前年、初めての大みそかにネイビーギャラリーを掲載し、早一年。
こんなに激動の年はかつてなかったのではないかと思われるほど、激動の一年でした。
この一年を一言で表すことなどとても不可能なことに思われます。
ですが、あえてそれを回文(なぜ回文)で一つだけ挙げるとすれば
「保安院全員アホ」
ついでに
「だんしがしんだ」 <(_ _)>
震災後しばらくブログを閉じていたり、その後毎日の掲載を隔日にしたため、
去年ほどの画像がたまったわけではありませんが、恒例行事としてまた今年もやります。
お約束、笹井醇一少佐から。
この「撃墜機の前のラバウルでの写真」は、
まだ鉛筆下書きの上に彩色する形で陰影を付けていた時代に一度描きました。
「笹井中尉の言ったこと」
という稿の挿絵だったのですが、秋頃なんとなくツールで描き直しました。
「自分の撃墜した」という説明を見たことがあるのですが、自分のかどうかはさすがに分からないのでは。
このあたりも高城肇氏の創作、かなあ。
それにしても、笹井中尉、シャツの袖が短くありませんか。
こうやって細部を描けるようになって「短かったのね」と分かるようになりましたが、
前の手法だと「単にデッサン狂ってるだけ」と思われていたんだろうなあ。
兵学校時代の笹井学生と同分隊の仲間。
これはツールを買う前で、中指を駆使して描いた最後の力作です。
兵学校の教室の窓べ。
このころは窓枠が御覧のように木ですが、現在のこの校舎の窓は全面アルミサッシに変わっています。
左から3番目の田中一郎氏とは「親友」とも呼べる間柄だったようです。
去年アップしたこの写真には、右側に人がおり、右肩に手をかけています。
この写真が「ラバウルで最後の出撃直前に撮った写真」などという大嘘が、
まことしやかに流れているのを見たことがありますが、となりの人物がばっちり写った写真を見れば、
それは上の写真にも見られる田中一郎氏ではありませぬか。
つまり霞空の練習生(少尉)時代、ということですね。
だいたい、当時のラバウルで笹井中尉の肩に手をかけて写真を撮るような階級の人物がいたかどうか?
(8月26日には台南空の笹井中尉の同期は木塚中尉だけになっていたが、着任していたかどうかは不明)
そうか。こうやって誰かの思い込みが伝播されていつのまにか既成事実になっていくと・・・・。
さて、それでは掲載順に行きましょう。「小川清の時計」小川清少尉。
はて、これ見たことあったっけ、と思われた方、あなたは正しい。
バンカーヒルにに特攻突入して散華した小川清少尉について書いた
「小川清の時計」という稿に載せた肖像があまりにあまりなので、描き直したものです。
早稲田大学の校章の付いた帽子にノートを持ち、ツタの絡まる大学構内でポーズする小川清。
「デンジャーズ・アワー」では「いつも楽しいことを企んでいるような生き生きした眼の持ち主」
と評されています。「嶋田大将の最後の戦い」
東京裁判で証言台に座る嶋田海軍大将。
「東京裁判オタク」であった昔はあまり注目していなかった嶋田大将ですが、
その後海軍に興味を持ちブログを始める運びとなり、あらためてその立場から語ってみました。
おかげで、何か新しい視点が得られたような気がします。「林谷中尉の恋人」海軍兵学校67期、林谷忠中尉。
おそらく、林谷中尉について語ったものは、回想録を除いて初めてではなかったかと思います。
「トンちゃん」と言うあだ名の心優しい海軍士官。
子供が大好きで停泊地では艦に子供を招待するほどだったそうです。
「同期の桜」海軍兵学校67期、宮嶋巌大尉。
白皙のこの青年は、戦死することはなかったのですが、
終戦の一年半後、わずか28歳で肺結核のため命を落としました。
「同期の桜」であった上村貞蔵大尉に見取られての最後でした。「軍神の床屋さん」
海軍兵学校67期、古野繁實海軍少佐。
中尉から、真珠湾攻撃の軍神と称えられ、二階級特進しました。
これについて述べている本もあり、また旧兵学校見学のときも解説者がおっしゃっていましたが、
見事にこの「軍神たち」の出身地は、日本の津々浦々にほとんどまんべんなく分かれています。
軍神の物語をより演出するために、地方出身の若者をわざわざ集めたという話は本当でしょうか。
NHKの捏造ドラマ「真珠湾からの帰還」の放映後、この項にアクセスが集中しました。
好きなエピソードですが、ほとんど一度アップしてから見られることも無かったこの話が、
こんな形でも見てくださった方が多かったようで、その件に関してだけNHKに感謝しています。「荒木俊士大尉」
海軍兵学校67期。
靖国神社に行くと、いつもつい天文台に眼をやります。
荒木大尉はその昔、この神社の前を通って九段中学に通っていました。
九段から見た星空は、荒木少年の心に何を残したのでしょうか。
豪快で、自分にも人にも厳しく、部下に慕われた隊長でした。「川真田中尉の短ジャケット」
こんな青年がいたということを、実に生き生きと感じさせてくれるような闊達な表情を、
いつもカメラに向けている川真田中尉。
初めてツールが届いて最初に描いた肖像です。
倍率を高くして画素を細かくしたので、アップと半身像がどちらもできました。
しばらく半身像を何となくデスクトップに入れていたのですが、何かの時に知り合いに見られ、
「・・・・・・(何なのか、誰なのか聴きたいけど聴いてはいけないかもしれないので聞かない)」
という空気が流れました。
いっそ、聴いてほしかった・・・・。「草鹿長官の乾杯」
草鹿任一海軍中将。
前後しますが、これは中指の作品です。
描いた順にアップしているわけではないので、こういうことが起こります。
草鹿中将は、兵学校の生徒から「任ちゃん」と慕われたように、人情家で、アツい性格でした。
戦犯指名にも全く言い訳をせず、全て部下の責任を自分が負うという態度に徹したため、
連合軍からは高潔な人物として評価が高かったと言われています。
さらに、戦後、この日のブログで述べたように困窮の生活を余儀なくされながらも、
ラバウルで苦楽を共にした部下のことをいつまでも案じ、復員局に足しげく通っては、
彼らの消息を気にかけていたということです。
同期の井上大将とは随分仲が悪かったようですが(笑)、大将が戦後やはり清貧生活のため倒れたときは、
その治療費集めに奔走するという厚情を見せています。
このひと、やっぱり好きだなあ。母艦パイロットの着艦訓練」
「機種決定」
海軍兵学校66期、日高盛康少佐。
母艦パイロットについていろいろと日高少佐の記述をもとに書かせていただきました。
お歳を召されても戦時中のことは級友の出身、どこで戦没したか、全て明確に記憶しておられたそうです。
「ヤフー知恵袋」で(笑)隊長としての日高少佐の采配にあれこれと言っているのを見つけました。
(興味がおありの方は検索してみてください)
そう言ったことについても沈黙の海軍軍人は戦後「人嫌い」と称されるほど、弁明をせず、
何も語ろうとはしませんでした。
その時の海軍内の命令系統や、それまでの海戦の流れを全て語らずして、
ただ一見失敗に見える少佐の采配を語るのは全く以てナンセンス、とだけ、
個人的な意見を言わせていただきます。「母艦パイロットの着艦訓練」
母艦乗りの有名人、菊地哲生上飛曹、いや、飛曹長。
「エース本」などにも顔を出しているように、乗るのも一苦労の巨体でいざ戦闘機上の人となると、
軽やかで繊細な飛行技術で機を駆って活躍したそうです。
上記日高少佐とは隼鷹乗り組時代の部下の関係でした。
昇進を勧めたの日高氏ですが、菊地飛曹長は生前それを断り続けました。
あくまでも実戦第一、準士官という立場に「合わないもの」を感じていたのでしょうか。
「クラスヘッド・モグ」
海軍兵学校66期、坂井知行少佐。
この天才的頭脳の青年の私服姿の写真を見たことがあります。
眼に力強い知性の輝きがありありと現れた、ただものでない感じが、
クラスメートとふざけているにもかかわらず漂っていました。
同期の藤田怡与蔵少佐も、戦後折に触れて彼の死を惜しんでいたそうです。「私の好きなネイビー」
海軍兵学校68期、大野竹好中尉。
これも去年の記事ですが、大野中尉の絵だけ描き直しました。
ツールが来てから、中指とお絵かきツールではとても満足に描けず気になっていた絵を、
いくつか(と言うか現在進行形で)描き直しています。
弘法は筆を選ばずといいますが、そもそもそれまで「筆」でもなかったという・・・。
今年の始めに購入し、やっと最近ツールの機能を把握できたかなと言う感じです。
ただし、まだ試していないタッチや機能もいっぱいあるので、これからのお楽しみ。
絵を描いていると時間を忘れるのは子供の時から同じですが、
最近は一作(だいたい平均2時間くらい)仕上げるたびに肩が石のように固くなって・・・・・。
歳には勝てないってことなんでしょうが、当面の課題は姿勢を何とかしなくちゃ、です。
ご存じ鴛渕孝大尉の有名な写真。
鴛渕大尉は、ラバウルに行っていることになっているわりには写真にも映っておらず、
台南空で坂井三郎の薫陶を受けたなどという説もありますが、台南空の行動調書には、
鴛渕の「お」の字もありません。
おそらくこれは豊田穣氏が「蒼空の器」「続・蒼空の器」を書いたときに創作したのが、
なんとなくみんなに事実として勘違いされたっぽいと思っています。
・・・じゃ、どこにいたんでしょう。鴛渕大尉。
この人の団体写真に写っているのって、見たことあります?
部下と映っている写真を1枚、一人で写っている写真を、
今までこれを入れて4枚見たことがありますが、
343部隊で有名な割にそれまでの所属がはっきりしていないのは何故なんでしょうか。
・・・もしかしたらこれ、豊田氏のせい?
そうだったらクラスメートの戦歴を混乱させるなよ、とつい突っ込んでみる。
その鴛渕大尉の絵です。
初期のことゆえかなりお絵かきツールの肖像がひどかったので、一応描き直しました。
ところが自分で絵に対して突っ込んだ文章が邪魔になり、この絵に替えることができません。
でもまあ、せっかく描いたので一応ここで発表しておこーっと、ということで挙げてみました。
去年の「ネイビー・ギャラリー」を見ていただくと分かりますが、今年は格段に絵がましになっています。
(当社比)
「中指ではなくペンで絵を書くようになった」という、
そう、類人猿が直立歩行で歩行するようになったくらいの、描き方の進化があったからです。
この進化過程においてはリングはミッシング(紛失)されていず、
二本脚に移行する瞬間のきっかけになったのがペン・タブレットだと言われています。
直立歩行以降、変化は緩やかになりましたが、それでも少しずつ進化は続けていますので、
来年もぜひ長い目で見守ってやってくださいまし。