月4日にまず横須賀に到着しました。
そのあと岩国を訪問し、8月いっぱいまで横須賀を起点に極東をエンジョイしていました。
(例の”ベビさん”を読んできたワスプの乗員も何人かいたかもしれません)

ところが、このとき、中国近海で海軍の哨戒機が撃墜されるということがあり、
ワスプはその捜索に参加するために現地に向かうことになりました。
搭乗員が捜索で発見されるということはなく、「ワスプ」はそのまま神戸に寄港、
横須賀に一旦立ち寄ってすぐに「極東クルーズ」を切り上げて帰っています。

1972年に退役、廃艦となるまでに28年と長寿をまっとうした「ワスプ」は、
第二次世界大戦の殊勲鑑ということでか、朝鮮戦争にもベトナムにも参加せず、
クルーズを行い、宇宙飛行士の揚収をしたりして悠々自適の晩年を過ごしています。




草刈英治少佐の切腹と五一五事件

2016-05-15 | 海軍

世に二・二六事件を扱った映画は数あれど、五・一五事件を単体で描いたものは
今のところありません。
ここでも取り上げたことのある映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」は
相田中尉の永田軍令部長暗殺事件に始まって陸海軍の青年将校たちの
謀議が映画の半分くらいを占めており、その関係で五・一五事件も取り上げましたが、
それは、わたしの見たところ

「五・一五事件に関わった海軍軍人は一人も死刑にならなかった」
ことが二・二六事件の蹶起将校たちにきっかけを与えた」

ということを説明するために扱っているという感じでした。
どんな媒体を見ても、五・一五よりも二・二六の方が事件の質が重大であったため、
五・一五そのものについて詳しく述べていないものが多いのです。

というわけで、今日はちょうど5月15日。
84年前の今日起こった五・一五事件についてお話ししてみようと思います。

この日のことを犬養毅の孫娘である犬養道子氏は、著書「花々と星々と」で

犬養家はその日銀座のエーワン(8丁目にあった)で食事をし、
祖父に届けるためにコンソメと軽い一品を注文した。
「おじいちゃま」は「バタ臭いものの大嫌いなばあさん」が出かけているので助かる、
と楽しみにしていた。

というように(今手元にないので)書いています。
事件は、海軍中尉古賀清志以下6名の海軍士官が中心となり、
これに陸軍士官学校生徒11名が加わり、さらにこれに民間の
右翼急進派である愛郷塾が加わって起こしたテロ事件でした。

犬養首相のいる首相官邸を襲撃したのは三上卓、山岸宏海軍中尉以下士官4名、
そして士官候補生が5名、計9名。
首魁が中尉であり、メンバーに候補生がいたというところに改めて驚愕します。
このときの彼らのテロ行動を箇条書きにしてみます。

●首相官邸で犬養毅を暗殺

●牧野内大臣宅襲撃 警備の巡査が負傷

●警視庁の総監室に手榴弾を投げるも届かず

●政友会本部襲撃 日曜のため誰もいず

●日本銀行、三菱銀行、変電所を襲撃するもほとんど成果なし


彼らの目的は陸海軍人と同時に蹶起して帝都を混乱、暗黒化し、
それに乗じて革命を起こすことでしたが、一番大きな結果は
犬養首相が死亡したということだけにとどまりました。

さて、それでは彼らがこのような挙に及んだ理由とはなんでしょうか。

この直接の原因ではなく遠因というべきが軍縮会議に伴う統帥権干犯問題です。
このときの干犯問題については、もう少し先に、加藤寛治大将のこと触れつつ
私見を述べてみたいと思っていますが、ここで簡単に言うと、

第1回の軍縮会議、ワシントン会議に続き、ロンドン会議では
兵力が米英に対して5・5・3と、当初海軍が切望していた対英米7割を下回り、
しかもそれを批准するのに、軍縮したい当時の濱口雄幸政権は
事前に海軍軍令部長の同意を得ることなく、天皇陛下の批准権を使って
つまり海軍にしてみれば統帥権のあった海軍の頭越しに条約を妥結してしまった。

ということになります。


海軍省ではそれもやむなしという空気だったのですが、
加藤寛治を軍令部長とする海軍軍令部はおさまりません。
対米6割の結果と、潜水艦のトン数が足りないとしてこれに反対し
再交渉することを強く主張しました。

ここで問題となった統帥権の干犯の問題を見てみます。
問題は明治憲法の統帥権が慣例的に

「軍事作戦は、海軍では海軍軍令部長(後に軍令部総長と改称)が輔弼し、
彼らが帷幄上奏(いあくじょうそう)し天皇の裁可を経る」

ということになっていたのに、政府がそれを無視したということになります。


ここですごく不思議なことがあります。

統帥権干犯を国会で取り上げ問題化したのは、
当時野党の親玉だった政友会の犬養毅でした。

このとき犬養は鳩山一郎とともに政府を、

「軍令部の反対する兵力量では国防の安全は期待できない。
さらにその締結は統帥権干犯である」

といって攻撃しているのです。
ということは、この時点では犬養は海軍の側に立っていて、
海軍の主張を後押ししていたということになるのです。

それならなぜ犬養は五一五事件で海軍将校に暗殺されたのでしょうか。

このころ犬養はもう76歳で首相どころか政界からの引退を考えていました。
つまり、この後のことなどなにも考えず、とにかく政府を攻撃するために
この件を利用していたとしか思えないのです。

わたしは犬養道子氏の本の影響もあって、犬養毅という人物を、

「憲政の神様」

と称えられ、満州から軍を引き揚げさせようとした穏健派、
清貧に甘んじ決して利を求めなかった高潔な人物であり高邁な政治家、
と思っていたのですが、この件を調べていて、

「は?」

と思わず声に出して言ってしまいました。
犬養の思想からいうと、軍縮はむしろ大歓迎という立場だったはず。
これ、どういうことだと思います?
そう、国会で攻撃するために反対のための反対をしていただけなんですねー。

もし条約提携時、犬養が首相で政府与党の立場であったなら、

その結果を統帥権干犯は勿論、どんな手を使っても批准していたでしょう。
それを、政府与党がやったので、野党として非難していたってことなのです。


いまの野党などそれしかしていませんが、とにかく「政策よりも、政局」。
犬養毅は、自分が与党になったら確実に自分に返ってくるブーメランを
野党の親玉としてこのとき臆面もなく投げていたということになります。

半分引退した野党党首として失うものは何もないので、もっというなら
自分の発言に責任を持つ必要もないので、言いたい放題言っていたら、
なんと!

「世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ

衆議院選挙で当選させ続けた」

「政友会の総裁も嫌がるのを無理に担がれた」

「若槻内閣解散後、昭和天皇に頼まれて首相を引き受けざるを得なくなった」←いまここ

という経緯であれよあれよと自分が首相になってしまいました。

つまり、五一五事件で自分が暗殺されることになったのは、
自分が野党時代に投げたあまりにも大きなブーメランが、
首相の座に着いてから返ってきて刺さったということではなかったのか。

とわたしはあくまでも控えめに言ってみます。(赤字だけど)



さて、とにかく、濱口内閣は犬養の起こした論議の末、右翼勢力が
東京駅で首相を襲撃するという事態に至り、潰れてしまいます。
いわば犬養毅の目的はこの時点で達成したということになります。

そして犬養内閣が成立しました。

このとき、海軍は統帥権干犯問題で自分たちの側に立って
政府をさんざん攻撃した犬養首相に、おそらく大きな期待を寄せたはずです。

ところがなんだか様子が違います。 

満州問題では軍の要求を拒否し、自分の人脈で外交問題を解決しようとしたり、
そして軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていたため、
陸軍元帥に陳情の手紙を書いたり、天皇に上奏して、
問題の青年将校ら30人程度を
免官させようとしたり・・・。

このことは事前に軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激しました。
自分が政争の道具とした統帥権干犯を、今度は自分が問われたのです。

軍、ことに海軍から見ると、犬養首相は

「野党のときは味方のふりをしていたが政権を取って変節した」


裏切り者、ということになります。
これこそが五一五事件で襲撃される直接の理由となったのでした。




さて、本日タイトルにした草刈英治海軍少佐の切腹事件についてですが、

これは、まさにロンドン軍縮会議の批准を巡って犬養が野党党首として
与党を攻撃していた真っ最中の
1930年5月20日に起こりました。

草刈少佐は海軍兵学校41期。
卒業時は125名中5位の恩賜の短剣で秀才でした。
一高を目指していたところ、帰郷してきた兵学校生徒の制服を見て
その短剣姿に憧れ、
兵学校に志望を変更しています。

軍縮条約の受け入れに反対していた草刈は軍縮会議全権の一人で、
帰国の途にある海軍大臣・財部彪が乗車していた東海道線車中で切腹しました。

草刈は腹を真一文字に切った状態で発見され、病院でも
「刀は武士の魂である」と叫び、短刀を離そうとせず、
看取った憲兵分隊長は

「実に美事なる御最期でありました」

と駆けつけた同級生に語ったとされます。
切腹の理由として、

「財部の暗殺を企図したが果たせなかったため」

「財部海相の暗殺を決意したが、それもまた統帥権干犯になるのではと悩み、
暗殺を実行できず自決を選んだ」(松本清張説)

「ノイローゼだった」

などが取りざたされましたが、同級生たちはノイローゼ説に対して強く反発し、
これを述べた軍令部次長に抗議し、謝らせるという騒ぎになりました。

草刈の自決は結果『軍縮条約に対する死の抗議』として大きく報じられます。
そして、

「自由主義者の奸策に斃れた草刈少佐の死を忘れるな」

との叫びが、青年将校や国家主義者の間に高まってゆき、これが
2年後の五・一五事件の計画に結びついていくのです。 


さて、そしてここではもう一つ、五・一五事件の首謀者の裁判の経過について
お話ししておこうと思います。

1930年、7月24日から行われた横須賀鎮守府での海軍側軍法会議の
(陸軍側は第一師団で行われた)求刑論告において、10名の被告人中、

死刑3名、無期禁固3名、禁固6年3名、禁固3年1名

が求刑されました。
この求刑に例によって海軍の青年士官たちは憤激し、彼らは一斉に
「論告反対」
を叫んで行動を起こしました。

クラス会やクラス代表者連合協議会などが開かれ、主犯と同期(56期)の
清水鉄男中尉は、ある会合でこのように述べたとされます。

「西暦1921年、アメリカの策略は、平和の美名に名をかりて、
ついにかのワシントン条約を作り上げたのでありました。
日本の世論は、英米二カ国の野心の塊であったこの外交上の大芝居を
やすやすと上映せしめ、アメリカの野望の第一歩を笑顔を持って迎えたのでありました。

日夜研鑽、武を練り、技を磨きつつあった私達の眼前に移った
国内の有様は果たして如何でありましたか。
時弊に凝って、ついに恐るべき議会中心主義となって表れ、不戦条約となって
その正体を暴露し、ついに亡国的ロンドン条約は締結されたのでした。

ついに国難来る!

このように条約締結の結果に激怒している海軍軍人たちが、
ことを起こした身内の減刑を願うのはいわば当たり前のことですが、

おどろいたことに、求刑論告のあったその日から、国民の間でも
決起した陸海軍軍人たちに対する減刑嘆願運動が盛んにおこなわれました。
このとき国民が海軍の青年将校たちに同情した理由は、

当時の政党政治の腐敗に対する反感から」(wiki)

とされており、このときに発表された海軍側弁護団の嘆願書の数は
なんと69万余通に及んだということです。

これら海軍の動きや世論の影響を受けたのか、判決は減刑され、
死刑とされた3名のうち2名が「禁固15年」、1名が「禁固13年」とし、
残りは全員10年以下とされ、陸軍側は全員が「禁固4年」でした。

そしてその結果を世論のほとんどが歓迎しました。
陸海軍はもちろんほどんどの国民が「花も実もある名判決」と称えたのです。

のちにこの判決を下した裁判長の高須四郎大将は、

「死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ」

と死刑にしなかった理由を述べています。
殉教者を出すことが扇動となり若い海軍軍人が蜂起する可能性もあったので、
これは致し方なかったのかなと同情するのですが、高須大将本人は
このときの「温情判決」が二・二六事件の引き金になったというのちの批判を
死ぬまで気に病んでいたという家族の証言があります。

このときの海軍側の弁護団に、東京裁判で主任弁護人を務めた清瀬一郎博士がいました。




彼らを行動に駆り立てたものは二・二六事件のときと同じく、

政党、財閥、特権階級(いまでいう上級国民)の腐敗堕落であり、
それと対照的に疲弊していた農村の実情というベースがあり、
ロンドン条約の受諾を”売国”としたことにあり、つまりそれはとりもなおさず
国民もまた同じように考えていた、ということでもあるのです。

あの戦争を「軍部の独走」で全て片付けてしまう後世の評価がありますが、
この件に見られるように、軍独裁でもなかった日本がそうなるには、
国民の世論の後押し無くしては何事も動くものではなかったのです。

戦後のドイツがなんでもかんでもナチスのせいにしているけれど、

ナチスを熱狂的に支持したのは他ならぬドイツ国民だったではないか、
と言われているのを思い出していただければいいかと思います。


というわけで、五・一五事件について少し語ってみました。

今回この事件を自分なりに整理してみて、わたしは、犬養毅が
現在の民進党の馬鹿共と同じことをやっていたことに気づいてしまい、

「憲政の神様」のイメージを壊されてちょっとしたショックを受けております。

政権を取る前と取る後でいうことを180度ひっくり返す政治家なんて、
政治家ではなく「政治屋」じゃないか、などと厳しいことを思ってしまいますが、
草刈少佐の自死がやはり関係者にとって条約反対の象徴とされたように、
人は不慮の死に遭った人物を偶像化せずにはいられないものなので、
暗殺された犬養毅の評価が底上げされたとしても仕方ないことなのかもしれません。


・・・とまとめるつもりで始めたんじゃないけど、まいいか(笑)




万永元年のアイスクリーム~横須賀歴史ウォーク

2016-05-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、横須賀市観光協会内にあるNPO法人横須賀シティガイドによる
横須賀ウォークツァーで見たものをお話ししています。



砲台山と別名を持つ中央公園(なんてつまらない名前をつけたことか。
地元の人が砲台山と呼んでいるのだから、砲台山公園でよかったのに)
の高台から、小原台の方角を指差しながらガイドが
「あそこに防衛大学校があって」
などと説明していた時のことです。

誰も指摘しないのですが、いやでも皆の目につくところにこれがありました。
最初に電線に縛った靴紐の部分を引っ掛けているのを見たのは、
スタンフォード大学の近くの住宅地であったと記憶します。

その後、ちょくちょくこれを見たのですが、「選挙運動に関係している」
という話を聞いただけで、真偽はわからぬままになっていました。

これ、ちゃんと名前がついていて”Shoefiti”(シューフィティ)とか
"Shoe tossing"(靴投げ)とか呼ばれるものです。

単にいじめであるとか、ここで麻薬を取引しているというサインであるとか、
わたしが聞いたように政治的主張であるとか、退役する軍人の通過儀礼とか、
とにかくその真の理由は定かにはされていません。

おそらく、ここでやっているおそらくアメリカ人も、意味なくやったか、
「足跡を残す」という意味で日本を去る時にここに靴を投げて行ったのか。

だれも靴のことに触れずに次に進もうとしたら、砲台の説明の時に

「一発も当たらなかったんじゃないか」

といったおじさんが

「あそこに靴が干してある」

と大きな声で言いましたが、だれも反応しませんでした。



ちょうどそのときお昼になりました。
わたしたちのグループは自然・人文博物館で昼食をとることにしました。
これは博物館の真向かいにある年代のいっていそうな石垣。

きっと砲台があった時代からのものでしょう。

一行はガイドについて博物館に入っていきます。
日本の博物館にはめずらしく入館料は無料の模様。



入ってすぐナウマン象の化石複製がありました。
横須賀とナウマンの関係について以前一度書いたことがあります。
ナウマン象と名付けたのは日本人科学者の槇山二郎博士でした。

象の化石を最初に発見したのは明治政府の「お雇い外国人」だった
ドイツの地質学者エドムント・ナウマンですが、ナウマンの帰国後、
浜松で発見された象の化石に自分の名前でなくナウマン博士の名前をつけた
のは槇山博士の「義挙」ではなかったか、と書いたものです。



その向こうにホルマリン漬けになっている魚類は・・・。

ミツクリザメ。 

あちこち縛られて実に不細工になってしまいましたが、
実物はこんなシェイプではないようです。
相模湾で発見され、発見者の一人箕作佳吉博士の名前が付けられました。

リアルエイリアン!
顎ごと飛び出して噛みつくモンスター ゴブリン・シャーク
(和名:ミツクリザメ、東京海底谷に多く生息)


写真は怖いけど、あまり強くなさそう。
それと、エラのところから向こうが丸見えなんですけど、これは・・。


さて、こんな展示を横目で見ながらわたしたちは休憩所に案内されました。
ここでお弁当を食べて40分後にロビー集合、ということです。
わたしはまず人文の展示場を駆け回って写真を撮りまくりました。
皆さん疲れておられるのか、走り回っているのはわたしだけでした。

ツァーの案内には「お弁当持参」とあったのですが、わたしは2時までだったら
最悪ソイジョイ1本で持ちこたえる自信があったので何も持っていませんでした。
が、博物館に入る時、向かいの市民会館ホールにレストランがあるのを
目ざとく見つけ、残り30分で駆け込んで昼食を注文することに成功。



お昼時なのに客は施設の従業員らしき人が二人、
そしてどうやらツァーの参加者らしき夫婦が二人。
空いていたおかげですぐに注文が出てきました。



さて、この博物館の人文コーナーに入ると、横須賀の歴史において
忘れてはならないこの三人の胸像がお出迎えしてくれます。

右から日本の造船、製鉄の技術の父というべきレオンス・ヴェルニー、
横須賀製鉄所の建設に貢献した勘定奉行小栗上野介忠順、そして
一番左は・・・・これ誰?

三浦按針(ウィリアム・アダムス)

イングランドから漂流して日本に流れ着き、そのまま家康に重用されて
船を作ったり外交顧問をしたり、横須賀の逸見を領地として与えられたり。
つまり、元祖「青い目のサムライ」だったのです。

興味深いのは、三浦按針らが漂流してきた時、しつこく処刑するようにと
要請してきたのは、イエズス会の宣教師たちだったということです。
なんか自分たちの地位が脅かされるとでも思ったんでしょうか。

家康がそんな外部の声に耳を貸すこともなく、というか面白がって(?)
按針を重用したので、彼らは面白くなかったでしょう。



冒頭画像はマシュー・カーブレイス・ペリーの立像。
というか、ペリーのファーストネームなんて(ミドルネームも)
今初めて知ったような気がします。
それくらい「ペリー」は日本人にとって「一般名詞」化してるってことですね。

当時ペリーを見た人物は、身長が192~4センチだったと書いており、
当時の日本人からは巨人のように見えたであろうと想像されます。
しかし、実際に身長測定したわけではないので、実際は
せいぜい180センチを越すくらいなのをそう思いこんだという説も捨てられません。

この椅子は、ペリーが座ったもので、後ろに使用中の図があります。

アメリカが最初に日本に寄越したのは実はペリーではありません。
ペリーの7年前にジェームズ・ビッドルという海軍の司令官を
(米英戦争ではワスプとホーネットに乗っていた模様)全権として
日本に送ってきているのですが、通訳の手違いで護衛の侍がビッドルを殴り、
刀を抜くなどという騒ぎになったうえ、ビッドルは本国から「決して日本を刺激せず」
と命令を受けていたため、そこで引き下がってしまいました。

ペリーはビッドルの失敗の轍を踏まぬよう、今度は黒船を率いて「砲艦外交」
によって日本を開国させることに成功したのでした。

ちなみにアメリカが日本を開国させたがった理由の一つに

「捕鯨船の寄港地を求めていた」

というのがあります。
メルヴィルの「白鯨」の舞台が実は日本海であったということは
あまり知られてはいませんが、そういうことだったんですね。



1858年、日本はアメリカと日米通商条約を結びます。
そこでその2年後、万永元年に、全権団をアメリカに派遣しました。
この派遣団の目付け役として乗り込んでいたのが、オグリンこと小栗忠順です。
この写真では右から前列の右から2番目がオグリンです。
小栗はどうも頭を右に傾ける癖があったらしく、写っている写真が
二つとも全く同じ角度で傾いています。

小栗の左の遠目にもイケメンなサムライは、正使、新見正興(しんみまさおき)。



気のせいかと思ったら本当にイケメンでした。
さらにびっくりしたのはこの人、あの美貌の歌人柳原白蓮
(花子とアンで仲間由紀恵が演じた模様)おじいちゃまだったんですねー。
道理で。

この時に全権はアメリカ海軍の艦船でアメリカに渡りましたが、護衛として
あの咸臨丸がそれに付き添って行っています。
咸臨丸に乗っていたのが、おなじみ勝海舟、通訳にジョン万次郎、そして
軍艦奉行の従者として福沢諭吉などの超豪華メンバー(今日的に)。



左、ニューヨークのメトロポリタンホテルで行われた歓迎会。
彼らはアメリカ人に熱狂的に歓迎を受けました。

右は、日本まで帰国する全権を乗せてきたナイアガラ号。
品川沖に投錨し、全権が下船するのを総員が登舷礼で見送りました。



CHIEF INTERPRETER(通訳)MORYAMO YENOSKI
AND TAKO JURO INTERPRETER

とあります。
版画ですが、すごくリアルで、写真をもとに製作したのかもしれません。
で、この通訳の名前ですが、

森山家之助?と田高十郎、という感じでしょうか。
アメリカ人が日本人の名前を聞こえたそのまま書くとこうなる、
という感じですね。

余談ですが、今遅まきながらわたし寝る前にちょっとずつテレビドラマ
「ヒーローズ」を見ています。
ご存知かと思いますが、主人公の一人が日本人(ヒロ・ナカムラ)という設定なので、
彼が親友やや父親、時々はアメリカ人とも日本語で会話するのですが、
この会話がことごとく日本語でおkの世界なんですよ・・。
東京のシーンもあるのでおまわりさんとか会社の人も、みな日本語でおk。
びっくりするのが、ヒロの父親であるカイト・ナカムラに、あのスタートレックの
ジョージ・タケイが扮しているのですが、この人も日本語でおk。
武井 穂郷という日本名のあるれっきとした二世なのに、日本語喋れないんですわ。
まあ、わたしが話したことのある唯一のハリウッドスター、パット・モリタも
日本語全然喋れないって本人が言っていたし、(でも英語もなまってた)
アメリカで暮らしているとこうなるのかもしれませんねえ。

それはともかく、このドラマの日本、設定された名前がみななんかおかしい。
親友はアンドウ・マサハシというのですが、アンドウがファーストネーム。
つまり、真佐橋安堂、なんていうお坊さんみたいな名前なわけ。
彼の父親がやっている会社も「ヤマガト工業」で、山雅戸、とか山賀戸とか?
なんか万永元年からアメリカ人の日本に対する理解ってある意味あまり進歩しとらんなー、
と思ってしまったりします。


さて、このときに渡米した77人のサムライたちは、アメリカに熱狂的な歓迎とともに
ちょっとした日本ブームのきっかけを作ったようです。
この分厚い辞典のような本も、それがきっかけに出版された
日本を知るための本だったに違いありません。
左に日本の家紋についての記述がうっすらと見えていますが、
この中にうちの実家の家紋があるー!
 
ところで、こんなページを見つけてしまいました。

 万延元年遣米使節子孫の会

このときの使節団の子孫が、会を作って交流しているのです。
おそらくこのなかにログインすれば、 MORYAMO YENOSKIさんや
TAKO JUROさんの子孫がおられて、実はどんな漢字を書くのかもわかるのでしょう。



当時の大統領フィルモアがペリーに全権を与えた委任状。
手書きの

five Full Powers in blank to Mattehew C.Perry

の部分の意味がよくわかりません。
もしかしたら、全権を与えるに当たって、「星5つ」つまり
元帥位をペリーに付するという意味だったのか・・・・?

どなたかこの部分おわかりの方おられますか?

さて、タイトルにしてしまったので余談ですが、この万永元年の使節団、
アメリカ滞在のときに酪農場に行ってアイスクリームを食べ、
おそらく初めてアイスクリームを食べた日本人となりました。

彼らは上の図にもある晩餐会でもデザートのアイスクリームに舌鼓を打ち、
これは(・∀・)イイ!!ということになったのでしょう。

そのときのメンバーの一人出島松蔵がのちに横浜の馬車道通りに
「氷水屋」を開き「あいすくりん」という名称で売り出しましたが。
一人前は現在の約8000円くらいと高く、当時の日本人は「獣くさい」といって
牛乳を嫌ったため(ソースは手塚治虫の陽だまりの樹)なかなか浸透しなかったそうです。

出島はその後明治天皇に富士の氷穴及び函館の天然氷を用いて製造した
「あいすくりん」を献上していますが、本格的に日本に広まるのは
1899年(明治32年)7月、東京銀座の資生堂主人、福原有信が売り出し、
大正になって工業生産されるようになってからのことです。


続く。


 


シック・ベイ〜空母「ホーネット」

2016-05-13 | 軍艦

空母「ホーネット」を見学するのはこれが3回目だったと思いますが、
このとき初めて見た区画がありましたので、お話ししておきます。

まずは、アラメダに繋留展示してある「ホーネット」外観。
今まであまり気をつけて見ていなかったので、この写真で初めて
博物館となっている「ホーネット」に入っていく入り口は、
ハンガーデッキの階に固定された艦載機エレベーターからだったと気付きました。

ニューヨークの「イントレピッド」は専用の通路が外側に付けられ、
艦載機エレベーターは甲板レベルに固定されていたのですが。
現在艦上に大型の荷物などを乗せるときには、奥のクレーンを使うようです。




このとき気づいた、「ホーネット」の時鐘。
キャットウォークの途中にあって、艦内に出入りする入り口が近くにあります。
鐘の内側が赤に塗られているのは当時からでしょうか。



前回までの報告で発表しそびれていたパイアセッキのレトリバー。
正確には

Piasecki H-25 Army Mule/HUP Retriever。

今の感覚で言うと変な形ですが、当時は理にかなっていたようです。
1949年から空母で海に落ちた航空機のレスキューのために導入されました。



お仕事中。

さて、今日ご紹介するのはこうやってレトリバーが救助したパイロットが
このあと運び込まれるであろう、「シック・ベイ」です。




廊下にはメディカルを意味する「MED」が刻まれています。
この一角を「シック・ベイ」と呼びます。
軍艦だけの名称ではなく、一般に船の医務室のことをこう呼びます。


ここではメディカル・オフィサー、つまり軍医が受け持つ区画のことで、
ここで実際に治療を行う軍医は4人、看護師の仕事を行う下士官兵が15人です。

この通路を進んでいくと、両側に医療施設が並んでいます。



メインの手術室。
その広さは、一般の総合病院のそれとほとんど変わることはありません。



手術台の上には今では使われることのない各種医療器具が無造作に乗せられています。
紙のコーヒーカップはわりと最近のものではないかと思われますが。



リンゲル液が開封されないまま吊られています。
中身は本物でしょうか。
昔はこんな大きなガラス瓶から点滴をしていたんですね。

向こうの壁には小さいながらシャウカステンが備えられています。
デジタル化が進んで、医療現場では現在フィルムレスが進んでおり、
空母などでももはやこのような設備は使われていません。

無影灯にはいくつもの予備があるみたいですね。



調剤室ではないかと思われます。
空母には専門の薬剤師も勤務して調剤を行いました。
もちろんこれは空母ならではで、エスコートの駆逐艦などに傷病者が出たら、
全て空母のメディカルルームに搬送され治療が行われました。



顕微鏡や試験管などが作業中のようにディスプレイされています。
黄色い薬のビンは現在スーパーで買えるサプリメントのものですけど(笑)



小さい部屋ですが、なんと眼科がありました〜!
軍艦になぜ眼科が?と不思議に思われるでしょうか。
実は、艦載機を搭載する空母には必ず眼科があり、
パイロットは定期的に眼の検査を行う決まりになっていたのです。

我が海軍の空母ではちょっと考えにくいくらいの待遇ですね。
もっとも、視力は圧倒的に日本人パイロットの方が良かったようです。

「訓練して昼間に星が見えるようになった」「飛んでいるハエを捕まえた」
という怪しげな伝説を持っていた有名な某零戦搭乗員もいましたし、
戦後、アメリカ人パイロットにコクピットで「見張り競争」を挑まれた
日航の元零戦搭乗員によると、いつも負けなしで


「随分と掛け金のドルを稼がせてもらった」

ということでした。
日本人の瞳は色素の関係でサングラス無しでも割と平気、とは言いますね。




どれどれ、アメリカ人ってどんな視力検査表を使っているのかな?
「C S V Z N R H 」・・・・・・・全部アルファベットではないですか。

これだと字の形でわかってしまうかもしれません。(I とか)
輪のどこが切れているか指で示させる日本式のほうが正確に測定できそうです。

眼球検査台の手前にある本は色盲検査の本のようです。



なんと、手術室がもう一室ありました。
万が一事故が起こった場合、緊急を要する手当を行うのは
たいていの場合複数人数だったりするのが軍艦だからですね。

大量の消毒されたタオルと、手術着が吊ってあります。



これはどうやらレントゲン写真を現像する暗室のようです。
それにしても船に暗室が・・。
「宗谷」も暗室になる部屋がありましたが、あれはあくまでも
窓がないので暗室に使うこともできる、というものだったし。



奥のケースはおそらくフィルムケース、手前はレントゲン写真を貼るフォルダーでしょう。



最初の診察はここで行われたのかもしれません。
タイプライターにダイヤル式の電話、時代を感じさせます。
電話の後ろには使われないまま束で残ったタイプライター用紙。



当時からここに備えられていたらしい 「ルイス・プラクティス・オブサージェリー」、
検索すると、今でも古書で購入できることがわかりました。

1943年の発行ですが、空母」「ホーネット」は1943年11月に、帝国海軍の攻撃によって

南太平洋海戦で沈没した先代「ホーネット」に変わって就役した空母なので、
就役した時最新刊であったこのシリーズがいち早く搭載されていたものと思われます。

左の棚の赤い本は真菌性および細菌性感染症の医学書です。



こちらも診察室のようですね。
壁に貼られた大きな骨格の絵が、あまり実用的ではないですが、イケてます。

 

検査室並び処置室と見た。
縦型のベッドは例えば脚のギプスを巻く時などに便利。
奥の体重計のところにはたくさんの松葉杖が用意されています。



「COMBAT DRESSINGS」とはなんぞや。

これで検索してみると、ドレッシングというのが包帯を巻くことらしいことがわかります。
(このときまるでトラウマになりそうな”War wound"の写真まで出てきてしまいました)

この缶には止血や固定のために巻く包帯のロールが入っていたようですね。
古物を扱うサイトでこの缶が159ドルで売られているのを発見(笑)

黄色い缶は血圧測定器でしょうか。





心電図計とその測定された記録紙。



まだ部屋があります。
ここはレントゲン室だったようですね。
今のレントゲンは画像が写る板(何て言うのか知りません)の上に
直接患部を乗せ、上から撮影するという仕組みですが、
このころのフィルムはどこかに装填してあったと思われます。

 

撮影台の上に防護エプロンが置いてありますが、これは現在のと同じ。
「ホーネット」が参戦してからはアメリカはほとんど優勢な状態であり、
「マリアナ海の七面鳥撃ち」といわれたマリアナ沖海戦のあとは
マーシャル諸島に錨を打って、沖縄や台湾の攻撃、「大和」への艦載機での攻撃と、
ほとんどこのシック・ベイを医官が走り回るような状態はなかったはずです。

唯一の重大な被害といえば沖縄で台風に遭い、飛行甲板前方を
約25フィート破損したというくらいのものでしょうか。

日本が優勢だったころに沈められてしまった先代「ホーネット」の遺恨を

マリアナ沖や「大和」への攻撃で晴らしてやった、と乗員たちは自負していたでしょう。

「ホーネット」は第二次世界大戦中、日本との戦いにおける戦功で
7つの従軍星章を受章、殊勲部隊章を与えられる9隻の空母のうちの一隻でした。




見学を終わって車に戻る時に見かけた団体のバス。
何だろうと思って調べてみたら、オークランドにある男子専門コーラス隊で、
いわば「アメリカのウィーン少年合唱団」であることがわかりました。

超関係ないですが、せっかくのご縁なので彼らがあの
「アメリカズ・ガット・タレント」に出た時の映像を貼っておきます。

 Pacific Boychoir on America's Got Talent


この日はみんなで「ホーネット」見学に来ていたみたいですね。 

 

昔アラメダに海軍基地があった時、このLTV A-7 Corsair IIがあるのが
ちょうど基地の入り口にあたるところだったようです。

実はここには海軍博物館というのがあるにはあるのですが、土日しかやっておらず、
行きたいと思いながら今まで果たせませんでした。
この夏には思い切って訪ねて、ここでまたお話できればいいなと思っています。