「昔バスケットボールやっていました」
男性ならともかく、女性がこう言うと、なんていっていいのか分からない曖昧な表情をされるので
聴かれでもしない限り公言したことはありませんが、バスケットボール部出身です。
「アメリカンフットボール以外は何でもできた」と豪語する(今にして思えば鉄板ウソ)
自称スポーツ万能の父親の「我が家の人間はすべからく文武両道たるべし」という宣託のもと、
スイミングクラブに通わされて、水泳はかなり得意、かつ走るのも速かったのですが、
個人競技である陸上部や水泳部を選ばず、団体競技であるバスケットボールを選んだのは、
負けても自分のせいではないと言える団体競技だから。
負けず嫌いというよりは「負けるのが嫌い」であったため、本能的に「結果が分かりやすい」
スポーツはやめよう、と計算をしたものと思われます。
因みにこんなわたしはいまだに「勝負事」が嫌いで、トランプすらしません。
「不愉快になるような可能性のあることはできるだけ避ける」
というのが現在のわたしの座右の銘ですが(つまんない座右の銘ですみません)、
この頃から既にこの傾向は萌芽としてあらわれていたといえましょう。
さて、延々と前置きしましたが、バスケ部では、右45度の脚を生かしたカットインプレーヤー
として、不動のスタメンとなり、我が市では常勝チームの一員として勝利に寄与しました。
ただし。
それは市内だけのこと。
ご存じないと思いますが、関西の中学女子バスケ界には
「学区地域における住宅地の専有面積とバスケットボール部の強さは反比例する」
という黄金の法則があり(比較的高級な)住宅地ばかりの我が市内では無敵を誇った我が校も、
一歩弱肉強食の阪神大会に出たとたん、N区やA市あたりから来たやたら目つきの鋭いチームに
一回戦で手もなくひねられてしまう、という井の中の蛙に過ぎなかったのです。
ともあれ、夢中になって過ごした二年半。
たった二年半のバスケットボール生活だったのですが、集中して一つのスポーツに打ち込むと
一生残るほどの強烈な濃縮した思い出となって残るものです。
このころ身につけた技術も、そう簡単に忘れるものではなく、大学の体育の時間などに
「まだまだ現役?」
と自画自賛してしまうくらい動きもよく、また、試合をしている夢などもよく見たものです。
以来幾星霜、バスケットボールとは全く縁のない生活をしていました。
ところで、朝散歩する公園に、バスケットゴールがあります。
ときどき練習をしている人や、春休みに小学生が皆で遊んでいるのを見るたび、
「ボール買おうかなあ」
と思いながら通り過ぎる毎日。
しかし家に帰ればすっかり忘れてしまうのと、わざわざボールを買いに行くほどの熱意もなく、
ずるずると年月が経ってしまったのですが、ある日、
面倒な買い物は全てアマゾンで済ませることができる!いわんやバスケットボールをや。
ということに気づき、クリック。数分後には、女子用の公式ボールを購入完了していたのです。
届いたボールを、翌日うきうきとドリブルしながらいざコートへ。
ここのコートは、片面式で、大小二種類あります。
ところが。
いざシュートしてみて愕然。
頭の中ではあんなにくっきりしていた動きのイメージに身体が全く付いてこない。
シュートすれどもすれども、思っている場所に、思った角度で飛ばない。
「これはつまり、体のコアに身体を支える筋肉が全く無くなってしまったということだな」
昔は一ミクロンもしなかったこのような「分析」だけは、めまぐるしく脳裏をよぎるのですが、
いかんせん身体がついて来ない。
最初の10分は、ゴールポストに届かないシュートなどを連発。
ふと気づけは二時間、結構日差しの強いコートで、夢中で走り回っておりました。
しんどい運動は一切お断り、いわんや息を切らせて走り回る運動をや、が座右の銘であった
(略)このわたしがですよ。
次の日。
全身の倦怠感と筋肉痛で体がぎくしゃくしていましたが、それを押してまたしても出撃。
しかし、この頃から次第に身体がイメージに追いついてきて、かなり思った通りにボールを
コントロールすることができてきました。
そして今日、6日目。
ロングシュートがかなりの確率で決まり、さらにアンダースローのランニングシュートは
ほぼ百発百中位になってきたわけですが、一つ問題が。
下半身、ことに膝が往年とは違ってかなり弱体化しているため、ジャンプが低い。
つまり、体が重いのは一向に改善せず。
これは一週間やそこらでは無理かもしれませんね。
日頃こまめに身体を動かしているつもりでも、10代の頃の自分とは勝負になりません。
わたしはシュートのとき左足で踏み切るのですが、その左のひざの裏の痛み(炎症?)が、
いつまでも消えないので、日常生活にまで若干不便をきたしている有様。
でも、昔取った杵柄は、思い出すのも結構早いことがわかりました。
夏までに頑張って感覚を取り戻すぞ。
コートの端に置いていたキャップにお客さんあり。
昭和60年8月、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落しました。
このとき、御巣鷹山のある群馬県上野村の村長であった黒澤丈夫氏が、
かつて海軍士官搭乗員として零式艦上戦闘機に乗っていたということが、
いろんな媒体で報道されました。
この史上最悪の飛行機事故が、飛行機乗りであった黒澤氏に取って
どう捉えられているか、マスコミはその点に注目し、
インタビューをした媒体も多かったようです。
「飛行機を操縦していて、操縦不能、
あるいは操縦困難だったという経験はあるか?」
この質問に対しての黒澤氏の答えはこうです。
「パイロットがですよ、操縦不能に陥るなんという事は、
死ぬ時以外は殆ど体験しないと思いますよ」
一時的にエンジンが止まるとか、細部が少し傷んだ、
というようなことはあっても、上下左右、向きを変えることが出来ない
という経験はなかった、というのです。
だからね、パイロットはもう、本当に悩み苦しんで、
おそらく何処へ降りるように出来たらいいかなというような気持ちは
お持ちになったのでしょうが、それも、
そっちに向けるわけには行かないんですからね。
それに、500人以上のお客様が乗っている。
この人たちの命を失う様な事があっては絶対にならない、
それなのに飛行機はいう事を利かない。
それは、もう本当にあれでしょうね、頭の中がカーッとしちゃって、
普通の人だったら支離滅裂になる状況だったと思いますが、しかし、
あのパイロットは冷静 にお考えになって、エンジンを使って、
それで多少なりとも飛行機の方向を思う方向に向けよう、
という努力をされてる様に記録を読ませてもらって
そういう感じを持ちますよ。
(『ラジオ深夜便』に出演した黒澤氏の発言そのまま)
事故直後から、その対応に追われた上野村ですが、
遺体の収集がひと段落した段階から、今度は犠牲者の慰霊、納骨等々の
責任を果たす実際の行動が「法律上」義務付けられることになります。
つまり、村の一般会計に葬送の費用を計上せよ、というのが
村に課せられた「現場の義務」であったということなのですが、
ここで、黒澤村長が配慮したのが、上野村出身の戦没者の立場でした。
戦没者に対する慰霊に関しては公的には何も行えない、
行ってはいけない、という実情を鑑みると、それをさておいて
日航機犠牲者の葬祭の費用を年々計上するというのは、
「村民感情としても後あと問題となってくる」
このように黒澤村長は判断し、村とは違う別の法人を作り、
そこが慰霊を行っていく、という風に計らったそうです。
黒澤丈夫氏は、91歳まで日本の現役最高齢の市長としてその任を果たし、
2011年の12月、97歳で亡くなりました。
村長として村のためにその半生を捧げた黒澤氏は、
再選10期の長きに渡りその任にあって、銅像が建てられたほど
村民の信託を受け続けた「名村長」でしたが、
政治家としての黒澤氏については、ご本人が著書をいくつか遺されているので、
興味をお持ちになった方は、是非読んでみてください。
このように、非常な「傑物」であった黒澤氏ですが、
ご自身の偉業については少し置いて。
今日わたしがこの黒澤市長、いや、元海軍少佐黒澤丈夫について書いたのは、
ただただ次の印象深い逸話を皆さんに聞いていただきたかったからです。
ちょうど、この「ラジオ深夜便」出演の頃のことではないかと思われます。
天皇皇后両陛下が、事故処理にあたった上野村関係者をねぎらうために
当地にご行幸遊ばされました。
村長として陛下に事故の経緯、説明を申し上げていたところ、
陛下は黒澤氏の顔をじっとご覧になり、
「ひょっとしてあなたは海軍大演習のとき、
戦艦日向か長門(霧島説もあり)に乗っていなかったかね?」
黒澤村長は、驚愕します。
確かに黒澤氏が海軍兵学校卒業後すぐ、少尉候補生として
その海軍大演習のとき陛下の拝謁を受けているのです。
しかし、それは黒澤氏がせいぜい二十歳そこそこの頃。
ゆうに半世紀昔のことです。
しかも、何十人が居並ぶ士官の、さらに最もひよっこである
一士官候補生の顔を、なぜ陛下が覚えておいでになったのか。
仮に若き日の黒澤氏が非常に印象的な候補生だったので
陛下は目に留められたのだとしても、二十歳の若者の面影を、
当時七十歳を超えていた黒澤氏の上に認められたとは・・・。
この天皇陛下の神のような記憶力と、陛下がかつての自分を
記憶に留めておられたことに対する黒澤氏の感激は、
いかばかりであったでしょうか。
わたしの好きな映画の傾向。
何度か申し述べてきましたが、今一度ここにその条件を挙げさせいていただきます。
「男が」
「集団、或いはグループ、或いはペアで、一人でも可」
「何かに向かって努力し邁進し」
「それを成し遂げる」
そして、
「実話ベースであることが望ましい」
その条件に、久々に当てはまる映画を見つけました。
この「英国王のスピーチ」(原題The king’s speech)です。
1930年代、イギリス。
時の国王ジョージ5世の二人の王子のうち、皇位継承権のある兄エドワードは、
アメリカ人の人妻シンプソン夫人との恋愛に身をやつし、離婚成立した彼女と結婚したいと願い、
いったん手にした王冠を捨ててしまいます。
時期王位継承権のある弟、エドワード。これが本作の主人公、ジョージ6世。
エリザベス女王の父君です。
しかしこの王子には、深刻な問題がありました。
重度の吃音症だったのです。
吃音症(Stammering symptom)は、言葉が流暢に発音できない病気の一つです。
「さ、さ、さ、さ、さかな」というように最初の文字を繰り返したり、
「さーーーーーーさ、さかな」「-----さかな」
のように、最初の文字を伸ばしたりあるいは出て来なかったり、という風です。
人口の約2・5パーセントが持っているといわれ、その原因には大きく
神経因性(聴覚性、運動性、情動性など)
心因性(ストレス、心的外傷、アレルギーなど)
脳内調節系(運動機能、平衡感覚、ホルモン性など)
があります。
このジョージ6世の場合は、幼いころのトラウマ(X脚を矯正された、女中に虐待されたなど)
が主な原因で、これは心因性にあたるものでした。
父王ジョージ5世のの代理で務めたスピーチが吃音のため散々な結果に終わり、
妻のエリザベス妃は、夫のために「口コミ」で、優秀だという噂の言語療法士を探してきます。
オーストラリア出身で、ビール製造業者の息子であるローグは、「権威」ではありませんが、
これまで多くの人々―とりわけ一次大戦の戦闘神経症にかかっている者を―治療し、
また実績をあげてきていました。
いきなりファーストネームで呼び合うことを提案され、さらには大音響でモーツアルトを
聞きながらシェイクスピアの一節を録音させられたアルバートは、怒って治療をやめ、
「二度と来ない」と宣言してローグの診察室を飛び出してしまいます。
しかし、腹立ち紛れに聞いたそのレコードには、全く吃音の無い自分の朗読が録音されていました。
そしてアルバートとローグの一風変わったトレーニングが始まります。
果たして、アルバート、いやジョージ6世は、王として、
国民に「自分のスピーチ」で語りかけることができるのか・・・・。
この、英語のspeechには、いくつかの意味があります。
日本語の「スピーチ」の意味、そして「話し方」という意味。
この映画の題名は「英国王のスピーチ」そして「英国王の話し方」という二つの意味があるのです。
国の象徴として書かれた原稿を読む、それだけの、その一見簡単そうに見えることが、
どんなにこの吃音の青年にとって乗り越えるに困難な壁であったか。
たかがスピーチですが、そのたかがスピーチをもって、ある意味国民は王の全てを知ろうとします。
たまたま王家に生まれてきたからといって、生まれながらにその者が
王の資質を持っているわけではありません。
だからこそ、王室の血をひくものは、帝王学を学ぶ・・・・・・はずなのですが・・。
それにしても史実にも残る実際のこの兄弟王子には、少し首をかしげざるをえません。
弟は、心因性が主な原因と見られる重度の吃音症。
兄は、不倫の末、王の座を捨てて女性の元に走ってしまう。
これ、「次期国王として、一体どんな教育を施したのか」
とどちらも問われそうな事案だと思いませんか。
兄のデイビッドはこう言います。
「どうして平民は愛ゆえに結婚することができるのに、僕はだめなんだ?」
弟の吃音も、そもそも彼が王位継承者でなかったら発症すらしなかったかもしれませんが、
彼が平民であれば、また、彼にとってこれほど重たい心の枷ともならなかったはずなのです。
この兄、デイビッドと、ウォリス・シンプソン夫人のロマンスについては、実にたくさんの話が、
(誉めたたえるものや罵るものにいたるまで)数多く残されています。
決して美人ではない離婚経験者のシンプソン夫人(おまけにアメリカ人)が、
「ある技術」で、エドワード8世(デイビッド)を籠落したのだ、という話も当時からあり、
その噂についてこの映画では、チャーチルがいかにも理解しがたいといった様子で
「あの女性のどこに魅力が?」と聞くと、エリザベス妃が
「知りません。でも、その技術は上海の館で身につけたとか」
とにべもなく言い放つシーンとして描かれています。
「シンプソン夫人肯定」説によると、実に彼女は生き生きとウィットに富んだ、
いわゆる「頭の回転の速い、気のきく女性」であった、ということなのですが、この映画では
アメリカ人特有の無神経ななれなれしさ、礼儀を重んじないくだけ過ぎた態度が強調され、
実に下品な女性であるかのように描かれています。
それは、王冠を捨てて彼女を選んだ兄のデイビッドの描写にも同じことが言えます。
シンプソン夫人と結婚することを咎めた弟に向かって、デイビッドは
「スピーチの練習をしているそうじゃないか。
兄弟の王位を狙うなんて、まるで中世だな」
と、しかもアルバートのどもりを真似しながらからかうように言い放ちます。
このエドワード8世が何となくサルっぽく、どう見ても品の無い顔をしており、
そしてシンプソン夫人も不必要に不細工な女優の起用、けばけばしい化粧、
さらにシャンペンの飲み方や、アゴで侍従を使う様子に悪意が感じられます。
これはどう見てもエドワード8世サイドから文句の出そうな映画的演出です。
わたしは、このアカデミー賞、ゴールデングローブ賞を総なめにしたこの映画を、
「名作」と呼ぶのにやぶさかではありませんが、この
「実在の人物を敵に仕立てて話を盛り上げる」
という手法については、大いに疑問を唱えるものです。
吃音の原因にもいろいろあり、その原因によってアプローチは違って当然ですが、
この療法士は、まず国王を「陛下(Your Majesty)と呼ばず、ファーストネームで呼び合い、
心の垣根を少しずつ壊して行くことから治療を始めます。
その段階で、「日頃は決して口には出せない卑猥な言葉を思いっきり叫ばせる」
という治療を行うわけですが、この部分が「映画興行的に」問題となりました。
なんと、この台詞のために映画がR15(15歳以下の入場禁止)指定されてしまったのです。
監督始め制作側は
「これはティーンエイジャーが観てもよい映画である」
とこれに抗議し、レイティングはイギリスでは12A(親と同伴なら12歳以下でも観てよい)
に変わりました。
しかし、アメリカではレイティングは覆らず、製作者たちは
「ソルト」や「007カジノロワイヤル」が12AでこれがなぜR指定なのかと怒っているそうです。
ごもっとも。
こういうところは、アメリカも「本質よりもお役所仕事」が優先されますからね。
映画の内容を深く見て「これなら卑猥な言葉は表現の一手段で、児童の教育上無問題」
と判断するような、そういう組織ではない、ということなのでしょう。
ドイツがポーランドに侵攻したのを受けて、イギリスは宣戦布告します。
ここで、ジョージ8世が国民に向かってスピーチするシーンが、この映画の最後の、
そして最大の「見どころ」となっています。
マイク越しに、王と向き合って、ライオネル・ローグは立ち、
「私に向かって話しなさい 友人に話すように」と言います。
そして、指揮者のようにその手を振り、眼で励まし、時には小声で「キーワード」を投げかけつつ
一身同体となって王とそのスピーチに臨むのです。
そして・・・・・・・。
この場面で使われている音楽はベートーヴェンの交響曲第7番第二楽章。
スピーチをしながら王が様々な感情と戦い、過去と戦い、しかし、ローグと共に雄々しく、
健気にも手を取り合って進んでいくその姿に、この曲の旋律が静かに寄り添います。
そして、スピーチを終えて退却する国王の姿に重なる音楽は
ベートーヴェンのピアノ協奏曲5番「皇帝」より、第二楽章。
この二曲はまさに選曲の妙です。
自分の声を聞かせないために、ローグが王にヘッドフォンをつけさせ
大音響で聴かせる曲はモーツァルトの「フィガロの結婚 序曲」。
オリジナル曲も、この「健気な男の物語」に相応しいナイーブな美しさを湛えており、秀逸です。
全体的にかっちりした枠を感じさせるストーリー運びと、けれん味の無い硬質な作り、
そして「王室のある国」にしか作ることができないこのテーマ。
久しぶりに良きイギリス映画を観た、という気がしています。
ここまで書いて、わたしの好きな
「炎のランナー」「リトル・ダンサー(Billy Elliot)」
そして、この「英国王のスピーチ」。
どれもが、冒頭の五つの条件を満たすイギリス映画であることに気づきました。
ところで、国王が、その家族と共に、ヒットラーの演説をフィルムで観る場面があります。
王は、多くのドイツ国民を催眠術のようにとりこにしたかのヒットラー演説を見ながら、
どんなことを演説しているのか、イギリス国王としてその内容に関心を持つよりもまず
「何を言っているのかわからないが・・・・・上手い演説だ」
と感心したようにうっとりと呟くのです。
哀しくて、可笑しなシーンでした。
義烈空挺隊の特攻作戦は、当初、日本側には数の点でかなりの誤認がありました。
健軍を離陸した飛行機は全部で12機。
そのうち、4機が機体不良や不時着など、航法未熟のた引き返しています。
同行した戦果確認機は、6機が着陸コースに入ったのを見届け報告しました。
その後、健軍と知覧では、アメリカ軍が混乱している様子が生文で傍受されたため、
日本側では義烈隊がかなりの大戦果をあげたものと期待したようです。
そして、それは決して間違いとは言い切れないものでした。
確かに六機のうち実際強行着陸したのは一機だけで、後は撃墜されたり地上に激突しました。
しかし、この着陸した一機の隊員がアメリカ軍をこの日混乱に陥れました。
強行着陸した一機から降り立った7名は、奥山隊長の言うところの「訓練の通りに」、
9機の(おそらくB-29を含む)高価な飛行機を完全に破壊、29機(計26機説もある)
を大破させました。
炎上損傷38機、結局これら航空機は、全てがその後使い物にならなかったそうです。
左画像は、義烈隊員がドラム缶の集積所に火をつけ、計7万ガロンの航空燃料が爆発、
炎上した瞬間を写真に収めたもので、右は、シャワーのように見える対空砲火です。
これほどのを敵弾雨飛をくぐり抜け、とにかく一機が強行着陸に成功し損害を与えたのですから、
彼我の隔絶した当時の戦力差を思えば、突入は成功したと考えるのが妥当でしょう。
こんにちのアメリカ側の認識においても、「Giretsu Airborne Attack」は
日本側が大戦中唯一成功したコンバット作戦であるということになっています。
さらにアメリカ側を驚かせたのは、この時突入した義烈の士官らしき隊員の遺体から、
航空基地の詳細な地図が発見されたことです。
その地図には、航空機の駐機場所、テントの場所に至るまで全く正確に印がつけられていました。
新聞が大々的に報じた義烈隊の戦果ですが、「両飛行場機能喪失」などという誤りが見えるものの、
何度も言うようにここまでは誇張でも何でもなかったと言えます。
しかし、義烈空挺隊の戦果は、多くを期待した大本営にとっては、
犠牲の大きさの割には僅少とされました。
前回述べたように、「義号作戦」の目的は、義烈隊が航空基地をかく乱し、敵が混乱している間に
航空特攻作戦でダメージを与えることでした。
しかし結果、陸海軍間の作戦連携がうまくいかず、義烈の戦闘だけで終わってしまったため、
これを第6軍司令官は「尻切れトンボなり」と評したのです。
この義烈空挺隊の攻撃について、終戦何周年の特別番組が作られていました。
制作はNHK、そしてフジテレビ、沖縄テレビ。
・・・・・・・この面々にいやな予感がしたあなた、あなたの予感は当たっている。
この三者がタグマッチを組んで制作したものであれば、その番組の意図はただ一つ。
「日本の始めた戦争で、無駄な作戦に命を奪われた犬死にの特攻隊哀れ」
このように最初から意図を疑ってみれば、そのナレーション、構成、カットの一つ一つに、
実に巧妙な「演出」がなされていることが、まるで楽屋裏を見ているようにわかります。
ナレーターは女性。
この女性ナレーターの読み方も「映像の世紀」のナレーションのような無機質なものではなく、
思いっきり何か―哀惜の情とか憐憫とかを―行間に込めまくった感情読み。
その切々たる声で、このようなコメントが映像と共に流れます。
若者たちは 戦争という悲運の中で
夕陽の金峰山(きんぽうざん)に向かって飛び立ち 死地に赴きました。
「戦争という悲運」?
義烈空挺隊の編成から当日までの錬成の日々、どんな思いで彼らが激しい訓練に耐え、
自分たちの死が祖国の再生の礎になることを願って往ったか、
その遺志も、死の意義も、全てを「悲運」という陳腐な一言の中に落とし込んでしまう傲慢さ。
それにしても、この言葉を選択した制作者の語彙の貧困さは目を覆うばかりです。
取りあえず彼らを犠牲者扱いすることが第一目的だとすれば、
無難なネガティブ・ワードを並べておくことで、テレビの前で口を開けて見ている視聴者は
さらりと耳障り良くそれを受け入れ、それは達成できるでしょう。
その単なる無批判を、いつも製作者は都合よく「好評だった」と自己満足で捉えるのみ。
やり過ぎて「JAPANデビュー」のように訴えられることさえなければ、
どんな自虐捏造番組もいつのまにか自画自賛して一丁上がり。
そしてまた同じようなことを繰り返すのです。
生存者の元義烈隊員、田中賢二氏は、隊員たちの遺墨の写しを大切に持っています。
画面いっぱいに広げられたそれらに見える文字は
「斬」「断じて勝つ」「天皇陛下万歳」「撃滅」「忠勇」「武勇」「生中無生 死中有生」
これらの激烈な言葉をあたかも冷笑するように、ナレーションが入ります。
「戦争で青春を犠牲にした若者たち。
遺墨や遺書には綴れない想いもあったでしょう」
何一つ個人的な感慨、つまり「綴れない想い」も無く、戦争で死地に赴く人間が
果たしてこの世にいるとでも言うのでしょうか。
綴れない想いをあえて語らず、笑って死地に赴いた彼らの目指したものは、
自分の死によって一人でも多くの日本人が生きることであり、たとえ戦争に負けることがあっても
自分たちの特攻作戦が象徴的な犠牲となり、それが民族再生の礎を為すことだったはずです。
知覧特攻平和会館の見学を報告した時と同じことの繰り返しになるようですが、
戦後メディアというものは、どうして皆こういう同じようなギミックによる印象誘導を行うのか。
もしかして「ネイビーブルーに恋をして」というブログが目指すのは、これら左翼自虐メディアの
謀略の喝破であり糾弾ではなかったかと、最近自分でも勘違いするくらいですよ。
それにしても不愉快なのは、連中のギミックの中には必ず、
「彼らの戦果は無かった、或いは僅少であった」
といった戦略的な失敗をことさらあげつらうことが、効果として過剰に盛り込まれていることです。
特攻隊は戦争(というより日本帝国陸海軍)という巨悪の犠牲者であり、
報道の目的は犠牲者を追悼することであるとするのなら、少なくとも
その戦闘行為が戦略的に成功であったか否かは、特に語るに値しない事実であるはずなのに。
去年の暮、火を吐く勢いで糾弾したNHK制作の「真珠湾からの帰還」ですが、
あのお涙ちょうだい捏造歴史フィクションと同じ手口がここにも採用されています。
義烈空挺隊の強行着陸後、米軍の北飛行場は多数の飛行機と燃料を失い、
24日の夜から27日の午前10時まで、空港は機能停止しました。
(特攻全史 財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編纂による)
ところが米軍側の証人に全く同じことを語らせておきながら、ナレーターはそれを全く無視。
驚くべきことに、
「アメリカ側の記録によれば、飛行場は翌25日には稼働したということです」
と、事実無根の捏造までやらかしているのです。
この番組には先ほども触れた生存者の田中賢二氏がインタビューに答えています。
しかし田中氏が縷々語ったであろう、国のためにと死んでいった戦友に対する想いについては、
全く触れられてもいません。
ディレクターはおそらくこう聞いたのでしょう。
「この作戦が大戦果に結びつかなかったのはなぜだと思われますか?」
田中氏はそしてこう答えます。
「そもそもあの時期になっては、全てが無理だった」
制作者はこの言葉を舌舐めずりしながら番組の「決め文句」として採用します。
この部分の流れを書きだしてみます。
(ナレーター)
アメリカ側の記録によれば(飛行場は)翌25日の午前中には稼働したということです。
しかし、(このしかし以降が全く逆説になっていないことに注意。
おそらく、この部分を書いたライターは、その矛盾に全く気づいていないと思われる))
結果的に後に続くはずの特攻総攻撃は天候不良のため、
目的を達することができませんでした。
(空挺隊玉砕の地と書かれた標柱が映し出される。
標柱はぼろぼろで、勿論スタッフによる献花もされていない。
しかも夜間撮影され、真っ暗な中にそれが幽霊のように浮かび上がるカット。
次のシーンで田中氏が登場し、語る)
「そもそもあの時期になっては、全てが無理だった」
その昔、メディアは義烈空挺隊の成功だけを麗々しく、しかし
義号作戦自体の失敗については糊塗したままで報道を垂れ流し、
あたかもその作戦が戦局の雌雄を決したような書きぶりで国民を幻惑させました。
今、その同じメディアは、死の任務に就いた一人一人の想いを全て憐憫で塗りつぶし、
史実すら素知らぬ顔で捏造までして、作戦は失敗で全ては無駄だったと嘆息して見せるのです。
なぜか。
彼らの目的は戦死者の慰霊などではなく、ひたすら「日本」を弾劾することにあるからです。
「日本ニュース」の企画であった大峯淑生氏と、カメラマンの故藤波次郎氏。
沖縄出撃が決まってから、寝食を共にして取材していた二人の宿舎には、
隊員たちがウィスキーなどを手に、入れ替わり立ち替わり訪れてくるようになりました。
皆が、自分の生い立ち、家族構成、故郷の山川のことを聞いてもらいたがり、
遺書や遺品を彼らに託す者もあったということです。
カメラのファインダーを覗かせてもらい、
「映ってる、映ってる」
と無邪気な声をあげた士官もいました。
「隊長の訓示が終わって愛機に向かって行くときみんなニコニコ笑ってねえ。
わたしもほうぼうのの特攻隊に撮影に行ったけど、
そのような悲壮感、全然ない、この部隊は。
ずっとこう飛び立っていく、夕暮れのところをね、だーっと機が見えなくなるまで回して。
本当にね、助手も録音係も、ぜんぜん口きかないで、三分か五分か・・・
じーっと、一点、飛び立った方向を眺めてましたねえ・・」
戦後義烈空挺隊について何かを語ることができるメディアの人間がいるとすれば、
この大峯氏ら日本ニュースのスタッフを置いて他にないのではないでしょうか。
この写真に映る「義烈空挺隊」の幟は、前回義烈について書いた日の画像、
「最後の握手をする奥山大尉と曽我部大尉」の写真で、奥山大尉の向こうにも見えていました。
そこでふと考えたのですが、この幟は、何のために作られたのでしょうか。
彼らの目的は、敵飛行場内に強行着陸して、基地の破壊をすることです。
回りが米軍ばかりのそこで、この幟が味方の認識に使われるというわけではないでしょう。
考えようによっては動きの妨げとなり、目立ちやすい幟を、
まるで戦国時代の合戦でもあるように背負っていくことの意味は・・・。
昭和19年7月、サイパンが敵に占領され、B-29による本土空襲が必至と見た大本営は、
まず、それを阻止する為に飛行場の爆撃を計画しました。
11月には本格的な本土空襲が始まり、それに対して陸海軍は飛行場の爆撃を数次に亘り
行いますが、効果はなく、敵空軍の活動を封じ込めることはできませんでした。
そこでまず計画されたのが、空挺部隊をサイパンの飛行場に強行着陸させる特攻作戦です。
そして第一挺進団第一聯隊より、奥山道郎大尉指揮の126名の部隊が差し出され、
その作戦に従事することになりました。
この部隊に諜報活動のための中野学校出身の士官8名、下士官2名の計10人が加わり、
ここに義烈空挺隊と後に命名されることになる特攻隊が編成されることとなったのです。
さらに、この部隊を乗せてサイパンに運び強行着陸する飛行部隊として、
諏訪部忠一大尉を隊長とする第三独立飛行隊が指定されました。
この飛行隊はもともとサイパン攻撃のために編成された部隊で、百式司偵を改造した
爆撃機を装備していました。
これを九七式重爆撃機に機種改編し、訓練に入りました。
奥山隊が豊岡に到着すると、すでにそこにはB-29の実物大模型ができていました。
それは丸太で骨組みを作り、胴体や主翼の部分にはトタン板を貼って作ってありました。
これを使って飛行機爆破の訓練が行われます。
前述の「日本ニュース」では、この奥山隊の爆破練習が映されています。
不鮮明な白黒のフィルムではそれが模型とはわからなかったため、当初
「飛行機を爆破するなんて、そんな余裕が日本にあったのだろうか」
と驚いてしまいました。
この訓練は、敵飛行場に着陸後、誘導路を疾走し、B-29に目標を決め爆破する為のものです。
爆破には次の方法が使われました。
まず一つは、帯状の爆薬をB-29の胴体の上に投げ上げて爆破するやり方。
巨体のB-29は、地上から胴体まで4m50もあります。
ここに投げ縄のように爆薬を投げ上げるのですが、特に背の低い者には難しいことでした。
しかし、連日の猛訓練を行ううちに、帯状の爆薬の先についているおもり(砂袋状)が、
まるで自分の身体の一部でもあるかのように自由自在に扱うことができるようになったそうです。
もう一つの方法は、長さ1m50の棒の先に爆薬がついているものを、
翼の付け根に装着して爆破するやり方でした。
爆薬の上面にはゴムの吸盤が取り付けてあって、それを翼に吸着させるのです。
これは、簡単なようで、接面の形状によっては吸盤が上手く吸いつくかどうかが不安定です。
このやり方だと、失敗の可能性もあるので、
爆薬に点火した後これを持ったまま自爆するという案が出されましたが、
奥山隊長は「一人当たり最低でも5機を屠れ」と言って、自爆を許しませんでした。
誘導路上を500m全速力で走る。
目標はまずB-29。
射撃を受けても立ち止まらずとにかくそこまで走り込んだら、
爆薬を装着し、点火管の紐を引く。
点火を確認後、30m避退して伏せる。
ただ、これだけの動作を、連日激しく訓練しました。
単純な動作であっても、入魂の繰り返しを行ううちに、彼らの技術は磨かれ、
全員がその技を神技の領域までに極めていたと言われています。
このように、全員が訓練を通して士気を高めていた奥山隊ですが、それに対し、
彼らを運搬し、彼らと共に飛行場に降りたって爆破行動を下命された三独飛の隊員は、
その使命に釈然とせぬものを抱いていたようです。
飛行機乗りは生還が難しい戦場に赴くのであっても、
それが使命であれば淡々と出撃していきますが、最初から全員戦死を決定された任務、
しかも、操縦ではなく、降り立ってからの破壊行動は、操縦者である彼等にとっては
納得のいかない想いがあったからでした。
そういう意味では、連日火を吐くような猛訓練で結束も固い奥山隊と諏訪部隊では、
どうしても温度差というようなものがあったということです。
しかし、豊岡に来て、飛行隊にも新たな任務が与えられました。
それが前回も言いましたが、
「B-29を奪取して操縦して帰還すべし」
だったのです。
これなら、生還の可能性と共に、飛行隊が切り込む意義として申し分ありません。
彼らには撃墜した飛行機から入手したマニュアルを翻訳したものが与えられ、
全員の士気もこれによってあがってきました。
たとえその作戦を成功させる可能性は極めて低いと思われても。
しかし、三独飛の当初の錬度では、当時の航法機材を使ってサイパンまで飛ぶのも危ぶまれ、
19年12月の出撃中止以降、様子を見ているうちに、敵は硫黄島に攻撃を始めました。
この作戦はサイパンまで飛ぶにあたり、硫黄島で給油しなければならなかったので、
ここが使えなくなるということは、作戦自体が実行不可能になってしまいます。
奥山隊を浜松に召集し、連日待機させましたが、硫黄島には着陸することも不可能になったため
ついに1月30日、サイパン強行着陸作戦は中止になりました。
奥山隊の隊員たちは、依然特攻隊という組織のままで、宮崎県の飛行場に戻ります。
いわば全員が目標を失って傷心の原隊復帰でした。
2月になってアメリカ軍は硫黄島に上陸しましたが、激しい抵抗を続ける日本軍のため、
3月に入っても主陣地を攻略することができませんでした。
しかし、その中にあってすでに島内の飛行場は抑えられてしまっていたので、
大本営はここに義烈空挺隊を投入することを計画します。
呼び寄せられた奥山隊は、喜び勇んで馳せ参じ、またもや猛訓練に励むようになります。
サイパンと違って、今回は敵中に突入することから、前回とは戦法も変更しました。
ところが、またもや作戦は中止となってしまいます。
3月25日、栗林中将以下、最後の突撃を敢行し日本軍が玉砕してしまったからでした。
日本軍が物量の前にじわじわと侵食され、前線を後退していくのを目の当たりにしながら、
特攻隊として編成された義烈空挺隊、ことに奥山隊が、
いつになっても死に場所を与えられないもどかしい思いに、いかに身を苛まれていたことか。
奥山隊は、最終的に4機が不時着したため、戦後も隊員が生存しており、
この期間、隊員たちがどのような精神状態でいたかの証言が残されることになりました。
いわく、
「豊岡や西筑波にいて身近に空襲を体験し、激しい闘志を燃やしているときは迷いはないが、
目標を失い、その頃まだ平穏な日向の片田舎に在って、
しかも特攻隊という名を負い続けていることは、耐えがたいことだった」
昭和20年4月、敵は沖縄に四個師団をもって上陸してきました。
この頃、知覧を中心として航空特攻の数は熾烈を極めていましたが、
4月15日、選抜した戦闘機二一機で飛行場を制圧しつつ特攻攻撃をかけたところ、
それが多大な戦果をもたらしたことから、義烈空挺隊の起用が三度検討されることになります。
奥山隊は宮崎を発って熊本の健軍飛行場の三角兵舎に入りました。
宮崎を後にするのはこれで三度目です。
―三度も身辺整理のために私物をまとめ、送り先を書いて司令部に託してきたが、
はたしてこれが最後となるのだろうか―
彼らの心境はまさに「三度目の正直たれ」というものであったことでしょう。
驚くべきは、日本の戦況に自らの運命を心身ともに翻弄されていた半年の間、
奥山隊からは一人の脱落者も出なかったということです。
彼らがその間、どんな日々を送り、どんな気持ちで当日を迎えたのか、記す書物は少なく、
それはすでに想像するしかありません。
空挺部隊は夜襲を目的としているので、訓練は夜行い、昼睡眠をとりました。
同行した日本ニュースの社員大峯氏は、その最後の日々、
昼間皆が寝ている横で、奥山大尉と諏訪部大尉がパチリ、パチリという音をさせながら
無言で碁を打っている様子を記憶しています。
出撃予定日は5月23日。
義烈空挺隊が飛行場を制圧している間に、陸軍第6航空軍と海軍第5航空艦隊は、
総力を挙げて特攻攻撃を行うことになっていました。
ところが、激励の辞、訓示、乾杯とすんで愈々搭乗となってから、海軍から報告が入ります。
「沖縄方面天候不良につき作戦延期」
明けて5月24日。
この日が、義烈空挺隊の最初の、そして最後の特攻出撃の日となります。
前回、彼ら全員の顔を輝かせているような歓喜の表情はどこから来るのか、と書きました。
今から死にに行く人間が、一人残らず微笑みを浮かべ、嬉々と死地に赴くのは何故かと。
彼らが特攻隊として編成され、共に死ぬためと個々の想いを押し殺して訓練に励み、
あるいは覚悟と恐怖のはざまで苦悩してきたであろうこの半年、
各自に去来するさまざまな想いをまるで弄ぶかのように、運命は彼らを地上に留め続けました。
それが彼らを、胃の腑をかきむしるような悔しさと、もどかしさと、或いは、
「やるならひと思いにやってくれ」とでも言いたくなるような精神状態に陥れたことは
想像に難くありません。
「全員が喜び勇んで往きます」
奥山大尉が挨拶で述べたこの一言には、嘘偽りの無い彼ら全員の本意があったと考えます。
実際平和しか知らない我々には、その本意自体理解しがたいものであるのも確かです。
それでも、それが虚勢でも誇張でもない真実であろうことは、彼らの表情が物語っています。
冒頭の隊員のように、「義烈空挺隊」の幟を誇らしげに掲げ、
マスコットの人形と共に、まるで弾むような足取りで搭乗機に向かう彼らは、
もしかしたら、本当に晴れ晴れとした、子供のような気持でその日を迎えたのかもしれません。
先日訪れた知覧特攻平和会館の展示の中に、義烈空挺隊のコーナーがありました。
この突入特攻部隊についての資料の前で立ち止まっている見学者はあまりなく、
航空特攻隊の陰に隠れて、知名度の無いこの空挺特攻に対する認知度の低さを見るようで、
胸が痛みました。
ほとんどの日本人がそうであるように、アメリカ戦史の記録に残る
Giretsu Airborne Attack
の、「ギレツ」という名前をご存知の方はそう多くはないのでしょうか。
昭和20年4月1日。
アメリカ軍はついに沖縄西海岸から上陸し、二日後には飛行場の使用を始めました。
この飛行場に空挺部隊を乗せた爆撃機を強行着陸させ、破壊活動を行うのが、
義烈空挺隊に科せられた使命です。
さらに飛行隊は
「敵B-29を奪取し、これを操縦して帰還すべし」
という任務を命じられていました。
作戦名を義号とする、この決死ならぬ必死作戦のために、
奥山道郎陸軍中尉を隊長とする義烈空挺隊(陸軍第六航空隊所属)は
その前年から訓練を積み重ねてきていました。
部隊総員は136名。
この中には着陸後の諜報活動を任務とした陸軍中野学校出身の10名が含まれます。
これら空挺部隊を運輸したのが、諏訪部忠一大尉以下32名からなる第三独立飛行隊。
この三独飛の操縦者は全員爆撃隊の出身者です。
日本ニュースで報道された義烈空挺部隊の映画タイトル。
この部隊136名は、結成期から何度にもわたって計画された突入作戦の中止、さらに
その間の訓練期間を通じて最後の瞬間まで非常に士気が高く、一人の欠員も無く決行日を
迎えたということです。
彼らは墨を軍服に塗って偽装し、さらに爆薬と爆弾を体中に纏って武装していました。
このとき、「日本ニュース」の企画であった大峯淑生氏と、カメラマンの藤波次郎氏は、
寝食を共にして取材してきた義烈空挺隊の突入の様子を記録する為、
飛行機に乗せてくれるように頼みました。
しかし部隊長の返事は
「我々の突入は十中九・九割生還を期さないものだ。
報道班員を死なせるわけにはいかない。一般人の同乗はお断りする」
というものでした。
出撃当日、訓示をする奥山大尉の様子と肉声が、今日フィルムに残されています。
奥山大尉が母親にあててしたためた遺書。
最後の文章は
「道郎は喜び勇んで往きます。
二十有六年の親不孝を深くお詫びします」
その遺書と同じ「全員喜び勇んで往きます」という言葉が、奥山大尉の出撃前の挨拶にあります。
出撃前の隊員の表情には、不思議なくらい陰りがありません。
機に乗り込む、つまりこの世で最後に踏みしめる大地を歩く皆の口元には微笑みが浮かび、
その表情は日本ニュースで『子供のように』と評されるように無邪気ですらあります。
冒頭画像は、最後の搭乗前に奥山大尉(左)と諏訪部大尉が握手する瞬間。
この写真を撮る前、カメラマンがシャッターを切りそこない、もう一度、と頼みました。
奥山大尉がその時「千両役者は忙しいなあ」と言ったので、曽我部大尉始め、
周りにいる全員がそれにつりこまれて笑っている瞬間が記録されることになりました。
彼らがこの解脱とも達観とも言える境地に至ったのには、
全員での連日にわたる激しい猛訓練による連帯感と、
奥山隊長を信頼し全員で一丸となって士気を高めてきた結果であると言われていますが、
それだけではありません。
部隊編成以来、この日に至るまで彼らがたどった道を語らずして、
この表情の表わすものを知ることはできないと思うのですが、それについては次回に譲ります。
昭和20年5月24日午後18時40分。
攻撃隊136名、搭乗員32名を乗せた12機の爆撃機は、健軍基地を離陸しました。
突入に際し、航空部隊は電探(レーダー)を避けるため、海上30メートルを這うように進みました。
これは爆撃機にとって危険すれすれの高度でもあります。
しかし、敵戦闘機に発見されたときにも攻撃を受けにくい機位でもありました。
発進して2時間30分後、知覧と健軍基地は義烈空挺隊からの最初で最後の報告を受けます。
「只今突入」
そしてその5分後、戦果確認のため同行した飛行機が
「諏訪部部隊着陸成功」
と報告してきました。
さらに20分後。
危急を告げるアメリカ軍の生文が次々と入ってきました。
「北飛行場異変あり」
「在空機は着陸禁止」
健軍を離陸した飛行機のうち4機は、故障や航法未熟で引き返し不時着。
戦果確認の飛行機は義烈のうち「計6機が着陸コースに入った」ことまでは見届けましたが、
このうち胴体着陸して、空挺隊が破壊活動をすることができたのは一機でした。
この飛行機からは10名の空挺隊員と操縦員が基地に降り立ち、
戦闘機2機、輸送機4機、爆撃機1機破壊
爆撃機1機、戦闘機3機、戦闘機22機損傷、合計26機被害
さらに
ドラム缶600本の集積所2箇所を爆破し炎上、70,000ガロンの航空機用燃料焼失
これだけの被害を与えています。
しかしながらこの戦果に対する我が方の自己評価は必ずしも高くありません。
「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、
洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。
引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」
と第6空軍司令官が嘆じたように、奥山隊の戦闘力については着陸に成功さえすれば
絶対の信頼が持てるものだったにもかかわらず、作戦を共同で企画していた海軍が、
義烈の成果を待たずして、その前日に特攻機を多数出撃させてしまっていたため、
この好機に艦船攻撃で大きな成果を上げることはできなかったのです。
この日、第6航空軍は120機の特攻機を用意しましたが、
天候不良で離陸したのは70機、
突入を打電してきたのは24機。
アメリカ側の報告によると、そのうち13機のカミカゼが12隻の艦船に命中したとありますが、
司令が尻切れトンボと称したように、義烈の奮闘と多大なる犠牲は評価されても、
義号作戦と名付けられたこの作戦全体の戦果は、期待したものより少ないものであった、
というのが日本側の認識です。
しかし、アメリカ軍にとって、2日にわたる空港閉鎖と、米軍18名死傷のこの
Giretsu Attackは、作戦として成功したものとみなされており、
日本側より、むしろアメリカの軍事関係者にも評価されています。
強行着陸した隊員のうち一人は翌日25日の昼1時、島の南で射殺されたとみられています。
また、さらに一人が敵中突破を果たし、生還して戦果を報告したという陸軍の機密情報には
残されていると言いますが、その真偽や隊員の姓名などは明らかになっていないそうです。
義烈空挺隊の兵士たちが突入して、今日でちょうど67年目になります。
それにしても彼らのこの屈託の無い表情は、いかなる精神の上にあらわれるものでしょうか。
その部隊錬成、そして突入に至るまでの彼らの日々について、稿を新たにしたいと思います。
石原裕次郎がスーパースターであるということに、昔はかなり疑問を持っていました。
「太陽にほえろ!」で足を使って事件を解決する部下の皆さんを尻目に、デスクに貼りついたまま、
最後に部下をねぎらって煙草に火をつけてやるだけの簡単なお仕事の割にやたら偉そうな、
でっぷり肥った中年男。
ほっぺたはたるんでるし、歯並びは悪いし、こんな醜男のどこがスーパースター?
と正直、亡くなったときにはその大騒ぎぶりに奇異な思いすら抱いたものです。
それは、わたしが「裕次郎の時代」を生きていなかったからだ、ということに気がついたのは、
彼の死後一斉に放映された出演フィルムをちゃんと観たときです。
林真理子の著書「RURIKO」(浅丘ルリ子のこと)には、
「歯並びも悪くハンサムと言えない造作でありながら、会った人を不思議にとりこにしてしまう、
天衣無縫で天真爛漫、爽やかだが強烈な磁力を持つその微笑み」について、
やはりその魅力のとりこになった主人公浅丘ルリ子の目を通して、裕次郎の魅力が語られています。
確かにあの若い時の特異なスター性は認める。
しかし、やっぱりそれほどのものだろうかと思い続けて幾星霜。
初めて「裕次郎の戦争もの」であるこの映画「零戦黒雲一家」を観ました。
いや~。面白かったですよ。
信憑性とかリアリティは冒頭の絵を見てもおわかりのように、つまみにしたくともない、
荒唐無稽な不謹慎戦争映画なのですが、もういっそここまで突き抜けてくれれば、
全てが許される、ってレベル。
皆さまは「神様部隊」という言葉を聞いたことがありますか?
何らかの理由で海軍刑務所で「臭い飯」を食ってきた「懲罰下士官、兵」ばかり集められた、
「特殊部隊」が海軍には在りました。
お勤めを終えて出てきたらさりげなく一般兵に混ぜることをしないで、
そういう前科者ばかりひとところにまとめてしまう、というのが海軍式だったようですが、
彼らには必ず神棚に向かって手を合わせることが義務付けられているため、
「神様部隊」と呼ばれたようです。(未確認情報)
許可を得ないで零戦で敵基地に着陸し、
基地を爆破して懲罰対象になった破天荒な海兵出の中尉、
谷村雁(ガン)。
南洋の孤島に島流し同然にされた「神様部隊」の隊長として赴任してきます。
因みに、何をやらかしたのか知りませんが、海軍兵学校を6年で出た、という設定。
これはありえない設定で、なんとなれば兵学校は病欠以外の留年を認めなかったからです。
留年しなければならなかったのが学業成績ならば、退学処分が相当。
谷村生徒がそうだったということになっているらしい「素行不良」であれば、瞬時に放校です。
アウトローでも何とかなるような甘い組織じゃなかったのよ、ガンちゃん。
それはともかく、さっそくタチの悪い彼らは谷村中尉をナメてかかりますが、
彼らの前で邀撃に上がった中尉がバタバタと敵機を落としたうえ、
米機を生け捕りにするのを見て、舌を巻きます。
ここでのこれまでのボスは、上官暴行罪で少尉から下士官に格下げされた八雲(二谷英明)。
現状を拗ねて、荒くれ者たちとともに与太をまく毎日。
ある日、この島に大事件が起こります。
沖で撃沈された輸送船から、女性が流れ着いたのです。
日頃全くやる気のない見張りが「女だ~!」と叫んだとたん、
総員が眼を血走らせて、浜辺に向かって全力疾走。
沖に向かって何隻もが必死で舟をこぎ出します。
松葉づえの病人すら杖を放りだし・・・と、阿鼻叫喚。
ここで、今後の展開が「アナタハンの女王」になるのではないかと一瞬心配したのですが、
勿論、さわやか裕次郎映画ですからそんなことには決してなりません。
女性は奈美といい、元歌手。
慰問に訪れた戦地で将校に暴行され、それに怒って相手を殴って罰せられたのが
少尉だった八雲だったのです。
自暴自棄になり、今や苦界に身を沈めて慰安婦となっている奈美の姿に、八雲は苦悩します。
島には敵が飛来するようになり、それによる戦死者もでてくるようになりました。
いまや心を一つにした部隊は、隊長のもとに激しい敵来襲に反撃しますが、被害は増えるばかり。
しかしついに、谷村中尉が赴任以来送り続けた電信文を伊潜がついにキャッチし、
救出のため沖に浮上、皆は伊潜に乗り込みます。
定員一杯で島に残ることを選んだ谷村中尉と八雲上飛曹を残して・・・・・。
空を埋め尽くすような敵機に向かってたった二機、敢然と向かっていく零戦。
「今度は平和な時代に生まれてこようぜ!」
映画が始まって、裕次郎が出てくると、当初こそ
「やっぱりハンサムとかイケメン、ではないよねえ・・」
と、つい例の口許に眼が行ってしまい、納得いかない感がこみあげるのですが、
アラ不思議、零戦を駆って敵をバッタバッタ落としたり、荒くれ集団と渡りあったり、
捕虜のアメリカ人と英語で罵りあったり、奈美さんに爽やかに説教したり、
何故かみんなの真ん中で太鼓を叩いてみたり(嵐を呼ぶ男?)している裕次郎を見ているうちに、
なんだかすっかり好きになってしまっているんですよね。
やっぱり・・・・・かっこいい・・・・?
伊潜に乗り込む皆に向かって最後の敬礼をする谷村中尉。
こりゃー、あれだわ。かっこいいわ。
そしてなんていうんでしょう、どこか「かわいい」んですよね、この人。
てな具合に、スーパースター裕次郎の実力を思い知って終わったこの映画です。
二谷英明以外は、ほとんどバイプレーヤーだけで固めたこの映画、
映画として形がすっきりして見やすいのは、この「与太者部隊」の面々のキャラが立っていて、
漫画を見るような面白みがあるからだと思います。
つまり、脚の長さで張り合うため(というか少しでも見劣りしないように?)
異常にハイレグのショートパンツ一択で頑張っている二谷英明以外は、全くの脇役に徹する
役者ばかりで、裕次郎をひたすら盛りたてるためのキャスティング。
戦争映画というより、これは戦争を舞台にした「裕次郎映画」であると位置づけられるでしょう。
とはいえ、1962年度作品でありながら零戦の離発着など見応えもあり、
裕次郎も、その他の(一応)軍人も、所作はそれなりにやっているし、
無茶苦茶は無茶苦茶なりに筋が通っているので、観ていて非常に気持ちのいい映画です。
ただ・・・、冒頭の主題歌。
映画音楽を手掛けた佐藤勝作曲による、裕次郎の歌付き主題歌「黒いシャッポ」。
(シャッポとは、フランス語のシャポーからきた当時の帽子をさす単語)
これが、おそろしくヘンな曲です。
「飛べよー零戦ー」
なんて文句が入っているので、ヒットさせるために作ったのではないとは思いますが、
垣間聞こえる歌詞の意味も、さらに音楽的な構成を見ても、全くわけわかめな曲。
しかし、この妙な曲が裕次郎の声で歌われると、これもまた
「あれ?ヘンな曲な筈なのに、なんだかよく聞こえね?」
とついつい妙に納得してしまうんですね。
劇中、ドモリの従兵さんに(この人もいい味出してます)背中を流してもらいながら、
裕次郎がいい気分でこの曲を唸るのですが、あの裕次郎声でアカペラの伴奏なしだと、
さらにいい曲っぽい。
存在そのものが説得力のカタマリである裕次郎、
歌も上手すぎて、駄曲をも名曲に錯覚させてしまいます。
さすがに昭和の大スターといわれただけのことはあると感心することしきり。
ところで、これを言いだすと話が成り立たないのですが、
この島は拠点でも何でもないので、全く敵の襲来を受けないっていう設定。
・・で、この部隊、伊潜に撤収してもらうまで、何のためにここに駐留してたの?
本当に犯罪者の島流し?
ちょうど環の状態のときにたまたま窓を見て、たまたま撮ってみました。
息子に「見えるよ!」というと、「直に見ちゃいけないんだよ」
「曇ってるしガラス(おまけに磨いていなくて曇っている)ごしだし、大丈夫じゃない?」
「だめだって」
という会話があったにもかかわらず、負うた子に教えられても言うことを聴かない母は、
なんと写真まで撮ってしまいました。
しかし。
「数日後に症状が出ることもある。急に目が見えなくなることもあります」
などというニュースを後から見て、
「見ちゃった・・・・」と大いに焦っております。
後悔先に立たず覆水盆に返らず。
イッツノーユーズクライングオーバースピルトミルク。
でも、皆さん、日本人なら「ご来光」って見るよね?
夕陽も眺めるよね?
小さいとき太陽をちらっと見て、しばらく太陽の影が目をつぶってもある~!って遊んだことない?
そんなことを繰り返してもわたしが視力2・0をキープしてきたのは、なぜなの?
これくらい言わないと「じーっと見る」人がいるから、少し大げさに言っているのよね?
きっとそうですよね・・・・・お願い、そう言って・・・。
実はかなり怯えています。
3日後に目が見えなくなったら報告しますね。
「ネイヴイーに惚れちゃってどう仕様もない」
の項で、海軍の裏話につきものの「S」つまり芸者さんについて少しお話ししました。
以前「笹井中尉 芸者」という検索で来られた方、ご覧になりましたか?
笹井中尉ら若い士官がどういうSプレーをしておられたか、その片鱗が伝わりましたでしょうか。
今日はさらに核心に迫って、エスさんとインチになってしまった場合のお話を。
あらためて言うまでもありませんが、インチとは英語のintimateの隠語。
お馴染み、中でも「特にお馴染み」となるとインチ認定です。
江田島の海軍兵学校は一切女人禁制。
純粋培養で教育され、万が一「止むにやまれぬ衝動にかられ」てしまったら即刻放校、
という厳しい規則がありましたが、さらに江田島を卒業したばかりの少尉候補生も、
そのジャケットの短さが示すように「まだまだひよっこ」な保護観察期間であるわけです。
彼ら海軍士官が、レス「解禁」になるのはめでたく少尉任官のあかつき。
解禁になったらそこはさばけた海軍さんですから、さっそくレスデビュー。
いきなり彼らはレス(料理屋)に来るのは勿論、ストップ(宿泊)も許されるのです。
ストップとはただ料理屋に泊るだけではなく、あくまでも双方自由意思の上に立ってですが、
エスさんとのお泊りのことでもあります。
ここから士官さんとなれば大手を振ってこれらの遊びOK、となるわけですから、
皆さぞこのときは解放感を味わったのではないでしょうか。
しかし、上の方もかつて来た道。
いきなりめくるめく自由の世界に放り出されて解放感をエンジョイし過ぎた若者が、
決して道を誤ることが無いように、その遊び方も上意下達の御指導御鞭撻が入ります。
あるガンルームで新少尉にお達示された「遊び方のルール」です。
一つ、上陸して料理屋に行くときはケプガン先頭、自分が先頭に立って行く。
二つ、楽しむときは皆一緒に楽しむ。飲みに行くときは一緒に行く。
一人でこそこそ飲みに行くことはしない。
三つ、飲む場所は一流の料理屋、例えば横須賀ではパイン、佐世保ではヤマ(万松楼)
のような所を選び、一流の芸者を呼んで公然と遊べ。
そして、パッと遊んで、さっと引き揚げよ。
艦の夕食は、四時四五分。やたら早いですね。
これは、夕食後上陸があるからです。
兵隊は、夕ご飯を食べてから半舷上陸とか入湯上陸に出かけたりします。
ご飯がやたら早いと、士官としては困ったこともあります。
夜の時間を持て余してしまうのです。
そこで勉強でもすれば立派ですが、凡人の哀しさでついついオカの灯が恋しくなってくる。
そこで
「よし、運動一旒!」と一声。
運動一旒とは、艦隊運動に用いる信号旗のこと。意味は
「我が通跡を進め、旗艦の通った跡をついてこられたし」
この号令で、約十人が背広に着替え、待ってましたとぞろぞろ旗艦の跡をついてくる、
というわけです。
短剣詰襟に萌えるネービー・エスさんはたいそう多かったのですが、
実は、こういうとき、海軍将校はあまり軍服で行きませんでした。
公務と遊びの切り替えをし、心ゆくまで楽しみたいときですね。
しかし、レス用の背広をまず誂えることで、当初少ない少尉のお給料は吹っ飛んでしまった、
といいます。
しかし、勿論パインあたりになるとホームグラウンドですから、軍服でもOK。
夏は二種軍服のズボンはそのままで、上着だけ麻のグレーの背広に着替える、というように
お洒落をしたようです。
全くの私事ですが、去年
「オペラ鑑賞のあと、渋谷ハチ公前で待ち合わせして東●見×録で会合」
というスケジュールは、ファッションTPO的にはかなり上級の応用問題でした。
どちらにも浮かない恰好、というのはこういうとき、海軍さんの様に上着を着替えるに限ります。
二種ズボンならぬジーンズに、ジャケットからカーディガンに着替えて飲み会に駆けつけました。
着る服というのも気分の切り替えには大きな意味を持ちますから。
さて、背広に着替えてレスに到着しました。
芸者さん、つまりSを「玉代」を払って、呼んでみましょう。
芸者を指すSとは、singer、 sister、どちらの意味もあったと言います。
芸者さんを妹のように(まあ、それは若い妓でしょうが)扱っていた、ということでもあります。
芸者たちも士官を「兄さん」と親しみをこめて呼んだそうです。
勿論、酒の席につかの間の交わりを持つ男女ですから、親しくなり、好き合うこともあります。
これをインチと言い、士官の方ではその妓の了解を得てから、なんと
「インチ宣言」
をするのだそうです。
つまり、公認の仲を宣言するのです。
これは、主に士官同士のトラブルを未然に防ぐ意味が大でした。
公認にすることで、たとえば彼女はあいつのインチだ、と皆でそれなりに気を遣うわけです。
しかーし。
芸者の方は、それが商売ですから、インチを一人の士官に限る必要はありません。
何人ものインチを持っている売れっ子芸者などは、連合艦隊が入港したりすると、
インチ士官同士がバッティングしてしまいます。
これをコリジョン(衝突)と海軍では称しました。
しかし、そのあたりは粋を旨とする海軍のこと、お互い何となくそれを察し、女中さんが
「今日は誰だれが来ているから・・・」
と言うと
「ああそうか、じゃあ今日は豆太(仮名)抜きで一杯だけ飲んで帰る」
などと、実にあっさりしていました。
Sを取り合ってトラブル、なんて野暮は、
スマートをモットーとする海軍士官にとって最も恥ずべきことであり、
のみならず若い士官は「インチは(本気の恋愛ではなく)あくまでも料理屋での遊びである」
と厳しく教育されていたのです。
エスプレイ(芸者遊び)に熱心なのは、しかし、遊び解禁になった少尉と、せいぜい中尉まで。
中尉の二、三年目で皆大抵結婚しましたから、
一般的には、大尉になってまで「レス交じり」はあまりなかったようです。
そして、大佐、将官くらいになると、またレスに来るようになる。
しかし、この頃はどういうわけか年頃のSよりも、「ハーフ」といわれる半玉、
つまり15、6の、まるで孫のような妓を侍らせだします。
もう、こうなると色恋沙汰というより
「若い子はええのおー」
という、何と言うか、回春剤のような役目ですね。
そういうハーフちゃんを膝の上に乗せたりして愛でるのです。
本日画像のパイン芸者衆の一人、栄香さんも、半玉時代は皆の膝で可愛がられました。
つぶし島田に結っていると「なんだ貴様、髪もつぶして、顔もつぶして」とからかわれたそうです。
きっと可愛くて放っておけないタイプだったのでしょうね。
野村吉三郎大将のお座敷で居眠りしてしまい、
大将に眠ったのを自宅に連れて帰ってもらったこともあるそうです。
また酒豪で聞こえた米内長官はパインで芸者と飲み比べをして、
酔いつぶれたその妓に膝枕をしてやったとか。
(聯合艦隊司令長官山本五十六では、米内長官を女好きであるかのように描写しています)
みんな、余裕で遊んでるなあ・・・。
ところで、実際にそうやってエスプレイをした士官はどんなふうに往時を回顧しているのでしょうか。
「今の世の中の男女関係とは違ってましたね。雰囲気が。
ほのぼのとしたものがありましたね」
「何か豊かさがありましたですよね。殺伐としてなくて、
本当に、何とも言えない暖かさがあって」
そこで彼女の酌に心行くまで飲み、論じ、語り合い、歌うというのは、
彼ら士官にとって至福のひとときでもあったのでしょう。
士官のレスでの「お支払」についても、またそのうちお話ししましょう。
橋下徹という政治家には、これまでの政治家がほぼ全員防御としていつも持っている
「政治家独特の蝙蝠的曖昧さ」がありません。
一人の人間が政治に携わるとき、そこには必然的に矛盾する立場が生ずるわけで、
一人でも多くの国民に支持してもらって初めてその職場に立てる政治家としては、
あまり立場をはっきりさせすぎると、敵を作ることになり、票を失う。
例えば民主党だからという理由だけで国会議員になったような連中は、「党の方針」
例えば外国人参政権だの人権擁護法案だの、論議がされておらず危険性も指摘される
これらの民主党案について、なんら意見も持たず、しかし地元有権者からは圧倒的に
「そんなもん通したらただじゃすまないからな」と言われ、ひたすら「それについては触れない」
で任期を過ごしているのだそうです。
それどころか、前回大敗した参議院選挙では、「民主党」ということをできるだけ言わず、
「隠れ民主」として選挙戦に臨んでいた候補者が多数あったと・・・。
次の衆院選には、民主党であったことを堂々と言いながら選挙戦を戦える民主議員、
果たして何人いるかしら?
おそらく「元民主議員」も含めて、選挙前にはブラックリストが出回るから覚悟するがいいわ。
前置きが長くなりましたが、橋下市長です。
今まで誰も怖がって手をつけなかった既得権益をばっさりとやってしまったことで、その
「既得権益」を得ている団体及びそれを支持する論陣から、まずはバッシングされました。
敵を作ることを前提に政治活動を行う、というのは、その政治目的のいかんを問わず、
この日本では非常に勇気のいることであると思われます。
わたしの結婚式の立会人に来て下さった知人に、元女性閣僚であった政治家がいます。
この方の在任時、わたしは全く政治に関心を持っていなかったので、彼女がどのようなことを
政治家として行ったのか全く知りません。
しかし、実際この方と会話することになったとき、ちらっとですが、
「実際大臣の席にあっても、自分の考えで政治を動かすことなど全く不可能だった」
というようなことをおっしゃっていたので、心からショックを受けた覚えがあります。
はっきりとはおっしゃっておられませんでしたが、つまりは大臣として決定することは
全て規定事項であり、どこからか出てきたものを、形の上で承認するだけの仕事だったと。
現在、例えば、メディア記者上がりのこども財務大臣が、いきなり
「(実質ゴミに等しい)韓国国債を購入する」
などと言いだして皆があっけにとられているわけですが、これもまた彼女の言から判断すると
「官僚がどこからかの意を受けてそう決めたので、大臣としてそれを決定したことにしている」
のだな、とわたしは理解しています。
このように、政治家が自分の正しいと思われる考えを政治に反映させることが難しい日本で
橋下市長のように「政治家個人が正しいと思われる政治」を実行にうつせた政治家が
これまでいなかった、ということだけは確かです。
橋下氏を全面的に支持するか?
と聞かれると、確かに一部政策には「それはちょっと」と思われる部分
(TPP参加推進とか特別永住外国人に限り参政権付与とか)もあり、
必ずしも「全面的な支持」はできないわけですが、これは当然でしょう。
橋下市長自身の言葉を借りれば「全ての人が納得する政治はありえない」のですから、
政治家を選ぶのは「その政策と自分が政治に期待する部分の共通項の多さ」という点に、
言葉は悪いですが妥協するということであると思うからです。
たとえ橋下氏を熱烈に支持している人達でも、必要に応じ、政策ごとに彼の考えに対して、
批判するべきはするのが健全なあり方だと思うのですが、いかがなもんでしょう。
とにかく、今までの政治家は、前市長、前知事も含め、ダークな部分を見てみぬふりし、
全く手をつけず、手を汚さず、なあなあで、
「信頼もされず、敵にもされず、いつも静かに笑っている」状態でやってきたわけです。
なぜなら、一旦その汚い部分に手を入れたら、そこに連なる「反対派」が、
一族郎党引き連れて激しいバッシングを始めることは、火を見るより明らかだからです。
(それを試みて斃れていった政治家は数多くいると思われます)
ところで、橋下市長をバッシング、あるいは誹謗する論陣には見事に共通点があります。
それは、彼らには「橋下氏の何を非難しているのか」が明確にうち出せないこと。
例えば、君が代起立問題も
「公務員である教員が会社員であれば会社の決まりに従うように、国に従うのは当然だ」
この理論に対して、それはごもっとも、と思える反論は一つもない。
そりゃそうです。
「君が代を歌ったら軍靴の足音や、南京で殺された中国人少年の悲鳴が聞こえてくる」ような
方々の思想を、つまり「よし」とするところに立っているからこその反対で、そこにはただ
「君が代国旗反対」という結論ありきの反発しかないからです。
そして、公務員の刺青問題。
公務員になぜ刺青をしているような種類の人間がいるのか?という大疑問は置いておいて、
「公務員が刺青しちゃダメ」
この意見に対して、どのメディアが納得のいく反論をしたでしょうか。
要するに、既得権益を得ている「ある層」の人々を守りたい、それだけが反対理由だからです。
そこで、メディアは眼を覆うばかりの苦しい反論を・・・(涙)
「昔の日本人は皆刺青をしていた」毎日新聞
「海外では刺青的なものを楽しんでいる」仙台市長
「刺青を消すために刺青を焼ききった人の肌はむごいものだった。
橋下氏はそのようなむごいことを、平然と要求するのか」雁屋哲
「ちゃんとした理由で入れている人もいる」小森純(←誰?)
いや、もう、恥ずかしくない?
だれが見ても無理ありまくり。公務員が刺青をしていていい理由になって無い。
おまけに、マスゴミは、こんなことを反論させるのに無名タレントまで動員して・・(嗚咽)
それと、小森とかいうタレントさん、ちゃんとした人は普通刺青なんてしないのよ。
そのほかの皆さんも、ここは日本で、現在は
「刺青しているのはスジ者か、そう見られたい人種」
というのがほぼ世間一般の認識ってやつなんですが、そう思わない?
テレビの討論番組では、今のところ、
香山リカ(精神科医、通名中塚尚子、本名金梨花)山口次郎(北大教授)
森永卓、山下芳生(共産党)、薬師院仁志(帝塚山学院教授)
などの面々が、反論すべき明確な理論を持たぬまま、ただ橋下憎しの一念で論戦を挑み、
論戦というレベル以前でコテンパンに言い負かされて、死して屍拾うもの無し状態。
こりゃー、あれですね。
至急メディアは、橋下氏に打ち勝てるような人材を探してくるべきかもしれません。
急募!
論客求む 経験・年齢・性別不問 経験者優遇
テレビに出て相手を言い負かすだけの簡単なお仕事です
元弁論部、大学教授の肩書をお持ちの方歓迎!
思想は問いませんが、採用後は当方による研修アリ 送迎車付き
資格:大阪市長橋下徹氏を論破することができる程度の弁論技術をお持ちの方
それにしても、メディアや左派(ですよね?)既得権益グループが束になってかかっても、
倒せないという現状。
「橋下氏は弁護士だから口で勝てるわけない」
という意見をしばしば目にしますが・・・
わたしはこれに疑問あり。
「橋下氏の弁論に勝てない」というより、つまり
「橋下氏の言っていることが普通に正論なので、反対しようがない」
というのが実のところではないのかと。
というか、なぜ誰が見ても正論でしかない部分にに突っ込むかな。
もっとほかに突っ込むべき政策方針があるんでない?
それが証拠に、遂に出た。
スピーチ&演説分析家(←職業?)の川上徹也という人が
「橋下氏のスピーチはヒットラーの手法」
という意見を引っ張り出して「悪名高いヒットラーと・・・」という修辞をつけつつ、
橋下=ヒットラー説を打ち出し、それをメディアは嬉々として報じています。
(つまり川上氏は著書を宣伝しているだけなのですが)
正論を突き崩せなかったら、今度は印象操作。
自分たちに都合のいい人物なら「リーダーシップ」
都合が悪いと「独裁者」「ヒットラー」「金正日」
国民を愚民扱いして、メディアの偏向報道がいまだに彼らを簡単に先導できると思っているなら
それはインターネットの無かった時代のアドルフ・ヒットラーと全く同じ考えですよ。
そうでしょう?反橋下の皆さん。
追記:
わたくしとしては、反橋下派には、君が世やら刺青やらの件ではなく、ぜひ、
永住外国人参政権付与、TPP賛成への反論を携えて論戦を挑んでいただきたいのですが、
どうも反橋下派って、これらの橋下案については意見しない傾向にあるんですよね。
不思議なことに。
反橋下の国民は「マスコミは橋下を異常に持ちあげている」なんて言っているようですが、
こと教育と既得権益問題については、どう見ても明らかにバッシングしているし。
つまりマスコミの立場は「反君が代、日教組応援、TPP賛成、外国人参政権大賛成」
ってことでOK?
やっぱり、現状、マスコミが一番問題なのでは?と思うのはわたしだけでしょうか。
ロベルト・シューマンの「トロイメライ」をご存知でしょうか。
「子供の情景」というピアノ曲集中の第7番目、最も有名な曲です。
シューマンという作曲家は、良くも悪くも感覚的すぎるというか、
ベートーヴェンやブラームス、バッハの
ドイツ3Bの皆さんなどの作風とは、全く対極。
「思いついたから書いた」的なある種重みのなさとともに、
思い付きだからこそ生まれる鋭い美的感覚あふれた、
きらきらした詩のような音楽を迸るように書いた、というイメージです。
音楽関係者、ことにオーケストラのメンバーと話すと、
「演奏していてイライラする作曲家」のナンバーワンとして、
(楽器にもよりますが)まずシューマンの名が挙がってきます。
「なんでこんなところでこんな旋律をこの楽器にやらせるの?」
「いや、これ全く効果ないんじゃない?」
「難しすぎて弾けない。絶対これ何も考えずに書いてるだろ」
シューマンのピアノ協奏曲の中には、オケ全体で奏でる
壮大なゼクエンツのメロディに、たった一本のオーボエで
果敢にも立ち向かうが如き対旋律が書かれている個所があり、
オーボエ奏者には全く気の毒なことに、このメロディ、
大音響にかき消されて全く聞えません。
これなども、何のためにオーボエ一本にメロディを任せたのか、
或いはシューマンはその時、オーボエ奏者と喧嘩でもしていたのか、
と勘繰りたくなるような部分です。
つまりオーケストレーションの基礎が全くなっとらん作曲家なのですが、
たとえ構築力は無くても、その素晴らしい感性と感性と感性で、
音楽史に残る音楽家となりました。
曲を聴いていると、もしかしたら少し精神的に問題が?
(実際に精神を病んでいた)みたいな、
それまでの常識ではありえないメロディの終始、突然変わる曲調、
そして、聞いているだけでは拍がどこにあるのかもわからない斬新な旋律は、
まさに天才の作品。
はっきり言って紙一重の天才そのものだったシューマンの、おそらく最高傑作。
それがこのトロイメライです。
「夢」と題されたこの小曲は、わずか数分の間に聴く者を夢路へを誘い、
その中に広がる宇宙は、無限の広がりを見せ、誰しも持っている
「懐かしい瞬間」へと、時空を超えて連れて行ってくれるのです。
この曲に付いての強烈な印象を残す話があります。
それは以前
「マリア・マンデル~アウシュビッツの女性看守」
という項を書いたときに参考にした
フランス系ユダヤ人のファニア・フェヌロンという女性の書いた本
「ファニア、歌いなさい」
の中の逸話でした。
ある日収容所所長のクラーマーが、音楽棟を訪れ、音楽を所望しました。
ユダヤ人絶滅収容所では、囚人ばかりで編成されたオーケストラがありましたが、
彼らに行進の伴奏をさせたり、コンサートをさせたりするほかに、
収容所の幹部たちは時折こうやって個人的に音楽を聴きに来るのでした。
「さあ、一仕事終わった。ちょっとくつろいで、音楽を聴くとしよう」
彼が、この日リクエストしたのは「トロイメライ」でした。
バイオリンが柔らかく第一小節を奏で、やがてメランコリックな旋律が部屋を満たしていく。
クラーマーは両目を閉じ、音楽の海に浸っているようだった。
完全にリラックスし、さっきまでの人殺し作業をすっかり忘れているかのようだった。
イレーヌのほほはヴァイオリンを押さえ、それでもかすかな微笑を湛えながら、
ソロの部分を見事に弾いていた。
曲の最高に美しい部分である。
メランコリーが心をとろかすような甘さに支えられ、
旋律の一つ一つがクラーマーの心を揺り動かしているのが見えるようだ。
音は最後に少し高まり、やがて名残を残しながら静かに静かに消えた。
クラーマーはゆっくり目を開いた。
私はうっとりとした彼の目に涙があふれているのを見て、思わず息をのんだ。
涙は、真珠のような玉になって、美しく剃り上げられたほほを伝わっている。
こん棒で頭を割られたユダヤ人の女性の仲間がこれを観たらどう思うだろう。
わたしはこの曲を「習った」記憶がありません。
もしかしたら習ったこともないかもしれません。
いつこの曲を知ったかの記憶も無いままに、
いつの間にか「簡単に弾ける曲」になっていました。
この曲の素晴らしいのは、格別難しい技術を必要とせず、
初心者でもその気になれば弾けてしまうほど容易な曲でありながら、
同じメロディに対する和声を変化させて作る緊張や曲の盛り上がり、
その展開の鮮やかさが余すことなく盛り込まれており、
即ち名曲に必要な要素を全て持っているという点でしょう。
冒頭の絵は、今からお話するある海軍技術士官の姿です。
窓の外には、バルト海の冬の景色が広がっています。
海軍士官の名は友永英夫技術中佐。
遣独潜水艦作戦でドイツから日本にU234で帰国途中、
ドイツの降伏に接し、同行していた庄司源三技術中佐とともに
艦内で自決を遂げました。
三国同盟締結の以前から、日本とドイツの技術交流はありました。
しかし、日独伊防共協定が1940年に日独伊三国同盟に移行、
さらに翌年にはこれが軍事協定になってからは、日本はドイツに視察団を派遣し、
その結果、武器と技術交流を一層深めることを推し進め、
日本が熱望する形でそれは進められました。
ドイツに必要なのは兵器に使う生ゴム、錫、タングステン、キニーネ。
日本は軍需機器とその製造権を主に求め、当初は艦船を利用して交流を行っていました。
しかし、連合軍が優勢に転じ、両国の艦船数が減ってきたため、
その輸送は潜水艦に頼ることしか手段が無くなってきたのです。
これを遣独潜水艦作戦といい、1942年からドイツ降伏の1945年5月まで行われました。
独海軍には大型潜水艦が無かったので、日本海軍が伊潜を使ってその任にあたったのですが、
潜水艦で地球を半周するこの計画は、無謀とも言える危険なもので、
五次にわたって行われたこの作戦ではこの5隻のうち無事に帰国できたのは一隻だけでした。
先日お話ししたMe163型ロケット戦闘機・Me262型ジェット戦闘機のエンジン、
そして設計図を輸送していた呂号501潜水艦は、その戦没によって、
それら日本が切望していた技術と共に、ドイツの潜水学校で学んだ優秀な回航員たち、
そして、何よりも海軍精鋭の四人もの技術士官が失われることになりました。
潜水艦技術士官である友永英夫中佐らが遣独潜水艦に乗り込むことになったときも、
この作戦に生還の見込みがあまりないことを、彼らは覚悟していたでしょう。
伊29でヨーロッパに着いた友永中佐は、八か月の滞欧を経て帰国命令を受けます。
U234の出国を待つ間、乗り組みのドイツ人中尉ヘレンドーンと庄司、
そして友永の日本人二人は、キールの町での時間つぶしをすることになりました。
街の映画館ではロベルト・シューマンの音楽伝記映画
「トロイメライ」が上映されていました。
この映画の音楽の美しさに友永はいたく感動した様子だったということです。
ドイツの士官は音楽に通じた者が多く、戦艦「ティルビッツ」には大砲と共に、
脚を固定されたグランドピアノと箱型ピアノが二台搭載されていたと言いますし、
友永たちの駐留していた兵舎の食堂にもピアノがありました。
ヘレンドーン中尉がそこに積まれていた楽譜の中から「トロイメライ」を
(おそらく先ほど述べた理由で、容易に弾ける曲だから)弾いたところ、
友永は顔をあげ、
「いい曲ですね。私に弾き方を教えてください」
と頼んだのです。
友永中佐は、音符も読めず、勿論ピアノに座ったこともない人間でした。
無理だと言ったにもかかわらず、かれはどうしてもと譲らず、
彼らに日本語を教わっていたヘレンドーン中尉は、
しぶしぶと言った形でレッスンをすることになったのでした。
几帳面なドイツ人らしく、まず彼は友永中佐のために五線紙を作り、
子供にするように鍵盤に紙を張り、弾き方を教えたのです。
すぐに降参するだろうというヘレンドーンの予想に反し、
友永は納得いくまで質問を繰り返し、丸一日ピアノから離れませんでした。
ヘレンドーンは、それをただ見ているだけの庄司中佐と共に
一日中格闘する友永に付き添い、質問を受け、手取り足とり教えながら、
ぎくしゃくしたトロイメライにしばらく耐え続けました。
しかし、彼らの驚いたことに、友永中佐は最終的に
トロイメライを弾きこなすことができたのです。
「こんな美しい曲に出会ったのは初めてです」
そう言いながら、バルト海を望む粉雪のちらつく光景をバックに、
背中を丸め、夢中になって弾き続ける友永の姿を、
ヘレンドーンは今も忘れることができないと戦後語ったそうです。
U234は、Me163型ロケット戦闘機・部分品に分解された
2機のMe262型ジェット戦闘機、ウラニウム鉱石560キロなどを
日本に輸送する予定でした。
帰国する友永、庄司両中佐はこのU234に乗り込みますが、その航路途中、
ヒトラーの自殺、そして日独間の同盟が破棄されたニュースが伝わります。
Uボートの父、デーニッツ司令官は、降伏、停戦指令を発し、
ドイツ人たちはそれに従い武装解除を行いました。
しかし日本はまだ戦闘が継続しています。
武器と重要資料を携えて戻ることを望んだ友永中佐は、
当初日本に自分たちを送り届けることを強く要請しましたが、
結局艦長はそれを拒否しました。
二人の海軍中佐は、自分たちの帰国が叶わないと悟ると、
重要書類を破棄し、遺書をしたため、
ベッドの最上段に二人で横たわったまま、ルミナールを服用しました。
狭いベッドで発見されたとき、抱き合うように横たわる二人は
まだ昏睡状態にありましたが、U234が米艦船の手に落ちる前に、
彼らの遺志を尊重した艦長の判断で、二人は軍医の注射によって命を絶たれ、
海に葬られました。
二人の自決を知ったとき、Uボートの全員に衝撃が走りました。
ドイツの降伏は軍人として無念ではあるが、生きて国に帰ることができる、
これがほとんどの乗員の感慨でした。
艦長が日本に行くという友永中佐の願いを拒否したのも、
上からの命令に反してまで危険な海をくぐる必要はないという
合理的なドイツ人ならではの決断だったと言えましょう。
しかし二人の自決を知ったとき、彼らはまた震えるほどの感動を覚えました。
技術中佐、なかでも潜水艦の専門家であった友永中佐には、
自分の死のついでに連合軍の手に渡らないように
Uボートを破壊してしまうこともその気になればできたはずなのに、
乗組員と同乗者を救い、ただ自分たちだけが死にゆく道を選んだからです。
その死の潔さ、高潔な、しかし誰でもできるわけではない選択。
死を以てまで己の任務に忠実であろうとする日本人に対する
畏敬の念がU234を深く満たしていきました。
しかも、このような死を選んだ彼らが兵科ではなく技術士官であったことも、
彼らドイツ軍人にとってたいへん衝撃的なことであったのだそうです。
その死のわずか二か月前、友永中佐が「トロイメライ」を弾いた、
北ドイツのキール市には、現在Uボート記念碑メモリアルホールがあります。
入り口の記念板には、Uボートで命を絶った
友永英夫、庄司元三両海軍技術中佐の名が刻まれており、
ドイツ海軍による詞によって、その名は永遠に顕彰されています。
ところで、この二つの印象的な、トロイメライにまつわる逸話は、
奇しくも全く同じ時期の出来事であったことに今気付きました。
参考:「深海からの声」Uボート234号と友永英夫海軍技術中佐
富永孝子著 新評論
「ファニア歌いなさい」ファニア・フェヌロン著 徳岡孝夫訳 文藝春秋
白黒映画なのでてっきり1960年代の映画だと思っていたら、1970年度作品。
タイトルの後、いきなり
「この物語は宇垣纏中将とはなんら関係ありません」
とお断りがでます。
最後の特攻、というと宇垣中将を思い浮かべてしまう人が多いのは分かるけど、
何のためにこんなに大書きしなくてはいけなかったのでしょうか。
なにか、関係筋からのクレームでもあったんでしょうか。
それとも「宇垣中将の映画だと思って観に行ったのに、騙された!」
と騒ぐ人に向けての予防策でしょうか。
そんな不穏さを感じさせる波乱の出だしです。
「連合艦隊」のような豪華セットや鳴り物入りの宣伝があったわけでもなさそうなこの映画、
全ての予算をキャスティングにつぎ込むべく、豪華男優陣が登場しています。
どれくらい豪華かというと、当時すでにスター級の俳優が、ほとんどチョイ役扱いされていて、
名前だけ見ると「これ誰?」って俳優があまりいないというくらい。
笠智衆が、宗方大尉の父親役でちょいと顔を出したりしています。
その他、JJサニー千葉こと千葉真一、菅原文太、渡瀬恒彦、梅宮辰夫。
千葉真一なんて、一体どこに出ているのかさえわからないくらいの扱い。
当時売出し中だった渡部篤史は、準々主役といった役どころですが、
ちょうど同時期に「海兵4号生徒」で、はつらつとした兵学校生徒を演じた渡辺が演じるのは、
母親を置いて死ぬことができない「悩める特攻隊員」。
そしてこの映画は、特攻隊の隊長、宗方大尉(鶴田浩二)の姿を通して、
そんな若者に特攻を命じなければならない者の苦悩を描きます。
航空隊に新しく転任してきた矢代中尉(高倉健)は、実は前司令、矢代中将の息子。
特攻に反対しながらも、それだからこそ自らが真っ先に出撃した父矢代中将の遺志を継いで、
自らも特攻隊を志願します。
国のために死することを最初から目的としている矢代中尉の目には、
父が出撃したときの直掩隊隊長でありながら、自身が生きて帰ってきたうえ、
零戦の故障を偽って特攻を免れた吉川二飛曹(渡辺篤史)を庇う宗方大尉のやり方は
全く納得いきません。
宗方大尉は「覚悟ができていない者が行っても失敗するのがオチで、
そんな死に方をして命を粗末にするべきではない」と考えているため、
吉川二飛曹のような隊員の心情を冷徹に看過することが、どうしてもできないのです。
それは宗方大尉が、軍人として死ぬ覚悟ができている一方で、また自分の心の裡にもある
「生への執着」「死への恐怖」を素直に認めているからでもあるのでした。
そんな温情を、若い矢代中尉は「卑怯」として見ることしかできず衝突を繰り返しますが、
吉川二飛曹の零戦に故障が無く、宗方大尉がテスト時に結果を偽って彼を庇っていたことで
二人は殴り合いになります。(画像)
これ・・・・。
理由はどうあれ大尉と中尉が、下士官兵の前で殴り合い。
飛行長が「士官が下士官兵の前で殴り合いをするとは何事か!」って怒っていましたが・・・、
いくら大尉が「かかってこい」と言ったからって、挑発される中尉なんて、いるかしら。
その殴り合いを見ながら
「お前のせいで二人はこんなことになっているんだぞ!」
と吉川二飛曹を叱りつける整備下士官、荒牧上整曹(若山富三郎)。
整備の腕に自信ありで、部下に秘所の病気の手当てをさせるような「牢名主」的オヤジですが、
吉川二飛曹のダメダメぶりはきっと「遊び」を知らないからだ!とばかり、
無理やり酒を飲ませ、女郎屋に引きずって行く「男塾指南」で何とかしてやろうと張り切ります。
しかし、吉川二飛曹が特攻を怖れる全ての原因は、眼の見えない老母に対する愛情ゆえのこと。
脱柵して自殺まで企てた吉川二飛曹ですが、宗方大尉の尽力によって隊に戻ることになり、
謹慎中の空襲の際、事故機を駆って邀撃にあがったものの、自爆戦死します。
この隊に特攻志願して新しく赴任してきた堂本予備少尉(梅宮辰夫)は、
飛行下士官に偶然兄堂本上飛曹(山本麟一)がいることに驚きます。
弟を大学にやるために給料の多い飛行機乗りになった兄。
弟は歴戦の搭乗員で、撃墜王とまで言われた兄が、飛行兵に向かって
「偶数番号は前に!前列は明朝マルハチサンマル特攻出撃!」
と命令するのにショックを受け
「あれじゃまるで品物扱いだ」となじります。
しかし、兄には彼なりの理由があるのです。
「お前が俺の立場だったらどうする?
一人一人の家庭の事情を聞いて、懇々と説得するのか?
お前たちのように大学を出た予備学生と違って、相手は自分の意見さえろくに言えない、
まだはたち前の子供だ。
誰もかれも親にとってはかけがえのない大事な息子だ。
お前はあの中から、何を基準にして選び出すつもりだ?
一人一人の名前を呼んでみろよ。
返事をされてみろよ。
それだけで胸がいっぱいになって、とても命令なんて出来やしねえ!
何時かお前に言ったろう。
戦争に学問や知識は役に立たねえって。
俺は長い軍隊生活で知ったんだ。
命を捨てるか、心を捨てるか、どっちかを選ばなければならねえってことをな」
荒牧上飛曹の達した境地に、言わば宗方大尉は到達し得なかったということでしょうか。
宗方大尉が吉川二飛曹の死をきっかけに和解した矢代中尉の直掩に飛ぶ日がきました。
愈々のとき、銃撃で眼をやられた矢代中尉を、
敵艦に体当たりさせるため誘導する宗方大尉・・・。
ところで、特攻に出撃する何人かが、飛行場の扉を破って乱入してきた家族たちを見て、
はっとするシーンがあります。
これ誰ですか?
左伊吹吾朗、右は菅原文太?
左、街田京介?右は?
冒頭、俳優陣が豪華すぎると書きましたが、このキャスティング、少し、というかかなり不思議。
なんだか、主演の士官たちが落ち着きすぎてるんですよね。
だいたい、二人とも大尉と中尉にしては老け過ぎではないか?
当時、鶴田浩二46歳、高倉健39歳。
本来二人とも佐官の年齢ですよね。
いくらエイジレスが俳優の本領といえども、この年齢で終戦時の大尉中尉、
終戦時は進級が早かったのでせいぜい大尉でも27歳程度の士官を演じるのは、
無理っていうか、不自然な気がするんですが・・・。
まあこれは、当時「男は黙って・・・」で人気絶頂、渋い高倉健と、実際海軍士官であった鶴田の、
「最後の特攻映画」として、無理を(かなり)押して企画されたと考えれば納得いきます。
戦後、海軍軍人であった俳優鶴田浩二に「特攻崩れ」という噂が立ちました。
特攻崩れとは、生きて帰ってきた特攻隊員が、世間の目や、「俺は一回死んだ身」という
デスペレートな価値観から、ともすれば反社会的分子となって世間に白い目で見られたという、
戦争の哀しき忘れ形見のような存在です。
本当に特攻隊員でなかった者が、しばしば己を誇示する為にそう偽るケースも多かったようです。
勿論、鶴田に対して投げかけられたこの言葉が、好意的であるはずはなく、
このことはかれの俳優としてのイメージさえも大きく損なうものとなりました。
実際に整備士官であった鶴田は特攻隊員でもなかったわけですから、
これは映画関係者から生まれたと思しき「ヒール的アオリ」のようなものではなかったかと
今では言われているようですが、
鶴田はこのバッシングと、元特攻隊の生存者たちの抗議に対し一切抗弁せず、
「黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、
日本遺族会にも莫大な寄付金をした。
この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった」
(ウィキペディア)
という話があります。
直掩から帰ってきたその日、終戦を知った宗方大尉は、止める飛行長を振り切って、
たったひとり、最後の特攻へと出撃していきます。
1945年、8月15日の燃えるような最後の太陽に向かって。
全編白黒映画のこのラストシーンだけが、カラーで撮影されているのが印象的です。
あらゆる戦争映画の中に鶴田浩二の姿を見てきましたが、
この映画における演技には、彼自身の見送ってきた特攻隊員への、
身を裂くような哀切の気持ちと、鎮魂がこめられていると思えます。
矢代中尉の突入を見届けた鶴田浩二の目から、ほとばしるように流れる涙を見て、
ただの演技者のそれではないと感じるのは、きっとわたしだけではないでしょう。
石原慎太郎東京都知事が、尖閣諸島を購入すると発表した後、東京都には
「寄付をしたい」
という声が殺到しました。
それを受ける形で東京都は募金の口座を開設したところ、寄せられた金額は驚くべき伸びを見せ、
5月14日に入金が確認できた分だけで
45,089件、合計金額は609、282、032円。
なんと6億円を超えてしまいました。
例の尖閣における中国船衝突事件から、国民の民主党政権に対する、ことに
対中国外交姿勢への不満はいかに膨れ上がっていたか、ということを表わす数字でしょう。
「もうすでに日本は中国の属国だ」とオフレコとはいえ言いきる当時の官房長官、
司法機関に政治判断をさせたことにして、あくまでも自分たちは口を拭って知らん顔の政府。
尖閣の所有者が「国を信用していない」「中国筋からの350億の買収に首を縦に振らなかった」
ということも、国民の多くがこの石原提案に賛同する理由になったと思われます。
東京都の尖閣購入宣言直後、民主党はできもしないのに「国が購入する」というようなことを
一瞬言っていたようですが、なぜ、東京都が言いだしたとたんに慌てるのか。
まあ、「言ってみただけ」であることは、すぐに政府内の「中国シンパ」が、それを押さえたらしく、
今やうんともスンとも言わなくなったことからも明らかですね。
まあ韓国にスワップ5兆円バラまいて、さらに紙くず同然の韓国国債を購入しなきゃいけないので、
お金がないのよね。増税もそのためなのよね。
なにしろ、国が購入したら「土下座外交で民主党は中国に尖閣を差し出しかねない」
という不信すら、今や国民には芽生えているのは確かです。
いまや「民主党」とググれば、「売国」と出てくるらしい民主党は、官房機密費を
バラまいているマスコミ各社に、すぐさま「ネガティブ・キャンペーン」を命じました。(たぶん)
しかし、尖閣を、個人ではなく、自治体が管理して外敵から防衛する。
これのどこに問題があるのか。いや、無い。どこを探しても問題はありません。
そこで、マスコミの取った作戦はこうです。
「都民の税金をそのようなことに使うのはいかがなものか」
「都議会は最大会派が民主党なので、承認がおりるわけが無い」
これを、メディアはストリート・インタビューでこのように言った人の意見を真っ先に流す、
という手法で多数意見のような印象操作をしていました。(よね?)
おそらく、このインタビューはこれまでの手口から類推してこのように行われたのだと思います。
インタビュアー「東京都が尖閣諸島を購入すると表明しましたがどう思われますか」
答えた人「いいんじゃないでしょうか。国が何もしなかったから、当然ですよ」
イ「しかし、税金を勝手に使うことについて反対の声も上がっていますが」
答「都民の税金を使うのは・・・まあ、どうかとも思いますけど・・・」
民放がよくやっているような劇団員のサクラでなければ、実際はこんなところだと思います。
知事の表明を伝えるニュースでさっそくNHKもこの手法を使っていたので、
「これはまた露骨な・・・・」とわたしは鼻で笑っていたのですが、ところがどっこい、
国民はNHKはじめメディアが考えるほど、こんな小賢しい印象操作に誘導されませんでした。
その意志は、募金の金額に見ることができます。
皆がこうやって募金することによって
「都民の税金を使う」という反対意見を封じ、
都議会も「募金した国民の意志」を無視することができなくなってしまうわけです。
もし日本が普通の国なら、募金の総額がもの凄い伸びを見せた後、メディアはこぞって
トップニュースにしたうえで、さらに募金の振込先口座を報道し、ミュージシャンはチャリティを行い、
企業家はこぞって宣伝も兼ねた寄付を行ってさらに運動は盛り上がったでしょう。
ところがこの国のマスゴミは、これを全く黙殺し続けています。
何故かというと、彼らが「中国の顔色をうかがう団体、民主党、経団連、左派団体」
の意を受けた報道機関であり、かつ彼らそのものが中国に「報道協定」という名の脅迫を
常に受けている立場であるからです。
(知らない方のために書いておくと、中国共産党の不利になる報道があった場合、
中国国内の日本の報道関係はその後国外退去させるというものです)
都の定例記者会見で、石原都知事は
「ありがたい。日本人もまだまだすてたもんじゃないと思った」
と語っているのですが、記者の質問タイムになり、相手が「朝日新聞の何某ですが・・・」
そのとたん、石原知事、相手に質問させず、
知事「朝日か。朝日は尖閣購入反対なんだよな」
記者「・・・・・・・・」
知事「なんでだ?」
記者「・・・・・・・・」(涙目)
というやり取りになったのには笑えました。
この日の記者会見ではもう一社、
「おたくも反対なんだよな」
と決めつけられていた社があったようですが、因みにメディアでは現在のところ
産経新聞 読売新聞社説、夕刊フジ、朝日新聞天声人語、東海新報、
八重山毎日、関西テレビ、サンケイスポーツ、関西テレビ
が、賛成、反対は、
朝日新聞、毎日新聞、中日新聞、日本経済新聞 読売新聞、信濃毎日新聞、
琉球新報、北海道新聞、茨城新聞、福井新聞、東京新聞、沖縄タイムス、宮崎日日、
神戸新聞、佐賀新聞、中日新聞、新潟日報、フジTV、NHK、テレビ朝日
となっています。少し抜粋すると
琉球新報・・・・わざわざ中国や台湾を挑発し、沖縄の頭越しに外交問題を引き起こすことは
横暴かつ無責任である
福井新聞・・・・なぜ東京都が税金を使って遠く離れた島を買わなければならないのか
外交は政府の専権事項である
宮崎日日・・・・福井新聞とまったく(文章テンプレが)同じ。全て共同通信からの配信と見られる
中国新聞・・・・新党結成に向けたパフォーマンスである
確たる対中戦略を練り直す時期である。その手を尽くさない限り尖閣の国有化は意味が無い
挑発って・・・・・そもそも領土問題は存在していないんでしょ?
ただの所有権移転ですが・・・。
あれ?悪名高い朝日新聞天声人語は、賛成?
朝日新聞自体は都知事の言うように反対なんですが、何が起こったのでしょう?
・・・単に、バランスとるための「ガス抜き」だと思ったわたしは、心が歪んでいるでしょうか。
寄付受付前は「税金の無駄遣い」という論調だったのが、6億集まった今後、これが
「震災の復興もまだ進まないのに、もっと有効なことに使うべきだ」になる、に10人民元。
ところで冒頭画像ですが、できればこういう方にこういうびしっ!と言っていただきたい。
という、あくまで、単なるジョークですので、深く考えないでね。
しかしちょっとだけ深く考えると、ロシアとの間にもそう言えば北方領土問題があるんですよね。
この人と渡り合える人物が今の政府に・・・・いるわけないか。
皆さん、洗濯はお好きですか?
好きも嫌いも、洗濯ものをぽいっと洗剤と共に放り込んだら、後は皆洗濯機がやってくれるので、
歯磨きのようにルーチンとして何も考えずにやってるよ、という方がほとんどでしょうか。
わたしもその一人ですが、それなりのこだわりもあって、
「新聞の勧誘が配るようなア●ックやア●エールなどの合成洗剤は断じて使わない」
「EM発酵物質でできた洗剤の働きをするモノ(マザータッチ)を使う」
というもの。
環境に優しいマザータッチは部屋干ししても決して臭ったりしませんが、
襟袖の汚れが取れませんので、予備洗いが必要です。
そして無臭なので、時々ファブリックミストを入れて、かすかな香りを楽しみます。
こだわっているといっても、家事のうちに入らないほどお手軽。
本当に良い時代になったものです。
電気洗濯機が日本で販売されたのは1930年のことです。
一般家庭向きに製品化されるのが戦後1953年(昭和28年)のことですから、
一台あたりの値段が高かったとはいえ、さすが最新先取の海軍、洗濯機搭載のフネもありました。
戦艦、巡洋艦(妙高型、高雄型、最上型、利根型)航空母艦、水上機母艦(千歳型)、
潜水母艦(韓崎、駒橋除く)特務艦間宮
こうしてみると結構な数のフネが洗濯機を乗せていたようですが、
全体の数から言うとごくごく少数派。
ほとんどの日本の主婦がそうであったように皆洗濯は手で行っていたのです。
映画「ああ江田島海軍兵学校」には、兵学校の洗濯シーンが挿入されています。
もちろん冬でもお湯など出ませんから、水道の蛇口の下にオスタップ(wash tub=洗濯桶)
を置いて手でごしごしやって、手で絞って広げて干すわけです。
干す時はしっかりパンパン叩いて皺を伸ばして干すと、乾く頃にはアイロンをかけたように
ピンと伸びています。今も昔もこれは同じ。
アメリカに住んでいると、どこの乾燥機も馬鹿でかいので仕上がりが良いのですが、
日本の乾燥機はどうしても丸まってシワっぽくなってしまうので、わたしは、ほとんどのものは
家事コーナーに部屋干しして、タオルなどふわっとさせたいものだけ、8分くらい乾いたところで
乾燥機にシートと共に放り込んで、仕上げます。
わたしの洗濯はともかく、今日は、洗濯機のないフネの洗濯についてお話しましょう。
フネの規模によっても違ったのかもしれませんが、洗濯日は週に二回。
大型艦では火曜と金曜は洗濯日、と決まっていました。
明日は洗濯、という前の日には全員下着から靴下にいたるまで取り換えて待機。
その朝には当直員が食事の前に洗濯ラインを張っておきます。
フネでは水は貴重品。
洗濯用の水を配給によって受け取るのですが、一人あて二升(約3.6リットル)が割り当て。
しかし、きっちり一人一人が二升ずつもらってくるのではなく、
二升かける分隊の総員数を、隊で手分けして持ち帰り、皆で仲良く使用します。
「水配給!」の号令一下、各分隊食卓番の若年兵が、水配給所までオスタップをかかえて走り、
分隊ごとに決められた露天甲板に運びます。
オスタップは亜鉛製で、高さ40センチくらい、円筒形で、入れ子にして収納できるように、
大(60センチ)中(50センチ)小(40センチ)の三種類がワンセットになっています。
木でできたオスタップもありました。
フネの中で使用される水飲料水は真水ですが、洗濯に使う雑用水は海水を蒸留して作ります。
雑用と言えども無駄にできるものではありません。
こぼさないように細心の注意を払って洗濯場所に運びます。
洗濯板の上に洗濯ものを重ねて乗せ、揉み洗いで水を極力使わずに洗います。
洗濯板の支給されない艦は、甲板が直接洗濯板。
手でこすったり、足で踏んだりして洗い、オスタップですすぎをします。
これも、下士官からで、古参兵、兵の順番はきっちり守られます。
「新三」にたどり着く頃には、すすぎに使うには少し・・・、という状態になっていたそうです。
南洋を航海するフネは、遠くに雨雲を発見すると「雨雲ようそろ」でそちらに向かって舵を切り、
シャワーと洗濯をしたそうです。
このように、なかなか希望通りに洗濯ができるものではないフネの上では、
水を盗んででも洗濯をしたーい!と渇望する潔癖症や綺麗好きが、時には事件を起こしました。
ある艦の食器消毒室の水タンクが毎晩盗まれていることが発覚しました。
バルブを、まるで「あしたのジョー」の白木葉子さんのように、針金で厳重に縛ってみましたが、
減量でへなへなになっている力石徹と違い、元気一杯で水のためなら何のそのの犯人、
たちどころに針金を切ってしまいます。
消毒用ですから、水の種類としては上等のもの。貴重な貴重な水です。
「許さ~ん!医務科の科学捜査力を駆使して犯人捕まえちゃる!」
このタンクの所管は軍医長です。
その日の朝、甲板士官と医務科下士官によってこっそりタンクに仕込まれたのは着色剤。
よくはわかりませんが、おそらく石鹸のアルカリ性と反応して赤くなるものでも入れたのでしょうか。
(リトマス試験紙はアルカリが青、でしたよね?・・・うーん、何だったんだろ)
たちまちホシは挙がりました。
倉庫のロッカー裏の物陰に、赤い下着、赤い手ぬぐい、赤い褌に赤い靴下が、
恥ずかしさに赤面するかの如く干されていたということです。
そして犯人の二水がこの後どのようなお仕置きを受けたのか、それは語る者さえなく・・・。
(合掌)
井上成美大将の比叡艦長時代、従兵がバスタブで洗濯をして、という話をしたことがありますが、
このクラスの偉い人は勿論士官には従兵が付き、洗濯、繕いもの、被服の手入れ一般、
皆やってくれます。
しかし、いくらそれが仕事とはいえ、士官将官は褌まで従兵に洗わせていたのだろうか?
かねがね、気になって仕方がなかったこの一点について書かれた記述を見つけました。
どんがめ乗りの潜水艦勤務について書かれた本で、これによると
「士官は普通は褌は使い捨てだが、ここではそんなことをする士官はいない」
つまり、潜水艦という、フネの中でも身分の上下に差のないアットホームな運命共同体では、
士官も使い捨てにできない褌を始め、洗濯を自分でするのだということなのですが、
そうかー、使い捨てだったのか。
三四三空の菅野大尉が、ここぞという出撃には皆新しい下着で臨むのに、
「また帰ってくるからな」
と言って、本当か嘘かチェンジ無しで出撃していた、という話もありましたが、
何日か着用、洗濯せずにポイ、というのが士官次室士官以上の褌事情だったようです。
下着は他人に洗わせるな、というのが昔の日本人の嗜みというものでしたから、
これを読んでほっと胸をなでおろした次第です。
さて、ドライクリーニングとはご存じのように油で以て油を制す方法、
つまり水では落ちない油汚れを油で落とすクリーニング法です。
これをなんと、当時ガソリンでやっちまっていた部門があります。
整備科です。
余りのガソリンをチンケース(ガソリンタンクを半分に切ったもの)に入れて、
油だらけの作業着を入れ、ちょいちょいと棒でつついて、クリーニング終了。
こんなことにその一滴は血の一滴とまで言われた貴重なガソリンを使っていいものか?
しかし、彼らはそれをよくよく知りつつも「皆でやればこわくない」とばかり、
若干の後ろめたさを感じながらもついついやってしまっていたそうです。
そういえば搭乗員の着る飛行つなぎ、あれも相当ごわごわして、手洗い洗濯が大変そうですが、
一部の噂によると、搭乗員の皆さんは「やたらガソリン臭かった」とのこと。
もしかしたら「ドライクリーニング」してたのかしら、と勘ぐってみましたが、
まさか飛行機乗りがそんなガソリンの使い方をするわけありませんよね。
それに、ドライクリーニングは水溶性の汚れ(汗とか)は落とせないんですよ。
エリス中尉愛用のマザータッチならどちらもある程度落とせますけど。
ご参考までに。
先日「パールハーバー 世界の感想から」という、「パールハーバーシリーズ」をアップしましたが、
これはその前回に予告したところの「最終回」ではありません。
本日が正真正銘の最終回。
確認したかったのは、映画「チーム・アメリカ」が「パール・ハーバー」をどのようにディスって
(これは、disapproveで解釈お願いします)いるかということ。
巨額の製作費を投じて「ハリウッド・ガベージ」を作り上げたマイケル・ベイ、ジェリー・ブラッカイマー、
そしてディズニーエンターテインメント。
彼らへの後世の評価は決して芳しいものではありませんが、取りあえず、
かけた総製作費に比例するポップコーンの総収益くらいは元を取った模様です。
しかしながら、世界は広い。そしてアメリカはもっと広い。
必ず大々的にこの駄作ぶりを糾弾し、あるいは皮肉る媒体が在るはず。
アメリカ人は大半が馬鹿ですが、馬鹿でない人と、優秀な人のレベルは突き抜けています。
どこかの国のように国民全体が一つのものを支持するというようなことは、かつて湾岸戦争に
派兵を決めた瞬間のパパ・ブッシュへの支持率(確か95パーセントだったかと)以外には
あまりありえないことなのです。
同じアメリカ人であればこそのキツーい批判をパロディでかましてくれる
心あるアメリカ人が必ずいるはず。お願いだからいてくれ。
そんな思いで探したところ、この映画を見つけました。
「チーム・アメリカ ワールドポリス」
冒頭画像でお分かりのように、サンダーバードのような人形劇。
チーム・アメリカとは、世界の警察気取りな単なる私設警察のグループ名です。
ここが彼らの秘密基地。
テロリストがあらわれたという情報があればそこに馳せ参じ、悪者をやっつけるためには
手段を選びません。
歴史的建造物をも破壊しつくします。
この、周りが全く見えていない独善的な「世界の警察」を名乗る団体、その名が
「チーム・アメリカ」であるということ自体が、とんでもないアメリカへの皮肉となっています。
製作者の言によると
「自分たちが世界中から愛されていると信じ込んでいる」
彼らはアメリカ人の論理で地球を守ろうとするのです。
たとえそれが世界中から嫌われるやり方であっても・・・。
テロのせん滅のためには手段を選ばずどこにでもしゃしゃり出る、このチーム・アメリカ、
当然のことながら、彼らを強く非難し、糾弾する団体が・・・・
あれー?「パール・ハーバー」のドゥーリトル准将じゃないですか!
俳優協会の会長であるアレック・ボールドウィン。
俳優の代表として、チーム・アメリカへの抗議を表明します。
F・A・Gとは俳優協会のことのようですが、どうやら別の意味もある模様。
皆でイラクをテロリストせん滅のために破壊しつくしたチーム・アメリカへの非難をしています。
ちょっと・・・・これって・・・・(笑)
マット・デイモンだけがひらがななのは、え~・・・・・。
物語は、この「やたら政治発言をしたがる俳優たち」とチーム・アメリカとの戦いに、
ある意味、主人公とも言えるこの人物が加わり、俳優たちを味方につけることによって、
よりカオス化します。
実物よりかなりキュートでハンサムな金正日。
世界征服の野望を持ち、自国に世界のVIPを招待してそこで爆弾を仕掛け、各地に
911の235倍のテロを仕掛けることを企んでいます。
片やチーム・アメリカでは、俳優協会に対抗するため、「Everyone has AIDS」という
ヘンな曲を持ち歌にしている俳優のゲイリーをスカウトしてきますが、
「いやなら帰っていい」
と言うなり、本当にゲイリーは帰ってしまいます。
考えを変えてもどって来たゲイリー、実は金髪のリサに惹かれていたためでした。
ゲイリーには兄を失った悲しい過去がありました。
この告白に胸を打たれたリサはゲイリーと激しく愛し合います。(R-18)
片や、独裁者金正日。
誰も自分の気持ちなど分かってくれない、と孤独な気持ちをバラードで歌いあげます。
製作者にとって、彼は「バックス・バニー」のような漫画的なキャラクターで、
実在の人物を、腹を立てながらも愛さずにはいられない悪役に仕立てました。
さて、それではいよいよこの映画のハイライト、主人公ゲイリーが、一度リサの元を去り、
歌うバラード「Pearl Harbor is sucked」をご紹介しましょう。
英語原文と日本語訳を全文掲載します。
I miss you more than Micheal Bay miss the mark
When he made Pearl Harbor
I miss you more than that movie missed the point
And that's, an awful lot,girl
And now
Now you're gone away
And all I'm trying to say is Pearl Harbor is sucked
And I miss you
I need you like Ben Afflek needs acting school
He was terrible in that film
I need you like Cuba gooding Jr. needed a bigger part
He's way better than Ben Afflek and now
All I can think about is your smile
And that shitty movie too
Pearl Harbor sucked
And I miss you
Why Micheal Bay get to keep on making movies?
I gess Pearl Harbor sucked
Just little bit more than I miss you
訳:
君がいなくてさみしい
マイケル・ベイがパール・ハーバーをやりそこなったよりずっと
君がいなくて辛い あの映画の失敗よりずっと
酷いもんだったさ、あれは
君は去っていった
言わせてもらうけどパール・ハーバーはクソだってこと
それと君が恋しい
君が必要なんだ ベン・アフレックに俳優学校が必要なように
あいつはあの映画で酷かったから
君が必要なんだ キューバ・グッディング・Jr.にはもっと大役が必要だったように
彼はベンアフレックよりずっとましだった そして今
君の微笑みを思うとあのクソ映画のことも思い出す
パール・ハーバーはクソだ
そして君が恋しい
なぜマイケル・ベイは映画を取り続けていられる?
パール・ハーバーはクソだ
君を失った僕と比べてもさらに少しクソだ
映画の字幕は曲訳っぽい部分が多かったので、自分で翻訳してみました。
キューバ・グッディング・Jr.は、ウェストバージニアの皿洗いで、黒人で初めて勲章をもらった
ドリス・ミラーを演じた俳優です。
この映画は、製作者に言わせると「ジェリー・ブラッカイマー映画の人形版」
なんだそうです。
当初、下地を「アルマゲドン」にしようという計画もあったのだとか。その理由は
「本人は気づいていないが、あれはコメディだ」
独善的なアメリカの描き方(アルマゲドンしかり、パールハーバーしかり)、
やたら派手な爆発シーン、
深みが無く、意味もなくいきなり激しく愛し合う男女の恋愛模様、
こうしたブラッカイマー作品への風刺と共に、世界の警察を気取るアメリカという国家、
(この映画のタイトルをもう一度思い出して下さい)、そして、
小賢しく政治や何かに口を出したがる、インテリぶった俳優たち。
彼らの嫌うものがこの映画ではコテンパンに描かれています。
せっかくなので、ストーリーの続きを少し。
金正日の思い描く「世界各地のテロ」の様子。
日本の屋台やハリウッドを爆破して、一体どうしようと言うのか・・・・・。
チーム・アメリカの本拠地は、左派監督のマイケルムーアの自爆によって破壊されます。
ゲイリーが基地に戻るとそこにはリーダーのスポッツウッドがいて、
「仲間に戻りたいなら言うことをきくのだ」とあることを要求します。(R-18)
一方、世界の元首の元に、金正日からの招待状が届きます。
天皇陛下ご夫妻については何も申し上げません。
しかし、右の方は、プロイセン王国のウィルヘルム二世?
国旗が・・・・
このあえて無茶苦茶な考証の数々。
これも、またパール・ハーバーなどに顕著だったなあ、とふと思い出してみる。
北朝鮮の金正日のパレスで(中華風)は、国家元首が集まり、まずはエンターテインメント。
やっぱりこいつら、中国と朝鮮の違いがわかっとらん。
ああ、そう言えばパールハーバーでも(略)
製作者たちは「資料を読んでもわからなかったので想像で作った」と・・・。
素直にそう言えばいいのよね、パールハーバーも。
そして、チーム・アメリカと、警備の俳優たちの間に銃撃戦が・・・。
そもそもなぜ人形劇にしたかという理由と言うのが
「俳優が大っきらいだからさ」
「俳優と言うのは一人の例外もなく自分を特別だと思っている。
世の中に俳優ほど勝手な連中はいないね。
どいつもこいつも大っきらいだ。だから使わない」
同じ製作者による「サウス・パーク」もこの映画と同様
「セレブリティをコケにする映画」という目的で作られました。
「人形にすれば殺せるだろ」
そして、シリアスな物語をリアルな感情表現で作るというのも
「人形だから 無理」
ということで放棄。
この人形の頭部にはICが埋め込んであり、口の動きや瞬きもコンピューター制御、
全てにとてつもない職人芸の極を注ぎこんであるのですが、それについては
「ここまで来ると怖いね。アホな脚本なのに」
そして、製作総指揮を「マトリックス」の撮影監督ビル・ポープに依頼することになり、
脚本企画のマット・ストーンとトレイ・パーカーは
「人形劇だよ」「経歴に傷がつくよ」と一応確かめたら(笑)ポープは
「構わない」
と引き受けてしまったそうです。
そして、その驚くべき一流のこだわりで、一切CGを使わない人形のアクションを作りあげました。
ところでこんなシーンがあります。
チームのメンバーが俳優であるゲイリーを嫌う理由を告白するシーン。
(恥ずかしくて訳せません…自己責任でどうぞ)
小さいときにキャッツを観に行ったときの体験が、彼を俳優嫌いにしたのです。
ポープは戦いの合間に登場人物が心情を打ち明け合うこういうシーンについて
「アクション映画の王道だ。しかしどのアクション映画にもばかげた部分はある。
その馬鹿馬鹿しさを過激な手段で指摘しているんだ」と語っています。
金正日のペットの黒ヒョウに襲われるチーム・アメリカ。
なんだか、牙、猫にしては長くないですか?・・・・・・一切CGを使ってないってことは・・・・
付けた?どうやって?
さて、このお馬鹿な映画のストーリーについては、興味を持った方が観るときのために、
これ以上説明するのはやめておきます。
(単に面倒になっただけとも言われている)
それにしてもマットとトレイが、これだけブラッカイマー映画を揶揄しておいて、
「アクション映画は、本当に大変だった。
おちょくってみて、ブラッカイマーの実力がわかったよ」
と、実にアメリカ人らしいコメントで抜け道を作っているのが笑えます。
劇場用予告編のテロップは、
「アレック・ボールドウィン!ショーン・ペン!ティム・ロビンス!ジョージ・クルーニー!
リブ・タイラー!スーザン・サランドン!マーティン・シーン!ジャニーヌ・ガードファルド!
マイケル・ムーア!ジョージ・W・ブッシュ!ジョン・ケリー!そしてキム・ジョンイル!
・・・は、全員これを観たら怒り狂うであろう!」
少し観てみたくなったあなた、御覧になるときはくれぐれもお子さんのいない時間にね。
R-18で残酷シーンその他、満載ですから。
それにしても「パール・ハーバー」を観なかったら、この映画もおそらく一生観なかったわけですが、
(まあ、観なくても何の支障もありませんが)また一つあらためて実感したのは、
ああいう映画は勿論、こういうものを生み出すのも、またアメリカ人、
やっぱりアメリカって底しれない国だ、ってこと。
全身全霊の真剣勝負で馬鹿をやる。
内容はともかく、わたしはこの製作者たちに、ブラッカイマー&ベイの235倍好感を持ちました。
そして、ベン・アフレック(パール・ハーバーのレイフ役)は本当に演技が下手だったんだ、
ということもあらためて確認しました。
それでは、俳優協会の会議のシーン、映画ではカットされたベン・アフレックの登場シーンを
「パールハーバー」を語るシリーズのエンディングに採用させていただいて、
このシリーズを終わります。
長い間お付き合いありがとうございました。