ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

年忘れ人物ギャラリー

2015-12-31 | つれづれなるままに


冒頭絵はフランス空軍でエースパイロット(フランス語でア・ジャポネ)
と呼ばれレジオンドヌール勲章を受けた、飛行家、滋野清武男爵

第一次世界大戦時、唯一のエースだった日本の男爵。
しかも彼はフランス娘を妻に伴って帰国し、飛行機の操縦を日本に広めるために
尽力した人物ですから、もう少し名前が一般に膾炙しても良さそうなものです。

しかしながら、現在、航空の歴史に通暁してでもいないと、
バロン滋野という名前を知っているものは滅多にいません。

この人物の、特に帰国してからは順風満帆とはいえなかった
薄幸の晩年が影を落としているからなのでしょうか。

飛行家列伝「バロン滋野」~As Japonais (ア・ジャポネ)
 

 

女流パイロット列伝~木部シゲノ「男装の麗人」

飛行機の免許を取るために、飛行学校をだけで世間の話題になり、
本人が好んで男装をしていたことから「男装の麗人」として一斉を風靡した、
この時代の申し子のような一飛行家について、著書で彼女を取り上げていた
あるフェミ作家への非難を兼ねて書いてみました。

はっきりいって、飛行家としては突出した実績を残したわけでもない彼女が、
どうして当時世間にこれだけもてはやされていたかについては、

「男装した時に初めて魅力を発揮する女」

に属したからではないか、と推測してみました。
いずれにせよ資料がなさすぎて、なんとも言えません。




女流パイロット列伝~セシリア・アラゴン「空飛ぶサイエンティスト」

コンピューターサイエンティストで大学教授でアクロバット飛行家。
世の中にはこんなとんでもない「リケジョ」(死語?)がいたんですね、
ってことで、オマージュの一頁を捧げました。




女流飛行家列伝~ジーン・ティンズリー「ウィリー・ガール」

女性として初めてオートジャイロの免許を取り、その後も
世界初のティルトローター(ご存知の通り大変難しい)の操縦資格を持ち、
VTOLの・・・・・・。

とにかく回転翼にかけては右に出る者のない女性飛行家。

ところで、わたしはここ何年か、夏の間、加州シリコンバレーで過ごしていますが、
車でとんでもない豪邸の(アメリカ基準で、いずれも広大な前庭とバックヤード付き)
立ち並ぶ、「アサートン(ATHERTON)」という住宅街を通り抜けることがあります。

彼女について調べたとき、彼女の住んでいる町であることを知りました。


「アサートンにある快適な住まいの、花の咲き乱れるバックヤードののデッキチェアで、
退院した78歳のお婆ちゃんが空を見ながら考えていたのは、
翌週サンカルロスのヒラー航空博物館で行われる
「ヴァーチカル・チャレンジ・エア・ショー」で乗る、
「スカイクレーン」、
シコルスキーS−64のことでした。」


日本のいわゆる高級住宅街などではとても望めないような、豊かな緑をたたえる

その一角を通るたびに、まだ健在であるらしい彼女のことを思うわたしです。



女流パイロット列伝~キャシー・チャン「Great Expectations」

2014年末の掲載ですが、その年の年忘れギャラリーには載せなかったので、
ここであらためて登場です。
初の中国人女性として、彼女はアメリカの飛行界には受け入れられましたが、
白人の男友達(そもそも友達だったのか?)に必死の思いで貯めたお金で買った
愛機を壊され、弁償もしてもらえなかったため、失意のうちに帰国しました。

彼女のGreat Expectationsは、その瞬間全て消えたのです。




天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め


アメリカ海軍航空史の黎明期に名前を残した二人の人物を取り上げました。
まず、初めて船の甲板から飛行機で飛び立ち、初めて着艦し、そして初めて
着艦事故で死亡したユージーン・イーリー。



天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め


海軍軍人として初めて自分の操縦する飛行機で空を飛んだ、
セオドア・”スパッズ”・エリソン。
彼は単身赴任中のアナポリスから、重病の娘の身を案じて夜間単機で飛び立ち、
事故を起こし、その体はイーリーが人類最初に離艦を行った同じ海で発見されました。 


東京裁判のアメリカ人弁護人たち~ベン・ブルース・ブレイクニー少佐

東京裁判で日本人被告の弁護をしたアメリカ人弁護人については、
ずっと一度扱ってみたいと資料を集めていました。
参考にした本の中にやはり弁護人であった清瀬一郎博士の「東京裁判」があります。

そこに、あの、戦勝国による「見せしめ」のための裁判の論告中、
アメリカの原子爆弾投下について言及したブレイクニー少佐の「その後」、
つまり、裁判後日本に残り、弁護士として活動していたところ、
飛行機事故で死亡した、と書かれていたことは当時大変なショックでした。


東京裁判についてネット上にログが立つと、当エントリが取り上げられることもあるようです。



「ルーズベルト」ニ与フル書~市丸利之助少将


靖国神社の遊就館にいくといつも目にする、硫黄島の戦いの際
戦死した士官の体からアメリカ軍によって発見された英語の遺書。
それが、第27航空隊司令官、市丸利之助少将の書いた
「ルーズベルトに与うる書」でした。

大国アメリカのみならず、欧米諸国の人種的奢りを追求し、そして
彼らの虐げてきた有色人種の人権を取り戻すために立ち上がった
日本という国の「理」と、正当性を訴えてやまない
この手紙は、ルーズベールトが死去した後に、アメリカの新聞に掲載されました。 



「ザ・デストロイヤー」~駆逐艦「濱風」と前川万衛艦長


海軍兵学校同期会の江田島訪問に、卑怯な手を使って紛れ込んだわたしは()
そのツァーの行程で海軍墓地を訪れました。

この項は、そのときに慰霊碑を紹介しながら、帝国海軍の艦艇について

あらためて思いをはせる、という形であげたうちの一つで、
俊英艦であったのみならず、人命救助に類い稀な実績を上げた駆逐艦「濱風」の
きっと男前であったに違いない艦長、前川万兵衛海軍中佐を、
写真が見つからないのをいいことに
妄想と、
こうあって欲しいという勝手な願望を込めて描いてみました。。





沖縄県民斯ク戦ヘリ~太田實中将


掃海隊を暮れに見学したことで、またなんどかペルシア湾の掃海について
触れることにもなったのですが、その指揮官であった落合二等海佐(当時)は 
この太田實海軍中将(戦死後昇進)の息子でした。

昭和20年、米軍の上陸に追い詰められた海軍陸戦隊の司令官として、
壕の中で他の幕僚とともに自決した太田司令。
撤退命令が出たにもかかわらず、持久戦を行うことを選んで後の死でした。

このときの「命令拒否」を、わたしは「住民を少しでも巻き込まないため」だと
このエントリで推測しましたが、太田中将の最後に残した遺書の内容からも、
おそらくその通りだろうと誰しもが納得することでしょう。

「沖縄県民斯く戦ヘり 県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」 


ところで、わたしは先日、ある人物から、初めて太田中将自決の跡を訪れたときに、
そこがいつもそれまで夢に見ていたのと同じ場所であると思った、という話を聞きました。

その夢というのは、爆音の後、石段を血が流れてくるといったいつも同じもので、
その人は、なぜ自分がこんな夢を何度も見るのか不思議だったということですが、
壕をみたとき、太田中将と共に自決した幕僚に、自分と同じ名を持つ軍人がいたことを
初めて知り、衝撃を受けたのだそうです。


輪廻転生を頭から信じているわけではありませんが、もしかしたら自決した幕僚の意識が、
何かのきっかけで、時空を超えて血族に受け継がれるなどということもあるかもしれない、
とわたしはこの不思議な打ち明け話を聞いて思ったものでした。



別の項で使用した太田中将の息子、落合元海将補。
太田中将とほぼ同じ顔です。



米海軍アイスクリーム事情~ハルゼー提督とアイスクリーム艦

ちなみに、当ブログの記事がいくつか掲載されているNAVARのまとめが、
その他の情報も含めて大変参考になったので、最後に挙げておきます。


アイスクリームとアメリカ海軍 潜水艦

特に同じサイトの記事、変態兵器伊400型」というのにウケました。



それではみなさま、よいお年を。





 


年末・年忘れ映画ギャラリー

2015-12-30 | 映画

早いもので、あっという間に1年が過ぎました。
感覚としては6ヶ月も経っていないような気すらしてるんですが。
ちなみにふとブログの掲載日数を見ると、2070日となっていました。
来年でもうブログ開始以来6年目を迎えようとしてるんですね。なんてこった。

今年、ことに最近は自衛隊イベントの参加とそのルポルタージュ編に忙しく、
お絵かきしてる場合じゃねえ!という毎日が続いていて、恒例の
年忘れギャラリーを掲載するほどのネタがないのですが、とりあえずやります。


【ファイナル・カウントダウン】

まずは、年初めに満を持して?発表した「ファイナル・カウントダウン」。
わたしの中で「三大タイムトリップ戦争もの」というと、「戦国自衛隊」「ジパング」、
そしてこの「ファイナル・カウントダウン」ということになります。

わたしの中でなくとも、実際もこの3つくらいですかね。

架空戦記というのは近代以降現れたジャンルだそうです。
大戦前には日米の戦争をシミュレーションした軍人の手による
下心ふんぷんの架空戦記が多く書かれましたが、後でお話しする「海底軍艦」のような
SF的要素を盛り込んだ架空戦記もほどなく現れ始めます。

この傾向はアメリカでも同様で、いくつかの日米戦シミュレーションものが書かれました。
 
現代の軍が過去にタイムスリップするアイデアを用いた架空戦記は、
RIMPACに向かう海自の護衛艦隊がミッドウェーにタイムスリップする
「大逆転! ミッドウェー海戦」、日ソの潜水艦がレイテ沖海戦に介入する「大逆転!レイテ海戦」、
現代の沖縄ごと米軍上陸前にワープする「大逆転! 戦艦「大和」激闘す」、という
檜山義昭の「大逆転シリーズ」は1988年、ジパングが2000年。


この間、幾つかの「現代の装備で過去に現れてスーパーマン的戦闘をする」
というパターンの創作物が現れましたが、じつをいうと、これらすべて後発で、
歴史的に見ても半村良の「戦国自衛隊」(1971年)が最初の作品となります。


「ファイナルカウントダウン」は1980年作品で、「戦国自衛隊」のヒットがその1年前の
1979年だったということから、やはり盗作ではないかということになったようです。
しかしながら、原作の小説は「それより以前」に書かれていたのでセーフということになりました。

現在、このジャンルで「明らかな盗作」と評判のあるのが、2005年、
韓国で製作された「天軍」で、韓国軍と朝鮮人民軍が李舜臣の時代に現れて、
現代の兵器で憎き日本軍をコテンパンにするというもの(笑)。

ちらっとニコ動で見たところによると、両軍が機関銃を撃ちまくって日本軍兵士を
問答無用で虐殺していましたが、さぞ観客はこのシーンにすっきりしたんでしょうな。


ついでにポスターまでが「パイレーツオブカリビアン」の丸パクリだったというおまけ付き。



相変わらず1日で語り終えることができなかったため、二日目は
イエランド艦長のおかげで過去に置いてけぼりにされ、謎の人物として現代に現れる
オーエンズ中佐を演じたジェームス・ファレンティーノを描きました。

2013年に73歳で死去しています。

わたしはこのオーエンズ中佐が、タイムトラベルしてくる「ニミッツ」に
謎の人物「タイドマン」としてマーティン・シーン演じる調査官のラスキーを
送り込んできた理由を、ずばり「艦長への復讐が目的」だと解説しましたが、
もちろん映画の上では、そういう人間同士の葛藤は全くオミットされています。

架空戦記というものは、何かを無視せずに描くことはできません。
とくにタイムパラドックスものにつきものなのが、矛盾だからであり、
矛盾にいかに目を向けさせないかがこういう創作物のできを左右します。




この映画で気に入らないのがこの零戦搭乗員のキャスティングでした。
マジで、一人くらい日系人の俳優はいなかったのか、と問い詰めたいです。

汚らしい塗装に、アサヒビールのマークをそのまま切り貼りした旭日旗のマーク、
というふざけた日本機で真珠湾攻撃のシーンを撮ったこの映画は、もしかしたら
「パールハーバー」と同じく、アドバイスや考証どころか、日本人の目に触れないように、
スタッフからも日系をシャットアウトして製作したのではないか、と疑われるくらい、
その描写は無礼千万で何の敬意も感じられないものでした。



本作品のプロデューサーは、イエランド艦長を演じたカーク・ダグラスの息子、
ピーター・ダグラスで、彼は予算ではなく、映画のスクリプトを
米海軍にアピールすることでその全面協力を取り付けたそうです。

ニミッツの隊員のほとんどが実際のクルーで、彼らの名前はクレジットされ、
撮影については、とくに飛行隊に関しては現場の意見が最優先されました。



【俺たちの星条旗 AMERICAN PASTIME】



「俺たちの旅」の中村雅俊が出ているからといって、なにも原題で
「アメリカの娯楽」を意味するこのタイトルまで「俺たち」にしなくても、
と思ってしまうわけです。

日系アメリカ人についてはこのブログでは何度かその歴史、
とくに戦争中に彼らがどうあったかに焦点を当ててお話ししていますが、
「アメリカの黒歴史」として、今でもアメリカ人が目を背ける日系人収容と、
彼らの最もポピュラーな「暇つぶし」であり「娯楽」であった野球が
作品のテーマとなっているので、やはりそこは原題に忠実にしてほしかった。

ここは直球で(誰うま)「アメリカン・パスタイム」でよかったのでは・・。

配役としては、中村父、ジュディ・オング母まではいいのだけど、やはり
二人の息子が日系人でないというのが残念でした。
日系人というのは、アメリカの少数人族で唯一数が減っているそうで、
日本人役ができる俳優はほとんどいないと見え、どの映画の日系人、
日本人も、大抵は中国系か韓国系で間に合わされてしまいます。



日系人チームと、看守のビリーを含む町の白人チームが試合を行うのが、
この映画のクライマックス。
この試合で、日系人を蔑んでいたビリーが、日系人チームのエースである
娘のボーイフレンドと投打対決をするわけですが、そこで彼がいざというとき、
「スポーツマンシップ」に則ることができるのか?というのが見どころとなっています。




毎年2月26日に恒例行事として226事件に関する映画を取り上げています。
今回は思いっきり地味なこの映画を扱ってみました。
主演、宇津井健。



この映画は226を単体で書いたものではなく、その以前の、海軍将校が起こした
515事件や相沢事件なんかも網羅しているものなので、歴史に詳しくないと、
せめて興味くらいないと、そもそも見る気も起こらないというくらいです。
つまり映画として全く面白くない、ということができると思います。

なんと張作霖爆破事件から話が始まっているわけですからね。

そのわりに、右翼主義者の起こした浜口首相暗殺も、「陸海軍流血史」として
一緒くたに語っているあたりがむちゃくちゃ乱暴です。


それに、原題の基準で安藤輝三大尉を語ろうとするものだから、軍部の暗躍を
暴こうとして拷問死させられる新聞記者、という架空の人物の死に
安藤大尉が発奮して革命に加わる、という、全く辻褄の合わない展開に。

だからこの新聞記者が止めようとしていたのが、武力による軍事支配だったんだってばさ。

青年将校たちの蹶起は愛国的意図のもとに起こされたが、失敗し、首脳部は
その後実権を握り世論を無視して事変を誘発し、ついに大東亜戦争の火ぶたを切って
日本の運命を敗戦の悲劇へと叩き込んだ

なんてもっともらしい(けど全く説得力のない)結論付けをしている点でアウト。
それじゃー、まるで226事件が成功していたら戦争にならなかったみたいじゃないの。


【KANO 1931 海の向こうの甲子園】



日本が統治していた時代、ダメダメだった嘉義農林高野球部を鍛え、
甲子園準優勝に導いた日本人教師、近藤平太郎を演じた永瀬正敏が
大変いい演技をしております。

伝説の投手、呉明捷を演じた曹祐寧くんは現役の野球選手で、映画公表後、
ファンに追いかけられる毎日だったとか。

ところで、わたしはこの年末、またもや台湾に行く予定をしていました。
夏に直前で中止になった李登輝元総統との会見ですが、もう一度機会をいただき、
今度こそはと思っていたところ、またしても元総統のお加減が直前で悪く・・・。

もう92歳のご高齢なので仕方がないことかもしれませんが、よりによって
わたしがお会いするという予定の直前にいずれもこのようなことになるなんて。

今回の訪台では、白色テロの生存者の体験談を聞くという予定もしていたのに、
それが無くなったのも残念でした。
次の機会に、といいたいところですが、それが今後あるかどうか・・。



【アメリカン・スナイパー】



こういう映画が出ると、アメリカでもたとえば自国の戦争について
右と左で論議が巻き起こるものだということがわかりました。

しかしながら、クリント・イーストウッド監督がこの映画で描きたかったのは、
「悪魔のスナイパー」として255人ものイラク人を射殺したクリス・カイルにとって、
自分を支えている戦士としての義務感と誇りより、彼を蝕んでいた精神的外傷の方が
はるかに重圧であったということなのではないか、と仮定してみました。

カイルを殺害したのが、やはりPTSDに苛まれていた帰還兵であったことも、
監督にとってこの題材を取り上げるための大きな動機になったことでしょう。


 

【機動部隊 TASK FORCE】


あまり有名ではありませんが、空母艦載機のパイロットを第一歩に、
その人生をアメリカ海軍に捧げた一人の軍人を、ゲイリー・クーパーが演じた映画です。

主人公のスコット少佐は、アメリカで最初の母艦艦載機乗りになり、
その後左遷されたりまた引っ張られたり、兵学校の先生になったり
飛行機は時代遅れだと言われて憤ったり、太平洋戦線ではカミカゼに苦しめられたり、
という海軍人生を送って、ついに引退の日を迎えます。

映画は彼の回想する走馬灯のようなその思い出として語られ、
実際に初の空母となった「ラングレー」とか、特攻機の攻撃で
半死半生になって帰還した空母「フランクリン」など、実在の艦船と
スコット少佐を絡め、戦友の未亡人と結婚したり、親友を戦闘で失うなど、
人間的な成長を横糸に紡ぎながら展開していきます。

この映画についてお話ししたおかげで、ずいぶんアメリカ空母史に詳しくなりました。



【海底軍艦】



ある日私は「地球防衛軍」というレジェンド映画を見ました。
そのパッケージに含まれていた広告で知ったこの映画。
概要を読むなり「なんだこれは!」と目が点になり、
次の瞬間にはAmazonをぽちっとしていました。

戦争が終わっても南方のどこかで海軍基地を維持し、そこで
空飛ぶ潜水艦、海底軍艦「豪天号」を発明し建造した天才軍人、神宮寺八郎大佐。
20年もの間、帝国海軍の復活だけを悲願に、存在し続けてきた
生霊のような海軍部隊と、地球征服を(っていうか間借り?)企む
海底人の国、ムウ帝国が、地球の覇権を巡って今激突する。

こんな面白いキワモノ映画なら、何としてでも皆様にご紹介せねば。

そんな気持ちでこれも満を持して取り上げたところ、意外なことに
リアルタイムでご存知の方が多く、知らんかったのはわたしだけ?
みたいなカルチャーショックでした。


「ファイナル・カウントダウン」で仮想戦記の歴史に少し言及しましたが、
それでいうと、この「海底軍艦」の原作は、当時早稲田の学生だった押川春浪で、
1900年の発表された「海底軍艦」は日本の仮想戦記の「はしり」であり、
SF的要素を用いた最初の架空戦記として、冒険物のジャンルでもありました。


この映画は、小説「海底軍艦」の豪天号のアイデアを生かしつつ、
幻の大陸「ムー」に「海底人」が生きており、かつ豪天号の運用を
海軍軍人の生き残りの一団が行っていたという破天荒の設定となっております。



戦争映画について数多く語ってきたわたしとしては、この映画の要所要所に
海軍にこだわった、妙に律儀な部分にウケずにはいられませんでした。


たとえば、楠見元海軍少将が託されて育てていた神宮寺大佐の愛娘をつけまわす、
神宮寺大佐の部下である一等海軍兵曹。
こいつが挙動不審で警察に捕まったとき、「8561」しか言わない、てんですよ。
どこの世界に自分のIDをしょっちゅうつぶやいている人間がいるのか。

しかも、その4桁を聞いた途端、楠見元少佐は「海軍の認識番号だろう」って・・。
コインロッカーの番号とか、電話の下4桁か、銀行の暗証番号って思いますよね、普通。

あ、このころはキャッシュディスペンサーもコインロッカーもなかったのか。

とにかく、映画そのもののインパクトより、読者の皆さんが皆ノリノリで
コメントを下さったので、それが大変楽しい連載でした。


ところで、ムウ帝国が殲滅した後、海底軍艦と神宮寺大佐以下、
豪天建武隊の皆さんはどうなったのか、わたしは気になります。



【日本の一番長い日】



我ながら時間がない中やっつけで描いた感が満載だと思う絵ですが、
実際本当に時間がない中、急いで絵と文章をアップしました。
たまたまいただいたチケットで観に行ったこの作品に、
いたく感動したからです。

歴史・戦争映画というのは多かれ少なかれ、政治的指向の色付けを逃れることはできません。
「アメリカン・スナイパー」のアメリカですらそうだったことを考えると、
自衛隊や軍隊をどうとらえるかが、右か左のメルクマールとなってしまっている感のある
今日の日本では、それも致し方ないことなのかなという気もします。

たとえば、本日回顧した「重臣と青年将校 陸海軍流血史」 などは、
史実にない架空の人物を入れ込んで、矛盾となるのも御構い無しに
安藤大尉の「意志」を現代基準で捏造し、映画の最後では、

「かかる悲惨事を繰り返さぬよう不断の努力を続けねばならない」

なんて、ごもっともな反戦論をぶってすましていましたし、
架空戦記の「海底軍艦」ですら、女を追いかけ回すしか能のない新聞記者に
「愛国心」を唾棄するものと言わせ、憲法9条をお題目のように唱えさせていました。

しかし、愛国心はダメなのに、地球の危機となれば海底軍艦は出動しなければならないし、
地球人でなければ皆殺しにしてもそれは仕方ない?
こんなダブルスタンダードが堂々と成立しているあたり、
映画製作者の、
WGPに洗脳された皮相な「平和論」が
しょせん露呈しているだけとしか見えませんでした。


その点、最近観た架空戦記映画「亡国のイージス」では、そんな国の抱えてきた
いびつな国家論が、宮津2佐の反乱によって現代の日本に露呈されるといった具合で、
戦争映画もついにこういうテーマを語る域に達したのか、と感無量でした。
(近々取り上げる予定なのでその予告です)

この「日本のいちばん長い日」は、日本が歩んだ長い戦後レジームのトンネルの先に、
ようやく光明の見えてきた昨今、生まれるべくして生まれてきた作品といえましょう。





 


ハイラインチェアの恐怖  空母「イントレピッド」

2015-12-29 | 軍艦

空母「イントレピッド」のハンガーデッキ展示の続きです。

甲板にある航空機は必ずしも艦載機でなく、中には外国軍のものもあったりして、
甲板は「航空機展示用のスペース」として活用されているだけということになりますが、
ハンガーデッキでは空母「イントレピッド」についての展示ばかりであることから、
ここにある航空機も実際に艦載されていた飛行機ばかりです。

その一つ、

Grumman イースタン・エアクラフト TBM 3E「アベンジャー」

アメリカという国と戦争した日本人にとってもっとも「敵」として名高いのは
なんといってもB-29爆撃機だと思うのですが、日本軍、ことに海軍から見た場合、
零戦を劣勢に追い込んだF6Fヘルキャットとそれにつづくこのアベンジャーが、
もっとも恐ろしい敵となったことは否定できないでしょう。

なんといっても、このアベンジャーによって戦艦「大和」「武蔵」、
そして空母「瑞鶴」も沈められることになったのですから。

当館のアベンジャーに付された説明にも

太平洋戦線でアベンジャーは「もっともパワフルな」戦艦「大和」と
「武蔵」を含む日本の軍艦を撃沈せしめる役割を担った

と心なしか誇らしげに記されています。


ところで、少し前にアップした「イントレピッドシリーズ」で、
ドーントレスとアベンジャーを間違えて説明を載せてしまい、
お節介船屋さんと部下その1(いまのところ一人ですが)に指摘され、

「だってイントレピッドのHPにアベンジャーの写真があって、ドーントレスがなかったんだもん。
きっとアベンジャーとドーントレスをどこかと交換したに違いない!」

と往生際悪く言い訳などしたのですが、よく考えたら、ハンガーデッキにあったんだった。
つまりわたし、アベンジャーを「イントレピッド」で見ていたのに、
このときにはすっかりと忘れ去っていたということなのです。



となりにターレットが展示されていました。

英語では「ボールターレット」と呼ぶようです。
このターレットが初めて搭載されたのが、TBM「アベンジャー」でした。

そもそも「ターレット」だけだと、英語ではたんなる「砲塔」という意味になります。



アベンジャーのターレット搭載例。
映画「メンフィス・ベル」の爆撃機B-17Fだと、ターレットが下部にあり、
背の低い乗組員がボールの中に入ってハッチを閉められていましたが、
これだとまあそう「怖い」(B-17のは怖かったらしい)ことはなさそうです。

アベンジャーの乗組員は機長と射手、そして爆撃手を兼任する無線士の三人が乗り込みました。

しかし、この写真を見て、大男の多いアメリカ人で、よくこんなボールに
入り込んでしかも長時間乗っていることができたなと思います。



座席部分をどうぞ。
たとえ飛行機の下部分にぶら下がるようについていなかったとしても、
ガラスのドームのような部分で敵と対峙するのは恐怖だったと思われます。



続いて椅子ばかりが幾つか並んだコーナー。

まずこの変哲もないただの椅子は

NAVY SIDE CHAIR

と言います。
「マルチファンクショナル・ライトウェイト」とされるこの椅子は、
海に浮かぶ一つの「シティ」の中で3000人以上の乗組員が生活していくために
必要な様々な仕事のために作られた艦内専用椅子。
主にレーダー、通信係、オペレーター、事務職などが使用していました。



航空機用のシートベルトのようなものが付いています。
まさかイジェクトシート?と思ったら、やはりそうでした。

イジェクトシートが最初に航空界に現れたのは1910年のこと。
その頃の飛行機はそれほど高速ではなかったので、何かあれば
パラシュートを背負って自分で飛び降りれば大丈夫でしたが、そのうち
飛行機の性能の向上に伴い、飛び降りるときに尾翼にぶつかる事故もあったため、
ゴムで(!)座席を弾き出す方式のものが生まれ、のちにドイツが圧縮空気式を発明しました。

射出座席を本格的に実用化したのは、イギリスのマーチン・ベーカー社。
ここにあるのがその射出座席で、ドイツが採用していた圧縮空気より力のある火薬式。

マーチン・ベーカー社がこの研究を始めたのは第二次世界大戦の最中で、製品として
完成させたのは、1946年のことです。
この座席はアメリカ軍の1950年代の戦闘機で使用されていたもので、射出するには
パイロットは、頭上からぶら下がっているリングを引っぱります。
ほとんどの場合、キャノピーは射出の際、吹き飛ばされ、座席の下のロケットモーターが
点火されると座席は射出されます。
そのあと、シートはパイロットの体から離れ、パイロットは落下傘で着陸するのです。

射出座席が必要になったのは、レシプロ機からジェット機になったとき、
速度によって受ける空気抵抗が大きすぎて自力で脱出できなくなったからです。
例えば68キロの体重のパイロットが射出の際に受けるGは1,360キロになります。 

なお、マーチン・ベーカー社は現在でも射出座席の代表的メーカーのひとつです。



まるで昔の映画館の椅子のようですが、これは


READY ROOM CHAIR

といって、搭乗員の控え室にあったものです。
この部屋にある椅子が、全艦内で一番豪華でリラックスできる仕様でした。
パイロットはどこの国の軍隊でもその特殊性からもっとも優遇されていたのです。

しかし控え室の椅子に関しては、元来空母の搭乗員は、比較的普通の、
居心地の悪い椅子に座っていたものだそうで、このようになったのは 
「エセックス」のデザイナーがラウンジルームを豪華に設計し、
「エセックス」級が同じ仕様を取り入れてからのことだそうです。

この椅子は第二次世界大戦中に「イントレピッド」の搭乗員が使用したものです。



歯医者さんの椅子みたい、と思ったらやっぱりそうでした。
3000人以上が乗り込んでいれば、歯に不具合ができる乗組員だって少なからずいます。
というわけで、ちゃんと艦内には医療スペースとは別に歯医者の診察所もありました。

呉の「大和ミュージアム」で最後の特攻作戦に、
歯科医が乗っていたという証言を見て、

「少尉候補生や少尉、年配の下士官は下ろしたのに、
どうしてわざわざその必要もない歯科医を乗せていく必要があったのだろう」

と不思議に思ったことを思い出しました。



これは見ただけでわかりますね。
え?わからない?これですよこれ。

 At Sea Hi-line transfer


あの、むちゃくちゃ怖いんですけど。
ケージごとぶらんぶらん揺れて、波とかかかりまくりなんですけど。 

wiki

もっと怖い写真がこれ。
ヘリコプターが使えない時、隣に来た船舶に移る時には、
昔からこの方法が普通に使われてきたそうですが、それにしても
乗っている人は怖いだろうなあ・・・。
まあ、何かあってもすぐに助けてもらえると思うけど、
シートベルトごと海に落ちたら助けに来るまでに死ぬよ?



1990年にフライトデッキを改装した時に一部切り取って展示してあります。
7.6cmの板の上に、5cmの鋼鉄板をレイヤーで重ねてあります。
一番下の木はマツ、その上はチークという素材です。(多分チークが固いからですね)

木製の甲板は補修しやすく取り替えやすいというメリットがありますが、
戦争も後半となると、主に特攻機の攻撃に備えて鋼鉄に変えられる部分が増えました。
先日お話した「カゼ体験ショー」を見ても思ったのですが、
本当にアメリカ軍にとって特攻隊の攻撃は悪夢以外の何物でもなかったのです。

"JOCKO"ってなんでしょうか。
Joseph  James "JOCKO" Clark は、第二次世界大戦中アメリカ海軍で
もっとも有名なエセックス級の司令官でした。

wiki


なぜインディアンの格好をしているかというと、彼がネイティブ・インディアン
(チェロキー族)の出身で、初めて海軍士官学校を卒業した人物だからです。

最初の艦隊勤務を「ヨークタウン」の副長から始めた彼は、ミッドウェー海戦、そして
マリアナ沖海戦(アメリカ側の呼称はフィリピン・シー・バトル)で
指揮を執り、アメリカ海軍の勝利に大きく寄与し、最終的には大将になりました。

この漫画には、東条英機のつもりらしい出っ歯のメガネ(東条英機は出っ歯ではない)
が、頭を抱えている横に立て札があり、右側には「TOKYO」、左には

BONINS (JOCKO JIMA )

とあります。
ジョッコーことクラークは、一連の小笠原諸島に対する攻撃の司令官として、
前任者のイマイチ煮え切らない攻撃とは違って高く評価を受けたそうですが、
このときクラークの下で戦った乗組員やパイロットから

「ジョッコー島開発公社」 (Jocko Jima Development Corporation)

と呼ばれていたそうです、

 BONINSというのはこのままえいごで検索していただくとわかりますが、
小笠原諸島のことを英名でこういうのです。

ピントが甘くてよく見えませんが、水平線の右手には
島を浮き輪のようにしているおっさんが「ターキー」を食べています。
そして、立て札には「MARIANAS 」(マリアナ)の文字が・・・・・。(不愉快)



続く。 


 


エピローグ〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-28 | 自衛隊

その後ミカさんから艦橋で撮ったわたしと「ぶんご」副長の写真をいただきました。
やっぱりプロの写真は何か違うなあ。


掃海隊の活動がとてもよくわかる訓練の動画を教えていただきましたのでご紹介します。
これを見ると、今回見てきたものがいろいろと実際に結びつく部分が多く、
大変理解を深めるのに役立ちましたので、皆様もぜひごらんください。


さて、下船の後、空港に到着したところまで一気に行ってしまいましたが、
もしかしたら皆さんの中には、わたしがこの航海中被った最大の災難、
船酔いの報告を
楽しみに(ってことはないかな)されていた方も、
まれにおられるかもわかりません。


今まで散々、この日の波が高かったこと、掃海艇が揺れたこと、
そしてそのため船酔いしたことを予告してきたわけですが、
いよいよ
そのことを恥を忍んで、お話する時がやってきたのです。


といって別に勿体をつけていたわけではなく、掃海隊について
あまりに見たこと驚いたことが多すぎて、最終回になるまで
こんなことを書くチャンスが訪れなかっただけなんですけどね。

それでは参りましょう。
少し時間を巻き戻して、「うらが」移乗が中止になったため急遽催された、

「えのしま」艦内ツァーの甲板部分が終わったところからです。




甲板からわれわれ一行は、中に入りました。

寝室です・・・・・寝室なのですが、何かが違う。
今まで見てきた護衛艦などのベッドルームとは・・・・まず雰囲気?
なんか心が和むような、アットホームな・・その原因は、色。

温かみのあるインテリアはほとんどが木製の家具。
まるで新入学を迎えるお子様の子供部屋みたいな感じなのです。

その理由はシンプルでした。

「家具もできるだけ木を使うのです」

そうか!これは掃海艇だった。
触雷しないように艦体に鉄分を用いないという掃海艇、外だけでなく
内側のインテリアにさえも木製を心がけているとは!



士官用の洗面所も、ドアは全て木製。
これがいかに違和感のある眺めであったことか。
水回りにあって水はねを考えると絶対に用いない物入れも木製。
掃海母艦ではステンレス製だった偉い人専用のお風呂も、ここでは
マンションのバスユニットのようなポリプロピレン製です。




ところで、わたし自身、この時点まで揺れが苦になるという感覚はまったくなく、
初めての物事を見聞きするのに一生懸命で、船酔いなど気配も感じていませんでした。

あとで、直前まであれだけ元気だったのに、なぜいきなりそうなったのか、
ということをわたしなりに思い出しつつ考察してみたのですが、その原因は
じつはこの時見学したものにあったのだと思わざるを得ません。

そう、洗面所の扉を開け放したトイレです。

人間の反射神経というのは不可思議なもので、これを見て、
そののち2〜3歩歩き出した途端、わたしは耳下腺に異変を感じました。
最後にこの感覚を味わったのは、もう何十年前のことでしょうか。

家族で車に乗って神鍋高原にスキーに行った時だから、あれは昭和・・・

とノスタルジーにふけっている場合ではありません。
とにかく、これは緊急を要する事態だと判断し、先を行く司令に

「あの。急に気分が悪くなってしまったのですが」

と声をかけると、司令は踵を返して洗面所のドアを開けてくれました。
今通り過ぎたばかりなんで、黙って一人で行ってもよかったんですけどね。


船酔いについては不肖エリス中尉、先達からの知恵を得ていました。
例の、あの、

「(自分の吐いたものを)飲み込め」

というあれです。
しかしながら、

「なるほど、これが飲み込めれば二度と船酔いせずにすむのか」

と頭でその言葉を反芻しながらも、内容物を反芻するような真似は(誰うま)
到底できませんでした。


(5分経過)


ドアを開けて外に出ると、医務担当の乗員が前に立っていて、
大丈夫ですかと声をかけてくれました。
司令はすぐさま船酔いが出たことをメディックに連絡して現場に急行させたのです。

その気配りに感謝しながらも、現金なぐらいスッキリとしていたわたしは
お礼を言って大丈夫だといいましたが、メディックは士官室で
休憩するようにいい、部屋まで連れて行ってくれました。

なお、途中で顔を出したミカさんによると、気になって部屋を覗いたら
顔色が悪くてしんどそうだったので大丈夫かなと思った、とのことです。

自分で思うよりずっと体の方が正直だったってことでしょうか。



ほどなく、お昼ご飯の用意ができました、と士官室に声がかかりました。

先ほどブリーフィングを受けたテーブルに人数分のトレイが並べられ、端のテーブルには
自分で好きなだけご飯とお味噌汁をよそっていただけることになっていました。

それがこれ。なんですが、あら不思議、まったく食欲が湧いてこないの。
隣からはミカさんの

「おいしい!」

という言葉が一度ならず聞こえてきて、ああそうなのかそうなんだろうなと思いつつ、
ただお皿とにらめっこしているうちに、時間がただ過ぎて行きました。

そのうち、お皿を片付ける人が来てしまったので、恐縮しながら、

「すみません。食べられなくて・・・・あの、船に酔ってしまいまして」

と情けない声を出すと、若い隊員さんは、優しく

「気にしないでください。わたしたちも皆そうでした」

と慰めてくれました。(´;ω;`) ぶわっ

後から別の参加者(一般人のような男性)に聞いたところによると、
前回の日向灘訓練の時には、今日より海が荒れ、ガブってしまったせいで、
報道陣の半分が船酔いでダウンした、とのことです。

いかにこの季節の日向灘が荒れるかということですが、
それでもこの日はかなりマシな方だったということです。

にもかかわらず船酔いするわたしってどうよ、という説もありますが、
そこはそれ、視覚にもたやすく刺激される程度には繊細なのである。
・・・と厚かましくも言い切っておきます。

 
船酔いは自衛官であっても誰もが通る道で、しかも強い弱いも個人差があるそうです。
最近読んだ本の中では、「亡国のイージス」で、反乱を起こす護衛艦艦長、
宮津は若い時から揺れに弱く、いつまでたってもポケットの「袋」に
手が伸びていた、ということですが、同じ年頃の海曹に(これが後年宮津の反乱に
たった一人で立ち向かう先任海曹の仙石の若い時)ある日、
どうしたら酔わなくなるのか、と尋ねると、海曹はケロリとして 

「そりゃ簡単です。船に乗らなきゃいいんすよ」

と答えた、というエピソードがありました。

また、同じ小説内で、FTGを装って護衛艦に乗り込んできた某国工作員たちが
皆すぐに酔って、しかも「袋を持っていない、トイレの場所も知らない」
ので、たちまち海士たちの間に不信感を持たれる、という設定でした。

船を描いて船酔いを語らずにはリアリティは出せないってことでしょうか。


余談ですが、海外派遣で陸自隊員を運んだ時に皆が全滅してあたかも
「ガス室状態だった」

という話をしていたのは確か護衛艦「いせ」のクルーからでした。
そのときもちらっと聞いたのですが、「ぶんご」を見学した時に、
海に落ちた陸自隊員が出たのは輸送艦「おおすみ」からだったと改めて知りました。


「甲板をランニングしていて、よそ見してたので落ちたらしいです」

甲板がどこまでも続いていると思ってまっすぐ走って行ってしまったんですね・・。

そして、 艦内には「人が海に落ちた、実際」の放送が響き渡り、

救助のための大騒動が展開されたという話ですが、その噂はその日のうちに
全軍布告の上2階級特進、じゃなくて、全海自に伝わったそうでございます。


海自の隊員たちが、この陸自隊員のことをどんな風に言っていたかも
このとき聞かなかったわけではありませんが、関係ないのでここでは伏せておきます。



さて、1時間高速を運転して空港に到着し、飛行機を待っていたら
ラウンジのテレビが地元放送局の夕方のニュース番組を放映していました。



おお、これは今日メディアツァーに参加していた、しかもあの、
妙な質問をした記者のいるテレビ局ではないか。
なんというか、嫌な予感にワクワクしながらカメラを構え(笑)、
どんなニュースに仕立て上げられたのかを注意深く見守りました。

画面では訓練の概要をアナウンサーが淡々と告げています。




S-10機雷掃討具を「ロボット」と言ってしまうあたりがいかにも
素人っぽい、と意地悪く思ってしまうわたしであった。
それはどうでもいいのですが、画面の右上にニュース開始と同時に

「安保法制成立後初めて」 

と書いてあるのが 期待を裏切らないというかなんというか。



なかなか絵としてはいい選択をしていると思うんですがね。



例のアナウンサーは、この様子を映し出している画面に、声だけで
補足的な状況説明を挿入していました。
そして、ニュースの締めは、

「さきの国会で成立した安全保障法案のもと、
集団的自衛権を行使して
自衛隊に海外での機雷処理を認めるかどうかが議論されています」

ということでした。
確かに、そういう議論はありましたよ。

まるでペルシャ湾の掃海に、自衛隊が内外の要望に応じる形で参加したことなど、
歴史には一切なかったかのような気すらしてくるのですが、
政府としては、掃海による国際貢献を「集団的自衛権の範囲」と定義したわけです。

我が国のシーレーンを守るために必要な掃海が、なぜ「集団的自衛権の範囲」なのか。
実のところわたしはこの「言い訳」を内心歯がゆく思っているのです。

もちろんそれに対し、 読売新聞もその社説上で、

日本船だけを標的に敷設された場合は、個別的自衛権の適用もあり得るが、
機雷は不特定多数の国を対象とするのが通例で、そんな事態は非現実的だ。

と、もっともなことを言っております。
この件に関しては、わたしの考えは読売新聞側だな。

だいたい、個別的自衛権でシーレーンの掃海が対応できないというのなら、
あのペルシャ湾掃海の時は一体なんだったんだ、ってことになりませんか?

つまり、政府は、集団的自衛権行使の正当性の補強として「文句のつけようのない」、
そして過去にも実績があり、世界的にも評価の高い海自の掃海活動を
利用しているんじゃないか、と思わざるを得ないわけです。

首相はこの件に関し、

「日本にとって、海外からの石油や食料は死活的に重要だ。
(だから)我が国は掃海活動に正面から向き合っていく必要があり、
石油の輸送路である中東・ホルムズ海峡での機雷の処理に自衛隊も参加すべきだ」

と述べており、これは自明の理というより、それこそ

「集団的自衛権関係なくね?」

とわたしとしてはツッコミを入れたくなってしまうわけです。
集団的自衛権の行使は、独立国に与えられた権利であり相互義務です。
どこかの馬鹿パヨクが言っているように行使したら戦争になる、
なんてことは断じてなく、 行使することは国際社会の一員として当然のことで、
いくら国内の野党やらマスコミやら左翼やらがうるさいからといって、
何も掃海隊をその正当性に利用することはないと思うんですけどねえ?

国際貢献と集団的自衛権の行使は、根はいっしょであっても所詮別の話です。
海自掃海隊の力が国際社会に求められているのならば、その一員として
日本は堂々と掃海隊を派遣し、国としてその労に対し、名誉で報うべきなのです。

日頃継子のような日陰の扱いをしておいて、こんな時だけ
「その実力が期待されているから」「平和維持活動だから」と持ち上げたり、
定期訓練を、あたかも「そのための準備」でもあるかのように印象操作したり。

つまりわたしが何よりも声を大にして言いたいことは、政府もマスコミも、
どちらも自衛隊を己の主張のためのツールにするな!ってことなのです。

政治に関与せず、危険にあっても我が身を顧みることなく、
毎日毎日いざという時のための訓練を、弛まず倦まず続けているプロ集団を
どのように動かすのも、それは政治家たちの仕事であり権利の範疇です。
だからこそそのために、我々は、彼らを選挙で選ぶわけです。

自衛隊を直接動かすのは国民であって、政治家はマニピュレートするだけともいえます。

それならば当然のこととして、彼らには大義と結果に対する賞賛が与えられるべきです。
国のために戦う者に名誉も与えられなくて、何が国民の代表でしょうか。
 

 
というわけで、掃海隊体験を長らく語ってきたわけですが、
この1日半は、わたしがこの「最後の船乗り」たちとその活動に接して
驚きを感じるとともに敬意を払うに至る、十分な認識の時間でした。

貴重な機会を与えていただいた紹介者の方、掃海隊群司令、
そして夜半にもかかわらず艦内を案内してくださった「ぶんご」副長、
クルーの皆さん、 水先案内をしてくださったミカさん。
そしてメールでご指導ご鞭撻をいただいた掃海隊関係者の方々、
皆様すべてにこの場をお借りして心よりのお礼を申し上げるしだいです。

ありがとうございました。


終わり


 


「えのしま」出航~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-26 | 自衛隊

というわけで、「えのしま」は朝出航した岸壁に帰ってきました。
その途端、一足先に隣にいた「つしま」が出航していくのを見届けたのですが、
実は「えのしま」はこれで訓練が終わったというわけではなかったのです。
参加者の一人が2時半に帰港したいという要望を述べたためそれに従って
メディアと見学者の一行を降ろすために一旦寄港しただけだったのでした。



岸壁にかけられたラッタルから参加者だけが下船することになりました。
早くなったとはいえ、朝7時から約7時間半乗り続けた掃海艇。

このわずかな時間の間に初めて目の当たりにした訓練と垣間見た艦内生活。
わずかな人数で機雷というわかりやすい「敵」に対峙するその「戦い方」は、
護衛艦とは違う少人数ならではの緊密な連携の賜物と思われました。

現に掃海艇について書かれたものは必ず、「チームワーク」「協力」
という文字でその任務の特性を言い表しています。
しかも理想は相互にカバーしあえるだけの「余力」を持ち合わせることで、
その域に達して初めて「強い船」ということができるというのです。

一つの掃海艇は3つの分隊に分けられ、

第1分隊・・機雷・掃海・水測・水中処分

第2分隊・・航海・通信・電測・電子整備・補給・給養

第3分隊・・ディーゼル・電気・応急工作

となります。
しかしこれはおおまかなもので、掃海隊司令の言うところの「自己完結」、
つまり自活能力を発揮するには、状況に応じて配置もフレキシブルになる必要があります。

例えば第1分隊の「掃海」という部署についていうと、
これは護衛艦で言うところの「砲雷科」で、ソーナー員や、
掃海艇独特の水中処分員(EOD)もここの配置になります。

分隊のトップには5人いる幹部のうちの「掃海長」が立ち、
現場のリーダーとなるのは海曹長で、掃海・掃討の任務時には
この分隊の14名ほどが作業を行うのですが、いざそのときになると、
人数が足りなくなるので、そんな時には他の分隊から応援を頼むのです。

休養員だって、ご飯を作って後片づけを済ませたら仕事はなし、ではなく、
戦闘モードのときには伝令に立つこともあるのだそうです。



他の自衛艦と同じく、掃海艇もまた「作業部署」「戦闘部署」「緊急部署」
といった大きな3つの状況による部署で分けられ、
たとえば「作業部署」一つとっても、その中で「出入港モード」「ハイラインモード」
「航行モード」など、細かい状況設定が行われています。

「うらが」との接舷作業で、ラッタルを接続するのに苦労していたときには
「ハイラインモード」であり「入港モード」であったということでしょうか。

とにかく、しばしの航海を終え、陸に降りる我々を、「えのしま」艇長が
自ら舷門に立って見送りをしてくれています。



全員が降りるのを見計らって、すぐさま出航作業。
せっかく岸壁に入港したのに、全く陸に降りないまま行ってしまうの?



他の船がいないので、出航作業を陸で支援するのは広報の自衛官や
地本の陸自隊員など。
adidasの人はどなたかしら。



ふと港の出口に目をやると、先ほど出航した「つしま」がもうこんなに小さくなりました。



今、山の麓にポツンと「つしま」の影が見えているところから港外です。



もやいを外す作業中。
艇長はすでに上に上がっています。



この程度の作業は掃海艇においてはヘルメットは着用しません。



このインカムを持っている隊員の帽子には、なんと、
「EOD」(水中処分員)と書いてあります。
左の人のサングラスはいかにもなので、こちらがEODというのはわかりますが、
水中処分員が出航のときにはインカムを使って通信を行う、これが掃海艇?

 

どうもこの二人とも地本の人ですね。

 

地本二人組、もやい外し中。
防眩物が引き上げられ、船体の横に穿たれた穴から水が出てきています。
これは一体何の水?



岸壁に置かれた三脚は、地元紙のカメラマンのもの。
艇を降りる直前、一生懸命お仕事していた同じ地元紙の若い女性記者が
わたしたちに話しかけてきました。

「どこからこられたんですか?」

どうも彼女は、同新聞の「当地に訪れた他府県在住の人が宮崎の魅力を語る」
みたいなコーナーの担当をしていたようで、掃海艇の取材ついでに
そのインタビュー対象にわたしたちに目をつけたのでした(笑)

わたしはもちろん遠慮して、ミカさんがインタビューを受けました。
彼女は宮崎弁がしゃべれるくらい、この地には精通しています。

というわけで、この二人は「えのしま」が出航してしまうまで残っていましたが、
他のメディアの人たちは上陸するなり消えてこのときには影も形もありません。



大活躍だった「えのしまくん」の愛らしい横顔を見せながら、
もやいの外れた「えのしま」が岸壁を離れます。
今回はバウスラスターについて実物を見、多少詳しくなったのも収穫の一つ。



記者のお嬢さんも、見送りの自衛官と一緒に並んで写真を撮ってます。
彼女にはいい記事を書いていただきたいなあ・・・。

そして10年後にも今日の熱意を失わないで仕事していてほしい。
決して「デスクの意向」がわたしの意向、と思い込んで
最初から結論ありきの記事の裏付けにインタビューを利用するような
そんな記者にはなってほしく・・・・・おっと(笑)



ちょうどこのとき、艦内放送で「帽振れ!」といったのが聞こえました。



おお!慣習だから当たり前といえばあたりまえなんだけど、
たった数人の岸壁の見送りに向かってクルーが帽振れをしてくれている!



サングラスをしているのはEODの隊員ではないかしら。
ちなみに、一つの掃海艇のEODチームは4人くらいのはずです。 

わたしの(答えの出ない)予想によると、左端と右端の4人がEOD。




艦尾に立っている一人も帽振れ。



艦橋で帽振れする一団の中に、艇長と掃海隊司令もいますよ。

で、わたしもちょうど荷物の中に帽子を持っていたので振りました!
つまり、わたしの生涯で初めての帽振れは「えのしま」出航です。

ちなみに、この帽子ですが、ホテルから持ってきたお茶の蓋がゆるくて、
その下にあったためほとんどミニボトル1本分のお茶を吸収してしまい、
この日1日全く用をなさなかったのですが、ここに来て初めて役に立ちました。



乗っていると決してそうでもないですが、こうやって陸から見ると、
やはり掃海艇というのは小さなものだなあと思います。
しかし、掃海艇の果たす役割はその小さな艦体の割に大きなもので、
しかもその任務というのは特殊であり、荒々しくもあり、
その分「海のプロ」、「船乗り」という言葉がぴったりのクルーたちの醸し出す
濃い緊張感で満たされているようなぴりりと引き締まった空気で満たされていました。



少人数ゆえに掃海艇の現場は一人に任される仕事があまりにも多く、
その分負担も大きくなって、「向いていない」者はたちまち淘汰されそうです。

海自隊員の間でも、掃海隊の仕事はキツいというのが定評であり、
配置を避ける者もいるのだそうです。
しかしそれだけに、志望してここにやって来る者たちは、
自分のやりたいことがはっきりと見通せている、つまり「覚悟がある」
ということなのではないかという気がします。
ゆえに、淘汰される割合は他の艦艇より少ないのではないか、
とわたしは思うのですが如何でしょうか。



「えのしま」が小さくなり、やがて港を出て行き姿を消しました。



「えのしま」の泊まっていた岸壁にも・・・・、



「つしま」のいた岸壁にも、ダズルグレーの艦艇は一隻もいません。

ところで、わたしたちが帰ってきたとき、「つしま」の見送りをしていたのは
どう見ても掃海艇の乗組員だったわけですが、彼らは一体どこの隊員だったの?
岸壁に寄せる前だったので、「えのしま」の隊員でもないはずなのに・・。



掃海艇たちが出て行ったあと、岸壁にはなぜか燦々と陽が照りました。
「えのしま」が出るときには雲が多く、ミカさんが「太陽出てほしい!」
と恨めしそうに言っていたくらいだったのに。



港を去る前に最後の一枚。
このあとわたしたちは日向駅前でご飯を食べました。
わたしはほとんど朝からおにぎり一個(しかもリバース済み)だったので、
空腹のあまり気分がまた悪くなるくらいでしたが、異常に値段のお安い
中華料理屋で、バンバンジーサラダと麻婆豆腐を取り、ようやく人心地ついて、
それから1時間運転して空港に到着しました。


続く。


 


「つしま」出航~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-25 | 自衛隊

さて、本日予定されていた「えのしま」における訓練見学は
恙無く(厳密に言うとないわけではなかったんですが)終わりました。

参加者の一部ができるだけ早く帰港をしたいと注文を出したため、

本来4時の帰港予定が大幅に繰り上げられて2時半になったのは残念でしたが、
海上で接舷した「うらが」に乗り移りヘリの着発艦や艦内を見学する、
という当初の予定が全てキャンセルされてしまったからには、
ヘロキャスティングを繰り返し見学するくらいしかすることはなく、
これは仕方がないことであったとしかいえません。



帰路、行きには気付かなかった洞窟を見ました。



あまり綺麗にくりぬかれているので、とても自然にできたものとは思えません。
中は洞窟が奥まで続いているようなので、もしかしたら防空壕として
自然の岩を爆破して作られたのかとも思われますが、どうなのでしょうか。



艇長はずっと艇長席。
ホームスピードと言いますが、気のせいでなく朝より早く港に近づいているようです。



先ほどと同じメンバーですが、訓練が終わると皆再び作業着とジャンパーに着替え。
いつの間にか司令席には掃海隊司令が座っています。
なんとも言えないまったりした空気が流れ、わたしは艦橋と士官室を行ったり来たり。

今朝出航した港が士官室のモニターで近づいてきたことがわかり、
入港の様子を取るために甲板に出てみました。



謎の構造発見。
赤い旗とか緑十字の旗とかがありますが、何にするものかわかりません。



 「ASAHI OCEAN」という第一中央汽船のばら積み貨物船が停泊していました。
コンテナを使わないで、素材をそのまま運搬する船、という定義なので、
「ばら積み船」というより、「BULK CAREER」の方がわたしにはピンときます。

以前もお話ししましたが、アメリカの幼稚園の整理引き出しなどには、
「bulk」と書いていればバラバラな小物が収納されているものでした。
スーパーマーケットで「bulk」は、粉やお米、お菓子、シリアル、オイルにビネガー、
紅茶はもちろん洗剤の類まで量り売りしているのをこう言います。
(ちょっとしか食材が必要でない短期滞在には本当に便利)




ここは地図によると「日向製鋼所」ですので、もしかしたら「アサヒオーシャン」は
鉄鋼石を運んできたのでしょうか。
4基の大きなクレーンがピタリと同じ向きに揃って綺麗です。



この穏やかな海面を観よ。

港内にはいると、とりあえずうねりは無くなります。
相変わらず風は強く、外にいると辛いのは変わりませんでしたが。



というわけで、今朝出航した同じ細島岸壁に帰ってきました。
すると、一足先に訓練を終えたのか、今朝は訓練に出ていないのか、
「つしま」が朝と同じ位置に停泊しています。



「つしま」艦橋には、艇長ら操舵室の面々が立ってお出迎え。



手を振っているお二人をアップ。
左の1佐は、この出で立ちといい、雰囲気といい、掃海隊らしくないというか・・。

ここで大胆な予想をしてみますが、この1佐は横須賀に配備されている
海上訓練指導隊群(JMSDF Fleet Training Command) 、FTGの司令、あるいは
主席幕僚(多分こちら)ではないでしょうか。

ミカさんと確か「ぶんご」を見学している時に、今回の訓練に横須賀から
そのFTGが来ている、と聞きました。
ちょうどゴミのチェックをしていた黒い服の集団がそうです。

ちなみにこの「戦術競技」の様子が、自衛隊のHPに掲載されていました。

機雷艦艇戦術競技

NAVCOMEX 303MODで、信号旗を画像の手元がぶれるくらい
素早く掲揚している様子や、献立チェックしている様子がみられます。


で、このFTGですが、彼らは訓練終了後、このまま「つしま」に乗って横須賀まで帰るのでは?
この予想、かなり自信があるんですけど、誰か正解をご存じないでしょうか。



「つしま」を見ているうちにも、わが「えのしま」の入港作業が行われています。
雲ひとつない青空に強い風によってなびく旭日旗と司令官旗が美しい。



朝、おとなりの「ちちじま」が停泊していた岸壁に今から接岸します。
「サンドレット」という言葉を覚えたばかりのわたしとしては、
ここでサンドレットの使用状況を写真で確かめることができて嬉しいです。

「えのしま」から岸壁に向かって投げられたサンドレットの錘
(投げやすいようにアイスクリームコーンのような形をしている)に向かって
脱兎のごとく駆け寄る、他の掃海艇から派遣されてきた乗組員。

こういう時に、入港作業をお互いに補完しあうのが艦隊勤務です。

この時に、司令と話をしていて、

「もし岸壁に誰もいなかったらどうするんですか」

と聞くと、

「そのときは泳がせてでもなんとか岸壁にいかせます」

とおっしゃるので、そうかーやっぱり大変なんだなーと納得していると、

「というのは冗談ですが(冗談だったんかい)、船を出すこともあります。
掃海艇というのは自己完結できるんですよ。
スラスターが付いているので曳船なしで着岸できますしね」



サンドレットの先を確保したら、もやい杭まで持っていきます。



この画像で気づくのですが、サンドレットの部分の索は大変細く、
右の隊員が扱っている部分はそれより太いことです。



さあ、ここでこの二人の大立ち回りが始まりました!
こうやって見ると岸壁の上でスキップしているようにしか見えませんが、
索を持ってできるだけ遠くに走り、杭とつなぐ部分まで索を引っ張っているのです。



「まだ走るんですかああ!」「まだだっ!まだ終わらん!」



躍動感あるこの走りをアップでお届けします。



というわけで、やっとのことで太いもやいになりました。
岸壁には「えのしま」のスラスターの立てる白い波が当たっています。
艦体が岸壁に近づくと、岸壁の高さを超えて波が跳ね上がったくらいです。



無事に輪っかの先を確保して舫杭に繋留完了!



と思ったら、岸壁の上をダッシュだ!

お節介船屋さんのコメントに、掃海艇のスラスターは「水噴射式」とありましたが、
このまるでジェットバスのような波を見ていると納得させられますね。



こんどは後ろの繋留をするために走って行く二人。
人数が少ないと大変だー。



いつの間にか三つ目の杭にも舫がかけられています。
後ろでは一人で隊員が作業をしていたようです。



「えのしま」甲板後方越しに「つしま」を望む。



と思ったら、こちらでは「つしま」が出港を行うようです。
今まで「えのしま」の入港を支援していた二人が「つしま」の二人と合流して・・・、



岸壁にきちんと並んでお見送りを行います。
こういう、海軍時代からの慣習と思われる礼式を目にすると嬉しくなります。


で、ところでこの隊員たちは一体どこの船の人?




おっと、「つしま」は掃海「艦」なので、曳船が必要だ!

何回か前のエントリで「意味なくね?」と不用意な一言を出してしまいましたが、
それも、この光景を見ながら、司令が、

「スラスターの大きさが掃海艦は掃海艇と同じものが一つ付いているだけなので、
掃海艦の出入港には曳船が必要になってきます」

とおっしゃったことからでした。
どうせなら掃海艦も自己完結できるように、もう一つスラスターつけてあげようよ!
と思ったのですが、やっぱりご予算とかの関係でしょうか。



いくら掃海艇より大きいといっても、掃海艦。
こうしてみると曳船より一回り大きいだけという感じです。
頑張れば曳船なしで自己完結できそうに見えるけどなあ。




「つしま」防眩物収納中。



これから横須賀に帰れるのだといいけど、まだ訓練終了まで4~5日あったので、
訓練に行くところかもしれません。みなさん頑張って下さいー。



「えのしま」が入港するのとまさに「入れ替わり」という感じで出港していく「つしま」。



そしてお仕事を終えた曳船の「ほそしま」さんもお疲れさまでした。
まあ「ぶんご」や「うらが」を引っ張るのに比べれば楽勝だったと思いますが。


というわけで、「えのしま」が着岸を済ませました。
わたしたちは控え室の荷物をピックアップして下船となります。


続く。 


 


ま・た・も・や・ヘロキャス見学~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-24 | 自衛隊


「うらが」に乗り移ることができなかったため、わたしたちの休憩所として
「えのしま」は士官室を提供してくれました。




掃海艇の艇内らしく、木製で作ることが可能な家具類は全てこの通り。
木の温もりを感じさせるインテリアが気持ちを和ませます。

壁に掲示されている自衛官命名書の命名人は北沢俊美元防衛相。
「えのしま」が就役したのは忘れもしない前々回の観艦式の年、つまり3年前。
そのときの観閲官は、民主党党首野田佳彦元総理でした。

民主党の防衛大臣が、軒並み目も当てられないくらい酷かったのはご承知の通りです。
その中で北沢防衛相だけは、なぜか自衛隊の内部で評価されていた(らしい)
ことをわたしはちょっと聞き及んだのですが、未だにその理由はわかりません。

誰が命名しようと自衛艦にはなんの関係もないこととはいえ、
巡り合わせで田中真紀夫に命名された船よりは(実際にあったかどうか知りませんが)
「えのしま」にとっては、北沢防衛大臣のときでラッキーだったのかも、と思いました。



東海道五十三次の「えのしま」。
江ノ島に渡るあの連絡道のようなのは人工ではなかったんですね。
当時も地続きで人が歩いて渡っていた様子が描かれています。
大昔は引き潮のときだけトンボロ現象によって形成された砂嘴が現れ、
歩いて渡ることができたそうですが、あるときから海上に出て現在に至るということです。
 

この部屋は掃海艇の船室らしく適度に手狭で暖かく、
居心地もよかったので、テーブルでうたた寝をする人もいました。
わたしは船酔いの後何も口にできなかった昼食が終わり、ここに来て
少し休憩をしていましたが、午後からの訓練見学が始まると聞いて上に上がりました。


さて、「うらが」と「えのしま」の接舷がうねりが強すぎて中止になったあと、
午後にどうするのかを考えます、と言った掃海隊司令に向かって、
艇内ツァーを始める前に、一人の男性(非報道系)が、

「ヘロキャスティングをもう少し近くで見られないのか」

とリクエストをしているのをわたしは耳にしました。
確かに、この「えのしま」から見ることのできるものは限られています。

「しかし、あれ以上近くに寄ることは・・・できないんですよ」

司令は渋りましたが、軽い押し問答の末、

「わかりました。なんとかするように言ってみます」

と結構な決心を思わせる口調でそう請けあいました。
わたしは、本来報道に見せるのが目的ではない訓練に
参加させてもらっただけで十分とするべきと思っていましたので、
この注文にはいささか驚きを禁じ得ませんでした。

わたし自身もそうじゃないかと言われれば返す言葉もありませんが、
報道のためのツァーに紛れ込んでいるからには、ただの一般人ではなく、
おそらく自衛隊的には無下に扱えないような紹介者がいるはずです。
この初老の男性は、例年そういった伝手でこの訓練に毎年参加しているようでした。

しかもこの男性、自分の帰る時間が何時だから何時に帰港してほしい、
などと艦の行動まで指図しておられたくらいなので、きっと、
よっぽど偉い人の紹介で参加していたのに違いありません(棒)



艦橋に上がったとき、ちょうど「うらが」にヘリが着艦し、
中から水中処分員が降りて歩いているシーンに遭遇しました。

全員がウェットスーツを着たままで荷物を持っています。
バディ二人ずつの3組のグループであろうかと思われました。



甲板の水中処分員の皆さんをアップ。
もし「うらが」との接舷が滞りなく行われていたら、わたしたちは
「うらが」の応接室でカレーを食べ(多分ですけど)終わり、
この着艦をどこからになるかはわかりませんが艦から見学していたはずです。



完全に彼らが甲板から姿を消すと、今度は代わりののEODが。



腰のベルトは赤、背中に「海上自衛隊」の文字が読み取れます。



彼らが乗り込むと、ヘリの降着装置を外すために8名の隊員がお仕事。



外し終わって退避。
この間ローターは回りっぱなしなのですが、
ローター稼働中のヘリコプターの真下を歩く隊員は、例外なく
首をすくめるようになってしまうらしいのに気がつきました。

まっすぐしゃんと頭を掲げて歩いたって全く支障はないのに、
人間ってどうしてもそうなってしまうんですね。
わたしはヘリコプターに乗ったことはありませんが、もし
そんなことになればきっと首を竦めてしまうんだろうと思います。



そして発艦。
この写真ですが、シャッタースピードを80分の1で撮ってみました。
250分の1がヘリを撮るときの「ぎりぎり安全ライン」と言われていますが、
このときには「(こちらの)船が止まる瞬間」だったのか(笑)このスピードで
奇跡的にブレないで撮ることができました。ハラショー。




発艦したヘリはまたしても後ろにじわじわと下がっていき、
ヘリの起こすダウンウォッシュが海面に白い霧を作ります。



EODを乗せ、また再び訓練海域に向かうMHー53E。
あれ?気のせいかなんだかさっきより写真が撮りやすいぞ。

ここでわたしは、「えのしま」が、たかが一参加者のリクエストに答えて、
先ほどの訓練見学のときより、かなり近くに艇を寄せていることに気づいたのです。

無茶しやがって(AA自粛)

というか、素人考えにすぎませんが、人が生身で海に潜るというこの訓練には、
ただでさえ頭上にヘリがホバリングしてそれだけでも十分危険なのだから、
危険因子は少ないに越したことはないのです。

理論的に近くに艇を寄せることくらい、いくらでもできるに違いありません。
ただ、何かあったらそのときどうするの、ってことですよね。

だから、司令だってたかが見学者のいうことなんか無視していいのよ、
とわたしがもし司令より偉ければ言ってあげたいくらいでしたが、
「うらが」に接舷できなかったことを済まなく思ったためか、
「えのしま」はおそらくいつもの規定線よりも内側に入ってくれたのです。

その気遣いに、その配慮に少しは感謝しろよ?

とわたしは誰にともなく心の中で語気を荒げるのでした(修辞的表現)



訓練海域がどれだけ近いかというと、はい、これくらいです。



そして海面へと近づいていきます。
EODがラペリングしている間にホバリングし続けるのも、
ヘリパイロットにすれば決して簡単なことではないに違いありません。
特にここは風を遮るものが全くない洋上、しかも風の吹き荒れる冬の日向灘です。



ホバリング中のヘリから降下用のロープが降りてきました。

そういえば急に思い出したんですが、昔金魚を飼っていた時ちょうどこんな(略)



ロープは伸びて海面にちょうど達します。
ヘリのパイロットはロープが達したかどうか見えていないはずですが、
どうやってこれを知るのでしょうか。

先ほどと全く同じような位置に、「何かあった時のために」
待機しているEODをのせたディンギーの影が見えています。



ヘリはさらに高度を落とし、海面に近づきます。



EODが降下。
気のせいか、この隊員の降下する高度は極端に低いように思えます。

降下の救助では降下する者よりも、実はヘリのパイロットの方が大変だと思います。



二人の水中処分員が相次いで降下し、その後引き上げです。

ところでこの引き上げのためのホイストはヘリの天井から下がっているのでしょうか。
そう思って内部画像を検索してみたのですが、
それらしいのがこの模型製作者のHPしかありませんでした(笑)

シコルスキー MH-53E 掃海ヘリコプター



 
引き上げられる瞬間。
もしかしたら手を伸ばしている?



さすがは30-700m望遠レンズ、 スポンソンの鋲とか、
機体に書かれている文字まで読めてしまうという・・・。

ちなみにこのレンズですが、入間の航空祭の時にレンズ交換していて
見事にエプロンに膝から落とした結果、胴を動かすと異音がするようになりました。
この時には修理に出していると間に合わなかったのでそのまま使用しています。

帰って、潮風に当たり続けたレンズとカメラ本体を掃除に出すついでに
ちゃんと修理してもらったら、なんと部品交換されて帰って来ました。
外側の筒を取り替えたため、見た目がまっさらになったのは嬉しいですが、
レンズ価格の4分の1の修理代がかかってしまい、カード会社に泣きついて
なんとか傷害保険を申請するところまでこぎつけたところです。

って全く関係なかったですね。 



この降下と引き上げが終わった途端、さっさと「えのしま」は移動を始めました。
まるで「踵を返す」といった感じで訓練海面を離れ、接舷しようとしていたのとは逆の、
「うらがのうらがわ」(誰うま)を見ながらすごいスピードで帰路につきます。

よっぽど帰港を急ぐと見えます。

もしかしたら、訓練中抜け出してまた帰ってくるつもり?




ふと後ろを振り返ると、訓練海面では二組目のEODが吊りあげられていました。
これが、この日わたしの見た、最後の訓練中の光景となりました。


続く。

 

 


可搬式減圧室とダメコンの角材~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-23 | 自衛隊

掃海隊司令による臨時艦内ツァーが続いております。

掃海隊の戦場たる後甲板にまず出て、そこにある掃海具、掃討具、
そしてそれを運ぶための様々な物々しい道具の数々を見学したわたしたちは、
機雷掃討具S-10の置いてある左舷側を艦首に向かって歩いて行きました。



そこには、掃海母艦「うらが」でみたダイバーの減圧症を治す、
減圧室の小型バージョンが設置されていました。

「うらが」の減圧室の説明の時にもお話ししましたが、この機械は
減圧症を治すためにカプセル内の圧力を高めるためのもので、
「減圧する部屋」ではなく「減圧症を治すために内部を高圧にする」ものです。

人間の体は1気圧に対応するようにできていて、例えば低気圧が近づいただけで
体の調子が悪くなったり、古傷が痛くなったりすることがあります。
これは体が「不調を訴えている」わけです。

生身の人間が潜る範囲でいうと、10mごとにだいたい1気圧かかりますから、
30mくらい潜ると、じつは相当な圧力がかかっているのですが、人間の体は
破れない水袋みたいなものなので、ある程度までは圧力に耐えます。
ただ、耳の中の空間は圧力の影響を受けるので、耳抜きをしないとえらいことになります。

潜って行く時にはいいのですが、浮上してくる時が問題です。
急激に気圧が変わると、これは前にも説明しましたが、潜水病(ケーソン病)といって、
呼吸によって血液内に取り込まれた気泡が消えなくなってしまうのです。


余談ですが、わたしは一度か二度、あの伊33号の悲劇について書いたことがあります。
事故で海底に沈んだ伊33潜の生存者は二人いました。
何年も艦内の一部に乗員の屍体が腐敗の進行しない状態で残されていて、
戦後その艦体が引き揚げられたときに、駆けつけて作業を見ていた生存者が、
若い面影のままのかつての戦友の死骸と対面し、
「おい起きろ、総員起こしだ」といった、というあの事件です。

助かった二人のいたのは、艦長もいた中央艦橋の部分でした。
どうせこのまま時間が過ぎ去ったら全員死ぬのは間違いない、それなら
一か八か脱出できるかどうか賭けてみようではないか、ということになり、
ハッチが開けられ、その区画の乗員たちが海中に脱出したのです。

艦内の椅子に座ったまま皆を見送ることを決めた艦長をのぞき、
そのコンパートメントのほぼ全員が海底33m(!)から海中に出ました。

この深さは、ダイバーがアクアラングをつけて潜水できるほぼ限界です。

そして結局この二人を除いて全員が助からなかったわけですが、
狭いハッチから出るまでに呼吸が続かなくて亡くなった者、
外に出たが海面に達するまでに息ができなくなった者、そして
なんといっても、急激な気圧の変化にやられて助からなかった者が
かなりいたのではないかと、わたしはこの話を読んだ最初に思いました。

この二人はよほどずば抜けた肺活量をもっていたうえ、与圧された艦内から
水圧の高い海底に出ても支障がなかったというくらい、
強靭な身体能力と何より強運の持ち主だったということなのでしょう。




ところで、わたしはこの前日、掃海母艦に据え付けてある減圧室を見ています。

掃海母艦は必ず訓練などのときに掃海艇と行動を共にしているのですから、
ダイバーになにか異変が起きたときには、即座に母艦に運び込むのだと思っていました。

ところが、ここに小型の減圧室が供えてあったので結構驚きました。
「えのしま」型のスペックには、減圧室の記述がありませんし、
ウィキペディアにも載っていませんから、結構この減圧室の検索は難航しましたが、
やっとのことで見つかった自衛隊中央病院の医師による論文、

「高圧則改正において検討すべき課題について 論点整理のための資料」

の文中に、この装置の記述をみつけました。

従来、減圧症発生時の対応は、まるで未来の棺桶のような(!)

一人用の再圧装置で応急的に症状の軽減を図っていました。

ただ、同論文によると、この一人用可搬式装置は、中に人を入れてしまったら

その後経過を見ることができず、回復に要する時間にも対応が不十分で、
さらには患者のバイタルが不安定だと使用できないという問題があったそうです。


そこで、介助者が一緒に入ることのできる第2種装置を備えた掃海母艦や、
横須賀の自衛隊病院にヘリで搬送する、というのが従来の対応となっていました。

しかし、重症患者の場合は、現場での救急再圧をしないと手遅れになります。

これも同資料によると、民間の潜水業者へのアンケートでは、全体の32%が
減圧症、または類似の症状になったことがあると答えました。
しかしそのうちの16.7%が「黙って我慢した」(おいおい)と答えており、
救急再圧が全くできていないというのが現状である、というのです。

そこで、介護の人間と二人が入れる大きさと、搬送できる小型化を
いわばハイブリッド開発してできたのが、この可搬式二人用減圧室です。



この長い筒の部分、ここに人が一人、寝た状態で収容できます。



ここで加圧されて縮んだアンパンマンを見ているときには、この手前の
丸い部分に入るのも患者なのだろうと勘違いしていたのですが、
じつはここに座るのは介護者であることが論文によって判明しました。




その論文からの引用です。
寝ている人をベッドごと引き出して、心臓マッサージもできると。
しかし、閉所恐怖症だとどちらもこの装置に入れませんね。




この論文は平成24年度に書かれていますが、
タンクそのものの制作年度は
2011年と、少しそれより早いです。
バロテックハニュウダという会社は、医療関係の設備などを手掛けており、
高気圧酸素治療装置もその一つです。
減圧症のみならず、突発性難聴、脳塞栓、腸閉塞、減圧症などの血行障害や
圧力障害などに起因する様々な病気の酸素治療を行うことができるとか。




一般の見学者が乗るので、このようにダイバーの装備を展示していました。
これらは、ごく一般的な日本製の市販品を使用しているそうです。


ヘロキャスティングの状況を遠くから見た時に、フィンが二股でしたが、
これを見ると魚の尾のような形状をしているのがわかります。

こういう潜水服のことを正式には開式自給気潜水器というそうです。
このタイプは手軽ですが、排出した呼気が大量の泡を生じさせるので、
静粛性が要求される作業には向いていないという面があるそうです。

この開式に対して、自衛隊でしか使われない特殊な「半開式スクーバ」というのもあります。
呼気から二酸化炭素を吸収しつつ、酸素と窒素の混合ガスを加えるというもので、
空気ボンベよりも長時間使用でき、アルミ製のタンクなので感応機雷にも対応できます。



「それでは前甲板に移動します」

歩いていく掃海隊司令の後ろ姿。
ところで、あれ?



この板切れみたいなのは何かしら。

「船に穴が空いたときに突っ込んで海水が入るのを止めるんです」

「本当ですか!?」

思わず失礼にも本当ですかなどと口に出てしまいました。
ちなみに、このあとすぐに「ジパング」の戦闘シーンを観たとき、
ちょうどこんなのをつっかえ棒のようにしているのに気付き、

「あ、あれだ!」

と心で叫びました。
てことは掃海艇のみならずイージス艦にもこういうのが置いてあったはずなのに、
まったく記憶がないのはどういうわけ?


とにかく、この角材は、ダメージコントロール、「ダメコン」のための一具です。
ダメコンとは、「ダメなコンテンツ」のことではなく(←)

物理的な攻撃・衝撃を受けた際に、そのダメージや被害を必要最小限に留める事後処置
(wiki)

のことですが、艦船においてはそれは一言で「沈ませないこと」に尽きるかと思われます。
軍艦には火災・衝突・座礁あるいは爆発等に備えてあらゆるダメコンのための
機構が備わっており、この角材はなんと原始的な、と思われるでしょうが、

防水作業のために必要なダメコンツールなのです。

船の底が破口し水が侵入してきた場合、毛布・マットや箱パッチを当てて、
その上から当て板を当て、その近くにロンジビームなどを利用して支柱を立てます。
そして、当て板との間に梁支柱を突っ張ることで、水圧に対抗するのです。

そこで活躍するのがこの艦内に備えられた木製の角材で、
その場で必要な長さに切り出して用いられるということです。

ということは、艦内にはこれを切り出すための鋸も積んでるってことなんですね。

こりゃ驚きだ。




同じレベルで見るバルカン砲。

「この機銃で機雷を掃討します」






この丸い輪のところに立つわけかな?

しかし、最近の機雷は機銃などでは処分できなくなっていると聞きますね。
あくまでもあらゆる可能性を考慮して訓練を行うために稼働しているのでしょうか。


続く。

 


「掃海艇の戦場」〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-22 | 自衛隊

補足です。
「黒い球」についてメールで教えていただいたので、このことを少し。



掃海作業に従事する船舶は、海上衝突予防法第27条第6項に規定する灯火、
または形象物を掲げなければなりません。

これはこの法律にある「球形の形象物」で、黒球と呼ばれます。

旗旒による国際信号とともに、この形象物を高いところに1個、
その下の左右に1個ずつ、計3個掲げられていたはずだということです。

日本においては海上衝突予防法という国内法で規定されていますが、
これは1972年の海上における衝突予防に関する条約(COLREGS)に準拠 した、
万国共通な信号です。

http://www.mar.ist.utl.pt/mventura/Projecto-Navios-I/IMO-Conventions%20%28copies%29/COLREG-1972.pdf

一般の船乗りが取得する海技士(昔の航海士)の資格、及び

海上自衛隊の船乗りがとる海技資格(運航1級~4級)、あるいは小型船舶操縦士、
いずれ の資格試験にも出るごく基本的な信号であり、
船乗りなら「漁船のおっちゃんでもわかる」信号だそうです。

http://www.mlit.go.jp/jmat/monoshiri/houki/yobouhou/yobouho27.htm

この信号を掲げている船は、操縦性能制限船であり、かつ掃海具や機雷処分具を

海中に投入している船であることがわかります。
つまり、自由に運動できる船は、運動性能に制限された状態にある船の運動を
妨げないように航行することが義務付けられているのです。

ということでした。 




さて。

「今何をするか考えます」


あまりの波のうねりに、予定されていた掃海母艦への移乗が中止になり、
いきなりすることがなくなった我々一行に向かって、掃海隊司令は
頼もしくもこのようにきっぱりと言い切りました。

そして、とりあえず全員を士官室に案内し、すかさず室内のモニターで
掃海隊に関するビデオを放映するという気の利かせぶり。
さすがはこういうことに慣れている海上自衛隊です。

陸空もそれなりにそうでしょうが、海を相手にする海自は
予定が自然任せで予定通りにいかないことを知っています。
従って、このようなことが起こった時にはすぐさま責任者である司令が
すべての段取りを考え、それに従って部屋に案内したり、各部に連絡したりが
遺漏なく行われるのでした。

「とりあえず食事を用意させるように言っています」

とこれも頼もしいお言葉。
ちょうど昼時で、予定通りであれば「うらが」に移ってすぐ、わたしたちは
おそらく昨夜「ぶんご」で見学した「偉い人用の部屋」で、
カレーライスをご馳走になっていたはずだったのです。

この日は金曜ではなかったのでカレーが出されるというのはもしかしたら
噂だったのかもしれませんが、海自のおもてなしはカレーである、
という世間の認識と我々の期待はきっと裏切られることはなかったと
わたしは今でもそう信じているのです。(おおげさだな)

「えのしま」の艇員がお昼ご飯を食べている間、司令は士官室の我々に
中の案内をすることをまず決定しました。

「ご興味のある人はどうぞ」

という言い方で、決して参加強制ではありませんよ、という感じ。
わたしはもちろん、部屋を出て行く司令に真っ先に従いましたが、
よく知っているのかそれとも取材には直接関係ないからか、
部屋に残ったりする人たちも何人か(というか結構)いました。

その時に「勝手にいろんなところに行かないでください」とみんなは
釘を刺されていましたが、掃海艇は狭い上、特に後甲板には
掃海具がぎっしりと搭載されていますから当然の注意です。



外に出た司令が真っ先に案内したのが「えのしまくん」でした。
先ほど、立派にお仕事をして帰ってきたばかりです。
すっかり乾いているようでしたが、よくよく見ると少し濡れた後がありました。


「先ほど訓練に使用した水中航走式機雷掃討具S-10です」



えのしまくんが艦橋に送っていた映像が、白黒の小さなモニターで分かりにくかった、
ということを書きましたが、えのしまくんがいかにソーナーを搭載し、
自分で機雷を探してくれるといっても、アプローチを行うのは人間です。
その手がかりになるのが、ソーナーの探信画像とあのカメラ画像だけであり、
えのしまくんを海に放り込みさえすれば、何もかもやってくれるわけではないのです。





司令がこういうと、驚いたことに同行の記者がこう言いました。

「そうとうってどう書くんですか」

まあわたしだって、ヘローキャスティングのヘローのスペルはなんですか、
とは聞きましたが、掃討くらい常識でわからないもんですかね。
というか、さっきの説明で君は先生の話をちゃんと聞いていたかい?



掃海と掃討の違い、というのは一言で「機雷を爆破するか無効化するか」でしょう。

掃討は掃海隊の主流といってもよく、最先端の技術が投入されています。
機雷も進化し、ステルス性が増していくのといたちごっこのように
掃討の方法もまた進化していくわけです。

また、できるだけ無人化を図り、人員の損傷の可能性を減らす方向にあります。




「この下には爆雷を吊り下げることができます」

ちなみに、S-10の事後事業評価では、「使用前・使用後」の評価として
次のようなことが挙げられています。

【達成された効果】

本開発において、下記の技術を確立したことにより、機雷の捜索・探知・処分等を
効率的に実施し得る水中航走式機雷掃討具の装備化が可能となった。

ア 探知領域拡大技術
  ソーナーの高性能化により、機雷の探知領域を拡大することが可能となった。

イ 誘導制御技術
  海中において水中航走体を、目標機雷へ自動誘導することが可能となった。

ウ 追従制御技術
  水中航走体の位置を監視することにより、
  水中航走体と母艇との距離を一定に保つことが可能となった。

エ 低雑音化等
  水中航走体の音響的、磁気的な雑音発生の低減により、
  高性能な機雷への接近が可能となった。

ちなみに製作したのは三菱重工ですが、三菱のHPには機能についての説明は
いっさいありません。なぜだろう(棒)



「この目は、自分たちでシールを貼ってつけたんですよ。
掃海艇の隊員はこういった道具に大変愛着を持っています」



えのしまくん海中に放流の過程をずっと見ていたわけですが、同時にわたしは

「うらが」との間にラッタルすら掛けられなかったあの動揺を見ました。
つまり、掃討具を投入&回収するときにも、あの時のような動揺が襲えば、
この高額な(幾らか忘れたけど)機械は艦体に激突して破損する可能性もあるのです。

掃海隊員は、チームワークと日頃から訓練で培った技術とで困難な作業の事故を未然に防ぎます。




これは、S-10のあるところから艦首側の艦橋の側壁にあたるところですが、
ここには魚雷を引き出すためのハッチが取り付けられています。
安全守則には「火薬庫」と表示されており、

「温度は5℃から38℃の間、湿度は80%以下に保て。」

「対潜弾を格納する時には信管を外せ。」

「庫内には二人以上で入れ。」

など、ものものしい文言が書かれています。
湿度が80%以下、というのは湿気てしまうんでしょうかね。

二人以上で入るのは、何かあった時に知らせに行く係が必要?



引き出された爆雷などは、天井から下がったクレーンで降ろされます。



後ろ甲板には爆雷を移動するためのレールが床に張り巡らされています。



掃海艇によって曳航され、ダミーの艦体を知覚させることによって
機雷を爆発させる感応掃海を行うための磁気掃海電線。
右の部分はフロートになっていますね。



これらのコードを巻き上げるための電源スイッチ。
大きなプランジャーみたいなのが「巻き上げ」で、右下は速度の調整用。



掃海艇とは「索を操る船」であることが実感出来るこの光景。
いまだに船の上でこれだけのロープを扱っている「軍艦」はおそらく掃海艇だけでしょう。
まるで帆船時代の船のように、膨大な量の索をさばき、重量物を扱う。
同じ海自の航空畑の自衛官をして、

「すべての船の中で掃海艇が一番過酷だと思った」

と言わしめるだけの荒々しい現場がそこにはあります。
ある掃海関係者は奇しくもこう言いました。

「掃海艇の戦場は後甲板です」

クレーンとウィンチで機雷を運用し掃海具を海に投入する、これ即ち、
掃海艇にとっては護衛艦のミサイルや魚雷を扱うのに相当する「戦闘」なのです。



左に先ほど「えのしまくん」S-10を操作したクレーンがありますが、
このクレーンはS-10のみならず、たとえばこの小型経維掃海具の浮標(フロート)を
海中に投入する時にも活躍するに違いありません。

なんども説明していますが、この経維掃海具は、
フロートをつけた索を掃海艇が曳航し、 機雷の上を通過します。




フロートで浮かせ、デプレッサー(沈降器)で断面図のように
索を沈めつつ前進することで、カッターの部分が海底に錘で固定され、
海中に浮遊している機雷の糸を切り離すようになっています。

前にも言いましたが、掃海艇そのものが「掃海具」の動力なんですね。



感応掃海具1型音響掃海具発音体

従来の磁気掃海具と音響掃海具の機能を統合したお得な2ウェイ掃海具で、
2008年導入され、「えのしま」型以外には「ひらしま」型が、
そして先日進水式を行った「あわじ」型掃海艦にも搭載される予定です。



機雷がこんな無造作にこんなところに〜〜!

と思ったら、やはりこれは訓練用の機雷だそうです。

「イタリア製です」

と司令がおっしゃるので

「マンタ式ですか」

と尋ねるとビンゴでした。
ってか、わたしイタリア製の機雷なんてこれしか知らないんですけどね。

マンタ式は浅瀬に設置する機雷で、水陸両用車や小型潜水艇を狙います。
この独特な形はステルス製があるといわれており、本物は緑いろ。
これは訓練用なので目立たせるようなオレンジ色に塗装してあるんですね。

ペルシャ湾への国際派遣で行われた掃海は、海上自衛隊にとって、
得難い実戦となりましたが、特にこのマンタ魚雷との戦いは、
当時の掃海艇では大変な困難となったため、このときの経験を生かして、
新しく外国の機雷掃討・掃海装備を導入した掃海艇「すがしま型」が建造されました

それ以降海上自衛隊では、MANTAの訓練型を導入して、機雷処分訓練を行っているのです。



続く。

 




 


洋上の「帽触れ」〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-20 | 自衛隊

日向灘沖で行われている海上自衛隊掃海隊訓練。
我々メディア(わたし以外)を乗せた「えのしま」は、沖に投錨している
掃海母艦「うらが」に今接舷を果たしました。

いや、完璧に接舷をすることが、互いをラッタルでつなぐことであれば、
まだそれはこれからの作業です。
入港作業は何度となく見てきましたが、船同士の接舷作業は初めてです。
一体どうなるのか。



「うらが」には掃海隊の水中処分員が多数乗艦しています。
EODと呼ばれる彼らは、掃海母艦からヘリコプターでヘロキャスティングと呼ばれる
海中での機雷処分訓練を行うために、ここに待機しているのです。

おそらく、もう訓練を済ませ、帰艦している EODもいるでしょう。

そんな EODの一人が、舷側に立って接舷作業を眺めていました。



このウェットスーツは風を防いで艦上では快適そうですが、
水に濡れたあとはやはり辛そう。
この下には水着を着用しているのでしょうか。




いよいよ掃海艇に向かってラッタルが降ろされることになりました。
「うらが」と「えのしま」では甲板の高さが違うので、ラッタルは
「うらが」から下に向かって架けられることになります。

双方の作業にあたる隊員が両舷に集まりました。



ラッタルの先端には索が取り付けてあり、両側から索を緩めながら
こちらの舷にかけ、それをこちら側の隊員が固定するようです。



ロープはどうやらラッタルの真ん中、折りたたんでいるところに付けられています。

ロープを下すのは手作業ではありませんが、
後ろの滑車のようなところを作動させているのは人間です。
手前の作業員が手で合図を送りながらラッタルを伸張させていきます。



ラッタルは山に降りた畳まれており、半分は階段でなくストレートです。
向こうからは途中まで真っ直ぐで、それからこちらに向かって階段を降りてくる形です。



わたしは信号機の置き場越しに作業を眺めていました。
ここなら作業の真正面だし、一応旗置き場が緩衝材となって
万が一の時も安心していられるような気がしたのです。



ラッタルの「山」がこちらに届いたら、赤いヘルメットの二人がそれを確保し、
こちら側に設置するという構え。



しかし作業は遅々としてはかどりません。
一つ上の写真とこれを比べていただければわかるとおもいますが、
この日の波のうねりのせいで、お互いの舷が2m、ひどいときには3mくらい
揺れてなかなかラッタルを捕まえることができないのです。



こちらの揺れが一番高くなったときでないと、ラッタルに手が届きません。
動揺により互いの舷がちょうどいい高さになる瞬間を待って
波を見送る
だけの、もどかしい時間が過ぎていきます。



そのうちなんとかラッタルを捕まえることができました。



向こう側の作業員がラッタルに登り、固定作業に入ります。
その後手すりを立ててロープを張るのでしょう。

・・・・・と、そのときです。
ひときわ強い縦揺れが「えのしま」を襲い、舷側からラッタルの端が外れました。
がたーん!とすごい音がしたかと思ったら、ラッタルの端は大きく跳ね、
わたしが寄りかかるようにして立っていた信号旗の収納ラックにぶち当たったのです。


途端にその辺にいた乗組員が、

「ここは危ないから下がってください!」

と血相変えてこちらに向かって怒鳴り、真っ青になったわたしは・・・・



ここまで退避(笑)

作業は最初からやり直しです。

しかしわたしはこの辺りから思い始めました。
こんなに強いうねりの中、2隻の船を、ラッタルだけで接舷できるのか?
それに万が一、ラッタルを渡るときに今のような波が来たら?と・・。



さらに思いっきり後ろに下がってみました(笑)

実は「うらが」に異動が決まったとき、わたしたちは

「荷物は皆持って行ってください。こちらに荷物は残さないでください」

と言われていました。
「うらが」でお昼ご飯(わたしたちのカレーが用意してあるという噂あり)
を食べ、さらにはヘリの着艦と離艦を見学するという予定のあと、
もう一度「えのしま」に戻って帰港することになっていたためではないかと思います。

しかし、ラッタルが暴れてもう一度やりなおし、ということになったとき、
息を飲んで作業を見守っているメディアの皆さんに対し、


「向こうに移るときには大きな荷物は持たないでください。
三脚などは皆置いて行ってください!」

と注意勧告がなされ、たちまち甲板には報道陣の荷物が山積みされました。

「ハシゴを渡るときには両手を開けるようにしてください!」

うーん、なんかすごい大事みたいになってきてるんですけど。
まるで飛行機が不時着水したみたいな・・・って縁起でもない!



(時間の経過を表す捨てゴマ)



それからしばらく、乗員たちは奮闘していましたが、ラッタルをかけることはできません。

皆がどうなることかと息を飲んで見守っていると、「うらが」の甲板上に突如、
掃海隊群司令が姿を現しました。
(BGM:「
亡国のイージス」より”A Nation's Pride )



掃海隊群司令は海将補をもってこれにあたる、つまり掃海隊の一番”偉い人”です。


司令自ら、この接舷は不可能であることを判断し、中止を決め、
そしてこうやって自ら説明とお詫びをメガホンで行うことにされたようです。
呆然とそれを聞く「えのしま」甲板の人々。

ちなみにこちらにいる制服は広報の隊員で、メディアツァーのエスコートのために

わざわざどこかからか出張してきて、この日乗り込んできたようでした。



司令に状況報告している第41掃海隊司令。
説明が終わった後、海を挟んであちらとこちらで、知り合い同士が挨拶を交わします。

実は今回、わたしがこの訓練を見学させていただくことになったのも、

この掃海隊司令に話を通していただいたという事情がございました。
当然お目にかかるのは初めてで、本来ならば向こうに移乗してからあらためて
ご挨拶させていただくつもりをしていたのですが、それも叶わず、
こちらから声をかけて海越しにお礼を申し上げることになってしまいました。



しかしこれは賢明な判断だったというべきでしょう。

さっきの写真とこの写真を比べても、いかに動揺が激しかったかお分かりだと思います。
こんな状態で、万が一、一般人に何かあったら・・・・・。

あ、もし海に落ちるようなことがあったとしても、即座にEOD一個連隊が飛び込んで
寄ってたかって助けてくれそうですが。




近くにいた乗組員に、

「(移乗が)中止になったのはわたしたちが一般人だからですか」

と尋ねてみると、

「はい、自衛官だけなら、どんな方法であってもなんとか行きます」

とのことでした。
どうしても必要なら、ボートで後部ハッチから上がるという方法をとったりするようです。
人員移乗用のクレーンという手もあるそうですが、さすがの自衛官も、
こちらはあまりいい気持ちがしないのではと思われます。




司令が去った後は、こちらが「出向用意」を行う番です。

向こうのクレーンを作業している人、何をしているのだろう。



サングラスの水中作業員たちがかっこよす。
こういう人たちのサバイバルでチャレンジングなお話も聞けたかもしれないのに(T_T)




出航はまたもやあっと言う間でした。
艦首同士を繋いでいたもやいも、あっというまに外され、「うらが」の舷側が遠ざかります。
ミカさんが知り合いの水中処分員さんたちに手を振って、彼らも・・、



「どうもっすー」



そのとき、遠ざかる(っていうか、こっちが離れて行っているんですが)
「うらが」の総員が「帽振れ」している姿が見えました。
(BGM:「亡国のイージス」より「The Courage To Survive」
 


艦橋の艦長(一番右)始め操舵室の皆さん方も。



下されることのなかったラッタルの横で、接舷作業に奮闘してくれた乗員も。

ヘルメットの下に布のキャップをかぶる人がいるんですね。



しかしこんなに早く「うらが」に「帽触れ」で送られることになろうとは、
夢にも思っていませんでした。



移乗が中止になって、カレーが食べられなかったこと、
「うらが」の内部やヘリ離着艦が見られなかったこと、そして
群司令にちゃんとご挨拶ができなかったことはとても残念でした。
しかし、それより何より、このとき「うらが」に移乗することができていたら、
安定性のある大きな掃海母艦、しかも投錨中であることで、おそらく
このあと見舞われることになった船酔いとは、
無縁でいられたはずだったのです。

・・・・が、それはまたこのあとのお話になります。


赤ヘルの軍団を乗せて「うらが」から遠ざかる「えのしま」。
これから、わたしたちはどうやって過ごすのでしょうか。
そして、肝心のお昼ご飯は一体どうなるの?

「今ちょっと考えます」

と隊司令。
隊司令の危機管理能力並びに応用力が問われる瞬間?



護衛艦畑から掃群司令に配置されてやってくる自衛官は、一様に、
まず洋上で揺れて振れ回る錨泊した母艦に掃海艇が横づける、
今日のような作業を見て、びっくりするのだそうです。


つまり今日わたしが体験した、掃海隊がいかに特殊な現場であるかということを

象徴する作業というのも、掃海屋にとっては「よくあること」であったということです。


宮崎から戻り、訓練見学参加の労をお取りくださった”偉い人”に
後日、この日の報告とともに移乗できなかったという話をしたところ、

「それは大変すみませんでした」

と全くその方には責任もないのに謝られてしまいました。

しかしわたしは、これは、最も掃海隊の掃海隊らしい一面を目の当たりにできた、
望んでも得られない貴重な体験であったと今にして考えています。

続く。 

 


「うらが」に接舷〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-19 | 自衛隊

ヘロキャスティング、海自的省略による「ヘロキャス」が終わりました。
午前中の訓練の見学はこれで終了です。
自衛隊の組んでくれたスケジュールによると、先ほど水中処分員を乗せるため 
ヘリを離着艦させるため投錨して停泊していた掃海母艦「うらが」に、
「えのしま」を接舷し、ツァー参加者ご一行はそちらに移乗することになっています。

掃海艇が母艦に接舷するのも、給油作業と同じく訓練の一環ということになりますが、
我々に掃海母艦の中を紹介し、お昼ご飯をそこでいただくという話でした。
「向こうでカレーが食べられるらしい」という噂に、思わず心が浮き立ちます。

昨夜わたしは特別に掃海母艦「ぶんご」の見学をさせていただいていますが、
予定通り「うらが」に移乗できるとなると、これで掃海母艦見学全制覇!
という快挙になるわけです。(掃海母艦は「うらが」型2隻だけなので)



司令官の椅子に座っているのは、先ほどブリーフィングをしてくれた掃海隊司令。
くだらねー質問にそつなく答えておられましたが、内心を勝手にお察しします。


「うらが」に向かって航行中は、メディアの皆さんはあちらこちらで独自に
乗組員の解説を受けたりして過ごしています。
ツァーの中に、後で話して知ったところによると地方紙の新人記者と
やはり若いカメラマンの男女二人がいました。

航行の間、彼女には乗員のうち一人(ブリーフィングにもいた幹部)が、
特に丁寧に説明をしてあげている様子を、わたしは何度か目撃しました。

やはり自衛官としても、彼女のような若い記者には、より正しく取材してほしいと
思うが故の熱心さなのだろうな、と思いつつ横目で見ていました。

彼女も同行のカメラマンも、自衛官のことを「船員さん」と呼んでいたくらいで、
後で話をしたとき、自衛隊の取材は初めてだと言うことでしたが、ミカさんが


「資料とかちゃんと調べて、正しく書いてくださいね」

と明らかにブリーフィングで質問した女記者を意識したアドバイスをすると、
彼女は素直に、はい、と頷き、その様子に初々しさと熱意を感じたものでした。 



ちょうどわたしが艦橋にいると、入港準備ラッパが吹鳴されました。

「どみそどー・どみそどー・どみそどっみそっそそー」(固定ドで表記)

他艦に接舷するときも「入港準備」ラッパを吹くというのは初めて知りましたが、
「これから作業にかかれ」という合図として鳴らされるというなのでしょうね。

隊員の表情が、まるでセッション中のジャズトランペッターみたいでかっこいいぞ。



艦橋の窓から「うらが」が近づいてくるのが見えてきました。
いや、「うらが」ではなく「えのしま」が近づいているのですが。



接舷のときにジャイロレピータの前に立つ艇長。

掃海艇の艇長というのは、大型護衛艦よりある意味職人芸的な操艦を要求されます。
前回、「掃海艇の戦場は後甲板である」と書きましたが、
実際に、掃海艇が 掃海索や掃海電線を艇尾から海中に投入するときには、
後甲板に移動して、海中に入る索具とプロペラの位置関係を確認しながら操艦するのです。

その時には船務長を艦橋に立たせて、伝令が伝える艇長の操艦号令を確認させるとともに、
進行方向 周囲に危険がないか報告させます。



掃海艇の形状というのは、このことを考慮したものになっています。

国産最初の掃海艇「かさど」 型、「たかみ」型までは視界の確保のために煙突がなく、
自動車の排気のように両サイドにパイプで排出していましたが、
海洋汚染防止法の適用でこれができなくなり、煙突を装備するようになりました。

その煙突がどうしても邪魔、ということで「すがしま」型以降の掃海艇は、
煙突を両舷左右に分けて2本煙突にしたため、後方の見通しが良くなりました。

掃海艇の艇長は大航海時代の船乗りよろしく、艦に起こっていることを
逐一確認しながら操艦を行います。
そのためには旗甲板に後ろ向きに立って、後甲板を見ることになります。

後部側を見通す方向に余計なものがあっては困る理由がこれです。

「うらが」が近づいてきました。
この乗組員は頼まれて写真を撮っているのかな?



「えのしま」は「うらが」の後方から寄り添うように接舷していきます。







「赤いロープが跳ねた」話をしましたが、実はこのときでした。
「えのしま」の細い赤の索が、このカメラマンに当たったのです。



「大丈夫ですか!」

「はー大丈夫ですぅー」

問題の質問をした地元テレビの女性記者共々、ニヤニヤしているので、
全然大丈夫だったわけなんですが。

索は今彼らの向こうにあります。

 

手を挙げているように見える隊員は赤い索を持ち上げています。
あー、人がどかないのでとっても邪魔そう。 

「はい、索を前に移しますのでご協力お願いしますー」



さて、そんな大騒ぎ?に気を取られているうちに、「うらが」はすぐそこに。
こちらの双眼鏡と何かわからないドラムのようなものに向こうの舷側を取ってみました。



そこでふと気付いたのですが、あれ?向こうでも赤い索を持っている。



そして青い大型洗面器・・・・・・何に使うのだろう。



「うらが」舷側アップ。
ね?細い索持ってますよね。

後ろから見ているサングラスの隊員は、水中処分員らしい。



下の階では何が行われているのかな。
入港作業のときには皆赤いヘルメットをかぶっています。



防眩物の設置みたいですね。



昨夜「ぶんご」を見学したとき、一番最後に見せてもらったのが
この舷側にくりぬかれたような部分のデッキでした。
なんのためにあるのかと思っていたら、ここで稼働例を見ることになりました。

甲板階から渡された索を、この部分のロープ通しの穴から出して、
ここに防眩物を設置しているのです。



ここにも見えるなあ。細い索。
この細い索がどこまで繋がっているのかはこの写真ではわかりませんでした。



そこでこれ。
上の階では何が行われているかというと、細い索の先をさっきから持っていた
洗面器に浸しているように見えるのです。

これは一体なんの作業・・・・_?



上と下の階でこんな感じ。
どなたかこの赤い索と洗面器の関係がお分かりの方おられますか。



というわけで防眩物の用意おけー。



こういうシーンをビデオカメラに撮って、一体何に使うつもりなんだろう。
全国紙の記者。



「えのしま」のスラスターの立てる波が真っ白に見えます。
接舷のときにはスラスターの操作を絶妙に加減してゆっくりと近づいていきます。



ふと気づけば、艦橋には向こうの艦長が出てきていました。



太い索はもやいで、お互いを結ぶためにあるのでしょうか。



直立しているラッタルが降ろされ、両船のデッキをつなぐわけですが、
ラッタルの両脇に、例の洗面器に赤い索を入れている乗組員が二人。



こちらの防眩物は海に浸すのではなく、中腹にぶら下げています。
おそらくここにしないと艦体の形の関係で当たってしまうのでしょう。



明らかに水中処分員みたいな人がたくさんいる!
こ、これはもしかして、向こうに乗り移ったら水中処分員のお話も聞けたりする?



水中処分員の皆さんは、船の上ではすることがないと見た。
サングラス着用が多いですが、何か意味があるのでしょうか。

ところで、彼らの右下に、例の洗面器が見えるぞ。



超拡大。
洗面器じゃなくてカゴですねこれは。
で、先にアイスクリームコーンみたいな物があるんですがこれは。

もしかしたらこれがサンドレットと呼ばれる投げ渡し用の索でしょうか。




いよいよ接舷の瞬間です。
波の高い洋上で、何の苦労もなくこういうことをやっていますが、
これとても、たいした技術なんだろうなと思います。



こちらでも艦服に防眩物の用意。

ところで青と白のチェッカーには何か意味がありそうですが・・。



うおおおおっ、いつの間に!
いつの間に行われたのか全く気づかぬうちに、「えのしま」の艦首部分が
「うらが」ともやいで繋がれていました。
どうやってもやいを受け渡ししたんだろう・・・・。



ちなみにこれが接舷前の「えのしま」甲板。
投げ渡すためのもやいが綺麗に並べられています。



いよいよ接舷の瞬間が近づいてきた頃、こちらにもいつの間にか

舷側に艇長の姿があり、むこうには隊司令も出てきています。



というわけで、この瞬間、接舷成功。
さて、これからラッタルを降ろして、両舷を接続させる作業が始まるのです。

ところで、わたしはめでたくラッタルがかかってから、海の上、
結構な高さのあるラッタルを渡ってむこうに行くのは、おそらく
高所恐怖症ならずとも結構怖いのではないかとここにきて急に心配になりました。

ラッタルには手すりが付いているとはいえ、ご覧の通り舷の高さが全く違うのです。
むこうに移る時にはまだいいとして、帰りは坂を下りることになります。

万が一滑ったりして海に落ちたとしても、海に飛び込んでくれる人が売るほど
たくさん向こうには待機しているとはいえ・・・・。

はたしてどうなるのでしょうか!?


続く。

 


ヘロキャスティング〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-18 | 自衛隊

機雷掃討のための自走式S-10-1通称「えのしまくん」の機雷掃討訓練が終わりました。
メディアツアーに公開する2つの訓練のうち一つを消化したのです。



左下の二つの旗旒は

私(本船)は演習中である。私(本船)を避けられたい。

という意味なのですが、訓練が終わった今も下げられてはいません。
自衛艦旗の下の司令官旗は、隊司令旗ですが、第41掃海隊の隊司令が
3等海佐であるため、上下に赤の縁取りがあり、切れ込みの入った形の
「隊司令旗 乙」が掲揚されています。

隊司令旗乙は、2等海佐以下の隊司令に対して掲揚されます。



次は「えのしま」から見学するヘロキャスティングです。
・・・・が、まずは訓練が行われる海面に移動。

いずれの航行においても、海面の見張りは途切れることなく行われます。
 


こちらも双眼鏡で見張りを「厳となせ」しています。
訓練が海面で並行して行われ、さらに一般人を乗せているので余計ですかね。



行動海面の水平線にこちらを向いて見えているのは掃海隊の艦船。
参加艦艇は全部で23隻です。



そのとき、海面でホバリングしていたヘリが移動を始めました。



洋上に停泊している掃海母艦「うらが」に高度を落としながら接近中。



飛行甲板への着艦をただいまから行います。



「うらが」の乗員は、甲板にはおらず、皆舷側に避退?しており、
格納庫に黄色と黒の斜めダイヤ柄シャツを着てヘルメットをかぶった
管制員が、両手に赤と緑の旗を持って管制の合図を送っています。



ローターの巻き起こすダウンウォッシュ(垂直方向への推力で発生する下向き気流)
で、空気が歪んで見えます。




上の写真と比べて、「うらが」の甲板が向こう側に傾いているのがお分かりでしょうか。
うねりの大きな波のせいで、甲板はグラグラと波打っているのです。

これはいかなる状況下でも着艦を行うための、ヘリパイロットの訓練でもあるのです。

先日、空自の新米女性救難ヘリパイロットを描いた、「空へー救いの翼」を見ました。
正パイロットが目を怪我をしたので、副操縦士である彼女が、
緊急に護衛艦「はるさめ」のヘリ甲板に初めての着艦を行うのがクライマックスシーン。
揺れる甲板に思わず怯む彼女に向かって、艦長の中村雅俊(!)が、

「どんなに海が荒れていても必ず船が止まる瞬間がある。焦らないことです」

とアドバイスをしていましたが、そうなんですか?



見事着艦成功。



「うらが」全体図。この状態で細部を見てみると・・。



待機していた隊員が両舷の舷側沿いに数人ずつヘリに向かっていきます。



艦首側を仔細に見れば、「うらが」が投錨しているのも分かりますね。



ヘリの車輪に甲板から出てくる降着装置を設置する係がすぐさま作業を行います。



そのとき近くの海面にふと目を転じると・・・・・
水中処分員が4人乗り込んだディンギーがぷかぷかしています。
彼らの脇に機雷のようなものが浮いていますが、これはもちろん
本物ではなく、ダミーかラペリングの「目標」ではないかと思われます。



おおっ!いつの間にかヘリに今から訓練を行うEODが乗り込んでいる。



全員ヘルメット着用、一番後ろ以外はウェットスーツ着用です。


この写真を撮る時、波のせいで足場がグラグラ、被写体の向こうもグラグラ。
望遠レンズで対象を拡大すると、すぐにフレームから外れるので撮影は結構苦労しました。 




水中処分員を乗せたヘリが「うらが」を離艦します。
着艦よりは簡単なのではないかと思いますがどうでしょう。



処分員たちを乗せたヘリは、訓練の行われる海面に移動。



と、 EODを乗せたディンギーが急に移動を始めました。
あれ?さっきまで横に浮いていた機雷みたいなのがなくなっているけど、
どこかに設置をもうすませたのかな?




ヘリは移動して「えのしま」からは右舷前方に占位しています。
ちなみにこのときのシャッタースピードは250分の1。
ローターの動きを出すために、しかし機体がぶれないようにギリギリの妥協点です。
しかもこの日は乗っているフネが上に下にとヨーイングしていたため、
船を撮るよりこちらの方が大変でした。



どうもこの海面に降下する模様。
ヘリの行き脚がとまりました。



そのまま高度を下げていきます。
水中処分員が降下するために最低の高度を保持している模様。



ヘリから降下用のロープが海面まで投下されました。



まず一人目がラペリングしてきます。
(降下をよくリペリングといいますが、rappellingなのでこちらが正しいかと)
 あとで司令に聞いたところによると、本日降下訓練を行うEODで、
今日が初めての海中への降下、という隊員はいないとのことでした。

しかし、海中に潜って行くときには、いかに訓練しているベテランでも
緊張するものではないかと思われます。




ロープを伝って降りたEODが海面に達しました。

陸自の地面への降下よりは海面に降りるほうが物理的ショックはないとおもいますし、
万が一手を離すことがあっても、地面に叩きつけられるのと海面では全く違います。
しかし、黒々とした深い海に生身でそのまま入っていくという恐怖がこちらにはあります。

ヘリのローターの巻き起こすダウンウォッシュのしぶきで、
視界も著しく悪くなりますし。



一人が降下したあと、間をおかずにもう一人が降りていきます。



ここでブリーフィングのヘロキャスティングの図をもう一度。
降下したEODが機雷に爆薬を仕掛けます。



爆薬を仕掛けたあと水中処分員を揚収。



爆破。というわけですが、実に原始的です。
処分用の爆雷はC4爆薬を使います。




そして二人目の水中処分員が海中に入ります。
二人で処分を行う理由は、一人が点火ケーブルをセットし、
もう一人が信管をはずすということだったような気がします。

万が一、一人目に何か事故が起こったときのためでもあるでしょう。




二人のEODを降ろしたあとロープは一旦引き上げられます。



しばらく上空で待機したあと・・、



またしても高度を下げます。
ダウンウォッシュの霧の向こうにEODのディンギーが見えます。



海中から一人目のEODが引き上げられました。



ラペリング降下は自力で行いますが、揚収は体に索を固定して引っ張り上げてもらいます。



EODの装着している足ひれの形がよく分かります。二股なんですね。



水中処分員による爆破処理も、実際の爆破は硫黄島訓練でしか行われません。

EODが手作業で行う処理方法には、機雷本体を爆発させるやり方と、
信管を無効化して機雷を確保するやり方がありますが、

どちらにしても生身の人間が行うため、危険と隣り合わせです。

ヘロキャスの他に、ディンギーから海中に入り爆破処理を行う訓練があります、
この場合、作業が終わっても、 EODがディンギーに乗り込み、
完全に安全距離を確保したあとでないと、処分爆薬の点火は行われません。




足の生えたMHー53E(笑)

このMH-53Eは、三菱重工の製作した掃海専門のヘリコプターで、
国内では最大の大きさを誇るヘリで輸送にも使われるくらいで、
3つあるエンジンのパワーにより複合掃海具などの小艦艇を曳航することが可能です。

近い将来これらは引退してCH-101に置き換わっていくということですが、こちらが実は、
現場からあまり評価されていない(つまり駄目出しされている)という噂もあります。


イタリアとイギリスの会社が共同開発、というだけで、素人考えでも

なんとなく大丈夫かなあとイメージから思ってしまうわけですが、
こういう先入観って、案外どの分野でも当たっていたりするからなあ・・・。

実際のところは知りません。



続く。


 


掃討具S-10回収〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-17 | 自衛隊

水中航送式機雷掃討具S-10、通称「えのしまくん」(わたしが勝手に命名)
が海中に無事投下されました。
投下したというより「進水した」といった感じの慎重さでしたが、
海に放たれ、まるで怪我を治してもらったイルカのように泳ぎだしたえのしまくん、
あっというまに我々の視界から姿を消しました。

「ここからは中のモニターで見ていただいた方がいいです」

案内の第41掃海隊司令の言葉に、我々はほっとして(寒かったし)
艦橋の中に入りました。



艦橋に戻ってみれば、いつの間にか全員が戦闘服で任務についています。
こういうフル装備の自衛官を見るのは、映画やアニメ以外のリアルでは初めて。

掃討具S-10は、自走式でカメラを搭載しており、その映像は艦橋と
C ICのモニターに映し出されます。
ただし、「いろいろとありますので撮影はご遠慮ください」とのことでした。

今回のレポート連載中に掃海隊関係者から補足をいただいたのですが、
その際、やはりあまり細部にわたって書かないでおいた方がいい、 
ということも、特に防衛の観点からあるということを教えていただきました。

(ですから「ぶんご」副長の解説で聞いたことも、 全ては明らかにしておりません)



えのしまくんが一生懸命ターゲットに向かっている間、
「えのしま」の周囲では訓練を行っている僚艦の姿がありました。

これは掃海艇「あいしま」。「すがしま」型掃海艇の8番艦です。




こちらは10番艦の「みやじま」。

「あいしま」「みやじま」共に、横須賀の自衛艦隊隷下の掃海部隊である
掃海隊群に属する呉所属の掃海艇です。

掃海隊の組織というのは、一般人にはすさまじく分かりにくいのですが、
「自衛艦隊」というのは各地方隊と同じく、防衛大臣の直下にあり、
横須賀にありながら「横須賀地方隊」とは別の同位組織であるという・・・。



ブリーフィングでも組織図が出てきて解説されましたが、
これを見てもそのときには正直さっぱり訳がわかりませんでした。
災害派遣の記事から引用した、

災害派遣の正面ではない、呉、佐世保、舞鶴の
各地方隊所属の水中処分員の応援を要請した。

という意味がわからなかったのも当然ですね。
そこで、コメント欄の雷蔵さんの

掃海部隊だと、第1、2、51、101掃海隊が全国区の掃海隊群で、
それ以外が地方区になりますが、掃海隊群司令が指揮出来るのはこれだけで、
その他の掃海部隊や各総監部の水中処分隊は、各地方総監の指揮下で、
掃海隊群司令は動かせません。

という説明にいまさらはたと納得させられました。

護衛艦隊は「全国区」で、地方区で対処できない事態が起きた時に対応する、
という言い方だと大変理解しやすかったです。

要は、指揮系統を一系にしないということが危機管理となっている、
とわたしは理解したのですがそういうことですか?



左回頭している「あいしま」くんですが、後部がほとんど海中に没しそう。
いかに海がうねっているかってことです。
写真で見ても、波頭に白波が立っているので、かなりの荒れだと判断できます。



ぐるっと回頭していく「あいしま」くんとすれ違うヘリコプター。
ヘリの離着艦も訓練項目に含まれている作業です。



ヘリと「あいしま」の距離はほとんどなく、テールとマストが接触しているみたい。
画面右側の海面には、すでに水中処分員のボートが待機しているのが見えます。

この後行われるヘロキャスティングでは、ホバリングしているヘリから
EODがラペリング降下して作業を行いますが、その際も海面に待機して
いざという時のために人員を配備しているのです。



ヘリがずっとホバリングしていたのは「うらが」の上空でした。
「うらが」の後ろにいるのは「ししじま」。
沖縄基地隊の所属で、今日の訓練が終わったら帰還だと聞いた気がします。



降下を行うためか、超低空で移動するヘリ。
海面からはローターの巻き上げる海水が白い水煙を作っています。

 

そこに(わたし的に)すっかりおなじみの掃海母艦「ぶんご」さんが。
皆が行動海面でうろうろしているのではなく、それぞれなんらかの
訓練を行うために移動をしているのだと思います。



「うらが」とすれ違う「ぶんご」。

訓練海域は大変広く、海上自衛隊は地元の漁協や港湾と連絡を取り合い、
商業船や漁船が一切入ってこないようにして訓練を行うのですが、
それがあまりにも広すぎて、23隻だというこの日の参加艦艇のうち、
わが「えのしま」の周りで訓練を行ってそのすがたを見ることができたのは
ほんの一部でしかありませんでした。

「うらが」はこの後「えのしま」と接舷する予定になっていたので、
近くにいるのは当然ですが、「ぶんご」を見られたのは嬉しかったです。

さて、艦橋内の小さなモニターでは、掃海具「えのしまくん」が捉えた
カメラの映像が映し出されていました。

「あの白く見えるのが訓練のために設置されたダミーの機雷です」

白黒モニターの(流石にカラー映像ではない)不鮮明な映像が
白くぼんやりと光る四角い対象物を捉えました。

えのしまくんは、この「機雷」を見事に見つけ出したのです!

ばんざーいヾ(。。*)ノ 

この「見つけ出す」ということがすでに凄いことだったわけですが、
わたしも含め、報道陣は画像をボーッと見つめ(撮影禁止なので)
あまりその凄さについてはピンと来ていないように見えました。

えのしまくんはソナーと識別カメラで機雷を見つけ、
係維索切断器で索を切断するか、沈底機雷処分用爆雷で処理するか、
浮上型処分用爆雷といって、係維索切断器と同様に係維索にはめ込むと、
係維索に沿って上昇して機雷を爆破処分するもので処理します。

ところで、わたしは今回の訓練に参加することが決まった時、

資料として読むことを勧められた「世界の艦船」の掃海艇特集で、
機雷を処分する水柱が上がっている写真を見て、てっきり日向灘でも
こういうことをやってくれるのだと思い込んで行ったのですが、
日向灘や伊勢湾の訓練はあくまでも設置訓練がメインであり、
実際の爆破処分を訓練として行うのは、硫黄島での「機雷処理訓練」
だけであるということに、この瞬間ようやく気付いたと告白せねばなりません。

漁場であり商業港である日向灘で、そんなことできないよね常識的に考えて。

後で考えると当然なのですが、参加するまでは、

「ニコン1のモーションスナップショットなら
爆破の瞬間などの撮り逃しが絶対ないらしい!」

などと密かに作戦を練ったりしていたのでした。(−_−)・・・



S-10の揚収まで、見張りを厳となしている艦上の隊員。



装備をアップ。
手に持っているのはやはりマイク?



揚収作業がいよいよ始まります。

隊員が手にしているオレンジ色のコードは、誘導電線。
動力用の送電線と信号伝達用の光ファイバーを一体化したもので、
母艇の艇尾から出されており、「えのしまくん」の後部に結合されています。



あたりのあった魚が引き上げられて海面に見えるのと全く同じ図(笑)
これはでかいぞ!



カメラマンが写真を撮っているところは
後部甲板より一段上の部分です。
投入の時にはわたしもここにいて、カメラマンの皆さんのうしろから
カメラを突き出すようにして撮影したのですが、
今回はそれを避けて、
ひとり上の階に上がってそこから撮りました。



ここなら乗組員の作業の邪魔にもならないし、こんな写真ははっきり言って
下の階からだと角度的に撮れなかったでしょう。
というわけで、わたしはひとり、無欲の勝利をかみしめたのでした。

別に誰と戦っていたわけでもありませんが。



自衛隊では釣りのことをF作業というそうですが、これも一種の「F的作業」です。
巨大マグロの世界記録は680キロ、えのしまくんは身が詰まっているので、
こう見えて995kgもあるそうですが、大きさ的にはほとんどクロマグロと同じくらい。



えのしまくん、海面に浮上。




繊細な機構を搭載しているので、慎重に引き揚げを行います。




揚収作業のために上半身をほとんど外に乗り出している人あり。
こんな作業をしているのにヘルメットなしとは・・・。

と思って拡大してみたら、新聞社のカメラマンでした(笑)
カメラマン魂ってやつですか。




とりあえず海上に引き上げた後は、空中でクレーンの向きを変えます。




ぐいーんとえのしまくんがこちらを向きました。

お、えのしまくんの前下部にそりみたいなのが見えるけど、
これはカメラとセンサーを保護するためのものかな?

ちなみに、S-10の胴体下には、処分用の爆雷を1個吊り下げることができます。



顔の前部の黒丸の部分がセンサー、その下に見える

丸い三つの筒の真ん中がカメラ、その両脇がライト。(多分)

前面上部のお重箱みたいなのが、搭載している処分具でしょうか。




ともかく無事に帰ってきたS-10えのしまくん、機雷も無事掃討した
(ということになった)ようです。
これで掃討具による訓練の見学を終え、次はいよいよヘロキャスティングです。

ところで、この黒い網の提灯みたいなのも信号標なんでしょうか。


続く。
 

「S」は掃海の「S」〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-16 | 自衛隊

毎日毎日遅々として進まない掃海隊訓練報告ですが、のんびりやっているうちに
実際の掃海隊関係者からちょっとした訂正が入ったので、お知らせしておきます。

士官寝室のロッカーの上に、洗面器が備え付けてあった件ですが、
条件反射的に「船酔いが起きた時のため」と断言してしまったところ、
あれは「小間物」受けではなく、ゲストがお風呂で使う普通の洗面器だそうです。

後だしになりますが、いやー、なんかおかしいと思ったんですよ。
洗面器を使う、というのはあくまでも「応急」で、最初からそうなら、
ちゃんと
中身が見えない袋とかを使いますよね?

自衛隊の艦内浴場には銭湯のように洗面器備えておらず、
各人は自分専用の洗面器を持っています。

客人が船に泊まる場合に使っていただくために、備品として置いてあるものだと思います。 

ちなみに、石けんやシャンプー、かみそりなどの、ホテルでいう
アメニティもありませんので、
短期に訪れる来客用のものは準備しています。
海上自衛官が要務で来訪する場合、その辺は心得ていて、たいがいのものは持参しますが、
他自衛隊や民間の方の中には、事前にお知らせしていても、
ホテルに泊まるようなつもりで着替えしか持って来られない場合もあります。

ということで、海上自衛隊ならではの気配りがここでも垣間見えるのでした。
しかし、他自衛隊はともかく、民間で自衛艦の士官寝室に寝られる人がいるのか・・・。

「カチッ」(わたしの野望に火がついた音)

というのは全くの冗談ですが、まあそういうことだそうですのでご参考までに。



訳あって波乱のまま幕を閉じたブリーフィングが終わり、そろそろ訓練が始まる、
ということで皆艦橋までもう一度戻ることになりました。

途中にあった「えのしま」の輝かしい優秀鑑定認定プレート。
なんとえのしまくん、横須賀地方隊で3年連続優秀鑑を張っている超優等生でした。
おまけに、平成26年度の水中処分、占位運動、NAVCOMEXの競技で全て1位。

なんだか全然わからない競技だけど、とにかくすごいのはわかった。
最後はたぶんだけど通信の何かだと思う。

水泳でも艦単位で表彰されているし、機雷戦戦技で優勝しているし、掃海隊司令も

「とにかく優秀なんですよ!」

とまるでできのいい息子の自慢をするような相好で言っておられました。 
 


さて、艦橋から後方に出ますと、信号旗のラックがあります。
テッパチにカポックというフル装備も凛々しい隊員が、今から信号旗を上げる構え。 



これは状況的にこれから行われる訓練に関係する合図に違いない。
下の赤黄斜めストライプは「本艦は走錨中である」・・・?

走錨って、錨を下ろしているのに流されてますってことよね。
なんか違うな。

あ、もしかしたら2種の組み合わせによる信号かな?

私(本船)は演習中である。私(本船)を避けられたい。
I am carrying out exercises. Please keep clear of me.

これだ! 




ドイツ軍風の?ヘルメットがいつ見てもかっこよす。
っていうか、わたしこれをリアルに見るのって実は初めてなんですよね。

カポックの背中に貼ってある横長のは蛍光素材、そして「3131」の番号は、
万が一、本 人 確 認 が で き な い 状 態 になった時識別するため?



旗のなびき方を見ても風の強さがわかっていただけますでしょうか。
少し見えにくいですが、本艇は隊司令が乗艦しているので隊司令旗が掲げられています。



旗を揚げた後はロープを固定。



訓練海域には自衛艦以外が入り込まないように結界()が張られています。
海域は思ったより広く、訓練参加の掃海艇が地平線にぽつんぽつんと認められるほどでした。
今訓練海域にやってきた、これは・・・・



あっ、「ぶんご」さんだ!
わたしたちが先に出向したけど、海面到着はあまり変わらなかったわね。



これですよ。件の地元テレビのクルーは。
奥の茶色いコートが「この訓練は何に生かされているのか」、そして
「集団的自衛権の範囲で海外で掃海するのか」と質問した女性記者。

ローカルテレビって人材がさぞ払底しているのだな、と失礼ながら思っていたら、
彼女のリポートは「声だけ」で、顔出しはありませんでした。



各種掃海具の装備してある後甲板に隊員がスタンバイしています。
この場所は、その階に降りていくラッタルの降り口にあたりますが、
この後本職のカメラが皆ここに集合したので、わたしは一歩後ろから見ました。



はい、こんな感じです。



この手は隊司令で、「この隊員(2141番)がここからの操作します」
と説明中。
2141番さんは内心、カメラうぜーと思っていたと思います。



今から海中に投入される掃海具S-10、「えのしまくん」。
そう呼ばれているかどうかは知りませんが、便宜上そうしておきます。
他の掃海艇所属のS-10よりお目目がぱっちりつぶらで可愛いぞえのしまくん。



今からえのしまくんを海中に投じる隊員の皆さんアップ。
ヘルメットをかぶっていない人が一人いるけどいいんでしょうか。
直接作業しない人だから?



えのしまくんを進行方向を向けた形で宙吊りにし、まずクレーンを海上に突き出します。



静かに慎重に、海に浸すような雰囲気で海面レベルに設置。
決して「投下」というようなラフさはありません。

何しろこのS-10、ソナーはもちろん、海中を捜索し、その映像を
艦橋に送るカメラを搭載している上、光ファイバーのケーブルが掃海艇につながっています。

優しく、そして丁寧に海に「放してやる」といったやり方で、
波など全く立っていないことからもその慎重さがお分かりいただけるかと思います。



えのしまくんの背中から吊り降ろしたケーブルが外されました。
見ていると、そのままえのしまくんは自分で泳いで行きました。(冒頭写真)

海上自衛隊の掃海技術は世界トップレベルと言われます。
その理由は、戦後の掃海隊に始まった長年にわたる実戦の積み重ねにあります。

当初は水中処分員の人力に頼る部分が多かったのですが、危険を避けるため、
遠隔操縦・自走式の機雷処分具を使った方法が模索され始めます。
そのために防衛省技研が開発し、三菱重工が製作したのがこのS-10、
水中航走式機雷掃討具で、開発期間は1998年から2003年まででした。

Sー10というからにはS-1から始まる掃海具があるはずですね。

「海上自衛隊の装備一覧」を見ると、S-1はないのですが、

S-2 音響掃海具

S-4 初の自走式処分具

S-6 磁気掃海具

S-7 中深度用(1型)と深深度用(2型)の機雷処分具

S-8 深深度用係維掃海具

S-10 機雷探知機・機雷処分具・可変深度ソナーの機能を持つ自走式

とあり、(欠番は試作?)現在S-2以外は全て現役です。

ホーミング機雷などが現れ始め、遠隔地から機雷を掃討する必要ができたので、
自走式の掃海具が世界で開発され始めたのですが、
いずれも機雷処分機能を備えておらず、発見した機雷を処分するためには
別の機雷処分具を併用する必要がでてきました。
そこで機雷処分具と自航式可変深度ソナーを兼用できる世界初の実用機として
このS-10が国産開発されたのでした。


で、このSは、実にシンプル、「掃海」の「S」なんだそうで、
開発し、命名した人が全くこだわらなかったというか、むしろ投げやりです。

まあ、あまりにも凝りすぎて「リヴァイアサン・キラー」とか
「シーデビル・クラッシャー」みたいな中二病系に行かれるよりは好感が持てますが。


さて、海中のえのしまくん、これから何をするのでしょうか。


つづく。






ブリーフィングでのある質問〜日向灘・掃海隊

2015-12-15 | 自衛隊

出航の後、しばらく艦橋の中の装備について説明していた隊司令ですが、
行動海面までまだしばらくかかるので、といって全員に中に入ることを促しました。
これから報道陣用にブリーフィングが予定されているとのことでした。



たしか艦橋から2階分降りたところに、食堂とラウンジのようなところがありました。
ラウンジには本日のメディアツァーのブリーフィングを行うための用意がしてあります。



まずブリーフィングを行う隊司令の権田2佐が挨拶をし、続いて
「えのしま」艇長川島3佐が紹介されました。

後ろのモニターは、わざわざこのために用意されたスクリーンで、
掃海隊の任務と掃海の歴史について、全てを説明してくれる構え。
わたしは今回の訓練見学が決まってから、掃海隊の訓練と、その歴史について
それなりに下調べをしてから臨んではいましたが、このような
レクチャーをしてくれるとは、全く想像もしていなかっただけにありがたかったです。

ブリーフィングは、参加者のほとんどが報道関係者(一般はわたしとミカさん含め3人)
であることから行われたようで、参加者の何人かは取材ノートを広げ、
びっしりと鉛筆でメモを取りながら話を聞いていました。

艇長の後ろはブリーフィング資料のトップページとなりますが、
この写真に並んでいる3隻の掃海艇は、第401掃海隊の3兄弟、(独自の判断で
掃海艇は勝手に男子扱いしております)「えのしま」「ちちじま」「はつしま」。

意外なのですが、3兄弟がこのように並ぶことはあまりなく、珍しい写真だそうです。



まず「機雷戦」そのものについての説明からです。
「機雷」というのが「機械水雷」の略であるということを初めて知りました(笑)



これはアメリカ海軍の強襲揚陸艦「トリポリ」がイラクで触雷したときの写真。
「トリポリ」は「イオージマ」級強襲揚陸艦の5番鑑です。

この「イオージマ」級というのは、全て退役して後継はありませんが、
命名基準というのが「古戦場」で、「トリポリ」も「トリポリ戦争」から取っています。
(海兵隊賛歌の歌詞にも”From the halls of Montezuma To the shores of Tripoli,”とある)

その他の名前がすごくて(笑)

2番艦「オキナワ」、3番艦「ガダルカナル」、4番艦「グアム」
6番艦「ニューオーリンズ」、7番艦「インチョン」

なんかこういう地名を名前にしてしまう感覚が日本人とは違うよね。って超余談ですが。



実際の被害ではなく、実験的に被害を調査するために爆発させたものでしょう。
真ん中で爆発した場合、船はポッキリと半分に折れてしまっています。

先日特攻の「心理的効果」、つまり「戦果」についてお話しする機会がありましたが、
この機雷戦ほど、少しの投資で(一つの機雷は大変安価である)相手に
心理的脅威を与え、経済封鎖をして打撃を与える「費用対効果」の絶大な戦法はないとのこと。

終戦近くの日本に対し、アメリカ軍は「飢餓作戦」(オペレーション・スタベーション)として
日本近海に機雷を撒いて経済封鎖をする戦法をとりましたが、たとえ降伏せず、
襲来する敵機を撃退して戦局をしのぎ続けていったとしても、この作戦によって
遅かれ早かれ物流は遮断されて、日本は”干上がっていた”という予想があるそうです。

小さく簡単であるが、絶大な脅威となる、これが機雷なのです。



先般、機雷の種類について、「係維機雷」、つまり海底に沈められた錘に
繋げられて海中を浮遊しているタイプについてお話ししましたが、
このほかにも機雷の設置の種類はこれだけあるという図解。

海に沈んでいる沈底魚雷がもっとも初期的な形だと思うのですが、
短係止機雷といって係維器に係維索を持ち、海底近くに機雷缶を係維したもの、
もちろん海上を浮遊している浮遊機雷というのもあります。

この中で もっとも最新型で恐ろしいのが、

「上昇機雷」「ホーミング機雷 」

で、いずれも感知すると目標に向かってくるものです。
ホーミング機雷は目標を追いかけてくるもので、探知には高周波が使われています。



前にここで触れた係維機雷の処理のしかたの一つ。
絵が少しわかりにくいですが、今から上を通過して、機雷を切り離します。



切り離されて浮かんできた機雷を、掃海艇に搭載した機銃で射撃し、爆破。
「えのしま」型の場合JMk-61バルカン砲で行います。



これも繰り返しになりますが、感応掃海で機雷に「ダミーの艦体(白い線で描かれたもの)」
を感知させて、爆発を誘うやりかた。
教えていただいたYouTubeで見ると、かなり速いスピードで曳航していました。



そしてこれ。
あの黄色いS-10という掃海具を使ってやる方法。
S-10を使うときには「機雷掃討」と称します。
今回わたしたちが見学したのはこの訓練です。

機雷の横に爆雷を設置して、掃海具を揚収してから遠隔操作で爆破します。



原始的というか、水中処分員が直接コード付きの爆雷を仕掛け、
これも遠隔操作で爆破させるというもの。
もしかしたら海上自衛隊の水中処分員というのは、自衛隊でもっとも
実質的に危険と隣り合わせの任務なのではないかと思いました。

この日見学したもう一つの訓練は、「ヘロキャスティング」(hellocasting)といって、
ヘリコプターのhellを使った、おそらく造語だと思いますが、(辞書になかった)
これはヘリコプターから水中処分員がrapelling降下して海に入り、海中の機雷に
爆薬を仕掛けてくる(もちろん揚収してヘリが離れてから爆破)というハードモードでした。




というわけで掃海の方法についての説明を終わり、掃海隊の組織についてと、
所持する掃海艇、掃海艦、掃海母艦、処分艇などのご案内。

「このえのしま型が、現在の自衛隊でもっとも最新鋭の掃海艇となります」

心なし誇らしげに紹介する第411掃海隊司令でした。


次に今回の訓練の概要が説明されました。

まず、訓練期間は9日。

参加兵力は、艦艇23隻、航空機11機、隊員数1100名。

訓練項目は「機雷敷設」「各種機雷掃海」「EOD訓練」「発着艦訓練」。



洋上での給油も、実は訓練の一環だったようです。




さて、ここからはちょっとした機雷掃海の歴史のようなことになります。
図は、日本列島を取り巻く、大東亜戦争の時期に敷設された機雷のマップ。
アメリカ軍の「飢餓作戦」より、日本側が防潜で撒いた機雷の方が多かったりしますが、
米軍が撒いたのは、列島を取り巻く港など近海だったので、こちらの方が実質脅威です。



「日本人は戦後一人も戦争で死んでいない」というのは厳密には間違いです。

国民には極秘で、自衛隊の原型である警備隊時代以前から掃海は行われ、

朝鮮戦争のときには掃海艇が出動して、この作業で「戦死者」も出しています。

掃海の方法が確立していなかった頃のことで、「特攻」(機雷海域をわざと航行し爆破させる)
も行われたことがある、という例を呉の資料館で見た覚えがあります。



そして、日本の戦後初の国際貢献となったペルシャ湾派遣。
そのときの掃海隊司令は、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の沖縄戦防備隊隊長太田実中将の息子、
落合2佐であったことは以前もこのブログでお話ししました。



いまだに掃海隊は、必ず戦時中に敷設された幾つかの機雷を発見し処理しているのです。
陸上ではいまだに土中から不発弾が出てきたりして、陸自の特別処理班が出動しますが、
海の機雷処理は「住民が避難」などということのないせいか、報道を聞くことはありません。

そこで、黄色で囲んだ「毎年機雷処分を継続」というの、
これ覚えておいてください。(試験に出ます)



一通りの説明を終わって、司令は「何か質問はありませんか」と皆に聞きました。
一人、全国紙の新聞記者が、全くピントのぼけた質問をし(あまりにも瑣末なことで
司令も”それは知りません”と答えるしかなかったし、わたしも内容を覚えていない)
その次に手を挙げたのが、地元テレビの記者兼キャスター(ただし音声専用)の女性でした。

いやー、この人がなんといったと思います?

「今回行われるような訓練は、実際に何かに生かされているのでしょうか?」


次の瞬間、わたしは「え?」と声が出てしまいましたし、司令の顔にはありありと、

「おまえはこの20分間、何を聞いていたんだ」(怒)

という表情が浮かんだ・・・・ようにわたしには見えました。

戦後、引き揚げ船や学童を乗せた船が触雷して多くの犠牲を出したのち、
先達が命の犠牲まで払って、日本という国を物理的に縛っていた機雷の海を啓開し、
そしていまだに毎年幾つかの機雷が見つかっているのを処理し続けている、と・・・、
いかに機雷の恐怖が甚大なもので、海自はそれに対峙するために、日本の海で
機雷の犠牲を二度と出すことのないように、自らも危険な訓練を日夜行っているのだと、
一から子供にもわかるように懇切丁寧に説明した挙句に・・・・・この質問ですよ。


表情には出しませんでしたが、その場にいた何人かの自衛官は、内心無力感と失望と、

所詮マスコミに対する「話の通じなさ」と疲労感を覚えたのではなかったでしょうか。

司令はそれに対し辛抱強く、実際の掃海隊の訓練はすべて「実践」につながるもので、

「”何に生かされているか”というのは、わたしもわかりません」

というような、内心の反発と皮肉が込められた(ような)返事をしました。
しかし、この記者(ミカさんが後でいうところの”あのバカ”)はその次に
とんでもない地雷(機雷じゃなくってね。誰うま)発言をぶちかましてくれたのです。

「安全保障法案が成立しましたが、今後、集団的自衛権の範囲で
掃海隊が海外での活動を行うことになりますか」


おいおいおいおいおいおい(笑)

コワモテの顔がかすかに歪んだかに思われましたが、司令は
うんざりしたような表情をを辛うじて隠して、
こうビシリと返しました。

「わたしはそういうことをお答えする立場にはありません」

「(あたりまえだろうがあっ!)」(←わたしの内心の声)

ていうかこの人、ここに来るまで「掃海」って言葉を聞いたことなかったのかしら。
そして20数年前、国会で散々牛歩戦術までして反対した野党やマスコミの
「戦争に巻き込まれる!」
という非難を圧して、ペルシャ湾で掃海が行われたことを
もしかしたら知らないのかしら。

あの頃の日本が、すでに「国際貢献」として自衛隊を派遣しているのにもかかわらず、
そして現在、海上自衛隊が持つ掃海能力は、ずば抜けて世界一と賞賛されており、
ホルムズ海峡の掃海を海自に任せたい、と世界中が希望しているにもかかわらず、
いまさら・・・今更「集団的自衛権の行使によって可能になる掃海」・・・だと?


ミカさんではないですが、わたしもまた、記者だかキャスターだか知らんが、
この人はもしかしたら1、物事を理解する能力が甚だしく低いか、
2、日本語が通じないのか、3、
全く歴史を知らないのか、
はたまた4、「憲法」を基準に是か非の二元論でしかものを考えられないのか、
そのうちどれなんだろうと真剣に思いました。


そして、この「度し難い馬鹿げた質問」をしたのが、他ならぬ報道関係者だったことに対する
絶望感と、「お約束」をこの目で確認したことに対する奇妙な安堵を同時に味わったのです。





海上自衛隊の掃海隊が水中処分員などを投入して収容した津波被害による
犠牲者の遺体は425柱。
体の死者数から見ると微々たるものかもしれませんが、これらの遺体を、
隊員たちは海中に潜り、瓦礫を押しのけて、その下から見つけ出しているのです。


よりによってこの説明を聞いた直後に、

「この訓練は何かに生かされているのか」

と平然と聴いて憚らないその脳みそを、このさい機雷といっしよに爆破させてやりたい。
とわたしは内心ムカムカしながら、ミカさんと目で合図しあいました。
 

この、ホーミング機雷よりも確実に頭の悪そうな記者が制作した当日のニュースを、
わたしは帰りの飛行機を待つ空港のラウンジで見ることになります。

そのニュースによって、わたしは彼女の質問というのが「局の意向」であり、

つまり掃海隊の「武力」というのは、日本が集団的自衛権により参加させられる
「戦争」のために蓄えているもの、すなわち「憲法を踏みにじる違法行為である」
という考えのもとになされていたものだと知ったのです。



しかし、それについては、また後日(笑)




続く。