ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

コントロールルーム〜シカゴ科学産業博物館 U-505艦内ツァー

2023-07-31 | 軍艦

MSIのU-505艦内ツァー、続きです。



艦首側から入艦して、ほぼコニングタワーの下にやってきました。
7番のコントロールルームです。

■ コントロールルーム



写真を大慌てで撮ってツァーに追いつきました。
写真中央の女性が説明をしてくれるガイドさんです。

コニングタワー(司令塔)の真下、無線室と音響室のすぐ後ろに
コントロールルームがあります。

ガイドの右側にハシゴが見えますが、これを登ると
コニングタワーにすぐにアクセスできるようになっています。


司令塔のすぐ下 (梯子とハッチですぐにアクセスできる) に位置する
コントロールルーム・管制室には、潜水、操舵、およびその他の
重要な制御装置がすべて配置された場所でした。

機器は、主にダイビングにかかわるもの関係していますが、
潜水艦の現在の深度を示すゲージもあれば、
ツリムや安定度を示すゲージもありました。

【ダイビングプレーン プレーンズマンステーション】



写真の左側にダイビング&浮上コントロールのための制御装置が見えます。
コニングタワーの艦長が命令を下すと、配置された舵手がこれを回します。

大きな丸い舵輪の前には舵手の座る自転車のサドル様の椅子があり、ここには

「Planesman's Station」

とあります。

潜舵(ダイビング・プレーン)は「ハイドロプレーン」とも呼ばれ、
潜水艦の潜航浮上を制御する装置で、艦首と艦尾を上下にピッチさせ、
潜水または浮上のプロセスを支援し、潜水時の深度を制御します。

ダイビングプレーンは通常、潜水艦の前部にある艦首機
後部にある艦尾機の2組から構成され、
艦尾面は、航空機の昇降舵(エレベーター)と同じような働きをします。

艦首と艦尾(艦体の外側) でヒレのようなこの装置を
同時に操作することで、飛行機の操縦桿のように潜水艦を制御します。

適切にトリミングされたボートは、平らなキールに乗っている、
=浮力と重量が一致し、前後左右の釣り合いが良好であり、
傾かずに均等に水平に浮いている状態を保ちます。

さまざまなタンクからバラスト水を取り入れたり、取り除いたりすることで、
乗組員はトリミング、安定性を達成する仕組みになっていました。

ボートの「トリミング」と「ダイビング」は、
艦長の指示に従って行動するダイビングオフィサー(航海長)の責任です。

ボートを傾斜させるには、トリムタンクに適宜水が満たされればいいですが、
この手順では通常時間がかかりすぎます。
従って潜航も浮上も、スクリューでボートを動かして行います。

潜水艦体は浮力の中心から前後方向に長いので、
ピッチング(縦揺れ)の発生を防ぐためには、
バラストタンクで浮力をニュートラルに調整します。

プレーンでピッチを制御し、前進によって深度を制御しますが、
注意深く制御しないと、「ポーポイジング」運動を起こすこともあります。


USS「シルバーサイズ」のダイビングプレーン

「ダウン・ペリスコープ」という映画でも、
最初は配置された二人の乗組員は正反対のタイプで折り合いが悪く、
しかし次第に任務を通じて嫌でもチームワークとついでに仲間意識が芽生え、

・・・・という人間関係が織り込まれた持ち場でしたね。

潜水艦は、船首と船尾の一対のプレーンを
それぞれ別々に制御していたため、操舵システムも二つになるわけです。

操舵手二人に加えて、もう一人が後ろに立つことになっていて、
ただでさえ混雑している場所に、3人が肩寄せ合っている状態でした。

この大きな舵輪は、1960年代にはすべてのプレーンを
一つの操縦桿に組み込んだ複合制御装置の導入で姿を消します。


これは原潜 確かに舵輪は小さくなったけど、持ち場には今でも3人?

【ナビゲーションテーブルとジャイロコンパス】



コントロールルームには、艦長と航海士が船の進路を計画し、
また、敵の船や護送船団を攻撃する際、作戦計画を立てるための
この大きな海図テーブルが大きく位置を占めています。


また、コントロールルームにはジャイロコンパスがあります。

ジャイロコンパスは、磁気コンパスの代わりに
ジャイロスコープが使用されていました。
これは、ボートを取り囲む鋼鉄の量が磁気コンパスを不正確にするためです。



ただし、安全対策として磁気コンパスも備え付けられており、
これは上部にあるアルミ製の防水ボックスに収納されていました。


このどこかに写っているかもしれない

実際にどんなものかはわかりませんでしたが、
ジャイロコンパスのデータをチェックするために、乗組員は
コントロールルームにいながら磁気コンパスの数字を読み取っていました。

どうするかというと、潜望鏡の光学系レンズのシステムで
遠隔地にある磁気コンパスを見ることができたのです。

U-505には 2 つのペリスコープが搭載されていましたが、
これらのペリスコープウェル(潜望鏡井戸)は、ブリッジから
司令塔の内部を通っコントロールルームを通り、さらにその下の
最下部のコンパートメントまで伸びていました。

これが潜水艦共通の「宿命的な構造」であったことは
前にも当ブログで書いた通りです。

スコープの操作はコニングタワー、司令塔の高さで行いました。

■コニングタワー 司令塔

左から;魚雷データコンピュータ(TDC)
プリセット発射制御装置
潜望鏡

USS「シルバーサイズ」と同じく、ここもまた
ハシゴを上らなければそこに行くことができないという関係で、
司令塔、コニングタワーの中は見学することができません。

ボートで使用されるさまざまな通信システムのすべてのコマンドは、
管制室またはすぐ上の司令塔に配置されていました。

エンジン オーダー テレグラフ (EOT) 】

たとえば、司令塔の内部にいる艦長は、操舵手に所望の速度を告げるために、
エンジンオーダーテレグラフを使用して信号を送ります。


U-505のエンジンオーダーテレグラフ(EOT)もちろんドイツ語

Auss Kraft 全速
Halbe Fahrt 半速
Lang Fahrt 長速
Kleine Fahrt 微速
Tauchen 潜航
Beide Maschinen 10 mehr 両マシン10
E-Maschines Eマシン
Stopp  ストップ
Achtung 注意
Deselmotren ディーゼルモーター

(一応調べてみたけど多分まちがってる)


エンジン オーダー テレグラフ (EOT) は、
エンジンルームに直接スピード オーダーを電信します。

この装置は、潜水艦の制御室から、または艦長が司令塔にいて
海面の対象をを追跡あるいは攻撃している場合、そこから操作されました。

EOTレピータ計器はボートのあらゆるところに配置され、
艦長がこの計器のハンドルを動かすと、ボートのさまざまな部分にある
計器の針がすべて同様に、スキッパーに示されたコマンドに移動しました。

すると同時に、クラクションまたはホーンが、
レピータのすべてのハンドルが針に一致するまで鳴り続けます。

そして、各配置の乗組員が命令された速度を確認し、エンジンが

前進 (voraus)
後進 (zuruck)

を始め速度を判断することができました。
(写真の針面上部に『voraus』『zuruck』の文字が見えることに注意)

この装置の中央にある矢印は、与えられた命令に対する
機関室の「答え」を示していました。

こんな風に、艦長は、必要なすべてのステーションが
彼のコマンドを受け取り承認したことがわかります。

戦闘時、艦長は司令塔が持ち場となります。

そこで彼は潜望鏡 (1 つは攻撃用、もう 1 つは水上航行用) を操作し、
そこから操縦指示と射撃命令を出しました。

ペリスコープ・ホイスト固定アイレベル・ペリスコープ
これらの回転させるのは油圧システムです。

艦長は潜望鏡と一緒に回転し(アメリカではダンスし、ともいう)
フットペダルで操作される電動サドルのような座席に座っていました。

司令塔の壁には、潜水艦の深さと潜望鏡の高さ
(潜望鏡深度)を示す2つの水深計がありました。

潜水艦が海中を移動する際に生じる潜望鏡の鼻の出っ張りや
小さな波紋がボートの位置を相手に教えてしまう可能性があるため、
海面の波打ち際の量はスコープを取る上で重要な考慮事項だったからです。

しかし、スコープを波の上まで上げ切る必要はありませんでした。

水面から先をほんのちょっとだけ出しておいたほうが、
たとえ波で視界が少々制限されたとしても、
潜望鏡の存在は見つかりにくかったのです。

目標を確認し、コースが計画されると、艦長は
魚雷を発射するのに最適な位置にボートを移動させます。

しかし、その好機が訪れるまで、潜水艦は辛抱強く目標を追跡しました。
その瞬間が訪れるまで、数時間、ときには数日かかることもありました。

右、コニングタワーに続くコントロールルームのハシゴ

【伝声管】





U-505の伝声管。

人間の声を通すだけのものなので、電気は必要ない作りとなっています。
司令塔と制御室から潜水艦の各持ち場に声が届きました。

また、各ステーションと選択的に通信もできるように、
サウンドパワードフォンも用意されてました。

■Uボートの攻撃と退避

潜水艦が最終的に絶好の状態と位置にあると判断したとき、
艦長は操舵手と一緒にいる魚雷士官を呼び出してデータを検討します。

その後、目標のコースと速度に関するデータを、
魚雷のコース情報を分析するコンピューターデバイスに設定、
コンピューターは、魚雷と標的の両方の進路を計算します。

その間、魚雷担当官は艦長の指示に従って、電気制御盤で方向を設定。
最初に後部と前部どちらの魚雷発射管を使用するか、
次に、魚雷を単発発射か、またはSalvo(サルボ、一斉発射)かを決定し、
一斉発射の場合、その順番を決めます。

このように決まった事項は制御盤に設定され、
魚雷発射室では同じスイッチが設定されて命令の実行に備えます。

コンピューターが適切なタイミングに達したことを示すと、
艦長は「Los!(ロス、発射)」と命令を下し、
魚雷は潜水艦から放たれていきます。

このとき、潜水士官は、発射された魚雷の減量分だけ、
バラストに水を補うという問題を解決しなければなりません。

魚雷発射後、攻撃が成功したかどうか確認時間があるとは限りませんでした。
時として、船団を護衛していた駆逐艦による攻撃から逃れるために、
艦長はすぐに安全な深さまで「彼女を下す」必要がありました。


しかしなんといっても潜水艦の最も危険な敵はパトロール中の航空機でした。
潜水艦は、水上艦艇と連携して監視を行い攻撃してくる飛行機を
視覚的にも聴覚的にも確認することができなかったからです。

先に述べたように、このような航空機と水上艦艇の複合作戦により、
U-505 は無力化され、捕獲に至ったというわです。




■ 項末付録:アメリカ海軍潜水艦スラング集【F】

早いもので行きがかり上続けているスラング祭りもFまできました。
あまりにもお下品なものは個人的判断で外そうと思いましたが、
案外そうでもないので、少しほっとしていました。

が、「F」でそうでもないことがそうでもなかったのがわかりました。
今回伏せ字多め。

Fabulous feces contest

=素敵な顔コンテスト
昔の潜水艦乗りが行っていたとされる
展開中にトイレで最も長いのを生産した人が賞品を獲得する


Failed open

眠れないときに目が閉じないことを表現するのに使われる

ファミリーグラム

潜水艦乗りが配備に出発する前に、家族に渡す一方通行の通信手段

ファミリーグラムの内容は年々変化していますが、
作戦の優先順位によって20~50語に制限されるのが普通でした。

家族や恋人から送られてきたものについては、
潜水艦乗りの気分を害するようなものがないかどうか検閲されました。

しかし、検閲を通過しても、潜水艦員のメンタルによっては
それは何度も何度も読み返され、時には誤解され、
大きなストレスを彼に与えることもありました。

多分字数制限が少ないことが誤解を生む原因だと思われます。

Fart Sack

マットレスカバーのこと

F.A.T.A.S.S.

Fast Attack Tough And Super Salty. Fat pill(ファットピル)
ロールパン、またはシナモンロールのこと


Fightin' gear(戦闘道具)

食器類

F.I.I.G.M.O.

F●ck It I Got My Orders.
軍隊で兵役終了時の帰還命令について使われる
"forget it, got my orders" や "farewell, I got my orders" など、
より丁寧なバージョンもある


F.I.I.S.

ファック・イット・アイム・ショート

Finger wave

Prostate exam
前立腺検査

Firing Point Procedures

ターゲットの運動解析が完了し、
魚雷を撃つ準備をするところまで解が出たと発表された時点を指す

実際には、新米水雷長が解決策を再評価し、考えすぎて、
最終的に目標を外すような調整をすることが多い

Fish ・魚

魚雷や潜水艦戦資格の徽章

フロート・テスト

艦外に放り出すこと

F.L.O.B.

Freeloading Oxygen Breather
=タダメシ喰らいの空気吸ってるだけのやつ
自分の力を発揮していない、あるいは自分の負担分を担っていない人
通常、資格取得前のnon-qual dink pukeのこと


F.O.A.D. 

F●ck Off and Die. 説明不要

フォックステイル(狐の尻尾)

掃除に使う柔らかい毛のブラシ

フレッシュミート(Fresh Meat)

新しい非適格者のボード

F.U.B.A.R. 

F●cked Up Beyond All Recognition
Fouled Up Beyond All Recognition
とも
見る影もない酷い状態

"F●ckin' A Ditty Bag" 

水兵が持つ針と糸を入れるバッグ
Yes, with enthusiasm!

よっぽど嫌な思い出がありそう・・・

続く。


シリコンバレー流エスニック〜アメリカ パロアルトに住む

2023-07-30 | アメリカ

パロアルトでの最初の家の宿泊期間が終わりました。
このAirbnbの部屋は大当たりで、大変居心地が良く、
オーナー夫妻は誠実で親切、さすがはスーパーホストの物件でした。

あと2日でチェックアウトという夜中にトイレの水洗レバーが折れ、
次の日、連絡すると、すぐに配管工を呼んで直してくれたものです。

余禄として、部屋の前を連れられて通る、明るい茶色のモフモフした大型犬
(わたしたちはから揚げくんと呼んでた)を見るのが楽しみでしたし、
向こうも我々の滞在に満足してくれたらしく、
後に行われる互いの評価でも、最高のグレードをつけてくれました。
(掃除の必要がないくらい綺麗にして出て行ったのが良かったようです)

というわけで、次のAirbnbに引っ越ししました。
次の家は、ここも大学までは車で6分の距離という地理の良さです。





アメリカには良くある、一つの敷地に4軒同じ作りの家が集まっている、
建売の集合住宅で、おそらく築年数は80年くらい経っていると思われます。

玄関のドアを開けたらそこはリビングルーム、靴脱ぎはありません。
前のオーナーと違って、家は土足でもOKのようでしたが、
どうしてもそれを受け入れられないのが我々日本人のDNAというものです。

ここのオーナーはアラブ系アメリカ人の技術者夫妻のようですが、
壁の絵はゴッホやカラヴァッジョ、クリムトなどの泰西名画であり、
インテリアを見る限り、エスニックな雰囲気は全く感じられません。


オーナーは、使っていない家を貸し出しているのではなく、
普段本当にここに住んでいて、夏の間長期の借り手が出たら
自分たちはヨーロッパに長期旅行にいくことにしているようです。
つまりサブレット的な活用をしているようでした。

いわゆる「スーパーホスト」(貸し出しを生業にしている人が多い)
ではないので、家は極力片付いていましたが、至る所に「生活の痕跡」が。

ちなみに子供のうち一人の男の子はサッカー少年のようです。

写真の小さな庭の生垣の向こうは幹線道路に面しており、
さらに道路はカルトレインの線路に面していているため、
気になる人にはかなり気になるレベルの騒音は避けられません。

そのため、この一角の住宅地としてのバリューはそう高くなく、
前回のような世帯収入の高そうな家の街並みではありません。
もっとありていに言うと、ヒスパニックなど移民系が多め。


暖炉はアメリカのほとんどの古い家に(アパートでも)備えられていますが、
現在、これを暖房に使用している一般家庭は限りなくゼロです。

大抵は装飾として本棚や飾り棚になり、せいぜいクリスマスに
横にツリーを置く場所という認識となっています。
しかし、たいていの家ではこれを取ってしまうことをしません。
火は灯らなくてもマントルピースは家庭の居間につきものだからです。

リビングの大きなテレビで、ここに来てからAmazonプライムで
(オーナーのアカウントで観られるようにしてくれていた)

「マリリンと僕の1週間」
「マミー・ディアレスト」
(ジョーン・クロフォードの暴露本がネタ)
「アルキメデスの大戦」(英語版)

を観ました。

「マミー・ディアレスト」は日本では「愛と憎しみの伝説」という題で、
その年のゴールデンラズベリー賞を総なめにした怪作?です。
さすがというか、一度見たら忘れられない不気味な映画でした。


こちら主寝室はTOの部屋になりました。


こちらの子供部屋は、ピアノがあることから自動的にわたしの部屋に。

二段ベッドの下に寝てみたら、マットレスが体の重みで沈み込んで
まるで気分は蟻地獄の蟻になったようだったので、
次の日IKEAに行ってマットレスの上に乗せるトッパーを購入。

しかし問題は、ここからでした。

寒かったので上の段の掛け布団を使おうとしたら、あまりにも臭くて断念、
枕カバーを洗おうとして2枚かかっているカバーを剥いだら
なかから煮染めたようなしかも臭い枕が出てきて驚愕。
トイレを掃除しようとしたらトイレブラシが汚くて愕然。

なので、着いて二日目には、すべての掛け布団と枕とシーツの漂白、
風呂掃除、IKEAで1ドル99のトイレブラシを買いトイレ掃除、
ついでに、生ゴミを入れるゴミ箱(臭かった)内部の清掃を行いました。

掃除が行き届いていないのは、Airbnbにはありがちなことといえ、
少なくともオーナー本人は、物件の清潔さに自信たっぷり。

これをどう評価に反映させるかなあ、と今悩み中です。



ピアノはまたしても聞いたことも見たこともないメーカーのもの。
ここに来て以来、一度も調律されたことがないと断言できる状態です。



キッチンはアメリカンサイズの小、日本では特大です。
オーブンも食器洗い機もあり、奥にはランドリーコーナー。


キッチンの向こうには、小さな(といってもソファが入る)書斎があり、
オーナーの仕事部屋らしく、プリンターまで設置してありました。

元々勝手口というか、ガレージから近い出入り口として
補助的に設けられたドアは、今使用されていません。



わたしはデスクワークをほとんど立って行うので、
クローゼットからちょうどいい高さのチェストを持ってきて改造しました。


書斎の外は、家とガレージの間の隙間となる「中庭」的なスペース。
午前中日光浴を兼ねてここでコーヒーを飲むこともあります。

世界的に異常気象とやらでどこも暑いようですが、
ここは少なくとも夜間と朝方はまだまだ涼しくて快適です。

写真の大きな木では、ときどき黒リスと茶色いリスの覇権争いが行われ、
ぐるぐる幹を回って追いかけっこする光景はちょっと見ものです。


犬がいたのかな?


お向かいは女児二人のヒスパニック系家族。
右側は、若い白人系カップル、どちらも仕事で出かける多分技術系ワーカー。
隣はBMWのサブに乗っている中年の独身白人男性、白犬持ち。

3日も経つとご近所さんの様子がわかってきました。


一度だけ前の道を歩いてみたら、インコがいなくなったという貼り紙発見。
情報提供がインコの帰宅につながれば賞金100ドルと言っています。

さて、物価高騰の折、基本自炊のわたしたちですが、



ある日、塩ラーメンを作ってみました。
もやしはアメリカではすっかり市民権を得ており、入手しやすくなりました。
フォーなどのエスニック料理がポピュラーになったからでしょう。

今年はなんと、「ジャパニーズ・エッグプラント」という商品名で、
こちらのくびれのない直径10センチの不気味な茄子と違う、
日本のナスが買えるようになっていたので、さっそく塩麹でつけてみました。


こちらはMKの愛用するレシピブックで作ってみた、
煮込みスープとチキン、シラントロをたっぷりご飯にかけていただく料理。

MKは料理もコーヒーを淹れるのも、きっちりと分量を量り、
絶対にアレンジしない派。(わたしはどうしてもしてしまう)


2回目の外食は、MKのおすすめでロスアルトスの日本料理に行きました。

この日はロスアルトスの商店街でワインフェアが開催されていて、
テントの向こうでは地元の素人バンドのロックコンサートが行われており、
ステージの前では多くの人々が踊っているという光景が展開していました。



しかし、このワインフェアのおかげで交通規制があり、
思ったように駐車場に車が停められず予約の時間に遅刻してしまいました。

時間になって、お店の人から確認電話がかかってきたのですが、
全く訛りのない日本人の日本語だったそうです。


アメリカではありそうでない、アレンジなしの日本定食。

小鉢にきゅうりのキューちゃんが来るあたりが日本らしい。
元々や焼き鳥屋なので、何本か試してみたらかなりイケました。

■日本スーパーとDAISO JAPAN


現地在住の友人に「アメリカ人は料理をしない」と聞いたことがあります。

それじゃ何を食べているのかというと、冷凍のディナーセット。
一皿に一人分の肉と付け合わせが混在している冷凍食品を、
食べたい時に食べる人がレンジで温めて、部屋で食べるのだそうです。

まさか、そんなの一部のアメリカ人だよね?

と聞いたのですが、実際に彼女の妹の嫁ぎ先というのがそれで、
息子を全員アイビーリーグ出身の専門職に育てあげた母親は、
それこそ息子が「料理をしている母親をみたことない」
というほど料理しなかったそうです。

というわけで、実際にそういう層が一定数いるアメリカでは、
そのニーズに応えるため、どんなスーパーも冷凍食品は充実しています。

写真は、一列すべてできあいの冷凍品というホールフーズのコーナー。

パンケーキくらい面倒がらずに焼けよ、と思うのですが。
第一、冷凍のパンケーキやワッフルなんて美味しいんだろうか。


さて、前々回りクエストを頂いたので、
サンノゼのミツワにいったときに写真を撮ってきました。

ベイエリアには「ミツワ」「ニジヤ」という二大日本スーパーがあり、
このミツワは地域で最も大きな店舗です。


従業員募集のポスターに描かれたマスコットキャラがきもい。
ちなみに従業員は日本語が喋れなくてもいいようです。
見た目日本人のレジの人に日本語で話しかけたら、全く通じませんでした。


こちらの従業員募集は萌えキャラ風。


同じモール内にはあの「シャブウェイ」(SHABUWAY)もあります。
もちろんしゃぶしゃぶ専門店です。
凍った肉を自分で鍋で煮て食べるキワモノですが、まあまあいけます。


この日、ミツワのあるモール内を探検してみました。
モールはミニジャパンタウン的に機能しているようで、
一角には日本語の看板をかけた道場がありました。


コミュニティセンターと道場を兼ねたスペース。
畳では柔道、空手、剣道などの教室が開催されているようでした。
もしかしたら茶道とか書道もやっているかもしれません。


車上盗の注意喚起ポスター。
中のバッグを盗もうとして窓を割った決定的な瞬間が
鮮やかに記録されていますが、どうして首から上だけカットするのか。


同じモールにあるダイソーはオープンと同時に人が詰めかける人気状態。
しかも客のほとんどがアメリカ人で日本人はどうやら一部です。

ダイソーが成功したせいか、アメリカでは「ワンコインショップ」が
ところどころにできましたが、いかんせんアメリカのそれは
おいてある商品に全く魅力がないので、アメリカ人がそちらではなく
DAISOに来てしまう理由はよくわかります。

■ ザッカーバーグ御用達パキスタン料理


ある週末のランチ、商店街のパキスタン料理に行ってみました。
日本でもインド料理のほとんどはパキスタン人がやっているそうですが、
インド料理を標榜しないと客が来ないそうです。



オーダーは、いまどきレジで口頭で伝えるアナログ方式。
やたらインド系が多いこの地域、しかもここはシリコンバレーだというのに 
この効率の悪さはいかがなものか。


ここでオーダーし、番号札を取ったら好きな席に座って
サーブされてくる料理を待つという方式です。



カレーセットとインドバーガー(笑)そして右側はインド風ナンラップ。

ここにいると、ときどき隣にザッカーバーグが座っているそうです。
その頻度がなかなかなので、どうやら彼はここが好きらしいと言う噂。

きっと彼はここのアナログオーダー方式なんて
なんとも思っていないものと思われ。


そして、アメリカに来たら一回は食べておきたい、ハンバーガー。
パロアルト高校の向かいのショッピングセンターで人気のバーガーです。

何度もここで言及しましたが、アメリカのハンバーガーはマジ美味しいです。
バンズのふわっとしたイケナイ口触りとパテの絶妙な配合は、
さすがにこれが国民食と標榜するにふさわしい伝統と匠の技。

ちなみに左上のはわたしが頼んだ「アヒツナ・タコス」です。



アヒツナといえば、VERVEコーヒーの隣に、
ポキ丼やアヒツナ丼が食べられるおにぎりの店、
「ONIGILLY」というのがあって、人気らしい。


トレーダージョーズで「明確な」というウィスキーを発見。
絶対こんなの日本人のネーミングセンスじゃねえ!と思ってラベルを見たら、
兵庫県の野間川?ぞいで作っているお酒だそうです。

ここ何年かで、どんどん世界がグローバルになって、
少なくとも食に関してはエスニックが当たり前のように溶け込んでいるのが、
最近のシリコンバレー周辺という気がします。


続く。




無線室と音響室〜シカゴ科学産業博物館 U-505艦内ツァー

2023-07-27 | 軍艦

MSIのU-505艦内ツァー、艦長のクォーターまで紹介しました。
クォーターといっても、個室ではなく、わずかにカーテンが
最低限のプライバシーを保証する程度の広さしかありません。

今まで見てきたアメリカ海軍の潜水艦とは大幅に違うところです。



今日はキャプテンズ・クォーターの通路を挟んで向かいにある
無線・音響室、この図での番号、6番からです。

■ 無線室


将校のワードルームの後ろには、ラジオと音響の部屋があります。

無線室は無数の送受信機が至る所に置かれていました。
こちらは今現在の展示で、わたしが撮った写真です。

無線士は、耳にイヤホンを 1 つだけ装着するタイプのリスニングギアを
しばしば装着していましたが、このようにしていないと、
モールス信号と艦内からの命令の両方を聞くことができないからでした。

無線士は、ボートが受信したメッセージに加えて、
本部や他のUボートからのすべてのメッセージを
ボートのウォー・ログ(戦闘日誌)に慎重に記録しました。

ボートは約 60フィートから70 フィートの深さに潜航を行いますが、
無線アンテナが水面下約 30フィート(9m強)のところであれば、
無線士まだ長波を受信することができました。

しかし、短・中波の電波はもう通信が不可能になります。



こちらは本に掲載された写真。
微妙にアレンジが変わってしまっているのがわかります。

右上の棚にあるのはタイプライターの箱で、本体は出してあります。
タイプライターの隣写真中央部分には、
エニグマ暗号通信機用の木製コンテナがあります。



短波と中波の電波は海中にいると水を透過できなかったので、
U ボートに搭載された最も重要な通信機器は、
同じく無線室にある エニグマ・マシンということになります。

エニグマ暗号機は、ドイツ語では

Enigma-M
 (Enigma M, Schlüssel M  Marine-Enigma)

と言うのが正式な名称です。

送信メッセージと受信メッセージは機械を通すことでコード化、
およびデコードされ、機密性を確保するために、
コードブック指令に従って装置のシリンダー設定が毎日変更されました。

これまで述べたように、イギリスは戦争の初期にエニグマ・システムを破り、
大西洋の戦いで勝利を収めるための貴重な一手を取りました。

その後、イギリスの諜報部では、エニグマ暗号機から集められた情報を
「ウルトラ」と呼び、またアメリカはそれを「アイス」と呼びました。



U-505 から回収された 2 台のエニグマ マシンの1台です。

写真でもわかるように、このマシンには
チッカーテープ=印刷装置
が取り付けられています。



この写真で拡大されている2つのローターを含む全部で4 つのローターは、
マシンの左上に取り付けられた部分です。
マシンのシリアル番号 (M7942) は、キーの下の小さなプレートにあります。 

エニグマはドイツの主要な暗号機であり、第二次世界大戦中、
軍のすべての部門で使用されていました。

連合国はエニグマのコードを解読できるようになると、
それを元に傍受したU ボートのメッセージを解読しました。

そして、いわゆるおとりとしての護送船団をルーティングし、
その周りにハンターキラー グループを派遣して、
Uボートを捕獲するという計画も実行に移されることになったのです。


無線室のすぐ後ろにある小さなソナールームには、
ボートが水上艦艇の近くにいるか、あるいは
対潜軍艦の攻撃を受けている場合、無線技師が配置されていました。

ボートのハイドロフォン探知装置、つまり水没時のボートの「耳」は、
ボートの前甲板に装備されていました。


ハイドロフォン(きもい)

ハイドロフォンの原理は非常に簡単で、要するに
2対の水中マイクロフォンで船のスクリュー音を聴くのです。

カラーのU-505ハイドロフォン(やっぱりきもい)

それぞれのマイクに音が到達するまでの時間を測定することで、
Uボートから見た相手の方位を三角測量することができました。

ただし商船か軍艦かは分かっても、航続距離や方向、移動速度はわかりません。

水中では音が遠くまで伝わるため、水中聴音器は
100km先までの遠距離にある輸送船団を探知することができました。

しかし、その効果を最大限に発揮するためには、
Uボートが潜水し、すべてのエンジンを停止した状態で、
数分間、ハイドロフォンを聞き続ける必要がありました。

利点は、あくまで受動的であることから、
こちらの存在を相手に知られることがまずないということです。


無線室のハイドロフォンチューナー

オペレーターはヘッドフォンから敵のスクリューが接近する音を聞き、
ハンドホイールで検出器ヘッドを操作し、接触の方位を得ることができました。

この装置は非常に感度が高く、ある程度の距離からでも
船舶音を検出することができました。
(理想的な条件下では、1 隻の船で距離 12 マイル、護送船団で 60 マイル)

攻撃される可能性がある場合、Uボートの司令官は音響室の外の通路に立って、
水中聴音機のオペレーターから口頭で報告を受けることがよくありました。
(潜水艦映画でしばしば見る光景です)

1944年6月、U-505がハンターキラーからの攻撃を受けたとき、
Uボートオペレーターは、爆雷が水に飛び散る音をはっきり聞いたと言います。

写真壁付けの左上がハイドロフォン装置

 FuMO30レーダー セットもこの部屋で運用されました。

FuMOは
Funkmess-Ortung
の略語です。

【FuMO 30 GEMA】

周波数 368(MHz)
レンジ 6-8(km)
ベアリング 100(m)
精度 5º (+/-)
搭載 潜水艦


レーダーは、勝敗を決定的に左右する重要な開発の一つでした。

ドイツ軍も西側連合国もレーダー開発のために大規模な研究を行いましたが、
この分野で優位に立ったのはイギリスでした。(さすが諜報の国)

戦争中、ドイツ軍は「ビスマルク」が追っ手から何度もレーダーで探知され、
連合軍のレーダーの有効性を初めて認識することになりました。

連合軍側は、航空レーダーの発達によって、
視界条件に影響されずに航空機の行動が可能になりましたし、
また、巨大なサーチライトを搭載することで、
夜間に浮上したUボートを発見し攻撃することすら可能になりました。

この新たな脅威によりUボートは常時水中航行を余儀なくされることになり、
そのことは、航行そのものに時間と燃料の負荷がかかるだけでなく、
事実上、目を失ったのも同然となったのです。

また、連合軍は護衛艦にも新しい艦載レーダーを設置するようになり、
夜間浮上攻撃してくるUボートの可視性が向上しました。

1942年になると、ドイツ海軍Uボートの司令官たちは、
航空機が目視によるものとは思えないほど頻繁に出現してくることから、
これがレーダーのせいであると察知するようになります。

これに対し、FuMO-30 GEMAのセットは回転式のアンテナを利用しており、
無線室にある手回しホイールで手動で回す必要がありました。

アンテナは水密性がないため、潜水前には収納しなければなりませんでした。

■ レコード


平時の団欒タイムにラジオ波がチューニングできないとき、
ラジオマンはボート全体に聞こえるようにレコードを再生しました。

乗組員の好みは、ドイツの曲のほかに当時人気のあった、英国のジャズ、
そしてフランスのシャンソンなどでした。


映画「ダス・ブート」で、艦長(役名がない)が、
フランスのシャンソン「会いましょう」を、
無線室の横の艦長用ベッドに寝ながら聞いていたシーンを思いだします。

艦長はあのとき、無線士とごく近くで会話していましたが、
実際にUボートを見ると、各自の居場所は通路を挟んで向かいにあり、
それも可能だったんだなとよくわかりました。


■ 項末付録;アメリカ海軍潜水艦スラング DとE

D.A.D.

Day After Dutyの略
通常、夜通し働いた乗組員に与えられる任務後の休息日

"Damn, man, your voice has changed but your breath still smells the same"

"くそっ、声が(下に)変わっても(出るものは)同じ匂いだ"
また、そんなときには、
"Keep talking Lieutenant, we'll find you. "
「お話を続けてください、大尉、わかってますから」

と元凶に声をかけて恥をかかせる

D.B.F. 

Diesel Boats Forever
非核潜水艦を描いた非公認のピンバッジ


アメリカのミリタリーショップから個人輸入した本物のDBFバッジ

ディーゼル・ボートの水兵が誇らしげに身につけ、
非公式にも関わらず、上級士官にはおおむね容認されていた

Dicking the dog 

「犬をねじ込む」
ある仕事に「中途半端な」努力をすること
また "screwing the pooch"『プードルをねじ込む』とも言う

D.I.L.L.I.G.A.F.

Does It Look Like I Give A Fuck?
「私が〇〇してるように見える?」
世界共通の頭字語だが、海軍で広く使われている

Dink

Delinquentの略
本来の言葉は過失を犯した怠慢なと言う意味
潜水艦ではこの言葉は
「まだ資格取得前の乗員」

ディンクリスト

Delinquent List

潜水艦という職種にはの資格取得が必要です。
各乗組員は、船のシステムや緊急時の対応について詳しく勉強し、
その知識を実際に使えなくてはなりません。

乗組員の安全、場合によっては生命もが、
緊急時の各人の対応能力にかかっているからです。

資格を得るとそれまでの「ノンクオリティー・ピューク」たちに
クオリティーカードが渡されますが、そうなってから彼らは初めて
「スクール・オブ・ザ・ボート」の講義を受け、
各セクションにスケジュール通りに配置されることになります。

資格取得のスケジュールが遅れた者は「ディンク」(滞納者)リストに載り、
様々な特権(自由、休暇など)が剥奪されます。

ディンク・チェック

通常、映画の直前やクルーがくつろいでいるような場所で行われる
これは、『ディンクリスト』に載っている乗組員が
レクリエーションエリアにいないことを確認するためのもの
たぶん、非資格者がいたらそこからつまみだされる



まあ、それほど潜水艦の資格取得は重要視されているのです。

しかし資格カードができても、そこでよし、とはならず、
資格審査会で口頭試験と筆記試験を受けなければなりません。

これに合格すれば、初めて「潜水艦の資格あり」と認定され、
「ドルフィン」の着用が許可されることになります。

Drinking your dolphins(ドルフィンを”飲む”)

絶滅したイニシエーション

今ならパワハラで大変な騒ぎになりそうですが、
ドルフィンを "装着 "したのち、それを "飲む "儀式をこなすまで
資格認定は "正式 "とならない、という怖い時代がありました。


これを文字通り「飲みこむ」(らしい)

少なくとも、1972年ごろのドルフィン獲得者は、
潜水艦基地のクラブでこれをやらされていたようです。

先輩たちがイルカを酒のピッチャーに落として
潜水艦の新米潜水士が、「イルカを歯に挟むまで」飲むわけですが、
・・・つまり、実際にマークを飲むのが目的ではなく、
それほど酒を注ぎ込まなくてはいけなかったということですかね。

つまりアルハラ行為だったわけだ。

しかし、アルコール中毒や実際にイルカマークが喉に詰まるなど、
事故が発生したため、この習慣は正式に禁止されることになりました。

ダイバーズ1MCのアナウンス(艦内放送)

"舷側外にダイバーがいます。
スクリューを回したり、舵を切ったり、海から吸引したり、
海に排出したり、タンクを吹き出したり、排出したり、
水中機器を操作したり、ソナーを作動させないでください。
サイドにはダイバーがいます"


ドッグ・アンド・ポニー・ショー

上官の視察のために行われる特別なショーのこと
通常、乗組員は検査官から何か要求されたときでも
決して上級士官に質問しないようにと指示される

ドンキー・ディック

ヘッドバルブインジケーター
(シュノーケルの吸気バルブが開いているかどうかを示す棒)、
曳航式アレイソナーに使用するホース継手、
その他、大体丸くて幅より長いものを指す

”Don’t let your alligator mouth overload your mocking bird ass.”

"お前のワニ口がそのモッキンバードのケツに面倒かけないようにな"
通常、少し生意気になっているノンクヮル(資格を取る前の者)に言う

Douche Kit

シェービングクリーム、デオドラント、アフターシェーブローションなど、
トイレ用品を入れる容器(通常はジッパーで閉じる)
ドゥーシェはフランス語で「シャワー」


Double Digit Midget

二桁の『小さい人』=ショートタイマーのこと
定年退職、EAOS、民間への除隊、帰港まで100日を切っている人

ダイナマイトチキン

チキンア・ラ・キングやチキンカッチャトーレのこと

EAB

Emergency Air Breathingの略
地獄の業火そのものもので、このマスクを装着して
プラグを差し込んで回るのは、潜水艦乗りの最大の悪夢であった


このマスクは「ゴムを吸いこむマスク」と呼ばれ、
装着30秒以内に頭痛と姿勢の乱れを引き起こす最悪の事態に陥る

さらに悪いことに、マスクをしていない訓練モニターを見回すことになる



潜水艦は全員がEABマニホールドの位置を把握し、
照明がなくても見つけられるように訓練を受けています。

「EABレース」と呼ばれる訓練では、EABを装着して
目隠しをした状態で潜水艦の片隅に集合します。

その後、EABマスクや目隠しを外すことなく、
潜水艦のもう一方の端まで移動しなくてはななりません。

また、潜水艦や原子炉を操作する際に、EABを装着し、
そのままEABを外さずに操作を継続する訓練もあります。

“Eat shit and bark at the moon.”

誰かが誰かに言われたことが気に入らないときによく使われる言葉
「fuck off and die」(F.O.A.D.)
として知られている

E.S.A.D.

イート・シット・アンド・ダイ
人生を端的に言い表した言葉

E.W.A.G.

Engineered Wild Ass Guess (エンジン技術者)
または Educated Wild Ass Guess(高学歴)

アメリカの俗語にSWAGというものがあって、これは
Scientific wild-ass guess (SWAG) 
=その分野の専門家が経験や直感に基づいて行う概算
を意味します。

たぶんこれのエンジニア/高学歴バージョンかと。



続く。



オフィサーズ・クォーターズ〜シカゴ科学産業博物館U-505艦内ツァー

2023-07-25 | 軍艦
 
MSIのU-505艦内ツァー、前部魚雷室と下士官寝室部分から入って、
とりあえずは小さなキッチンまでをご紹介しました。



今日はこの図の4番にあるオフィサーズクォーター、士官寝室からです。


士官寝室の枕カバーとシーツも、ブルーのギンガムチェックです。
エクステリアが木のせいだけでなく、
アメリカ海軍の潜水艦より気持ち広くて寝心地良さそう。



艦長、ハラルト・ランゲ中尉を中央に、U-505の士官たち。
U-505の最後の哨戒中に乗艦していた 4人の名前もわかっています。

Uボートの乗組の士官について解説しておきます。

【艦長】
Kapitanleutnant / Oberleutnant zur See
カピタンロイトナント/オーバーロイトナント・ツー・ジー

Oblt.z.S Harald Lange ハラルト・ランゲ中尉

艦長は、乗組員全員の命運を左右する生死の決断を下すことが
日常茶飯事であり、最も高い責任を負う。
乗組員は艦長と密接な関係を持ち、艦長が勲章を授与された場合は、
我が事として誇りに思うのは当然のことであった。

【ファースト・ワッチ・オフィサー(1WO)】
 Oberleutnant zur See/  Leutnant zur See
オーバーロイトナント・ツー・ジー
副長(Uボートでは指揮官の副官とされる)

Oblt.z.S  Paul Meyer パウル・マイヤー中尉

COが病気になったり、戦死した場合も、代行して
指揮を執ることができるように、COを密接に監視している。
その他、ボートの兵器システム、水上攻撃時の魚雷照準などを担当した。

【セカンド・ワッチ・オフィサー(2WO)】
Leutnant zur See
監視官

Lt.z.S.  Kurt Brey  クルト・ブレイ少尉
(多分写真左、袖章1本の人)

甲板上の見張り、対空砲、甲板砲の責任者であった。
また、無線室の乗組員も監督した。

【機関長(LI)】
Leitender Ingenieur 
ライテンダー・インジニアー
シニア・エンジニア


Oblt.z.S. Josef Hauser ヨーゼフ ハウザー中尉

(多分艦長の左側の人)

経験豊富な士官で、エンジン、モーター、バッテリーなど
Uボートメカニックの整備を担当した。
LIはまた、ボートを曳航しなければならない場合に、
解体用の爆薬をセットすることもあり、このため、
多くのLIがボートの沈没に巻き込まれて死亡した。
中にはあえてボートと運命を共にした者もいる。


また、U-505には5人目の士官として医師が搭乗していました。


Oblt.z.S. Friedrich Hosenmeyer 
フリードリヒ・ホーゼンマイヤー中尉
(医師)
(たぶん写真一番右の人)

アメリカ海軍の小型の艦船(駆逐艦、潜水艦)には、
メディックが乗っていて応急手当てなどをしていたのですが、
Uボートには軍医が乗り組むことになっていたようです。

彼は乗組員のさまざまな病気の手当をし、毎日ビタミンを配っていました。
乗組員の健康は潜水艦の効率にとって最重要でした。
誰かが病気になると、その仕事は別の者が請け負わなくてはいけませんから。




Uボート乗組員の平均年齢は22歳でしたが、士官たちはもう少し上です。
一番最後に書かれていますが、この中で艦長に次ぐ高位者はLIでした。

水面を航行している間、当直士官と 4 人の監視員が
7 x 10 の高出力のツァイス双眼鏡を使用してブリッジに配置され、
敵の輸送船を探して地平線を哨戒しました。


ほとんどのUボート乗組士官は、海員支部の士官候補生として
ドイツ海軍に入り、1930年代に戦争が迫ってくると、
水上艦勤務の士官だけでなく、商船勤務だった将校も
Uボート乗組を上から命じられて転勤してきていました。

下士官同様、士官たちもUボート勤務になると、その特殊なコンポーネント、
システム、機能の全てを一から学ばなければなりませんでした。

このツァーでは、かつてのU-505の士官と乗組員たちが学んだことを
垣間見ながら、彼らがどのように機器を操作し、また、
ボートの生活に順応していたかに思いを馳せるために
艦首から艦尾までを歩きながら内部を見ていきます。


士官用のコンパートメントには、艦体両側に二つずつ、
合計4つの寝台が設置されていたそうですが、
現在では片側だけしか残されていません。

上の二つのベッドを壁に向かって折りたたむと、
下の二つがソファーとして機能したということです。

アメリカの潜水艦と決定的に違うのは、
専用のダイニングルームがないことで、
食事はこのソファーにテーブルをセットして行ったと思われます。


これは捕獲してすぐアメリカ軍が撮影した写真です。
比べていただくとわかりますが、このときにはベッドのガードがありました。

シーツはきっちり整えられ、さすがドイツ人、しかも海軍の清潔さ。

コンパートメント内のいくつかのロッカーは、
士官たちの所持品である食料品、および機密文書、
マニュアルの類を収納するために使用されました。

士官はまた、小さな洗面台を士官数人で共有していました。




士官室のベッド脇にはコーヒーカップの入った戸棚があり、
かつては棚にコーヒーポットが備えられていました。

戸棚の下部分は艦内に3つある文書金庫のうち一つがあります。



コーヒーカップなどはアメリカ兵の「記念品」にならなかったのか、
見たところ、当時と同じものが戸棚に収納されています。

このガラスのキャビネットには、陶器、ガラス、銀器が収納されていました。
これらは一部は海軍の備品でしたが、乗組員(主に水兵)が
上陸時に訪れたホテルやレストラン、バーから
「もらってきた」ものも一部含まれていたということです。


食べるための専用の部屋はありませんでしたが、士官は食事の際
銀器、ガラス、陶磁器の食器を使い、テーブルリネンを敷きました。

食事は乗組員の士気と健康に取って何より重要な要素であったため、
潜水艦の設備と運用条件の可能な限り、美味しく準備するために
あらゆる努力が惜しみなく払われたということです。

乗組員が適切な食事とカロリー摂取を維持できるように、
慎重に食事は計画されていました。

できるだけ暖かい食事が提供されましたが、
バッテリーの電力が低下するようなことがあると、
コーヒーとスープを作る時しか電気の使用は許されませんでした。



ところで食事の話が出たついでに、Uボート乗員の健康上深刻な問題、
毎日の排泄の「規則性の維持」について書いておきます。

潜水艦という特殊な生活の場にありがちな運動できるスペースの不足と、
寝台で座ったり休んだりじっとしていたり、という時間が
圧倒的に長いことが原因で、ほとんどの乗員はその問題に悩まされました。

しかも、神経質な人にとっては、環境も大きな問題でした。

U-505に搭載された2 つの水洗トイレのうち、使用できるのは一つだけ。
なぜなら、たびたび書いたように、もう一つのトイレは
特に哨戒初期はほとんど食料保管庫と化していて使えなかったからです。

このため、トイレは時間によっては長蛇の列ができ、
しかも、ボウルを洗い流すためのレバー装置の操作は難しく、
「落ち着いて用を足す」プロセス自体が大仕事と化していました。

医師の処方によりヒマシ油と丸薬が頻繁に使用されましたが、
効果はやはり人によるというか、まちまちだったそうです。

乗組員にとってのもう一つの問題は、乗員の制限上、Uボートには
医師を乗せるのがやっとで、歯の健康まではケアしにくかったことです。

ただでさえ日光を浴びないので壊血病になりやすく、そのため
艦内では予防のため特別な歯磨き粉が配られていました。

実は歯の健康というのは大きな問題を引き起こしやすいのです。
現代では、口内細菌の悪玉優位が、体全体の不調につながるので、
朝起きたらまずオーラルケアを、というのが常識となってきています。

精一杯努力してもそれにもかかわらず、乗組員たちはしばしば
歯茎の痛み、歯の痛みを起こし、それがQOLを爆下げしました。

アメリカ軍も同じ理由で空母には必ず専門の歯科医が乗艦しています。



◼️ キャプテンズ・クォーター



通路の右側には無線室と音響室があり、左側にあるコーナーは
これでも艦長の居室、キャプテンズ・クォーターがあります。

ここの写真をもっと細部に渡って撮りたかったのですが、
見学の列が先に先に行ってしまい(わたしは最後尾の最後の人)
これでも大急ぎで撮り残しのないように頑張りました。

キャプテンズ・クォーターには寝台とキャビネットロッカーに加えて、
小さな専用の洗面台が設られ、机になる折りたたみ式の天板があります。

この部分も、他の将校の寝室と同様に、冷たい金属ではなく
触り心地の良いオーク材の羽目板で覆われ、目に優しい?仕様です。

右側の中央通路は乗組員が行き来しますが、プライバシー確保のため、
このスペースの周りにカーテンを張ることができ、
艦長のベッドにはオーバーヘッドランプが取り付けられていました。


MSIに運ばれ、最初に一般展示されていた頃の写真と思われます。

艦長のベッドの上には金庫がありましたが、
最初に乗り込んだ搭乗隊によって壊され、開かれました。



■ 項末付録 アメリカ海軍潜水艦スラング

なし崩し的に連載しているスラング特集、今日はCです。

キャデラック

潜水艦で使うモップバケツのこと
通常は車輪としぼり装置が付いている

“Cake and cock and we’re outta cake.”
「ケーキとコックですがケーキはもうありません」


本日のプランに、明確にメニューが掲載されているのに、
食事は何かと聞かれたときに、給養員が返してくる言葉

メニューがブラットソーセージ、カルパス(ドライソーセージ)、
ホットドッグなどのときに特に言ってくる乗組員が多いらしい

「ケーキがない」=「コックだけ」ってことか?

カジノナイト

レクリエーション委員会が資金集めのために、
ポーカーやブラックジャックなどカジノゲームをする夜

チャネルフィーバー (海峡熱)

休暇のために港に近づくとき乗組員が不安になっている状態

チェックバルブ 

「ワンウェイ・チェックバルブ」ともいう
自分のために何かしてもらっても、それにお返ししない潜水艦員のこと

チキンスイッチ

緊急ブロー作動弁

Chop チョップ

補給将校のこと
補給部隊のポークチョップ型の記章から


いうほどポークチョップか?

クリーン スイープ 「海から敵を一掃した」

潜水艦で完全に成功した作戦を指す
潜水艦の潜望鏡にほうきを括り付けて示すのが伝統的なやり方

クリアバッフル(Clear your baffles)

後ろを見ること 
バッフルは水流・音響・気流などの整流装置(baffle plate)

“Close enough for horseshoes, hand grenades or Polaris Missiles.”
"蹄鉄、手榴弾、ポラリスミサイルまですぐ近く" 

 高度に技術的な俗語で、完成と呼べるほどの仕事ができたときに使われる
また、"Close enough for government work "とも呼ばれる。

Cluster Fuck クラスター・ファック

集団が仕事を無秩序に行い、悪い結果をもたらすこと
また、一般的に混乱した状態にある人や物
ex; ”あの子は歩くクラスターファックだ"

NATOフォネティックで「Charlie Foxtrot」ということも


C.O.B.
Chief of the Boat


=Crabby Old Bastard(不機嫌なおいぼれ野郎)
=Clueless Overweight Bastard(無知なデブ野郎)


潜水艦に乗船する上級下士官のこと

Comshaw, cumshaw コムショー  カムショー 

余分なもの、無料のもの、好意や贈り物として与えられるもの
中国語の「感謝」カムシアを使った表現に由来する

Comanche Bollocks 

英国海軍の「ジャック語」で「ブリキのトマト」のこと

Coner コナー 

エンジニア部門に携わらない潜水艦乗組員、魚雷員を指す
前方のコーン部分(前部魚雷室)に配置されるから
"Forward Pukes"(前の方で吐くやつ)とか
M.U.F.F.s (My Up Forward Friends俺の前の方のダチ)とも

原子炉に携わる乗組員は "Fuckin' Nukes"

Cow 牛 

ギャレーにある、牛乳のようなものを出す冷蔵備品

C.O.W. 

チーフ・オブ・ザ・ワッチ
航行中のバラスト、空気、水のシステムを担当する人

CPO Spread 

世界で最も無駄で不快なベッド
CPOが「塗られた」ベッドの意味か

カウントダウン・カレンダー

帰港までの日数をカウントダウンするために使用する
実際のカレンダーでも、ペーパークリップで作ったチェーンでもよい

クラブ・ブリッジ(カニ橋)

だれか乗組員がカニを食べたことが発覚するたびに、
寝台の間にデンタルフロスが張られて、それをこう呼ぶ

デンタルフロスを寝台の間に渡すと、そこをカニが移動して
他の乗組員に感染するから、らしい

クランク

潜水艦に新しく転属してきた給養で、
通常の勤務の資格を取りながら食堂で働く人
                 
クレイジー・イワン

映画『レッド・オクトーバーを追え』が元ネタ
航行中に素早く180度回転して、
アメリカの潜水艦が追いかけてくるかどうか確認するロシア潜水艦のこと

クロッチクリケット(股コオロギ)

疥癬、シラミ

C.R.I.S. 

 Cranial Rectal Insertion Syndrome(頭蓋直腸挿入症候群)
そう言う題名のクロッチノベル があることから= ポルノグラフィーの本
通常、よく摩耗している

C.U.N.T. 

Civilian Under Naval Trainingの略
不満のある乗組員が、海軍を辞める日を待ち焦がれているときに使う言葉
実際の意味は海軍訓練を受けた民間人のこと


D.A.D. (Day After Duty勤務の後の日)

夜通し働いた水兵に与えられる、勤務終了後の休みのこと


続く。



前部魚雷室 ”英国貴族院”での生活〜シカゴ科学産業博物館 U-505

2023-07-23 | 軍艦

シカゴ科学産業博物館のU-505艦内ツァーでは、
艦体の前部寄りに穿たれた入り口から入艦していくので、
最初に足を踏み入れるのは下士官とチーフのクォーターとなりますが、
左手には前部魚雷発射室があります。

魚雷発射管は4基、そのうち右上はハッチが開いているわけですが、
これは外からの写真をご覧くださればお分かりの通り、



絶賛魚雷発射中だからです。

前部魚雷室には通常22本の魚雷を搭載することができました。
前方のこのコンパートメントには8本の魚雷が収容でき、
そのうち4本は常にチューブの中にある状態で航行しました。



4本は予備として、そのうち2本はコンパートメントのデッキ下の
長い掩蔽壕のようなところに、残りの2本は
コンパートメントの頭上に沿ってチェーンホイストで吊り下げられ、
装填の準備はいつでも整っていました。

■ U-505の電気魚雷

U-505 が搭載する電気魚雷は定期的なメンテナンスが必要でした。
バッテリーは常に充電しておく必要があり、
その複雑な電気機構には常に注意を払う必要がありました。

バッテリーは冷えると効率が低下するため、
バッテリーを温めるための対処が常に必要でした。

大容量の蓄電池によってボートのモーターや電動機器に電力が供給され、
たとえボートが水没しても静かに航行できるようにしておきます。

蓄電池は、甲板レベルの下のコンパートメントに、
前方に 1 つ、後方に 1 つ格納されていました。

各バッテリーには 62 個のセルがあり、
電池は個別、直列、並列の切り替えが可能で、
110~170DC、220~340DC(DC=直流)の電圧可変が可能でした。

主電動機以外の一般用途には直流110ボルトの安定化電源が供給されます。

ボートはバッテリー電源で最大 7.5 ノットの速度で運航できましたが、
通常はパワーを維持するために低速で運航しました。

通常のバッテリー充電時間は約 7 時間で、
充電は通常、ボートが水面を走行している夜間に行われました。

U-505 にはシュノーケルが取り付けられていなかったので、
水中ではバッテリーを充電できなかったのです。

通常の速度で充電している間のボートの最大速度は 13.5 ノット、
電池は板貼りタイプで、寿命は15ヶ月から21ヶ月でした。


■ 前部魚雷室の生活


乗組員がかつて敏捷に行き来したハッチには、
立ち入り禁止のためガードが取り付けられていて、
こちらから向こうを覗き込むことしかできなくなっています。

「ブルーのギンガムチェック」のカバーをかけた枕は、
かつての仕様のままに再現されています。

ボートの乗組員の大部分は、この約75 平方フィートの
狭い前方の魚雷室で寝て、起きて、食べ、生活していました。


「Lords」(卿・侯爵、伯爵、子爵、男爵)というUボートスラングは、
これ自体下士官以下の階級を指すことばです。
なぜこのようなスラングが彼らを指すようになったかというと、

「二人で一つのバンクを共用していたから」

とよくわからない答えがでてきて混乱させられるのですが、
この辺りの解釈は、皆様のご想像にお任せするとして(任せるな)
なぜこの言葉が前部魚雷室の居住空間という意味でもあったかというと、

「British House of Lords」
(英国貴族院)

からきていました。
つまり「ロード=なんとか卿」が集まっているからということのようです。



魚雷発射管のすぐ後方には、両側に 5 つずつ、
合計10の吊り下げ式バースがあり、船体に対して折りたたむことができ、
魚雷を追加で保管することができました。

両側に 4 つの寝台がありましたが、これらの下の寝台は
兵の中の上級者用
に予約されていました。

寝台は窮屈で、バルブとパイプが頭上の部屋を占め、
革で覆われた馬の毛のマットレスと、青い市松模様のシーツ、
おそろいの枕カバーが用意されていました。



通常は、頭上のパイプから肉やパンでいっぱいの網かごがぶら下がっており、
この写真には角度的に写らない右舷側から船室後方にある水洗トイレ(浴室)も
通常は食料で満たされ、水洗トイレとしての使用が困難な状態でした。


U-505 の小さなギャレー(キッチン)は、
先任下士官と下士官のワードルームの間にあり、
50人の乗組員の食事を賄える仕様と言うことになっていましたが、
U-505やいくつかのボートでは、実質約60人分の調理をしていました。

スープケトルは40リットル調理用で、
鍋そのものが発熱する仕組みでした。



スープやかん、3 つのコンロと 2 つの小さなオーブンを備えたレンジ、
小さな冷蔵庫、、小さな吸水器(左側、音声管の下) ・・・。

調理室の大きさは長さ59インチ、幅27.5インチ。

給水器には温水と冷水、淡水と塩水が供給されていました。
海上での淡水は、電気室の後部にある塩水蒸留装置で1日63.5ガロンが作られ、
その使用はバッテリー水の交換、飲料、調理目的に限られました。

体を洗うのは潮水だったようです。
最後に洗い流すことくらいはできたのだと信じたい。

この写真は捕獲当時撮られたもので、右側にはしごがあり、
司令塔前方のメイン デッキのハッチにつながっていましたが、
現在は展示のために取り外されています。

そして潜水艦全体のさまざまな場所に大量の食料が詰め込まれていました。
潜水艦で供される食事は最高でしたが、そのために
食料を狭いスペースに詰め込んでいかねばなりません。
U-505のタイプは、だいたい12週間のパトロールのために
14トンの食料を搭載しました。



食品の在庫は毎日料理人のためにチェックされていましたが、
それはただ単に食べ物そのものの残り量を知るためではなく、
それに応じてエンジニアがボートのトリムを調整するために必要でした。

哨戒に出て1ヶ月も経つと、食料の一部が消費され、戦闘に応じて
魚雷も消費されると、乗組員は少しそれで「息をつく」ことができました。

物理的な狭さは呼吸さえも苦しくさせるほどだったんですね。



前部魚雷室に装備された寝台でくつろぐ「Lord」たち。
中央左奥に魚雷チューブのカバーが見えます。



パトロール中の U-505 でのレクリエーションは、カード遊び、
本や雑誌の読み物 (ボートには出版物の小さな図書館がありました)、
チェス、チェッカーなどに限られていました。

また、インタビューで元U-505水兵だった人が言っていたように、
航海や潜水艦の運用に関連する技術マニュアルの勉強は常に必要でした。

実際、航海士と乗組員は、当直中の任務に加えて、多くの保守、
その他責務が多く、余暇はほとんどな買ったと言ってもいいでしょう。

音楽については、同じ元水兵が、

「オペラなどより『リリー・マルレーン』みたいなポピュラーが人気があった」

と言っていましたが、オペラの歌はある意味人気でした。
新入りの乗組員のことを英語でもドイツ語でも同じく

「グリーンホーン」Greenhorn
=経験の浅い人、未熟な者、新参者


というのですが、グリーンホーンは、インターホンでオペラ、
女性歌手のアリアを歌うという「試練」が与えられます。
もちろん真面目に歌わなければいけませんが、
真面目に歌えば歌うほど、歌が下手なほど、乗組員は歓喜しました。

(きっとモーツァルトの『魔笛』の『夜の女王のアリア』とかだろうなあ)

ラジオの周波数をチューニングできなかった場合、
乗組員はレコードを聞いたり、なんならジャズを演奏していたそうです。
ジャズはやっぱりアメリカのスタンダードとかだったとか。

音楽に国境なし。
(日本には『敵性音楽』なんて言葉もあって聴くのも禁止されましたが)

そして、何度も書いていますが、潜水艦内は全面禁煙でした。
潜水艦が水面に出た夜だけ、乗組員はタバコを楽しむことができました。

夕方のUボート乗組員のお気に入りの娯楽の 1 つは、
ニュルブルクリンクまたはアブス・モーターレースサーキットでの
自動車レースのレポートを聞くことでした。

ニュルブルクリングとアヴスについては説明が必要かもしれません。

ニュルブルクリンク( Nürburgring)は、ドイツのニュルブルクにある
2つの異なる性格を持つサーキットの総称であり、
アヴス(Avus)はかつてベルリン郊外にあったサーキット場です。

ニュルブルクリンクの当初の名称は Nürburg-Ring でしたが、
1933年にナチスがモータースポーツ全体に資金援助を行なって改修され、
この時にハイフンの無い Nürburgring に改められました。

"Nürburgring" は造語で、
[ de: Nürburg(一地名)」+ 「Ring(「環」や環状のもの)]
意味としては「ニュルブルクの環」です。

さすがナチスドイツ肝入りだけあって、当時ドイツの若者は
サーキットに夢中になっていたようですね。

「世界有数の超難関コース」「世界有数のドライバーズサーキット」
などといわれ、現在でもバリバリ現役で24時間耐久が行われます。

アヴスの方は、ドイツ自動車産業の競争力向上を目的として
民間会社Automobil-Verkehrs- und Übungs-Straße GmbH
1913年に建設を開始したサーキットで、
「死の壁」と言われるほど難関コースのため事故が多く、
そのせいだったのか1995年に廃止されています。


モーターレースの解説は、U ボートのラジオでライブ放送を拾い、
Uボート用語と航海用語に「翻訳」されて艦内放送されました。
たとえば・・・。

「カラツィオラ(オットー・ヴィルヘルム・ルドルフ・カラツィオラ)
右舷の曲がり角に突っ込んで時速17マイルで爆走!
ああっ、突然ディーゼルが故障した!

Eモーターに切り替えなければならない!
排気ガストラップを研磨し、強い煙が発生、

猛烈なオキシ水素の音を出しながら追いかける!」

こんな感じだった・・・・・・というのですが、
第二次世界大戦時には、そもそもオートレースが中断していましたし、
伝説のレーサー、カラツィオラもスイスで隠遁生活をしていたといいますから、
おそらくこの「実況」が行われたとしても、それは、まだ戦前、
厳密には1939年以前の話だと思われます。



ツァーの説明をしてくれたボランティアは、
この前部魚雷室、通称「貴族院」のライトを赤に切り替えて見せました。

外の様子が全くわからない潜水艦内では、夜間の照明を赤に切り替えます。
人間の目は明るいところから暗いところに移るとしばらく見えませんが、
暗順応といって、赤い照明の中にいると、そのギャップが減らせるからです。

赤は黒と波長が近く、暗順応を容易にします。

また、夜間海上航行していても、内部の光が赤であれば
発見されにくいということもあります。

それから、時間の感覚が日光によって捉えにくい艦内生活では、
灯りの色によって今何時かわかりやすいということもあるかもです。

■ アメリカ潜水艦スラング

好評かどうか全くわからない段階でスラングシリーズ続行です。
今日はBから(最後まで行けるかも不明)。

Baboon ass



Baboonとは、マントヒヒなどの「ヒヒ」類
コンビーフのこと
色と硬さが似ているらしいが色はともかくなぜ硬さがわかるのか

Bagged 

「I got bagged」=ワッチに行かされた、のように使う
他の人がやるはずだったことを任されてしまったという意味

Balls to the wall

映画「ダウン・ペリスコープ」で、覚醒した女性潜水艦士官が
これを叫んで男どもがドン引きしていましたが、
Flank Speed=前進全速のことです。

握り部分を壁に叩きつけるように押し倒す、から来ている模様。

Banging Air

Air Chargeすること

Bent Shitcan

海軍の「基準以下」の人、使えないやつ
ex. “He’s as fucked up as a bent shitcan."
      
B.F.H.

 =Big Fucking Hammer.
Torpedoman's Tweeker (ひねったもの)ともいう
とても大きなレンチのこと。
                                                       
  これのことですねわかります

ビルジピッカー 

手の届かないところから物を取り出すのに使う細長い道具

Blow and Go 

         メインバラストタンクを緊急ブローすること    
                        
Blowing a Shitter

サニタリータンクを船外に吹き飛ばしている最中に、
うっかりトイレを「流して」しまうこと
これにより、排泄物やトイレットペーパーが頭上に吹き付けられ、
他の乗組員をたいへん喜ばせる
                                                       
    Blow Job

 緊急ブロー、緊急ベンチレーション
(元々の意味は検索してください)

Blue Nose

(原潜で)初めて北極圏を越えて儀式した人
    
            Booger board           
    
昔の潜水艦乗員がほじった鼻●を見せるために使ったコルクボード
なんでそんなことをするのかって?しらんがな

B.O.C.O.D.

Beat Off Cut Off Date.
帰港前、妻やガールフレンドのために禁欲を始める日のこと

B.O.H.I.C.A. 

Bend Over Here It Comes Again.
「身をかがめろ、またくるぞ」

何か悪いことがまた起こりそうな、あるいは
いつものように起こることを意味する

Boomer Fag

弾道ミサイル潜水艦(SSBN)の乗組員のこと
fagはアメリカ俗語で同性愛者
通常、嫉妬深い高速艇の船員たちが使う(もう使わないと思う)

Boondockers


鋼鉄製の爪先のついたブーツ、元々は海兵隊用 ブーンドッカーズ

Boondoggle

役に立たない、無駄の多い、忙しく見えるだけの価値のない仕事の意
海軍的には政府の時間やお金を使って行われる、
非効率的で組織化されていないな進化や出張;ブンドッグル

Boomer Widow(SSBN未亡人)

浮気相手にするため他の水兵を漁るSSBN水兵の妻

Boy butter(ボーイバター)

髪の毛につけるグリースのこと

Box of rocks(岩の箱)

納得できない方法で仕事をやっつけた水兵を馬鹿にして呼ぶ言葉

 Brain Fart(脳が放屁する)

ストレスがかかって、普段なら簡単にできることが
思い出せなくなったり、実行できなくなったりする状態

Bravo Zulu(ブラボーズールー)

オリジナルの「BZ」は「よくやった」を意味する信号
先輩が部下を褒める時に使うことが多い

Bremerloes(ブレマーローズ)

ワシントンのブレマートン基地が関係あるらしい
大柄でたくましい女性のこと(失礼だな)

Broke-dick(ブロークディック)

故障して操作できない機器を指す技術用語
Ex: "The fuckin' aux drain pump is fuckin' broke-dick."

B.U.B. 

Barely Useful Body(ほとんど役に立たない体)。

バブルヘッド

 潜水艦乗組員に対する国際的に認知された愛称

バディ・ファッカー(Buddy Fucker)

暗黙の了解として、潜水艦員をバカにする人
重要な情報は一切任せてはいけない

バグ・ジュース

メスデッキのディスペンサーにあるクールエイドのような飲み物
世紀末以前、「虫の汁」は、デッキを洗う洗浄剤の代わりとしても使われた
今でも真鍮の金具の腐食除去に使われている

B.U.F.F. 

ビッグ・アグリー・ファット・ファッカー。

ブルシット・フラッグ(デタラメ旗)

誰か(偉い人)が話していることが全くのデタラメだと思うときに
頭の中で「掲げる」想像上の旗のこと

“I am raising the bullshit flag on that one”
「私はデタラメ旗を掲げています」
とコールしたり、
実際にボロ布を持ち歩き、それを地面に投げつけて言う場合もある

てかいつするんだよそれ

バムファック(エジプト) 

最低の勤務地や場所全般のこと

バンクバッグ

元々は細長いバッグで、水平通路の収納用に設計され、
ディーゼルボートの筒状の寝台フレームに吊るされていた

後年はラックの内側に吊るされ、通常は汚れた衣類を入れたり
人に見られては気まずい本やパトロール用の靴下を隠すのに使われた

バンキー(Bunkie)

ベッド、寝台、ラックに対する愛称

Burn the flick(バーン・ザ・フリック)

映画を始めること
フリックは一編の映画、それを「燃やす」

バーン・ラン 

バーンバッグ(いざとなったら処分する物入れ)
に保管されている機密資料を処分するための組織的な「進化」

Buttsshark バッツ シャーク(お尻のサメ)

brown-noser (茶色い鼻)とか butt snorkeler(お尻のシュノーケラー)
とも呼ばれ、好意や下心を得るために、
他の人(たいていアホ)と仲良くしている人のこと

コバンザメみたいな感じかしら。


続く。



”低くされた”下士官寝室の床 U-505艦内ツァー〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-21 | 軍艦

お昼ご飯を食べたり、他の展示を見たりして過ごし、
いよいよU-505艦内ツァーの時間がやってきました。



先ほど退出したU-505艦体横のいエントランスにまた戻ってきました。
ちなみに、予約方法ですが、スマホで空き時間に名前を記入します。

館内での飲食禁止、13歳以下の大人同伴、
博物館閉館1時間前までに退出、と注意書きがあります。

おそらくU-505展示のハイライトがこの艦内ツァーです。

59 人の男性が何ヶ月も生活し、食事をし、働き、その後戦い、攻撃を受け、
死ぬことさえあったそのあまりに狭い空間。

我々は映画や写真でボートの中を何度か見た気になっていますが、
実は写真や映像では実際の艦内のサイズは全く伝わりません。

ここは何としてでもUボート内部に入ってみなければ。


U-505を取得し、展示することになってから、
MSIは係留されていたポーツマスに何度か人を派遣し、
艦体をどのように改修するかの検討を始めました。

結果、左舷側に穴を開けることが決まりましたが、
訪問者がどこから出入りするべきかが問題となりました。

電気モーター室からボートに入り、下士官室から出るべきか、
それとも後部魚雷室から入って前部魚雷室から出るべきか。

MSIのエンジニアは前者の計画を選択しました。


この艦内コンパートメント図でいうと、
11番から入って2番から出ていくというプランです。


というわけで穴あけ中

しかしその頃(1954年)は、まだハッチを残しており、
見学者は(他の博物館の潜水艦はほとんどがそうですが)
狭いハッチを潜り抜けて内部を見学していました。

U-505を屋内展示することになったとき、
あらたな改装として下士官室コンパートメントの床が
博物館のフロアと同じ高さで出入りできるように下げられました。



左がオリジナルの床。右側、人がいるところが低くなっている

多数の訪問者がボートにやってくることを見越して、
制御室に出入りするハッチも切り取られて拡大されたため、
狭いハッチを人々が潜り抜ける時間が要らなくなり、
あまり移動に時間をかけることなく、しかもほとんどの人々が
内部に入ることができるようになったのです。

現在は外に展示していた時の逆で、
下士官室から入って電気室から出ていくという通路になりました。



それではU-505に入っていきます。
見学者用の出入り口はスロープに続いて全く段差なく、
艦内に入っていくことができます。

さりげなく船殻と内部圧力室の間をライトアップして
構造を観察しやすいようにしてあるのがさすが。



■ 今ある姿に至るまでの「存続の危機」

U-505は戦後初期から何度も廃艦の危機に瀕していました。
以前も書きましたが、彼女が救われたのは、ダン・ギャラリー提督
ジョン・E・フロバーグ海軍次官補の尽力によるものでした。

しかしながら、その過程でいろんな部品が内部から持ち出され、
オリジナルの形が損なわれていったのも事実です。

まず、U-505 の対空甲板砲は、ボートがバミューダに到着してから、
テストと評価のためにアメリカ海軍によって早々に取り外されていました。

いつボートに戻されたのかは不明ですが、一つのバレルを除いて、
すべての甲板銃はU-505 のオリジナルであることは間違いありません。

足りなかったバレルは、終戦時にアメリカ海軍に降伏した
最初の U ボート、U-858 (Type IXC/40) のものが設置されました。

海外に送られて帰ってこなかった部品もあります。

ラジオと音響装置と潜望鏡が取り外され、スペアパーツとして、
降伏したドイツの潜水艦を使用していた他の海軍に送られましたが、
中でもフランス海軍は、没収したUボートを運用するために
スペアパーツを含むU-505の装備の多くを持っていきました。

ボートには、ディーゼルエンジンコンパートメントの
メイン・ベンチレーター・モーターなど、様々な機器が散らかされ、
ラジオ室と音響室全体は早々に解体されました。

受信機を備えていて、万が一U-505がアメリカ本土にあることが
それから察知されたら、という可能性をなくすため、
通信機器の解体はいち早く行われたものと思われます。

無線室は今艦外の見学フロアに再現されている
すべてU-505オリジナル

さらに、ボートの極秘コードブックを保管していた金庫が、
無線室、船長室、士官室からなくなっていました。

U-505がシカゴに運ばれる計画が立てられてから、
牽引時のボートの重量を軽減するために、
ウイングダウン・デッキプレートの下に収容されていた
重いバッテリー (約 80 トン) も取り外されていました。

U-505を博物艦展示する準備にかかったMSIは、
可能な限りオリジナル通りのボートを復元するために、
海軍に対し、評価やテストのために持ち去った装備を返却すること、
そして、オリジナルが見つからなければ、他の押収されたボートから
同様の部品を代替品として提供して欲しいと依頼しました。

そんなおり、MSIスタッフは、大変ラッキーなことに、
ポーツマス海軍基地の海軍海底音響研究所で働いていた
カール T. ミルナー
という人物とコンタクトを取ることができました。

U-505は利用されるだけされた後、ポーツマスで終戦からずっと放置され、
案の定、ラジオと音響機器は、すべて基地のゴミ箱に捨てられていました。

電子機器いじりが趣味だったミルナーは、
これらのお宝をゴミ箱から回収し、地下室に保管していました。

その後、シカゴでのU-505の展示セレモニーに出席し、
ボートの内部を見学した彼は、訪問後、博物館の職員に連絡を取り、
地下室の「コレクション」に興味があるかどうか尋ねました.。

博物館が彼の申し出に狂喜乱舞したのは言うまでもありません。

その後、ミルナーは自費でお宝の全てを送り、
ギアはU-505にインストールされました。

ただし彼は不足しているものすべてを持っていたわけではなく、
一部はU-505のものでしたが、他のアイテムは
戦争の後半に運用された他のボートからのものでした。

■ Uボートの下士官



(ドイツ型IXC潜水艦、1941年)1944年6月14日、
USS「ガダルカナル」(CVE-60)のカメラマンが撮影した下士官の部屋。

写真中央に取り付けられている大きなクランクが、
U-505の乗員が総員退艦の際、自沈させるために解放した
Flutklappe(浸水フラップ)のレバーであると書かれています。

U-505に潜入した「ボーディングメンバー」は、まず
自爆装置の解除と自沈フラップを閉めることを真っ先に行いました。

【Uボート乗組の下士官】

Uボートの水兵を率いる下士官のさらに上に立つのが
チーフ・ペティ・オフィサーです。

航海;Obersteuermann /航海と物資の補給

運用;Oberbootsmann/ 乗員の規律など統制

ディーゼル;Diesel/ 機関長 Obermaschinist Leitender Ingenieur
=LIの下でディーゼルを担当

モーター;Electro Obermaschinist /LI下で電気モーターとバッテリー担当



下士官の数はボートによりますが、一般的には乗員3人に対して2人で、
様々な種類の専門家によって構成されていました。

ペティ・オフィサー(Unteroffiziere)

ヘルムスマン;Steuermann 操舵

トルピードマン;Mechaniker 魚雷

モーターマン;Maschinisten モーター

レイディオマン;Funkmaat  音響、通信

ボースン;Bootsmanner 乗組員の規律監督




■ 下士官寝室

さて、軍作戦上取り外された機器以外にも、
取り外されてそのまま紛失してしまったものは多数ありました。

これは、たびたびこのブログでも触れているところの
『アメリカ兵の戦利品コレクション癖』
のせいというのが大であるとわたしは見ています。

もちろんそれだけではなく、単に扱いが雑だったと言うこともあります。

たとえば、乗員寝室ではバンクのフレームは全て取り外され、
前後の区画に散らばって、マットレスもなくなっていました。

これは、ボートが拿捕された直後、アメリカ軍のクルーが、

ドイツの馬の毛を詰めたマットレスが不快

という理由でそれらを捨ててしまったからです。

一度はアメリカ海軍支給のマットレスに置き換えられたのですが、
これすらもボートがポーツマスで保管されたときに姿を消しました。



オリジナルだったギンガムシートは、最終的にボートに戻されました。

U-505に乗組員が乗り組み、生活していたときの状態で展示することが、
あくまでも博物館の目標だったのです。



低く改装された下士官寝室の床ですが、
画面下のスロープを上ると元の高さ(オリジナルの床)に戻ります。

手前にあるのが自沈フラップのクランクですが、
当時の写真と比べると、違うレバーが取り付けられているのがわかります。



前部魚雷室の後方にある下士官とチーフ(先任下士官)の居室には、
両側に 6 つずつ、計 12 の寝台が設置されていました。

上級下士官は、個人の寝台を利用する権限を持っていたということですが、
ご存知のように兵は寝台を互いにローテーションしていました。
「ホットバンク」はアメリカ海軍の言葉ですが、ドイツ海軍も意味は同じ。

写真をご覧になればわかるように、Uボートの内部は木が多用されていて、
必要最小限しか木製のものが見られないアメリカの潜水艦とは
設計思想が違うのかなと思わされます。

木を使うのは重量の軽減のためだと思うのですが。

上段は隔壁(ボート内の壁)に沿って折りたたむことができ、
下段は中央通路に配置された折りたたみ式の食器テーブルに向かう時、
座席として使用されていました。



ベッド脇には個人の私物を入れる木のロッカーがあります。
ここには缶詰や食料も詰め込まれていました。

天井に通るパイプには肉(多分ソーセージとかハム)とか
パンを入れた網のカゴやネットが所狭しと吊られていました。



この写真では、床が「低くされている」のがよくわかります。

この隣にギャレー、その向こうには士官ワードルームがありますが、
下士官&チーフのコンパートメントは、士官用とほとんど変わりなく、
彼らの待遇がかなり良かったらしいことがわかります。

なお、枕カバーのブルーのギンガムチェックですが、
どうもこれがUボートの標準仕様だったのではないかと思われます。

ギンガムは子供服とか子供部屋のカーテンのイメージですが、
ドイツ海軍がなぜこの柄を選んだのか理由があればそれを知りたいものです。



さて、1990年代に、戦時中アメリカ軍によって作成された
U ボートの機密文書が公開されたため、これを元に、
博物館は何が欠けているかを特定する作業を続けました。

しかし現在でもU-505から散逸したものは全て戻ってきていません。

いつかそれらのアイテムをすべて回収して、
元の状態の部屋を表示できるようになることを、
MSIは今も現在進行形で願っているとのことでした。


■ 余談:潜水艦スラング

今回の検索過程で、アメリカ海軍の潜水艦のスラング集を見つけました。

Uボートとは潜水艦つながりというだけですが、
これをちょっとずつご紹介しておこうと思います。

ちなみに冒頭にはこう書かれています。

もしあなたが気分を害しやすい人なら、今すぐ読むのをやめてください!
用語やフレーズの多くは非常に露骨ですが、多くは
ポリティカル・コレクトネス以前に使用されていたことをご了承ください。


「12 mile limit 」

国際的な12マイルの境界線を指す。
水兵がこれを言う時は「制限外なので何でもあり」の意

「120人の潜水艦水兵が上陸すると60のカップルになって帰ってくる」
"120 sailors go down, 60 couples come back"


嫉妬深い水上艦水兵が、面白いと思って使う、潜水艦をバカにする言葉

「20ノット」
潜水艦関係者以外に教えても許される潜水艦の最高速度

「400フィート」
潜水艦関係者以外に言っても許される 潜水艦の最大深度

「7 P's(セブンピーズ)」
                    Proper Prior Planning Prevents Piss Poor Performance.                                                     
=「適切な事前計画により、小便が出るようなパフォーマンスは防げる」
トレーニング施設などでよく見かけるフレーズ

「ADCAP」

ADvanced CAPability
マーク48魚雷の最新版
                                                     
「Air in the banks, shit in the tanks,ready to submerge below...
sound the diving alarm!」
"バンクに空気、タンクにShit、下に潜る準備完了...潜水警報鳴らせ!" 

潜水艦が潜航準備に入ったことを報告するための、省略された非公式の掛け声

「ファミリーグラムとダイエットコークさえあれば、潜航中も幸せだ」

通常、潮気まみれの老潜水艦乗りが資格をとっていない新人に言う言葉で、
自分たちがいかに熱心であるかを自慢している

ファミリーグラムとは、米&英海軍潜水艦に勤務する乗組員に
その家族が送る個人的なメッセージのこと

“All hands desiring to do so lay to the do so locker and do so”
「希望するものは全員ロッカーを横にしてそのようにしてください」


あほな1MCアナウンスを嘲笑する以外の意味は全くない言葉
1MC(1メインサーキット)とは、アメリカ海軍における艦内放送のこと。

「アングルとダングル (Dangles)」
潜水艦が深度を急激に変化させる時のこと

通常、海上試験や配備前の潜航期間中に行われ、
すべてのものが適切に収納されていることを確認する。

「Ass○oles and elbows」
甲板員が手と膝をついてウッドデッキを掃除している時、
後ろにいる艇務員に見える光景(のすべて)

陸でも皆が掃除すべきとかふざけてはいけないという意味で使われる

「A.T.F.Q. 」
 Answer The ucking Question.

この質問に答えなさいという意味

(もし不評でなければ次回はBより)


続く。




”パリー”とガン高校〜シリコンバレーの高校生

2023-07-19 | アメリカ

ここパロアルトでの生活もはや3週間になろうとしています。
この間のことをつれづれにご報告させていただきます。



最初に住んだプロフェッサーズ・ビルでは毎朝近所を歩きました。
この一帯は緑が多く街路樹が影を作るので、とても快適です。
(西海岸のトレイルは海岸や川沿いで日陰がなく、陽が高くなると過酷)

住人が設置した妙なオブジェに出会うのもまた一興。



ある朝、何年か前Airbnbではない業者を通じて借りた
インド人がオーナーの部屋を見つけました。

外から見るといい感じですが、典型的なアメリカの古い家で、
中はあまり清潔とは言い難かった記憶が・・・。

あれは確かトランプが大統領になった年でした。


いつもは東海岸から西海岸に移動しますが、今年は
最初から最後まで西海岸に滞在します。
移動がないので交通費は安く上がりますが、
物価の高騰は結構凄まじく、極力外食は控える方向に。



しかしたまには家族での外食も楽しみたい。
なにしろここはあらゆるエスニックな料理が楽しめる西海岸です。
最初の外食は、モールの中にあるパエリアの店でした。
鍋は大きいですが、レストラン側も物価高に腐心しているらしく、
ライスの量は限界まで減らされていました。
鍋底まで深さ1センチくらいしかなかったかもしれません。

これを3人で食べるのは、いかに少食の我々でも少々もの足りませんでした。

■ パリー〜全米一〇〇の多い高校


このモールの道向こう側にパロアルトハイスクールという高校があります。
地元では「パロ高」的なノリで「パリーPally」と呼ばれています。

位置的にいうと、モールと並んでおり、目の前の幹線道路の向こうは
総合で全米1とも2とも言われる有名大学があるわけです。

昔からここに来るたびに、なんとなくですが、
この高校に通う生徒は、なまじ道向かいにあるこの有名大学の存在が
プレッシャーみたいになっていないのだろうかと思っていました。

今回ふとしたきっかけで、「パリー」の創立は向かいの大学とほぼ同時期、
高校の敷地そのものが、その大学の提供によるものであることを知り、
さらにその疑念は強くなったのですが、それが確信となったのは、
MKがふともらした、

「あそこ、全米一自殺が多い高校なんだって」

という情報でした。
別に附属高校というわけではないまでも、隣にあって
歴史的な関係も実際の関係もあれば、その大学への入学を望む親は
他の高校より有利になるかもという思いで越境させるケースもありそうです。

しかしわたしの予想に違わず、パリーで優秀な子に限って、
プレッシャーに押しつぶされてしまうケースが後を絶たないようでした。

そして、この「近隣プレッシャー」は、パリーだけのことでなく、
やはりこの近く(大学より2ブロック南、車で5分以内)にある
パリーのライバル高、ガン(Gunn)ハイスクールもまた、
同じく自ら命を断つ生徒が少なくないと聞いて、わたしは戦慄しました。

そしてこんな記事を見つけました。

シリコンバレーの自殺者
The Silicon Valley Suicides


なぜパロアルトでは将来を嘱望された子供たちが自殺するのか?

ハンナ・ロージン
2015年12月号
救われた物語

空気が悲鳴を上げ、生命が止まる。
まず遠くから、怒った虫が群がるような高い鳴き声が聞こえ、
次に群れが移動するような踏みつけ音がする。

カルトレインの踏切を通り過ぎる自転車に乗った子供たちは、
学校から家に帰りたがっているが、その手順は知っている。
ブレーキをかける。電車が通過するのを待つ。

5両編成の2階建て車両が時速50マイルで駆け抜ける。
あまりの速さに、乗っているシリコンバレーの通勤客の顔は見えない。
駅に入ってくるカルトレインは速度を落とし、あなたを招き入れる。
しかし、踏切に差し掛かったカルトレインは、まるで救急車のように、
猛烈な勢いで警告を発してくる。



子供たちは、通過する列車が肌に感じる突風を発生させるまで待つ。
警報機が鳴り響き、念のため赤いライトが数秒間点滅する。
そしてゲートが持ち上がり、安全に渡れることを知らせる。

自転車、スケートボード、ヘルメット、バックパック、
バスケットボールのパンツ、賑やかな会話。

「お前何年間同じガム噛んでんだよ?」
「クイズ(試験)は来週だよ、バカ」

道路では、ミニバンが少し早すぎる左折をした。
パロアルトの春はいつもそうだが、空気はまた静かだ。
キツツキが近くで仕事をしている。
ハチはジャスミンを探しに行くのに熱心で誰も刺さない。

パロアルト高校の校庭、ガン高校の子供たちが放課後にたむろする
ピアッツァの食料品店のテーブル、真夜中過ぎの子供たちの寝室。

数人の生徒が、バレーボール・チームの恒例行事である
「スクービー・ドゥー」に扮して写真を撮ろうと、早起きしていた。

そのうちの一人、アリッサ・シー・トーは、
合唱室の外で1時間目が始まるのを待っていた。
徐々にクラスメートたちが彼女に加わり始めた。
窓からは、そこに詰めている教師たちの姿が見えた。

ヘンリー・M・ガン高校の他の教室では、約1900人の生徒が待っていた。
数分後、教師たちは外に出ていった。
アリッサは中の席に着いた。

2014年11月4日、ホームカミングの数日後、
大学入学願書が皆を熱狂させ始める1カ月ほど前のことだった。

教師は、「昨夜自ら命を絶った」という言葉を含む声明文と、
キャメロン・リーという名前を読み上げた。

アリッサはまずこう思った。

「うちの高校に他にキャメロン・リーって子、いたっけ?」

というのも、彼女が知っているキャメロン・リーは、
人気者でスポーツ万能、学業には無関心のようで、
人のリュックを裏返すという迷惑ないたずらの熱心な実践者だったからだ。

その日、アレックス・ギルが少し遅れて学校に着くと、
廊下で誰か泣いている人がいた。

校長のデニース・ハーマンは彼を呼び止めて話しかけた。
彼女はアレックスがキャメロンの親友の一人であることを知っていたからだ。

そのこと告げると、彼は床に膝をついた。

彼はキャメロンが前日に送ってきたメールのことを考えた。
キャメロンは、バレーボールのトライアウト(基準テスト)に行ったが、
メールをしてきた段階ではまだ健康診断を受けていなかった。

彼は死ぬ数時間前にそのメールを送ったに違いない。


註;アメリカの大学は、スポーツ枠があり、隣の名門大学も
フットボール、野球、バレー、各スポーツでの推薦入学者を取っている

後日、ターン・ウィルソンは、創作の授業で、
キャメロンと友達だった人はいるかと尋ねると、
生徒の3分の1が手を挙げ、
彼と一緒に授業を受けたことがあるかと尋ねると、全員の手が挙がった。

生徒たちはいつもは "おどけてて陽気 "なのだが、
その時間帯は "まったくもって無口 "だった、と彼女は後に語った。

その朝、学区のグレン・"マックス"・マクギー教育長は、
学区のもうひとつの公立高校である、
パロアルト高校のキム・ディオリオ校長に電話をかけ、

"これはみんなに大きな打撃を与えるだろう "

と警告した。
マクギーはその年、この地区に赴任してきたばかりだったが、
赴任したときからその歴史は知っていた。

この2つの高校の10年間の自殺率は、全国平均の4倍から5倍である。

2009年の春から9ヶ月間にわたり、ガン校の生徒3人、
新入生1人、新卒者1人が、対向してきたカルトレインの前に飛び出した。
別の新卒者は首を吊った。

その間の数年間は静かではあったが、慰めにはならなかった。

スクールカウンセラーは、ハイリスクと思われる子供たちの流入に
「圧倒され、過負荷」状態が続いていた、と、
2006年からガンのメンタルヘルス・プログラムの監督を手伝っている
ロニ・ギレンソンは言う。

そして、2013-14学年度の調査によると、パロアルトの高校生の12%が、
過去12ヶ月間に真剣に自殺を考えたことがあるという結果だった。

キャメロン・リーが亡くなる3週間ほど前、マクギーの勤務3カ月目に

地元の私立学校の女子生徒が陸橋から飛び降りた。

その1日後、前年にガンを卒業したクイン・ゲンズが線路で自殺した。
感謝祭前だというのに、ガン校の生徒2人がすでに亡くなっていた。

「自殺のクラスター」とは、複数の死が連続して発生し、
しかも近接した場所で発生することを意味する。
マクギーと他の管理者たちは、傷つきやすい生徒たちが
深く考えすぎて、自分をキャメロンと同一視しすぎることを心配した。

ディオリオは2009年と2010年、
「パリー」のガイダンス主任を務めていた人である。
一日中、パリーの生徒たちはフェイスブック、インスタグラム、
ツイッターから最新情報を得ることができるようにした。

2時限目には、多くの生徒がまたもやカルトレインの仕業だと知っていた。

その日もいつものように、ほとんどの教室では電車の音が聞こえた。
それは20分おきくらいに通過していったが、生徒たちにとって、

その日の警笛は、『ハンガー・ゲーム』で子供が死ぬたびに鳴り響く
大砲のように聞こえた、と、ある生徒が後で教えてくれた。


アトランティック誌の全国特派員ハンナ・ロージンが、
12月のカバーストーリーの背景にある調査について説明している。

有難いことに、あるいは不気味なことに、
この学区には自殺予防の専門家が揃っていた。
スタンフォード大学の専門家と、近年深い知識を備えた素人たちだ。

2009年から10年にかけて起きた集団自殺の後、
学区は自殺後の包括的な「ツールキット」をまとめ、
再び集団自殺が起きないようにするために何をすべきかを職員に教育した。

統計的には、それが起きる可能性は高いわけではない。
なぜなら10年以内に同じ場所で2度目のクラスターが発生する
「エコークラスター」は極めてまれであるとされるからだ。


ガンの教師たちに対する対策は、もしトラウマを強く感じられたら、
その日は代理の教師を立てることができるというものだった。

グリーフ(悲しみ)カウンセラーは校内をくまなく歩き回り、
泣きながら立ち尽くしている生徒のグループに出会うと対応した。
職員は、特に傷つきやすいと思われる生徒を慎重にチェックした。

訓練では、模倣を阻止する鍵のひとつは
死をロマンチックにしないことだと学んでいたので、
彼らはちょうどいいトーンを打ち出すのに苦労した。

キャメロンの記憶や打ちひしがれた家族を侮辱することなく、
キャメロンを英雄や殉教者に仕立て上げることは避けなければならなかった。

花輪とテディベアの記念碑にキャンパスを占拠させることなく、
生徒たちが悲嘆に暮れるスペースを作らなければならなかった。

2009年、このクラスで最初に線路で亡くなった
ジャン=ポール・"J.P."・ブランシャールを追悼することになったとき、
生徒たちは学校中にバラの花びらをまいたものだった。

ターン・ウィルソンは、そのバラの花びらは美しく、
心を揺さぶるものであったが、同時に、病的なものであり、
まさに落ち込んだティーンエイジャーが自分の将来の悲劇の背景として
想像するような「小道具」に思われたと回想している。

キャメロンが亡くなった翌夜には、何人かのクラスメートが校内に忍び込み、
"We love you cameron " "Rip cameron "
といったメッセージをチョークで書いた。

結局、何人かの生徒が校外の地元の小学校で追悼式典を開くことにした。
それを計画した一人が、その年の3年生学級委員長で、
J.P.の妹の一人であるイザベル・ブランシャールだった。

「私は15歳なのに、追悼行事を企画することになってしまった」

と、帰宅した彼女は母親のキャスリーンに言ったという。

疲れ果てたキャスリーンの言葉には、根底にある疑問があった。


「よそ者からの嫉妬を買い、クールなガジェットやアイデアが生まれ、
楽観主義が限りなく広がり、多くの人々がこぞって老化を遅らせ、
おそらくいつか死を止めるような発明に取り組んでいる」

そんな場所に住んでいながら、高校3年生が、
他の10代の若者の死にシンパシー感じているのはなぜなのだろう?




■ カルトレイン沿いのコーヒーショップ


さて、こちらにきてからMKが開拓した美味しいコーヒーショップに
何軒か連れて行ってもらいましたが、その一つは、スタンドだけで、
テーブルは全て外の傘の下というカリフォルニアらしいこの店です。

ところで、この写真の様子を覚えておいてください。
MK以外に人はいません。



隣は先ほども話題に出たカルトレインのメンローパーク駅。
ちなみに「パリー」はこの次の駅との間にあり、最初の写真が
おそらく彼らが「利用」した踏切となります。

メンローパークは空撮を見ても一軒当たりの面積が異様に広く、
隣のアサートンと並ぶ豪邸街で、ザッカーバーグもイーロン・マスクも
ここに自宅(のうちの一つ)を持っているという地帯です。

気候が良く、いつも花の香りに満ち溢れ、緑が辺りを覆う。

しかしシリコンバレーという世界でも特殊な地域には、目に見えぬ軋轢、
富と幸運の奪い合い、熾烈な生存競争といった相剋が渦巻いています。

高校生たちは、そこに飛び込まざるを得ない自らの運命への諦めと、
うまくやっていくための努力を強いられる生活を、
おそらくは物心ついた頃から意識して生きてきたはずです。


そして、競争に勝ち、どこがゴールかわからない実績
(おそらく最初の『関門』は隣の名門大学に入れるかどうか)
を出すために、懸命に泳ぎ続けています。

しかしある日、「主流」に乗れないことを知り、泳ぐのをやめてしまう。
泳ぐのをやめても彼らは水から上がろうとせず、溺れていきます。

バレーボールで推薦基準に達しないと宣言されたキャメロンのように、
今まで思い描いてきた自分の未来の姿が否定された瞬間、
自分の生をも否定して、そこから離脱する道を選んでしまうのです。

彼らの自死はMITやカルテックなどの難関大学で多々起きる、
いわゆる期待されたエリートの挫折の果てのそれと構造を同じくしています。


この街角のいたるところには、メキシコからの不法移民が、時には子連れで
「助けてください」というプラカードをあげて物乞いをしています。

素晴らしい気候、眩いような洗練された都会、最先端のハイテク都市、
その栄華のおこぼれに預かり、何をやってでも生きていこうとする人々は、
そこに住むことそのものがゴールであり、幸運だと信じています。

ところが、移民にとっての天国の住人であるはずの若い人たちが、
人生のあまりにも早い段階で、容易く自分の生を手放してしまうのです。

何と皮肉で悲しい対照であることか。


コーヒーショップの一隅には(おそらく向こうがアパートであるため)
客席の代わりにフルーク式の錨が立っています。


この日、わたしたちが到着したとき、他に客がいなかったので、
安心して?時間のかかるプアオーバーを注文しました。

ところが、わたしが並んだ途端、後ろに長蛇の列ができてしまい、
(これはさっきの写真の3分くらい後)
今回も連日にわたり、いつもの、自分には何の得にもならない特殊能力
(招き猫パワー)を発揮していることをあらためて確認しました。

うーん・・・この能力、何かの役に立てられんものかな。

続く。


”ミステリーシップ” フランク・ホークスのテキサコ13〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-17 | 航空機

TEXACO、という文字を見ると、わたしはどうしても
ガソリンスタンドを思い出してしまうのですが、
テキサコは2005年にシェブロンと統合して名前が消滅し、
いつの間にかテキサス州にしか存在しなくなっていました。

しかし、テキサコという名前は、少なくとも航空ファンの間では
この小型飛行機のことであるようです。



「ミステリー・シップ」

というのは、当博物館に展示されているテキサコ13のことです。

1930年代、大変有名だったホークスというパイロットが、
トラベルエアーモデルR「ミステリー・シップ」を操縦して、
これで世界を回り、航空記録を打ち立てました。

この時点で気が付いたのですが、テキサコ13が愛称で、
「ミステリーシップ」の方は正式な機体の名前です。

フランク・ホークス(1897-1938)は、
第一次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊のパイロットでした。

彼は1920年〜30年代にかけて、テキサコ社をスポンサーとして
アメリカやヨーロッパで214の地点間記録を打ち立てた、
記録破りの伝説の飛行家として知られています。


男前だったことから、映画にも何本か出演しています。

1937年に公開された連続映画『The Mysterious Pilot』では、
「世界最速の飛行士」と称賛されています。

 "Don't send it by mail ... send it by Hawks."
(郵便で送るな・・・・ホークスで送れ)

という言葉が当時の流行語になったくらいの「時の人」でした。

■ テキサコ13

1930年8月13日、フランク・モンロー・ホークスは、
カリフォルニア州グレンデールのグランドセントラルエアターミナルから
ニューヨーク州ロングアイランドのカーティス空港まで、
速度記録を更新するフライトに挑戦しています。



彼の飛行機は、正式にはTexaco No.13と名付けられた
トラベルエアーのタイプR「ミステリーシップ」。

このときの中継地と滞在時間は次の通り。

9時16分G.M.T ロスアンゼルス グレンデール

↓ 1,070km

12時43分G.M.T ニューメキシコ州アルバカーキ(17分滞在)

↓869km

15時28分G.M.T  カンザス州ウィチタ(7分滞在)

↓966km

18時23分G.M.T.  インディアナ州インディアナポリス
(13分滞在)

↓135km

21時41分G.M.T.ニューヨーク州ロングアイランド
カーティス・フィールドに着陸


そして、グレンデールからロングアイランドまで、
12時間25分3秒という記録的な経過時間で飛行することに成功。

彼は同じコースでチャールズ・リンドバーグが樹立したそれまでの記録を
2時間20分29秒更新し、新記録を打ち立てました。

各給油地での滞在時間を見る限り、彼はおそらく給油の間、
トイレに行って飲食物を受け取ることしかしていないと思われます。

しかし、わたしがそうだったようにほとんどの日本人は
リンドバーグは知っていてもこの名前を認識していないでしょう。

当時のアメリカ人にとって彼は超有名人で英雄でしたが、
それがつまり「最初と2番以降」の違いなのだと思います。

ことにリンドバーグは、この3年前に、既に
人類史上初の大西洋単独無着陸飛行を成し遂げていましたから、
いかにいまさら大陸横断時間を短縮したところで、
それは「ああ機体の性能が良くなったからね」
という注釈付きで語られる程度の「快挙」だったわけで。

加えて、ホークスはその一週間前、同じコースを東から西に飛んでいますが、
この時は14時間50分3秒とリンドバーグの記録に5分及びませんでした。

たまたまというか、西から東に飛ぶことで追い風を受けた機体は
2時間も短縮できたという事情もありました。

■テキサコ13号



ホークスのテキサコ13号は、カンザス州ウィチタの
トラベル・エアー・マニュファクチャリング社が製造した
5機の特別設計・製造のレース機のうちの4機目でした。

設立したのは、我々日本人ですら知るビッグネーム、

ウォルター・ビーチ(ビーチエアクラフト創立者)
クライド・セスナ
(セスナ創立者)
ロイド・ステアマン
(ステアマンエアクラフト創立者)


が名前を連ねていました。
(ステアマンが主任設計者)

ミステリーシップの「タイプ R」とは、
設計者の一人であるハーブ・ロードンのイニシャルから取りました。



1)カウル
エンジンを覆うことで冷却をよくし、空気抵抗を軽減した
NACA設計による

2)低翼設計
空気抵抗力を減らし速度向上
非常に薄くワイヤーで補強されていた

3)密閉式コクピット
低めに位置するため気流の流れが向上
パイロットの頭の後ろが高い「ホイールパンツ」採用

4)鋼管製胴体
機体の重量は軽くなり、強度も上がった

5)鋼鉄製ワイヤー
翼と着陸装置がより安定するようになった


タイプRは、溶接された鋼管で作られた
モノコックの胴体を持つ低翼単葉機でした。

胴体とリブにスプルース材が使用され、
胴体と主翼は、1/16インチのマホガニー合板で覆われていました。



(機体)
全長6.147m
翼幅9.144m
全高2.362m

(翼)
弦1.524m
総面積11.6平方m

空虚重量907kg
総重量1,497kg

(エンジン)
空冷、過給、排気量15.927l 9気筒ラジアルエンジン
300馬力/2,000r.m.
(ホークスのR-975は、2,400r.p.m.で450馬力)

巡航速度 1,950 r.p.m.で時速322km
海面走行時最高速度 時速402km

巡航速度での航続距離1,609km


■ 「ミステリーシップ」の由来

なぜタイプRが「ミステリーシップ=謎の船」だったのか。
わたしも真っ先にそれを疑問に感じましたが、この名前は
主に新聞などメディアが呼び出した「アオリ」的ネームだったようです。

それは創業者のビーチが極端な秘密主義だったからでした。

1929年にクリーブランドで開催されたナショナル・エア・レースに、
タイプRが2機が参加したことがありました。

パイロットは着陸するなり格納庫に直接タキシングしてエンジンを止め、
すぐに中に押し込まれて姿を消しました。
ご丁寧にも格納庫は施錠され、見張りをつけるという有様です。

これによって何が守られたのかは謎ですが、
少なくともこれでキャッチフレーズが決められることになりました。

■ フランク・ホークス



フランク・ホークスは、陸軍航空隊時代大尉まで昇進し、
記録的な大陸横断飛行の際には、陸軍航空隊の予備役でした。

記録を打ち立てたことで世間から人気を博し、
彼自身も"ミステリー・パイロット "を任じていました。

彼の肩書きは、
パイロット、デザイナー、作家、俳優、スポークスパーソン
となっています。

1897年アイオワ州に生まれ。
両親共に俳優だったそうです。

彼はロングビーチの高校高校生時代、飛行機に興味を持ち、
新聞記事を書いて飛行場の宣伝したことがありました。
この感想文で飛行への関心が高まり、飛行場のビジネスにつながると、
オーナーを説得して、体験と称し何度も無料でフライトしていたそうです。

カリフォルニア大学卒業後、1917年に第一次世界大戦が始まると、
宣戦布告されると、ホークスは陸軍に入隊しました。

【第一次世界大戦】

パイロットを目指して陸軍に入隊した彼は、
信号士官予備隊少尉の任に就いた後、飛行教官となり、少尉に昇進。

この頃彼は空中のデモ飛行で僚機と衝突する事故を起こして、
相手共々危険飛行の叱責を受け、
1週間の禁固刑という処分を受けています。

1919年に現役を退き、予備役大尉に昇進しましたが、終戦となったので、
しばらくバーンストーミングをしていました。

この頃、彼は、ロサンゼルスのフェアで
当時23歳のアメリア・イアハートを乗せて「初飛行」体験させています。
彼は10分間の体験飛行の賃金として、
イアハートの父親から10ドルを受け取りました。

【パイロットとしての成功】

ホークスはゲイツ・フライング・サーカスに参加し、
この頃珍しかった空中給油を行なって世間の注目を浴びるようになりました。

当時、アメリカはリンドバーグの「リンディーブーム」でしたが、
彼はそんな中自前の飛行機で賞金稼ぎで全米を回り、
「リンディが飛んだように」航空機に乗ることを売り込んでいました。

熱心に自己宣伝を続けた甲斐あって、彼はスポンサー
(マックスウェル・ハウス・コーヒー)を獲得し、その後ろ盾で
愛機「ミス・マックスウェルハウス」に乗ってレースの速度部門で優勝。

また、1927年テキサス社(Texaco)は、航空製品を販売するため、
ホークスを自社の航空部門の責任者に採用しました。

そこで彼は「テキサコ・ワン」と名付けた飛行機でテキサス代表団を
ヒューストンからメキシコシティまで往復させる仕事をしました。

彼は飛行機による全国親善ツアーで150以上の都市を訪れ、その間
「テキサコ・ワン」を見た人は50万人にのぼると言われています。

彼は自伝『スピード』の中でこう書いています。

「ツァーでは175の都市を訪れ、7,200人の乗客を乗せ、
56,000マイルのクロスカントリー飛行をした。
そして飛行機と乗客にその間一度の事故もなかった」


【テキサコ・イーグレット】

しかし彼も無事故のままいられたわけではありません。

1930年1月17日、フロリダ州ウェストパームビーチから離陸時、
滑走路が水溜りだったせいで「テキサコ・ファイブ」を破壊し、
駐車していた3機の列に激突するという壮絶な事故を起こしました。

しかし、ホークスは全く怪我もしませんでした。

1930年、ホークスはテキサコを説得し、
グライダーの有効性を実証するための試験飛行を支援することになりました。

当時、アメリカ陸軍航空隊の予備役だったホークスは、
グライダーの軍事的有用性を予見し、
政府の支援不足やベテランパイロットからの批判にもかかわらず、
大陸横断飛行を計画したといわれています。



テキサコ・イーグレット

1930年3月30日、サンディエゴを出発し、
ドイツのグライダーパイロットたちが飛行を危ぶんだロッキー山脈も、
予測されたすべての障害を乗り越え、時折乱気流に遭遇しただけで、
ホークスはニューヨークに到着し、
長距離グライダー曳航の実現可能性を事実上証明しました。

【テキサコ13の誕生】

1930年、ホークスはテキサコに、
失われた「テキサコ・ファイブ」の代わりに、革命的な新しいレース機
「トラベルエア タイプR ミステリーシップ」
を提案しました。

そして、完成後、一連の展示飛行やアメリカ横断の記録達成に乗り出します。

次々と記録を打ち立てながら、ホークスは、
記録的な飛行で集めたメディアの注目を利用して航空振興を図り、
特に高速の宅配便が実現可能であることを実証しました。

たとえば、フィラデルフィアでワールドシリーズ最終戦が終了したとき、
ホークスはクイーンズのノースビーチに飛び、
当時の電報サービスよりも速い20分後に試合の写真を届けたりして、
航空機のスピードと安全性と利便性をアピールしたのです。

1930年には、彼の人生と航空キャリアを記録した
自伝『スピード』も出版されましたが、これはなかなかの名著で、
今日でも普通に著作として読み継がれているほどです。


【事故からの回復】

マサチューセッツ州ウスターに訪れ、
現地のボーイスカウトに「安全な飛行機を開発する必要性」を説いた
その翌日、ホークスはぬかるんだ滑走路で飛行機を転倒させ、
鼻と顎を骨折し、歯が抜けるほどの重傷を負いました。

現在MSIに展示されている飛行機は、
この時の事故で損傷した機体を修復したものになります。

怪我の回復後もホークスは新型機で記録を更新し続け、1933年、
「テキサコスカイチーフ」で西から東への大陸横断飛行速度を記録し、
その後はノースロップ社でデモパイロットを務めました。

そして、映画やショーに出演、著作を通じて
常に航空について関わっていました。

【死去】

1937年、ホークスはエアレースからの引退を表明し、
グウィンエアカー社で営業担当副社長になっていました。

もはや彼はレーサー絵はなく、気楽なデモンストレーターとして
飛行機で全米を回る生活をしていました。

彼自身は、

「自分はおそらく飛行機で死ぬことになると思う」

と話していたということですが、その通りになりました。
1938年、自らの操縦する飛行機で墜落死したのです。

顧客に機体を宣伝するためニューヨーク州イーストオーロラに着いた彼は
ポロ競技場に着陸し、そこで顧客予定のキャンベル候補、
その他としばらく過ごした後、キャンベルを乗せて飛び立ちましたが、
直後に機体は墜落し、炎上しました。

残骸の中からホークスが、燃え盛る翼の下からキャンベルが
引き出されましたが、二人の怪我は致命的でした。

飛行機は着陸直後頭上の電話線に引っかかったとみられています。



MSIのテキサコ13は、博物館展示の炭鉱の上を、
イーストコーストに向かって素早く急激なバンクターンをしています。



その機上には、かつて時代の寵児であったパイロット、
フランク・モンロー・ホークスの姿が再現されています。


続く。


キャンパスツァー2023〜噴水の水遊びと西海岸一の教会、そして黒リス

2023-07-15 | アメリカ

こちらに到着して初めての週末となりました。

今年は独立記念日が火曜日なので、アメリカ人にとっては
5日間の「大型連休」となります。
MKもインターンシップの会社から「有給」の休みをもらいました。

例年この時期アメリカにいることが多い我が家ですが、
昔MKがサマーキャンプに参加していた頃は、母子二人で行くあてもなく、
ホテルの部屋でテレビの花火中継やホットドッグ大食いコンテストを見ながら
一日中ネットをしたりして漫然と過ごしていました。

しかしあれから幾星霜、そんな彼も大学生となり、
今回の連休中は、キャンパス内を案内してくれ、
自分のラボも見せてくれることになりました。



彼が住んでいる大学の寮は、夏休みに入ると
実家のあるアメリカ人がほとんど帰郷してしまい、いなくなるので、
残っているのは海外からの留学組か、あるいは
この近くでインターンシップをしている学生だけとなります。

部屋に荷物を置き、久しぶりにニコンのカメラを持って出かけました。



外の気温は32度と猛烈な暑さです。

わたしは大きな帽子で防護しましたが、MKは日焼け止めを塗って外に。
水のボトルを持って水分補給しながら歩きだしました。

確かに暑いですが、湿度が低いので、日陰に入るとひんやりします。
室内が蒸し暑いということはこの地域ではあまり起こりません。



大学の広さは全米一だそうで、キャンパス全体が一つの街です。

まずビジネススクール(経営大学院)が現れました。
ビジネススクールの学生の寮は、道を挟んだ向かい全部の地域となります。

地域柄、シリコンバレー近郊のベンチャーキャピタル、金融、
テクノロジー企業と非常に密接な関係を保っている大学院で、
年間1億5,600万ドルの営業収入で運営されており、
13億ドルの寄付金を持つ全米で2番目に裕福なビジネススクールです。

一位はおそらくハーバード ビジネススクールだと思われますが、
調べていないのでわかりません。



左手に見えるのは大学で最も古くて権威のあるホール、
エンシナ・ホール(Encina Hall)は、
1891年10月1日、大学開校初日にオープンしました。

堂々とした4階建ての砂岩造りの建物には、荘厳なロビー、巨大な食堂、
当時にしてすでに電気が通り、温水が完備されていました。

大学創立の祖は、1888年にヨーロッパを旅行中に偶然
スイスのシルヴァプラーナ湖にあるリゾートでこの建物を見つけ、
建築家にスケッチを送ってこれを再現させました。

当時にして47万7000ドルをかけた400人収容の学生寮は、
スイスのホテルの優雅な間取りをそっくり真似していました。

しかし、大学が開学し、最初の学生たちが到着すると、
そのような旧世界の気取った雰囲気は、ぶち壊しにされることになります。

彼らの多くは西部の片田舎で育ってきた粗野な若者で、
しかも不幸なことにこれが彼らにとって初めての独立体験。

開校1ヵ月も経たないうちに、エンシナの学生たちは、
近くの鉄道支線から貨車を勝手に脱線させ、
あやうく本線の列車を脱線させそうになるという事件を起こし、
怒り狂った大学創始者を落ち着かせるのに何時間も要しました。

エンシナホールは学生の活動、計画、リーダーシップの中心となり、
彼らはそれを誇りに思っていましたが、それは建物に対する感情ではなく、
その建物そのものを大切に扱うべきとは考えられていなかったため、
時が経つにつれて、すべての施設は悪用され、乱暴に扱われるようになり、
ついには「マッドハウス」とあだ名をつけられる魔窟になります。

たとえば。

ある住人が帰宅すると、

「部屋の壁以外のすべてが反転しており、
インクスタンドが不安定なまま切り立つ山の頂上にあった」。

その「山」の中には、ブロンズで縁取られた鉄製のオリジナルベッド台が2つ、
洋服ダンスが1つか2つ、大きな勉強机、背もたれの高いオークの椅子が4脚、
鏡、敷物2枚、電灯、洗面台が含まれていた。

1893年、創始者夫人がベンジャミン・ハリソン元米国大統領
のために用意した葉巻とウィスキーが何者か(もちろん学生)に盗まれた。


等々。

エンシナの長く広いホールと洞窟のような階段室は、学生の乱暴を助長し、
食器でいっぱいのトレイから重い家具まで、
ロビーに物を投げ入れるのが彼らのお気に入りの遊びの一つでした。

ある新入生の家族への手紙です。

「午後11時半に電気が消え、仲間たちが椅子や、痰壺、
その他いくつかのものを階下に "発射 "した。
ルームメイトが廊下に出て調べようとしたとき、
"3本の火の筋が飛び出し、3発の銃声が聞こえたので、
フレッドと私は危険な場所にいると判断し、そっと部屋に戻った"。」

管理当局はこれらの狼藉について一つの見解を出しました。

 「長いホールはいたずらを助長しすぎる。」


管理当局は、増大する騒動に対して、より厳しい管理で対応、
最終的には監視員が巡回するようになりましたが、
学年間の対立がいじめ行為を生んで深刻な事態が頻出します。

バスタブの中で新入生の頭を水中に押さえつける「バブリング」
(泡が出るまで、つまり必死になって口を開け、あえぎながら空気を吸うこと)

「花火やリボルバーを乱射し、校内を水浸しにし、
廊下の電灯をほとんど全部壊した」

「監視員に対し、20名が石やビール瓶、ひげそり用のコップ、
つば入れ、椅子、木箱を投げ続ける」

この事態が終息したきっかけは、皮肉なことに1906年4月18日の地震でした。
2本の大きな煙突が地下まで崩れ落ち、生徒1人が死亡、数人が負傷。


地震後修復されたエンシナホールではすっかり雰囲気が変わり、
大災害の前では、過去のことは水に流し、
行動と規律に関する教員と学生の関係をただそういう気風が生まれたのです。

その後、この雰囲気がもう一度だけ「アナーキー」に傾いたのは
いわゆるベトナム戦争反対の学生運動の頃だったと言います。

たとえば、エンシナのロビーで母親クラブがお茶を飲んでいるとき
生徒が上の階から落とした水袋がハーバート・フーヴァー夫人を直撃し、
犯人は最高刑(どんな罰かは不明)を受けたということがありました。

また、ベトナム戦争中、エンシナはデモ隊の標的になり、
押し入ってファイルを盗んだり、給与記録を盗んだりし、
ついには放火が原因と思われる大火災がおこってしまいます。

1995年、評議員会は、廃墟と化した東棟を含め、
歴史的に重要なこの建物を元の素晴らしさに戻すべきであり、
地震に耐えられるよう強化すべきであると決定しました。



MKによると、先日グアテマラの大統領が講演を行われ、
建物前の芝生にはずらりとSPが並んでいたとか。

今ではかつての学生の狼藉の痕跡は全く残されていません。



キャンパスにあった歴史写真のバナーに写っているのは、
この講堂の反対側ではないかと思われます。



看護学部の学生。
現在の看護学部は、Medicine Health Care の一部です。




骸骨に帽子を被せて抱き寄せているのは医学部教授です。

なんかあからさまにうっとりしてらっしゃるんですけど・・・。
この骸骨さんはもしかしたら本物?



工学部周辺。
人々の服装から見て1900年前後でしょうか。
建物の右上に「エンジニアリング」と彫刻されています。



1905年当時の機械工学部。
MKが現在籍を置いてお世話になっております。



「回復期センター」とだけ説明があります。
おそらく看護学部の施設の一つでしょう。
このたくさんの女の子たちはみんな病気なのでしょうか。



猛烈な日差しの中、積極的に日焼けしようとする人たち。
日本女性は嫌いますが、まだまだアメリカ人は日焼けが好きです。



ジョン・A・ブルーメ地震工学センター

地震工学の研究、教育、実践を行う機関です。
土木環境工学科の一部であり、地震リスクの低減において専門家と地域社会、
また、地震とその構造物への影響の理解に貢献しているそうです。



デザイン工学の研究室には、全学生の顔写真と、
彼らが制作した(かもしれない)車がありました。



すっかりプールと化した噴水のある浅い池。

子供を連れてきて、水につけている親がいたり、
池に置いたテーブルを囲んでゲームをする学生らしき人がいたり。
周りの芝生には水着姿でシートに寝そべるカップルまでいました。



さて、というわけで、MKのラボに辿り着きました。
アメリカの大学の工学部研究室というのは、どうしてこうも似ているのか。



学期中、時折MKはこのラボからSkypeをかけてきたものです。

サンクスギビング中でそれこそアメリカ人は皆帰ってしまい、
学校に残っているのは外国人組だけで、つい寂しくなったときとか。



ホワイトボードの落書きも全米共通の雰囲気。



MKがラボで作った水上バトル用船舶。
部品を作るのに彼の3Dプリンターが大いに役立ったようです。



この同じ水上対決用船舶の名前は「カラオケカタマラン」。
水上を滑走する時同時にカラオケが鳴る仕組みだとか。


ラボの教授似顔絵。(下手だけどむっちゃ似ているという)



さて、ラボ見学を終わり外に出ました。
この建物は、ヒューレットパッカードの一人、
ウィリアム・ヒューレットの寄付した工学部ティーチングセンターです。



そして道を隔てて向かいにあるのが相方のデビッド・パッカードの寄付した
エレクトリカルエンジニアリングの建物。

ちなみに彼らに起業を勧めたテルマン教授の名前を関したビルもあります。



こちらはどこにでもあるビル・ゲイツの寄付による建物。
なんか全米の大学に建物を寄付しまくってるみたいですね。

これだけ節操なく気前よく寄付しているなら、
日本に別荘を持っているよしみで、日本の大学に・・・とはならんかな。



数学科があるスローン・マセマティックセンター
アルフレッド・スローンは自動車工学の技術者出身で、
GMの基礎を作ったビジネスマンでもあります。

冒頭の写真の木々の奥に見えているのがこの正面玄関となります。


この少年が誰かはわかりませんでした。
おそらくですが、15歳で亡くなった創始者の息子ではないかと思われます。



キャンパス内には観光ツァーのグループがたくさんいます。
二人が写真を撮っているのは、オーギュスト・ロダンの彫刻。

通り過ぎながらルーブル美術館の「カレーの市民」をふと思い出したのですが、
当たらずとも遠からず、この作品は「カレーの騎士」だそうです。



アメリカ西海岸で最も古く、「最も著名な」超教派教会であり、
「大学の建築の至宝」と呼ばれるメモリアル・チャーチ

1903年に献堂されたロマネスク様式の建物の内部は
ヨーロッパの影響を受けたステンドグラスの窓やモザイク画に覆われ、
5台の異なるタイプのパイプオルガンを備えています。

メモリアル・チャーチは、1906年と1989年の2度の大地震に耐え、
それぞれの後に大規模な改修が行われました。



この協会は、大学の創始者の夫人が夫を偲ぶために建てたとされます。



教会内のステンドグラスの窓に、2人の天使が小さな子供を
金色の雲の上に座っているキリストに向かって運ぶ様子を描いたものがあり、
近くの窓にはキリストが魂を天国に迎え入れる様子が描かれていますが、
これは15歳でチフスに罹患し、早逝した夫妻の息子の死に因んでいます。

元々本大学は裕福な夫妻が、この息子の名前を
永劫に歴史に残すことを目的に設立したものでした。

息子はアメリカの裕福な家の子弟が恒例として行う、
グランドツァー(卒業旅行)先のアテネでチフスを発症し、
両親が治療のため連れて行ったフィレンツェで客死してしまいます。



反対側から見たチャーチ。
ステンドグラスがあしらわれた窓が見えています。



最後に、大学名物黒いリスを見ました。



当大学の黒リスにはじつに黒い噂(黒だけに)が纏わっています。

昔、教会を設立した創始者夫人がイタリア原産の黒リスに夢中になり、
神聖な大学を建設する際に、後世の人々を喜ばせるために
リスを大量に輸送し、キャンパスに放したという真偽の不確かな噂です。

しかし現代では黒リスはほとんど例外なく疥癬に冒されているようで、
ほとんどのアメリカ人は我々のように「可愛い〜〜」とは全く思わず、
彼らを巨大な黒いネズミ🐭にしかみなしていない模様。


シリコンバレー滞在シリーズ 続く



サイエンス・ストームのテスラコイル〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-13 | 博物館・資料館・テーマパーク


シカゴの科学産業博物館の展示から、
ここのサイエンス部門の目玉である

Wonder Is All Natural

のコーナーをご紹介します。
まずはMSIによる紹介の言葉をどうぞ。

わたしたちの世界に対する疑問は、そこに入るとほとんどすぐに始まります。

「火はなぜ燃えるのか?」
「雷って何だろう?」

わたしたちは、言葉もしゃべらないうちから、自然に魅了されています。
子供たちは、空の色や虹の終わりについて熱心に尋ねます。
そして大人はいつも天気の話をしています。

そう、わたしたちは、自分たちを取り巻く世界に見られる現象を
解釈したいという深い欲求を持っているのです。

そしてその答えは科学で出すことができますが、
同時に科学はまた疑問を呈するものでもあります。

疑問を持つ(ASK QUESTIONS)
内なる科学者を取り戻せ


「サイエンス・ストーム」で、不思議な感覚を取り戻しましょう。

この常設展「サイエンス・ストーム」コーナーでは、
自然の力をひとつ屋根の下に集め、稲妻、火災、竜巻、雪崩、津波、太陽光、
運動する原子という7つの自然現象を観察し、実験することができます。

もちろん、化学や物理のコアな概念も学べますが、
40フィートの竜巻を制御したり、150万ボルトの雷を見たり、
津波を起こしたりするのに夢中で、
もしあなたが「学んでいる」という実感がわかないとしても
それは無理からぬことでしょう。



竜巻の中に入ってみるなんて、そうそうできることではありません。
(ただしMSIではいつでもそれができるのです)


好奇心は、元来、再生可能なエネルギー源です。
自然の驚異を大規模に探索することで、あなたの好奇心を刺激してください。

周期表からランダムに3つの元素を混ぜ合わせるとどうなるか?
テニスボールを最も遠くへ飛ばすには、どのような角度が最適なのか?

などなど、さまざまな疑問が、あなたのために用意されています。
ここでの科学者はあなたです。

■ 竜巻 Tornado



つむじ風が吹く

台風の中のヤシの木や、荒れた日の風車など、空気の動きを見ていると、
催眠術にかかったような気分になることがあります。
しかし、風は一瞬にして破壊的な力を発揮します。

サイエンス・ストームの目玉である竜巻は、
高さ3mの渦巻き状の空気と水蒸気を自分で操作することができます。

また、大きな風船の中の空気を加熱して対流を作り、
その効果をサーモグラフィで観察することもできます。
また、だれかと一緒にストームチェイサーに乗り込んで、
悪天候を阻止する仮想レースも楽しめます。

ディズニーシーの「ストームライダー」を思い出しました。
もうなくなったらしいですが、あれは体が休められてよかったなー。

キャプテン・スコットは観測機に乗って嵐の真ん中につっこみ、
それで台風を消滅させていましたが、
ここではどんな技術で阻止するんでしょうか。



床から絶え間なく立ち上る、光に照らされた水蒸気の渦、
この渦のダイナミクスを、展示室の両階から操作・測定することができます。


竜巻🌀渦

渦の形状は、異なる高さでの空気の流れに応じて変動します。

ツイスターを形作るための通気孔は、
水平に吹いて空気の渦を回転させる風の効果を模倣しています。
自然界における竜巻の回転は、さまざまな高さと速度で
衝突する風によって影響を受けます。

1、レバーを動かして、4 つの通気孔からの空気の流れを制御します。
2 気流のさまざまなパターンを作成するための実験。
渦の高さに沿って気流を変化させると、
渦の形状がどのように変化するかを観察してください。


わたしも少しこれを動かしてみました。


■ 津波 Tsunami



津波のことを英語でいつからTsunamiというようになったのか。
おそらく近年だと思うのですが、それ以前は、科学者は一般的に
seismic sea waveという用語を使用しようとしていたようです。

日本語の発音は/ts/「ツ」ですが、
英語では語頭に/ts/を付けることができないため、
語頭の/ts/を/s/に変更し、"t "を削除した結果、
「スナミ」のように発音する人がいて、わたしの感覚では
ニュースなどでもそう聞こえることの方が多い気がします。



まるでわざとやっているのか?と思うような
男の子のシャツと同系色の、TSUNAMIと書かれた物体。
大きなお釜のような、コマのような・・・・。

【ダート・ブイDART Buoy46410】

そもそもダートって何ですか、って話なんですが、商品名です。

DART®
Deep-ocean Assessment and Reporting of Tsunamis
(深海における津波の評価と報告)

ということで、Tは津波のTだったのね。
要はリアルタイム津波モニタリングシステムで、
海中の戦略的な場所に配置され、津波予報に重要な役割を果たします。


DARTの仕組み

海底の圧力記録計から信号を受け取って、それをさらに
衛星を介してツナミセンターに送るというわけです。

日本でも地震が起こるとすぐに津波の予報がなされますが、
こういったモニタリング機器から情報を取っているのだと思われ。



そして、ここにあるDARTブイは、アラスカ湾に係留されていたのですが、
ある日外れてどんぶらこっこと400マイル流れていき、
コーディアック島というところに打ち上げられました。



赤の点が震源地・・・ってこれ日本の近くじゃないですか。
黄色がDARTが設置されていた地点です。

2006年11月15日、この深海津波評価報告 (DART) ブイは、
千島列島で発生したマグニチュード8.3の地震による津波を記録しました。

日本では「千島列島沖地震」と名称が付けられています。

現在は使用されていませんが、このブイはかつて、
国立データ ブイ センターの世界津波警報システムを構成する
DART ブイのグローバル ネットワークの一部でした。



しかし、流されて行方不明に・・。



見つかったのは1年後。



回収されました。
でっていう。

■ リップルタンク


子供の前にある大きな丸いディスクのようなものは、
波が物体や他の波とどのように相互作用するかを観察するシステム。



別のところにある3つの大きな波紋水槽のダイヤルを回すと、
水面で「タッパー」が作動して制御された美しい模様を作り出します。

天井から吊り下げられた水槽に、上から当てられた照明が、
下の床のディスクに大きな波紋の影を落としているのです。

それぞれの水槽は、回折、干渉、反射と拡散など、
異なる波動現象を表示するように設計されています。

■ ツナミ ウェーブ タンク



津波は遠距離に膨大なエネルギーを運びます。

科学者たちは、波の挙動を研究することで津波の説明と予測を試みていますが、
その道具のひとつがここにある「波動水槽」です。

展示されている30フィートの水槽では、あなたが作った波で
さまざまな沿岸環境への影響を調査することができます。



高速度カメラで波の動きを記録・再生し、
波のエネルギーや海岸線によって異なる波の動きを観察できます。

■ テスラ・コイル



テスラコイルのパートを通りかかったら、
エキジビジョン開始までのカウントダウンが表示され、
その時間を待っている人たちがいました。



開始まで後34秒というところで照明が暗くなってきました。


カウントダウンの間、皆は大きなスクリーンで
ニコラ・テスラとテスラコイルについての知識をちょっと仕入れます。

テスラコイルは、発明家ニコラ・テスラが1891年に考案した
「電気的共振変圧回路」で、高電圧、低電流、
そして高周波の交流電気を発生させるためのものです。

テスラはこれらの回路を使って、電気照明、燐光、
X線発生、高周波交流現象、電気療法、
電線を使わない電気エネルギーの伝送など、革新的な実験を行いました。

テスラコイル回路は、1920年代まで、

無線電信用のスパークギャップラジオ送信機
電気治療
バイオレットレイ装置などの医療機器


に実用化されていました。


ウーディンコイル(左)による癌(多分乳がん)の治療中
患者の頭の後ろにあるのがコイルの電源となる誘導コイル


真空電極による糖尿病の電気療法治療、1922年
前面に取り付けられた直列スパークギャップが見える

しかし、これらが癌や糖尿病を治療できたのかというと、
全く効果がなかったからこそいつの間にか使われなくなったわけで。

当時は難病を治療する希望の光に思われていたのでしょうけれど・・。

現在では、娯楽や教育用ディスプレイにしか使われていません。
小型のコイルは高真空システムのリークディテクターに実用化されています。



右側の図の下にはテスラのサインがあります。



テスラが提案した無線電力システム(1897年の特許より)

送信機(左)は、テスラコイル(A、C)で、
風船(D)で吊るした高架式容量性端子(B)を駆動するもの。
受信機(右)は、同様の端子と共振トランス。






テスラコイルが発する大量の火花は、電荷の劇的なデモンストレーションです。
正電荷と負電荷が分離し、再び結合して熱、光、音が激しく混ざり合い、
稲妻に似た壮観な電気の火花を発生させます。

派手な火花、その電流が感電を起こさずに人体を通過できることから、
テスラコイルはエンターテイメントビジネスで利用されるようになりました。



20世紀初頭には、巡回カーニバル、見世物小屋、サーカスやカーニバルで
出演者が高電圧を体に通す演技が盛んに行われました。

写真はそんな芸人の一人、「マドモアゼル・エレクトラ」で、
電気椅子に通電したのにあら不思議、彼女はしにましぇーん、
というような芸で売っていたようです。



自分の体を隠し持ったテスラコイルの高電圧端子に接続し、
指先などから火花を散らす「フランケンシュタイン」。
アーウィン・ムーン伝道師(エヴァンジェリスト)(1938年)



指でロウソクやタバコに火をつけることもできました。

通常は感電することはないのですが、素肌からのRFアーク放電は
火傷を引き起こすことがあったため、それを防ぐために
パフォーマーは指先に金属の指貫をつけていました。

実はこれらの演技は非常に危険であり、テスラコイルの調整を誤ると
パフォーマーが死亡する可能性もあったのです。

当時電気椅子による死刑方法が導入されたばかりだったアメリカでは、
このパフォーマンスは人々の興味を引きました。

今日でもテスラコイルを使って高電圧の演技が行われることがありますが、
テスラコイルの電流は全く生体に安全なものではなく、
体を通過させることは今日極めて危険と考えられています。


しかし、巨大なテスラコイルの電極から発せられるパチパチと蠢く火花は、
ハリウッドの「マッド サイエンティスト」の研究室の象徴となりました。

これはおそらく、謎の研究者、変わり者のニコラ・テスラ自身が、
「マッド サイエンティスト」の起源であり、原型の一つだったからです。

『メトロポリス』(1927)、『フランケンシュタイン』(1931)など、
多くの映画や映像媒体がテスラコイルを使用しました。

しかし、80年代には、それらはCGIに置き換えられてゆき、
セットでの危険な高電圧テスラコイルは必要とされなくなったのです。

続く。


ユナイテッド航空 ボーイング727〜シカゴ産業科学博物館

2023-07-11 | 航空機

MSIのトラフィックコーナー展示から、最後に
ユナイテッド航空のボーイング727を紹介します。



スミソニアン航空宇宙博物館以外で、
このクラスの大きさの航空機を室内展示していたのは、
わたしの記憶の限りではここだけです。

さらに、このボーイング727は一種の動的展示として、
何分に一度か、引き込み脚を出したり入れたりを見せてくれます。

ブルーの髪のお姉さんや、指差しているグループなど、
普段見ることのない(飛んでいる時ですからね)ジェット機の脚収納シーンに
皆思わず立ち止まってその動きを眺めています。

■ ボーイング727

ボーイング727は、ボーイング社が開発・製造した旅客機です。
旅客機には、通路が二つのもの、(国際線のほとんどがこれ)
一つのものがありますが、二つのを「ワイドボディ機」と呼ぶのに対し、
こちらは「ナローボディ機」とされています。

1958年、より重い707クワッド(quad)ジェット
4発エンジンジェット機が登場した後、ボーイング社は、
大量輸送をこちらに任せて、ナロータイプを
小さな地方空港間を行き来させる需要に対応させました。


1960年、ユナイテッド航空とイースタン航空が、
それぞれ40機の727の注文を行い運用を始めます。

1962年11月27日に最初の727-100がロールアウトし、
1963年2月9日に初飛行、翌年イースタン航空が就航しました。

クヮッドの4発に対し、エンジン3発をトライジェットといいますが、
ボーイング社で生産された唯一のトライジェット機である727は、
T字尾翼下にプラット&ホイットニーのJT8Dローバイパスターボファンを、
後部胴体の左右に1基ずつ、中央に1基を搭載しています。


JT8D-9A


胴体上部とコックピットは輪切りにすると6角形をしていて、
全長40.5メートル、2クラスで106名、1クラスで129名が定員となります。
旅客機のほか、貨物機やコンバーチブルバージョンも製造されました。

727は主に国内線に使用されましたが、国際線も運航しました。
2022年2月現在で、国内に残って商業運航しているのは合計38機。

最後の機体は1989年9月に製造された1,832機で、
それ以来生産されていないので、後は消えていくだけとなります。

■開発

ボーイング727の設計は、ユナイテッド、アメリカン、イースタン航空の、

「滑走路が短く、乗客数の少ない小都市に就航するジェット旅客機」

という要求を反映して行われました。

当時、双発の民間航空機は空港までの最大飛行時間60分という規制があり、
各社ともにハブ空港の圏内に位置する小空港に乗り入れたかったからです。

そして結局、3社は新型機の設計にトライジェットで合意しました。

しかも、727は主翼に高揚装置を備えていたため、
初期のジェット機よりも短い滑走路での着発が可能でした。

たとえばフロリダのキーウエスト国際空港は、
滑走路が当時4800フィートでしたが、ここにも余裕でOKでした。

ちなみにキーウェストの滑走路は現在でも5,076ft(1,547m)しかなく、
そのため出発フライトの機体には重量制限があります。

後の727型は、より多くの乗客を運ぶために拡張され、
ボーイング707やダグラスDC-8などの初期のジェット旅客機や、
DC-4、DC-6、DC-7、ロッキードコンステレーションなど、
老朽化したプロペラ旅客機の短・中距離路線で置き換えられていきました。

1984年には1,832機、1,831機の納入で生産が終了し、
1990年代前半に737がこれを上回るまで、
ジェット旅客機の中で最も多い総数となっています。

■デザイン


赤で示した部分がエンジンからつながるS字ダクトですが、
初便の離陸時に、ダクト内の流れの歪みによって
エンジンにサージ(急激な増減)が発生するという問題を引き起こしています。

この問題は、ダクトの最初の曲がり角の内側に
大型の渦発生装置を数個追加することで解決しました。

727は汎用性の高い旅客機で信用性も高く、
多くの新興航空会社の機体の中核を成すようになりました。

727が世界中の航空会社で成功したのは、
中距離路線でありながら小さな滑走路を利用できた、つまり、
人口が多くても空港が小さい都市から、
世界中の観光地へ乗客を運ぶことができた
からです。

短い滑走路に着陸できるようになったのは、
そのすっきりとした翼のデザインにありました。

翼にエンジンを搭載しないため、前縁装置、
および後縁リフト増強装置を翼全体で使用でき、
最大翼揚力係数3.0を実現したことが最大の理由です。



後に控えたU-505の見学に体力を温存するため、
私たちは結局申し込むことはありませんでしたが、博物館では、
展示されているユナイテッド航空ボーイング727の機体に乗り込み、
その内部と外部を探検し、民間航空を形成する技術について学ぶ、
というツァーが常時開催されていて人気でした。



ツァーの案内をするのは贅沢なことに?
ボランティアである、ユナイテッド航空の本物のパイロットです。

飛行機、飛行、航空業界について聞けば、それこそ何でも答えてくれたとか。
コクピットの説明などもこのボランティアは操縦法まで教えてくれそうです。



時間がなかったので中に入って写真を撮ることもできませんでしたが、
この左側の『Thin Air』は高度に対する技術、
そして右側の『Rough Air』は、
気流に対する安定性の追求についての展示だと思います。



左側の席はフライトアテンダントが座るジャンプシートでしょう。
昔の東京大阪のシャトル便では、右側最前席に座ると、
FAの方達としばらく向かい合うことになる仕様でしたが、
(あれは男性の方々にとってはお得感を感じる瞬間だったらしい)
今ではあまりお目にかからないような気がします。


【ダン・クーパー事件とエア・ステアの廃止】

727は小規模な空港向けに設計されたため、地上設備からの独立性確保として
胴体後部の下腹部から開くエア ステアが設けられました。

信じられないことに、これ、当初飛行中に開くことができたのです。


開いているエア ステア

1971年11月24日。
その頃、世界的にハイジャック事件が頻発していましたが、
この日ダン・クーパーと名乗る男が、
ポートランド発ノースウェスト・オリエントのボーイング727
をハイジャックし、シアトルのタコマに緊急着陸させた上、
現金20万ドルとパラシュートを要求して再び離陸させ、
このハッチを使って降りていった、という衝撃の事件が起こりました。

D.B.クーパー事件

ちなみにダン・クーパーは搭乗券を買う際の偽名であり、
事件の名前として残っている「D.B.クーパー」は、
あわてんぼうのどこかの記者の間違いが流布されてしまったものです。

いずれににしても、この飛び降りた人物のその後がわからず、
生死すら判明していない(おそらく死亡したとされる)ため、
今日に至るまでことの真相は明らかにされていません。

何しろ、被疑者とされた名前の残っている人物だけで13人もいるのです。


それはともかく、この事件以降、ボーイング社はじめ全ての航空会社は、
飛行中にエア ステアを下げることができないようにする装置
その名も「クーパー ベーン」を取り付けて再発に備えました。

【727の運用】

21世紀に入っても、727は一部の大手航空会社で現役を続けていました。

しかし、燃料費の高騰、9.11以降の経済情勢による旅客数の減少、
空港騒音の規制強化、古い機体の維持やフライトエンジニアの人件費、
こういった理由から、ほとんどの大手航空会社は727を廃止し、
より静かで燃料効率の高い双発機で代替しました。
(3基エンジンの727は騒音問題でずいぶんもめた)

また、現代の旅客機はパイロット2人という少人数で運航しますが、
727型機はパイロット2人とフライトエンジニア1人を必要としました。

2003年にはデルタ航空もノースウェスト航空も
最後の727型機を定期便から退役させ、
多くの航空会社が727を737-800またはエアバスA320に置き換えました。


■ ボーイング727の墜落事故

ボーイング727が関与した死亡事故は118件に上ります。
死亡者多数の大事故をいくつかリストアップします。

特に1960年〜80年代は大事故が多すぎて、130人で「脚切り」しましたが、
事故原因のほとんどはヒューマンエラーによるもの、
パイロットのミス、ハイジャック、軍機との衝突、攻撃などです。

事故の数だけ見ると、飛行機に乗るのが怖くなりますが、
この原因を見る限り、機体そのものは、適正に扱っていれば
絶対と言っていいほど事故にはならないのでは、とさえ思います。

まあただ、これはボーイング727という機体だけのデータと考えれば、
単純にやっぱり飛行機って落ちるんだなあということになるんですけどね。

それではどうぞ。


1966年2月4日: 全日空60便(727-100型)
夜間に東京の羽田空港にアプローチ海上に原因不明で墜落
搭乗133人全員死亡

1971年7月30日:全日空58便
航空自衛隊のF-86F戦闘機と衝突し乗客・乗員162名全員が死亡

1976年9月19日:トルコ航空452便
空港を間違えて着陸しようとして山地に衝突
乗員8名と乗客146名全員が死亡

1977年11月19日:TAPポルトガル航空425便
空港の滑走路をオーバーラン、急な土手を越えて突っ込み炎上
乗客164人のうち131人が死亡

1978年9月25日 パシフィック・サウスウエスト航空182便
サンディエゴでセスナ機と衝突して墜落
727便の乗客137人全員とセスナ機の2人、地上にいた7人の計144人が死亡

1980年4月25日: ダン・エア1008便
旋回中に地形に衝突し、乗客・乗員146名全員が死亡

1982年6月8日: VASP168便
最低降下高度を下回って山に衝突
乗客・乗員137名全員が死亡した

1982年7月9日: パンナム759便
ニューオーリンズ国際空港を離陸した直後マイクロバーストにより墜落
搭乗していた145人全員と地上にいた8人が死亡

1985年2月19日:イベリア航空610便
着陸中にテレビアンテナに衝突して墜落
乗員148名全員が死亡

1986年3月31日: メキシカーナ940便
離陸後、上空で過熱したタイヤが爆発し火災が発生、機体は制御不能に
乗員167名全員が死亡

1988年3月17日:アビアンカ航空410便
離陸後、コロンビアの低山に墜落
搭乗していた143名全員が死亡

1989年10月21日:タンササ414便
アプローチに失敗し山中に墜落
乗客・乗員138人のうち131人が死亡

1992年12月22日: リビア・アラブ航空1103便
リビア上空でリビア空軍のMiG-23と空中衝突を起こし墜落
乗客147名と乗員10名が死亡、MiGパイロット二人は生存

1993年5月19日:SAMコロンビア航空501便
空港(SKRG)へのアプローチ中に山に衝突
乗客・乗員132名全員が死亡

1996年11月7日: ADC航空86便(727-200型機)
空中衝突を避け回避行動をとった後コントロールを失い墜落
144人が死亡

2003年12月25日: ユニオンデトランスポーツ

アフリカンデギネ141便
滑走路をオーバーランして海へ
乗客名簿に記載された163人のうち151人が死亡
墜落の原因は乗客と貨物の過積載





続く。


「ライトフライヤー号をアメリカに帰そう」作戦〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-09 | 歴史

MSIの時間潰し航空機見学ツァー、最後に、
原初の動力飛行機であるところのライト・フライヤーと、
逆にここにある最新の飛行機であるボーイング727をご紹介します。

今日はライト兄弟のフライヤー、「キティホーク」から。

■ ライト・フライヤー『キティホーク』


MSIのトランスポーテーション(交通)ギャラリー東側バルコニーには、
1903年製のライトフライヤーの精巧なレプリカが置かれています。

これは、ライト兄弟の初飛行から100年の節目にあたる年、
2003年に、動力飛行を実際に行った米国初のレプリカです。




「グレン・エルリンの魂」と呼ばれるこの複葉機のレプリカは、
初期の革新的な飛行の現実と大胆さを間近で垣間見ることができます。



1903 年12月17日、オーヴィルとウィルバーのライト兄弟は
世界初の飛行機で有人飛行の夢を実現しました。

写真は、同日ノースカロライナ州キティーホークにおける歴史的瞬間。

ライト フライヤーは自力で離陸し、ほぼ 1 分間飛行を維持し、
パイロット 3 名の制御下で飛行しました。

これまで他のどの飛行機でも達成されたことのない偉業を成し遂げたのです。

オハイオ州デイトン出身の独学のエンジニア、プリンター、
自転車整備士が、航空時代を開始し、世界を永遠に変えた瞬間でした。



「飛行時代の夜明け」と記されたライト兄弟の写真。
上のキティホークでの初飛行で、コントロールしているのがオービル、
見守っているのがウィルバーです。

キティホークは初飛行の場所ですが、
ライトフライヤーの別名でもあります。

ご存知のように、これが有人重飛行機hevier-than-airの初の持続飛行でした。



アンヘドラル(垂れ下がった)翼、
前部エレベーター(カナード)、
後部ラダーを備えた単葉複葉機です。

12馬力のガソリンエンジンを搭載し、
2枚のプッシャープロペラを動かして操縦を行います。
(というよりただ乗っているだけ?)

最初の機体は不安定で飛行が非常に困難だったため、
4回目の飛行で260m飛んで着陸時に破損し、
その数分後に強力な突風で吹き飛ばされて大破しました。

その後オーヴィルによって修復され、現在は、色々あった後、
ワシントンD.C.の国立航空宇宙博物館に展示されています。

■オーヴィル・ライトとスミソニアンの確執

この間実は色々あって、「キティホーク」はロンドンにいた時期があります。
アメリカ人の魂と呼んでもいいようなライトフライヤーがなぜ?

それは、オーヴィルとスミソニアン協会の間の確執にありました。

地質学者チャールズ・ウォルコット

当時のスミソニアン協会長官チャールズ・ウォルコットが、
ライト兄弟が初めて動力による制御飛行を行ったという功績を認めず、
それは、ライト兄弟のテストが成功する9日前に、
同じようなチャレンジをして失敗したサミュエル・ピアポン・ラングレー
「史上初」であることにしようとしたからだと言われています。


ラングレー


ラングレーの実験(飛行時間5秒)
っていうかもう落ちにかかってるし

これは、ウォルコットが、サミュエル・ラングレーの友人だったことから、
なんとか彼を「史上初」にしたかったという情実からきたゴリ押しでした。

ちなみにラングレーはスミソニアン協会の事務局長でした。
(日本語のWikiでは長官となっているがこれは間違い)


エアロドーム(陸軍がラングレーに依頼した)

ラングレーがエアロドーム号を使ってポトマック川で行った実験は
失敗でしたが、友人の航空史における地位回復を臨むウォルコットは、
やはりライト兄弟と訴訟問題で揉めていたグレン・カーティスと組んで、
もう一度エアロドームをスミソニアンの展示から引っ張り出して
ニューヨークのケウカ湖で飛ばそうとしました。

カーティスは、ライト兄弟と飛行機の特許で争っていたため、
エアロドームで制御されたパイロット飛行が可能であることを証明し、
ライト兄弟の広範な特許を無効化しようとしたのです。

カーティスはここでエアロドームにこっそり改良を加えました。
エアロドームが「人類初の飛行機」かどうかを証明するためには
やってはいけないことでしたが、カーティスはなんやかんや言い訳して、
特許弁護士や評論家からは、

「いやこれ原型留めてねーし」

といわれるくらい改造して飛ばそうとしたのです。
しかし、前述のように湖面から数フィートの高さで5秒間飛んだだけでした。

しかも、訴訟で裁判所はライト兄弟の特許を認める判決を出しました。

それはともかく、スミソニアンが「ラングレー推し」し出した頃、
オーヴィルは当然それに激怒し、

「もし私たちの偉業をスミソニアンが認めないつもりなら、
『キティホーク』をロンドンの博物館に送るがそれでもいいか?」


と脅したのですが、全く効果はありませんでした。
そこで引っ込みがつかなくなったオーヴィルは、
本当に機体をロンドンに送ってしまったのでした。


ロンドンの科学博物館に展示されていた「キティホーク」
柵もなにもなく、その気になれば触り放題という


そのうち第二次世界大戦が始まり、「キティホーク」は
爆撃の多い市街地を避けて、地下貯蔵施設に避難していましたが、
まだ戦争真っ只中の1942年、ウォルコット長官が死去したことを受けて
新長官となったチャールズ・アボットが、
これまでのスミソニアンの公言を撤回する考えを示しました。


スミソニアンの誤りを認めた男、アボット長官(天文学者)

新長官が就任に際して言及した「4つの後悔」の中の一つが、

「人が乗って自由に飛行できる最初の飛行機」が
ラングレーのものであると認定してしまったこと

とであり、長官は、

「1903年12月17日にノースカロライナ州キティホークで
ライト兄弟が初めて空気より重い機械で持続飛行したことは認められている。

ライト博士が飛行機を(スミソニアンに)預けることを決めたら...
それにふさわしい最高の名誉が与えられるだろう」

と翌年の年次報告で表明しました。
(ちなみに後三つの『後悔』がなんだったかはわかりませんでした)

翌年、オーヴィルはアボットと何通かの手紙を交わした後、
フライヤーを米国に返還することに同意しました。

フライヤーはその後、いくつかの契約条件のもとで
スミソニアン博物館に売却されることになりましたが、
そのうちのひとつには、こう書かれています。

スミソニアン協会またはその後継者が、アメリカ合衆国のために
管理する博物館やその他の機関、局、施設において、
1903年のライトフライヤーよりも古い時代の航空機モデル、
または設計された航空機が、制御飛行において
自力で人間を運ぶことができると主張する声明、
またはラベルを公表したり表示することを許可しない


■ オペレーション・ホームカミング

「キティホーク」がロンドンに「出張」していたのは意外に長く、
1928年から1948年までの20年間でした。

オーヴィル・ライトとアボット長官の間でようやく話がまとまったため、
アメリカはフライヤーをアメリカに戻す計画として、
「オペレーション・ホームカミング(里帰り作戦)」を展開しました。

アメリカは何でも「オペレーション」にしてしまいますが、
とくにこの「ホームカミング」という言葉が好きらしく、
一般にこの名前で知られるのは、1973年にニクソン政権で行われた
ベトナム戦争の捕虜を一気に家に帰す帰還作戦です。

そのせいで、こちらの作戦はライト・フライヤーの件でしか語られませんが、
ともあれ20年間海外にあった飛行機を、アメリカに戻すというのは
当時のアメリカにとってそれなりに大変なことだったのです。

ホームカミング作戦では、「キティホーク」が20年間の海外生活を経て、
空母「パラオ」の輸送によりアメリカに戻されました。



1948年10月18日、イギリスの様々な飛行組織の代表や、
サー・アリオット・ヴァードン・ロー(イギリスの航空エンジニア、企業家。
自作の飛行機で自国の空を飛んだ最初のイギリス人)
など、イギリスの航空界の先駆者が出席した式典で、
「キティホーク」の正式な引き渡しが行われました。

執行者となったのは、アメリカ民間航空局の
リビングストン・L・サタースウェイトでした。

そして11月11日、「キティホーク」は1,111人の乗客とともに
「マウレタニア」号で北米に到着しました。

定期船がノバスコシア州ハリファックスに停泊すると、
スミソニアン国立航空博物館のポール E. ガーバーが機体を出迎え、
アメリカ海軍空母USS「パラオ」に載せ、ニューヨーク港経由で送還。

そこからワシントンまでは、フラットベッド・トラックで移送されました。

アメリカの道路を走っていると、時々「OVERLOAD」と書かれた
超重量物を運ぶ特別輸送トラックを目撃することがありますが、
おそらくこのときも、「キティホーク」を載せたトラックは
周りを守られて、ゆっくりとスミソニアンに向かったのでしょう。

■ スミソニアンの「キティホーク」



そして、現在のスミソニアン博物館には、
ライトフライヤーを据えた「ライト兄弟コーナー」があります。



オーヴィル愛用のマンドリンの展示の横に座る見学者。

わたしが実際スミソニアンに訪れて撮った写真です。
スミソニアンライト兄弟コーナーはまた日を改めて紹介すると思います。



コロナといえば、これはコロナ前のスミソニアンの展示。


MSIのライトフライヤー レプリカの展示。



オーヴィルは黒マスク派でした。

■ 「ライトフライヤー」飛行 100周年

2003年12月17日の100周年が近づくにつれ、米国飛行100年委員会などが、
ライト・フライヤーの飛行を再現する企業の入札を開始しました。

このとき落札したライト・エクスペリエンスは、
オリジナルのライトフライヤー、試作のグライダーやカイト、
その後のライト航空機の多くを丹念に再現し、
実際に12月17日、それを飛行させようと試みました。

事前のテスト飛行では成功していたそうですが、
天候不良、雨、弱い風のため記念日には飛行できなかったそうです。

この複製は、ミシガン州のヘンリー・フォード博物館に展示されています。

このほかにも、アメリカ航空宇宙学会(AIAA)ロサンゼルス支部が、
1979年から1993年にかけて製作した実物大レプリカ。

この航空機は、カリフォルニア州のマーチフィールド航空博物館にあります。

このほかにも、米国内はもとより、世界各地に静態展示のみの
飛行しない複製機が多数展示されており、
「パイオニア」時代の単一の航空機としては、
史上最もたくさん複製された機体となっています。


続く。



ジュライ フォース in パロアルト〜シリコンバレー到着

2023-07-07 | アメリカ
今年も恒例のアメリカ生活が始まりました。



今回のフライトは初めてとなる羽田発深夜便。
出発前の飛行機から見る夜景も新鮮です。


今回の機材は、初めてお目にかかるタイプでした。

画面の右側はアメリカの洗面所にあるような薄い薬棚タイプの物入れ。
画面の操作やFAの呼び出し、機内販売の購入はすべてリモコンで行います。


新しくなって大変よかったのはシートの形状です。

二人がけシートの右側に座るような形で、3点シートベルト方式。
(座高の低い女性にはちょうど首にベルトがかかって苦しかったけど)
このシートだと、フラットシートにして睡眠モードになった時、
前のようなちょうど体の幅しかないシートだと置き場がなくなる手を
横において、横向きに寝ることもでき、大変楽でした。

アメニティはグローブトロッターの薄型ポーチに、
SIROのリップクリームと保湿液が最近のANAの定番です。



国際便はいつも搭乗して1時間くらいで食事になるのですが、
夜10時出発の便でもそうなのかな?と心配していたら、
メインの食事はちゃんと着陸前に予定されていました。

一寝入りして目覚めそうになったとき、CAさんが「お目覚めですか」
と起こしてくれたので、今回は食べそびれずにすみました。



機内では黒澤明の「生きる」のイギリス版、
『Living』(カズオ・イシグロ脚本)を観ました。
あっという間に主人公が死んでしまいびっくりしていたら、
実はそれからが本題というか、そこからが感動の嵐でした。

アメリカでもフランスでもなく、舞台が1950年ごろのイギリス、
というのが原作との絶妙な親和性を醸し出していたと思います。



今回はサンフランシスコが目的地なので乗り換えなしです。
直行便がこんなに楽だったとあらためて実感しました。



レンタカーセンターまでの電車の窓から見える空の色は、
お馴染みの「ザ・サンフランシスコ」。
海岸からの霧が西側を覆ってひんやりと冷たい空気が流れこんできます。



最初の宿泊先はパロアルトの住宅街にあるAirbnbです。
(この地域はとにかく地価高騰のせいでホテルが高すぎなので)

この一角は「プロフェッサーズ・ビル」と呼ばれています。
もしかしたら近くの大学の教授が大量に住んでいた(いる?)のかな。

路駐には住人を証明するタグが必要ですが、ホストが用意してくれています。
路駐といっても一帯が住宅街なので停める場所に困ることはありません。



Airbnbはこの道路から奥まったところにあるお宅です。



この辺の家はときどき変わった彫塑を庭に置いています。
このお宅の作品は斃れた恐竜とそれを虎視眈々と狙うコンドル2羽というもの。

庭に置く彫塑としてはどうかなというモチーフですが、このお宅、
玄関脇に不気味な人形の頭を置いてあったりして、そういう趣味の方かなと。



木でできた門扉を開けると、ここが今回一つ目の宿泊先です。
わたしが借りることになっているのは一階の手前半分で、
残りと二階全部にオーナーが居住しているという話でした。



門扉の内側にはガレージとバーベキューグリル、アウトドアテーブルセット。
中流アメリカ人家庭にはなくてはならない3点セットです。



最初の10日の宿にこの部屋を選んだ理由は、ピアノがあったから。

聞いたことのないアメリカのメーカーで、おそらくですが
軽く100年近く経過している骨董品ではないかと思われます。

オーナーが小さい頃に習っていた名残か、
鍵盤にマジックインキで音名が書いてあり(笑)
子供用のピアノ教材も本棚に散見されました。



早速ピアノを触ってみるMK。
彼はもうすでに夏のインターンシップに通っています。



次の日、真剣に弾いてみましたが、蓋が開けっぱなしなのが祟って、
内部がもう壮絶な埃まみれ。音はお察し、という状態でした。
おそらく調律など半世紀はしたことがないに違いありません。
力一杯打鍵しないと出ない音があり、ソフトペダルは使用不可。



部屋には暗証番号で入るのですが、二日目の晩、事故発生。
内鍵がかかってしまっていて、夫婦で締め出されてしまったのです。
しかもオーナーの電話番号を入れたわたしの携帯はたまたま部屋の中。

そこでTOからMKに電話をして、オーナーに電話してもらいました。
彼女がやってくるまでの間、わたしたちは外に立っていましたが、
カリフォルニアの夏は夜猛烈に寒く、凍え死ぬかと思いました(嘘)

オーナーはバスローブで出てきて内側から鍵を開けてくれました。



写真に撮るとおしゃれで綺麗に見えますが、建物はおそらく
1950年代(映画”Living"の頃)に建ったものだと思われます。
木の窓はびくとも開きませんし、換気扇などというものもありません。

ちなみにオーナーは「靴を脱いで入室してほしい」と強くリクエストしていました。
わたしたちはむしろそうしないと落ち着かない民族ですが、
アメリカの住居には「玄関のたたき」「靴脱ぎ」という場所がないので、
つい靴のまま入ってしまうアメリカ人が多いせいだと思われます。



次の朝、一人で近隣を歩いてみました。
街角の教会も立派です。



家と家の間に遊歩道で繋げられたちょっとした緑地帯が現れました。


朝、少人数のグループが体操をするくらいのスペースは裕にあり、
柵で囲まれたプレイグラウンドもあって、パーキングも完備。


散歩に出てきたらしい首輪をした黒猫に遭遇。
魔女の宅急便の「ジジ」にそっくりです。



カリフォルニアに来ていつも思うのは、恵まれた植物の生育環境。
どこに行っても緑が豊かで、木々が高く、夏はそこここに花が咲き乱れて・・。
街角でアガパンサスやライラックの芳香を嗅ぐとまた来たなあと思います。



朝、歩いてすぐのところにあるホールフーズに買い物に出たら、
街角にこんなプレートを発見しました。

エレクトリックリサーチ ラボラトリー

1909 年にシリル・フェルウェルによってここに設立された
連邦電信会社の研究所および工場のオリジナルサイトには
1911~1913 年の期間に、三素子ラジオ真空管、最初の真空管増幅器と
発振器の発明者、リー・デ・フォレスト博士が在籍していました。

この研究に基づいた世界規模の開発が、現代の無線通信、
テレビ、エレクトロニクスの時代につながりました。

カリフォルニア州登録歴史的建造物 No. 836
州公園・レクリエーション局とパロアルト市および
パロアルト歴史協会の協力による  1970 年 5 月 2 日




歴史的遺物といえば、実にシリコンバレーらしい遺物がうちの近所にも。
通称「ヒューレット・パッカード・ガレージ」です。



シリコンバレー発祥の地

この家のガレージは、世界初のハイテク地域シリコンバレーの誕生の地です。

この地域のアイデアは、スタンフォード大学教授、
フレデリック・テルマンFrederic Terman 博士が生み出しました。

博士は、彼の学生たちに、東部で設立された企業に入社するよりも、
地元で自分のエレクトロニクス会社を立ち上げるよう奨励しました。

彼のアドバイスに最初に従った二人の学生の名は、
ウィリアム・R・ヒューレットとデイビッド・パッカードといいます。

1938年、この家のガレージで、二人は最初の製品である
オーディオ オシレーターの開発を開始したのです。

カリフォルニア州登録歴史的建造物 No. 976
州立公園レクリエーション局、ヒューレット・パッカード社の協力による

1999 年 5 月 19 日




朝、外を眺めながら飲むコーヒーは最高です。
ここに立ってPCをしていると、前の塀を通路にしているらしい
黒やら茶色やら各種毛色のりすが行き交うのが見えます。

ちなみにこの3日後、わたしはこのAirbnb備え付けのカップを割ってしまい、
大学の売店に同じのを買いに行く羽目になりました。



コーヒーといえば、最初にMKおすすめのコーヒーショップその1に行きました。
Verveコーヒーは日本にも上陸しており、六本木にお洒落なカフェもあります。



こちらのは建物や内装は六本木に通じるものがありますが、
圧倒的に人が少ない(朝だったせいもあります)。

エチオピアのプアオーバーを頼んでみましたが、上々でした。
口に苦味が残らず、さっぱりとした軽い飲み心地でバリスタの腕の良さを感じます。



また別の日のコーヒーショップその2。
なんと、この向こうに見えているのもコーヒー専門カフェです。
ここのプアオーバーはちょっと水加減が好みではありませんでした。



TOが頼んだチアシードのヨーグルトは美味しかったそうです。



実はこのカフェ、広大なコワーキングスペースの一部です。

事務所を持たないオフィスワーカーが、ここを1ヶ月400ドルからという
破格の安さで借りて仕事に利用する施設となっています。



こんな会議用のブースもありますし、



大会議場もあり。
数人で一つのブースのコンピュータとデスクを借りるプランもあります。
東京にも増えているそうですが、シリコンバレーのこの辺はさらに盛んです。



コーヒーの後、MKをインターンシップの会社まで送っていきます。
だいたい二日に一日はリモートワークになるので、出社は週3程度。

彼の会社のあるサンタクララにも、TATA、インテル、エヌビディアなど、
大小のテック系企業が進出してシリコンバレーを形成しています。



サンタクララにはジャパンタウンがある関係で、大型日本スーパー、
「ミツワ」があるので、MKを送っていった初日に早速行ってみました。

そこで見たこの注意書きによると、カリフォルニアの法律、PRO65は
「カリフォルニア州の顧客に対して、ガン、先天性欠損症、
またはその他の生殖危害を引き起こすことが知られている化学薬品」

が使用されている場合、それを告知することを義務付けています。

要は最近WHOで発がん性を認められ話題になったアスパルテームのように、
人体に有害な成分表示を隠してはいけないということが定められているのです。

日本では元素材に含まれるなら表記しなくてもいいとか、
いろいろとロンダリング?の方法があるみたいですが、
アメリカ、特にカリフォルニアは厳しいようですね。

日本の加工食品はそのほとんどに化学調味料や着色料を含むので、
日本スーパーでは声を大にして宣言しているというわけです。



わたしは日本から輸入された加工品はその理由でほとんど手を出さず、
ほとんどのものはホールフーズやTrader Joe'sで調達します。

今回は、初めてサンタクララのホールフーズにも行ってみました。
おそらくサンフランシスコも含めて、この近辺で最も大きく、
品揃えもよいオーガニックスーパーだと思われます。

市内では閉店してしまったホールフーズもあるそうですが、
シリコンバレーには少なくとも客離れは無縁の出来事のように思えます。



MKはまだ大学の寮に住んでいるので、家族の食事は
互いの住居を行ったり来たりして、できるだけ一緒にしています。



彼の大学寮には一つの棟につき音楽室が数室あって、
一つはグランドピアノとコンサートもできるスペース、
電子ピアノと譜面立てがある小さな部屋は3室と音大並み。

住人であればいつでも予約なしで、好きな時間好きなだけ利用できます。



週末にはわたしもグランドピアノを楽しみました。



MKの部屋には、彼がラボで使うこともあるということで
自分で買った3Dプリンターがあります。

これを見たとき、この機械が出回り始めてすぐ、中学生頃の夏のキャンプで
彼が「作品」を作って持って帰ってきて驚いたことを思い出しました。

いつの間にか3Dプリンターはコピー機並みの存在になっていたんですね。


これで猫型の小さな物入れを作ってくれました。



この日、外で花火の音がする中駐車場に向かおうとすると、
大学のスタジアムの方角から花火が上がっているのを皆が見ていました。



7月4日の独立記念日にはアメリカ中が花火を打ち上げますが、
ここでは週末に入ったので、早々と花火大会が始まった模様です。

花火が終了してから車に乗り、部屋に戻ろうとしたら、
花火を見に来た(もしかしたら何かの試合かも)見物客の帰路渋滞で、
いつもなら6分の距離に30分かかってしまいました。

ちなみにこの三日後の独立記念日 本番は、
深夜まで、あちらこちらから花火の音が聞こえていました。

コロナの頃は流石のアメリカでも控えられていた花火ですが、
もうすっかり平常に戻ったようです。

それでもマスク着用の人はゼロではなく、一日に三人くらいは見かけます。


続く。




映画「スピットファイア」〜”人々が負った多くのもの”後編

2023-07-05 | 映画

1942年イギリス映画、「スピットファイア」、
原題「最初のごくわずかの人々」(The First of theFew)最終回です。

ドイツが特に都市爆撃を意図した航空機の軍備を着々と進め、
自分達を「追い込んだ」ヨーロッパ、特にイギリスに対し
「覇者になる」野望を抱いていることを知ったミッチェルは、
休暇から帰ると、すぐさま行動を起こそうとしました。

200万の航空機を都市爆撃のためにドイツが生産するなら、
こちらはそれに対抗する軍備を備えなければいけない。

それには、航空機の生産を行うことです。



しかし、ヴィッカースのマクリーン会長にその懸念を訴えるも、

「平和を望む国民は平時に軍備増強を望まない」
(その心は、そんなことをしたら戦争が起こってしまうから)

と、まるで現代の我が国の無防備都市宣言賛成論者みたいになってます。
(いつの時代にもそういう考えが一定数あるっていうことですね)
 
そして、反対意見があるからには一軍需産業には何もできない、
と逆にぼやかれてしまいます。



「ナチスに死と破壊を!
世界一速く、威力のある戦闘機を作りたい」

続いてミッチは政治家の説得に回りました。



まずは予算獲得のため航空省大臣を直撃です。

「7500ポンドならなんとか出来ますがね」

「それじゃ全然足りない」


次いでミッチが尋ねたのはヘンリー・ロイスでした。(似てない)
言うまでもなくロールス・ロイスの創始者です。
その目的は戦闘機に載せるエンジンの依頼。

ロイスはミッチェルの唐突な依頼に困惑しながらも
その熱意に絆される形で、構想中のマーリンエンジンの提供を提案します。

その際、ロイスはエンジンの名前に引っ掛けて、

「キング・アーサーに仕えた魔術師だ。
君と僕でマジックを起こそう!

と綺麗にまとめるのですが、残念ながらマーリンは魔術師の名ではなく、
猛禽類から取られたロールスロイスの一連のシリーズ、

「ペレグリン(隼)」「ケストレル(チョウゲンボウ)」
「ゴスホーク(オオタカ)」「マーリン(コチョウゲンボウ)」

の一つにすぎません。


バックアップを得たミッチは早速設計に取り掛かります。
そんなある日、ミッチの秘書ハーパー嬢が、クリスプを訪ねてきました。


体の調子が悪そうなのに、不眠不休で仕事をしているから、
休むように言ってほしいと親友の彼を見込んでの依頼でした。


深夜事務所をジェフが訪ねると、一人で仕事をしているミッチが。
彼は友人をただ家に連れて帰ってやります。


ソファに座るなり力無く眠り込むミッチ。


ペースを緩めては?というジェフのアドバイスには答えず、

「時速400マイルで飛び数分で1万フィートを上昇し、
急降下にも耐える翼を持ち、8砲の機関銃を搭載している。

口から火を吹き死と破壊をもたらす・・
スピットファイアだ

と、追い求める夢をキラキラした目で語るのでした。

しかし実際、ミッチェルはこの名前を気に入っていませんでした。

ヴィッカーズの取締役、マクリーンが、
気の強い姉(映画では娘と言っている)のあだ名だった(どんな姉だ)
「火を吐く人」という意味の名前を新しい機体につけたのですが、
これを聞いて、彼は、

「いかにも奴らが選びそうな、血生臭いくだらん名前だ!」
 "That's the sort of bloody silly name they WOULD choose!"

と言い捨てたという話が有名です。


ある日、彼の姿は医者の診察室にありました。

この映画では、彼の病名については語られず、ただ、
治療をしなければ半年から8ヶ月、とだけ医師が告げます。

ミッチェルの不調は直腸がんの進行によるもので、1933年、治療のため
人工肛門手術を受けていますが、経過は捗々しくなかったようです。

晩年の彼は、病と戦いながらスピットファイアの設計に打ち込みました。


会社に戻ると、航空省大臣からの、スピットファイアの生産に
政府が許可を出したという知らせで沸いていました。
12ヶ月で完成させてほしい、という上層部に向かってミッチは言います。

「8ヶ月で仕上げます」


ここからは、サー・ウィリアム・ウォルトンの
「スピットファイア」のフーガをバックに、
スーパーマリンの労働者たちの働く姿が次々と現れます。

William Walton's Spitfire Prelude and Fugue


実際にスピットファイアを作っていたハンブル(グはない)工場です。




このメガネの工員はウィルフレッド・ヒラーという人物だそうです。



そんな日々が続くある明け方、疲労困憊して帰ってきたミッチに、
妻、ダイアナは、医者からなんと言われたのかを問い詰めました。


夫の余命を聞いた彼女は、息子と自分のために生きてほしいと懇願します。

妻の涙にほだされたミッチは、一旦休養を優先し、
その後仕事を一気に完成させると言って彼女を安心させるのですが、


そのとき、ドイツ軍のスペイン爆撃を報じる記事を見てしまいました。


次の瞬間、彼は前言を翻し、自分の命を削ってでも、
ドイツの爆撃機に対抗するための戦闘機を完成させると宣言。

泣き崩れる妻はそれでも夫の意思が変えられないことを知っていました。



再びスピットファイア工場の生産現場が映し出されます。


いよいよ機体が完成しようというところ。


プロペラの取り付け。
当時の労働者は普段着で作業を行なっていたんですね。


あとはカウリングを被せるだけ。


完成までの段階が順を追って紹介されます。



そして完成後の機銃テスト。




格納庫から引き出されるスピットファイアの姿。


その頃すでにミッチェルはガンの再発のため
仕事どころか体を動かすこともできない状態でした。

彼が不在の間、アシスタントであったハロルド・ペインが、
スーパーマリンの設計チームを率いて作業にあたり、
ミッチは病床からアドバイスは行なっていたようです。

実はミッチェルはガンの専門治療のためにウィーンに飛び、
1ヶ月滞在して検査をしているのですが、病状はもうかなり進んでいて
治療しても効果がないことが判明し、帰国しています。

そしてその後は亡くなるまで、映画に描かれたように
サウスハンプトン、ポーツウッドの自宅で過ごしていました。



いよいよスピットファイアのテスト飛行です。
パイロットのクリスプがネクタイをしているのにびっくり。

実際のテスト飛行は、1936年3月5日に、
チーフテストパイロットのマット・サマーズによっておこなわれました。


関係者が国運をかけたこのテスト飛行を見守る中、
テスト飛行は順調に行われました。



フィルムではスピットファイアでの宙返りや急降下など、
実際のデモの映像が流されます。

この急降下では時速500キロからリカバーしたとされます。
クリスプは最後に、ミッチに素晴らしいプレゼントをしました。



サザンプトンの自宅の庭を低空飛行して、
そこにいる彼に親指を立てて見せたのです。



実際のミッチェルの家はこのような田舎にあったのではなく、
郊外で、まわりには家が立ち並んでいたので、このように
飛行機を通過させ、それを見送ることは不可能でした。


実在のミッチェルの家をGoogle検索してみた(誰か住んでます)


テスト飛行は成功裡に終わりました。



空軍大将がミッチェル夫人に夫を賞賛する言葉をかけます。



その後、スピットファイアの軍認可を待つミッチのもとに
ジェフがやってきました。



ジェフはなかなか軍が認可を下さないことに憤りますが、
ミッチェルは、自分の仕事は終わった、と満足気です。



ちょうどそのとき、妻のダイアナが興奮して
スピットファイアが採用され、製造が決まった知らせを伝えました。

「ドイツに電報を打とう!
『ゲーリング閣下、我々はグライダーを作りました』って」



しかしミッチェルにはもう言葉を続ける気力もありません。



「また会おう」

と適わぬと互いが知る言葉をかけ、去るジェフに、
ミッチェルは最後に親指を立てて見せるのでした。


これがミッチとの最後の邂逅であることを彼は知っています。


ジェフを見送ると、ミッチはダイアナにささやきます。

「皆に感謝を伝えてほしい・・・誰よりも君に」





夫に微笑み、花を持って部屋に入ろうとした瞬間、
彼女は「はっ」と鋭く言って息を呑みます。

この、ミッチェルが召された瞬間を表すシーンですが、
おそらくは実際も同じようなものだったのではないかと想像されます。

レジナルド・ジョンストン・ミッチェルは、1937年6月11日、
42歳の若さでサザンプトン、ポーツウッドの自宅で亡くなりました。



こうしてクリスプ司令はミッチェルとの思い出話を終えました。



「彼は幸せに死んだ。
その後のことを知ればさらに幸せだっただろう」


もちろん、イギリスにとってスピットファイアがいかに
国の護りの要となったか、という意味です。



そのときです。
ハンター中隊に出撃命令がくだりました。



次々と愛機に飛び乗る搭乗員たち(本物)



「基地司令が参加してる」


「なんでや」


「監視役だろ」



クリスプはバニー(実際の部隊長)に、素直に
どこに入ればいいかお伺いを立てております。

「私の後ろについてください」

内心足手まといウゼーとか思ってても言えない立場。

管制塔と連絡を取り、相手が百機の編隊だと知ると、
部隊長は、たったそれだけとは残念、と豪語します。



「Achtung、Spitfire!」
(気をつけろ、スピットファイアだ)


ここからは実際の空戦のフィルムのつぎはぎとなります。


あるトリビアによると、これらのドッグファイトシーンは
1942年の海軍映画、In which We saveからの流用だそうです。

YouTubeで全編観られるみたいです。

In Which We Serve (1942)

うーん・・・英語の字幕でもあればなあ・・。
「同じシーン」を探しましたが見つかりませんでした。

っていうかこの映画、ほとんど海上のシーンなんだけど・・。


ユンカース・・・?


つぎはぎには違いないですが、実際の映像なので
リアリティがあり、なかなか見応えのあるシーンです。

映画ではお荷物になるかと思われた基地司令が、
バニー(実在のパイロット)を撃墜され、
仇を取る勢いで敵機を撃墜する、というありえないシナリオです。

いかに映画のフィクションとはいえ、撃墜される役は
パイロットとして縁起悪いから嫌だとはならなかったのでしょうか。



"Hello, Hunter Aircraft, Control calling.
Nice work. Thank you, thank you.
You could come home now.
You could come home now.
Listening up!"


戦いの終了を宣言する管制塔のコールを受け、
クリスプ司令はほっと一息ついてキャノピーを開け、
さらなる上空を見上げて呟くのでした。

さて、このセリフ、字幕では、

「スピットファイアは決して敵に屈しないぞ」

となっていますが、原語のニュアンスは少し違います。
彼は呟くような、しかし強い声でこういうのです。

”Mitch!”
”Mitch, they can't take the Spitfires Mitch.
They can't take 'em!”

「ミッチ、奴ら、スピットファイアに敵わないぞ、ミッチ。
手も脚も出やしなかったぞ!」

まあでも、これなら字幕の方がかっこいいかもですね。


そして、チャーチルの言葉が帰投するスピットファイアに重ねられます。

'Never in the field of human
 conflict was so much owed by so many to so few'


字幕「戦争ではわずかな天才の陰に無数の兵士たちが存在した」

残念ながら、こちらの翻訳は完全にアウト。

おそらく翻訳者は、The Few の歴史的意味まで知らなかったのでしょう。
しかし、ここまでお付き合いくださった皆様ならもうお分かりですね。

バトル・オブ・ブリテンで戦った航空搭乗員のことを、
「The Few」と呼んでいたのを、最後にもう一度思い起こしてください。



繰り返しますが「The Few」は「一握りの天才」ミッチェルのことではなく、
彼の飛行機で戦った「最初の一握りの人々」(整備クルー等含む)であり、
「Many」とは、かれらにあまりに大きな恩恵を被った人々のことです。

イギリス国民全て、国そのものと言ってもいいのかもしれません。


終わり。



映画「スピットファイア」〜レディ・ヒューストンとメッサーシュミット 中編

2023-07-03 | 映画

1942年度イギリス作品、「スピットファイア」、
原題「The First of the Few」続きです。

今日は、ミッチェルの時代、実在し、実際に
彼の仕事に関わりを与えた二人の人物が登場します。

■レディ・ヒューストン


1929年、イギリスで行われたシュナイダートロフィーレースで
前回に引き続きイギリスは、スーパーマリンの
S.6による優勝を果たし、関係者による祝賀会が行われていました。



真ん中に置いてある物体は、シュナイダートロフィーです。
西風の神ゼフィルスが波頭にキスしているというモチーフで、
この巨大なトロフィーは毎年優勝国が預かりますが、
3回連続で優勝した国には永久保持の権利が与えられることになっています。

実際は1919年、20年、21年と連続でイタリアが優勝したのですが、
イタリアは、「他の国の準備が整っていなかった」として
紳士的に3回優勝にも関わらず権利を放棄していました。

イングランドはこれで2回連続で優勝を果たしたことになり、
あと一回で永年トロフィー保持の栄誉を手に入れます。


パーティ参加者が、祝賀会会場から見える個人所有の船舶に
「政府を倒せ」「目覚めよイングランド」
などとアジテーションを電光掲示しているのを見つけ騒ぎ出しました。



船は有名な富豪で慈善家、政治活動家(反共産主義者)、参政権論者、
船主で馬主で強烈な愛国者である、

レディ・ヒューストン
Dame Fanny Lucy Houston
Lady Houston
Baroness Byron DBE
(1857 – 1936)


のものでした。

彼女は一般家庭の出で、若い頃はプロダンサー、コーラスガールでしたが、
16歳の時に歳上の愛人が残した巨額の遺産を手にいれます。

その後夢だった舞台に女優として立ったものの、3週間目に
男爵の息子と駆け落ちして全てほっぽらかして遁走。
結婚したものの、うまくいかずに別居生活を経て離婚。
6年後にはバイロン男爵という人に自分からプロポーズして再婚。

これだけ見るとなんともガツガツした上昇志向の強い女性ですが、
普通の成り上がりと彼女が違っていたのは、彼女がその地位と
財産を自らが信じる「国のため」に盛大に散財したことです。

夫が亡くなり、自分の意思で財産を自由にできるようになった彼女は
第一次世界大戦中には前線の兵士に物資を送り、
西部戦線に従軍する看護婦のための保養所をポンと寄付。

ついに大英帝国勲章デイムコマンダー(DBE)を叙勲されるまでになります。

1929年というと、彼女は7年間追いかけ回して捕まえた3度目の夫、
海運王のロバート・ヒューストン男爵を3年前に亡くし、
夫の残した550万ポンドの遺産を手に入れて、いまや
イングランドで2番目に裕福な女性といわれていたころになります。

祝賀会会場にやってきた彼女は、辺りを睥睨しながら、
船のサインを笑う人々に向かって、

「笑うがいいわ。政府は嫌いでもわたしは国を愛してるの」

などと言い放ちます。


ミッチェルが電光掲示板を一人で眺めているとやってきたレディ、

「ハッロー?以前どこかでお見かけしたわ」

ミッチが、あなたの船のメッセージを見ていた、というと、

「笑われようと何を言われようと、皆に危機感を持たせるのが私の役目よ。
私には見える。イギリスに危機が迫っているのが。
強くならねばいけない。陸と海で」

思わずミッチ、

「そして空でも」

「飛行機?速く飛ぶ以外に何ができるの?鳥と同じよ」

「あなただって魚でもないのになぜ船に乗るんです?」

「なんか失礼ね・・不愉快だから帰る」

そういいながらレディ、ミッチの顔を見ながら

「お若い人、あなたを覚えておくわ」


ここはイギリス国会。

あと一回の優勝でイギリスはシュナイダートロフィーレースで
永久勝者となるところまで来ていましたが、
そのチャンスとなる自国開催に暗雲が立ち込めました。

当時のマクドナルド労働党政権は、このレースについて、
まずイギリス空軍からの参加を経済危機を理由に阻止してきたのです。

そしてレースの主催本体となるロイヤル・エアロ・クラブが
開催資金の予算計上を要求していましたが、それも
航空省によって正式に却下となり、RAFのトレンチャード元帥は、

「英国が出場しようがしまいが、航空機の開発は続けられる。
この参加が航空界にとって及ぼす影響はないと考える」

と言い放ち、航空省は1929年度のレースに出場した航空機
(スーパーマリンからはS.6)の使用を禁じ、さらに
水上機の経験を持つ空軍パイロットの参加を禁じ、
1931年大会の海上警備は行わないと言明しました。

出るなとは言わんが前の飛行機は使わせない、パイロットも民間で用意、
その他費用は出さないからかってにやれということです。

この画面で困っているのは、ヴィッカースのマクリーン会長始め、
航空産業界の大物ですが、彼らにとってもここで
国の後押しがなければ航空産業の危機であるという焦りがあります。

与党労働党は、早い話、航空界の発展より
300万人の失業者対策に予算を当てるべきだという見解でした。



ある日、ロイヤルエアロクラブに、アポ無しで一人の男が訪ねてきます。


男はクラブに10万ポンドの小切手を持ってきたのでした。
添えられたメッセージには

「我々は陸と海と、そして空で強くならねばなりません。
ルーシー・ヒューストン」


実際にこのような経緯での寄付ではありませんでしたが、
レディ・ヒューストンはイギリスの航空界に惜しみなく支援をしています。

当時のイギリスメディアは野党だった保守党支持寄りだったため、
労働党のレースに対する予算拒否に不満を持っており、
ラムジー・マクドナルドの国民政府に圧力をかけていましたが、
ある新聞社がマクドナルド首相本人に電報で

「社会主義政府がスポーツさえも台無しにするのを防ぐため、
レディ・ヒューストンは、イギリスがシュナイダー・トロフィーレースに
参加できるよう、追加費用の全責任を持つ」

とフライングし、事実レディは10万ポンドをポント寄付したのです。


さらにメッセージの追伸として、

「お若い無礼な人、覚えておいたわよ」

三人は大喜びで、メッセンジャーを盛大にもてなすのでした。

この時、ミッチェル35歳、レディ73歳。
ミッチェルを「お若い人」と呼んだレディはこの6年後、
ミッチェルは7年後、わずか42歳で他界しています。

彼とレディが実際に面識があったかどうかの記録はありませんが、
巨額の寄付を受けたときに、邂逅していた可能性は高いでしょう。

レディ・ヒューストンの寄付のおかげで無事開催となった
1931年のレースは、スーパーマリンS.6Bで出場したイギリスチームが
見事新記録を出して優勝し、イギリスは永年トロフィーを獲得しました。



この時のイギリスチーム。
左から2番目に海軍航空隊の人がいますが、
全員がエンジニア含めRAFの軍人です。

ミッチェルはこの功績を認められ、大英帝国勲章、
コマンダーCBE(文民用)を叙勲されることになりました。

なお、ミッチェルの肩書にはこの他に

F.R.Ae.S.

という王立航空協会のフェローであるポストノータブルレターがつきます。

ちなみに、王立航空協会のメダル受賞者には、

1909年 ライト兄弟
2012年 イーロン・マスク


名誉フェローには

2002年 ジョン・トラボルタ

などがいます。


■ウィリー・メッサーシュミット

さて、その後あっという間に2年が経ちました。
映画では、ミッチェル夫妻はジョセフ・クリスプ
(いつの間にか空軍軍人になっている)に誘われて
ドイツに旅行に行ったということになっています。

1933年、ミッチェルが手術を受ける前の出来事とされていますが、
実際にはそのような事実はありませんでした。

なぜここで彼がドイツに行く設定になったのでしょうか。


ドイツのバンドが軽快な音楽を演奏する中、
一行はグライダークラブに招かれ、飛翔を見て楽しんでいました。



ドイツ人たちは彼らに友好的です。
しかし、ナチス式号令一下、行進するヒトラーユーゲントを見る
イギリス人たちの表情は微妙でした。



その晩、ドイツ軍主体の飛行クラブに招かれたミッチ一行。
相変わらずジェフは女好きの血が騒いで、
一人でいる美女とみればいきなり口説きにかかっています。

こんな血中ラテン濃度の高いイギリス人もいるんですね。


クラブの特別室ではナチスの偉い人tが
ミッチェルらのために歓迎会の席を設けていました。

「有名なミッチェル氏と、先の大戦でもお目にかかった
パイロットのクリスプ氏をお迎えできるのを嬉しく存じます」

そして乾杯と、座は和やかに進みます。



「健康で規律ある若者、平和的な人々、心からの歓待、
非常に感銘を受けました」

「乾杯!」



そこに、有名人のサインが満載のランプシェードが運ばれてきました。
空軍軍人のエアハルト・ミルヒ元帥
第一次世界大戦のエース、エルンスト・ウーデット上級大将
そしてご存じヘルマン・ゲーリングのサインもある、
と自慢のシェードに、ミッチェルは快く名を書きます。



宴もたけなわの頃、一人の人物が入ってきました。

「この方はあなたのコンペティター(ライバル)ですよ」

「ライバル?」

「メッサーシュミット博士です」

断言はしませんが、ミッチェルとメッサーシュミットが会ったことがある、
というのはおそらく映画だけの創作でしょう。

国策映画で、しかもこのときはすでにドイツと戦争中でしたから、
ドイツとドイツ人の表現も露骨で、本作におけるメッサーシュミットは、
ミッチェルに言葉の端々でマウントをとってきます。

「お忙しいでしょう」

「確かにそうですが、今は休暇中で」

「もしここが気に入られたら留まってはいかがですか?
よろしかったら興味のありそうなものをお見せしますよ」

「ありがたいですが、ただの休暇なので」

「もしよかったら特別にお見せしたいものも」

「もうグライダークラブを見せていただいたので」

(呆れたような笑いを浮かべて)

「グライダーですか・・ホッホッホ、娯楽にはいいかもですね」


そしてこの顔である

うーん・・。
別にわたしはメッサーシュミットの知り合いではないですが、
なんかこういう嫌味な人じゃなかった気がするんだよな。
実物の写真とか見た感じからも。

実際のミッチェルとこの映画のミッチェルくらい違いそうな気がする。



先ほどのドイツ美女をまた口説き始めたジェフですが、
いきなり横に怖い顔の軍人さんがやってきました

ドイツ語でべらべらっと厳しく来るので

「うっわ・・敵意丸出しだな」

と英語でいうと、軍人さん、

「マイネーム!」(名刺を出しながら)

「マイカルト!」(我が名刺)

「マイワイフ!」(我が妻)

「・・マイグッドネス・・僕どうしたらいい?」



「夫に私を返すだけじゃない?」

奥さん、あんたに問題はなかったとでも?
紳士の彼は、彼女を夫の元に連れて行き、

「ユアワイフ」(返す)

「ユアカード」(返す)

「マイミステイク」(謝罪)

クリスプの一連の言動は、超女好きというキャラが
英国風ユーモアで包まれていて、下品さを感じさせません。



さて、ここからが問題のシーンです。

ミッチェルを囲む懇親会で、話題が彼の専門の飛行機になると、
次第にドイツ人たちの「地金」があらわになってきます。

「我々が作るのは商業用の飛行機だけじゃありませんよ」



「ベルサイユ条約はどうなったと思われますか?」

第一次世界大戦の後、ドイツは敗戦国として厳しい条項を飲みました。
なかでも航空機などの軍需物資の製造は、材料の輸入禁止、
兵器の貯蔵量の制限、連合国の許可を受ける、海軍艦艇の保有制限、
と植民地や財産を没収された上での締め付けです。

ヒトラーの台頭と国民の支持、ヨーロッパ各地への侵攻は
この締め付けが厳しすぎたせいというのは今や歴史の定説です。

そもそもヒトラーが政界でのしあがったのは、
「反ヴェルサイユ条約」を掲げていたからであり、ナチス党の結成以来、
軍事面での監視措置を堂々と破り、国際連盟から脱退し、
ドイツ再軍備宣言によって軍備制限条項の無効を宣言するに至りました。

こりゃちょっとやりすぎたわい、とイギリスさえもが、
一時英独海軍協定などで宥和傾向を見せたほどです。

さて、このシーンは、会話から、ドイツが締め付けに
ブチギレ出している頃であり、ミッチェルが
スピットファイアの設計に取り掛かる前の出来事です。

ここにいるドイツ軍人たちはあからさまにイギリスの
ドイツに対する製造制限について当てこすってきます。

ところで気がついたのですが、この写真で
後ろにいるスーツ姿の男、この人は「潜水艦轟沈す」で
カナダを逃走するUボート乗員の一人じゃないかと思います。
(山小屋でレスリー・ハワードの所蔵する名画を燃やす)

ハワードプロダクションのお気に入りドイツ系俳優だったのかも。


軍人たちより、周りにいる民間人の方が抑えが効かないというか、
見かけ和やかに話を進めようとする軍人たちに対し、
この男はいきなりアドルフ・ヒトラーを称賛しだすのでした。


「歴史は過去だが歴史を作るのも人です。
我々は敗者の過去とは訣別して覇者になりますよ」

こんな物騒なことを言い出すのも、もう一人の民間人。
軍人のおじさんはやばい一般人とイギリス人賓客の顔を
落ち着きない目でうかがっております。

どこの国の軍人も、特にこういう席で政治的会話を
しないようにというプロトコルがありそうですね。



こちらも次第に顔がこわばってきてます。

「敗者の過去はともかく・・・覇者って飛躍しすぎじゃ」

すると即座に言い返してくるドイツ人。

「我々に”飛躍”の用意はできてます」

そこに軍人おじさんが割って入って、愛想笑いしながら

「あーー、もちろん、特に締め付けられたりしなければ、そんなことは・・」

そこでクリスプが、思わず

「上に立つということは、誰かが『負け犬』になるってことですよね?
じゃ、もしその犬がそれを嫌だと言ったら?
何が起こりますか?教えてください」




するとまた別の一般人(ナチス党員)。

「答えは三つあります。第一に、リーダー。
第二に、ドイツ国民がリーダーの後ろで団結していること。
第三に、指導者の背後にいる銃を持ったドイツ国民です。

銃は常に、最後の答えですよ。
それを忘れてしまった国は、滅びるでしょう!」

さらに、「潜水艦轟沈す」の水兵役だった人。

「リーダーと銃がモノを言えば、誰の反論も無意味です」

相手のマウントにイラついたクリスプが、
相手だって銃くらい持ってるでしょう、というと、
ついにドイツ人、本音が。

「相手を上回る銃と、戦車、そして飛行機を装備すればいい」

ミッチェルは思わず

「飛行機・・?」



「ゲーリング元帥は、飛行機を5000機でも1万機でも、
2万機でも、いくらでも構わないとおっしゃっています!」



すると、軍人おじさんが、厳しい表情で
この男に対し、ピシリと低い声のドイツ語で何かを言いました。

言われた男は思わずそちらに体を向けて、
一瞬姿勢を正すようにし、沈黙しました。



かまわずクリスプが「2万機どまり?」とたたみかけると、
負けず嫌いらしいこの男が、(目がやばい)

「都市の一つくらいは数時間のうちに消してしまうほどの数ですよ」

偉い軍人おじさんは、取り繕うように微笑みを浮かべ、

「しかし、恐れる必要はありませんよ。ミッチェルさん。
イギリスは我々にとって敵ではなく我々を助けてくれる友人です」

しかし、せっかくこの軍人おじが場をとりつくろっているのに、
今度はしたたかに酔ったらしい別の民間人が、呵呵大笑して、



「共産主義が怖くて我々の際軍備を阻止できないのさ。
だから
イギリスは金まで出してくれる・・笑えるよ」

なるほど、軍人おじさんが気を遣っているのは
このあたりにも理由がありそうですな。

軍おじはさすがに彼の無礼とあけすけに不愉快そうにし、
ミッチェルに謝罪しますが、彼の心の中には、すでに
ぬぐいようもないドイツへの不信が芽生えていました。



このままどうなってしまうん?

という場面を救ったのは、ドイツ人たちと交流して
すっかりご機嫌で部屋に飛び込んできた妻ダイアナでした。

「あーあなた、とっても楽しかったわ!
皆さん親切で、本当に全てが素敵ね!」

「・・・・・・・・」


帰り道、ミッチェルは思い詰めたようにつぶやきます。

「帰ってやることが見つかったよ」


続く。