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バーキン片手に靖國神社

シュトゥーカvsスピットファイア〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-29 | 航空機

さて、前回同博物館展示のスピットファイアについて紹介しましたが、
本文中触れたスピットファイアの設計者、R.J.ミッチェルの伝記でもある、
映画「スピットファイア」のDVDを取り寄せましたので、
いよいよ当ブログ映画部でご紹介しようと思っています。



相変わらずものすごい角度で展示されていることに感心しますが、
スピットファイアと空戦真っ最中のシュトゥーカ、
後で見たらこちらの写真は何枚も撮っていたのに、
スピットファイアの単体の写真が一枚もないのに気づきました。

こういうところでドイツ軍機を見ると、必要以上にテンションが上がり、
色めきたって、夢中で何枚も写真を撮ってしまうわたしって一体・・・。

■ シュトゥーカ Junkers Ju 87 Stuka



右上の筆記体は、当時イギリス王立陸軍の医療隊にいて、
ドイツ侵攻中のクレタ島で連合軍と行動を共にしていた
ギリシア系軍医のセオドア・ステファニデス(Theodore Stephanides)
医師・博識家・自然主義者・生物/天文学者・詩人・作家・翻訳者の言葉です。

「私たちはシュトゥーカを恐れました。
それは叫び声を上げながら降下してきて、
恐るべき正確さで爆弾を放っていきました」


シュトゥーカは、各翼の下に 100 ポンドの爆弾を、
胴体の下に 1,100 ポンドの爆弾を運ぶことができた




第二次世界大戦中、非常に正確なドイツのストゥーカ急降下爆撃機は、
他のどの航空機よりも連合軍の地上部隊に多くの破壊をもたらしました。


テンション上がったわりに、この一文を読むまで、シュトゥーカが
戦闘機なのか爆撃機なのかも知らなかったというわたしである。

シュトゥーカ、という響きは個人的にロシア語っぽく聞こえるのですが、
急降下爆撃機を意味するドイツ語の

Sturzkampfflugzeug
シュトルツカンプフルクツァイク


の最初部分を取って愛称にした感じでしょうか。
つまり、急降下爆撃機をキューバクと呼ぶみたいな。

同攻撃法の専門機みたいな位置付けで開発されたのかと思いますが、
対地攻撃の任務も請け負っていました。

1936年から始まったスペイン内戦で、あのコンドル軍団と共にデビューし、
第二次世界大戦終わりまで現役でした。

冒頭の写真を見ていただくと、逆ガル翼、そして
次の写真で空戦中なのに出しっぱなしの脚(固定スパット式)が
シュトゥーカを特徴づけていることがお分かりでしょう。


1)ダイブブレーキ

(赤いに囲まれた部分がブレーキ)

スツーカの設計にはいくつかの革新的な技術が含まれていました。

両翼の下にある自動引き上げ式急降下ブレーキは、
降下のスピードを遅らせ、爆弾を正確に投下し、
衝突する前に引き上げる時間を確保する役目を持ちました。

これは、たとえパイロットが高いGフォースで失神しても、
航空機が攻撃急降下から回復することを保証するものでした。

急降下攻撃における性能は、これによって向上し、
一定の速度を維持しながら、狙いを定めることができるようになりました。



2)後部機銃



後方からの敵機用。
後方砲手の射界を確保するため、二重垂直安定板が導入されていました。

3)逆ガル翼



急降下のスピードを上げ、同時に空力に耐えるためのデザインです。

3)ダイブ アングル サイト(降下角度指示器)


右舷のフロントガラスに赤く塗られたダイブアングルサイトにより、
パイロットは飛行機をターゲットに直接向けることができます。

しかし、その角度はどうやって決定したんでしょうか。
おそらく、赤い線は地平線と合わせて降下角度を知ったのだと思いますが、
角度は30°から90°までありますね。

90°急降下することが「理論的に」可能だったってことか?
と思って調べてみたところ、

Junkers Ju 87 - Stuka in Action | German Dive Siren (Real Footage in Color - WW2)
↑ 本当にやってました

5)自動操縦

こんな無茶な急降下をして大丈夫なのか、と思ったら、
案の定、シュトゥーカのパイロットは時々重力のため
気を失っていた
ので、急降下から飛行機を引き上げる仕組みの
自動操縦システムが装備されていました。

急降下の際にかかる乗組員への身体的ストレスは深刻で、
座った状態で5G以上の負荷がかかると、パイロットには
「シーイングスター」⭐と呼ばれる灰色のベールのような視力障害が発生します。

こうなると意識を保ったまま視界を失い、5秒後にはブラックアウト。
Ju87のパイロットは、急降下からの「引き上げ」時に
最も視覚障害を経験していました。

自動操縦がなければ、ほとんどがそのまま墜落コースです。


開発中、Ju 87 V1が墜落し、ユンカースのチーフテストパイロット、
ウィリー・ノイエンホーフェンとハインリッヒ・クレフトが死亡しました。

急降下による週末動圧試験中に逆スピンになったせいでしたが、
この事故により垂直安定尾翼デザインの変更とともに、
急降下時の風圧に耐えるため、フレームとロンジョンにブラケットをつけ、
胴体と前縁の下に重いメッキが取り付けられ、
油圧式ダイブブレーキが設置されることになりました。

この結果、Ju 87は急降下爆撃機として構造強度要件に達し、
降下速度600km/h、地上付近の最大水平速度340km/h、
飛行重量4,300kgに耐えることができたのです。

■ ”ジェリコのラッパ”の真実

Ju 87の主席設計者、ヘルマン・ポールマンは、
急降下爆撃機の設計はシンプルで堅牢でなければならないと考え、
格納式ではなく、「スパット」と呼ばれる固定式の脚周りを採用しました。

また、冒頭の軍医、ステファニデス少佐の書いたところの「叫び声」とは、
「ジェリコのラッパ」と呼ばれ、まるでシュトゥーカが
サイレンを付けていたかのように喧伝されましたが、
急降下の際に発生した風を切る音に過ぎませんでした。

この威嚇音はドイツのブリッツ(電撃戦)の際、
プロパガンダとして喧伝されましたが、実際のところは
隠密性の点からそれが威嚇として効果があったのは
スペイン内戦のころだけだったという話です。

■ 欠点

シュトゥーカは、第二次世界大戦の勃発時に、
近接航空支援と対船舶の役割で大きな成功を収めました。

1939年9月のポーランド侵攻では、航空攻撃の中心となり、
1940年のノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスへの侵攻においても
不可欠な存在であることを証明しました。

確かに頑丈で精度が高く、地上目標に対して非常に有効ではありましたが、
当時の他の多くの急降下爆撃機と同様に、戦闘機に対して脆弱でした。



ここMSIの機体展示、後方から追い詰めてくるスピットファイア、
その攻撃から得意のダイブで逃げようとする瞬間のシュトゥーカは
どうみても前者有利の雰囲気を醸し出しています。

スピットファイアのコクピットには、マークから察するに
すでにドイツ機を5機撃墜した「エース」が乗っていて、
6個目のハーケンクロイツを仕留めるチャンスを虎視眈々と狙います。

急降下爆撃機は、爆撃のための急降下は得意でも、
戦闘機のような駆動性は持ちませんから、それこそ狙われたら
ここのシュトゥーカのように、ダイブして逃げるしかなかったでしょう。

事実、1940年から1941年にかけてのバトル・オブ・ブリテンでは、
操縦性、速度、防御力に欠けるシュトゥーカを運用するために、
重戦闘機の護衛を付けていたという話があります。

しかし、それはシュトゥーカに限ったことではなく、
急降下爆撃機としての性能と信頼度はずば抜けていました。



王立海軍のテストパイロットで、敵機鹵獲飛行隊の指揮をとった
エリック『ウィンクル』ブラウン大尉は、

「私は多くの急降下爆撃機を操縦してきたが、
本当に垂直にダイブできるのはシュトゥーカだけでした。

急降下爆撃機では、最大潜航角が60度程度になることもありますが、
シュトゥーカを飛ばすときは、すべて自動で本当に垂直に落ちていくのです。

シュトゥーカは他にはない独自の飛行機でした」


とその性能を絶賛しています。

■ シュトゥーカとヴォルフラム・フォン・リヒトホーヘン



撃墜王として有名だったマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの弟、
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、自身もパイロットとして
有名でしたが、彼は自身の経験を惜しみなく発揮して
この時期、陸軍支援航空の主要な推進者でした。

彼は自身の空戦体験から、近代空軍が克服するべき
いくつもの問題を提起し、戦術と作戦レベルを引き上げようとしました。

彼の一つの戦術的な提案は、作戦を革新させました。
それがシャトルエア戦術(前線に近い位置から航空機を往復させる)であり、
兵站にモータリゼーションを活用する作戦でした。

ドイツ空軍は彼の意見を全面的に取り入れてきましたが、
(彼がゲーリンクに絶大な信頼を置かれていたためかと)
ことシュトゥーカの開発に関しては、
当時技術局で新型機の開発・試験を担当していた彼は、
ユンカースの主任技師に、

「パワー不足でドイツ空軍の主力急降下爆撃機になる見込みはほとんどない」

とにべもなく切り捨てています。

そのため、一度は、ライバル機であるハインケルHe118が優先されて
シュトゥーカは開発中止を言い渡されましたが、



プレイボーイで有名だったリヒトホーフェンと同じくらい女出入りが多く、
(いらん情報)有名な戦闘機パイロットで設計技師の
エルンスト・ユーデットが競合のハインケルの試作機を墜落させたため、
消去法でシュトゥーカの開発が継続されることになりました。

選ばれたとはいえ、シュトゥーカの設計はまだ不十分で、
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは首を縦に振りませんでした。

彼はより強力なエンジン、最高速度が350km/hを下回らないもの、
という高い要求を突きつけ、これを解消するために
ユモ210 D倒立V型12気筒エンジンを搭載することになりましたが、
この試験飛行の結果にもリヒトホーフェンは満足しなかったようです。

地上では280km/h、1,250m(4,100フィート)では290km/hと
数字では全く要求に達しませんでしたが、
良好な操縦性を維持していたため、そのまま採用となりました。

■シュトゥーカの戦術


バトル・オブ・ブリテンの後、ドイツ空軍はバルカン半島、
アフリカ、地中海、東部戦線の初期にシュトゥーカを配備しました。

ほぼ垂直に飛び込み、ピンポイントの精度で爆弾を投下することができたので
地上支援、対戦車、対船舶に使用されました。

シュトゥーカは、50 機以上の編隊が
Vまたは「フィンガー」フォーメーションで飛行する戦法を取りました。
この技術は、最終的に世界中の空軍によってコピーされることになります。

急降下の方法とは次の通り。
自動的に行われる動きは赤字、パイロットの操作は青字。



高度4,600mで飛行

コックピットフロアにある爆撃窓から目標を確認
ダイブレバーを後方に動かし、操縦桿の「スロー」を制限


[ダイブブレーキが自動的に作動]

トリムタブをセット、スロットルを下げ、冷却フラップを閉める

[機体は180°ロールし、自動的に急降下する]

[Gフォースによるブラックアウトが発生した場合、
自動潜行回復システムが作動]

[60~90°の角度でダイブすると、ダイブブレーキの展開により
500~600km/hの一定速度を保つ]

航空機が目標にある程度近づくと、接触式高度計
(あらかじめ設定された高度で作動する電気接点を備えた高度計)
のランプが点灯して爆弾の放出地点を示す(最低高度 450 m )


爆弾を発射
操縦桿のノブを押して自動引き抜きを開始

[引き上げが始まる]

[機首が地平線の上に出ると、急降下ブレーキは後退、
スロットルが開き、プロペラは上昇モードに設定される]


パイロットはコントロールを取り戻し、通常の飛行を再開する


■ その後のシュトゥーカ

ドイツ空軍が制空権を失うと、シュトゥーカは敵戦闘機から
格好の標的となりました(この博物館の展示のように)。

しかし、より良い代替機がなかったため、1944年まで生産されていました。
1945年までに、地上攻撃型のフォッケウルフFw190が登場しましたが、
物不足の折、Ju87は1945年の終戦まで現役で活躍していました。



シュトゥーカのパイロットとして最も成功したことで
「シュトゥーカ大佐」という異名すら持っていた

ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐
Hans-Ulrich Rudel 1916– 1982

は、終戦までずっと、
東部線線でシュトゥーカに乗って戦い続けました。

戦車 519輌、装甲車・トラック 800台以上、
火砲(100 mm口径以上) 150門以上、装甲列車 4両、戦艦 1隻(マラート)
嚮導駆逐艦 1隻、駆逐艦 1隻、上陸用舟艇 70隻以上、
航空機 9機(戦闘機 2、爆撃機 5、その他 2)

というとんでもない戦績を上げたルーデル曹長(活躍時)ですが、戦後に

「何故あのような遅い機体(Ju87)で、あれだけ出撃(2500回)し、
かつ生き残ることが出来たと思いますか?」

と尋問をする英米軍将校に対して、こう答えたそうです。

「わたしには、これという秘訣はなかったのですが・・」
(大真面目)

ルーデル大佐が凄過ぎ、というか、
それだけ遅い機体の代名詞だったのねシュトゥーカって・・。

■ 科学産業博物館所蔵のシュトゥーカ



連合国は 1941 年に北アフリカの飛行場でこの飛行機を鹵獲しました。

鹵獲当時は特別なカモフラージュがされていて、
サンド フィルター、砂漠のサバイバル用品、その他の改造により、
熱帯での戦闘に備えることができました。

世界に現存する2機の同型シュトゥーカのうちの1機となります。


続く。




スピットファイア〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-27 | 航空機

MSIの「小さな飛行機展示」のなかで、最もわたしの目を惹いたのは、
あたかも空戦真っ最中のスピットファイアとシュトゥーカでした。

いろんな航空博物館で戦闘機の展示を観ましたが、
外で野晒しにされるままの残念な展示がほとんどに対し、
ここMSIとオハイオの国立航空博物館、そして
まだ紹介していませんが、サンディエゴの航空博物館、
この三つは屋内展示されているという点でまず格違いです。

そして、国立であるオハイオの博物館以外では、
専門の航空博物館でもないここが、もっともいろんな意味で
優れた航空展示をしていると感じました。

さすが、「北半球一の科学産業博物館」を自称するだけのことはあります。



かつて実際にこのような体勢で行われたに違いない空戦を、
ワイヤの吊り方で生き生きと再現する手法。

2階の同じ高さからこのかつてのライバル機を目にするだけで、
想像力の豊かな人なら、想念を過去へと容易く運んで
一時のタイプトリップを楽しむことができるに違いありません。

さて、そのスピットファイアです。

速度と機動性は戦闘において特に際立っており、
その高度な空気力学により、これまでに製造された
最も重要な軍用機の 1 つになりました。

スピットファイアは、4 か月にわたるバトル オブ ブリテンで、
シュトゥーカを含む数百のドイツ戦闘機を撃墜しました。

スピットファイアは、戦前、戦中、戦後を通じて継続的に改良され、
生産された唯一のイギリスの航空機でした。

■スピットファイア

ます、わたしが愛してやまない、サー・ウィリアム・ウォルトンの
「スピットファイア」組曲から「プレリュードとフーガ」、
これを貼っておきますので、是非聴きながらご覧ください。

William Walton : Spitfire Prelude and Fugue. Video clips.

不詳わたくし、この曲があまりに好きすぎて、
かつて乗馬をやっていたとき、部内試合本番のBGMに使ったくらいでした。

このYouTubeも、数ある同曲バージョンの中で、
エンジン始動音から始まり、工場での組み立てシーン、
待機中のパイロットにスクランブルがかかり、座っていた椅子を倒して
走っていくシーンなどが観られるおすすめです。

前半プレリュード部分は第二次世界大戦時のモノクロフィルム、
後半フーガからは現存するスピットファイアでの飛翔と、
なかなかこの映像構成も気が効いていると思います。



第2次世界大戦中、

Supermarine Spitfire Mark 1-A
スーパーマリン スピットファイア マーク 1-A 


は、ドイツの侵略に対するイングランド本土防衛の最大の要でした。


 
"The spitfire had style and was obviously a killer."
「スピットファイアにはスタイルがあり、際立った”キラー”だった」

MSIのスピットファイア紹介パネルに書かれたこの言葉は、
RAF(ロイヤル・エアフォース)のエースパイロット、



アドルフ”セイラー”・マラン 1910-1963
Adolph’ Sailor' Gysbert Malan

のスピットファイアへの賛辞です。

海軍士官候補生から海軍予備役少尉になったのち、
RAFのパイロットになった経歴から、同僚に
「セイラー」と呼ばれていたというマランは、
第二次世界大戦中にRAF戦闘機部隊に所属し、
最も高い撃墜スコアを記録したエースとして大変有名です。

以前スミソニアンの展示を元に世界のエースシリーズをした時には
その名前は出てきませんでしたが、

27機破壊、7機共有破壊と未確認機2、確実3、16機損傷

という記録はRAFのトップに位置します。

そのシリーズでも書きましたが、戦闘パイロットの撃墜数というのは、
時と場所、機体の性能と相手の状況によって一括りに語れないものなので、
「数重視」では、どうしてもRAFのパイロットは浮かんできません。

なぜなら、1941年当時、ルフトバッフェは技術的にも技量的にも
そして戦術的にも洗練され、大変レベルが高かったからです。

ドイツのエースが、いずれもソ連空軍相手に、とんでもない数の
撃墜数を上げていたことを思い出していただければと思います。

たとえば、バトル・オブ・ブリテンで彼と対戦して被弾負傷した
ルフトバッフェのエース、ヴェルナー・メルダース大佐は、
死亡時(乗客として乗っていた飛行機が墜落)28歳で
すでに115機の撃墜記録を持っていました。


Werner Mölders 1913-1941

余談ですが、前述のセイラー・マランは、戦闘機パイロットのために
「空中戦のための10箇条」(Ten Rules)というものを提唱しています。

それは以下の通り。

1、相手の「白目」が見えるまで待て

2、照準が確実に「ON」になってから、1~2秒の短い連射をせよ

3、射撃中は他のことは考えず、全身を緊張させ、
両手をスティックに添えて、リングサイト(照準)に集中せよ

4、常に鋭い視線を保て ”指は出したまま”

5、高さはイニシアチブを与える 常に振り返って攻撃開始せよ

6、決断は迅速に行う 戦術が最善でなくても迅速に行動する方が良い

7、戦闘空域では、30秒以上まっすぐ水平飛行をするな

8、急降下で攻撃するときは、常に編隊の何割かを上空に残し、
トップガードとして機能させよ

9、イニシャティブ、アグレッション、空中での規律、
チームワーク、これらは空中戦で重大な「意味」を持つ言葉である

10、素早くもぐりこめ 強く攻撃を加えたら すぐに退避せよ!

これらは日本の戦記物でも見覚えがあるような内容ですが、
当時から世界規範で共有されていた認識ではないでしょうか。

まあそういう「エース・オブ・エーセス」のセイラーが
スピットファイアのことをこのように高く評価していたということです。


■ スピットファイア テクニカルデータ


1)独特な薄い楕円形の金属翼により、
スピットファイアは他の戦闘機よりも空気力学的に優れていました。

2)リトラクタブル(引き込み式) ランディング ギア
空気抵抗力を減らし、高速飛行を可能にしました

3)翼の本体に組み込まれた 8 基の機関銃

4)マーリン・エンジン (ロールス・ロイス社が設計)
優れたパワーとスピードを提供しました

コクピット
密閉されたラップアラウンド コックピットにより、
あらゆる方向の敵戦闘機を発見するための視認性が向上しました



空戦に向かうスピットファイアの飛行編隊

■ スピットファイアの戦闘戦略

スーパーマリン・スピットファイアは、爆撃機攻撃から本土を守る
短距離戦闘機として設計され、ブリテンの戦いでこの役割を果たし、
伝説的地位と、戦争中最高の通常防御戦闘機の称号を得ました。

マルチロール機へと進化したスピットファイアは、
非武装の写真偵察(P.R.)機の役割の先駆けとなりましたし、
初めての夜間戦闘機の役割も果たしました。

この夜間迎撃で最も成功したといわれる例は、
1940年6月18日/19日の夜、74飛行隊の”セイラー”マラン中尉
2機のHeハインケル 111を撃墜した時と言われます。

具体的な戦闘戦術としては、スピットファイアのパイロットは
太陽を背にして攻撃し、敵の目をくらませた、とあります。

がしかし、これも普通に世界中の空戦パイロットが言っている気がします。

あと、スピットファイア中隊は一列に並んで飛行し、
ドッグファイト中に3機の
「VICヴィック・フォーメーション」
に分かれた、という記述もあります。

VICフォーメーションとはRAFが発明したもので、
最初に登場したのは第一次世界大戦の時です。

つまり、最低3機で作る「逆さV」=エシュロン型ですね。



VICとはRAFにおけるVのフォネティックアルファベットで、
それがそのままフォーメーション名になりました。

この発明以前、軍用機は船団のように、
列をなして飛んでいたそうですが、これだと
リーダーや他の飛行機と連絡を取ることはできず、さらに
地上方対空砲火を受けた際、飛行隊は一斉に旋回することで
編隊をばらばらにしてしまうか、リーダーに付いて一列になることで
定点での放火にさらされることになります。

その点、V字編隊で飛行すると、銃撃を受けたら180度旋回することで
編隊はそのままで裏返る形で移動することができました。

また、編隊を組むことで飛行士がお互いを確認し、
手信号でコミュニケーションをとることができ、
視界不良や雲の中でも一緒に行動することができます。

その後、爆撃機や偵察機が戦闘機から攻撃を受けたとき、
VICは優れた防御特性を持つことが証明されました。

パイロットが内側に目を向けて編隊を維持することで、
互いに攻撃機を見落とすことができ、
オブザーバーや後方砲手が連動して射撃することで
互いを守ることができたのです。

VIC以前、RAFのパイロットが採用していた
ライン・アスターン隊形(単縦陣)
(4機が互いに後方を飛行する)
を、

Idiotenreihennイディオッテン ライヘン
=「バカの列」

と呼んでいたルフトバッフェのパイロットたちは、
バトル・オブ・ブリテンで、RAFのVIC隊形に対しなすすべなく、
自分達もそれを「ケッテ」Kette(鎖)と名付けて
いつの間にかちゃっかり取り入れることにしたのはここだけの話。

今現在も、VICフォーメーションは軍用機隊列の基準です。
っていうか、これって渡り鳥のフォーメーションそのものだよね。


■ スピットファイアvs零式艦上戦闘機

戦争が太平洋に舞台を移したとき、そこに投入された
オーストラリアやイギリスの飛行士は、P-40やスピットファイアに搭乗した
戦闘経験のあるベテランがほとんどでした。

しかし、これまで相手戦闘機を圧倒することに慣れていた彼らも、
そこで対戦する零戦がスピットファイアを圧倒することを発見し、
大変な衝撃を受けたといわれています。

「機敏な日本の戦闘機相手に旋回ドッグファイトをしないこと」

この先人の教えを学ばなかったスピットファイアは失われました。

ただ、これらの問題にもかかわらず、スピットファイアはそれなりに成功し、
三菱キ46偵察機を捕らえることもできたようです。

1943年10月から410機のスピットファイアMk VIIが
Mk Vcsに代わって対日本機戦に投入されましたが、
実際に行われた空対空戦闘はごくわずかでした。

1943年半ばには、ソロモン諸島作戦とニューギニアで
日本海軍が大きな損害を受けて、それ以降は
オーストラリア北部への攻撃を継続することができなくなったからです。

南西太平洋戦線の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、
フィリピンへ凱旋をオーストラリア軍など外国勢と共有することを望まず、
このため、RAAFスピットファイアは、ニューギニアに残る日本軍に
戦闘爆撃に投入されて空戦には出番がありませんでした。

オーストラリア空軍のパイロットたちは、この状況を、
耐え難い(多分プライド的に)労力と命の浪費
と見なしました。



【インド・ビルマでのスピットファイア対日本機】

東南アジア地域では、1943年11月、インド・ビルマ戦線の3つの飛行隊に
最初のスピットファイアVcsが配備されました。

スピットファイアのパイロット2機が、1943年初めて日本軍に遭遇し、
チッタゴン上空で日本機の編隊を攻撃し、このとき
一人は戦闘機と爆撃機2機を損傷させ、もう一人は2機を撃墜しました。

1943年、オーストラリア空軍のスピットファイアが
日本軍の爆撃機11機と戦闘機3機を撃墜したという記録があります。

その後もビルマで日本陸軍航空隊(IJAAF)と空戦が行われ、
スピットファイア3個飛行隊が、キ43「オスカー」キ44「トージョー」
との数日間の戦闘の末、戦場での制空権を獲得しました。

1944 年初期から中期にかけてのコヒマとインパールの戦いにおいて、
スピットファイアは連合国軍の制空権を確保し、
西側同盟国が関与した戦争最後の大規模な戦闘に寄与しました。



■ 映画「スピットファイア」と「フュー」


「The First of the Few」
「Spitfire」1942年

この 1942 年の映画は、スーパーマリン スピットファイアのデザイナー、
R.J.ミッチェルの人生をベースにしたストーリーです。

「スピットファイア」のタイトルは、アメリカ上映用に付けられました。

戦争中に制作された多くの英国のプロパガンダ映画の 1 つで、
イギリスのプロパガンダ映画にはお馴染みの
レスリー・ハワードがミッチェルを演じています。

元々のタイトルは、バトル・オブ・ブリテンに参加した搭乗員たちを
ウィンストン・チャーチルが称えた、

"Never was so much owed by so many to so few".
(これほど多くの人がこれほど少数の人に多くの借りを作ったことはない)

という言葉の”few"からとられていますが、
このタイトルが、「スピットファイア」に変わる
ほんの数日前、レスリー・ハワードはリスボンからロンドンに向かう
民間旅客機をドイツ空軍に撃墜されて死亡しました。

そして、何を隠そう冒頭にアップしたサー・ウォルトンの
「スピットファイア」はこの映画のテーマソングです。

The First of the Few (1942) - Trailer

The First of the Few Ending Clip

2番目のトレーラーの最後には、
チャーチルのセリフを進化?させたと思われる、

Never in the field of human conflict was so much owed
by s many to so few.
(人間同士の争いの分野で、これほど多くの人が
これほど少数の人に借りを作ったことはない)


という文字が現れます。

当ブログ映画部では、次回映画ログで本作を取り上げます。
どうぞお楽しみに。


■ MSIのスピットファイア


博物館のマーク 1-A は、バトル オブ ブリテンで飛行した、
数少ない現存するスピットファイアの 1 つです。

コックピット右舷側のスワスティカ=Swastika(逆卍)は、
この飛行機がドイツで 5 機の「撃墜」を達成したことを示しています。


続く。



ピカール夫妻のゴンドラと米ソ宇宙戦争の起源〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

「成層圏への高みを目指した」ピカール夫妻のゴンドラについては
当ブログのスミソニアンシリーズでご紹介済みですが、
ここにそのゴンドラ実物が展示されていたのでもう一度取り上げます。

■ ピカールのゴンドラ

1933年にシカゴで開催された博覧会「進歩の世紀」で、
ジャン・ピカールと彼のチームが世界高度記録の更新に挑みました。

そしてゴンドラは「人類最大のドラマ」の中心的存在でした。

この歴史的な試みを見ようと5万人の観客が集まりましたが、
バルブの漏れが原因で1度目の飛行は失敗に終わります。

しかし1933年、2度目の飛行で、18.665キロの世界高度記録を更新し、
アメリカ人初の成層圏への突入を果たしました。

そして、ピカールの妻ジャネットは、
女性初の成層圏到達記録を樹立することになります。


ジャンとジャネット


MSIのピカールゴンドラ説明パネルの「決め台詞」は、

”The stratosphere is the superhighway
of future intercontinental transport."
「成層圏は将来の大陸間輸送における
スーパーハイウェイです」

このジャン・ピカールの予想は正確ではないもののある意味当たっています。

大陸間の輸送を海運に頼っていたこの頃、
もし高高度まで荷物を運ぶ技術さえ生まれれば、
それまでにはなかった超高速での輸送が可能になるからです。

今は、垂直に高みを目指さなくとも、飛行機、ジェット機による輸送が
スーパーハイウェイとして機能しているのを見れば、
彼の予言が正しかったことがお分かりでしょう。



ピカール家は探検家一家でした。
双子の兄弟、オーギュストとジャン・ピカールは、
1884年にスイスで生まれ、
科学、工学、発明に興味を持ちながら成長しました。

オーギュストは、大気圏上層部の宇宙線に興味を持ち、
宇宙線を測定するために高高度まで上昇できる
球形の加圧式アルミニウム製ゴンドラを設計しました。

1931年、オーギュストと助手のポール・キプファー
試作したゴンドラでドイツのアウグスブルクを飛び立ち、
高度51,775フィートを記録し、人類初の成層圏突入者となります。

それは17時間かけた世界史の転換点でした。



【航空機による成層圏への挑戦】

以前にも書いたように、成層圏を目指したのは
ピカール兄弟だけではありません。

1930年代初頭になるまで、世界中のパイロットが
高高度での人間や飛行機の耐久性の限界に挑戦していました。


1930年6月4日にアポロ・スーチェク海軍少将(最終)が
水上機で達成した43,166フィート(13,157m)、


1932年9月16日にイギリスのシリル・ユーインズ(Cyril F. Uwins)
が出した43,976フィート(13.404m)、


1934年4月12日にレッジア・アウロナウティカ(イタリア空軍)の
レナート・ドナーティ中佐(当時40歳)が
アルファロメオのエンジンを積んだカプロニで47,572フィート(14.500)
と記録を出していきました。



ちなみに、レナート中佐の記録達成の翌年、
イタリアの女流飛行家カリーナ・ネグローネ侯爵夫人
同じカプローニCa.113で女性の新記録12.403mを樹立しています。

Aeronautica Militare - Carina Negrone, un record al femminile - 1935

侯爵夫人でありながら空軍で航空の訓練を受けた
最初のイタリア人女性として有名なのだそうです。

ネグローネ侯爵夫人が搭乗するシーンを見てもわかるように、
酸素のない高高度にオープンコクピットで飛んだ当時、
生命維持装置を開発しなければ成層圏への達成はあり得ないとして、
生命維持のための与圧キャビンや可変ピッチプロペラ、
薄い空気の中で飛行するための新設計のエンジン
(ターボコンプレッサーやスーパーチャージャー)など、
さまざまな革新が必要であることを、関係者は重々理解していました。

それが理解されるまでの期間、何人かが同時に成層圏にチャレンジし、
その結果何人もが事故で命を失っていきました。

【ピカール気球の時代】

ご存知のように、当初は、飛行機よりも高高度に達するための
「ストラトスタット」(成層圏気球)を打ち上げる記録で、
いうたら平和的な競争が展開されていました。

この成層圏レースを最初に始めたのが、オーギュスト・ピカールでした。
スイス人で、ブリュッセル大学の物理学教授であり、
ガンマ線の研究専門家でもありました。

彼が助手と記録を打ち立てた最初の気球飛行ミッションの科学的目的は、
宇宙線の観測と測定(性質、強度、動き)、
空気の化学分析と気温の記録というありふれたものでした。

しかし、この飛行は、SF小説のようなドラマと危険に満ちていました。
(何しろ世界初ですから)

ゴンドラを格納庫から発射場まで小さな線路で慎重に運ぶ様子、
夜遅くまで射場を照らす巨大な投光器、
射場に詰めかけた大勢の作業員と観客、英雄として帰還するパイロットたち、
カプセルにイニシャルを入れるファンたちなど・・・。

残されている映像は、まるでそのものが映画のようです。

球体ゴンドラはピカールのユニークな発明でありましたが、
これは後の成層圏ゴンドラの原型となり、
さらには数年後のスプートニク宇宙船を先取りしていました。



機体はアルミニウムと錫を溶接した直径3.5mの気密性の高いボールで、
ビールの貯蔵に使われる密閉桶の技術を応用しています。

ピカールは、このボールに純酸素ディスペンサーと
二酸化炭素を浄化するための再循環システムを備えました。

可燃性の高い水素ガスを50万立方フィート注入した気球は、
内部のガスが太陽の光で温められ、完全に膨張すると、
時速20マイルのスピードで上昇します。

発射すぐは気球の形状は洋ナシ型で、上空に行くと丸くなりましたが、
これはピカールの言葉を借りれば「完全な球体」であり、
日没後に見える朝の星、金星そっくりで、
現に何人かの観測者はこれをピカールの機体と混同していました。

最初の飛行は何度も失敗の危機に瀕しました。

音響測定器も入らない1インチほどの穴から酸素が漏れ、
なんとか苦心して塞いだものの、上昇するときになって貴重な空気が
「ヒューヒュー」と出ていくのをただ見ているしかありません。

また、モーターが故障して、ゴンドラは太陽の熱を避けることができず、
内部の温度は40℃にまで上がったため、
その熱でゴムのジョイントが曲がり、さらに空気が抜けていきます。

気球を安全に降下させるためには、夕日が沈むまで待って
気温が下がってから注意深く行うしかありませんでした。


気球を操縦中のピカール(スーツ着用)


しかしピカールは、このときのことを日誌にこう記しています。

 ”午後12時12分、人類の記録が更新された。
. . 私たちは激しく苦しんでいる。

さらに水素を放出する。"

メディアは「人類が到達した地球からの最長距離」
を打ち立てたピカールの偉業を誇らしげに報じました。
成層圏に到達し、生還した最初の人類がここにいる、と。

このとき、ピカールは文字通り "世界の屋根を上げた "といえます。
彼はこの旅の日記にこう書いています。

"青い空の上をに上昇すると、その向こうに世界が見え、
妖精のように青く美しい霞がかかったようだった"。


アメリカ、ヨーロッパ、ロシアのメディアは、

「ピカールの成層圏気球は地球の曲率を超えて劇的に上昇し、
古くからある宇宙からの流星に匹敵する、人間の手による初めての上昇」


だと報じ、アメリカ人はピカールの偉業から
「成層圏を意識する」ことを知らされました。

彼はある意味この時代の地球人にとって新大陸を発見したようなものです。
このため、彼のキャッチフレーズは、

「気球のサンタ・マリア号(コロンブスの船)に乗った成層圏のコロンブス」

とされました。

彼の発見した新大陸は、人類が到達しうると証明された
「宇宙の空白」、「神秘の冷たい王国」に他ならず、そこから地球を測量し、
宇宙線を探索し、人間の耐久力の限界を試すことができるようになるのです。

それは、来るべき成層圏ロケットや宇宙ロケットが
無限の高さにまで上昇することへの序曲でした。

ところで、成層圏への挑戦では、何年か前にロシアの「宇宙の父」と言われる
コンスタンチン・ツィオルコフスキーが時代の先を読んでいましたが、
この時点では、ロシアはそこから大きく遅れをとっていました。

ここから後に、ソビエト・ロシアが宇宙を目指すため
国家の総力を上げたのは、西側諸国と肩を並べるために
成層圏の極限の高みに到達する必要があったからで、
その根源にはツィオルコフスキーがいたからだとする説も存在します。


1932年から33年にかけての冬、
「成層圏ブーム」の最初の頂点にいたピカールは、
シカゴの「進歩の世紀」展に参加し、人類の進歩の頂点として、
アメリカの成層圏登頂がまだ続くと紹介されました。

彼は、高高度まで飛行したストラトスタットのキャビンを
「正確に再現」し、舷窓から頭をのぞかせる写真を持参し、また、
成層圏ロケットを発明したと主張して群衆に畏敬の念を抱かせました。

しかしながら、ピカールの偉業と自慢・・・というか自己満足は、
あっという間にロシアとアメリカの成層圏ロケットに追い越されました。

【米ソ宇宙戦争の先駆けとしての気球戦争】

すでに米ソは呑気な気球などの時代から、
後の「宇宙戦争」を予感させる国際的な
「成層圏への競争」を熾烈に繰り広げつつあったのです。

両国の広報担当者は、

「ソ連の辞書には『不可能』という言葉はない!」

「アメリカの成層圏は、『成層圏の謎を解こうとする人間の試みの中で
最も素晴らしいものを象徴する、300フィートの高さの感嘆符』だ!」


などと相手を牽制し自慢し合いながら、この競争を切磋琢磨していました。

両国とも、宣伝や広報のために気球を公然と利用しましたが、
当初はお互いよりもピカールを視野においた競争でした。

1933年9月30日、ソ連空軍は、ストラトスタットSSSRを打ち上げました。
ピカールの改良版ゴンドラでピカールの記録を抜いたのです。

その後も成層圏を目指す挑戦は続き、ソ連からは
何人もの挑戦者が「空の勝利者」となりました。

ソ連の広報は成層圏飛行士を未来の宇宙飛行士として称え、

「彼らはさらに高く、"世界の屋根 "を築いた。
彼らは新しい
「垂直のリンドバーグ」である。
彼らは、ツィオルコフスキーの「惑星的」な夢を実現したのである。

「地球の6分の1の耕作から全宇宙の耕作へ、
これがわが
ボリシェヴィキの未来の創造の道である」

と高らかに謳いました。

方やアメリカも負けずに、1933年11月20日、
アメリカ海軍のT・G・W・セトル中佐と海兵隊のフォードニー少佐
オハイオ州アクロンにおける挑戦で61,237フィートに達し、
ロシアに約542フィートの差をつけて世界記録を作ります。


セトル中佐とフォードニー少佐の気球

そしてさらにその1年後、ここに展示されている
「センチュリー・オブ・プログレス」を操縦して、
オーギュスト・ピカールの双子の弟ジャンと、
成層圏に到達した最初の女性である彼の妻ジャネットが、
興奮したヘンリー・フォードに手を振って祝福されて
フォード飛行基地を出発しました。

気球は、エリー湖、サンダスキー、クリーブランド、アクロン上空を飛行し、高度10.9マイルに達して無事着陸しました。



ところで、ソ連にとって、西側との競争は自分たちとの競争でもありました。

国内では国策プロジェクトである
ストラトスタットSSSR
レニングラードのセルゲイ・キーロフの支援による「民間」プロジェクト
そしてオソアビアヒム1(ソ連の防衛と航空化学産業を支援する会)
が三つ巴となって鎬を削っていたのです。

1934年1月30日、夜空で最も明るい星を意味する
「シリウス」というコールサインで、飛び立ったばかりの
オソアヴィアヒム1号の機体は、高度21キロに達しましたが、
翌日墜落事故を起こし、乗組員は全員死亡しました。

墜落の原因について、高すぎる上昇と急激な下降の後、
設計や構造の不備によりゴンドラが気球から外れ、
地上に墜落したと結論づけられました。

メディアと国内は飛行士たちを称賛し、ある詩人は

彼らは「神秘的な距離」と「素晴らしい高さ」に、
"誰も行ったことのない距離 "に到達した

として、3人を「宇宙の底知れぬ深み」を目指し、
文字通り「アメリカ大陸よりも新しい世界」を発見した、
一種の惑星間旅行者として描くことで賛辞をささげました。


【ピカール夫妻と気球】

一方、ジャンは1931年にシカゴ大学で教えるために渡米し、
当時有機化学の修士課程にいた
ジャネット・リドロンと出会って結婚しました。

ここでもお話ししたことのある海軍のセトル少佐が
成層圏に挑戦し、高度記録を達成した後、
ピカール夫妻はこの気球で成層圏に挑戦しました。




1)密閉された球形のキャビン
その表面全体に機械的応力を均等に分散させました。

2)酸素供給システム
乗員が高高度で普通に呼吸することを可能にしました。

3)気球エンベロープ

成層圏への上昇中に完全に膨張することができるように
典型的な熱気球より大きくなっています。



ピカール・ゴンドラの3回目、そして最後の飛行が行われたのは1934年。
10月23日の朝、ジャンとジャネット、そしてペットの亀、
フルール・ド・リは、ミシガン州のフォード空港を離陸し、
成層圏へ向けて飛び立ちました。

歴史的な挑戦の日のピカール夫妻

この飛行で、ジャネットは人類史上初めて成層圏に達し、
最も高高度に達したという記録を保持することになります。

ワレンチナ・テレシコワ少佐が宇宙に達するまでその記録は破られませんでした。

その後ピカール・ゴンドラは1935年に科学産業博物館に引き取られ、
現在も交通ギャラリーに展示されています。

と、ここには書いてあるわけですが、

あれ?
それじゃスミソニアンにあった”あれ”は、
本物じゃなかったってこと?



続く。


エアメール・ヒーローとボーイング40B〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-23 | 博物館・資料館・テーマパーク

潜水艦内部見学ツァーの時間つぶしで見学した
「小型飛行機」の紹介を続けます。

■ 1928 ボーイング40B

そのほかの小型飛行機は、前回ご紹介したJN-4Dジェニーといい、
シュトゥーカ、スピットファイアといい、いずれも
アクロバットや空戦の真っ最中を表現する展示となっていますが、
この1928年のボーイング40Bはひたすら水平です。

それはなぜかというと、この飛行機がかつて郵便輸送機として
現役であったころは、パイロットもできるだけ水平に、
静かに真っ直ぐ飛ぶことを心がけていたからです。



そう言われれば、郵便飛行機が始まった記念として発行された
「ジェニー」が、ひっくりがえっているのは、
ますます何かの間違い(現に印刷者のミス)であるのが納得できますね。

郵便物を運ぶのにこれは断じて許されません。

商業航空便の開設は航空産業に恩恵をもたらしました。
これは現存する2機の1928年のボーイング40Bのうちの1機です。



”We can't let the transcontinental effort end here.
I'll fly her on through!”
「大陸横断の取り組みをここで終わらせてはなりません。
わたしは彼女を最後まで飛ばします!」


パネル右側の決め台詞を言った人、それは・・・、



パネル右上の人物、

ジェームズ・H・ナイト
James Herbert "Jack" Knight 1892-1945


というこの時代のパイロットです。
この人とこのセリフについての説明は後にします。

先にこのボーイング40B-2についてのスペックを説明しておきます。



1)二つのメールコンパートメント

郵便物を運ぶための飛行機だったので、前と後ろに一つずつ、

最大1000ポンドのメールを収納するための
コンパートメントが設けられていました。

パイロットのコクピットは二つの物入れの後ろに位置します。

2)ラジアルエンジン

飛行機のパワーと効率を高める最新式のエンジン。
プラットアンドホイットニー・ホーネット525馬力で、

最高時速は132マイル(約1.5km)でした。

3)着陸灯

地上係員が夜間飛行機の存在を追跡するのに役立ちました。

4)布製ボディパネル

スチールのチューブに張られた布が機体を強化しました。
正確には、鋼管フレームを布で覆っています。

5)乗客キャビン

二人の乗客(有料で席を買って乗る)が乗ることができました。


主翼の構造は、軽量化のためにスプルース無垢材の木柱、
合板の前縁で構成されています。

第一次世界大戦後、数多くのベテランパイロットやエンジニアが
アメリカに戻って、航空を産業として発展させようとしました。

これらの退役軍人は、飛行機には戦争以外の実用的で有益な目的があり、
自分の得た技術と経験がそれに役立つと思ったのです。

飛行機で貨物を運ぶことの利便性が明らかになると、
民間航空産業は急速に発展していきました。

前回の「ジェニー」が最初の汎用民間機ならば、
ボーイング社の40B-2型は、初めての商用飛行機の一つであり、
1920年代、当時最も貴重な貨物のひとつである航空郵便を運びました。



最初の航空便サービスは政府による国営となりました。
MSIに展示されている40B-2の機体は、
この地図に表されているシカゴーサンフランシスコ間を往復していました。

偶然ですが、当博物館には、いわゆるジャンボ型のボーイング727もあり、
こちらも全く同じ航路を運行していたのだそうです。

【危険すぎてヒーローとなった航空便パイロット】

今でこそエアメールの配達は日常的なサービスですが、
航空黎明期には飛行機で大陸を横断すること自体危険な仕事でした。


雪の山岳地帯を低空飛行する40B-4タイプの郵便航空機。
なぜこんなに低空を飛ぶかというと、コクピットが剥き出しのため。

たとえば、1927年に郵便局が雇った最初のパイロットは40人で、
そのうち、31名が事故で死亡しました。
100人のパイロットのうち43人が
運用開始から9年以内に死亡したというデータもあります。


この衝撃的な事故の写真は、当時の郵便パイロットの最後を表す
典型的な例として有名です。


わたしもスミソニアン博物館で初めてこれをみたときには
写真の女性同様、思わず見入ってしまいました。

当時は航空事故イコール”死”でした。

エアメイルパイロットは風雨にさらされるオープンコックピットに座り、
2人の乗客はエンジンの後ろにある完全に密閉された胴体に座りました。

パイロットは自分で操縦するので何ですが、
こんなものによくお金を出して乗る人がいたものだと思います。

しかし、それだけ危険と隣り合わせの仕事であったからこそ、
当時のエアメイルパイロットはヒーローとして人々を魅了しました。

郵便配達が大胆不敵な仕事の代名詞になろうとは、
後にも先にもこのころだけの事象だったのではないでしょうか。

ハリウッドも関心を寄せ、郵便配達を描いた映画が乱立?します。


1925『エアメイル』(サイレント)

The Air Mail 1925


1932年『エアメイル』もう一丁

ジョン・フォードも1932年にそのものずばり、
「エアメール」という映画を撮影しています。

Air Mail 1932 John Ford Movie 

YouTubeで全編観られます。
だいたい55分ごろに飛行機が墜落して事故が起こっています。


『スリーマイル・アップ』


『ナウ・ウィアー・イン・ザ・エア』

このほかにも航空郵便をテーマにした映画が数多く制作されました。

■ ヒーロー、ジャック・ナイト(郵便配達員)


1922年1月16日、冬用のフライトスーツに身を包むナイト(左)

ジェイムズ・H・"ジャック"・ナイトは、
アメリカで最も有名な航空郵便パイロットの一人でした。

彼は初の夜間大陸横断航空便の配達を行い、
これによりヒーローと称されるようになりました。



初期の空対地無線をテスト中のナイト

1892年3月14日、カンザス州で生まれ、翌年母親が亡くなったため、
妹とともにミシガン州の叔父叔母に育てられました。

1917年、第一次世界大戦をきっかけに陸軍飛行隊に入隊した彼は、
テキサス州ヒューストンのエリントンフィールドに派遣され、
教官パイロットとして活躍し、19年に少尉の階級で除隊しました。

終戦後、ほかの第一次世界大戦に参加したパイロットのように、
彼はネブラスカを拠点とする航空便のパイロットの仕事に就きました。

【航空郵便の政治的危機】

1920年9月、アメリカの大陸横断郵便路が運行を開始しました。

パイロットは通常日没後は飛行できないため、
郵便物は鉄道車両に移し替えて夜間に輸送していました。

そのころ、新大統領ウォーレン・ハーディングと一部の下院議員は、
連邦航空郵便助成の廃止を公然と口にするようになっていました。

夜間の運用ができないこと以前に、安全性に対する懸念がその理由です。
そしてそれは決して根拠のないものではありませんでした。

その前の3年間で、17人の航空便パイロットが、
機械や天候に起因する墜落事故で亡くなっていたからです。

当時の計器盤には航法用の磁気コンパスしかなく、
荒天時には北から南へ振動して正確な機位がわからなくなるため、
パイロットは悪天候時には限界まで低空飛行し、川や線路、
町を梢の高さでかすめながら、行き先を確認しなければなりませんでした。

こんな状態では事故は起こらない方が不思議というものです。

そこで、郵便局の上層部は航空郵便の有用性を実証するため、
あえて鉄道を使わず、完全に空輸で郵便物を横断させる実験を計画しました。

この航空オンリーによる横断の実験を行う日として、関係者は
ジョージ・ワシントンの誕生日の1921年2月22日を選びました。

当時の飛行機で大陸を横断すると、必然的に夜間に飛行時間が被ります。

ランドマーク(目印)を見つけることが難しい夜間に、
むき出しの無防備なコックピットに乗って飛ぶことは
パイロットにとってもちろん全く簡単ではありません。

"ジャック・ナイトの夜間(ナイト)フライト"


ナイトという名前はKnightで、アメリカ人には夜=ナイトと間違えるとか
あり得ないのかと思いましたが、ちゃんと洒落にしていました。

夜間における大陸横断の試験飛行のパイロットには、
腕の立つジャック・ナイト始め何人かが選ばれました。



「大陸横断の取り組みをここで終わらせてはなりません。
わたしは彼女を最後まで飛ばします!」


ここで冒頭のセリフをもう一度振り返ってみますと、
彼が何を意気込んでいたのかわかりますね。

1921年2月22日の朝、2機の郵便機が
ニューヨーク州ロングアイランドの飛行場を出発して西へ向かい、
他の2機はサンフランシスコプレシディオの
マリーナ・フィールド(わたしが毎年訪れる場所ですね)
から逆に東へ向かいました。

中継機をその間のポイントで待機させての出発です。



このとき、ナイトは前週にデ・ハビランドDH-4B郵便機で墜落し、
鼻を骨折してこんな顔でこの飛行に臨んでいます。

それほどの高度ではないとはいえ、骨折して飛行機は無茶すぎ。

しかし、まあ色々とあって予定より大幅に遅れ、
落ち合う予定のパイロットがシカゴで吹雪に見舞われてしまい、
同じ嵐で、もう一人の西行きパイロットも足止めされて、
ナイトは、いつの間にかたった一人でフライトを続けてていました。

しかし、彼は孤立無縁の飛行機を操縦していたため、いまや
航空郵便の未来が自分一人にかかっていることに気づいていなかったのです。

オマハに到着したナイトは、この時初めて
まだ飛んでいるパイロットが自分だけであることを知ります。

しかし(というかだからというべきか)ナイトは体を温めた後、
オマハの東を飛んだことがないという事実にもかかわらず、
嵐を捺して飛行を続けることを選択したのでした。

アイオワ州デモインでは雪で着陸できず、その先のアイオワ・シティでは、
天候の悪化で飛行機が着陸してしまったと思い、
みんな家に戻ってしまって空港には誰もいなくなっていました。

着陸する飛行機のエンジン音を聞いていたのは、空港の夜警ただ一人。
夜警は目印に鉄道フレアを2つ設置し、飛行機を迎えました。

深夜のアイオワシティの気温、マイナス24°C。

ナイトはエンジンが再起動しないことを恐れてエンジンをかけたままにし、
コーヒーを飲み、ハムサンドを食べて給油し、
シカゴまでの最後の200マイルに向けて午前6時30分に出発しました。

そして、午前8時40分にシカゴのチェッカーボードフィールドに到着。
徹夜のフライトで830マイルを飛んだ彼ですが、
彼が使ったナビゲーションシステムは、普通のコンパス、
そして小さく破れた道路地図のみ。

つまりほとんど肉眼で道を探しながら飛んだことになります。

シカゴでは新聞記者たちがナイトを待っており、
彼の飛行は全米の一面を飾ることになりました。

ナイトは後に、氷点下の気温、凍った風、揺れた空気のため
飛行を続けることは非常に過酷だったと述べています。

もちろん、鼻を骨折していなければかなり少しマシだったかもしれません。

新聞は

「ジャック・ナイトの夜間飛行」"Jack Knight's Night Flight"

について大々的に報道し、
彼はリンドバーグ以前の時代で最も有名なパイロットとなりました。

エアメールパイロット仲間で友人のスロニガーは、いつも彼を

"Jack Knight the guy who saved the night mail"
「ジャック・ナイト、ナイトメールを救った男」


と、まるでそれがすべて彼の名前の一部であるかのように呼びました。

確かにナイトは英雄と特に持ち上げられましたが、実はこのとき、
他の2人のパイロットもニューヨークまでの飛行を成功させているので、
この偉業はみんなで成し遂げた勝利というべきでしょう。

結果、全部で7人のパイロットが大陸横断飛行に参加し、
33時間20分かけて2,629マイル(3,652km)を飛行したことになります。

この偉業に感銘を受け、世間が広く賞賛したため、議会はついに
窮地にあった航空郵便サービスに必要な資金を計上することを決めました。

ナイトとパイロットたちは郵便飛行を廃止から救ったのです。


【ナイトのその後の人生】

一躍有名になったナイトは、郵政公社や地元の市民リーダーたちと協力して、
航法ビーコンや緊急着陸帯のシステムを構築させました。

1927年9月1日に国有航空郵便が廃止され、民間企業に入札されたとき、
ナイトは417,000マイル以上を飛行し、
航空郵便のパイロットの頂点に立っていました。

その後彼はボーイング航空輸送に就職し、
1934年にユナイテッド航空に席を置いてDC-3の旅客飛行を行い、
後に安全担当副社長になりました。

第二次世界大戦が始まると、ナイト民間航空局に入り、
航空路の開発に携わりました。
その結果、戦時中の資材を調達する国防支援公社に転職することになります。

そしてこのことが彼の命を縮めることになりました。

ゴムの原産地を開拓するチームとしてアマゾンのジャングルにいたナイトは
マラリアに感染し、彼は健康を害していきます。

転倒しても立ち上がれないほど弱っていた彼は、
1945年2月24日、シカゴで死去し、その遺灰はミシガン湖に撒かれました。



1950年には、A.M.アンダーソンとR.E.ジョンソンによって
児童向けに彼の活躍を描いた
「パイロット・ジャック・ナイト」
が出版されています。

1999年になって、ミシガン州でナイトの航空殿堂入りが決定しました。


■MSIの40B-2


当初、航空郵便事業はアメリカ政府によって管理されていましたが、
1927年、大陸横断航空便と旅客サービスの事業に民間が参入します。

このときの会社が、今日の民間航空会社の前身となります。

この40B-2は、その航空会社であるユナイテッド航空が所有していましたが、
1933年から開催されたシカゴの「進歩の世紀」万国博覧会の終了後、
1935年に科学産業博物館へ寄贈しました。




現在、この飛行機は博物館の
ボーイング727ターボジェットの隣に展示されており、
わずかな間に起こった旅客機の進化を物語っています。

続く。


”デアデビル”オマー・ロックリアとジェニーJN−4〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-21 | 飛行家列伝

潜水艦内部ツァーまでの時間潰しとして観た、
シカゴ科学産業博物館、MSIの展示から、
今日は「飛ぶもの」=飛行体をお送りします。

■ カーチスJN-4D ”ジェニー”と
命知らずのバーンストーマー



このパートは「スモーラー・エアクラフト」と言って、
文字通り小さめの航空機がドームの天井を飛翔しているように
生き生きと展示されています。

この「ジェニー」も、よくよく見れば、ループを描いて
上下逆さまになった瞬間が再現されているのです。

1917年のカーチスJN-4D、通称「ジェニー」は、
軍事、レクリエーション、商業航空に大きな影響を与えた飛行機です。

何千人ものアメリカ人に初めて飛行機を見せることで、
航空の魅力を広く伝える働きをしました。


ジェニーのパイロットは、人々の目を引くために
飛行機をドラマチックな体勢に宙返りさせています。

まさに、バレルロールで逆さまになっている真っ最中。



よく見ると翼の上でスタントしている人がいます。


はい、これが実際の写真。
本当にこんなことやってたんですね。

写真に写っている人は
「デアデビル・オマー・ロックリア」
(命知らずのオマー・ロックリア)

という伝説のエアリアル・スタントマンで、
ジェニーの翼に脚だけでぶら下がって手を離すスタントを行なっています。


右上の筆記体は、

I'm all smashed up from doing stunts.
(わたしはスタントに完璧に打ちのめされた)

エアリアルスタンドのブームがきていたのでしょうか。
「フライング・デアデビルズ」というポピュラーソングの一節だそうです。

ちなみに「daredevils」というのは「向こう見ずな人」という意味です。

Free Stock Footage Flying Daredevil

どんな歌か調べましたがYouTubeにはありませんでした。

あと、この映像で翼にぶら下がっている人なんですが、
体重をもう10キロ減らした方が安全の面でいいのではないかと思います。


【スタントパイロットとバーンストーマーの登場】

 第一次世界大戦後、多くの元戦闘機パイロットが、
戦争が終わって使わなくなった余剰のジェニーを軍から購入し、
スタント・パイロットとして新たなキャリアをスタートさせました。



当ブログ的には繰り返しになりますが、
初めてアフリカ系アメリカ人女性としてプロのパイロットとなった
ベッシー・コールマンも、飛行技術をN-4ジェニーで習得しています。

彼女はテキサスに生まれ、フランスで飛行機の修行を積み、
シカゴに住んでいましたが、その場所は偶然
MSIからほんの1キロ離れたところだったそうです。



「バーンストーマー」
という存在について以前ここでも説明しましたが、
バーン=納屋という語源からおわかりのように、
スタントで人を集めつつ、農家の畑に飛行機を着陸させて、
集まった人々からお金を取り飛行機のライドを体験させる、
(基本的にどさ回り)というようなことを生業にしていた人です。

アメリア・イヤハートの最初の飛行体験も、
街にやってきたバーンストーマーに乗せてもらった飛行機でした。

ちなみにアメリカのディズニーワールドには、
「グーフィーのバーンストーマー」
なるジェットコースターライドがあるそうです。

Barnstorming

ジェニーを使ったバーンストームを紹介する番組です。

バーンストーマーは農家と契約して、
農家にも売上の一部を渡すことで場所を借り、
宣伝を行って人を集めるようです。
現代でもやっている人がいるんですね。

田舎では地域のちょっと刺激的な出し物として定着していて、
おそらくこれを楽しみにしている人も多いのでしょう。


【ジェニー・ストーリー】 

工場で大量生産されたアメリカ発の飛行機として、
カーチス JN-4D "ジェニー" は飛行を一般に公開しました。

なぜ愛称が「ジェニー」になったかというと、それは間違いなく、
JNという機体番号からと思われます。(調べてませんが)

ジェニーは、多くのアメリカ人にとって最初にその目で見た飛行機となり、
たくさんの飛行機の撮影現場で使われることになりました。

ジェニーは頑丈で機動性に優れていたので、
空中アクロバットが盛んに行われる一方、
初心者パイロットに最適の単純で信頼のおける操作性を保ちました。



1)後部のメインコクピットにはパイロットが搭乗

2)前部コクピットには乗客のための席

3)機体を牽引するプロペラ

4)ダブルデッカー(バイプレーン・複葉機)の翼は
一つの大きな翼を持つ飛行機より軽量でかつ強度に優れていた

5)フラップの補助翼(エルロン)のタイプにより、
飛行機は旋回、バンクをすることができた
このためバレルロールのようなスタントが可能となった




上の24セント切手は、アメリカ政府が
ジェニーを使用した航空便サービスを開始した記念に発行されました。

デザインで機体が逆さまになっているのは、
決してアクロバットをしているところを再現しているのではなく、
単に印刷した人が「間違えた」結果で、何枚かしか存在しないため、
これがレア切手になっているのだそうです。

まあ、郵便配達ではまず逆さまに飛行することはありませんから、
これを見たアメリカ人も「?」となっていたかもしれません。


当博物館に展示されているジェニーの現役時代の姿です。
今からフライトを行うところで、離陸の順番を待っているのだとか。

ジョン・L・ブラウンという人がかつてこのジェニーを購入し、
輸送パイロット兼バーンストーマーとして生計を立てていました。

彼のジェニーの尾翼には、価格表が記されています。



3分3ドル、5分5ドルで、宣伝をするためのバナーをつけたら
2航過飛行2ドル、3航過3ドル、5航過5ドルと明朗会計です。

1933年、彼はシカゴの A Century of Progress World's Fair で
このジェニーを使用した後、その飛行機を博物館に寄贈しました。


【命知らずのオマー・ロックリア】

MSIの模型でスタントをしている姿を再現された、
オマー・ロックリアについて最後にご紹介しておきます。



オマー・レスリー・"ロック"・ロックリア
Ormer Leslie "Lock" Locklear
(1891年10月28日 - 1920年8月2日)


は、アメリカのデアデビル・スタントパイロット、そして映画俳優でした。

彼のイケてる容姿と飛行サーカスはハリウッドの目に留まり、
航空郵便機が空中で悪者と戦うアクション映画、

『The Great Air Robbery』(1919年)

で主演を務めるまでに出世します。

20歳のころ、故郷フォートワースで有名なバーンストーマー、
カルブレイス・ペリー・ロジャース(当ブログでは紹介済み)
と出会った彼は、航空機に魅了されるようになりました。

そして1917年、アメリカ陸軍航空局に入隊し、
陸軍で訓練を受け、飛行教官として仕事をしていました。

第一次世界大戦末期、少尉だったロックリアは、
軍に人を集めるための広報部門に所属していましたが、
その頃実際に見たバーンストーミングショーより、
自分の普段の飛行活動の方がはるかに素晴らしい!と感じたことから、
陸軍の二人の同僚を誘って退役して、

「ロックリア・フライング・サーカス」

を結成し、活動を始めました。


でこういうことをやっていたと

彼のスタントグループは大成功で、マネージャーともども大金を稼ぎ、
そのお金で豪奢でモダンな生活ができていたといいます。

彼のトレードマークであるスタントは、
飛行機から別の飛行機に飛び移るという危険極まりないもので、
さらにその後、その技を発展させた「死の舞踏」という技は、
2機の飛行機に乗った2人のパイロットが空中で場所を入れ替わるという
文字通り命知らずのパフォーマンスでした。

彼のスタントが有名になると、ハリウッドでは
彼は映画のスタントマンとして引っ張りだこになります。

そして今や「世界一の航空スタントマン」と言われ、
自身が映画界に進出する道が開かれることになりました。



そしてロックリアは、パイロットたちが航空便を飛ばす様子を描いた映画
『The Great Air Robbery』の主演に契約することになりました。

撮影ではロックリアがカーチスJN-4「ジェニー」で、
飛行機から別の飛行機に乗り換え、地球上数千フィート(おそらく)で
飛行機の尾翼に立つ空中スタントを披露します。

映画はスタントパイロットの活躍を扱った戦後映画の第一弾として、
おおむね好意的に評価されました。

『The Great Air Robbery 』は商業的にかなりの成功を収め、
これに気をよくした彼はハリウッドでのキャリアを続けたいと思いました。

というか、航空ショーでのバーンストーマー生活は結構過酷なので、
もうこれから足を洗おうと考えたのかもしれません。

そして1920年4月、『スカイウェイ・マン』に出演する契約をしました。



しかし、この映画でのスタント飛行の場面は多くなく、
ロックリアの航空機が教会の尖塔を倒すとか、
航空機から電車に飛び移るという二つのスタントはいずれも問題が多く、
ほとんど失敗と酷評されることになりました。

パーソナルライフも、こういう人にありがちな不幸な結果となりました。

最初の結婚はあまりにも二人の性格が違いすぎて早々に別居となりましたが、
相手のルビー・グレイブスは離婚をあくまでも認めず、
二人はロックリアが亡くなるまで法的には夫婦のままでした。



グレイブスと別居中、ロックリアは未亡人のサイレント映画女優、
ヴィオラ・ダナと交際を始め、ロックリアが死ぬまで付き合っていました。

ゆえに彼女は目の前で恋人の死を目撃することになりました。

【事故死】

『スカイウェイマン』の撮影のころ、ロックリアは、
家庭生活が乱れていただけでなく、映画会社に契約の意思がないことを知って
大きなプレッシャーを感じていました。

撮影予定最後となるスタントは最初昼間に行われましたが、
彼は夜間飛行を許可するよう要求して、スタジオはこれを許可しました。

珍しい夜間飛行によるスタントということで、大々的に宣伝されたため、
現地には撮影を目撃するために大勢の人々が集まっていました。

フィールドにはカーチス「ジェニー」を照らすため、
大きなスタジオのアークライトが設置され、
機体が最後のスピンに入るとライトには水がかけられました。

飛行機が油井のそばで墜落したように見せるために、
油井の桟橋に向かって飛び込むというシナリオでした。

この撮影の前に、ロックリアは照明係に、

「ライトを消しても、僕は自分のいる場所がわかっているから大丈夫」

として、デリックに近づいたらライトを消すように言っていました。
一連の空中操縦を終えたロックリアは、降下の合図を出しました。

そして、観客や撮影クルーが見守る中、
彼と長年のフライトパートナー、エリオットの操縦するジェニーは、
スピンの初期状態から抜け出せないまま、油井のプールに墜落し、
大爆発と火災を引き起こして二人は死亡しました。

事故後の調査で、5つのアークライトが完全に点灯したままであったため、
パイロットはそれで目が眩んだのではないかとの憶測が流れました。

普通ならそこで映画はおじゃんになるところですが、
この頃の映画界のモラルはいい加減というか、商魂たくましく、
夜のシーンを除く全編がすでに完成していたため、
フォックスは『スカイウェイマン』の公開を急ぎました。

致命的な事故を利用することを決定したのです。

「ロックリアの壮絶(そして致命的)な
最後のフライトを映し出すフィルムの全貌」

センセーショナルな事故の報道と合わせて広告キャンペーンを打ち、
映画の内容は急遽、彼の以前の功績に焦点を当てるものに変わり、
模型展示と展示飛行を組み合わせたドキュメンタリー作品になったのです。

映画の公開時に、フォックス映画社は利益の10%を
ロックリアとエリオットの家族に寄付することを発表しました。

ロックリアの家族って・・・別居していた元妻ってこと?

それでは故人はおそらく納得しないと思うがどうか。



ロックリアの死亡診断書です。

配偶者はルビー・ロックリアのまま。

死亡日時1920年8月2日、
死亡原因、飛行機事故による全身粉砕と火傷、
埋葬地はテキサスとあります。

死亡時年齢27歳、職業飛行家。



続く。



銀河鉄道999のモデルと「グレート・トレイン・ストーリー」〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-19 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、シカゴ科学産業博物館MSIのU-505関連展示を見て、
艦内ツァーを申し込み、時間まで他のところを見ることになりました。


とりあえずランチをいただくことにしました。
コロナ真っ最中とはいえ、アメリカ人はこのときノーマスクが主流で、
夏休みということもあって結構大変な人でした。
空いたテーブルを見つけるのに食べ物を持ってうろうろするはめに。



まずは「トランスポーテーションの歴史」というコーナーにある
蒸気機関車から見学を始めます。

【エンパイアステート・エクスプレスNo.999】

これがこの汽車の名前ですが、おおスリーナインね、と納得。
エンパイア・ステート・エクスプレスは、
ニューヨーク・セントラル&ハドソン・リバー鉄道の名物客車で、
かつての旗艦列車でもありました。

1891年、ニューヨーク-バッファロー間702kmを7時間6分(停車時間含む)、
平均時速98.8km、最高速度132km/hで走っていました。
当時世界で最も早く、ノンストップ定期運行をした最初の列車です。

エンパイア・ステート号が有名になったのは、これを牽引した
展示されているアメリカ型4-4-0蒸気機関車の魅力でした。

直径86インチの駆動輪を持ち、機関車としては初めて
前部トラックにブレーキを装備した手作り品です。

磨き上げられたバンド、パイプ、トリム。
ボイラー、煙突、ドーム、運転台、テンダーはブラックサテン仕上げ。
テンダーの側面の「Empire State Express」の金箔文字。

シカゴ鉄道フェアをはじめとする数々の博覧会で活躍した後、
1952年引退し、急行用ミルクカーの交換業務に従事していましたが、
1962年にこのMSIに寄贈され、保存・展示されています。


「クィーン・オブ・スピード」と呼ばれたかつての姿

【銀河鉄道999のモデルとして】

ところで、先ほどかるーく「スリーナインね」と書いたわけですが、
これは後から調べたら、マジでした。

No. 999 was the inspiration for the eponymous
 steam engined-shaped space vehicle 
in the Galaxy Express 999 series of manga 
and animated films.

No.999は、漫画やアニメの「銀河鉄道999」シリーズに登場する
同名の蒸気機関車型宇宙船のモチーフとなった。


エンパイアステートエクスプレス No.999

ようこそご乗車くださいました
シカゴの伝説へ


世界新記録
1893年5月10日、

機関車No. 999は時速112.5マイルという記録破りの走行を行いました。
シカゴに到着し、コロンビア万国博覧会に展示された
すべての機関車の中で最も印象的だったのがこのNo.999でした。

1933〜1934年にシカゴで行われた博覧会、
1948〜1949年のシカゴ鉄道博覧会でシカゴに姿を見せた999でしたが、
1952年に退役して10年後にMSIにやってくることになりました。

つまり1962年から今日までずっとここにいるということになります。

このパネルによると、No.999は1948年、1993年、
そして1994年といずれも記念に実際に走行を披露しています。




どこを見ても説明がなかった四輪自動車。
苦労して探したところ、これではないか?というのを見つけました。



1907年 デトロイト・エレクトリック

19世紀後半、自動車の時代が到来すると、世界各地で
ガソリン車と並んで電気自動車が開発されました。
アメリカでは、1907年に発売されたデトロイト・エレクトリックが
最も成功した電気自動車でした。

航続距離は約80マイル(128.75km)で、
最高速度は時速20マイル(32km)だったそうです。

最高時速32キロって・・・・。


電気自動車は1890年代から1900年代初頭にかけて普及しました。
当時は蒸気自動車もありましたが、車を覆う屋根がないのが
屋根のある電気自動車との違いでした。


■ グレイト・トレイン・ストーリー



老若男女全てが目を輝かせて見入る巨大なジオラマがあります。

鉄道模型の旅は、数分で国中を駆け巡り、何時間もあなたを魅了します。

世界各地への輸送や個人的な冒険など、鉄道は人や物を運ぶだけでなく、
長い間、私たちの国の性格や野心を映し出してきました。

シカゴからシアトルまで、1,400フィートの曲がりくねった線路に沿って、
2,200マイルの風景と物語を紹介する
「グレート・トレイン・ストーリー」
に、あなたも乗ってみませんか?

いつもの景色とは違う列車からの素晴らしい眺めを楽しむために。



MSIでは、何世代にもわたって鉄道模型体験が親しまれてきました。

このたび、「グレート・トレイン・ストーリー」で、
これまでで最も魅力的な体験ができるようになりました。
交通ギャラリーの目玉であるこの体験型鉄道模型では、
20台以上の列車が大陸の旅を驚くほど細部まで再現しています。

ロッキー山脈やシカゴの摩天楼の高さから、
小さな交差点灯や浮かぶ海鳥まで、
この巨大なスケールモデルは何度見ても新しい発見があります。

隠されたミニチュアのシーンがたくさんあります、
海辺でのんびり過ごす人々、荒野での仕事の様子・・。

3,500平方フィートの敷地内には、年齢や興味に関係なく、
どこを見ても冒険ができるようになっています。

鉄道好きの幼児、ミニチュアマニア、地理オタクでなくても
展示されているクラフトマンシップに魅了されることでしょう。

ミニチュアのシーンに隠された
さりげないジョークにも注目してみてください。

また、インタラクティブなボタンを使って、跳ね橋を持ち上げたり、
トンネルを掘ったり、木を切ったりすることもできます。
自分のペースで楽しめるのが、このゲームのいいところです。



シカゴの街角に突如現れる牛。
子牛の上には子供が乗っていて、
ベンチでは爺さんが奥さんを抱き寄せ、
腰に手を当てた海軍の水兵が四人。

もちろん牛は本物ではなく、こういうオブジェが実際にあるのだとか。



二階建ての電車も走ってます。
ガード下にも車が入っていく細部表現の抜かりなさ。



電車に搭載されたカメラがあなたをミニチュアの世界での
列車の旅の体験をさせてくれるというわけです。

The Great Train Story: 10th Anniversary Ride

思わず引き込まれて見てしまうこと請け合い。


MSIの鉄道模型は、1941年の開館当時、世界最大の鉄道システムで、
2,340平方フィートの床面積を持ち、1/45スケールの列車と
2レールのOゲージ線路を組み合わせたQスケールで作られていました。

鉄道模型の様々なシーンは、米国の産業界における鉄道の役割と、
南西部の砂漠地帯の農業を表現しており、1,000フィートの線路と、
自動制御盤で操作される40個のスイッチも含まれていました。

60年以上親しまれた模型は2002年5月に閉館した当時、
博物館で最もよく知られ、愛されてきた展示物の一つでした。

新しい技術によって鉄道がより安全で効率的に運行されるようになったため、
何度も改良が加えられてきたのです。
また、この展示は、蒸気機関車に代わって「ディーゼル」エンジンを走らせた
国内初の鉄道会社のひとつでもありました。



今日、博物館の鉄道展示「The Great Train Story」は、
再び現代の鉄道の物語を伝えています。
新しいレイアウトは、オリジナルの鉄道よりも50%大きく、
当初の10本から30本以上の列車を運行できるようになっています。

展示デザイナーは、シカゴの一般的な建築物
(バンガロー、ビクトリア調のコテージ、2階建てや3階建て)を研究し、
ある建物のレンガの数を実際に数えて、本物のモデルを正確に作成しました!

シカゴやその周辺に住んでいる人の多くは、
この展示の中で「自分の家」を見ることができます。


滝の白色は、お化け屋敷のクモの巣に使われる素材と同じものです。

シアトル郊外の湾にある「水」を表現するために、
3つの工程が用いられました。
まず、土台を作るためにベースレイヤーを塗布。
次に、紙粘土を塗り、乾燥させた後、奥行きを出すために
青と緑を何色か塗り、最後に、樹脂を上から流し込みました。
樹脂が乾くと、手作業で彫刻を施し、波を表現します。

「グレート・トレイン・ストーリー」は、
シカゴとシアトルを結ぶ曲がりくねった鉄道の旅を追い、
中西部、平原州、ロッキー山脈、カスケード山脈を通り、太平洋岸北西部へ。

線路を走る30以上の列車は、穀物商品、製造業の原材料、輸出入の消費財、
木材、観光業など、多様な産業に携わっています。


1時間に2回の「夜間モード」になりました。



駅舎の灯りがなぜかせつない・・・。
駅前の様子は、2002年4月3日午後1時56分、
電車を待っていた人たちの姿が再現されているそうです。

自分の姿をそこに見つける人もいるかも・・。



川沿いの広場ではミュージシャンの演奏、
大道芸人、ジョギングをする人・・・。



季節も場所によって様々です。



道路にサンデッキチェアを出して日向ぼっこする人たち。
あまりまめな掃除はしていないらしく、埃がすごい。


ハンバーガーショップもまるで火山灰をかぶったようになってます。



HPによるとメンテナンスはしているようですが。
って土足かい。


山中で何やら作業中の二人。


廃車になった列車を利用したタコス屋さん、
ピザパーラーの前に落ちているのはどう見ても実物のゴミ。


馬ばかりいる牧場。


■オリジナル・タイニーハウス



もう一つミニチュア模型の世界をどうぞ。

ハリウッドの映画スターが、細部にまでこだわった
豪華な夢の「マイホーム」を自作しました。

当時、最も人気のあった映画女優の一人であったコリーン・ムーアは、
業界の仲間を集めて、この幻想的なミニチュアハウスを作り上げました。

大恐慌の時代、彼女はこのミニチュアハウスを共有し、
子供たちのチャリティーのために全国を巡りました。
そして、この唯一無二のお城は、1949年以来、
MSIに迎え入れられ、あらゆる年齢の子どもたちを魅了してきました。


キッチンには、さまざまなおとぎ話の壁画が描かれています。
ドアの上には3匹の子豚、右側には丘から転げ落ちるジャックとジル。
アーチの隙間からハンプティ・ダンプティが見え、
ストーブの上にはリトル・ボー・ピープがいます。

悪い魔女がヘンゼルとグレーテルを閉じ込めたストーブがあり、
オーブンの中には、4羽と20羽のブラックバードで焼いたパイが。

テーブルの上に置かれたロイヤルドルトンのディナーサービスは、
ウィンザー城にあるメアリー女王のドールハウスのために作られたセットを
忠実に再現したものです。


海をモチーフにした書斎。
暖炉の上にはキャプテン・キッドが立ち、
右側の扉にはロビンソン・クルーソーとその部下フライデーが、
もう一方の扉の上には、リリパット族の船を引っ張っるガリバーが。

図書館にある本は、すべて本物です。
100冊以上あり、著名な作家の手書きのものも。

本棚には辞書が置いてあります。
これはコリーン・ムーアが5歳の時に父親からもらったもので、
これが彼女のミニチュア・コレクションの始まりです。



とても全部は紹介しきれませんが、シンデレラの部屋、
プリンセスのバスルーム、ベッドルーム、屋根裏部屋、
そして魔法の庭など、見ているだけで時間を忘れます。

グレート・トレインと共に、ジオラマ好き、ミニチュア好きには
なんとも心を鷲掴みにされる楽しい展示でした。


続く。

U-505がアメリカ人にもたらすもの〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-17 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されたU-505について、
捕獲とその経緯、U-505の最後の航海、そしてついには
U-505がシカゴにやってくるに至った経緯、その50年後、
現在の展示位置に移設されたときのドラマチックな物語と、
いろんなことを少しずつ取り上げてきたわけですが、
肝心のU-505の艦体内部は一体いつになったら見られるんだ、
と思われた方、もう少しお待ちください。

地下に展示されているU-505の内部ツァーに辿り着くまでに
我々は博物館の展示を見ながら進んでいくわけですが、
内部にアクセスするには、まず予約をしなくてはなりません。

わたしも潜水艦のゲートまで行ってみましたが、
そこでは午後からのツァーに申し込んで、時間まで
他の展示を見て時間を潰し、また帰ってこなくてはなりませんでした。

というわけで、今日はU-505の周辺展示の残りをやります。

■ タスクフォース22.3及びU-505乗員名パネル



もう少しで展示場を出るというとき、
U-505を捕獲したハンターキラータスクグループの旗艦、
USS「ガダルカナル」の全乗員名簿が現れました。

乗っている人数が多いので、左の縦一列は全て士官、
二列目から下士官兵となります。

「ガダルカナル」の右側は艦載機の航空団VC-8の名簿となります。



ハンターキラーグループの駆逐艦群乗員名簿が並びます。
USS「ポープ」「ジェンクス」。

U-505への乗り込み決死隊を派遣したUSS「ピルズベリー」も。



USS「フラハーティ」、そしてU-505の乗員名簿も。

艦長のハラルド・ランゲ大尉はOberleutnant zur See、
Maschinenmaat、Matrose、Bootsmaat、Sanitatsgast、
とドイツ語で階級が記され、敵とは言え戦った相手への敬意を感じます。

そして、一番下に、

Killed in action during the Capture of U-505
(U-505捕獲戦闘中死亡)

Fischer, Gottfried  Oberfunkmaat
フィッシャー、ゴットフリート 無線技師

と書かれているではありませんか。

Oberfinkmaatとは、無線技師の下士官階級では最高ランクで、
任務は、船上および陸上の海軍無線局での無線業務、つまり無線機、
無線方向探知機、水中電信機、聴音機などの操作と保守を行います。

このキャリアの資格条件としては、優れた聴覚、強い神経、技術的な理解力、
素早い理解力、そして可能な限り自由に間違いのない文章が書けることです。

■ 1944年6月4日



最後に迫力の模型が用意されていました。

ハンターキラータスクグループの旗艦「ガダルカナル」と
U-505の乗り込み決死隊を出した「ピルズベリー」のあの日の瞬間です。

星条旗の下には、U-505に乗り込んでハッチを降り、
沈没を阻止するべく命を張っている決死隊が描かれています。



「ガダルカナル」の甲板には、艦載戦闘機部隊が着艦しています。
彼らがU-505を発見し、「ピン留め」のために爆弾を落とし、
沈まない程度に雨霰と攻撃を加えて損傷を与え、
U-505の浮上を余儀なくさせた最初の功労者となります。



艦尾側航空甲板には、すでに何機かの帰還した航空機が。



「ピルズベリー」の艦橋上にも司令官らしき姿あり。
おそらく、艦長、ダン・ギャラリーがここにいるでしょう。


爆雷を落とした後なので、艦尾の爆雷ラックに人がいて、
各対空砲座にはまだ人員が配置されている状態です。



ここですかさずギャラリー提督のありがたいお言葉が。

「U-505潜水艦は、未来の世代やアメリカ人に、
戦争の現実と、自由を守るために父親たちがつかみ取ったチャンスを
思い出させるものでなければなりません。」

-ADMIRAL DANIEL V GALLERY


■ 米国商船艦隊(U.Sマーチャント・マリーンズ)



  ピッツバーグの「ソルジャー&セイラー軍事博物館」の紹介で
当ブログではマーチャント・マリーンズについて説明したことがあります。

全くの余談ですが、テレビドラマ「デスパレートな妻たち」で、
主人公の一人スーザン・マイヤーズが、母親から、
彼女の父はマーチャント・マリーンズにいたけれど、ベトナムで戦死した、
と聞かされて育ったことを意中の人マイクに言ったところ、

「おかしいな・・マーチャントマリーンズはハノイに行っていない」

と不審がられ、母親を問い詰めると、それは全くの嘘で、
実はスーザンは、町内の妻帯者と母が不倫してできた子供だった、
というショッキングな真実を知るというストーリーがありました。

でっていう話ですが、アメリカの軍事について詳しくなると、
アメリカのドラマを見ていても、理解しているとしていないでは
文化そのものへの視座が変わってくることすらあるので、馬鹿にできません。

このマーチャントマリーンズの件でも、アメリカ人ですら
ベトナム戦争中の軍事について詳しい人は稀らしいということを知りました。


それはともかく、ここになぜ米国商船隊の模型があるかというと、
おそらくU-505捕獲の瞬間を再現したモデラー(プロ)が
こちらも作ったのでついでに展示してほしいと頼み込み、
商船隊トリビュートコーナーができたのではないかという気がします。
(流れからしてちょっとこの部分だけ異質な話題なのでそう思っただけ)


さて、それではここに何が書かれているかといいますと、

米国商船隊 
ファースト・トゥ・ゴー、ラスト・トゥ・リターン
(最初に行き、最後に戻る)

もし米国商船隊の努力がなければ、
連合国は、第二次世界大戦に勝利しなかったかもしれません。
船員たちは、日々命がけで装備や物資、人員を戦場に運んでいました。

ほとんどのアメリカ人にとって、第二次世界大戦が始まったのは
1941年12月8日、アメリカ合衆国がパールハーバーで壊滅的な打撃を受け、
これを受けて日本に宣戦布告したときだという認識でしょう。

しかしながら、米国商船隊にとって、戦争はもう少し早く、
つまり枢軸国から自国を守ろうとする大英帝国やその他の国に
重要な物資や戦争資材を輸送している時から始まっていたと言えます。

第二次世界大戦で最初に犠牲になった船は、「MSシティオブレイヴィル」、
1940年11月9日にオーストラリア近海でドイツの機雷により沈没しました。
亡くなったのは一人、甲板にいた水夫でした。

その後、商船隊の船はドイツのUボートの優先ターゲットになります。
戦争が終わるまでに何百隻もの商船が沈められ、
それに伴い何千人もの商船隊の海の男たちが、
ファシズムの脅威から解き放たれるための戦いに身を投じ、
命を失っていくことになりました。


1944年のクリスマスに、ボブ・ホープは世界中の商船隊の人々に
このようなメッセージを発しました。

「Zメンの諸君!
聞こえているか、Zメンの諸君?
まるでギャグみたいに聞こえるかな、どうだろう?
でもそうじゃないんだ。

Zメンというのは、アイク元帥の陸軍やニミッツ提督の海軍が、
その存在なしでは生きてはいけない、そんな人たちなんだ。

5千7百ものそんな人たちが敵の魚雷で、機雷で、爆弾で、銃弾で、
パールハーバーのその瞬間(ゼロ・アワー)から死んできた。

彼らこそがZメン、商船隊の誇るべき男たちなんだ」


SS「ジェレマイア・オブライエン」

当ブログでは、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフに
常態展示されている「ジェレマイア・オブライエン」について
見学した記事を過去に挙げたことがあります。

戦争中、早急な必要性から、実に1隻のペースを週単位で建造した
粗製濫造の?徴用船「リバティ・シップ」の一つでしたね。

【SS 『ジェレマイア・オブライエン』モデル 】

商船隊の最も強力な資産の 1 つはリバティシップと呼ばれる徴用船群であり、
SS「ジェレマイア・オブライエン」がその例です。

リバティ・シップは、戦争の最前線に十分な供給を維持するために
必要な人員と物資を輸送しました。
リバティシップは安価で、建造も迅速でした。
1941年から1945年の間に、実に2,751 隻が16の造船所で建造されました。

これは、単一の設計で製造された船の数としては過去最多です。

1943年6月19日に進水したSS 「ジェレマイア・オブライエン」は、
第二次世界大戦中、米国からイギリス、北アイルランド、南アメリカ、
インド、オーストラリアを目的地とする 7 回の補給航海を完了しました。

彼女はまた、ノルマンディー海岸におけるD-デイ侵攻を支援するために
イギリス海峡を11 回横断しています。

今日SS「ジェレマイア・オブライエン」は、
サンフランシスコのフィッシャーマンズ ワーフで一般公開されています。
これは、第二次世界大戦のすべてのリバティ シップの誇り高い記念碑です。


【米国商船隊慰霊碑文】

第二次世界大戦中に敵によって沈められた733 隻の商船に乗って
無私の命を捧げた 5062名の勇敢な商船員の記憶に捧げる

また 第二次世界大戦中 敵から商船を守るために命を落とした
1810名の米国護衛隊の人々にも

「米国商船隊」 

これらの勇敢な船員たちはすべて志望して生命の危険を顧みず
軍隊の輸送に必要な義務を果たし すべての戦場に物資を供給し
第二次世界大戦の最終的な同盟国の勝利に多大な貢献をした

「エンジン停止」

この言葉を打電する最後の瞬間まで 決して諦めず
死んでいった 誇り高き全ての勇敢な男たち
だからこそ人は自由を手にすることができる




「連合国のすべての人々は、商船隊将校と水兵の忠誠心、
勇気、不屈の精神にただちに賞賛を表明します。

私たちは、自分自身にそうであるように、
彼らに義務への完全な献身を期待し、彼らはというと、
今後のすべての闘争において、私たちを決して裏切ることなく、
また決して躊躇することもないでしょう。


最終的な勝利を我々のものにしようとするとき、
その信用を共有するのに商船隊以上にふさわしい組織はありません」


ドワイト・D・アイゼンハワー将軍


■ 海軍女性部隊に捧ぐ



「私たち女性がやりたかったことは、
戦争を終わらせて、他の生活に戻ることだけでした。」

ミルドレッド・マカフィー・ホーター大佐
WAVES 初代司令官


そんなごもっともなことばが冒頭に書かれています。



ちなみに自分の過去ログから探してきたホーター大佐のお写真。

空で、海で、陸で〜ミリタリーウーマン

Woman At Warというこのコーナーにはこのようにあります。

第二次世界大戦中、400,000 人以上の女性が
米軍、陸軍、海軍、海兵隊、沿岸警備隊に勤務しました。

これらの女性たちは、戦争のあらゆる場面で勇気を持って任務を行いました。
その結果、88名の看護師が捕虜として拘束され、
460名以上が兵役中に命を落とす結果になりました。

そのうち最大の派遣を行ったのは

WAVES=Women Accepted for Volunteer Emergency Services
(志願緊急女性任務隊)

で、人数は10万人に上ります。
1942年7月、ルーズベルト大統領が夫人エレノアの勧めで署名し、
この議会法によって正式にアメリカ海軍の一部となりました。


WAVESの当初の目的は、男性の配置であった陸上任務に、
彼らを戦地に送るために置き換えて就かせることにありました。

戦争が激化するにつれ、女性たちは、それまで男性が占めていた
無線通信士や医療技術者から航空交通に至る幅広い海軍の職業で
その技術を発揮していくことになります。



WAVESが戦争遂行にもたらした最大の貢献の 1 つは、
アメリカ諜報部の「ボムマシン」の制作と運用だったと言えます。

これにより、アメリカ海軍はドイツのエニグマ通信を解読できるようになり、
Uボートの位置を特定してその攻撃力を封じることができました。



さて、といわけであとは奥のエレベーターで地上階に出るだけ、
という最後のホールがこれ。





最後に、U-505展示に協力したスポンサーなどの名簿があります。

最も高額の寄付をしたのは、マコーミック記念財団と、
イリノイの政財界団体で500万ドル以上、
10万ドル〜250万ドルクラスになると、個人名がほとんどです。

少額の寄付者の名前も記されています。



そして、この最後のコーナーにU-505の錨が展示されていました。

U-505潜水艦は国のランドマークであり、
両世界大戦中に海で亡くなったアメリカ人への永久的な記念碑です。

この錨は、アメリカ人の勇気、献身、犠牲の象徴としてここに置かれました。

重量1,100ポンドのこのアンカーは、
艦首の構造修理中にU-505 から取り外されました。

泥や砂を掘るために選ばれたホール・ストックレスタイプのアンカーは、
82.2ファゾム (ほぼ500フィート) の錨鎖に取り付けられていました。




エレベーター横にあった、
超大型寄付をおこなったマコーミック財団のダメ押し。

「マコーミック財団は、これらの功績に奉仕した人々に敬意を表し、
 U505展示を支援できることを誇りに思います」



ふと上に目を見やると、そこにはUSS「ガダルカナル」の艦番号が。




続く。

U-505 「最後の旅」〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-15 | 軍艦

U-505は関係者各位の努力により、意外とあっさり、
シカゴのここ科学産業博物館、MSIに展示されることが決まりました。

今日は「U-505のファイナル・ジャーニー」と名付けられた、
新しい住処への「最後の航海」についての展示を紹介します。

まず、U-505が国定歴史建造物に指定されたときに戻ります。


■ 1954年 奉献式



海軍当局者は、U-505を、第一、第二次世界大戦中に海で亡くなった
全てのアメリカ国民に対する恒久的な記念物であると宣言しました。
この銘板は、1954年9月25日の奉献式で除幕されました。

1815    1944
ドイツ海軍潜水艦
U-505

この戦争記憶は、大海の何処かにある墓に降りて
海における戦いに勝利することに寄与した
全てのアメリカ人船員の記憶に捧げられるものである

U-505はタスク・グループ 22.3 米国大西洋艦隊によって
フランス西アフリカのケープブランコで6月強襲および拿捕された

これは、1815年以来、アメリカによって海上で強襲および捕獲された
唯一のドイツ潜水艦であった

タスクグループ22.3
ダニエル・V・ギャラリー大佐 U.S.N

USS「ガダルカナル」CVE-60(旗艦) ダニエル・ギャラリー大佐
VC航空隊8 

ノーマン・D・ホッドソン大尉

護衛駆逐艦隊 第4分隊 

フレデリック・S・ホール中佐

USS「ピルズベリー」DE-133 ジョージ・W・カッセルマン少佐
USS「ポープ」DE-34 エドウィン・H・ヘッドランド少佐
USS「フラハーティ」DE-135 ミーンズ・ジョンソンJr.少佐
USS「シャトレーン」DE-149 ダッドレー・S・ノックス少佐
USS「ジェンクス」DE-665 ジュリウス・F・ウェイ少佐

■ 国定歴史建造物



U-505は、1989年6月29日、国定歴史建造物のステータスを取得しました。
国定歴史建造物プログラムは、アメリカの歴史を形成する上で
役立った出来事に焦点を当てて、国家的に重要な財産を区別します。


MSIで展示されることになった日のU-505


1954年の記念碑の除幕は、
ウィリアム・ハルゼーJr.提督の演説に続いて、
タスクグループのアール・トロシーノ中佐が行いました。


おそらく演説しているのはハルゼー提督

予備海軍中佐(海軍歴4年、駆逐艦の無線技師)であり、
テレビやラジオで全米に有名だった人気司会者、
アーサー・ゴッドフリーに紹介されたハルゼー提督は、
17発の祝砲に続き、祝辞を述べました。

「U-505は、正義よりも力を優先し、
国民を国家の奴隷にする生き方を常に思い起こさせる存在です。

これが博物館に常設展示されることによって、
常に世界は思い出すことでしょう。
アメリカ人が平和を祈り、戦いを嫌いながらも、
自らの生き方を信じるゆえに侵略者から身を守る意思と能力があることを」


■ U-505保全のための取り組み



ここにやってきてからというもの、U-505には多くの人々が訪れました。



U-505を見学した400万人目は、カリフォルニア州のアーサー・レイJr.君。
左、アーサーに記念品を渡すローア館長と右はギャラリー提督。

2004年に現在の展示場に移動するまでに、
実に2,400万人以上が潜水艦を訪問しました。

ここまでは良かったのです。

が、外に展示されていたU-505の艦体は、
驚くべきペースで劣化していきました。

2001年に行われた分析では、
何年にもわたって露天に暴露されていたことにより、
外殻は元の厚さの 4 分の 1 まで侵食されていることがわかりました。

屋内の温度制御される環境に移動しなければ、
潜水艦は永遠に失われる可能性もありました。


そこで、MSIは、この国の歴史的な宝の一つを
将来に受け渡すために完全に保護する企画を立てました。


博物館は、将来の世代のために適切な保護および保存すべく、
U-505をマコーミック・トリビューン財団展示ホール内のに移しました。

マコーミックというのは、U-505移動のスポンサーになった
出版業者ロバート・マコーミックの財団のことです。

エンジニアはU-505が安全に航行できるように詳細な構造分析を実施し、
キュレーターはボートを元の外観に戻すためのプロジェクトを開始しました。

このとき、U-505は50年間風雨にさらされて艦体は劣化し放題でした。
まずエンジニアは潜水艦の強度をテストすることから開始しました。

さまざまなサポート構成をテストし、
移動前に補強が必要な領域を特定するため、
コンピューターによるシミュレーションを行いました。

作業員は到達も困難に思われた潜水タンクまでの通路を案内し、
補修が必要なエリアを特定していきます。



作業員は、バラストタンクとフリーフラッドスペースから
3,200ポンド(約145kg)以上の錆びた鋼鉄を取り除きました。

彼らは、損傷した部品から作られたパターンを再利用し、
損失した部分は元のドイツの図面を使用して、新しい板金ブラケット、
ストリンガー(船側外板の内面を縦通する大形骨材)
およびリブ(艦体横方向に走る構造部材、肋骨に似ていることから)
をあらたに作成しました。

【修復〜正確さを求めて】


U-505は移動する前に大規模な保存作業を施す必要がありました。

学芸員は、U-505の内外の表面に、何年にもわたって積み重なった
何種類もの塗装色の層を発見しました。


これは潜水艦内のバルブハンドルの断面の拡大図ですが、
微細な塗料のチップを調べると、
何年にもわたって色の層ができているのが確認できます。

スタッフは当時の写真、第二次世界大戦のドイツ海軍の塗装マニュアル、
顕微鏡による塗装チップの分析結果を使用して、
最終的に当時のままの潜水艦のオリジナルの配色を決定しました。

■ U-505の敷地内移動

U-505の保存は、責任ある管理の問題であり、
貴重でかけがえのない歴史遺物の管理者に期待される種類のものでした。

潜水艦を劣化から守るためのセーフハーバーを作ること、
訪問者があらゆる角度から潜水艦に遭遇できるような体験を提供すること。

この重大な二つの目的のためには多額の財政的投資が必要でした。

博物館は、公共および民間にキャンペーンを行い2,900 万ドル以上を集め、
連邦、州、および地方政府への呼びかけで全体の52%が拠出されました。

残りの48%の協力金の内訳は、
博物館の理事会主導による、4,300人を超える個人の献金が24% 、
財団は22%、企業は2%というものです。

移転と保存のプロジェクトは、1997 年に開始され、
潜水艦捕獲の61周年に間に合うように、2005 年に完了しました。

(おそらく60周年にはどうしても間に合わなかったのだと思われる)


計画では、右側の黄色いところから、時計回りに
上の予定地まで潜水艦を動かすことになりました。

ただし、平面を動かしていくだけなら簡単ですが、
最終的な到着予定地は地下になります。

ただ無闇に場所を移すのではなく、移動する前に、
艦体がどのような影響を受けるか判断する必要があります。

構造エンジニアは、有限要素解析ソフトを駆使して移動をシミュレートし、
移動中にボートを支えるクレードルのさまざまな構成をテストし、
その結果、U-505を新しい場所に安全に誘導するには、
6つのクレードルと特別な補強が必要であると結論づけました。

この結果を導き出すため、捜査員は狭い開口部から腹ばいになって、
潜水艦の船体外殻と内部圧力弁の間の空間に進入しています。

かつて潜水艦を捕獲した時、沈没を止めるために
腹ばいになって狭いところに入ったアール・トロシーノ中佐のように。

その後、復元した内部の部品を取り替えたり、補強材を取り付けるなど、
U-505が1,000フィート移動に耐えられるようになるまで2年を要しました。

この作業をおこなったチーム(トレド船舶修理会社)は、
修理の際、オリジナルの建造方法を忠実に再現し、
移動作業を大型の海洋&産業アイテムの移動に経験を積んだチーム、
NORSARが手掛けました。

NORSARは従来の重量物の移動と違って、クレーンやリフトは使わず、
6つの持ち上げクレードルに艦体を乗せるという方法を取りました。



まず、潜水艦の下に24基のジャッキを配置しました。

ジャッキは重量を均等に分散し、船体を保護します。
潜水艦を一度に4インチ持ち上げ、それぞれのジャッキの下に
クリビングを置いて支えました。


パネルの下にはこのような角材が展示されていました。

説明がないのですが、もしかしたらこれが
このときに艦体を支えたクリビングの素材かもしれません。



次に、U-505を支えていたコンクリートの支柱を切り取り、
潜水艦を 18 台の油圧駆動の台車に載せました。
各台車には 8 個の頑丈なタイヤが付いていました。

各台車には相互接続された油圧ジャッキが装備されてボートを支えます。


写真の左上には、U-505がそこからやってきたミシガン湖があります。
動き出したU-505 はミシガン湖に向かって、敷き詰められた板の上で
クレードル、ドリー、および多くのタイヤに乗せられます。

甲板には安全柵が取り付けられていますが、これはオリジナルではなく、
MSIスタッフが装着したもので、その後削除されました。

ボートの下にはそれぞれ8つのタイヤを備えた 8 セットの台車が配置され、
台車は、でこぼこした路面を操縦するために、
それぞれが調整可能な油圧ラムを備え、個別に制御可能でした。

博物館は潜水艦の進路を確保し、縁石を板で覆い、
標識やフェンスなどの他の障害物をすべて片付けました。

1954年にここにボートを運んできた時とは全く違い、
今回は油圧モーター駆動の台車によって、Uボートは
博物館の周りを「動かされる」ことになりました。

この50年の間にいかに科学技術が進歩したかということですね。


2004年4月8日、Uボートはシャンパンを破る洗礼式の後、
最後の「旅」、新しい場所での展示を始めました。

ドレープのかかった幕の前でWW2のベテランである市長が挨拶をし、
海軍軍楽隊が澄み切った青い空の下、お馴染みの音楽で空気を充しました。

15年過ごした博物館のファサード前をバックで離れていくU-505。
艦尾の下には潜舵とプロペラのうち一つしかないのがわかります。



これから潜水艦は、地下に掘られた新しい設置場所への
最後のコーナーを回っていくところです。

最終的に彼女が落ち着くのは、画面右下、
潜水艦の形に造られたコンクリートの壁の容れ物です。

潜水艦のセイルには巨大な星条旗が翻っています。



展示ホールには機器(8つのクリビング タワー)を建設しました。
各タワーは150 トンのジャッキで構成されています。



40,000ポンドの重さの 4 つの橋梁を組み立てました。




潜水艦の下に4つのスキッド ビームを配置した後、
油圧シリンダーによって U-505がブリッジ ビーム、展示ホールの上、
およびタワーの上に押し込まれていきます。



支持梁を取り外し、リバースジャッキを使用してホールの底まで降ろし、
潜水艦を床のスキッドビームまでジャッキダウンします。

最後に、スキッド ビームを使用して U-505 を適切な位置に回転させ、
最終的な移動が完了しました。


その日以来、U-505はこの場所にあります。



続く。



U-505乗組員の日記〜シカゴ科学産業博物艦 

2023-06-13 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されているU-505に焦点を当てています。


就役式でエルンスト・ウォルフ少将Vizeadmiral Ernst Wolf の演説に続き、
初めて海軍旗が掲揚されたときのU-505。



この時に掲揚された実物が博物館に展示されています。

■大西洋での戦争

 U-505 は、おそらくアドルフ・ヒトラーの潜水艦サービス
(こう言う言い方をアメリカ人は好む)で、
最も不運な U ボートの 1 つでした。

最初の 1、2 回の哨戒でこそそのような兆候は見られませんでしたが、
その後の数か月に渡り、彼女は不運に見舞われ続けます。


初代艦長 アクセル・オラフ・ロエヴェ

まず、最初の艦長は、虫垂炎のために哨戒を中断しなければなりませんでした。

二代め艦長の指揮下では、ボートは連合軍の空襲により大きな損傷を受け、
何ヶ月にもわたる造船所の修理が必要になりました。

不可解な機器の誤動作 (明らかに破壊工作の結果であると思われるものもある)
により、その後の哨戒が大幅に短縮されたため、
U-505と二代目艦長は海軍内で軽蔑の対象になりました。


二代目艦長 ペーター・ツェッヒ中尉

そのせいで二代目艦長のメンタルは打ち砕かれ、
結局、敵の爆雷攻撃中に司令塔で自殺してしまいます。

しかも、これらのできごとはすべて、アメリカ海軍の任務群が
西アフリカ沖でU-505を捕獲するという最悪の出来事より
ずっと前に起こっていたのです。


1944年、インド洋を哨戒中のU-181 (タイプ IXD2)

日本の制海域で運用されたすべてのドイツの U ボートと同様、
ボートは司令塔の両側に卍を記しています。

これは、艦橋前面の白いペンキと前甲板の白い横縞とともに、
同盟国の U ボートであることを日本の飛行士に示すためのものでした。

Uボートの艦長がグリッド参照に使用する英国水域の二乗チャート

チャートに示されているように、U-505 はバルト海のキールから、
カイザー・ヴィルヘルム海峡を通って北海に出て、イングランドを回り、
占領下のフランスのビスケー湾にあるロリアンに向かいました。


■ U-505最後の哨戒

1943年11 月18 日、U-505 の新しい指揮官として、
ハラルド・ランゲ中尉が着任しました。



ランゲは経験豊富な海の男でした。

本業は商船士官で、第二次世界大戦の初めに掃海艇や哨戒艇に乗務した後、
1941 年、U ボート任務に転向しました。

潜水艦の訓練と指揮官のプログラムを修了した彼は、U-505艦長着任前に、
U-180の当直士官、ついで指揮官代理を務めました。



41歳にしてそのリーダーシップと人的手腕を買われた彼は、
一連の、士気を打ち砕く出来事によってトラウマを負ったボートと、
その乗組員を引き継ぐために、特別に指揮官に選ばれたのでした。


U-505の士官たちと。

乗組員が彼の穏やかで安定した統率に反応するのにそう時間はかからず、
新艦長はすぐに彼らの尊敬と忠誠心を獲得しました。



ところでこの冒頭に挙げた絵ですが、捕獲から数日後に描かれました。

つまり、ランゲが艦長になってからのU-505です。
ロエヴェ艦長時代には、司令塔前方に甲板砲を装備していましたが、
この時砲は司令塔後方に移動しています。

U-505がその後アメリカ海軍のハンターキラー任務群22.3に捕捉され、
経験豊富なランゲは、敵に囲まれているらしいことを察知して
舵を東にとり、アフリカ大陸に近づこうとした、
というところまで前回お話ししたわけですが、
ここでU-505のある乗組員が付けていた日記を紹介します。

全部紹介するのは冗長かと思ったのですが、これは
私が現地で買い付けた「U-505」という本の中にあったもので、
おそらく日本人が今後どんな媒体でも目にする機会はないだろうと判断し、
全てを省略せずに翻訳しておくことにしました。

14日目

基地を出発して今日で14日。
この期間、僕たちは空も太陽も見ていない。
ゆっくりと日々が過ぎていく。
敵機の脅威が最大の危険なエリア、ビスケー湾をついに通過する。

新鮮な空気を吸ってバッテリーを充電する時間はほとんどなく、潜航ばかり。
この3日間は、荒れた海(レベル3-6)高いうねりと強い風。
食器が艦内を飛び交い、脱出用呼吸装置が頭に当たりそうになったので、
このような状態なら潜航している方がずっと安心だ。

僕はプリンやりんごのコンポートなどのスイーツを食べていたが、
奇跡的に体内に残っていた(戻さなかったという意味)。

要するに僕達の祖先はみな船乗りだったってことか。

4月1日 

今夜、水面を走っている間、海は非常に荒れていた。(レベル6-7)
ボートは、水深7〜20mでも揺れたりがぶったりする。

無線室に座って(というか立って)機器を監視し、
敵がこちらを探知しているかどうかの心配をするのは
はっきり言ってとても面倒な作業だ。

現在、120度南西に舵をとっている。
温暖な気候の気配がすでに感じられてきたが、
数日後に赤道を越えるとどうなるのだろう。

4月3日

今日はお母さんの誕生日。
今12時半、ちょうどカツレツを頬張ったところだが、
もし海上を航走していたらうまく食べられなかっただろう。

お母さんは今日何を食べましたか?
ちゃんとした誕生日ディナーを食べられていますように。
グリューネ・クロッセ(ドイツの特別料理、じゃがいもの団子)とか。


Grune Klosse

今日は焼きたてのロールパンが一人3個配られたので
僕はお母さんの誕生日を祝ってそれを頂きました。
僕が注文しておいたお花は配達されましたか?

この二晩というもの、ずっと海面を走っていたが、
波が荒くて本当に何も食べられなかった。
昼と夜が逆転してしまったので昼食抜きになってしまうし。

正午になるとボートは潜航し、自動的に「夜中」になる。
目の前に迫る荒れた海のせいで、我々の任務は遅々として進まない。
毎日12時間は航走しているが、活動地域にも到達していない。
アメリカに向かうのかアフリカに向かうのかもわからない。

この謎は二、三日以内に無線で指示を受け取れば解けるはず。

復活祭の日曜日 2100

コーヒーブレイクを終えたところだ。
プラムのケーキが復活祭を祝うために配られた。
日曜日とはいえ、少し緊張感が漂う雰囲気だ。
将校と上級下士官は、ペストリーと一緒にバタークリームを食べていた。
他の戦闘哨戒中のUボートも似たようなものだろうと思う。

3日前、U-123と合流した。
哨戒を終えて帰るところだったので、家族への手紙をことづかってくれた。

この二日というもの、我々の警報受信機が壊れていて対応に追われている。
1日が終わる頃には修理に4時間近く費やしたせいで汗だらけだ。

ここ数日は180度の針路を進んでいて、海が落ち着いたのはいいが
その分暑さがひどくなってきた。

4月14日

基地を離れて今日で4週間。
ありがたいことに後3ヶ月残っている。

今日、我々はワイヤレスで活動エリアを割り当てられた。
西アフリカのゴールドコーストだ。
カーボベルデ 諸島がちょうど横にある状態で、針路210度をとる。

残念ながら、これ以上赤道に近づく予定はなさそうだ。

ネプチューンが我々にに慈悲を示さなかったことは確かだが、
僕個人としては、赤道超えの儀式を体験してみたかったな。

幸いなことに、警報受信機を4晩かかって修理することができた。

ここのところ配給が大幅に節約されて、ソーセージなしで3晩とか(怒)
管理係は、支給期間はトータル17週分だというが、
我々はたった14週分しかもらっていないと文句を言う。

こんなだから「哀れなUボートシュバイン(豚)」なんて呼ばれるんだな。

昨日この哨戒中に海上航走200時間を記録した。

4月15日

全く静か。コース240度。
無線で軍の状況報告の一部をキャッチし、ドイツ中部への空襲について聞く。
うちが無事ですように。

我々の位置は北14、作戦地域に到達するまであと10日だ。
海の状態: 3-3

4月25日

活動地域到着、ここまで来るのに5週間かかった。
ボートの劣化がまたしても問題になってきた。
魚雷発射管のハッチが一つちゃんと閉まらない。

しかし、問題は今のうち起こっておいてくれないと困る。
昨日は、エコーサウンダーが故障した。これも運命か。
それを修理し、新しいネオンライトニングチューブを取り付けた。

ここ数日、今や我々は熱帯の暑さを「楽しんで」いる。
誰もが自由にスポーツを楽しむバンクでは、
すべてがかいた汗でずぶ濡れになるまで数分もあれば十分だ。

水温は29℃で艦内の温度は35℃から40℃くらい、
でもまだまだこんなものじゃないだろう。
熱すぎて脱皮したいくらいだ!



4月30日

暑さに耐えられなくて何も書く気が起きない。
ボート内ではできるだけ無駄に動かないようにしている。
したがって、ほとんどの時間をびしょ濡れの寝台で過ごす。

一昨日、最初の汽船を目撃した。
非常に迅速に迎撃作戦が実行された後、
(船はクリスマスツリーのように燃え盛った)
それが中立のポルトガル船だったことが判明した。

5月3日  

一昨日、基地を出てから二度目の日光を潜望鏡を通して垣間見た。
それは素晴らしい日だった。
慣れない明るさに目が痛い。

北緯3度に達し、赤道までわずか200海里だが、そこには行かない。
代わりに、通過する汽船を捕食するために海岸近くをうろうろする。

残念ながら、あのポルトガル船を除いて獲物はなし。
ちょうど今、調査するために潜望鏡深度まで上がってきたが、艦長が

『二匹小さなサメがいるから、
見たい人はブリッジに来るように』

と艦内放送をした。

僕も覗いてみたが、なぜか2センチ砲に二匹の可愛いサメくんが
ふらふらとただ乗りを楽しんでいるのが見えた。
なんて素敵な気晴らしだったことか!

5月7日~哨戒中盤!

数分前、COが哨戒の半分が完了したと放送した。
彼は、この海域を海岸沿いに哨戒して敵の船が現れるのを待つのは
決して簡単ではないと強調していた。

一昨日、激しい雷雨に遭遇。
艦橋はすべての通信機器のスイッチを切るように命じ、ほぼ即座にCOは、
ワッチの主任通信士に、ズボンを脱いで司令塔に上がるよう命じた。

夜22 時から30分間、このパトロールで初めて司令塔の外に立った。
アフリカの新鮮で湿った空気を吸い込み、雨で体を洗い流した。
なんという饗宴!

パトロールは現在終了。
14 日後、我々は活動地域を離れ、家路に就く。

5月12日

再び海岸近くに行く。
月明かりに照らされた夜の間に、我々はさらに冒険した。
一昨日、潜望鏡深度で走っているときに汽船を見つける。
側面速度で攻撃しようと夜が明けてから水面に出て魚雷を撃ったが、
残念ながら駆逐艦かそれ以上の何かによって水中に押し込まれた。

僕はというと、親指の炎症が腫れてしまっているので、
多分これは針で穴を開けないとダメだと思う。

5月15日

今朝 0100 に状況報告を無線で送信。
信号は良好な強度で受信された。
アフリカ西海岸とドイツの間の距離を考えれば、悪くない。
Uボートの送信機がいかに小さいかを考えると。

クラッシュダイブ中に金属製の人工呼吸器で頭皮を裂いてしまった。
まあ、こういうこともあるさ。

帰国まであと6日。
ということは、6月末または7月初旬に到着するかな。

5月19日

艦内の暑さはもうたまらない。
書いているうちに体から汗が噴き出している。
無線室では、38℃を下回ることはない。

濁って悪臭を放つ空気は、すべてをさらに悪化させていく。
慰めは1つだけ。あと5〜6日すれば気温が下がること。
明後日、我々は帰路に着く。

5月23日

今日、やっと家路につくことができた。

しかし0400頃に警報器が鳴り潜航。
1時間半後に再び浮上したがまたすぐにレーダーを拾い再び潜航。

その後: 2 つの音響コンタクト。
おそらく駆逐艦と哨戒艇で構成されたハンターキラーグループだろう。
潜望鏡深度。
スクリュー音は1時間後に消えた。
トランジットを継続する。

5月30日

ウィットンタイドの休暇をともかくも幸せに過ごした。
乗組員の1 人がパン職人としての才能を証明し、
僕たち一人一人に小さなケーキを作ってくれたのだった。
彼は空のブリキ缶を焼き型として利用していた。

休日といっても海での毎日とほとんど変わらない。
ラジオも、レコードプレーヤーの音楽も、照明も、
ついでに空気もほとんどなく、今日は特に憂鬱な日だった。

夕方の時間帯に浮上してから数分以内に、レーダー感知。
再び潜るしかなく、そのルーチンを4回繰り返す。

最終的に水面に残り、対空砲を配置した。

しばらくすると、2 回目のレーダー感知があり再び水没。
おそらく、航空機と連携して活動している水上対潜グループだ。

今、我々は一般的には行われていないと思われることを試してみた。

どういうことかというと、海岸から約100海里の距離で、
真昼間に浮上し、30分間、堂々と東に航行したのだ。
しかし発見されなかった。
敵はまさかこんなことをすると思っていなかったのだろう。

COは明日一日潜航を継続し、明後日短時間再び浮上するつもりらしい。
そのために空気と電気を節約中だ。
非番の乗組員は全員寝台に閉じ込められている。
それでも、最後の数時間は息が切れるだろう。



4~5週間で帰国できるということだけが心の支えだ。
長い間ご無沙汰の緑の森や庭園の光景を再び見る日が待ちきれない。

6月4日日曜日

 午前11時。潜航。

我々が最悪の事態を乗り越えることを願うしかない。
今日は水面で 4 時間過ごしたが、明日は一晩中浮上を目指す。
ここ数日は空気を節約しなければならなかった。
なぜなら浮上してもたった数分でまた潜らねばならなかったから。
四日で10回のコンタクトは多すぎないか。
我々の現在位置は北緯22°。

これまで綴ってきた物語は6月4 日の午前 11 時に終了する。

同日の正午、ハイドロフォンのオペレーターがかすかな水中音を拾い、
ランゲ艦長はボートを潜望鏡の深さまで運んだ。
司令塔の潜望鏡をゆっくりと上げていくと、遠くに駆逐艦と空母が見えた。

彼はスコープを叩きつけ、「デストロイヤー!」と叫んだ。
そしてすぐさま急速潜航を命じた。

潜航すると同時に、 T5 音響魚雷を艦尾管から遠くの空母に向けて発射した。
その後ランゲ艦長はデコイを放ったが、
爆雷がボートの周りですでに爆発し始めていて、手遅れだった。

全ては秒の間に起こった。

後部魚雷室が浸水してコントロールを失い、
ボートはすぐに海水で満たされて最大深度を超えていった。
U-505はもはや闇の深海に沈む運命にあるように見えた。

ランゲ艦長は、彼の乗組員を救うたった一つの方法を知っていた。
それはボートを浮上させることだった。
彼が命令をくだすと、U-505 はゆっくりと浮上し始めた。

ボートが水面を破るやいなや、
米国の空母と護衛駆逐艦からの砲撃の雹に遭遇することになった。



日記はここまでとなっています。

6月4日の攻撃でU-505は捕獲されたのですが、
最後の部分がいつ書かれたかはわかっていません。

米軍の攻撃のところで記述がストップしていることから考えて、
彼はこれを書き終えると艦長の総員退艦命令に従い、
ノートを置いてボートを後にしたのでしょう。

彼はそのとき、これまで書きつけてきたさまざまな出来事が
Uボートの自沈と共に海の底に消えていくと考えたかもしれませんが、
ところがどっこい、アメリカ軍はそれを許しませんでした。

沈みゆくUボートに飛び乗り、爆破装置を食い止めて、
艦体と内部に、乗組員が置いていったものを全て確保したのです。

彼の日記もその中にありました。


続く。



「光と影」勲章受賞と最後の哨戒〜シカゴ科学産業博物艦 U-505展示

2023-06-11 | 軍艦

シカゴ科学産業博物艦MSIに展示されているU-505にまつわる話、
今日はこの件に関わったアメリカとドイツ関係者たちについてです。

■ タスクグループメンバーの受勲



Uボートを捕獲したギャラリー司令率いるタスクグループは、
USS「ガダルカナル」を旗艦とする任務群全体が、
大統領部隊表彰を受けた他、際立った働きをした個人は
その功績に対し、国から特別に戦功賞などを授けられました。

これは、U-505 の拿捕に参加したUSS「ガダルカナル」のパイロットたち。

殊勲飛行十字章が二人、ブロンズスターが一人、
彼らに勲章を授け、正体不明の士官と握手しているのは
アルバート C. リード少将 (USN、ノーフォークの艦隊航空司令官) 

アドミラル ・リード自身は、1919 年 5 月に海軍の水上飛行機 NC-4
大西洋横断飛行を完了した最初のパイロットとして知られており、
当ブログでもその壮挙については紹介済みです。


右から2番目がリード



つまりリードが叙勲しているのは、U-505を航空攻撃したチームです。

右側のメダルは、全て一人の航空士官が受け取ったものです。
ワイルドキャットのパイロット、ジョン・ケイドル少尉は、
その日、上空からU-505を発見し、
潜水艦の位置を艦隊に知らせるために銃をまず発射。

U-505が浮上すると、1,600発分の弾薬を撃ち込み、
これでUボート乗組員は総員退艦を余儀なくされました。



左から:

名誉勲章
海軍十字賞
シルバースター賞
レジオン・オブ・メリット勲章
航空十字賞

いずれもこのときタスクグループのメンバーが授与され、
その後、家族(ほとんは遺族)によってMSIに寄贈されたものばかりです。



個人で最も価値のある賞を与えられたのは、
潜水艦に乗り込む部隊を率いたアルバート・L・デビッド中尉でしょう。



デビッド中尉は、U-505に実際に乗り込んだ最初の士官です。
沈没を食い止め、その多大なる功績に対し、名誉勲章を授与されました。


作戦総司令官のダニエル V. ギャラリー大尉は功労勲章を授与され、
アール・トロシーノ中佐はレジオン・オブ・ メリットを授与されました。



ところで、確か、暴れるUボートに飛び乗ったのって、
士官じゃなくて下士官か兵でしたよね?

確か「ピルズベリー」の乗組隊の誰かだったはず。
もちろん彼らは彼らで何かしら賞をもらっているのですが、
士官とは勲章の種類が違うようです。

そして「ピルズベリー」乗組員で組織された潜水艦乗り込み隊のメンバーは、
特に働きのあった者にネイビークロス(海軍十字賞)が与えられました。



U-505のハッチを隊長に続いて2番目に降りていった、
スタンレー・ウドウィアク2等兵の海軍十字賞。

彼は通信士だったので、司令部との連絡を取るため
最初に乗り組んでいったということで、リボンの色も特別となります。



乗り込み隊メンバーは全員が海軍十字賞を授与しました。

右側のゼノン・ルコシウス(ギリシャ系?)1等機関兵は、
U-505の沈没装置を素早く止めて浸水を防いだ功労者です。



フィリップ・ノーマン・トゥルシェイム操舵手は、
ホエールボート(人員輸送ボート)の操舵を行い、
Uボートに横付けして、乗り込み隊が移乗する支援を行いました。

舵が壊れて右回転し続けるUボートに、
ホエールボートから縄をかけて飛び乗るというような危険なことも、
この時の操舵が卓越していたからこそ成功したということです。



乗り込み隊メンバー、リヤンドー2等電気技術兵



同じく、1等砲兵チェスター・モカースキー

■ ダニエル・ヴィンセント・ギャラリー海軍少将



USS「ガダルカナル」(CVE60)艦長
ハンターキラータスクグループ22.3司令官


1901 年7月10日、イリノイ州シカゴ生まれ。

海軍兵学校での士官候補生時代は、レスリングチームの一員であり、
卒業後は、1920年のオリンピックベルギーのアントワープ大会に
米国代表として出場しています。(そのために早く卒業したという噂も)



1927 年に海軍航空隊に志願してウィングマークを獲得し、
第二次世界大戦が始まると、アイスランドの哨戒機分遣隊の指揮官になり、
北大西洋の護送船団の護衛任務を行います。


アイスランドのレイキャビク基地にて、イギリス軍将校と共に
彼がUボートの生捕りを考え始めたのはこの頃だったとか


そしてその次に就いた任務が、「ベビー・フラットトップ」
=軽空母、USS 「ガダルカナル」 (CVE-60) 
の艦長職でした。



この人事によって、彼はアメリカ海軍史で1815 年以来、初めて、
敵の海軍艦艇に海上での乗り込みに続き捕獲した指揮官となりました。


1945年にはUSS「ハンコック」(CV-19)の艦長として
東京湾での日本の降伏調印典に出席しています。

1951年からは第6航空母艦師団の司令官として
USS「コーラル・シー」((CVB-43、後に CVA-43) に旗を掲げ、
1952年3月21 日にハンターキラー フォースの司令官になりました。

その後彼は海軍航空予備訓練司令部、五大湖の第9海軍管区、
第10海軍管区の司令官などを務め、私生活では
ラテンアメリカのリトルリーグベースボールのコミッショナーを務め、
(趣味は野球と執筆)
ドラム缶で作られた楽器を演奏するバンド、

第10海軍地区スティールバンド
「アドミラル・ダンのパンデマニアックス」

の主催者でもありました。

スティールバンドは、ギャラリー提督がプエルトリコに駐在していた機関、
亜熱帯の土地での余暇の産物としてうまれました。

飛行士官だったギャラリー少将は、単座ジェット機を含む
あらゆる種類の海軍航空機で 6,000 時間以上の飛行時間を記録し、
海軍が特別資格のある計器パイロットに発行した
「グリーンカード」の保持者でした。

執筆が趣味で何冊もの自伝など海軍ものを著す一方、
ユーモア短編なども書いていたということです。

そして、1977年1月16日に逝去しました。


■ U-505最後の哨戒



「ギャラリー/ランゲ劇場」

と書かれ、二人の指揮官の顔写真が掲げられたパネルの裏では
文字通り二人の艦長に焦点を当てたビデオが上映されています。



前回、1964年、初めて米独関係者が一堂に会する機会が持たれ、
そこでランゲ艦長がスピーチを行ったという話を取り上げましたが、
まさにそのときのスピーチ映像なども上映されているのです。



さて、ここでU-505の航跡について話しておきましょう。

1943年12月21日、U-505はロリアンを出港しましたが、
複数の水中聴音器のケーブル引き込み口に漏れがあったため、
すぐに港に戻ることを余儀なくされました。

修理が行われ、U-505 はクリスマスの日に再び出航しました。

ボートがビスケー湾を通過し、大雨と荒れ狂う海に遭遇したとき、
ハイドロフォンのオペレーターは遠くの爆発音を拾いました。
イギリス軍とドイツ軍の間で水上戦闘が行われていたのです。

英海軍の巡洋艦 HMS 「グラスゴー」HMS「エンタープライズ」
ドイツの魚雷艇を攻撃しており、駆逐艦は
「アルスターファー」 (封鎖ランナー) を護衛していました。
このときドイツ海軍は駆逐艦227と魚雷艇T25および T26を失っています。

これに対しランゲ艦長は、司令部から生存者の救出を命じられました。

12月29日、U-505は現場に到着し、生存者を引き取りましたが、
多くは、ディーゼル燃料と海水を飲み込んでおり、
大西洋の冷たい海で漂流したため、半数に減っていました。

救助した人員を乗せたことで、ボートの乗員はそれまでの2倍になり、
しかもその多くが船酔いで嘔吐したりして、
もうU-505の艦内は阿鼻叫喚の巷と化したのですが、
救助活動が成功したことで、U-505乗員の士気は決して下がりませんでした。

U-505 は第5水雷戦隊の本拠地であるブレストに向かいました。

救助作戦に成功したということで、基地には
高官とブラスバンドが彼らを出迎えるために待っていました。

映画「Uボート」のラストシーンを思い出しますね。

そして、あの映画ではブラスバンド演奏中、
敵機編隊がやってきて、ラストにとんでもないことになるわけですが、
U-505にとっても、あっと驚くどんでん返しが起こります。


救助して収容していた魚雷艇の乗員が、潜水艦を出るため
登っていた梯子を踏み外して落ちたのです。

それだけならまだしも、下にいた操舵中の操舵手に体が当たり、
ボートはそのせいで迎えの人々の眼前でコンクリート壁に衝突

ボートはシャフトが破損する事故になってしまったのです。

新しいシャフトはボルドーから取り寄せなくてはならず、
U-505はまたもや修理に2ヶ月かかってしまいます。

「呪われたボート」「不運なボート」

U-505がそう呼ばれたのは、前艦長の自殺に続いて、偶然に
このような不可抗力の事故が相次いだからでもあります。



結局U-505がブレストを出向したのは、3ヶ月後の1944年3月16日でした。

作戦範囲は、アフリカ西海岸のフリータウンへの海上進入路でした。
これがU-505の最後の哨戒となります。

ボートは1 か月強でフリータウン沖に到達し、そこで沿岸地域を哨戒し、
標的を求めて港に入ったりしましたが、1 隻の船も見当たらず、
5 月下旬にブレストに戻ることを決めました。

しかしそのとき、ランゲ艦長はある予感を持っていました。

北上を始めると、連合軍の航空機が継続的に現れるため、
多くの時間を潜水に費やさなければなりませんでした。

浮上ができないとバッテリーを充電することはできず、
水面にいる時間が長ければ長いほど危険が増していきます。

常に敵が空域をカバーしていることから見て、
ランゲはボートがハンターキラー集団に囲まれていると感じました。

ランゲはアフリカ大陸に向けて東に向かうことで
連合軍から離れようと考えました。

そして日中、充電するためにできるだけ水面を航走しました。


航走中、外気を楽しむU-505乗員(見張り一人)

ランゲ艦長は、敵が、まさかUボートが発見される危険を冒すほど
愚かであるとは思うまい、と裏をかいたつもりだったと思われます。

彼の考えはある意味正しかったのですが、結果として選択したコースは
アメリカのタスクフォース22.3と接触することになりました。

敵の目を避けてU-505はひたすら潜航と隙を見ての航走を繰り返しました。

出発して二週間つづく緊張と不快に耐え続ける日々に、
このときの乗組員のほぼ全員が頭痛、発熱、風邪を発症していました。



続く。




MSIでの米独軍合同同窓会〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-06-09 | 軍艦

シカゴ科学産業博物館、MSIのU-505関連展示で、
主にタスクフォースのメンバーやギャラリー少将自身、
変わったところではU-505のメンバー自身から寄贈された
グッズなどを前回ご紹介しました。

中には、U-505乗員の同窓会記念グッズなどもあって、
ちょっと驚かされたものですが、実際、MSIでは
何度もU-505関係の「リユニオン」が企画されています。

まず、1954年にU-505がMSIに展示された記念再会。
これは、U-505が捕獲されて10年目にも当たっていました。
その後の再会パーティを列記すると、

1964 年(20 周年記念夕食会)
1974 年(30 周年記念夕食会)
1979 年(再奉献式行事)
1982 年(タスクグループ/U-505クルーの再会)
1994年(50周年記念ディナー)
および2004年(60周年記念ディナー)

微笑ましいというか、なんだかいいなあと思ってしまうのは、
1982年の再会パーティでは、タスクグループとU-505乗組員、
あのとき大西洋で対峙した同士が一堂に会したことです。

しかし、それまでのリユニオンでも、MSIは企画して
ドイツ軍の関係者を招待していました。



1964年の20周年記念の同窓会で撮られた写真です。
甲板の上にスピーチ台が設けられ、
米独の関係者が並んでいて、甲板のこちら側に座っているのは
おそらく海軍の関係者ではないかと思われます。

この出席者の中に、U-505の艦長だったハラルド・ランゲ艦長もいました。

ランゲ艦長は当時 60歳。
彼はアドミラル・ダン・ギャラリーとそこで再会し、
U-505に一緒に乗り込むだけでなく数時間を二人で過ごしたそうです。

甲板にやってきたとき、ランゲは、司令塔に残る銃撃の痕を指摘しました。
かつてアメリカ軍の攻撃で空けられた弾痕が、修復されず、
はっきりと潜水艦に残されていたことに驚いたのかもしれません。

20周年記念パーティのハイライトは、
モーリス・L・ホーナーが率いる米国海軍騎士団シカゴ支部が主催した
MSIでのディナーに先立ち行われた、ランゲ艦長のスピーチでした。

彼は海での戦いについて、彼の思うところをこう語りました。

「レーダーはドイツとアメリカの戦いの流れを変えました。

潜水艦は奇襲攻撃に優れた武器ですが、
その所在が悟られてしまった潜水艦は脆弱な存在になります。

あなた方アメリカ海軍のレーダーは、それをしたのです」



左:タスクグループ司令官、ダン・ギャラリー少将
右:元U-505艦長、ハラルド・ランゲ氏

夜の祝祭が終わろうとするころ、ギャラリー提督は、
潜水艦を捕獲した時に艦内から回収して持っていた、
ランゲ大尉の双眼鏡(ツァイス8×60)を返却しました。

この日から13年後の1967年、ランゲ艦長が亡くなったとき、
彼の妻はドイツのEボート(モーター魚雷艇)アーカイブに
双眼鏡を寄贈したということです。

ですから、MSIのツァイス双眼鏡コレクションの中に、
ランゲ艦長のものだけが欠けています。

1979年、U-505の捕獲30周年の記念のときには、
U-505のランゲ艦長も、アドミラル・ギャラリーも他界していました。

当時の海軍次官補ジョージ A. ピープルズは、この席で、
新しい誘導ミサイル フリゲート艦の 1 隻を、故海軍少将、
ダニエルとフィリップにちなんで「ギャラリー」と命名すると発表しました。

ギャラリー家には彼、ダンを長兄として、
フィリップ、そしてウィリアムという3人の男児がおり、
全員が海軍軍人となって全員が少将になりました。

この式典の時には、存命だったウィリアム・ギャラリー
そしてU-505をシカゴに展示するアイデアを出した、
彼らの叔父であるジョン・ギャラリー、そして、
フィリップ・ギャラリーの息子、フィリップ・ギャラリーJr.
中佐となって出席していました。

その後、1983年にウィリアムが亡くなり、「ギャラリー」は
この三兄弟の名前を引き継いだということになりました。

この時の同窓会には、タスクグループの生存者が
15名参加しており、彼らの一部はU-505セレモニーを
全米各地で行うためにツァーを行なっています。



そして、1982年の同窓会では、初めての企画として、
タスクグループのメンバーと、U-505の乗組員が初めて顔を合わせます。

写真は潜水艦の前の参加者で、パッと見てもわかりますが、
左がアメリカ軍の45名で右側がUボートグループ11名となります。

ドイツ軍Uボートチームは、これまでもドイツ人同士で
3回の同窓会を開いていたそうです。


1982年、亡き夫の代わりに同窓会に出席する
フラウ・ランゲ=ランゲ夫人カーラさん。
海を思わせるブルーと紫のドレスに金髪がオシャレなおばあちゃまです。

Uボート組は、乗員が11人、同伴した家族がランゲ夫人を入れて12名で、
全員が妻を帯同していたようです。

それはそうと、彼女が一番先にナイフを入れようとしている
いかにもアメリカンなU-505のケーキの味が気になる。

このとき、Uボートの乗組員が攻撃されていたときのことを
このように語りました。

「ライトが消え、ステアリングを含むすべてが制御不能になりました。
私たちはさらに深く潜りました。

『Anblassen!』(ブローネガティブ)

司令官は叫びました。

ありがたいことに、エアパイプはまだ正常だったため浮上できたのですが、
飛行機が犬の群れのように襲ってきました。

結局2時間海上に浮いていましたが、駆逐艦に救助され、
新しい服、コーヒー、私にとって初めてのタバコを与えられました。

その後、非常にフェアな扱いをされたのですが、
これには非常に感謝しています」

USS「ガダルカナル」の元飛行甲板士官であるジェームズ・ビギン
ジェームズ・G・サンダースは、Uボートの乗組員がシカゴに来ると聞き、
タスクグループのメンバーだったアメリカ側の退役軍人が参加して
一堂に会することを企画しました。

この同窓会で、博物館長ビクター・ダニロフは、

「戦時中の敵対しあった人々は、今、ここに
過去の記憶と未来への希望を持った平和な時代の友人として戻ってきた」


と歓迎の辞で述べました。

Uボート乗員のシカゴ訪問を企画したのは、
「鋼鉄の船、鉄の心」という本の著者でもある、
(前回紹介した)ハンス・ゲーベラー(マシニストメイト)でした。

「スリルに満ちたイベントでした」

彼は次のように語りました。
もちろんボートの上で再会した元乗組員たちにとっても、
それはノスタルジックな瞬間だったことでしょう。

「わたしたちにとってUボートでの生活は悪くなかった。
数週間の退屈な時間のあとに、人生最悪の恐怖を味わったけれども」

USS「ガダルカナル」のタスクグループ22.3協会は、
1954年以来、年に一度の同窓会を開催してきました。
タスクグループに加わっていた駆逐艦、「ポープ」「ジェンクス」
「フラハティ」「ピルズベリー」「シャトレイン」も、
それぞれ何年にもわたって会合を続けていました。

このとき、米独の元軍人たちは、シカゴ市内で行われた
追悼式に伴う献花式典にも一緒に参加しました。

■ ミシガン湖に没したUC-97

実はU-505はミシガン湖水域に到着した最初のUボートではありません。

1921年6月7日付けの砲艦 USS 「ウィルメット」Wilmette の日誌は、
最後に残った第一次世界大戦のドイツの U ボートを、
ベルサイユ条約の規定に従って、沈没処分にしたことを記録しています。


機雷敷設潜水艦である UC-97 は、1916年に発注され、1918年進水、
1918年9月3日にSM UC-97としてドイツ帝国海軍に就役しました。

完成した他のUC IIIボートと同様に、
UC-97は戦争哨戒を行わず、戦闘を行うこともなかったわけですが、
第一次世界大戦に負けたドイツから他のUボートとともに
アメリカに戦利品として渡ることになりました。

UC-97はSM U-111、117、140、164、SM UB-88とともに、
「元ドイツ潜水艦遠征隊」として大西洋を横断するため、
12人の米国海軍士官と120人の下士官兵が英国から操艦を行いました。

ところで、上に貼った写真なんですが、見覚えありませんか?

そう、このときUC-97の指揮を執ったのは、
のちに潜水艦隊の父と呼ばれることになる、チャールズ・A・ロックウッド
ロックウッド少将について紹介した時にこの写真を掲載しています。

その後UC-97は、セントローレンス海峡を通り、五大湖に向かいました。

ロックウッド司令官は1919年の夏、オンタリオ湖、エリー湖、
ヒューロン湖、ミシガン湖の各都市に潜水艦を引き回しましたが、
アメリカ人の操艦が「合わなかった」のか、Uボートが拗ねたのか、
だんだん操作に反応しなくなったため、頭に来て
ちょうど建造中だったアメリカの潜水艦、USS R-25(SS-102)に乗り換え
ドイツの潜水艦の方はほっぽらかして乗り捨てました。

乗り捨てられる前のUC-97

UC-97はシカゴの湖畔のグラントパークで見せ物になっていましたが、
休戦条約の条項による、ドイツ軍戦闘艦の破壊義務期日が来てしまったので、
ミシガン湖に曳航されて標的処分にされることになりました。



曳航される前に全ての武装、推進機器、道具が取り外されてから
1921年6月7日、UC-97は、USS「ウィルメット」の
15分間、4インチ(10cm)砲からの18発の砲撃で沈みました。

UC-97の残骸は現在まだはっきりと特定されていないそうです。

■ U-505関連グッズ(続き)



前回に続き、パネル右半分のU-505グッズを紹介しましょう。

【Uボート スコアボード】



この「スコアボード」は、USS 「ガダルカナル」のブリッジに
かつてペイントされていた部分です。

第二次世界大戦中、「ガダルカナル」は、
J-544、U-515、U-68 を撃沈し、U-505 を拿捕しました。


2隻だった頃(右側のペイントは何処へ)

その後の U-170 の損傷は反映されていません。

【大統領府表彰ペナントとピン】

「ガダルカナル」を旗艦とするタスクグループ 22.3 は、
U-505 の劇的な捕獲に成功したことで、
大統領表彰状 (PUC) を授与されました。

タスクグループの6隻の艦には、それぞれ、
その栄誉を称えるためのペナントが与えられ、すべての乗組員は、
制服にペナントと同じ色のリボンを着用することも許可されていました。

旗の右上に見えている旗と同じカラーのピンは、
USS「ピルズベリー」の三等機関兵が付けていたPUCピンです。

USS「ガダルカナル」はこのPUC ペナントを掲げていましたが、
ダニエル V. ギャラリー提督が後に博物館に寄贈しました。

煙突の後ろにあって常に風で靡いていたため、
ひどく汚れていて、ほつれてしまっていますが、
他の旗と違って替えがなかったので仕方ありません。

【ダニエル・ギャラリーの卒業軍刀】


ダニエル・ギャラリー少将が、1921年6月3日、
海軍兵学校を卒業した際、授与された儀礼刀。

とそのようにされているのですが、別の資料によると、
ギャラリーは1920年のオリンピックにレスリングで出るために
19歳で1920年に卒業したという記録もあります。

卓越した統率と飛行士官としての実績で少将にまでなった人物なので
兵学校の成績も悪くなかったのかもしれませんが、
帝国海軍の兵学校のように、上位3人だけが剣を受け取れる、
というシステムはアメリカにはなかったと思われます。

■アメリカ士官学校でオンラインカンニング大発生

ところで余談ですが、アメリカの士官学校について調べていたら、
コロナになってオンラインで試験を受けるようになって、
士官候補生の大規模なカンニングが発覚したそうです。

2021年の8月、米海軍兵学校(アナポリス)は、
不正が認められた18人を退学処分にしたと発表しました。

新型コロナウイルスの対策として一般物理学の試験を
オンライン方式で実施したのですが、
「士官候補生が外部資料にアクセスしながら試験を受けた」
との可能性が浮上したため、海軍は直ちに
士官候補生全員のウェブサイト閲覧履歴(試験期間中)を調査して
「105人の士官候補生が試験中に不正なリソースへのアクセスを行っていた」
(可能性が高い)として、18名が追放、82人が留年して
名誉回復プログラムを受けることで学校に残れることになったそうです。

まあでも、残れることになったとしても、
おそらく今後の海軍生活では昇進はほぼ絶望的だろうから、
やめて別の道を模索したほうがいいのかもしれないですねー。

しかもこれ、海軍だけにあらず。
米陸軍士官学校でも昨年末の試験で
70人以上の士官候補生がカンニングを行ったことが発覚、
同年1月には
米空軍士官学校でも249人の士官候補生がカンニングの疑い、

つまり三軍すべてオンラインの闇落ちした学生続出と。

今後、従来の教官監視の下で行う紙の試験に戻すか、
監視ソフトを導入することを検討しているということですが、
アップルやGoogleなどもテック系ですら、
リモートワークの期間、皆働かなくなって業績が落ちたというし、

なんというか、人って・・・どうしても易きに流れる弱いものなんですね。


続く。





Uボート乗組員同窓会記念グッズ〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-06-07 | 軍艦

さて、

戦後他の戦利品Uボートと十把一絡げにされて、
標的となって海に沈むところだったU-505を、
その捕獲の立役者となったダン・ギャラリーと賛同者によって
シカゴのMSI(科学産業博物艦)に保存することになり、
放置されていたポーツマスからシカゴまで艦体が運ばれてきた

というストーリーについて前回お話ししました。

今日は、U-505の「シカゴまでの旅」にまつわるグッズを紹介します。
それは、冒頭写真のパネルと共に展示されていました。

右側の人物は、間違いなくタスクフォースの指揮を執り、
U-505を生捕にしたヒーロー、ダン・ギャラリー大佐のその後です。

戦後、ギャラリーはこのときの海軍と連合国への勝利への寄与を評価され、
提督にまで昇進していたのですが、このことが、
U-505を海の藻屑になる運命から救ったというのは過言ではありません。

で、このシーンなのですが、ギャラリーは左の海軍大将に
何かを渡すか、あるいは受け取っている歴史的な瞬間のようです。


【アール・トロシーノ中佐のジャケット】



USS「ガダルカナル」の機関長であった
アール・トロシーノ中佐は、第二次世界大戦中、
そしてU-505がシカゴにやってきたその日、
このユニフォームジャケットを着用していました。



ジャケットの金線4本のうち3本は、捕獲作戦当時のトロシーノの階級で、
一番上の金線だけが少し新しいのは、作戦後、
大佐に進級することになって、この一本を付け加えたからでしょう。

トロシーノは大佐で退役しましたが、同時に少将に昇進しています。

おそらくは、自衛隊でも時々見られる、
「退官と同時に一階級進級」という措置だったのかと。

最終階級が上がるだけでなく、実質的に年金なども違ってきます。

【フォノグラフ・レコード】


1945年5月24日に放送されたラジオ番組、
「マーチ・オブ・タイム」のエピソード、
「ジャーマン・サブマリン・ドラマ」を収録したレコードです。

もう少し後ならオープンリールの録音機、さらに後だと
カセットデッキでの録音を行うのでしょうが、
録音を残すデバイスはこのころレコードしかなかったということですね。

U-505の捕獲に当たって、トロシーノ中佐は、指揮官として
「ガダルカナル」で編成された乗り込み隊を率いました。

U-505が1945年に戦争国債ツァーでフィラデルフィアに立ち寄った時、
そこがトロシーノ中佐の故郷であったことから、
番組が特に中佐をフィーチャーして本人のインタビューを行いました。

その後、おそらく制作側が、トロシーノ中佐本人に
記念として出演分のレコードをプレゼントしたのだと思われます。


【”BAIE- COMEAUへようこそ” 看板】



Bienvenu(ビアンブニュ)はフランス語で「ようこそ」。
A BAIE-COMEAUで「ベコモーへ」。

1954 年、U-505 はシカゴに向かう途中、
セント・ローレンス川の水門システム5つを通過した、
という話を前回したかと思います。

そして、その経由地のひとつに、にカナダのベコモーという街がありました。

この町そのものが、シカゴ・トリビューン紙の所有者である
ロバート R. マコーミック大佐によって 1937 年に設立されたものです。


ロバート・マコーミック大佐

愛知県における豊田市のようなもので、一社が占める街です。

ベコモーはシカゴ トリビューン紙にサービスを提供していた
製紙工場の社員とその家族だけで成り立っているような町でした。

こんなマイナーな?街にU-505がなぜわざわざ立ち寄ったかというと、
マコーミックは、U-505 をシカゴに導入する取り組みの、
とっても有力な支持者(スポンサーともいう)だったからです。

太いスポンサーに挨拶するため、U-505 はベコモーに寄港し、
そこでマコーミックの所有する製紙工場の従業員に公開されたそうです。

シカゴまでのU-505の曳航作業を行ったのは、
タスクグループの指揮官の一人、アール・トロシーノ中佐で、
ベコモーでは、現地の関係者から記念品としてこの銘板を受け取りました。

【ベコモーの”鍵”】



こちらもアール・トロシーノ・コレクションです。

U-505が訪問した記念に、乗組員一同は、この
「ベコモーの鍵」なる木造の鍵のようなものを贈られました。

【潜望鏡(おもちゃ)】



U-505が展示され始めた1950年代から60年代にかけて、
MSI博物艦のギフトショップで販売されていた、
子供用おもちゃのペリスコープです。

本体に貼ってあるラベルには、このペリスコープを使って
例えばパレードを見る方法とか、高いフェンスの向こうとか、
角を覗き込んだりする方法がイラストで描かれています。

■ U-505土産の数々

長年にわたり、博物館は U-505の記念に
数多くのお土産グッズを作成してきました。

【土産物 ペナント】



フェルトのペナントは、1950 年代と 1960 年代に人気のお土産でした。
博物館のギフト ショップで販売されていたこのペナントには、
さまざまな色がありました。

ちょっとわかりにくいですが、絵柄は、タスクフォースが
U-505を沈めないように乗り込んでいる写真を再現したものです。

【スーベニアバッグ】



1980年に使われていた紙袋は、ダン・ギャラリーが
航海計画を運ぶために使っていたバッグから着想を得ているのだとか。

【お土産カレンダー】



1970年代に販売されていたユニークなカレンダー。
ホルダーの中に収まる小さな紙でできています。

どこがどうカレンダーなのかさっぱりわからんのですが、
おそらく木彫部分の白いところにカレンダーが収められるのでしょう。

【スーベニアペーパーウェイト】



まず、11番はペーパーウェイトの「型」です。

U-505 の博物館への到着を記念するペーパーウェイトのため、
砂型で作った型にそこに鉄を流し込んで製作されました。

1954年9月24日、U-505メモリアルの奉献晩餐会が行われ、
その参加者のために500個以上の文鎮が作られました。

そうしてできたのが12番のペーパーウェイトです。
このグッズが貴重だったわけは、使われた鉄が、他でもない、

U-505から取り除かれたバラストキールウエイトを溶かしたもの

だったからです。

二つのペーパーウェイトの上のインフォシートは、
お土産に添えられたもので、このグッズの由来が記されています。

【スーベニア・レター・オープナー】



これは普通にギフトショップで売られていたレターオープナー。
U-505があしらわれているというだけのものです。


■ U-505乗組員同窓会(リユニオン)記念タイルと
U-505乗組員 ハンス・ゲーベラー



1980年、U-505のコントロールルーム勤務であった、

ハンス・ゲーベラー(Hans Gobeler)

は、ドイツでのU-ボート潜水艦の乗組員の最初の公式再会を企画しました。

ハンス・ゲーベラー

同窓会は、彼の故郷であるドイツのボッツドルフで開催されました。

イベントの記念品として、ゲーベラーは、
かつての同僚に渡すために、セラミックの記念タイルを製作しました。

ゲーベラーは、74歳になってから、かつての思いを語っています。
U-505を沈めるために、ボートの「栓を抜いた」のは、彼でした。


その日、午前11時過ぎ、U-505の故障した音波探知機が
かすかなプロペラ音を拾った。


潜望鏡深度まで上がって調査したランゲ(艦長)は、

その光景を見た途端、文字通り全身の血が引いた。

U-505は、空母機動部隊のまっただ中にいて、
3隻の駆逐艦と数機の航空機から今にも攻撃されようとしていたのだ。


しかし、異常な水温のため、航空機は潜水艦を見ることができ、
50口径機関砲の炸裂音で駆逐艦は潜水位置を特定した。



「まったくやってくれたよ!」

とゲーベルは回想する。

「彼らはヘッジホッグと64発の深度爆雷を撃ってきたんだ。
その爆発音は僕がい今まで聞いたどんな音より大きかった。

ある深度爆雷は、上甲板の魚雷を損傷させるほど近くで爆発し、
他の爆雷は、主舵と潜水機を明らかに破損させた。

ランゲは何とか1本の魚雷を発射したが、沈没する前に浮上し、
ボートを捨てる以外に手はないとすぐに判断した。


浮上したとき、ランゲはハッチを開けたが、砲撃ですぐに負傷してしまった。

男たちは次々に海に飛び込んでいったが、
私はコントロールルームに残って、ボートを自沈させるための確認をした。

艦体がなかなか沈まなかったのは、7号潜水漕の気泡に水面で捕まったからだ。

そこで、手や空気圧でタンクのリリーフバルブを開けようとしたが、
リリーフバルブのシャフトが爆薬の爆発で曲がっていて、びくともしない。

潜望鏡構造物の後ろに回り、シーストレーナーのカバーを外した。

これで11インチの水流が艦内に入ってくるはず。

私は「もう大丈夫だ!」と思った。

私は艦上に上がり、他の4人の男が大きな救命いかだを降ろすのを手伝った。
駆逐艦や飛行機は、ボートに対空砲や対人砲、高火力弾を撃ち込んできた。

そこで皆は飛び込み、できるだけ早く潜水艦から泳いで逃げようとした。
飛行機は私たちとボートの間の水を撃ち、
まるで猫がネズミと遊ぶように、U-505から私たちを遠ざけていった。

私たちの誰も、あのボートに戻ろうと思うほど狂ってはいなかった。
なぜなら、ボートは急速に沈んでいったからだ!
もはや前部とコンニングタワーの上部が水面上に残っているだけだった。

しかし、アメリカ軍指揮官には、どうやら勇敢な部下が何人かいたようだ。
彼らはどうにかボートを浮かせたうえ、曳航していった。

僕たちはその後駆逐艦に拾われて空母に運ばれ、
飛行甲板のすぐ下にある檻に閉じ込められた。


空母のエンジンの熱はあまりにもすさまじかったので、

檻にいた数週間で汗をかいて20〜30キロは痩せたと思う。

その後、私たちは6週間ほどバミューダ諸島に送られ、
そこで少し体重が増え、再び人間の姿に戻ることができた。

そして捕虜となってルイジアナに移送され、
反ナチスのための特別捕虜収容所に送られた。

ご存知のように、その特別な収容所は
ジュネーブ条約の適用外だった。

アメリカは赤十字が私たちにインタビューして、
Uボートが拿捕されたことが漏れることを恐れていたから。


私たちは1945年にイギリスに移送されるまで、
ルイジアナ州の農場や伐採キャンプで働いていた。

1947年12月にようやく解放されるまで、そこで監禁されていた。」


ハンス・ゲーベラーは、現在、フロリダ州中部で
妻と娘と一緒に半隠居生活を送っている。

Uボートの艦長やドイツの英雄たちの写真を貼ったコーヒーカップを売って
細々と暮らしているが、「死なないUボート」U-505での日々を語るとき、
彼の目は今でも生き生きと輝いている。



ゲーベラー著「鋼鉄のボート、鉄の心」
「鉄」はもちろんドイツ海軍の鉄十字章からきていると思われる

Submarinos alemanes en la Segunda Guerra Mundial. Los U boot

スペイン語ですが、映像だけでもぜひ。
1:15に、ゲーベラー氏がUボートについて語っている姿が見られます。

インタビューの時はもちろんお元気でしたが、
1999年76歳で逝去された模様。


U-505の艦上で撮られた姿が遺されています。


続く。



シカゴへの旅〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-06-05 | 軍艦

前回までで、アメリカ海軍に捕獲されたU-505について
文字通り概要の紹介を続けて参りました。

今日のコーナーは、U-505が拿捕されバミューダに運ばれてから、
いかにしてここシカゴまでやってきたかに関連する展示です。

ところでパネルの前で一人展示を見ていたご老人が
どうもベテランっぽいので、こっそり後ろ姿を撮らせていただいたのですが、



背中のパッチから、

The national Association of Destroyer Veterans
(国際駆逐艦退役軍人協会)

通称「ティン・カン・セイラーズ」の会員であることがわかりました。

Tin Can Sailorsは1976年に設立された駆逐艦乗りベテランの会で、
駆逐艦の貢献について、一般の人々の理解を深め、
その歴史の普及と保存を目的とし、今日の駆逐艦海軍を支援し、
多くのイベント、雑誌、図書館、ウェブサイト、
ソーシャルメディアを通じて、会員相互の親睦を深め、
かつてのセイラー同士の再会を促進することを目的に結成された、
非営利の非課税団体ということです。

また、団体としていくつかの歴史的な軍艦の保存に助成金を出しているので、
おそらくこの方はベテランであることもあって、
特別な入場料で(無料かも)入館していると思われます。



U-505がここ科学産業博物館に「戦争記憶」の常設展示として
献呈されたのは、1954年9月25日のことです。

現存する唯一のIX-CタイプのUボート、U-505は、
1989年に「ナショナル・ヒストリック・ランドマーク」に指定されました。

ドイツの戦艦でありながらアメリカの国定史跡になったのです。

そして、このさっくりとした地図を見てお分かりのように、
バミューダにいたU-505は、その後ポーツマスに運ばれ、
そこから五大湖を縫うように曳航されて、ミシガン湖まで辿り着きました。

しかし、ポーツマスからシカゴまでの行程は、距離はもちろんですが、
時間もかなり隔たっていたということを説明せねばなりません。


■ 戦争国債ツァー

ドイツが降伏した直後の1945 年5 月16日、
米軍がU-505を捕獲していたことがアメリカ国民に明らかにされました。

なぜこの時期に早々に発表を行ったかというと、
戦時中は極秘だったため、隠しておくしかなかったU-505を、
大西洋湾岸の7つの港湾都市を米軍の手で航行させて周り、
まだ継続している戦争のためウォーボンド(戦債)を集める
サブスクリプションツァー(引き回しツァーともいう)をするためでした。

戦争公債の販売は、戦争への取り組みを支援し、
財政的投資を行うための取り組みです。

債券は額面の 75% で売却されました。
債券が満期になると、購入者は元の投資の 25% を獲得しました。



購入すればU-505を見学することができたチケットとしての戦時国債です。
赤い字で、

「捕獲されたドイツのUボート#505を訪問するために購入」

と但し書きがされており、日付けは1945年5月で、発行すぐです。
購入者はフィラデルフィアのドロシー・グルーディ夫人。
(おそらく潜水艦乗組員の軍曹の夫人だと思われる)

値段は50ドルとなっています。

当時の50ドルですから結構な金額だったのではないでしょうか。


というわけで、博物館に展示されていた国債関係グッズです。

左:国債財布

複数の債券を整理して持っておくための専用の財布です。
投資をチェックするのに役立ちました。

右上:第7回戦争公債 ツアー チケット - ニューヨーク

U-505 は、東海岸の主要都市を巡る第 7 次戦争公債ツアー中に
ニューヨークに立ち寄っています。
そこでの 1 週間の滞在で1,200 万ドル以上を稼ぎました。

ボートの展示は、特にニューヨークで大成功を収めたため、
ツアーの後半にビッグ・アップルへの 2 回目の訪問が手配されました。

そして2回目も両岸の都市からU-505を一眼見たいと殺到したそうです。


ニューヨークにやってきたU505。

右下:第6回国債ツァーチケット-サウスジャクソンビル

フロリダ州サウスジャクソンビルでも展示される予定でしたが、
結局辿り着くことができず、中止になりました。
国債が払い戻しできるという話は聞いたことがないですが、
この場合はどうなったのでしょうか。


ツァーのために真っ黒にペイントされたU-505。

ボンドツァーでマイアミに帰港。
甲板に整列するのはもちろんアメリカ海軍のクルーです。

マイアミには無事に行けたようなので、
行けなかったのはジャクソンビルだけだったようです。
もしかしたらチケットは振替されたかもしれません。

潜水艦は訪れた各港に約一週間滞在し、好奇心旺盛なアメリカ人が
捕獲されたボートを見学するために何時間も列を作って待ちました。

もちろん入場のために、国債を購入して。

内部の見学のために、ほとんどのアイテムはボートから運び出され、
残ったものは盗られないようにボルトでガチガチに留めてあったそうです。


1945年10月、アナポリスの海軍兵学校にもツァーを行いました。

ちょうどこの期間、兵学校は創立100周年を迎えており、
その記念イベントとして展示されたということです。

このときには日本の降伏で戦争はすでに終わっていました。
すでに「戦争国債」は買わなくてもよくなっていたので、
収益にならない?兵学校での公開ということになったのでしょう。


■ 忘れられたU-505



戦争が終わり、国債稼ぎの「どさ回り」の必要も無くなって、
U-505に関心を向けるアメリカ国民はいなくなりました。

ニューハンプシャー州のポーツマス海軍工廠までやってきて、
ここで係留されたU-505は、何年にもわたって雨晒しに放置されて
日々朽ちていきながら、最終処分を待つ身となりました。


一方、終戦後、戦勝国(といっても英米仏露四カ国)の間で、
無傷で運用中だったUボートに限り分割して分けるという話になります。

その後、技術的なデータ収集が済んだら、艦体については
2年以内にスクラップにするか海に沈めると決められました。

かつてタスクグループ22,3の指揮を執り、U-505捕獲の立役者となった
ダン・ギャラリーはこのときに少将に昇進していたのですが、
彼はこの規定でU-505がそのうちの1隻となっていることを知ります。

彼は、戦勝国が四カ国で分割する戦勝品としてのUボートに、
戦争中に公海での戦闘で拿捕したU-505はそもそも含まれない、
と、それはもう激しく、この取り決めに異論を唱えました。

彼の主張とはこうです。

「破棄する期限が決められたUボートとは違い、こちらは
戦時中からアメリカ合衆国の所有物になっていたものであり、
従ってアメリカはこれを無期限に所有できるはずである」

まあ、あれだけタスクグループ一丸となって成功した作戦の戦果を、
今更他の戦利品と一緒に沈めるなんて、当事者としては耐え難いですよね。

ギャラリー自身が後に自著、

「海底二千万トン」’Twenty Million Tons under the Sea’

で述べているところによると、

「部下が西アフリカ沖で英雄的な戦いの末得た潜水艦が、
そのような不名誉な終わり方をすることだけは許されない」


と強く思ったのだそうです。

困ったのは海軍省です。
なにしろ今回のようなことの事例がないですからね。

政府官僚は彼の主張に反論する論拠を持たず、また
ギャラリー少将があまりにこの件で大騒ぎしたので(笑)
国としてはU-505の戦利品扱いに同意しないということになりました。

かくしてU-505はしばし延命のチャンスを得たのです。


■ U-505をシカゴで保存?

ダン・ギャラリー少将には、第二次世界大戦中、
第7哨戒航空団とともに大西洋に従軍牧師として出征した、
ジョン・アイルランド・ギャラリー神父という兄弟がいました。

とりあえず廃棄の運命から弟が救ったU-505が
海軍の記念碑として保存されるべきだと考えたジョン神父は、
自分の教区にあるシカゴの科学産業博物館、MSIを訪れ、
このアイデアを博物館のディレクターだった海軍少佐に話したのです。

この話はこのレノックス・ローア少佐にとっては渡りに船でした。

なぜなら・・・これは本当に偶然としか言いようがないのですが、
24年も前から、MSIは、何でもいいから潜水艦を展示したいと考えており、
退役した潜水艦を展示用に回してくれるよう海軍省に依頼していたからです。

もともとこのシカゴ科学産業博物館は、1926年、
ユリウス・ローゼンヴァルトというドイツ系の人物の寄付でできたものです。
今も残る最初の建築は、ローゼンヴァルトの故郷である、
ミュンヘンのドイツ博物館を模しています。

そして、最初に展示の目玉として、実物大の炭鉱と、
実際の潜水艦を並べて芝生に展示しようとしていました。
しかし、炭鉱はともかく(それは今も展示されている)、
潜水艦は24年間ついに手に入らないままでした。

そこに持ち込まれたジョン神父の潜水艦持ち込みの話。

アメリカ海軍の潜水艦ではないけれど、アメリカ海軍の健闘の記念であり、
そしてUボートというドイツの技術を展示することは
最初の出資者であるローゼンヴァルトの遺志にも適うのではないか。

さっそくU-505獲得の意思は固まりました。

■ シカゴ到着


博物館はU-505の所有権を取得しました。

MSIの所長、ローアは海軍次官チャールズ・S・トーマスに交渉し、
あっさりとその許可を得ることに成功したのですが、ただし
海軍は移動費用の負担を拒否してきました。

そこで費用の捻出のために博物館が中心となり、
シカゴ市、民間グループが団結して、必要な25万ドルを集めました。



まず、U-505は、曳航の準備として造船会社の乾ドックに入れられ、
そこでタンクに残っている 3 万ガロンの燃料潤滑油、
80トンのバラストがキールから取り外され、
曳航しやすくするために重量は670トンに減らされました。

そしてとりあえず曳航できる程度に耐航性を確保してから、
1954年5月15日についに潜水艦が移動のため動き出し、
ポーツマスからセントローレンス川に進入。



セントローレンス川では28の水門を通過しました。

そしてオンタリオ湖、エリー湖、ヒューロン湖、そしてミシガン湖と、
ミシガン湖沿いのMSIに到着するまで5分の4大湖を走破しました。

その移動総距離は3,000マイル。




そしてミシガン湖沿いにその姿を見せたU-505。

おりしも湖水浴シーズンで賑わう水着の市民の姿と
黒々としたUボートの取り合わせがシュールな写真です。

このビーチは、博物館に隣接する最も近い地点となります。


その後、ボートは浮き乾ドックに置かれ、そこから
コロとレールが敷かれて、特別に作られた鋼製のワゴンに乗せられました。

博物館に隣接する海岸線から湖に突き出した桟橋が建設され、
乾ドックのために 325 フィートの水路が浚渫されました。
浮き乾ドックと潜水艦を見るために人々が集まっています。

子供や赤ちゃんを抱いた母親が見えることから、
手前の一団はおそらく野次馬だろうと思われます。
この作業は縁起が悪いとされる13日の金曜日に行われましたが、
見に訪れた人々は1万5000人に上ったといわれます。

建物を移設する専門家が、U-505をコロで移動することを提案しましたが、
U-505は重量900トンで高さは三階建ての家くらいです。
わずかの距離を移動させるのも、大事業となります。

水路をここまでやってきたU-505ですが、それよりもっと
ここからのわずか800フィート(243m)が困難でした。



とりあえず、博物館の横にある道路、
レイクショアドライブの手前までやってきたU-505。
まだ昼間なので幹線道路はガンガン車が通っています。
レイク ショア ドライブ は市内で最も交通量の多い大通りの 1 つでした。

公的事業ではないため、この移動のために舗装を破壊したり、
あるいは何日も交通を遮断するなどということは許されません。


もっとも難関となるこの道路を横切る作業は、
綿密に計画され、深夜から朝までの時間でやりきる必要がありました。



ついにU-505がレイクショア・ドライブを横切る日の夕方、
ギャラリー提督は息子のダニエルギャラリー3世(提督の後ろ)、
プロジェクトエンジニアのセス・グッダー(左端)と記念写真。

「注意して走行してください
潜水艦が横切ります」

この看板はもちろん我らがギャラリー少将の仕業でした。

午後7時には交通をストップさせるので、実質必要なかったと思いますが、
そこをあえてこんなふうに宣伝してしまうのが、
このダン・ギャラリーという人の人間性の楽しいところです。


潜水艦設置についてはいろんなポスターで啓蒙と宣伝が行われた模様。

そして巨大な怪物は横断を開始。
真夜中には車道を半分横切り、翌朝4時15分に車道を乗り越えました。

エンジニアはこの248mの移動のためだけに
精巧なレールとローラーシステムを設計しています。



そして一晩かけて道路を横切り、
博物館の横の芝生までたどり着いたU-505。
博物館の屋根にある「ドイツ風」の悪魔のモニュメントがお迎えです。

実際にこの潜水艦は、パワーウィンチで1フィートずつ移動させました。


そして、ついにMSIの西側の芝生に設られた
コンクリートのクレイドルに設置されたU-505。

レイク・ショア・ドライブは一晩で通過させましたが、
ここからは博物館の敷地であるので、
この状態に持っていくのにはさらに一週間を必要としました。


しかし、彼らのプロジェクトはここからが本番でした。

ボートを本格的で見栄えのする観光名所にするためには、
多くの修復作業が必要となってきます。

多くの軍艦展示がそうであるように、雨晒しにして
朽ちるにまかせるというようなことだけは、
ここまで苦労して潜水艦を運んできたチームにはありえないことでした。

展示する場所の基礎を築く必要があり、付随するすべての展示に説明、
写真、場合によっては動画のフィルムも準備する必要があります。

しかしながら、MSIも、資金がないということにかけては
その他の多くの博物館と同じ事情だったのでした。


続く。




映画「08/15」〜ドイツ国防軍兵士の「ありふれた」死

2023-06-03 | 映画
1955年ドイツ制作、ドイツ国防軍を描いた「08/15」続きです。


砲兵学校で若い兵士たちが戦地に送られているのを見て、
鉄十字章授与された砲兵のフィアバイン伍長は決心しました。

この若い兵士たちを一人でも余計に死なせないためにも、
自分はとにかく前線に行って任務を果たさなければならないと。

フィアバインは、空軍少佐に足止めを解いてもらうよう直訴します。
彼がプレニエス中佐から授かった「魔法の呪文」を持って。

「中佐は少佐に『まだ煙突から煙が出ている』とお伝えしろと」



効果はてきめん。

その日の夜中、フィアバインの邪魔をしていたシュルツ中尉に、
中佐から直々に怒りの電話が入りました。

フィアバインの要求通り、即刻12名を戦線に派遣せよと。
もちろんシュルツが嫌がらせでやっていたフィアバインの足止めも中止です。

「君が我々をこれ以上困らせるなら、即刻前線にきてもらう。
そしたらケツが冷えるまでスケート三昧だな !」



「あんた・・なんなら前線に行ったら?」

電話の内容を聞いていた妻ローレは軽蔑しきった目で夫に言い放つのでした。



さてここはその戦線。
慰問団のステージ設営は終わり、それに便乗したヴィッテラー大尉御所望の
「俺とリザ(美人軍属)との愛の巣」も完成しました。

全ては補給のプラツェク伍長の横流しによる物資で構成されています。



やってきた慰問団のダンサーを早速口説きにかかるコヴァルスキーですが、
彼女はお金のなさそうな下士官には興味がなさそう。



主人公アッシュは、ヴィッテラー大尉の命令でリザを呼びに行きました。

「大尉の部屋に行くの嫌なんだけど、どうしたらいい?」

「なら、行かなきゃいいさ」


リザはヴィッテラーなんかよりアッシュに興味があるようです。



自らが志望して任務のため戦線に発つことが決まったフィアバイン伍長。
最後に一眼婚約者(アッシュの妹)に会おうと
家(レストランらしい)を訪ねますが、運悪く彼女は留守でした。



代わりに彼が足を向けたのは、シュルツ中尉の家。
別れの挨拶を告げたかったのはシュルツの妻ローレです。

ローレは彼を励ますつもりで鉄十字賞の功績を褒めるのですが、
フィアバインはそれに触れられるのをやんわりと拒否し、
苦しげに、自分が見た敵戦車の「新戦法」について語り出すのでした。

「戦車はね、敵が塹壕に隠れたら、その上を通り・・・
それから、車体をねじるんだ。
こうやって・・・こうやって・・。
すると中にいる人は・・・」



戦車の動きを模してテーブルクロスをねじる彼の手を、
ローレの手が押しとどめました。



そしてその繊細な手を握ったまま、部屋の隅のピアノに導きました。

「ピアニスト志望だったでしょ」



喜んで鍵盤に指を置き、ベートーベンのピアノソナタ「熱情」の
変イ長調の第二主題を弾き始めますが、直ぐに間違え、狼狽して

「ダメだ・・・すみません。もう弾けない。
音楽家に大砲は撃てない。


大砲を扱うようになると音楽はできなくなる。
音楽が僕の全てだったのに・・・」


すると、ローレは彼の首をかき抱き、囁くのでした。

「あなたのすべて、ですって?」



そのころ、戦線のヴェーデルマン中尉とロシア娘ナターシャも、
もうすでに一線を超えていました。

今夜出発する、という中尉に、ナターシャは
あなたが大事だから連れて行ってほしい、などと言います。



しかし、彼が去った直後にやってきた姪に、涙を堪えながら
何かをロシア語で教え込んでいます。(翻訳なし)

ドイツ軍が今夜出発するという今聞いた情報を軍に伝えさせるのでしょう。



シュルツが前線に送った12名が到着しました。
彼らはヴィッテラー大尉の無能な指揮の噂を聞き及んでいて、
本人に向かってそのことを揶揄したりします。



その晩、急拵えのステージでの慰問団のショウが始まりました。



肌も露わな美女が飛んだり跳ねたりするだけで兵士たちは大喜び。



皆がショウに気を取られている間に、プラツェクは、
食料などの物資を勝手にどこかに盗み出そうとしている模様。

何をしているんだ、と人に咎められると、

「お前らは08/15(くだらん任務)でもしていろ」

と捨て台詞を。



ステージでは、その名も「08/15の歌」が始まっていました。

08/15の歌なら知ってるでしょ
兵士の『彼女』の歌だから

どんと行け! そら一目惚れ
どんと行け!そら突っ込んだ
どんと行け!モタモタせずに

女は激しいのがお好き どんと行け!

兵士の彼女はライフルなの
このライフルの音、半端じゃない

扱い方も楽じゃない
そして撃てばその反動の激しいこと




サビ部分は全員で合唱です。



ちょうどその時間、フィアバイン伍長は、空軍少佐に
前線に戻るための飛行機を出して欲しいと頼んでいました。

少佐は、この一徹な若者に対し、

「急ぐことはない。この際だから休暇も取りたまえ」

と彼の前線行きにせめて猶予を与えようと腐心するのですが、
彼は一刻も早く戻りたいと訴えるのでした。



フィアバインに輸送機の手配を約束した少佐は、彼のような若者が
無駄な犠牲にならざるを得ない状況に、思わずため息を漏らします。



若い兵士たちの合唱はまだ続いていました。

空軍少佐がいうように、彼らは何も知りません。
自らが「無駄な犠牲」となる、このあとの運命について。



ヴィッテラー大尉に狙われていることがイヤで仕方ない軍属のリザは、
アッシュと流れでそうなってしまいます。

あれ?アッシュって確か妻子持ちだよね。



こちらはコヴァルスキーと歌手シャルロッテの即席カップル。
ベッドで寝たまま足で香水瓶を拾い上げながら(行儀が悪いな)、

「わたし、実は婚約しているの」

「あ・・ああ、そりゃおめでとう」



プラツェク伍長といい感じのこの女性は、
彼の横流しした「プレゼント」がお目当てのようです。



その頃、すでに前線に向かう機上の人となっていたフィアバインは、
婚約者のイングリッドに宛てて手紙を書いていました。

人妻ローレとのことは、死を前にした若者にとって、
心の隙間を埋めるための代償行為だったということでしょうか。

このときBGMに流れるストリングスの音は、
まるでリヒャルト・シュトラウスかと思うような壮大な調べです。

さすがはドイツの映画音楽です。


その夜の撤退作戦を控えて、出発の時間で言い争っているのは
前隊長ヴェーデルマン中尉と現隊長ヴィッテラー大尉。

「貴様、自分が優秀だと思っているのか?」

散々喚き散らして行ってしまったヴィッテラーに、
残された二人は苦々しげに吐き捨てました。

「あの08/15め!」



撤退の準備真っ最中のフォン・プレニエス中佐の元に、
防衛部隊の伍長と名乗る男が特別に面会を求めてきました。

「ソ連のスパイが3日前に我々の退却を知らせていました。
我々はその発信元を突き止めました」

「どこだ」

「第三砲兵隊の中からです」

まさか、と信じられない中佐は

「それが本当なら今すぐ攻撃してくるだろうが、何も起こってないではないか」

次の瞬間、彼の報告を裏付けるかのように砲撃音が響きました。
敵が攻めてきたのです。



この義眼の情報伍長の顔がものすごく怖い。

情報が漏れたことにいまだ半信半疑である中佐の、

「なぜ私のところに来た」

という問いに、伍長はニヤリと不気味に笑って、

「『まだ煙突から煙が』」

「な、なんのことだ」


「あなたの電話を盗聴しました」



こえ〜〜〜〜

「『煙突から煙が上がる』ことには賛成ですよ?」

「な・・・何が望みだ」

「我々の手を煩わせずにことを治めていただきたい」


つまり、中佐本人で情報の発信元を突き止めて、
ちゃっちゃと犯人を処分せよということですな。

それにしてもどこから情報が流出したのか。

中佐は考え込みながらいつもの癖で蓄音機を巻き始めましたが、
その動作がごく身近な人物の名前を想起させたのです。

「ヴェーデルマン・・・」

「ヴェーデルマン!

そして、たった一枚残ったはずの貴重なレコードを叩き割りながら、
中佐は大声でその名の人物を呼びつけました。

「ヴェーデルマン!」



場面は即代わり、ここはナターシャの住居。

ヴェーデルマンの気配で、ドイツ軍の出発に付いていくために
荷物をまとめていた彼女が振り向くと、



彼は彼女に向けて銃を構えていました。



状況を察し、泣き出す寸前の子供。



「スパイめ、だましたな!」



「わたしの命なんて惜しくないわ」

太々しく居直る女に対してヴェーデルマンは、

「それでは、わたしの命は?」

彼女の行為は、恋人である自分の命を危うくしたという意味です。

「撃つがいいわ」

という彼女。

「女は撃たない。君のことはもう忘れた」

と冷たく言い捨て、彼女の元を去るヴェーデルマン。



残された彼女は力無く呟くのでした。

「それでもわたしは忘れられない・・あなたを」

そしてなぜか部屋の灯である蝋燭の火を摘んで消します。
何をするつもりなのでしょうか。



司令部に戻ったヴェーデルマン中尉に、フォン・プレニエス中佐は、
彼女がスパイだったかを問い、「ヤボール」という返事を聞くや否や、
彼のピストルを抜き取って銃口の匂いを嗅ぎます。

「撃ってないな」

「失態の責任を取る覚悟はできています」

「自分を軽蔑しているんだな」


そして、中尉が驚くことに、わたし自身もそうだ、と告白するのでした。

「わたしは嘘つきだ。子供もいない。
なによりこの欺瞞に満ちた戦争で祖国を危機に陥れた責任がある」


「この腐敗臭の漂う戦争に立ち向かうために、
誠実な君は生き残って手伝ってくれ。わたしのために」


命令とあらば仕方ない。
彼は自決を思いとどまり、軍の後退作戦に加わることになりました。



村落に降り注ぐ砲弾。

ドイツ軍のトラックが後にする中、家屋が破壊されていきます。

ナターシャの家も爆撃を受け、
彼女が水汲みをしていた井戸の釣り桶だけが虚しく揺れていました。



これはナターシャが最初に登場したシーンでアップされた井戸の足元ですが、
これってすべって落ちたらどうなるの?と不安になる作りです。

爆撃で犠牲になったのか、あるいはこの井戸の底に身を投げたか・・。
いずれにせよ彼女はもうこの世にいないと思わせます。



撤退が始まりました。

しかしここで問題が。
歩兵の指揮官が、自分の隊のトラックばかりを優先するので、
砲兵隊のトラックは道にすら出られず、ずっと動けない状態です。



後ろからはお構いなしに砲弾が迫ってきます。
砲兵隊は仕方なくトラックから降りてぬかるみの道に伏せますが、
そのうち車両に直撃を受け出しました。

おいおい、歩兵隊、砲兵隊を全滅させる気か。



全ての元凶はこの歩兵隊少佐。



この土佐犬みたいなのを、アッシュは適当に嘘を言って追っ払い、
代わりにヴェーデルマン中尉が立って、第三砲兵隊の移動が始まりました。


砲撃を受けて焼け野原となった旧駐屯地に戻ったアッシュは、
そこで通信機を持って帰ってきたフィアバインと再会しました。

二人で撤退先の新しい駐屯地に戻ります。



そこで待っていたヴィッテラー大尉は、フィアバインの敬礼を受けるなり、

「ああ、あの7台の戦車の(撃破で鉄十字をもらった)か」

そして、お手並み拝見とか言いながら、丘の上から敵の戦車隊を見張るという
なんのためにするのかわからん任務を押し付けようとします。



対戦車砲は戦利品のうえ、弾もろくにない状態なのに、それを使えと?


前線に着くと、彼らはさっそく5台の戦車を発見しました。
同じところで円を描くような不思議な動きをしています。


戦車は歩兵部隊のタコツボ塹壕を潰してまわっていました。
逃げ場をなくしておくためです。


もう弾が5発しか残ってないので、全発命中させでもしない限り、
相手から反撃されてこちらが不利になるのは自明の理。

・・・のはずなのに、無理やり撃たせるんだよこの馬鹿隊長は。

結果、5発全弾撃ち切って、さすがのフィアバインも1台破壊がやっとでした。



1台をフィアバインの砲撃によってやられた残りの4台の戦車が
こちらに向かってくると、ヴィッテラー大尉、
対戦車砲を牽引してきたトラックに乗って一目散に逃げてしまいました。

部下は置き去りか。



そして対戦車砲に就いていたフィアバインが戦車のターゲットにされました。



逃げ惑う彼はタコツボ塹壕に身を躍らせます。
自分がローレに説明した通りのことが起ころうとしていました。



そしてフィアバインは、頭上に戦車の影が覆いかぶさってくるのを、
塹壕の底でただ手を組み合わせて祈りながら見ていました。

この時の音楽は、不安でドラマチックな響きにアレンジされた
ベートーベンの「熱情」のテーマです。



戦車が退避してから現場にかけつけたアッシュとコヴァルスキーは、
何度も何度もフィアバインの名を大声で呼びますが、
捻られて平らになった凍土からは、何の返事も帰ってきませんでした。



そして彼のいた場所から、婚約者イングリッド宛の手紙が見つかりました。

僕のイングリッド

戦争のときは皆離れ離れ 一緒の生活は許されない
みんなそうだ
だけどどんな戦争も終わる
生きていたい 君のため 子供のために

子供は女の子がいい
男の子より愛されるし 直立不動も少なくて済む
名前はカトリン バルバラ エリザベト どう思う?

人生を覗けるような窓があるといいな
戦争のない人生を
そんな窓のある家がいい
窓を開けると楽園のような庭が見えるんだ

カトリンはお花を バルバラは蝶を エリザベトは太陽を見る

平和が戻ればまた音楽とハーモニーに包まれて
おとぎ話のように 僕らは二度と離れない
それまで君のことをずっと思うよ

数百万の人がこんな生活を送っていて
でもみんな戦争のない時代に憧れている
僕と同じように
君も再会を楽しみにしていてほしい

サインはしないよ
これが最後じゃないから


「08/15」はシリーズ作となっていて、同じ登場人物が
全く違うストーリーで語られるバージョンもあります。

08/15 (1954) ORIGINAL TRAILER

この映画の「前段階」が同じ役者で演じられています。
フィアバインがかつてシュルツ中尉の妻と
何かあったらしいことがこのトレーラーで判明しました。
(1:14~)

フィアバイン、アッシュ、コヴァルスキーは訓練施設の同期で、
フィアバインはなぜだか猛烈に苛めを受けた様子が語られています。

またいつか機会があれば、こちらも観てみるかもしれません。



終わり。


映画「08/15」〜ドイツ国防軍兵士の「ありふれた」日常 

2023-06-01 | 映画


久しぶりにドイツ制作の戦争映画を扱います。

このブログでも何度か、戦後、ドイツで製作された戦争映画に
ナチスを扱った作品はほとんどない、ということについて考察してきました。

その理由は、戦後「世界の敵」認定されたナチスを扱うことが、
「当事者」であるドイツ人にとってセンシティブすぎたせいである。

・・・という説に、わたしも納得していたわけですが、
それではドイツ国防軍についてはどうなのかというと、
ドイツ国内ではどうかわかりませんが、少なくとも世界的に
翻訳されて普及された作品はこちらもあまりその例を見ません。

本作は、その数少ない(と思われる)第二次世界大戦のロシア戦線における
国防軍を描いたドイツ制作の映画の一つであり、
国防軍の砲兵将校だったハンス・ヘルムート・キルスツが、
自身の従軍体験による戦線での兵士たちの実態を赤裸々に描いた
告白・体験小説「08/15」をベースとしています。

そこでこの映画のタイトル「08/15」ですが、
わたしはドイツ戦争映画のジャンルから何の気なしにポチったとき、
てっきりこれを8月15日という日付を意味するものと思い込んでいました。

が、偶然にもこれが8月15日という我々日本人にとって
終戦を想起させる数字であったことからきた勘違いだとすぐに判明します。

とにかく、この数字について説明しないことには映画が始まりません。

08/15、nullachtfünfzehn
ヌル アハト フュンフツェーン

は、実はドイツ軍隊の俗語から発生した一般的な慣用句です。
ドイツ人にとって、この言葉は、否定的なニュアンスでの

「月並み」「凡庸」「普通」

を意味し、日常会話に今日も普通に用いられています。
ところが、この慣用句、ドイツ軍の機関銃の型

「MG08/15」

からきているというのですから、驚かされます。


MG08重機関銃(Maschinengewehr 08)は、
ハイラム・マキシムが1884年に設計したマキシム機関銃を基に設計された
第一次世界大戦時のドイツ軍の標準的機関銃です。

第一次世界大戦中に派生型が様々登場しましたが、
MG08/15は、三脚を廃して二脚とし、18kgにまで軽量化させて
戦場での利便性を大幅に向上させたバージョンでした。

塹壕の縁に据え付けるなど陣地戦にも対応しており、
一部は航空機搭載機銃として使用されました。
(宮崎駿のアニメ「紅の豚」では、ポルコ・ロッソの搭乗する
飛行艇サボイアS.21の機関銃として描かれている)

この機銃名が「凡庸」を意味するスラングとして定着したのは、
もちろん、これが現場に普及し尽くして、さらに旧式化した頃となります。

この俗語がタイトルになっている映画、というだけで、本作の内容も
なんとなくこの段階から想像できてくるではありませんか。



荒涼としたロシアの雪と氷の大地をバックにタイトルが始まります。

1941〜42年の冬。

ということは、ドイツのロシア侵攻が始まって6ヶ月経った頃。
ちょうど日本が真珠湾攻撃を行い、日米が開戦したばかりです。

加えて書くと、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪のため、
ドイツ軍は進撃の足を止められ、赤軍も猛抵抗したことにより
短期決戦の目論見は外れ、持久戦の様相を呈し始めた頃となります。

このため補給路が延び切り、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は
各地で進撃の停止を余儀なくされることになるわけですが、
この映画ではその補給部隊が描かれるのですから、まあお察しです。

ちなみにバックに流れるテーマの音楽は、重厚な管弦楽によるもので、
「ニュールンベルグのマイスタージンガー」のフレーズが現れ、
聞いているといつの間にかそれが「ヴォルガの船歌」に代わり、
それが全体を支配していくという内容です。



その広大な雪の大地をノロノロ走る窓ガラスの割れたトラックには、
二人の下士官、Wachtmeister(ヴァハトマイスター=NCO、
ノンコミッションドオフィサー)ヘルベルト・アッシュと、
Stabsgefreiter(伍長)コヴァルスキーが乗っています。

赤軍の複葉機からの攻撃を受け、雪の大地に体を突っ伏してやり過ごし、
さらにいくと、ポツンと建った小屋の前の道を
ドイツ将校の車が道を塞いで駐車しており、通過できません。


表の車をどけろ!と文句を言いに小屋に入ったら、そこには
今日からアッシュらの第三砲兵隊の隊長に俺はなると自称する、
鼻持ちならない横柄な将校、ヴィッテラー大尉がいました。



小屋を出たアッシュが、コヴァルスキーに向かってこぼします。

「(車の持ち主は)08/15だ」

「凡庸な」「ありふれた」というより、この場合は、
つまらんやつ、俗物といった意味のようですね。



立っているイケメンは第三砲兵隊長ヴェーデルマン中尉(Oberleutnant)
髭を剃りながら、彼に蓄音機でレコードをかけてくれ、と頼むのは、
フォン・プレニエス中佐(Oberstleutnant)

中尉と中佐の違いはstがあるかないかだけなんですね。

傷がついて片面しか聞けない(しかも一枚しかない)レコードから流れるのは
フランスのシャンソン「パルレ・モア・ダムール」(聞かせてよ愛の歌を)

二人は、撤退するべきだが総統が決して退くな!といっている、
(中佐によるヒットラーの真似あり)人的物的被害があるのに、
と愚痴り、さらに通信機も届かないこの状況を嘆きます。

そこで二人は、中央と交渉ができそうな砲兵隊の殊勲者、
ヨハンネス・フェアバイン伍長を前線に呼び寄せることにしました。


さて、自分の車をどけようともせず、アッシュらのトラックに
さっさと脇をすり抜けて通っていけと無茶振りするヴィッテラー大尉。

コヴァルスキーがそれを愚直に実行したら、トラックが穴にタイヤを取られ、
倒れて、駐車していた指揮官専用車を潰してしまいました。

怒り心頭のこのヴィッテラー大尉ですが、
輸送部門を仕切っている大物の小判鮫をやってここまで出世したものの、
前線に出ていなかったので、勲章をまだ一つも持っていません。

できるだけ戦場では安全に楽したいというタイプのくせに、
それでも勲章が欲しくて欲しくて仕方がない俗物将校。

以前紹介したドイツ映画『戦争のはらわた』がリリースされた時、
同じような指揮官が主人公の天敵として登場し、
先発のこの映画と同じ設定であることが一部で話題になったそうです。



そのヴィッテラー大尉が第三砲兵隊長としてやってくると聞いて、
現隊長であるヴェーデルマン中尉は仰天します。

じゃなにか?自分は降格ってか?

何も失策は犯していないどころか功績があり、
しかも下士官兵にも人望の厚い指揮官であるヴェーデルマンですが、
今回ゴリ押しのコネ人事でワリを食うことになってしまったようです。

中佐も彼の悔しさはよくよく理解した上で、中尉に向かって
私の元に残って砲兵隊を守ってやってくれ、と命令します。


指揮官専用車が全損したので、トラックの運転席にヴィッテラー大尉を乗せ、
アッシュたちはドイツ軍が占領している小さな集落に到着しました。

集落の美しいロシア人女性が氷の下の井戸から水を汲んでいます。
(BGMはやたら勇ましい調子の『ヴォルガの船歌』)



鄙には稀なこの美女の名はナターシャ



需品隊のプラツェク伍長は、声をかけた村の女の子(東洋人顔)から
ドイツ語で「シュバイネホン」(豚野郎)と返されてギョッとします。

これはあれだわ。この子の周りの大人がいつも言ってるんだわ。


これが補給隊のプラツェク伍長。

この独特な顔、物凄く見覚えがあると思ったら、映画「モリツリ」で
囚人「ドンキー」を演じていたハンス・クリスチャン・ブレヒでした。

この08/15シリーズはブレヒの出世作だったそうです。

アッシュはプラツェク伍長に、6トントラックを寄越せば、
個人的に食糧を回してやるよとネゴされますが、きっぱり断ります。


フォン・プレニエス中佐が呼び寄せたフェアバイン伍長が着任しました。
任務を命ずるにあたって、中佐は不思議な呪文をフェアバインに教えます。

「もし任務に困ることがあったら、いうんだ。
『煙突からまだ煙が出ている』と」

 
どういうご利益があるのかしら。
なんか水戸黄門の印籠的な?



新しい隊長に取り入って利益を得ようとしているプラツェク伍長。
したたかなコヴァルスキー兵長はそんな伍長さえもうまく利用して、
まんまとちょっとした物資を手に入れるのでした。



女好きのヴィッテラー大尉は、職権を濫用してお気に入りの美人軍属、
リザを現地に呼び寄せることができてワクワクです。

調子に乗って濃厚接触を試み、やんわりと拒否されますが、
もちろんこれで諦めるわけないよね。


本国に戻り、指令を受けて動き始めるまえに、
フィアバインにはどうしても会っておきたい人がいました。

アッシュの妹イングリッド、彼とは婚約までしている仲です。

任務前に一目顔を見ようとアッシュ家を訪ねますが、
代わりに会えたのはアッシュの妻(と赤ちゃん)だけでした。



そこで次に訪問したのは彼の指導教官だったシュルツ中尉宅でした。
そこでフィアバインは、彼の妻ローレ・シュルツの胸と再会します。



ローレは留守中の夫の写真の前でフィアバインの鉄十字章におおはしゃぎ。
うーん、この二人の関係ってなんなんだろう。

シリーズ前作でなにかあったらしいけど・・。



さて、その頃ヴィッテラー大尉は、第三砲兵隊の隊員を前に
大張り切りで着任の挨拶を行っていました。



まずはリザ嬢との楽しい語らいに割って入ったコヴァルスキーを呼びつけ、
反抗的な態度をとったとして、罰則を言い渡します。

「将校の運転手はクビだ。これからは弾薬運搬係だ」



そしてここからがちょっと面白いカメラワークとなります。
居並ぶ砲兵たちの胸の勲章をカメラが横に舐めながら映し出します。

全員の胸には戦闘を経験し、その結果与えられた勲功章がありますが、
最後に現れるな〜〜んにも付いていない制服の人が、
誰よりも偉そうに、尊大に勲章持ちに対して訓示をしているというわけ。



さて、コヴァルスキーは面白くありません。

自他共に認める運転技量の持ち主なのに、ヴィッテラーの一存で
楽な?運転手任務を首になってしまったのですから。

そこで彼は後任の運転手をタバコ一本で買収し、

「次に隊長を乗せたら車を(わざと)穴に落としてやれ」

と命令。
もちろん直接ではなく、回りくどい言い方で。



首にしたその次の運転手の車に乗ったら、あら不思議、今度は
雪原のど真ん中でガス欠になり、3キロの雪道を歩かされる羽目に。

もうこれ以上運転できる者がいない、と言われて、
結局隊長はコヴァルスキーを運転手に戻さざるを得なくなりましたとさ。




フォン・プレニエス中佐から、数ヶ月前に依頼された
新しい無線機を持ってくるという特別な任務を命じられたフィアバインは、
ローレの夫、シュルツ中尉の上官に請願に赴きました。



しかし、フィアバインが付けている鉄十字賞を見たシュルツ中尉は、
彼に激しく嫉妬して、司令に会うことを全力で阻止してきます。

彼も勲章を持っていることは持っているのですが、
奥方にいわせると「しょぼい勲功章を大事に磨いている」。

この男もいわゆる「勲章コンプレックス」の一人で、
鉄十字章が欲しくて仕方ない(でも戦線に出ない)のです。



彼の妻ローレの心はもはや下品な俗物である夫の上にないようです。
彼が敵認定したフィアバインに興味津々(というか何かあった?)ですが
もしそんなことをシュルツが知ったらタダでは済まないでしょう。



その頃、当のフィアバインは婚約者イングリットに迫っていました。
しかし彼女から、結婚まではダメ、と拒まれてしまうのでした。



第三砲兵隊の前隊長、ヴェーデルマン中尉は、
村落のロシア女性ナターシャにロシア語を習っていました。

生意気な姪から「豚野郎」呼ばわりされても、まあいいさ、と鷹揚です。



そして戦争で両親を失った彼女の境遇に心から同情してしまっています。
すっかり自分の立場を忘れそうになっている中尉。

彼はナターシャに激しく心惹かれている様子でした。



弾薬班の6トントラックがなんとしても欲しいプラツェク伍長は、
ヴェーデルマン大尉が軍属のリザを落とすために必要な
香水やお菓子、ストッキングなどをちらつかせて買収し、
トラックを奪い、邪魔なアッシュを排除させようと画策していました。



ところで、自分の階級を嵩に着て周りに威張り散らしたい指揮官を
よりによって前線で戴く部下ほど不幸な存在はありますまい。

そんな最低の指揮官、ヴィッテラー大尉が、
初めて前線に顔を出す日がやってきてしまいました。

そしてそんな皆の不安は的中。

顔を出すや否や、前線(といっても全く異常なし)の敵側、
彼方の地平線を歩いていた一人の男に向かって全力攻撃を命じます。



逃げ惑う生身の男に向けて砲弾を何発も使って撃ちまくり、
「殲滅」しにかかるアホな命令に、砲兵隊員もドン引き。



そのとき、フォン・プレニエス中佐は、ヴェーデルマン中尉に
戦線からの撤退命令が出されたことを告げていました。

そこに何発も聞こえてきた砲撃音、二人はギョッとします。

急いで中佐はどこのバカが撃っているんだと電話をかけますが、
そこのバカ、全く聞く耳持たず。


中佐は、何を思ったか、蓄音機から流れる
「聞かせてよ愛の言葉を」を電話で相手に送りました
そして、あの魔法の言葉を。

「煙突から煙は見えるか?」



「ああ、やっとまともな命令が聞けた。
なんすかあの隊長は?」

「奴は名声や手柄や勲章が欲しくてたまらんのだ。
君が冷静でいてくれるから助かるよ。

お礼にそちらに音楽を贈ろう」

と中佐。

現場の隊長は、周りに砲兵隊員を集めて、配給だぞ、といいながら
一人一人の耳に受話器を当て、音楽を聞かせてやるのでした。



その日、差し入れを持ってナターシャを訪ねたヴェーデルマン中尉は、
冬のロシアで一張羅の夏のドレスを着て彼を迎えた彼女に感激し、
ふと、会話の流れで、自分には時間がないんだ、と口にしてしまいます。

「僕との別れは寂しい?」

「ヤー」

こくりと頷く彼女。

「そうか・・・嬉しいよ」

撤退命令が出たことで彼女と別れなくてはならない気持ちが
ついその言葉を言わせてしまったのでしょう。


その言葉を聞いてキラリとナターシャの目が光りました。

彼が去った後、彼女は、姪を呼び、同志人民委員のところに行かせて
彼らに伝える言葉を教え込むのでした。

「ドイツ軍が 密かに 撤退する」

ナターシャ・・。
そうじゃないかとは思っていたけど、やっぱりスパイだったか。



さて、着任するなり無茶苦茶な新隊長ヴィッテラー大尉の不満を
アッシュは思わずぶちまけますが、人格者のヴェーデルマンは
むしろそんな彼をやんわりと諌めます。



しかし、誰よりもそう思っているフォン・プレニエス中佐が、
前線で彼を置き去りにし、敵の砲撃に右往左往させる
「桂馬飛び」(将棋をする人ならわかる?)という目にあわせたので皆大喜び。



「アッシュ、あまり喜ぶな」

「hahahaha」

戦場の心温まる瞬間です。



さて、こちらはシュルツ中尉の嫉妬から砲兵学校に足止めされ、
任務を果たす代わりに砲兵への指導をさせられているフィアバイン。




非常時の戦車からの退避の仕方を訓示していたら、
さっそくシュルツにいちゃもんをつけられ皆の前で叱責されるのでした。

「なんだ、卑怯者の育成中か?」



そのとき、フィアバインは見たのです。
自らの身を助ける方法を教えられず、戦場に駆り出される若者たちを。



彼らの顔に現れた死の影に呆然とするフィアバインでした。


続く。