ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海行かば

2010-08-30 | 海軍

この譜面が読める方はぜひ口ずさんでいただきたいのですが、この曲が「君が代」だと言ったら驚かれますか?

これは、喇叭譜と言われ、英語ではビューグル・コールと言われています。
軍隊で、次の行動にかかるとき、決まったテーマを演奏しそれを報せる、という役目を持つ音楽です。

進軍ラッパのあのメロディ、といえばおわかりでしょうか。
正露丸(昔は征露丸)の宣伝に使われたのは「食事」です。
そういえば「ラッパのマーク」のラッパは、赤い房飾りが付いているビューグルですね。
陸軍はトランペット型、海軍はコルネット型を採用し、やはり赤い房飾りをつけ用いました。
「兵学校のおかずはイワシに牛蒡(ニンジンにダイコ説あり)たまには混ぜ飯ライスカレー」のように、どのコールにも歌詞が付いていました。
あくまでも自然発生的なものなので、部隊や時期によってバージョンが異なることもあります。
有名な陸軍の喇叭譜の歌詞。

起床 「起きろよ起きろよ皆起きろ 起きないと班長さんに叱られる」
消灯 「新兵さんは辛いんだね また寝て泣くのかよ」
突撃 「出て来る敵は 皆々倒せ」 「進めや進め 皆々進め」
食事 「一中隊と二中隊はまだ飯食わぬ 三中隊はもう食って食器上げた」

みんな何となく歌えてしまいますね。

冒頭の喇叭譜「君が代」ですが、令式の部という儀式の際演奏されるカテゴリーで、天皇および皇族お出ましの際演奏されるものです。

ビューグルがイギリスから日本に入ってきたのは幕末ですが、フランス式に喇叭譜が制定されたのは一九八五年のこと。
それから一九四五年の終戦まで陸海軍で使われます。

海軍で喇叭手となるのは軍楽兵ではなく航海科の水兵でした。
日本海海戦では敵艦との距離を数字符丁で伝達したそうです。
確かにこの方法だと騒音の中でも遠くまで確実に情報が届くかもしれません。

さて、以前映画トラ!トラ!トラ!における軍楽隊で、山本長官が乗艦したときに「海ゆかば」が演奏されていた、と書きました。
この「海ゆかば」は、皆さんがご存知の万葉集にメロディをつけたもの。
一九三七年、信時潔がNHKの委託により「国民精神強化週間」のために作曲したもので、国民歌謡というラジオ番組で初演されました。

(私事ですが、エリス中尉の母方の大大叔父は信時潔在学の頃東京音楽学校に入学するも、若くして肺結核で夭折しています。当時音楽を志す青年はそう多くはなかったと思いますが、なんと先祖にいたということをつい最近知りました)

さて、この曲はもともと戦意高揚のために作られたもので、真珠湾攻撃の戦果を発表する時にも使われましたが、こののちこれが演奏されたのは主に太平洋戦線の玉砕を伝えるときだったそうです。


しかし、山本長官乗船の際の「海ゆかば」は、こちらではではありませんでした。


「国民歌謡」で初演されるようなものですから、長官乗船などの儀式の際に演奏されることはありえなかった、とのご指摘をある方からいただきました。
そのときに演奏されたのはこの海軍喇叭譜における「海行かば」だったそうです。


またまた驚かれたでしょうか。
譜面は音源を採譜したものですが、四分の二拍子で取ったのはテンポがかなり速かったからです。何しろコンピュータ音源ののっぺりとした演奏ゆえ、一度ではリズムが弱起であることがつかめず何度か聴き直しました。
私たちの知っている「海ゆかば」とは似ても似つかぬイメージの曲調です。

海軍関係者でなければ何の疑問も持たず観てしまうシーンですが、実は海軍さんたちだけはこの海行かばを聞いてびっくり、だったようです。

医者、弁護士、パイロット、プロの世界を描いたドラマを当事者が見ると「それはない」と思うことだらけです。
この映画もそうだったわけで「音楽の考証をちゃんとしていると思う」などと書きましたが、ここは「海行かば」違いだったということです。

海軍関係者から見るときっと他にもいろいろあったのではないでしょうか。

しかし、映画が事実関係より優先させるものが多い(映像や音、ストーリーや人間関係ですら)ものであることを知っていると、「海軍喇叭譜の存在を知った上で、あえてこちらを採用したのではないか」と疑ってしまいますね。



参考:ウィキペディア フリー百科事典
   海軍兵学校よもやま物語 生出寿 徳間文庫

パン三都物語

2010-08-26 | つれづれなるままに


日本に帰ってきて何が嬉しいってパンが美味しいこと。
「アメリカはパンが主食なのに美味しくないの?」
と思われるでしょうか。

美味しくないんですよ。
探せばあるんでしょうが、アメリカ人の考える「美味しいパン」がそもそも日本人やフランス人とはどこか違う。

砂糖を加えてふわふわにしたパンは元々アメリカから来たものだそうです。

アメリカでも「白い食べ物は太る」という概念が浸透してきて、白いパンよりは胚芽や全粒粉のパンを健康のために食する傾向にあるとはいえ、アメリカ人曰く
「全粒粉やライ麦のパンは美味しくない」
体に良くても美味しくない、というんですね。

アメリカ人はホットドッグもハンバーガーも白いふわふわのパンで作りますから、どうしてもそれが主流。
そもそも具をはさむ緩衝材扱いで、パンそのもののおいしさなんてあまり期待されていません。
日本の菓子パンとはまた全然違うんですね。

アメリカ人もフランスのパンには一目置いています。

サンフランシスコには「ポーク・ブーランジェリ」というフランス人がやっている有名なパン屋があって、フランス式のバゲットやクロワッサンが食べられ人気。
朝どんぶりで出すカフェオレとターキー・クランベリーのタルティーヌ(バゲットに乗せたもの)をよく楽しんだものですが、去年あまりの人気に広い店に移転していて、今年は味が残念なことに落ちていました。

ホールフーズではいつも全粒粉マフィンを買っていました。
いろいろ試しましたが、美味しいバケットやクロワッサンは期待できないことが分かったため。
これはこれで美味しいのでアメリカではお気に入りでした。

そう、エリス中尉、パン選手権に出てもいいくらい、パンにはうるさいです。

パリに短期間住んだことがありますが、家族が朝寝ているとき、焼きたてのクロワッサンを食べに数ブロック歩いてポール(今は日本にもありますね)やポワラーヌ、エリックカイザーに通ったという執念のパン好き。

ポワラーヌのマダムは、ただならぬエリス中尉の執念に感じいってくれたのか、「地下で今パン焼いてるんだけど、窯を見せてあげましょうか」
と言ってくれました。

エリス中尉、フランス語が喋れるのか?って?

うぃ、じゅぷーぱーるふらんせ、め、あんぷちぷー。

まあ、フランスで買い物するには困らないくらい、と言いたいところですが、ラデュレの生意気な黒人ウェイトレスには
「ジュヌコンプランパ」(わからへんわ)
と言われましたな。


さて、地下に降りると昔ながらのパンがまの前で、上半身裸で作業するパン焼き職人。
何か今途轍もなく貴重なものを見ている!
と感動しつつも、
「?」
という顔でこちらを見る職人さんに
「ぼんじゅー」
「ぼんじゅー」
「いるふぇしょー?」(暑い?)
「うぃ、とれしょー」(おおーむちゃ暑いで)

という、初級フランス語会話しかできなかったあの日のエリス中尉でした。
フランス人って大阪弁でしゃべってる気がするんですよね。

話が大幅にそれましたが、何しろ、フランスは別格。
言わせてもらえばパンの聖地です。

しかし、わが日本も負けてはおりません。
あなた、東京のミシュランの星持ちレストランの数はいまや世界一。
探せば美味しいものは何でもあります。


美味しいパンといっても、ア○デルセンやポ○パドールのじゃありませんよ。
本日画像のパンはミッドタウンに入っているメゾン・カイザーのバケット。
北海道のウインザー洞爺に泊ったとき美味しいなあと思ったのですが、その後東京にもできました!

このバゲットは、そのへんのスーパーの真っ白でバターをつけないと何の味もないパンと違って、うっすら全粒粉の色が残り、噛みしめると実に粉が味わい深い。

ピクサーの「ラタトゥイユ」という映画でコレットという女性料理人がバゲットをパリパリさせて「美味しいものには音があるの」と言っていましたが、焼きたてはまさに外パリパリ、中しっとり。
買ってその日のうちに食べないと駄目だけどね。

(またまた寄り道ですが、この映画、邦題「レミーのおいしいレストラン」ですって?
センスのなさ極まれり。
原題の「 Ratatouille」の最初の三文字がRAT(ねずみ)である、という諧謔が台無しじゃないですか。
何故原題のままでは駄目だったのか?
いまどきラタトゥイユなんて、だれでも知っていると思いません?
あまり日本人を見くびったような題をつけないでほしい)

六本木ヒルズのロビュションの全粒粉バゲットも美味しいです。

でも、クロワッサンがねえ。

中国に行ったとき、一流ホテルにもかかわらずパンが妙な味なのに驚いたものですが、何が違うと言って、多分バターなのでしょう。
クロワッサンはバターが命。分量も問題ですが、質はうまみを決定します。
美味しいバターといえば、バター専門店「エシレ」が数量限定でクロワッサンを焼いていて、これはかなり美味しい。丸の内にあります。

でも、いいバターを使っているのでしょうが、カイザーのも、ロビュションのも、クロワッサンに限り「なんか違う」のです。
ましてやサンフランシスコのブーランジェリは問題外。
いや、あれを美味しくないなんて言ったら罰が当たるってもんですが、エリス中尉、何しろパリの朝6時に食べたクロワッサンの味を基準にしてしまっているのでねえ。

特に名店というわけでなくても、角のパンやですら、気合の入ったクロワッサンが食べられるのがパリ。
美味しくないパン屋などパリでは瞬時に潰れてしまうそうです。


少なくともできて30分以内に温かみの残る美味しいバターをたっぷり使ったクロワッサンが食べられない限り、日本であのレベルのクロワッサンは無理だろうなあ。





オーケストラの少女~帝国海軍の雅量

2010-08-25 | 映画
エリス中尉が高校生だったとき、学校の映画観賞会で何故か、ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」が上演されました。

当時、新作と言うわけでもないこの映画が、なぜそのとき取り上げられたのか、今となっては知る由もありません。
たまたま映画の選にあたった教師がこの映画のファンだったのかもしれません。
そのとき「よくこの映画を高校生に見せたなあ」と内心驚いた覚えがありますが、後年この映画を観なおしたとき、ホモセクシュアルや妊娠などもエピソードにある、この名画を高校生に見せた母校の教師の当時の裁量に、あらためて感嘆する思いでした。

さて。
本日画像はユニバーサル映画「オーケストラの少女」のポスター。
この映画は、もうすでに著作権が切れているので、コピーを載せました。

公開は1937年暮れだったそうです。
なんでも笹井中尉を基準にしてすみませんが、この年、昭和12年は海兵67期生徒が三号だったときです。

この映画はポスターにあるように「100人の男と少女」という原題です。

失業したオーケストラのトロンボーン奏者を父に持つパッツィ。
「有名な指揮者を呼んできたらオーケストラを再結成する」というスポンサーの言葉に父や楽団員のために奔走します。
遂には指揮者レオポルド・ストコフスキー(本人が出ています)に指揮を依頼するところまで漕ぎつけたものの、話がこじれてしまいます。

最後の手段。
パッツィの計画で、オーケストラはストコフスキーの現れるところに偶然を装って待機し、その実力を彼に聴かせるためリストの「ハンガリアン・ラプソディ」を演奏します。

最初こそ無関心に黙って聴いていたストコフスキーでしたが、音楽が進むにつれ、その手が少しずつ動きだします。
いつのまにか彼は何かに突き動かされるように失業楽団の指揮をしているのでした。


ディアナ・ダービンの歌う(吹き替え無しで!)「ハレルヤ」(モーツアルト)「乾杯の歌」(ヴェルディ)は天使の歌声と称され、彼女はこの映画で一躍アイドルとなりました。
作家の遠藤周作氏もファンだったそうで、当時日本の青年は夢中でプロマイドを買求めたそうです。


今日は、このアメリカ映画が海軍兵学校で上映されたというお話です。

参考館講堂でのニュース映画の時間を延長し、「オーケストラの少女」が上映されるという噂が校内を駆け巡ったのは、昭和14年、厳寒の2月のことでした。

「またいつものデマだろう?」
こうした噂はこれが最初ではなかったので、生徒たちはそれが本当であってほしいと願いながらも、そうでなかったときの失望を思って半ば否定していた。
しかし、今度は本当であった。


この前年12月、菅野直大尉、関行男大尉がいる70期が江田島に入学してきました。

12月の入学。
一口に言っても、厳寒の江田島でいきなり新しい生活を始めた70期生徒のカルチャーショックは想像するに余りあります。

おそらく彼らは慣れない生活と厳しい環境で精神的にも疲れていたことでしょう。
何といっても厳寒の中行われる海軍のカッター訓練は最も辛く、臀部の皮は赤く剥け、手は冷たい潮水で凍傷にかかり、どんな元気な生徒も意気消沈していたに違いありません。

そんな時期、学校で上映されたこの映画が、どんなに彼らを力づけたことでしょうか。

70期の武田光雄元海軍大尉の回想です。

上映中のひとときは兵学校生活も怖い上級生のことも忘れて映画に浸りきり、「光の雨」や「ラ・トラビア―タ」の歌唱を聴くと思わず一緒に口ずさみそうになり、終わったときには感激で涙ぐむほどだった。

当時一号だった笹井醇一生徒、二号だった鴛渕孝生徒、大野竹好生徒。
勿論四号の菅野生徒や関生徒も、この、音楽の持つ力を、勇気とともに観る者にに与えてくれる映画に見入ったことでしょう。

旧帝国海軍の持つ美点の一つにリベラリズムがあると思います。

ロング・サインや勝利を讃える歌(卒業式のときの恩賜の短剣授与で流れる)を廃止しなかったことに表れるように「いいものはいい」と言える空気が最後まで失われることがなかったのは、感嘆すべきことでした。

軍と言う組織の中で、この時期、適性語の映画を上映するという粋な計らいを、彼ら生徒は、意識するとしないにかかわらず、映画の感動とともに嬉しく受け取ったのではないでしょうか。









アメリカから小包を送る

2010-08-24 | アメリカ

毎年毎年のことですが、向こうから平均して5箱、荷物を送ります。
エリス中尉が向こうでお買い物をするだけではなく、息子が玩具を買う、本を買うなどで荷物が増えるのと、例えばボストンで使っていたプールグッズなどはサンフランシスコでは不要になるため、減らさないと持って帰れないからです。

だから中身は息子の海水パンツやバスタオル、読んだ本に向こうでしか買えない食器洗浄機専用タブレット(これ、すごく便利なんですが日本にはないんですよ)など。
はっきりいって80ドル出して送る価値があるかどうか?
というものではあるのですが、80ドル出しても惜しくない貴重品は優先して手荷物にするため、どうしてもこのような箱を送らざるを得ません。

確か数年前までは「船便」が使えました。
勿論一か月かかるのですが、3,40ドルだったような記憶があります。

しかし、911の影響なのかどうか、船便で海外に荷物を送る制度が廃止されてしまい、「一番安い方法で。追跡調査無し。保険なし」
ということにしてもこの大きさの箱では最低80ドルかかってしまうのです。

それでもUPSやフェデックスよりはかなり安いので、いつもUSPS(向こうの郵便局)から送るのですがね。

この、アメリカの郵便局員が、かなり問題なんですわ。

ボストンではここ何年か同じ女性が受け付けてくれて、もう顔見知りになっています。
去年、私の前で東洋人が荷物を出していました。
彼女の番が終わり、私がカウンターに行くと、その職員、確かにこう言ったのです。
「私中国人嫌いなのよね」

・・・いいんですか?そんなこと言って。
まあ、私が中国人でないことは小包のあて先を見ても明らかなので、私に向かって言ったのではないんですが。
うーむ、今のやり取りで何があったんだろうなあ、などと考えました。

で、その中国人が、ボストンではあまり見ないのですが、サンフランシスコに行くともううじゃうじゃいまして。

アメリカでは民族的に、特定の職業に集まる傾向があります。
メキシコ人と言えば庭師。ホテルのハウスキーピング。
韓国人と言えばクリーニング。なぜか「スパ」。
まあ、これはLAあたりでは怪しげなサービス込みのもので、当局もなだれ込んでくる韓国人売春婦には手を焼いているそうです。
そして中国人は、あまりにもいっぱいいるのでそれこそピンキリですが、郵便局や免許局に多いです。
人にあれこれ指図する職業に就きたいのかもしれません。

去年ですが、この中国人郵便局員とエリス中尉、バトルをしました。
メキシコ人のホテルフロントともバトルしたことがありますが、それはまた別の機会に。

画像のようなボックス一つにつき、税関用の書類を書くのですが、中身が何かについて書く欄にtoys,clothes,booksなどと記すのです。
サンフランシスコの中国人のおばちゃん職員にそれを出すと

「クローズって、なんですか」
「は?」
「どんな種類の?」
「コートだけど」
「どんなコート?ロング?ショート?」
「へ?」
「ちゃんと書かないと困ります」
またその言い方が実に居丈高で偉そうなのですわ。

・・・・・・・(-_-メ)ぷちっ←キレる音

「それがいったいあなたとどんな関係?私はね、今まで何度も、何十箱と言わずアメリカから同じ書き方で小包を送ってきたけど、今日生まれて初めてコートの長さなんかきかれたわよ!」
おばちゃん、いかにもやれやれ、わからず屋の日本人はこれだから困る、みたいに首を振り、周りの職員に助けを求めます。

「そんなディティールまで書かなきゃいけないって、プライバシーはどうなってるの?
もし下着だったらその種類も書かなくてはいけませんか?」

おばちゃん、無言。

「それに、私の後ろを見て。こんなに後ろに人が並んでいるのが見えませんか?
コートの長さより早く私の荷物を送った方がいいのではないですか?」

いや、勿論、こんな滔々と言ったわけではありませんよ。
怒りで言葉もつっかえながら、しかし、怒りのパワーに任せて言いきったわけです。

アメリカの友人にその話をすると
「ただあの人たちって意味なく威張りたいだけみたいねー」

そう、住んでいたときうちの地区担当の韓国人配達人(これもおばちゃん)もやたら威張りくさっていましたね。
どうも、日本人のために働くのがやたら腹立たしいみたいでした。

なんだかねえ。自分の国でもないのにそこで他の民族に偉そうにするって、何なのこの人たち。
日本にもそういうケチくさい権力を振り回して威張る人はたまにいますが、アメリカの場合民族間の色々がからんできましてね。
より不愉快なことが多々起こるわけです。

さて、今回送った荷物は驚くべきことに一週間で日本に着いたため、我々が帰国したときには再配達3回目になっていました。
それでも何度も持ってきてくれるんですよ。日本の郵便屋さんは。
(アメリカなら局に取りにいかないといけない)

そして今回、荷物の一つにこのようなカードが入っていました。

これはですね。
抜き打ちで箱の中を検査のために開けたからごめんね、というもの。
去年は明らかに開けて検査したと思われる新たなテープでそれを証明していましたが、今年からはこの紙になったようです。
このスリップが入っていたのは画像の下の箱ですが、テープを貼り直して、外から検査したことが分かるようになっています。

どれもこれも「モストチーペストウェイプリーズ」で送ってきましたが、今まで一度も無くなったり、破損したりしたことがありません。

アメリカの郵便局は今のところ信頼していいと思います。




ヴィスコンティのトランク

2010-08-22 | つれづれなるままに



アラン・ドロンという俳優をご存知でしょうか。

「太陽がいっぱい」でデビュー後、
一流スターに駆けあがった伝説の美青年です。
有る程度の年齢層なら、かつて日本に「アラン・ドロンブーム」があって、
若い女性が夢中になった時期があるのをご存知かもしれません。

パリに行ったとき、スタンドで売られている新聞の話題に
いまだにドロンの名前が大きくあるのに驚いたものです。
フランスでももう芸能活動はせず、実業家として、
悠々自適の老後を営んでいるらしいドロンは
そのとき半生を振り返る自伝を出したもののようでした。

そのアラン・ドロンがまだ駆け出しのころの話です。

その頃、ドロンは映画監督ヴィスコンティの付き人をしていました。
これは文字通りそうだったのか、
有名な男色家であった監督の恋人であったのかはわかりませんが、
おそらくどちらも兼任していたのでしょう。

耽美的なヨーロッパ貴族出身のヴィスコンティにかかっては、
何でもあり、と思えてしまいますね。

さてそのヴィスコンティの持ちものや立ち居振る舞いは、
ドロンに大いなる影響を与えたもののようです。

なかでもヴィスコンティ監督のトランクはドロンにとって憧れでした。

船旅が主流だったころ、貴族階級は旅にまるで箪笥のような大きなトランクを使い、
ホテルの部屋にその引き出しのついたそれを
そのまま家具のように置いて使用しました。
貴族ヴィスコンティ監督も、その優雅なトランクを
ふんだんに撮影旅行に持って移動していました。

それらのトランクは全て同じ模様。

「ようし、僕も今に大スターになって、
監督のように自分のイニシャルを特別注文したトランクを作らせるぞ。
そのときはもちろんA・Dのモノグラムで」

彼は老舗ブランドルイ・ヴィトンを知らず、
トランクに刻印されたL・Vというモノグラムのイニシャルを
ルキノ・ヴィスコンティを意味するのだと思っていたということです。

その後「太陽がいっぱい」で大スターとなり、実業家としても成功をおさめ
自分のファッションブランドを持っているドロンですが、
いまだにA・Dというモノグラムのトランクは見たことがありません。
おそらくドロンは自社ブランドではなく、
このルイ・ヴィトンを愛用しているのではないでしょうか。

”LOUIS VUITTON”

余談ですが、アメリカではこれを「ルイス・ヴィトン」とよみます。
フランス語の語尾のSは発音しないので、Hermesの「エルメス」を
「エルメ」と呼ばない日本表記は間違いなのですが、こちらに関しては
アメリカが間違っていることになります。
アメリカ人には実際にそういう名前の人もいるので、
「Louis」を「ルイ」とはどうしても読めないのでしょう。


さて、そのルイ・ヴィトンです。
若い時は「何がいいんだろう」と、あのモノグラムを見て思ったものです。
ヴィスコンティならいざ知らず、貧乏臭いファッションに猫も杓子もあの柄。
ショルダーや小さいバッグ、エリス中尉は一つも持っていません。


だいたい合わせにくくないですか?
花柄のワンピースなどと合せているようなセンスの悪い人は
さすがに最近めったに見ませんが、わたしには
あれを無地扱いして服と合わせることはとてもできません。

ここに限らずブランド臭を前面に出すモノグラムが苦手なのです。

しかし、旅行用トランクは80×60一つ、クルーズ用とやら一つ、
何やら軽くてやたらでかいたためるボストン2つと、
大量に持っています。
帰りにモノが増えたときにバッグを買って帰ってくる、
という旅を毎年しているうちに、だんだんと増えてしまいました。

日頃身につけるように持つバッグとしてのヴィトンではなく、
・・・・・それこそヴィスコンティのように、
旅行という非日常的イベントの小道具としてのあのモノグラムは好きなのです。

最近はもうこのラインナップにリモワの大型トランクで万全。

リモワの丈夫なことは折り紙つきですし、ヴィトンも「航空事故でも壊れない」
と言われるくらい丈夫と言う噂を信じていたのですが、
今回、アメリカに行ったとき悲劇が起こりました。

取っ手がーーーー!('A`)

トランジットで荷物のピックアップのときに気付いたのですが、
すぐに乗継だったのでそのまますぐに預けてしまいました。
それが、その後チェックインのたびに係員が
「これはこのフライトで壊れたんじゃないから責任はねーよ」
と言う意味のタグを付け替えるわけですよ。

壊されたときすぐに言わないといけなかったのかなあ?
と思いつつ日本に帰ってきて聞いてみたら、
傷害保険で修理代が出るそうです。

さっそくルイ・ヴィトン・ジャパンに修理を依頼。
こういうとき、老舗ブランドのありがたみを感じます。
たとえ日本で買ったものでなくてもちゃんと修理してくれるのですからね。
ハンドルを交換し、犬のリーシュのような付属品を付けてもらうことにしました。

見積もり報告の電話で係の女性が
「大変貴重なものをお預けくださいまして」
と言ったので自社ブランド製品を「貴重」とは?と一瞬違和感を感じたのですが、
次の瞬間
「長い間使い続けた思い出の詰まったトランク」
という意味合いなのだと気付きました。


破損の理由ですが、なまじプライオリティタグが付いていたのが災いして、
他の荷物の下から取っ手を持って引きずり出された結果だろうと思います。


ヴィスコンティのように優雅な船旅をするならともかく、
世界最強のアメリカ航空局地上職員に
投げられたり引っ張られたりする飛行機の旅では、
やはり丈夫なリモワやゼロなんかの方が安心なのかもしれませんねえ。

まあ、気持ちだけは優雅に旅行したいので、これからもヴィトン使いますが。
それに、修理されて返ってきたら、今までより愛着がわきそうです。



レゴランドUSAに行く

2010-08-14 | アメリカ
最後の一週間我々はサンフランシスコを後にしてLAへ。
友人に会いに行くのと、レゴランドが最終目的です。
火曜日、サンフランシスコを発ちました。


ここでニッサンの大きめのタイプを予約していたら、案の定ボードに名前がない。
「名前ないんですけど」
(コンピュータぱこぱこ)
「ああ、370ロットに行って」(謝らない)

2分後

「車停まってないんですけど」
(コンピュータぱこぱこ)
「ああ、ずっと出してたんですけど(これぜってー嘘)遅いから戻したみたいですねえ。
470ロットにある大きな車にグレードアップします(から文句はねえだろ)」

どうして非を認めないかねアメリカ人ってやつは。もう慣れたけど。

そして戦車のようなGMを借りました。
しかし、トランクに荷物を入れるのに一苦労。
サンフランシスコで乗っていたプリウスに魔法のようにおさまっていた荷物が・・。
いやー、日本の車って、荷物収納力も凄いです。
さすがウサギ小屋の住民。

そして、2時間運転してカールスバドにあるレゴランドカリフォルニアへ。
ここは、名前からも推測できるように、レゴのテーマパークなので、いたるところにレゴでできたモチーフがあります。


もちろん絶叫ライドもあるのですが

レゴランドらしいといえばこのレゴでできた世界のジオラマ。



細部まで物凄く凝っていて、人間も全てレゴです。
観光バスが停まっていますが、これ、3分たつと次に移動します。
これはワシントンDCの部分です。

息子は、どこに行っても同じような歳の子供にさりげなく近づき、友達になってしまうやつなのですが、ここでもあちこちでその特技を発揮。
メイキングレゴコーナーで。
ゲームコーナーで。
親がずーっと待っている中、夢中でお楽しみでした。
TOは日本から持ってきた仕事を昨夜ほとんど徹夜でしていたし、私は彼のPCの光がまぶしくてほとんど寝られず、二人とももうへろへろ。
おまけに、寒いサンフランシスコからやっと暖かいところに、と思ったのもつかの間、この日は風が冷たくて日向は暑く日陰は寒くて震えるくらい涼しい。
「寒いよ―」
と泣き言を言うと
「心配しなくても日本は地獄の暑さだから」
そう、もうすぐ、この寒さが恋しくなるのね・・・・。

さて、このレゴランド、絶えず「レゴマスター」と言われるアーティスト(息子の現在の憧れの職業ナンバーワン)が、園内の製作室で新たなレゴを作っています。
私は見なかったのですが、現在スパイダーマンを制作中とのこと。
TOが見たところによると、下半身は完成していたとのことです。
ここも住んでいたときを含めると数回目の訪問ですが、いつ来ても新しい像があります。
それでは、有名人レゴのご紹介。


ボルボがスポンサーになっているのか、こういうものも。


今借りているGMと並べてみました。
訳はありませんが。

街全体がレゴなので、こういった有名人ばかりではなく、市井の人々も。
何やらインカムをつけ張り切るお兄さん。


疲れきって寝るおじさん。ほとんどこの日のTO状態。
なんと、このおじさんの頭上にとまる鳩もレゴです。

で、当然、ウケを狙ってこのようなものも。
疲れてやる気ナッシングな工事人。
何やら絶望する人。
この、絶望くん、トイレの横にあったのですが、みんなにえらく共感されて人気者でした。
必ず立ち止まってみんな写真をパチパチ。

6時ごろ、出口に石がま焼のピザを売っている店発見。
息子におやつを食べさせるつもりで入ったらTOが一枚余計に買ったので、一口、と期待せずパクリ。


(゜∀゜)=3ウマー

間違いなくこれまでの人生で食べたピザのベスト3に入るくらいでした。
といっても日頃ピザあまり食べないので母数は果てしなく小さいですが。

ホテルに震えながら帰ってきて見た夕日。
明日、ラグーナニゲルという美しい町で一泊し、いよいよ日本に帰国します。


それでは。


アルカトラズ刑務所に行った

2010-08-10 | アメリカ

住んでいると決して行く気にならないのが地元の観光名所。
しかし、息子が興味を示したこともあり、去年サンフランシスコにいたときアルカトラズ島観光を目論みました。
ところが連日満席御礼で、船が取れず、断念。
今年は行くべし!ということで、出発前から予約しておき、今日行ってきました。

いろんな映画に登場するこの島、ご存じとは思いますが1898年から1963年までの間、刑務所島として使われます。
サンフランシスコの埠頭からフェリーでわずか15分。
私たちのフェリーに、ずっと並走(飛?)していたカモメ。
船上にピタリと停止したまま、ずっと飛び続けて観光客からクッキーを貰っていました。
このへんはカモメの世界で一番大きなコロニーがあるところですが、彼はその中でも特に有能なカモメに違いありません。
名前はきっとジョナサン。

着いてすぐに浴びされられるシャワーと独房。
勿論ドアは無く、檻で廊下と仕切られているだけ。
特に素行が悪い囚人には「懲罰房」が待っていました。
ここに収監される気分を体験させてもらえます。
何人か入ったところで

扉を閉めます。
これで何日か過ごしたそうですが、精神の平衡を失うほど怖かったそうです。

当然のことながら脱獄を試みる囚人もいました。

大規模な脱獄事件「アルカトラズの戦闘」の際、囚人が使った道具と、そのとき犠牲になった看守たち。鍵を奪ったものの出口の鍵穴に合わなかったため、腹立ちまぎれに独房に押し込めた六人を次々射殺するという残忍さでした。

元々ここに収監されていた囚人は、他の刑務所から「脱獄の危険あり」と厄介払いされた者ばかりだったということです。

つまり、いかにここを脱獄するのが難しかったか、ということなのですが、その理由は、周りを取り囲む海の「温度の冷たさ」「潮流の速さ」にありました。

ケビン・ベーコンが囚人役をした「告発」という映画では、当時の囚人が非人道的な扱いをされていたという風に描かれていましたが、この刑務所では、収監者を虐待していたという事実はなく、例えば当時他の刑務所ではありえない温水のシャワーを収監者に使わせていたということです。

しかし、その最大の理由は決して囚人のためを思ってのことではなく「温水に慣れた身体で冷たい海に飛び込んでもほとんど助からない」というメッセージを暗に囚人に送るためだったとも言われています。

ある囚人は海に流され、ゴールデンゲートブリッジの橋脚で目撃されていますが、そこで力尽きそのまま刑務所に逆戻り。
また、途中であまりの辛さにあきらめ、泳いで戻った人もいたそうです。
懲罰房に入ることになっても刑務所の方がまし、と思えるほど過酷な海だったのでしょう。
囚人にとっても死んでは元も子もないわけですからね。


それでも14回の脱獄事件が起き、それに関与した受刑者は36人。
(うち2人は2回脱走を試みた者)。このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死しました。
5人は行方不明ですが、溺死したものと推測されています。
つまり脱獄に成功した囚人は一人もいないということです。
「風の強い日はクリスマスを祝うパーティの歓声が風に乗って聴こえた」
というくらい、すぐそこに手を伸ばせば届く距離に自由があるにもかかわらず、です。

最も有名な三人の脱獄者が使った「自分のダミー」。
こうして見ると気持ち悪いですが、よくこの収監生活の中でこんなものが作れたものです。
看守はすっかり人間だと思っていたので、首がポロリと落ちたときすさまじい叫び声が監房に響き渡ったということです。
パイプに隠した金属で夜中に少しずつ掘り続けたという穴。

島から脱出するのには成功しましたが、三人の浮輪らしきものが見つかったきりで、遺体も発見されませんでした。
これが行方不明5人のうち3人に数えられます。
しかし、遺体が見つかっていないということは、生きていた可能性もあるわけですよね。
この事件をモデルにした映画にクリント・イーストウッド主演の「アルカトラズからの脱出」があります。



アルカトラズでは死刑は執行されたことはありません。
しかし、自殺は五件、殺人事件は八件ありました。
その中で最大のものは前述のものですが、食堂でナイフとフォークを使ってといったものもあったそうです。

食堂と檻で仕切られたキッチン。
ここでは包丁を使うのですから、料理人はいつもピリピリしていたでしょう。

巷間「残酷すぎて人道的に非難されたため」という話もあるようですが、閉鎖の本当の原因は維持費が膨張し財政的に支えきれなくなったからだということです。
時の司法長官、ロバート・F・ケネディの命によって、アルカトラズは1963年最後の囚人を送り出し、刑務所島としての役目を終えました。








最悪のシナリオシリーズ~サンフランシスコ版

2010-08-08 | アメリカ

面白い本を見つけたのでご紹介。
赤い本は昔からあったもので、

THE WORST-CASE SCENARIO
Survival Handbook:TRAVEL

というもの。
「高層ホテルの火事から生還する」
「飛行機事故にあったときには」
というまともなものから

「屋根から屋根へジャンプする」
「崖から半分墜ちかけている車から脱出する」
「車のトランクにとじこめられたとき」

という、一生に一回遭遇するかどうか?というような知識までを網羅したハンドブックで、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからないものなのですが、何故かこのシリーズの「サンフランシスコ版」を見つけたので、同時に購入しました。

どこ最悪のケースなんだかわかりませんが、真剣にヘンなことを書いているので結構笑えます。
この内容をご紹介。


夏暖かく過ごすには
この絵は「ビーチでの正しいスタイル」。
「タンクトップ、Tシャツ、長そでシャツ、セーター、秋用コートを、天気予報に従って重ね着すること。冬用オーバーがあってもいいでしょう」
「使い捨てカイロをポケットと靴に入れること」
「バーベキューや焚火のときはできるだけ火のそばに」
「温まるためにワンセットうさぎ跳び10回、腕立て伏せ10回を気温に応じて何セットかする」

走っているケーブルカーの止め方
いやこれね・・・。
「横を走り、グリップをつかみ、飛び乗り、フットブレーキを踏み、非常用ブレーキを引っ張り」
これがくどくどと説明してあるのですが、さて、ケーブルカー、止めました。

それからどうします?

ただちにケーブルカーから逃げる。

そもそも何のために止めるんだ。

あとは、霧の中の運転法とか、坂道での縦列駐車の仕方など、まあ、初めて来る人には役に立つかもしれないという情報もちりばめてあるのが泣かせます。
「地震が起こったら」っていうのもありました。
先日ここにきて初めてグラっときましたよ。住んでいたときも、その後も感じたことがなかったので少しびっくり。
日本ほどの頻度ではないようですね。

それにしても、


アルカトラズから脱出する
とか、

フィッシャーマンズワーフでアザラシに襲われたらとか・・。
答は『大きな音を出すと逃げるので、ストリートミュージシャンの楽器を奪い、鳴らす』
もしくは「新鮮なシーフードを投げる。カニなどがよい。サワドーボール(パンをくりぬいたもの)入りのクラムチャウダー(サンフランシスコ名物)はあまり効果なし」

何が最悪のシナリオなんだかわかりませんが、
スシをどうやって食べるか
ってのがありまして。これ全部ご紹介。

「レストランに入ったら案内してくれるウェイターに目であいさつする。深々とお辞儀する必要は無い」
「カウンターに座る」
「わからなくても『オマカセ』といえば何か出てくる」
「飲み物やサイドディッシュのオーダーをイタマエにしてはならない」
「イタマエに包丁のジャグリングやタマネギに火をつけるパフォーマンスを頼んではいけない」
(ベニハナというテッパンヤキではこれが売り物)
「箸を使って食べるが、ニギリは手で食べてもよい」
「小皿に少しだけの醤油を使うこと。
醤油を多く入れすぎて、コースの途中で醤油の中にご飯や刺身を落として紛失してしまったときはウェイターに頼むこと」
「イタマエがスシにワサビを付けたときにはそれ以上使わないこと」
「ガリは寿司と寿司の間に口をフレッシュにするために食す。決して寿司と一緒に食べないこと」
「もし寿司カウンターに座ったら、寿司や刺身を残すことは非常に失礼な行為なので残さず食べること」
「食べ終わったら箸はまっすぐ揃えて置く。まかり間違っても残ったご飯に差して出てきてはいけない」

まあ、サンフランシスコにあるすし屋のほとんどは中国人や韓国人のやっている店なので、イタマエがそもそも何も分かってないかと思われますが。
ちなみにメトレオンの「三楽」とインターコンチの「京屋」は本物。

最後に
この事故、実は先週、目の前で起こりました。
中国系の女性が下り坂の道路に止めた車のドアをいきなり開け、スポーツ仕様の自転車でかっ飛んできた女性が激突。
どこの都市にもある事故ですが、これがサンフランシスコでは特に怖いのです。
その事故も下り坂を自転車が降りてきていたので、はずみで自転車から女性が投げ出されていました。
まさに最悪のシナリオ通りだったわけです。

あとは「ユニオンスクエアでのバーゲンでサバイバルする」とか、「ゴールデンゲートブリッジの下でウィンドサーフィンする」とか。
つまり、ほとんどは「最悪のシナリオ」を装ったサンフランシスコ観光ガイドってことですね。

オッペンハイマーの遺産

2010-08-06 | アメリカ

すごいタイトルですが、息子のサマーキャンプの話からお付き合いください。

サンフランシスコの生活も終盤に入り、息子のサマーキャンプは最終地となりました。
ボストンで身体を鍛え、ここについてコンピュータ三昧、そして最後は「科学の子」。
科学博物館の主催する「科学キャンプ」です。

ウォーキングコースの写真に写っているオレンジ色のドームの敷地内にそれはあります。
この建物はサンフランシスコの歴史的建造物で、Palace of Fine Arts といいます。1915年に博覧会のために建てられたそうですが、我が家では単に「つるっぱげ」と呼んでいます。

いつ見ても「ヘン・・」と思う装飾。全部の角に女性が突っ伏しています。
只今修復工事中。
エクスプロラトリウム。
それがこの科学館の名前。
探検家のことをを「エクスプローラー」と言いますが、それと「オーディトリウム」(体育館のようなコンサートもできる建物)の合成語です。


この科学館「世界で最も優れた科学館」の一つ、と言われています。
古い建物をそのまま利用し、いつ行っても暗い体育館の中のような古臭い照明ですが、展示物は膨大で、何回行っても同じものがありません。

この展示フロアの一角にサマーキャンプの教室があり、一日中、何かを作ったり、観察したり、発表したり、ということをします。
今3日目が終了したところなのですが、息子は何かを作ったということより、ランチのときにブリッジの見える海岸(私の散歩コース)で海に足をつける方が楽しいようです。
毎日着替えを砂だらけのびしょびしょにして持って帰ります。

まあいいけどさ。

今日は4時にピックアップに行った後、閉館までの一時間館内見学をしました。
住んでいたときからもう何十回となく訪れていますが。


左はこの煙の周りを三人で輪になって歩くと、さて、どうなるでしょうというもの。

右のテニスラケットの様なものは、両側から手のひらで挟んですりすりすると、まるで自分の手が「ベルベットのように」感じる、というもので、どこが科学的なんだか分りませんが、科学的な説明がしてあります。確かに不思議な感覚で、面白かった。
コロンブスの卵って感じです。

こういう生物学的ジャンルのものもあります。あまりの気持ち悪さに撮ってしまった・・。


さて、今日は8月6日。
史上初めて核が人類に対して使用された日から65年目です。


実はこの科学館エクスプロラトリウムは、オッペンハイマー基金でできています。
オッペンハイマー。
日本人にとってそれは特別の名前です。
ロスアラモス研究所初代所長。マンハッタン計画における原子爆弾の開発者。
「原爆の父」。


オッペンハイマー博士は当初世界に「使用不可能な最終兵器」を見せる事により戦争を無意味にしようと考えていたそうです。しかし、アメリカによってそれが人類に使用され、その惨状が伝えられると絶望し、やがて、核兵器開発に否定的になり、ロスアラモス研究所を辞任に追い込まれ、一切の公職を追われることになります。


そして「科学者は罪を知った」と語り、また原子爆弾の開発者である自分自身を『われは死神なり、世界の破壊者なり』となぞらえた悔恨の言葉を残しています。(これはヒンズー教の教典『バガヴァッド ギーター(神の歌)』から引用されている)


この科学館は博士の死後、弟のフランクによって設立されました。
生前のオッペンハイマーは、湯川秀樹博士をはじめ、日本の学者が戦後アメリカで研究できるよう尽力したということです。
博士が生きていれば、許されないことではあってもその基金で地球上でたった一つの被爆国となった日本に対して何か為したいと考えていたかも知れない、と考えるのは私が日本人だからでしょうか。

人類に火を与えたが故に、死ぬことも許されず禿げタカに内臓をついばまれ続けたたプロメテウスのように、「日本」は人類に核を与えた博士にとって重い業罰となっていたに違いありません。








映画 「The Bridge」 橋から飛ぶ人たち

2010-08-04 | 映画



先日「自殺の名所としてのゴールデンゲートブリッジ」の記事を描いた際、
「映画だかテレビだかが自殺者の映像を撮ることに成功している」と書きました。
 この話は、サンフランシスコ在住の友人に聞いたものだったのですが、記事を書いてから
気になってこのことについて調べてみました。

それは「The Bridge」という映画でした。
この映画は日本では公開されていません。
ユーチューブで9編に分けた映画を検索すれば見ることができます。


2004年、ゴールデンゲートブリッジからの飛び降り自殺者は24人。
一年間、カメラを回し続け、何人かが飛び降りる瞬間をカメラに収め、関係者や目撃者、
さらには飛び込んだが奇跡的に助かった人のインタビューをまじえて映画を作った人がいます。

楽しげな観光客をよそに一人で橋に寄りかかり、海面を見つめる何人かの映像から映画は始まります。
そのうち一人は意を決したように柵を乗り越えたと思うと、手足をばたばたさせながら落下し、
水面に激突します。
ウィンドサーフィンをしていてそれを至近距離で見ていた二人が
「なんだって自殺などするのか理解できない」という語調でそのときの様子を語ります。

つづいて、飛び降りた何人かの友人、家族のインタビューが始まり、この映画の「主役」であるところの
不気味なくらい美しいゴールデンブリッジの映像と、橋の上で飛び降りる決心をするまでの
何人かの映像が繰り返されます。

通行人に見つかり、あわてて橋から手すりの外に転がり落ち、そのまま飛び降りる人。

その直前まで携帯電話で誰かと話し、その会話の途中で大きく体をのけぞらして笑っていたのに、
電話を切るなりサングラスと携帯を地面に置き、手すりに腰をかけ、十字を切り、
そのままの姿勢で落下していく人。

至近距離からではなく、ブリッジの遠景に飛び込む飛沫と水音だけで最後が記録された人もいます。



「本当に普通だったけど、あるときから偏執的だと言われるようになって」
「いつも黒ばかり着て、手袋をしていた」

とリサの家族は言い、
「全て黒だったわ。髪も黒、服も黒・・・」
とジーンの友人は語ります。

いずれも自殺者が自殺に至るまでの何らかの理由を、自分の知る情報の中から彼らなりに探りつつ、
そのエピソードが語られるのです。

最後のときも黒い長髪、黒の革ジャンパーに黒いジーンズ、「全て黒」をまとっていたジーンは、
長時間の逡巡の末、橋の手すりにまっすぐ立ちあがるとそのまま後ろに倒れるように落下していきます。




この映画が公開になったとき、当然激しい非難の声が制作者に寄せられました。
長時間そこに佇む人間がいれば、いかに他人に無関心で触らぬ神にたたりなしを決め込むアメリカ人も
それを防ぐために声をかけたり警察を呼んだりします。

現に、このフィルムで実際手すりの外に踏み出した若い女性がいたのですが、たまたまそこで
撮影をしていたプロのカメラマンが(飛び降りる直前ためらう彼女にシャッターを切ってから)
彼女を引きずり上げています。

その後彼女はどうなったと思いますか?

警察が来たと思うと、押さえつけられ、後ろ手に手錠をかけられ・・・・
彼女は犯罪者として連行されてしまったのです。
そう、自殺は「犯罪」(クリミナル)なのですから。
他にも一人、通報されたのか、たたずんでいるだけで手錠をかけられた女性がいました。

ここに映されている何人かは、通報すればそれが防げたはずだ、というのが
主な非難の内容だったようですが、本当にそうでしょうか。

確かにこの映画の撮り手は自殺者の苦悩を彼らが橋に佇んだときから予測しており、
飛び込むこと明らかに「期待して」カメラを回しています。
それを非難する声があるのは当然のことでしょう。

しかし、通報して彼らを「自殺志望者」から「犯罪者」に変えることは、自殺を大罪とする宗教の教えには
背かないでしょうが、彼らがおそらくそれを望まない以上、それは「誰のために」「何のために」
なされる行為なのでしょうか。
彼らを失うことによって哀しむ家族や知人のため?

飛び降りる前に近くにいた家族に微笑みかけたというリサ。
橋に腰かけ暫く海を見つめていたフィル。
「飛び降りるのを止めたところで、結局彼女が死ぬのを止められたとは思わない」
「色々やったけど結局何も彼の決心を変えることはできなかった」

彼らの家族は異口同音にこう語ります。





何故、死ぬのに年中人通りが絶えることのないブリッジの、それも昼間衆目の中を選ぶのか。

一人、橋げたまで下りたものの、周りの通行人何人かに見つかり、彼らと会話を交わすうちに泣きだし、
思い直して自ら手すりを乗り越えて「帰ってくる」人がいます。
やはり、何人かは「何かに引き留められたがって」その心理がブリッジを選ばせたのだろう、と思えます。

しかし、やはり大半の人は人ごみの中の一瞬の空白をつくようにして
誰も見ていない瞬間に飛び降りるのです。
これはいかなる心理によるものなのでしょうか。
 その答えはおそらく「ジャンパー」の知人家族が語るように
「本人でないとわからない」のでしょう。

何時間もの逡巡の末、わざわざ至近距離に二人の女性がいるときに橋の手すりにすっくと立ち、
文字通り映画の一シーンのような最後をフィルムに刻んだジーン。
彼の最後にその心理の一端を見るような気がします。

自分の生の終焉を誰かに確認してほしい。
どんな形でもいい、このように死んでいったと、語ってくれる誰かに。


完全な孤独の中で逝きたくないというのは死んでいくものの最後のこの世に対する執着の一種でしょうか。
だとしたら、その最後を記録にとどめられ、人々が自分の死に往く姿を今日も目にしているというのは
彼らの意にかなうことなのでしょうか。

ジーンは、身体をまっすぐにしたまま落下していく途中で胸においていた手を十字架のように広げます。
人生最後の一秒間、最後まではずさなかった黒いサングラスが外れて飛んでいったそのとき、
彼の見た光の色はどんなものだったのでしょうか。

ブリッジの上のジーンから
「そのときが来たんだ。さようなら」と電話を受けたという友人が最後に語ります。


「何故彼が『ブリッジ』を選んだのか・・。
私にはわかりません。
彼は、苦痛から逃れるための苦痛を選んだのだと思います。

多分・・彼はただ、一度空を飛んでみたかったのでしょう」




卑怯者

2010-08-02 | つれづれなるままに


拝啓 千葉景子法務大臣殿


千葉法務大臣殿。
遅くなりましたが、法務大臣の続投が決まられたとのこと、おめでとうございます。


あなたが先般の参議院選挙の落選において国民の信任を受けなかったという結果にもかかわらず、民間人の大臣登用を合法とする政府与党の屁理屈により大臣の席を立たずにすんだということ、おそらくこれが最後の国政参加になると思われるあなた様のキャリアにとってはきっと喜ばしいことなのだと存じます。

確かに民間人が入閣する例は少なくありませんが、それはあくまでも民間人としての知識と経験を大臣として生かしうる人材であると判断された場合であり、今まで落選した人間が法相に留まるなどということは前代未聞のこと。

しかし、学生時代過激派学生闘士として火炎瓶を投げていたというあなたの華々しい左翼歴に、これで「日本初」の「革命的な」肩書がつくわけです。
誠に慶賀に堪えぬこととお喜び申し上げる次第です。

さて、あなたが在任中に「何も仕事をしなかった」とは保守論陣の言ですが、そんなことはない、と私は異を唱えるものです。

あなたは法務大臣として
「日本に長年定着し、罪を犯したりすることなく一生懸命働き、家族も日本がふるさとのようになっている人に『帰りなさい』というのはねえ。日本社会もそういうみなさんの力で成り立っている。少子化などもあり、日本に寄与して地域の一員になっているみなさんに温かい目を向けていく方向にしていきたい」と産経新聞のインタビューに答え、不法入国やオーバースティは犯罪ではないとの考えを明らかにしておられます。

そして、2009年10月9日、最高裁判所から中国残留孤児と血縁関係がないと判断され、大阪入国管理局から国外退去を命じられていた姉妹に対して、法務大臣の権限で在留特別許可を認めています。

さすがは「日の丸、君が代法案」の成立に反対票を投じ、また、出入国・在留管理を強化し、テロリストや不法入国などのブラックリストに符合した外国人を直ちに強制退去させる出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律案に反対してこられた「信念の反日政治家」「日本人を除く全ての国民の生活を第一にする政治家」であります。

在任中、職務を放棄して死刑の執行命令書に一度も判を押さず、さらに国会での野党の様々な追及にものらりくらりと言を左右にしてごまかすことしかしなかったあなたですが、日本を解体させるというその一事に関しては実に熱心に職務を超えて働いておられたことを私は知っています。


しかし、千葉法務大臣殿。
あなたには全くがっかりさせられました。

あなたは議員権限の切れるぎりぎりの日付をもって死刑命令書にサインをし、その結果執行された死刑に立ち会われたそうですね。

か弱い女性の身でありながら、自分の命によって執行された刑に真っ向から向き合われた勇気と使命感には心から称賛をおくるものです。
しかし、問題は、あなたが選挙によってその任にあったときではなく、落選という結果を突き付けられてから死刑執行をした、という事実です。

さらに問題なのは、あなたがその政治家としての信念を党利党略と保身のために簡単に覆したことにあります。

あなたはもともと「死刑廃止を推進する議員連盟」に所属し、法相就任後の法務委員会にて「死刑制度がなくなることが好ましい」と死刑制度には強い反対の姿勢を表明しておられますね。

そのような考えの政治家を法相に任命する現在の政府与党の異常さはここではさておきますが、あなたの政治信念とは落選後も閣内にとどまるという批判をかわすためなら簡単に転向できる程度のものだったのですか?
さらに言えば、あなたが国民の信任を受けなかったのは「自分が死刑をしなかったから」とでも思っておられるのですか?

議員だったときには一切職責を放棄しておきながら、民間人になってから死刑執行、というこの異常事態を何とも思っておられないのなら、私はあなたの愚鈍さに驚きいるしかありません。

あの阪神大震災が、社会党政権下で起きたが故にいたずらに死者の数を増やしたように、あなた方左派の方々の方が、命というものを思想のためには誠に軽く切り捨てるものだということを、私はあのとき被災地に住んでいたものの一人として断言することができます。

あなた方の言う人権とか命の尊さとは、その価値を政治家の都合でいくらでも軽減できる程度のものなのですからね。


あなたをとどまらせ、一か八かで「キムヒョンヒ元死刑囚」を国賓待遇で日本に呼んだ政府は、もし批判が起きたときも9月になれば交代させるつもりのあなたに責任を押し付けるつもりだったのでしょうか。
総理大臣に何と言われたかは存じませんが、まさに使い捨てとはこのことですね。
まあ、結果はご存知の通り、国民の反感を買っただけで終わり、民主に優しいマスコミの庇護のお蔭であの愚行がそれほどの問題にならなかったことはあなたのためにも喜ばしいことであったと存じます。



あなたは一度辞意を表明されていますが、政府の思惑にかかわらずあのとき辞めておけば、晩節を必要以上に汚す結果にはならなかったのではないかと思うのですが、いまさら言っても詮ないことでしたね。お聞き流しください。


私はあなたとは全く思想を異にする保守思想の持ち主で、死刑制度の存続には賛成ですが、勿論全ての人間が同じ思想である必要は無いと思っています。あなたがあくまでその思想を貫けば、それはそれでひとつの生き方と言えましたのに、今回の変節ぶりは実に慙愧の念に堪えません。

死刑容認派からは、どうして今まで執行しなかったのかと批判されて、死刑反対派からは、今まで執行しなかったのにどうして今更と批判される。

左派から見ると保身のために思想を翻した裏切り者であり、右派から見ると不信任を突き付けられてから慌てて職務を果たしてみせる日和見主義者にしか見えない。

あなたのような人間を動物に例えるときっと「寓話における蝙蝠」なのでしょう。
そして、鳥からも獣からも糾弾される今となっては、あなたの居場所はどこにも無くなったことにあなたは気づいておられるのでしょうか。


あと一か月余りの任期を務め、恙無く引退された後は、悠々自適の著作生活にでも入られるおつもりでしょうか。
そのあかつきには死刑制度がいかに残酷なものか、ご自分の目で確かめた経験が著述の役に立つかもしれませんね。
そこまで見通して体験のために立会いをされたのでは?と言うのは、勿論下種の勘ぐりでしょう。

もしあなたのご著書、仮題「死刑制度の撤廃にかけた四半世紀~死刑囚(かれら)の声を忘れない」
などというご本がブックオフの店頭に並ぶ日には、真っ先に購入して読ませていただく所存です。

それでは残り少ない政治家人生を、御身大切にお過ごしください。
特に、暗い夜道の一人歩きの際には特に気をつけられんことを切にお願いしてこの手紙を終えさせていただきます。

敬具