ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

Dデイ予備爆撃とフランティック(半狂乱)作戦〜国立アメリカ空軍航空博物館

2024-07-21 | 航空機

第二次世界大戦の爆撃機によるヨーロッパ本土攻撃について
アメリカ国立空軍博物館の展示をもとにお話ししてきましが、
今日はいよいよノルマンディ侵攻作戦、Dデイについてです。

■ノルマンディ侵攻作戦掩護としての爆撃

冒頭の博物館パネルは、Dデイにアメリカ陸軍第8空軍の重爆撃機が
フランスのナンシーにあるエセー・エアフィールドのハンガーを爆撃した痕。
月面クレーターのような爆撃跡が点々とし、いくつかのハンガーは
完璧に吹き飛ばされて跡形もない状態です。

1944年5月までに、戦略爆撃作戦はドイツ空軍の戦闘機部隊を無力化し、
この結果、ノルマンディー侵攻が可能となりました。

1944年6月6日のDデイ前の数週間、第8空軍爆撃機群は
ドイツ軍の兵力集中地帯、飛行場、輸送目標を攻撃し、
Dデイが発動されると、連合軍がノルマンディ堡塁から脱出するために
攻撃によってそれを支援しました。


1944年6月11日、ロワール川の橋を破壊し、
敵軍のDデイ・ビーチヘッドへの進入を阻止する第8空軍の爆撃機。


ノルマンディー北部を攻撃する重爆撃機。

連合軍の重爆激機は、ノルマンディー侵攻の前日、
実際の海岸からはるか北にある敵の海岸防衛線を攻撃しました。


これは、実際の上陸場所から違うところをあえて叩いて、

本当の侵攻作戦が行われる場所を撹乱するための作戦でした。

敵はこの場所に守備力を注入せざるを得なくなり、兵力が分散されて、
この作戦はある程度成功したと言われています。

■ミッキーマウス好きのドイツ将校



Dデイのためのサポート攻撃の一つ。
1944年7月4日、エヴロー・フォーヴィル(Evreaux Fauville)飛行場は、
第8空軍の重爆撃機による攻撃で使用不能となりました。

写真はトライポフフォビアなら背中がぞわぞわするほど穴だらけ。
一つ一つの爆撃痕は大きいですが、上空から見るとこのとおりです。

連合軍爆撃隊によるフランスの飛行場への度重なる攻撃により、
ドイツ空軍は飛行場を使用できなくなっていきました。

「私は個人的に、あなた方の空軍がなければ、
侵攻は成功しなかったと確信している」

戦後、連合軍側にこのように言ったルフトバッフェの中将がいました。
ドイツ空軍なので階級はGeneralleutnant です。


みなさん、この、あまりドイツ人らしくない空軍中将の顔、
覚えていらっしゃいませんか?
そう、ルフトバッフェのエースであった、

アドルフ・ヨーゼフ・フェルディナンド・ガラント中将
(Adolf Josef Ferdinand Galland)1912-1996

です。
バトル・オブ・ブリテンのとき、何が足りないかと聞かれて

「スピットファイア」

とよりによってゲーリングに向かって言い放ったった話は有名です。

ちなみに、彼とヘルマン・ゲーリングは実は大変仲が悪かったそうで、
一方、アルベルト・シュペーアとは尊敬し合う仲だったとか。

リベラルというか、立場をあまり考慮しない物言いが、
ドイツ空軍首脳部にとっては面白くなく、揉めることも多かったようです。


スペイン内戦中、コンドル軍団第88戦闘機グループの参謀長だったとき、

ミッキーマウスのペイントが入ったハインケルHe51に乗っていた人、
といえば思い出す方もおられるでしょうか。

我々の目から見てもただものではない感じのパイロットであった彼は、
操縦も射撃の腕も大変優れていて、それだからなのか、
野心的でいつも注目を集めることが大好きな目立ちたがり屋さん。


この頃の彼は、このミッキーペイントの戦闘機に、
水泳パンツだけで乗り込み葉巻を咥えながら操縦していたそうです。

曰く、

「ミッキーマウスが好きなんで、いつもどこかに身につけている。
葉巻も好きだが、こちらは戦後やめなければならなかったよ」


彼はその期間中隊名にも「ミッキーマウス」とつけていました。
流石にアメリカと戦争するようになってからは控えた・・のかな。



■ オペレーション・フランティック
ソ連からのシャトル爆撃

1944年、アメリカはソ連の指導者ヨシフ・スターリンを説得し、
アメリカ空軍機がソ連西部の基地から出撃する許可を得ました。

6月から9月にかけて、第8空軍と第15空軍は
「フランティック作戦」Operation Frantic というコードネームの下、
合計7回のいわゆる「シャトル空襲」を実施しました。


作戦ルート、右側の星印(ウクライナ)から出発


あるいはこちら

ソ連の空軍基地を使用するというアメリカの作戦は、
ドイツ側に米ソの連携をアピールする目的もありましたが、
結論から言うとソ連は非協力的だったので、7回しか攻撃せず終わりました。


具体的にどう非協力的だったかと言うと、
一部の目標に対してソ連が拒否権を発動しまくったそうです。

この頃から潜在的に両国は互いを敵視していたわけですからね。


ただ、航空隊の現場では互いに友好的だったそうです。


同じフィールドにYak-9とB-17がいるというシュールな光景


ロシア語でB-17の機体に「北極星」とペイントされてしまうも、

ニコニコしているお人よしなアメリカ人たち


「USSRとUSAより、枢軸国へ(プレゼント)」
左から米露露米米米



キエフ近郊のソ連空軍基地に着陸する第15空軍のB-17。
ソ連は3つの飛行場を用意して対処しました。



地中海連合空軍司令官のアイラ・イーカー(Ira Eaker)中将が、
最初のシャトルミッションを指揮しました。

写真はソ連に着陸した直後のもの。


ソ連に上陸して4日後、イーカーの爆撃機は
ルーマニアのガラティの主要航空基地(写真)を攻撃し、
ソ連の飛行場に戻るというシャトル爆撃を行いました。

6月11日は、イタリアに戻る途中でルーマニアの別の目標を爆撃しています。

ユーゴスラビア上空を飛行してUSSRに向かう第15空軍のB-17編隊
1944年6月2日

シャトル空襲の際、ソ連軍や民間人の中に強制降下させられ、
アメリカ人であることを証明する必要があった場合に備えて、
飛行士が携帯していた「セーフコンダクトパス」(安導権)


B-24のナビゲーター、ヴェル・ドリソン中尉が
「フランティック作戦」で携行した身分証明書とフレーズシート

このパイロットを助けたら政府から報奨金が出るから(襲ったりしないで)
ということがロシア語と英語で書いてあります。


以前も一度紹介していますが、
ライマン・バーカロウ大尉が作戦で着用していたジャケットとカメラ。

カメラはソ連に没収されそうになったのを死守しました。

■フランティック作戦:アメリカの目的(と失敗)

遠く離れたドイツの目標を攻撃することは、実のところ、
アメリカにとってフランティック作戦の主な目標ではありませんでした。

アメリカは、ここで前例を作り、基礎を作って、
後にシベリアから日本を爆撃しようとしていた

といわれます。

最終的な目標はソ連に多数のアメリカ空軍を設立し、
シベリア作戦に切り替えることだったんですね。


もう一つの(というか表向きの)目標は、両国間の信頼と協力の発展でした。

少なくともアメリカは、戦後の世界において、
ソ連と友好的な関係を確立できると思っていました。

(友好の目的が自国の利益でしかなかったことはさておきます)

そのために、技術と研究、特に電気通信、気象学、航空偵察、
航空輸送ネットワークにおける緊密な相互協力と交流を提案しました。

しかし、ソ連はしたたかで老獪でした。

このとき、アメリカはソ連に、

「300機から400機のB-24爆撃機を提供するから、
アメリカ本土で
ソ連軍に訓練させてはどうか」

と提案したのですが、スターリンはこの申し出を受け入れず、その一方、
シベリアに着陸した米軍爆撃機をこっそり保管し、コピーしていました。

しかもソ連から提供された基地は、米空軍の希望より辺鄙な場所で、
そもそもインフラが西側の基準からして全く不十分なもので、
重爆撃機は春になると泥の海に着陸を余儀なくされていました。

これは政治が絡んだためです。

赤軍空軍そのものは、前述のように強力的で支援に熱心だったものの、
官僚機構と政治は戦略的にアメリカを警戒敵視し、

隙あらば利用する気満々でしたから当然といえば当然ですが、
8月から9月にかけてソ連の態度は露骨に敵対的なものとなり、
1945年までにアメリカの小規模部隊は大きな苦悩を残して撤退します。

一方イギリス空軍はというと、チャーチルの意見で不参加を決め込み、
アメリカの苦労を高みの見物していたようです。

米ソの亀裂が決定的となったのは、ソ連がワルシャワ蜂起の支援にも、
ソ連領土からのアメリカ人捕虜の送還のためにも、
基地を使用する許可を出さず非協力的だったことからでした。

現場においても、ソ連は戦力防御が呆れるほど不十分なくせに、
アメリカ側の、レーダー誘導砲と夜間戦闘機の支援を拒否したことで
両国間の関係はさらに悪化し、アメリカは作戦中止を余儀なくされました。

ソ連側からすると、アメリカの領土侵略の野心を見抜き、
これを拒否することでその目論見を挫いたということなのでしょう。
(本日書いたことはあくまでもアメリカ側の視点からの意見なので、
実際はどうだったかはわかりませんが、たぶん)

いずれにせよ、このときの両国の協力体制は壊れ、最終的には
のちの冷戦を予感させる不協和音を生み出すことになりました。


いまさらですが、「Frantic」とは、以下のような意味があります。

(恐怖・興奮・喜びなどで)気が狂ったような,半狂乱の,血迷った.

大急ぎの,大あわての.



続く。




ビッグ・ウィーク(アーギュメント作戦)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-18 | 航空機

■ ”ビッグウィーク”1944年2月20-25日

1944年2月、アメリカ空軍とイギリス空軍は、
ドイツの航空産業とドイツ空軍に対して全面的な作戦を展開しました。 

この欧州戦略爆撃作戦とは、第八空軍と第十五空軍の重爆撃機が、
昼間は航空機、エンジン、ボールベアリング工場に打撃を与え、
イギリス空軍の爆撃機が夜間に攻撃するという一連の流れを持つものです。

計画立案者らは、ドイツ空軍を決戦に誘い込むために
ドイツの航空機産業を攻撃し、ドイツ空軍に甚大な損害を与え、
連合国空軍が制空権を獲得することで、
ヨーロッパ大陸侵攻の成功を確実にしようとしていました。

■イギリス空軍の立場


ところで、第一次世界大戦時に生まれた戦略爆撃の定義として、

「敵の非戦闘員、特に工場労働者の戦意を喪失せしめる」

という目的を持つものがありました。


民間地域の攻撃は無差別攻撃と同義であり、
第一次世界大戦時から道義的観点から議論されてきましたが、 
あだ名に「爆撃機」「ブッチャー(屠殺屋)」を持つ、
この英国空軍元帥、アーサー・ハリス準男爵という軍人は、
「戦略爆撃の意義を民間人攻撃に置くべき」と唱えた軍人でした。

敵都市破壊爆撃が勝利の鍵と考える軍人は彼だけでなく、
おそらく1942年ごろは多くのRAF関係者がそう感じていました。

しかし、ハリスの考える空爆はさらにアグレッシブなもので、

◎単一の都市に一時間半にわたり1000機もの爆撃機をなだれこませ、
都市防衛―対空砲火だけでなく、消防や救護活動をも無力化し、
爆弾と焼夷弾を集中して焼き払う

◎飛行機には容量の許す最大限の焼夷弾を積み、
2400メートルの高度から落とす


◎発生する火災現場に後から駆けつける消防夫を殺傷するために
遅発性の信管をつけた11キロ爆弾を混ぜておく


など、人道的にはそれってちょっとどうなの、という方法でした。
まあ戦争に仁義や道義などあるか、と言われればそれまでですが。



連合国側の容赦のない民間人殺戮の典型とされるドレスデン攻撃は、
このハリスや空軍大将チャールズ・ポータルらの考えによるものです。

ドレスデン爆撃では市民が25,000人程度と見積もられる犠牲となり、
この戦争である意味最も物議を醸した空襲といわれています。
(上の写真は火葬を待つため積み上げられた民間人犠牲者の遺体)

さて、どうして今この人の話をしているかというと、
「アーギュメント作戦」の立案の際(このあとのDデイのときも)、
ハリスは地域爆撃に固執する立場からこの作戦に反対したからです。

彼は、特定の石油や軍需品の標的を爆撃するようにという指令を、
上級司令部の「万能薬」(彼の言葉)であり、
「ドイツのあらゆる大都市で瓦礫を跳ね返させるという現実の任務」

から目をそらすものであるとみなす傾向がありました。

反対する彼を説得し、米軍と共同のアーギュメント作戦を実行させたのは
ほかでもないチャールズ・ポータル空軍大将でした。



有名なヤルタ会談で、チャーチルの後方(左から2番目)にいるのが
Charles Frederick Algernon Portal,
1st Viscount Portal of Hungerford, KG, GCB, OM, DSO & Bar, MC, DL 


ポータル将軍の考えは、ハリスよりやや穏健というのか、

細密攻撃の重要性を認めてはいましたが、つまりは
ドイツの戦争努力と市民の士気に打撃を与えれば半年以内に勝利につながる、
というもので、そのことからドレスデン攻撃にゴーサインを出しています。

そのポータルがなぜハリスを説得せねばならなかったかというと、
ドレスデン爆撃について色々と?知らされたチャーチルが、

ポータルに地域戦略爆撃を中止せよと最終命令を下したからです。

チャーチルは、


「ドレスデンの破壊は連合軍の爆撃行為に対する重大な疑問として残る」

として爆撃から距離を置く立場を取りました。

惨劇の歴史的評価が自分に向かうことを恐れたのかもしれません。

ポータルはそれ以上地域爆撃を推し進めるわけにはいかなくなりました。

■アメリカ陸軍航空隊の立場

ドイツの航空産業をピンポイントで叩くという攻撃方法は、
口で言うのは簡単でも実際は破壊は難しいし敵は修復を容易にしてしまう。
特に資材輸送のロジスティクスを破壊するのは現実的に全く不可能でした。

アメリカ空軍は航続距離のため戦闘機の援護なしで爆撃をしていた頃は、
爆撃機に重武装させることである程度成功していましたが、
レーゲンスブルグでは対空砲と敵戦闘機の迎撃で深刻な犠牲を出します。

この頃アメリカ軍の爆撃機を研究したドイツ軍は、
戦闘機に重武装を施した双発重戦闘機を配備し、
アメリカ軍の戦闘機がいなくなってから悠々と攻撃を行いました。

アメリカ軍としてもドイツの戦闘機をやっつけたいのは山々ですが、
彼らは連合軍との真っ向勝負を避けるので、めったに交戦に誘い込めません。

そして第二に、護衛任務の間、連合軍戦闘機は、

爆撃機の編隊を守るため、緊密なフォーメーションを組んでいたので、
敵戦闘機を追撃・攻撃することもできませんでした。

そのとき、

「空中で叩けないなら工場を叩けばいいじゃない。」

と言ったのが、あのジミー・ドーリトル少将です。

というわけで立案されたのが、
「ドイツ航空機産業の完全破壊」
を目的とした生産工場への精密爆撃でした。

連合国空軍の上層部は、この作戦で失われる自軍の航空機は
1日で全体の7%から18%、
作戦が6日として全航空機の42%から100%
が失われると計算していました。

この作戦のために、米軍司令官フレデリック・L・アンダーソンは、
全航空機と乗組員の4分の3(つまり736機の爆撃機)
を犠牲にする用意があるとしました。

また作戦決行にあたり、連合国は、部品、エンジン、翼、
機体の生産に関わるドイツの産業のあらゆる部分、
および工場の組み立てに関する情報の収集を進めました。

そして、作戦が成功するための気候条件として、

○数日間好天が連続していること
○イギリスの上空約600~4,000mの間に雲があり
○ドイツの目標地域の上空に雲がないこと


としました。
勿論このような状況は極めて稀であったため、指導部は、
予報が許容可能な飛行天候の兆候を少しでも示すと、
すぐに、とにかく作戦を実行することにしました。

コードネームは "Operation Argument "
これはのちに"Big Week "として知られるようになります。


この頃には米空軍の戦闘機は掩護に十分な航続距離を持っていたので、
ドイツ空軍の守備隊を大混乱に陥れることになります。

米空軍はビッグ・ウィーク中、約4000機の重爆撃機を出撃させ、
2000万ポンド以上の爆弾を工業・軍事目標に投下しました。



1944年2月24日、B-24の攻撃で飛行場の完成機が爆弾で破壊され、
激しく燃えるゴータ航空機工場。


偵察機によって撮影された爆撃後のゴータ航空工場。
壊滅的な被害の跡を見せています。


二日前の2月22日にもイギリスから米軍爆撃隊が出撃したのですが、
悪天候のため攻撃を中止して帰還しています。
しかし、帰り際にオランダ国境のナイメーヘンという都市を
爆弾を捨てついでに爆撃して、数百人単位の民間人が犠牲になりました。

Gotha 航空ではゴータGo 145練習機、ゴータGo 242突撃グライダー
ライセンス生産されたメッサーシュミットBf 110を生産していました。
以前当ブログでご紹介した、ホルテン兄弟開発による
ジェットエンジン搭載ホルテン・ホー229も作っていました。

24日の攻撃では169機のB-24がゴータを攻撃しており、
米空軍は200機以上の爆撃機を失い、約2600人の死傷者を出しました。

それに対し、ドイツは使用可能な戦闘機の3分の1を失い、

かけがえのないベテラン戦闘機パイロットの5分の1が戦闘で失われました。



続く。




ターゲット ベルリン(友軍爆撃の悲劇)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-15 | 航空機

バッファローネイバルパークシリーズと同時に、
オハイオの国立空軍博物館展示の紹介も再び進めて行こうと思います。

アメリカ空軍(当時は陸軍)がヨーロッパでどのような航空戦略を展開し、
その経過と最終的な結果までが資料で紹介されているこのコーナー、
前回は連合軍が慣れない?ヨーロッパでの航空攻撃で
いかに苦労し、工夫し、そして犠牲を払ったかまでお伝えしたと思います。


ところで、アメリカ空軍の主要かつ最終攻撃の標的、それはベルリンでした。

■ なぜベルリン爆撃だったのか



ドイツの首都ベルリンは、その工業的重要性だけでなく、
ルフトバッフェが何がなんでも防衛せねばならない拠点であり、
だからこそその過程で彼らに大きな損害を与えることができるからです。

米空軍は1944年3月6日、ベルリンに対して最初の大空襲を行いました。

米軍は672機の重爆撃機でベルリンを攻撃、うち69機が撃墜されました。
そして2日後、174機のP-51に護衛された462機の爆撃機で帰還しました。


米空軍のオールマン・カルバートソン中佐が1944年3月6日、
米空軍初のベルリン大空襲で使用した地図です。

赤い線は爆撃機の進路、赤い丸で囲んだ部分は対空砲の集中を示します。
細かい網目になっているということは、よほど細かく、
都市上空を隈なく網羅して進路をとったかを表しています。

戦後准将になってからのカルバートソン
ヨーロッパでの爆撃作戦にはベルリンを含め11回参加した



1944年3月6日、第447爆撃群のB-17パイロット、
ウィリアム・H・レクター少佐が、
アメリカ空軍初のベルリン大空襲で着用したゴーグルと空軍ヘルメット。

博物館写真

■ブランデンブルグ・アラド航空製造への爆撃


ブランデンブルクのアラドで炸裂する爆弾。
1944年8月4日の攻撃。

アラドArado Flugzeugwerke GmbH は、

1961年まで存在したドイツの航空機会社でした。

スミソニアンの航空博物館にあるアラド製の爆撃機を
ここでも紹介した覚えがあります。

当時アラドはブランデンブルク最大の企業であり、
戦争とヨーロッパ諸国の占領政策の結果、
多くの外国人労働者が働いていました。

1942 年にはドイツ人従業員が約 4,000 人であるのに対し、
非ドイツ人従業員は 22,000 人、その後も数は増えましたから、
アメリカ軍がアラドの工場を爆破したことで、
犠牲になったのは実はドイツ人より外国人や囚人、(ユダヤ人含む)
がほとんどだった、ということになるのです。

まあもっとも、アメリカにとっては生産の拠点を潰すことが目的なので、
なに人が亡くなろうが、そんなことはどうでもいいわけですが。

そして1944年4月18日、アメリカ軍の爆撃によって、
ハイデフェルトにあるアラド工場では
ハインケルHe 177爆撃機の生産を終了させられました。

He 177は、それまでバルト人、セルビア人、スペイン人、フランス人、
オランダ人、ベルギー人の労働で生産されていました。

この攻撃の後、ボイラー室と いくつかの設備が破壊されたため、
工場はより軽量なフォッケウルフ Fw 190だけを生産し続けました。

6週間後には生産は再開されましたが、それまで
航空機製造は別の工学工場などで代わりに行われました。

しかし1944 年 8 月 6 日(写真は8月4日とされる)の空襲により、
航空機の製造は一時的に中断され、1945年3月の空襲で
完全に生産の目処は断たれてしまうことになりました。


炎上し、対空砲火に囲まれながらも、このB-17は
編隊を維持してベルリンに爆弾を投下しています。

「マスターズ・オブ・ザ・エアー」でも、対空砲火を受けて
エンジンが破損し、パニクった副操縦士がすぐに脱出を、というのに対し、
機長はふざけるな!とすぐに怒鳴り返し、こういいます。

「任務を全うするんだ!わかったな」

そしてクルーに向かって

「飛べる限り任務を続行する!」

と叫んでいました。

この作品は、資料として残されたこのような実際の出来事を
ドラマに掬い上げて後世に残すことに注力していました。

爆撃機が狙われやすい、というか、最も攻撃に対し脆弱だったのは、

「ボムラン」と呼ばれる爆弾投下前の態勢でした。


爆撃投下のサイト(照準)を確保し、正確さを期すために、
最低数分間はまっすぐ水平飛行を続けなければならないからです。


このパイロットは、ベルリン上空で重傷を負い、
病院に搬送される前に機体下で応急手当てを受けなければなりませんでした。

車輪の前にいる人が点滴の瓶を持っています。
手前の後ろ姿がメディックでしょう。


■ B-17「ミス・ドンナ・メエ II」の悲劇


ベルリン爆撃に限らず、爆弾投下はこのように
まさにばら撒く状態で行われます。

わたしはかねがね、編隊によっては上下に機体が位置する場合、
上方の機が落とした爆弾が下方の味方機に当たらないのか、
と不思議で仕方がなかったのですが、ベルリン爆撃で
まさにその悲劇が起こっていたことが判明しました。



機体は米第8空軍第91爆撃群のB-17G。

たまたま上空から自分の機が落とした爆弾を追って
写真を撮っていたクルーがいたため、
この悲劇の直前の様子が歴史に残されることになりました。

今まさに爆弾を受けようとしているB-17です。



爆弾は左舷の水平安定板にヒットし、これを引きちぎりました。

その後、被災機は編隊から離れて落下していき、
安定を失ったため誰一人機内から脱出することができないまま墜落。

The Worst Possible Way To Lose a B-17 Bomber

Miss Donna Mae B-17


「ミス・ドンナ・メエII」の乗員。
彼らは誰一人生還することができませんでした。


続く。


「スィートハート・ウィングス」爆撃クルーの遺品〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-29 | 航空機

オハイオ州にある国立アメリカ空軍博物館。
まだコロナ禍にあった夏、そのとき滞在していたピッツバーグから
単身車で一泊して見学に行って見た展示物をご紹介しています。

今日は、本人や遺族によって博物館に寄付された
ヨーロッパ爆撃クルーの持ちもの(遺品)を見ていきます。


■ バーニー軍曹のA-2ボマージャケット



第15空軍の砲塔砲手SSgt(スタッフサージャント、E6)
エミール・バーニーが着用していたA-2ジャケットです。



背中側には気合の入った絵が施されています。


何しろ皮革におそらくペンキか何かで手描きしたものなので
かすれてしまって見にくいですが、爆撃ミッションを行った都市が、
爆弾を落とすB-17、墜落するBf-109とともに描き込まれています。



左胸のマークは爆弾を持って飄々と歩くアメリカの象徴、ハクトウワシ。

足元に見えるのは雲でしょうか。
第15空軍の部隊章です。


S/Sgt. Emil B. Barney 

バーニー軍曹は1944年11月、アドリア海上空でBf109の攻撃を受け、
制御不能に陥ったB-17からバベイルアウトし、2日後に救助されました。

戦争が終わるまで彼は捕虜になっていましたが、
終戦後生きてアメリカに帰り、1995年に69歳で亡くなりました。

ポピヴチャック軍曹35回の出撃記念



連結された50口径の弾丸は、第306爆撃群のB-17トップ・ターレット砲手、
TSgt(マリオン・"ミッキー"・ポピヴチャックが、
参加した35回の戦闘任務を表して製作したものです、

この人、かなりまめで、かつコレクター資質を持っていたらしく、
これらの弾丸のカートリッジには、
35回のそれぞれの任務を報じるスターズ&ストライプス紙の記事が、
切り抜かれて畳んだのが収められています。

せっかくですのでその一つ、1月5日付の新聞記事(画面右)
を訳しておきます。

「重爆またも出撃、供給ラインを爆破」

第8空軍は昨日、ドイツの補給拠点に対する猛攻を再開した。
1000機以上のフォートレスとリベレーターが、
300機以上のムスタングに遮られながら、
ケルンから南はカールスルーエまで、東はフランクフルトの先まで、
広範囲にわたって通信拠点や鉄道基地を攻撃した。

天候は依然として障害であり、

重爆撃機は計器を頼りに爆弾を落とさねばならなかった。
掩護のマスタングの一群は、梢を擦り、機関車や貨車に激突した。
敵戦闘機の攻撃はなかったという。


第8飛行隊のミッションは、セント・ヴィ近郊の通信センターに対する

RAFミッチェルとボストンによる午前中の攻撃に続くものであった。

それ以前には、RAFランカスターがボルドーの北西50マイルにある

ジロンド川河口のドイツ軍部隊、大砲、補給基地を攻撃していた。

天候のため第9空軍の飛行機はさらに1日出撃を中止したが、

RAFの第2戦術空軍の機は500回以上の出撃に成功し、
マース川河口のドイツ軍の要塞を攻撃し、
鉄道や国道沿いの機関車や線路を銃撃した。


コレクションのなかに、一つだけ先端が赤いトレーサー弾がありますが、

これは、1945年1月10日のミッションで、彼の乗ったB-17が
酸素システムと2基のエンジンを破壊され、
ベルギーに不時着したということを表しているのだとか。

このコレクションを作成した"ミッキー"・ポピヴチャック氏は、
わたしがこのとき滞在していたピッツバーグの人で、
2010年に亡くなった後はアレゲニー国立墓地に埋葬されました。

戦後はピッツバーグで車のパーツ会社を経営していたようです。

■ ガードナー軍曹のフィールドジャケット




第15空軍の尾翼砲手、ラリー・ガードナー軍曹の野戦用ジャケットと鞄。
遠征中、彼は指を撃ち抜かれ、B-24は敵地上空で撃墜されましたが、 
幸いガードナーは脱出し、イタリアのパルチザンに救出されました。

このジャケットの背中側には、ホットスタッフというロゴと共に
TNT爆弾に腰を下ろす挑発的な金髪美女の絵です。

ジャケットのデザインは現代でも通用しますし、
なんならこの絵もアメコミ風でいけそうです。


カバンには部隊マーク。
クラウンを被った骸骨とTNT爆弾の意匠です。



ジャケットもカバンも、おそらく本人が
落ちない油絵の具かペンキでペイントしたと思われます。

■ ライアン・バーカロウ大尉の遺品



ライマン・バーカロウ大尉は、
最初の25回の任務でシャトル空襲の任務に参加しました。

陸軍航空隊のルールで、25回の任務を終えた者は任務を降り、
帰国して退役することもできたのですが、
大尉はその後も戦闘飛行を志願し、ヨーロッパで任務を行いました。

そして1945年3月19日、二度目通算49回目の爆撃任務である
ルールラント・ドイツ上空で戦死しました。

なぜ戦死した大尉のA-2ジャケットが残っているかなんですが、
これは彼が第一期ミッションのときに着ていたもので、
第二期にあたって新しいジャケットをあつらえていったからです。

襟元にホイッスルが付いていますが、これは
撃墜されて海に落ちたとき、救助に合図を送るための非常用でした。



米空軍がシャトル空襲の際に使用したムービーカメラ。
ロバート・ウォルシュ空軍大将は、シャトル空襲が終わり、
物資をソビエトに引き渡すよう命じられたとき、
このカメラを「保存」した(つまり隠して渡さなかった)そうです。


カメラに使うコダックの「コダクローム」16ミリフィルム。



ソ連から出撃した攻撃隊

第8空軍

第15空軍

の爆撃ミッション航路が記されています。
第8空軍はイギリス、第15空軍はイタリアに根拠地を置いていました。


バーカロウ大尉が受賞した名誉賞の数々。
左から:

パープルハート

「スィートハート」ブレスレット
バーカロウ大尉が妻のフローレンスにプレゼントしたもの

USSR(ソ連)のバッジ
公式に与えられたものかどうかは謎

エアーメダル
第一期任務達成に対して与えられたもの

金の「スィートハート」ウィングス
翼の真ん中にハートのあるモチーフを、英語圏では
「スウィートハート・ウィングス」といいます。

これは中央にアメリカ軍のマークがあるだけでハートではありませんが、
バーカロウ大尉が、これもフローレンス夫人に
結婚1年目の記念として1942年8月30日にプレゼントしたので、
あえて「スィートハート」と呼んでいるのではないでしょうか。

大尉が亡くなった日から考えると、
彼らの結婚生活は2年半しかなかったということになります。


続く。



コードネーム「ミッキー」ブラインド爆撃作戦〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-23 | 航空機

appleTV制作の「マスター・オブ・ザ・エアー」劇中、
バーで一緒になったアメリカ航空隊とRAFの隊員の間で
アメリカの白昼攻撃を巡りちょっとした言い合いが起こるシーンがあります。

搭乗員が足りない、というアメリカ軍クルーに対し、RAFクルーは、

『それは君らが馬鹿みたいに昼間攻撃するからだ』

と半ば揶揄するかのように返すのですが、
その言葉は、アメリカ軍搭乗員たちがただでさえ持っていた

危険な昼間の攻撃に対する不安をドンピシャで言い当てたものだったので、
彼らはそれに対し猛烈に反発を始めるのでした。

そこで、すかさずナレーションが入ります。

RAFの夜間爆撃は民間人相手の無差別攻撃であるのに対し、
アメリカの白昼細密攻撃は軍事施設だけを狙ったものだった。


お決まりの「正義のアメリカ」礼賛です。

2000年代になってもアメリカ人がそう思いたいのは勝手ですが、
それでは、夜間の無差別爆撃で何万人という民間人を殺戮した
あの東京大空襲はなんだったのか。
市民を無差別に虐殺した2発の原爆はなんだったのか。


実際のところ、アメリカとイギリスは連合国同士で打ち合わせた上で、
昼の軍事施設爆撃(米)と夜の無差別爆撃(英)で切れ目なく相手を攻め、
ピンポイントで生産を遅らせつつ、民衆の戦意を削ぐということを
二交代制でやっていたというだけにすぎないのです。

ノルデン照準器を持っていたアメリカが細密攻撃を行い、
そうでないRAFがそれ以外を請け負った。
つまり役割分担の違いというだけのことではないですか。

昔から、日本の戦争映画は果てしなく自虐、
アメリカの戦争映画は果てしなく自画自賛というのが相場ですが、
この最新の映画においてもその傾向は健在ということが確認できました。

ちなみに、映画では、RAFグループの嫌味な態度に
アメリカ人たちはすっかり腹を立てて、別れてから

「チッ・・・だいたいRAFってなんなんだよ」

「Riffraff(役に立たない人、ゴミ)だろ」

と悪口を叩くのですが、実際に白昼攻撃に向かう前に
彼らの言ってることは正しい、とうなだれるのでした。

責めるなら交代制で苦労する方を選んだ上層部を責めるんだな。



 ブラインド攻撃 「ミッキー」



俺ら軍事施設を細密攻撃するぜ人道的に!とドヤったアメリカですが、
目視ではさすがに細密攻撃が功を奏するわけではありません。

概してヨーロッパ上空は曇りがちで、そうなると
アメリカ軍の爆撃隊はほとんど目視できなくなるわけです。

そこで、重爆撃機はH2Xと呼ばれるレーダーシステムを使用し、
雲の上からブラインド攻撃を行いました。

その名も、

コードネーム"ミッキー "Mickey"

上の写真は1944年10月25日、ドイツ・ハンブルクの石油精製工場上空。
「歩けそうな」くらい厚い雲が立ち込めていますが、
何ヶ所か真っ黒い部分が見えています。

これは第8空軍の爆撃を受けた地面から立ち昇る黒煙です。

それにしてもなんでミッキーなのか。
やっぱりアメリカでミッキーときたら・・・あのネズミよね?

■ H2X "ミッキー "の名前の由来



H2Xは、正式にはAN/APS-15として知られ、
第二次世界大戦中にブラインド爆撃に使用された
アメリカの地上走査レーダーシステムです。


B-17パスファインダー 通称「ミッキーステーション」

中央の円形スコープが表示画面です。
H2Xは空軍の夜間爆撃システムから開発され、
1944年初めに米空軍で初めて使用されました。

米空軍の「H2X」はレーダー・プラットフォームの代名詞であり、
マサチューセッツ工科大学放射線研究所で開発されました。
アメリカ初の空対地レーダー搭載航空機のための極秘プロジェクトです。

第8空軍の最大の功績のひとつは、敵戦闘機、敵対空砲火の前にも
一度も作戦を後退させなかったことらしいですが、
ヒットラーがロシアの冬将軍に勝てなかったように、
同じことがヨーロッパの天候には言えませんでした。

実際多くの任務が、ルート上や目標地域上空の悪天候のために、
中止、中断、回収されています。

この事態を打開しようとしたミッションが、「ミッキー」でした。

「ミッキー」という名前を生み出したのは、第812爆撃中隊長で、
第482パスファインダー爆撃群配備の中心人物の一人であった
フレッド・ラボ中佐です。

Major Fred A. Rabo 

1942年と1943年、ヨーロッパでの爆撃隊の任務を成功させる上で
大きな問題となるのが冬季の天候不順であることは
第二次世界大戦が始まる前からアメリカ空軍の共通認識でした。

RAFは、以前から同じような天候の問題に対処するため、
航法補助として電波ビームとレーダーを開発していました。

そこで爆撃隊の中の人がパスファインダー・グループの計画を打ち出し、
その後1943年8月20日、第482爆撃群(パスファインダー)が、
電波ビームとレーダー装置を使用する爆撃隊として組織されます。

ラボ中佐は、パスファインダー・グループ設立のため米国に戻り、

M.I.T.放射線研究所で開発されたレーダーを装備したB-17を入手しました。

レーダー付きB-17

M.I.T.レーダーはH2Xとして知られていました。
機首の下に格納式H2Xユニットを装備したB-17を初めて見たフレッドが、

「あのレドーム、ミッキーマウスみたいだな」



といったことから、このニックネームは定着し、
その後「ミッキー」と短縮されて作戦名になりました。


せっかくパスファインダー(開拓者)というかっこいい名前があったのに、
このおかげで、第二次世界大戦の残りの期間中、
H2Xレーダーユニットは「ミッキー・ユニット」、
オペレーターは「ミッキー・オペレーター」と呼ばれることになります。

アメリカ人だからこっちの方が本人たちも嬉しかったかもしれませんが。



■ H2Xパスファインダー


H2Xを使えば、夜であろうと昼であろうと、雲に覆われていようといまいと、
同じ精度で都市の位置を特定し、大まかな地域を標的にすることができます。


ロッテルダム南西のオランダ沿岸を示すH2Xスクリーン。 

この時攻撃したオランダ沿岸の地図。

ミッキーは目視爆撃ほど正確ではありませんでしたが、
悪天候でも中止せずに戦略攻撃を続けることができました。

最初のH2Xを搭載したB-17は1943年11月3日、第8爆撃機部隊が
ヴィルヘルムスハーフェン港を攻撃したときに初めて実戦で使用され、
この時の任務は最初のことだったので「パスファインダー・ミッション」、
搭乗員はまだ「パスファインダー・クルー」と呼ばれていました。

攻撃方法は、以下の通り。

アメリカ陸軍航空隊のパスファインダークルーと、

RAFのパスファインダークルー(どちらもアメリカで訓練を受けている)
を乗せたレーダー装備パスファインダー機が編隊の先に飛び、
レーダーによって目的をマーキングしたときに爆弾投下します。

それを見た全ての爆撃機が、続いて爆弾を投下します。


ベルリンに目標を定め、到着したらどこに爆撃すべきか、
レーダーによってわかるというわけです。



なぜかフランス語説明による「ミッキーセット」に必要な道具。
左端のアンテナですが、これ、何かの形に似ていませんか?

そう、ボール・ターレットです。

この設置のために、のちに第91爆撃群がボール・ターレットの場所に
H2Xの回転アンテナ用腹側半球レドームを設置するようになり、
後のB-24リベレーターに搭載されたH2Xもターレットに取って代わり、
ボールターレットは格納式に変えられました。

ボールターレットをレーダーレドームに改造したB-24「パスファインダー」

胴体着陸したら砲塔ごと潰れて死ぬしかなかったB-17のボール砲塔砲手は、
これを聞いて微妙な気持ちになったかもしれません。

「ミッキー・セット」は副操縦士の後方(無線オペレーターの位置)
の飛行甲板に設置され、戦闘地域にさしかかると、
ミッキー・オペレーターがパイロットに進路を指示し、
爆弾投下時には爆撃兵と連携して指揮を行いました。



ミッキーが最初に使用されたのは1944年4月5日の
プロイエシュティ攻撃(タイダルウェーブ作戦)でした。

その結果については、もうみなさんご存知の通り。

以前同作戦について説明したように、この作戦は対費用効果で言うと、
アメリカ軍の損失多すぎと言うことで結論づけられていましたよね。

このとき新兵器であるレーダーは確かに正しく機能したのですが、
いかんせん、ドイツ軍の防空陣地上空をまともに通過する経路だったため、
激しい対空砲火と迎撃で多数の損害と犠牲を出してしまいました。

攻撃そのものの被害が多すぎたので、「ミッキー作戦」も、
それに見合うだけの戦果だったかというと、微妙だったということです。


続く。




「小さな戦友」戦闘機掩護〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-20 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示、
今日は爆撃機を掩護した戦闘機についてです。

ところで今更ですが、戦闘機が爆撃機を守る行動のことを
「掩護」といい、「援護」とはあえて違う漢字を使うのは、掩護には
「敵の攻撃から味方を守る」という援護より狭い意味があるからです。

■ファイター・エスコート


戦略爆撃作戦の前半部分で書きましたが、この頃のアメリカ空軍は
ドイツ国内の標的を攻撃する重爆撃機に護衛戦闘機を持ちませんでした。

理由は単純で、小さな戦闘機では航続距離が短かったからです。
途中まではついてきても、肝心の敵地近く、
敵戦闘機がやってくる辺りまで来られる戦闘機がなかったのです。

その結果、重爆撃機の乗組員は壊滅的な損害を受け、
作戦そのものの継続が危ぶまれるまでになりました。

そこでアメリカが工業力と技術力を傾け開発した結果、
1944年初頭までに、P-47とP-38が改良され、
ドロッパブル(使い捨て)燃料タンク、そしてP-51が導入されます。

このことで戦闘機の航続距離の問題は解決され、
同時にアメリカ軍の重爆撃機の損失は減少。

このことはルフトバッフェの戦闘機の損失数を拡大させ、
1944年6月のDデイ侵攻に対抗することができなくなっていきます。


爆撃機編隊の上空に戦闘機が描く芸術的な白い線。
これは防御のための「傘」といわれます。


B-24爆撃機に随伴するP-47サンダーボルト
パイロットはカメラ目線ですね。

頑丈なサンダーボルトは1943年半ばにヨーロッパで就役しました。
 当初、P-47はドイツ国境を越える爆撃機を護衛するには
航続距離が足りませんでしたが、その後の改良で航続距離が伸びています。


第20戦闘航空群P-38パイロット、アーサー・ハイデン中尉と地上クルー。
「ラッキー・レディ」という彼の戦闘機のボディにはトップハット
(シルクハット)のマークがたくさん描かれていますが、
ハット一つがすなわち爆撃機の護衛任務一回を表します。

そして彼の敵機撃墜数は2(3かも)。


B-17の主翼近くを飛ぶイギリス空軍(RAF)のスピットファイア
このパイロットも写真を撮られているのがわかってこちらをみています。

1943年半ばごろのショートレンジのスピットファイアは、
このようにアメリカ空軍の重爆撃機の護衛を行いました。
アメリカ軍パイロットが操縦することもあったようです。



そして満を持して1943年末にヨーロッパで導入された
高速長距離戦闘機P-51マスタング
アメリカ空軍の究極の護衛戦闘機となりました。



有名な第4戦闘機群の司令官、ドン・ブレークスリー大佐
ベルリンへの護衛任務で使用した地図(コピー)。
ベルリンの場所は赤い星印で示しておきました。

 黒い線は爆撃機の進路を、赤い線は護衛戦闘機の進路を表しています。

全く違うところから出発してドイツ上空に入るところでランデブーし、
爆撃任務を終えたらドイツ国境を出るまで同行し、
そこから先は別れてそれぞれの基地に帰投します。

第4戦闘航空団はこのミッションで26機の敵機を撃墜したと主張しました。


ブレイクスリー大佐



第4戦闘機群パイロットのサインがされた、
スピットファイアの独特の形をしたプロペラブレードと時計。

1943年3月1日、スティーブ・ピサノス中尉が離陸しようとして、
ランディングギアを格納するのが早すぎて機体が地面を擦り、
プロペラのブレードが折れてしまいました。

翼の上にある時計は、9時8分を差して止まっています。
おそらく決められた離陸予定時間は0900だったのでしょう。

プロペラにはその時参加していた戦闘機パイロット
(多くは有名なRAFイーグル飛行隊に所属していた志願兵)
全員のサインがありますが、何が目的でしょうか。

骨折した友人のギプスに皆がサインするみたいなノリ?

戦闘機パイロットの階級はほとんどが中尉で、
キャプテン(大尉)が4名、少佐(ドン・ブレイクスリー)が1名です。

第4戦闘航空群は「イーグル飛行隊」と呼ばれ、
当初はP-47 サンダーボルトを運用していましたが、
パイロットたちは鈍重なP-47に不満を持っていました。

リパブリックP-47D

1943年4月に西ヨーロッパ上空で初の戦闘任務に就いたサンダーボルトは、
高高度の護衛戦闘機としても、低空戦闘爆撃機としても使用され、
その頑丈な構造と空冷ラジアルエンジンにより、
激しい戦闘ダメージを吸収してなお飛び続けることができました。
(ただし航続距離はない)




ダンボマーク

1943年後半までに、航空群司令官のドン・ブレイクスリー大佐は、
より軽快で機動性の高いP-51 マスタングに機材を更新します。


NMUSAのノースアメリカンP-51Dマスタング

P-51Dは1944年春にヨーロッパに大量に到着し、
アメリカ空軍の主要な長距離護衛戦闘機となります。

多用途のマスタングは戦闘爆撃機や偵察機としても活躍しました。
終戦までにマスタングは4,950機の敵機を撃墜していますが、
これはヨーロッパにおけるアメリカ空軍の戦闘機の最多記録です。



ちなみに、P-51の配備に際し、第8空軍司令部は
第4戦闘機隊のパイロットが機材を受け取ってから
24時間以内に運用が可能であることを条件にしたのですが、
ブレイクスリーはこの条件を飲み、パイロットたちに

「目標に向かいながら操縦の仕方を覚えるように」

と指示したという逸話が残っています。

んな無茶な。
余程部下の基礎能力を信頼していたってことなんだろうか。



ガンカメラのフィルム・マガジン。
ドイツ上空での護衛任務に就いたP-38ライトニングに装備されていたもので、
Bf 110の後方砲手が放った7.92mm弾に命中した痕があります。


P-38パイロットのロイヤル・フレイ中尉が任務の際に携行した、
イギリスの金属職人によって作られたナイフ。

1944年2月10日、フレイ中尉はドイツのミュンスター近郊で撃墜され、
ベイルアウトして捕虜になり、戦後アメリカに戻りました。


親も何を思って息子にRoyal という名前をつけるのか

 フレイ中尉は後にアメリカ空軍博物館のシニアキュレーターとなりました。



そのことから、当博物館に展示されているP-38Lは
フレイ中尉のマーキングで塗装されることになりました。

ライトニングが初めて大規模な任務に就いたのは1942年11月。
ドイツ軍パイロットは、早速この戦闘機に


Der Gabelschwanz Teufel
デア・ガーベルシュヴァンツ・トイフェル

「分かれ尾の悪魔」

というあだ名を付けます。


展示されているP-38Lの左側にあるトップハットのマークは、
パイロットのロイヤル・D・フレイ中尉が飛行した
爆撃機護衛任務を表しており、黄色い帽子=5回、
白い帽子=1回なので、出撃回数合計9回ということになります。


ライトニングが戦闘活動を開始した当時、これが
ドイツへの爆撃機を護衛できる航続距離を持つ唯一の戦闘機でした。

そして1943年4月18日。

太平洋戦線でこの別れ尾の悪魔の性能が遺憾無く発揮されることになります。

真珠湾攻撃の立案者であった山本五十六提督を乗せた航空機を、
P-38の編隊が待ち伏せし、これを撃墜するのに成功したのでした。



続く。


「ラッキー・バスタード・クラブ」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-14 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機シリーズより、今日は、
「Missing in Action」任務中行方不明、というタイトルのコーナーです。

パネル中央には冒頭の涙ぐむ美女が、

「Please...get there and BACK!」
(お願い・・無事に戻っていらして!)


と訴えており、その下に

BE CAREFUL WHAT YOU SAY OR WRITE
(何を言うか、何を書くか注意してください)


とあり、これが実は防諜啓蒙ポスターであることがわかります。

うかつにしゃべったり手紙に書くことで、
愛する人が無事に帰れないかもしれないと脅しているんですね。


彼女の恋人たちの任務は、情報が漏れることによって失敗し、
それはひいては彼らの命が失われると言うことにつながります。


■ 大空襲、大損害、クライシス


1943年後半、米空軍は重爆撃機部隊の増強を続けました。
しかし、敵陣深く進入して目標を攻撃するにつれ、
驚異的な損失が昼間戦略爆撃の概念全体を脅かすようになります。

敵地深くまで飛んで爆撃ミッションを敢行。
「メンフィス・ベル」のように25回任務を達成するまで
撃墜されずに生き延びられるほうが稀というものでした。



編隊を組んで飛ぶB-26の周りに見える小さな黒煙は、
地上から撃ち上げられる対空砲です。


つまりアメリカ空軍の初期の想定が間違っていたのです。

掩護なしの重爆撃機は敵戦闘機から身を守ることはできませんが、
不運なことに、当時のアメリカ陸軍航空隊の戦闘機は、
敵陣深くまで爆撃機に随伴して攻撃できる航続距離を持ちませんでした。

映画「メンフィス・ベル」でも、途中まで援護してきた戦闘機が
ある地点で挨拶をして帰っていくのを、乗組員が吐き捨てるように
ここまでかよ、みたいなことを言うシーンがあったと記憶します。



2本平行にたなびく煙は、もしかしたら墜落機のもの?

1943年に限ると、第8空軍の爆撃機乗組員のうち、
25回の任務を完遂したのはわずか約25%で、残りの75%は死亡、
重傷を負った、あるいは墜落機から脱出して捕虜となりました。



高射砲に被弾し、エンジン部分から激しく炎を噴くB-24。



ドイツ上空で対空砲火が直撃したB-24リトル・ウォーリア。

ベンソン中尉

 副操縦士のシドニー・ベンソン中尉一人だけがベイルアウトしましたが、
ベンソンは地上で怒り狂ったドイツ民間人に暴行を受け、死亡しました。

日本でも、ベイルアウトしたアメリカ人航空士が民衆に暴行された例はあり、
長髪だったせいで、アメリカ人と間違えられた日本人の海軍飛行士が
民衆のリンチにより死亡したという事件も起こっています。

この事件以降、航空隊員は袖に日の丸をつけるようになりました。


任務を完遂できる確率が低いことを知りながらも、
爆撃機乗組員は勇気をもって粛々と任務を遂行しました。



1943年11月、ドイツのゲルゼンキルヒェンへの任務後、
対空砲火で脚を負傷し、救急車に運ばれる
爆撃手マリオン・ウォルシェ陸軍中尉。

回復後も飛行を続けるも、1944年2月にまた撃墜され、捕虜となりました。


「ソンバー(Somber)・デューティー」

somberとは単純に色や明るさが地味とかくすんだ、とか暗い時に使い、
そこから「厳粛な」「陰鬱な」「重苦しい」という意味を持ちます。

葬列を表現するのに「somber march 」などということもあり、
軍隊でいうところの「ソンバー・デューティー」とは、
死者にかかわる後片付けを表すときに使われます。

この写真では、任務に出た爆撃機搭乗員が行方不明になったので、
関係者に身の回り品を送り返すためにロッカーを整理しており、
おそらく搭乗員の戦友が、黙々とこの「地味で陰鬱な任務」を行っています。

残された戦友の恋人の写真を目にしながら、
彼もまた明日は自分、と考えているかもしれません。


■ 「ラッキー・バスタード・クラブ」


いくつかの爆撃機グループには、幸運にも
戦闘任務に生き残った者たちのための
『ラッキー・バスタード・クラブ』

なるものがありました。

「バスタード」はご存知の方もいるかと思いますが、
決して上品ではない、「野郎」みたいなニュアンスの言葉です。

”ラッキーバスタードであることを祝って”

これは、ナチス・ドイツに対する多くの空中攻撃に参加し、
対空砲火、戦闘機の攻撃、悪天候にもかかわらず、
各ミッションから無事に帰還したリチャード・R・ベンソン曹長が、
満場一致でラッキー・バスタード・クラブのメンバーに選出されたことを
証明するものであり、彼と、
このクラブの勇敢で幸運なメンバー全員に

この詩を捧げるものである。

ああ、戦いの英雄、国の誇り
誉れ高き勲章を受けし者よ
女たちの歓喜のため息の対象よ
大空を駆け巡り、戦いの傷を負った勇士よ
臆することのない魂で、自分の仕事をやり遂げた


対空砲火に怯えつつも
最高の決意をもって、多くの任務をこなしてきた
暴力団を一掃し、平和をもたらすために

何千トンもの爆薬でナチスを吹き飛ばし
ナチスを数千トンの爆薬で吹き飛ばした;

ルールでの進軍の道を開き
そして、自由と勝利を確かなものにした

正義の十字軍、ガラハドよ
君が受けるべき栄誉は決してない、
ウイスキーと女とジャイブの家に帰れ;

ラッキーな野郎だぜ 生きて戻るなんて
(You're a lucky bastard to be alive.)

■ ミッシング・イン・アクション


かと思えば。

これは重爆撃機の護衛中に撃墜されたP-38パイロットの妻に送られた、
「行方不明」(Missing in Action)の恐るべき通知です。
これらの電報は何万人もの航空兵の家族に送られました。

ワシントンからサンディエゴ在住である
ナンシー・L・マッカーティ夫人に送られた通知には、

「あなたのご主人であるベンジャミン・F・マッカーティ中尉が
5月9日以来フランスで行方不明になっていることを、
陸軍次官が深く残念に思っているとお伝えしたいとのことです」
ダンロップ准将代理

この通知を受け取ったナンシー夫人の心痛はいかなものであったでしょうか。
しかしこの通知を受け取った約1ヶ月後のことです。



ナンシー夫人はとりあえず安堵の涙を流したに違いありません。

「国際赤十字からたった今届いたばかりの報告です。
ご主人であるベンジャミン・F・マッカーティ中尉が
ドイツ政府の戦争捕虜となっていることがわかりました」

さらにラッキーなことに、マッカーティ中尉は終戦後解放され、
無事に生きて故郷に帰り、妻との再会を果たしました。



戦争中戦地に愛する人がいた人々は、おそらくこの
ウェスタン・ユニオンの電報がくることを恐れていたことでしょう。

ウェスタンユニオンは創立1851年という長い歴史をもつ金融&通信社で、
第二次世界大戦中は電話もまだそれほど普及しておらず、
特に長距離の通信にはテレグラフが中心だったので、
ほぼ独占企業としてこのような軍事通信も担っていました。

テレグラフの内容は、ウィリアム・R・マッカレン軍曹
について1945年4月にわかった情報のようですが、
この人物について調べたところ、1943年の爆撃任務で乗っていた
「サンタアナ」という爆撃機が撃墜され、ドイツで捕虜になっていました。

大きく引き伸ばされたテレグラフの前には、次のような文字が見えます。

「忘れてはならない・・・
第二次世界大戦中、自由のための戦いに命を捧げた
29万2千人のアメリカ国民にこの展示を捧げる」


続く。



「フレンド・オア・フォー?」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-11 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機を中心にお話ししてきました。



前回はその戦いに命を捧げた人々と任務を取り上げましたが、
そこに名誉メダル受賞者を受けた下の二人のコーナーがありました。



スタッフサージャント、メイナード『スナッフィー』スミス(左)と
同じくアーチボルド・マティエスの二人です。

■一人で乗員全員を救出
メイナード・ハリソン『スナッフィー』スミス軍曹
SSgt Maynard Harrison ”Snuffy" Smith

アメリカにもその時代の流行りの名前があります。

最近は、男の子ならリアム、ノア、オリバー、ジェームズ、エリジャ、
女の子ならオリヴィア、エマ、シャーロット、アメリア、ソフィア、
こんな感じがトップ5ですが、逆にどうも古臭い、と感じる名前もあります。

思い出したので余談なんですが、この人の「メイナード」という名前は
現代には完全にアウトオブデートでイケテナイみたいです。

あるドラマで、主人公の夫が、生まれてくる子供に
どうしても祖父の名前であるメイナードをつけたいというのですが、
妻はこの名前が古臭くて大嫌い。
結局妥協して通名はイニシャル「MJ」になったという話がありました。

流行りの名前は当時のポップカルチャーやイベントの影響を受けるので
「メイナード」は南北戦争時の銃のせいで流行った頃があったのでしょう。

さて、そのメイナード・スミスがなぜ勲章を受けたかといいますと。


1943年5月、彼がボール砲塔砲手として乗り組んだ爆撃任務で
ブレスト上空を飛んでいた爆撃機が対空砲火を受け、火災が発生しました。

スミス二等軍曹は、電源を喪失したボール砲塔からすぐさま飛び出し、
重傷を負った乗員2名を手当てしながら機関銃を撃ち、加えて、
消火のために燃えている破片と弾薬を外に放り出しながら消火器を使い、
消火器が無くなると最後には放尿によって火を消そうと試みました。

飛行機はイングランドにたどりつき、着陸した途端真っ二つに裂けました。
後で調べたら機体に3,500以上の弾丸と対空砲の破片が命中していました。


火災に関しては、ほとんど彼一人の働きで、乗員全員が助かったのです。

この大活躍で、スティムソンから直々に勲章をもらったわけですが、
同じ週、彼は説明会に遅刻したため、罰として
KPポリス(厨房の雑用、芋むきとか)をさせられている真っ最中でした。

しかもその後、彼はPTSDのせいで職務成績不振となり、何をやらかしたか、
兵曹から二等兵に降格、さらに永久追放(不名誉除隊)になりました。

ただ幸いにも、故郷では英雄としてパレードで歓迎され、
軍の悪口をいいながらフロリダで静かに晩年を過ごし、
最終的にはアーリントン国立墓地で永遠の眠りについています。



■ 我が身の危険を顧みず・・・

アーチーボルド・マティーズ兵曹(上段左端)
SSgt Archibald Mathies
ナビゲーター:ウォルター・トゥルンパー少尉(下段右から二人目)
2/ LT Walter Edward Truemper
機長:クラレンス・ネルソン中尉(下段左端)

1/LT Clarence R. Nelson

名前について書いたので流れでいうと、この「アーチーボルド」。
メイナードもたいがい?ですが、こちらもなかなかな気がします。
事実、この名前がアメリカで人気があったのは19世紀後半で、
名前ランキングのある情報によると、


「20世紀初頭には急速に廃れ、1920年にはランク1,000以下だった」

彼が生まれたのは1918年ということですが、スコットランド移民だった
彼の両親は、アメリカの流行がわかっていなかったのかもしれません。


アーチーボルド・マティーズ二等軍曹

は、戦死後その勇敢な行動に対し名誉勲章を授けられました。

1944年2月20日、ライプチヒ攻撃のため搭乗したB-17、
愛称「テン・ホースパワー」の操縦席が対空砲と戦闘機の攻撃を受け、

その結果副操縦士が死亡、機長は重傷を負います。

そこでマティーズはナビゲーター、トゥルンパー少尉と二人で

故障した機を帰投させ、基地管制塔と連絡を取るところまでこぎつけました。


ウォルター・トゥルンパー少尉

ただちに基地司令からの命令で、全員がベイルアウトを命じられました。
しかしマティーズとトゥルンパー少尉は、

「重傷の機長がまだ残っていて、見捨ててはいけないから、
基地に機体の着陸を試みさせてほしい」

と懇願します。

司令は経験の浅い二人では損傷した機を着陸させることはできないと判断し、
飛行機(と瀕死の機長の命)を諦めて脱出することを命令しました。


トロッコ問題ではありませんが、司令はこのとき、
瀕死の一人と二人の命を明らかに天秤にかけ、後者を選んだのです。

いや、確率で言うなら、一人諦めるか三人とも死ぬかの状況において、
限りなく後者の方が可能性が高いと判断したのでしょう。

しかし、マティーズと少尉は着陸を強硬に主張しました。

苦渋の決断で司令は着陸許可を出し、飛行機は3度着陸を試みますが、
最終的に(滑走路にではなく)空き地に墜落し、
マティーズ軍曹とトゥルンパー少尉は二人とも死亡
しました。

負傷した機長は墜落の時にはまだ生存していましたが、
その後病院で死亡したので3名全員が亡くなったことになります。


左上から、ネルソン中尉、トゥルンパー少尉、
マティアス軍曹(バックは墜落した機体)

「時間がなくなり、日の光が薄れ、
アーチー・マシーズの持久力はすでに妥当なレベルを遥かに超えていた。」

「大佐の目にも生還の希望が薄れつつあることがますます明らかになった。
大佐は管制塔を通してウォルター・トゥルンパーに爆撃機を海に向けさせ、
自動操縦に切り替え、2人にパラシュートで降下するように指示した。」

「マシーズもトゥルンパーも、その命令の意味を十分に理解していた。
しかし自らの極限状況にも関わらず、二人とも自分たちが助かるために
ネルソン中尉の生存の可能性を放棄する気はなかった。」

「遂に司令はテン・ホースパワーに再び着陸を試みる許可を無線で送る。」

「機体は突然左に方向転換し、大きく急降下して管制塔を通り過ぎた。
着陸しようとして、赤いフレアを発射した。
そして1マイルほど離れた野原に向った。

航空機は17時00分にわずかに機首を下げた姿勢で
時速200マイルの速度で衝突し、地面に沿って50ヤード以上滑った後、
土の山に衝突し、クラッシュした。

「この時のテン・ホースパワーの墜落で生き残ったのは 1 人だけだった。
救助隊が到着したとき、クラレンス ネルソン中尉はまだ息をしていた。

彼はその夜遅くに病院で亡くなったのだが、
アーチー・マシーズとウォルター・トゥルンパーは、
最愛の指揮官を、ともかくも生きて帰国させることには成功したのだ」

このコーナーではマティーズ軍曹だけが強調されていますが、もちろん、
25歳で亡くなったトゥルンパー少尉もパープルハートを授与されています。


appleTV制作の「マスター・オブ・ザ・エアー」第3話には、
この件を彷彿とさせるエピソードがあります。

レーベンスブルグ攻撃に出た機が撃破され墜落していく中、副操縦士が被弾。

死んだものと思って全員ベイルアウトをしようとしたとき、
副機長は生きていて虫の息をしていることがわかり、機長は脱出を拒み、
全員を脱出させ、一人操縦席に残って空き地に不時着を試みます。

しかし、無事に草地に着陸したと思われた機体は大きくバウンドし、
その先の低地に機首から突っ込んで大破炎上するのです。

機長の最後の言葉は、

「Oh, God.」(『まずい』と翻訳されていた)

でした。



■ 「フレンド・オア・フォー?」


砲手は一瞬の判断で発砲するかどうかを決定しなければなりません。

しかし距離が長かったり、角度によっては、
戦闘機が敵か味方かを確かめるのが非常に難しくなります。

そこで航空機を認識する訓練が行われました。
これは生死にかかわる状況下で砲手が正しい選択をするため必須でした。



英国空軍の教官から認識訓練を受ける第8空軍の下士官搭乗員たち。 
触覚で航空機を識別する訓練です。

触覚で識別できたとして、本番にどう役立つんだろう・・。


航空機認識模型

1/72スケールのプラスチック製航空機認識模型が大規模に製造され、
民間ボランティアによって作られた数十万個の木製模型が配布されました。

左上から:P-38ライトニング、Bf110
左下から:Pー51マスタング、スピットファイア、Bf109、Fw190



「スポッターカード」

トランプをしている間も楽しみながら識別訓練ができる優れもの。

というわけで、当時航空兵の間には写真の左側にある
「スポッターカード」なるものが出回りました。




いまでは激レア品として取引されています。
艦艇の形を取り入れた海軍版もありました。

「ビューマスター認識キット」

と言うのがそれです。
上の写真右下に見えるのはビューマスターです。


戦争が始まる直前に設立されたView-Master社は、
戦時中、航空搭乗員の機種認識と距離推定訓練用に、
約10万台のステレオビュアと数百万枚のディスクを製造しました。

戦争が終わると、ビューマスターは様々なイメージのビューワーを作り、
おもちゃとして1960年代、子供たちに大人気となりました。

ビューマスタージャンルの色々

なんか現在はプレミアがついてお値段がすごいことになっています。
こういうのも軍事技術の戦後平和利用っていうのかしら。


続く。




至上任務 「ある砲手の死」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-29 | 航空機

国立空軍博物館の爆撃機シリーズ、今日は
重爆撃機のガンナーについて取り上げます。
その前に、伝説の爆撃機「メンフィス・ベル」の「マーキング」について
そのコーナーから紹介します。

■「メンフィス・ベル」パブリシティ・マーキング



ヨーロッパでの25回の任務を終え、アメリカに帰国後、
全米をツァーして「国際販促ツァー」をおこなった「ベル」。

行く先々で、民衆の好き勝手な「マーキング」、
国民の熱い思いが生んだ各種落書きが機体にに残されました。

もちろん現在展示されているメンフィス・ベルの機体には
そのような痕跡は一切なく、全てが修復されています。


ツァーで歓迎されたベル

乗員には、彼らを色々と利用したい人や追っかけの女性が群がり、
ヨーロッパ上空を飛んだ機体には、その姿を一眼見ようとする人、
近づいて触ろうとする人、なんなら落書きしたい人が群がりました。

上の写真には

「F.J. De GRASSE BANGOR, MAINE」

メイン州バンゴーのド・グラッセさんの名前が見えます。



もうやりたい放題。

後ろには手型を残そうとする人たちの集団が。



ツァー当時、モーガン機長の爆撃ミッションは、
わかりやすくこんなふうに機体左側にペイントされていました。



各種落書きに紛れて誰かがシュワスティカ(鉤十字)を一つ増やし、

さらにこいつは「S」に文字を付け足して「Sally」にしてしまいました。

窓の下には

S/St C.E. Winchell

という「メンフィス・ベル」メンバーの名前がありますが、

これも正式なペイントではなく落書きされたもので、
ペンキの色から推測するに、「Sally」と同一人物の犯行だと思われます。

おそらく、メンバーの身内か航空隊関係の人物でしょう。


民衆の落書きはほとんどが自分の名前。



「マサチューセッツ、誰それ」
「なんとか技術軍曹」
「カール・デロース、ウィルミントン デラウェア」


とどれも名前と出身地など。
ちなみにこの写真の白い部分は、機左側の星マークペイントです。

その後、機体は展示のために修復され、すべての落書きは消されました。



しかし、時はすぎ、2000年代になって当博物館が修復をしたとき、
このカール・デロースさんのサインも修復の過程で浮き上がってきました。

博物館は、彼や他の落書きの名前もちゃんと公式文書に記録したそうです。
歴史的な機体だから、落書きといえども歴史資料。

ご本人たちも本望なのではないでしょうか。

■ ガンナー



第二次世界大戦の銃爆撃機、B-17フライング・フォートレスや、
B-24リベレーターに乗り組んだアメリカ陸軍航空隊のガンナーは、
手動で狙いを定める機関銃(「フレキシブル・ガン」)と
電動式の銃座を駆使して機を敵戦闘機の攻撃から守りました。

爆撃機乗組員の半分が砲手として乗り組んでおり、
彼らの持ち場は、上部砲塔(1名)、ボール砲塔(1名)、
2基の腰部砲(2名)そして尾部砲塔(1名)です。

他の乗組員は、副次的な任務として状況によって防御砲を適宜操作しました。


B-17機首

初期の重爆撃機は、機首に手動で操作できる
フレキシブル・ガンを装備していただけで、
敵戦闘機からの正面攻撃に対して大変脆弱でした。


B-24機首

B-17B-24どちらも後期型で、強力な二連装機首砲塔を装備しています。


くわえタバコ

尾部砲塔。B-17は射界が限られた手動式でしたが・・・、



B-24は広範囲をカバーする自動式の尾部砲塔を備えていました。

■ B-17スペリー砲塔



博物館に展示されているこの上部砲塔は、

アメリカ初のフルパワー機銃砲塔設計の一つです。

電気油圧システムにより、砲塔の2.50口径M2ブローニング機関銃と、
Traverse and Elevation Mechanism T&E M2の両方を駆動しました。
2門の発射速度は合わせて毎分1,400~1,600発。

前にも描きましたが、砲塔上部の砲手はフライトエンジニアでもあります。


その理由は、上空からの攻撃を防ぐだけでなく、
配置的に機体のすべてのシステムを把握し、
飛行中のエンジンや燃料を監視することが要求されたからです。

この砲塔は、エマソン・マニュファクチャリング社によって製造、

スペリー・ジャイロスコープ社によって設計されました。
名称の「スペリー砲塔」は設計社名から取られています。


対空砲でダメージを受けた上部砲塔脇。
砲手はおそらく無傷ではいられなかったでしょう。


B-17インベイジョンII(通称ヘルザポッピンHellzapoppin
の上部砲塔砲手TSgtハリー・ゴールドスタイン

この機は当初、戦争債券ツァーの候補となっていましたが、
25回の任務を終える前、1943年4月に撃墜されてしまったため、
代わりにメンフィス・ベルが選ばれたという経緯があります。

「ヘルザポッピン」は対空砲火でコクピットと主翼が炎上し、
機体はブレーメン近郊に墜落、乗員全員が行方不明となりました。

■ Duty Above All 「至上任務」


サトゥ”サンディ”サンチェス軍曹 TSgt Sator "Sandy" Sanchez

は、三機目となる爆撃機の、
自身66回目の任務で戦死した航空砲手でした。

彼にとって2回目の任務の最後に、敬意をこめてB-17に彼の似顔絵が描かれ、
それは "Smilin' Sandy Sanchez "と呼ばれました。


本人とのツーショット

第8空軍の第95爆撃群において25回目の戦闘任務を終えた後、

彼は戦地に残ることを志願し、合計44回のミッションに参加しました。

1944年の夏には半ば強制的にアメリカに送り返されましたが、
23歳の彼は3度目の戦闘任務に志願し、
イタリアの第15空軍第301爆撃集団に配属されます。

1945年3月15日、ヨーロッパでの戦争が終結する2カ月も前に、

サンチェスはドイツのルールランドの石油工場を爆撃する任務に志願。

 爆撃中、彼の乗った機体は対空砲火で大破のち爆発しました。
サンチェス以外の乗員は全員ベイルアウトしましたが、
 サンチェスの遺体は発見されることはありませんでした。

サンチェスが戦死して6週間後、ヨーロッパでの戦争は終結しました。



彼に与えられたメダル各種


サンチェスが66回目の任務で墜落した
B-17G(S/N 42-97683)の垂直尾翼の左側。

 この尾翼部分は1993年に発見されたとき、
ドイツの墜落現場近くの農家の小屋の一部として使われていました。



第52装備整備飛行隊が1996年に博物館のために回収しています。

サンチェスは技術軍曹、つまり上部砲塔砲手でした。

被弾後、機長のデール・ソーントン大尉は乗組員に脱出を命じましたが、
乗員のうち9人がベイルアウトしたところで、
バランスを崩したB-17「スマイリン・サンデー・サンチェス」は、
よりによってサンチェスだけを道連れに爆発し墜落していきました。

生存者は捕虜となり、シュターラーク・ルフトに収容されました。



最後に、繰り返しになりますが、
「ボールターレットガンナーの死」という詩を原文とともに書いておきます。

The Death of the Ball Turret Gunner
 
From my mother’s sleep I fell into the State,
And I hunched in its belly till my wet fur froze.
Six miles from earth, loosed from its dream of life,
I woke to black flak and the nightmare fighters.
When I died they washed me out of the turret with a hose.

砲塔砲手の死

母の眠りから、私は州の中に落ちた

濡れた毛皮が凍りつくまで、その腹の中でうずくまった

地上から6マイル、人生の夢から解き放たれた

黒い対空砲と悪夢の戦闘機で目が覚めた

私が死ぬと、彼らはホースで砲塔から私を洗い流した



続く。


「50クラッシュキャップ」爆撃機のコミュニケーション〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-23 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示から、今日は
爆撃機の通信についての展示をご紹介します。



まずこのパネルの『COMMUNICATION』の文字の下のモールス信号、
-.-. --- -- -- ..- -. .. -.-. .- - .. --- -.

これはそのまんま「COMMUNICATION」です。

これがなぜわかったかというと、インターネッツというのは便利なもので、
文字を打ち込むと、即座にトンツー(英語はディット・ダー)
に翻訳してくれるツールがあるのです。
これで、
-.-. c --- o -- m
  ..- u  -. n ..  i  .- a  - t

であることがわかりましたね。とりあえず何の役にも立たんけど。
ちなみに日本語のトンツー翻訳機は見つかりませんでした。

まずここに書かれているのは、

何百機もの航空機と何千人もの飛行士が任務に就いているため、
航空機内や航空機間のコミュニケーションは困難を極める。

特に重要なのは、攻撃してくる戦闘機の方向を
乗員間で共有するためのコミュニケーションであった。

多くの異なるシステムや方法が情報交換を可能にした。

ということです。

たとえばこのトンツー、電信キーですが、無線オペレーターの装備には、
モールス信号を長距離で送信するための電信キーが含まれており、
モールス信号は、長短の信号
(dots「ドット」とdashes「ダッシュ」)
の組み合わせで文字を表します。

念のため、短音がドットでディット、長音がダッシュでダーです。

日替わり信号指示表


1942年11月4〜5日に爆撃機に指定された信号表です。
信号は6時間ごとに指示通り変えないと、敵認定?されます。

照明弾カートリッジの色 GG RR YY GY RR GG

モールス信号でどの文字を点滅させるか(航空機から) H J I L B C

夜間信号灯に使用するカラーフィルター White

地上or海上の艦船から返される文字 B O G W D S

というわけで、例えば11月4日0600に採用される信号は

照明弾カートリッジ色 RR
モールス信号 J
夜間信号灯の色 白
地上&艦船からの信号 O


ということになります。
これらを管理運用するのは通信士です。


これがその通信関係グッズの展示コーナー。

■ 50ミッション・クラッシュ帽



まず、飛行要員独特の潰れた士官用軍帽のことを
“50-mission crush cap”
といいます。

この名称は、陸軍航空隊の飛行士官がラフに使用した結果、
補強リングが取り外され、ボロボロになった状態の帽子を指します。

もちろん軍が推奨する正しい軍帽の規格からいうと「規則違反」ですが、
それは「ベテランクルー」の証として非公式に認められ、
駆け出しと戦闘慣れした飛行要員を区別する印となっていました。

通常の陸軍軍帽は、型崩れを防ぐためにスティフナー(補強金具)
が付いているのですが、パイロットは、飛行中、
軍帽の上にヘッドセットを装着するのがデフォでした。



しかし、スティフナーがあると、どうもこれと相性がよろしくない。

というわけで、彼らは快適にするためにワイヤーを外し、
そのため帽子の側面がぺちゃんこになってしまうわけです。

しかしながらその潰れた帽子は、パイロットにベテランの風格を与え、
これを着用するものは経験豊富な「プロ」と識別されるようになります。

昔日本の大学生(今から考えられないくらい大学生が特権階級だった頃)が、
バンカラを気取って弊衣破帽、高下駄で闊歩したのも、
 実用から派生した自己表現法だったのに似ているかもしれません。


1984年になって、「50ミッション・クラッシュ」というタイトルの
コンピュータゲームが発売されました。

第二次世界大戦のB-17爆撃機をシミュレーションする
ロールプレイングゲームで、登場する部隊も

「ロンドンのすぐ北にあるRAFサーリー基地を拠点とする第8空軍」

と史実をなぞってリアルです。

どうロールプレイングするかというと、爆撃機の10の持ち場に
プレイヤーが指名したキャラクターを配置し、
搭載する燃料の量、爆弾の種類を選び、ミッションに出るわけです。

爆撃機は目標上空で爆弾を投下するため、雲がなくなるまで待ちますが、
雲がなくなると今度は敵の対空砲火が襲ってきます。

時には機体が破損し、乗員が戦死します。
爆撃機の高度が低いほど、対空砲火は激しくなります。

また、フォッケウルフFw190、メッサーシュミットBf109、
メッサーシュミットBf110などの敵の戦闘機が攻撃してきます。

まあこれだけ聞くとちょっと面白そうですが、
ゲームとしての評価は5点中2点くらいの感じで、

「リアルだが退屈で、プレイヤーの能力を発揮する余地がほとんどない」

と評価する声もあったとか。



当時のゲームですので、こんな感じ。
今リメイクしたら面白いのができるんじゃないかな。知らんけど。



今度はマネキンの首をご覧ください。
これがスロート(咽頭)マイクロフォンです。

首筋に装着するシングルまたはデュアルセンサーによって、
装着者の咽喉から直接振動を吸収するコンタクトマイクの一種で、
トランスデューサーと呼ばれるセンサーのおかげで、飛行中の航空機内等、
騒がしい環境や風の強い環境でも音声を拾うことができます。

第一次世界大戦時にイギリスで開発されたのが最初で、
第二次世界大戦中、ドイツ軍でパイロットと戦車乗員が使用し始め、

のちに連合国空軍で採用されるようになりました。

この写真の咽頭マイクはおそらく導入最初の頃のタイプで、
大戦後期は酸素マスクにマイクを装着していました。

仕組みは、咽頭下の頸部に固定された接触式マイクが、気管内の音
(声門の閉鎖と圧力の変化)等振動をキャッチし信号化するというものです。

ちなみにこのメカニズムはその後も研究が重ねられて、
現在ではモバイル機器用のスロートマイクもあるそうです。

モバイル機器のアプリによって、カスタマイズでき、
オートバイの乗車用など、消費者向けの用途がますます普及しており、
COVID-19以降、フェイスマスクの使用下でも通信を円滑にするために
一般用の咽喉マイクも商品化されているということです。


シグナル・ランプ(アルディスAldis・ランプ)

シグナル・ランプは、爆撃機の乗組員が無線機を使わずに
モールス信号を使って航空機間で交信することを可能にするものです。
カラーフィルターを取り付けて、あらかじめ用意された信号を送ります。

かートリッジの色は上から赤、黄、緑です。


M8フレアガン(照明弾)

緊急着陸の宣言、機内に負傷者がいることを知らせる、

友軍機かどうかの識別など、様々な色の照明弾で信号を送ります。

■ 通信士席


「ラジオコントロールボックス」はクルーステーションに設置され、
通信を制御するためのボックスで以下が搭載されています。

1. COMP:ラジオコンパス受信機(ナビゲーション用)

2. LIAISON:VHF(超短波)で編隊内の他機と交信する

3. COMMAND:MF(中周波)での空対地通信用

4. INTER:機内通信用

5. CALL:INTERへの切り替えを機内のクルーに知らせる

 これが使用されると、他の通信はすべて打ち消される

続く。


「砲手の夢」 第8空軍と第12空軍〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-10 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示より、
ヨーロッパに展開した爆撃作戦についてお話ししています。

ところでピンク・フロイドの「ガンナーズ・ドリーム」をご存知でしょうか。

Pink Floyd - The Gunner's Dream

海軍軍人の息子を戦争で失った老夫婦が描かれていますが、
歌詞の内容は以下の通り。(拙訳注意)

砲手の夢

雲の中を漂っていると
今思い出が駆け上がってくる

でも、天と天の間の空間で
異国の野原の片隅で
夢を見た
夢を見た

さようなら、マックス
さようなら、ママ

礼拝の後、車までゆっくり歩いていると
彼女の銀髪が11月の冷たい空気の中で輝いている

君は鐘の音を聞く
襟の絹に触れる
涙のしずくが楽隊の心地よさで生まれるとき
君は彼女のか弱い手を取り
夢にしがみつく!

(オーイ!)
居場所
(「こっちだ、モリス!」)
十分な食事
(「下がれ、下がれ、ジョン!」)

どこか、年老いた英雄が通りに安全に溶け込める場所
疑問や恐れを大声で話せて
それ以上、誰もいなくなることはない場所
彼らが当然のようにドアを蹴破る音も聞こえない

トラックの両側でリラックスできて
遠隔操作でバンドマンに穴を開ける狂人もいない


誰もが法律のもとにあり
もう誰も子供を殺さない
もう誰も子供を殺さない


毎夜毎夜 脳内をぐるぐる回っているもの
彼の夢が僕を狂わせる

異国の野原の片隅で
砲手は今夜も眠る
すんでしまったことは仕方ない
僕たちには彼の最後の瞬間をなかったことにできない
彼の夢を心に留めろ
心に留めるんだ



エモーショナルな老夫婦の姿を描いたこのバージョンの後に、

ぜひ次の同じ曲の別バージョンをご覧ください。
曲ではなく、第8航空隊の映像を紹介するものです。
本来はこちらの映像によりフィットする歌詞だと思われます。

US 8th Air Force - Pink Floyd - The Gunner's Dream - World War II

第8空軍の撃墜され落ちていく爆撃機が次々登場します。
地面で砕け散った機体の側には、搭乗員の遺体が横たわっています。

■初期の作戦 イギリスにおける第8空軍


1942年から1943年初頭にかけて、
イギリス空軍(RAF)は夜間に飽和爆撃を実施する一方、
アメリカ空軍はイギリスの小規模な爆撃機部隊で
白昼における精密爆撃の有効性を証明しようとしていました。

開戦から最初の1年間、第8空軍の重爆撃機は、
ドイツ占領下のフランスの工業・軍事目標とともに、
潜水艦基地や生産施設を攻撃し続けました。

しかし残念ながら、どれほどUボートの基地や造船所を爆撃しても、
大西洋におけるドイツ潜水艦の脅威を阻止する効果はありませんでした。

それでもアメリカ軍爆撃機の指導者や乗組員は、
さまざまな戦術や技術を試しながら貴重な経験を積んでいきます。

ロリアンのドイツ軍潜水艦基地を攻撃中

この頃(1943年6月9日)ミッション中のご存じメンフィス・ベル

【投下された爆弾のエイミング・ワイヤタグ】

博物館所蔵。
1942年8月17日、
ナチス占領下のヨーロッパで第8空軍が行った最初の重爆撃の際、
フランスのルーアン=ソットヴィル鉄道敷地に投下した
爆弾の1つについていた arming wire tag


【爆弾信管のピン&タグコレクション】

爆弾信管のピンとタグ
第303爆撃航空団副隊長ラルフ・ウォルダー軍曹のコレクション 
左より:

ドイツ・ブレーメン 1943年4月17日 1000ポンド爆弾[1982-79-2]

フランス・ロリアン 1943年5月17日 1,000ポンド爆弾[1982-79-1]

フランス・サンナゼール 1943年5月1日 2,000ポンド爆弾[1982-79-3]

ドイツ・キール 1943年5月14日 500ポンド爆弾[1982-79-12]

ドイツ・キール 1943年5月19日 500ポンド爆弾[1982-79-4]

ドイツ・ハルス 1943年6月22日 500ポンド爆弾[1982-79-5]

ドイツ・ブレーメン 1943年6月25日 500ポンド爆弾[1982-79-6]

ノルウェー・ヘロヤ、1943年7月24日、500ポンド爆弾[1982-79-8]

ドイツ・ハンブルク 1943年7月26日 500ポンド爆弾[1982-79-7]

ドイツ・キール 1943年7月29日 500ポンド爆弾[1982-79-9]

25回ミッション達成記念

1943年5月14日、イギリスのバシングボーンで、
飛行場を "buzzing”(ブンブン )させながら、意気揚々と、
第8空軍のパイロット、ローレンス・ドワイヤー少佐は
ハンカチに結びつけたこの50口径の弾丸を投下しました。

 敵地上空での25回目の最後の任務を完了した記念でした。

冒頭の第8空軍バージョンの「砲手の夢」ビデオには、
途中、ヨーロッパでの真の25回爆撃任務達成機である、
「ヘルズ・エンジェルス」の姿を見ることができます。

【爆撃士官マティス兄弟の物語】



1943年3月18日、21歳の爆撃手ジャック・W・マティス中尉は、
ドイツのヴェゲザックにあるUボート基地空襲の任務において、
飛行隊長兼爆撃手を務めていました。

ヴェゲザックに到着する直前、爆弾を投下してから数分後、彼の乗機
「ザ・ダッチェス」(愛称ウルヴァリン)の前部で高射砲弾が炸裂します。

その瞬間、重爆撃機の機首が粉々に砕け、
爆撃手とナビゲーターの区画に、燃え盛る高温の破片が飛び散りました。

エポキシグラスが破損したザ・ダッチェス(AKA”ウルヴァリン”)

この爆発でマティス中尉はコンパートメントの後方に投げ出され、
右腕は肘のところでほぼ切断され、右側腹部を大きく抉られる傷を負います。

大量に出血し、瀕死の重傷を負ったマティス中尉は、
しかし、這うようにして自分の配置に戻り、ほんの数秒の余裕をもって
標的を十字線に合わせ、おそるべき精度で爆弾を投下
しました。

マティス中尉はその後、爆弾の照準の上にうつ伏せになったまま、
出血多量で死亡しました。



その非凡な功績により、マティス中尉は第8空軍搭乗員として
初めて名誉勲章を受章されることになりました。



基地では、マティス中尉の兄、25歳の爆撃手、マーク・マティス中尉が、
「公爵夫人」の帰りを辛抱強く待っていました。

彼はその朝、弟を見送り、その帰りを心待ちにしていました。
兄弟は弟の任務終了後、ロンドンでの3日間の休暇を予定していたのです。


しかし、午後になって基地に帰還した「ダッチェス」の機首部分が

完全に破壊されているのを見た瞬間、彼は本能的に弟の死を確信しました。

二人の兄弟は、アメリカが第二次世界大戦に参戦した直後、
ともに陸軍航空隊に転属し、飛行訓練後、爆撃手に配置されていました。

実はその日、ジャックはヴェゲサックへの同行を兄に頼んでいました。
しかし、上から許可が降りず、マークは飛行ラインから弟を見送りました。

上がこのとき許可しなかったのは、慣例的に
兄弟の同時戦死のリスクを懸念した結果だと推測されます。

マークは弟の死後も彼は第303部隊に残り、乗務の継続を希望した結果、
 1943年5月13日、B-17F


 FDR's Potato Peeler Kids
(ルーズベルトの芋剥きキッズ)

の爆撃手として、キールのクルップ潜水艦工場爆撃に参加しました。

工場は対空砲火と100機以上の戦闘機によって厳重に守られていました。
爆撃を成功させたものの、”FDRのポテトピーラーキッズ”は損傷し、
北海のどこかにマーク・マティスと乗組員を乗せて消えていきました。

わずか2カ月足らずの間に、2人の兄弟は
祖国のため、同じヨーロッパで命を捧げたのです。

■第12空軍 B-17「オール・アメリカン」の奇跡

1943年半ばまで、地中海における米空軍の小規模な重爆撃機部隊は、
主に敵の港、飛行場、船舶を攻撃、並びに北アフリカの敵地上軍を撃破し、
シチリア侵攻への布石を作るべく作戦を展開していました。



第12空軍のB-17「オールアメリカン」は、
北アフリカの敵補給線を爆撃中にドイツ軍の戦闘機に突っ込まれ、
写真のように胴体を斜めに切り裂かれそうになりながら、
 驚くべきことに、基地に帰還した伝説の爆撃機です。

B17 All American ~ (Rev. 2a) (720p HD)

ミッションはいつもどおり始まりました。


激しい戦闘機と対空砲火の波をかいくぐり、編隊は目標上空に到達し、
オール・アメリカンは何事もなく爆撃任務を終えました。

基地に戻ろうとしたとき、2機のメッサーシュミットが迎撃を試みましたが、
砲手がこれを防ぎ、この戦闘機は引き返していきました。

しかしこの後も、2機のメッサーシュミットが飛来しました。

それは二手に分かれ、1機は編隊長機に、
もう1機はオール・アメリカンに飛びかかりました。
両爆撃機の砲手によってドイツ機は2機とも撃破されます。

先頭機を攻撃していた戦闘機は、黒煙をたなびかせながら墜落しましたが、
もう1機は、最後の瞬間、爆撃機に体当たりしてきました。

戦闘機はB-17コックピットの真上を、耳をつんざくような
「フーッ」という音とともに撃ち抜き、尾翼部分に突っ込みました。



衝突で機体後部に大きな穴が開き、左の水平安定板がなくなりました。
衝撃に震えている尾翼は今にも剥落しそうになりました。

茫然自失のクルー全員の点呼をとってみると、
驚くべきことに誰も怪我をしていませんでした。

いつ機体がバラバラになってもおかしくない状態を悟った彼らは、
各自がパラシュートをつかみ、脱出できるように準備を始めました。

そんな状態にも関わらず機体は飛び続けていたので、
パイロットは1マイル1マイルを慎重にコースを維持し続けました。

彼らはサハラ砂漠の上空に差し掛かっていました。

アルジェリアの目的地に到着するまで、
機体が持ちこたえられるとは誰も思っていませんでしたが、
オール・アメリカンはそのまま巡航を続けました。

編隊の僚機が、恐る恐る故障した機体に近づいていきました。
(そして上の写真を撮影した乗組員がいたのです)

僚機は全機でオールアメリカンの周りを固め、
射線が重なり合うように編隊を組んで、
戦闘機が近づくのを阻止しながら飛び続けました。

そのうちアメリカ軍の戦闘機もやってきて周囲を護衛し始めます。

それでもオール・アメリカンはまだ飛んでいました。
尾翼を風に揺らして、人間が足を引き摺るようにしながら。

機内の兵士たちには、その旅は10年かかるように思えたでしょう。
ほんの小さな揺れや振動が尾翼を揺るがし、彼らの心臓も縮みあがりました。

しかし、頑丈な設計と機長の”ソニー”ブラッグの繊細な操縦のおかげで、
なんとか持ちこたえることができたのです。

Kendrick Robertson "Sonny” Bragg
デューク大卒、ROTC
戦後プリンストン大に進学、建築家

そして、オール・アメリカンは無事に着陸しました。

尾翼が機能していなかったので、優雅にというわけにはいかず、
最後の100ヤードは文字通り機体を地面に滑らせてのランディングです。

凄惨な内部の状況が予測されたので、救助隊が駆けつけましたが、
彼らには救急車は必要ありませんでした。
乗組員は誰ひとり負傷しておらず、全員普通に歩いて出てきたのです。


この奇跡の生還劇こそが機体と乗組員の能力の生きた証拠となり、
オール・アメリカンは当時最も写真に撮られた機体となりました。



写真の証拠がなければ、誰も信じないようなこの状態は、
当時から現代まで奇跡の生還として讃えられ、語り継がれてきました。

神話となりすぎて?ありえない尾鰭がつけくわえられ、
最近ですら本当の話ではないことがSNSで広められているそうですが、
オール・アメリカンに起こったことはこれ以上でも以下でもありません。


続く。






「レディ・ビー・グッドの九人」駐イタリア第15空軍〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-08 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、第二次世界大戦中
ヨーロッパに展開した陸軍爆撃隊をご紹介しています。

ところで、当ブログシリーズとまるでリンクするように公開された、
スピルバーグの「マスター・オブ・ザ・エアー」が完結しました。

このシリーズを鑑賞する際、偶然にせよ放映に先んじて
ヨーロッパ戦線におけるアメリカ空軍爆撃隊の情報を得ていたことは、
まるで「答え合わせ」か、パズルのピースがはまるような快感がありました。

当ブログには時々こんな「奇跡」が起こります。

誰のためにもならず、なんの自慢にもならず、要はただの偶然にすぎませんが、
この世の全ての出来事の中で、わたしの無意識がたまたま捉えたものが
不思議と他所の誰かの意志と合致する、というささやかすぎる奇跡。

なんとなく引き寄せの法則はあると感じる今日この頃です。

■ イタリアに展開した第15空軍



「長きにわたって我々は南からの攻撃に対して無力だった」

これは、かつての戦闘機エースでドイツ軍最年少将官となった、
アドルフ・ガーランド少将がアメリカ軍について語った言葉です。

1943年9月、アメリカ陸軍航空隊は第15空軍を編成し、
地中海の重爆撃機部隊を南イタリアの基地に集結させました。

南イタリアを根拠地にしたことで、アメリカ空軍は、
南東ヨーロッパで大規模な戦略的空襲を行うことができるようになり、
ドイツ空軍の防衛にさらなる圧力をかけていくことになります。

上の写真は、第15空軍の爆撃機が南イタリアの基地を離陸する様子。
激しい雨の後で、滑走路が一面雨水に覆われ波ができています。

余談:アドルフ・ガーランド少将



ちなみにこう語ったところのガーランド少将ですが、この風貌とか、
バトル・オブ・ブリテンでゲーリングに『何か要望はないか』と聞かれて、

「スピットファイアが欲しい❤️」

と言い放ったったり、爆撃機への体当たり攻撃をやめさせたり、
ジェット機ハインケルHe162のパイロットに少年兵を使うのをやめさせたり、
トレードマークがミッキーマウスだったり(部隊名にしていたらしい)。

なんとなくドイツ軍人ぽくなくね?と思っていたら、やっぱりというか、
フランス系のユグノー教徒(フランス改革派教会)の家系でした。

その動かぬ証拠。操縦席の下にミッキーマウス発見

でっていう話ですが、なんかこの人好きだわ〜。



オーストリアのウィーナー・ノイシュタットにある

メッサーシュミット戦闘機工場を攻撃する途中の一連の爆弾。



第15空軍の爆撃機がイタリア・ミラノのブレッソ航空機工場に爆弾を投下




オーストリア、シュタイアーのボールベアリング工場へ爆撃任務終了後、

死亡したナビゲーターの遺体を爆撃機ノーズから下ろす医療関係者。


空飛ぶ爆撃「列車」?

B-24爆撃手ロバート・ヘンベストRobert Henbest中尉が着用していた

第15空軍と第727爆撃飛行隊のパッチです。


1944年2月、爆撃手ハロルド・クックHarold Cookeが、
レーゲンスブルク上空で撃墜され、捕虜になった後、
投獄中に暇に任せて制作したアイテムその1。

実際のバッジに錫箔を巻いて作ったエアクルー・バッジ飾り。
フレームはベッドのすのこ、フレームを包むパッドは陸軍の制服、
ガラスは窓ガラスを拝借して作ってあるそうです。

そんなにしてまで作りたかったのがこれって・・。



捕虜生活の暇に任せて作ってみたシリーズその2。
木製ベッドのスラットから彫り出されたボンバルディアの翼

・・・・ですが、つまりベッドの一部ですよね?

壊したのか?壊して作ったのか?



テーブルナイフで椅子の座面を彫刻して作った第15空軍のエンブレム。



上の背面にはヨーロッパの地図上空を飛ぶB-24の姿が。



第15空軍の "トグリアー "ジェームス・ウォルシュ軍曹着用アイクジャケット。

 重爆撃機では、「togglierトグリアー?」と呼ばれる下士官が
先導機からの合図で爆弾を投下することになっていました。

トグリアーとは、目標上空で爆弾のスイッチを「トグル」する係です。



ロバート・クラッツ中佐(第455爆撃群B-24爆撃兵、52回の戦闘任務に従事)

着用の帽子には破片が通過したときの破口が残っています。

■ 「レディ・ビー・グッド」とその乗員の物語



「レディ・ビー・グッド」と聞くと、わたしなどは
ジョージ・ガーシュインの曲「Oh, Lady be Good!」が
エラ・フィッツジェラルドの歌で思い出されるわけですが、


この「お嬢さん、わたしに良くしてください」というタイトルを
機体の愛称にした、陸軍のB-24爆撃機の喪失の物語をします。

1943年4月4日、レディ・ビー・グッドは、最初で最後の任務に向けて

リビアのベンガジ近郊にある滑走路、ソルチを離陸しました。




乗員はウィリアム・ジョセフ・ハットン中尉を機長とする総員9名。

手前から:
ハットン、トナー、ヘイズ、ウォラフカ、
リップスリンガー、ラモット、シェリー、ムーア、アダムス

その日の作戦計画では、爆撃隊は時間差でソルクを出発して、
後発の航空機が合流したのち、ナポリを攻撃することになっていました。

ところがその日、サハラ砂漠の強風のために砂嵐が発生し、
視界が全く確保できなくなったため、多くの航空機は
最終的にミッションを中止し、ソルチにUターンしました。

レディ・ビー・グッドは最後に離陸した爆撃機で、
編隊を追いかけましたが、最後まで追いつくことはなく、
目標到達寸前で先発隊がいないのに気づき、帰還を試みました。

しかしレディはハットン中尉の、

「機体の自動方向探知機が正常に作動しないので誘導が必要だ」

という救援を要請する無線を最後に消息を断ち、
捜索救助隊が出動したにもかかわらず、その所在はつかめませんでした。


捜索終了後、レディ・ビー・グッドとその乗組員は
地中海上空で行方不明になったと報告されました。

そしてそのまま第二次世界大戦は終戦を迎えます。

レディ・ビー・グッドと乗員たちは、戦争中に行方不明になった

多くの航空機と乗組員のひとつとして、そのままになっていました。

■ 墜落地点発見




1958年11月、ダーシー・オイル・カンパニー
イギリ人地質学者が、
リビア砂漠上空を飛行中、墜落した飛行機を発見しました。

ダーシー石油会社の派遣した地上チームが調査を行ったところ、
それが墜落したレディ・ビー・グッドであることが明らかになります。

墜落してから16年後のことでした。




軍当局によるレディ・ビー・グッド墜落現場の初期調査は

1959年5月に始まり、三か月で終了しました。

この間、米軍は航空捜索に加え、大規模な地上捜索を行いましたが
数カ月に及ぶ捜索にもかかわらず、
乗組員の遺体を発見することはできませんでした。



その後、パイロットの名前の入ったショルダーハーネス、サングラス、
パラシュート、フライトブーツ、アローヘッドマーカーなどが
現地の人によって発見され、その近くにあった5人の遺体が
レディ・ビー・グッドのクルーであるとする手がかりとなりました。

5人の乗組員の遺骨が発見されたのは、

最初の捜索終了から6ヶ月後の1960年2月のことです。

さらに陸空軍共同での捜索により、五人の位置から21マイル離れたところで
二人の遺骨が発見され、さらに1960年8月、
上空でベイルアウトした後グループと合流できなかった一人、
ジョン・ウォラフカ中尉の遺体を最後に発見しました。

彼はパラシュートが開かず墜落したのではないかと言われています。

九人目のムーア軍曹は最後まで見つからないままでしたが、1953年に
英軍のパトロール隊が発見し埋葬したのが彼ではないかとされています。

■ 彼らに何が起こったか

レディ・ビー・グッドは帰還中燃料不足に陥りましたが、

不時着を試みなかったのは、帰還時は暗く視界が悪かったことに加え、
方向探知機が故障していたことから、
自分たちがすでに基地上空を通り過ぎていたことに気づかず、
地中海上空を飛行していると思い込んでいたせいだと考えられています。

乗組員は全員ミッションの1週間前にリビアに到着したばかりの新人した。

いよいよ燃料が尽きた時、9人全員が飛行機から脱出し、
乗組員のうち少なくとも8人が地上に生きて降り立ちました。

海上にダイブすると思っていた彼らは、砂漠だったと知って
航空機を維持すればよかったと悔やんだかもしれません。
(砂漠であればあるいは不時着が可能だからです)

彼らが着地したのは機体から約15マイル離れた場所だったので、
水筒半分の水しか持っていなかった8人は、
機体に戻るため、砂漠を85マイル歩き続けました。

機体には食料や水を始め、サバイバルグッズが搭載されており、
さらにはまだ無線機も生きている可能性を考えたのです。

後に機体は墜落後も機関銃、無線機は破損しておらず、
食料も水も完璧に残っていたことがわかっています。
魔法瓶入りのお茶は16年経ったにもかかわらずまだ飲める状態だったとか。
ですから、もし飛行機まで戻れていたら、彼らは助かったでしょう。

しかし、ハットン、トナー、ヘイズ、ラモット、アダムズの5人は
疲労困憊しその場から動けなくなり、残りの3人、シェリー、
リップスリンガー、ムーアは歩き続けるも彼らも砂漠の中で倒れ、
最終的には全員が砂漠の真ん中で命を落としました。

■ ロバート・トナー中尉の日記

トナー中尉の遺体のポケットから手帳型の日記が発見されました。



1943年4月4日、日曜日: ナポリ 28機
-戻っている途中で道に迷い、ガス欠で飛び降り、朝の2時に砂漠に着陸した。
ジョンが見つからない。

4月5日(月):北西に歩き始める。
わずかな食料、水筒1/2本分の水、1日1杯の水。
夜はとても寒く、眠れなかった。
休んで歩いた。

4月6日(火):11:30に休息、
太陽は非常に暖かく、風はなく、午後は地獄だった。
15分歩いて5分休む。

4月7日(水):事態は変わらない。
みんな弱ってきている。あまり歩けない。
いつも祈っている。午後はまたとても暖かく、地獄。眠れない。
みんな地面が痛い。(意味不明)

木曜日、4月8日:砂丘にぶつかり、とても惨めだ。
風は良いが砂が吹き続ける。サムとムーアはもうダメだと思う。
ラモットの目が悪くなった。さらに北西に進む。

4月9日(金):シェリー、リップ、ムーアは別行動で助けを呼びに行く。
目が酷い。歩くどころではない。水はほとんどない。
北風が吹いて少しはマシだがシェルターなし、
パラシュートは1つ残っている。


4月10日(土):まだ助けを求めて祈り続けている。
北からの良い風。今は本当に疲労困憊して歩けない。体中が痛い。
みんな死にたがっている。夜はとても寒い。眠れない。

4月11日(日):まだ助けを待っている、まだ祈っている、目が辛い。
体重が減り、体中が痛い。水さえあればなんとかなる。
すぐに助けが来ることを願っている。まだ同じ場所で休めない。

4月12日(月):まだ助けはない。とても寒い夜だ。


おそらくこの夜、日記の主は眠りに落ちて二度と目覚めなかったと思われます。


リビアのウィールス基地の礼拝堂にあるこのステンドグラスは、
B-24「レディ・ビー・グッド」の乗組員に捧げられました。

LORD GUARD AND GUIDE THE MEN WHO FLY
(主は飛行した男たちを守り導き給う)

「IN MEMORY OF NINE WHO MADE THE DESERT A HIGHWAY
 FOR OUR GOD」

(砂漠を神の身元への道とした九名を偲んで)


とあり、以下9名を顕彰しています。

機長:ウィリアム・J・ハットン少尉
副機長: ロバート・F・トナー少尉
ナビゲーター:DP・ヘイズ少尉
爆撃士:ジョン・S・ウォラフカ少尉
フライトエンジニア:ハロルド・J・リップスリンガー技術曹長
無線士:ロバート・E・ラモット技術曹長
砲手/副フライトエンジニア:ガイ・E・シェリー二等軍曹
砲手/無線技師補:バーノン・L・ムーア二等軍曹
砲手:サミュエル・E・アダムス二等軍曹


A Lost Bomber Found In The Desert – The "Lady Be Good"


続く。

"彼らを飛ばすために": 整備士と爆撃指揮官〜国立アメリカ空軍博物艦

2024-03-30 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機に焦点を絞って紹介しています。
今日は爆撃機の本領である爆撃についての色々です。

■ Keep Them Flying


爆撃機乗組員の生死は、地上作業員の技量と勤勉さに依存していました。

 彼らは大型で複雑な爆撃機を常に完璧に整備し、戦闘による損傷を修理し、
航空機をより効果的に飛ばすための改造を担いました。


兵器課の爆弾装填手は、爆撃機の致命的なペイロード(爆薬搭載)

爆弾を組み立て、運搬し、機体に搭載するという危険な任務を担いました。 



ダンプから1,000ポンドの薬莢を取り出す爆弾装填手。 



薬莢には尾翼を付け、機首と尾翼の信管を付けてから航空機に積み込みます。


B-17の爆弾倉に吊り上げる前に、
500ポンド爆弾の尾翼とアーミングワイヤーを装着する兵器兵たち。

下士官技術専門職のパッチ
左から:
気象、エンジニアリング、通信、兵器、写真

爆撃作戦の成功は、何万人もの高度な技術を持った専門職に依存しています。

 1943年から、航空兵は自分の専門を示すパッチをつけるようになりました。



イギリスの第8空軍基地で、雪の中でB-24のエンジンを交換する地上作業員。 

季節や天候に関係なく、ほとんどの整備は屋外で行われました。



足を泥から守るために缶の上に立ち、B-17エンジンの整備をする整備兵。
イタリアの第15空軍基地にて。


泥にめり込んでしまうんでしょうか



作業ではしばしば事故が起こり、大惨事となっています。

■メットフィールドの「デッドリー」(致命的)アクシデント

1944年7月15日、イギリスのメットフィールド飛行場で、

米軍兵器担当者が高火力爆弾を運搬車から下ろしていたとき、
爆弾が誤爆発し、それが1,200トンの爆弾を誘発させました。



この大爆発で5人が死亡し、20機以上のB-24が破壊され回収不可能になり、
数機が損傷するという大惨事になりました。

爆発音は40マイルにわたって聞こえたといい、
数マイル離れた村の窓ガラスを粉々にするほどの威力でした。



博物館に展示されている爆発の際出た金属片は、かつて薬莢だったものです。
1970年、歴史家のロジャー・フリーマンが、
メットフィールドを訪れた際にこのねじれた薬きょうを発見しました。

薬莢の端には、靴底らしきものが巻き込まれています。
それを履いていた人は、おそらく亡くなったでしょう。


一番下に、この「メットフィールド爆発事件」と書かれていますが、
この石碑、三つの全く違うものを記念してあります。
まず、

「第353戦闘機群」

メットフィールドに最初に駐留したアメリカ軍、第353戦闘機群は、

リパブリックP-47Dサンダーボルトを装備する部隊で、
1943年8月12日にヨーロッパで作戦を展開開始しました。

メットフィールドを根拠地として、対空任務、
西ヨーロッパに展開する爆撃機の護衛、
フランスと低地諸国上空での対空掃討作戦、
フランスの標的を急降下爆撃しました。

そして石碑中央は、

The Carpetbaggers
(カーペットバッガー)

Carpetbaggerとは、もともと南北戦争後に南部諸州にやってきた、
日和見主義的(お花畑ともいう)な北部の人々、と意味を持ちます。

カーペットでできたバッグを持った人たち、という意味があり、

「その土地に縁がないにもかかわらず、
純粋に経済的または政治的な理由で新しい地域に移り住む人々」

という意味の名称になっています。


南北戦争後の北部人でいうと、かわいそうな黒人たちに知識を授け、
貧しい南部を栄えさせ活性化できると信じてやってくる人々。

いずれにしても、褒め言葉としては使われていない感じです。

「The Carpetbaggers」というと、ハワード・ヒューズをモデルにした
邦題「大いなる野望」なる映画がありますが、
こちらは1964年作品なので、この時代には全く関係ありません。

この石碑で記念されているのは、

「Operation Carpetbagger」
カーペットバッガー作戦

に参加した人たち「The Carpetbaggers」ということになります。

コードネーム「Operation CARPETBAGGER」は、
パルチザンの戦闘員たちに夜間に物資を密かに空輸する作戦でした。

1944年8月に第492爆撃群と改称されたこの特殊部隊は、

The Carpetbaggers として知られるようになります。

彼らはB-24リベレーターに、"レベッカ "と名付けられた
指向性空地装置を受け、 "ユーレカ "と呼ばれる送信装置を使って
ナビゲーターを地上のオペレーターに誘導します。

射程距離に入ると、「Sフォン」と呼ばれる特殊な双方向無線機で

地上のパルチザンに連絡し、最終的な降下指示を受け、
地上部隊がドイツ軍ではなくパルチザンであることを確認します。

B-24のボール砲塔が本来設置されている場所をハッチにし、その通称
「ジョー・ホール」からパラシュート降下兵「ジョー」が効果していくのです。
(ジョーが出てくるからジョーホール、ってそのまんま)


サーチライトを避けるため、光沢のある黒に塗装されたB-24で、

カーペットバガーズはイギリスからフランスへの最初の任務を決行。

パルチザンへの物資調達は、間近に迫ったDデイ侵攻への準備でした。

彼らの最も多忙だった月は1944年7月で、少なくとも4,680個のコンテナ、
2,909個の小包、1,378束のビラ(真の目的を偽装するため)、
そして62名の「ジョー」を投下しています。

いうまでもありませんが、彼らの任務は常に危険に曝されていました。

ドイツ軍の夜間戦闘機や対空砲火による危険に加え、

カーペットバガーズは、低空からレジスタンス軍に降下する際、
常に丘の斜面に墜落する危険もありました。

1944年1月から1945年5月までに、最終的には
1,000人以上のジョーがB-24のジョー・ホールから敵地に降下しました。

損害は25機のB-24、さらに8機が修理不可能、
人員損失は当初、行方不明と死亡が208名、軽傷が1名とされましたが、
行方不明者の多くはレジスタンス部隊の助けを借りて帰還しています。





爆撃機が戻ってこないときの地上勤務員の心情を表現した戦時中の詩が

爆弾の写真の上に貼ってありました。


『帰還』
ベール・マイルズ

今朝、21機が出撃した
そして太陽は私の目の前にあった
私が見ていると彼らは弧を描いた
空の中に消えていく前に

今朝、21機が出撃した
陽光が彼らの翼をとらえ
彼らは小さな雑木林を横切っていった
ブラックバードがいつものように囀っているところを

鳥のように朝に向かって
彼らは飛んだ どこへかはわからない
でも私の心にはその日一日小さく
そして微かな祈りがあった

今朝は21機が飛び立った
空を華麗に駆け抜けた
でもまだ彼らの姿は見えない
もうすぐ日が暮れるのに

そして突然、時空を超えて
翼の上に陽の光がある
私の心臓の鼓動の上に
エンジンのうなりが聞こえる

太陽はまだ輝き続けている
しかし私の世界は恐れで暗くなっていく
今朝、21機が飛び立った
しかし帰ってきたのは17機だけ


続く。




プロイェシュチ爆撃の殊勲者たち〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-18 | 航空機

タイダルウェーブ(潮流)作戦を報じるフィルムです。

The Ploiesti Raid 1943 [Operation Tidal Wave]

画像悪すぎ。


■ タイダルウェーブ作戦における名誉勲章受賞者


左上から時計回りに:
ベイカー、ケイン、ジョンソン、ヒューズ、ジャースタッド

1943年に行われたプロイェシュチ製油所への大々的な爆撃は、
アメリカ側に多大な犠牲をもたらしました。

その時わかっているだけで500名もの乗員が未帰還になり、
死者は310名に上ったこともお伝えしましたが、
今日はその作戦遂行において名誉勲章を叙勲された人々を紹介します。

まずは生還した指揮官から。

第44爆撃群司令官 
レオン・ジョンソン大佐
Col Leon Johnson



ジョンソン大佐は、警戒態勢にある敵の防衛線と灼熱の火災、
遅発爆弾の爆発をくぐり抜け、第2波を指揮した堅実さと勇気が評価され、
名誉勲章を受章しました。



博物館に展示されている飛行服とゴーグルは、
ジョンソン大佐が8月1日のプロイェシュチ空襲で着用したもの。
パッチは戦前の第3攻撃群のものがそのまま付いています。

ジョンソンは最終的には将軍として1965年に退役しました。

第98爆撃群司令官
ジョン・"キラー"・ケイン大佐
Col John ”Killer'”Kane


この日、山岳地帯の密雲状態を回避している間に、
彼の部隊は集団編隊の先頭部分とはぐれてしまいましたが、
遅れても目標に向かうことを選択しました。

完全な警戒防御、集中的な対空砲火、敵戦闘機、
先の部隊が投下した遅延爆弾による危険、油火災、
目標地域上空の濃い煙にもかかわらず、
彼は石油精製所に対して編隊を率いて攻撃を続行。

ケインの爆撃機「コロンビア万歳」は、エンジンを失い、
対空砲火を20回以上受け、予備燃料を使い果たし、
北アフリカの基地に到着する前にキプロスに不時着しています。

後3人は作戦で戦死した人たちです。

ロイド・ヒューズ中尉(死後)
2nd Lt. Lloyd Herbert "Pete" Hugues



編隊の最後尾を飛ぶB-24のパイロットだった彼は、
激しく正確な対空砲火と密集して配置された弾幕風船をかいくぐり、
低い高度で目標に接近させましたが、爆撃前に機体は高射砲を受けます。

彼は機長として損傷した機体を不時着させるより
作戦の続行を選択して爆撃を完了させました。

その後川に機体を着陸させようと試みますが、
被弾して燃えていた左翼が飛び、機体は地面に落ちて
彼を含む5人が死亡、2人は重傷で死亡、残りは捕虜になりました。

戦死時彼は少尉任官してまだ半年目の21歳で、
前年には結婚したばかりでした。



遺体は現地の人々の手で埋葬されていましたが、
1950年には身元が判明して故郷に帰されています。

アディソン・ベイカー中佐(死後)
Lt. Col. Addison Baker




アディソン・ベイカー陸軍中佐は、当作戦で
「地獄のレンチ」(Hell's Wrench)と名付けられたB-24に搭乗し、
5つのうちの2番目の編隊の先頭機として飛びました。

彼の機を含む何機かは、先頭機が間違った地点で旋回したため、
目的地ではなくブカレストに向かっていることに気づき、
通信を試みましたが、先頭機が警告する電話にも応じなかったため、
ベイカーは編隊を崩し、残りを率いて正しいコースに復帰しました。 

ベイカーの機は最初にプロイエシュチに到着し、
敵のレーダーを避けるため低空飛行をしていましたが、
対空砲に被弾し、火災を含む深刻な損害を受けます。

しかし彼もまた、機を不時着させるより任務を完遂させるため、
爆弾を目標に投下することを優先しました。



爆弾投下後、ベイカーは低空を飛行していた「地獄のレンチ」を、
乗員がパラシュートで降下可能な高度まで上昇させようとしましたが、
被弾していた機体はその途中で炎上し、乗員全員が死亡しました。


空軍博物館展示:ベイカー中佐に授与された勲功賞等

ベイカー中佐の遺体はその後行方不明のままでしたが、
作戦から80年後の2017年、関係機関が遺骨を掘り起こし、人類学的分析、
状況証拠、ミトコンドリアDNAとY染色体DNA分析により、
遺骨を正確に特定し、あらためてアーリントン墓地に埋葬されました。

彼は当時36歳で、作戦に参加したメンバーの中では最年長だったため、
特定が比較的早くできたということがあるそうです。

ちなみに、最新の鑑定法を使った今回の特定作業で、
今まで身元のわからなかった80名の乗員のうち、36名が特定されました。

 ジョン・ジャースタッド陸軍少佐(死後)
Maj. John Jerstad



シカゴの名門大学ノースウェスタンを卒業後任官した彼は、
ヨーロッパで出撃を重ね、1943年には25歳で少佐に昇進していました。

当時彼は93爆撃群とは関係がなかったにも関わらず、
プロイェシュチ爆撃の潮流作戦に自ら志願し参加しています。

彼はベイカー機長操縦の「ヘルズ・ウィンチ」の副機長を務め、
爆撃終了後、低空飛行から炎上しつつある機体の高度を上げ、
乗員がパラシュートで脱出できるように機長と共に試みましたが、
前述の通り、機体は墜落し、乗員全員と運命を共にしました。

ジェルスタッド少佐は作戦後行方不明とされていましたが、
死後7年目に発見され、死亡が確定しました。


冒頭写真左から
ベイカー、ジャースタッド、ジョンソン、ヒューズ
(ケインは写っていないと思う)


博物館には、ナビゲーターだった
レイモンド・ポール ・"ジャック"・ワーナー中尉が、
8月1日の空襲で着用していたシャツも展示されています。

ワーナー中尉は対空砲火で左腕を切断されそうになりながら、
被災した機体からパラシュートで脱出し、
パラシュートが開いた瞬間に地面に激突し、死を免れました。

彼は1944年の秋に釈放されるまでルーマニアで捕虜になっていましたが、
現地の病院の看護婦が彼の破れたシャツを修理してくれたので、
ずっとこれを着ていたということです。

このワーナー中尉についての経歴はあまりありませんが、
死亡を伝えるサイトのHPに、陸軍少佐として紹介されていました。

帰国してからは軍役から引退していますが、
捕虜になっていたことを考慮されて昇進したようです。

死後2階級特進というのは日本で耳にしますが、
アメリカではむしろ引退後の年金補償の点などを考慮して、
慰労の意味でこういう特進があるのかなと思いました。

余談ですが、ワーナーの本名は「レイモンド・ポール」であり、
あだ名の「ジャック」の要素がどこにもありません。
これは、姓が「ワーナー」であったことから、当時の有名人、
ジャック・ワーナーの名前で周りからも呼ばれていたのだと思われます。


Operation Tidal Wave - 178 B-24 Bombers vs. Hitler's Gas Station

こちらは非常にわかりやすいタイダルウェーブ作戦の説明です。
編隊離陸直後から1機が墜落、低空飛行に入った途端、
グループが分かれて進路を間違え、混乱したと言っています。

そして、このやりとりをドイツ軍が傍受し接近に気がついたと。

そして、結論としてアメリカの爆撃作戦は失敗で、
製油所は、結局終戦まで
「ヒットラーのガソリンスタンド」
として機能し続けたことを強調しています。

次回は、当作戦に参加した唯一の日系アメリカ人、
ベン・クロキについてお話しします。


続く。






「暗黒の木曜日」初期爆撃戦略の欠陥 〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-12 | 航空機

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機は、

フォーメーションを組んで飛行しました。

フォーメーションは戦闘機の攻撃から重爆撃機を守り、
爆弾パターンを目標に集中させるために設計されています。

これらのフォーメーションは、敵の戦術に対抗するため、
また重爆撃機の数の増加に対応するため、時代とともに進化していきました。

■ コンバット・ボックス Combat Box

アメリカ空軍のフォーメーションタクティクスには、
「コンバット・ボックス」(戦闘箱)なる言葉があります。

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機(戦略爆撃機)が使用した
戦術編隊のことを「コンバット・ボックス」と称しました。

まずなぜこれが「ボックス」なのかというと、


このような図式にあてはめて編隊を組織したからです。

集中編隊を「ボックス」と呼ぶ習慣は、平面図、側面図、
正面仰角図で編隊を図式化し、個々の爆撃機を
目に見えない箱状の領域に配置したことから生まれました。

別名として、「時間をずらす」という意味の
「スタッガード・フォーメーション」とも呼ばれたこの思想の目的は、
まず、防御の点からいうと爆撃機の火砲の火力を集中させることであり、
攻撃的には目標に爆弾の放出を集中させることにありました。

■ ドイツ軍の防御システム

映画「メンフィス・ベル」では、爆撃目標に近づいた頃、
それまで護衛についていたアメリカ軍の戦闘機が、
翼を振って別れを告げ、帰っていくのを見て、乗組員が
ため息混じりにそれを皮肉るシーンがありました。

ギリギリまで掩護してドイツ機と交戦するまでいるのかと思ったら、
相手が出てくる前に帰ってくるのですから、皮肉も言いたくなるでしょう。


日中の精密爆撃にこだわったアメリカ空軍を迎え撃つドイツ軍は、
地上のレーダーで迎撃機を誘導する強力な統合防空システムを構築しました。

占領下のヨーロッパ上空に侵入した連合軍機を
ME-109、FW-190、ME-110、JU-88戦闘機が迎え撃ち、
さらに、通称「フルークfluk(高射砲)」と呼ばれる
「フルガブヴェールカノン(flugabwehrkanone)」
が地上から連合軍の爆撃機を標的にしました。


ボフォース40ミリ

双方の衝突が重なるにつれ、空戦は回復力を試す試練となり、
両陣営の乗組員たちは高高度の消耗戦に閉じ込められていきます。

この空中戦の熾烈さを象徴するのが、通称

「暗黒の木曜日」
として知られる1943年10月14日の爆撃ミッションでした。

この任務は、アメリカ陸軍第8空軍の第1航空師団と第3航空師団が
イースト・アングリアの基地から飛び立ち、
ドイツのボールベアリング工場を攻撃するものでした、

ドイツの戦闘機械の多くは低摩擦ボール ベアリングに依存していたため、
アメリカ軍は、ボール・ベアリングの生産を破壊すれば、
ナチスの戦争遂行能力に連鎖的な影響を与えると考えたのです。

■ 1943年8月17日の同時2箇所空襲




この作戦は実は二度目で、最初8月に行われた、第8空軍による
レーゲンスブルクのメッサーシュミット戦闘機工場
シュバインフルトのボールベアリング工場への空襲がありました。



同時二箇所の攻撃は、敵の防衛力を分断させることが目的でしたが、
シュバインフルト攻撃隊の離陸が遅れてしまうという、
起こってはいけないアクシデントのせいで、ドイツ軍に、

第一波隊を余裕で迎撃してから着陸し、
再武装してタプーリ給油し、
ついでにコーヒーを飲んでから出撃しても(嘘)
まだシュバインフルト迎撃に間に合う


という余裕を与えてしまいます。

しかもアメリカ爆撃隊は前述の事情で終始全くの援護なしだったため、
単独で次から次へとドイツ戦闘機の波と戦うことになりました。

アメリカ軍が採用していた爆撃機編隊間の相互支援による防御射撃は、
ルフトバッフェの、「コンバットボックス」単位に攻撃をかけ、

編隊を撹乱するという作戦でまず無力化され、編隊を離れた落伍機は
ドイツ機の集中攻撃を受けて1機ずつ確実に仕留められていきました。



それでもこの時の空襲はそれでも両工場に甚大な被害をもたらしました。


最初から損失を計算して大編隊が組織されたこと、
そして爆撃手が優秀だったせいです。


左:爆撃中 右:爆撃後の偵察機による撮影(穴だらけ)

しかしながらこの時アメリカ軍は、攻撃兵力の20パーセントに相当する
60機の爆撃機を失い、600人以が死傷、行方不明、捕虜となりました。


攻撃後満身創痍で北アフリカに向かうレーゲンスブルク攻撃隊

そして、その後ドイツがボールベアリングの生産量を回復したため、
連合軍側は再び同じところを叩こうと考えたのです。



■ 1943年10月14日、暗黒の木曜日

さあ、もうおわかりですね。
「暗黒」とは誰にとってのものだったのか。

爆弾を落とされる工場の人々にとってもそうだったでしょうが、
それ以上に困難に直面したのは、実はアメリカ爆撃隊だったのです。


アメリカ軍の戦前の航空隊のドクトリンでは、

「航空編隊は、爆撃機を集団化することで、
戦闘機の護衛なしに
昼間でも目標を攻撃し破壊することができる」

とされ、爆撃機自身が装備する防御機銃
「軽砲身」ブローニングAN/M2 .50口径(12.7mm)砲
の連動射撃さえあれば、
先頭機の護衛なしで爆撃機を敵領土に飛ばすことができる、
と信じていました。

「メンフィス・ベル」の1942年ごろはまさにその通りで、
護衛してきた戦闘機がある地点で翼を振って帰っていくと、
とたんにルフトバッフェの戦闘機が湧いて出てくるという状態でした。

当時の爆撃機は最大10門の機関銃を備えていたにもかかわらず、
損害は増大し始めていました。

「メンフィス・ベル」が25回のミッションを終えたとき、
アメリカは国をあげてこれを讃え宣伝しましたが、それは逆にいうと
ほとんどが25回の任務を生き延びることができなかったということです。

しかし戦闘機が途中で帰ってしまうのは、仕方ないことでした。
当時の戦闘機の航続距離では、海岸線を越えることもできなかったのです。

「暗黒の木曜日」のミッションで、291機のB-17爆撃機は
掩護を伴った「コンバットボックス」編隊を組んでアーヘンに接近すると、

作戦範囲の限界に達したUSAAFのP-47戦闘機は、
翼を振って爆撃隊に別れを告げ、離脱していきました。

結局全行程のうち護衛が付いていたのはアーヘンまでの300マイル、
残りの200マイルの間、爆撃機は戦闘機の掩護なしということになります。


掩護機が離脱すると、すぐにルフトバッフェの戦闘機がやってきましたが、
このタイミングは決して偶然ではありませんでした。

ドイツ軍は、レーダー管制がP-47が編隊を離脱する瞬間を把握しており、
戦闘機をレーダー誘導して向かわせていました。

ルフトバッフェの単発戦闘機は、まず第一波攻撃として
3×4のフォーメーションを組み、アメリカ軍爆撃編隊に正面から接近し、
至近距離で20mm砲を発射してきました。

続いて双発戦闘機 JU-88 からなる第二波が続きます。
大型戦闘機は重口径砲に加え、翼の下から21cmロケット弾を撃ってきます。

ロケット弾はかなりの爆発力を備えているため、
たった 1 回の一斉射撃で爆撃機を簡単に破壊できました。


しかも彼らは 爆撃機の防御砲の有効射程、

1,000 ヤードから決してこちらに近づくことはありませんでした。


JU-88はまず先頭の爆撃機にロケット弾を撃ち込み、
各B-17が回避行動を始めると、撹乱して編隊をバラバラにしてしまいます。



迎撃機の攻撃をかわし、なんとか爆撃目標上空に到達できたとしましょう。
次に爆撃隊は激しい対空砲火に直面します。

爆撃機の砲手は追撃してくる戦闘機に撃ち返すことはできても、
高射砲に対しては何もすることができず、それを逃れるには
ただ弾幕を何事もなく通過することを祈ることしかできません。


さらに撃墜されずミッションを終えても、中央ヨーロッパを横断する帰路で
待ち受けている敵と戦わなければなりませんでした。

シュヴァインフルトに接近するまでに、爆撃隊はすでに28機を失いました。

「暗黒の木曜日」で出撃した全291機の爆撃機のうち、60機が撃墜され、
約600人の飛行士が敵地上空で命を落としました。

帰還した爆撃機のうち17機は英国で墜落または廃棄され、
121機が修理しなければもう飛べない状態で、
その多くが負傷したり、死んだ搭乗員を乗せていました。

10月14日爆撃の最初の一投が地上で炸裂する

打撃を受けながら爆撃隊が投下した爆弾は、
このときもボールベアリング複合体に正確に命中しました。

第40爆撃群の生き残った飛行機は、驚くべき正確さで
目標地点から1,000フィート以内に爆弾の53%を投下しています。

内訳は高性能榴弾1122発のうち、143発が工場地帯に着弾、
さらにそのうちの88発が直撃弾となりました。

煙の上がるシュバインフルトを離脱し帰投する爆撃機



この日、搭乗員は出撃前に最後になるかもしれない写真を撮りました。
笑ったりおどけた様子の者は一人もいません。

303爆撃群のこのクルーは、生還することに成功しています。


冒頭のボマージャケットと手袋は、第91爆撃グループの
「Chennaults Pappy」(シェンノートの子犬)の胴部銃撃手、

フィリップ・R・テイラー軍曹
SSgt Phillip R. Taylor

が「ブラック・サーズデー」任務で着用していたものです。


ケースの足元には、軍曹がフォッケウルフ190を撃墜した
50口径機関銃のファイアリング・ピン(撃針)と、
「ダルトンの悪魔たち」と刺繍された布のケースが展示されています。

■ブラック・サーズデイの教訓

アメリカ空軍の指導者たちは一連の爆撃作戦の戦果を賞賛し、
高い損失率にも関わらず勝利を主張していました。


第8空軍司令官アイラ・イーカー中将は
「我々は今やフン空軍(でたフン族笑)の首に牙をむいている!」

といいましたが、これは実情を知っているものには虚しいハッタリでした。

公的には成功を宣言したものの、非公式には(というか実際は)
第8空軍の士気の低下に伴う損失に深い懸念を覚えていたのです。

「暗黒の木曜日」を含む一連のミッションに対する現実的な評価は、
戦闘機の護衛なしでは費用対効果が悪すぎるということでした。

これ以降、第8空軍は攻撃をフランス、ヨーロッパの海岸線、
戦闘機の護衛が可能なルール渓谷に限定しています。

そしてこの後、航続距離が長く、優れた機動性と十分な武装を備えた
 P-51「マスタング」戦闘機が導入されるまで、
ドイツ深部への同様の襲撃を行うことはありませんでした。

米軍はこれ以降、昼間戦略爆撃の理論を再考することになります。
航空戦に勝つには新しいドクトリンと装備が必要であると知ったのです。

さらに、多大な犠牲を払って「成功させた」と上層部が自賛したところの
一連のミッションでしたが、爆撃隊の正確な爆撃にもかかわらず、
その後の分析により、最終的にドイツのボールベアリングの生産は
わずか10パーセント減少しただけだったことが判明しています。


続く。