ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

竹槍事件~言論機関の内部告発

2011-01-31 | 海軍
陸海軍の相克ともいえるいがみ合いについてはそれだけで一冊の本ができるほど様々な事件を生みだしました。
このブログにおいても事あるごとにその仲の悪さについて触れてきたわけですが、
「海軍が士官兵問わず圧倒的にモテていた」
などという、エリス中尉好みの話題など不謹慎に感じるほどにその確執は深刻で、
「満州事変以来15年の日本海軍の歴史は、陸軍との抗争の歴史であった」
と断じる向きもあるほどです。


三国同盟締結、開戦から終戦まで、飛行機の取り合い、戦争のやり方、果ては特攻の数に至るまで・・・。
中でもこの「竹槍事件」は、言論の封殺や一般人への権力者の圧力といった、
現代にも通じる問題を含む象徴的な事件でした。


今日は、その当事者である新名丈夫氏(当時毎日新聞記者)が巻き込まれた事件についてお話ししましょう。
経過が長いので何回かに分けて書くつもりです。
この事件は、いかに後世が私情を挟まぬ公正な目を以て見ようとも
「やはり海軍は陸軍より現実的かつ科学的で陸軍は侵略主義の非人道的立場にあった」

と断じたとしても仕方がないような一面を持つ歴史の証言でもあります。


以下、当事者である新名丈夫氏の著書
「太平洋戦争」から本人の証言を中心に竹槍事件の概要を説明します。



新名丈夫(しんみょう・たけお)は明治39年生まれ。
毎日新聞東京社会部で太平洋戦争時は海軍担当の記者でした。

昭和19年2月、当時開戦後日本の国力はすでに末期的症状を呈していました。
日本から遠く離れた太平洋では連合艦隊の根拠地たるトラックがアメリカ軍の攻撃を受け、
西太平洋の島々ににアメリカ艦隊を迎え撃つという太平洋戦略は崩壊します。

大本営は「撤退」を「転戦」に、戦争末期には「全滅」を「敵に打撃を与えながらも玉砕」
と言い変え、相次ぐ敗戦を国民から糊塗していました。

そんなある日の毎日新聞朝刊、東条首相が前日の閣議で発表した「非常時宣言」の記事の下に、
新名始め毎日新聞記者たちが社の存続さえ賭けた決死の記事が載ります。

「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た」
「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」


開戦以来「勝った、勝った」の大本営発表しか知らされていなかった国民に対して、敗戦の事実を告げたものです。
その内容を長くなりますが以下挙げます。

「米作戦の狙いはどこにあるか。南はソロモンよりラバウルをつき、東はギルバートからマーシャルを襲ったのは、
その二つの新航路の合するところ、すなわちトラックを狙っているもので、
トラックが米国飛行機の勢力圏内に入るようになっては、日本の太平洋作戦は成立しない。
大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である。
今こそ我らは戦局の実態を直視しなければならない。
戦争は果たして勝っているのか。
ガダルカナル以来一年半、太平洋の戦線は次第に後退の一路をたどり来たった。

われらの最大の敵は太平洋より来りつつあるのだ。海洋戦の攻防は海上において決する。
太平洋の決戦は日本本土沿岸において戦われるのではない。
数千海里の基地の争奪をめぐって戦われるのである。
本土沿岸に敵が侵攻し来たるにおいては、もはや万事休すである」


敵が飛行機で攻めてくるのに、竹槍では戦えない。
問題は戦力の結集である。内線作戦では兵力の集中による各個撃破が絶対条件である。
挙国一致、我が戦力の結集がおこなわなければならない。
日本の存亡を決するものは、我が海洋航空兵力の飛躍増強に対する戦力の結集いかんにかかる」


「竹槍では間に合わぬ」


これは「竹槍主義」という陸軍思想の否定でもありました。

開戦後2年、マーシャルに敵がきたとき、同方面所在の海軍航空兵力は百機にも満たない状態でした。
「海軍は飛行機がなくて戦争はできない。だが政治力がなくてどうすることもできない」
「せめて我に一千の飛行機を与えよというのが、全海軍の血涙の叫びだ」

当時海軍記者クラブでは大本営海軍報道部長栗原悦蔵少将が涙とともに悲痛な訴えをしていたのです。
この記事が新聞に載ったとき、真っ先に海軍が出した声明は

「本日の毎日新聞は、全海軍の言わんとするところを述べております。
部内の絶賛を博しております。以上」

というものでした。


映画「軍閥」ではこの栗山少将が加山雄三扮する新聞記者に
「トラックがやられた。太平洋で最大の海軍基地が壊滅した。
海軍は国民に事態の重大さを認識してもらうために真相を発表しようとしたが、
陸軍がこれを強引に抑えた」
というシーンがあります。

「なぜ?」と新名記者(映画では仮名の新井)。
「海軍に飛行機を渡すのが厭だからだ。東条は本土決戦を考えている。
このままでは日本は破滅だ」

これはほぼ当時の海軍の総意であったといってもいいでしょう。


海軍のみならず真実に飢えていた国民も、陸軍情報局ですらも当初この記事を称賛し、
新聞協会は徳富蘆花賞(新聞記者に対する最高の賞)を贈ると言いだしました。

しかし、東条首相は激怒しました。

首相、陸将、軍需相、参謀総長までを兼務し本土決戦をするにあたっていわば独裁体制を築いていた東条は
新政策「非常時宣言」を発令しました。
映画「軍閥」では、小林桂樹扮する東条首相がこのように演説します。

「これによって思想言論の取り締まりを徹底的に強化し、学徒の根こそぎ動員、生活の簡素化、
休日の縮減、高級料理店並びに歓楽場の閉鎖などの非常措置を取る。
全国民は一死報国、最後の一人まで竹槍を持って戦う覚悟を固めなくてはなりません」

その竹槍精神を国民に強要する記事と並べられた
「竹槍では間に合わぬ」の記事・・・。


それを書いたのが新名丈夫記者でした。

当時の新聞記事は基本的に各方面の検閲を受けなくてはいけなかったのですが、
海軍記者であるところの新名の執筆した記事は海軍省の検閲だけでよく、
かつ、記者によっては顔パスとでも言うべき慣例がありました。
新名記者はそれを利用したのです。




新名記者がこの記事を書いたのは、彼一人の義憤によるものではありません。
マーシャルの陥落の発表を大本営が二十日もの間ためらっていたとき、事態を憂えた新名氏が
「もはや言論機関が立ちあがるしかない。
一大プレスキャンペーンを起こして下さい」
と上に訴え、あらためて編集会議を経た結果、彼が任されたといういきさつがありました。

当初はキャンペーンは一週間は続ける予定でした。
しかし、さっそく東条首相による
「犯人探し」
「報復、懲罰」
が始まったのです。


「今朝の毎日新聞を見たか」
「観たのなら、なぜ処分せぬか」

足音も荒々しく陸軍の局部長級会議の行われている部屋に入ってきた東条首相はこう怒鳴りたてます。
陸軍は即刻毎日新聞社に対し、新名記者の即時退社、厳重処罰を要求しました。


しかし、高田元三郎編集総長はそれを断固拒否しました。
「筆者を処分することはできません。全責任は私が負います」

内務省の指示でその朝刊は発禁処分になりますが、元々キャンペーンを一週間継続する予定だった毎日新聞は、その日の夕刊で言わばダメ押しの追い打ちをかけます。
その日の夕刊一面トップ記事の見出しはこうでした。

「いまや一歩も後退許されず、即時敵前行動へ」

つまり、海空軍力を拡充せよ、太平洋決戦を断行し本土決戦に反対、と檄を飛ばすに等しい記事でした。
東条首相はまたも
「統帥権干犯だ!」
一報道機関ごときが作戦をうんぬんするとは、軍統率の最高権力を犯すものとして激怒します。



新名丈夫記者に対してすぐさま召集令が下りました。
東条首相はこの一個人「懲罰招集」を発動したのです。


この記者をめぐって陸軍と海軍の熾烈な綱引きが始まるのですが、それは次項に回します。


劇中、「毎日はかつては『陸軍の毎日』であった。
これでは『海軍の毎日』ではないかっ!」
と憤る陸軍報道部長に対し、毎日の高田編集総長(志村喬)は
「毎日は陸軍の毎日でも海軍の毎日でもない。読者の毎日です

と言いきるのですが、不思議なことになぜかこのあと目を伏せるのです。
社会の木鐸としての矜持を明言したものの、これから巻き込まれるであろう嵐の大きさを予想して
慄然としてしまった、という編集総長の心の裡をあらわした演技だったのでしょうか。


ともあれいまやこの言論人の気概など見るべくもない今日の毎日記者は
先輩たちの爪の垢でも煎じて飲むべきだと思いきや、新名記者のような記者ばかりでもなかった、
ということがこの後明らかになります。

次回は、この新名記者の召集をめぐって後海軍と陸軍の間に起こった軋轢についてお話ししましょう。














さるまねさるまねるさる

2011-01-30 | つれづれなるままに

      
早口言葉です。三回繰り返して言って下さい。
ええい、漢字で書かんと意味が分からん!という方、これは
「猿真似(を)猿真似(す)る猿」という意味です。

因みに画像ですが、二年前のお正月に行ったブルガリホテルの部屋から撮りました。
このホテルはジャングルの断崖絶壁を切り開いて作った秘境のオアシスみたいなコンセプトで、
全室一軒家のコテージ、部屋にはプールもついていました。
このとき、全身サイボーグの某セレブ姉妹もお泊りだったという噂があり、遭遇するのを楽しみにしていたのですが、
残念ながらお見受けすることはありませんでした。

その代わり?部屋からこういうふうにお見受けしたのは大量の猿、猿、猿。

ルームサービスを頼み、ホテルの人がセッティングしていると、暗号サルサルサルでどこからともなく来襲し、
部屋の周りで中をガン見し、ときどきこうやってノミ取りして待機して何かいいことが無いか待っているのです。

部屋の中でこれですから、朝食をテラスにセッティングした日には、まさに「堂々のわが軍雲霞のごとし」で、
周りをぎっしりと見物猿に包囲され、あたかも猿の惑星に異次元トリップしたようなファンタジーな朝を
迎えられたものです。

我々は「グッドツーリスト」の見本のような日本人ですので、猿が食い荒らさないよう
食事が終わったらすぐに片づけてもらい、彼らが味をしめるようなことをしないように留意したのですが、

お そ ロ シ ア 。

ロシア人、それも絵にかいたような成金のロシア人がねえ。
この、いまや「世界で一番嫌われているバッドツーリスト」の栄光を中国人と争っているロシアンが、

猿に餌をやる

わけです。
プールから乗りだして、

フライドチキンを。

おい、猿に肉食わすな!とヘタに注意して日本海海戦のバルチック艦隊の仕返しとばかりに広大なプールの隅で
多勢に無勢でやり込められてもつまらないので黙って見ていましたが。

(奈良でシカがチキンナゲット食べてたのを見たことがありますが・・・食物連鎖を乱すなよ)

前置きはこのくらいにして・・ふう、ついこういう話では力が入っちゃって。

皆さん、サッカーお好きですか?
エリス中尉は、サッカーというスポーツそのものは好きでも嫌いでもありませんが、
国際試合はサッカーだろうが野球だろうが、アツーくなって応援し、勝てば
「よっしゃ、よくやった」
とガッツポーズをするといった程度のスポーツファンなのですが、先日アジア杯の予選の
対韓国戦が今夜あるとニュースで聴きました。
だからといって、深夜ニュースに齧りつくほどの熱意はなく、たまにこういう試合をわたしが見ると、
なぜか必ず負けるので「わたしが観なければ勝てるかもしれない」なんて思っていました。


次の日。
エリス中尉は、家で仕事をするとき、有線放送を聴くことが多いのですが(最近は海軍の行進曲集)
特にTBSがやっているOTTAVAというクラシックオンデマンド番組を愛聴しております。

時報代わりにニュースも読んでくれるのですが、この日、ふと耳を止めたら
「・・・・という試合結果でした」
というところで、そう言えばサッカーどうなったっけ、聞きそびれちゃった、
と思いつつもそのまま用事をしていました。

また何時間か後、ぼそぼそと試合結果を報じている様子に耳を傾けると
「これで韓国とのこれまでの対戦成績は○○対××(日本の圧倒的な負け数)となりました」
というところでニュースを締めるもので
「ああ、負けちゃったのね」
と思っていたら、ネットで見たニュースでは皆さんもご存知の通りPK戦の末勝っていたんですねー。

うーん、TBSはスタッフが在日だらけで、それでつまんない韓国ドラマばっかりやけくそで放映しているのだ、
と聞いたことがありますが、OTTAVAお前もか。

なんで日本が勝った、というところで素直にニュースが終わらないのでしょう。
言わずもがなのこれまでの対戦成績を最後に付け足さないといけないのでしょう?
(まだ韓国が勝っているらしい。最近は日本が強くなってFIFAのランクも日本が上)
他の国相手にこういう締め方をしますか?
などと、すっきりとしない気持ちでさっきの放送を思い返したりしていたのですが。


ところがですね。
続いて見つけた試合関係のニュースでこの試合で韓国の選手がペナルティキックを決めたときにどうも

猿のマネをした

ということで今問題になっているらしいのです。
この、ゴールやなんかの後にするパフォーマンスを「セレモニー」などと言ったりするらしいですが、
この韓国チームは過去にも「スケートのマネをした」ということがあって、
この意味が普通の人にはさっぱり分からず、当然相手チームのアメリカにもさっぱり分からなかったのですが、
なんでも冬季オリンピックのスケートでオーノ選手と言う日系アメリカ人と韓国選手の間で審判トラブルがあり、
結果韓国人が負けた、ということへの抗議だった、というのです。が、

何の関係が?

という先進国の国民なら皆が持つであろう不思議な感覚を、
この国のスポーツ選手やサポーターの皆さんは持っているようです。そう、いまだにね。
この「猿真似」は、そう、日本選手に向かって侮辱した
「やーい、お前ら猿ー!」
というアピールだった、というんですね。

点を入れた、やったぜ!のときにどうして相手を侮辱するというメンタリティになれるのか、
そのへんも文化国家の国民には理解できない事象ではあります。
もし、スポーツ選手でこんな真似をしたら、おそらく日本では二度とグラウンドの土を踏めないくらいの厳しい処分が待っていると思いますが、この国は一味違う。

「痛快だった」「面白かった」という意見が半分はあったということです。
そして、辛うじて半分のまともな感覚の韓国人は
「世界が見守る中でこんな行動を取ったのは大人げない」などと選手を非難。

(あくまでも相手選手を侮辱するなんてという語調でないことに注意)

すると、件のキ選手は、当日夜ツィッターで
「日章旗を見てムカついた」
「スポーツ選手である前に大韓民国の国民です」
などと意味不明の供述をしており、猿マネが侮辱であることを認めてしまいました。

まず日章旗、と言っていますが、これは皆さんご存知の「軍艦旗」のことです。
現在も自衛隊で使われ、堂々と護衛艦に立っているあの旗です。
戦後デザインを変えようかという意見も無いではなかったが、
あまりにも完璧すぎて変えようがなかったという、あの旭日旗です。

この旗を目にしたキ選手は
「ついかっとなってやった」じゃなくて「日章旗(じゃないつーに)を見て涙が出た」
と供述しており、さらに
それを報じた韓国の新聞も
「日章旗は第二次世界大戦当時に日本の海軍で使っていた旗で、
日本のミリタリズムを象徴する意味 が含まれている」

というどうしようもない報道でキ選手の弁解にこれ努めていますが、どうもいまいちわからないのは
「スポーツ選手としてするべきではないのは分かっているが、その前に韓国人だからやってしまった」
というキ選手の言い訳。

簡単に言うと、こういうことが「愛国無罪」として許されてしまう国なんですね。

まあ、要するにバカスポーツ選手ってことですが、この場合の問題の深刻さは
キ選手はヨーロッパのどこやらのチームでプレイをしており、ある日敵のサポーターに
「猿マネで侮辱された経験がある」
という点ではないでしょうか。
アジア人として猿と侮辱され、屈辱に燃えたであろう彼が同じアジア人に向かって猿のマネをして侮辱する。

日本人を始め、アジア人はほかの人種からイエローモンキー呼ばわりされているわけですが、
そのイエローモンキー同士で「やーいサルー」と相手を侮辱するというイエロージョーク。

さて、1月28日現在、この問題は非常に深刻な広がりを見せており、
ついにこのキ選手の処分が検討され始めました。
FIFAは「人種差別反対(Say no to racism)」とのスローガンを掲げるほど、
相手国に対する差別的な行動について、強力に処罰することを常に表明する立場を取るためです。
そのため、キ選手の「猿パフォーマンス」に対して、FIFAは大会を終了後、
「非紳士的行為」とみなし処罰する可能性が非常に高いとみられています。


そしてそれに対してキ選手と韓国チームは
「スタンドの旭日旗に心を痛めた」という言い訳で逃げきろうとしているみたいですが、
とにかく旭日旗が現在も使われているもので軍国主義とは何の関係も無いことを
だれかFIFAの処分検討委員会の席上表明してきてくれませんかね。


と、ここまで書いてからもう一度ソースを調べたら、この旭日旗と思われていたのはスタンドの広告にあった
朝日新聞の社旗
であったことが判明!


さらにさらに1月29日現在、日本のテレビ局までが(だから、かな)
「旭日旗なんぞ持ってくる日本人が悪い」(BY小倉)
などといいだし意を強くして日本の軍国主義のせいにする気満々だった韓国チーム、
たとえどんな理由があろうと猿パフォーマンスは処分を免れない、と悟ったのか、今度は
「ヨーロッパで自分にされた『猿チャント』(スタンドの猿声野次)への抗議」
と言いだしているようです。


・・・・だから、言い訳を途中で変えるなよ。











海軍望楼vs.都留艦長

2011-01-29 | 海軍


今のように電気による通信手段がなかった頃のフネ同士の連絡は、主に手旗で行われました。
そして、海上の艦船と視覚信号で交信連絡をし、必要に応じて大本営、海軍省、各鎮守府に
有線通信で知らせるポイントが全国各地の島や岬に作られました。

これを望楼といいます。



1894(明治27)年、 勅令第七十七号として「海岸望楼条例」が公布。
当時、日清戦争直前であり、全国海岸の要所に望楼を設置し、沿岸監視態勢がとられました。
そこでは、陸上と艦船との信号、海上監視、気象観測などが行われました。
1900年に海岸望楼は「海軍望楼」と名称を正式に変更します。


現在、史跡として観ることのできる望楼跡で有名なものは、稚内にある宗谷岬の望楼です。
当時、ロシア海軍は太平洋艦隊(旅順艦隊・ウラジオストック艦隊)、バルト海艦隊(バルチック艦隊)、
黒海艦隊に分散しており、開戦した場合バルチック艦隊が太平洋艦隊に合流するものと予想されていました。
いずれ対戦するロシア海軍の動きを監視するために1902年この地に設営されたものです。



さて。


本日タイトルの都留艦長とは、あの『伝説の男』都留艦長。
都留艦長が手旗を振っているわけではないので、勿論都留艦長がこのように通信するようにと
手旗信号員にやらせているわけです。


下関西方の六連島に望楼がありました。
ある日、しれっとして通り過ぎる観たことも無いフネ。

「ナニブネナリヤ」(船の名は?)

するとたまげたことに

「当ててごらん」

ときた。
望楼員たちは呆れながらみんなで相談の末

「オンドナリヤ」(隠戸ですか?)

すると

「よく当てたその通り」


このフネはあの名物艦長都留雄三大佐のフネ、特務艦隠戸でした。
このときオランダ領インド(インドネシア)のタラカンから原油を積んで帰ってきたところだったそうです。

このあと、
「イズコヘ」
とチャーリー浜のような問いかけをする望楼員に
「ワレハイクナリトクヤマヘ・ハイゴメン」
と答えて隠戸は去っていったというおまけが付くのですが、どうもこのオチは余計な気がするので、
(というか、どうもここは後に付け足された伝説のようです)マンガではボツにしました。

それにしても、無線が発達する前の原始的な通信方法ならではの呑気なエピソードです。
もちろん、こんな風に手旗手に通信させる艦長は都留大佐くらいでしたでしょうが。



海軍望楼は無線通信の発達によって次々と廃止され、大正12年には全廃になりました。
これは、望楼が廃止される直前の、古き良き時代の海軍のお話です。





「菅主導」遺骨収集事業の胡散臭さ

2011-01-28 | 日本のこと
先日に続いて勉強会の会場に掲げられた国旗画像でお送りします。


厚生労働省によれば、2009年(平成21年)3月現在、
第二次世界大戦において海外で戦死した旧日本軍軍人・軍属・民間人約240万人のうち、
日本に送還された遺体は約半数のわずか約125万柱だけとなっています。
残りの約115万柱については、海没したとされる約三十万柱を含め、
現在もなお海外に残されたままです。


この遺骨を収集するという事業について、当然ながら国が行うべき責務を負っていながら
日本と言う国は永らく放ったらかしにしてきたわけです。

もちろん、国にこういったことを積極的に推し進めるように働きかけている人たちもあるのですが、
遺族や当事者が他界している時間との競争の中で、お役所体質を根底から問う所からでは埒が明かない。

そのようなことで民間の団体やボランティア、NPO団体などがこの事業に取り組んでいます。
在外慰霊碑の維持、管理を支えるために戦史検定をし、その参加費と協賛金をそれに当てるという団体もあります。

笑ってしまったのですが、この検定、初級、中級、上級とあるのですが、その中で
点数によって
50点(満点)「中隊長」42~49点「小隊長」35~41点「分隊長」34点以下「不合格」
なんだとか。
不合格は階級なし、ってことですかね。

さらに余談ですが先日の勉強会で講師だった笹幸恵氏は、某ブログでは「戦跡のアイドル」だそう。
こういった言い方や持ち上げ方に不謹慎とかいちいち目くじらを立てるだけの人よりは、
動機は不純でもこういった活動に興味を持ち活動する人の方を評価したいです。


ところで、去年、国会を見ていて「ほお」と笑ってしまったのですが
(ほおどころじゃない笑いについてはキリがないので今日は書きませんが)
仙谷官房長官は冒頭で陳謝、自民の森まさこ氏の激しい追及に蓮舫大臣も苦しい言い訳の後、陳謝、
さらに仙谷長官の「元弁護士であるとはとても思えない法律用語の誤用」を責めたてられて
まさに森まさこ独演ショー「月に代わってお仕置きよ」質疑の日です。

何のつながりも、何の伏線も無いのに、いきなり管総理が
「私は遺骨収集事業を推進したんだああああ」
みたいなことを言いだして、総員が
「はい?」
って感じになったんですよね。

ははあ、これは、遺族会を含むいわゆる左派以外へのアピールだな、とエリス中尉意地悪く考えましたね。
8月15日の終戦記念日、靖国に集まった人たちの管総理に対する冷やかな態度が表わすように、
左翼政権であるところの民主党は、党大会に国旗すら掲揚しないという異常さで反日ぶりをアピールしています。

しかし、反日ばかりでは戦争の被害者までおろそかにすると思われて支持も減らす。
靖國の閣僚参拝など全くできもしないしする気も無いわけですが、遺骨収集事業をすることに関しては
さすがに中韓は何も文句を言わないので、保守層への機嫌取りとしてこういうことを考えついたんですね。

何の関係も無いのに言ってしまった、というのはそれがそういった下心からのパフォーマンスである、
ということを如実に表していると言えましょう。

能ある鷹は爪隠すとか、功を語らずなどと言った殊勝な首相(お、はからずもシャレに)では元よりないので、
全く関係ない自慢をここでしてしまったということのようです。


そして、それを受けていわゆる保守系のブログでは
「管政権唯一の政治成果」
「ココだけは見直した」
笹氏ですらそれを評価するような発言をし、あの小林よしのり氏ですらマンガでそれを褒めたということで、
ある程度のパフォーマンス効果はあったようです。

しかしみんな、騙されてんじゃねーぞ。
国家がそれをするのが当然ではないですか。
それに、厚生労働省の動きを見てごらん?
「ボランティアを大量に増加して募集」

ボ ラ ン テ ィ ア

ですよ。
予算も増やしますがね、13億です。
みなさん、民主政権が朝鮮高校無償化のために予算をいくら組んでいるかご存知?
8億強ですよ。

この5億の差を、「5億も」と言いますか、それとも「5億しか」と言いますか?
遺骨事業の予算が無償化より低くてはおかしいですもんね。


講師の一人、あちらがアイドルならこちらはマドンナといった風情の美女、桜林美佐氏は
「腹が立って仕方がないんです」とおっしゃいました。

「できるわけないんですよ。『一体残らず』なんて。
これも、言ったもん勝ちでできなくてもだれも責めませんからね」

そう、マニフェストと一緒です。まあ、サギフェストの方は責められてますが。

現実問題として、現在自衛隊が使用している滑走路の下にもたくさんの遺骨があるとされ、
一柱残らず収集しようと思えば、それを引っぺがさなくてはならず、そのあたりの責任を自衛隊に押し付け
「悪者にしている」構図があるのだとか。

「そんなパフォーマンスをするなら靖国参拝すればいいんです」
とは桜林氏の言―。

さて、民主と歩調を合わせて反日まっしぐら、朝日新聞の遺骨収集に関する報道で
「はい?」
というものを見つけました。

フィリピンでのNPO団体の遺骨収集で、この団体が
「日本人のものではなく、盗まれたフィリピン人の『偽遺骨』を収集してしまった」
という記事です。

悲しいことに、
日本人が骨集めてるぜ!じゃ、そのへんの墓から一つかっぱらって来て売れば儲かるぜ!
という、まあ、貧しい国には避けられないレベルの犯罪が起きてしまったわけなのですが
エリス中尉がのけぞったのは、この記事の報じる朝日新聞のタイトルです。

「日本人遺骨収集事業に(フィリピンが)反発」


・・・・・・はい?

これ悪いのは日本なんですか?
骨をお墓から盗んできたのって現地の人間ですよね?
「こういうことになったから遺骨収集をしばらく中止して欲しいとの申し入れがあった」
っていうのは、「反発」なんですか?

いつもいつも思うんですが、朝日新聞の記者って視点が一味違いますよね。
日本人じゃないみたい。

つまり、遺骨がそこにあるということの大前提として、フィリピンを侵略しようとしたという過去があるから、
っていうところに落としたいんでしょうか。


さて、硫黄島まで行き、出てきた遺骨の前に額ずき
「一体残らず収集したい」
と文句のつけようもない態度で手を合わせる管総理ですが、まことにおせっかいながら一言。


英霊を拝むときには軍手くらいはずすものですよ。


カイワレを何もつけずに貪り食ってみたり、お遍路に出てみたり、
このヒトがやって見せることはいちいち「ほころび」があるんだよなあ。
真実の目的が実は別にある、ということを、図らずも露呈してしまう。
細心な注意を払って演じきるという政治家に必須の能力がないから、いつも頭隠して尻隠さず。


いまや朝日新聞の「ポストが赤いのもフィリピン人が骨を盗むのも皆日本が悪いのだ」
に通じる様式美と言っても差し支えないでしょう。







「ムルデカ」インドネシア独立と日本人

2011-01-27 | 映画

「笹井中尉がММだった話」という稿で、
オランダ領インドネシアのメナドに不時着陸した笹井中尉がモテモテだった、という話をしました。
日本軍がオランダの圧政から民衆を解き放ったということで
「白いものをかぶって空から降りてくる人々が苦しみから解放してくれる」
という言い伝え通りになったため、日本人が神様扱いされていたためです。


笹井中尉ならずとも、このモテモテは日本人ならインドネシアに行けば、今でも体験することができます。

エリス中尉はバリ島に二回行ったことがあります。
一度目はコテージを借りる貧乏旅行、二回目はブルガリホテルから一歩も出ないと言うお大尽旅行でしたが、
学生であろうお大尽であろうと、インドネシアの人々の歓迎ぶりはいつも暖かなものです。

「世界に日本はいい影響を与えているか」

という調査で、日本はいつも三位以内にはいるくらい、世界的によい評価を与えられるのですが、
この調査でいつも85パーセントという大多数がyes、と答えるのがインドネシア。
日本肯定派の中でもこのニッポン・ラブぶりは世界一高いのです。
(ちなみに、中、韓、北朝鮮だけがnoが多く、日本人自身による評価も低いのが特徴)

戦後の技術供与や支援だけが彼らをして日本への好感度を高めているのか?
そうではないのです。


オランダからの圧政から解き放ったばかりでなく、インドネシアという国の独立に日本が、
いや、多くの日本人がかかわって命を捧げたという事実があったからなのです。

オランダがインドネシアを「東インド会社」として植民地経営し始めたのは1602年、
なんと、350年の長きにわたります。
その支配は徹底的に搾取が目的で、現地民は労働力としか見られず、愚民政策によって教育はもちろん、
大きな反乱につながらないように道で三人が立ち話をすることすら禁じられていました。

圧政の間、人々には希望のように一つの予言を語り継いでいました。


我らが王国は、白い人びとに支配される
彼らは離れたところから攻撃する魔法の杖を持っている
この白い人の支配は長く続くが、空から黄色い人びとがやってきて白い人を駆逐する
この黄色い人びとも我らが王国を支配する
それはトウモロコシの寿命と同じくらいの期間である




そんなある日、空に白い花が咲き、黄色い人々がやってきました。
そう、我が陸海軍の空の神兵、落下傘部隊でした。
この「神兵」という言葉は、よく日本人がいうところの
「タイトルとしての神」という風に理解されがちですが、
この地の人々にとってはまさに「神兵」以外の何物でもなかったのです。


そしてその神兵はわずか九日で三五〇年続いた圧政から民衆を開放してしまったのでした。

商業ベースに乗らず多額の借金を負った映画「ムルデカ17805」の話をしましたが、
この映画の冒頭、進駐してきた日本軍の島崎中尉(本日画像。山田純大)の靴に
老婆が口づけるというシーンがあります。

インドネシア人にこのような習慣はない、と言われて向こうではカットされたシーンなのだそうですが、
表現はどうあれ日本軍が神様扱いされていたことに間違いはないのです。

しかも、日本はオランダと違い、彼らに独立を約束した暫定的な支配をする間
彼らが自分の足で立つ日のために軍事教練を施しました。
その祖国独立義勇軍PETAはまさに日本の手によって作られたのです。

日本は一九四五年の九月にインドネシアに独立を約束していました。
しかし、八月一五日に敗戦。
敗戦とともに軍は撤退するのですが、ここでインドネシアに残って、その独立戦争を率いた日本人がいます。

その数二千人。

なぜ彼らが脱走兵として現地に骨をうずめることを選んだのか。
連合国による戦犯指名を怖れた者もいれば、祖国に希望がないと判断したものもいたでしょう。
しかし、大半はインドネシア人とのアジア解放の約束に殉じ、
また軍事教練の教え子に懇願されたなどという理由、
つまり「義に生きた」のです。
戦犯逃れをするためというネガティブな理由だけでは、
彼らが義勇軍の先頭にあって激しい戦闘で命を落としていったことの説明が付きません。


そして、日本による統治は三年半、奇しくも予言の通りの
「トウモロコシが朽ちるまで」の期間にわたりました。

映画「ムルデカ17805」は、この戦いに身を投じた何人かの日本軍人がモデルになっており、
島崎中尉、宮田中尉として描かれています。
ムルデカ、とはインドネシア語で独立を意味します。

「青年道場」と名付けられた軍事教練で実在の柳川宗成中尉に鍛えられた兵の中に
後の大統領スカルノ(これがフルネームって知ってました?)がいます。

日本の敗戦と同時に、再びオランダがイギリスとともにインドネシアを占領するために帰ってきました。
九日で撃退された日本軍への恨みを晴らすためだけに行われた戦犯裁判の尋問では激しい拷問が、
そしてBC級戦犯として多くの将兵が一方的に罪を着せられ処刑されました。

映画では保坂尚輝演じる宮田中尉が拷問の合間に壁に血で

「インドネシア独立に栄光あれ」

と記し処刑されるのですが、このモチーフは実は実在の日本兵の遺した血文字にありました。

日本軍は敗戦後、現地の治安維持を命じられるとともに、
武器の管理も厳重にするようにと命令を受けていたのですが、
映画でPETAの兵たちが「武器が欲しい」と島崎中尉に頼んだシーンのように、
かれらは独立運動のため日本軍の武器を譲って欲しい、と懇願していました。


しかし、規則を重んじる厳格な日本軍がそれを断っていたある日、
蜂起したインドネシア人が武器庫を襲ったのです。
血まみれになった武器庫の番兵は、壁に
「インドネシア独立に栄光あれ」と自分の血でしたため息絶えました。
これを知ったインドネシア人は衝撃を受け、日本人に対する尊敬をあらたにしたのだそうです。


これらの話は戦後タブーとされ、インドネシアでは暴虐と搾取しかしていないと言い続ける人々は、
「日本の善政と独立を助けた日本兵のこと」
を決して認めようとしません。
しかし、当の日本人が認めようとしないこのことを、
インドネシア人自らがその栄光の歴史に刻んでくれているのです。

PETAマーチ、その二番の歌詞にはこうあります。

古きアジア 不幸に苦しむ列しき圧制に 
幾世紀も忍ぶ 大日本 雄々しく立てり
アジアを救い 我らを守る 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ



そして、17805という数字の意味。
日本の皇紀2605年8月17日の数字を日、月、年の下二桁の順に並べたものです。
独立運動指導者のスカルノとハッタは、インドネシアの独立宣言文にこの日付を使用しました。



侵略目的だけのために日本がこの地にあったとするなら、
これらのことどもをどう説明すればよいのでしょうか。





「同行二人」~特殊潜航艇の二人

2011-01-25 | 海軍

「平和への誓約(うけい)」
シドニー湾に特殊潜航艇で突入した松尾敬宇大尉を主人公にしたアニメーション映画。
その一シーンです。

1941年12月7日(現地時間)、
真珠湾には帝国海軍の三百数十機の飛行機、七百人の搭乗員が殺到しつつありました。

しかし、海軍にはもう一つの極秘行動がありました。
ハワイ沖の海中をひそかに真珠湾の入口に向かって接近しつつある五隻の大型潜水艦。
各艦の上甲板には、長さ約二四メートル、二人乗りの豆潜水艦が搭載されています。

二本の魚雷を搭載したこの潜水艦を「特殊潜航艇」「甲標的」と現在は呼んでいます。
この特潜で真珠湾に突入した10人のうち9人は戦死。
一人が捕虜になります。



この真珠湾における攻撃に備え、引き揚げ船の見習い航海士に扮して各港を偵察してきた
松尾大尉は、真珠湾攻撃の半年後の1942年5月30日、オーストラリアのシドニー湾に突入、
散華しました。

松尾大尉は艇を海底に自沈させ、艇附の都竹正雄海軍二等兵曹とともに拳銃で自決しました。
発見されたとき、二人は抱き合うようにして倒れていたといいます。


特殊潜航艇は、定員二人。
士官が艇長となり艇附と呼ばれる下士官がペアとなって訓練の段階から最後までを共にしました。
士官はもちろんのこと、この真珠湾における士官のパートナーになる下士官も、当時難関の海兵団を経たうえ
甲標的を搭載する約三六名の統率をする最優秀の先任下士官でした。
つまり、大本営発表にある通り

「本壮挙に参加せる下士官亦(また)帝国海軍優秀者中の最優秀なる人物なり」

だったのです。


互いに選ばれし者という誇りを以て任務に向かい、運命を共にする二人の男の間には、
あるいは死を仲人に結ばれるでもいうような魂の交歓はなかったのだろうか。


松尾大尉と都竹二曹の最後の姿を知ったそのときにふと感じた疑問は、
特殊潜航艇で真珠湾攻撃に参加しながらたった一人生き残って捕虜になった坂巻和男氏が戦後書いた
「捕虜第一号」
の初板を読んだとき、その一片の疑問が解かれたような気がしました。



酒巻少尉の艇は出発前からジャイロコンパスの故障で出撃を危ぶまれていました。

「夜明けまでに湾内に侵入できればよい」
を肚を決めてしまつた私たち二人は、葡萄酒の壜を交わし、握り飯を頬張りながら向かひあつた。
侵入準備を完成した安心と、成功を確信する明るい希望に満ち、
二人は恋人の如く完全に意気投合し、心行くまで腹拵へを楽しんだ。
その味わひは如何なる盛宴美食にも勝り、その心持は如何なる幸福にも勝る満悦の一刻であった。
「さあ、何時死んでも良いぞ。」
といつた感情がどこからともなく湧いて出た。
「さあ、お互ひにしつかりやるぞ。」
と強い固い握手を交わし、私は最微速を命じ、艇を静かに湾口に向けて行った。


その後酒巻少尉の艇は完全に動かなくなり、二人は艇を置いて海中に脱出します。

隣にいるはずの艇附が心配である。
最愛の艇附を死なしてはならない、と私の心は焦った。
夢中で「艇附、艇附」と呼んだ。
「艇長、此処ですよ」といふ声が聞こえる。
(中略)彼も苦しいのかゴブンゴブンと言ふ咳払いと共に、水を吐き出す音が聞こえ、
何か唸っているような声が聞こえたやうな気がした。
「おい頑張れ、岸は近くだ。」と私は叫んだが、艇附に聞こえたかどうか。



この後、酒巻少尉は意識を失ってアメリカ軍に発見され、
艇附の稲垣清二曹はこれを最後に永遠に姿を消します。



「俺の愛する列機来い」
で、生死を共にする搭乗員と隊長との結びつきについて書いたときは、列機にして下さいと頼んだ隊長に
「俺に抱かれて寝ろ」
と命令された搭乗員の話を描こうかと思ったのですが、あえて書きませんでした。

相手が男であろうと女であろうと、
それが恋―相手を強く求める気持ちをこう呼ぶのなら―
として燃え上がるための発火に、死を共にするという覚悟が作用するということについて
もし文学者であれば書き表わせるのかもしれない。

この一連の記述からある想像を喚起されていたところ、一つの小説を見つけました。

「同行二人」(どうぎょうににん)


真珠湾奇襲のために特潜を運ぶ伊号二十四潜水艦の軍医の眼を通して見た、
乗員の坂田少尉と稲田二等兵曹の出撃直前までの記憶。
この名前は酒巻少尉と稲垣二曹という実在のペアを想起させます。

「お小姓と足軽」と陰であだ名された長身の美青年と田舎出身の朴訥な男。
突入までの一か月の間に、凝縮した空気の中で生死を共にする二人を狂気のように包み込んでいく情念。

軍医の眼を通して、極限に挑む人間の心理が規範や倫理を超日常的な状況の中でどう遇するかについて
淡々と語られます。

淡々と、というのには誤弊があるかもしれません。
そう言うにはこの軍医はあまりにも二人の男たちの官能にまで分け入って
その内部でもがいていているようにも見えます。

艦長他潜水艦の幹部が

「心中の心理だよ」
「いや随順の精神ですよ」

と内心はどうあれ半ば揶揄するように言う二人の親密ぶり。
しかし軍医だけは、怪我の手当てをし、二人の最後の時間にビタミン注射を打ち、
医者として彼らの肉体に手で触れるたびに、その感触をよすがとして
何とかして彼らの精神的な交合に分け入ろうとするのです。


この小説が何の賞にも縁がなくほとんど今日に至り埋もれているにもかかわらず、
当時絶賛した文学者がいます。

三島由紀夫。


「小生が戦時中美と考へたものの精髄が、ここにはまったく肉体的に描かれてゐます。
もしかすると、小生が文学でやりたいと思ってきたことの全部が、ここで語られてしまつたかもしれない、
といふ痛恨の思ひです。」



この小説に書かれた二人の男の物語は、もしかしたら利根川裕氏があとがきで語るように
「真珠湾攻撃の軍神という特殊な人物でなくてもよかった。
たとえばそれは人跡未踏の最高峰の山頂に挑戦する二人の男でもいいし、
南極などの極限の地に向かう二人の男でも」よかった、と言えます。


極限における男同士の交情というものが戦争で目的を遂行する男たちにも当然想起されるものでありながら、
あえて誰も触れようとしなかった禁忌(タブー)。
三島由紀夫が絶賛したのはそれをあえて文字にした作者の勇気に対してであるように思えます。


そして、そのタブーゆえにこの小説はほとんど「黙殺」されました。

同行二人とは、最初のタイトル「死の武器」からの改題で、仏教用語です。
お遍路の菅笠によく書かれている文句ですが、
四国八十八箇所の霊場めぐりのお遍路たちにはいつでも空海(弘法大師)がついて一緒に歩いてくれる、
目に見えなくてもそう願う者のそばに必ずいてくれているという意味だそうです。



作者がモデルにしたと思われる二人の乗員のうち、
『艇附の稲田が愛情ゆえになんとかして生きて帰って欲しいと切望した』
坂田少尉、つまり酒巻少尉は軍神になることなく生き残りました。

この事実を作中の二人に当てはめるとするなら、攻撃直前で終わってしまうこの小説の本当の結末を、
私たちは知っているということでしょうか。








参考:同行二人 特殊潜航艇異聞 井上武彦 ユーウ企画
   捕虜第一号 坂巻和男 新潮社版
   二階級特進の周辺 須崎勝彌 光人社
   ウィキペディア フリー辞書








犬(猫)好きの嘘がばれるとき

2011-01-24 | つれづれなるままに
先日、NHKのある新番組の紹介を見るともなく見ていました。

松島菜々子と名前の知らない男優さんが(有名な人ならゴメンナサイ)子供の無い夫婦で、
ある日妻が突然連れて帰ってきた犬のおかげでとても夫婦仲が良くなるのだけど、
夫が不治の病で余命短いことが分かった、さあどうなる?
といったようなスト―リ―だったような気がします。

で、主演のお二人と犬に対するお気持ちを語ってもらうわけですが、松島さんの方は
どうやらお家でも犬を飼っておられるらしく、
「いつも犬とは仲がいいんです」
とおっしゃり、共演の犬(ラブラドールだったかな)を撫でるしぐさもごく自然。


ところが、この男優さんの方がですね、犬好きでしたか?に対してなんだか煮え切らない、
「えー、嫌いってわけではないんですが小さい時吠えられて怖くて」
みたいなことをもごもごといった感じで、
「でも今は好きです」
とその口では言うのですが、しかし、カメラは非情。

共演の犬が彼に尻尾を振り、その顔をべろんとなめたとたん、男優さん瞬時に腰を引き
「ひえええっ」
という表情をしたんですね。

「こいつ・・・・実は犬嫌いだな」

エリス中尉はその様子を見てひそかに確信を持ちました。


先週末、猫のいるカフェに行ってまいりました。
巷には猫によって癒されたい、という人が少なからずいて「猫カフェ」というものが存在します。
なぜ猫なのか。「犬カフェ」が無いのはなぜか。

この疑問に対しては以前「犬好き、猫好き」の項で述べた
「猫好きは猫なら何でも好きだが、犬好きは『自分の犬』にこだわる」
というひとつの仮定をその答えに当てはめることができると思っているのですが、
何処かで「ドッグラン・カフェ」という、
犬を貸し出してくれるところができた、と聞きました。
ニーズはあるのでしょうが、猫カフェほどあちらこちらにないのは、前説を裏付けてはいますまいか。

さて、猫カフェです。
一度TОの先導で本格的な猫カフェとやらに行ってみたことがあります。
ここがねえ。
保険所とか公的機関のこういった形態の飲食店に対する指導と言うものがおそらくそうさせるのでしょうが、
入ってまず手を消毒、コーヒー紅茶、軽食もあるが別室でいただき、
さて、と猫さんたちのいる別室におもむろに潜入、おさわり自由、というもの。

でも、なんだか全然「違うな」って感じなんですよね。
違う!猫好きが猫を愛でる方法として、これは絶対違う!
という激しい(というほど大層なものではありませんが)違和感。

わざわざそこにお運びいただき、そして見たことのない珍しい姿形のお猫様を拝見する。
まるで銀座のバーでドンペリを入れて女の子にきゃあきゃあいわれるおじさんのように
猫おやつを購入していっとき(だけ)キャーキャーじやなくてニャーニャーいわれて
後は知らん顔、仕方なく玩具(ブランドバッグ?)でご機嫌を取る
などという営業形態は「猫好きの何たるかを分かっていない」
と言わざるを得ません。


猫の生態を知っている人はよくご存知でしょうが、あ奴らはこちらがいくらなだめてもすかしても
自分がその気にならなければおめおめと友好してくれない動物。
しかし、真の猫好きであれば、別に顔を舐めて熱烈歓迎してくれなくても
冒頭画像の「の」の字状態の猫芯にぐりぐり指を突っ込んで、それだけで十分満足なものなのです。

ちなみに、こういう状態のときの猫は何をしてもいいのよ、という鷹揚モードなのでもうしたい放題させてくれます。


さて、先日の猫カフェです。
厳密に言うとお茶を飲みに行ったらたまたまそこに猫が六匹いるのでどうぞご自由に、といった普通感。



こういうところですから、気の向いた猫がテーブルの上にひょい、と乗って、
客のコップから水を飲んでしまうわけです。
これ、猫嫌いが見たら
「ひえええっ」
なんだろうなあ。
猫好きを標榜して彼女に取り入ろうとする男はここに連れてくれば本性が分かるかも。
わかったからどうするか、っていうのはまた別の問題ですが。


そうそう、冒頭の「犬が顔ぺろぺろ」
で、件の男優さんは
「仕事だから犬がそんな好きでなくても好きなふりをしていただけ」というのがばれてしまったわけですが、
そんな犬の熱烈歓迎に全くたじろがず、それどころか大喜びで犬に顔を寄せて
「こりゃ本物だわ」
と感心させられたのは、ローゼン閣下麻生太郎氏でした。

何でも、有名な犬好きだそうです。



やたらつんつんしてここの猫に微妙に嫌がられているエリス中尉。
ちなみにこのとき猫の鳴きマネをしたらお店の人がキッチンから
「何とかちゃんどうしたの?」
ってでてきました。
本物の猫もだまされるくらい上手いんですよ。
数少ない特技の一つですが、今のところ何かの役に立ったということは一度もありません。











海軍就活面接必勝法

2011-01-23 | 海軍

今年の大学卒業生の就職内定率は戦後最低だとか。
もう氷河期ではない、超氷河期であるという厳しさで、
就職が決まらなくて困っている人たちにはご健闘を祈る、
としか言いようがありません。

エリス中尉がその時期だった頃、周りの友人が優秀だったのか、
まだ世の中が好景気の頃だったからか、
NEC!富士通!京セラ!長銀!(どうしてるかなあ彼・・・)
などというあたりに皆軒並み就職を決め、そういうのが当たり前だと思っておりました。

しかし、そのころから就活における「伝説」というものはありまして、
某食品会社の看板製品であるマヨネーズをチューブごと一気飲みした、
あるいは白地に紺の水玉模様のネクタイで某飲料会社の面接に赴き、原液を一気飲みした
(なんでみな一気飲みなのかよくわからんのですが)
という豪快さんの神話がありましたが、
「それで彼らは採用されたのか」
ということになると、下人の行方は遥として知れず。

一つ確かなのは

「一度目はよろしい、二度目はまだしもご愛嬌と言える。しかし三度目は度が過ぎる!」

という、中学の社会科の高橋先生の言葉通り、
これをやって受かったからという噂を真に受けて二番三番煎じをする、
これがなんといっても一番嫌われるようですね。
そもそも、受験生が知ってるからには面接官はそんな話百も承知だっつの。

意表を突くパフォーマンスで採用されるというのは
「それがオリジナルだから」
であって、蛮勇ゆえにではないということです。


前置きが長くなりましたが、海軍です。
戦争終盤の、学徒であろうが予備役であろうが、
人が足りなくて戦線に引っ張り出すようになるまでは、
海軍に入るのは非常に狭き門でした。

まるで科挙試験のような海軍兵学校の難しさはもうご存じだと思いますが、
予科練試験の難しさも大変なものだったということです。

(マンガ「紫電改のタカ」の滝城太郎以下久保、紺野、米川一飛曹たちは、
この予科練出身であったようですね)

旧制高等小学校卒業者、志願制で満14歳以上20歳末満の者。
この試験が大変難しかったそうです。

学科はもちろん、適性検査も、ことがことだけに厳しく不適合者はふるい落とされましたが、
このときの面接でなぜか「人相見」がでてきた、という話を昔しました。
これこそ究極の面接、骨相で適性を診断。
「科学の先端である航空に人相とは」
と皆呆れましたが、科学的と言うなら、
血液型で採用を決める会社などよりずっとましではないでしょうか。



学力実技、これがよくても一目見て「これはあかん」
と判断されれば面接ではねられるのは現代でも同じ。

兵学校の入学試験は、難関を経てわざわざ江田島まで呼び付けながら
面接で落とされる学生が非常に多く、この理由は主に健康上の理由であったということですが、
海軍が見た目に表れる人物を評価の対象にしていたということでもあります。
ここだけの話ですが、未来の海軍士官には「ある程度以上の容姿」が必要とされたということです。

そして面接官に気にいられれば無条件で合格、というパターンも多くあったのでしょう。

今でもそうかもしれませんが、面接官といえども人の子、

「こいつ、優秀そうだがなんだか気にくわんな」

と思われるのと

「うーん、こいつは学科は何だがおそらく一緒に仕事をしたら頼もしかろう」

と思われるのでは全く結果は違うものになってきます。

さて、戦局が厳しくなり、学徒動員もされて、一億皆兵のようになってくると

「どうせ兵隊にとられるなら自分で志願して海軍に行こう」

と、考える学生は数多くいました。

世間の持つ海軍に対する印象の良さや、かっこいい制服への憧れが
そこにもなかったわけではなかったでしょう。
映画「出口のない海」で、明治大学の野球選手である学生(市川海老蔵)が、
海軍を志願するときに

「海軍の方がちょっとは人間らしい扱いをしてくれそうな気がする」

といいます。

このセリフは、この後彼は人間魚雷「回天」の搭乗員になり、
実際は人間扱いされなかった、ということへの伏線となっているのですが、
このイメージゆえ海軍を志望するものもいたようです。

志願理由は当時であろうと、現在であろうと、必ず聞かれます。
それに対し、就職先の魅力を高らかに褒め称え、面接官の心証をよくさせる、という手もあります。
しかし、いくらそれが動機でも

「制服がかっこよくて女の子にモテそうだから」

は今も昔も本音すぎてシャレになりません。

とはいえ、ときには本音をズバリ言ってそれが気に入られることもあるようです。


阿川弘之氏の「井上成美」にあったエピソードですが、
企画室にいた帯刀与志夫という主計中尉に井上長官が

「ところで帯刀中尉は何故海軍の主計科士官を志願したか」

と尋ねられ、徴兵検査のとき陸軍大佐の徴兵官が

「オビカタナヨシオ」と間違って名前を呼ぶので
「自分はオビナタヨシオであります」と訂正すると、いきなり
「理屈を言うな」と怒鳴りつけられてそれで一遍に陸軍が嫌になってしまった、

という話をすると

笑わないと評判の井上校長が声をあげて笑った

というのです。

言いきってしまいますが、井上校長がそうであったように、
海軍に籍を置くもののほとんどは陸軍嫌いだったので
この「陸さん嫌い」の本音を利用する受験者もいました。

なんと、面接官の

「何故海軍を志望したか」

という質問に対し、ズバリ

「陸軍が嫌いだからです!」

と答えて合格してしまった猛者がいたというのです。
名前の間違いの訂正ですら「理屈を言うな」と言うほどの陸軍の徴兵官であれば、
内心海軍嫌いで

「おお、よう言うた」

と思っても

「陛下の赤子である聖軍に対して海軍も陸軍も無い!」

とかなんとか至極当然の建前でもって怒られてしまいそうですが、この面接官は
ニヤッと笑って合格にしてくれたとのこと。

因みに現代の会社ではライバル会社の誹謗などもってのほかです。

(アメリカでは競合会社を『落とす』CMが多々ありますが、
日本でこれは決して受け入れられないそうです)


「何故海軍を志願したか」
に対し

「海の民なら男なら」

と答えた志願者がいました。

これは当時はやりの軍歌「太平洋行進曲」の冒頭部分。
面接官は打てば響くように

「みんな一度は憧れた、か」

と大笑し、見事合格。

しかし、この話を聞き知ってしめたとばかり全く同じことを答え

「ふざけるな!」

と怒られて不合格になった不遇君もいたそうです。

「シャレの通じそうな相手かを見る」
「二番煎じは禁物」

この件に見られる教訓は、冒頭画像のマヨネーズ一気飲みの悲劇にも共通です。


それでは諸君の就職活動の健闘を祈る!








映画「五線譜のラブレター」

2011-01-22 | 映画
・・・というタイトルと、この絵を見ただけである内容を想像して読むのをやめてしまう方もおられるかもしれません。
そもそも、このタイトルではそういう「甘いもの嫌い」はこの映画を見る気にもなれないのではいでしょうか。

ところがどっこい、
この映画の一ひねり、二ひねりして同じところに帰って来たと思いきや実はコイル状に上昇していた、
というくらいのひねりが、ただの伝記ラブストーリーとはこの映画を一味違うものにしています。


コール・ポーターという作曲家の名は、もしかしたらジャズに詳しくないと
「はて、それ誰だっけ」
というくらい日本人にはなじみがないのかもしれませんが、
「ビギン・ザ・ビギン」
「夜も昼も」(ナイト・アンド・デイ)
あるいは昔、日曜洋画劇場のエンドテーマに使われていたピアノ曲
「ソー・イン・ラブ」
を耳にしたことくらいはあるかもしれません。


このお話は、イェール大学の法学部を出た大金持ちの天才作曲家が死んだ時から始まります。
死んだポーターの前にガブリエルという禿げた男があらわれます。
かれはこれから始まるミュージカルの演出家で、そのミュージカルのストーリーは死んだ男の一生。

これがこの映画の実に独創的な構成で、演出家と二人でミュージカル仕立てのその人生をコメントしながら振り返るのですが、「自分役」の男優を見てかれはこう言います。

「ハンサムだな・・・気にいったよ。でも歌は下手だ」
「君も下手だったろ」

むっとしたポーターは
「わたしの人生だ」
すると演出家は
「わたしのショーだ」

昔、ケーリーグラント主演のコールポーター物語「夜も昼も」を見たことがあります。
音楽関係者でコール・ポーターに興味がなければ観る気にもなれなかったでしょうが、
確かにべたべたのラブストーリーでした。

この映画を劇中でコール本人は観ます。

「酷い映画だ」

そう、アメリカの良心のような俳優ケーリー・グラントのポーター映画で決して語られなかった部分。
それが実はこの映画のもっとも核心になる問題で、彼の人生の業でもあった部分でした。

彼はゲイだったのです。


「世界で最も美しい女性」
リンダ・リー・トーマスと結婚したコールは、彼女に隠しもせず
「一人の人間や一つの性では足りない」
とうそぶきます。

その結婚は勲章のような、あるいは表向きのカムフラージュであったのかもしれません。
しかし、彼はこういうのです。
「肉体的なことはいつか分かるかもしれないと思っていた。
しかし、精神的には完璧に結ばれていた」

一度結婚して「男に懲りた」リンダは、そんなコールの「男性」ではなく、「才能と人間」を愛し、マネージャーとしての腕をふるい、それなりに彼を愛します。

思いついたら家を一軒ぽんと買ってしまうくらいの富豪であった彼にとっての「誠実」とは、
自分なりの恋愛を楽しみながら、恋人の肩越しにいつも相手を見ていることでした。



この、自分の地位と金を利用してやりたい放題の天才はしかし、彼なりのやり方で妻を愛していたようです。
しかし、そこは享楽的なエピキュリアンの常。
だんだん図に乗りおおっぴらに自分の欲望を満たすコール。

自分のミュージカルに出演した歌手との恋愛、舞台の上から流し眼をする男性バレエダンサーとの忍び合い、
秘密クラブで金で買う若い男の愛、自宅のプールで展開するボーイズ・ハーレム・・・。

男娼とのキスの写真を撮られて強請られるにいたってはさすがのリンダも愛想をつかして出ていくのですが
まるで神が二人をなんとか元に戻すように落馬事故でコールは脚を失います。


そして、帰ってきたリンダをすぐに肺がんで失う日がやってくるのです。
(本日画像)
この映画はエルビス・コステロ、シェリル・クロウ、ナタリー・コール、そしてコール・ポーター本人の
演奏がふんだんにちりばめられたミュージカルの佳作であるのですが
なかでも名曲「ソー・イン・ラブ」に彩られる二人の別れのシーンは映画の白眉と言っていいでしょう。

そしてこのシーンのコールの悲痛な嘆きからは「恋愛だけが男女の愛ではない」と思わされます。
豪奢な生活、芸術家としての栄光、多くの刺激的な禁断の恋。
手に入らなかったものの無いその約束された輝かしい人生において、たった一つ何かを選択するなら、
それはこの妻との間に交わされた魂同士の愛だったのかもしれません。


今回、気づいたことがあります。
昔は気付かなかったのですが、ケーリー・グラントの映画のラストシーンで、
妻と抱き合うコールの顔が決して愛情に輝いておらず、それどころかまるで魂が遠くにあるような
ひえびえとしたぞっとする表情をしているのです。

これは彼の愛情が妻に無かったという「公然の秘密」を当時の映画で表わしていたのでしょうか。


愛を前面で賛美しながらもこんな形でその秘密を暴露していた旧作などより、
この「五線譜のラブレター」(原題De-lovely)の方が、
結果としてはるかにコール本人への愛情と慈しみを感じさせる伝記になっているとおもうのです。


リンダを失い為すべきこともし尽くし人生の目的を失って終了したコールの人生のフィナーレに、演出家は
「吹け、ガブリエル、吹け」(Blow,Gabriel,blow)
を選びます。
次々と出てくる彼の人生の登場人物。
「ガブリエル、君の祝福されたバンドに入って約束の地で演奏したい」

フィナーレのライトは演出家の不思議な微笑みとともに消えます。


そして観客は、この歌詞でこの禿の演出家が、
「死んだ作曲家を迎えに来た大天使ガブリエル」であることに気づくのです。








海の男の通信勤務

2011-01-21 | 海軍


ユーチューブに日本帝国海軍を映したカラー映像があります。
モノクロームで再生されていた画像が、カラーであると言うだけでこうも生き生きと見えるものか、
と驚くばかりなのですが、搭乗員の飛行服の色、かれらが礼をする神棚、そして零戦が飛び立つ空の青さ、
すべてが昨日のことのように思える不思議な感覚を誘う映像です。

http://www.youtube.com/watch?v=_RaUdub_djU&feature=related

そしてその中に本日画像の手旗信号する通信員の映像があるのですがこれが凄い。
びゅうびゅうと潮風の吹きつける台で、まるでダンスをするかのようなしなやかな旗捌きを見せています。
落ちないように腰に安全縄のようなものをかけていますが、こんなものくらいでは風を防げたのかどうか。
高所恐怖症なんてタワけたことをいう通信員はいなかったと思われます。
ちなみにこの通信員はカメラに気付き一瞬カメラ目線をします。

この手旗をするのは航海科の信号兵といいます。
およそ海軍という組織で手旗を読めない者はいません。

海軍兵学校の授業にもあります。
「勝利の礎」
では、この手旗信号をしているクラスが映っていますが、ぴったりと動きが揃っている中で
よりによってど真ん中でやっている生徒さんが明らかにみんなよりワンテンポ遅れていて、
笑っちゃ悪いのですが笑えることになってしまっています。

戦後70期の関係者だけで上映会をしたそうなのですが、絶対あのシーンでは
「真ん中のはあれはきっと○田だ」
「そうだ、○田はいつも手旗が人より遅かった」
なんて会話になったのではと思われます。
ちなみにコント
「赤あげて白あげないで赤あげない」
は、もちろんこの手旗信号が元になっています。

さて、この手旗信号のほかに発光信号、旗旒(きりゅう)信号は、通信検定が行われ、
航海科の通信兵はそれこそ月月火水木金金、休みなく送受信の練習に励みました。

発光信号は光の点滅で発する信号で、モールス信号の「トンツー」の組み合わせに近いそうです。
映画「太陽の帝国」で、主人公の少年が窓の外を通る日本軍の発光信号にふざけて答えて
ライトをちかちかしていたらいきなり轟音がとどろいたと言うエピソードがありました。

この「トンツー」の覚え方も、よくしたもので各文字語呂合わせの言葉があり、それをもとに皆覚えていったようです。
有名なのは

ノ・・・トトツーツー=ノギトーゴー

これが、寄り道ですみませんが、実に海軍ぽくて、エリス中尉お気に入りのネタ。
50音順に集めたものを並べてみました。
が、ぎ、ぐ、げ、とかパ行、にゃにゅにょなどはみつかりませんでした。
少しお付き合いくださいね。



ああ言うとこう言う
伊藤
疑う
英語ABC
思う心
下等席
聞いて報告
苦しそう
経過良好
高等工業
さあ行こう行こう
周到な注意
数十丈下降
世相良好だ
相当高価
タール
地価騰貴
都合どうか
手数な方法
特等席
習うた
入費増加
塗り物
ネーモーダロー
乃木東郷
ハーモニカ
兵糧欠乏
封筒貼る

報告
まあ任そう
見せよう見よう
ム―
名月だろう
孟子と孔子
野球場
遊撃優秀
洋行
ラムネ
流行地
ルール修正す
礼装用
路上歩行
ワ―という
んめえうめえな


回向冥福  ゑ?
ヰ号発揚 ゐ?
和尚焼香 を?

五目飯 


んもー、海軍さん好き!
特に獰猛だろーとか、ああ言うとこう言うとか。
野球場に続けて遊撃優秀とは、ストーリまである!
ついこれ見てると読みながら机でトンツーしてしまいますね。
にしても・・・「ムー」って何?ムー大陸?
しかし、これは初心者が覚えるために利用したのであって、
通信兵レベルになるといつまでもこれに頼っていると脳が付いてこないということで
みんながトンツーしながら
「んめえうめえな」
などと頭の中で繰り返しているのではないそうです。ご参考までに。



旗旒信号はマストにあげる複数の旗の組み合わせで送る信号で、何種類かの旗を揚旗線に引っ掛け、
望遠鏡で受信側が読みとっていきます。
国際共通ですが、
Z旗「皇国の荒廃この一戦にあり」のように特定の旗に特別の意味を込められるものもありました。
たとえばトラファルガーの海戦で、英国軍の艦船が5種類7旒の旗を使い
『英国は全乗組員が自身の義務を果たすことを期待する。』
とメッセージしています。

この旗旒信号も、マストに高々とあがってから読んでいては手遅れです。
通信員の手を離れた瞬間に読みとっていたそうです。

さて、通信兵の仕事は以下、通信の傍受(情報収集)通信機器のメンテナンスなど。
そして平時においても、毎週のように艦隊や戦隊での連合教練が行われます。
各艦信号兵同士の熱い火花が散り、勝った負けたはその日の罰直の理由となったこともあるようです。

まさに月月火水木金金の真剣勝負。

航海科ではありませんが、男たちの大和で、舷窓が開いていて他艦に注意をされて恥をかいた、
という理由で罰直が行われていましたね。
このように艦同士のライバル意識は物凄かったようです。



先ほど、手旗の苦手な兵学校生徒さんの話をしましたが、われらが笹井醇一中尉は兵学校時代
「トンツーがたいへん下手だった」
そうです。
この重大な事実を同級生に遺されてしまいました。

どうも推察するに「戦闘機に乗るために生まれてきた」「江戸っ子」で「軍鶏」の笹井中尉、
「敵発見」と打つのに

「手数な方法聞いて報告ハーモニカ都合どうか経過良好んめえんめえな」
なんていちいちやってられっかよ!

敵発見したんならすぐさま出撃だ!



という気の短めのヒトだったみたいですね。





戦艦大和3000人の仕事 青山智樹 アスペクト
海軍ジョンベラ軍制物語 雨倉孝之 光人社
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映画「太陽の帝国」

2011-01-19 | 映画

スピルバーグの映画の中で無名時代の「激突!」より評価されなかった映画。
なぜかほとんど話題にもならず、なんの賞も貰えなかった映画。
それがこの「太陽の帝国」です。

確かに時間が膨大で冗長に過ぎるとか、何が言いたいのかわからないとかの厳しい評価があるようですが、
個人的には「そこまで口をきわめて罵らずとも・・・」と、かばってあげたい気さえする映画。

SF作家バラードの自伝的小説がベースになっているということで、今この本を取り寄せていますが、
おおよそバラードの少年時代に見たことが盛り込まれているようです。
バラードは上海生まれ。


主人公ジェイミーは、太平洋戦争開戦直前の上海租界で裕福な暮らしをするイギリス人家庭の一人っ子。
彼の憧れは「ゼロセン、ナカジマ」。
いつも日の丸のついた飛行機を飛ばして遊んでいます。
上海にも時おり零戦を見かけるようになったころ、空き地で墜落した日本機(報国と書いてある)に乗り、
空戦ごっこに夢中になったりする「ゼロ戦少年」。


上海に日本軍が侵攻してきた混乱で両親とはぐれてしまった少年は、ワルのアメリカ人
(ジョン・マルコビッチ。この頃すでにハゲてる)ベイシーと行動を共にし、日本軍の収容所に入ります。

これは、無理やり連れていかれたのではなく、食べ物がないので身を寄せたと言っていいに等しく、
ジェイミーは、当初日本軍を見るたびに収容所に入るために
「I surrender!」と駆け寄って日本軍兵士に笑われたりしていたのでした。

もともとゼロ戦のファンであるジェイミーは、日本軍を敵でありながら憧憬の対象にしており、
「戦争は日本が勝つよ。精鋭の兵隊に最新の飛行機」などと言って父親に
「馬鹿な」と怒られたりします。

そんなジム(ジェイミーだったのがベイシーにアメリカ風の愛称を付けられた)が捕虜収容所に到着。
捕虜に素手で滑走路を作らせている(!)飛行場の片隅で整備されている途中の零戦を見つけ、
魅入られたように近づきます。



この零戦が、大戦末期のグリーンに塗られた、どうやら五二型のつもりで、
おまけに大分年月が経っているようにペンキが剥げているのですが・・。
まあ、こういうことに突っ込みだしたらきりがありません。


「やっと会えたね」
と言わんばかりに機体を撫でさすり、身を寄せるジム。
厳格な日本軍人であるナガタ軍曹(伊武雅刀)は見咎めて、銃の安全弁を外します。



いちいち流れを止めますが、ここでまた不思議なことに、ナガタ軍曹は陸軍下士官。
なぜか零戦が置いてある航空基地にいます。
着いたばかりの捕虜に石を押しつけて怒鳴りつけ、女性にもそれを運ばせるという
まるでナチスのユダヤ人収容所のような描写も全く噴飯ものですが、
そもそも上海の租界欧米人をこうやって日本軍は収容していたんですか?
それも航空基地に。


昔は何の疑問も持っていなかったのに、今観ると実に突っ込みどころが多くて困ってしまいますが、それでもエリス中尉がこの映画を庇いたいのは、ひとえにこの次のシーンがあるからです。
(本日画像)

そのとき、今から乗るのか、搭乗を終えたのか。
三人の海軍搭乗員が零戦に近付いてきます。
機体にすりすりしているジムを後ろから眺めて、黙って立ち止まる彼ら。
夕日に逆光になっている彼らの頬は、少年を見て少し緩みます。

機体を背にして振り向いたジムは最高の敬意をこめてイギリス式の敬礼を彼らに送り、
三人の搭乗員は威儀を正して海軍式の答礼を返すのです。



どうしてこのシーンをタイトルにしなかったのか。
ジムが飛行機に手を伸ばすシーンではなくて・・・。
まあ、ここで、このシーンを採用すればきっと各方面からいろんな意見が、
とついつい後ろの事情を勘ぐってしまうようになった自分が、哀しい。



この映画の評論の中に
「描きたいというシーンがまずあって、そのために映画を作ったような印象」
というものがありました。
 もう何というか疑いも無く、スピルバーグが描きたかったのは、このシーンであった!
誰が何と言おうと、このシーンがベストだ!
と言ってしまいます。

この「太陽の帝国」The Empire Of The Sun
は、勿論のこと「日本」そのものを指しています。

この後、基地からおそらくこの三人が特攻に出撃するシーンで、隊員が唄う「海行かば」
に合わせてジムが敬礼しながらウェールズの民謡「Suo Gun」(我が子よ母に抱かれて眠れ)
を唄いだす、というもう一つのシーンがあります。
 ナガタ軍曹始め収容所の皆さんがそれを見てしんみり(軍曹の眼には涙)というおまけ付き。


日本的なものを美しく描く、特に戦争中のものを、
というスピルバーグの想いは特にハリウッドでは受け入れられにくかったのかもなあ、と今にして思います。

ジムという少年が日本に対して憧れをもっていたのは、ただそれが
「零戦を作った国だから」
「零戦のパイロットがいる国だから」
という子供らしい単純なものであったことに間違いはなく、
映画の最後、この特攻隊が出撃するのと同時に米軍が基地を攻撃します。
(捕虜がいるってのに・・・)

ジムは建物の屋上に上り、目の前をP-51マスタングが通過するのを見て大興奮。
「P-51だ!空のキャデラックだ!いけいけー!」
ジムに向かって敬礼する米軍パイロットを見たジム、もう大喜び。

おめーは何か?
自分の好きな飛行機ならどこの軍であろうが構わんのか?

 とついジムに激しく突っ込んでしまうシーンです。

このジムの行動をやたら難しく解釈して映画の評価を下げているむきもありますが、
つまりはこのガキ、もといお子様が単なる「ヒコーキ少年」、だってことが、つまり単純にいうと、
このストーリーのコアだってことなんだと思います。。


そしてこの映画での日本人の描かれ方について。
ナガタのように厳しい軍人もいれば、飛行機を愛する搭乗員、やたら殴る兵隊、
特攻に乗って行く飛行機が故障で飛ばなければ泣き崩れる少年兵、
出しゃばるジムに「こらー」と頭を叩くも厳しく当たらないユーモラスな兵隊(山田隆夫)など、
こんな日本人いるいる、という風に書かれているのですが、何しろ中国人が酷い。


使用人で使われていた時はぺこぺこしているのに、家がカラになった途端家具を盗みだす女中。
(ジムが帰ってきたらいきなり使われていたときの仕返しとばかりにひっぱたく)
街中をしつこく追いかけてきて殴り、靴を盗もうとする少年。
どちらもバラードの体験談だそうです。
当時の中国の民度というものを考えたとき、ナチュラルにこんな奴だらけだろうなあ、
と思うばかりだったのですが、おそらく、ハリウッドにいる中華系アメリカ人にとっては
かなり面白くない映画だったのではないだろうか、と想像されます。


この映画は「戦場のメリークリスマス」にその日本軍の描き方の手本を求めた形跡があり、
やはりビートたけしにも出演の依頼があったそうです。
たけしは
「会いたいなら呼びつけないで会いに来いっていった」
とたけし流の毒舌で断ったことを述解していたそうですが、だれの役だったのでしょう。
 伊武雅刀のやった「ナガタ軍曹」か、ガッツ石松の「ドライバーを叱る兵曹」か・・・。
このとき伊武はストイックなナガタ軍曹役を作るためにずっと菜食で過ごしたそうです。

それから、元の自分の屋敷に灯りがともって聴き慣れたレコードが鳴っており、
ガウンを着たようなシルエットを母親のものと思い込んだジムがドアを開けたら、
屋敷から日本軍の士官がわらわらと出てくるのですが、
その人たちがなぜか
スケスケのジョーゼットでできた白い着物に、ねじり鉢巻き、というお揃いのスタイルで
奇声をあげて車にしがみついてくる、という・・・


どこの舞踏集団だよ!
これだけは少し・・いやかなりいただけないなあ、と・・。

ジムを演じているのはクリスチャン・ベールで、このころはかわいらしい子役だったかれも、
最近ではターミネーター4のジョン・コナー役をするにまで成長。
まさに隔世の感あり。


音楽はジョン・ウィリアムス。
画像シーンの後ろに流れる音楽は実に美しく、このシーンをスピルバーグがいかに描きたかったか、
それを証明する何よりの証拠がこの音楽だと思っているのですが、いかがでしょう。








映画 「雷撃隊出動」

2011-01-17 | 海軍
戦後の各国の戦争映画について次のような話を聞いたことがあります。

アメリカ映画・・・・ヒーローたちが困難を乗り越え作戦にあたり成功させる
イギリス映画・・・・まるで記録映画のように淡々と事実が展開
ドイツ映画・・・・・ナチスの中に真実に目覚める男がいて反逆を企てる
日本映画・・・・・・ひたすら戦争は悲惨だと訴える
中国映画・・・・・・ひたすら日本人が悪いと訴える
フランス映画・・・・ドイツ兵とフランス娘の間の許されざる恋
イタリア映画・・・・戦時下の子供と老人のふれあい
インド映画・・・・・敵味方いきなりみんなで歌って踊りだす


すみません、日本から後半は今自分で作りました。


もちろん、英米合作の「遠すぎた橋」のように、イギリスにアメリカが完璧に力で押された結果
ハリウッドが絡んでいながら「大記録映画」(おまけに負けいくさ)になってしまったものもあるにはありますが、
後半はともかくこの傾向はほぼ正しいように思えます。


そして、この中で最言い得て妙ともいえるのが日本映画ではないでしょうか。

ある方面からの突き上げと非難、というとんでもない伏兵が日本の戦争映画製作にはつきまとうようで、
前にも書きましたが「男たちの大和」にクレーム続出だったらしいのですが、
あらゆる戦争映画というものの中で、はっきりいってあの映画ほど女々しい、反戦的な、見ようによっては
戦闘員の士気というものにを全く触れようとしない戦争映画は他にないのではないか、と思えるくらいです。

ここで「男たちの大和」の悪口を言いますが、ファンの方お許しを。
前にこの映画について少し書きましたが、臼淵巌大尉が
「死に方用意」といって、泣いてもいい、叫んでもいい、と兵たちに許しを与え、
みんなが「おかあさーん」とか「さようならー」とか言いながらおいおい泣く場面があります。

・・・・これ事実ですか?


死ニ方用意、は「戦艦大和の最後」に見られる生存者の聞いた臼淵大尉の言葉なのですが、
それはガンルーム士官に対して言われたとのこと。
兵たちにもそう言ったというのはおそらく創作でしょうが、それにしても、ここは感情過多でうんざりする場面です。



前置きが長くなりましたが、今日の映画
「雷撃隊出動」
については何度か書いてきました。
敗戦色が濃くなってきた昭和19年の末、「特攻」という言葉が新聞に躍るようになってきた頃です。

同じころのアメリカの戦意発揚映画
「東京上空三〇秒」
には、明らかに戦争の不条理を描きながらも、
「でも向こうが仕掛けてきた戦争には勝たないといけないから、蒋介石の応援を受けて、
悪いジャップをできるだけ早いことやっつけるために、俺たちこういうことしてるんだよ」
という説明になっているのですが、
それでは、この「日本の戦中映画」はどうか。


驚くなかれ、日本に物資がなく、連戦連敗で、もう残るは命と引き換えに敵を屠(ほふ)るしか手がない、
という日本軍の実情を、この映画は全く隠していないのです。

そして、実に日本人らしい抑制のきいた表現の一つ一つに、どこまで計算されたものかはわかりませんが、
拭いようもない戦争の不条理を訴えており、
「戦うしかない、しかし、今となっては死するしかない」
という悲壮感が、淡々とした会話の中から伝わってきて引き込まれます。

「この戦争は負ける」ということは、たとえばインテリ層の間だけで囁かれていた、という記述をよく見ます。
一般の民衆はマスコミと大本営の発表に騙されて勝っていると信じていたと。
しかし、海軍省の検閲も通っているこの映画を観ると、
実際の戦況と人々の認識の間に大きな乖離があるようにはとても思えないのです。

何よりも、物資の不足や身近な人々が死んでいくなど、報道はどうあれ戦況の不利は肌で感じたでしょう。
民衆はそれほど馬鹿ではないのかもしれません。

そして、この映画の製作開始に遡ること約半年、いわゆる「竹槍事件」が起きています。
この竹槍事件については、何回にも分けて述べるつもりですが、この言論弾圧事件で海軍は
「海軍に飛行機が足りない」という隠匿されていた事実を命をかけて暴露した新聞記者を救おうとしています。

この映画でメインテーマとなっている
「飛行機が足りない」
は、明らかに竹槍事件で「全海軍がこの言論に喝さいした」ということを表わしており、
陸軍が懲罰召集をかけた記者の言論を堂々と後押しする形で映画の題材にしているのです。

ちなみに件の新名記者が、陸軍の召集を解かれ海軍附きになっていたころです。

海軍のこの映画の制作目的は
「竹槍事件における一連の陸軍の行為に対する抗議」
だったと思っているのですが、どうでしょう。

反論受け付けます。



さて、前にも書きましたが、この主人公は母艦の艦攻乗り村上、飛行参謀川上、そして外地の陸攻機隊長三上、三人そろって「雷撃の神様、三カミ」と言われる少佐。

勿論、これは私が言ってるんじゃなくて映画でそう言ってるんですよ。
「打撃の神様」「神様、稲尾様」「漫画の神様」「ゼロファイターゴッド」
卓越した技術を持つ「達人」を日本人は「神様」と称します。
本人が生きているときから「神様」と呼ばれることも多々あり、
これもそういったエピソードとして作られているわけですね。


さて、戦地に飛行機がないので川上は東京に交渉に行くのですが、失敗し帰ってきます。
戦局の悪化を誰より嘆く熱血漢の村上は、思いつめているようです。
基地陸攻の隊長である三上は悠揚迫らざる大人物で、司令のまえでも居眠りできる男。
自分の機が爆撃でやられてしまっても
「そうなんだよ」
とあっさり答えるので村上を憤慨させたりします。

血気にはやる村上は出撃で自分の命と引き換えに敵を屠る決意を固めており、三上は
「貴様、早まるなよ」
と諭すのですが、敵大編隊を補足し、基地飛行隊を率いて村上らの空母艦隊とともに出撃。

村上に早まるなと言った三上自身の陸攻機は被弾。
雷撃を成功させた後自爆します。
村上は機上被弾し、母艦着艦後戦死。

基地司令(大河内傅次郎)とともに彼らの戦死の報に接する川上は、亡き級友を思いながら
村上の遺していった日の丸のついたシガレットケースから煙草を取り出して吸うのでした。


演出も、演技も、一切ぎりぎりまで「節約」されている感があります。
士官同士の会話は、映画調でも芝居がかってもいず、
むしろドキュメンタリーのようにときどき噛んだりするセリフが妙にリアルです。

小津監督の映画のように襖をあけるシーンが気に入らなくて何カットも撮り直し、
などということは物資の不足を考えてもなかったはずで、製作期間もわずか二ケ月。
おそらく、芝居の部分はほとんどワンテイクだったのではないかと思われるほどです。

しかし、本物そっくり、と思いきや海軍の協力により惜しげもなく実機の映写が挿まれているので、
決してチープな作りではありません。

野球をしたり、ポーカーをしたり、空戦を皆で見物する基地の生活の様子も挿まれ、
実際の戦地の様子を垣間見ているような気分にすらなります。


そして、その控えめなリアリティゆえに意図しないところでまるで「反戦映画」のようになっているのです。
海軍制作、反戦映画の名作、と勝手に位置付けてしまいます。

帝大出で短歌の歌人だという主計長が防空壕で
「日本人の優秀さは千年に一度の国家の危機尋常ならざる時に出てくる。
たとえば万葉集の防人の歌や吉野朝の忠臣の歌に表れるように。
雷撃精神とはそのものではないのか」
と、文学的な日本人論をぶちますが、これも士気が上がるという感じのアジテーションではありません。



この映画のどこが素晴らしいと言って、この三上が率いる一式陸攻の最後です。


果敢に攻撃中敵艦の高角砲に被弾。後ろの電信員らが「ダメです」という風に手を振ります。
三上はそれを聞き、最後の雷撃を成功させるために操縦員の間に立ち、雷跡を見極め

「用意・・・・撃て―っ」


雷撃が成功し、破顔一笑、手を叩きあう後ろの隊員。
次の瞬間三上はただ一言。

「自爆!」


本日画像は、陸攻の機内でそれを言うとき、一瞬対空砲火の曳光弾に照らされる三上の表情。
それを聞き、後ろの搭乗員は黙って鉢巻を締め直し、拳銃を取り出します。
表情も変えず、操縦員と交代し操縦桿を握る三上。




あの戦争で、数知れず実在したのであろうこのような瞬間。
それが、何の演出もなく、涙も、万歳も、さよならも、何もなく、
ただ宿命を受け入れるかのように泰然と無言のうちに。

誰も知るよしのない搭乗員たちの最後は、こうであったのかもしれない。
そう思わずにはいられません。


そして「男たちの大和」の号泣シーンでは決して泣けないわたしが、この最後には必ず涙するのです。







「わたしは法曹界ではあばずれ」

2011-01-16 | 日本のこと
ご存知ない方は、いったいこのセリフを誰が言ったのか訝るでしょう。
ご存じだった方はミンス・ウォッチャーのエリス中尉が大喜びしているのではと思われたかもしれません。


そう、仙谷由人民主党国対委員長元官房長官兼法務大臣兼裏の総理の(大笑)
法相としての法務省職員に対して行った年頭の訓示の中に
この一言があったのを報じたのは、産経新聞ただ一社でした。

事実はこうです。

5日、法相として法務省職員に対し行った年頭の訓示で
「私も皆さん方のお仲間の世界(法曹界)では“あばずれ”の方でございます」
と語り、弁護士時代の自らを卑下した。


えーと。
新聞のニュースであるにもかかわらず、この意味が全く分からないのはわたしだけですか?
突っ込みどころ満載のこの一言、
まず「法務省職員は法曹界の人間」
という、大前提から間違っていませんか?
これは「皆さん方(国家公務員)のお仲間(法曹界)」という意味なんですよね。たぶん。

それから、弁護士としてあばずれ、という言葉の真意ですが、産経新聞記者は
「卑下した」
と解釈しています。
どんな弁護士のことをあばずれと称するのか。

あばずれ=阿婆擦れ、悪く人ずれがしてずうずうしいこと。またその女性。すれっからし。(広辞苑)

ふーむ。どうやら仙谷は弁護士としては人ずれがして図々しいやつだったと。
しかし、そうなら他にもう少し表現のしようがなかったのか。
なぜよりによってこの「あばずれ」という言葉を使ったのか。

ここで思い出されるのが、野党に弱腰外交のことを責められて
「弱腰ではない!柳腰である(きりっ)」
と居直った仙谷法相の前科です。

「柳腰のあばずれ弁護士」

そのイメージとして本日画像のようなヒトしか頭に浮かばないのですが、
そして、どう考えてもそれはB級映画かVシネマのネタにしか思えないのですが、
それはわたしの人並み外れた想像力のせいですか?


うーん・・・・仙谷由人、徹頭徹尾言葉のチョイスに問題ありではないですか?
片手では足りないくらいの失言問題で何度も謝罪し、さらには問責決議案まで出てしまったという、その失言内容も、一つ一つ見ていけば言語感覚にかなりの致傷をきたしている気がしてならない。


例の「暴力装置」ですが、要するに学生時代のサヨク用語なんですよね。
おそらくバリケードで「三列目の男」、弁当運びのパシリだったところの仙谷由人は、
他の活動家学生と同じくもともとマックスウェーバーの理論などに精通しているわけではなかったと思います。

いや、これがマックスウェーバーの学術用語であったことも知っていたかどうかは疑わしく、ただレーニンが好んで使用していたのを当時の革命気取りの学生が言葉をひねくる段階で拝借していただけなのでしょう。
そして仙谷官房長官はこの「なじみ深い左翼用語」が問題になったとき某紙記者が出した
「助け舟」にしがみついたにすぎないという説が濃厚です。

もともと警察や軍隊を指して用い「政治は暴力装置を独占する権力」などと表現した学述的定義を、
あえて自衛隊という特定の、顔のある実在の軍隊に対して投げかけたことが問題だったのであり、
この、もし東条英機が生きていたなら
「このような輩に国を乗っ取られるのを防がんがためにわたしは内閣を退かなかったのだ」
と言ったに違いない左翼政権の陰の実力者は、はからずもこの言葉で出自を露わにしてしまったわけです。


そこで先ほどの言葉のチョイスに戻ります。
出自を思わず露わにしてしまうのがこのヒトの発言の傾向だとしたら
「あばずれ」「柳腰」
という特殊な言葉チョイスからはうっすらと・・・・そう、某自民議員が国会で指摘したという
「仙谷おねえ説」
が浮かび上がってくるのですが、


・・・・・・・・想像してもあまり愉快な図柄ではないので、一部2ちゃんねる系のスレッドでは
このネタでさんざん盛り上がっていたということをお伝えするにとどめたいと思います。

ちょうちん持ちの朝日や毎日と違い、民主政府のマズいこと、とくに仙谷由人のマズいことをさんざん糾弾してきた産経新聞を、この男は(もしかしたら心は女なのかもしれませんが)目の敵にしていて

「(選挙で負けた北海道のある地方は)産経の読者が多かったんだろう」
とか、
「産経はそのうちキャバクラの宣伝でも載せるんじゃないか」
とか、
投げたとたん、自分の眉間にさっくりと刺さるようなブーメラン発言に余念がありません。
特にキャバクラ云々については、
「職業に貴賎なしの精神を無視した為政者にもとる差別発言」
であるうえに
「民主の議員にはキャバクラに公費で行った川端元文科大臣がおり、さらに元キャバクラ嬢であった議員もいる」
わけですから、ますます失言の内容が悪質に、もとい深みを増してきているといえましょう。


前述のスレッドにはご苦労様なことに民主支持の「工作員」が湧いて
「(あばずれとは)法曹の業界用語だと思うがだれも知らないんだよなあ。
2ちゃんを指してバカが100人集まってもバカとはよくいったものだ」


などと煽っていたので、まさかとは思いましたが身内の法曹関係者に聞いてみました。

「弁護士としてあばずれ、ってどんな弁護士のこと?」
「知らん」
「そんな法律用語あるの?隠語とか」
「ねーわwww」



それにしても、朝日!毎日!テレビ局!ゲンダイ!
こんなおいしいネタなのに、どうして閣僚だったときにちらっとも話題にしなかったですか?








戦争映画のラブシーンと算盤勘定

2011-01-15 | 映画

「いかにも戦争映画」の一シーンをお絵かきしてみました。
テレビドラマだったので当然わたしは観ておりませんが、
「井上成美」を描いたものだそうです。
画像はお見合いのシーンだそうで、成美は中井喜一、奥さんは鈴木京香が演じたとか。
観たかったな。


戦争映画に女性が出てくる場合。
もっとも穏便なのは「母親」「老人」「看護婦」です。

女っ気皆無の「雷撃隊出動」には、三人女性が出てきます。
一人は病室の遠景に見える看護婦。顔すら映らず。
一人は現地で日本人相手に食堂をしている婆さん。
そして、魚雷調整をする下士官の阿久根兵曹長の母親。
それも慰問映画に偶然映っていた母親を阿久根兵曹長が見つけるというもので、出演すらしていません。
この映画は戦時中のものなので、極力女っ気を排している様子が覗えます。


戦後になって、反戦を盛り込むのがお約束になった戦争映画には、女性との関係を描くことで
戦争の過酷さとの対比をはかるという表現が増えてきました。

「大空のサムライ」については何度か糾弾しているので、もういい、という声も(自分の中で)ありますが、
この非常に(私的には)評判の悪いラブシーンについて、もう一度説明しておくと、

自分のミスで上官を死なせてしまった野村二飛曹。
かれは実在した本田二飛曹の戦友、という設定です。
本田二飛曹戦死後、なぜか都合良くラバウルの病院に従軍看護婦として勤めている
その姉幸子(大谷直子)が隊に現れます。
坂井は落ち込んでいる二飛曹をなぜか幸子の務める病院に向かわせます。
幸子が坂井からことづかった手紙には「彼を慰めてやってくれ」
という、信じられない内容が!

それを読み、遠慮する野村に手紙の内容は告げず海岸に連れ出す幸子。
何を企んでいるんだ幸子。


海岸で幸子の独白が始まります。

死んでいく兵隊さんに頼まれて身体を抱いていてあげたのだが、哀しかった。
初めて触れた男の人は死んで行く人だったのだから・・。
「でも生きる張り合いになるならいいわ」


つまり、愛はないけど、私を好きにしてちょうだい、てことですか?
それは露骨すぎますか?

とにかくこの一言で二人のラブシーンが始まってしまう。

前にも「何故にっ?」と叫んだ話をしましたが、何度ここを解釈しようとしても分からないのです。
衝動的に幸子を抱き寄せた野村は、慌てて自制し、彼女を置いて去るのですが、
このとき幸子が
「何故に?」って顔するんですよね。


非常に下世話な話をしますが・・・・彼女のような「慰め方」が必要なら、
ラバウルには慰安所というものがあってだな。
別に「ホワイト」さんのお世話にならずとも・・・。
こんな刹那的な慰めを本田の姉に強要?する坂井さんというのにもかなり無理があります。

しかも、今手元に資料がないので断言はしませんが、本田二飛曹には実際お姉さんだか妹がいて、
看護婦さんだった、とどこかで読んだ気がします。

本当なら酷過ぎる創作じゃありませんか。

実は、このシーンについて、脚本家の須崎勝彌氏は、かなり坂井さんと
「ちゃんちゃんばらばらした」ということをご本人が語っています。
勿論この部分だけでなく、とくに空戦シーンは、ベテランパイロットであった坂井氏にとって、
言わば臨時雇いでちょこっと飛行機に乗っただけの須崎氏が書くシナリオというだけでも
かなり不満があったということらしいのですが。

しかし、この唐突なラブシーン(勿論創作ですが)商業映画として「マーケット」戦略上、
どうしても女性をこういう形で出演させる必要があった、とご本人は言うのです。
女性を呼ぶにはラブシーンが必要なのだ、と須崎氏は信じて疑わず、
坂井さんの意向に逆らってでもこのシーンを入れたのだと。

「さらばラバウル」のような、プラトニックな愛の形が、この時代にはもしかしたら
「うけない」と判断されたのかもしれませんが、好みの問題を別にしても、いただけない。



「トラ!トラ!トラ!」には女性が出てきません。
この映画の日本での興行収入はいかがなものだったのでしょうか。
ラブシーンを入れても入れなくてもおそらく動員数はあまり変わらなかったような気がするのですが。
だとしたら歳月を経て評価に耐えうるものになったという意味で、大局的には
その選択が正解だったということなのではないでしょうか。


近年の戦争映画は、もうはっきり「戦争」そのものでなく、戦争という媒体で人間ドラマを描く
という手法になっていますから、むしろ女性とのかかわりがドラマの要だったりします。
最初からちゃんと伏線が引かれ、たとえば「男たちの大和」では幼なじみ、なじみの芸者、
母との関係が過不足なく語られます。


それが戦争映画にしては比重が高すぎ、と個人的にいつも思います。


明らかに「客寄せ」のために書かれたラブシーン。
本当に必要かどうかということと「集客」を秤にかけた結果、後者を選択すると言うのは、
簡単に言えば、芸術より商売を優先したということになるのでしょう。



2001年東京映画制作の「ムルデカ 17805」という映画について少し触れました。
インドネシア義勇軍に加わった旧日本兵の戦いを描いた映画です。

ポツダム宣言受諾後も帰国せず、インドネシアに残って旧宗主国オランダと独立戦争を戦い
インドネシアに独立をもたらした旧日本兵は約2000人。
インドネシア人を愛し、義勇軍を率い、彼らに尊敬された日本人のことが、
この映画によって人々に知られることになりました。
まさに掘り起こされた歴史となったのです。


しかし、この映画は商業ベースには全く乗らず、制作会社は多額の借金を抱えて
遂には活動停止の憂き目に遭いました。
しかも反日映画「靖國」を激賞した「映画の自由と真実ネット」という団体からは
「偽りの歴史を教え込む邪悪なたくらみを持つ映画」
と糾弾されるというおまけつきでした。


このような思い切った歴史解釈の映画は、決して商売優先の算盤勘定からは生まれないでしょう。
「ムルデカ」(インドネシア語で独立)の制作者が「玉砕」覚悟で生み出したものがあるように、
戦争映画に限らず、そのときの時流や採算に逆らってでも信念を貫いたものにこそ
後年の評価は耐えうるものだと思うのですが・・。



これは所詮「それで録を食んでいない者の理想論」なのでしょうか。







エリス中尉はどんなふうに絵を描いているか

2011-01-14 | つれづれなるままに


先日、メールでこのブログに載せている絵を「トレース」とおっしゃる方がいました。
えーと、トレースならもっと楽だし簡単なんですが・・・・・。
スケッチしたものを下絵にカラーやモノクロで色を付けていくのですが、gooブログで使えるJAVAのお絵かきツールでは「トレース」することはできませんので、今日は、たかがブログの挿絵といえども少しは技術がいることを少し説明いたしましょう。


冒頭画像は、パソコン画面に直接描き入れた下書き。
殴り書きみたいですが、実はこの段階が一番難しいのです。
元画像を参考に何度も線を描き直した結果がこれ。
モノクロの場合は、A4の紙にスケッチすることから始めるときもあります。
ブログ開設当初はこのスケッチを細部まで仕上げてから載せていました。

今日は映画「軍閥」から、加山雄三氏の顔を描いてみることにしましょう。
この映画はカラーなので、モノクロではなくカラーに挑戦です。
ツールの使い始めは色の混ぜ方などが分からなかったため、カラーの映画もモノクロで描いていましたが、
マンガに色を付けたりする段階で徐々に学習していきました。
「沈みゆく戦時徴用船」の挿絵制作で、画家の描いた油絵を模写するという暴挙に出たときに
技術は当社比で飛躍的にアップしたように思います。
参考画像はスチール写真ではなく、DVDを見てこれ!と思ったところを静止させ、
それを見ながら描いています。

最初はざっくりとそれらしい色を乗せるだけです。
もうどうなってしまうか不安な出だしですね。


カラーの人物が難しいのは、肌色のバリエーションがパレットに無いからです。
色を作るようにその都度調整したり、下地にピンクや灰色を入れて上から水彩でぼかすとか、
この辺りはまだまだ研究途上。
「肌色」というのは古今東西の画家の最初にして最終の課題でしたから、これもまたむべなるかな。
後何作か描けばもう少しましになる気もしますが。
鼻と唇のあたりから描き込み始めているのがおわかりでしょうか。

よりによってサンプルに髭の濃い顔を選んでしまって後悔しました。
ちばてつや氏の描く白根少佐のように斜線ですんでしまえばいいのですが・・
今回、ぼかしから始めてみましたが、あまり髭面に見えなかったので、水彩筆の一番細いペンで線を描くように髭を描きこんでみました。なんとかそれらしく見えてきましたね。
そして、海軍関係者を描くのに本当に困るのが、ネイビー使用第三種のカーキがJAVAのパレットに無いこと。
陸軍のカーキなら濃淡が揃っているのですが、海軍のカーキは陸軍のより青みを帯びているのです。
やはりエリス中尉はこちらのブルーカーキとでもいう色の方が好きですね。
しかし、本当に出しにくい色です。
この帽子の色は苦心惨憺して、カーキの上にブルーとグレーを重ねて作りました。

首から上はそれらしくなってきました。
が、この首部分の陰影にまた一苦労。
細かい鉛筆の線でデッサンするように影を付けてから、それをぼかし機能で伸ばしてみましたが、あまりうまくいかないので、既定の色を作っては乗せ、濃くしていっては乗せの繰り返しでかげをつけてみました。
着ているシャツのベージュを作るのが難しく、いったん全部白くしてしまったりした経過がこの段階にあります。

ブログに載せる程度なら、まあまあ許せる出来に近付いてきました。
搭乗員の飛行眼鏡とか、瞳の中の光は、「消す」というコマンドで点を乗せる感じで出すのですが、
これはいつも「最後の楽しみ」として取っておきます。
これを入れて画面が締まるのがとても楽しみ。
画竜点睛といいますが、まさにこの作業のことかもしれません。
この後は、画面とにらめっこで細部を点検。

一度アップしても何回でも手を入れられるのはこの手法のありがたいところ。
サインを入れて一度完成させてみました。
加山雄三に見えますか?
そうでもないぞ、とおっしゃる方、この加山さんは度付きの眼鏡をかけているので、あまりそう見えないんですよ。
などと言ってみる。

モノクロの画像は、最初のスケッチをの段階をA4の紙に鉛筆で描き、その上からフェルトペンでアウトラインを濃く描いたものをスキャナでクロップします。
これはもともとが小さい画像が多いためで、クロップ終了が本日の最初の画像の段階にあたります。
クロップしたものは直接今日のように画面にデッサンしたものより画面が小さい。
モノクロだと画面が小さくても表現しやすいからですね。

またいつか今度はモノクロ画像制作過程を説明します。