ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

シリコンバレーのジャックラビット

2017-07-30 | すずめ食堂

 

 

シリコンバレーにあるショアラインパークで見た動物についてお話ししています。

さて、わたしが湖のほとりでリスにフォーカスしていると、目の端に動くものを捉えました。

まさか・・・・!?

ジャックラビットです。
昼間にはほとんど出てこないので遭遇することも滅多にないジャックラビット。
去年はフェイスブックの近くの山で一度だけ見かけたのですが、
それもカメラを構える前に逃げてしまいました。

今年はかなり遠いせいか、こちらに全く気づかない様子です。

高鳴る胸を押さえてレンズをのぞいていると、もう一羽が出てきて追っかけっこを始めました。

とかなんとか言いながらとっさのことでレンズを調整することができなかったので、
いまいちアップにするとピントが甘いのが残念ですが、それでも
両者の個体差がよくわかるくらいには撮れています。

追いかけられているうさぎは三白眼、後ろは黒目。

ていうか、うさぎってこんなに顔にバラエティがあるものだったのね。

後ろがメスで、しつこいオスを撃退しているという仮定を立ててみました。

一旦追い払った後、追いかけていた方はくるりと向きを変えて・・・

ピタリ。
これはもしかして追いかけておきながら誘い受け?
いわゆる一つのツンデレという形でしょうか。

どうやら仮定は当たっていたらしく、ちゃんとオスは戻ってきました。
メスの背後に着いて様子を伺います。

・・・が、

「いやだって言ってんでしょ?あっち行って」

「・・・・ちっ」

みたいな?

「全くしつこいんだから!」

みたいな様子でオスの後ろ姿を睨むメス(たぶん)

しばらく睨んでいたと思ったら、踵を返し、後ろの藪に消えました。

と  こ  ろ  が (笑)

こいつ全く諦めてないっぽい?

二匹がいなくなったのでメスの消えた藪の前を通り過ぎて、
もしやと思い振り返ってみると、オスが出てきていました。

ストーカーのような表情でメスの消えたところを凝視するオス。

で、改めてじっとしているジャックラビットの写真を撮ったのですが、
うーん・・・・可愛くない。全く可愛げがない。

なんか妙に表情が人間ぽいというか、不気味というか・・。

カリフォルニアの野ウサギは三種類いて、オグロジャックラビット(Black-tailed hare)、
オジロジャックラビット(White-tailed hare)、カンジキウサギ(Snowshoe hare)の3種類。
オグロ、オジロのジャックラビットがふつうジャックラビットと呼ばれます。

このウサギの尻尾は茶色なので「オグロジャックラビット」です。

だいたいこの、目が怖いんだよ目が。

そしてついでに失礼ながら下半身もアップ。
オスなのかメスなのかもこの写真からは判然としませんが・・・。

しばらく佇んでいたジャック、諦めて?藪に戻って行きました。

写真をご覧になってもこのウサギの体長が大きいのがわかると思いますが、
実際にカリフォルニアに生息する野ウサギでは最大の体長となります。
だいたい45センチから大きいのになると60センチを超えるそうで、
この二匹はその中間くらいの大きさだったでしょうか。

これだけ大きいということは肉もたくさんあるということで、
しかも徹底した菜食しかしないため大変その肉は美味しいらしいので、
カリフォルニアでは毎年結構な数、ハンターの餌食になっているということです。

農作物を荒らす害獣であるとすれば殺す大義名分もたつというものです。

それにしてもジャックラビット、うさぎとして何が妙かというと、
この脚の長さって気がするんですよね。

もちろん後足が長いからこそ、うさぎは早く駆けることができるわけですが、
それにしてもこれはバランスが悪いというか、後足長すぎないか?

これだときっと下り坂はむちゃくちゃ苦労すると思う。

というわけで、思わぬ収穫に興奮しつつ、先に進みます。

湖から湿地帯に抜けてきました。
去年は水不足でここもカラカラに乾いていたものですが、少し復活しています。

何より去年していた強烈な沼の匂いが少し軽減しています。

鳥のためにわざわざ設えられたらしい木の柱の止まり木。
各木の上に一羽ずつ止まれる止まり木、これが本当の「お一人様専用バー」です。

一本足と二本足。

ただ、去年までペリカンの巣になっていたところは、水が減ってしまい、
カモメやガチョウの溜まり場に変わっていました。

大型のペリカンはどこか水深のあるところに巣を移してしまったようです。

こうしてみると例年と変わらないように見えるのですが。

よくみると、去年干上がっていた湿地帯は、一応復活しているようで、
水鳥の足跡が転々とつくくらいでした。

カリフォルニアで普通によくみるカップルの形。

彼らはまず間違いなく、自分と同じようなタイプと付き合います。
どちらかがマッチョで片方がデブ、という二人はあまり見ません。

彼らは白人と黒人ですが、この取り合わせもあるようでちょっと珍しいかな。

ちなみに、特にこの辺りの若い男性(痩せて筋肉質の体限定)は、走る時必ず上半身裸です。
ボストンではあまり見ないので地域的な流行なのかもしれません。

ペリカンに会えなかったのを残念に思いながら池まで帰ってくると、
さっきはいなかったダイサギが出勤してきていました。

少し離れたところにはイグレット(小サギ)もいます。

写真に撮るとわかりませんが、両者の大きさは三倍くらい違います。

さて、そろそろ帰ろうと出口に向かって歩いていく途中で見たこのリスさん、
何かを一生懸命食べていたのですが・・・、

わたしが立ち止まってカメラを構えていると、食べるのをやめました。

そしてずんずんこちらに向かってキタ〜!

この後目の前の足元で立ち上がってくれたのですが、急なことでピントが全く合いませんでした。
なんだったんだろう・・・・。

そして、一番最後におそらく先ほどのどちらかだと思うのですが、
一匹だけでひょこひょこと走っていくジャックラビットを発見。

うーん・・・・・・・・結局フラれちゃったわけかな・・・・・。

 

また来年ここにきて彼らと遭遇できることを祈って、
わたしはこの後シリコンバレーを後にしました。

 

 

 

 

 


ゴミ箱を漁る希少種黒リス〜シリコンバレー・ショアラインパーク

2017-07-29 | すずめ食堂

今いる西海岸のマウンテンビューは、いわゆるシリコンバレーの中の一つの街です。
気候が「クリエイティブな仕事をするのに最適」で湿気のなさがコンピュータに向いている、
ということで近年発展してきた地域です。

この街にはコンピュータ歴史博物館というものもあります。
サンフランシスコに住んでいたとき、その後の渡米を含めて
滞在中に何度か息子を連れて遊びにきたことがあります。

そしてマウンテンビューといえば、グーグル。

「グーグル」というストリートもあり、元々は何もないところに、会社を作ると同時に
道まで作ってしまったらしいことがわかります。

今年はスタンフォードディッシュと同じく、家族が寝ている間に、わたし一人、
朝早くショアラインパークにやってきました。

やはりこの時間に来ると気温が低く、歩きやすそうです。

いつもは9時過ぎにきていたので知りませんでしたが、朝早いとそれだけ
動物の動きも活発なようです。

まず驚いたのは駐車場の隅にあるゴミ捨て場にリスがゴミ漁りにきていたこと。

しかも、ここでは初めて見る黒リスが混じっています。

去年も一度街中で黒いリスを発見しましたが、
その時はこういう種類のリスがいるのだと思い込んでいました。
ところが、これはいわゆる突然変異種で、メラニン不足のアルビノの反対、
メラニンが多すぎるメラニズムというものだということがわかりました。

 

その希少種である黒リスがゴミを漁るの図。

珍しいのでアメリカではネズミ扱いされているリスの中でも別格で、
マスコットとして珍重されているとか。
ちなみにこの辺りの黒リスは元々スタンフォード大学が導入し(人工的に?)
その結果、パロアルトやメンローパーク中心に見ることができるようになりました。

メラニンが多い、つまり人間でいうとアフリカ系みたいなもの?
アフリカ系は暑さに強いようですが、メラニズム種は日光を吸収しやすいので、
逆に寒さに強いのだそうです。

この種類のリスもここでは初めて見ました。
ボストンの東部灰色リスに似ているような・・・。

ゴミ箱あさりの合間に、一目散に走っています。

何をするのかと思ったら、水たまりの水を一生懸命飲みだしました。
リスの水飲みは初めてです。

終わったら一目散に退散。スピード感ハンパなし。

ちょっと止まって体を掻いてから(笑)

喧嘩も始まりそうでしたが、惜しいところで弱い方が逃げました。

こちらのリスさんは一生懸命巣に必要な建材を運搬中。
なんかアニメのシーンみたいです。

最近、この近辺ではあちらこちらでグーグルの自転車を見るようになりました。
本当にグーグルの人が乗っているのか怪しいくらいです。

こういう落書きをするようなカップルに限って長続きしない(確信)
以前、自分の名前の刺青を入れた彼氏に感激しておいて、13日後に
別れてしまった女性のツィートが話題を集めたことがありますが、
これよりはまあ被害は少ないかな。

こちらはこの木がある限り世間に向かっておばかを曝すことになるわけではありますが。

公園の中に入っていきますと・・・・いたいた、いつものリスどもが。
やっぱりわたしは灰色リスよりこちらの方が好きかなあ。可愛いし。

灰色リスは木の上に巣を作るので、巣に使う材料を運ぶのはわかりますが、
このジリスは土中に穴を掘って住むので、そんなことはしないと思っていました。

手と顎で藁を抑え、二本足で巣に運んでいきます。

前にも書いたことがありますが、リスも環境によって人への警戒度が変わります。
ディッシュトレイルのリスは上空から天敵がいつ襲ってくるかわからないので、
そのぶん人影にも敏感で、こちらがカメラを向けただけで素早く逃げますが、
ここのリスはたくさんある木の根元に巣を作っているので、
空から敵が襲ってきていきなりさらわれるということがなく、
あまり人間にも警戒せず、向こうから近寄ってくることすらあります。

比較的近い距離で望遠レンズを向けても知らん顔で食事しています。

ここはディッシュトレイルより緑の植物が多いので、
枯れたような茶色い植物を食べているディッシュのリスより
ビタミンが足りているという気がします。

このリスが食べているのも、肉厚の葉っぱで、美味しそう。

食べ物が性格を作るというのがリスにも適応されるのならば、
ふんだんに緑の植物を食べることのできるショアラインのリスは、
人間であれば穏やかで安定した性格なのかもしれません。

ジリスの学名は

Otospermophilus beechey(オトスパームオフィラス・ビーチー)

と言います。
イギリスからカリフォルニアを探検してこのリスを見つけたのが、

フレデリック・ウィリアム・ビーチー

だったからなのですが、このビーチー、なんと地理学者でありながら

海軍将校(しかも男前)

で米英戦争やフランスとの戦いにも参加した人だそうで・・・

このブログが熱心にカリフォルニアジリスについて語ってきたのも、
もしかしてそういう縁の為せることだったから?と思いたいわたし。

何食べてるんだろう。調理前のラーメン?

アップした写真を見ると、どうも木の根の先端のようです。

またもや黒リスを別の場所で発見しました。
全部で1万匹くらいしかいない割にこの日は二回も遭遇したことになります。

ちなみにカリフォルニア大学デービス校ではこのリスの研究が進んでいて、
例えばがらがら蛇の捕食から逃れるいくつかの手段をリスが持っていることは、
この大学の共同研究によってわかったことだそうです。

いいなあ・・・リスの研究。わたしもやってみたい。

この日撮った中の一番の美リス。多分メス。

犬猫がそうであるように、リスにも個体差があります。
体つき、尻尾、顔も写真を撮ると皆違います。

リスは巣穴から140メートルの範囲のみで生活し、他所には行かないそうです。
リスにとって直径280mの円が世界の全て、というわけです。

これはますます生まれた環境によって性質も変わってきそうですね。

リスのいる木陰の地帯を抜けると、ショアライン湖が広がります。
例年はわたしが散歩していると、ここで行われているサマーキャンプで
水上スポーツを習う子供達の姿が湖上にみられるのですが、この日は
朝早いので、湖面は鏡のように静かに静まり返っています。

と思ったら、ここにもいた!巣材運搬系リス。

咥えられるだけ藁を咥えて(笑)

このリスさんは一家の長で今まで家族のために戦ってきたのか、
左耳がかじられて欠損しています。

見ていると、いそいそと藁を咥えたまま穴に姿を消しました。
穴の中でも藁を敷いて快適に暮らしたい。

より良い住環境を求めてやまないのはジリスといえども同じ。


さて、その直後、わたしはここで再会することを大げさではなく夢見ていた、
「ある幻の動物」と遭遇したのでした。

 

なぜか続く。







放射線量と健康被害〜陸上自衛隊化学学校見学

2017-07-28 | 自衛隊

東日本大震災の伴う福島第一原発の原子力事故と最前線で戦った、
陸自中央特殊武器防護隊の隊長であり、化学学校副校長の
岩熊真司一佐が直々にこの日のレクチャーを行いました。

一佐は事前にこの日研修に参加した人々の名簿を見てこられたらしく、

「住所を見ると大変遠くから来られた方もいて、感激しております」

とこの日大宮までやってきた参加者に感謝の意を述べられ、
そのことがまたわたしたちを感激させたのでした。

福一の事故が起こった時、チェルノブイリやスリーマイル島と同等の
規模の災害になるかのように報道され、また今でもそんなイメージで
捉えている人もいるかもしれません。

岩熊一佐の講義は、事故発災直後からの陸自が行なった活動の説明を終わり、

「原子力事故全般」

についての説明に移りました。
これは、原子力発電にいたずらに忌避感を持っている人たちにもぜひ聞いて欲しいものでした。

まず、福島第一とチェルノブイリ事故との比較。
この数字を見れば両者の性質が全く違う性質のものであることがわかります。

そもそもメルトダウンと原子炉爆発が根本的に違っていたわけですね。

小さい頃、

「雨に当たると放射能のせいで禿げる

などと言われたことのある人はいませんか?
実家にある父所蔵の漫画、ちばてつやの「ハリスの旋風」には、
弟が雨の中走っていく兄を心配して

「にいちゃんハゲなきゃいいけど・・・」

と禿げた主人公石田国松を想像するシーンがあります(笑)

あれは中国の核実験の影響だったのですね。
ってかすごい数値ではないですか!

でもそれなりに雨水にも数値が出ているが?と心配する人のために。
放射能が体に及ぼす影響をグラフにしております。

緊急作業を行う際、0.1シーベルトを限度にしているということですが、実際は
その2倍半の数値でも臨床的には症状は現れないということになります。

確実に危険というのが黄色が赤になっているゾーンで、
4シーベルトからは

半数致死線量(60日)造血障害死

7シーベルトからは

全数致死線量(60日)腸障害死

で、ここからが確実に死に至る線量です。

左上赤に白抜きの JCO、 A氏とB氏の被曝量というのは、
東海村JCO臨界事故の被害者のことです。

これは核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。
これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、
1名が重症となった他、667名の被曝者を出した事故です。

全て一人の人物の損傷の変化を事故発生から3ヶ月に亘り撮影したもので、
左から9月30日、10月10日、11月10日、12月20日、1月4日の撮影。
11月10日には皮膚の70%が剥がれ落ちたため、1月4日には
顔面にも皮膚移植を行いましたが、DNAの損傷により皮膚再生能力は失われていました。

「恐ろしいのは被曝した直後は身体的になんの損傷もなかったことです」

汚染地域にあって作業をする隊員たちの防護、作業後の除染は
徹底的に行われました。

事故発災後、原子力事故であるJOCの被害者の写真などが出回ったり、また
危機感を煽るような無責任なネット言論に振り回された人も多かったことと思います。

陸自でこの時任務に当たった隊員たちの健康状態についてはは、おそらくその後も
追跡調査が行われていることと思うのですが、6年経った今日、
隊長は彼らに健康被害は全く現れていない、と言い切りました。

わたしなどそれを帰ってから人に話したところ

「今はなんともないかもしれないけどね」(意味深)

と言われたわけですが、ガンの発生率と放射線量の相関性について、
このような表を今回見せていただき別の考えを持ちました。


ホルミシス効果というのは

大きな量(高線量)では有害な電離放射線が小さな量(低線量)では
生物活性を刺激したり、あるいは以後の高線量照射に対しての
抵抗性をもたらす適応応答を起こす仮説

で、これを活用したものにラドン温泉というのがあります。

ホルミシス効果を考慮した結果、赤の点線はガンの発生率を下げているわけですね。

してその因果関係が明らかになるのは100ミリシーベルトより上、となります。
100ミリシーベルトは0.1シーベルトであり、しかも放射線は
瞬間に受けてもこのレベルでは影響がないことがわかっていますので、

毎時シーベルト(mSv/h)

という形で人体への被曝量を表すことがあります。

25 μ(マイクロ)Sv/h の被曝を2時間にわたって受けると、
被曝量は 50 μSv = 0.05 mSv = 0.00005 Sv 

毎時 400 ミリシーベルト (400 mSv/h) の被曝を15分間受けると、
被曝量は 100 mSv (ミリシーベルト) = 0.1 Sv 

毎時10シーベルト(10 Sv/h)の被曝を30分受けると、
被曝量は5 Sv = 5,000 mSv = 5,000,000 μSv

などと表すのです。

そこで、発ガン性と被曝量の相対リスクという表をご覧ください。
毎日三合以上の飲酒をする方、喫煙、肥満、運動不足、辛い物好き、
野菜が嫌いな方は、つまり発がんリスクがこれだけあるということになり、
毎日タバコを吸っている人が放射能放射能と騒ぐのは滑稽ではないか、
ちうことでもあるのではないかと考えさせられますね。

ただし、タバコを吸っていたとしても発がんリスクは1.6倍、
これを1.6倍も高くなると考えるのか2倍にも満たないと考えるかは
もはや医学というより生き方の問題という気もしてきます(笑)

 

さて、というところでレクチャーは終わりました。

つまり、原子力事故に最前線で取り組んだ指揮官自身から
あの事故は最低ではあったが最悪には至らなかったということ、
陸自化学部隊は発生後の混乱を最低に抑え速やかな収束に寄与したこと、
そして、除染を徹底すれば、放射能そのものをむやみに怖れる必要がないということを、
直接聞くことができたのです。

レクチャー後は外に出てまず装備の見学を行いました。
なかなか盛りだくさんな見学です。

まずは除染車。

除染3型といい、地域・施設・人員などが化学物質や放射性物質によって
汚染された場合に、汚染物質を取り除く「除染」を行う装備です。

東日本大震災でも大活躍したものだと思われます。

実際に除染をする様子を見せていただきました。
まず向こうの方に向かって合図を送りますと・・・・

なんと、車体の下から車の前方に向かって水が噴き出してきました。

散布装置は車体前部だけでなく側面にも設置されています。

車体後部から出ている約15mのホースで散布することも可。
トラックのタンク容量は2500Lです。

こちらが散布車全体像。

隊員は防護服を着用して乗車し、散布銃を携行して車両タンク部の荷台から散布したり、
停車時の除染車自体への除染を行ったりします。

散布車後部。両側に見えるのはホースのリールってことでよろしいでしょうか。

このようなハンディな除染ノズルもあります。

人員を除染するためのシャワー室のような除染装置。

ハンディノズルで散布の様子を見せていただきました。

その時ふと駐屯地の柵の外に、隊員クラブ「はなの舞」を発見。
外に出ることなく一杯やれる隊員さんたちの飲み屋さんでしょうか。

先日フェリーの中で陸自隊員がお酒を飲んで騒いだと他の乗客から指摘があり、
自衛隊が謝罪するというしょぼい話がありましたが、
自衛官だってお酒を飲んで騒ぎたい時があるわけで・・・。
このクラブなら思いっきり飲んで歌っても大丈夫!に違いありません。

我々のために装備をこのように用意して見せてくれているわけです。
いやありがたい。

これは NBC警報器で、

N=放射能 B=生物剤 C=有毒化学剤

を検知し、警報を発することによって現地に投入される部隊に防備を促します。

警報が鳴るような有害物質も用意されていて、画面が真っ赤になるのを見せてくれました。

なんと画面ではN警報を感知しているぞ!

さて、続いてはこちら。
観閲式で遠くを走っているのをよく見る

NBC偵察車

を今回は間近で見学することができました。

乗員が外気に触れることなく、外側の状況を検査することができる装備で、
化学科に3台配備されています。

中から外の物質を採取するためのマニピュレーターを付けることは
ご予算の関係から見送られたそうですが(T_T)その代わり、
内部から検知するためのノズルつき棒が出てきて、例えば放射砲汚染されていたら
『ATOM』と書かれたおもり付きの三角の旗を地面にポトっと落とします。

中からはゴム手袋のようなもので操作しているように見えました。

サービスで?「ガス」という旗も落としてくれました。

外の石などを検体として採取するためのハサミも見えています。

説明してくれた隊員さん。

NBC偵察車は今後50台まで調達することが決まっています。

見学は二手に分かれて行いました。
半分のグループが散水車の説明を受けています。

この後、全員で移動を行いました。

「移動中の撮影はご遠慮ください」

わたしはうっかりしていてカメラのメモリーに空きがなくなってしまったので、
ここから先の写真は皆スマホで撮りました。

格納庫のような建物に到着すると、中にはフライングエッグや戦車などがあります。
除染をするための練習用に、お役目が終わった装備をここに集めてあるのでした。

化学科の訓練では、ここで戦車にジャバー!ヘリにプシュー!車両にドバー!と
除染用の水やら液体やらをかけているというわけです。

みんなは戦車の前で記念写真を撮ったりしていました。(冒頭)
退役した装備としてはこの第二の人生はなかなかいいものではないかという気がします。

 

続く。


原発事故と中央特殊武器防護隊〜陸上自衛隊化学学校見学

2017-07-26 | 自衛隊

渡米前、防衛団体の研修会で陸上自衛隊大宮駐屯地に行ってまいりました。
大宮駐屯地は知る人ぞ知るさいたま市の西方4キロの住宅地に囲まれた基地で、
終戦までは旧陸軍の造兵廠大宮製造所があり、戦後は進駐軍の接収を経て

化学学校 通信補給処 武器補給処

などが開設されました。
施設の市ヶ谷移転に伴い、ここには埼玉県全体の防災警備を担当する
第32普通科連隊が移駐してきて現在に至ります。

本日の研修目的は、陸自化学学校の見学。

皆さんは、あの東日本大震災の時、メルトダウンを起こした福島第一原発に
注水作業をした陸自の部隊が、ここから派遣されていたことをご存知でしょうか。

福一だけではなく、原発事故発生後、現地に取り残された人々を救出したり
各地のモニタリングを行なったのも、当基地の

中央特殊武器防護隊
(Central Nyclear Biogical Chemical Weapon Defence Unit)

を中心に組織された陸自の部隊であったのです。

本日はその派出元となった大宮駐屯地で、原発災害派遣された部隊の
指揮官から直々に話をうかがえると聞いたわたしは、迷わず参加を申し込みました。

大宮駅の構内で集合した一同は、陸自側のマイクロバスに乗り込みます。
一台のバスにぎうぎうになって街中を走ること15分くらい、
基地に到着し、わたしたちはレクチャーの行われる建物の前で降ろされました。



それにしても自衛隊の建物って、どこもここもどうしてこんなに似てるんでしょう。
階段を中心に左右にウィングを広げた鉄筋コンクリートの建物は、
ここが下総基地だったか、阪神基地隊だったか、久里浜だったか
ふとわからなくなるくらいの既視感に満ち満ちた無機質な佇まいです。

こうしてみると、海自の呉と舞鶴の総監部というのは(おそらく佐世保も)
自衛隊の中でも異常に特殊なパターンというべきでしょう。

階段を登り、二階に到着すると必ず左手に曲がり、廊下の左手に
レクチャールームが用意されている、というのまでこれまでと同じです。

 

 

レクチャーは原発事故を想定した「特殊災害」における派遣活動についての説明から。
講師は化学学校副校長であり、当時対原発災害対処部隊の隊長であった一佐です。


さて、一旦災害が発生したら、まず災害状況の把握、避難誘導に続き、
行方不明者の捜索と救助を陸自の特殊車両を派出して行います。

入浴支援は今や陸自の災害派遣活動のシンボルのようになっていますが、
昔はその活動についても自治体側からは理解が乏しく、阪神大震災での対応が
「塩」だったのは、
コメント欄でお節介船屋さんがおっしゃっていた通り。

しかし、日本人にとって入浴というのは被災者の精神支援ともなるもので、
わざわざ「入浴支援」と取り上げるのにも意味があるというわけです。
阪神大震災の時にはこういうことすら認知されていなかったんですよね。

原子力事故発災以降、陸上自衛隊が行った活動が時系列で表にしてあります。

3月17日のヘリでの空中放水の様子を、息を飲みながら日本全国の人々が
テレビで凝視したのは記憶にも生々しいですが、
わたしなど、今でも、あの時CH-47に乗ったの3名の自衛官の写真を見るだけで
涙が込み上げてくるのを抑えることができません。

その後、モニタリングを行い、要所に除染所を設営するなど、
当時の誰もが尻込みするような任務を、彼らはただ黙々と行いました。

災害発生直後から自衛隊は活動を始めました。

阪神大震災では、命令系統の麻痺によって、自衛隊が発災直後に出動できず、
そのために失われなくても済んだ多くの人命が失われたという反省から、
法改正が行われ、この震災では
自衛隊の迅速な災害派遣が可能となりました。

3月12日には当日のヘリ偵察によって状況を把握した主力部隊が
現地入りして活動を始めています。

地震発生後、冷却装置注水不可能となっていた1号機への海水注入作業が、
13日深夜1時23分、津波の恐れが去ったと判断されたため再開されました。

使用した海水には、中性子を吸収し核分裂反応を抑える作用のある
ホウ酸が添加されていました。

14日といえば3号機の建屋が爆発した日でもあります。
政府は水素ガス爆発であると発表。

この爆発で建屋は骨組だけになり、作業をしていた東京電力と協力企業の作業員、
および自衛隊員の合わせて11人が怪我をし、東京電力の作業員1人は被曝しています。

3月27日付の英テレグラフ電子版は、3号機が爆発した時現場に居合わせた
陸上自衛隊中央特殊武器防護隊の6人が、爆発に巻き込まれ死亡していたと報じたそうですが、
政府発表でもそのようなことは報告されていませんし、この時のレクチャーで
作業に当たった陸自隊員は死亡はもちろん健康被害も今のところ見られない、
と一佐は明言していました。

水素爆発を起こした瞬間立ちのぼった煙と倒壊した建屋の様子。

もうなんかこの辺りになると「日本もうダメかも」って気になりましたよね。

しかし、そんな中、陸上自衛隊は黙々と給水作業を行っていました。

「生命の危険を顧みず」とは彼らの服務の宣誓ですが、このような
前代未聞の、誰も一瞬先がどうなるかわからない最前線の現場に出て、
本人たちよりもおそらく、彼らの家族は苦しい思いをしていたことでしょう。

白い防護服は自衛隊、黄色は東電の作業員だと思われます。
テレビ映像でも頻繁に目にしたこの白にブルーの作業服の背中には
マジックで書き殴られた自分の所属と名前が見えます。

わたしはこの日、駐屯地内を移動していて、体育館のような建物の中に
この防護スーツを着用した隊員たちが訓練を行っているのを目撃しました。

水素爆発の時現場にいた隊長の戦闘服は、6ヶ月後に計測しても
上限値の300倍を表す汚染値が測定されました。

右側で爆風を受けたらしく、右胸が最も汚染されています。

「もちろんずっとそのままでいれば蝕まれますが、事後に
除染をきちんと行えば、命に別条は全くありませんし、
あれから6年経っておりますが、現場にいた自衛官の中で
健康被害があったという者は一人もおりません

これも目からウロコというか、実に衝撃的な一言でした。

もっともこの話をある人にしたところ、

「今はなんともないかもしれないけどねえ」

と意味ありげに言われました。
その点についても、のちに隊長からある説明がなされました。

福一内の汚染状況が、可視化できる表。

爆発した3号機の周辺に散るコンクリート片が最も汚染されているほか、
1、2号機の配管が特に数値が高いですが、それ以外はそうでもありません。

まず17日9時48分、使用済み核燃料プールの水位が低下していた3号機に対し、
陸上自衛隊第1ヘリコプター団のCH-47ヘリコプター2機が消火バケットを使い、
計4回30トンの放水を行いました。

作業前のモニタリングでは、高度300フィートでも高い放射線量が検出されていましたが、
作業にあたった自衛隊員の浴びた放射線量は全員1ミリシーベルト以下だったそうです。

ヘリの床はタングステンで防護し、全員がヨウ素を服用しての作業でした。

この後、自衛隊の消防車が機動隊の高圧放水車と交互に放水を行いました。

 

映画「シンゴジラ」のヤシオリ作戦でこのシーンを思い出したのは
わたしだけではなかったと思います。

このとき、自衛隊の各飛行場から集合した大型破壊機救難消防車と救難消防車計5台が
3号機に対して約30トンの注入を行いました。

海自は下総基地から、空自は百里基地より3台、三沢基地より1台、小松基地より1台、
入間基地1台の合計6台を派遣しています。

自衛隊だけでなく、消防局もハイパーレスキュー隊の車両を多数投入し、
懸命の作業を続けたことも忘れてはいけません。

この時に全国から集結し、結成された増強中央特殊武器防御隊。
化学防護隊を持つ全ての駐屯地から、福島に部隊が派遣されました。

この時の会議の様子。中央のモニターに正対しているのが岩熊隊長です。

その後、放射能汚染した住民の除染を目的として設置された除染所。
立ち入り禁止になった円の外側を最多として、1万5千600名ものモニタリングを行い、
そのうち136名に対して除染処置を行いました。

作業に当たったヘリの除染もここで行っています。

除染作業所では、全員が例の白い防護服着用です。

Jビレッジはサッカーのトレーニングセンターですが、原発事故発生後、
自衛隊のヘリや消防車、人員や車両の除染を行う拠点となりました。

その後も作業員がここで作業服に着替えて原発に向かう「中継基地」となっていて、
芝のフィールドはヘリポート・駐車場・除染場・作業スペース・資材保管場所となりました。

Jビレッジの復興を支援するための資金をふるさと納税で当てているようですが、
今のところどうなっているのかは不明です。

ポイントをいくつか置き、そこでモニタリングを行い、
車などの除染もここで行っていました。

避難中の住民に一時立ち入りが許可された時、そこにも除染所が設けられました。
これは彼らの汚染に対する不安を取り除くのに大変役立ったと思われます。

自衛隊は南相馬市、浪江町など、立ち入り禁止になっていた地域での
行方不明者の捜索も行っていました。

原発被害だけでなく津波被害のあった部分でもあります。

瓦礫を持ち上げ、その下も捜索し(中央下)、捜索で発見され運ばれていくご遺体に対し、
合掌で見送っています。(右下)

捜索に当たった後、隊員自身が念入りに除染作業を行いました。
白の作業服はもしかしたらドラム缶に入れて廃棄処分でしょうか。

 

さて、こんな自衛隊の任務状況を淡々とお話される隊長は、
化学部隊の指揮官というだけあって、もし陸自の制服を着ていなかったら、
白衣を着て研究室にいるのが似合っているような学究タイプにお見受けしました。

ただしそれは知的な風貌がそう思わせるだけで、首から下は鍛えられた体、
そして何より真っ黒に日焼けしたたくましい腕と、どこからどう見ても自衛官です。

隊長の名前を検索すると、原発事故関連でいろんな記事が出てきますが、
その中でも目をみはる思いがしたのは、

14日朝、冷却機能が停止した3号機に冷却水を補給するよう東電から要請があり、
隊長ら6人が原発近くの拠点から、給水車2台と小型のジープ型車に分乗し向かった。
防護マスクと防護服に身を固めた。

3台が3号機の目前に到着した午前11時1分。
岩熊隊長が車を降りようとドアノブに手をかけた瞬間、
「ドン」という低い爆発音と共に、爆風が押し寄せた。
がれきが車の天井の幌を突き破って車内に飛び込んできたため身を伏せた。

ホコリで前も見えず、「助からないかもしれない」と思ったという。

という記事でした。

6年経った今、当時を語る隊長は、その中で一度もこのようなことを言いませんでした。
そのせいで、わたしはやはり化学の専門知識を持っている部隊の指揮官は、
ある程度任務の安全性を予測していたのかと考えてしまったくらいです。


「助からないかもしれない」

6ヶ月後になっても高濃度の放射能汚染を示す陸戦服は、その時の隊長の
指揮官としてではない、人間としての本能的な恐怖を代弁しているようでした。

しかし、それにも怯むことなく、当時日本中がすでに死の地域になってしまったと
思っていた福島で、彼らは「生命の危険を顧みず」、任務に当たったのです。

 

隊長の話は、この後福島とチェルノブイリの比較に入りました。

 

続く。




艦内展示〜重巡洋艦「セーラム」最終回

2017-07-25 | 軍艦

 

マサチューセッツに繋留展示してある貴重な重巡「セーラム」、
見学記もこれで最後です。

まずは載せ忘れた写真から。

ギャレーメスの食べ物を取るカウンターの手前には、このように
金属製のトレイがあり、フォークやナイフと共に取ってから進むようになっています。

金属製で食べ物を乗せるくぼみのあるトレイは、現在自衛隊で使われているのと同じ。
あのお皿の発祥はアメリカ海軍だったんですね。

棚に何本もの棒が檻のように立っていますが、これは何かわかりません。

ギャレーや士官、准士官の居室、医療施設などがあるこのセカンドデッキには、
唯一、「シップビルディング・ミュージアム」の部屋がありました。

ここクィンシーには、ジェネラル・ダイナミクスの造船部門があったのです。

潜水艦建造から企業した同社は、「ホランド型」という初期の潜水艦から、
「ノーチラス」などの原潜も手がけると言ったように潜水艦専門でしたが、
今ではコングロマリット企業としてアビオニクス、航空宇宙の分野まで進出しています。

奥の女性3人は、戦時中造船所で働いていた「ロージー・ザ・リベッター」たち。

「セーラム」についてお話しする前に取り上げた戦艦「マサチューセッツ」の
造船過程を記録した写真が展示してありました。

ブロック工法とかではないということはわかります。当たり前か。

このころは下から順番に作っている感じですね。

おそらく日本の造船、「大和」なども同じような工程を経て建造されたのでしょう。

説明はありませんが、後ろに現在と同じブリッジが見えているところを見ると、
初めてここクィンシーに展示のため運ばれたころ(1992年)の「セーラム」だと思われます。

艦体の塗装がことごとくはげ落ちているのが悲惨な感じですが、
1959年に退役してからずっとモスボール保存されていたためでしょう。

フォラデルフィアで保存されていたころの「セーラム」。
隣にいるのは艦番号134は、同型艦の「デモイン」です。

「デモイン」も退役してから同じフィラデルフィアの海軍不活性艦艇整備施設
(Naval Inactive Ship Maintenance Facility, NISMF)でなんと

2006年まで保存されていたそうなので、その時の写真です。

この施設では、彼女ら姉妹は隣同士に並べられていたんですね。

説明に肝心の時期とこの戦艦が何かが欠けているのですが、彼らの制服と、
艦橋の形から、第一次世界大戦の頃の写真ではないかと思われます。

「セーラム」は、戦闘に参加したことはなく、災害救助で活躍しました。

1953年、ギリシャのイオニア諸島を襲った大地震の被害に対し、「セーラム」は
緊急出動して、物資の運搬や現地の復興を支援しています。

マグニチュード6.4から7.2の揺れにサンド見舞われた現地は壊滅し、
人命だけでなく、貴重なギリシャの歴史的遺跡が多く失われました。

ボストンのギリシャ系コミュニティが「セーラム」に組織して集めた救援物資を託し、
「セーラム」艦長に渡すということも行われています。

ちなみに、あの「小泉八雲」ことラフカディオ・ハーンはイオニア出身です。

ここで趣向が変わって?スターズアンドストライプス紙の漫画を。

アドルフ・ヒトラーという人は、実にいろんな語録を残していて、例えば

マスコミは下衆である。
この下衆が所謂世論の2/3を製造し、その泡から議会主義という神の愛が生まれたのだ。
口当たりの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、
単なる馬鹿である。用心すべし。」

という結構賛同できるような(笑)ことも言っていたりするのですが、
このシリーズは
ヒトラー語録を紹介するもので、なんとこれが連載3回目。
いろんな語録に、それとはあまり関係なく漫画をつけています。


この漫画は、ヒトラーに影武者が何人かいた、という噂に基づくもので、

「本物はこいつか、それとも我々のうちの誰かかな」

北の黒電話にも影武者が何人かいて、耳の形が違うと指摘されてますね。
今はネットで細かい部分をチェックできるので影武者をやりおおせるのも難しい(笑)

ヒトラーの演説を聞いていて倒れてしまった人。

「かわいそうなルードヴィッヒ!
聖書のペリシテ人みたいに、顎の骨(ロバの)で虐殺されたんだな」

With the jawbone of an ass, heaps upon heaps,
with the jaw of an ass have I slain a thousand men.

が聖書の原文ですが、すみません、わたし聖書には詳しくなくて・・・。

部分が欠けているので読めないのですが、

「たった一語も空に書き遺すことが出来んのか!」

とパイロットに無理なことを言っております。

アドルフ・ヒトラーの墓石。

「これはわたしの最後に求めた領土である」

他の土地を焼け野原にしておいて、ってところでしょうか。

「セーラム」の乗組員フィレンツェなう。

サードデッキ、メインのギャレーなどがある階の一階下、
かつては兵員の寝室などであった部屋は、資料展示室となっていました。
そのうちの一つ、「シップモデル・エキジビッド」。

モデルシップの愛好家がこぞって作品を提供しています。

西海岸でこれも見学した空母「ホーネット」が、ドゥーリトル空襲を行うために
陸軍機を満載しているあの時の再現モデル。

ドゥーリトル空襲というのは、アメリカ人にとってよほど誇らしいことらしく、
未だにその日がくると記念日と称して色々イベントを開催したりしてるのですが、
この右下の本も、「65周年記念」に参加したベテランが編纂した写真集です。

右下はFDRに勲章をつけてもらう(FDRは車椅子に座っているらしい)
ジミー・ドゥーリトル准将。

この写真で初めて、ドゥーリトルが当時から禿げていたことを知りました。
スペンサー・トレイシーもアレック・ボールドウィンも禿げてませんでしたがそれは。

ところであの世紀の駄作「パールハーバー」、我々日本人はあまりの偏向的描写に
ネタとして楽しんでしまうか、せいぜい不快感を感じるくらいでしたが、
ドゥーリトルを実際に知る人たちが、あのボールドウィンに対して

「あれは違う!あんなのはジミーじゃない!」

ということで怒り狂ったということがあったらしいですね。
何がそんなに逆鱗に触れたのかまではわかりませんでしたが・・
まさか髪の毛じゃないとは思うけど。

昔の造船所の船台で建造中の駆逐艦「ヤーネル」DD-143 YARALL。

1917年から4年間の間に建造された「ウィックス級」駆逐艦は、
このように四本煙突がトレードマークです。

造船台の下の組み木の台まで内部の仕組みがわかるような模型になっていますね。

「ミズーリ」の後ろには、艦上で行われた日本の降伏調印式の写真が。

1944年10月14日、午後18時40分。
CA-70「キャンベラ」を牽引するタグボート、「ムンシー」ATF-107

台湾沖で一式陸攻の雷撃が命中し航行不能になった「キャンベラ」を牽引するために出動しました。
画面下の海面に日の丸をつけた航空機が見えます。

これは説明によると、50口型銃で撃墜したフランシス(銀河)だそうで、

「パイロットの一人はすでに海の下のデイビージョーンズに会う準備をしていた」

だそうです。
海で亡くなることをアメリカ人はよくこのように表現します。

「ガダルカナル任務艦隊第62機動隊」と書かれたキャップは、
60周年を記念して同窓会が行われた時に作られたものです。

ちょうどラッパで艦番号が隠れてしまい何かわかりません。

時代は飛んでいきなりベトナム戦争。

どうやらUSS「セント・ポール」の展示のようです。
「セントポール」の日本語wikiには、1945年の呉の大空襲、そしてその後
戦艦「マサチューセッツ」も参加していた釜石への攻撃に加わったことが
書かれているのみで、朝鮮戦争、ベトナム戦争については特に言及がありませんが、
実際に最も活動したのはベトナム戦争のときだったようです。

ベトナム戦争では右舷側に砲撃を受けたこともあります。(1967年、写真中央上)

そしてネイビーシールズのコーナー。
彼らの帽子の形を見ると、ベトナム戦争ではなく最近撮られた写真かもしれません。

かつらを被せないマネキンに迷彩メイクを施してます。

「セーラム」の妹艦、「デモイン級」の「ニューポート・ニューズ」のコーナー。

野球はアメリカのごくごく一般的な暇つぶし(パスタイム)です。
海軍では本格的なユニフォームまで作って、艦対抗の試合を行ったようです。

自衛隊でも艦対抗のスポーツ試合は群単位で集まる訓練先で行われますが、
例えば掃海隊でいうと、

「フネ対抗」

の原則は崩さないそうです。
つまり大人数の掃海母艦対掃海艇、という対決が行われることになるわけですが、
その方が盛り上がるらしいですね。

ここからは海軍ユニフォームのファッションショー。

左はわかりますが、右のこの格好、実に普段着っぽいですね。
ダンガリーのシャツとジーンズっぽい水兵の基本スタイルの上に
オレンジの救命ベストとカーキ色のジャケット。

寒冷地用にニットキャップも用意されていました。

この帽子は、「踊る大ニューヨーク」でシナトラが被っていたタイプです。
「SP」の腕章をつけていますがショアパトロールのことでしょうか。

アメリカ海軍ではこの夏の制服のことを「ホワイツ」と称するそうです。

手前士官のホワイツ、後ろは下士官と兵。

こうしてみると、自衛隊の制服ってアメリカ海軍とほとんど同じですね。
まあ、今は制服、特に海軍の制服はグローバリズムとでもいうのか、
冬服はネイビーブルーのスーツに夏は白の半袖、水兵さんはセーラー服、
とほとんどこの基本ラインは世界共通となっています。

江田島の幹部候補生学校卒業式でも、タイ王国の軍人さんが一人いても
肌の色も全員が同化してほとんど見分けがつかなかったですからね。

さて、というわけでこれで重巡洋艦「セーラム」、隅から隅まで紹介しました。


わたしとしては、ここの繋留期限が切れる4年後、「セーラム」がどうなるか、
果たして展示艦としてその後も保存されるのかどうかを注視していきたいと思います。

 

 

終わり。


稼働中の8インチ砲〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-23 | 軍艦

アメリカ東海岸はマサチューセッツのクィンシーに繋留展示されている
戦艦「マサチューセッツ」についてお話ししています。

艦内見学を終わって出て来ました。
連装砲としてマウントされているMk.12 38口径127mm砲です。

別の連装砲正面から。
38口径の砲は、スペックによると12門あるということなので、
マウントは6基あることになります。

展示している軍艦をチェックするには、グーグルマップが便利。
上空からの写真でどこに何があるか、甲板の上は全てわかります。

それによると、艦橋を守るように前後、右舷左舷に1基ずつ4基。
そして、艦橋の前後にある主砲を守るようにどちらも主砲塔の真後ろに1基ずつです。

「セーラム」設計の時にはまだ日本との戦争が終わっておらず、
その時のアメリカ海軍艦船の脅威というのは実は日本の特効だったので、
対空砲としてこのような設置を行なったということが、空から見るとわかります。

キャプスタンには直径10センチはありそうな舫が巻き取られています。

見学客は数える程いませんでしたが、ここには「昔海軍だったぜ!」
みたいなおじいちゃん(左)とその友人、みたいな二人とすれ違いました。

今年で第二次世界大戦が終わって72年。

アメリカでも日本との戦争を戦った人たちは時の流れとともにいなくなり、
まだ生きているとしても、終戦時には若い水兵だったり、士官でもせいぜい少尉。

司令官として戦争体験をした人たちは全てこの世を去りました。

彼らがベテランだとしても、それは朝鮮戦争かベトナム戦争のことでしょう。

後甲板にある三連装手法も、砲塔の中に入ることができます。
前甲板の主砲は、甲板より何段か階段を上がったところにありましたが、
こちらは甲板に直付けしてあります。

そのせいか、前甲板のように見学用のデッキではなく、直接登って行って入る
階段が設置されていました。

砲員たちは砲塔にかけられたラッタルを登っていました。

ハッチ状のドアは砲塔稼働中はぴったりと閉ざされました。

中に入ってみます。
二つのドアからしか光が入らないのに、明るいのが不思議です。

砲塔の中は二階構造になっていて、入ったらそこは1階の「トレイン」を上からみる
デッキかバルコニーのようになっています。

8インチ砲の最初の型式、Mk9が導入されたのは1925年のことです。
「ルイビル」 CA-28には、当初型の30キロはあろうかというものが積まれました。
「ルイビル」はリンガエン沖で2機、沖縄でなんと4機(陸軍の飛燕)の特攻を受け、
ズタズタになりながらも生き残った船です。
さぞかしその対空砲はその度に激しく火を吹いたのでしょう。

その後開発されたMK12、14、15まで全て手動式で、このMk16になって
初めて完全自動式の装填設備を備えることとなりました。

完全自動、ということは、砲員はローディングしなくてもいいので、
この上のデッキから操作をしていたのかもしれません。

 

三連装なので、「デモイン」「ボルチモア」「オレゴンシティ」クラスの砲は

「スリー・ガン・タレット」あるいは「トリプル・タレット」

と呼ばれていました。

 トレインには、まさに砲弾が一つ装填されようとしているところです。
砲弾を支えているようにアームが置かれ、後ろから押して装填するための、
ところてんの「突き棒」みたいなのが見えています。

今まで同じ大きさの砲弾を人間が実際に抱えて装填していたことを考えると、
自動的に装填し、砲撃に集中できるこのシステムは、神の恵みに思われたでしょう。

8インチ砲は1分間に10発、6秒に一回射撃することができました。
「スリーガンズ」ですので、砲塔単位でいうと1分間に30発撃てるということになります。

 三つあるトレインの一番左側。
砲弾を装填するアームのスリットからは砲弾が見えています。

後に挙げた「セーラム」の動画では、砲塔に入るところから、
入るなり全員がヘッドフォンをつけて準備するところ、
ローディングのために、一つづつスイッチをつけていくところなどがみられます。

それによると、この写真では砲塔下部から送られてきた砲弾が、筒状のこのアームに
送り込まれた後、アームは右から左に逆振り子のように振れて、
トレインに弾薬を置くと、元に戻り、次の弾薬を受け取る仕組みです。

とにかく、このビデオの5:00〜からみていただければよくわかります。
ピタゴラスイッチみたいで思わず食いついちゃったよ。

USS Salem Rapid Fire Guns Video

なお、動画によると、最初になんだろうと思っていたこれ、

この物体は『砲塔の中からでも外の様子がわかるオートマチックディレクター』と動画中で説明してますね。

最初の日にこれがなんであるかコメントですぐに教えていただけました。
持つべきものは博識の読者だと改めて感謝している次第です。

これはサイレンかなんかでしょうか。

砲塔に入る人は全員ヘッドフォンをつけていて、

司令室からや下の弾薬庫からの連絡はそれで聞き取っていたようです。

 ドアの上にターレット・スプリンクリング(散布)システムのガイドがあります。
始動のさせ方と止め方、「空気供給のボタンを押すこと」などとあります。

テーブルの四隅にはストッパー付き。
カウベルみたいなのが乗っていましたが、何かわかりませんでした。
理科の実験に使った「分銅」という感じの形です。 

 

さっき見たのとは別のところに時鐘があります。
赤いパイプということは消火設備でしょうか。

赤いパイプの先はドアの上まで来ていました。

外に降りるラッタルの横に、「セーラム」維持のための寄付をするポストがありました。

左のポストは、消防設備関係の点検や見回りで訪れる署員の連絡用だと思われます。

ラッタルを渡りきったところにある機雷も、その気になれば手でさわれます。
「セーラム」が積んでいたというわけではないので、なぜここにあるのかわかりませんが。

ラッタルを降りたところに小屋がありました。
入るときには誰もいなかったので、そのまま通り過ぎましたが、
このときに見ると、夫婦のような男女が二人、中にいました。

「入るときに誰もいなかったので・・・」

と声をかけてみると、そのときに初めて入館料を徴収する始末。
払わずに見るだけ見てそのまま帰ってしまった人も結構いたと思うがどうか。

鷹揚なのかいい加減なのかわかりませんが、決して資金が潤沢でもないのは
艦体のそこここが荒れて劣化しているのを見ても明らかなのに、
もう少しせっせと
お金を取ることを考えたほうがいいんじゃないかなと思いました。

上に挙げたユーチューブでは、火を噴く砲塔や艦体など、
できたばかりで最新式の自動装填を誇る「セーラム」はピカピカの新品です。

その68年後の姿をしみじみと眺め、艦に入ったときにふと浮かんだ、

「つは者共が 夢の跡」

という言葉をいま改めて噛みしめるのでした。

 


あと少し、館内展示のお話を続けます。

 

 

 


マウント55〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-22 | 軍艦

重巡洋艦「セーラム」には、主砲の他に副砲として、8" / 55口径5インチ砲を搭載していました。

その準備をするためのコンパートメントから見ていきましょう。
レディサービスルームというこの区画は、砲の真下に位置します。 

稼働中はハッチを中から締めることになっていたようです。
合戦時にドア・ハッチを締める印である丸エックスがついています。

 

かろうじて読めた説明によると、この区画は

Secandary Battery Mount #5 (AKA Mount 55)

第5副砲、通称マウント55

だそうです。
通称がマウント55なのは55口径.。
5番目というのは前から数えて5基目ということでしょう。 

8" / 55キャリバーガン 

現地の説明には本艦が搭載していたのはMk32であると書かれていますが、
それは重巡洋艦に特化した仕様となっていたようです。 

このコンパートメントは、パウダーケースと発射体が一時貯蔵されますが、
それが尽きたとき、弾薬はデッキ下部の取扱室から運ばれます。

 

もう一度この部分をご覧ください。

写真は解説図の「アッパー・ハンドリングルーム」の部分です。
一つのマウントに対し27名が稼働に必要でした。

ここでプロジェクタイルーホイストに装填した弾が、この上にある
「ガンハウス」に上昇していきます。 

これは上の図解でパウダーホイストの右側にあるプロジェクタイルホイスト。
発射体がちょこっと顔を出していて可愛いですね。 

缶ケース入りの装薬がゴロゴロと積み重なっています。

全てこのマウントで使用されたもの。
C、Dは装薬、 E、Fは発射体。

細かい説明は写真に失敗したのでできません!(いばるな)

ここにストアされていたこれらの弾薬や装薬は何種類かありました。

この区画は火薬などを扱うので特別の安全装置が施されています。
いざという時に部屋中にスプリンクラーが作動するのもここならでは。
このハンドルは直接的に手で回して作動するスプリンクラー。

印刷室にはボランティアの人が詰めていて何やらお仕事中だったので写真は撮りませんでした。
平日の昼間なので、艦内はほとんど人がいませんでしたが、廊下ですれ違った
一人のボランティアのおじいちゃんは、わたしがカメラを持っているのを見て

「なんかに載せるのかね。熱心だね」

とニコニコして声をかけてきました。 

ギャレーの隅にはゴミを処理する部屋がありました。
おそらくこのトレイに乗っけて粉砕するのだと思いますが、そのあと
どうなるのかは全く想像がつきません。 

テーラーショップがありました。 

制服を作ったり修繕したりする部署です。

 

下士官のジャケットにサービスユニフォーム、セーラー服もあります。
キャンバスの布がたくさん積み重ねてありますね。 

ズボンのアイロンはセットして挟んでしまうだけ。
ワイシャツもこんな挟み込み方式で綺麗にアイロンできてしまうんですね。
これはこれですごい技術が必要だったのでは・・・。 

売店は今は展示だけです。

貼り紙には、オリジナルキャップやTシャツなど、ストアショップが別のところにあるので、
そちらでどうぞ、と書いてあるのですが、どこを探してもそれらしい店はありませんでした。 

バイタリスの空き瓶、コーヒーミルクの紙パックなど、
ほとんどゴミ置きと化しているショーケース。 

売店の窓に貼ってあった大雪の日の「セーラム」の写真。
マサチューセッツは雪が降りますが、さすがにクインシーは
海沿いなのでここまで降ることは珍しいのでしょう。 

 

この洗面所はおそらく現在は使われていないでしょう。
手を拭くためのペーパーがないので。 

何のためにあるのかわからなかった部屋。
現在は物置のようになっています。

「セーラム」の現在のオフィスです。

昔からここにあったらしい写真と、同じ女優さんの新しい写真が並んでいました。

ここにもあった。「ウィッシング・ウェル」。
ここのように艦の底深くまで見通せるのは、おそらくここがバーベットの
脇にあるからだと思いますが、それを利用してコインを投下し、

「一番深いところに落ちたら願いが叶う」

などというノリで遊んでもらおうという趣向。 

小さな筒に狙って、実際に入れるのに成功した人も何人かいる模様です。

さてさて、「セーラム」にもありましたよ。艦内監獄が。

「ブリッグス」という艦内監獄、犯罪はもちろんのこと、規律違反、
例えばフネに乗り遅れたりした乗組員はここでお過ごしいただくことになっていました。

ブリッグスはここでは2つだけ。
「マサチューセッツ」では3つありましたが、まあ二つで十分というところでしょう。 

欧米人にとって床で寝るというのは、辛いだけでなくかなりの屈辱みたいです。
日本人は畳に布団で寝るのに慣れていますが、彼らは家の中も
靴で生活するので、その高さで寝るということは基本「無理」なんでしょうね。

というわけで、監獄の中ではこんな風に床で寝なくてはならず、
肉体的にも精神的にも辛さもひとしお、といったところでしょう。

ここにあった「ブリッグの規則」によると・・・

a. 収監者は常に身体検査を受けなくてはならない。
 検査は収監前、衛生士官、監獄士官?看守に寄って行われる

b.ブリッグスペースはいつも清潔にしておくこと

c.専用の衣服を身につける。
収監中は貴重品などを預かるが、釈放時に返却する。
もし無くなったりした時には捜査依頼にサインすること

d.規定の髪型にカットすること(坊主かな)
収監中は清潔を保つこと。口髭は禁止。靴を磨くこと

e.重労働収監者は仕事にアサインすること。
「パンと水」収監者は見張りのいるところでしか活動できない

(パンと水の収監者ということは、それしかご飯がもらえないとか?)

f.司令官かブリッグオフィサーが、イベントにおける行動を指揮する。

g. 収監者は一日に30分から1時間、運動か訓練に参加することができる。
もし状況が許せば。

いいように捉えると、訓練に1時間参加するだけで、あとは部屋で寝ていればいいと・・
(清潔にしながらね)

それなら収監の方が俺は向いてるぜ、という人も稀にはいるかもしれませんが、
まあこんなところで監視されながら、一日全く自由な時間なしに過ごすわけですから、
やっぱりあまりありがたくないものだと思われます。 

軍艦で悪いことはしないに越したことはありません。

ところで「セーラム」の写真の中に、アメリカで進行中の「ザ・ラストシップ」の
シーンが紛れていたのでついでに載せておきます。

ちなみにこれはすでに1年前現在のアメリカでのテレビです。

真田がね・・・悪いんだよ。

「奴らを皆殺しにしろ」

とかいって。

愛する人が死んでしまうとかいうそれなりの同情に値することもあったみたいですけど、
これ今どうなったのかしら。(フォローしてません)

続く。 


リスの喧嘩とワイルドターキー〜スタンフォード・ディッシュトレイル

2017-07-21 | アメリカ

当ブログと長年お付き合いいただいている方であれば、スタンフォードにある
ディッシュトレイルのリスについてご存知かもしれません。

というくらい、ここ何年か、わたしはシリコンバレーに来るたびに、
ここを訪れ、リスの写真を撮りまくってきたものです。
今年は西海岸での滞在もいつもほど長くないのですが、一度だけ、
朝7時という今まで来たことがなかった時間にカメラ持参で行ってきました。

そう、もちろんリスの写真を撮るためです。

トレイル(TRAIL)というのはもともと「引きずる」という意味があるそうですが、
アメリカでは州立公園や山間部、海岸沿い、小川沿いに、
市民が散歩したりバイクで走ることのできる小道のことをさします。

シリコンバレーはイメージよりずっと自然に恵まれていて、例えばグーグルでも
キャンパスと呼ばれる会社の敷地にヤギを飼うことのできるスペースがあったり、
すぐ近くが州立公園だったりしますし、フェイスブックも周りにトレイルがある
丘の中にポツンと建っていたりします。

スタンフォードディッシュトレイルは、高低差の大きな丘の一帯に
一周すると歩いて1時間少しの距離のトレイルを設けて解放しています。

最初にここにきた時には、いきなり足元にリスがいたのでびっくりしました。
もちろん大喜びで写真を撮りまくっていたのですが、地元民にとっては
リスなど珍しくもなんともない、雀とか野良猫みたいなものなので、
さぞかし物好きに見えていた(る?)ことでしょう。

ここにいるリスは、日本で見るシマリスとは大きさも模様も全然違う、
カリフォルニアジリス(地面に生息するリス)という種類です。

このリスでだいたい体長15センチといったところでしょうか。
シマではなく白い斑点があるのが日本人には大変珍しく見えます。

エントランスを入っていくと、まず心臓破りの坂?を登っていくのですが、
そのあと道は二手に分かれます。
右は降り、そして左はさらにきつい登り。

わたしは心臓破りの後の選択として、どうしても右に行ってしまうのですが、
ものすごいスピードで左を駆け上る人もいます。

この二人の男女は右側選択組でしたが、とにかく飛ばしていました。
カップルでマラソンにでも出るつもりかもしれません。

今回初めて早朝に来てみたのですが、期待していたよりリスがいませんでした。
しかも、カメラを向けると一瞬固まったのち、脱兎の勢いで逃げてしまうので、
望遠レンズの出番です。

花の種らしい綿毛を食べていたリス。
綿菓子みたいな感覚かもしれません。

道沿いの木に何か違和感を覚えてよく見ると、スズメバチの巣でした。

いつもは息子をサマーキャンプに送り届けてから、つまり9時ごろから歩いていましたが、
この時間はその頃と全く違い、空気がひんやりして寒いくらいです。
それが太陽が昇ると同時に猛烈な暑さとなり、昼間はとても外を歩けるような状態ではありません。

湿度が低いシリコンバレーでは、朝と夜の温度差が激しく、夜は寒くてコートが要るくらいになります。

朝早くならリスもたくさん出て来ているだろうと思ったのに、そうでもありません。
やっぱり夜行性で暗い時に活発なんでしょうか。

夜行性といえば、ここにはマウンテンライオンやコヨーテもいます。
わたしはお目にかかったことがありませんが、トレイル内に二つも
この看板があるということは、遭遇する人も結構いるのでしょう。

ただ、わたしは今回、道端にそのいずれかののものだろうと思われる
糞をいくつか発見しました。
そのいずれもがリスの毛がふんだんに混じっていたことから、
彼らの主食はどうやらリスらしいことを知ったのでした。

 

歩き出してしばらくいくと、リスの巣穴がたくさんあるゾーンに来ます。
ここでリスを見ることを期待していたのですが、今年はついに
二度目となるリスの喧嘩を撮ることができました。

いきなりX字型にがっぷり組んでおります。

残念だったのは喧嘩の場所までかなり距離があって、ピントが合わなかったこと。
レンズを調整する時間もないまま喧嘩が継続してしまいました。

彼らは巣穴の近くで餌を食べていた中くらいのリス同士ですが、
今まで遭遇した喧嘩に共通するのは、喧嘩するのは同じ大きさのリス同士です。

決して大きなリスが子リスと戦っているという構図にはならないようです。

そして、必ずどちらかが圧倒的に強く、強い方がそうでない方を押さえつけます。

しかし、弱い方もやられっぱなしではありません。
背中に乗って反撃を試みますが・・・

「ていっ!」「やられたっ!」

ということで、この表情です。
わたしはこの写真を見て鳥獣戯画を思い出しました。

倒れたリスが体制を立て直す前に飛びかかろうとするリス。

飛びかかられた方は逃げ出しました。
しかし、なんで喧嘩なんてするんだろうなあ・・・。

ここで終わらず、強い方が追いかけて行ってだめ押しの乱闘があったのですが、
その時彼らはわたしのカメラに気がつきました。

「・・・・・・」「・・・・・・」

外敵がこちらを狙っているのに、俺たちはなぜ今まで喧嘩なんかしていたんだ。

・・・・とか?

まあ、人間でもミサイルが隣国から飛んで来ているのに、マスコミと結託して
自分の国の政権を転覆させることしか考えていない人たちもいますので、
リスのことを愚かだと決して笑えません。

どうしてリスが少ないのかといいますと、このとき空には
トンビなどリスの天敵が獲物を探して旋回中だったからです。

朝早い時間は鳥のご飯タイムというわけです。

こちらの鳥さんは、地面におりて、盛んに足を踏みならしていました。
何をしているのだろうと思ったのですが、もしかしたら足で音をさせて、
出て来た虫を食べようとしていたのではないかと思われます。

 

もしそうだったら賢い鳥だなあ。

半分くらい歩いたところで、トレイルの名前になっている「ディッシュ」が出て来ます。
大型のアンテナがここには二つあるのでディッシュトレイル、というわけです。

スタンフォードディッシュという名前ですが、大学とは関係ないと思われます。

その時、遠くにワイルドターキーの一団を見つけ、
わたしの胸が高鳴りました。

朝早いとこういう大型の鳥類も見ることができるようです。

ところでさきほどの写真をみていただければわかりますが、

「ワイルドターキーに遭遇したら」

という注意書きがあり、

●近づかないこと
●大型のワイルドターキーは大きな音を出せば逃げる

(ちなみにこの看板の’deterred'のスペルが'detered'となってます)
●向きを変えて反対の方に逃げること

とあります。

ということは、結構どう猛な鳥とされているみたいですね。

わたしが前回別の公園で遭遇した一団も、今回も、こちらが何もしなければ
襲う様子もなく、むしろゆっくりとではありますが逃げていく様子です。

唯一、このターキーだけがこちらをガン見して、何か怪しい動きをすれば
その時はこの俺が黙っちゃいないぜ的な空気を濃厚に醸し出しておりました。

わたしが写真を撮っていると、歩いていた他の人たちも立ち止まり、
何人かはスマホで写真を撮っていました。

今時は下手に小さなデジカメならスマホの方が画像が良かったりします。

慌てず騒がず。
ゆっくりとターキーの一団は、悠々と見える様子で歩いていきます。

ところで、日本でワイルドターキーと調べると自動的に「七面鳥」となるのですが、
七面鳥とワイルドターキーは全くシェイプが違いますよね。

四羽のターキーの後ろ姿。

そういえば、今年の夏のアメリカではやたらビートルズが取り上げられてまして、
なぜか写真集なんかがたくさん発売されているみたいです。

トレイルには高低差があるので、もっとも高いところまで登ってくると、
スタンフォード大学のフーバータワーが
こんな風に下の方に見えます。

ニコン1(いつのまにか代替わりして今のはV3)の望遠レンズを今回駆使しましたが、
思いっきり寄せて撮ったリスの瞳に自分が写っているので感動しました。

空にはまだ鳥が旋回していたので、いつもは柵の上にたくさんいるリスも、
今日はこの子たった一匹だけでした。

こういう時にいつもどおりに見つかりやすい場所にいるリスって、
危険を認識していないのか、
それとも自殺願望でもあるのか・・・・。

つい最近、「イルカは自殺する」(水の底に潜ったまま呼吸をせずに自発的に死ぬらしい)
という話を聞いて心からショックを受けたばかりなので、ついこんなことを考えました。

ちなみにイルカの場合、自殺の原因はストレスや絶望感などで、飼育されている場合、
飼育員など自分が親しかった人間に事前に別れを告げてから死ぬそうです。

なんて悲しい話なのー! 

というわけで、今年のスタンフォードのリスについてのご報告を終わります。

 

 

 

 

 

 


彼女と映画〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-20 | 軍艦

「セーラム」は終戦直前に建造が始まり、その企画は第二次世界大戦、
特に対日本戦を想定して造られた最後の重巡だったことはお話ししました。

なので、戦後の戦闘指揮所、CICは当初は置かれておらず、その代わり
艦橋に戦闘指揮所である所の「タクティカルプロット」「フラッグプロット」
が置かれていたということをこれまで説明してきました。 


が、戦後は戦闘形態と戦闘艦の思想の変化に伴い、CIC(戦闘指揮所)がおかれました。
メインデッキの地図のどこを探しても CICがないので途方に暮れてしまいましたが、
写真だけがあるところを見ると、機材は現在では一切持ち出されてしまったのでしょう。

アナログコンピュータ、航跡装置、レーダーレピータ、航空、海上レーダー、
プロッティングボードなど、CICに必要な機器がわかりやすく写真でまとめられています。 

この「セーラム」全体が軍装備を展示するアーカイブであること、
全ての武器は非活性化されていることが書かれています。

艦内は飲食禁止(食堂以外は)であり、展示に触らないこと、とあり、
ちゃんと警報システムが作動していることが警告されています。

「オフィサーズ・カントリー」と彼らが称していた通り、この一帯はまさにオフィサーのナワバリ。
その一角に「フォト・ラブ」 があります。

艦の写真班が撮った写真を現像したり、あるいは手持ちのフィルムをここに出せば
現像してもらえたのかもしれません。 

カメラ博物館にありそうなカメラ類がぞんざいに飾ってありました。
一番右は8ミリ映写機でしょうかね。 

インスタントカメラって、ポラロイドカメラのことですか?
ポラロイドというのも会社の名前で、「ホッチキス」というように
会社名が名詞になってしまった例のようですが。

コダック社がポラロイドの一強独占を崩しインスタントカメラに参入したのは
1976年のことらしいので、 その頃にはもうとっくに引退していた
「セーラム」では現役時代使われたことのなかったカメラが飾ってあることになります。 

ホワイトボードなどというものがない時代には、紙の上にプラスチック板を貼り、
マジックインキで掲示板の書き込みをしていたようです。

「1958年10月22日」という設定で、映画の上映予定と、オペレーターが
それぞれの上映場所に対して書かれています。

セカンドデッキで映画が上映されるのは全部で8箇所もあり、
シックベイでも行われることもあったようです。

映画の題名は「カウボーイ」とか「カフェ・エンパイア」とか、
本当にそんな映画あったの?と思うようなものが適当に書かれています。 

 
 
なんのためのものかよくわからない掲示板には
 
「HAVE A NICE NAVY DAY!」
 
と可愛い絵とともに書かれています。


アメリカ合衆国では、海軍に理解のある大統領であったルーズベルトの誕生日、
10月27日となっていたのですが、1949年に国防総省の指示により、
合衆国海軍は海軍記念日そのものを取りやめ、5月の第3土曜日を軍隊記念日として
(Armed Forces Day)を祝うようになったそうです。

ここに書かれている「ネイビーデイ」はやはり10月27日のことでしょう。
民間団体などは、その後も引き続きこの日に海軍記念日の祝賀行事を行っているそうです。

 

我が日本は、日本海大戦に勝利した5月27日を海軍記念日としていましたが、
戦後にはなくなりました。
海上自衛隊における掃海隊の殉職者慰霊式は、非公式ではありますが5月27日を期して
毎年5月の最終金曜日が式執行日、翌日土曜が遺族を招いての追悼式と決められています。

何年に一度か、27日が金曜になる日が巡ってくるわけですが、
最近では2011年、2016年がそうで、この次が2022年となります。

隣のオフィスにはかつて映画上映に使われていた器具が置いてありました。

Navy motion picture exchange special services 

というのを調べてみると、1919年に結成された海軍内の組織で、
艦隊に娯楽のための映画を提供することを行なっています。
映画が海の上では何よりの楽しみであったことからきているのですが、
おそらくこれは、インターネットで誰でも映画が見られるようになった現在では
違った形になっているのではないかと思われます。

オープンリールの映画フィルムのパッケージには

「LAST OF THE DOGMEN」

という1995年の映画のタイトルが書かれています。
最後の犬男たち・・・・って?

LAST OF THE DOGMEN TRAILER

テーマがアメリカの少数民族なので日本公開もされていないようですが
なかなか面白そう。 

別の映画上映を行なっているところにはカセットビデオ用の「オンキョー」、
DVD用のソニー(右)が。 

この掲示板にはその日の映画上映予定が書かれています。
夏休みのせいか「ディスピカブルミー2」を(邦題知りません)やるようで、
ミニオンのケビンが・・・(可愛い)

”The Finest Hours” は邦題「ザ・ブリザード」。
相変わらず邦題のセンスがいまいちですが、ここに

「我がセーラムが出演します」

と書いているので見てみました。

映画『ザ・ブリザード』特別映像

いやー、みなさん、これなかなかいい映画でしたですよ。

沿岸警備隊の4人の男が、タンカーが二隻、別の場所で真っ二つに裂けてしまうような
ブリザードの中、上司に命令されてボートで救出に行くの。

もう絶対ハードモード、まず無理ゲーという波の逆巻く海、
チューブの中を波乗りみたいにボートを滑らせて、しかも波を被り
羅針盤を海に落っことした後も引き返さず、
半分に折れた「ペンドルトン号」の残り半分の生存者を助けに行くのです。
しかも、ボートの上に残りの生存者を30人くらいてんこ盛りにして、
帰りも羅針盤なしで母港にたどり着こうとするわけ。

この話、ニューロンドンの沿岸警備隊アカデミーで資料を見たような覚えがあるなあ。

で、半分に折れた「ペンドルトン」の内部の撮影に、「セーラム」の機関室とか
艦内が使われているというわけです。 

 


それから、ボードの右上に

「NEW RAPID FIRE NAVAL GUNS」

とあり8インチ砲と3インチ砲が火を噴く映像を映画で見ましょう、
というのがあります。 
昼間は森閑として人気がない艦内ですが、夜は色々と賑わい、
地域の人々の憩いの場所となっている模様。



「セーラム」は冒頭にもお話しした通り、「最後の重巡洋艦」。
細部は当時としても古色蒼然としたオールドスタイルであった訳ですが、

それがために、こんな映画に出演したことがあります。

 BATTLE OF RIVER PLATE PART 5 

 

「リバープレートの戦い」というのは「ラ・プラタ沖海戦」のこと。

第二次世界大戦中の1939年12月13日にラプラタ川河口の沖で起きたもので、
開戦以来大西洋、インド洋で通商破壊を行っていたドイツのドイッチュラント級装甲艦
「アドミラル・グラーフ・シュペー」がイギリスの巡洋艦3隻と交戦し、戦闘後、
損傷を受けたアドミラル・グラーフ・シュペーは中立国ウルグアイに入港し、自沈。
そのさらに2日後、ラングスドルフ艦長はドイツ帝国海軍旗(ナチス旗ではなかった)
を体に巻いて自決したと言われています。

日本人の我々にはあまり知られていない海戦ではありますが、
とりあえず映画は「戦艦シュペー号の最後」とかいう題で、
日本でも見ることができるようです。

前置きが長くなりましたが、この映画で
ドイツの重巡洋艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」を演じているのが、
なんとこの重巡「セーラム」なんですねー。

映画が制作されたのが1956年ですから、「セーラム」は現役バリバリです。
しかしながら、このころ実際アメリカでは冷戦構造の真っ只中で、
アメリカはソ連の大陸弾道ミサイルの開発に怯え、原子力潜水艦の開発を進め・・・、
つまりこのころの戦闘には大鑑巨砲の彼女はほぼ存在意義さえ失われていたのです。


戦闘艦としてあまりにオールドスタイルであった「セーラム」にとって、
ドイツの重巡に扮してその動く姿をフィルムにとどめることは、
退役前彼女の最後の花道であったのかとも思われますが、戦後は戦後で
「ザ・ブリザード」のような映画にも使われており、
その存在は戦争映画関連にとっては大変貴重なものとなっていると言えます。


続く。 



アンカー・ウィンドラス・ルーム〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-18 | 軍艦

 

戦艦より階数が少なくコンパクトな重巡は、一つのフロアに
実にいろんなものがあり、特にセカンドデッキと言われる
甲板の下の階は、士官にとっては衣食住医療娯楽全てがそこで賄える場所です。

それだけでなく、セカンドデッキには錨を巻き上げるためのウィンドラス画ある
アンカー・ウィンドラス・ルームというものもあります。

錨は艦首にあるので、この区画はどんな船でも同じ場所にあるのですが、
セカンドデッキにあるのが普通かどうかはわかりません。

戦艦「マサチューセッツ」のように懇切丁寧な説明がついていない「セーラム」ですが、
なぜかこの区画だけは非常に細かく解説がなされています。

まず

USS「セーラム」は二つの錨が装備されている
いずれも22,500パウンド(10トン)の重さで、
「バウワー・ストックレス」タイプである 

そしてこの部屋についての説明が。

この区画にあるのは2基の「アンカーウィンドラス」に関する機械で、
鎖を上げ下げするためのものである

 

それぞれのアンカーウィンドラスは水圧ポンプ(C)で動かされ、
それがウィンドラスの上にマウントされているモーター(H)を動かす

それぞれのアンカーウィンドラスは「ワイルドキャット」(シャフト、F)を動かし、 
主錨の巻かれた「スプロケット」(歯車)、あるいは
ロープを繰り出すための大きなキャプスタン(G)を動かす

電気モーターが直接強力にキャプスタンを動かす代わりに
水圧モーターがそれを行う
二つのワイルドキャットはそれぞれ一つの錨を360フィートの海底から
1分間に36フィート同時に引き上げることができる

それぞれのキャプスタンは40,500パウンドの重量を
10インチのマニラロープで1分間に134フィート引き上げられる

8ウェイトランスファーバルブDはウィンドラスを動かすためのポンプに
一つづつ繋がっているが、これは余剰性があるので
例えばポンプが一つ壊れても、もう一つのポンプで二つのウィンドラスを
(同時にできるかどうか知りませんが)動かすことができる 

ウィンドラスは通常「シップ・カーペンター」によって操作が行われる

ということです。
Cはかろうじて左上に見えますが、Hが写っていないのは残念。

アルファベットが写っているだけ説明すると

J フリクション・ブレーキ ウィンドラスのスピード調整を行う

K フリクション・ブレーキ・ハンドル ハンドルそのものはメインデッキにある

I  メイン・リダクション・ギア

電話より直接的に連絡を取るもののように見えます。
(右下のプレートにはいくつかの部署の"A-312-T"などという番号あり) 

「オフィサーズカントリー」というのはもちろん正式名称ではなく、
地図によるとこの部屋はウォーラントオフィサーの部屋です。
その隣がCPO(チーフ・ペティ・オフィサー) 下士官トップの部屋。

自衛隊だとそれぞれ「准尉」「海曹長」となります。

扉が閉じられており説明もありませんでしたが、地図によると
ウォーラント・オフィサー・メスということでした。

おそらくこの中に大きなテーブルがあり、彼らが従兵にサーブしてもらって
食事をする場所なのだと思われます。 

ウォーラント・オフィサーの部屋。
各部屋に二人が同居することになっていたようです。

大きな換気パイプが部屋のベッドの上を横切っていて、よく見ると
穴が空いて空気が出てくる仕組みになっています。
パイプには「ベント・サプライ」と書いてあるのが見えます。 

ちなみに、前回にも言いましたように、米海軍で初めて空調設備がついたのは
この「セーラム」の妹艦である「ニューポートニューズ」からです。
当然「セーラム」には空調はなかったことになりますが、つまりこれが
クーラーの代わりだったということでよろしいでしょうか。

ウィンドラス・ルームを中心に、艦首部分のセカンドデッキには
右舷に士官、左舷にウォラント・オフィサーの居室が集まっています。

この区画に、かつてセーラムのチーフウォラントオフィサーだった
ジョン・シャイファーの思い出のために、という銘板がありました。

我々の僚友でありセーラムのレストアに多大な寄与をし
そして惜しみなく助言を与えてくれた


下に続く細いラッタルがありましたが下は真っ暗。

士官の個室です。

エンジニアオフィサーも個室がもらえたんですね。
デスクの上には魔女が箒に乗って飛んでいるシルエットが書かれた

「ウィッチズ・ブリュー」(魔女のコーヒータイム、みたいな?)

という艦内のお知らせパンフが置いてあります。

 

「チャプレン」、つまり従軍牧師の個室。

従軍牧師は軍属、あるいは士官の階級を持っていることもありますが、
戦時国際法では衛生兵と同じように国際保護資格を有します。
軍人ではあっても非戦闘員、さらに赤十字によって保護される対象です。
 

従軍牧師の役割というのは

礼拝や教育、記念行事などの宗教に関連する式典の執行
戦場や医療の現場で臨終の人員を見取る

宗教教育や統率訓練、部隊や将兵に対する精神面からの支援など

多岐に渡ります。
息子の学校には専門のチャプレンが勤務していますが、
例えば学校で大きな事故があったとき(生徒の不慮の死や自殺など)
には生徒の精神的なケアを行うために待機し、学校側からも
問題があったらチャプレンに相談に行くように、と指示があります。

従軍神父は「特殊で高度な技能の持ち主」(wiki)として扱われるため、
例えば潜水艦ですら艦長と同じ個室待遇を与えられます。

しかし、特権階級にはノブレスオブリージュが伴うもので、従軍牧師たちも
いざという時には自分の命を犠牲にして兵の命を救うことがありました。

以前このブログでもご紹介しましたが、陸軍輸送艦に乗り組んでいた4人の司祭が、
Uボートに攻撃されて沈みゆく艦の上で乗組員の救助活動を行い、
最後は自分の救命胴衣を渡して艦と運命を共にしたということもあります。

四人の司祭


余談ですが、MKに「フォー・チャプレンズ」って知ってる?と聞くと、

「知らん。アカペラグループ?」

ちげーよ。


自分で産んでおいてなんですが、こいつは絶対にわたしの子だと確信しました。

従軍神父は赤十字に登録し、同じ扱いを受けることとなっていました。
このブラッドリー神父は、硫黄島の戦いそしてベトナム戦争にも参加しています。

検索すればいくつも動画が上がるくらい有名な神父だそうですが、
「セーラム」に勤務していたこともあったのでしょう。 

 

「チャプレン〜神聖なるサービス」

というメモには、従軍司祭についての任務の詳細が書かれています。
大きな船には必ず一人は神父が乗り込むことになっており、
彼らは多くの場合コマンディングオフィサー( 佐官クラスで艦長と同位)
の階級を与えられていました。

いかに従軍神父がキリスト教国家のアメリカで尊敬されていたかがわかります。
文章の最後にはこのような言葉が・・

「神無くして生きることは、すなわち困難な道を歩むことに他ならない」 



続く

 


ボストン美術館〜ウッチ・ゲットー生存者の写真

2017-07-17 | 軍艦

今年もまたボストン滞在中に美術館に行くことができました。

ボストンではどうしてもここで食べておきたい!と思うレストランの一つが
この美術館の中にあるので、食事をしに行くついでに?美術鑑賞しようという感じ。
実にイージーな美術館の利用法ですが、アメリカ人にとってこれが普通です。

世界に冠たるコレクションを誇る美術館なのにやたらと敷居が低く、
明らかに日本におけるそれとは違って訪れる人の層が広いのがボストン美術館。

独立記念日前の週末というこの日、ボストンでは大雨が降りました。
どこかに行こうかという話になったとき、わたしたちは

「雨がひどいし、こんなときには美術館でしょう!」

といかにもいいこと思いついた!みたいなノリで来て見たら、
嗚呼考えることは皆同じ、美術館前で車を預かってもらうバレーは
もうとっくに許容量を超えて預かりを締め切っている状態でした。

仕方がないので、自力で外の駐車場に停めにいくことにしました。
駐車場のゲートの上にもさりげにアートが・・・。

目的はレストランなので、通り道の絵を鑑賞しながら進んでいきます。

これはだれが描いたかは不明ながら、ナポレオン・ボナパルト肖像。

おそらくここで最も人気のあるアメリカ絵画の一つであろうと思われる
サージェントの

「エドワード・ダーレイ・ボイトの娘たち」

たくさんの人が前に佇んでいました。
今知ったのですが、エドワード某はサージェントの義理の息子だそうです。
つまり、この娘たちはサージェントの孫ということになります。

「わしの孫たち」

というより絵画のタイトルとしてはドラマチックな気がしますね。

全裸にヘルメットと首からスカーフだけという兵士の大理石像。

おそらくモネのサーカスをテーマにした絵を眺める人。

空中ブランコ乗りのドヤ顔とピエロの表情に注目。

レストランの近くの天井を浮遊している人たち。

ところで、こういう具合に人が詰めかけている状態なので、当然ながら
レストランは予約だけでいっぱいになっており、入り口では
一列に並んだ人たちに向かって一人ずつマネージャーが

「今ご案内は受け付けておりません」

と説明をしておりました。

カウンターでパックのランチを買って、テーブルで食べることにしました。
果物のヨーグルト添えとロールチキンサンド。

この廊下の壁にもアート。
これはどちらも影ではなく、壁にペイントされた絵です。

手前の影はペイント、向こう側は本物。

ポツンと隅っこにかかっていた絵。
こう見ると普通ですが・・・・、

アップで見ると実に質感が気持ち悪い。

右側は食べ物を買うための列ですが、途中にアメリカ人が群がっているケースがあるので
何だろうと思ったら、ボストンレッドソックスのデビッド・オルティスコーナーでした。

ドミニカ共和国の貧しい生まれから大リーガーに登りつめた人です。

アワードにもらったダイヤの指輪が4つ飾ってありました。
熱心に写真を撮っている人がいっぱいいて、ボストンではヒーローなのだと思われます。



今回は特別展というのか、今まで見たことがないコーナーがありました。

強制収用所に入っていたある一人のユダヤ人が撮りためた写真。
それを全て箱に入れて土中に埋めてあったのを掘り起こしたというコレクションです。

その人の名はヘンリク・ロス。
ドイツ国内のウッチというところににあったリッツマンシュタット・ゲットー
(ウッチ・ゲットーともいう)にいた人で、そこでの写真が多数残されることになりました。

左、ユダヤ人がつける「ダビデの星」。
右はユダヤ人専用の郵便に使われたゲットーの切手。

ロスの写真の中から。おそらく息子と共に撮った写真。

ゲットーでポートレートを撮っているところだと思われます。
何をしているのか説明を読まなかったのですが、団体写真ではなさそうです。
おそらく一人一人のポートレートを撮るのにこうやって並んでもらって、
カメラが一人ずつ焦点を合わせたのかもしれません。

写真屋さんの手間省きというわけです。

ボロボロになった写真には、ユダヤ人たちが移動している様子が写っていました。

ドイツ当局より2万人の「労働不能」なゲットー住民をヘウムノ絶滅収容所へ
「移住」させよ、という移送命令があり、まずジプシーが、続いてユダヤ人が移送され、
1942年5月末までにかけて、ウッチ・ゲットー内の5万5,000人のユダヤ人は
ヘウムノ絶滅収容所へと移送され、そこでガス殺された、とウィキにはあります。

ゲットーの中の人たちの写真。
ダビデの星をつけている人もいます。
どうしてロスがみんなの写真を持っていたかはわかりませんでした。

ゲットー内でのユダヤ人たちが仕事をしている様子です。
一番右は皮革を加工しているようですね。

土中に隠されていたロスの写真のうち、プリントされていたもの。

会場のモニターではそれらの写真が解説されていました。

これもゲットーの中での出来事でしょうか。
道端で子供が倒れておそらく死んでいるのに、誰も近づきません。

いずれの写真もゲットー内の「モルグ」(屍体収容所)で撮られたものだそうです。
下の二枚は「ボディ・パーツ」と説明がありますが、なぜモルグに体の一部分が
しかもこれだけたくさんの足や手が積み重ねられているのかまでは説明がありませんでした。

いずれも歴史的な資料としては大変貴重なものだとは思うのですが、
これをボストン「美術館」で展示していたことについては少し違和感を感じました。

さて、ゲットー生存者の写真コーナーを出ると、仏教美術のセクションです。

それにしてもこの仏様は少し態度が悪くないか?
やっぱり中国の仏像は日本のとは佇まいが違う気がしますね。

こちらも中国仏像らしいです。

前にも書きましたが、ボストン美術館と日本は大変縁が深く、コレクションも膨大です。
ということで、日本に対して随所で敬意を払う展示が目につくのですが、これなどもそう。
美術館の中にまるで日本の寺院の本殿のような一角を再現して、
見学者はその中に設えられたベンチで仏像と対面しながら過ごすことができます。

「日本の寺にいるつもりで見学してください」

と現地の説明にはありますが、線香の匂いなどが全くないのでわたしたち日本人には
とてもそのつもりにはなれません。

阿修羅像の額には仏眼という「第3の目」があります。
手塚治虫の「三つ目がとおる」を読んだ方はご存知ですね。

この6本の手のうち2本は何も持っていないのですが、時代とともに
破損するか失われてしまったのでしょうか。

手の形を見ると、どちらも長剣のような長いものを持っていた気がするのですが。

前回にはなかった、大正時代の日本の版画を紹介するコーナーがありました。
左のグラスを前にした美人画は小早川清の作品で「ほろ酔い」。

王道の伊東深水の版画もありました。
左は「眉墨」で、右は小早川清の作品です。

こちらも伊東深水で「雪の日」という題がついているようですが、後ろに雪の積もった
クリスマスツリーがあるのが目を引きます。
アメリカ人はこの絵を見てどのような感想を持つのかちょっと興味あります。

これらも当時の版画家の作品ですが、ほとんどが雑誌の挿絵に使われたような、
今でいうとイラストレーターの仕事なので、当時は「芸術作品」という扱いではありません。

当時の文芸雑誌「文芸倶楽部」に掲載された絵だそうです。

小説のストーリーに合わせて描かれたものでしょうね。
手ぬぐいで頰被りしている女性が、男性のことを考えているの図。

なぜかこの後も日本に関する展示が続きました。
こちら、明治時代に典礼などで用いられた礼装のセット。

ジャケットの胸部分と袖にあしらわれた金糸の刺繍の精緻さ、
ズボンの金線の織りの見事さは、これぞ芸術作品という感じです。

今回のボストンミュージアムの特別展は、サンドロ・ボッティチェリでした。
イタリアに行った時ウフィツィ美術館で見たものが引っ越ししてきているようです。

小さい時に画集で見て大変怖かった覚えのあるこの絵に再会しました。

ケンタウルスの髪の毛をぐいっと容赦無く掴んでいるのはミネルバだそうです。
ケンタの「やーめーろーよー」みたいな歪んだ顔に、ミネルバの非情さが、
ある傾向の方々にはとても魅力的に見える(かもしれない)作品。

しかしなんだって髪の毛掴まれてるの?

「どの口が生意気言ってるの、このケダモノが!」

「ああっお許しくださいませ女神様〜」(ゾクゾク)

みたいな?

ウフィツィでは「ビーナスの誕生」の実物を見ることができましたが、ここでは
その習作のようなビーナスの単身立像が展示されていました。

教会に置かれていたらしい磔刑の十字架実物。

「見て見て、なんか矢印の落書きされてる」

「これ落書きじゃなくて後ろから釘を刺されてるんじゃあ・・・」

状況から見てパリスの審判らしい大作もありました。

パリスのもとにヘラ、アテナ、アプロディーテーがやってきて、
誰が一番美しいか判定させようとし、彼はこの世で一番美しい女を妻にくれると言った
アプロディーテーを、最も美しいとした

って話なんですが、

賄賂をやってまでこの羊飼いに自分を美しいと言わせることで、
女神たちにとって一体どういうメリットがあるのだろうか、

とかねがね思っているのはわたしだけではありますまい。

単に3人の女の見栄の張り合い?

しかも、賄賂の甲斐あってパリスが美しいと言ったアプロディーテー、

「パリスに、船を作ってスパルタに赴き、ヘレネーをさらって妻にするようにと命じた」

って、これ何?

「世界一美しい女を妻にさせてくれるって言ったから
あんたを一番美しいと言ってやったのに、なに?
俺が全部自分でするのかよ!

って普通の男なら言い返すと思うんですが。

さて、たとえ食事をしに行くだけのつもりでも、あまりに広いので、
自動的に美術鑑賞もできてしまうというボストン美術館。

今回の訪問にも満足して帰路につきました。

ホテルに向かう通称マスパイク、I-90は、驚くべきことに今回
前線で料金所が廃止されており、通行が無料になっていました。

 

厳密にいうと、全ての車にETCに当たる器械の取り付けが義務付けられ、
ゲートではなくところどころにある道路の上のカウンターのようなもので
車の通行がカウントされ、その料金は「州が払う」ということになったようです。

どういう経緯かは知りませんが、大変な変革です。

それはともかく、マスパイク沿いの壁面に、なかなかの芸術作品が・・・。

このミニヨン+ホーマー・シンプソンみたいなのを含め、気軽にアートに浸った1日でした。
(ただしゲットーの写真除く)

 

 

 

”KILROY IS HERE (キルロイはここにいる)”〜重巡「セーラム」

2017-07-16 | 軍艦

さて、マサチューセッツはクインシーにある重巡「セーラム」見学。
メインデッキの一階下にあるセカンドデッキには、医療施設の他に
乗組員の胃袋を満たす食堂施設も全て集中してあります。 

ここは士官用のキッチン、「オフィサーズ・ギャレー」です。

階級ヒエラルキーが大きな意味を持つ軍艦の中では、士官とその他の扱いは
例えばキッチンも別、というようにきっちりと分けられています。

これは「コンスティチューション」など帆船の時代からのしきたりで、
一つ間違って船員の造反が起こったら船全体の危機にも繋がるため、
指揮系統と命令伝達をピラミッドのように統制し、あえて身分差をはっきりさせて
平等感を無くしてきたことから始まっています。

海上自衛隊にもこれはきっちりと受け継がれており、さして広くない自衛艦でも
幹部用と曹士用の調理室は別になっているのが普通です。

アメリカでは大きな軍艦はさらに「ウォーラント・オフィサー」という
ベテランの専門家である准士官の待遇を特別にしています。
日本だと「准尉」がこれに当たりますが、人数が少ないせいか、
アメリカ海軍が「スペシャリスト」という位置付けなのに対し、自衛隊は
「士官の補佐」という職種わけとなっているせいか、アメリカほどの
「特別待遇」はされていないように見受けられます。 

スープなどの鍋でしょうか。
下士官兵は並べられたフードウォーマーから自分で好きなものをとりますが、
士官の場合は全てテーブルセッティングのうえ、陶食器でのサービスとなります。 

同じギャレーを反対側から見たところ。
この区画は、「セーラム」が展示されるようになってからしばらくして、
地元のボーイスカウトがボランティアで整備、清掃を行って、
展示室としてみられるようにしたということです。 

なんと専用の肉切りテーブルが!

アメリカの空母では毎日牛三頭が消費されると聞いたことがあります。
まあ基本肉食人種が3000人から多くて5000人乗っていれば、
それくらい楽勝で食べてしまうんでしょうけど。

たかだか300人の乗員しかいない「セーラム」でも、肉切りテーブルが必要なくらい
毎日肉が消費されてたってことなんでしょう。 

こちらはメインギャレー。
兵員用のキッチンで手前のトレイに列を作り食べ物を取っていきます。
「セーラム」はボーイスカウトはじめ、誕生日パーティの貸し出し、
あるいは「ゴーストシップ企画」(笑)などでオーバーナイトをしているので、
この多人数用のキッチンは未だに稼働しているらしく、
電子レンジやコーヒーメーカーなど、最近揃えたらしい機器が見えます。 

大型冷蔵庫に右側はベーグルトースター。
アメリカでは普通にある回転式のパン焼き器です。 

グラス、ポーセレンのカップなど、割れるものを固定するラック。

大型のミキサー(グラインダー)はもうお役目が済んだようです。

そしてここは士官用食堂。
「セーラム」は士官の数が多いので、個室ではなく大きな食堂があります。
薄型のテレビもありますし、今も使われている模様。 

こちらも士官用食堂です。
この雑駁な感じが、士官用とは思えないのですが、大型艦なので
士官だけでも結構な人数がいたということなのだろうと思います。 

こちらがクルーズ・メス、乗員用の食堂。
こちらと比べれば壁の装飾やテーブル、椅子に違いがあるのがわかりますね。

乗員用食堂はだいたいどこでもそうですが、バーベット、つまり
砲塔の丸い壁の周りに置かれています。

今でも集会に使われるので、簡易椅子が積み重ねて置いてありました。 

キッチンの一部。ゴミは黒いゴミ入れへ。

ここにも大きな釜があります。
ラックの形状を見るとここはベーカリーでしょう。

自衛艦ではさすがにパンを艦内で焼くことはないと思いますが、
アメリカではパンが主食なので、ここがなくては始まりません。

自衛艦ではどんな小さな艦艇、潜水艦でも掃海艇でも、
ご飯をたく大きな炊飯器だけは必ず搭載していますが、これは
パン食の人種にはなかなかびっくりされるのではないかと思います。

手前のトレイに食後の食器を置いて、奥で洗います。
左側は食器洗い&乾燥機である模様。 

排水溝に繋がっている穴のうえにじょうご状のものをセットして
食べ残しや飲み残しを廃棄したのだと思われます。 

メニューが貼ってあります。
「ジェネラル・メス」 とあるのですが、「ジェネラル」は「一般の」という意味?
まあ、海軍にはアドミラルはいてもジェネラル(将軍)はいませんから、
そういう意味だと解釈します。

本日のスープ
グリルドビーフ・ステーキ
グレービー
グリーンビーンズ
スライスド・オニオン
シェフズサラダ
フルーツジェロ
パン、バター、飲み物

ある日のメニューはこのようにありますが、これはメニューというより
材料ではないのか?という気もします。
まあ、一品ずつ分けて書くとたくさんあるように見えますからね。

小皿にちょっとした一品を取り分けて皿数を増やし、
食卓を賑やかに見せるのと同じようなものですか。 

その下にはどういうわけか、サラダのメニューだけが番号とともにあります。
おそらくレシピがこの番号で管理されているのでしょう。 

ウォルドーフ・サラダ (ウォルドーフ・アストリアホテルが発祥と言われ、
リンゴやナッツ、セロリ、マヨネーズのドレッシングを用いて作られるサラダ)
とかはわかるのですが、「レタスサラダ」とか「オニオンリング」も

一応レシピがあるみたいです。

左から朝昼晩のメニュー。

朝 冷たいフルーツジュース
  朝食メニューから選択
  ジェネラルメス・ペストリー
  トースト コーヒーかお茶

昼 イギリス風仔牛のカツレツ
  リヨネーズポテト
  グリーンビーンズ炒め
  エッグカスタードソース添え

夜 トマトクリームスープ
  アソーテッドテーブルレリッシュ
  ポークチョップバーベキュー
  FFコーン炒め
  ほうれん草蒸したの
  アップルソースとココナッツクリームパイ

うーん、これは美味しそう。 

それからアメリカらしいなあと思ったのが、

「右舷側はピーナツバターのライン」

「左舷側はアレルギーのライン」

という貼り紙が子供のお泊まりの朝食用にでかでかと貼ってあること。
アメリカの子供はお弁当にピーナツバターパンをよく持たされたりして、
ピーナツバターの食に占める割合が大きいのですが、それだけに
アレルギーに対しては驚くくらい神経を払います。
逆にいうと、子供のピーナツバターアレルギー、多いんですね。

息子が行っていた幼稚園は共同経営の形をとっていて、お遊びの間に
危険がないか見張る当番が週に一回回ってきたり、自治会も親が運営していたし、
スナックタイムも、その日の当番の母親(月一回くらい回ってくる)が
自費で全員のおやつを用意することになっていました。

わたしは張り切って、いつもいろんなものを用意して行ったため、
先生に「彼女はスナックママの”プロ”よ」と絶賛されたくらいでしたが(自慢)
このとき「スナックに持って行ってはいけないリスト」の筆頭が
ピーナッツバターであったことは印象深い思い出です。 

キッチン廊下の壁には9つのポストがありました。

「セーラム」に乗務していたシェフは全部で9人。
これはそれぞれ在庫をチェックし調理に必要な食材をメモして
ここに入れ、調達をする部署がこれを元に食材を調達したということです。
 

「ゲダンク」というのは海軍特有の隠語で、ソーダファウンテンのことです。
その語源については戦艦「マサチューセッツ」で詳しく説明しましたが、
簡単にいうと

1、 ベンディングマシーンの操作音が「GEE-DANK」と聞こえるから
2、当時のマンガ「ハロルド・ティーン」の主人公ハロルドが、
  食べていた「ゲダンク・サンデー」から
3、中国語。 ”Place of Idleness" (怠惰の場所?)

ということです。

ここにもゲダンクの語源についてのいくつかの説明があったのですが、
わたしが以前調べた上記の説と少し違っていたのは

「ハロルド・ティーンの行きつけのお店はシュガーボウルと言ったが、
なぜかハロルドはここをゲダンクと呼んでいた。理由はわからない」

とあったこと、それから新説として

4、 ドイツ語で「TUNK」はグレービーやコーヒーを垂らしたりする意味があり、
DUNKINGというのはパンなどを液体にひたすという意味があるが、
そこまで行かずとも「少し柔らかくする」という言葉で
DUNKほどではない、 TUNKくらい、と言ったのが語源とする説
GE-とついているのはドイツ語であることを強調する意味でつけられ、
GE-TUNK →GEDUNK と変わっていったのではないかと言われる

まあ・・・いずれにせよ答えの出る話ではないので、アメリカ人も
色々と推測して楽しんでいるのかなといった感じを受けます。

このポスターには 

「映画が始まる前にゲダンクに用意してある飲み物とスナックをどうぞ」

と書かれています。

 

さて、映画は士官、CPO、兵員の各食堂などで行われるわけですが、
その前にリフレッシュメントをゲットするゲダンクの冒頭写真を見て
何か気づきませんか?

画面左の方です。

 "KILROY WAS HERE" IS HERE !

 

続く。

 


ボストン雑感〜淡々と写真を貼るシリーズ

2017-07-15 | アメリカ

 

というわけでいつのまにかボストンでの滞在期間も終わり、今は西海岸におります。
息抜きに(ここのところ翻訳が必要なエントリ制作が続いて疲れました)
ボストンで撮った写真を淡々とあげていきます。

今年のジュライフォース、独立記念日は火曜日だったため、その前の金曜日から世間は
日本でいう大型連休の様相を呈していました。

わたしがボストンに来るといつも朝歩く州立公園に行ってみると、
ゲートが開く前になんと車の列ができています。
朝一番で公園に乗り込み、バーベキューや水遊びで一日過ごそうとする人たちです。

ところでこれが今回ボストンで借りていた車。
なぜか何回もトラブルで車を取り替えに行く羽目になった年もありましたが、
今年は日本車、しかも日産のローグという上物を手に入れたため、
何事も起らず無事に返すことができました。

しかし、車を選ぶとき、二台ローグがあったので、なんとなく
ニューヨークナンバーを借りたのがこの公園で裏目に出ました。

ゲートでは車一台につきいくら、で料金を徴収するのですが、
マサチューセッツ州ナンバーであれば8ドル、それでも安くありませんが、
州外車はなんと15ドルも徴収されることがわかったのです。

「あー、もう一つのローグ、マサチューセッツナンバーだったのに」

さすがにこれは考えになかった。

一年ぶりに歩くおなじみの公園。
いくつかボストンで公園を探して歩いてみましたが、ここが一番しっくりします。
車を駐めて一周歩いてきたら50分くらい、という距離もちょうどいい。

今回は珍しく滞在中に雨がよく降りました。
夏場は夜の間に降って、朝には止むということが多く、結局一度も傘をささずに
ボストンを去ることが多いのですが、今年は昼間ずっと降っている日もあり、
まるで日本の梅雨のような感じでした。

ありがたいのは雨の前後でも日本ほど蒸し暑くないことです。

雨が降った後だったので、風はひんやり冷たく、ウォーキングには最高でした。

平日は誰もいないキャンプエリアにたくさんの人が見えます。
朝早くからハンモックを張ったり、チャコールでバーベキューの用意をしたり。

「しかしこんな早くから来て一日どうやって過ごすんだろうね」

この日公園に朝からいたのは、全部と言っていいくらい皆ヒスパニック系でした。
朝っぱらから大音量でスペイン語の音楽をガンガンやっている人もいましたが、
周りが全員同じ民族なので、おそらく喧嘩にはならなかったでしょう。

なぜこうなのかというと、それはこの日がジュライフォース前の週末だったからです。

大型連休の間、中産階級以上のアメリカ人はどこか遠く、と言っても国内の、
例えばフロリダとかハワイなどのリゾート地、この辺ならケープコッドに行ったりしますが、
労働階級であるヒスパニック系はおそらく7月4日には飲食店かホテルか・・・、
とにかく人が遊んでいるときに働かなくてはいけないわけです。

アメリカの民族ビジネスは、アラブ系=ガソリンスタンド、インド系=土地、不動産、宝石
韓国系=クリーニング店とマッサージパーラー()、中国系=郵便局、免許センター、
そして南米系はハウスキーピング、ウェイトレス、そしてガーデナーというのが相場です。

彼らは前の週末かあるいはジュライフォースが終わってから代休をとり、
8ドル出せば1日過ごせる公園で休暇を楽しんだりするのでしょう。


それにしても、写真に写っている家族、朝からなにやら一生懸命食べていますが、
オバアチャンから子供まで満遍なく太っています。

メキシコって実はさりげに世界一デブが多い国だったりするんですよね。

こちら、ごく日常的なルーチンワークのように散歩をしている人(と犬)。

この州立公園は、池とせき止めたダムの下の低地とで成り立っています。
水辺があったり鬱蒼とした山林があったり、狭い範囲に変化のある景色がみられるのも
わたしがここを好きな原因です。

足元を注意して歩いていると、時々ツチガエルに遭遇します。
アップにしましたが、このカエルくんの大きさは小指の爪よりも小さいです。

おなじみのガチョウの群れ。

鳥さんお食事中。毛虫を捕まえましたね。
ものすごく食べるのに苦労していましたが、もしかして毛虫の毛のせい?

食べたらなんかやばいことが起こりそうな気満々のきのこ的なもの。

わたしたちが写真を撮ったりしながらぷらぷら歩いて行くのに対し、
運動する気満々のMKは親を置いてズンズン先を歩いております。

これは珍しい。
ここで初めてツバメを見つけました。
どこで生まれたのか、飛び始めてまだまもない子ツバメのようで、
少し飛んでは先に降り、こちらが近づいて行くと慌ててまた飛ぶといった具合。

羽を広げると、背中の部分が綺麗なブルーであるのに初めて気づきました。
ツバメって真っ黒じゃないんですね。

怖いのか、こちらを盛んに気にしながらぷるぷるしています。

まだ初心者マークのツバメくんたち、外敵に襲われないうちに飛べるようになるんだよ。

さて、ボストンでいつも買い物をするブティックが前回も言いましたように皆閉店したので、
今年はプレミアムアウトレットに足を向けてみることにしました。

ボストンとプロビデンスの間に、WRENTHAMと書いてレンサム(日本語ではレンタム)
という町がありますが、そこに大きなアウトレットモールがあるのです。

去年に続き、日常着にお役立ちのブランドをここでまとめ買いしました。

住んでいた地域でもっともハイグレードなモールには、一流ブランドも入っています。
今年一番ウケたヴィトンのディスプレイ。

「これはきもい」

そう言いながらみていると、いきなり閉じていた目が

Ф Ф カッ!

と開いてびっくりしました。

このモールにはニーマンマーカスというアメリカではもっとも
高級志向と言われているデパートもあります。

ニーマンマーカスの中には結構ちゃんとしたものを食べさせるレストランがあって、
今年も行ってみました。

ちなみにこのパーティションの向こうにはディオールとかセリーヌとか、
とにかくハイエンドなお洋服売り場となっております。

1日に一着売れるのかというくらい、いつ見ても人がいません。
まさか三越みたいに外商お得意様が家を回るシステムでもないだろうし・・。

ホールフーズでも、ズッキーニをヌードル状にカットしたものを「ズードル」と称し
パスタの代用として売っていますが、ここではズードルパスタが食べられます。

今回ホールフーズで一度だけ、パックの寿司を買ってみました。
マグロとアボカドをドーナツ状にしたご飯の上に乗っけて、
余ったところにふりかけをかけたその名も

「ドーナツ・スシ」

でございます。

味は・・・ご飯にマグロとアボカドをのせた味がしました。

MKのサマーキャンプが行われていた学校の近くにある、
滞在中は何度か通ったアイスクリーム屋さんに、今回一度だけ行ってみました。

懐かしい通学路でつい写真を撮ってしまうわたし。
この画面の右側にある教会の墓地には、南北戦争の犠牲者のお墓があります。

というわけでまたやって来た「ウルマンズ・アイスクリーム」。
今年は横に「ケトルズコーン」というテントが出ていましたが、これが何かわからず。

お店の屋根の上にある風向計が、風見鶏ならぬ『風見コーン』なのに初めて気づきました。

フローズンヨーグルトのブラックベリーというのを頼んでみました。

これが一番小さな「キディサイズ」。
日本で買う六個パックのハーゲンダッツ三個ぶんくらいでしょうか。
この上が「ワンスクープ」で、ほとんどのアメリカ人は「ツースクープ」を食べます。

車の中から食べながらアイスを買うアメリカ人を観察していると、
痩せた人はキディサイズかワンスクープ、太った人は子供でも
ツースクープにかぶりついていることがわかりました。

サイロのある道具入れ。
向こうには顔を出して写真を撮るパネルもあります。

アイスクリームを食べながら牛を近くで見ることもできます。でっていう。

さて、モールに戻ります。
西海岸ではもう珍しくも無くなったテスラのショールーム。
去年どこかの駐車場で颯爽とやってきたテスラがガルウィングのドアを開けたら、
周りの人が「おおお〜」みたいな感じで目を丸くしていたものですが、
こちらでもモールにショールームもできて、じわじわ数は増えて来ているようです。

ちなみに息子は「大きくなったら俺テスラに乗る」そうです。

同じモールにこういうお店もあります。

ニューベリーコミックスというこのお店は、基本コミック、漫画を売っているのですが、
本は売り物のごく一部で、あとはキャラクターグッズがほとんどです。

最近の主流は、ポケモン以外では日本のリラックマ、ぐでたまなど。
くまモンなどのご当地キャラ以外は全てアメリカでも有名です。

ハンドスピナーと言って指に乗せてクルクル回す(だけの)もの。
これに「ニンジャ」という名前をつけて売っていました。
これこそ「で?」っていうオモチャですが、日本でも今は売っているそうですね。

このコミックショップでつい買ってしまった、猫キャラクター「プシーン」
シッポ&猫耳つきパーカー。

日本っぽいキャラクターですが、作者はアイリッシュ系の白人女性です。
小さいときに日本にいたことがあるとか。

モデルは息子。
じ、自分で着るために買ったんじゃありませんからね?

 

 

 


シック・アイランド〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-13 | 軍艦

重巡「セーラム」の見学者が行ける一番高いところである03レベル、
つまりナビゲーションブリッジを見学したので、
メインデッキから一階下にあたるセカンドデッキまで降りることにしました。

降りて来る途中にあった「トランスフォーマー」。
日本語でトランスフォーマーというとタカラトミーのあれで、
マーベルと組んで今やアメリカ人大好きシリーズのあれを思い浮かべますが、
つまりは変圧器のことです。

「トランスフォーマー」というネーミングはアメリカ人的に当初
「変圧器・・・・だと?」って感じだったのではないかと思われますが、
言葉そのものの意味、「元の形になる」というのがシャレっぽくて受け入れられたのかな、
とわたしはアメリカでトランスフォーマーの上映初日、満員の映画館で思いました。

ちゃんとドアに本艦搭載の3連装主砲が描かれております。
海自でいうと砲雷科士官室、というところでしょうか。

火災の時に必要な装備の倉庫。
海水を組み上げるためのポンプ、防火服、マスクやボンベなど。

 

現在は何も置かれておらず、ウォータークーラーと
なぜかコピー機があったりする広い部屋。

セカンドデッキは主に士官の居住区になっており、
兵員らのバンクがある部屋はこれより下の階です。

士官の中でも上級の乗組員の居室であろうと思われます。

ダイヤル式のもしもし電話が鎮座していました。
コードが螺旋ですらないという・・・・。

ここで階下に続く階段が出てきました。
が、中途半端に階を変えるとどこにいるのかわからなくなるので、
とりあえず無視して進みます。 

白いヘルメットに赤十字のマーク。
タイルの床。
これはなんとなくシック・ベイ(医療区画)の予感?

やはりそうでした。
いざという時には大量の乗員を運び込めるくらい広い部屋に、
天井には無影灯があります、

向こう側のハンガーには衛生班が身につけるグリーンの術衣が無造作に。
手前にあるのは酸素発生器(簡易)のようです。

 

・・・・どう見ても婦人科用診察台なのだが。

反対側のドアから見た同じ部屋内部。
廊下を挟んで中央にあり、どこからでも入れるようになっています。

デスクの上にあるのは遠心分離機あるいは消毒器。

シャウカステンに乗っているのは肘正面からのレントゲン写真のようです。
 

こちらは普通の診察室のようです。
地図には「サージェリー&リカバリー」室とありました。

印象としては、戦艦「マサチューセッツ」よりスペースに余裕があるということ。
廊下もそれほど狭いというわけではありません。

 

「左舷F.M.カットアウト」

などと記された配管とバルブ。

歯医者です。

予約は朝の集会の後で電話でとってください
ただし緊急時はその都度
 

緊急時ってのはつまり虫歯が痛くて死にそう〜!みたいな時のこと?

展示がなかなか凝っていて、いかにも治療中のような小道具が置かれています。
トレイの上に何か色々と乗っていますが・・・・

わざわざコットンに血を染み込ませて治療中を表現しております。

さらにその中にさりげなく入れ歯があるという素敵な演出。
そもそも入れ歯の必要な人なんて乗組員にいたんですかね。

区画には仕切りで区切られて二つの診療台がありました。
同時に二人まで診察を受けることができるということになりますが、
さすがに歯科医は一人しかいなかったんだろうな。

タイプライターがあるので、 処方箋を調剤のために作った部屋かもしれません。

細かい引き出しと瓶がたくさん並ぶ、ここは調剤室。

なぜか電気が消えた暗〜い部屋がありました。
アクリル板でベッドのコーナーには立ち入りできないようになっています。

安静が必要な患者のための病室です。

ここはなんの病室?と思ったら、普通に床屋でした。
三つの椅子が向かい合うようにセッティングされていて、軍隊の床屋では
出来上がるまで自分がどんなカットをされているかもわからないものなのか?
と思いました。

まあ黙って座れば、自動的にクルーカットにされていた時代ですしね。

遠くてよくわかりませんが、ここでカット中の床屋さんの写真があります。

軍艦の中では鏡はこのように壁から浮かせてがっつりと固定させます。
カットが済んだ人は、自分で鏡を見て初めてどんな髪になったのかわかるというわけ。

 

「セーラム」の乗組員は士官と兵員合わせて1738名。
戦艦「マサチューセッツ」と「セーラム」」の艦体の大きさの違いは長さ10m、
幅約10mしか違いませんが、排水量を比べると「セーラム」1700トンに比べて
「マサチューセッツ」35,000トンと、二倍以上違うのです。 

それだけに「マサチューセッツ」の方がかなり区画が複雑で広く、
各部署が入り組んでいるのに比べ、「セーラム」の方はほとんどの施設が
メインデッキの一つ下の「セカンドデッキ」に集まっているという印象です。


それと、残念だったことは、「セーラム」は機関室を毎日公開していないことでした。

機関室は一応、必ず係員が同行するツァーに参加すれば見学することはできますが、
そもそもこの「セーラム」自体週末三日しかオープンしておらず、この日は料金を査収する
入り口のブースにすら人がきていない(ので払わずに入ってきた)
という状態で、 誰がいつ一体機関室ツァーを行なっているかというのも謎のまま。

一体どうなっているのかとHPを見てみれば、

ボランティア活動

ボランティアの仕事がうまくいったので信号旗の「ブラボー」「ズールー」
を掲揚したりして盛り上がっているようです(T_T)

が、はっきり言ってツァーのことなど全く触れられておりません。

どうも、「セーラム」の修復は、こういう有志の協力なしには進まず、
艦内ツァーもボランティアがいるかどうかにかかってくるという状態らしく、
それも「セーラム」に思い入れのある元乗組員が中心とあっては、
進む作業もなかなか進まず、ツァーどころではないのではと思われます。

第一ボランティアというのは仕事で忙しい人はできないわけだし、
どうしてもリタイア後のご老人ということになってしまうわけで・・。

4年後には元乗員のボランティアも数が減ってくるのは必定ですが、
その時「セーラム」をここに繫留しておくための契約が切れます。


この歴史的重巡洋艦を後世に残せるかどうかの試練は、その時やってきます。

 

続く。 

 


 


”アメリカ人はなぜコーヒーを好むのか”〜ボストン・ティーパーティ博物館

2017-07-12 | アメリカ

ボストンティーパーティ博物館についてのお話、最終回です。

わたしたちのパーティが乗り込み、三つの茶箱をボストン湾に投げ入れた
エレノア号という船は、実際にティーパーティに参加し、茶箱を投げ入れた
実際の船を資料に基づいて再現したレプリカです。

ただしゼロから造り上げたのではなく、1936年に造られた船(左下)を
改造して現在の形にし、ここに展示してあるのだそうです。

「歴史の浅い国」といわれるアメリカの、その誕生に関わる出来事ですから、
それだけに史実を語り継ごうとする意志は他国より強くなるのかもしれません。

船を降りれば終わりかと思ったらとんでもない。
さすがに28ドルもの見学料を取るだけあって、この後、
まず桟橋で先ほどのルーシーさんの説明がまたひとしきり行われます。

桟橋には当時の商船が積んでいた貨物一式が再現されていました。

レモンがやたら目立ちますが、例えば1772年には、35万個の注文に対し、
200万個以上のレモンがボストンに荷揚げされたという話があります。

イギリスは植民地に対し、自分とこでできた余剰品を売りつけてたんですね。

茶法では、関税なしでアメリカに茶を売ることを認める法律だったため、
アメリカの業者が扱うより安い茶が国内に入ってきて、そのため
国内の業者がやっていけなくなったというわけです。

ティーパーティ当日、60人から90人といわれる名もない男たちは、
顔を消し炭で塗ってインディアンのふりをし、迅速に、そして静かに
斧で各船のハッチを壊して船内に入り込み、340ものお茶の箱を海に投下しました。

重さにすると46トン、被害総額は現在の価格で140万ドル(一億五千万円)。
まあこれだけ放り込めば、海水も紅茶の色になったかもしれませんね。

この様子を、1000人もの見物人は、ただ黙って、静かに眺めていたそうで、
事件の現場となったグリフィン湾には、ただ斧が木を打ち破る音だけが響いていました。

全てを終えた後、「愛国者」たちは肩に斧を担ぎ、街を行進しました。
自宅からそれを見ていたイギリス軍のモンタギュー提督は、彼らの列が通り過ぎる時、

「おお、諸君は結構なことをしてくれた!
そのインディアンの衣装でさぞ面白かったことだろう。
しかし、覚えておくがよい。
諸君はいずれバイオリン弾きに金を払うことになるぞ

"pay the fiddler"というイディオムは、自分でしたことは自分に返ってくる、
とか、天に唾を吐く、という意味で使われます。

それを聞いていたジョン・アダムスは

「我々にとって全てのうち最高の瞬間だった

つまり効いてる効いてる、と日記に書いているそうです。

冒頭写真の船首飾り、フィギュアヘッドは船の名前と同じ「エレノア」です。
そのエレノアが誰だったかについてはおそらくみなさんもあまり興味がないと思いますが、
船を表す代名詞が女性形であるわけは、昔船の名前に船主なり偉い人の
関係者の女性の名が使われたからであったことがわかります。

博物館の後ろ側にはボストンのフィナンシャルディストリクトを控えます。

何か面白い絵があったのでアップにしてみました。
イギリス側のプロパガンダで、タイトルは

「ボストニアンが”税男”にやったこと

ロイヤリストだった税関員ジョン・マルコム(アメリカ人)がパトリオットである
靴屋を殴ったとかで、愛国者たちが彼を「リバティツリー」の前に引き摺り出し、
服を脱がせてタールを塗り、鳥の羽をまぶして(靴屋との諍いに理由があるらしい)
税関の手数料を放棄するように迫りました。

彼が拒否すると、リバティツリーに吊るすぞと脅しをかけ、
さらには耳を落とすといわれて泣く泣くいうことを聞いたとか。

この絵では沸騰したお茶をマルコムの口に無理やり注ぎ入れていますが、
これはイギリス側の制作だったからで、イギリス側から見ると文字通り

「アメリカに煮え湯を飲まされた」

みたいな表現のつもりだったのでしょう。

この事件は英米双方で報道されましたが、たがいが相手を
非難しまくったであろうことは想像にかたくありません。

ちなみにマルコムはその後イギリスに移民したということです。
まあそうなるでしょうな。

1774年、ノースカロライナ州イーデントンの女性41人が茶会事件に呼応して
お茶をボイコットする声明を出しました。

これを「イーデントン・ティーパーティ」と言ったとかいわなかったとか。

ちなみに、2009年、アメリカの保守派が「ティーパーティ運動」と称する
ポピュリスト運動を打ち出しましたが、なぜティーかというと、

Taxed Enough Already(もう税金はたくさんだ)

だからだそうです。誰うま。

船を降りた後、皆はしばらくそのへんをウロウロして見学などを行います。

トーマス・ハッチンソン(上)とサミュエル・アダムス。

ハッチンソンは直轄植民地で著名なロイヤリストの政治家でした。

イギリス政府が植民地に押し付けた税法には反対していたのですが、
ジョンやサミュエル・アダムズからはイギリスの税を推進する者として
敵認定され、さらにはイギリスからも独立運動のきっかけを作ったとされ・・。

マサチューセッツに対する愛をイギリスに対する無批判の忠誠に捧げたことで
板ばさみとなり、結果どちらからも憎まれてしまった悲劇のロイヤリスト。

晩年は不運にもイギリスに追放されてしまったそうです。

当時の貨物は人力で滑車を使って積み込んだわけですが、
ここには改良前と改良後、二つの滑車が再現されています。

左の滑車では持ち上がらない茶箱が、右のでは軽々と。
なんかこういうの物理の授業でやりましたよねー。

中国茶でも高価なスーチョンなどの茶は小さな箱に入れられましたが、
安い茶は大きな箱で運送したため、それらは平均150キロくらいの重さになりました。

滑車でも使わないととても船の上には上げられません。

グリフィンズワーフはティーパーティの現場となった港。

建物の反対側になんと別の船がありビックリしました。
こちらのパーティから少し遅れて今は茶箱を放り込んでいるようです。

埠頭にあった行き先札には

「レキシントン」「ケンブリッジ」「セーラム」「コンコルド」

など、ボストンではおなじみの地域が書かれています。

向こう側の船の扇動人は若い男性。
手にしたカップで合間に何か飲みながら仕事をしております。

スターバックスのマグを使ったりせず、昔のビアジョッキのようなマグに
間違いなくコーヒーを入れて飲んでいると見られます。

建物の外側にはわかっているティーパーティの参加者の名前が刻まれています。
「ティーパーティ参加者」=「パトリオット」(愛国者)という認識なんですね。

 

この後はさらに建物の中に入り、映画などを見せてもらえます。

「コンコルドブリッジ 1775年の19人」

と題した絵は、撮影禁止の展示場を出たところに飾ってありました。
ご存知のように、独立戦争の先駆けとなった、イギリス軍とアメリカの民兵の間の戦いです。

オールドノースブリッジの戦い。

結論から言うと、この戦いはアメリカ側の勝利であったのですが、
ここでは数的にも戦術的にも劣っていたイギリス軍は不利になり逃げたと言うことです。

館内で見せられた映画、これはアメリカ人ではないわたしも胸に来るものがありました。
このころの戦争ですから、白兵戦ですが、戦いに身を投じる覚悟で
レキシントンに立つアメリカ人たちの悲壮感がドラマチックに表現されていたからです。

前にも一度お話ししたことがありますが、アーリントンに住んでいた時、
隣町のレキシントンで、独立記念日には地元の人たちによる

「レキシントンの戦い・再現ショー」

が行われているのを見ました。
こんな衣装をどうやって調達してどこに収納しているのかとわたしは目を見張ったものです(笑)

この絵には左に太鼓奏者がいますが、基本当時の戦闘は音楽付きで行われました。
そして、その戦いを100人ほどの見物人が見守っていたといいますから悠長なものです。

戦いの前に、指導者は民兵たちに向かって「ハザー!」と呼びかけ、
彼らの士気を煽りました。

と言うわけですっかりティーパーティ事件とその後の独立戦争につながる
動きに詳しくなった(つもりになれる)見学が終了。

出たところは即カウンターでお茶とお菓子が食べられるようになっていました。

おみやげ屋さんでは、茶箱を再現した木箱に詰められた紅茶を売っています。

茶会事件の後、沿岸に流れ着いた茶箱を拾ってそれを保持していた人がいて、
現物を室内展示では見ることができましたが、こんな綺麗な色だったとは。

ここには帆走フリゲート「コンスティチューション」の修理の時に出る廃材で作った
万年筆などの記念品を購入することもできます。

わたしも去年ボールペンを買って帰りましたが、この599.99ドルって高くない?

ティーパーティ博物館なので、お茶のセットも売られています。

さすがに本物のティーセットはいらん、と言うアメリカ人向けに、ミニチュアセット。
小さい時のわたしなら、目を輝かせてねだっていたと思われます。

ところで皆さん、最後にこの「エレノア」船長室の写真をもう一度見てください。
船長の横には手紙を書きながら飲んでいる紅茶があります。
イギリス人が紅茶付きなのはもう伝説のようになっている鉄板の事実です。

ところがアメリカ人は紅茶というものをまず飲みません。

アメリカ人はいかなる場合もコーヒーファースト。
逆に紅茶愛好家には肩身がせまいくらい、スーパーマーケットでも紅茶売り場は小さく、
バルク(量り売り)の紅茶をレジに持って行ったら、

「これ何?」

と聞かれるくらいのお土地柄。
最近でこそグローバリズム(笑)とかの影響で、西海岸では紅茶の店も出現してますが、
マニア向けといった感じで、スターバックスほど人が入るということはまずありません。


アメリカに住んで以来、あらゆるシーンでそのことを実感していたのですが、
今回改めてティーパーティ事件のことを考えてみたとき、
あたかも神の啓示のように(大袈裟だな)その理由がストンと腑に落ちたのです。

アメリカ人の紅茶に対する拒否感(そこまで行かずとも冷淡さ、興味のなさ)
の原因は、
遡れば植民地支配していたイギリスへの怒りが

「(イギリスの)紅茶なんか飲んだるかーい!今すぐ持って帰りやがれい!」

という愛国→独立運動とシンクロしたことにあるのではないか。

 

そういう仮説のもとに改めてティーパーティについて記された英語のwikiを読むと、

「ジョン・アダムスと他の多くのアメリカ人は、茶会事件以降
紅茶を飲む行為そのものが、非愛国者のそれだと考えました。
革命の最中からそれ以降、アメリカでは紅茶を飲む人が減少し、
その結果としてコーヒーが好ましいホットドリンクとされました

とあります。

わたしは、この茶会事件が、アメリカ人をアメリカ人たらしめているコーヒー志向を
形成した、という史実にこの人生で初めて気づき、猛烈に感動したのでした(嘘)