ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ジェームズ・ステュワート准将のA-1ジャケット〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-30 | 飛行家列伝

国立アメリカ空軍にはこれまでもご紹介しているように
第二次世界大戦時の爆撃機パイロットから寄贈された
A-2タイプのフライトジャケットが展示されています。

その中には、誰でも知っている軍人のものとともに、
軍歴のある映画スターのジャケットもありました。

そのスターとは、知らぬもののない俳優、
「アメリカの良心」と呼ばれた男、ジェームズ・ステュワート。

■ ジェームズ・ステュワート准将



映画に詳しくなくともこの俳優の名前を知らない人は
あまりいないかと思われます。

「スミス都へ行く」「フィラデルフィア物語」「めまい」
クリスマスになると放映されるという「素晴らしき哉、人生!」
そしてわたしが好きな「裏窓」「グレン・ミラー物語」。

これらの作品に見られる佇まいや雰囲気を裏切らない、
ゴシップとは無縁だったという清潔なパーソナルライフ。

そんなステュワートが、実は俳優としては最高位となる
陸軍准将の肩書を持っていることはご存知でしょうか。


冒頭の写真は、ジェームズ・ステュワート准将が、第二次世界大戦当時
イングランドから出撃するB-24ミッチェルに乗り組んだとき
着用していたA-2ジャケットで、本人から寄贈されました。

寄贈者名のところに「USAFR(RET)BEVERLY HILLS, CAL」
と普通に書かれています。

従軍して戦争に参加した映画俳優は特に第二次大戦時たくさんいましたが、
おそらくこの人とクラーク・ゲーブルは、
その人気&知名度と軍へのガチ貢献度で双璧かもしれません。


まるで戦争映画の一シーン。

ミッション前に最後のブリーフィングをするスチュワートとB-24クルー。
博物館の説明を見てみます。

ジェームス・M・ステュワート米空軍准将(退役)

1941年3月22日、ジミー・ステュワートは米軍に徴兵された。
下士官として陸軍航空隊に配属され、
カリフォルニア州モフェット・フィールドに駐留した。
同基地での9ヵ月間の訓練期間中、延長コースも履修している。

真珠湾攻撃が起こったとき、彼は訓練過程を修了し、
結果待ちの状態だったが、その1ヵ月後正式に辞令を受ける。

民間人として400時間以上の飛行時間を記録していたため、
モフェットで基礎飛行訓練を受けることが許可され、
パイロットのウィングマークを取得した。

それから9ヵ月間、彼はAT-6、AT-9、B-17の操縦を教習し、
メキシコのアルバカーキの訓練学校で爆撃機を専門に履修した。

1943年秋、ステュワートは 第703爆撃飛行隊の指揮官として渡英。
同爆撃隊の装備はB-24ミッチェルであった。

現場で戦闘飛行を開始したステュワートは、翌年、
1944年3月31日に第453爆撃飛行隊の作戦将校に任命され、
その後、第8空軍第2航空師団第2戦闘航空団の参謀長に任命された。

ステュワートは20回の戦闘任務で終戦を迎えた。
彼は米空軍予備役に留まり、1959年7月23日に准将に昇進。
1968年5月31日に退役した。

こうしてみるとガチもガチの軍歴ではないですか。
これはアメリカ陸軍が、彼の人気を最大に宣伝に活用するため、
ちょっと、というかかなりの近道をさせた結果か?と思ったのですが

そうでもなかったことがわかりました。



ドーリトルの名前が記されたAAFの爆撃ミッションに対する勲章授与命令。

ジェイムズ・M・ステュワート
0-433210 陸軍航空部隊 少佐 米国陸軍

1944年2月20日、ドイツ上空での爆撃ミッションにおいて
戦闘航空団編隊の副長として収めた並外れた功績に対して

有視界爆撃が可能な場合は副機長が指揮を執るという条件で
計器爆撃のブリーフィングを受け、編隊は
敵戦闘機の激しい反撃を受けながら目標に向かった

目標地点に到達したとき、目視爆撃が可能であることが明らかになり、
ステュワート少佐は編隊の指揮を執った

苛烈なる戦闘機の攻撃と、その後の激しく正確な対空砲火にもかかわらず、
ステュワート少佐は果敢に先頭の位置を維持した

ステュワート少佐は、激しい戦闘機の攻撃と、
その後の正確な対空砲火にもかかわらず、編隊をまとめ、
爆撃目標上空での爆弾投下を指示することに成功した

ステュワート少佐が発揮した胆力、統率力、巧みなエアマンシップが、
この任務の成功に大きく貢献したものである

(カリフォルニアにて入隊)


フランス空軍のクロワ・ド・ゲール叙勲命令書。

通達第343号
フランス共和国臨時政府大統領、陸軍総司令官、引用:

軍令部

「フランス解放のための作戦において発揮された例外的な戦功に対し」

ジェームズ・M・ステュワート大佐
0433810
第2爆撃師団

フランス空軍のヴァラン少将から
クロワ・ド・ゲール・パルム勲章を受けるステュワート大佐

フランス開放のための特別任務に参加したことで授与されました。


ステュワート大佐の戦闘地域での傑出した功績を称える手紙。

第2戦闘爆撃航空団(N)、0-488210
ジェームズ・M・ステュワート大佐

1. 貴官は1944年7月〜12月ならびに1945年2月〜5月、
第8空軍の第2戦闘爆撃航空団(H)に参謀長として配属された

また、1943年8月から1944年3月まで第703爆撃飛行隊の飛行隊長、
1944年3月から1944年7月まで第453爆撃群(H)の群作戦将校、
1944年12月から1945年5月までこの軍の作戦将校、
1944年12月から1945年2月までは当飛行団の作戦将校として
貴官の職務遂行は傑出していた

貴官は、この司令部の多くの構成部分の管理組織と効率性、
およびそれらの調整に参謀長として最大の責任を負っていた

SAFのORSが発表し再評価した数字と、
24航空師団が別途作成した数字によると、この飛行隊の爆撃能力は、
1944年8月から1945年2月までの間、明らかに向上した

1944年8月から1945年5月までの期間、この地域で24爆撃飛行隊は
24航空師団の全飛行隊の中で第1位となるまで改善された

これは貴官がこの司令部に所属したことが直接反映されていると評価する

貴官は、任務への積極的な参加によって証明されるように、
最も強烈な忠誠心と愛国主義を示した

貴官の主体性、的確な判断力、人格、職務への真摯な献身は、
司令部の円滑な運営と、隊員の戦意と効率性に計り知れない貢献をした

この場を借りて、貴官の卓越した職務遂行を称える
貴官と共に仕え貴官とともに奉仕し、貴官と関わることができたことは、
この上ない喜びである

航空隊指令 ミルトン・W・アーノルド大佐


B-24の搭乗員と話しているステュワート中佐。
ただポケットに手を入れて立っているだけなのにオーラが半端ない。

ちなみに、ステュワートはプリンストン大学建築科卒業。
学業も優れていて、大学院にも合格していたのですが、

そちらには行かずにいきなり映画界に身を投じ、端役からのし上がって、
戦前にはすでにアカデミー俳優として名声を得ていました。

第二次世界大戦直前、俳優として初めてとなる陸軍志願入隊者となります。

彼の両祖父は南北戦争に参加、父は米西戦争に参加しており、
男は必ず戦争が起こると入隊することが家訓のようになっていたからでした。

1941年に航空二等兵として入隊したときにはジェームズ33歳。
年齢制限をオーバーしていたため、大学卒業者であり、
民間認可のパイロット資格をすでにもっていたこともあって、
予備士官待遇で航空隊任務に応募しました。

ウィングマーク取得後は少尉任官し、俳優としても
航空兵募集目的の宣伝映画に出演し大いに貢献しています。(後述)

彼は当初、自分が有名俳優であることから、軍にへたな忖度をされて
真っ当な戦闘任務に就けなくなることを懸念していたそうです。

そこで戦闘任務への参加を自ら上官に訴えて、ヨーロッパに派遣され、

実際にミッションにも参加してそこで指揮を執りました。
このことで彼は二等兵からわずか4年で大佐にまで昇進します。


アメリカ人にここまでスピード昇進の軍人は滅多にいませんから、
そういう意味では陸軍の忖度は大いにあったと考えるべきでしょう。

戦後も彼は陸軍空軍の予備役にとどまり、1945年10月に
12名の委員の一人として空軍協会の設立にまで携わりました。

搭乗員としては現役時代戦略空軍でB-47とB-52で移行訓練を完了し、
予備役時代年次飛行も欠かさず遂行しています。

1957年ステュワート大佐は准将への昇進候補に指名されました。

これに反対したのは初めての女性大統領候補とまでいわれた上院議員、
マーガレット・チェイス・スミスでした。
彼女がなぜステュワートの昇進に反対したかはわかりません。

その2年前に彼女が空軍予備役中佐に任命されていること、
女性議員という立場でおそらく人類史上初めてF-100に同乗し、

「音速の壁を破った最初の女性議員」という異名をとったことが、
何かしら関係あるかもしれませんし、ないかもしれません。

ただ、彼女は、軍における女性の永続的な地位を確保するというテーマを
ライフワークとしており、女性軍統合法を成立させたりしているので、
そういうジェンダー的な公平性からこれを反対した可能性もあります。
知らんけど。

これに対しメディアを中心とした世論が

「彼は毎年予備役で積極的に訓練を受けている。
B-52の最初のパイロットとして18時間を過ごした」

として彼の昇進を後押ししたこともあって、1959年7月23日、

ステュワートは准将に昇進し、アメリカ軍史上最高位の俳優となりました。

ベトナム戦争中はB-52で非番の監視として爆撃任務に参加しています。
(このとき58歳)

そして1968 年、60 歳の定年で退役しました。

最後に、戦時中に彼が出演した短編宣伝映画、

「ウィニング・ユア・ウィングス」Winning your wings

を上げておきます。

航空機からA-1ジャケット(たぶん冒頭画像と同じもの)を着て
颯爽と降りてきてフランクに語り出すジミー。
給料や年齢、学籍との兼ね合い、入隊してからの訓練や生活など、
参加希望者の質問に答える形で入隊を誘っています。

さりげなく「ウィングマークをつけていると女の子にモテるぜ」という、
アメリカ男の本音というか下心をくすぐるシーンもあり。

後半はB-17爆撃機の紹介となります。
映画が制作された当時は乗組員が9人であったことがわかります。

Winning Your Wings, 1942

最後に、ステュワートは息子をベトナム戦争で失っています。

「テキサス魂」撮影中で落ち込んでいた彼を励ましたのは、
共演者だった彼の親友、ヘンリー・フォンダでした。

「テキサス魂」原題:「シャイアンソーシャルクラブ」の二人

そもそも、ステュワートが映画界デビューしたのも
ハリウッドにくるようにというフォンダの誘いがきっかけです。


親友同士のツーショット;若い頃


軍服とカウボーイ姿で


貫禄の大俳優となってからも仲良し


続く。


彼女の対日本対空戦闘〜USS「ザ・サリヴァンズ」

2024-07-27 | 軍艦

前回、エリー湖沿いのバッファロー海事博物館に展示されている
駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の命名の由来である、
サリヴァン五兄弟の映画をご紹介しました。

前述のように、このとき「ザ・サリヴァンズ」は着底事故から
なんとかかんとか立ち直って浮く状態になったばかりで、
まだ内部の公開は行われていなかったので、今日は、
かろうじて上甲板レベルで撮った写真をご紹介します。

■ 20ミリエリコン対空砲


どこの軍艦を見ても必ずあるこのエリコン20ミリ砲、発祥はドイツで、
発明したのもラインホルト・ベッカーというドイツ人実業家です。

エリコン(Oerlikon)という名称も、ドイツの兵器メーカー、
ラインメタル(Rheinmetal)の一部門がスイス、チューリッヒの
エリコンという地区に工場を設立したことからきています。

アメリカ海軍の軍艦に搭載されているエリコンのうち、

Mk4 、Mk10、Mk24などはアメリカ版であり、それらは
1920年代からベトナム戦争まで長い期間広く使用されました。


エリコン砲の横の構造物壁には、説明があります。

20mmエリコン砲は、第一次世界大戦中、
最も汎用性の高い艦上対空砲であった。

自己完結型の独立型マウントは、文字通りボルトで固定することができ、
甲板の空きスペースに設置することができた。

戦艦には120門以上が並ぶこともあった。


茶色い丸の中に書いてあること:

手動で操作する砲の周囲には、
砲身が艦体側に向かないように安全柵が設置された。


キャットウォークにエリコン機関砲が並んでいるこの写真は、
USS「ホーネット」で1942年2月に撮られたもの。

「ホーネット」では1942年に入ってすぐ、
13ミリ機銃がエリコン20ミリ機銃に交換されましたから、
もしかしたらこの写真は換装後の初めての訓練の様子かもしれません。

乗組員の間に戦闘中の緊張は全く見られませんし。

ところでこの写真の撮られた頃のある日、「ホーネット」の乗員は、
なぜか陸軍のB-25が甲板にあるのに奇異な思いをしていました。

ほとんどがその理由を窺い知ることもありませんでしたが、
その2ヶ月後、彼女は「ドーリトル空襲」で爆撃機を16機搭載して

日本本土を直接空襲した最初の空母になりました。

そして、その後、「ホーネット」CV-8は、1942年10月27日、
南太平洋開戦において、日本海軍の「爆撃の神様」こと
村田重治少佐隊に発見され戦没する運命をたどります。

エリコン砲の説明としては、

戦艦には120門以上が並ぶこともあった。

ということで、おそらく「ホーネット」もこれを見る限り
それどころではない数の砲が搭載されたのではないかと思いますが、
「ザ・サリヴァンズ」は駆逐艦なのでエリコン砲は7基でした。

■ 「ザ・サリヴァンズ」の対空戦闘

「ザ・サリヴァンズ」はその命名となったサリヴァン兄弟が

巡洋艦「ジュノー」で戦死した太平洋に最初から送られています。

彼女の初戦闘は、クェゼリン環礁のルオット島空襲でした。

その後、「日本軍にとっての真珠湾攻撃」ともいうべき、
トラック島の空襲に参加して、ここで日本軍機との対空戦闘を経験しました。

【1944年2月〜トラック島】



20ミリ砲は元々その名の通り対空砲ではありますが、
上の説明には英語で

「20ミリ砲弾は、日本軍の神風特攻機を止めるには軽すぎた。
その結果、より強力な代替兵器、
40mmボフォースを手に入れることになった。」

とありますが、運用についてはどちらが先とも言えない時期からです。

このときトラックでは、アメリカ軍はレーダーで、
16マイル離れた4機の日本軍機が、高度10~500フィートで
高速で接近してくるのを検知していました。

飛行機が射程内に入ると、「ザ・サリヴァンズ」は
40ミリ連装砲1基と5インチ砲5基すべてをフルで稼働させました。
(写真の砲もおそらくその一つです)

このときの発砲で、4機のうち2機が海中に飛散し、
さらに「ザ・サリヴァンズ」の前を横切る1機が砲火を受け、
それは左舷ビームから炎上しながら墜落したと報告されています。

【1944年6月〜マリアナ諸島】

サイパン、テニアン、グアムに向かう空母を護衛中、
レーダーで敵偵察機「ジュディ」(彗星)を探知し、これを撃墜しました。

このサイパン上陸支援の際、「ザ・サリヴァンズ」は
沖合で沈没した日本商船の乗組員31名を救助し、
旗艦「インディアナポリス」に載せたという記載があります。

ご存知のように「インディアナポリス」はこのわずか1ヶ月半後、
原子爆弾の部品と核材料を輸送する秘密任務を終えた帰り、
日本の潜水艦伊58によって撃沈されています。


7月4日、対空戦闘ではありませんが、「ザ・サリヴァンズ」は
硫黄島西岸に艦砲射撃を加え、滑走路に駐機していた
「ベティ」(一式陸攻)5機を撃破したと報告しています。

そして、戦艦「マサチューセッツ」BB-59に接舷しようとして
まともにぶつかってしまい、損傷しました。


1944年7月ごろのビッグマミー

「マサチューセッツ」の方にはほとんどダメージはなかったようです。
さすがビッグ・マミー。

もしかしたらこれを読んでおられる方は覚えておられるかもしれませんが、
「マサチューセッツ」は、ボストンのバトルシップコーブで
わたしが内部まで深く潜り込んで当ブログでレポートしたことのある艦です。

わたしが中に足を踏み入れたその二つの軍艦が、80年前、

マリアナ海域で(本来の意味の)接触をしていたとは・・・。

でっていう話ですが、個人的には何やら感慨深いです。



続く。


映画「ザ・ファイティング・サリヴァンズ」〜USS 「ザ・サリヴァンズ」

2024-07-24 | 映画


エリー湖にあるバッファロー海軍&軍事博物艦に展示されている
第二次世界大戦中の駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」。

前回、真珠湾攻撃の時に「アリゾナ」と共に斃れた友の仇を取るために
三人の弟を誘って五人全員で海軍に入隊したという
「海軍サリヴァン兄弟」結成の経緯までをお話ししました。

戦没して駆逐艦に名前を遺した海軍軍人はそれこそたくさんいるわけですが、
この五人兄弟はその数だけでも特異であり、極めて稀です。

ならば、彼らの映画もあるんじゃないかと思って探したらやっぱりあった。
冒頭に貼ったのは、なんと2時間近くの超大作です。


タイトルは「戦うサリヴァン兄弟」(The Fighting Sullivans)。
テーマ音楽はアイルランドの「グリーンスリーブス」を勇ましく、
軍隊調?にしたもので、最初からもうやる気?満々です。

全体的に無名俳優ばかりですが、トップスター、アン・バクスター、
名脇役トーマス・ミッチェル(舞台『刑事コロンボ』の最初の俳優)
をキャスティングしたあたりに、力の入れようが見えます。


監督のロイド・ベーコンは、「42番街」「チャップリンシリーズ」
「北大西洋」などを手掛けた中堅どころの監督で、
映画は1944年に制作されました。

これで更なる戦意高揚が期待できるというところでしょう。
しかし、海軍の協力などがあったわけではありません。
それがなぜかはおそらく映画をご覧いただければわかります。

とはいえ、2時間近いこの大作を翻訳なしで観る根気も時間もない、
という方々のために、不肖わたしが簡単に解説を行います。


サリヴァン家の兄弟は、次々と行われる洗礼式でその名前を紹介されます。


五人の男児、一人の女児(ジェヌヴィエーヴ/ジェン)は
すくすくと育っておりました。

彼らの父親は貨物列車の車掌です。



五人兄弟は、毎日線路脇の給水塔から父親に手を振って見送るのでした。



そしてわんぱくぶりを発揮していきます。
喧嘩は日常茶飯事。



手作りのボートで転覆し、溺れそうになる。
(母親から大人になるまでボートに乗るのを禁止される)



納屋でタバコを吸って見つかる。
(なんとびっくり、父親は五人兄弟に葉巻を吸わせて咽せさせて懲らしめる)


「プランク」を作るために家の壁を切り抜いて、



水道管を破り台所を水浸しにする。
あーもう、本当に男の子ってバカ。(実感済み)



1939年、長男のジョージは街のバイクレースで優勝するような
イケイケな青年に成長していました。


末弟のアルバートはまだ高校生ですが、兄のバイクレースの日に出会った
運命の女性、キャサリン・メアリーと恋に落ちます。


結婚したいという弟に、まだ若すぎると反対する兄たち。



キャサリン・メアリーを招待した食事の席で、兄たちは、
架空の女の子からの手紙が弟に来たことにするなど、
姑息な手段で二人を別れさせようとしますが、すぐに可憐で純粋な
キャサリン・メアリー(綺麗すぎアン・バクスター)の悲しみを目にし、
自分たちが間違っていたことを認め、二人を祝福しました。


そして二人は結婚。


すぐに子供に恵まれました。
これまた当たり前のように男児です。

男系・女系ってあるよね。


1941年12月7日。

この日曜日、サリヴァン一家が皆でくつろいでいるところに
ラジオから飛び込んできたのは真珠湾攻撃のニュースでした。

沈没した「アリゾナ」には彼らの友人の一人、
ビル・バスコム(ビル・ボールがモデル)が乗り組んでいたことを知り、
彼らは友の仇を取るために海軍に入隊する決意をします。


当初新婚子持ちだった末弟のアルは一旦入隊を諦めますが、
あまりに残念そうな彼の様子を見ていた妻は、驚くことに、
彼に兄と一緒に入隊事務所に行くようにと進めるのでした。


事務所受付は、来る男来る男、名前がサリヴァンなのでびっくりです。



募集担当官のLCDR(少佐)ロビンソンは・・・あ、この顔見覚えあるぞ。
「FBI vsナチス」っていう啓蒙映画でFBIの中の人を演じていた俳優だ。

彼らの「5人で同じ船に乗りたい」という切なる願いに対し、
海軍としてもそんな保証はできかねる、と答えるしかありません。
特に5兄弟ともなると、前例もありませんしね。

とりあえず海軍は当初長男のジョージにのみ入隊許可を与えますが、
兄弟は海軍省直々に手紙を書き、結局全員の入隊が実現しました。


そして五人の息子たちが家族と別れる日がやってきました。
ここから彼らの海軍での生活が始まるわけですが、
ふと気づけば、映画は2時間のうちあと30分残すのみ。
これは海軍協賛とかではなく、完全に民製作品だったと知った瞬間です。

予想通り、ここからサリヴァン兄弟はいきなり「ジュノー」に乗り込み、
あっという間にソロモン沖で戦死するのですが、その描写は
明らかにセットで撮影されたもので、全く写実性に重きを置いていません。

ですので、ここからは、映画の流れを無視して?
実際の「ジュノー」沈没までの経緯を書いておきます。



11月12日、「ジュノー」は、ガダルカナル沖の激しい夜戦を行います。

この戦闘で魚雷により艦は大破。
一旦総員退艦の命令が下されました。

翌朝、航行不可能になった巡洋艦は艦首を失い、
18ノットを出すのに苦労しながら戦闘海域から退却します。
なんとか艦体を帰還させようとしたアメリカ海軍でしたが、
当時の海域はもうほぼガラス張り状態。

穏やかな海をのろのろと進む「ジュノー」は、
近くにいた帝国海軍の潜水艦伊号26にとって魅力的な標的となり、
魚雷が1〜2本、損傷した巡洋艦の前方に命中すると、
それは弾倉に引火し、次の瞬間激しい爆発が船を引き裂き、
わずか42秒で沈没していきました。



次男フランシス(操舵手)と三男ジョセフ、四男マディソン2等水兵、
合計3名のサリヴァン兄弟は、退艦することもできませんでした。

彼らは艦上ですでに絶命していたと言われています。

ちなみにこのとき「ジュノー」乗組員中、沈没直後に生存していたのは
約140名と言われていますが、8日後、救助されたのはわずか10名でした。

海軍が無線の沈黙を命じたこともあり、多くの生存者は漂流中に負傷が元で、
そして風雨、飢え、渇き、サメの襲来に斃れていったのです。


映画では、負傷して艦内に寝かされている長男ジョージを
兄弟全員が救出に行き、全員一緒に戦死したということになっています。

生存者の証言によると、フランク、ジョー、マットは全員艦上で即死、
アルバートは救助艇に乗れず翌日溺死、長男ジョージは漂流し、
高ナトリウム血症によるせん妄を患うまで4、5日間生きていました。

彼は兄弟を失った悲しみで精神を追い詰められ、
自分が乗っていたいかだの側面を乗り越えて水に落ち、
それっきり姿を消したという証言もあるそうですが、

それはせん妄によるものということもできるでしょう。

映画に戻りましょう。


画面が暗転すると、次のシーンでは例のロビンソン少佐が
サリヴァン家を訪れてくるところです。

少佐がニコニコと愛想よく挨拶するものだから、
家族たちも悪い予感は何も持たずに握手などしていますが、

実際両親は、戦地の息子たちからぱったりと通信が途絶え、
そこに彼らの戦死の噂が耳に入ってきたこともあって、
海軍人事局に手紙を書いて彼らの安否を問おうとしていました。

軍艦沈没の情報を国民の士気を下げることから報道しない、というのは
決して日本だけのことではなかったようですね。



実際には、1月12日の朝、父親であるトムが仕事の準備をしていたとき、
軍服を着た3人の男性(中佐、医師、兵曹長)がやってきたとされます。

「あなた方の息子さんについてお知らせがあります」

と中佐がいうと、父親は尋ねました。

「どの息子です?」
 "Which one?" 


すると中佐は答えました。

「お気の毒ですが、5人全員です」
"I'm sorry, All five."


アルの妻であるキャサリン・メイと姉のジェンは、
少佐が広報を読み上げるのを聞き終わるやいなや、
ワッと泣きながら自室に姿を消しました。


わたしに言わせると、ここからがこの映画の見どころとなります。
この映画のラスト15分、きっと当時、全米が泣いたに違いありません。

少佐の言葉に呆然とする両親。俯く中佐。
暖炉の上の写真(本物)に父親が見入った瞬間、列車の汽笛が鳴り響きます。
それは、車掌であるトムが仕事に行く合図でもありました。

「失礼します。
イリノイ中央鉄道の操車係になって33年間一度も休んだことがないもので
・・すみません」


そして母親は・・。



ふと我に返った顔になり、「五人全部・・・」と呟きます。
少佐は、そんな母親に向かい、思いついたように微笑みを顔に装って、

「Five on second thought」

という言葉の後に、

「すみませんが・・・コーヒーを一杯いただけますかな」

と所望するのです。

それを聞くと、彼女は何かやらなければならないことを思い出した風に、
同じく微笑んでいそいそと立ち上がり、キッチンに向かうのでした。


母親の「All five..」に対し「5といえば・・」とは妙な返しですが、
この一見不思議なやりとりは、却って観る者の心を深く抉ります。

監督の非凡さを表すシーケンスだと思います。



そしていつものように仕事にかかる父親。



列車が動き出してしばらくすると、あの給水塔の横を通ります。





誰もいない給水塔に向かって、父親は小さく敬礼を送ります。



そして、USS「サリヴァン」の進水式がやってきました。



実は、兄弟が「アリゾナ」のビル・ボールと友人になったのは、
彼がジュヌヴィエーヴのボーイフレンドだったからでした。

実際にジェンはWACとして海軍で人事に勤務し、新兵募集に携わりました。

米国海軍予備役に入隊し、両親のトーマス・F・サリヴァン夫妻とともに
200以上の造船所や製造工場を訪問し、そこで働く労働者を激励しました。

映画でキャサリンが抱いている息子のジミーですが、成長して海軍に入り、
念願かなってこのUSS「ザ・サリヴァンズ」の乗組員になりました。



そして時は流れ、1995年、2代目USS「ザ・サリヴァンズ」DDG-68
(運用中)の進水式スポンサーになったのは、アル・サリヴァンの孫、
ジミーの娘であるケリー・アン・サリヴァン・ローレン(右女性)でした。




シャンパンの儀式は母親のアレッタが行いました。


シャンパンが割れると同時に汽笛を鳴らしながら進水する船。
(艦番号は450なので、この映像は『オバノン』の進水式。

日本海軍の潜水艦とジャガイモの投げ合いをした艦です)

それを見送る彼女は夫に向かっていうのでした。

「トム・・・あの子たちが生き返ったわ」
” Tom, our boys are float again."


「錨を揚げて」Anchors Aweigh の調べの中、
朗らかに手を振り、光に向かって進んでいく五人兄弟。

このラストシーンには、恥ずかしながら涙腺をやられました。


サリヴァン兄弟の映画は、実は間接的に、スピルバーグの映画、
「プライベート・ライアン」に影響を与えています。

サリヴァン兄弟他何組かの兄弟の戦死事案が勘案された結果、海軍省は


ソウル・サバイバー・ポリシー (Sole Survivor Policy)
国防総省指令1315.15「生存者のための特別分離政策」

を制定しました。

ある兵士が軍務で失われた場合、同家族内の生存している兵士を
徴兵または戦闘任務に就かせず、保護することが定められています。

続く。


Dデイ予備爆撃とフランティック(半狂乱)作戦〜国立アメリカ空軍航空博物館

2024-07-21 | 航空機

第二次世界大戦の爆撃機によるヨーロッパ本土攻撃について
アメリカ国立空軍博物館の展示をもとにお話ししてきましが、
今日はいよいよノルマンディ侵攻作戦、Dデイについてです。

■ノルマンディ侵攻作戦掩護としての爆撃

冒頭の博物館パネルは、Dデイにアメリカ陸軍第8空軍の重爆撃機が
フランスのナンシーにあるエセー・エアフィールドのハンガーを爆撃した痕。
月面クレーターのような爆撃跡が点々とし、いくつかのハンガーは
完璧に吹き飛ばされて跡形もない状態です。

1944年5月までに、戦略爆撃作戦はドイツ空軍の戦闘機部隊を無力化し、
この結果、ノルマンディー侵攻が可能となりました。

1944年6月6日のDデイ前の数週間、第8空軍爆撃機群は
ドイツ軍の兵力集中地帯、飛行場、輸送目標を攻撃し、
Dデイが発動されると、連合軍がノルマンディ堡塁から脱出するために
攻撃によってそれを支援しました。


1944年6月11日、ロワール川の橋を破壊し、
敵軍のDデイ・ビーチヘッドへの進入を阻止する第8空軍の爆撃機。


ノルマンディー北部を攻撃する重爆撃機。

連合軍の重爆激機は、ノルマンディー侵攻の前日、
実際の海岸からはるか北にある敵の海岸防衛線を攻撃しました。


これは、実際の上陸場所から違うところをあえて叩いて、

本当の侵攻作戦が行われる場所を撹乱するための作戦でした。

敵はこの場所に守備力を注入せざるを得なくなり、兵力が分散されて、
この作戦はある程度成功したと言われています。

■ミッキーマウス好きのドイツ将校



Dデイのためのサポート攻撃の一つ。
1944年7月4日、エヴロー・フォーヴィル(Evreaux Fauville)飛行場は、
第8空軍の重爆撃機による攻撃で使用不能となりました。

写真はトライポフフォビアなら背中がぞわぞわするほど穴だらけ。
一つ一つの爆撃痕は大きいですが、上空から見るとこのとおりです。

連合軍爆撃隊によるフランスの飛行場への度重なる攻撃により、
ドイツ空軍は飛行場を使用できなくなっていきました。

「私は個人的に、あなた方の空軍がなければ、
侵攻は成功しなかったと確信している」

戦後、連合軍側にこのように言ったルフトバッフェの中将がいました。
ドイツ空軍なので階級はGeneralleutnant です。


みなさん、この、あまりドイツ人らしくない空軍中将の顔、
覚えていらっしゃいませんか?
そう、ルフトバッフェのエースであった、

アドルフ・ヨーゼフ・フェルディナンド・ガラント中将
(Adolf Josef Ferdinand Galland)1912-1996

です。
バトル・オブ・ブリテンのとき、何が足りないかと聞かれて

「スピットファイア」

とよりによってゲーリングに向かって言い放ったった話は有名です。

ちなみに、彼とヘルマン・ゲーリングは実は大変仲が悪かったそうで、
一方、アルベルト・シュペーアとは尊敬し合う仲だったとか。

リベラルというか、立場をあまり考慮しない物言いが、
ドイツ空軍首脳部にとっては面白くなく、揉めることも多かったようです。


スペイン内戦中、コンドル軍団第88戦闘機グループの参謀長だったとき、

ミッキーマウスのペイントが入ったハインケルHe51に乗っていた人、
といえば思い出す方もおられるでしょうか。

我々の目から見てもただものではない感じのパイロットであった彼は、
操縦も射撃の腕も大変優れていて、それだからなのか、
野心的でいつも注目を集めることが大好きな目立ちたがり屋さん。


この頃の彼は、このミッキーペイントの戦闘機に、
水泳パンツだけで乗り込み葉巻を咥えながら操縦していたそうです。

曰く、

「ミッキーマウスが好きなんで、いつもどこかに身につけている。
葉巻も好きだが、こちらは戦後やめなければならなかったよ」


彼はその期間中隊名にも「ミッキーマウス」とつけていました。
流石にアメリカと戦争するようになってからは控えた・・のかな。



■ オペレーション・フランティック
ソ連からのシャトル爆撃

1944年、アメリカはソ連の指導者ヨシフ・スターリンを説得し、
アメリカ空軍機がソ連西部の基地から出撃する許可を得ました。

6月から9月にかけて、第8空軍と第15空軍は
「フランティック作戦」Operation Frantic というコードネームの下、
合計7回のいわゆる「シャトル空襲」を実施しました。


作戦ルート、右側の星印(ウクライナ)から出発


あるいはこちら

ソ連の空軍基地を使用するというアメリカの作戦は、
ドイツ側に米ソの連携をアピールする目的もありましたが、
結論から言うとソ連は非協力的だったので、7回しか攻撃せず終わりました。


具体的にどう非協力的だったかと言うと、
一部の目標に対してソ連が拒否権を発動しまくったそうです。

この頃から潜在的に両国は互いを敵視していたわけですからね。


ただ、航空隊の現場では互いに友好的だったそうです。


同じフィールドにYak-9とB-17がいるというシュールな光景


ロシア語でB-17の機体に「北極星」とペイントされてしまうも、

ニコニコしているお人よしなアメリカ人たち


「USSRとUSAより、枢軸国へ(プレゼント)」
左から米露露米米米



キエフ近郊のソ連空軍基地に着陸する第15空軍のB-17。
ソ連は3つの飛行場を用意して対処しました。



地中海連合空軍司令官のアイラ・イーカー(Ira Eaker)中将が、
最初のシャトルミッションを指揮しました。

写真はソ連に着陸した直後のもの。


ソ連に上陸して4日後、イーカーの爆撃機は
ルーマニアのガラティの主要航空基地(写真)を攻撃し、
ソ連の飛行場に戻るというシャトル爆撃を行いました。

6月11日は、イタリアに戻る途中でルーマニアの別の目標を爆撃しています。

ユーゴスラビア上空を飛行してUSSRに向かう第15空軍のB-17編隊
1944年6月2日

シャトル空襲の際、ソ連軍や民間人の中に強制降下させられ、
アメリカ人であることを証明する必要があった場合に備えて、
飛行士が携帯していた「セーフコンダクトパス」(安導権)


B-24のナビゲーター、ヴェル・ドリソン中尉が
「フランティック作戦」で携行した身分証明書とフレーズシート

このパイロットを助けたら政府から報奨金が出るから(襲ったりしないで)
ということがロシア語と英語で書いてあります。


以前も一度紹介していますが、
ライマン・バーカロウ大尉が作戦で着用していたジャケットとカメラ。

カメラはソ連に没収されそうになったのを死守しました。

■フランティック作戦:アメリカの目的(と失敗)

遠く離れたドイツの目標を攻撃することは、実のところ、
アメリカにとってフランティック作戦の主な目標ではありませんでした。

アメリカは、ここで前例を作り、基礎を作って、
後にシベリアから日本を爆撃しようとしていた

といわれます。

最終的な目標はソ連に多数のアメリカ空軍を設立し、
シベリア作戦に切り替えることだったんですね。


もう一つの(というか表向きの)目標は、両国間の信頼と協力の発展でした。

少なくともアメリカは、戦後の世界において、
ソ連と友好的な関係を確立できると思っていました。

(友好の目的が自国の利益でしかなかったことはさておきます)

そのために、技術と研究、特に電気通信、気象学、航空偵察、
航空輸送ネットワークにおける緊密な相互協力と交流を提案しました。

しかし、ソ連はしたたかで老獪でした。

このとき、アメリカはソ連に、

「300機から400機のB-24爆撃機を提供するから、
アメリカ本土で
ソ連軍に訓練させてはどうか」

と提案したのですが、スターリンはこの申し出を受け入れず、その一方、
シベリアに着陸した米軍爆撃機をこっそり保管し、コピーしていました。

しかもソ連から提供された基地は、米空軍の希望より辺鄙な場所で、
そもそもインフラが西側の基準からして全く不十分なもので、
重爆撃機は春になると泥の海に着陸を余儀なくされていました。

これは政治が絡んだためです。

赤軍空軍そのものは、前述のように強力的で支援に熱心だったものの、
官僚機構と政治は戦略的にアメリカを警戒敵視し、

隙あらば利用する気満々でしたから当然といえば当然ですが、
8月から9月にかけてソ連の態度は露骨に敵対的なものとなり、
1945年までにアメリカの小規模部隊は大きな苦悩を残して撤退します。

一方イギリス空軍はというと、チャーチルの意見で不参加を決め込み、
アメリカの苦労を高みの見物していたようです。

米ソの亀裂が決定的となったのは、ソ連がワルシャワ蜂起の支援にも、
ソ連領土からのアメリカ人捕虜の送還のためにも、
基地を使用する許可を出さず非協力的だったことからでした。

現場においても、ソ連は戦力防御が呆れるほど不十分なくせに、
アメリカ側の、レーダー誘導砲と夜間戦闘機の支援を拒否したことで
両国間の関係はさらに悪化し、アメリカは作戦中止を余儀なくされました。

ソ連側からすると、アメリカの領土侵略の野心を見抜き、
これを拒否することでその目論見を挫いたということなのでしょう。
(本日書いたことはあくまでもアメリカ側の視点からの意見なので、
実際はどうだったかはわかりませんが、たぶん)

いずれにせよ、このときの両国の協力体制は壊れ、最終的には
のちの冷戦を予感させる不協和音を生み出すことになりました。


いまさらですが、「Frantic」とは、以下のような意味があります。

(恐怖・興奮・喜びなどで)気が狂ったような,半狂乱の,血迷った.

大急ぎの,大あわての.



続く。




ビッグ・ウィーク(アーギュメント作戦)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-18 | 航空機

■ ”ビッグウィーク”1944年2月20-25日

1944年2月、アメリカ空軍とイギリス空軍は、
ドイツの航空産業とドイツ空軍に対して全面的な作戦を展開しました。 

この欧州戦略爆撃作戦とは、第八空軍と第十五空軍の重爆撃機が、
昼間は航空機、エンジン、ボールベアリング工場に打撃を与え、
イギリス空軍の爆撃機が夜間に攻撃するという一連の流れを持つものです。

計画立案者らは、ドイツ空軍を決戦に誘い込むために
ドイツの航空機産業を攻撃し、ドイツ空軍に甚大な損害を与え、
連合国空軍が制空権を獲得することで、
ヨーロッパ大陸侵攻の成功を確実にしようとしていました。

■イギリス空軍の立場


ところで、第一次世界大戦時に生まれた戦略爆撃の定義として、

「敵の非戦闘員、特に工場労働者の戦意を喪失せしめる」

という目的を持つものがありました。


民間地域の攻撃は無差別攻撃と同義であり、
第一次世界大戦時から道義的観点から議論されてきましたが、 
あだ名に「爆撃機」「ブッチャー(屠殺屋)」を持つ、
この英国空軍元帥、アーサー・ハリス準男爵という軍人は、
「戦略爆撃の意義を民間人攻撃に置くべき」と唱えた軍人でした。

敵都市破壊爆撃が勝利の鍵と考える軍人は彼だけでなく、
おそらく1942年ごろは多くのRAF関係者がそう感じていました。

しかし、ハリスの考える空爆はさらにアグレッシブなもので、

◎単一の都市に一時間半にわたり1000機もの爆撃機をなだれこませ、
都市防衛―対空砲火だけでなく、消防や救護活動をも無力化し、
爆弾と焼夷弾を集中して焼き払う

◎飛行機には容量の許す最大限の焼夷弾を積み、
2400メートルの高度から落とす


◎発生する火災現場に後から駆けつける消防夫を殺傷するために
遅発性の信管をつけた11キロ爆弾を混ぜておく


など、人道的にはそれってちょっとどうなの、という方法でした。
まあ戦争に仁義や道義などあるか、と言われればそれまでですが。



連合国側の容赦のない民間人殺戮の典型とされるドレスデン攻撃は、
このハリスや空軍大将チャールズ・ポータルらの考えによるものです。

ドレスデン爆撃では市民が25,000人程度と見積もられる犠牲となり、
この戦争である意味最も物議を醸した空襲といわれています。
(上の写真は火葬を待つため積み上げられた民間人犠牲者の遺体)

さて、どうして今この人の話をしているかというと、
「アーギュメント作戦」の立案の際(このあとのDデイのときも)、
ハリスは地域爆撃に固執する立場からこの作戦に反対したからです。

彼は、特定の石油や軍需品の標的を爆撃するようにという指令を、
上級司令部の「万能薬」(彼の言葉)であり、
「ドイツのあらゆる大都市で瓦礫を跳ね返させるという現実の任務」

から目をそらすものであるとみなす傾向がありました。

反対する彼を説得し、米軍と共同のアーギュメント作戦を実行させたのは
ほかでもないチャールズ・ポータル空軍大将でした。



有名なヤルタ会談で、チャーチルの後方(左から2番目)にいるのが
Charles Frederick Algernon Portal,
1st Viscount Portal of Hungerford, KG, GCB, OM, DSO & Bar, MC, DL 


ポータル将軍の考えは、ハリスよりやや穏健というのか、

細密攻撃の重要性を認めてはいましたが、つまりは
ドイツの戦争努力と市民の士気に打撃を与えれば半年以内に勝利につながる、
というもので、そのことからドレスデン攻撃にゴーサインを出しています。

そのポータルがなぜハリスを説得せねばならなかったかというと、
ドレスデン爆撃について色々と?知らされたチャーチルが、

ポータルに地域戦略爆撃を中止せよと最終命令を下したからです。

チャーチルは、


「ドレスデンの破壊は連合軍の爆撃行為に対する重大な疑問として残る」

として爆撃から距離を置く立場を取りました。

惨劇の歴史的評価が自分に向かうことを恐れたのかもしれません。

ポータルはそれ以上地域爆撃を推し進めるわけにはいかなくなりました。

■アメリカ陸軍航空隊の立場

ドイツの航空産業をピンポイントで叩くという攻撃方法は、
口で言うのは簡単でも実際は破壊は難しいし敵は修復を容易にしてしまう。
特に資材輸送のロジスティクスを破壊するのは現実的に全く不可能でした。

アメリカ空軍は航続距離のため戦闘機の援護なしで爆撃をしていた頃は、
爆撃機に重武装させることである程度成功していましたが、
レーゲンスブルグでは対空砲と敵戦闘機の迎撃で深刻な犠牲を出します。

この頃アメリカ軍の爆撃機を研究したドイツ軍は、
戦闘機に重武装を施した双発重戦闘機を配備し、
アメリカ軍の戦闘機がいなくなってから悠々と攻撃を行いました。

アメリカ軍としてもドイツの戦闘機をやっつけたいのは山々ですが、
彼らは連合軍との真っ向勝負を避けるので、めったに交戦に誘い込めません。

そして第二に、護衛任務の間、連合軍戦闘機は、

爆撃機の編隊を守るため、緊密なフォーメーションを組んでいたので、
敵戦闘機を追撃・攻撃することもできませんでした。

そのとき、

「空中で叩けないなら工場を叩けばいいじゃない。」

と言ったのが、あのジミー・ドーリトル少将です。

というわけで立案されたのが、
「ドイツ航空機産業の完全破壊」
を目的とした生産工場への精密爆撃でした。

連合国空軍の上層部は、この作戦で失われる自軍の航空機は
1日で全体の7%から18%、
作戦が6日として全航空機の42%から100%
が失われると計算していました。

この作戦のために、米軍司令官フレデリック・L・アンダーソンは、
全航空機と乗組員の4分の3(つまり736機の爆撃機)
を犠牲にする用意があるとしました。

また作戦決行にあたり、連合国は、部品、エンジン、翼、
機体の生産に関わるドイツの産業のあらゆる部分、
および工場の組み立てに関する情報の収集を進めました。

そして、作戦が成功するための気候条件として、

○数日間好天が連続していること
○イギリスの上空約600~4,000mの間に雲があり
○ドイツの目標地域の上空に雲がないこと


としました。
勿論このような状況は極めて稀であったため、指導部は、
予報が許容可能な飛行天候の兆候を少しでも示すと、
すぐに、とにかく作戦を実行することにしました。

コードネームは "Operation Argument "
これはのちに"Big Week "として知られるようになります。


この頃には米空軍の戦闘機は掩護に十分な航続距離を持っていたので、
ドイツ空軍の守備隊を大混乱に陥れることになります。

米空軍はビッグ・ウィーク中、約4000機の重爆撃機を出撃させ、
2000万ポンド以上の爆弾を工業・軍事目標に投下しました。



1944年2月24日、B-24の攻撃で飛行場の完成機が爆弾で破壊され、
激しく燃えるゴータ航空機工場。


偵察機によって撮影された爆撃後のゴータ航空工場。
壊滅的な被害の跡を見せています。


二日前の2月22日にもイギリスから米軍爆撃隊が出撃したのですが、
悪天候のため攻撃を中止して帰還しています。
しかし、帰り際にオランダ国境のナイメーヘンという都市を
爆弾を捨てついでに爆撃して、数百人単位の民間人が犠牲になりました。

Gotha 航空ではゴータGo 145練習機、ゴータGo 242突撃グライダー
ライセンス生産されたメッサーシュミットBf 110を生産していました。
以前当ブログでご紹介した、ホルテン兄弟開発による
ジェットエンジン搭載ホルテン・ホー229も作っていました。

24日の攻撃では169機のB-24がゴータを攻撃しており、
米空軍は200機以上の爆撃機を失い、約2600人の死傷者を出しました。

それに対し、ドイツは使用可能な戦闘機の3分の1を失い、

かけがえのないベテラン戦闘機パイロットの5分の1が戦闘で失われました。



続く。




ターゲット ベルリン(友軍爆撃の悲劇)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-15 | 航空機

バッファローネイバルパークシリーズと同時に、
オハイオの国立空軍博物館展示の紹介も再び進めて行こうと思います。

アメリカ空軍(当時は陸軍)がヨーロッパでどのような航空戦略を展開し、
その経過と最終的な結果までが資料で紹介されているこのコーナー、
前回は連合軍が慣れない?ヨーロッパでの航空攻撃で
いかに苦労し、工夫し、そして犠牲を払ったかまでお伝えしたと思います。


ところで、アメリカ空軍の主要かつ最終攻撃の標的、それはベルリンでした。

■ なぜベルリン爆撃だったのか



ドイツの首都ベルリンは、その工業的重要性だけでなく、
ルフトバッフェが何がなんでも防衛せねばならない拠点であり、
だからこそその過程で彼らに大きな損害を与えることができるからです。

米空軍は1944年3月6日、ベルリンに対して最初の大空襲を行いました。

米軍は672機の重爆撃機でベルリンを攻撃、うち69機が撃墜されました。
そして2日後、174機のP-51に護衛された462機の爆撃機で帰還しました。


米空軍のオールマン・カルバートソン中佐が1944年3月6日、
米空軍初のベルリン大空襲で使用した地図です。

赤い線は爆撃機の進路、赤い丸で囲んだ部分は対空砲の集中を示します。
細かい網目になっているということは、よほど細かく、
都市上空を隈なく網羅して進路をとったかを表しています。

戦後准将になってからのカルバートソン
ヨーロッパでの爆撃作戦にはベルリンを含め11回参加した



1944年3月6日、第447爆撃群のB-17パイロット、
ウィリアム・H・レクター少佐が、
アメリカ空軍初のベルリン大空襲で着用したゴーグルと空軍ヘルメット。

博物館写真

■ブランデンブルグ・アラド航空製造への爆撃


ブランデンブルクのアラドで炸裂する爆弾。
1944年8月4日の攻撃。

アラドArado Flugzeugwerke GmbH は、

1961年まで存在したドイツの航空機会社でした。

スミソニアンの航空博物館にあるアラド製の爆撃機を
ここでも紹介した覚えがあります。

当時アラドはブランデンブルク最大の企業であり、
戦争とヨーロッパ諸国の占領政策の結果、
多くの外国人労働者が働いていました。

1942 年にはドイツ人従業員が約 4,000 人であるのに対し、
非ドイツ人従業員は 22,000 人、その後も数は増えましたから、
アメリカ軍がアラドの工場を爆破したことで、
犠牲になったのは実はドイツ人より外国人や囚人、(ユダヤ人含む)
がほとんどだった、ということになるのです。

まあもっとも、アメリカにとっては生産の拠点を潰すことが目的なので、
なに人が亡くなろうが、そんなことはどうでもいいわけですが。

そして1944年4月18日、アメリカ軍の爆撃によって、
ハイデフェルトにあるアラド工場では
ハインケルHe 177爆撃機の生産を終了させられました。

He 177は、それまでバルト人、セルビア人、スペイン人、フランス人、
オランダ人、ベルギー人の労働で生産されていました。

この攻撃の後、ボイラー室と いくつかの設備が破壊されたため、
工場はより軽量なフォッケウルフ Fw 190だけを生産し続けました。

6週間後には生産は再開されましたが、それまで
航空機製造は別の工学工場などで代わりに行われました。

しかし1944 年 8 月 6 日(写真は8月4日とされる)の空襲により、
航空機の製造は一時的に中断され、1945年3月の空襲で
完全に生産の目処は断たれてしまうことになりました。


炎上し、対空砲火に囲まれながらも、このB-17は
編隊を維持してベルリンに爆弾を投下しています。

「マスターズ・オブ・ザ・エアー」でも、対空砲火を受けて
エンジンが破損し、パニクった副操縦士がすぐに脱出を、というのに対し、
機長はふざけるな!とすぐに怒鳴り返し、こういいます。

「任務を全うするんだ!わかったな」

そしてクルーに向かって

「飛べる限り任務を続行する!」

と叫んでいました。

この作品は、資料として残されたこのような実際の出来事を
ドラマに掬い上げて後世に残すことに注力していました。

爆撃機が狙われやすい、というか、最も攻撃に対し脆弱だったのは、

「ボムラン」と呼ばれる爆弾投下前の態勢でした。


爆撃投下のサイト(照準)を確保し、正確さを期すために、
最低数分間はまっすぐ水平飛行を続けなければならないからです。


このパイロットは、ベルリン上空で重傷を負い、
病院に搬送される前に機体下で応急手当てを受けなければなりませんでした。

車輪の前にいる人が点滴の瓶を持っています。
手前の後ろ姿がメディックでしょう。


■ B-17「ミス・ドンナ・メエ II」の悲劇


ベルリン爆撃に限らず、爆弾投下はこのように
まさにばら撒く状態で行われます。

わたしはかねがね、編隊によっては上下に機体が位置する場合、
上方の機が落とした爆弾が下方の味方機に当たらないのか、
と不思議で仕方がなかったのですが、ベルリン爆撃で
まさにその悲劇が起こっていたことが判明しました。



機体は米第8空軍第91爆撃群のB-17G。

たまたま上空から自分の機が落とした爆弾を追って
写真を撮っていたクルーがいたため、
この悲劇の直前の様子が歴史に残されることになりました。

今まさに爆弾を受けようとしているB-17です。



爆弾は左舷の水平安定板にヒットし、これを引きちぎりました。

その後、被災機は編隊から離れて落下していき、
安定を失ったため誰一人機内から脱出することができないまま墜落。

The Worst Possible Way To Lose a B-17 Bomber

Miss Donna Mae B-17


「ミス・ドンナ・メエII」の乗員。
彼らは誰一人生還することができませんでした。


続く。


"We Stick Together" USS「ザ・サリヴァンズ」バッファロー海軍公園

2024-07-12 | 軍艦

バッファロー・ネイバル・パークの展示艦ツァーは、
まず岸壁に係留してある「フレッチャー」級駆逐艦、

USS「ザ・サリヴァンズI」DD-537から始まります。

コロナ蔓延中で展示が中止されていた時にここを訪れ、
岸壁から写真を撮ってここでも紹介しましたが、
今日こそは展示艦の内部全てを見学できるのです。

内部だけでなく、今日の冒頭写真のように、
潜水艦の甲板からしか撮れないような角度の写真も撮れるというわけです。


さて、ミサイル駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」については、
その外からしか見られなかった時にも一応説明しているわけですが、
あらためてもう一度命名の由来について話します。

「ザ」サリヴァン「ズ」となっているのは、「サリヴァン家」だからで、
さらにこの艦については「サリヴァン家の兄弟」を意味します。

ガダルカナル沖夜戦で沈没した巡洋艦「ジュノー」の乗組員であり、
同時に戦死した五人兄弟のファミリーネームが駆逐艦につけられました。

■ サリヴァン五兄弟



ジョージ・トーマス・サリバン二等軍曹
(12/14/1914 - 11/13/1942)
操舵手 - フランシス・ヘンリー・サリバン
(02/18/1916 - 11/13/1942)
二等水兵 - ジョセフ・ユージン・サリバン
(08/28/1918 - 11/13/1942)
二等水兵 - マディソン・エイベル・サリバン
(11/08/1919 - 11/13/1942)
二等水兵 - アルバート・レオ・サリバン
(07/08/1922 - 11/13/1942)


長男のジョージと末っ子アルバートの年齢差は7歳。
サリヴァン家の母はほとんど2年おきに一人ずつ男児を生みました。

昔、日本でもアメリカでも、世界中で子沢山の家庭が多かったのは、
産んだからといって必ずしも子供が無事に育つとは限らなかったからですが、
(医療技術が未発達だったせいで乳幼児が育たなかった)それより
当時は子供は労働力の担い手であり、多少?減ってもいいように、
できる限りたくさん産んでおくという親が特に労働階級には多かったのです。

サリヴァン兄弟の出身はアイオワ州ウォータールーです。

1937年、長男のジョージ、次男フランシスは一緒に海軍に入隊し、
一緒に駆逐艦「ホビー」(DD-208)に乗り組みました。


当時海軍は、兄弟で入隊すると同じ艦に乗り組ませるのが普通だったのです。

二人は1941年の6月に無事に海軍の任期を終えましたが、

同じ年の12月、真珠湾攻撃が起こりました。



二人は、この時撃沈された戦艦「アリゾナ」BB-39
アイオワの友人ウィリアム・V・ボール(Ball)一等水兵
が乗っていて戦死したことを知り、ショックを受けます。


seaman 1st class William V. Ball
(ボールの遺体は現在も艦内に残されている)

「アリゾナ」には彼の兄であるマスティンも乗り組んでいましたが、

彼はなんとか難を逃れ、生き残ることができました。

友人ウィリアムの死に奮い立ったジョージとフランシスは、

海軍に再入隊することを決め、その時ついでに
ジョセフ、マディソン、アルバートの弟三人を誘ったことで、

当時でも珍しい、海軍五人兄弟サリヴァンズが誕生したのです。
彼らは誓い合いました。


「五人で力を合わせてウィリアムの仇をとってやろう!」

イリノイ州グレート・レイクスにある海軍訓練学校で教練を受けた後、
5人の兄弟は全員、1942年2月3日にニューヨーク海軍工廠で
軽巡洋艦「ジュノー」(CL-52)に乗り組むことが決まりました。

このとき兄弟の一人は

“We will make a team together that can’t be beat,”
(負けないチームを作ろう)


と何かに書いています。

■ サリヴァンズに乗艦



見学ツァー通路は「ザ・サリヴァンズ」から始まります。

ラッタルを上っていくと、そこは後甲板。
隣の巡洋艦「リトル・ロック」が映り込んでわかりにくいので、
写真を加工して「リトル・ロック」をボケさせてみました。

右手に写っているのはMk12の5インチ砲で、1934年に制式化され、
第二次世界大戦中のほとんどの駆逐艦はもちろん、
戦後の原子力ミサイル巡洋艦にも搭載されました。

戦後日本に貸与された「リヴァモア」級の「あさかぜ」型、
「フレッチャー」級の「ありあけ」型、そして
戦後初の日本製駆逐艦「はるかぜ」型でも運用されています。

白い幕がかかっているのは、見学用の入り口かな?



かな?と書いたのは、結局この日「ザ・サリヴァンズ」は、
2022年に見舞われた着底事故(上)から完全に修復できておらず、
内部の見学には至らなかったからです。

わたしが岸壁から見学したのは確か12月下旬でしたが、
それから2ヶ月後に老朽化と天候のダブルパンチで沈み始めたようです。

幸い、海深が浅く、着底したことでほとんどの部分が海面に出ており、
その後の修復作業を経て、2022年に浮く状態に戻りました。

つまりわたしがここを訪れたときは、再オープンしたばかりだったのです。

わたしたちが乗艦すると、なぜかここに人がいて、
「ザ・サリヴァンズ」の説明をしてくれました。
しかし、それはどちらかというと機械的なもので、すぐに終了。
私が基本知識として知っていたことだけです。



甲板の床には「シャムロック」がペイントされています。


サリヴァン家のルーツはアイルランドです。
(アイルランドではオサリヴァンO'Sullivanとなる)

これにちなんで、「ザ・サリヴァンズ」の艦マークには、
アイルランドの伝統的なシンボルであるシャムロックが採用されました。



何年か前見学したボストンのバトルシップコーブで展示されていた、
JFKの兄の名前を持つUSS「ジョセフ・P・ケネディJr.」の艦体にも、
ケネディ家のルーツ、アイルランドのこの象徴が描かれていたと記憶します。

そしてこのパッチに刻まれた「We Stick Together」ですが、
スティックという言葉が「くっつく」であることから、特に
災害や大問題が発生した際、団結しようとか助け合おう、
ひいては一緒にいようという意味で使われる言葉です。

ちなみに写真に軍人さんの下半身が写っていますが、
この時点ではまだ艦内の修復は全く(かどうか知りませんが)
終わっておらず、ここから観光客が入っていくのを阻止する係です。

こんなことに現役の軍人を使うなよと思いますが。


現役の軍人といえば、モノホンの軍人さんが二人、ここで何か行われるのか
飲み物(スプライト)持参で乗艦しているのを見ました。

いかにも軍曹っぽいのと、いかにもルーキーらしいのの二人組。
今日は何かここで宣伝を兼ねた活動があるのかもしれません。

彼らの左側に見えているのは(デプスチャージ・トラック)
爆雷投下軌条ですが、このトラックも、艦尾の砲も、
かつては太平洋、台湾沖、そして硫黄島、沖縄で日本軍と戦い、
朝鮮戦争でもバリバリ戦闘任務で稼働していたものです。




続く。


バッファロー・ネイバルパークふたたび

2024-07-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

今日からエリー湖畔の海軍博物館、バッファローネイバルパークに展示された
海軍艦の紹介シリーズをじっくりと進めていこうと思います。

■再開したバッファローネイバルパーク

2021年の冬、ピッツバーグに滞在したときに、
大学がクリスマス休みに入ったMKとナイアガラまで一泊旅行をし、
その途中に旧海軍艦艇が見学できる場所があるのを知りました。

早速帰りに立ち寄ることにしたのですが、
当時はコロナ禍真っ最中だったこともあって、休止していたので、
車を停めて、歩道から艦艇の写真を撮るに止まりました。

真冬の五大湖のほとりは雪と氷で覆われ、ほとんど人無人の歩道は凍結し、
何度か氷に足を取られて転びそうになりヒヤヒヤしながら歩いたものです。
しかし、ここは本来であれば年中無休で、冬季も公開しており、
この時は非常事態宣言を受けて特別だったのだと後から知りました。

2022年、アメリカはすっかり自粛も解けて社会が平常に戻っていたため
我々はシカゴからアメリカ入りしてピッツバーグまで車を運転し、
道中、五大湖沿いの海軍博物館を訪ねるという計画を立てます。

シカゴの科学産業博物館でU-505の見学に始まり、
マスキーゴンの潜水艦「シルバーサイズ」、
同じくマスキーゴンの揚陸艦LST-393、
ヒューロン湖沿いに係留されていたベトナム戦争時代の駆逐艦「エドソン」、
そしてエリー湖のここバッファローネイバルパークが
この壮大な「海軍艦船を訪ねる旅」の最終地となりました。

バッファローネイバルパークはバッファロー市の都市再生庁が
海軍省と協力して寄贈された海軍艦を集め展示している海軍公園です。

地元の開発公社などが加わり、都市活性のための整備を行いました。





この日の朝、わたしはオハイオ州クリーブランドのホテルで目覚めました。

クリーブランドはエリー湖の南岸にあり、
ペンシルバニア州との境からは100キロの距離にあります。

写真一番左の建物はクリーブランドのシンボルタワー、
駅の上にあるため「ターミナルタワー」と名付けられたもので、
1930年に完成し、1991年までは一番高かった(52階建)そうです。

ここクリーブランドからエリー湖沿いにインターステート90を
およそ3時間走ると、そこにバッファローネイバルパークがあります。

ちなみにボストン在住時、この州間高速道路90にお世話になりましたが、
この道路は世界でもっとも距離が長い高速道路として知られます。

映画「グッドウィル・ハンティング」は、主人公のマット・デイモンが

ボストンからこのI-90で西を目指し走る車のシーンで終わりますが、
I-90はオハイオ州から五大湖に沿ってその後イリノイ州、ミネソタ州、
最終的には西海岸のワシントン州までほぼまっすぐ続きます。



コロナの時には近くの道路に停めましたが、今回はそうもいかず。
パーキングはアプリを入れてオンラインで支払うものしかなく、
しかもこれが外国人にはとても使いにくいものでした。



潜水艦「ボストン」のセイルの横に、案内板がありました。
ネイバルパークの全体地図が示され、説明が添えられています。


変わりゆく水辺 Changing Waerfront

今ここにいるあなたの目にみえているのは
元々はエリー運河の西の終点だったスリップ全盛期には、
この地域は、運河、湖上、そして陸路の鉄道交通が行き交い、
主要な交通の中心地の 1 つとして、
世界中から人や物資が集まる賑やかな港でした。


バッファローリバーからダウンタウンを臨む

コマーシャル・スリップ(Commercial Slip)

この水路はエリー運河の西の終点を示し、
1825 年から 1918 年までは五大湖上流への玄関口でした。

20世紀のほとんどの間、水路は雨水管として地中に埋まっていましたが、
歴史的な遺跡から回収された石を使用して再建されました。

その他ウィップルトラスと言われる様式のアーチ橋、
付近に残る当時の建物、そして埠頭。


エリー湖に流れ込むバッファロー川は、このように夏には
水辺を楽しむボートや水上バイク、カヌーが賑やかに行き交います。

ここにあらたに加わったバッファローのランドマーク、
それがナーバル アンド ミリタリー ミュージアムです。

ここには巡洋艦「リトルロック」駆逐艦「サリヴァン」、
潜水艦「クローカー」
などの「フローティングヒストリー」以外にも、
航空機やボート、戦車などの展示が人々を引き寄せています。

中にはこんな展示も・・。

■ 潜水艦 USS「ボストン」


ここでも何度かご紹介している潜水艦「ボストン」のセイル部分。
見覚えのない新しい金のプレートが艦体に追加されていました。


ありし日の「ボストン」



USSボストン SSN703

マサチューセッツ州の首都にちなんで命名された7番目の米国軍艦

就役日:1952年1月30日 退役日:1999年5月19日

コネチカット州グロトン
ゼネラル・ダイナミクスエレクトリックボート部門により建造

歴代指揮官

1982/01-1932/08 COR J. マイケル・バー USN
1982/08-1585/07 CDR H リーブス・アデア USN
1985/07-1988/08 COR ウィリアム J. リッター USN
1988/08-1991/05 CDR ジョン P. ジャラバク USN
1991/06-1993/06 CDR ピーター A. スカラ USN
1993/06 -1994/11 COR ウィル・H・ジョーダン USN
1994/11-1997/04 COR クリストファー・A・クライン USN
1997/04- 1999/11 CDR デビッド A. オリヴィエ USN

それまでの「ボストン」

誘導ミサイル巡洋艦 CAG-1 1955-1970 
重巡洋艦 CA-69 1943-1946 
防護巡洋艦 1887-1940
スループ 1826 ~ 1846 年
フリゲート艦 1799-1814
フリゲート艦 1777-1780
ガンダロウ 1770-1776

1776年から明日へ

メリカ海軍艦艇に「ボストン」と名付けられたものは8隻あります。
今のところ最新の「ボストン」は、ここにセイルのある
「ロスアンゼルス」級原子力潜水艦であるわけですが、
最古の「ボストン」は1770年、米英戦争に出撃した「ガンダロウ」です。

Gundalow「ガンダロウ」とは、アメリカの一部でかつて見られた
一種の平底の帆船のことです。
今では観光用にごくわずかなガンダローが操業しています。



初代「ボストン」

「1776年から未来へ」というのは、おそらく今後も
「ボストン」の名を持つ海軍艦は登場するでしょう、ということです。


前回写真が撮れなかった説明がなんとか見られるようになりました。

USSボストン (SSN-703)

USS 「バッファロー」 (SSN-715) の姉妹船である 
USS「ボストン」 (SSN-703) の実際の司令塔「セイル」です。
USS 「バッファロー」は現在も就役しており、グアムを母港としています。

歴史
USS「 ボストン」は「ロサンゼルス」級攻撃型潜水艦で、
1978 年 8 月 11 日にコネチカット州グロトンの
ゼネラル ダイナミクス社のエレクトリックボート部門で起工されました。

1980 年 4 月 19 日に進水。
1982 年 1 月 30 日に就役。 1999 年 11 月 19 日に退役し、
同時に海軍登録簿から抹消されました。

最終処分
「ボストン」は2002年1月1日、ワシントン州ブレマートンの
ピュージェットサウンド海軍工廠において、NPSSRP
(原子力艦&原子力潜水艦リサイクルプログラム) により処分されました。

スペック
水上:6000t、水中:6927t、
全長;110.3 m 全幅;10m 喫水;9.7m
速力;海上25kt(46km/h)水中30kt(56km/h)
潜航深度;950ft(290m)

乗員;士官12 下士官兵98

兵装
4×21インチ(533mm)魚雷発射管
MK.48 ADCAP魚雷
トマホーク陸上攻撃巡航ミサイル(TLAM)
MK60地雷
MK67 SLMM機雷

■ ネイバルパークに入場

ネイバルパークは、埠頭を歩き、芝生に点在する軍慰霊碑を見るだけなら
無料ですが、浮いている艦船の中を見学するには入場料が必要です。

ちなみに入場料は大人18ドル、17歳以下12ドル、4歳までの乳幼児無料、
シニア15ドル、退役軍人13ドル。
無料なのはメンバーと現役軍人、展示されている艦艇の元乗組員。

なお、「サリバン」は元駆逐艦乗組員であれば乗組艦問わず、
駆逐艦ベテランの団体「ティンカン セイラーズ」会員であれば無料です。



ディープフライしたオレオ、という言葉の響きにショックを受け、
思わず写真に撮って、以前もここでご紹介した写真です。

つまり、クリームサンドのオレオに小麦の衣をつけ、
それを揚げた天ぷらにフロストシュガーをまぶすという神も恐れぬ仕業。

念の為に調べてみたところ、この「揚げオレオ」、
2001年にアメリカ在住の16歳のアルメニア人、
別名「なんでも揚げる男」"The Man Who Fries Everything,"
チキン・チャーリーことチャーリー・ボゴシアンが開発したものだそうです。

流石のアメリカ人もこれには眉を顰める向きが多いようですが、
ところがどっこい、フェスティバルなどの会場では一般的になり、
カルト的な人気を得ている正式なゲテモノなんだそうです。

しかし、ただ普通にオレオをそのまま放り込むのではなく、
クッキーは揚げる前に3時間冷凍し、油も350度と厳密に決まっていて、
パンケーキミックスにはバターミルクを入れるべし、と正式な方法があり、
ロサンゼルスでの誕生以来、いくつかの国で浸透しています。

健康に良くないことはもう百も承知で、つまり、特別な日に
「怖いもの食べたさ」で食べるジャンク、という地位は揺るぎなし。

ちなみに、
揚げたオレオはたった5個で900カロリー
になるそうです。


クリーブランドからノンストップでやってきたので、
併設のカフェでランチを取ることにしました。

アメリカ人は陽が当たっていても全く平気ですが、
私たちには辛かったので、室内のテーブル(ガラガラ)に座りました。


レストランの2階は各種団体の事務所になっているようです。

左のバナーは、地元出身のベテランが寄付した資料などが
どこかに展示されるというお知らせです。
セーラー服を着た写真のロバート・ビーラーという人物は、
自動車販売業の会社で成功した名士で、
1946年から2年間海軍に入隊していた期間のほとんどを
日本で過ごした、ということがわかりました。

おそらく、彼の残した資料はほとんど日本での海軍生活で
手に入れたものだと思いますが、それがどんなものかはわかりません。

ドブ板通りで手に入れたお土産品とかかな。

このバナーが飾られたのは2022年6月ですが、
ビーラー氏はその1ヶ月前、92歳で亡くなっています。



入場料を支払うために売店に行きました。
支払うと、手首にリングをはめてくれます。

売店の壁には、主に戦争公債(ウォーボンド)を買いましょうのポスターと、
機密を守るための防諜ポスターがずらりと並んでいます。



女性の入隊を募集するポスターも。
並んだ顔写真はおそらく地元出身のベテランのものでしょう。


というわけで、腕に入場許可証をつけて出撃です。



地上展示の戦闘機2機については以前も解説しました。
手前は

海軍 FJ-4B 「フューリー」ジェット

空軍F-86セイバージェットの海軍版。
マーチン・ブルパップ・ミサイル5発と、
低空攻撃用の20ミリ砲4門を機首に装備していました。
ライト・ターボ・ジェット・エンジンを搭載し、
海面での最高速度は時速680マイル。


向こう側は、

空軍F-101F「ブードゥー」戦闘迎撃機

1971年〜1982年の間ナイアガラフォールズ航空基地に配備されていました。
F-101Fは、ニューヨーク州空軍の第107戦術迎撃群によって、
"レインボー飛行隊 "の一員として就役していました。
就役中、機体はナイアガラの滝にかかる虹を表す、
赤、青、黄色のストライプの尾翼で飛行していました。

また、ここには冬来た時にPTボートがあったのですが、



修復中でした。
スポンサーはホームデポ、ノースロップグラマンなど。

All about PTF-17! From Vietnam to the Great Lakes

今年修復は完成したようです。
新品のように綺麗に塗装されていますね!

続く。





恩師の激励〜工学部卒業式@ベイエリア

2024-07-06 | アメリカ

アメリカ西海岸におけるMKの大学卒業式シリーズ、
この学部セレモニーでいよいよ最後となります。


前回の卒業式は、学部セレモニーと全体セレモニーが別の日だったのですが、
今回は大学卒業式に続いて午後からが各学部での式となります。

スタジアムを出て指定された建物へと向かいます。
皆が各学部への移動を一斉に始めるため、学内はご覧のように
ガウンを着た人と家族関係者がいろんな方向に三々五々歩き回っています。


工学部卒業式会場は、名前こそ「メイプルズ・パヴィリオン」ですが、
なんとバスケットボール専用体育館です。
なんと、バスケの練習と試合をするためだけの体育館があるのです。
(まあ、至る所にビーチバレー部のためにあちこちに専用コートがあって、
ゴルフ部のために専用ゴルフ場がある大学ですから当たり前ですが)

アメリカの私大は、スポーツの振興でも大学名を賭けて競い合うため、
高校スポーツでいい成績を出し、大学の決めたレベルをクリアすれば、
いわゆる「エリート校」に推薦入学することができます。

もちろん当大学くらいになるとSATの成績が悪ければ入れませんし、
大学入学後に成績が維持できなければ試合に出してもらえません。

ちなみに、当大学のバスケチーム、「カーディナル」ですが、
現在では男子より女子の方が強い模様。


天井のこれは4面に向けたスクリーンになっています。
バスケットボール専用体育館なので仕方がないのですが、
蛍光灯に照らされ、劇場のような照明は望むべくもありません。



今度は正面ではなく、壇を一番近くで見られる場所に席をとりました。
「威風堂々」が流れる中、卒業生たちが入場してきます。


上のスクリーンからは別角度からの入場が見られます。


博士課程、大学院、学部卒業生全部合わせてもそんなに多くはありません。


全卒業生が入場を終わりました。
帽子をクリエイトしている卒業生は多くはありませんが何人かいます。

■ 錚々たる教授陣


続いてファカルティ、教職員が入場し壇上に着席しました。
卒業生に渡される卒業証書はダミーで、名前は書かれていません。



今年工学部の卒業式の進行を行ったのは、機械工学者であり
ロボット工学者のアリソン・マリコ・オカムラ教授でした。

Allison Mariko Okamura

日本人としてどうしてもその名前が気になってしまいますが、
アメリカ生まれのアメリカ育ちの日系アメリカ人です。

ロボティクス分野に関しては、触覚技術、遠隔手術の研究を通じて
医療分野におけるロボット技術の普及に貢献しておられます。

オカムラ教授によって、教授陣が紹介されます。



紹介が終わると、二人が壇上に上がりました。
このコリンズ准教授の専門はヒューマノイド型ロボット研究。

かっこいい・・まるで映画に出てくる教授みたいです。
この綺麗なブルーのガウン、ミシガン州立大でPh.Dを取ったことを表します。



続いて、副学部長のケン・グッドソン教授。
グレーと赤のガウンは、MITの博士号を受けたことを表します。
壇上で一際存在感を放っていると思ったら、やっぱり凄い人でした。

一番目立ってた

専門は、電気自動車、データセンター、
パワーエレクトロニクスに応用される熱伝導とエネルギー変換で、
DARPAや政府のエネルギー研究局、空軍科学研究所などからの支援を受け、
発明家としても35の特許を持っています。
アップル社のためにヒートシンクを製造した実績もあります。

また、バリトン歌手としてオラトリオのソロを務める一面もあり、
タングルウッドで声楽のフェロー、芸術賞を取っているそうです。

■ 博士号授与



まず、博士号を取った人たちに、
壇上でガウンの上にストールをかける儀式が行われます。

赤と黒のガウンは当大学独自のもので、
そこに肩からかけるオレンジのストールは工学博士を意味します。



新博士たちは、自らのストールを手に持ち登壇して、
担当教授直々にストールを後ろからかけてもらいます。



背の低い教授に大きな人が掛けてもらうのはちょっと大変。




卒業生は自分の名前が書かれた紙を、コールする人に直前に渡します。
おそらくこの人(インド系)は、名前の読み方を確認されています。

そしてこの後、博士号取得者は、元いた席にではなく、
壇上の、教授准教授の後ろに設えられた椅子に座ります。

つまり、これからは皆同じ博士ですよってことなのでしょう。

■ 修士号授与



というわけで、MKが修士号授与される順番になりました。
彼の名前をコールしているカトコスキー教授は、なんのご縁か、
MKが学士授与された大学で博士号を取っており、
そうと一目でわかるタータンチェックのストールをしておられます。

このストールが素敵だと思ったのはわたしだけでなく、MKも、

「もし将来Ph.D.取ることがあればここよりC大がいいなあ」

その理由はというと、やはりこのタータンチェックだそうです。

ちなみにカトコスキー教授の専門も、ロボットハンドなどです。


前後に並んでいるのはみんな親しい「学友」なので、
名前を呼ばれると声援を送り合い、盛り上がります。

ヒスパニック系など、大家族で応援に来ている卒業生の名前が呼ばれると、
一族郎党が凄まじい声で名前を叫び、プラカードが振られます。


賞状を渡す係とまず握手。
この方、コンピュータサイエンスの助教授で、名前が凄い。

モンロー・ケネディ3世
Monroe Kennedy III


ファーストネームがモンローでファミリーネームがケネディ。
しかも、三代に亘ってこの名前がアフリカ系一族に受け継がれてるって、

・・・・・なんか色々と謎の情報量多すぎ。

ケネディ助教授も専門分野はロボット工学です。


モンロー・ケネディ3世助教と写真を撮って、おしまい。


博士課程、修士課程のセレモニーが終わりました。
2024年というのは当大学133回目の卒業式に参加した卒業生が、
「クラス2024」と生涯にわたって呼ばれる数字となります。


さて、ここからは学士、アンダーグラデュエイト認証となり、
カトコスキー教授に変わってコリンズ准教授がコール係となりました。


モデルさんですか?みたいな人も結構います。


「世界130カ国から集まっている」という当大学。
わたしたちの近くに座っていた一団はオーストリアから来た家族でした。
(帰りのチケットを確認していたのが見えてしまった)

この写真の女性のように、国旗と共に登壇する愛国者もいます。
彼女が持っているのはモーリタニア国旗ではないでしょうか。
(赤いラインがないのは旧国旗だから?)

モーリタニアはアフリカの西岸に面した人口465万人のイスラム教国で、
国土は日本の2.7倍ですが日本大使館は目黒区五本木の一軒家です。

なお、全員の名前が呼ばれるのを注意して聞いていたのですが、
全工学部中、日系と思われる女性は一人、(教授に一人いますが)
ファーストネームも日本名の、つまり留学生らしき卒業生は、
この中でMKと学士の女性一人だけでした。

つまり工学部で男性の日本人留学生はMKだけだったことになります。

そういえば、北東部の大学にいたときも、日本からの留学生は少なく、
そのことがアメリカ人の父兄とレセプションの席で話題になり、

「日本は元々先進国だから、留学の必要がないんじゃないですか」

と言われましたが、それもちょっと違うような・・・。

■ キャップトス(帽子投げ)


卒業証書授与式が終わり、一瞬素に戻っている先生たち。
画面左手にあるロゴ入りのボードは、撮影用のバックで、
卒業生がここに来ると業者が一人ずつ撮影を行います。

卒業式後、すぐに業者から写真を買えというメールが来たので、
当然のように買ってしまったわけですが、届いたプリントを見ると、
うーん・・・わたしが撮った写真のほうがよく写っているかも・・。



アメリカのセレモニーの不思議なところは、
「ここで終わり」というアナウンスをしないことです。

なので、卒業生たちはなんとなく終わった〜的タイミングで
てんでに立ち上がり、何人かが帽子を投げたりし始めます。

この帽子投げは英語では「ハットトス」「キャップトス」といいますが、
本来は、これから任官して帽子が変わる士官学校での慣習であり、
普通の大学の卒業帽=「モルタルボード」mortarboardは投げません。

「新しい帽子を得るために古いものを捨てる」という意味がないからです。
つまり、そのイメージを受け、完全に雰囲気でやっているだけです。

それに、改造されてプラスチックなどを貼った帽子は、
下手に投げたら角で人を傷つける心配もありますからね。

■ 野外レセプションパーティ


セレモニー終了後は、体育館横のバーベキューエリアで
工学部主催のレセプションがありました。

スタジアムには軽食のスタンドもあったので、
それを買い求めて食べている人もたくさんいましたが、
わたしたちは朝早く、一口だけ食べて家を出てきただけなので空腹です。

そうそう、スタジアムで横に座っていたコリアンらしい青年は、
買ってきた山のようなフライドチキンのバレルを抱え、もりもり食べて、
食べ残しをそのまま座席の下に放置していったわけですが、
彼に限らず、セレモニーが終わった後、スタンドの足元に、
ペットボトルやその他食べ残し、チラシなどゴミを放置する人多数。

「一流と言われる大学の卒業生関係者でもこれか・・」

とちょっと唖然とさせられました。
ワールドカップでゴミを拾う日本人応援団が話題になりましたが、

それがいかに世界基準では異様なことだったかがよくわかります。

こっちの人ってまじで、


「掃除をする人の仕事がなくなるからゴミ拾いなんて必要なし」

とか平気で思ってそうなんですよね・・。


卒業生は木陰のテーブルに座り、あるいは立って、
お世話になった先生と話したり、家族に会ったりします。

そう、レセプションパーティは食事をする場所ではないのです。



とはいえこれは・・・いかがなものか。

お腹が空いたので、フードの列に並んでみたところ、
テーブルの上にあるのはズッキーニのサラダ、
中身スカスカのソフトタコ(しかももう残ってない)、クッキー。
飲み物はサーバーから汲む生ぬるい水道水、以上。

「タンパク質とか全くねええ!」

「ビーガンの人に対する配慮かな」

「レセプションって量じゃないぞ」

しかし、とりあえず一皿取って食べたら味はそう悪くない。
小皿一杯では流石に量も足りないので、おかわりしようと思ったら、
このわずかしかない食べ物に長蛇の列ができていて、諦めました。
(きっと全員に行き渡らなかったと思う)しかも補充される様子なし。

いかに食べ物の質に頓着しないアメリカ人もこれにはびっくりだ。
MKも呆れて、

「工学部何考えてんだ」

おもてなし以前に、共感性欠如疑うレベル。
まさかこの大学で「予算がなかった」なんて言い訳通らないぞ?

きっとビジネススクールはこんなんじゃなかったんだろうな、とふと思う。

■ 駆けつけてきた「レジェンド」教授



MKと同じラボの研究生が、恩師を囲むの図。

教授は昨年一杯で退官し、リタイアしているのですが、
可愛い?弟子たちの卒業式に立ち会うべく、
ロスアンゼルス方面から車を飛ばしてやってきたのでした。

しかし、この日曜日、道路が異常に渋滞していて、
到着したのはセレモニーが終わったときだった、とのことです。

ちゃんと弟子に会うために退官後にもかかわらずガウンを着用。
MK曰くその分野では「レジェンド」というべき存在だったとか。


早速恩師を囲んで記念撮影が行われました。



わたしが一番好きなのがこの写真です。

退官したにもかかわらず、弟子のために数時間かけてやってきて、
彼らの門出を祝福してくれる名物教授。



そういえば、最初にラボの見学をさせてもらったとき、
教授の似顔絵が貼ってあったなあ・・・。

写真の身振り手振りからも、教授が教え子にいかに真摯に対峙していたか、
いかに尊敬され、慕われていたかが推察できる一瞬だと思います。

自分の薫陶を受けた技術者が、これからの世界に
どれほどの功績を遺すかを、心から楽しみにしている師の姿。

後藤新平が言ったという、

「人を遺すは一流」

という言葉を、カリフォルニアの太陽の下で思い出したわたしです。


というわけで、長らくお付き合いいただいた卒業式シリーズ、終わります。
MKはこの後、企業の研究所でインターンシップを行った後、休みを取り、
本格的に地元で技術者として歩みだすことが決まりました。

親としての役目は一応これで一区切りついたと言えるかもしれません。


卒業式シリーズ終わり



メリンダ・ゲイツのスピーチと学位承認の儀式〜大学卒業式@ベイエリア

2024-07-03 | アメリカ

アメリカ西海岸で行われたMKの大学の卒業式、
パレスチナ支援の卒業生たちが数百人単位で式をボイコットし、
会場を去っていく間も、臨時学長リチャード・サラー氏の演説は続きます。


後でMKが、このスピーチを、

「何が言いたいのか全くわからなかった」

と貶していました。

改めて内容をチェックすると、まず、何分もかけて言葉を変えながら、

「君たちをここまで育んだ家族とコミュニティに対する感謝が大事」

と一言で済むことをクドクドと?繰り返しています。

まあ当たり障りないというか、当たり前というか、普通の内容です。
ひとしきりそれが済むと、歴史学者であるサラー学長は、

「古代ローマの専門家として語る」として、続けました。

「過去4年のパンデミックの悲劇を矮小化するつもりはないが、
絶望的な物語の中で過去を理想化したり美化するのも間違いです。

幸福度のほとんどの尺度において、みなさんの世代は、
古代ローマ人や100年前のアメリカ人、私の世代より先を行っていますし、
みなさんは先祖より長生きする可能性があります。

過去1世紀にわたってアメリカの平均寿命は40%延びました。
1970年以来、世界の平均寿命は16年延びました。
古代ローマにおける15歳未満の子供の死亡率は50%でしたが、
1950年には25%、現在ではわずか4%になりました。

そして、ほとんどのローマ人は自給自足していたが、
現在極度の貧困率は減少し識字率も古代の10%から現在は87%へと(略)」

で、何が言いたいかというと、これらの変化は教育と、知識の発見、
普及の賜物であり、皆さんと大学はそれに貢献しているということらしい。


過去より現在、現在より未来が人間にとってより良いものになっている、
ということを、学長は学者らしく数字を挙げて証明したかったのでしょう。

そして、今の世界にも問題は各種存在するが(ボイコットの原因含む)

明日の世界をより良くするために、皆さんはここで学んだことを活かして
それら問題を解決していってくださいねと言いたかったようです。

しかし、MKとその周りに、この学長代理のスピーチは滅法不評でした。
数字ばかり挙げて、で、古代ローマとか何言ってんの?みたいな。


確かに古代ローマ史の専門家で「ならではの」視点はないかもしれません。
単にその事実を数値化するだけなら誰にだってできますし。

■ メリンダ・ゲイツのスピーチ



サラー学長がこの日のキーノート・アドレス、
=基調講演を行うスピーカーを紹介しました。

「慈善家、事業家、女性の人権保護者、そして当大学育ての親」

である、メリンダ・フレンチ・ゲイツ氏です。

プログラムには「Pivotal 創業者」と紹介されていますが、
ピヴォータルとは、2015年に設立された、ベンチャーキャピタル、
政策、権利擁護の橋渡しと推進を行う組織名で、
女性の経済的および政治参加を増やす取り組みを使命としています。

(つまり彼女のライフワークは女性の権利の向上でもあるわけです。
そんな人が夫とエプスタインのような人物の関わりを許すはずありませんね)

彼女の慈善事業へのアプローチは、イデオロギーよりも柔軟性を重んじ、
あくまでもデータ主導であり、その上で、アメリカの裕福な人々に
その富を慈善活動に寄付することを呼びかけており、
彼女自身も今後2年間で10億ドルを寄付する予定だそうです。

以上のことを学長がスピーチすると、会場から拍手が巻き起こりました。

ちなみに彼女のウィキペディアには、最後に
この日卒業式で基調講演を行ったことが付け加えられています。

Melinda French Gates 2024 Stanford University Commencement Speech
自動翻訳から日本語を選択できるので、
もしご興味があれば聞いてみてください。

最初に彼女は、当大学メカニカルエンジニアで学んだ彼女の父が、
メリンダの姪の卒業を見るために母と一緒にここに来ている、と言います。
なお、彼女の娘も、娘婿もここで学位を取得しています。

この日大学がメリンダに2回目となるスピーチを依頼したのは、
彼女の姪が卒業するタイミングだったからだったかもしれません。

この日は父の日だったので、彼女は会場のすべての父親におめでとうを言い、
母親たちを労って、聴衆の心をしっかりと掴みました。

スピーチの核心に入ると、彼女は、アメリカの思想家、ラム・ダスが言った、
海を渡る二つの波についての話をします。

「大きな波と小さな波が岸に向かって打ち寄せていた。

陸地に近づくにつれ、大きな波は、波が海岸で砕けるのを見て絶望し、
小さな波に、『私たちはもう終わりだ』という。

しかし小さな波は微笑んで『心配しないで。大丈夫ですよ』という。
大きな波が、それでも『終わりだ』というのに対し、

小さな波は落ち着いて、

『それは違います。その理由をたった六語で説明します』


といった。
その六つの言葉とはこうだった。

『You are not wave, you WATER.』
(あなたは波じゃない。水です)


そして、60歳になった自身に訪れた様々な経験について、
それが目の前にある時には、大きな波が感じたような恐怖に見舞われたが、
次の日には乗り越え、それからの行動が自分を形作ってきたと言います。

そして、皆さんはこれからこの大学の卒業生として、
色々と展望や計画を持ち、世間も皆さんを必要としていると思うが、
人生には往々にして想像もしなかったことが起こるので、
自分のこの地球上での使命について皆さんは考え方を変える余地を残し、
それを厭わないでほしいとして、

「波が波でなく自分を別の名前、『水』と呼ぶことを認識したとき、
自由自在に新しい形になることができるのです」

そして卒業生には、自分自身の小さな波(大きな波を見る視点)を持ち、
物事の本質を見る視座を養うように、と、
自分自身のマイクロソフト入社時の(苦い)経験をもとに語ります。

そして、自分自身にとっての小さな波になってくれる人を見つけること、
また、誰かにとって自分が小さな波の役割を果たし、
信頼性の構築によって壊れた世界を修復することを望み、

”And when you wake up tomorrow,
no longer the person you are today
and not yet the person you will become next.
(明日目覚めたあなたは、もう今日のあなたではありませんが、
まだ次の自分になることもできていません)

I hope you will draw courage and confidence knowing
that you graduates are water, the force that shapes the shore.
(私が望むのは、卒業生の皆さんが勇気を自信を持つことです。
なぜならあなた方は水で、岸辺を形作る力であるのだから。

What a powerful force you are.
(それはなんと力強いものでしょうか)

と締めくくりました。


明快でわかりやすく、そして説得力のある訓戒です。
さすがはフォーブスの「最もパワフルな女性100人」に
2013年以降ほぼ毎年ランクインしており、
国内外から様々な勲章を受けている女性のスピーチだけあります。

卒業生たちも、素直にこのスピーチには拍手を送っていましたし、
後で聞くとMKも「学長のは酷かったけど」こちらは評価していました。

わたしは、客席からの写真ではわからなかった彼女のブレスレットが
ヴァン・クリーフ&アーペルであることを目ざとく察知しました。

でっていう話ですが。


■ 学位授与の儀式

ここで、博士号、修士号の授与式が行われました。

授与式とは、各学部の学部長が順番に対象者を紹介し、
学長がそれを受けて宣言することで、
この瞬間卒業生は正式に学位を与えられた者となります。

わたしがアメリカの大学の卒業式に出席するのは三度目ですが、
以前出席した2回とは全くやり方も方式も違いました。

アメリカでは、各大学の歴史や規模によって独自の方法が培われ、
それを継承して伝統にしているのだということがよくわかります。



本学の学位授与には定型があります。
最初に行われたMKの工学部で説明すると、まず学部長が登壇し、

「工学部の候補者はどうぞ起立してください」


それを受けて、工学部の博士号、修士号取得予定者が、
歓声を上げつつ立ち上がり、学部旗が振られます。

すると学部長が、

「学長閣下、私はあなたに理学修士、工学修士、
Ph.D.(後述)の学位取得要件を満たした者をここに紹介します

といい、学長がそれに答えて、

「ありがとうございます、ウィットマン学部長。
本大学の教授会および理事会から私に与えられた権限により、私はここに、

あなたがたに授与された学位を授与し、その権利、責任、特権を認めます。
おめでとう!

会場から拍手が起こり、ここで初めて彼らは学位取得者になるのです。


続いて法学部、教育学部が続きます。



教育学部は修士、博士合わせて総勢30人くらい。
学部長は、学部紹介の時、

「Small but mighty.」(少数精鋭です)

と付け加えて、会場から温かい笑いが漏れました。
続いて人文科学部、そして「ドー・スクール」。

「Doerr(ドー)School of Sutainability👈click

は当大学独自の大学院で、米国最大の気候変動関連学部の一つです。
日本語で言うなら「持続可能開発大学院」とでも言いましょうか。

土木・環境工学(工学部との共同部門)、地球システム科学、
エネルギー科学・工学、地質科学、地球物理学、海洋学の研究を行います。


そして次の学長が登壇すると、早くも歓声が上がり始めました。
次に学位授与されるのはスクールオブビジネス、経営大学院。

おそらくアメリカで入るのが一番難しい、世界の最高峰ビジネススクール。
裕福さにおいても全米で2番目と言われております。

なんかイメージとして、全員イケイケで派手な感じ?
少なくとも工学部とは全く違う毛色の人種が生息していそうです。

そして、このジョナサン・レヴィン学部長は、
次期学長となることが決まっているのです。

サラー学長は、レヴィン学部長の任期が終わるまでの繋ぎを務める立場から

「あなたのビジネススクール学部長としての最後の卒業式に際して、
GSPへの貢献と、当大学の学長職を引き受けてくださることに対する
私からの感謝を受け入れてください」


とこの時にその就任について言及しました。


案の定、ビジネススクールの一団からは、大歓声が巻き起こります。
その派手さに、会場の人たちはちょっと呆気に取られている感じ。


立ち昇る紙吹雪(かな?)、飛び交う風船。


よく見るとあっちこっちでシャンパン(と見せかけた発泡水)
の瓶を開けて、周りの人たちの帽子はびしょ濡れ状態・・・・。

なんか知らんが、さすがはビジネススクール。

何から何までノリが違う。


最後に学位授与されたのは、大世帯のビジネススクールの前に、
わずか三列に収まっていた少人数のスクール・オブ・メディシンでした。

理学修士、医師助手学修士、科学修士、
そして「ドクター・オブ・フィロソフィ」が与えられます。

最後の「Doctor of Philosophy」は略称Ph.D.(ピーエイチディー)で
所定の在学期間を経たのち、筆記&口頭試験に合格したものが、
3年から5年以内に学位請求論文を精査されたのち与えられるものです。



さあ、そこで学長がこんなことを言います。

「マルティネス学長補佐、我々は誰か忘れてませんか?」


「さあどうでしょうか。誰かまだ残ってます?」



すると学士予定者が歓声を上げました。

わたしは入場の時にちょっと勘違いしていたのですが、
「バチェラーオブアート、バチェラーオブサイエンス」は
文系、科学系の学士の総称、つまりアンダーグラデュエイト卒業生です。

そして学長の宣言により、彼らに無事学士が与えられました。
そして最後に学長の、

「おめでとう、クラス2024 !」

と言う言葉の後、サノ教授の指揮による
「Stanford Hymn(大学讃歌)」が演奏されました。



「なだらかな丘が聳え立つ場所
さらに高き山の頂へ
海岸山脈のあるところ 夕焼けの炎の中
それは真紅に染まり、蒼ざめていく
ここで我々は歓呼の声をあげる

汝、我らがアルマ・マター(母校)よ
麓より湾に向かいて
我々が歌うときそれは鳴り響く
鳴り響き、そして舞い上がる
万歳、Stanford、万歳」


プログラムにはこの歌詞が載っており、
観客席の周りからは卒業生なのか、唱和する声が聞こえました。



そして本当の最後に、宗教、スピリチュアルライフの学部長であり、
牧師でもあるステインワート博士が、

「皆さんは思いやりに満ちたコミュニティを構築し、
美しい世界の壊れた部分を修復、保全、構築することができますように」


と述べて、最後に

「アーメン」

で締めくくりました。
どんなにリベラルが「メリークリスマス」を言えないような風潮を作っても、
依然アメリカはキリスト教国なのだと思った瞬間です。



で、ここからがアメリカ(の悪いところ)だなあと思ったのは、
これで終わりとか、皆様お気をつけて会場をとか言わないので、
卒業生が勝手に立ち上がってその辺をうろつきだし、
中世ファンファーレのブラスが厳かに流れる中、
退場する教授陣の通路が塞がれてしまったことです。

いかにもアメリカ人らしいお行儀の悪さ。

流石に、

「卒業生の皆さん、皆席に座って教員が退場するまで待ってください」

とか注意されていました。


わたしたちも一斉に退出する観客と一緒にこの後出口に向かったのですが、
このスタジアム、出るにはいくつかの狭〜〜〜〜いトンネルを通るので、
その前で人間が渋滞してしまい、外に出るまで団子状態で待たされました。

「もしテロや火災が起こったら確実に大人数が往く魔の構造だね」

などと、スタジアムの構造に文句を言いながら外に出ます。


検索したら、1993年の卒業式の映像が出てきたのですが、
それを見る限り、それ以前からあった古いスタジアムのようです。

いまいち安全性に関しては考慮されていないようでしたが、
よく今まで何事も起こらずきたものだと感心しました。

なんとか外に出た後、今度は工学部の卒業式会場に向かいます。


続く。