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Dデイ予備爆撃とフランティック(半狂乱)作戦〜国立アメリカ空軍航空博物館

2024-07-21 | 航空機

第二次世界大戦の爆撃機によるヨーロッパ本土攻撃について
アメリカ国立空軍博物館の展示をもとにお話ししてきましが、
今日はいよいよノルマンディ侵攻作戦、Dデイについてです。

■ノルマンディ侵攻作戦掩護としての爆撃

冒頭の博物館パネルは、Dデイにアメリカ陸軍第8空軍の重爆撃機が
フランスのナンシーにあるエセー・エアフィールドのハンガーを爆撃した痕。
月面クレーターのような爆撃跡が点々とし、いくつかのハンガーは
完璧に吹き飛ばされて跡形もない状態です。

1944年5月までに、戦略爆撃作戦はドイツ空軍の戦闘機部隊を無力化し、
この結果、ノルマンディー侵攻が可能となりました。

1944年6月6日のDデイ前の数週間、第8空軍爆撃機群は
ドイツ軍の兵力集中地帯、飛行場、輸送目標を攻撃し、
Dデイが発動されると、連合軍がノルマンディ堡塁から脱出するために
攻撃によってそれを支援しました。


1944年6月11日、ロワール川の橋を破壊し、
敵軍のDデイ・ビーチヘッドへの進入を阻止する第8空軍の爆撃機。


ノルマンディー北部を攻撃する重爆撃機。

連合軍の重爆激機は、ノルマンディー侵攻の前日、
実際の海岸からはるか北にある敵の海岸防衛線を攻撃しました。


これは、実際の上陸場所から違うところをあえて叩いて、

本当の侵攻作戦が行われる場所を撹乱するための作戦でした。

敵はこの場所に守備力を注入せざるを得なくなり、兵力が分散されて、
この作戦はある程度成功したと言われています。

■ミッキーマウス好きのドイツ将校



Dデイのためのサポート攻撃の一つ。
1944年7月4日、エヴロー・フォーヴィル(Evreaux Fauville)飛行場は、
第8空軍の重爆撃機による攻撃で使用不能となりました。

写真はトライポフフォビアなら背中がぞわぞわするほど穴だらけ。
一つ一つの爆撃痕は大きいですが、上空から見るとこのとおりです。

連合軍爆撃隊によるフランスの飛行場への度重なる攻撃により、
ドイツ空軍は飛行場を使用できなくなっていきました。

「私は個人的に、あなた方の空軍がなければ、
侵攻は成功しなかったと確信している」

戦後、連合軍側にこのように言ったルフトバッフェの中将がいました。
ドイツ空軍なので階級はGeneralleutnant です。


みなさん、この、あまりドイツ人らしくない空軍中将の顔、
覚えていらっしゃいませんか?
そう、ルフトバッフェのエースであった、

アドルフ・ヨーゼフ・フェルディナンド・ガラント中将
(Adolf Josef Ferdinand Galland)1912-1996

です。
バトル・オブ・ブリテンのとき、何が足りないかと聞かれて

「スピットファイア」

とよりによってゲーリングに向かって言い放ったった話は有名です。

ちなみに、彼とヘルマン・ゲーリングは実は大変仲が悪かったそうで、
一方、アルベルト・シュペーアとは尊敬し合う仲だったとか。

リベラルというか、立場をあまり考慮しない物言いが、
ドイツ空軍首脳部にとっては面白くなく、揉めることも多かったようです。


スペイン内戦中、コンドル軍団第88戦闘機グループの参謀長だったとき、

ミッキーマウスのペイントが入ったハインケルHe51に乗っていた人、
といえば思い出す方もおられるでしょうか。

我々の目から見てもただものではない感じのパイロットであった彼は、
操縦も射撃の腕も大変優れていて、それだからなのか、
野心的でいつも注目を集めることが大好きな目立ちたがり屋さん。


この頃の彼は、このミッキーペイントの戦闘機に、
水泳パンツだけで乗り込み葉巻を咥えながら操縦していたそうです。

曰く、

「ミッキーマウスが好きなんで、いつもどこかに身につけている。
葉巻も好きだが、こちらは戦後やめなければならなかったよ」


彼はその期間中隊名にも「ミッキーマウス」とつけていました。
流石にアメリカと戦争するようになってからは控えた・・のかな。



■ オペレーション・フランティック
ソ連からのシャトル爆撃

1944年、アメリカはソ連の指導者ヨシフ・スターリンを説得し、
アメリカ空軍機がソ連西部の基地から出撃する許可を得ました。

6月から9月にかけて、第8空軍と第15空軍は
「フランティック作戦」Operation Frantic というコードネームの下、
合計7回のいわゆる「シャトル空襲」を実施しました。


作戦ルート、右側の星印(ウクライナ)から出発


あるいはこちら

ソ連の空軍基地を使用するというアメリカの作戦は、
ドイツ側に米ソの連携をアピールする目的もありましたが、
結論から言うとソ連は非協力的だったので、7回しか攻撃せず終わりました。


具体的にどう非協力的だったかと言うと、
一部の目標に対してソ連が拒否権を発動しまくったそうです。

この頃から潜在的に両国は互いを敵視していたわけですからね。


ただ、航空隊の現場では互いに友好的だったそうです。


同じフィールドにYak-9とB-17がいるというシュールな光景


ロシア語でB-17の機体に「北極星」とペイントされてしまうも、

ニコニコしているお人よしなアメリカ人たち


「USSRとUSAより、枢軸国へ(プレゼント)」
左から米露露米米米



キエフ近郊のソ連空軍基地に着陸する第15空軍のB-17。
ソ連は3つの飛行場を用意して対処しました。



地中海連合空軍司令官のアイラ・イーカー(Ira Eaker)中将が、
最初のシャトルミッションを指揮しました。

写真はソ連に着陸した直後のもの。


ソ連に上陸して4日後、イーカーの爆撃機は
ルーマニアのガラティの主要航空基地(写真)を攻撃し、
ソ連の飛行場に戻るというシャトル爆撃を行いました。

6月11日は、イタリアに戻る途中でルーマニアの別の目標を爆撃しています。

ユーゴスラビア上空を飛行してUSSRに向かう第15空軍のB-17編隊
1944年6月2日

シャトル空襲の際、ソ連軍や民間人の中に強制降下させられ、
アメリカ人であることを証明する必要があった場合に備えて、
飛行士が携帯していた「セーフコンダクトパス」(安導権)


B-24のナビゲーター、ヴェル・ドリソン中尉が
「フランティック作戦」で携行した身分証明書とフレーズシート

このパイロットを助けたら政府から報奨金が出るから(襲ったりしないで)
ということがロシア語と英語で書いてあります。


以前も一度紹介していますが、
ライマン・バーカロウ大尉が作戦で着用していたジャケットとカメラ。

カメラはソ連に没収されそうになったのを死守しました。

■フランティック作戦:アメリカの目的(と失敗)

遠く離れたドイツの目標を攻撃することは、実のところ、
アメリカにとってフランティック作戦の主な目標ではありませんでした。

アメリカは、ここで前例を作り、基礎を作って、
後にシベリアから日本を爆撃しようとしていた

といわれます。

最終的な目標はソ連に多数のアメリカ空軍を設立し、
シベリア作戦に切り替えることだったんですね。


もう一つの(というか表向きの)目標は、両国間の信頼と協力の発展でした。

少なくともアメリカは、戦後の世界において、
ソ連と友好的な関係を確立できると思っていました。

(友好の目的が自国の利益でしかなかったことはさておきます)

そのために、技術と研究、特に電気通信、気象学、航空偵察、
航空輸送ネットワークにおける緊密な相互協力と交流を提案しました。

しかし、ソ連はしたたかで老獪でした。

このとき、アメリカはソ連に、

「300機から400機のB-24爆撃機を提供するから、
アメリカ本土で
ソ連軍に訓練させてはどうか」

と提案したのですが、スターリンはこの申し出を受け入れず、その一方、
シベリアに着陸した米軍爆撃機をこっそり保管し、コピーしていました。

しかもソ連から提供された基地は、米空軍の希望より辺鄙な場所で、
そもそもインフラが西側の基準からして全く不十分なもので、
重爆撃機は春になると泥の海に着陸を余儀なくされていました。

これは政治が絡んだためです。

赤軍空軍そのものは、前述のように強力的で支援に熱心だったものの、
官僚機構と政治は戦略的にアメリカを警戒敵視し、

隙あらば利用する気満々でしたから当然といえば当然ですが、
8月から9月にかけてソ連の態度は露骨に敵対的なものとなり、
1945年までにアメリカの小規模部隊は大きな苦悩を残して撤退します。

一方イギリス空軍はというと、チャーチルの意見で不参加を決め込み、
アメリカの苦労を高みの見物していたようです。

米ソの亀裂が決定的となったのは、ソ連がワルシャワ蜂起の支援にも、
ソ連領土からのアメリカ人捕虜の送還のためにも、
基地を使用する許可を出さず非協力的だったことからでした。

現場においても、ソ連は戦力防御が呆れるほど不十分なくせに、
アメリカ側の、レーダー誘導砲と夜間戦闘機の支援を拒否したことで
両国間の関係はさらに悪化し、アメリカは作戦中止を余儀なくされました。

ソ連側からすると、アメリカの領土侵略の野心を見抜き、
これを拒否することでその目論見を挫いたということなのでしょう。
(本日書いたことはあくまでもアメリカ側の視点からの意見なので、
実際はどうだったかはわかりませんが、たぶん)

いずれにせよ、このときの両国の協力体制は壊れ、最終的には
のちの冷戦を予感させる不協和音を生み出すことになりました。


いまさらですが、「Frantic」とは、以下のような意味があります。

(恐怖・興奮・喜びなどで)気が狂ったような,半狂乱の,血迷った.

大急ぎの,大あわての.



続く。




ビッグ・ウィーク(アーギュメント作戦)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-18 | 航空機

■ ”ビッグウィーク”1944年2月20-25日

1944年2月、アメリカ空軍とイギリス空軍は、
ドイツの航空産業とドイツ空軍に対して全面的な作戦を展開しました。 

この欧州戦略爆撃作戦とは、第八空軍と第十五空軍の重爆撃機が、
昼間は航空機、エンジン、ボールベアリング工場に打撃を与え、
イギリス空軍の爆撃機が夜間に攻撃するという一連の流れを持つものです。

計画立案者らは、ドイツ空軍を決戦に誘い込むために
ドイツの航空機産業を攻撃し、ドイツ空軍に甚大な損害を与え、
連合国空軍が制空権を獲得することで、
ヨーロッパ大陸侵攻の成功を確実にしようとしていました。

■イギリス空軍の立場


ところで、第一次世界大戦時に生まれた戦略爆撃の定義として、

「敵の非戦闘員、特に工場労働者の戦意を喪失せしめる」

という目的を持つものがありました。


民間地域の攻撃は無差別攻撃と同義であり、
第一次世界大戦時から道義的観点から議論されてきましたが、 
あだ名に「爆撃機」「ブッチャー(屠殺屋)」を持つ、
この英国空軍元帥、アーサー・ハリス準男爵という軍人は、
「戦略爆撃の意義を民間人攻撃に置くべき」と唱えた軍人でした。

敵都市破壊爆撃が勝利の鍵と考える軍人は彼だけでなく、
おそらく1942年ごろは多くのRAF関係者がそう感じていました。

しかし、ハリスの考える空爆はさらにアグレッシブなもので、

◎単一の都市に一時間半にわたり1000機もの爆撃機をなだれこませ、
都市防衛―対空砲火だけでなく、消防や救護活動をも無力化し、
爆弾と焼夷弾を集中して焼き払う

◎飛行機には容量の許す最大限の焼夷弾を積み、
2400メートルの高度から落とす


◎発生する火災現場に後から駆けつける消防夫を殺傷するために
遅発性の信管をつけた11キロ爆弾を混ぜておく


など、人道的にはそれってちょっとどうなの、という方法でした。
まあ戦争に仁義や道義などあるか、と言われればそれまでですが。



連合国側の容赦のない民間人殺戮の典型とされるドレスデン攻撃は、
このハリスや空軍大将チャールズ・ポータルらの考えによるものです。

ドレスデン爆撃では市民が25,000人程度と見積もられる犠牲となり、
この戦争である意味最も物議を醸した空襲といわれています。
(上の写真は火葬を待つため積み上げられた民間人犠牲者の遺体)

さて、どうして今この人の話をしているかというと、
「アーギュメント作戦」の立案の際(このあとのDデイのときも)、
ハリスは地域爆撃に固執する立場からこの作戦に反対したからです。

彼は、特定の石油や軍需品の標的を爆撃するようにという指令を、
上級司令部の「万能薬」(彼の言葉)であり、
「ドイツのあらゆる大都市で瓦礫を跳ね返させるという現実の任務」

から目をそらすものであるとみなす傾向がありました。

反対する彼を説得し、米軍と共同のアーギュメント作戦を実行させたのは
ほかでもないチャールズ・ポータル空軍大将でした。



有名なヤルタ会談で、チャーチルの後方(左から2番目)にいるのが
Charles Frederick Algernon Portal,
1st Viscount Portal of Hungerford, KG, GCB, OM, DSO & Bar, MC, DL 


ポータル将軍の考えは、ハリスよりやや穏健というのか、

細密攻撃の重要性を認めてはいましたが、つまりは
ドイツの戦争努力と市民の士気に打撃を与えれば半年以内に勝利につながる、
というもので、そのことからドレスデン攻撃にゴーサインを出しています。

そのポータルがなぜハリスを説得せねばならなかったかというと、
ドレスデン爆撃について色々と?知らされたチャーチルが、

ポータルに地域戦略爆撃を中止せよと最終命令を下したからです。

チャーチルは、


「ドレスデンの破壊は連合軍の爆撃行為に対する重大な疑問として残る」

として爆撃から距離を置く立場を取りました。

惨劇の歴史的評価が自分に向かうことを恐れたのかもしれません。

ポータルはそれ以上地域爆撃を推し進めるわけにはいかなくなりました。

■アメリカ陸軍航空隊の立場

ドイツの航空産業をピンポイントで叩くという攻撃方法は、
口で言うのは簡単でも実際は破壊は難しいし敵は修復を容易にしてしまう。
特に資材輸送のロジスティクスを破壊するのは現実的に全く不可能でした。

アメリカ空軍は航続距離のため戦闘機の援護なしで爆撃をしていた頃は、
爆撃機に重武装させることである程度成功していましたが、
レーゲンスブルグでは対空砲と敵戦闘機の迎撃で深刻な犠牲を出します。

この頃アメリカ軍の爆撃機を研究したドイツ軍は、
戦闘機に重武装を施した双発重戦闘機を配備し、
アメリカ軍の戦闘機がいなくなってから悠々と攻撃を行いました。

アメリカ軍としてもドイツの戦闘機をやっつけたいのは山々ですが、
彼らは連合軍との真っ向勝負を避けるので、めったに交戦に誘い込めません。

そして第二に、護衛任務の間、連合軍戦闘機は、

爆撃機の編隊を守るため、緊密なフォーメーションを組んでいたので、
敵戦闘機を追撃・攻撃することもできませんでした。

そのとき、

「空中で叩けないなら工場を叩けばいいじゃない。」

と言ったのが、あのジミー・ドーリトル少将です。

というわけで立案されたのが、
「ドイツ航空機産業の完全破壊」
を目的とした生産工場への精密爆撃でした。

連合国空軍の上層部は、この作戦で失われる自軍の航空機は
1日で全体の7%から18%、
作戦が6日として全航空機の42%から100%
が失われると計算していました。

この作戦のために、米軍司令官フレデリック・L・アンダーソンは、
全航空機と乗組員の4分の3(つまり736機の爆撃機)
を犠牲にする用意があるとしました。

また作戦決行にあたり、連合国は、部品、エンジン、翼、
機体の生産に関わるドイツの産業のあらゆる部分、
および工場の組み立てに関する情報の収集を進めました。

そして、作戦が成功するための気候条件として、

○数日間好天が連続していること
○イギリスの上空約600~4,000mの間に雲があり
○ドイツの目標地域の上空に雲がないこと


としました。
勿論このような状況は極めて稀であったため、指導部は、
予報が許容可能な飛行天候の兆候を少しでも示すと、
すぐに、とにかく作戦を実行することにしました。

コードネームは "Operation Argument "
これはのちに"Big Week "として知られるようになります。


この頃には米空軍の戦闘機は掩護に十分な航続距離を持っていたので、
ドイツ空軍の守備隊を大混乱に陥れることになります。

米空軍はビッグ・ウィーク中、約4000機の重爆撃機を出撃させ、
2000万ポンド以上の爆弾を工業・軍事目標に投下しました。



1944年2月24日、B-24の攻撃で飛行場の完成機が爆弾で破壊され、
激しく燃えるゴータ航空機工場。


偵察機によって撮影された爆撃後のゴータ航空工場。
壊滅的な被害の跡を見せています。


二日前の2月22日にもイギリスから米軍爆撃隊が出撃したのですが、
悪天候のため攻撃を中止して帰還しています。
しかし、帰り際にオランダ国境のナイメーヘンという都市を
爆弾を捨てついでに爆撃して、数百人単位の民間人が犠牲になりました。

Gotha 航空ではゴータGo 145練習機、ゴータGo 242突撃グライダー
ライセンス生産されたメッサーシュミットBf 110を生産していました。
以前当ブログでご紹介した、ホルテン兄弟開発による
ジェットエンジン搭載ホルテン・ホー229も作っていました。

24日の攻撃では169機のB-24がゴータを攻撃しており、
米空軍は200機以上の爆撃機を失い、約2600人の死傷者を出しました。

それに対し、ドイツは使用可能な戦闘機の3分の1を失い、

かけがえのないベテラン戦闘機パイロットの5分の1が戦闘で失われました。



続く。




ターゲット ベルリン(友軍爆撃の悲劇)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-15 | 航空機

バッファローネイバルパークシリーズと同時に、
オハイオの国立空軍博物館展示の紹介も再び進めて行こうと思います。

アメリカ空軍(当時は陸軍)がヨーロッパでどのような航空戦略を展開し、
その経過と最終的な結果までが資料で紹介されているこのコーナー、
前回は連合軍が慣れない?ヨーロッパでの航空攻撃で
いかに苦労し、工夫し、そして犠牲を払ったかまでお伝えしたと思います。


ところで、アメリカ空軍の主要かつ最終攻撃の標的、それはベルリンでした。

■ なぜベルリン爆撃だったのか



ドイツの首都ベルリンは、その工業的重要性だけでなく、
ルフトバッフェが何がなんでも防衛せねばならない拠点であり、
だからこそその過程で彼らに大きな損害を与えることができるからです。

米空軍は1944年3月6日、ベルリンに対して最初の大空襲を行いました。

米軍は672機の重爆撃機でベルリンを攻撃、うち69機が撃墜されました。
そして2日後、174機のP-51に護衛された462機の爆撃機で帰還しました。


米空軍のオールマン・カルバートソン中佐が1944年3月6日、
米空軍初のベルリン大空襲で使用した地図です。

赤い線は爆撃機の進路、赤い丸で囲んだ部分は対空砲の集中を示します。
細かい網目になっているということは、よほど細かく、
都市上空を隈なく網羅して進路をとったかを表しています。

戦後准将になってからのカルバートソン
ヨーロッパでの爆撃作戦にはベルリンを含め11回参加した



1944年3月6日、第447爆撃群のB-17パイロット、
ウィリアム・H・レクター少佐が、
アメリカ空軍初のベルリン大空襲で着用したゴーグルと空軍ヘルメット。

博物館写真

■ブランデンブルグ・アラド航空製造への爆撃


ブランデンブルクのアラドで炸裂する爆弾。
1944年8月4日の攻撃。

アラドArado Flugzeugwerke GmbH は、

1961年まで存在したドイツの航空機会社でした。

スミソニアンの航空博物館にあるアラド製の爆撃機を
ここでも紹介した覚えがあります。

当時アラドはブランデンブルク最大の企業であり、
戦争とヨーロッパ諸国の占領政策の結果、
多くの外国人労働者が働いていました。

1942 年にはドイツ人従業員が約 4,000 人であるのに対し、
非ドイツ人従業員は 22,000 人、その後も数は増えましたから、
アメリカ軍がアラドの工場を爆破したことで、
犠牲になったのは実はドイツ人より外国人や囚人、(ユダヤ人含む)
がほとんどだった、ということになるのです。

まあもっとも、アメリカにとっては生産の拠点を潰すことが目的なので、
なに人が亡くなろうが、そんなことはどうでもいいわけですが。

そして1944年4月18日、アメリカ軍の爆撃によって、
ハイデフェルトにあるアラド工場では
ハインケルHe 177爆撃機の生産を終了させられました。

He 177は、それまでバルト人、セルビア人、スペイン人、フランス人、
オランダ人、ベルギー人の労働で生産されていました。

この攻撃の後、ボイラー室と いくつかの設備が破壊されたため、
工場はより軽量なフォッケウルフ Fw 190だけを生産し続けました。

6週間後には生産は再開されましたが、それまで
航空機製造は別の工学工場などで代わりに行われました。

しかし1944 年 8 月 6 日(写真は8月4日とされる)の空襲により、
航空機の製造は一時的に中断され、1945年3月の空襲で
完全に生産の目処は断たれてしまうことになりました。


炎上し、対空砲火に囲まれながらも、このB-17は
編隊を維持してベルリンに爆弾を投下しています。

「マスターズ・オブ・ザ・エアー」でも、対空砲火を受けて
エンジンが破損し、パニクった副操縦士がすぐに脱出を、というのに対し、
機長はふざけるな!とすぐに怒鳴り返し、こういいます。

「任務を全うするんだ!わかったな」

そしてクルーに向かって

「飛べる限り任務を続行する!」

と叫んでいました。

この作品は、資料として残されたこのような実際の出来事を
ドラマに掬い上げて後世に残すことに注力していました。

爆撃機が狙われやすい、というか、最も攻撃に対し脆弱だったのは、

「ボムラン」と呼ばれる爆弾投下前の態勢でした。


爆撃投下のサイト(照準)を確保し、正確さを期すために、
最低数分間はまっすぐ水平飛行を続けなければならないからです。


このパイロットは、ベルリン上空で重傷を負い、
病院に搬送される前に機体下で応急手当てを受けなければなりませんでした。

車輪の前にいる人が点滴の瓶を持っています。
手前の後ろ姿がメディックでしょう。


■ B-17「ミス・ドンナ・メエ II」の悲劇


ベルリン爆撃に限らず、爆弾投下はこのように
まさにばら撒く状態で行われます。

わたしはかねがね、編隊によっては上下に機体が位置する場合、
上方の機が落とした爆弾が下方の味方機に当たらないのか、
と不思議で仕方がなかったのですが、ベルリン爆撃で
まさにその悲劇が起こっていたことが判明しました。



機体は米第8空軍第91爆撃群のB-17G。

たまたま上空から自分の機が落とした爆弾を追って
写真を撮っていたクルーがいたため、
この悲劇の直前の様子が歴史に残されることになりました。

今まさに爆弾を受けようとしているB-17です。



爆弾は左舷の水平安定板にヒットし、これを引きちぎりました。

その後、被災機は編隊から離れて落下していき、
安定を失ったため誰一人機内から脱出することができないまま墜落。

The Worst Possible Way To Lose a B-17 Bomber

Miss Donna Mae B-17


「ミス・ドンナ・メエII」の乗員。
彼らは誰一人生還することができませんでした。


続く。


"We Stick Together" USS「ザ・サリヴァンズ」バッファロー海軍公園

2024-07-12 | 軍艦

バッファロー・ネイバル・パークの展示艦ツァーは、
まず岸壁に係留してある「フレッチャー」級駆逐艦、

USS「ザ・サリヴァンズI」DD-537から始まります。

コロナ蔓延中で展示が中止されていた時にここを訪れ、
岸壁から写真を撮ってここでも紹介しましたが、
今日こそは展示艦の内部全てを見学できるのです。

内部だけでなく、今日の冒頭写真のように、
潜水艦の甲板からしか撮れないような角度の写真も撮れるというわけです。


さて、ミサイル駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」については、
その外からしか見られなかった時にも一応説明しているわけですが、
あらためてもう一度命名の由来について話します。

「ザ」サリヴァン「ズ」となっているのは、「サリヴァン家」だからで、
さらにこの艦については「サリヴァン家の兄弟」を意味します。

ガダルカナル沖夜戦で沈没した巡洋艦「ジュノー」の乗組員であり、
同時に戦死した五人兄弟のファミリーネームが駆逐艦につけられました。

■ サリヴァン五兄弟



ジョージ・トーマス・サリバン二等軍曹
(12/14/1914 - 11/13/1942)
操舵手 - フランシス・ヘンリー・サリバン
(02/18/1916 - 11/13/1942)
二等水兵 - ジョセフ・ユージン・サリバン
(08/28/1918 - 11/13/1942)
二等水兵 - マディソン・エイベル・サリバン
(11/08/1919 - 11/13/1942)
二等水兵 - アルバート・レオ・サリバン
(07/08/1922 - 11/13/1942)


長男のジョージと末っ子アルバートの年齢差は7歳。
サリヴァン家の母はほとんど2年おきに一人ずつ男児を生みました。

昔、日本でもアメリカでも、世界中で子沢山の家庭が多かったのは、
産んだからといって必ずしも子供が無事に育つとは限らなかったからですが、
(医療技術が未発達だったせいで乳幼児が育たなかった)それより
当時は子供は労働力の担い手であり、多少?減ってもいいように、
できる限りたくさん産んでおくという親が特に労働階級には多かったのです。

サリヴァン兄弟の出身はアイオワ州ウォータールーです。

1937年、長男のジョージ、次男フランシスは一緒に海軍に入隊し、
一緒に駆逐艦「ホビー」(DD-208)に乗り組みました。


当時海軍は、兄弟で入隊すると同じ艦に乗り組ませるのが普通だったのです。

二人は1941年の6月に無事に海軍の任期を終えましたが、

同じ年の12月、真珠湾攻撃が起こりました。



二人は、この時撃沈された戦艦「アリゾナ」BB-39
アイオワの友人ウィリアム・V・ボール(Ball)一等水兵
が乗っていて戦死したことを知り、ショックを受けます。


seaman 1st class William V. Ball
(ボールの遺体は現在も艦内に残されている)

「アリゾナ」には彼の兄であるマスティンも乗り組んでいましたが、

彼はなんとか難を逃れ、生き残ることができました。

友人ウィリアムの死に奮い立ったジョージとフランシスは、

海軍に再入隊することを決め、その時ついでに
ジョセフ、マディソン、アルバートの弟三人を誘ったことで、

当時でも珍しい、海軍五人兄弟サリヴァンズが誕生したのです。
彼らは誓い合いました。


「五人で力を合わせてウィリアムの仇をとってやろう!」

イリノイ州グレート・レイクスにある海軍訓練学校で教練を受けた後、
5人の兄弟は全員、1942年2月3日にニューヨーク海軍工廠で
軽巡洋艦「ジュノー」(CL-52)に乗り組むことが決まりました。

このとき兄弟の一人は

“We will make a team together that can’t be beat,”
(負けないチームを作ろう)


と何かに書いています。

■ サリヴァンズに乗艦



見学ツァー通路は「ザ・サリヴァンズ」から始まります。

ラッタルを上っていくと、そこは後甲板。
隣の巡洋艦「リトル・ロック」が映り込んでわかりにくいので、
写真を加工して「リトル・ロック」をボケさせてみました。

右手に写っているのはMk12の5インチ砲で、1934年に制式化され、
第二次世界大戦中のほとんどの駆逐艦はもちろん、
戦後の原子力ミサイル巡洋艦にも搭載されました。

戦後日本に貸与された「リヴァモア」級の「あさかぜ」型、
「フレッチャー」級の「ありあけ」型、そして
戦後初の日本製駆逐艦「はるかぜ」型でも運用されています。

白い幕がかかっているのは、見学用の入り口かな?



かな?と書いたのは、結局この日「ザ・サリヴァンズ」は、
2022年に見舞われた着底事故(上)から完全に修復できておらず、
内部の見学には至らなかったからです。

わたしが岸壁から見学したのは確か12月下旬でしたが、
それから2ヶ月後に老朽化と天候のダブルパンチで沈み始めたようです。

幸い、海深が浅く、着底したことでほとんどの部分が海面に出ており、
その後の修復作業を経て、2022年に浮く状態に戻りました。

つまりわたしがここを訪れたときは、再オープンしたばかりだったのです。

わたしたちが乗艦すると、なぜかここに人がいて、
「ザ・サリヴァンズ」の説明をしてくれました。
しかし、それはどちらかというと機械的なもので、すぐに終了。
私が基本知識として知っていたことだけです。



甲板の床には「シャムロック」がペイントされています。


サリヴァン家のルーツはアイルランドです。
(アイルランドではオサリヴァンO'Sullivanとなる)

これにちなんで、「ザ・サリヴァンズ」の艦マークには、
アイルランドの伝統的なシンボルであるシャムロックが採用されました。



何年か前見学したボストンのバトルシップコーブで展示されていた、
JFKの兄の名前を持つUSS「ジョセフ・P・ケネディJr.」の艦体にも、
ケネディ家のルーツ、アイルランドのこの象徴が描かれていたと記憶します。

そしてこのパッチに刻まれた「We Stick Together」ですが、
スティックという言葉が「くっつく」であることから、特に
災害や大問題が発生した際、団結しようとか助け合おう、
ひいては一緒にいようという意味で使われる言葉です。

ちなみに写真に軍人さんの下半身が写っていますが、
この時点ではまだ艦内の修復は全く(かどうか知りませんが)
終わっておらず、ここから観光客が入っていくのを阻止する係です。

こんなことに現役の軍人を使うなよと思いますが。


現役の軍人といえば、モノホンの軍人さんが二人、ここで何か行われるのか
飲み物(スプライト)持参で乗艦しているのを見ました。

いかにも軍曹っぽいのと、いかにもルーキーらしいのの二人組。
今日は何かここで宣伝を兼ねた活動があるのかもしれません。

彼らの左側に見えているのは(デプスチャージ・トラック)
爆雷投下軌条ですが、このトラックも、艦尾の砲も、
かつては太平洋、台湾沖、そして硫黄島、沖縄で日本軍と戦い、
朝鮮戦争でもバリバリ戦闘任務で稼働していたものです。




続く。


バッファロー・ネイバルパークふたたび

2024-07-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

今日からエリー湖畔の海軍博物館、バッファローネイバルパークに展示された
海軍艦の紹介シリーズをじっくりと進めていこうと思います。

■再開したバッファローネイバルパーク

2021年の冬、ピッツバーグに滞在したときに、
大学がクリスマス休みに入ったMKとナイアガラまで一泊旅行をし、
その途中に旧海軍艦艇が見学できる場所があるのを知りました。

早速帰りに立ち寄ることにしたのですが、
当時はコロナ禍真っ最中だったこともあって、休止していたので、
車を停めて、歩道から艦艇の写真を撮るに止まりました。

真冬の五大湖のほとりは雪と氷で覆われ、ほとんど人無人の歩道は凍結し、
何度か氷に足を取られて転びそうになりヒヤヒヤしながら歩いたものです。
しかし、ここは本来であれば年中無休で、冬季も公開しており、
この時は非常事態宣言を受けて特別だったのだと後から知りました。

2022年、アメリカはすっかり自粛も解けて社会が平常に戻っていたため
我々はシカゴからアメリカ入りしてピッツバーグまで車を運転し、
道中、五大湖沿いの海軍博物館を訪ねるという計画を立てます。

シカゴの科学産業博物館でU-505の見学に始まり、
マスキーゴンの潜水艦「シルバーサイズ」、
同じくマスキーゴンの揚陸艦LST-393、
ヒューロン湖沿いに係留されていたベトナム戦争時代の駆逐艦「エドソン」、
そしてエリー湖のここバッファローネイバルパークが
この壮大な「海軍艦船を訪ねる旅」の最終地となりました。

バッファローネイバルパークはバッファロー市の都市再生庁が
海軍省と協力して寄贈された海軍艦を集め展示している海軍公園です。

地元の開発公社などが加わり、都市活性のための整備を行いました。





この日の朝、わたしはオハイオ州クリーブランドのホテルで目覚めました。

クリーブランドはエリー湖の南岸にあり、
ペンシルバニア州との境からは100キロの距離にあります。

写真一番左の建物はクリーブランドのシンボルタワー、
駅の上にあるため「ターミナルタワー」と名付けられたもので、
1930年に完成し、1991年までは一番高かった(52階建)そうです。

ここクリーブランドからエリー湖沿いにインターステート90を
およそ3時間走ると、そこにバッファローネイバルパークがあります。

ちなみにボストン在住時、この州間高速道路90にお世話になりましたが、
この道路は世界でもっとも距離が長い高速道路として知られます。

映画「グッドウィル・ハンティング」は、主人公のマット・デイモンが

ボストンからこのI-90で西を目指し走る車のシーンで終わりますが、
I-90はオハイオ州から五大湖に沿ってその後イリノイ州、ミネソタ州、
最終的には西海岸のワシントン州までほぼまっすぐ続きます。



コロナの時には近くの道路に停めましたが、今回はそうもいかず。
パーキングはアプリを入れてオンラインで支払うものしかなく、
しかもこれが外国人にはとても使いにくいものでした。



潜水艦「ボストン」のセイルの横に、案内板がありました。
ネイバルパークの全体地図が示され、説明が添えられています。


変わりゆく水辺 Changing Waerfront

今ここにいるあなたの目にみえているのは
元々はエリー運河の西の終点だったスリップ全盛期には、
この地域は、運河、湖上、そして陸路の鉄道交通が行き交い、
主要な交通の中心地の 1 つとして、
世界中から人や物資が集まる賑やかな港でした。


バッファローリバーからダウンタウンを臨む

コマーシャル・スリップ(Commercial Slip)

この水路はエリー運河の西の終点を示し、
1825 年から 1918 年までは五大湖上流への玄関口でした。

20世紀のほとんどの間、水路は雨水管として地中に埋まっていましたが、
歴史的な遺跡から回収された石を使用して再建されました。

その他ウィップルトラスと言われる様式のアーチ橋、
付近に残る当時の建物、そして埠頭。


エリー湖に流れ込むバッファロー川は、このように夏には
水辺を楽しむボートや水上バイク、カヌーが賑やかに行き交います。

ここにあらたに加わったバッファローのランドマーク、
それがナーバル アンド ミリタリー ミュージアムです。

ここには巡洋艦「リトルロック」駆逐艦「サリヴァン」、
潜水艦「クローカー」
などの「フローティングヒストリー」以外にも、
航空機やボート、戦車などの展示が人々を引き寄せています。

中にはこんな展示も・・。

■ 潜水艦 USS「ボストン」


ここでも何度かご紹介している潜水艦「ボストン」のセイル部分。
見覚えのない新しい金のプレートが艦体に追加されていました。


ありし日の「ボストン」



USSボストン SSN703

マサチューセッツ州の首都にちなんで命名された7番目の米国軍艦

就役日:1952年1月30日 退役日:1999年5月19日

コネチカット州グロトン
ゼネラル・ダイナミクスエレクトリックボート部門により建造

歴代指揮官

1982/01-1932/08 COR J. マイケル・バー USN
1982/08-1585/07 CDR H リーブス・アデア USN
1985/07-1988/08 COR ウィリアム J. リッター USN
1988/08-1991/05 CDR ジョン P. ジャラバク USN
1991/06-1993/06 CDR ピーター A. スカラ USN
1993/06 -1994/11 COR ウィル・H・ジョーダン USN
1994/11-1997/04 COR クリストファー・A・クライン USN
1997/04- 1999/11 CDR デビッド A. オリヴィエ USN

それまでの「ボストン」

誘導ミサイル巡洋艦 CAG-1 1955-1970 
重巡洋艦 CA-69 1943-1946 
防護巡洋艦 1887-1940
スループ 1826 ~ 1846 年
フリゲート艦 1799-1814
フリゲート艦 1777-1780
ガンダロウ 1770-1776

1776年から明日へ

メリカ海軍艦艇に「ボストン」と名付けられたものは8隻あります。
今のところ最新の「ボストン」は、ここにセイルのある
「ロスアンゼルス」級原子力潜水艦であるわけですが、
最古の「ボストン」は1770年、米英戦争に出撃した「ガンダロウ」です。

Gundalow「ガンダロウ」とは、アメリカの一部でかつて見られた
一種の平底の帆船のことです。
今では観光用にごくわずかなガンダローが操業しています。



初代「ボストン」

「1776年から未来へ」というのは、おそらく今後も
「ボストン」の名を持つ海軍艦は登場するでしょう、ということです。


前回写真が撮れなかった説明がなんとか見られるようになりました。

USSボストン (SSN-703)

USS 「バッファロー」 (SSN-715) の姉妹船である 
USS「ボストン」 (SSN-703) の実際の司令塔「セイル」です。
USS 「バッファロー」は現在も就役しており、グアムを母港としています。

歴史
USS「 ボストン」は「ロサンゼルス」級攻撃型潜水艦で、
1978 年 8 月 11 日にコネチカット州グロトンの
ゼネラル ダイナミクス社のエレクトリックボート部門で起工されました。

1980 年 4 月 19 日に進水。
1982 年 1 月 30 日に就役。 1999 年 11 月 19 日に退役し、
同時に海軍登録簿から抹消されました。

最終処分
「ボストン」は2002年1月1日、ワシントン州ブレマートンの
ピュージェットサウンド海軍工廠において、NPSSRP
(原子力艦&原子力潜水艦リサイクルプログラム) により処分されました。

スペック
水上:6000t、水中:6927t、
全長;110.3 m 全幅;10m 喫水;9.7m
速力;海上25kt(46km/h)水中30kt(56km/h)
潜航深度;950ft(290m)

乗員;士官12 下士官兵98

兵装
4×21インチ(533mm)魚雷発射管
MK.48 ADCAP魚雷
トマホーク陸上攻撃巡航ミサイル(TLAM)
MK60地雷
MK67 SLMM機雷

■ ネイバルパークに入場

ネイバルパークは、埠頭を歩き、芝生に点在する軍慰霊碑を見るだけなら
無料ですが、浮いている艦船の中を見学するには入場料が必要です。

ちなみに入場料は大人18ドル、17歳以下12ドル、4歳までの乳幼児無料、
シニア15ドル、退役軍人13ドル。
無料なのはメンバーと現役軍人、展示されている艦艇の元乗組員。

なお、「サリバン」は元駆逐艦乗組員であれば乗組艦問わず、
駆逐艦ベテランの団体「ティンカン セイラーズ」会員であれば無料です。



ディープフライしたオレオ、という言葉の響きにショックを受け、
思わず写真に撮って、以前もここでご紹介した写真です。

つまり、クリームサンドのオレオに小麦の衣をつけ、
それを揚げた天ぷらにフロストシュガーをまぶすという神も恐れぬ仕業。

念の為に調べてみたところ、この「揚げオレオ」、
2001年にアメリカ在住の16歳のアルメニア人、
別名「なんでも揚げる男」"The Man Who Fries Everything,"
チキン・チャーリーことチャーリー・ボゴシアンが開発したものだそうです。

流石のアメリカ人もこれには眉を顰める向きが多いようですが、
ところがどっこい、フェスティバルなどの会場では一般的になり、
カルト的な人気を得ている正式なゲテモノなんだそうです。

しかし、ただ普通にオレオをそのまま放り込むのではなく、
クッキーは揚げる前に3時間冷凍し、油も350度と厳密に決まっていて、
パンケーキミックスにはバターミルクを入れるべし、と正式な方法があり、
ロサンゼルスでの誕生以来、いくつかの国で浸透しています。

健康に良くないことはもう百も承知で、つまり、特別な日に
「怖いもの食べたさ」で食べるジャンク、という地位は揺るぎなし。

ちなみに、
揚げたオレオはたった5個で900カロリー
になるそうです。


クリーブランドからノンストップでやってきたので、
併設のカフェでランチを取ることにしました。

アメリカ人は陽が当たっていても全く平気ですが、
私たちには辛かったので、室内のテーブル(ガラガラ)に座りました。


レストランの2階は各種団体の事務所になっているようです。

左のバナーは、地元出身のベテランが寄付した資料などが
どこかに展示されるというお知らせです。
セーラー服を着た写真のロバート・ビーラーという人物は、
自動車販売業の会社で成功した名士で、
1946年から2年間海軍に入隊していた期間のほとんどを
日本で過ごした、ということがわかりました。

おそらく、彼の残した資料はほとんど日本での海軍生活で
手に入れたものだと思いますが、それがどんなものかはわかりません。

ドブ板通りで手に入れたお土産品とかかな。

このバナーが飾られたのは2022年6月ですが、
ビーラー氏はその1ヶ月前、92歳で亡くなっています。



入場料を支払うために売店に行きました。
支払うと、手首にリングをはめてくれます。

売店の壁には、主に戦争公債(ウォーボンド)を買いましょうのポスターと、
機密を守るための防諜ポスターがずらりと並んでいます。



女性の入隊を募集するポスターも。
並んだ顔写真はおそらく地元出身のベテランのものでしょう。


というわけで、腕に入場許可証をつけて出撃です。



地上展示の戦闘機2機については以前も解説しました。
手前は

海軍 FJ-4B 「フューリー」ジェット

空軍F-86セイバージェットの海軍版。
マーチン・ブルパップ・ミサイル5発と、
低空攻撃用の20ミリ砲4門を機首に装備していました。
ライト・ターボ・ジェット・エンジンを搭載し、
海面での最高速度は時速680マイル。


向こう側は、

空軍F-101F「ブードゥー」戦闘迎撃機

1971年〜1982年の間ナイアガラフォールズ航空基地に配備されていました。
F-101Fは、ニューヨーク州空軍の第107戦術迎撃群によって、
"レインボー飛行隊 "の一員として就役していました。
就役中、機体はナイアガラの滝にかかる虹を表す、
赤、青、黄色のストライプの尾翼で飛行していました。

また、ここには冬来た時にPTボートがあったのですが、



修復中でした。
スポンサーはホームデポ、ノースロップグラマンなど。

All about PTF-17! From Vietnam to the Great Lakes

今年修復は完成したようです。
新品のように綺麗に塗装されていますね!

続く。





恩師の激励〜工学部卒業式@ベイエリア

2024-07-06 | アメリカ

アメリカ西海岸におけるMKの大学卒業式シリーズ、
この学部セレモニーでいよいよ最後となります。


前回の卒業式は、学部セレモニーと全体セレモニーが別の日だったのですが、
今回は大学卒業式に続いて午後からが各学部での式となります。

スタジアムを出て指定された建物へと向かいます。
皆が各学部への移動を一斉に始めるため、学内はご覧のように
ガウンを着た人と家族関係者がいろんな方向に三々五々歩き回っています。


工学部卒業式会場は、名前こそ「メイプルズ・パヴィリオン」ですが、
なんとバスケットボール専用体育館です。
なんと、バスケの練習と試合をするためだけの体育館があるのです。
(まあ、至る所にビーチバレー部のためにあちこちに専用コートがあって、
ゴルフ部のために専用ゴルフ場がある大学ですから当たり前ですが)

アメリカの私大は、スポーツの振興でも大学名を賭けて競い合うため、
高校スポーツでいい成績を出し、大学の決めたレベルをクリアすれば、
いわゆる「エリート校」に推薦入学することができます。

もちろん当大学くらいになるとSATの成績が悪ければ入れませんし、
大学入学後に成績が維持できなければ試合に出してもらえません。

ちなみに、当大学のバスケチーム、「カーディナル」ですが、
現在では男子より女子の方が強い模様。


天井のこれは4面に向けたスクリーンになっています。
バスケットボール専用体育館なので仕方がないのですが、
蛍光灯に照らされ、劇場のような照明は望むべくもありません。



今度は正面ではなく、壇を一番近くで見られる場所に席をとりました。
「威風堂々」が流れる中、卒業生たちが入場してきます。


上のスクリーンからは別角度からの入場が見られます。


博士課程、大学院、学部卒業生全部合わせてもそんなに多くはありません。


全卒業生が入場を終わりました。
帽子をクリエイトしている卒業生は多くはありませんが何人かいます。

■ 錚々たる教授陣


続いてファカルティ、教職員が入場し壇上に着席しました。
卒業生に渡される卒業証書はダミーで、名前は書かれていません。



今年工学部の卒業式の進行を行ったのは、機械工学者であり
ロボット工学者のアリソン・マリコ・オカムラ教授でした。

Allison Mariko Okamura

日本人としてどうしてもその名前が気になってしまいますが、
アメリカ生まれのアメリカ育ちの日系アメリカ人です。

ロボティクス分野に関しては、触覚技術、遠隔手術の研究を通じて
医療分野におけるロボット技術の普及に貢献しておられます。

オカムラ教授によって、教授陣が紹介されます。



紹介が終わると、二人が壇上に上がりました。
このコリンズ准教授の専門はヒューマノイド型ロボット研究。

かっこいい・・まるで映画に出てくる教授みたいです。
この綺麗なブルーのガウン、ミシガン州立大でPh.Dを取ったことを表します。



続いて、副学部長のケン・グッドソン教授。
グレーと赤のガウンは、MITの博士号を受けたことを表します。
壇上で一際存在感を放っていると思ったら、やっぱり凄い人でした。

一番目立ってた

専門は、電気自動車、データセンター、
パワーエレクトロニクスに応用される熱伝導とエネルギー変換で、
DARPAや政府のエネルギー研究局、空軍科学研究所などからの支援を受け、
発明家としても35の特許を持っています。
アップル社のためにヒートシンクを製造した実績もあります。

また、バリトン歌手としてオラトリオのソロを務める一面もあり、
タングルウッドで声楽のフェロー、芸術賞を取っているそうです。

■ 博士号授与



まず、博士号を取った人たちに、
壇上でガウンの上にストールをかける儀式が行われます。

赤と黒のガウンは当大学独自のもので、
そこに肩からかけるオレンジのストールは工学博士を意味します。



新博士たちは、自らのストールを手に持ち登壇して、
担当教授直々にストールを後ろからかけてもらいます。



背の低い教授に大きな人が掛けてもらうのはちょっと大変。




卒業生は自分の名前が書かれた紙を、コールする人に直前に渡します。
おそらくこの人(インド系)は、名前の読み方を確認されています。

そしてこの後、博士号取得者は、元いた席にではなく、
壇上の、教授准教授の後ろに設えられた椅子に座ります。

つまり、これからは皆同じ博士ですよってことなのでしょう。

■ 修士号授与



というわけで、MKが修士号授与される順番になりました。
彼の名前をコールしているカトコスキー教授は、なんのご縁か、
MKが学士授与された大学で博士号を取っており、
そうと一目でわかるタータンチェックのストールをしておられます。

このストールが素敵だと思ったのはわたしだけでなく、MKも、

「もし将来Ph.D.取ることがあればここよりC大がいいなあ」

その理由はというと、やはりこのタータンチェックだそうです。

ちなみにカトコスキー教授の専門も、ロボットハンドなどです。


前後に並んでいるのはみんな親しい「学友」なので、
名前を呼ばれると声援を送り合い、盛り上がります。

ヒスパニック系など、大家族で応援に来ている卒業生の名前が呼ばれると、
一族郎党が凄まじい声で名前を叫び、プラカードが振られます。


賞状を渡す係とまず握手。
この方、コンピュータサイエンスの助教授で、名前が凄い。

モンロー・ケネディ3世
Monroe Kennedy III


ファーストネームがモンローでファミリーネームがケネディ。
しかも、三代に亘ってこの名前がアフリカ系一族に受け継がれてるって、

・・・・・なんか色々と謎の情報量多すぎ。

ケネディ助教授も専門分野はロボット工学です。


モンロー・ケネディ3世助教と写真を撮って、おしまい。


博士課程、修士課程のセレモニーが終わりました。
2024年というのは当大学133回目の卒業式に参加した卒業生が、
「クラス2024」と生涯にわたって呼ばれる数字となります。


さて、ここからは学士、アンダーグラデュエイト認証となり、
カトコスキー教授に変わってコリンズ准教授がコール係となりました。


モデルさんですか?みたいな人も結構います。


「世界130カ国から集まっている」という当大学。
わたしたちの近くに座っていた一団はオーストリアから来た家族でした。
(帰りのチケットを確認していたのが見えてしまった)

この写真の女性のように、国旗と共に登壇する愛国者もいます。
彼女が持っているのはモーリタニア国旗ではないでしょうか。
(赤いラインがないのは旧国旗だから?)

モーリタニアはアフリカの西岸に面した人口465万人のイスラム教国で、
国土は日本の2.7倍ですが日本大使館は目黒区五本木の一軒家です。

なお、全員の名前が呼ばれるのを注意して聞いていたのですが、
全工学部中、日系と思われる女性は一人、(教授に一人いますが)
ファーストネームも日本名の、つまり留学生らしき卒業生は、
この中でMKと学士の女性一人だけでした。

つまり工学部で男性の日本人留学生はMKだけだったことになります。

そういえば、北東部の大学にいたときも、日本からの留学生は少なく、
そのことがアメリカ人の父兄とレセプションの席で話題になり、

「日本は元々先進国だから、留学の必要がないんじゃないですか」

と言われましたが、それもちょっと違うような・・・。

■ キャップトス(帽子投げ)


卒業証書授与式が終わり、一瞬素に戻っている先生たち。
画面左手にあるロゴ入りのボードは、撮影用のバックで、
卒業生がここに来ると業者が一人ずつ撮影を行います。

卒業式後、すぐに業者から写真を買えというメールが来たので、
当然のように買ってしまったわけですが、届いたプリントを見ると、
うーん・・・わたしが撮った写真のほうがよく写っているかも・・。



アメリカのセレモニーの不思議なところは、
「ここで終わり」というアナウンスをしないことです。

なので、卒業生たちはなんとなく終わった〜的タイミングで
てんでに立ち上がり、何人かが帽子を投げたりし始めます。

この帽子投げは英語では「ハットトス」「キャップトス」といいますが、
本来は、これから任官して帽子が変わる士官学校での慣習であり、
普通の大学の卒業帽=「モルタルボード」mortarboardは投げません。

「新しい帽子を得るために古いものを捨てる」という意味がないからです。
つまり、そのイメージを受け、完全に雰囲気でやっているだけです。

それに、改造されてプラスチックなどを貼った帽子は、
下手に投げたら角で人を傷つける心配もありますからね。

■ 野外レセプションパーティ


セレモニー終了後は、体育館横のバーベキューエリアで
工学部主催のレセプションがありました。

スタジアムには軽食のスタンドもあったので、
それを買い求めて食べている人もたくさんいましたが、
わたしたちは朝早く、一口だけ食べて家を出てきただけなので空腹です。

そうそう、スタジアムで横に座っていたコリアンらしい青年は、
買ってきた山のようなフライドチキンのバレルを抱え、もりもり食べて、
食べ残しをそのまま座席の下に放置していったわけですが、
彼に限らず、セレモニーが終わった後、スタンドの足元に、
ペットボトルやその他食べ残し、チラシなどゴミを放置する人多数。

「一流と言われる大学の卒業生関係者でもこれか・・」

とちょっと唖然とさせられました。
ワールドカップでゴミを拾う日本人応援団が話題になりましたが、

それがいかに世界基準では異様なことだったかがよくわかります。

こっちの人ってまじで、


「掃除をする人の仕事がなくなるからゴミ拾いなんて必要なし」

とか平気で思ってそうなんですよね・・。


卒業生は木陰のテーブルに座り、あるいは立って、
お世話になった先生と話したり、家族に会ったりします。

そう、レセプションパーティは食事をする場所ではないのです。



とはいえこれは・・・いかがなものか。

お腹が空いたので、フードの列に並んでみたところ、
テーブルの上にあるのはズッキーニのサラダ、
中身スカスカのソフトタコ(しかももう残ってない)、クッキー。
飲み物はサーバーから汲む生ぬるい水道水、以上。

「タンパク質とか全くねええ!」

「ビーガンの人に対する配慮かな」

「レセプションって量じゃないぞ」

しかし、とりあえず一皿取って食べたら味はそう悪くない。
小皿一杯では流石に量も足りないので、おかわりしようと思ったら、
このわずかしかない食べ物に長蛇の列ができていて、諦めました。
(きっと全員に行き渡らなかったと思う)しかも補充される様子なし。

いかに食べ物の質に頓着しないアメリカ人もこれにはびっくりだ。
MKも呆れて、

「工学部何考えてんだ」

おもてなし以前に、共感性欠如疑うレベル。
まさかこの大学で「予算がなかった」なんて言い訳通らないぞ?

きっとビジネススクールはこんなんじゃなかったんだろうな、とふと思う。

■ 駆けつけてきた「レジェンド」教授



MKと同じラボの研究生が、恩師を囲むの図。

教授は昨年一杯で退官し、リタイアしているのですが、
可愛い?弟子たちの卒業式に立ち会うべく、
ロスアンゼルス方面から車を飛ばしてやってきたのでした。

しかし、この日曜日、道路が異常に渋滞していて、
到着したのはセレモニーが終わったときだった、とのことです。

ちゃんと弟子に会うために退官後にもかかわらずガウンを着用。
MK曰くその分野では「レジェンド」というべき存在だったとか。


早速恩師を囲んで記念撮影が行われました。



わたしが一番好きなのがこの写真です。

退官したにもかかわらず、弟子のために数時間かけてやってきて、
彼らの門出を祝福してくれる名物教授。



そういえば、最初にラボの見学をさせてもらったとき、
教授の似顔絵が貼ってあったなあ・・・。

写真の身振り手振りからも、教授が教え子にいかに真摯に対峙していたか、
いかに尊敬され、慕われていたかが推察できる一瞬だと思います。

自分の薫陶を受けた技術者が、これからの世界に
どれほどの功績を遺すかを、心から楽しみにしている師の姿。

後藤新平が言ったという、

「人を遺すは一流」

という言葉を、カリフォルニアの太陽の下で思い出したわたしです。


というわけで、長らくお付き合いいただいた卒業式シリーズ、終わります。
MKはこの後、企業の研究所でインターンシップを行った後、休みを取り、
本格的に地元で技術者として歩みだすことが決まりました。

親としての役目は一応これで一区切りついたと言えるかもしれません。


卒業式シリーズ終わり



メリンダ・ゲイツのスピーチと学位承認の儀式〜大学卒業式@ベイエリア

2024-07-03 | アメリカ

アメリカ西海岸で行われたMKの大学の卒業式、
パレスチナ支援の卒業生たちが数百人単位で式をボイコットし、
会場を去っていく間も、臨時学長リチャード・サラー氏の演説は続きます。


後でMKが、このスピーチを、

「何が言いたいのか全くわからなかった」

と貶していました。

改めて内容をチェックすると、まず、何分もかけて言葉を変えながら、

「君たちをここまで育んだ家族とコミュニティに対する感謝が大事」

と一言で済むことをクドクドと?繰り返しています。

まあ当たり障りないというか、当たり前というか、普通の内容です。
ひとしきりそれが済むと、歴史学者であるサラー学長は、

「古代ローマの専門家として語る」として、続けました。

「過去4年のパンデミックの悲劇を矮小化するつもりはないが、
絶望的な物語の中で過去を理想化したり美化するのも間違いです。

幸福度のほとんどの尺度において、みなさんの世代は、
古代ローマ人や100年前のアメリカ人、私の世代より先を行っていますし、
みなさんは先祖より長生きする可能性があります。

過去1世紀にわたってアメリカの平均寿命は40%延びました。
1970年以来、世界の平均寿命は16年延びました。
古代ローマにおける15歳未満の子供の死亡率は50%でしたが、
1950年には25%、現在ではわずか4%になりました。

そして、ほとんどのローマ人は自給自足していたが、
現在極度の貧困率は減少し識字率も古代の10%から現在は87%へと(略)」

で、何が言いたいかというと、これらの変化は教育と、知識の発見、
普及の賜物であり、皆さんと大学はそれに貢献しているということらしい。


過去より現在、現在より未来が人間にとってより良いものになっている、
ということを、学長は学者らしく数字を挙げて証明したかったのでしょう。

そして、今の世界にも問題は各種存在するが(ボイコットの原因含む)

明日の世界をより良くするために、皆さんはここで学んだことを活かして
それら問題を解決していってくださいねと言いたかったようです。

しかし、MKとその周りに、この学長代理のスピーチは滅法不評でした。
数字ばかり挙げて、で、古代ローマとか何言ってんの?みたいな。


確かに古代ローマ史の専門家で「ならではの」視点はないかもしれません。
単にその事実を数値化するだけなら誰にだってできますし。

■ メリンダ・ゲイツのスピーチ



サラー学長がこの日のキーノート・アドレス、
=基調講演を行うスピーカーを紹介しました。

「慈善家、事業家、女性の人権保護者、そして当大学育ての親」

である、メリンダ・フレンチ・ゲイツ氏です。

プログラムには「Pivotal 創業者」と紹介されていますが、
ピヴォータルとは、2015年に設立された、ベンチャーキャピタル、
政策、権利擁護の橋渡しと推進を行う組織名で、
女性の経済的および政治参加を増やす取り組みを使命としています。

(つまり彼女のライフワークは女性の権利の向上でもあるわけです。
そんな人が夫とエプスタインのような人物の関わりを許すはずありませんね)

彼女の慈善事業へのアプローチは、イデオロギーよりも柔軟性を重んじ、
あくまでもデータ主導であり、その上で、アメリカの裕福な人々に
その富を慈善活動に寄付することを呼びかけており、
彼女自身も今後2年間で10億ドルを寄付する予定だそうです。

以上のことを学長がスピーチすると、会場から拍手が巻き起こりました。

ちなみに彼女のウィキペディアには、最後に
この日卒業式で基調講演を行ったことが付け加えられています。

Melinda French Gates 2024 Stanford University Commencement Speech
自動翻訳から日本語を選択できるので、
もしご興味があれば聞いてみてください。

最初に彼女は、当大学メカニカルエンジニアで学んだ彼女の父が、
メリンダの姪の卒業を見るために母と一緒にここに来ている、と言います。
なお、彼女の娘も、娘婿もここで学位を取得しています。

この日大学がメリンダに2回目となるスピーチを依頼したのは、
彼女の姪が卒業するタイミングだったからだったかもしれません。

この日は父の日だったので、彼女は会場のすべての父親におめでとうを言い、
母親たちを労って、聴衆の心をしっかりと掴みました。

スピーチの核心に入ると、彼女は、アメリカの思想家、ラム・ダスが言った、
海を渡る二つの波についての話をします。

「大きな波と小さな波が岸に向かって打ち寄せていた。

陸地に近づくにつれ、大きな波は、波が海岸で砕けるのを見て絶望し、
小さな波に、『私たちはもう終わりだ』という。

しかし小さな波は微笑んで『心配しないで。大丈夫ですよ』という。
大きな波が、それでも『終わりだ』というのに対し、

小さな波は落ち着いて、

『それは違います。その理由をたった六語で説明します』


といった。
その六つの言葉とはこうだった。

『You are not wave, you WATER.』
(あなたは波じゃない。水です)


そして、60歳になった自身に訪れた様々な経験について、
それが目の前にある時には、大きな波が感じたような恐怖に見舞われたが、
次の日には乗り越え、それからの行動が自分を形作ってきたと言います。

そして、皆さんはこれからこの大学の卒業生として、
色々と展望や計画を持ち、世間も皆さんを必要としていると思うが、
人生には往々にして想像もしなかったことが起こるので、
自分のこの地球上での使命について皆さんは考え方を変える余地を残し、
それを厭わないでほしいとして、

「波が波でなく自分を別の名前、『水』と呼ぶことを認識したとき、
自由自在に新しい形になることができるのです」

そして卒業生には、自分自身の小さな波(大きな波を見る視点)を持ち、
物事の本質を見る視座を養うように、と、
自分自身のマイクロソフト入社時の(苦い)経験をもとに語ります。

そして、自分自身にとっての小さな波になってくれる人を見つけること、
また、誰かにとって自分が小さな波の役割を果たし、
信頼性の構築によって壊れた世界を修復することを望み、

”And when you wake up tomorrow,
no longer the person you are today
and not yet the person you will become next.
(明日目覚めたあなたは、もう今日のあなたではありませんが、
まだ次の自分になることもできていません)

I hope you will draw courage and confidence knowing
that you graduates are water, the force that shapes the shore.
(私が望むのは、卒業生の皆さんが勇気を自信を持つことです。
なぜならあなた方は水で、岸辺を形作る力であるのだから。

What a powerful force you are.
(それはなんと力強いものでしょうか)

と締めくくりました。


明快でわかりやすく、そして説得力のある訓戒です。
さすがはフォーブスの「最もパワフルな女性100人」に
2013年以降ほぼ毎年ランクインしており、
国内外から様々な勲章を受けている女性のスピーチだけあります。

卒業生たちも、素直にこのスピーチには拍手を送っていましたし、
後で聞くとMKも「学長のは酷かったけど」こちらは評価していました。

わたしは、客席からの写真ではわからなかった彼女のブレスレットが
ヴァン・クリーフ&アーペルであることを目ざとく察知しました。

でっていう話ですが。


■ 学位授与の儀式

ここで、博士号、修士号の授与式が行われました。

授与式とは、各学部の学部長が順番に対象者を紹介し、
学長がそれを受けて宣言することで、
この瞬間卒業生は正式に学位を与えられた者となります。

わたしがアメリカの大学の卒業式に出席するのは三度目ですが、
以前出席した2回とは全くやり方も方式も違いました。

アメリカでは、各大学の歴史や規模によって独自の方法が培われ、
それを継承して伝統にしているのだということがよくわかります。



本学の学位授与には定型があります。
最初に行われたMKの工学部で説明すると、まず学部長が登壇し、

「工学部の候補者はどうぞ起立してください」


それを受けて、工学部の博士号、修士号取得予定者が、
歓声を上げつつ立ち上がり、学部旗が振られます。

すると学部長が、

「学長閣下、私はあなたに理学修士、工学修士、
Ph.D.(後述)の学位取得要件を満たした者をここに紹介します

といい、学長がそれに答えて、

「ありがとうございます、ウィットマン学部長。
本大学の教授会および理事会から私に与えられた権限により、私はここに、

あなたがたに授与された学位を授与し、その権利、責任、特権を認めます。
おめでとう!

会場から拍手が起こり、ここで初めて彼らは学位取得者になるのです。


続いて法学部、教育学部が続きます。



教育学部は修士、博士合わせて総勢30人くらい。
学部長は、学部紹介の時、

「Small but mighty.」(少数精鋭です)

と付け加えて、会場から温かい笑いが漏れました。
続いて人文科学部、そして「ドー・スクール」。

「Doerr(ドー)School of Sutainability👈click

は当大学独自の大学院で、米国最大の気候変動関連学部の一つです。
日本語で言うなら「持続可能開発大学院」とでも言いましょうか。

土木・環境工学(工学部との共同部門)、地球システム科学、
エネルギー科学・工学、地質科学、地球物理学、海洋学の研究を行います。


そして次の学長が登壇すると、早くも歓声が上がり始めました。
次に学位授与されるのはスクールオブビジネス、経営大学院。

おそらくアメリカで入るのが一番難しい、世界の最高峰ビジネススクール。
裕福さにおいても全米で2番目と言われております。

なんかイメージとして、全員イケイケで派手な感じ?
少なくとも工学部とは全く違う毛色の人種が生息していそうです。

そして、このジョナサン・レヴィン学部長は、
次期学長となることが決まっているのです。

サラー学長は、レヴィン学部長の任期が終わるまでの繋ぎを務める立場から

「あなたのビジネススクール学部長としての最後の卒業式に際して、
GSPへの貢献と、当大学の学長職を引き受けてくださることに対する
私からの感謝を受け入れてください」


とこの時にその就任について言及しました。


案の定、ビジネススクールの一団からは、大歓声が巻き起こります。
その派手さに、会場の人たちはちょっと呆気に取られている感じ。


立ち昇る紙吹雪(かな?)、飛び交う風船。


よく見るとあっちこっちでシャンパン(と見せかけた発泡水)
の瓶を開けて、周りの人たちの帽子はびしょ濡れ状態・・・・。

なんか知らんが、さすがはビジネススクール。

何から何までノリが違う。


最後に学位授与されたのは、大世帯のビジネススクールの前に、
わずか三列に収まっていた少人数のスクール・オブ・メディシンでした。

理学修士、医師助手学修士、科学修士、
そして「ドクター・オブ・フィロソフィ」が与えられます。

最後の「Doctor of Philosophy」は略称Ph.D.(ピーエイチディー)で
所定の在学期間を経たのち、筆記&口頭試験に合格したものが、
3年から5年以内に学位請求論文を精査されたのち与えられるものです。



さあ、そこで学長がこんなことを言います。

「マルティネス学長補佐、我々は誰か忘れてませんか?」


「さあどうでしょうか。誰かまだ残ってます?」



すると学士予定者が歓声を上げました。

わたしは入場の時にちょっと勘違いしていたのですが、
「バチェラーオブアート、バチェラーオブサイエンス」は
文系、科学系の学士の総称、つまりアンダーグラデュエイト卒業生です。

そして学長の宣言により、彼らに無事学士が与えられました。
そして最後に学長の、

「おめでとう、クラス2024 !」

と言う言葉の後、サノ教授の指揮による
「Stanford Hymn(大学讃歌)」が演奏されました。



「なだらかな丘が聳え立つ場所
さらに高き山の頂へ
海岸山脈のあるところ 夕焼けの炎の中
それは真紅に染まり、蒼ざめていく
ここで我々は歓呼の声をあげる

汝、我らがアルマ・マター(母校)よ
麓より湾に向かいて
我々が歌うときそれは鳴り響く
鳴り響き、そして舞い上がる
万歳、Stanford、万歳」


プログラムにはこの歌詞が載っており、
観客席の周りからは卒業生なのか、唱和する声が聞こえました。



そして本当の最後に、宗教、スピリチュアルライフの学部長であり、
牧師でもあるステインワート博士が、

「皆さんは思いやりに満ちたコミュニティを構築し、
美しい世界の壊れた部分を修復、保全、構築することができますように」


と述べて、最後に

「アーメン」

で締めくくりました。
どんなにリベラルが「メリークリスマス」を言えないような風潮を作っても、
依然アメリカはキリスト教国なのだと思った瞬間です。



で、ここからがアメリカ(の悪いところ)だなあと思ったのは、
これで終わりとか、皆様お気をつけて会場をとか言わないので、
卒業生が勝手に立ち上がってその辺をうろつきだし、
中世ファンファーレのブラスが厳かに流れる中、
退場する教授陣の通路が塞がれてしまったことです。

いかにもアメリカ人らしいお行儀の悪さ。

流石に、

「卒業生の皆さん、皆席に座って教員が退場するまで待ってください」

とか注意されていました。


わたしたちも一斉に退出する観客と一緒にこの後出口に向かったのですが、
このスタジアム、出るにはいくつかの狭〜〜〜〜いトンネルを通るので、
その前で人間が渋滞してしまい、外に出るまで団子状態で待たされました。

「もしテロや火災が起こったら確実に大人数が往く魔の構造だね」

などと、スタジアムの構造に文句を言いながら外に出ます。


検索したら、1993年の卒業式の映像が出てきたのですが、
それを見る限り、それ以前からあった古いスタジアムのようです。

いまいち安全性に関しては考慮されていないようでしたが、
よく今まで何事も起こらずきたものだと感心しました。

なんとか外に出た後、今度は工学部の卒業式会場に向かいます。


続く。