ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

空軍WAC/翼を持った天使~国立アメリカ空軍博物館

2024-10-16 | 航空機

第二次世界大戦時、ヨーロッパ戦線に空軍として派遣された
陸軍航空隊のWACについて今日は取り上げます。

冒頭写真は、1943年7月にヨーロッパに到着し、
イギリスを行進する第8空軍所属の最初のWAC。

映画「陸軍の美人トリオ」では、フォート・デモインでの訓練を経て
最終的に任官を果たした美人三人娘が、ヘルメットに戦闘服、
という写真のWACと同じ服装で戦地に向かうところで終わります。

彼女らは士官ですが後列の皆さんと同じ装備をしていました。
この写真では、先頭の士官がおそらく隊長で、
この部隊はWACの陸軍看護師部隊(Army Nurse Corps)と思われます。


航空管制はWACに割り当てられた任務の一つでした。

写真のWACは、管制装置を搭載した移動式(トラック)管制室から
航路を外れて迷った爆撃機を基地に誘導しています。

という設定ですが、全員がニコニコしているので、おそらく
撮影用にポーズをとったのだと思われます。

後ろの若い男性軍人の目が心なしか死んでいますが、
彼はおそらくこの中の誰より階級は上です。
真ん中のおばちゃん(マニキュアが赤)は貫禄はありますが、
階級はプライベート、つまり一等兵となります。

右上にあるのは彼女らを称賛するカール・スパーツ将軍のお言葉。

「WACの価値ははかりしれないものだった。

メンバーは誰もが献身的に働き、しばしば、
並外れたパフォーマンスを要求される困難な任務をこなした」



ジミー・ドーリトル中将と握手する
オヴィータ・カルプ・ホビー大佐
Col. Oveta Culp Hobby

ホビー大佐については以前もWACについて扱った時にお話ししています。

空で、海で、陸で〜ミリタリー・ウィメン

女性初となる陸軍の女性隊 WACの初代司令。
テキサス州知事夫人という身分から軍人として大佐にまで昇進、
女性初の戦中功労賞を授与された人物。


戦後にはアイゼンハワー大統領のもとで
保健福祉省の最初の事務官となり、キャッチフレーズは

Trendsetting Texan(テキサスの流行仕掛け人)

写真は当時第8空軍司令官だったドーリトル中将と会談した時のもの。
陸軍では女性部隊の発足を全軍で最も早く実行に移した時、
彼女が「顔」として選ばれ、その後司令にも任じられたというわけです。

当時は補助部隊を意味するAuxiliaryが付随したWAACでしたが、
翌年にはもう「補助」は外されてWACとなりました。

発足時のWAACからWACになるまでの3年間同隊を率いたのが彼女です。

それにしても後ろのWAC、こういう状況でポケットハンドってどうなの。



第8空軍の「スウィッチボード・オペレーター」(交換手)。
陸軍のWACの約40%は航空隊で勤務し、
彼女らは「エアWACs」と呼ばれていました。

■「プリティ・リーグ」女子プロ野球リーグ



このエアWACの軍服は、

テレサ・コブシェウスキー軍曹
SSgt Theresa Kobuszewski

が着用していた実物です。
この人の名前で検索すると、野球人としてカテゴライズされて出てきます。



彼女は1944年5月から1945年11月まで、
第8空軍のWACとしてイギリスで従軍していました。

写真は戦時中から戦後(1954年)まで存在した
女子プロ野球リーグ、「フォート・ウェイン・デイジーズ」
でプレイしていた頃のコブシェウスキー。

女子プロ野球というと、映画「プリティ・リーグ」

『A League of Their Own』が有名ですが、
正確には
「オールアメリカンガールズプロフェッショナルベースボールリーグ」
(全米女子プロ野球リーグ)

と称します。



移動の関係でチームはほとんどがシカゴのミシガン湖沿いにありました。
(『マスキーゴン・ベルズ』というのもあった模様)

あの映画では、姉の所属する「ロックフォード・ピーチズ」と
妹の「ラシーン・ベルズ」がリーグ優勝を競う設定でしたが、
このチームはどちらも実在します。

また、ドラマ「デスパレートな妻たち」には、猫を心の支えに生きていた
孤独な老女が、街を襲った竜巻で亡くなった後、
遺品の中からピーチズのと思われるユニフォームが出てきて、
彼女がかつて女子リーグの剛腕ピッチャーだったことを知った主人公の一人は、
老女を弔うため、遺灰をこっそり掃除機のゴミと取り替えて遺族に渡し、
本物を無人の野球場のマウンドに撒いて捕まる、というエピソードがありました。

映画でも描かれていましたが、彼女たちは「商品」だったので、
女性として好ましい振る舞いと装いを求められました。

ヘレナ・ルビンスタインのチャーム・スクールのクラスに通い、
適切なエチケット、個人の衛生、マナー、ドレスコードなどが決められ、
各選手には美容セットとその使い方の説明書が配られるといったように。

禁止事項も多く、まず短髪にすることは許されず、
公共の場での喫煙や飲酒は禁止され、ズボンも禁止、
常に口紅を塗ることが義務づけられ、反則した場合は罰金、
3回目で出場停止という厳しいものでした。

1944年には、ジョセフィーヌ・"ジョジョ"・ダンジェロが
髪を短く切ったことで解雇されたほどです。


真ん中の男性はコーチで、大抵は大リーグの元選手が務めました。
戦後になるとリーグ出身の女子監督も現れます。

テレサ・コブシェウスキーのデータは以下の通り。

プロ活動期間:1946年から1947年まで

アンダースロー投手としてソフトボールチームでプレー

1942年にWAC入隊
陸軍対海軍チームの優勝決定戦で勝利投手となる

女子リーグにアンダーハンド投手として入隊、
1946年から「ケノーシャ・コメッツ」で1年半プレーした後、
1947年「フォートウェイン・デイジーズ」に移籍

ルーキーイヤー:21試合123イニング 3勝9敗、防御率2.71
1947年:11勝15敗、防御率2.42
208イニングで47奪三振

投手通算成績:51試合登板、14勝24敗
打者通算成績:52試合打率.242(30打数124安打)打点6、得点15

1948年にリーグが厳格なオーバーハンド・ピッチングに切り替えられ、
アンダーハンドの彼女はこれに適応できず、引退

1988年野球殿堂入り

ミシガン州トレントンで84歳で死去


■ウィングド・エンジェル

 USAAFフライトナース



第二次世界大戦まで、米軍は負傷者を後方に避難させるための方法について
あまり考えが及んでいないといった状況でしたが、戦争の規模が拡大すると、
米陸軍航空部隊は、航空避難(後に航空医療避難として知られる)、
そして航空看護師を現場に投入して行くことになります。



米空軍の航空輸送ルートが世界中に急速に拡大したことは、
前線から遠く離れた設備の整った病院に、
傷病兵士たちを迅速に運ぶことが可能になりました。

この「革命」によって多くの負傷兵の命が救われ、
フライトナースの導入がそれを可能にしました。

1942年初頭、アラスカ、ビルマ、ニューギニアの空輸部隊は、
前線に人員と物資を運んだのと同じ輸送機で患者を後送しました。

ヨーロッパでは、差し迫った必要性から、米空軍は医療空輸飛行隊を創設し、
飛行外科医、下士官医療技術者、フライトナースを対象とした
「急行訓練プログラム」を開始します。

危急の必要性から、アメリカ空軍は1942年のクリスマスに、
まだ訓練を終えていない女性たちを北アフリカに送りました。

1943年2月18日、最初にウィングマークを受け取ったのは、
名誉卒業生であるジェラルディン・ディッシュルーン中尉をはじめとする
米陸軍看護隊のフライトナース第一期生たちでした。

ディシュルーン中尉は、Dデイ侵攻後、オマハ・ビーチに上陸した
最初の航空避難チームに参加しています。

しかし、危険は付きまといました。

負傷者搬送に使われた航空機は軍需物資も輸送していたため、
赤十字を表示することはできず、敵の攻撃を受けることになります。

このため、フライトナースと医療技術者は志願制となりました。

あらゆる緊急事態に備えるため、フライトナースは墜落手順を学び、
サバイバル訓練を受け、高高度が患者に及ぼす影響を熟知しなければならず、
さらに、彼女ら自身がこのような過酷な飛行中に患者のケアをするために、
最高の体調でなければならなかったのは言うまでもありません。

最終的に、約500人の陸軍航空看護師が、
全世界に所属する31の医療航空避難輸送飛行隊に所属しました。

戦争中、空輸された1,176,048人の患者のうち、
途中で死亡したのはわずか46人であったことは、
彼らの技術の高さを証明する数字と言えるでしょう。

そして戦争中に命を落としたフライトナースは17名でした。


フライトナースたち @イギリス


上空で患者をチェックする第803航空避難輸送中隊のC-47航空避難チーム、
ポーリン・カリー中尉とルイス・メーカー軍曹



通常、フライトナース1名と医療技術者1名で、
10分以内に避難機を出発させることができるとされました。

飛行外科医が離陸前に各患者の状態について看護師に説明し、
飛行中看護師は患者の安全と快適さを受け持ちました。

1943年7月、シチリア島からアフリカに避難する患者をチェックする
ケイト・スウォープ中尉。

こういう任務に5cmヒールの白いパンプスを履いているのが
さすがは当時の女性という感じです。



C-54の機内で患者の手当てをする医療技術者(奥)
とフライトナース(右下)。
C-54は、より多くの国民を空輸することを可能にしました。


エルシー・S・オット中尉

初の大陸間航空避難飛行のフライトナース。
1943年1月、飛行機に乗ったことも、訓練も受けていなかった彼女は
インドからワシントンD.C.までの5人の重病患者の輸送に成功。

彼女は女性に贈られた初の航空勲章を受章し、
その後正式なフライトナースの訓練も受けました。

スエラ・バーナード大尉

1945年3月22日、ドイツ・レマゲンの橋頭堡近くの空き地で
重傷の米独戦死者25名を2機のグライダーに収容した際、
C-47が曳航したグライダー内で看護にあたったバーナード大尉は、
大戦中にグライダーによる戦闘任務に参加した唯一の看護師となりました。


C-47に曳航されようとするCG-4Aグライダー。
コックピット右手席に座っているのスエラ・バーナード中尉。


アレダ・E・ルッツ中尉

第二次世界大戦中196のミッションに参加し、
3,500人以上の負傷者を救出したことで最も有名な航空看護師。

1944年11月、フランスのリヨン近郊の前線からの避難飛行中、
彼女の搭乗したC-47は墜落し、乗員全員が死亡しました。


負傷者の横で屈んでいるアレダ・E・ルッツ大尉。

彼女は
オークリーフ・クラスター4個付きの航空勲章、
そして死後に殊勲十字章を受章しました。


陸軍の病院船と退役軍人局の医療センターに彼女の名が冠されています。


ルース・M・ガーディナー中尉

1943年7月、アラスカで患者を避難させる途中、
航空機の墜落事故で死亡。
彼女は米空軍で初めて戦闘地域で死亡したフライトナースとなりました。

続く。




VE DAY!ヨーロッパにおける犠牲と勝利〜国立アメリカ空軍博物館

2024-10-08 | 航空機

アメリカ空軍博物館の展示より、第二次世界大戦中ヨーロッパにおける
アメリカ空軍の爆撃作戦について語ってきました。

その最終章は「犠牲と勝利」と称してこう始まります。

未経験の事態に対する乏しい理論と不十分な装備でスタートした米空軍は、

戦いの初期では壊滅的な損失を伴う手痛い損失に直面しました。

それでも、重爆撃機の乗組員たちは、何度も何度も、
敵の防御をかいくぐって目標を爆撃するために戦いに赴きました。

米空軍は彼らの勇気と尊い犠牲を礎に、経験値を積み重ね、
強大で実力のある爆撃機部隊を構築するに至ります。

最終的にはアメリカ空軍は敵を無力化し、
ナチス・ドイツを打ち負かす決定的な役割を果たしたのでした。

アメリカ人墓地に最初に埋葬される搭乗員たちの棺


1944年11月20日。
ドイツのブレッヒハンマーにある合成油工場を攻撃中、
対空砲火が命中し、発火したリベレーターB-24爆撃機。

奇跡的に乗員のうち5人が生き残り、捕虜になりましたが、
半数に当たる5名は当然ながら戦死しました。


イギリスのケンブリッジ・アメリカ人墓地には、
ヨーロッパ戦線で命を落とした4,000人近いアメリカ人が埋葬されています。


全景。野球のグラウンドを思い起こすのはわたしだけ?

Cambridge American Cemetery

総埋葬者数は3,812名。

「行方不明者の壁」には5,127人の名前が記されており、
海上を輸送中の飛行機を撃墜されて行方不明となった
アルトン・ミラー中佐の名前もあります。

Maj. Alton Miller ではわかる人はあまりいないと思いますが、
つまりトロンボーン奏者でバンドリーダー、グレン・ミラーのことですね。

彼はファーストネームの「アルトン」が気に入らなかったのか、
ミドルネームの「グレン」を芸名にしていました。
ここは軍による公式施設なので、ファーストネームで記名されているのです。

ミラー中佐については当博物館のコーナーがありますので
そのうち取り上げてご紹介する日もあるかと思います。

また、JFKの兄で、ハーバードロースクール出の優秀な海軍パイロットだった
ジョセフ・P・ケネディJr.も、海軍大尉として任務中の飛行機が爆発し、
行方不明となってこの壁に名前が刻まれています。

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戦死者に航空搭乗員が多いことから、
天井には天使と航空機のモザイク画があしらわれています。
喪われた航空機たちが天使に守られてどこかに向かうシーンです。

■ 捕虜



このログを作成時、現在進行形でApple TV +の

「マスター・オブ・ザ・エアー」を観ていたのですが、
このときちょうど、第5回で主人公の一人イーガン少佐の機が撃墜され、
第6回では逃走の末どうやら捕虜になりそうなところで、

その後、案の定、彼の捕虜収容所での様子が描写されることになりました。

イーガン少佐の機のように、爆撃機は、撃墜されてから

状況によっては脱出できる可能性が(戦闘機と比べると)高かったせいで、
たくさんの搭乗員が捕虜として終戦まで収容されていました。

捕虜になった爆撃機クルーの数は、3万人以上とされています。

 戦略爆撃キャンペーンの功績

ドイツ空軍を撃破し、ヨーロッパ上空の制空権を獲得

ドイツ空軍に、戦闘機と対空砲を戦線から移動させ、
爆撃機の攻撃から自国を守るように誘導した


ハンブルグのドック爆撃で沈んだUボート。

ハンブルグって海に面していたっけ?と一瞬考え込みましたが、
北海から流れ込むエルベ川の川畔にUボートを係留していたんですね。

現在でもその関係なのか、同じと思われる場所に
U-434が係留されて潜水艦博物館になっています。

U-434ライブカメラ

潜水艦「シルバーサイズ」のように、ライブカメラで
現在の状況を見ることができるのですが、ちょっと驚いたのは
その下の干潮満潮の浮き沈み(というか潜水艦が固定されているので
浮き沈みしているように見えるだけだけど)が見られること。

なんと満潮の時には見学者用の通路まで冠水してしまいます。

■ レジスタンスの情報


アウグスブルグのメッサーシュミット工場。

メッサーシュミットはレーゲンスブルグにあった1943年8月17日、
連合軍の爆撃機部隊から初めて攻撃を受けたため、
1944年からは、分散化して隠れた工場に移転させる計画を立てました。

しかし、少なくとも1943年秋までには、連合国側は
諜報活動によって生産施設の正確な位置計画を知らされていたのです。

ハインリヒ・マイヤー牧師率いるオーストリアのレジスタンスグループが、
アメリカの戦略局とイギリスの秘密情報部SOEに情報を送り、
連合軍の爆撃機は、その情報を元に記されたスケッチの通り、
生産施設に正確な空爆を行うことができたのでした。


逮捕後のマイヤー牧師 拷問の傷が認められる

マイヤー牧師のグループの活動は、主にナチスの軍需工場の場所、
生産しているものについての情報を連合国に流すことで、
スイスを経由させて英米に情報を送っていました。

Bf109の他にもティーガー戦車、V-2ロケットの情報を流し、
ペーネミュンデの秘密工場の爆撃を成功させています。

マイヤーのグループは、同志同士の意見の違いから裏切られ、
ゲシュタポに捕えられ、裁判の結果、死刑に処されました。

判決が出た後もマイヤーは拷問を受け、不発弾処理をさせられましたが、
最後の瞬間まで、周りを感動させるほど穏やかだったということです。

斬首による処刑をされた時、マイヤー牧師は37歳の若さでした。


斬首刑されたマイヤー牧師の慰霊像

ここで首がない銅像を作るというセンスについていけない


もっとも、ドイツもこれに対し、主にリンツ近郊のグーゼンII強制収容所で
「B8ベルククリスタール」という迷彩名のもと、
大規模かつ極秘の組立ライン生産が実現させ、1945年、
生産された最後のMe 262がミュンヘンに空輸されています。


野外で組み立てられていたMe262。
敗戦が決定したため、完成前に計画的に破壊されました。



爆撃による損害の修復と生産の分散に莫大な資源を投入させた


爆撃によって壊滅的被害を受けたハノーヴァーの戦車プラント

同じ場所 別の写真

石油と輸送部門への攻撃でドイツの軍事活動を麻痺させた


爆撃で破壊されたマグデブルグ近郊のオイルプラント。

マグデブルグには、クルップ社の製鉄所もあったため、
この地方は工業が盛んになっていましたが、連合軍の空爆で破壊され、
東側にあったため戦後はソ連の援助で一時復興し、
その後東西統一されてすでに旧式となった製鉄所は閉鎖されました。

ニュールンベルグの操車場
貨車の上に爆撃で捻じ曲がった線路が乗っかっている


ドルベルゲンの合成油工場の残骸に佇む二人は、
米兵と元収容所労働者。

この日の第303爆撃群の記録によると、

453機のB-17の主目標はブルンスウィックのウィルケ(53機)、
ブラッシング(77機)による石油工場とMIAG軍需工場(61)、
ドルベルゲン(37機)、デデンハウゼン(53)、ニエンハーゲン(56)による
石油精製工場で、(略)ほとんどの攻撃は目視。
5機のB-17が喪失、53機が損傷、飛行士1名がWIA、41名がMIAとなる。

掩護に当たった180機のP-51のうち2機が失われ
(パイロットはMIA)、1機が修復不可能な損傷を受けた。


WIAは戦闘中負傷を意味します。

■ ドイツ敗北

ナチスの敗北を象徴する写真
破壊されたMe109が重機で押しのけられている上空には
かつてのドイツ空軍の飛行場に着陸しようとするAAFの戦闘機が


1945年4月、ドイツ軍は敗北しました。

4月25日、米ソ両軍がエルベ川で激突。
その5日後、アドルフ・ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺します。

後任のカール・デーニッツ海軍提督は、
アルフレッド・ヨードル元帥をランスのSHAEF
(連合国遠征軍最高司令官総司令部)分遣隊に派遣し、
戦争終結の条件を模索し始めました。

5月7日午前2時41分、全戦線におけるドイツ軍の無条件降伏が調印され、
それは5月8日午後11時1分に発効しました。

6年の歳月と数百万人の尊い命が失われた後、
ヨーロッパにおける戦争はついに終結することになりました。

 勝利の代償

最後にヨーロッパでの戦争で勝利と引き換えに払った

アメリカ軍航空隊の、あまりに高かった代償の数字を挙げておきます。

戦死者 34,362人
負傷者 13,708人
行方不明、捕虜、抑留 43,035人

重爆撃機8,314機
中・軽爆撃機1,623機
戦闘機8,481機

計27,694機


国立空軍博物館爆撃機シリーズ終わり





「ジークフリート線に洗濯物を干す日」連合軍ドイツ侵攻〜国立米空軍博物館

2024-09-30 | 航空機

1945年までにドイツ空軍は事実上壊滅しました。

今日は、制空権を得た連合国の空軍がやりたい放題の攻撃によって
近接支援を行い、その結果、連合軍地上部隊が進攻を果たし、
ドイツを降伏に至らしめるまでを博物館の展示を元にお話しします。


■ ”ジークフリート線” に洗濯物を干す日


ジークフリート線に爆撃を行うB-26

ジークフリートライン( Siegfried-Linie)は、

西方の壁(Westwall)とも呼ばれ、1930年代後半に構築された
ドイツの対フランス要塞線のことです。

🟥 ジークフリートライン
🟦マジノライン
ー青線ーライン川

伝説上の英雄ジークフリートの名を冠したこともあって、
ドイツはこれを国家防衛の象徴としてプロパガンダに利用し、
彼らが作った「不落の要塞」というイメージは敵側の心理に功を奏し、
ドイツのチェコスロバキアとポーランド侵攻を成功させました。

連合国もその実態よりジークフリート線の防御力を過大評価していたことは
こんな英語の歌ができたことにも表れています。

We're Going to Hang out the Washing on the Siegfried Line - British World War II Era Song

ジークフリート・ラインで洗濯物を干そう
汚れた洗濯物はないか、母さん?
ジークフリート・ラインで洗濯物を干すぞ
洗濯の日がやってきたから
天気が雨だろうが晴れだろうが
気にせずやるだけさ
ジークフリート・ラインで洗濯物を干すつもりだ
ジークフリート・ラインがまだそこにあったら

ラインは「洗濯ロープ」の意味もあることからできた歌詞は、
フランス語バージョンもあり、

小柄なトミー(英兵)が軽快に歌う
キャンプに着くと
幸せなポワル(仏兵)たちは皆、このリフレインを覚えた
やがて連隊は陽気に歌った:

ジークフリート線に洗濯物を干そう
洗濯物を干そう 今がその時だ
ジークフリート線に 洗濯物を干そう
白いリネンの時間だ
古いハンカチもパパのセーターも
家族みんなで洗おう
ジークフリード線に洗濯物を干そう
まだそれがそこにあるのなら 

英仏の歌詞はどちらも、


「僕らはジークフリート線に洗濯物を干しにゆく
まだジークフリート線があるのなら」

という「オチ」で終わっています。

しかし、連合軍が戦況不利になってくると、今度はドイツ軍が
こんな「アンサーソング」を作るのでした。


宣伝中隊のうた

„Lied der Kampfgruppen“ • DDR-Marschlied [+Liedtext]

そうとも坊や、君がごく軽く考えた通り
ドイツのライン川沿いは素晴らしい洗濯日和だ
もし諸君がズボンを濡らして困っていても
悲しむ必要はないのだ!
我々がすぐ徹底的に洗ってやろう
上から下までしっかりと
ドイツの洗濯日和が終わったなら、
諸君には洗濯物などもう必要ないのだ!

これが本当の歌合戦。

両曲を比べると、いかにもアメリカンな調子の前者、
あくまでもドイツ風な曲調の後者と、わかりやすくて面白いですね。

しかし、ジークフリート線で実際に衝突が起こり、
ヒュトゲンバルトで双方に大きな犠牲が出た後、
バルジの戦いでドイツが攻勢をかけるも失敗に終わり、
1945年春に最後のジークフリート線上の掩体壕が陥落します。


そして実際にジークフリート線に洗濯物を干すの図

彼が洗濯「ライン」をかけている鉄条網を縛っているコンクリートは
その名も「竜の歯」という対戦車用障害物です。

ジークフリート線の衝突の際には、航空軍の近接支援が大きく関与しました。



■ ドイツ国内への進攻

ルフトバッフェ壊滅後、第9空軍の航空機はドイツ上空を自由に闊歩し、
隙あらば目標を攻撃し、連合軍部隊に近接支援を提供しました。

そして、ジークフリート線を突破したのち、完全な航空優勢という傘の下、
連合軍は3月下旬にライン川を渡り、ドイツに迅速に進攻します。



アルテンキルヒェン(Altenkirchen)近郊で、
航空爆撃によって破壊されたドイツ軍の戦車。
遠景にも道路の反対側に破壊された車両が写り込んでいます。

アルテンキルヒェンはライン川を超えたところにあるボンの東側の都市です。


ケムニッツ近郊で、連合軍の戦闘爆撃機の攻撃を受けるドイツ車両。

ケムニッツ(Chemnitz)はドイツの東寄りで、チェコとの国境に割と近く、
ライプツィヒ、ドレスデンが近郊にあるところです。


ライン進攻後の1945年4月、 A-20のナビゲーター兼爆撃手である
ジェームズ・ニコルズ大尉からドイツ軍兵器庫空襲後の報告を受ける
第9空軍の軽・中爆撃機部隊司令官、サミュエル・アンダーソン少将


同じ頃、第9空軍がデッゲンドルフの貯油場に爆撃している

■ ドイツ軍の最後の反撃 対空砲



ドイツ空軍が敗北したといっても、対空砲火は依然として脅威でした。

1945年3月、ホイト・ベンジ大尉(Hoyt Benge)はドイツ上空で
P-47による急降下爆撃任務中に88ミリ砲弾に被弾しましたが、
なんとか基地まで飛ばして胴体着陸し、生還しました。

ちなみにベンジ大尉は第二次世界大戦中はP-51、P-38のパイロットで、
戦後は州兵として RF-101(ヴードゥー)に乗り、中佐まで昇進しました。

ギターやバイオリンでカントリーミュージックを演奏すること、
ゴルフを愛し、たくさんの子孫に囲まれて、
2012年に90歳の人生を閉じています。

アーカンサスでのホイト中佐告別式のお知らせ


爆撃によって破壊し尽くされた港湾

そして、1945年5月8日、ドイツは降伏しました。



第9空軍司令部
本日の命令
1945年5月9日

全ドイツ軍の無条件降伏は、欧州における我々の目標の達成を意味する。

これは、陸海空における敵の完全な敗北に続くものである。
敵味方双方から、この歴史的な成功を達成する上で

航空戦力が果たした役割の大きさを示す多くの証拠が寄せられている。

誇りを胸に、全能の神が私たちの大義に与えてくださった信念と力に

謙虚な感謝を捧げ、また戦いで失われた人々が
神の恩寵を祈ることができますように祈りを捧げようではないか。

戦って死んだ者は、戦って生きた者と切っても切れない関係にある。

信仰の強さと決意を抱き、諸君は何千マイルも上空から

強大な敵を追い払うためにやってきた。
地上の敵に武器を向け、抵抗する力を破壊するために。

諸君の一人ひとりに、この功績がある。
一人ひとりのたゆまぬ努力なしには、わが軍は戦うことができなかった。

我々は、最終的な成功の幻想を抱いてはならない。
残された敵を打ち負かすだけでなく、戦争の原因に対する

将来の警戒も怠らないようにしなければならない。

世界が再び冷酷な征服者に苦しめられることがないように。

 この究極の成功の中に、我々は、亡くなった者や生き残った者が

成し遂げた業績に対する正当性を見出すべきなのである。

アメリカ軍司令 ホイト・ヴァンデンバーグ少将



続く。

「戦後日本空軍の父」だったウェイランド大将〜国立アメリカ空軍博物館

2024-09-24 | 航空機

今日は、国立空軍博物館展示より、ヨーロッパの侵攻作戦に関与した
航空団の有名な指揮官二人をご紹介しようと思います。


■エルウッド・"ピート"・ケサダ将軍

Maj. Gen. Elwood "Pete" Quesada

エルウッド・ケサダ大将については、以前当ブログで
陸軍航空のパイオニアの一人として紹介したことがあります。


航空機がまだ対空記録を伸ばすことが史上問題だった頃、
その最長記録に挑戦したのが、若き日のケサダでした。

このプロジェクトに関わったカール・スパーツ、アイラ・イーカー、
ケサダの陸軍航空隊の若い搭乗員はいずれも後の空軍の指導者となりました。

この項で、ケサダ大将のことを、
「戦術の革新者」
というタイトルでご紹介していますが、それは彼が
第九戦術航空軍団(第九空軍)の司令官として、
「装甲列カバー」システム
"armored column cover" system
を開発したという実績からきています。

どのような戦術かというと、

武装した戦闘爆撃機の小編隊が装甲部隊の前方を飛行する
隊列の戦車の1台には米空軍の飛行士官が乗り、航空隊と交信する

この手順により、戦闘爆撃機は上空からの偵察によって
敵戦車をいち早く発見し、脅威になる前に撃破することができます。

同作戦中
赤丸で囲まれたところはアメリカ軍装甲車の隊列
その上空を飛ぶP-47


エルウッド・ケサダ大将(左)と作戦部長のギルバート・マイヤーズ大佐
バルジの戦いで戦闘爆撃機に撃破されたドイツ軍戦車を調査している

左から、ケサダ少将、第12空軍ゴードン・サビール准将
第9空軍指揮官ホイト・ヴァンデンバーグ少将
南フランス侵攻作戦「オペレーション・ドラグーン」にて

ドラグーン作戦とは、プロヴァンス地方への上陸作戦のことで、
ノルマンディ侵攻作戦のあと、8月15日に実施されました。

ノルマンディに比べると配備されていたドイツ軍は二線級だったこともあって
ほとんど楽勝という感じで空挺と上陸を成功させ、
北部から上陸したパットンの第3軍とディジョン(マスタードで有名)
で合流し、これでフランス国内の南北戦線がつながりました。


■ オットー・ウェイランド空軍大将

”日本空軍の父”??


Maj. Gen. Otto Paul Weyland

第IX戦術航空軍団(第9空軍)の指揮官として、
ジョージ・パットン中将率いる第3軍と緊密に連携し、
効果をあげたのがオットー・ウェイランド陸軍大将(最終)でした。

ノルマンディー上陸作戦中、敵の攻撃を受けやすい第3軍の
装甲部隊の右翼を防御したのがウェイランドの戦闘爆撃機隊でした。

第9空軍と連携することによって、第3軍は1944年8月のフランス縦断と
1945年春のドイツ縦断を成功させ、ウェイランドは少将になり、
ジョージ・パットン将軍は

「ウェイランドを "航空隊最高のD⭐︎⭐︎⭐︎将軍 "と呼んだ。」

なぜここで伏字が?
と思ったら、案の定ここに入るのは「教育上いっちゃだめな言葉」で、
実際に何をいったかというと、なんのこたあない、

"the best damn general in the Air Corps."

だったというわけです。

ジョージ・パットンという人は、新興貴族の大金持ちの出で、



おぼっちゃまとして育ちましたが、軍人一族でもあったせいか、
いつしか根っからの野心的な軍人らしく振る舞いだし、

自慢が激しく、人に傲慢に思われることを楽しむような人物で、
ふてぶてしく、嘘がうまく、勝手で、悪口を頻繁に口にする


という傾向があったくらいですから、軍人を褒めるのに
これくらいのラフな言葉遣いは普通だったのかもしれません。

方や言われたウェイランドはというと、写真を見る限りそんなことは
決して公的に口に出すことはなさそうな・・。
(ウェイランドは予備士官で、テキサスA&M大学では
機械工学の理学士号を取得して航空隊入隊している)


左肩に第9空軍のパッチ。
誰かは知りませんが、フランス軍の大将に叙勲されているウェイランド。


ところで、ウェイランドという将軍の名前は、
我々日本人にとってほぼ無名と言っても差し支えないと思うのですが、
この人のwiki(ちなみに日本語翻訳はない)の最後に
見逃せないこんな言葉を見つけてしまいました。

 the "father of the new Japanese air force."

日本空軍の父だと・・・・?

■ 朝鮮戦争後のウェイランド


写真は、沖縄の嘉手納基地に駐留していた313航空師団とウェイランド大将。

第二次世界大戦後、米空軍が独立すると計画作戦部に勤務し、その後
ワシントンの国立陸軍大学校の副司令官を務めていたウェイランド少将は、
朝鮮戦争が始まると、一ヶ月だけ東京の極東空軍司令部(FEAF)で
作戦担当副司令官として赴任していました。

帰国して中将に昇進したのですが、ちょうどその時、FEAFの司令官だった
ジョージ・ストラテマイヤー中将が心臓発作を起こしたため、
FEAFと国際連合空軍の司令官として東京に戻り、後任を務めます。

第二次世界大戦で得たウェイランドの戦術戦における能力と経験は
パットンのお墨付きもあってこの時も期待されていましたが、
朝鮮半島における10回の主要作戦ではそれが実証される形となり、
彼は1952年についに四つ星大将に昇進することとなります。



そして、その経歴の最後がこのように締めくくられます。

彼は日本に留まり、防空部隊と航空機産業の再編成を支援し、
"新日本空軍の父 "として知られるようになった。


いや・・・少なくともわたしは初めて知りますが。
どなたかこの人が「空軍の父」であるという記述を、
本人のwiki以外で見たという方、おられますか?

検索したところ、沖縄の歴史資料として、上の閲兵中写真が出てきました。
おそらく、朝鮮戦争中、嘉手納から航空作戦に多くの隊が参加したことで
ウェイランドが313航空師団の視察に来たということでしょう。

註:この件についてはお節介船屋さんが当時の航空自衛隊設立までの経緯に
将軍が関わったことをコメントに書いてくださっていますのでご覧ください。


もう一つの写真がこれ。

真ん中の空軍制服がウェイランド将軍で、周りにいるのは海軍軍人。
嘉手納での歓迎レセプションだと写真説明にはあります。

文章では日本語はもちろん、英語でも、
ウェイランド大将と日本、ましてや自衛隊との関係を示す資料は
一切見つかりませんでした。



最後に有名な写真を。
第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線に赴いた米陸軍司令官クラス。

前列左から:
ウィリアム・H・シンプソン中将(第2軍司令官)
ジョージ・S・パットン中将(第3軍司令官)
カール・A・スパーツ中将(在欧アメリカ戦略空軍司令官)
ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(連合国遠征軍最高司令官)
オマール・S・ブレッドレー大将(第21軍集団司令官)
コートニー・H・ホッジス中将(第1軍司令官)
レオナード・T・ジェロウ少将(第5軍団司令官)

後列左から:
ラルフ・S・スターリー准将(第9戦術航空軍団司令官)
ホイト・S・ヴァンデンバーグ中将(第9空軍司令官)
ウォルター・B・スミス中将(連合国遠征軍最高司令部参謀長)
オットー・P・ウェイランド少将(第19戦術航空軍団司令官)
リチャード・E・ヌージェント准将(第29戦術航空軍団司令官)

前列真ん中が一番偉く、その横に従って階級が下がり、
同じ中将でも空軍関係は後列、というのがアメリカ陸軍の写真の撮り方。

やっぱりどこの組織も軍隊の序列並び方は似ていますね。

続く。


マイナスDデイ、プラスDデイ〜国立アメリカ空軍博物館

2024-08-17 | 航空機

■ノルマンディ侵攻のための「軟化作戦」

Dデイを前に、第9空軍の中型爆撃機と戦闘爆撃機は、
ノルマンディー地方のドイツ空軍飛行場、V-1発射場、
海岸砲台、主要な橋、鉄道操車場を攻撃しました。



アメリカ軍爆撃機搭乗員の記録に爆撃地「パリ」とあって、
どこにどんな攻撃をしたのか気になっていましたが、これでした。

ドイル軍のノルマンディーへの進軍を阻止するため、
破壊して使用不可能になったパリの鉄道操車場。



第9空軍爆撃機隊の12階にわたる攻撃で周辺まで穴だらけになった

フランスのボーボワ(Beauvoir)のV-1ロケットの発射場並びに倉庫。

しかし、こうしてみると弾着はずれの多いこと多いこと。
一発も有効なところに落とせなかった爆撃機もかなり多そうですが、
とりあえずそのクルーは機体の爆弾マークを書き加えたんだろな。



第9空軍指令であるホイト・ヴァーデンバーグ少将が
1944年の8月から戦争が終わるまで用意されたスクラップブックの挿絵。

イングランドから飛んできた「刃」が、
「上陸予定地」からセーヌ川沿いに大地を真っ二つに切っており、
その途中にはパリがあります。

右側の吹き出しには

「敵にはこの地域に侵攻すると思わせる」

とあります。

第9空軍は、ダミーの陽動作戦として、
「連合国はパ・ド・カレーに上陸する」
とドイツ側に思わせるための作戦を実行しました。

右下には、

橋梁阻止プログラム 第1部:

ノルマンディーの戦闘区域を孤立させることを目的とした

プログラムの第一段階は、「Dマイナス90」から「Dデイ」までである。

パリから海峡に向かうセーヌ川に架けられた

すべての鉄道橋と道路橋を破壊し、機能不全とする。

これは、ビーチヘッド地域を含む最終阻的な足止め地域を円で記す場合、

この円の北側の弧部分を形成することになる。

さらに北のミューズ川とアルベール運河の橋も攻撃し、

これによって敵の動きを妨げると同時に、
実際の侵攻作戦範囲を敵に勘違いさせる。

次のページでは、この計画がどのように実行されたかを図解で示す。


Dデイを「ゼロ」として、その準備段階をマイナスとし、
90日前から準備&予備攻撃を重ねて敵を翻弄させようとしています。



Dデイの「プレ侵攻」として、ポワント・デュ・オック(岬)に
爆撃を行った第9空軍のダグラス軽爆撃機A-20ハボックの編隊。

爆弾が落とされたのはまさにこの先端部分です。



ラ・ポワント・デュ・ホックは、ノルマンディー北西海岸にあり、
イギリス海峡を見下ろす35メートルの断崖絶壁の岬です。

ここにはドイツ軍の掩体壕と機関銃陣地があり、
Dデイには、アメリカ陸軍レンジャー部隊が崖を乗り越えて占領しました。


爆撃機にとっての最大の脅威であったのは戦闘機と対空砲でした。
戦闘機が弱体化した頃、連合軍は対空砲を「元から断つ」作戦として、
第8空軍のリパブリックP-47に「フラックタワー」、つまり
対空砲タワー(おそらく司令塔)を攻撃させました。

この時、同時に戦略空軍はヨーロッパのドイツ空軍基地を叩いていました。



敵の砲火を受けながら、航空技術者たちはノルマンディーに
このような前線滑走路を迅速に建設していきました。

第9軍の戦闘爆撃機18機と中型爆撃機4機によって
8月末までに大陸を拠点とすることができました。




■ オーバーロード作戦:Dデイ侵攻



1944年6月6日、ノルマンディ侵攻当日の各国連合軍の侵入経路です。
米軍はポン・デュ・オックとメール・エグリースから、
空挺部隊2個師団(第101&第82空挺団)を上陸させ、
イギリスも空挺部隊をその反対側に上陸させます。

わかりやすい侵攻作戦図

同日、米第9、第8空軍はRAFの航空機とともに敵の陣地を攻撃しました。
侵攻前のコツコツ積み上げた前準備のおかげで、
Dデイにドイツ空軍機はほとんど姿を見せませんでした。

そしてノルマンディーに通じる橋のほとんどが破壊されたため、
ドイツ軍は増援部隊を送り込むことが非常に困難となり、
救援部隊は前進を試みても絶え間なく空襲を受けることになりました。

Dデイ後の数週間、連合軍はビーチヘッドをかろうじて守りながら、

敵よりも早く兵力と物資を運び込み続けました。

このとき第9空軍が敵兵力、戦車、物資の阻止に貢献したことが
連合軍の戦況を有利にしたのは明らかでした。


第9空軍副司令官ラルフ・ロイス少将(右から2人目)。
ノルマンディーのビーチヘッドで工兵たちと。


1944年6月15日、サン・メール・エグリーズ近く、
荒地の滑走路でのP-47戦闘爆撃機パイロットたち。

8月末までに、第9空軍の戦闘爆撃機18機と中型爆撃機4機は
大陸側を拠点としていました。

■ 打開とフランス縦断レース〜プラスDデイ

第9空軍の空爆で破壊されたドイツ軍戦車、1944年7月26日

かつて、ドイツ軍の第二パンツァー師団長だった
ハインリッヒ・フォン・リュトヴィッツ元帥(男爵)は、
7月25日、ザンクト・ローに連合軍が降らせてドイツ戦線に穴を開けた
「爆弾の雨」を評してこう言いました。

「敵機はあらゆる動きに対し空爆を加えてきた。
それは相手に無力感を引き起こ酢ようなものだった。
経験の浅い部隊に与える影響は、文字通り "魂を打ち砕く "かに思えた」

これほどに、連合軍のドイツ軍に対する空爆は執拗でした。

汽車ごと空爆を受けたモーゼル川の鉄橋

このとき、第9空軍の戦闘爆撃機は敵陣の背後についてまわり、
ドイツ軍の援軍を寄せ付けないだけでなく、
連合軍の攻撃に巻き込まれた兵士の逃亡を阻止さえしました。

ドイツ軍は日中の移動ができず、分散して夜間に移動しましたが、

道路は退却する軍団で渋滞し、標的となって空から狙われました。

空爆を受けるくらいならと、9月10日、フランスのボーガンシーの近くで
約20,000人のドイツ軍が第9空軍に投降してきたこともありました。


1944年、破壊されたブレストのドイツ軍要塞
穴しか見えねー

■ 連合軍搭乗員の墓


ヴァンデンバーグ少将のために用意されたスクラップブックの続きです。

この図はセント・ローでの絨毯爆撃後、
空と地上での連携のパターンがどう動くかを示しています。

真ん中の矢印は、
「断崖ポケットに囚われている敵軍を空爆」

上の戦車の上に見える矢印は、
「空は前進する機甲部隊を援護する」

左側の矢印は、
「ロワール川沿いの陸軍第三師団の右脇を航空がカバー」

陸軍第1と第3師団の隊列は航空機と協力してドイツ軍退却を妨害しました。
空地が協力して行った戦術として最も効果的だったとしています。

熾烈な攻撃は当然連合軍側にも多数の犠牲を生みました。



C-47に牽引されて空挺部隊の乗り込んだグライダーの残骸。
着地の時に衝突して何機かが乗員を道連れにクラッシュしました。


火薬工場の倉庫を空爆した際、爆発に巻き込まれたP-47サンダーボルト。
パイロットは機体と共に墜落し死亡しました。

この機体の前の十字架と50径弾薬で囲んだパイロットのお墓は、
空爆後付近に住んでいたフランス人夫婦が作ったものだそうです。

よく見ると、花が植えられ、彼が生前付けていたらしい
航空手袋が片方だけ供えられています。


続く。

フライトジャケットのファッション黒歴史〜国立アメリカ空軍博物館

2024-08-14 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示をご紹介していますが、
今日は彼ら爆撃機搭乗員が着用したボマージャケット、
「A-2」についてのお話からはじめたいと思います。

■ A-2ジャケット



「ボマージャケット」というのはファッション用語として
一般名詞になっているわけですが、正式にはフライトジャケットといいます。

最初にフライトジャケットが生まれたのは第一次世界大戦時でした。

当時の飛行機はモノコックのコクピットはなかったため、
パイロットは皮革でできていて、襟が高く、裏にファーがついていて
袖口とウェストがぴったりした、つなぎタイプのものを着用しました。

第二次世界大戦が始まる頃、航空機が飛行する高度はより高くなり、
ヨーロッパでの爆撃は高度7,600m以上から行われるようになります。

前にも一度お話ししましたが、このとき気温はゆうにマイナス50℃となり、
しかも機内は断熱されていなかったので、彼らにとって
暖かい毛皮のついたフライトジャケットは必須装備だったのです。

国立アメリカ空軍の爆撃機コーナーには、
この写真のような陸軍航空隊のA-2ジャケットが多数展示されています。

「ジャケット・アート」の素晴らしい一例であるこのA-2ジャケットは、
B-26「シューティン・イン」の爆撃手・ナビゲーターが着用したものです。

ジャケット前面のパッチは、オリジナル機が配属されていた
第556爆撃飛行隊の記章です。


アメリカ軍基準フライングジャケットの通販広告です。
9ドル98ってやっすー。
今の円なら3万6千円くらいでしょうか。

申し込みは現金かチェックを手数料45セントプラスして送ってね。

素材:アメリカ陸軍航空隊指定の、航空士に支給されているのと同じです。
しなやかな茶色のホースハイドレザー製。
革製の襟と肩章(エポーレット)。
腰部分と袖口にはダブルニットがあしらわれています。
ジッパーはコンシール(隠し)とフラップポケット付き。丈夫な裏地。
サイズは胸囲36~46までとなっております。

ご注文の際は身長と体重を明記してください。


なぜ一般人がこんなものを買えたかというと、
民間の業者がそっくりなものを勝手に作って売っていたからです。

つまりこの広告のジャケットは本物そっくりのコピー商品なのです。

実際は、軍用ジャケットを正規ルートで購入することができるのは、
陸軍航空隊に所属する現役の航空搭乗員だけでした。

マッカーサー将軍やパットン将軍、ついでにグレン・ミラー少佐
普通にこのA-2ジャケットを着用していましたが、
非航空士官は「普通のルート」では買えないというのが建前だったので、
おそらくそういった人たちは何らかのコネクションを使って
非正規に純正品を手に入れていたのではないかと言われています。

このA-2ジャケット、まずなぜ「A」かというと、
単にAIRから来ているのではないかと思われます。

そして「A-2」という名称からおわかりのように、
このタイプには旧モデルであるA-1が従前に存在しました。
A-2は、A-1の前ボタンをファスナーに、
スタンドタイプのニット襟を皮に変え、さらに喉元にカギホック、
エポーレットをつけるという変更が加えられました。

■ A-2ジャケット〜誇りと共に



それでは航空士たちにA-2ジャケットはどの時点で渡されたかですが、
彼らが基礎飛行訓練を終え、高度な飛行訓練を卒業する時、
ジャケットは卒業証書のような意味合いで授与されることになっていました。

とはいえ、一人一人が壇上で授与されるようなセレモニーではなく、
サイズ別に並べられた箱の前に並んで受け取るだけです。

最初は士官専用でしたが、いちいちデザインを変えるのもなんなので、
そのうち下士官たちにも同じものが配られるようになりました。

とはいえ、ウィングマーク同様、これを受け取る感激はひとしおで
搭乗員たちはウィングマンの誇りを持ってジャケットを着用しました。
(だからこそ、これを受け取ることができるのは搭乗員だけとされたのです)

そして、思い入れの大きさは、愛着のあるジャケットに自らが
独自のアートワークを施すという形で表されるようになります。

自らの愛機の姿や部隊マークだったり、流行りのピンナップガールだったり。
爆撃機搭乗員がよくやったのが、上着の右前に爆弾の形を描くことです。
ミッションの数に応じてそれは描き足されていきました。


陸軍搭乗員のジャケットは、持ち主がさまざまな勤務地を経るたびに、
飛行隊のパッチやランクマークが付け替えられるのが慣習だったため、
大抵のものはその部分が針穴だらけになっています。



■ 海軍搭乗員のG-1ジャケット



皆さんが一度はごらんになったことがあるこの写真。


いやー、若い頃のトム・クルーズってマジイケメンだったんですね。
昔は何とも思わなかったけど、今になって感動するわ。

じゃなくて、注目していただきたいのは彼のフライトジャケットです。
そう、ところせましと所属した部隊のパッチがはってあるでしょ?

実はこれ、同じ搭乗員でも海軍だけの慣習ってご存知でした?

海軍搭乗員のジャケットのことをG-1ジャケットと呼びます。

先ほども述べたように、陸軍航空隊のA-2ジャケットは、
陸軍の慣習で現在の任務先のパッチしかつけてはいけなかったのに対し、
海軍のG-1ジャケットには、第二次世界大戦のころから、
これまでに所属したことのあるすべての飛行隊のパッチを、
G-1ジャケットの余白を埋めるようにして貼ることが許されていました。

陸軍搭乗員は飛行隊を変わるたびにパッチを付け替えねばならず、
AAFののジャケット左胸は穴だらけというのが相場でした。

ちなみにこのG-1ジャケットですが、現在でも海軍、海兵隊、
沿岸警備隊と水のつく軍の航空搭乗員が着用しているものを指します。

なんでGなのかはわかりません。

アメリカ兵のことを「Government Issue」(官給品)の頭文字で
「GI」と称しますが、ここから来ているのかな。
ご存知の方おられましたら教えて下さい。

ところで、ためしにG-1ジャケット、と検索してみてください。

「G-1ジャケット ださい」

が、かなりの確率で出てくるかと思います。
そのダサいジャケットとは、このことです。



右端の三人と真ん中、左下の人が着ているのは、VB-3型といわれる
ムートンファーの襟の、まあよく映画で見るやつです。

これはライバル陸軍に張り合って作られたので、かなりいけてます。

しかしながら、この写真で左上の一団及び足組んでる人たちが着ているのが、
戦争経済対策とサービスカットを目的として普及された、
M-422Aジャケットという、
海軍服飾の黒歴史です。

高高度から爆撃を落とすのが仕事だった陸軍爆撃隊とちがって、
海軍の、特に艦載機搭乗員はそんなに高いところを飛ばないだろうってか?

いや、甲板上で潮風に吹き曝される環境でこれってどうなの。
パイロットというよりどこのガス点検の係員ですかみたいな格好です。

これはあまりのかっこ悪さに(たぶん)意識高い系搭乗員は着用せず、
よほどの海軍事情通の記憶にしか残らずに消えていきました。

世間では戦時中A-1ジャケットが人気だったこともあり、
これではいかんとやおら負けん気を出した海軍は、
戦争が終わってから改めて気合を入れたG1ジャケットを発表しました。
トム・クルーズが着ているのとほぼ同じ仕様のものです。

しかし、1979年から2年間にわたって、海軍はまたやらかします。

時期的におそらく第二次オイルショックの頃だと思いますが、
定期的に節約病に襲われるアメリカ海軍が、またもや予算節約のため、

人気のG-1を支給するのを中止して、こんなものを押しつけたのでした。

たしかキムさんのダディがこんなの着てたわね。

しかも、搭乗員間でのG1ジャケットの交換も禁止、と要らんお達しを出し、
つまり、古着も着るな!ということにしてしまったのです。

きっと現場の不満はすごかったことでしょう。

結局、海軍長官は1981年には措置撤回を決定し、海軍、海兵隊、
そして沿岸警備隊の飛行乗務員には遡ってG-1が配られることになります。

その5年後、映画「トップ・ガン」が空前のヒット作となった時、
彼らはG-1を復活させておいて良かった、と胸を撫で下ろしたことでしょう。

映画の爆発的ヒットに伴って、トム・クルーズが着たG-1が人気になり、
ファッションとして爆発的に一般に普及するようになったのですから。


現在はいくつかのメーカーから、マーヴェリック風のもの、
マックイーン風のもの、シンプル、大まかにこの3種類が発売されています。

■ 陸軍航空隊の「節約」タイプ

ところが陸軍も、海軍のような「節約」をやらかしていました。

A-2 がアメリカのパイロットの象徴となったにもかかわらず、
1943 年にHH "ハップ" アーノルド将軍は、何を思ったか、

レザージャケットの契約をキャンセルして、その代わり
B-10やB-15 のような布のシェル・ジャケットを推しました。


海軍よりはまし

言うまでもなく、航空隊員にこのジャケットは全く受けませんでした。

布製に移行した後でも、誰もがお達しを無視して交換用のA-2を注文し続け、
それを受けて生産もこっそり?1944 年まで続けられていました。

陸軍は1943年半ばに革製ジャケットを購入するのを禁じましたが、
禁止令が出ても現場はほとんどがその通達を無視していました。

示されている多数の写真を見ればわかるように、
搭乗員にA-2の着用をやめさせることは不可能だったのです。

■爆撃機パイロットたちの遺品


上:第8空軍の無線オペレーター、ウィリアム・ニクソンSSgtが
1945年に着用していたフライトジャケット。

下:第15空軍の技術軍曹、フィリップ・ジョーンズが
1944年のプロイェシュチ爆撃のときに着用していた飛行帽。


同じくジョーンズ軍曹の当日のヘルメット。
彼がこれを着用している時に対空砲の破片が飛んできて
ヘルメットに凹みの傷をあたえましたが、
軍曹は奇跡的にも全く無傷で帰還することができました。



第8空軍のパイロット、デルバート・ケール大尉着用のA-2ジャケット。

ORDNANCE EXPRESS

は、「兵器超特急」と言う感じでしょうか。

爆弾を数えると35個ありますが、これは、
ケール大尉(当時)が1944年から1945年3月にかけて、25回どころか、
35回のミッションに機長として参加したことを指します。

ケールは22年間アメリカ空軍に勤務し、
最終的には中佐として退役しています。



こちらのA-2ジャケットも、やはり35回のミッションを
1944年の7月から10月までの3ヶ月間に達成した
S・M・アレン大尉が着用していたものです。



「ベルリン・ボム」
「アンクル・シールSHIRL」

その下の三つの爆弾には、爆撃をした35の都市名が書かれています。
真ん中の爆弾には「パリ」と言う文字も見えるのですが、
こいつらパリに爆弾落としてたのか?

SHIRLはSHILLと同義で、文字通り「シュルシュル言う」とか、
「叫ぶ」「けたたましい」「鋭い光を発する」と言う意味があります。

あえて訳すなら「シュルシュルおじさん」ってとこかな。



第8空軍の航法士、チャールズ・セトルメイヤー大尉が使用していた道具。
セトルメイヤー大尉は1943年9月から翌3月までの間に
26回のコンバットミッションを達成しました。



1944年10月から1945年5月まで任務を遂行した第8空軍のナビゲーター、
ジム・ライトが着用していたジャケット。 

左胸の爆撃手バッジの下にある青いフィールドマークは、
彼が戦闘で飛行したことを示すものです。



これは墜落したあるB-17爆撃機の酸素タンクです。


ルーマニアのプロイエシュティ上空を空襲中、
第15空軍のB-17は敵戦闘機からの攻撃で大破し、爆撃手、

デイビッド・リチャード・キングズレー中尉ら数名の乗員が負傷しました。

機長は全員にベイルアウトを命じましたが、キングズレー中尉は

パラシュートを失ったマイケル・サリバン曹長に自分のものを譲り、
本人は墜落する機体から脱出することなく死亡しました。

死後彼に贈られた名誉勲章には当時の様子がこう記されています。

「彼は負傷者に応急手当を施し、ベイルアウトの命令が下ると、
負傷者がハーネスを装着するのを手伝った。

そんな混乱の中、負傷しハーネスを見つけることができない尾部銃手に、
キングズレー中尉は、自分のハーネスを惜しげもなく外し、装着させた。

ベイルアウトする乗組員が最後に見たとき、
彼は爆弾倉のキャットウォークに立っていたという。

機体は自動操縦でしばらく飛行を続けた後、墜落し炎上した。
キングズレー中尉の遺体は後に残骸の中から発見された。」

彼は死後10ヵ月後の1945年4月9日に名誉勲章を授与され、
バージニア州のアーリントン国立墓地に埋葬されました。


続く。


勝利への戦略爆撃〜国立アメリカ空軍航空博物館

2024-08-05 | 航空機

さて、メンフィスベルの紹介から始まって、第二次世界大戦における
アメリカ空軍のヨーロッパ爆撃についてお話ししてきました。

紆余曲折あって、1944年には連合軍は空爆作戦を
なんとか勝利の見えるところまで持ち込めそうになっている、
というところからの続きです。

冒頭写真は、1945年4月、ドイツのドナウヴェルト(Donauwörth)
線路に爆弾を落とす第8空軍のB-17編隊。
下方に見えているスモークは爆弾投下を知らせる目標です。

1機のB-17からは爆弾が二個ずつ12個投下されているのがよくわかります。

1944年秋までに、アメリカ空軍は
数千機の重爆撃機と長距離戦闘機の活躍によって、
敵の重要な輸送と石油部門に打撃を与える態勢を整えていました。

1,000機以上の重爆撃機を擁する編隊は、目標を意のままに攻撃し、
ドイツ全土の石油精製所、合成油プラント、橋、
鉄道操車場を徹底的に破壊しつくしたのです。



貨車によって運搬中、線路を狙い撃ちした爆撃により、
被害を受けたフォッケウルフFw 190戦闘機(カバー付き)。

オーストリアに行ったことのある人には馴染み深い、
チロル地方特有の冠雪した山脈が後ろに見えていますね。

ここはチロルのハル(Hall)の操車場(marshalling yards)。
この戦闘機は使用不可能になりました。


第8空軍の攻撃で炎上するドイツのモーンハイム製油所。

モンハイム製油所の攻撃は、第二次世界大戦中の、いわゆる
「石油キャンペーン」
の一つとしてそのリストに名前が上がっています。

ドイツの製油所はおもにハンブルグとハノーバーに集中しており、
周辺国はあの「プロイェシュティ攻撃」(黒い日曜日)で有名になった
ルーマニア、ハンガリー、ポーランド、オーストリア、
チェコスロバキアなどに点在していました。


ドイツのヴァルネムンデにあるハインケル工場。
2回目の爆撃の跡が無数に残されています。


戦略爆撃作戦は、数ヵ月にわたる執拗な攻撃の末、

1945年初頭までにドイツの輸送システムを破壊し、
石油生産量を劇的に減少させるに至りました。

この破壊によって、ドイツ国防軍(ドイツ軍)は
物資と燃料の不足から著しく弱体化していくことになります。

空軍が敗北し、インフラが完全に破壊されたナチス・ドイツは、
1945年5月、東西からの連合軍の地上進攻についに屈しました。

「私の意見では、戦争は航空攻撃によって決着したと思う。
それは、わが国の合成油プラントに対する大規模な攻撃と同時に、
通信に対する攻撃が同時に始まることによって起こった」


ドイツ空軍軍需部長だったエアハルト・ミルヒ将軍の言葉です。

ミルヒー(牛乳)という名前の人が本当にいたとは

ミルヒは飛行学校出のパイロットで、第一次世界大戦後、
ルフトバッフェがヴェルサイユ条約で飛行禁止になっていた間、
ドイチェ・ルフト・ハンザの設立にも関与しています。

その後ゲーリングにスカウトされてドイツ空軍の発展に携わり、
戦争が始まると軍需生産と航空軍備の中心にあったので、
空軍の戦争における趨勢というものをよく知る立場でした。

余談ですが、彼は半分ユダヤ系の血を引いていたため、
ドイツ軍に彼を引っ張ったゲーリングは、出自を誤魔化すため、
登記所に彼の出生届を改竄する命令を出したものの、
戸籍局が改竄指示に従わなかったという噂があります。


爆撃前の1944年(左)
米空軍と空軍の重爆撃機による数回の攻撃後の1945年1月(右)

ドイツのジーツ(Zietz)にあるブラバグ(BRABAG)合成油工場は、
工場の建物とともにシステムが破壊されました。
この工場は通算5回も空爆に遭っています。

BRABAG は正確には「Braunkohle Benzin AG」といい、
BRABAGは亜炭とベンゼンの頭文字から取られた名称です。

1934年から1945年まで創業していたドイツの会社で、
買ったんから合成航空燃料、ディーゼル燃料、ガソリン、潤滑油、
パラフィンワックスなどの蒸留を行っていた会社です。

戦争遂行のためにナチス政権によって綿密に運営された産業カルテル企業で
第二次世界大戦前と戦時中、ドイツ軍に不可欠な製品生産を行いました。

それだけに連合軍の石油キャンペーンの標的となり、
終戦までには工場の施設の破壊によって生産は困難になり、
会社も終戦と同時に破綻しています。



ズタズタになったBRABAG工場のパイプライン。


1944年8月から12月にかけて35回の戦闘任務に就いた
第91爆撃群爆撃手ポール・クリスト中尉が所有していた地図。
 任務それぞれの飛行ルートが地図に描きこまれています。


とんでもなく几帳面だったらしいクリスト中尉が書き残した
ミッションごとの記録。(公式なものではない)

左下には、18回目の任務で

「1944 !HALF WAY THRU- AMEN !」
(半分過ぎた-アーメン!)

35回任務終了のあと、

THAT'S ALL, BROTHER-"HAPPY WARRIOR"-
(終わったぜ! ”ハッピーウォリアー”兄弟)
AUGUST 3rd TO DECEMBER 25th 1944
35 MISSIONS-187,350 lbs. BOMBS DROPPWE-93½TONS」


任務中のクライスト中尉

彼は戦後このように語っています。

12週間の爆撃と、6週間のDRナビゲーションを終えて帰国した。
飛行中一番恐れていたのは、ナビゲーターの隣の小さなハッチから
 ベイルアウトしたとき左の
昇降舵の前縁にぶつかって死ぬことだった。

万が一生きて地上にたどり着いたとしても、

次の心配はドイツ民間人に殺されることだった。

たとえ殺されずに収容所に入ったとしても、
当時僕の体重は125ポンド(約56キロ)しかなかったので、
わずかな配給では決して生き延びられなかっただろう。


クライスト中尉(おそらく56キロになる前)


1944年12月12日、ドイツ、ハナウ(Hanau)上空で
対空砲の直撃を受けた第8空軍のB-24。

石油キャンペーンの頃、戦闘機の脅威は低減していたとはいえ、
依然として敵の対空砲火は危険でした。

このB-24「パッツィー(Patsy)」は、ハナウの操車場爆撃任務で
フリーガーホルスト・カゼルネ上空を飛行中攻撃によって墜落、
マイロン・H・キーガン大尉以下10名の乗員は全員死亡しました。


以前も掲載したことのあるMe262の野外最終組み立てラインの写真です。

ここはオベルトラウブリング近郊の森林地帯。
連合軍の集中攻撃を逃れるため、ドイツはこのように
生産工場を地下や森林地帯に分散させていました。



野外のMe262に肘を置いて何かを考えている連合軍兵士


時計がちょうど5時を指している


続く。




Dデイ予備爆撃とフランティック(半狂乱)作戦〜国立アメリカ空軍航空博物館

2024-07-21 | 航空機

第二次世界大戦の爆撃機によるヨーロッパ本土攻撃について
アメリカ国立空軍博物館の展示をもとにお話ししてきましが、
今日はいよいよノルマンディ侵攻作戦、Dデイについてです。

■ノルマンディ侵攻作戦掩護としての爆撃

冒頭の博物館パネルは、Dデイにアメリカ陸軍第8空軍の重爆撃機が
フランスのナンシーにあるエセー・エアフィールドのハンガーを爆撃した痕。
月面クレーターのような爆撃跡が点々とし、いくつかのハンガーは
完璧に吹き飛ばされて跡形もない状態です。

1944年5月までに、戦略爆撃作戦はドイツ空軍の戦闘機部隊を無力化し、
この結果、ノルマンディー侵攻が可能となりました。

1944年6月6日のDデイ前の数週間、第8空軍爆撃機群は
ドイツ軍の兵力集中地帯、飛行場、輸送目標を攻撃し、
Dデイが発動されると、連合軍がノルマンディ堡塁から脱出するために
攻撃によってそれを支援しました。


1944年6月11日、ロワール川の橋を破壊し、
敵軍のDデイ・ビーチヘッドへの進入を阻止する第8空軍の爆撃機。


ノルマンディー北部を攻撃する重爆撃機。

連合軍の重爆激機は、ノルマンディー侵攻の前日、
実際の海岸からはるか北にある敵の海岸防衛線を攻撃しました。


これは、実際の上陸場所から違うところをあえて叩いて、

本当の侵攻作戦が行われる場所を撹乱するための作戦でした。

敵はこの場所に守備力を注入せざるを得なくなり、兵力が分散されて、
この作戦はある程度成功したと言われています。

■ミッキーマウス好きのドイツ将校



Dデイのためのサポート攻撃の一つ。
1944年7月4日、エヴロー・フォーヴィル(Evreaux Fauville)飛行場は、
第8空軍の重爆撃機による攻撃で使用不能となりました。

写真はトライポフフォビアなら背中がぞわぞわするほど穴だらけ。
一つ一つの爆撃痕は大きいですが、上空から見るとこのとおりです。

連合軍爆撃隊によるフランスの飛行場への度重なる攻撃により、
ドイツ空軍は飛行場を使用できなくなっていきました。

「私は個人的に、あなた方の空軍がなければ、
侵攻は成功しなかったと確信している」

戦後、連合軍側にこのように言ったルフトバッフェの中将がいました。
ドイツ空軍なので階級はGeneralleutnant です。


みなさん、この、あまりドイツ人らしくない空軍中将の顔、
覚えていらっしゃいませんか?
そう、ルフトバッフェのエースであった、

アドルフ・ヨーゼフ・フェルディナンド・ガラント中将
(Adolf Josef Ferdinand Galland)1912-1996

です。
バトル・オブ・ブリテンのとき、何が足りないかと聞かれて

「スピットファイア」

とよりによってゲーリングに向かって言い放ったった話は有名です。

ちなみに、彼とヘルマン・ゲーリングは実は大変仲が悪かったそうで、
一方、アルベルト・シュペーアとは尊敬し合う仲だったとか。

リベラルというか、立場をあまり考慮しない物言いが、
ドイツ空軍首脳部にとっては面白くなく、揉めることも多かったようです。


スペイン内戦中、コンドル軍団第88戦闘機グループの参謀長だったとき、

ミッキーマウスのペイントが入ったハインケルHe51に乗っていた人、
といえば思い出す方もおられるでしょうか。

我々の目から見てもただものではない感じのパイロットであった彼は、
操縦も射撃の腕も大変優れていて、それだからなのか、
野心的でいつも注目を集めることが大好きな目立ちたがり屋さん。


この頃の彼は、このミッキーペイントの戦闘機に、
水泳パンツだけで乗り込み葉巻を咥えながら操縦していたそうです。

曰く、

「ミッキーマウスが好きなんで、いつもどこかに身につけている。
葉巻も好きだが、こちらは戦後やめなければならなかったよ」


彼はその期間中隊名にも「ミッキーマウス」とつけていました。
流石にアメリカと戦争するようになってからは控えた・・のかな。



■ オペレーション・フランティック
ソ連からのシャトル爆撃

1944年、アメリカはソ連の指導者ヨシフ・スターリンを説得し、
アメリカ空軍機がソ連西部の基地から出撃する許可を得ました。

6月から9月にかけて、第8空軍と第15空軍は
「フランティック作戦」Operation Frantic というコードネームの下、
合計7回のいわゆる「シャトル空襲」を実施しました。


作戦ルート、右側の星印(ウクライナ)から出発


あるいはこちら

ソ連の空軍基地を使用するというアメリカの作戦は、
ドイツ側に米ソの連携をアピールする目的もありましたが、
結論から言うとソ連は非協力的だったので、7回しか攻撃せず終わりました。


具体的にどう非協力的だったかと言うと、
一部の目標に対してソ連が拒否権を発動しまくったそうです。

この頃から潜在的に両国は互いを敵視していたわけですからね。


ただ、航空隊の現場では互いに友好的だったそうです。


同じフィールドにYak-9とB-17がいるというシュールな光景


ロシア語でB-17の機体に「北極星」とペイントされてしまうも、

ニコニコしているお人よしなアメリカ人たち


「USSRとUSAより、枢軸国へ(プレゼント)」
左から米露露米米米



キエフ近郊のソ連空軍基地に着陸する第15空軍のB-17。
ソ連は3つの飛行場を用意して対処しました。



地中海連合空軍司令官のアイラ・イーカー(Ira Eaker)中将が、
最初のシャトルミッションを指揮しました。

写真はソ連に着陸した直後のもの。


ソ連に上陸して4日後、イーカーの爆撃機は
ルーマニアのガラティの主要航空基地(写真)を攻撃し、
ソ連の飛行場に戻るというシャトル爆撃を行いました。

6月11日は、イタリアに戻る途中でルーマニアの別の目標を爆撃しています。

ユーゴスラビア上空を飛行してUSSRに向かう第15空軍のB-17編隊
1944年6月2日

シャトル空襲の際、ソ連軍や民間人の中に強制降下させられ、
アメリカ人であることを証明する必要があった場合に備えて、
飛行士が携帯していた「セーフコンダクトパス」(安導権)


B-24のナビゲーター、ヴェル・ドリソン中尉が
「フランティック作戦」で携行した身分証明書とフレーズシート

このパイロットを助けたら政府から報奨金が出るから(襲ったりしないで)
ということがロシア語と英語で書いてあります。


以前も一度紹介していますが、
ライマン・バーカロウ大尉が作戦で着用していたジャケットとカメラ。

カメラはソ連に没収されそうになったのを死守しました。

■フランティック作戦:アメリカの目的(と失敗)

遠く離れたドイツの目標を攻撃することは、実のところ、
アメリカにとってフランティック作戦の主な目標ではありませんでした。

アメリカは、ここで前例を作り、基礎を作って、
後にシベリアから日本を爆撃しようとしていた

といわれます。

最終的な目標はソ連に多数のアメリカ空軍を設立し、
シベリア作戦に切り替えることだったんですね。


もう一つの(というか表向きの)目標は、両国間の信頼と協力の発展でした。

少なくともアメリカは、戦後の世界において、
ソ連と友好的な関係を確立できると思っていました。

(友好の目的が自国の利益でしかなかったことはさておきます)

そのために、技術と研究、特に電気通信、気象学、航空偵察、
航空輸送ネットワークにおける緊密な相互協力と交流を提案しました。

しかし、ソ連はしたたかで老獪でした。

このとき、アメリカはソ連に、

「300機から400機のB-24爆撃機を提供するから、
アメリカ本土で
ソ連軍に訓練させてはどうか」

と提案したのですが、スターリンはこの申し出を受け入れず、その一方、
シベリアに着陸した米軍爆撃機をこっそり保管し、コピーしていました。

しかもソ連から提供された基地は、米空軍の希望より辺鄙な場所で、
そもそもインフラが西側の基準からして全く不十分なもので、
重爆撃機は春になると泥の海に着陸を余儀なくされていました。

これは政治が絡んだためです。

赤軍空軍そのものは、前述のように強力的で支援に熱心だったものの、
官僚機構と政治は戦略的にアメリカを警戒敵視し、

隙あらば利用する気満々でしたから当然といえば当然ですが、
8月から9月にかけてソ連の態度は露骨に敵対的なものとなり、
1945年までにアメリカの小規模部隊は大きな苦悩を残して撤退します。

一方イギリス空軍はというと、チャーチルの意見で不参加を決め込み、
アメリカの苦労を高みの見物していたようです。

米ソの亀裂が決定的となったのは、ソ連がワルシャワ蜂起の支援にも、
ソ連領土からのアメリカ人捕虜の送還のためにも、
基地を使用する許可を出さず非協力的だったことからでした。

現場においても、ソ連は戦力防御が呆れるほど不十分なくせに、
アメリカ側の、レーダー誘導砲と夜間戦闘機の支援を拒否したことで
両国間の関係はさらに悪化し、アメリカは作戦中止を余儀なくされました。

ソ連側からすると、アメリカの領土侵略の野心を見抜き、
これを拒否することでその目論見を挫いたということなのでしょう。
(本日書いたことはあくまでもアメリカ側の視点からの意見なので、
実際はどうだったかはわかりませんが、たぶん)

いずれにせよ、このときの両国の協力体制は壊れ、最終的には
のちの冷戦を予感させる不協和音を生み出すことになりました。


いまさらですが、「Frantic」とは、以下のような意味があります。

(恐怖・興奮・喜びなどで)気が狂ったような,半狂乱の,血迷った.

大急ぎの,大あわての.



続く。




ビッグ・ウィーク(アーギュメント作戦)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-18 | 航空機

■ ”ビッグウィーク”1944年2月20-25日

1944年2月、アメリカ空軍とイギリス空軍は、
ドイツの航空産業とドイツ空軍に対して全面的な作戦を展開しました。 

この欧州戦略爆撃作戦とは、第八空軍と第十五空軍の重爆撃機が、
昼間は航空機、エンジン、ボールベアリング工場に打撃を与え、
イギリス空軍の爆撃機が夜間に攻撃するという一連の流れを持つものです。

計画立案者らは、ドイツ空軍を決戦に誘い込むために
ドイツの航空機産業を攻撃し、ドイツ空軍に甚大な損害を与え、
連合国空軍が制空権を獲得することで、
ヨーロッパ大陸侵攻の成功を確実にしようとしていました。

■イギリス空軍の立場


ところで、第一次世界大戦時に生まれた戦略爆撃の定義として、

「敵の非戦闘員、特に工場労働者の戦意を喪失せしめる」

という目的を持つものがありました。


民間地域の攻撃は無差別攻撃と同義であり、
第一次世界大戦時から道義的観点から議論されてきましたが、 
あだ名に「爆撃機」「ブッチャー(屠殺屋)」を持つ、
この英国空軍元帥、アーサー・ハリス準男爵という軍人は、
「戦略爆撃の意義を民間人攻撃に置くべき」と唱えた軍人でした。

敵都市破壊爆撃が勝利の鍵と考える軍人は彼だけでなく、
おそらく1942年ごろは多くのRAF関係者がそう感じていました。

しかし、ハリスの考える空爆はさらにアグレッシブなもので、

◎単一の都市に一時間半にわたり1000機もの爆撃機をなだれこませ、
都市防衛―対空砲火だけでなく、消防や救護活動をも無力化し、
爆弾と焼夷弾を集中して焼き払う

◎飛行機には容量の許す最大限の焼夷弾を積み、
2400メートルの高度から落とす


◎発生する火災現場に後から駆けつける消防夫を殺傷するために
遅発性の信管をつけた11キロ爆弾を混ぜておく


など、人道的にはそれってちょっとどうなの、という方法でした。
まあ戦争に仁義や道義などあるか、と言われればそれまでですが。



連合国側の容赦のない民間人殺戮の典型とされるドレスデン攻撃は、
このハリスや空軍大将チャールズ・ポータルらの考えによるものです。

ドレスデン爆撃では市民が25,000人程度と見積もられる犠牲となり、
この戦争である意味最も物議を醸した空襲といわれています。
(上の写真は火葬を待つため積み上げられた民間人犠牲者の遺体)

さて、どうして今この人の話をしているかというと、
「アーギュメント作戦」の立案の際(このあとのDデイのときも)、
ハリスは地域爆撃に固執する立場からこの作戦に反対したからです。

彼は、特定の石油や軍需品の標的を爆撃するようにという指令を、
上級司令部の「万能薬」(彼の言葉)であり、
「ドイツのあらゆる大都市で瓦礫を跳ね返させるという現実の任務」

から目をそらすものであるとみなす傾向がありました。

反対する彼を説得し、米軍と共同のアーギュメント作戦を実行させたのは
ほかでもないチャールズ・ポータル空軍大将でした。



有名なヤルタ会談で、チャーチルの後方(左から2番目)にいるのが
Charles Frederick Algernon Portal,
1st Viscount Portal of Hungerford, KG, GCB, OM, DSO & Bar, MC, DL 


ポータル将軍の考えは、ハリスよりやや穏健というのか、

細密攻撃の重要性を認めてはいましたが、つまりは
ドイツの戦争努力と市民の士気に打撃を与えれば半年以内に勝利につながる、
というもので、そのことからドレスデン攻撃にゴーサインを出しています。

そのポータルがなぜハリスを説得せねばならなかったかというと、
ドレスデン爆撃について色々と?知らされたチャーチルが、

ポータルに地域戦略爆撃を中止せよと最終命令を下したからです。

チャーチルは、


「ドレスデンの破壊は連合軍の爆撃行為に対する重大な疑問として残る」

として爆撃から距離を置く立場を取りました。

惨劇の歴史的評価が自分に向かうことを恐れたのかもしれません。

ポータルはそれ以上地域爆撃を推し進めるわけにはいかなくなりました。

■アメリカ陸軍航空隊の立場

ドイツの航空産業をピンポイントで叩くという攻撃方法は、
口で言うのは簡単でも実際は破壊は難しいし敵は修復を容易にしてしまう。
特に資材輸送のロジスティクスを破壊するのは現実的に全く不可能でした。

アメリカ空軍は航続距離のため戦闘機の援護なしで爆撃をしていた頃は、
爆撃機に重武装させることである程度成功していましたが、
レーゲンスブルグでは対空砲と敵戦闘機の迎撃で深刻な犠牲を出します。

この頃アメリカ軍の爆撃機を研究したドイツ軍は、
戦闘機に重武装を施した双発重戦闘機を配備し、
アメリカ軍の戦闘機がいなくなってから悠々と攻撃を行いました。

アメリカ軍としてもドイツの戦闘機をやっつけたいのは山々ですが、
彼らは連合軍との真っ向勝負を避けるので、めったに交戦に誘い込めません。

そして第二に、護衛任務の間、連合軍戦闘機は、

爆撃機の編隊を守るため、緊密なフォーメーションを組んでいたので、
敵戦闘機を追撃・攻撃することもできませんでした。

そのとき、

「空中で叩けないなら工場を叩けばいいじゃない。」

と言ったのが、あのジミー・ドーリトル少将です。

というわけで立案されたのが、
「ドイツ航空機産業の完全破壊」
を目的とした生産工場への精密爆撃でした。

連合国空軍の上層部は、この作戦で失われる自軍の航空機は
1日で全体の7%から18%、
作戦が6日として全航空機の42%から100%
が失われると計算していました。

この作戦のために、米軍司令官フレデリック・L・アンダーソンは、
全航空機と乗組員の4分の3(つまり736機の爆撃機)
を犠牲にする用意があるとしました。

また作戦決行にあたり、連合国は、部品、エンジン、翼、
機体の生産に関わるドイツの産業のあらゆる部分、
および工場の組み立てに関する情報の収集を進めました。

そして、作戦が成功するための気候条件として、

○数日間好天が連続していること
○イギリスの上空約600~4,000mの間に雲があり
○ドイツの目標地域の上空に雲がないこと


としました。
勿論このような状況は極めて稀であったため、指導部は、
予報が許容可能な飛行天候の兆候を少しでも示すと、
すぐに、とにかく作戦を実行することにしました。

コードネームは "Operation Argument "
これはのちに"Big Week "として知られるようになります。


この頃には米空軍の戦闘機は掩護に十分な航続距離を持っていたので、
ドイツ空軍の守備隊を大混乱に陥れることになります。

米空軍はビッグ・ウィーク中、約4000機の重爆撃機を出撃させ、
2000万ポンド以上の爆弾を工業・軍事目標に投下しました。



1944年2月24日、B-24の攻撃で飛行場の完成機が爆弾で破壊され、
激しく燃えるゴータ航空機工場。


偵察機によって撮影された爆撃後のゴータ航空工場。
壊滅的な被害の跡を見せています。


二日前の2月22日にもイギリスから米軍爆撃隊が出撃したのですが、
悪天候のため攻撃を中止して帰還しています。
しかし、帰り際にオランダ国境のナイメーヘンという都市を
爆弾を捨てついでに爆撃して、数百人単位の民間人が犠牲になりました。

Gotha 航空ではゴータGo 145練習機、ゴータGo 242突撃グライダー
ライセンス生産されたメッサーシュミットBf 110を生産していました。
以前当ブログでご紹介した、ホルテン兄弟開発による
ジェットエンジン搭載ホルテン・ホー229も作っていました。

24日の攻撃では169機のB-24がゴータを攻撃しており、
米空軍は200機以上の爆撃機を失い、約2600人の死傷者を出しました。

それに対し、ドイツは使用可能な戦闘機の3分の1を失い、

かけがえのないベテラン戦闘機パイロットの5分の1が戦闘で失われました。



続く。




ターゲット ベルリン(友軍爆撃の悲劇)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-15 | 航空機

バッファローネイバルパークシリーズと同時に、
オハイオの国立空軍博物館展示の紹介も再び進めて行こうと思います。

アメリカ空軍(当時は陸軍)がヨーロッパでどのような航空戦略を展開し、
その経過と最終的な結果までが資料で紹介されているこのコーナー、
前回は連合軍が慣れない?ヨーロッパでの航空攻撃で
いかに苦労し、工夫し、そして犠牲を払ったかまでお伝えしたと思います。


ところで、アメリカ空軍の主要かつ最終攻撃の標的、それはベルリンでした。

■ なぜベルリン爆撃だったのか



ドイツの首都ベルリンは、その工業的重要性だけでなく、
ルフトバッフェが何がなんでも防衛せねばならない拠点であり、
だからこそその過程で彼らに大きな損害を与えることができるからです。

米空軍は1944年3月6日、ベルリンに対して最初の大空襲を行いました。

米軍は672機の重爆撃機でベルリンを攻撃、うち69機が撃墜されました。
そして2日後、174機のP-51に護衛された462機の爆撃機で帰還しました。


米空軍のオールマン・カルバートソン中佐が1944年3月6日、
米空軍初のベルリン大空襲で使用した地図です。

赤い線は爆撃機の進路、赤い丸で囲んだ部分は対空砲の集中を示します。
細かい網目になっているということは、よほど細かく、
都市上空を隈なく網羅して進路をとったかを表しています。

戦後准将になってからのカルバートソン
ヨーロッパでの爆撃作戦にはベルリンを含め11回参加した



1944年3月6日、第447爆撃群のB-17パイロット、
ウィリアム・H・レクター少佐が、
アメリカ空軍初のベルリン大空襲で着用したゴーグルと空軍ヘルメット。

博物館写真

■ブランデンブルグ・アラド航空製造への爆撃


ブランデンブルクのアラドで炸裂する爆弾。
1944年8月4日の攻撃。

アラドArado Flugzeugwerke GmbH は、

1961年まで存在したドイツの航空機会社でした。

スミソニアンの航空博物館にあるアラド製の爆撃機を
ここでも紹介した覚えがあります。

当時アラドはブランデンブルク最大の企業であり、
戦争とヨーロッパ諸国の占領政策の結果、
多くの外国人労働者が働いていました。

1942 年にはドイツ人従業員が約 4,000 人であるのに対し、
非ドイツ人従業員は 22,000 人、その後も数は増えましたから、
アメリカ軍がアラドの工場を爆破したことで、
犠牲になったのは実はドイツ人より外国人や囚人、(ユダヤ人含む)
がほとんどだった、ということになるのです。

まあもっとも、アメリカにとっては生産の拠点を潰すことが目的なので、
なに人が亡くなろうが、そんなことはどうでもいいわけですが。

そして1944年4月18日、アメリカ軍の爆撃によって、
ハイデフェルトにあるアラド工場では
ハインケルHe 177爆撃機の生産を終了させられました。

He 177は、それまでバルト人、セルビア人、スペイン人、フランス人、
オランダ人、ベルギー人の労働で生産されていました。

この攻撃の後、ボイラー室と いくつかの設備が破壊されたため、
工場はより軽量なフォッケウルフ Fw 190だけを生産し続けました。

6週間後には生産は再開されましたが、それまで
航空機製造は別の工学工場などで代わりに行われました。

しかし1944 年 8 月 6 日(写真は8月4日とされる)の空襲により、
航空機の製造は一時的に中断され、1945年3月の空襲で
完全に生産の目処は断たれてしまうことになりました。


炎上し、対空砲火に囲まれながらも、このB-17は
編隊を維持してベルリンに爆弾を投下しています。

「マスターズ・オブ・ザ・エアー」でも、対空砲火を受けて
エンジンが破損し、パニクった副操縦士がすぐに脱出を、というのに対し、
機長はふざけるな!とすぐに怒鳴り返し、こういいます。

「任務を全うするんだ!わかったな」

そしてクルーに向かって

「飛べる限り任務を続行する!」

と叫んでいました。

この作品は、資料として残されたこのような実際の出来事を
ドラマに掬い上げて後世に残すことに注力していました。

爆撃機が狙われやすい、というか、最も攻撃に対し脆弱だったのは、

「ボムラン」と呼ばれる爆弾投下前の態勢でした。


爆撃投下のサイト(照準)を確保し、正確さを期すために、
最低数分間はまっすぐ水平飛行を続けなければならないからです。


このパイロットは、ベルリン上空で重傷を負い、
病院に搬送される前に機体下で応急手当てを受けなければなりませんでした。

車輪の前にいる人が点滴の瓶を持っています。
手前の後ろ姿がメディックでしょう。


■ B-17「ミス・ドンナ・メエ II」の悲劇


ベルリン爆撃に限らず、爆弾投下はこのように
まさにばら撒く状態で行われます。

わたしはかねがね、編隊によっては上下に機体が位置する場合、
上方の機が落とした爆弾が下方の味方機に当たらないのか、
と不思議で仕方がなかったのですが、ベルリン爆撃で
まさにその悲劇が起こっていたことが判明しました。



機体は米第8空軍第91爆撃群のB-17G。

たまたま上空から自分の機が落とした爆弾を追って
写真を撮っていたクルーがいたため、
この悲劇の直前の様子が歴史に残されることになりました。

今まさに爆弾を受けようとしているB-17です。



爆弾は左舷の水平安定板にヒットし、これを引きちぎりました。

その後、被災機は編隊から離れて落下していき、
安定を失ったため誰一人機内から脱出することができないまま墜落。

The Worst Possible Way To Lose a B-17 Bomber

Miss Donna Mae B-17


「ミス・ドンナ・メエII」の乗員。
彼らは誰一人生還することができませんでした。


続く。


「スィートハート・ウィングス」爆撃クルーの遺品〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-29 | 航空機

オハイオ州にある国立アメリカ空軍博物館。
まだコロナ禍にあった夏、そのとき滞在していたピッツバーグから
単身車で一泊して見学に行って見た展示物をご紹介しています。

今日は、本人や遺族によって博物館に寄付された
ヨーロッパ爆撃クルーの持ちもの(遺品)を見ていきます。


■ バーニー軍曹のA-2ボマージャケット



第15空軍の砲塔砲手SSgt(スタッフサージャント、E6)
エミール・バーニーが着用していたA-2ジャケットです。



背中側には気合の入った絵が施されています。


何しろ皮革におそらくペンキか何かで手描きしたものなので
かすれてしまって見にくいですが、爆撃ミッションを行った都市が、
爆弾を落とすB-17、墜落するBf-109とともに描き込まれています。



左胸のマークは爆弾を持って飄々と歩くアメリカの象徴、ハクトウワシ。

足元に見えるのは雲でしょうか。
第15空軍の部隊章です。


S/Sgt. Emil B. Barney 

バーニー軍曹は1944年11月、アドリア海上空でBf109の攻撃を受け、
制御不能に陥ったB-17からバベイルアウトし、2日後に救助されました。

戦争が終わるまで彼は捕虜になっていましたが、
終戦後生きてアメリカに帰り、1995年に69歳で亡くなりました。

ポピヴチャック軍曹35回の出撃記念



連結された50口径の弾丸は、第306爆撃群のB-17トップ・ターレット砲手、
TSgt(マリオン・"ミッキー"・ポピヴチャックが、
参加した35回の戦闘任務を表して製作したものです、

この人、かなりまめで、かつコレクター資質を持っていたらしく、
これらの弾丸のカートリッジには、
35回のそれぞれの任務を報じるスターズ&ストライプス紙の記事が、
切り抜かれて畳んだのが収められています。

せっかくですのでその一つ、1月5日付の新聞記事(画面右)
を訳しておきます。

「重爆またも出撃、供給ラインを爆破」

第8空軍は昨日、ドイツの補給拠点に対する猛攻を再開した。
1000機以上のフォートレスとリベレーターが、
300機以上のムスタングに遮られながら、
ケルンから南はカールスルーエまで、東はフランクフルトの先まで、
広範囲にわたって通信拠点や鉄道基地を攻撃した。

天候は依然として障害であり、

重爆撃機は計器を頼りに爆弾を落とさねばならなかった。
掩護のマスタングの一群は、梢を擦り、機関車や貨車に激突した。
敵戦闘機の攻撃はなかったという。


第8飛行隊のミッションは、セント・ヴィ近郊の通信センターに対する

RAFミッチェルとボストンによる午前中の攻撃に続くものであった。

それ以前には、RAFランカスターがボルドーの北西50マイルにある

ジロンド川河口のドイツ軍部隊、大砲、補給基地を攻撃していた。

天候のため第9空軍の飛行機はさらに1日出撃を中止したが、

RAFの第2戦術空軍の機は500回以上の出撃に成功し、
マース川河口のドイツ軍の要塞を攻撃し、
鉄道や国道沿いの機関車や線路を銃撃した。


コレクションのなかに、一つだけ先端が赤いトレーサー弾がありますが、

これは、1945年1月10日のミッションで、彼の乗ったB-17が
酸素システムと2基のエンジンを破壊され、
ベルギーに不時着したということを表しているのだとか。

このコレクションを作成した"ミッキー"・ポピヴチャック氏は、
わたしがこのとき滞在していたピッツバーグの人で、
2010年に亡くなった後はアレゲニー国立墓地に埋葬されました。

戦後はピッツバーグで車のパーツ会社を経営していたようです。

■ ガードナー軍曹のフィールドジャケット




第15空軍の尾翼砲手、ラリー・ガードナー軍曹の野戦用ジャケットと鞄。
遠征中、彼は指を撃ち抜かれ、B-24は敵地上空で撃墜されましたが、 
幸いガードナーは脱出し、イタリアのパルチザンに救出されました。

このジャケットの背中側には、ホットスタッフというロゴと共に
TNT爆弾に腰を下ろす挑発的な金髪美女の絵です。

ジャケットのデザインは現代でも通用しますし、
なんならこの絵もアメコミ風でいけそうです。


カバンには部隊マーク。
クラウンを被った骸骨とTNT爆弾の意匠です。



ジャケットもカバンも、おそらく本人が
落ちない油絵の具かペンキでペイントしたと思われます。

■ ライアン・バーカロウ大尉の遺品



ライマン・バーカロウ大尉は、
最初の25回の任務でシャトル空襲の任務に参加しました。

陸軍航空隊のルールで、25回の任務を終えた者は任務を降り、
帰国して退役することもできたのですが、
大尉はその後も戦闘飛行を志願し、ヨーロッパで任務を行いました。

そして1945年3月19日、二度目通算49回目の爆撃任務である
ルールラント・ドイツ上空で戦死しました。

なぜ戦死した大尉のA-2ジャケットが残っているかなんですが、
これは彼が第一期ミッションのときに着ていたもので、
第二期にあたって新しいジャケットをあつらえていったからです。

襟元にホイッスルが付いていますが、これは
撃墜されて海に落ちたとき、救助に合図を送るための非常用でした。



米空軍がシャトル空襲の際に使用したムービーカメラ。
ロバート・ウォルシュ空軍大将は、シャトル空襲が終わり、
物資をソビエトに引き渡すよう命じられたとき、
このカメラを「保存」した(つまり隠して渡さなかった)そうです。


カメラに使うコダックの「コダクローム」16ミリフィルム。



ソ連から出撃した攻撃隊

第8空軍

第15空軍

の爆撃ミッション航路が記されています。
第8空軍はイギリス、第15空軍はイタリアに根拠地を置いていました。


バーカロウ大尉が受賞した名誉賞の数々。
左から:

パープルハート

「スィートハート」ブレスレット
バーカロウ大尉が妻のフローレンスにプレゼントしたもの

USSR(ソ連)のバッジ
公式に与えられたものかどうかは謎

エアーメダル
第一期任務達成に対して与えられたもの

金の「スィートハート」ウィングス
翼の真ん中にハートのあるモチーフを、英語圏では
「スウィートハート・ウィングス」といいます。

これは中央にアメリカ軍のマークがあるだけでハートではありませんが、
バーカロウ大尉が、これもフローレンス夫人に
結婚1年目の記念として1942年8月30日にプレゼントしたので、
あえて「スィートハート」と呼んでいるのではないでしょうか。

大尉が亡くなった日から考えると、
彼らの結婚生活は2年半しかなかったということになります。


続く。



コードネーム「ミッキー」ブラインド爆撃作戦〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-23 | 航空機

appleTV制作の「マスター・オブ・ザ・エアー」劇中、
バーで一緒になったアメリカ航空隊とRAFの隊員の間で
アメリカの白昼攻撃を巡りちょっとした言い合いが起こるシーンがあります。

搭乗員が足りない、というアメリカ軍クルーに対し、RAFクルーは、

『それは君らが馬鹿みたいに昼間攻撃するからだ』

と半ば揶揄するかのように返すのですが、
その言葉は、アメリカ軍搭乗員たちがただでさえ持っていた

危険な昼間の攻撃に対する不安をドンピシャで言い当てたものだったので、
彼らはそれに対し猛烈に反発を始めるのでした。

そこで、すかさずナレーションが入ります。

RAFの夜間爆撃は民間人相手の無差別攻撃であるのに対し、
アメリカの白昼細密攻撃は軍事施設だけを狙ったものだった。


お決まりの「正義のアメリカ」礼賛です。

2000年代になってもアメリカ人がそう思いたいのは勝手ですが、
それでは、夜間の無差別爆撃で何万人という民間人を殺戮した
あの東京大空襲はなんだったのか。
市民を無差別に虐殺した2発の原爆はなんだったのか。


実際のところ、アメリカとイギリスは連合国同士で打ち合わせた上で、
昼の軍事施設爆撃(米)と夜の無差別爆撃(英)で切れ目なく相手を攻め、
ピンポイントで生産を遅らせつつ、民衆の戦意を削ぐということを
二交代制でやっていたというだけにすぎないのです。

ノルデン照準器を持っていたアメリカが細密攻撃を行い、
そうでないRAFがそれ以外を請け負った。
つまり役割分担の違いというだけのことではないですか。

昔から、日本の戦争映画は果てしなく自虐、
アメリカの戦争映画は果てしなく自画自賛というのが相場ですが、
この最新の映画においてもその傾向は健在ということが確認できました。

ちなみに、映画では、RAFグループの嫌味な態度に
アメリカ人たちはすっかり腹を立てて、別れてから

「チッ・・・だいたいRAFってなんなんだよ」

「Riffraff(役に立たない人、ゴミ)だろ」

と悪口を叩くのですが、実際に白昼攻撃に向かう前に
彼らの言ってることは正しい、とうなだれるのでした。

責めるなら交代制で苦労する方を選んだ上層部を責めるんだな。



 ブラインド攻撃 「ミッキー」



俺ら軍事施設を細密攻撃するぜ人道的に!とドヤったアメリカですが、
目視ではさすがに細密攻撃が功を奏するわけではありません。

概してヨーロッパ上空は曇りがちで、そうなると
アメリカ軍の爆撃隊はほとんど目視できなくなるわけです。

そこで、重爆撃機はH2Xと呼ばれるレーダーシステムを使用し、
雲の上からブラインド攻撃を行いました。

その名も、

コードネーム"ミッキー "Mickey"

上の写真は1944年10月25日、ドイツ・ハンブルクの石油精製工場上空。
「歩けそうな」くらい厚い雲が立ち込めていますが、
何ヶ所か真っ黒い部分が見えています。

これは第8空軍の爆撃を受けた地面から立ち昇る黒煙です。

それにしてもなんでミッキーなのか。
やっぱりアメリカでミッキーときたら・・・あのネズミよね?

■ H2X "ミッキー "の名前の由来



H2Xは、正式にはAN/APS-15として知られ、
第二次世界大戦中にブラインド爆撃に使用された
アメリカの地上走査レーダーシステムです。


B-17パスファインダー 通称「ミッキーステーション」

中央の円形スコープが表示画面です。
H2Xは空軍の夜間爆撃システムから開発され、
1944年初めに米空軍で初めて使用されました。

米空軍の「H2X」はレーダー・プラットフォームの代名詞であり、
マサチューセッツ工科大学放射線研究所で開発されました。
アメリカ初の空対地レーダー搭載航空機のための極秘プロジェクトです。

第8空軍の最大の功績のひとつは、敵戦闘機、敵対空砲火の前にも
一度も作戦を後退させなかったことらしいですが、
ヒットラーがロシアの冬将軍に勝てなかったように、
同じことがヨーロッパの天候には言えませんでした。

実際多くの任務が、ルート上や目標地域上空の悪天候のために、
中止、中断、回収されています。

この事態を打開しようとしたミッションが、「ミッキー」でした。

「ミッキー」という名前を生み出したのは、第812爆撃中隊長で、
第482パスファインダー爆撃群配備の中心人物の一人であった
フレッド・ラボ中佐です。

Major Fred A. Rabo 

1942年と1943年、ヨーロッパでの爆撃隊の任務を成功させる上で
大きな問題となるのが冬季の天候不順であることは
第二次世界大戦が始まる前からアメリカ空軍の共通認識でした。

RAFは、以前から同じような天候の問題に対処するため、
航法補助として電波ビームとレーダーを開発していました。

そこで爆撃隊の中の人がパスファインダー・グループの計画を打ち出し、
その後1943年8月20日、第482爆撃群(パスファインダー)が、
電波ビームとレーダー装置を使用する爆撃隊として組織されます。

ラボ中佐は、パスファインダー・グループ設立のため米国に戻り、

M.I.T.放射線研究所で開発されたレーダーを装備したB-17を入手しました。

レーダー付きB-17

M.I.T.レーダーはH2Xとして知られていました。
機首の下に格納式H2Xユニットを装備したB-17を初めて見たフレッドが、

「あのレドーム、ミッキーマウスみたいだな」



といったことから、このニックネームは定着し、
その後「ミッキー」と短縮されて作戦名になりました。


せっかくパスファインダー(開拓者)というかっこいい名前があったのに、
このおかげで、第二次世界大戦の残りの期間中、
H2Xレーダーユニットは「ミッキー・ユニット」、
オペレーターは「ミッキー・オペレーター」と呼ばれることになります。

アメリカ人だからこっちの方が本人たちも嬉しかったかもしれませんが。



■ H2Xパスファインダー


H2Xを使えば、夜であろうと昼であろうと、雲に覆われていようといまいと、
同じ精度で都市の位置を特定し、大まかな地域を標的にすることができます。


ロッテルダム南西のオランダ沿岸を示すH2Xスクリーン。 

この時攻撃したオランダ沿岸の地図。

ミッキーは目視爆撃ほど正確ではありませんでしたが、
悪天候でも中止せずに戦略攻撃を続けることができました。

最初のH2Xを搭載したB-17は1943年11月3日、第8爆撃機部隊が
ヴィルヘルムスハーフェン港を攻撃したときに初めて実戦で使用され、
この時の任務は最初のことだったので「パスファインダー・ミッション」、
搭乗員はまだ「パスファインダー・クルー」と呼ばれていました。

攻撃方法は、以下の通り。

アメリカ陸軍航空隊のパスファインダークルーと、

RAFのパスファインダークルー(どちらもアメリカで訓練を受けている)
を乗せたレーダー装備パスファインダー機が編隊の先に飛び、
レーダーによって目的をマーキングしたときに爆弾投下します。

それを見た全ての爆撃機が、続いて爆弾を投下します。


ベルリンに目標を定め、到着したらどこに爆撃すべきか、
レーダーによってわかるというわけです。



なぜかフランス語説明による「ミッキーセット」に必要な道具。
左端のアンテナですが、これ、何かの形に似ていませんか?

そう、ボール・ターレットです。

この設置のために、のちに第91爆撃群がボール・ターレットの場所に
H2Xの回転アンテナ用腹側半球レドームを設置するようになり、
後のB-24リベレーターに搭載されたH2Xもターレットに取って代わり、
ボールターレットは格納式に変えられました。

ボールターレットをレーダーレドームに改造したB-24「パスファインダー」

胴体着陸したら砲塔ごと潰れて死ぬしかなかったB-17のボール砲塔砲手は、
これを聞いて微妙な気持ちになったかもしれません。

「ミッキー・セット」は副操縦士の後方(無線オペレーターの位置)
の飛行甲板に設置され、戦闘地域にさしかかると、
ミッキー・オペレーターがパイロットに進路を指示し、
爆弾投下時には爆撃兵と連携して指揮を行いました。



ミッキーが最初に使用されたのは1944年4月5日の
プロイエシュティ攻撃(タイダルウェーブ作戦)でした。

その結果については、もうみなさんご存知の通り。

以前同作戦について説明したように、この作戦は対費用効果で言うと、
アメリカ軍の損失多すぎと言うことで結論づけられていましたよね。

このとき新兵器であるレーダーは確かに正しく機能したのですが、
いかんせん、ドイツ軍の防空陣地上空をまともに通過する経路だったため、
激しい対空砲火と迎撃で多数の損害と犠牲を出してしまいました。

攻撃そのものの被害が多すぎたので、「ミッキー作戦」も、
それに見合うだけの戦果だったかというと、微妙だったということです。


続く。




「小さな戦友」戦闘機掩護〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-20 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示、
今日は爆撃機を掩護した戦闘機についてです。

ところで今更ですが、戦闘機が爆撃機を守る行動のことを
「掩護」といい、「援護」とはあえて違う漢字を使うのは、掩護には
「敵の攻撃から味方を守る」という援護より狭い意味があるからです。

■ファイター・エスコート


戦略爆撃作戦の前半部分で書きましたが、この頃のアメリカ空軍は
ドイツ国内の標的を攻撃する重爆撃機に護衛戦闘機を持ちませんでした。

理由は単純で、小さな戦闘機では航続距離が短かったからです。
途中まではついてきても、肝心の敵地近く、
敵戦闘機がやってくる辺りまで来られる戦闘機がなかったのです。

その結果、重爆撃機の乗組員は壊滅的な損害を受け、
作戦そのものの継続が危ぶまれるまでになりました。

そこでアメリカが工業力と技術力を傾け開発した結果、
1944年初頭までに、P-47とP-38が改良され、
ドロッパブル(使い捨て)燃料タンク、そしてP-51が導入されます。

このことで戦闘機の航続距離の問題は解決され、
同時にアメリカ軍の重爆撃機の損失は減少。

このことはルフトバッフェの戦闘機の損失数を拡大させ、
1944年6月のDデイ侵攻に対抗することができなくなっていきます。


爆撃機編隊の上空に戦闘機が描く芸術的な白い線。
これは防御のための「傘」といわれます。


B-24爆撃機に随伴するP-47サンダーボルト
パイロットはカメラ目線ですね。

頑丈なサンダーボルトは1943年半ばにヨーロッパで就役しました。
 当初、P-47はドイツ国境を越える爆撃機を護衛するには
航続距離が足りませんでしたが、その後の改良で航続距離が伸びています。


第20戦闘航空群P-38パイロット、アーサー・ハイデン中尉と地上クルー。
「ラッキー・レディ」という彼の戦闘機のボディにはトップハット
(シルクハット)のマークがたくさん描かれていますが、
ハット一つがすなわち爆撃機の護衛任務一回を表します。

そして彼の敵機撃墜数は2(3かも)。


B-17の主翼近くを飛ぶイギリス空軍(RAF)のスピットファイア
このパイロットも写真を撮られているのがわかってこちらをみています。

1943年半ばごろのショートレンジのスピットファイアは、
このようにアメリカ空軍の重爆撃機の護衛を行いました。
アメリカ軍パイロットが操縦することもあったようです。



そして満を持して1943年末にヨーロッパで導入された
高速長距離戦闘機P-51マスタング
アメリカ空軍の究極の護衛戦闘機となりました。



有名な第4戦闘機群の司令官、ドン・ブレークスリー大佐
ベルリンへの護衛任務で使用した地図(コピー)。
ベルリンの場所は赤い星印で示しておきました。

 黒い線は爆撃機の進路を、赤い線は護衛戦闘機の進路を表しています。

全く違うところから出発してドイツ上空に入るところでランデブーし、
爆撃任務を終えたらドイツ国境を出るまで同行し、
そこから先は別れてそれぞれの基地に帰投します。

第4戦闘航空団はこのミッションで26機の敵機を撃墜したと主張しました。


ブレイクスリー大佐



第4戦闘機群パイロットのサインがされた、
スピットファイアの独特の形をしたプロペラブレードと時計。

1943年3月1日、スティーブ・ピサノス中尉が離陸しようとして、
ランディングギアを格納するのが早すぎて機体が地面を擦り、
プロペラのブレードが折れてしまいました。

翼の上にある時計は、9時8分を差して止まっています。
おそらく決められた離陸予定時間は0900だったのでしょう。

プロペラにはその時参加していた戦闘機パイロット
(多くは有名なRAFイーグル飛行隊に所属していた志願兵)
全員のサインがありますが、何が目的でしょうか。

骨折した友人のギプスに皆がサインするみたいなノリ?

戦闘機パイロットの階級はほとんどが中尉で、
キャプテン(大尉)が4名、少佐(ドン・ブレイクスリー)が1名です。

第4戦闘航空群は「イーグル飛行隊」と呼ばれ、
当初はP-47 サンダーボルトを運用していましたが、
パイロットたちは鈍重なP-47に不満を持っていました。

リパブリックP-47D

1943年4月に西ヨーロッパ上空で初の戦闘任務に就いたサンダーボルトは、
高高度の護衛戦闘機としても、低空戦闘爆撃機としても使用され、
その頑丈な構造と空冷ラジアルエンジンにより、
激しい戦闘ダメージを吸収してなお飛び続けることができました。
(ただし航続距離はない)




ダンボマーク

1943年後半までに、航空群司令官のドン・ブレイクスリー大佐は、
より軽快で機動性の高いP-51 マスタングに機材を更新します。


NMUSAのノースアメリカンP-51Dマスタング

P-51Dは1944年春にヨーロッパに大量に到着し、
アメリカ空軍の主要な長距離護衛戦闘機となります。

多用途のマスタングは戦闘爆撃機や偵察機としても活躍しました。
終戦までにマスタングは4,950機の敵機を撃墜していますが、
これはヨーロッパにおけるアメリカ空軍の戦闘機の最多記録です。



ちなみに、P-51の配備に際し、第8空軍司令部は
第4戦闘機隊のパイロットが機材を受け取ってから
24時間以内に運用が可能であることを条件にしたのですが、
ブレイクスリーはこの条件を飲み、パイロットたちに

「目標に向かいながら操縦の仕方を覚えるように」

と指示したという逸話が残っています。

んな無茶な。
余程部下の基礎能力を信頼していたってことなんだろうか。



ガンカメラのフィルム・マガジン。
ドイツ上空での護衛任務に就いたP-38ライトニングに装備されていたもので、
Bf 110の後方砲手が放った7.92mm弾に命中した痕があります。


P-38パイロットのロイヤル・フレイ中尉が任務の際に携行した、
イギリスの金属職人によって作られたナイフ。

1944年2月10日、フレイ中尉はドイツのミュンスター近郊で撃墜され、
ベイルアウトして捕虜になり、戦後アメリカに戻りました。


親も何を思って息子にRoyal という名前をつけるのか

 フレイ中尉は後にアメリカ空軍博物館のシニアキュレーターとなりました。



そのことから、当博物館に展示されているP-38Lは
フレイ中尉のマーキングで塗装されることになりました。

ライトニングが初めて大規模な任務に就いたのは1942年11月。
ドイツ軍パイロットは、早速この戦闘機に


Der Gabelschwanz Teufel
デア・ガーベルシュヴァンツ・トイフェル

「分かれ尾の悪魔」

というあだ名を付けます。


展示されているP-38Lの左側にあるトップハットのマークは、
パイロットのロイヤル・D・フレイ中尉が飛行した
爆撃機護衛任務を表しており、黄色い帽子=5回、
白い帽子=1回なので、出撃回数合計9回ということになります。


ライトニングが戦闘活動を開始した当時、これが
ドイツへの爆撃機を護衛できる航続距離を持つ唯一の戦闘機でした。

そして1943年4月18日。

太平洋戦線でこの別れ尾の悪魔の性能が遺憾無く発揮されることになります。

真珠湾攻撃の立案者であった山本五十六提督を乗せた航空機を、
P-38の編隊が待ち伏せし、これを撃墜するのに成功したのでした。



続く。


「ラッキー・バスタード・クラブ」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-14 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機シリーズより、今日は、
「Missing in Action」任務中行方不明、というタイトルのコーナーです。

パネル中央には冒頭の涙ぐむ美女が、

「Please...get there and BACK!」
(お願い・・無事に戻っていらして!)


と訴えており、その下に

BE CAREFUL WHAT YOU SAY OR WRITE
(何を言うか、何を書くか注意してください)


とあり、これが実は防諜啓蒙ポスターであることがわかります。

うかつにしゃべったり手紙に書くことで、
愛する人が無事に帰れないかもしれないと脅しているんですね。


彼女の恋人たちの任務は、情報が漏れることによって失敗し、
それはひいては彼らの命が失われると言うことにつながります。


■ 大空襲、大損害、クライシス


1943年後半、米空軍は重爆撃機部隊の増強を続けました。
しかし、敵陣深く進入して目標を攻撃するにつれ、
驚異的な損失が昼間戦略爆撃の概念全体を脅かすようになります。

敵地深くまで飛んで爆撃ミッションを敢行。
「メンフィス・ベル」のように25回任務を達成するまで
撃墜されずに生き延びられるほうが稀というものでした。



編隊を組んで飛ぶB-26の周りに見える小さな黒煙は、
地上から撃ち上げられる対空砲です。


つまりアメリカ空軍の初期の想定が間違っていたのです。

掩護なしの重爆撃機は敵戦闘機から身を守ることはできませんが、
不運なことに、当時のアメリカ陸軍航空隊の戦闘機は、
敵陣深くまで爆撃機に随伴して攻撃できる航続距離を持ちませんでした。

映画「メンフィス・ベル」でも、途中まで援護してきた戦闘機が
ある地点で挨拶をして帰っていくのを、乗組員が吐き捨てるように
ここまでかよ、みたいなことを言うシーンがあったと記憶します。



2本平行にたなびく煙は、もしかしたら墜落機のもの?

1943年に限ると、第8空軍の爆撃機乗組員のうち、
25回の任務を完遂したのはわずか約25%で、残りの75%は死亡、
重傷を負った、あるいは墜落機から脱出して捕虜となりました。



高射砲に被弾し、エンジン部分から激しく炎を噴くB-24。



ドイツ上空で対空砲火が直撃したB-24リトル・ウォーリア。

ベンソン中尉

 副操縦士のシドニー・ベンソン中尉一人だけがベイルアウトしましたが、
ベンソンは地上で怒り狂ったドイツ民間人に暴行を受け、死亡しました。

日本でも、ベイルアウトしたアメリカ人航空士が民衆に暴行された例はあり、
長髪だったせいで、アメリカ人と間違えられた日本人の海軍飛行士が
民衆のリンチにより死亡したという事件も起こっています。

この事件以降、航空隊員は袖に日の丸をつけるようになりました。


任務を完遂できる確率が低いことを知りながらも、
爆撃機乗組員は勇気をもって粛々と任務を遂行しました。



1943年11月、ドイツのゲルゼンキルヒェンへの任務後、
対空砲火で脚を負傷し、救急車に運ばれる
爆撃手マリオン・ウォルシェ陸軍中尉。

回復後も飛行を続けるも、1944年2月にまた撃墜され、捕虜となりました。


「ソンバー(Somber)・デューティー」

somberとは単純に色や明るさが地味とかくすんだ、とか暗い時に使い、
そこから「厳粛な」「陰鬱な」「重苦しい」という意味を持ちます。

葬列を表現するのに「somber march 」などということもあり、
軍隊でいうところの「ソンバー・デューティー」とは、
死者にかかわる後片付けを表すときに使われます。

この写真では、任務に出た爆撃機搭乗員が行方不明になったので、
関係者に身の回り品を送り返すためにロッカーを整理しており、
おそらく搭乗員の戦友が、黙々とこの「地味で陰鬱な任務」を行っています。

残された戦友の恋人の写真を目にしながら、
彼もまた明日は自分、と考えているかもしれません。


■ 「ラッキー・バスタード・クラブ」


いくつかの爆撃機グループには、幸運にも
戦闘任務に生き残った者たちのための
『ラッキー・バスタード・クラブ』

なるものがありました。

「バスタード」はご存知の方もいるかと思いますが、
決して上品ではない、「野郎」みたいなニュアンスの言葉です。

”ラッキーバスタードであることを祝って”

これは、ナチス・ドイツに対する多くの空中攻撃に参加し、
対空砲火、戦闘機の攻撃、悪天候にもかかわらず、
各ミッションから無事に帰還したリチャード・R・ベンソン曹長が、
満場一致でラッキー・バスタード・クラブのメンバーに選出されたことを
証明するものであり、彼と、
このクラブの勇敢で幸運なメンバー全員に

この詩を捧げるものである。

ああ、戦いの英雄、国の誇り
誉れ高き勲章を受けし者よ
女たちの歓喜のため息の対象よ
大空を駆け巡り、戦いの傷を負った勇士よ
臆することのない魂で、自分の仕事をやり遂げた


対空砲火に怯えつつも
最高の決意をもって、多くの任務をこなしてきた
暴力団を一掃し、平和をもたらすために

何千トンもの爆薬でナチスを吹き飛ばし
ナチスを数千トンの爆薬で吹き飛ばした;

ルールでの進軍の道を開き
そして、自由と勝利を確かなものにした

正義の十字軍、ガラハドよ
君が受けるべき栄誉は決してない、
ウイスキーと女とジャイブの家に帰れ;

ラッキーな野郎だぜ 生きて戻るなんて
(You're a lucky bastard to be alive.)

■ ミッシング・イン・アクション


かと思えば。

これは重爆撃機の護衛中に撃墜されたP-38パイロットの妻に送られた、
「行方不明」(Missing in Action)の恐るべき通知です。
これらの電報は何万人もの航空兵の家族に送られました。

ワシントンからサンディエゴ在住である
ナンシー・L・マッカーティ夫人に送られた通知には、

「あなたのご主人であるベンジャミン・F・マッカーティ中尉が
5月9日以来フランスで行方不明になっていることを、
陸軍次官が深く残念に思っているとお伝えしたいとのことです」
ダンロップ准将代理

この通知を受け取ったナンシー夫人の心痛はいかなものであったでしょうか。
しかしこの通知を受け取った約1ヶ月後のことです。



ナンシー夫人はとりあえず安堵の涙を流したに違いありません。

「国際赤十字からたった今届いたばかりの報告です。
ご主人であるベンジャミン・F・マッカーティ中尉が
ドイツ政府の戦争捕虜となっていることがわかりました」

さらにラッキーなことに、マッカーティ中尉は終戦後解放され、
無事に生きて故郷に帰り、妻との再会を果たしました。



戦争中戦地に愛する人がいた人々は、おそらくこの
ウェスタン・ユニオンの電報がくることを恐れていたことでしょう。

ウェスタンユニオンは創立1851年という長い歴史をもつ金融&通信社で、
第二次世界大戦中は電話もまだそれほど普及しておらず、
特に長距離の通信にはテレグラフが中心だったので、
ほぼ独占企業としてこのような軍事通信も担っていました。

テレグラフの内容は、ウィリアム・R・マッカレン軍曹
について1945年4月にわかった情報のようですが、
この人物について調べたところ、1943年の爆撃任務で乗っていた
「サンタアナ」という爆撃機が撃墜され、ドイツで捕虜になっていました。

大きく引き伸ばされたテレグラフの前には、次のような文字が見えます。

「忘れてはならない・・・
第二次世界大戦中、自由のための戦いに命を捧げた
29万2千人のアメリカ国民にこの展示を捧げる」


続く。



「フレンド・オア・フォー?」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-11 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機を中心にお話ししてきました。



前回はその戦いに命を捧げた人々と任務を取り上げましたが、
そこに名誉メダル受賞者を受けた下の二人のコーナーがありました。



スタッフサージャント、メイナード『スナッフィー』スミス(左)と
同じくアーチボルド・マティエスの二人です。

■一人で乗員全員を救出
メイナード・ハリソン『スナッフィー』スミス軍曹
SSgt Maynard Harrison ”Snuffy" Smith

アメリカにもその時代の流行りの名前があります。

最近は、男の子ならリアム、ノア、オリバー、ジェームズ、エリジャ、
女の子ならオリヴィア、エマ、シャーロット、アメリア、ソフィア、
こんな感じがトップ5ですが、逆にどうも古臭い、と感じる名前もあります。

思い出したので余談なんですが、この人の「メイナード」という名前は
現代には完全にアウトオブデートでイケテナイみたいです。

あるドラマで、主人公の夫が、生まれてくる子供に
どうしても祖父の名前であるメイナードをつけたいというのですが、
妻はこの名前が古臭くて大嫌い。
結局妥協して通名はイニシャル「MJ」になったという話がありました。

流行りの名前は当時のポップカルチャーやイベントの影響を受けるので
「メイナード」は南北戦争時の銃のせいで流行った頃があったのでしょう。

さて、そのメイナード・スミスがなぜ勲章を受けたかといいますと。


1943年5月、彼がボール砲塔砲手として乗り組んだ爆撃任務で
ブレスト上空を飛んでいた爆撃機が対空砲火を受け、火災が発生しました。

スミス二等軍曹は、電源を喪失したボール砲塔からすぐさま飛び出し、
重傷を負った乗員2名を手当てしながら機関銃を撃ち、加えて、
消火のために燃えている破片と弾薬を外に放り出しながら消火器を使い、
消火器が無くなると最後には放尿によって火を消そうと試みました。

飛行機はイングランドにたどりつき、着陸した途端真っ二つに裂けました。
後で調べたら機体に3,500以上の弾丸と対空砲の破片が命中していました。


火災に関しては、ほとんど彼一人の働きで、乗員全員が助かったのです。

この大活躍で、スティムソンから直々に勲章をもらったわけですが、
同じ週、彼は説明会に遅刻したため、罰として
KPポリス(厨房の雑用、芋むきとか)をさせられている真っ最中でした。

しかもその後、彼はPTSDのせいで職務成績不振となり、何をやらかしたか、
兵曹から二等兵に降格、さらに永久追放(不名誉除隊)になりました。

ただ幸いにも、故郷では英雄としてパレードで歓迎され、
軍の悪口をいいながらフロリダで静かに晩年を過ごし、
最終的にはアーリントン国立墓地で永遠の眠りについています。



■ 我が身の危険を顧みず・・・

アーチーボルド・マティーズ兵曹(上段左端)
SSgt Archibald Mathies
ナビゲーター:ウォルター・トゥルンパー少尉(下段右から二人目)
2/ LT Walter Edward Truemper
機長:クラレンス・ネルソン中尉(下段左端)

1/LT Clarence R. Nelson

名前について書いたので流れでいうと、この「アーチーボルド」。
メイナードもたいがい?ですが、こちらもなかなかな気がします。
事実、この名前がアメリカで人気があったのは19世紀後半で、
名前ランキングのある情報によると、


「20世紀初頭には急速に廃れ、1920年にはランク1,000以下だった」

彼が生まれたのは1918年ということですが、スコットランド移民だった
彼の両親は、アメリカの流行がわかっていなかったのかもしれません。


アーチーボルド・マティーズ二等軍曹

は、戦死後その勇敢な行動に対し名誉勲章を授けられました。

1944年2月20日、ライプチヒ攻撃のため搭乗したB-17、
愛称「テン・ホースパワー」の操縦席が対空砲と戦闘機の攻撃を受け、

その結果副操縦士が死亡、機長は重傷を負います。

そこでマティーズはナビゲーター、トゥルンパー少尉と二人で

故障した機を帰投させ、基地管制塔と連絡を取るところまでこぎつけました。


ウォルター・トゥルンパー少尉

ただちに基地司令からの命令で、全員がベイルアウトを命じられました。
しかしマティーズとトゥルンパー少尉は、

「重傷の機長がまだ残っていて、見捨ててはいけないから、
基地に機体の着陸を試みさせてほしい」

と懇願します。

司令は経験の浅い二人では損傷した機を着陸させることはできないと判断し、
飛行機(と瀕死の機長の命)を諦めて脱出することを命令しました。


トロッコ問題ではありませんが、司令はこのとき、
瀕死の一人と二人の命を明らかに天秤にかけ、後者を選んだのです。

いや、確率で言うなら、一人諦めるか三人とも死ぬかの状況において、
限りなく後者の方が可能性が高いと判断したのでしょう。

しかし、マティーズと少尉は着陸を強硬に主張しました。

苦渋の決断で司令は着陸許可を出し、飛行機は3度着陸を試みますが、
最終的に(滑走路にではなく)空き地に墜落し、
マティーズ軍曹とトゥルンパー少尉は二人とも死亡
しました。

負傷した機長は墜落の時にはまだ生存していましたが、
その後病院で死亡したので3名全員が亡くなったことになります。


左上から、ネルソン中尉、トゥルンパー少尉、
マティアス軍曹(バックは墜落した機体)

「時間がなくなり、日の光が薄れ、
アーチー・マシーズの持久力はすでに妥当なレベルを遥かに超えていた。」

「大佐の目にも生還の希望が薄れつつあることがますます明らかになった。
大佐は管制塔を通してウォルター・トゥルンパーに爆撃機を海に向けさせ、
自動操縦に切り替え、2人にパラシュートで降下するように指示した。」

「マシーズもトゥルンパーも、その命令の意味を十分に理解していた。
しかし自らの極限状況にも関わらず、二人とも自分たちが助かるために
ネルソン中尉の生存の可能性を放棄する気はなかった。」

「遂に司令はテン・ホースパワーに再び着陸を試みる許可を無線で送る。」

「機体は突然左に方向転換し、大きく急降下して管制塔を通り過ぎた。
着陸しようとして、赤いフレアを発射した。
そして1マイルほど離れた野原に向った。

航空機は17時00分にわずかに機首を下げた姿勢で
時速200マイルの速度で衝突し、地面に沿って50ヤード以上滑った後、
土の山に衝突し、クラッシュした。

「この時のテン・ホースパワーの墜落で生き残ったのは 1 人だけだった。
救助隊が到着したとき、クラレンス ネルソン中尉はまだ息をしていた。

彼はその夜遅くに病院で亡くなったのだが、
アーチー・マシーズとウォルター・トゥルンパーは、
最愛の指揮官を、ともかくも生きて帰国させることには成功したのだ」

このコーナーではマティーズ軍曹だけが強調されていますが、もちろん、
25歳で亡くなったトゥルンパー少尉もパープルハートを授与されています。


appleTV制作の「マスター・オブ・ザ・エアー」第3話には、
この件を彷彿とさせるエピソードがあります。

レーベンスブルグ攻撃に出た機が撃破され墜落していく中、副操縦士が被弾。

死んだものと思って全員ベイルアウトをしようとしたとき、
副機長は生きていて虫の息をしていることがわかり、機長は脱出を拒み、
全員を脱出させ、一人操縦席に残って空き地に不時着を試みます。

しかし、無事に草地に着陸したと思われた機体は大きくバウンドし、
その先の低地に機首から突っ込んで大破炎上するのです。

機長の最後の言葉は、

「Oh, God.」(『まずい』と翻訳されていた)

でした。



■ 「フレンド・オア・フォー?」


砲手は一瞬の判断で発砲するかどうかを決定しなければなりません。

しかし距離が長かったり、角度によっては、
戦闘機が敵か味方かを確かめるのが非常に難しくなります。

そこで航空機を認識する訓練が行われました。
これは生死にかかわる状況下で砲手が正しい選択をするため必須でした。



英国空軍の教官から認識訓練を受ける第8空軍の下士官搭乗員たち。 
触覚で航空機を識別する訓練です。

触覚で識別できたとして、本番にどう役立つんだろう・・。


航空機認識模型

1/72スケールのプラスチック製航空機認識模型が大規模に製造され、
民間ボランティアによって作られた数十万個の木製模型が配布されました。

左上から:P-38ライトニング、Bf110
左下から:Pー51マスタング、スピットファイア、Bf109、Fw190



「スポッターカード」

トランプをしている間も楽しみながら識別訓練ができる優れもの。

というわけで、当時航空兵の間には写真の左側にある
「スポッターカード」なるものが出回りました。




いまでは激レア品として取引されています。
艦艇の形を取り入れた海軍版もありました。

「ビューマスター認識キット」

と言うのがそれです。
上の写真右下に見えるのはビューマスターです。


戦争が始まる直前に設立されたView-Master社は、
戦時中、航空搭乗員の機種認識と距離推定訓練用に、
約10万台のステレオビュアと数百万枚のディスクを製造しました。

戦争が終わると、ビューマスターは様々なイメージのビューワーを作り、
おもちゃとして1960年代、子供たちに大人気となりました。

ビューマスタージャンルの色々

なんか現在はプレミアがついてお値段がすごいことになっています。
こういうのも軍事技術の戦後平和利用っていうのかしら。


続く。