ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

USS「フライアー」とサバイバル個人衛生携行品〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-31 | 博物館・資料館・テーマパーク

USS「シルバーサイズ」潜水艦博物館シリーズの最初の頃、
「シルバーサイズ」と同期で災難に遭ったアメリカ潜水艦について、
入り口に展示されていたいくつかの写真や物から紹介したのですが、
全ての展示を紹介し終わったと思ったら、そのうちまだ
USS「フライアー」の遭難に関する展示物が残っていたのに気がつきました。

今日は前回のおさらいをしつつそれを紹介します。



まずこのパネルを思い出してください。

1944年8月13日日曜日の午後10時近く、曇天の暗い空。
西に稲妻が点滅しました。

USS「フライアー」は、フィリピンのバラバク海峡に向かって
南南西に17ノットの速度で航行しています。

潜水艦は目立たないように静かに航走を行います。
暖かく、穏やかなうねりがデッキ全体を洗い流していきます。

9人の乗員がスピードを上げる潜水艦のブリッジと見張り台に立っています。

彼らが目標とするのは、南シナ海における日本の護送船団です。
海面を航走しながら「フライアー」は「絶好調」でした。
(makes good time.)

夜間でも発見されるリスクはあるので、さらなる見張りが
敵の哨戒に備えて海と空をどちらも警戒するのです。

このあと、「フライアー」はバラバク海峡を浮上して航行中、
日本軍の機雷に触雷して2〜30秒ほどで沈没しました。



ここで、「エターナル・パトロール」(永遠に哨戒中)
という、戦没潜水艦を記録するHPから、
「フライア」の記述を書き出してみます。

ジョン・D・クロウリー(CDR John D. Crowley)率いる「フライア」は、
1944年8月2日に西オーストラリア州フリーマントルを出発し、
第2次哨戒活動を行った。

ロンボク海峡、マカッサル海峡、セレベス海、シブツ航路、
スールー海を経由して、フランス領インドシナ、
サイゴンの東に位置する地点に向かう予定であった。

8月13日の夕方までにスールー海を抜け、
パラワン島の南にあるバラルバック海峡を通過していた
2200、災難が襲った。

突然、右舷前方で起こったと思われる大爆発がボートを揺るがしたのだ。

ブリッジにいた数人が負傷し、司令官はブリッジの後部に投げ出されたが、
しばらくして正気を取り戻した。

油と水と瓦礫がブリッジに溢れかえっている。
燃料の強烈な臭いがし、コニングタワーのハッチから
ものすごい勢いで空気が抜け、下からは浸水音と男たちの悲鳴が聞こえた。

副長のリデル中尉は、CDRクロウリーと話すためにハッチの下に降りたが、
ハッチから逆流する水に吹き飛ばされた。
そして彼の後ろからは男たちが流れ出してきた。

20秒か30秒の間に、フライアはまだ15ノットで航行しながら沈没した。
司令官は、爆発は機雷との接触によるものと判断した。

生存者の証言によると、沈没後、以下の人物が水中で目撃された。

Crowley, J. D., CDR;
Liddell, J. W., Jr., LT;
Jacobson, A. E., ENS;
Howell, A. G., CRT;
Tremaine, D. P., FCR2c;
Miller, W. B., MoMM3c;
Russo, J. D, QM3c;
Baumgart, E. R., MoMM3c;
Knapp, P., LT;
Casey, J. E., LT;
Reynolds, W. L., LT(jg);
Mayer, P. S., ENS;
Hudson, E. W., CMoMM;
Pope, C. D., CGM;
Madeo, G. F., F2c;

レイノルズ中尉はハドソンと同様に負傷し、
生存者全員が集まるようにとの指示があったとき、
彼らとポープは再び姿を現さなかった。

マイヤー少尉はハウエルに助けられたが、
20分ほどで意識を失い、放棄せざるを得なかった。

燃料油の臭いが立ち込める暗闇の海で立ち泳ぎをしながら、
艦長は点呼を取り生存者を集めました。
その結果、艦橋にいたクローリー艦長以下14名が生き残り、
その他72名の士官と兵員は、艦と運命を共にしたことがわかりました。

沈没地点は陸地からわずか3マイルでしたが、空が暗く曇っていたため、
艦長は明るくなるまでその場で立ち泳ぎをすることを命令しました。



「この間、ケイシー中尉は油で目をやられ、何も見えなくなっていた。
4時頃、彼は疲れ果て、他の隊員は彼を置いて去らざるを得なくなった。

クローリー中佐は、最速で泳ぐことが唯一の希望であることを悟り、
全員に対して、見えてきた陸地に向かって最善を尽くすように指示した。
マデオは遅れをとり始め、5時過ぎには見えなくなった。」

その後何人かが脱落していき、海岸にたどり着いたのは艦長以下8名でした。

その後、生存者たちは、たどり着いた島での壮絶なサバイバルの末、
現地にいたフィリピン人ゲリラと接触し、なんとか生還を果たしました。

その「何とか生還」するまでの過程を記した展示が今回見つかりましたので、
その壮絶なサバイバルを書き残しておきます。



パラワン島の地図に記された矢印は、「フライア」の生存者の辿った
生還までの道筋の様です。



8月13日(日)
USS「フライアー」、バラバク海峡近くに仕掛けられた
日本の機雷に触雷し、午後10時過ぎ沈没。

8月14日(月)
8名の生存者、マンタングル島まで15マイルを17時間半で泳ぐ。

8月15日(火)
生存者は再編成し、島を偵察したが、食べ物も水も見つからず、
しかたなく東側にある未知の島に向かうことを決定。

8月16日(水)
全員で筏を作り、ビヤン島に向かう。
まだこの時点で食糧は全く見つかっていない。

8月17日(木)
飢えと渇きに苛まれた男たちはビヤン島でも何も得ず、
隣のガブン島に移動、ここも無人島であった。
そこでガブン隣のバグスク島に建物があるのを認める。

8月18日(金)
バグスク島に筏で漕ぎ着ける。
ここで廃村になっている集落に滞在した。

8月19日(土)
バグスク島の見張りが午前8時「フライアー」生存者グループを発見。
彼はジャングルの隠れ家に一向を案内し、
生存者たちは数日ぶりに食べ物にありつく。

8月20日(日曜日)
今日で遭難してからちょうど一週間め。
ゲリラたちは生存者たちにバグスク川まで案内し、
ボートを用意してくれると言うSula La Hudという人物に会わせてくれる。

その日の4時、メンバーはボートで出発する。

8月21日(月)
スーラ・ラ・ハッド、ニックネーム「セイラー」という男は、
彼らに同行し、パラワン島にあるケープ・ブリルヤンという
ゲリラ前哨基地に向けて暗礁の海を航行してくれた。

午前3時30分到着し、その日の午後遅く、ブルックのPtに向かう。


8月22日(火)
リオ・チューバに一晩滞在。



8月23日(水)
男たちはブルックのPtに午前8時ごろ到着。
ゲリラたちは安全のために「フライアー」乗員を山の隠れ家に移動させる。


おそらくゲリラの基地

アーサー・ハウエル(電気技師?)が沿岸警備の無線機を修理した。
その夜、軍曹はマッカーサー元帥の米陸軍司令部に、
フライヤーの沈没と生存者について無線で報告する。

8月24日(木)
ブリスベーンにいたマッカーサーの米陸軍司令部が無線に答える。
陸軍司令部はこれを海軍の第7艦隊に転送する。

8月26日(土)
マッカーサーの米陸軍司令部、ブルックスのPtに返信し、
海軍第7艦隊司令部から届けられた救助計画を指示。
内容は、生存者は米海軍潜水艦の救助に答える通信を待てとのこと。

8月27日(日)
「フライアー」グループ、アメリカ潜水艦とのランデブーをアレンジ。
沈没してから今日で二週間め。

8月28日(月)
夕刻、「フライアー」の艦長クロウリーが無線で
協議した救済計画についてマッカーサーの陸軍司令部に打電。
それは第7艦隊司令部に送信される。

8月29日(火)
深夜1時、司令官クロウリーはレスキュープランを受け取る。
USS「レッドフィン」が翌日夜ピックアップに来るとのこと。

8月30日(水)
夕刻、「レッドフィン」と生存者たちは、近海にいる
小さな日本の船舶の周りを避けながら慎重に連絡をとった。


8月31日(木)
「フライアー」の生存者はUSS「レッドフィン」に移乗成功。
オーストラリアへの出発を準備する。



USS「レッドフィン」(SS-272)に収容された生存者8名のうち7名

前列左より

ジェームズ・ルッソ
ウェズリー・ミラー
アール・バウムガート
アーサー・ハウエル


後列左より

ジム・リデル大尉
ジョン・クロウリー艦長
アル・ジェイコブソン少尉


撮影者 ドン・トレメイン


1994年の生存者同窓会

左より
アル・ジェイコブソン少尉
ジム・リデル大尉
ジョン・クロウリー艦長
ウェズリー・ミラー
ジム・ルッソ


後のメンバーは会に参加できなかっただけで、
当時は全員まだご存命だったそうです。

さすが強運の生存者。



ここでアメリカ軍の戦闘食が展示されていました。

「パーシャルディナーユニット メニューNo.4」には、

缶入りミート か、チーズ
缶入りデザート
が、カートンに混入されている缶のなかに見つかるでしょう


という、直訳すればなんだかふざけてるような説明付きです。

もちろん「フライアー」の乗員はこんなものを持ち出す間も無く
ボートは沈んでしまったので、苦労したんですけどね。

これもカートンに「混入」していたのかな?

ネスカフェのインスタントコーヒー、
グラニュー糖
ブイヨンパウダー(お湯に溶かすとスープの出来上がり)
クラッカー
スペアミントガム1枚
チャームス(キャンディ)
キャメル(タバコ多分5本くらい)
V.D(タバコ用マッチ)

コンビーフ・ハッシュの缶




ポークランチョンミート、「スパム」です。

ホーメル・フーズ・コーポレーションが製造する調理済み豚肉缶詰で、
1937年に発売され、第二次世界大戦中の使用により人気になりました。

もともと、あまり売れなかった豚肩ロースを売るために開発されたもので、
「SPAM」の意味は、社外秘となっており、
世間では「スパイスの効いたハム」の縮約形とか、
「Shoulder of Pork And Ham」の頭字語と推測されています。

第二次世界大戦中、前線に新鮮な肉を届けることが困難であったため、
スパムはアメリカ兵の食事の一部として流通するようになります。

あくまでも代用食という位置付けだったせいで、兵士からは

「健康診断に合格しなかったハム」
「基礎訓練のないミートローフ」
「特別軍の肉」


などと呼ばれていたようです。

スパムが世界に広がったのも戦争がきっかけでした。
戦争とそれに続く占領下で、グアム、ハワイ、沖縄、フィリピン、
および太平洋の他の島々に導入され、すぐに先住民の食生活に吸収され、
ある意味アメリカの影響力の歴史と影響を示す存在ともなったのでした。

イギリスでは第二次世界大戦の配給とレンドリース法の結果として、
これが国民の口に入ることになり、マーガレット・サッチャーは
後にそれを「戦時中の珍味」と呼んだとか。

また、スパムは第二次世界大戦中の連合国であった
ソビエト連邦への援助の一環として送られていました。

ニキータ・フルシチョフは回想録『フルシチョフの記憶』の中で、
「スパムがなければ、我々の軍隊を養うことはできなかっただろう」
と述べています。

戦争中、紛争で荒廃し、厳しい食糧配給に直面した国々は、
スパムを高く評価するようになりました。

かつてはアメリカ領であった沖縄では、卵と一緒におにぎりに入れたり、
沖縄の伝統料理であるチャンプルーに主食として使われたり、
現在でも地元のファーストフードチェーンのジェフでは
スパム・バーガーが販売されているのだとか。

ただまあ・・・あくまでも「非常食」「代用食」的商品なので、
日本で特に最近これを食べる人はあまり多くない気がします。

話が長くなりましたが、スパムの近くにあるのはキャラメルです。



「Personal Hygiene Items」

ウォルドルフ・トイレットペーパー・パケット
包装には、
「MADE FOR THE U.S. ARMY
BY THE MAKER OF The Waldorf A Scott Tissue」
「REG. U.S. PAT OFF」
「SCOTT PAPER CO, CHESTER, PA」

”U.S. PAT OFF."、"SCOTT PAPER CO., CHESTER, PA. "


と印刷されています。

このトイレットペーパーは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、
兵士に毎日配られたものです。

パーソナル・ハイジーンとは、文字通り「個人衛生」で、
兵士個人の健康を維持することを目的とした一連の習慣のことです。

効果的な個人衛生を維持するために、各兵士は、
現場や配備で使用する個人衛生用品を備蓄しておかなければなりません。

トイレットペーパーはもちろんですが、現代のアメリカ陸軍の規則では、

除菌ワイプ
シャンプー
シェービングキット
石鹸
日焼け止めローション
トイレットペーパー
歯ブラシ
歯磨き粉
タオル
ウォッシュクロス
吸水性ボディパウダー
アルコール系ハンドサニタイザー
制汗剤/デオドラント
くし
デンタルフロス
DepartmentofDefense-approvedinsectrepellent
(国防総省認可の防虫剤)
点眼薬
女性用衛生用品
フットパウダー
ヘアブラシ
リップバーム
処方薬(例:避妊薬、血圧計、その他)


などの携帯用品は軍から支給されます。
ちなみに写真の後ろに見えている煉瓦の様なものは
当時アメリカ陸軍から支給されていた石けんなのだそうです。

ところで、個人衛生の中でも、特に重要なのが排泄。
アメリカ陸軍では、

「衛生とは、下水や排水などの固形廃棄物や
不健康な人間の排泄物を適切かつ衛生的に処分・処理することである」

と定義しています。

そして、
「現場で発生する廃棄物を適切に管理することは、
兵士の健康や環境を守るために非常に重要である。
これらの物質を不適切に扱うと、危険な作業環境を作り出し、
重要な天然資源を損傷し、任務達成を妨げ、
訓練地に取り返しのつかない損害を与えることになる。

また、
不適切な廃棄物管理は、刑事罰や民事罰、多額の清掃費用につながり、

地域社会やホスト国との軍の関係も損ねることになる。

として、現場での廃棄物管理について、
厳しく収集と処理を奨励しています。

そのため、アメリカ陸軍では 携帯用トイレシステムを配布していますが、
一般に、米国内では即席便所(猫穴やスリット溝など)の使用は、
生態系や法令上の制限により、あまり一般的ではなくなってきています。

あと、アメリカらしいのが口腔衛生についてで、

「口腔衛生の問題は、即戦力の問題である。
精力的に口腔衛生を維持できない兵士は、すぐに非配備になりかねない。

と激しく言い切っています。

口腔内の細菌を放置すると、でんぷんや砂糖を使って酸を作り出し、
すぐに歯肉炎や虫歯になる可能性がある。
数日間ブラッシングを怠ると、歯茎に炎症が起こり、
歯茎から出血することもある。
すでに歯周病がある場合は、すぐに悪化してしまうので、
虫歯と歯周病を予防するために、
兵士は常に良い口腔衛生習慣を維持しなければならない。

として歯磨きを1日2回、フロスを必ず1日一回するようにとしています。
たとえ水道水が使えない状態でも、
陸軍ではそれ専用の歯磨きをすることが厳しく決められているのです。


海底に眠るUSS「フライアー」


続く。





原子力潜水艦「シルバーサイズ2」と「ハイマン・G・リッコーヴァー」〜シルバーサイズ博物館

2023-03-29 | 軍艦

さて、前回は海軍原子力の父、ハイマン・リッコーヴァーについて、
ちょっと変わったエピソードを中心にお話ししましたが、
今日は、まず、その名前の原子力潜水艦を見てみましょう。

■USS「ハイマンG・リッコーヴァー」SSN-709



リッコーヴァーの名前を冠した原子力潜水艦は2隻あります。

USS「ハイマン・G・リッコーヴァー」
USS Hyman G. Rickover SSN-709

は、「ロサンゼルス」級潜水艦 の22番艦です。
「ロスアンゼルス」級の命名基準はご存知のとおり都市名ですが、
唯一これだけが人名となっているというわけです。

22番艦はもともとUSS「プロビデンス」と命名される予定でしたが、
ちょうどそのときリッコーヴァー提督が引退することが決まったので、
その名前が与えられたということです。

ところで、前回、ハイマン・リッコーヴァーの退役は、
ゼネラルダイナミクス社との衝突を巡り、海軍長官レーマンに嫌われたから、
と書いたのを覚えておられるでしょうか。

レーマンは、そのときたまたま新造艦が事故を起こしたのを利用し、
その責任をリッコーヴァーに取らせて首にしたわけですが、
事故を起こした新造艦の名前は、USS「ラホーヤ」SSN-701であり、
「ロスアンゼルス」級の14番艦だったことも思い出してください。

14番艦の事故の責任を取らせて首にし、22番艦にその名前を付ける。
彼の偉大な功績を後世に遺すために。

いったい海軍という組織は愛があるのかないのか、
リッコーヴァー自身すらしみじみと考えてしまったのではないでしょうか。

まあ、ある作家に言わせると、晩年の(しかし現役の)リッコーヴァーは

「老いては麒麟も駑馬に劣る」

の諺に近い状態だったということでした。
もう少し早く、きれいに身を引くべきだったのかもしれません。


そしてこの潜水艦を建造したのも、因縁というのか、リッコーヴァーの天敵、
溶接の不具合のやりなおし修理費を全部出せと言われて
海軍長官を引き入れてやりあった、コネチカット州グロトンの
ゼネラルダイナミクス社エレクトリックボート部門でした。

こればっかりは、いかに天敵同士とはいえ、他に建造するところがないので、
仕方なくか、嫌々か、いずれにしても言われたからには
きっちり仕事をしたとは思いたいですが、気づいてしまいました。

1973年12月10日に建造契約が発注され、起工が1981年7月24日

発注から工事にかかるまで8年?
普通発注から起工までこんな時間かかります?

ちなみに他の「ロスアンジェルス」級の発注から起工までの期間は、
旗艦の「ロスアンジェルス」でも1年、「フィラデルフィア」4ヶ月、
「オマハ」「グロトン」「メンフィス」2年、
「バーミングハム」「ダラス」3年、「ニューヨークシティ」11ヶ月。

うーん・・・これは・・・揉めたな(ゲス顔)
あるいは引き伸ばして待ってたとか・・・(何を?ってあなた)

しかし、もめたのは(決めてかかってますがあくまでも想像ですよ)
上層部だけで、一旦それが決まると、現場はさくさくと仕事を進めたらしく、
「ハイマン・G・リッコーヴァー」は、起工から浸水まで2年、
進水から引き渡しまで11ヶ月と普通にスムーズでした。


進水の儀式を行ったリッコーヴァー提督夫人
エレオノーレ・アン・ベドノビッチ・リコバー女史


リッコーヴァーの微妙な表情に注目



興味を持った方のために。
リッコーヴァーの奥さんは、海軍看護大尉(最終)でした。

探してみましたが二人の馴れ初めなどは一切見つかりませんでした。
彼女が退役したのは1974年で、同じ年に結婚しています。

結婚した時2回目の結婚で合った夫は74歳、
超年の差婚で、妻は44歳と30歳差でした。

彼女は結婚を機に軍を退いたと思われますが、専業主婦になるためではなく、
その後もリッコーヴァー夫人として、多くの宗教団体、
慈善団体、そして海軍組織に関わるボランティアに生涯を捧げました。

あのリッコーヴァーが人生最後に伴侶に見初めたくらいですから、
知性と人格を兼ね備えたとんでもなくよくできた女性だったのでしょう。


「ハイマン・G・リッコーヴァー」の艦章は、
彼のボートの元乗組員の妻がデザインしたものです。

4つの白い星は、リッコーヴァー提督の退役後の階級を象徴し、
潜水艦の上向きの角度は、敵を探し出すイメージ。
原子力のシンボルは、彼が原子力海軍の父であることを思い出させ、

「Committed to Excellence」(卓越性にひたむき)

のモットーは、提督の64年にわたる海軍での現役生活を象徴していました。

1984年1月 初期乗員配置完了

3月10日S6G炉の初臨界達成

4月23日 キャビンとメスが完成し、乗組員が初めて入艦
特別メニューはリブアイステーキ、ベイクドポテト、コーンチップス

4月24日就航

5月16日から最初の海上試運転
米国エネルギー省の海軍原子力推進室長ロナウド・マッキー提督が立ち会う
公試にかかった時間はエレクトリックボート社製688級潜水艦の史上最短

1984年7月21日12時8分、就役
グロトンでの式典当日は土砂降りで、
主賓の下院議員の到着が1時間遅れる


■ 退役

「ハイマン・Gリッコーヴァー」は2006から不活性化プロセスが開始され、
2007年に廃艦となり、2007年12月17日、最後の出港をおこないました。

その後何も変わりがなければ、2016年に解体と廃棄されたはずです。


USS「ハイマン・G・リッコーヴァー」SSN-795

その後、2隻目の同名艦が誕生しました。

「バージニア」級原子力攻撃型潜水艦
USS Hyman G. Rickover (SSN-795) 

進水式は2021年7月31日に行われ、
スポンサーを務めたのは海軍作戦部長の妻でした。

「バージニア」級潜水艦のシャンパンボトル割り
飛沫飛散防止のパネル付きの敷台を艦体から突出した部分に近づけて
誰でも簡単に失敗なく割れるような工夫がしてある



リッコーヴァー夫人エレノアは、夫の名前を冠した2隻目ができることを
大変楽しみにしていたということですが、残念ながら
2021年7月5日、潜水艦就役式の16日前、95歳で亡くなりました。

おそらく彼女に2回目のスポンサーをさせる案は最初からあったはずですが、
この話もオーダーから起工まで4年もかかっています。

そして建設請負業社は、ゼネラルダイナミクスエレクトリックボート。

この期間世間ではパンデミックが流通と製造を圧迫しましたが、
当社関係者は官民を問わずその期間1日も造船所を閉鎖しなかった、
この期間今までになく作業効率は高かった、と胸を張り、なぜか

「溶接されたパイプの接合部は、過去2隻よりも早くグロトンで完成させた」

としています。
「パイプの接合部」・・・これ、リッコーヴァが激怒した
不具合(しかも1隻にとどまらなかった)そのまんまですよね?

もしかしてまだ恨んでるのか?

しかしそれはともかく、受注から起工の間にパンデミックはありませんし、
高齢のスポンサー候補(しかも実の夫人)のことを鑑みて、
誰か一人くらい彼女のために早く作ろうと言う人はいなかったのでしょうか。


二代め「ハイマン・G・リッコーヴァー」スペックは以下の通り。

排水量 7.800トン
全長 115m
ビーム 10.4メートル
喫水 9.8m
推進力 S9Gリアクター、補助ディーゼル機関
速度 25ノット (46 km/h)
試験水深 244m 以上
乗員 134名 


[武装]
VLS発射管12
Mk-48
魚雷用21インチ(530mm)
魚雷発射管4基 
BGM-10 Tomahawk


二代めUSS「ハイマン・G・リッコーヴァー」の艦章は、
先代より電子マークがシェイプに影響を与えており、
リッコーヴァーを表す4つ星、そして金と銀のドルフィンマーク。

米海軍のドルフィンマークは、士官が金、その他が銀であるためです。


■USS「シルバーサイズII」


第二次世界大戦中の「シルバーサイズ」は、
彼女の姉妹艦が全部退役、売却、解体、沈没した後も、
訓練艦としてシカゴに留まりました。

しかし、1969年、彼女の名前を海軍登録から抹消する
(何らかの方法で廃棄前の船舶を海軍のリストから削除すること)
動きが新たに強まっていったのです。

その理由は、意外ですが「シルバーサイズ」の名前でした。

そのころ、アメリカ海軍は続々と原子力潜水艦を建造しており、
もうそれは100隻目になろうとしていたのですが、
せっかく100というキリの良すぎる原潜なので、どうせ付けるなら、
第2次世界大戦の殊勲艦で、かつドラマの多い有名な
"Luckey Boat "の名前をつけたい、と関係者は思ったのでしょう。

「シルバーサイズ」は新しい原潜に名前を寄贈する話になりましたが、
さりとて本家がこれで売却されてスクラップになるのは本意ではない。

協議の結果、原潜は「シルバーサイズ IIとして差異化をはかり、
「シルバーサイズ」は生き残ることになったのです。



「シルバーサイズII」の記念消印。



「シルバーサイズII」のパッチですが、いろんなメッセージが含まれます。

まず、「II」がない?
と思わせてからのー、潜水艦のセイルに「II」の模様。

そして艦尾のラダーは「I」に見えますが、その後ろに、
水流に見せたSS-236、初代「シルバーサイズ」の艦番号が!

艦首には電子マークと100thの文字。
これは原子力潜水艦100隻めを意味します。

「SILVERSIDES」の文字の周りには金色の星が14個。
これはおそらく乗り込んでいる士官14人のことでしょう。

わたしがどうしてもわからなかったのが、艦体上部の文字らしきもの。
「A」が見えるような気がしません?
もしかしたらデザインした人のイニシャルだったりして。

そして、「シルバーサイズ」博物館の展示パネルには、
この艦章の下に、艦のモットー

”Veni, vidi, vici”
"I came; I saw; I conquered" 

は、「迅速かつ決定的な勝利」を指すラテン語のフレーズです。
ジュリアス・シーザーが紀元前47年頃、戦いに勝利した後、
元老院への手紙の中でこのフレーズを使用しました。
日本語に訳すなら、

「来た、見た、征服した」

(関西人なら誰でも知っていた、今は無き喜多商店の
『来た、見た、買うたは、『来た、見た、勝った=買った
の大阪弁バージョン。これ考えた人、天才)


■ 「シルバーサイズII」の隠密行動

「ノーチラス」から100隻めの原子力潜水艦となった
「シルバーサイズII」。

冷戦の最盛期、彼女がそのキャリアで行った任務の多くは、
依然として極秘のままです。
(ウィキペディアにも行動記録が全く見られない)

「シルバーサイズII」の何人かの乗員が匿名を条件に語ったところによると、

「我々の任務に関する書類がたとえ作成されていたとしても、
それは
今後も決して見つからないと信じている」


事実、機密解除され世間に知られるようになった事実はごくわずかです。

それによると、彼女は大西洋に出て北海のほとんどで活動していたと。
乗組員は、スコットランド近海のバルト海、地中海、
そして北極にも行ったことがあるとだけ語りました。

ただ、はっきりしているのは、彼女は
北極点を「少なくとも」2回は訪れているということです。



1981年10月11日、北極点に達した15番めの潜水艦となり(上写真)
(その最初の任務を達成したのはもちろん『ノーチラス』です)
1989年の秋にもう一度訪れていることははっきりしている模様。

北極点到達後、氷の下を抜けた「シルバーサイズII」は
パナマ運河を通り、ノーフォークに戻りました。

■ 諸元

発注 1968年6月25日
建造者 ジェネラル・ダイナミクス社エレクトリック・ボート部門、
コネチカット州グロトン
起工式 1969年10月13日
1971年6月4日進水
1972年5月5日就役
1994年7月21日 退役
1994年7月21日起工
モットー Veni Vidi Vici (「私は来た、見た、征服した」)。
登録抹消 1994年8月2日
船舶と潜水艦のリサイクルプログラムによるスクラップ
2000年10月1日開始、2001年10月1日完了

一般特性
艦種・型式 Sturgeon級攻撃型潜水艦
【排水量】
3,978トン(4,042トン) 軽量
4,270トン(4,339t) 全備重量
292トン(297t) デッド
【全長】
302フィート3インチ(92.13m)
【ビーム】 
31フィート8インチ(9.65 m)
【喫水】
 28フィート8インチ(8.74 m)
【設備出力】
15,000軸馬力(11.2メガワット)
【推進力 】
S5W型原子炉1基、蒸気タービン2基、スクリュー1基
【速力】
15ノット(28km/h、17mph)浮上時
潜航時25ノット(時速46キロ、29マイル
【試験水深】
 1,300フィート(396メートル)
【乗員】
109名(士官14名、下士官兵95名)


USS「シルバーサイズ」潜水艦博物館シリーズ 
終わり







ハイマン・G・リッコーヴァーの面接椅子〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-27 | 海軍人物伝

USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示には、
原子力潜水艦を海軍にもたらした、

ハイマン・ジョージ・リッコーヴァー提督
Hyman George Rickover

1900年1月27日-1986年7月8日

のコーナーがあります。


このコーナーを深掘りしてみます。

「海軍原子力の父」
”Father of the Nuclear Navy"

それがリッコーヴァーに捧げられたタイトルです。
その下には、1985年、彼がダイアン・セイヤーのインタビュー中語った、

「どんな状況でもベストを尽くす、それが人間というものです」
That's what being human being is,
to do the best you can under any circumstances.

という言葉があります。
ところで、ちょっと検索しただけでもリッコーヴァーのクォートは
次々と出てきます。
もしかしたら発言だけで一冊の本になってたりするんでしょうか。

「自分の主張を書き留めることほど
思考プロセスを鋭くするものはありません。
口頭での議論で見落とされた弱点は、
書かれたメモで痛々しいほど明白になります」


いわゆる「メモ魔」だったんですね。

「何よりも、私たちの自由はそれ自体が目的ではないことを
心に留めておく必要があります。
それは、私たちの社旗のすべての階級に対して
人間の尊厳にたいする尊重を勝ち取るための手段なのです」


「悪魔は細部に宿る。
我々が軍でおこなうこともまた細部まで及ぶのだ」

悪魔は細部に・・・はお気に入りのフレーズだった模様。
もうひとつ悪魔シリーズで

「悪魔は細部に宿る。
しかし救い(salvation)もまた細部に宿るのだ」

「楽観主義と愚かさはほぼ同義である」

リッコーヴァーは良き家庭人で、愛妻家、子煩悩でした。



「わたしには息子がいる。
わたしは息子を愛している。
息子がそれを操作しても大丈夫なくらい全てを安全に保ちたい。
それがわたしの基本ルールです」

リッコーヴァーは、海軍での任務先から自分自身、
手紙を息子にマメに書き送っていますが、それだけでなく、
職権濫用というか公私混同というか、初期の原子力潜水艦の司令官たちに、
北極航路から自分の息子に手紙を送ってやってくれと頼んでいます。

そのため、息子のロバートは、北極にいた
USS「ノーチラス」「サーゴ」「スケート」「シードラゴン」
すべての原潜からの手紙を持っていました。

学校の友達にさぞ自慢できたことでしょう。

初の水中地球一周を達成した「トライトン」がインド洋から送ってきた手紙、
「ジョージ・ワシントン」がポラリスミサイルの初の水中発射を成功させ、
そのことを記念して司令官から送られた手紙もロバートは受け取っています。

ロバートのパパコネコレクションの数々

どの司令官も、他ならぬ「オヤジ」(と呼ばれていた)のためだし、
と必要以上に張り切って手紙を子供に送ったようです。

その内容では、しばしば彼の偉大な父親が誉めそやされていました。

「この歴史的な航海は、あなたの父上がノーチラス号と海軍に
原子力推進力を与えたという、輝かしくたゆまぬ努力によって
実現されたものだと理解しているでしょう」

「全世界が知っているように、あなたのお父さんは
我々の時代の海軍工学の天才です」


まあ、それは嘘偽りない本心だったと思いますが。

ちなみに息子ロバートは、イエールとMITで物理と経済の学位を取っていますが、
どういうわけかロンドンでアレクサンダー・テクニークを勉強し、
(頭-首-背中の関係に注目し身体を整える心身技法で
リハビリ、整体、演奏家や演技者などの発声を改善する)
先生となって、2008年に亡くなっています。


リッコーヴァーの名言、もう1発。

「良いアイデアが自動的に採用されるわけではない。
それらは勇気ある忍耐を持って実行に移さねばならない」


どうもリッコーヴァーという人は一言居士だったらしく、
今ならおそらく毎日のようにこういう言葉をツィートして、
世間の反応を楽しんでいたのではないかと思われます。

さて、博物館のパネルから彼についての解説を見ましょう。



辛辣で、真面目で、妥協のない態度で知られるリッコーヴァー提督は、
画期的な原子力潜水艦USS「ノーチラス」と
海軍原子力艦隊全体の立役者となった人物でした。

彼は1983年に退役しましたが、実に63年間という
最長となる海軍での勤務期間の記録を保持しています。



海軍兵学校時代

海軍兵学校とコロンビア大学(電気工学の修士号を取得)
を卒業した後、リッコーヴァーは初級士官として
水上艦艇と潜水艦に乗組み、世界中で海軍経験を積みました。

そしてそののち、海軍の原子炉電気プラントプロジェクトの
責任者に選ばれていますが、

彼が任命されたのは人気者だったからでも、
リーダー的素質があったわけでもなく、彼が頻繁に
いわゆる「お役所仕事」を破って目標を達成したからです。

と書かれています。
そこで彼の名言。

「我々は国家のための創造的な仕事をしている男を、
管理者のなす層と覚書の山の下に埋めてしまっている。
我々は果てしないフラストレーションによって
創造性を萎縮させているのだ」

お役所仕事から創造ができるか!というわけです。

■ リッコーヴァーの圧迫面接

彼とそのチームは、その結果、世界初の原子力潜水艦、
USS「ノーチラス」の研究、設計、テスト、建造、進水を
わずか5年間でやってのけました。

原子炉は街一個のサイズから、28フィートの幅に収められたのです。

リッコーヴァーはすべてのシステム、安全手順、人員、
原子力潜水艦、空母、船の近くに来るものに至るまで、
ありとあらゆることに執着してこだわる人物でした。

そのため、原子力潜水艦の乗務に応募してきたすべての将校に
自らがインタビューを行い、そのふるい落とす基準とか、
そのユニークすぎる面接の様子は伝説になっています。

一例をあげると、

面接室にインタビューを受ける人を先に通しておく。
部屋のテーブルにさりげなく「プレイボーイ」のような雑誌を置いておく。
他の本も置いておく。
散々待たせる。
一瞬でもグラビアの方に手を出してめくったら、面接前にアウト。
(リッコーヴァーはそれを陰で見ている)

恋人がいる面接者に電話を渡す。
原潜に乗りたかったら今すぐここで彼女に別れを告げろという。
それに少しでも躊躇いを見せたら即アウト。

とか。

また、彼の伝説を形作った有名な「リッコーヴァーの面接椅子」があります。

彼のオフィスには、インタビュイー専用の椅子がありました。
それは、ツルツルに磨き上げられた座面をもつ木の椅子でしたが、
前足2本は6インチ切り落として短くされていました。


圧迫面接中

さらには、特別に注文して調整させたベネチアンブラインドから、
彼らの目に日光が差す時間にインタビューを行うのです。

そしてリッコーヴァーはなにをしているかというと、
滑り落ちる椅子に「座り続ける」という問題に彼らがどう対処するか、
逆光に耐えながらどう知恵を絞るかを観察しているのです。
受験者にさらなるプレッシャーを与えるべく、上から見下ろしながら。

また、彼は質問に対して「馬鹿げた」答えをした者を、
箒入れに入れて2〜3時間「考えさせた」こともありました。
出てきた時に彼が何をいうかによっては「逆転」もあったかもしれません。

それもこれも、立候補者が潜在的に持っているものを
引き出すための「不規則な」状態を作り出していたということのようです。


これらの圧迫面接を乗り切り、無事に乗員に選んでもらったからといって
全く安心できないのがこのリッコーヴァーという人でした。

リッコーヴァーはたとえ潜航中でも、仕事をしている人を「殺して」、
強制的に他の人に仕事を引き継がせることでも有名でした。

「はいA君、今A君は死にました!
そこのB君ね、彼のあとを引き継いでください。
あ、A君は死んじゃったのでもう何もできません!」


気の毒なA君は、そこから先、文字通り死んだ魚の目をして
潜水艦内でただ浮遊していなければなりません。

この「殺される」ことは、原潜現場独自の用語で
「denuked」(原子力から削がれる)
と称し、原子力部門から追い出されることを意味しました。

これは、「本当の緊急事態」になったとき、起こることが
リッコーヴァーの脳内では再現されているということなので、
何人たりともその設定に逆らうことは許されないのです。

そして、スーツ姿で最初の原子力潜水艦に乗り込み、
テストを終えて出てきた彼は、こう語っています。

「私は、並外れた者を採用したのではない。
並外れた可能性を持つ者を採用し、

そして彼らを訓練したのだ」

と。

リッコーヴァーのキャリアにおいて、個人面接の回数は数万回に及びました。
大卒だけでも1万4千回を超えたといいます。

原子力潜水艦や水上戦闘艦に配属される少尉候補生、
新任少尉、原子力空母の指揮を目指す戦闘経験豊富な海軍飛行大尉まで、
その面接対象は多岐にわたりました。


リッコーヴァーは「ノーチラス」最初のテストダイビング中、
実際に潜水艦に乗り込みました。

彼の立場からは公的には乗る必要はなかったのですが、
とにかく自分の指揮下にあるすべてのこと、
そしてすべての人に対して、100%の責任を負うという
彼の信念がそれをさせたのだと言われています。

再び彼の名言から。

「責任というのはユニークな概念です。
あなたはそれを共有することができるでしょう。

しかし、あなたの責任は減りません。
それは依然としてあなたにあります。

責任があなたにある場合、それを回避したり、無視したり、
責任を転嫁したりすることも誰かに押し付けることもできません。

何かがうまくいかなかったとき、
責任を負う人を指差すことができない限り、
本当に責任を負う人は誰もいなくなるでしょう」

彼は全てのこと、特に安全に目を光らせ、自ら責任を負いました。

この彼の信念と努力のおかげで、いまだかつてアメリカは
原子炉の事故による潜水艦の喪失事故は一回も起こしていません。

スリーマイルで事故が起こった際、彼は公聴会に呼ばれ、
アメリカ海軍で一度も事故が起こしていない理由について
自らの信じる安全管理についての質問を受けています。

■ 誠実さへの献身



「愛する息子が触っても大丈夫なくらい安全な装置を作る」

という、リッコーヴァーの安全にかける完璧主義を表す逸話があります。

リッコーヴァーは、最新の潜水艦の建造中、その艦体に
溶接の不備で圧力に弱い部分があることを発見しました。

そこで彼が業者に命じたのは、不具合のある溶接の部分をすべて分解し、
もう一度適切な方法で施工をおこなうということでした。

それは一隻にとどまらず、そのときすでにほぼ完成していた
何隻かの潜水艦の解体を意味したので、建造会社は海軍に対し、
費用と人件費の超過分を請求しようとしたのですが、
リッコーヴァーはガンとしてそれを撥ねつけました。

この不具合は請負業者の責任であり、納税者は
そのようないい加減な仕事に対して1ドルも支払う義務はない。


しかし、業者の方は食い下がり、これに対し色々と配慮した海軍は、
最終的に超過費用の4分の3を支払うことでなあなあに収めてしまい、
リッコーヴァーを激怒させたのでした。

このことはゼネラルダイナミクス社のスキャンダル事件とされました。

しかしこれで海軍長官ジョン・レーマンから恨まれたリッコーヴァーは、
最終的に彼によって強制的に引退に追い込まれることになります。

ちょうど新造艦USS「ラホーヤ」の海上試験中起こった、制御不能と
深度逸脱事故の責任が実質的な責任者たるリッコーヴァーに押し付けられたのです。

82歳の誕生日から4日後の1982年1月31日に、リッコーヴァーは
13人の大統領(ウッドロウ・ウィルソンからロナルド・レーガン)の下で
63年間勤めた海軍から強制退役となりました。

彼は妻からラジオで聞いたことを聞かされるまで
自分の解雇について知らなかったということです。

この処分を喜んだのは、天敵ゼネラルダイナミクス社でした。
その当時、グロトンのGD社では、何人かが

「リッコーヴァーを捕まえてやった」

と得意そうに話していたという証言があります。



■ 教育に対する見解

1950年代後半から、リッコーヴァーは、
アメリカの教育システムを徹底的に見直す必要がある、
と声を大にして訴えていました。
そして、すべての学校が次の三つを実行すべきだと信じていました。

1)学生には幅広い知識を得られる機会を与える

2)その知識を日常の状況に適用できるスキルを彼らに与える

3)ロジックと検証済みのファクトに基づいて問題を判断する習慣を与える

彼はアメリカの教育水準が受け入れがたいほど低いと考えており、
それを問題視し、教育水準の向上、
特に数学と科学の向上方法について何冊かの著作物で提言を行いました。

■ 原子力推進の夢

リッコーヴァーは早くから船舶の原子力推進という考えに傾倒していました。

この考えを現実のものにするきっかけは、
彼が1947年に元潜水艦乗りの海軍作戦部長、
チェスター・ニミッツ提督に直談判したときに始まっています。

ニミッツは、潜水艦の原子力推進の可能性をすぐに理解し、
海軍長官ジョン・L・サリバンにこのプロジェクトを進言しました。

これを受け、世界初の原子力艦を建造することを支持したことから、
後にリッコーヴァーはサリバン海軍長官を
「原子力海軍の真の父
と評していたようです。

その後、リッコーヴァーは原子力部門のチーフとなり、
潜水艦推進用の加圧水型原子炉の設計に着手。

その後、アール・ミルズ提督がリッコーヴァーを推薦し、
国家の原子力潜水艦計画の開発責任者に選ぶという決定をしました。

ミルズ提督が彼を選んだ理由は、「どんな反対に遭っても」
海軍が頼れる人物と見込んだからと言われます。

「ノーチラス」の建造中、リッコーヴァーは少将に昇進しました。

異例といえば、彼のような人物が提督になることは異例でしたが、
もちろん、それを面白く思わない海軍機関部の同僚もいて、
(大体が大尉以上の昇格に失敗した人たち)彼を退職させるため、
アメリカ上院に対し、これは不適切な昇進だと訴えました。

その結果「ノーチラス」が初めて海に出る2年前だというのに、
上院は海軍提督昇進リストをいつものように形式的に承認せず、
リッコーヴァーの名前もリストにありませんでした。

しかしマスコミはじめ世間が「リッコーヴァー推し」だったこともあって、
海軍長官が鶴の一声で、承認の手続きを行なわれ、彼は昇進しました。

アメリカ海軍においては、海軍大尉の95%は、
どんなに優秀でも退役しなければならないのが掟です。

なぜなら、提督になるための可能性は5%しかないからです。

リッコーヴァーのような技術畑の軍人が、
その5%に入ることを心情的によしとしない軍人は多かったでしょう。

そんな中、驚くべき仕事の速さで、リッコーヴァーとそのチームは
ビーム8.5メートル以下の潜水艦の船体に収まる原子炉を完成させ、
これはS1W炉として知られるようになります。

「ノーチラス」はこの原子炉を搭載して1954年に進水し、就役しました。

1973年、役割と責任は変わらないものの、
リッコーヴァーは四つ星提督に昇進しました。

これはアメリカ海軍史上、作戦ライン将校以外のキャリアパスを持つ将校が
この階級に到達した2回目の例となります。
(1回目は調達部隊出身のサミュエル・マレー・ロビンソン)

ちなみに、アジア系の初めての四つ星提督が生まれたのは2013年
ハリー・B・ハリス(横須賀生まれ、母が日本人)でした。

リッコーヴァーの任務には、戦闘部隊のような指揮統制が含まれないので、
技術的には退役リストの提督の等級に任命されました。

これは現役の提督の数の制限と関係があるそうです。


■ 原子力に対する考え

彼のキャリアが終わりに近づいた1982年、
議会の公聴会でリッコーヴァーはこう証言し人々を驚かせました。

”私は、原子力発電が放射能を発生させるなら、価値はないと思っています。
では、なぜ原子力船を保有するのかと問われれば、それは必要悪だからです。


それは必要悪なのです。

私なら全部海に沈めてしまいます。

私は、自分が果たした役割を誇りに思いません。
この国の安全のために必要だからやったのです。
だから戦争というナンセンスなものを止めることを強く主張するのです。

残念ながら、戦争を制限しようとする試みは常に失敗してきました。
歴史の教訓は、戦争が始まると、どの国も
最終的には利用できる武器は何でも使うということです。

放射線を出すたびに、ある半減期、
場合によっては数十億年の寿命を持つものが発生する。
これらの力を制御し、排除しようとすることが重要なのです。”


その数ヵ月後、引退したリッコーヴァーは、
核海軍の創設に貢献したあなた自身の責任について後悔はないかと問われ、

後悔はありません。
この国の平和を守るために貢献したと思っています。
なぜ後悔する必要があるでしょうか。

私が成し遂げたことは、国民の代表である議会が承認したことです。
皆さんは、警察の警備のおかげで、国内の敵から安全に暮らしている。
同様に、皆さんは外敵から安全に生活している。
それは、軍隊が我々を攻撃から守ってくれているからです。

あの当時、核技術はすでに他の国で開発されていました。
私に与えられた任務は、海軍原子力の開発でした。
私はこれを達成することができたと思っています。


と答えました。

■ リッコーヴァーという人

彼は「同時代で最も有名で論争の的になった提督」と呼ばれました。
多動で、ぶっきらぼう、対立的、侮辱的、仕事中毒で、
階級や地位に関係なく常に他人に高い要求を突きつける人物でした。

そして「平凡さにはほとんど、愚かさには全く容赦しなかった」

彼の軍事的権限と議会からの委任された力は
アメリカ艦隊の原子炉運用に関して絶対的なものでしたが、
その支配的な性格は、しばしば海軍内部の論争の対象となりました。

乗組員が原子炉を安全に運転する能力があるかどうかを見極め、
事実上軍艦を現役から外す権限を持っていた彼は、
実際にも何度かそれを容赦なく実行しています。

作家で元潜水艦乗組員のエドワード・L・ビーチ・ジュニアは、
晩年の彼を「次第に衰えた力を顧みない」「暴君」と呼びました。

■死去

1986年7月8日、バージニア州アーリントンの自宅で死去、享年86歳。

彼の追悼式で、レーマン海軍長官は(リッコーヴァーの天敵)
声明で次のように述べました。

「リッコーヴァー提督の死によって、海軍とこの国は、
歴史的な偉業を成し遂げた献身的な将校を失った。

提督は63年間の勤務の中で、原子力の概念をアイデアから
現在の150隻以上のアメリカ海軍の艦船にもたらし、
3000隻にわたる無事故の記録を打ち立てた」


また、海軍作戦部長だったジェームズ・ワトキンス提督は、

「最も重要なことは、彼は師であったということです。
彼は基準を設定した。
彼の下にいたものは大変な思いをしたかもしれない。

しかしそれが彼の貢献を研究するすべての人に残した遺産であり、
今後の我々の課題でもあるのです」

と述べてこの不世出の天才の死を悼みました。


リッコーヴァー萌え

続く。


「ロシアに愛を込めて」空挺隊員 戦地からの帰還〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

ミシガン州マスキーゴンのUSSシルバーサイズ潜水艦博物館は、
地元の戦時中の資料なども展示して、当時の住民たちの
戦時協力について知ることができ、地元戦争博物館の役目を果たしています。


2階の通路も展示スペースに利用。
(ただしこの展示、写真が撮れません)

FDRのキメ写真や戦時ポスターの展示の上に、

「我々の誰も、第二次大戦中の陸軍看護部隊がしたようなことはしていない」
”We didn't do anything the army nurse corp
in World War II did."


とあります。
これ、惜しいところで最後の「did」が見えませんが、これだと

「私たち第二次大戦中の陸軍看護部隊は何もしていない

となってしまいます。

それから、一番左にコーストガードのボートらしい写真があります。

「アメリカが戦争に参戦すると、沿岸警備隊の主な国内の焦点は
防衛施設と、鉱石、石炭穀物およびその他の必要な戦争物資の大規模な輸送を
破壊工作から保護することになっていきました。

しかし、1942年初頭までに、何百人もの五大湖沿岸警備隊員が、
海軍任務のために東海岸に移送されることになりました。

民間人ばかりで構成された沿岸警備隊補助隊は、
港湾警備及び捜索救助作業において沿岸警備隊要員を増員、
または交代させる任務の要請に応えました。

彼らの多くは自前のプレジャーボートを哨戒艇として使用し、
戦闘任務に派遣された沿岸警備隊の船舶の代わりを務めました」


とあります。

五大湖付近で沿岸警備隊にいた民間人も、
東海岸で戦争のため補助的任務に注力されたということですね。

写真の何人かは背広にネクタイの姿ですが、
もしかしたらこれから東海岸に移送される警備隊員かもしれません。



近くからは撮れないので、反対側通路から撮ったこの写真。

こうして並んでいるとアート写真ぽいですが、
全て潜水艦「シルバーサイズ」を、プロのカメラマンが撮影したものです。

二つのドアの上には、もはや芸術的にも見えるパイプの列や並んだ計器、
そして、夕日をバックにした姿、照準器を通してみた潜水艦とか、
全体的に一つの作品のように展示されています。

これらの作品は左上に名前の記されている

Great Lakes Photo Group

という写真家の集団が制作したものだそうです。

同じグループかどうかは分かりませんが、調べたら、
Great Lakes Photo Adventures (@GLPA)
という、五大湖とその周辺での写真撮影を通じて、
フォトウォーク、ワークショップセミナーを開催している
写真愛好家グループがありました。

ホームページを覗いてみたところ、参加はプロの写真家でなくてもよし。
一眼レフでなくとも、携帯、ミラーレス一眼でもいいとゆるゆる。
ゴリゴリ一眼レフ教条主義とかでない、敷居の低い会で、
和気藹々と五大湖の撮影を楽しみましょうということのようです。


■ 戦地からの帰還

さて、今日冒頭に挙げた写真。

「モスクワからマスキーゴンへ」

というタイトルの下では、陸軍の軍曹に身を包んだ男性、
彼に瓜二つってくらい似た父親、そして彼にしがみつく母親の様子から、
もうこれは生死を諦めていた息子が帰還したんだなとわかるシーンです。

キャプションを読んでみます。

「ロシアの病院で回復している間、ジョーはあの有名なロシア軍元帥、
ゲオルギー・ジューコフ将軍の見舞いを受けました。
元帥は、
自分の軍隊と共に戦ってくれた米軍兵士と会うことを望んだのです。

元帥はジョーに自署入りの手紙を発行し、
彼がモスクワのアメリカ大使館に行く助けをするよう関係者に命じました」


これだけだと色々と謎ですが、この事情を解き明かしていきます。


ガラスケースに展示されたマスキーゴン・クロニクル紙、
その他関連資料が収められたガラスケース。

「ロシア”より”愛を込めて」を逆にもじって、

”To Russia with Love”

をタイトルにしたこの記事のサブタイトルは、

「ローカルヒーローの持ち物国際展示の一部」

となっています。
そして写真には、

「ナチスの囚人としてファンタスティックなアドベンチャーをしながら
『死の淵から帰還』したベイル(Beyrle)軍曹」

とあります。
展示された持ち物というのは彼の制服や靴、それから
地元の高校でスポーツ選手だった彼のユニフォームなどのようです。

「ロシアより愛を込めて」From Russia With Love

は映画で有名になりましたが、元々は小説で
イアン・フレミングのジェームズ・ボンドシリーズ第5弾です。

発行が1957年、映画化はさらに1963年ということで
おかしいなと思ってよくよくみたら、新聞の発行は2010年でした。

つまり、この時期にかつての地元ヒーローの遺品が、2010年になって
あらためてマスキーゴンで展示披露されたということのようです。



ガラスケースの中身はこの時の展示品でしょう。

ガラスケース右側の、勲章をたくさんつけた老人ですが、
これはそのジョー・べイルその人であり、
その本のタイトルというのは

「Hero of Two Nations」(二カ国の英雄)

となっています。
それでは、このジョー・ベイルとはどんな人だったのか。

■ ジョセフ・ベイル

そもそも、このBeyrleという名前をどう発音すればいいのか、
わたしにはまず想像もつかないわけですが、
「ベイル」「バイル」「ベイユ」あたりでしょうか。
「バイレ」かもしれませんし「ベイヤール」かもしれません。
でも想像がつかないので、ベイルに統一します。

彼がなぜ米ソ両国で「英雄」になったのか。

ジョセフ・R・ベイル 
Джозеф Вильямович Байерли 1923- 2004

は、第二次世界大戦でアメリカ軍とソビエト赤軍の両方で戦闘に参加した
唯一のアメリカ人兵士として知られています。

1944年6月5日から6日にかけて行われた
第101空挺師団の空挺上陸作戦「ミッション・アルバニー」に
第506パラシュート歩兵連隊の一員として参加し、
ドイツ軍の捕虜となって東部へ送られた彼は、
その後ソ連軍に参加して傷を負い、収容されていたところ、
先ほどの事情でアメリカに帰国しました。

彼の両親は、1800年代にドイツからアメリカに移民してきました。
ベイルという名前はドイツ系だったわけです。

【生い立ちと陸軍入隊】

7人兄弟の3番目として生まれた彼が幼い時、工場で働く父親が失業し、
一家は家を追い出されることになりました。
二人の兄は学校を諦めて働き、仕送りを続けていました。

彼は高校卒業後の進路としてアメリカ陸軍をえらびました。

大学進学をしようと思えば奨学金が取れるほど優秀だったようですが、
出稼ぎに出た兄の一人が16歳という若さで病没したことから、
やはりすぐにでも確実に家族を楽にする方法として入隊したのでしょう。

空挺歩兵として第101空挺師団の第506空挺歩兵連隊、
通称「スクリーミング・イーグルス」
に配属された彼は、
無線通信と爆破の専門を持ち、ヨーロッパに派兵されました。

【ノルマンディ上陸作戦】


そして、D-Day、ノルマンディ上陸作戦の6月6日がやってきます。

ベイルの乗っていたC-47は、ノルマンディー上空で敵の攻撃を受け、
110メートルという非常に低い高度からのジャンプを余儀なくされました。


再現シーン

フランスのサン=コム=デュ=モンに着陸した後、ベイル軍曹は
仲間の空挺部隊と連絡が取れなくなりつつも、発電所の爆破に成功。

さらに破壊工作を継続しますが、数日後、ドイツの捕虜になるのです。

ちなみに再現展示の後ろに見えているのは、現地にあった教会です。
2005年、この教会の壁に記念プレートが設置され、除幕されています。

二カ国で戦った英雄ベイルの功績を讃えるものでした。

【ナチスの捕虜になって】


捕虜となったベイル(不貞腐れ中)1944年秋

その後7ヶ月間、ベイルは7つのドイツ軍刑務所に収監されましたが、
2度脱走し、2度とも捕らえられました。

捕虜収容所の再現(多分)

反骨精神の塊のような面魂の彼ですが、無目的に逃げようとしたわけでなく、
脱走の目的は、仲間と共に近くの赤軍に合流することでした。

2回目の脱走でポーランドに行こうとしてベルリン行きの汽車に乗ってしまい
民間人に見つかってゲシュタポの手に落ち、拷問されますが、
どういう成り行きか、ゲシュタポには捕虜の管轄権がない
と、待ったをかけた当局者がいて(たぶんゲシュタポと仲が悪いドイツ軍)
その後、ドイツ軍に身柄を渡されることになりました。

このときの出来事が、彼の命を救うことになります。

なぜならゲシュタポは、空挺兵である=スパイの可能性あり、として
拷問ののちベイルを射殺するつもりでいたからです。


【ロシア軍女性戦車隊長との出会い】

しかしそこで諦めないのがこのベイルという男。

またしても捕虜収容所から脱走した彼は、
(ドイツ軍の捕虜収容所の警備はどうなっているのか問いたい)
ソ連軍との合流を目指し、東へ向かいました。

そしてついにソ連軍の戦車旅団に遭遇したとき、
彼はラッキーストライクのタバコの箱を持ったまま両手を挙げ、

「アメリカーンスキー・タバーリシ!」
(「アメリカの同志よ!」)

と叫んでみました。

ここからが映画化決定、全米が泣いた的展開としか言いようがないのですが、
その時彼が出会った戦車旅団の大隊長というのが、
世界で最も女性進出が進んでいたと思われるソ連軍の中でも
特別に出世したことで後世に名を残した、史上唯一の女性戦車士官



アレクサンドラ・サムセンコ
Aleksandra Samusenko
Александра Григорьевна Самусенко
1922−1945

だったのです。

Women of war Alexandra Samusenko Heroine of Russia

Women of war Alexandra Samusenko Heroine of Russia

生まれは白ロシアで戦車学校卒、最終階級は大尉。
ベイルと出会った時には22歳の若さですでに大隊長でした。

サムセンコの戦車旅団に遭遇したベイルは、彼女を説得して、
ベルリンに向かう部隊と一緒に戦う許可を得、
ソ連戦車大隊と行動を共にして1ヶ月間の任務を行いました。



戦車大隊では、ベイルの解体の専門知識が高く評価されることになりました。

加えて、サムセンコの部隊は、ここにもその姿を見ることができる、
アメリカのM4中戦車(シャーマン)を運用していたのです。

のちにベイルは、女性隊長サムセンコについて、

「彼女が戦争中に夫と家族全員を失っていると聞いた。
彼女は、この時期のソ連国民が示した不屈の精神と勇気の象徴だった」


と回想しています。

彼女はその後、行動中、暗闇の中で自軍の戦車に轢かれ、
その事故による怪我で、22歳の短い人生を終えています。


■ ロシア軍元帥の見舞い

「元帥のお見舞い」というと、どうしてもわたしたちは
日本海海戦で傷ついたロシア海軍のロジェストヴィンスキー将軍を
我が東郷元帥が枕元に見舞ったという話を思い出してしまうのですが、
今回の話はソビエト軍元帥自らが一アメリカ兵を見舞った例です。

ベイルは2月の第1週にドイツ軍の急降下爆撃機による攻撃で負傷し、
現在のポーランドにあったソ連病院に収容されました。

彼がゲオルギー・ジューコフ元帥の訪問を受けたのはこのときです。


ジューコフ元帥(参考までに左が若い時。軍帽の被り方にこだわりあり)

ジューコフという名前を知っている日本人はあまりいないかもしれませんが、
ソ連国民ならおそらく誰でも知っている軍人です。
日本で言うと乃木大将みたいな位置づけかもしれません。知らんけど。

病院で唯一の非ソ連人に興味を持った彼は、通訳を通じて彼の話を聞き、
ベイルにアメリカ軍に復帰するための公的書類を提供したというわけです。

■ 帰還

ソ連の乃木希典の鶴の一言によって、ベイルはソ連軍の輸送隊に合流し、
1945年2月、モスクワのアメリカ大使館に到着しました。

そこで彼がアメリカ陸軍省から聞かされたのは、彼自身が
1944年6月10日にフランスで戦死したと認定されていたことでした。

ジョー・ベイルが捕虜になりその後亡くなったという通知
マスキーゴンのベイルの父ウィリアム宛に届いた

このため、彼の地元マスキーゴンでは彼の葬儀が行われ、
地元の新聞に訃報が掲載されていたというのです。

そこからの思いがけない生還。

生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のベイルの生還に、
彼の両親がいかに狂喜乱舞したかは想像にあまりあります。

そこからの帰還ですから、冒頭の写真で
かーちゃんが息子にしがみついて離れないのも無理はないと思えます。

ベイルは1945年4月21日にミシガン州に生きて帰還しました。

そして翌年1946年に結婚したのですが、結婚式を挙げた教会は
2年前に彼の葬儀を執り行ったのと同じでした。

アメリカの家庭は、特に地方ほど一つの教会に代々通うことが多く、
神父さんともすっかり顔馴染みだったりするので、
同じ教会で洗礼を受け、結婚式を挙げて時々懺悔を行い、
死んだらそこで葬式をするのがわりと普通のことになっています。

なので、順番が上の通りならなんら不思議なことではありませんが、
一人の男の葬式を執り行ったのと同じ神父が、それからのちに
生きて帰ってきた本人の結婚式を執り行う例は
おそらく世界でも稀なできごとだと思われます。

さて、時は流れてDデイから50年後の1994年。

ホワイトハウスのローズガーデンで行われたDデイ50周年記念式典で、
ベイルはビル・クリントン米大統領とエリツィン露大統領から
その功績に対しメダルを授与されることになりました。


彼の長男のジョー・ベイル2世は、ベトナム戦争で第101空挺部隊に所属し、
2008年から2012年まで駐ロシア米国大使を務めました。
(絶対この人事、狙ってるよね)

ジョー・ベイルが亡くなったのは2004年12月12日。

かつて落下傘兵として訓練を受けたジョージア州トッコアを訪問中、
心不全で眠りながら亡くなりました。

享年81歳。
現在はアーリントン国立墓地に眠っています。



’ジャンピン’ ジョー・ベイル

ジョーは1942年6月に高校を卒業しました。
ノートルダム大学への奨学金を断り、アメリカ陸軍に入隊。

彼は新たに編成された空挺部隊に志願し、1942年9月17日入隊。
ジョージア州キャンプ・トコアに送られ、エリート部隊である
第101空挺師団506連隊の一員になりました。
彼らは「スクリーミング・イーグルス」として知られるようになります。

5回の空挺降下に成功した後、彼はウィングマークを獲得しました。

海外に派兵される前に、通常兵士たちは故郷への帰還を許されます。
マスキーゴンでの休暇中、彼のウィングマークを見た女性は
ジョーのことをパイロットだと思い、

「今まで何回ほど飛行なさったの?」

と聞きました。
すると彼の答えは、

「11回離陸しましたがまだ着陸はしたことないです」

つまり11回全て空挺降下したので飛行機で降りたことありませんと。



空挺、エアボーンという部隊は一般にそれほど知られていませんでした。
この頃、空挺降下はまだ軍隊にとって新しい概念だったからです。

装備、戦術、訓練方法、そしてシステム、これらの全てをゼロから発明し、
そしてそのそれぞれをテストする必要がある段階でした。

空挺部隊の黎明期に隊員となったベイルは初期のエキスパートとして、
パラシュート降下の新しいメソッドを開発することで
さらにこの戦法の確立に貢献したと言えます。

ジョー・ベイルの人生と、戦時中の体験に捧げられた展覧会は、
2010年にモスクワと他のロシアの3都市で開催されました。

その後アメリカでは2011年にはトッコアとオマハで、
2012年6月にはベイルの故郷のマスキーゴンで開かれています。

そして、現在、ここマスキーゴンのUSSシルバーサイド・ミュージアムに
常設展示されているというわけです。



続く。



鋳造会社CWCと戦時ヘッドライン〜潜水艦シルバーサイズ博物館

2023-03-23 | 博物館・資料館・テーマパーク

USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示から、
今日はまず、潜水艦に不可欠な部品、クランクシャフトを作っていた
マスキーゴンの鋳造会社の技術についての展示をご紹介します。


クランクシャフトの「クランク」は、機械装置の一つで、
往復運動を回転運動にしたり、その逆に変えたりする装置のことです。

また、「シャフト」とは、機械などの動力伝達用の回転軸のことです。

クランクシャフトは、エンジンでピストンが往復運動をし、
その力をコネクティングロッドが伝達することで、回転の力を生みます。


赤い部分がクランクシャフト。
グレイがピストン、ブルーはシリンダーです。


■C.W.Cによるクランクシャフトの製造



このC.W.Cというクランクシャフトの会社について、
検索してみたのですが、すぐには引っかかってきませんでした。

さらに検索すると、

CWC Textron Castings

という会社がそれに該当することがわかりました。



1908年、3人のアメリカ人が立ち上げた製造会社です。
CWCという会社名は、彼ら3名の名前のイニシャルから取って

Campbell、Wyant & Cannon Foundries

というのが最初の名称だったことからきています。

ドナルド・J・キャンベル、アイラ・A・ワイアント、
ジョージ・W・キャノンの3人が会社を起こしたのは1905年。

1908年、彼らはミシガン州マスキーゴンで最初の鋳造品を生産。
(この日の生産量は5トン)。

1910年に法人化しそれからは既存の施設を拡張し、
新しい工場を建設し、繁栄、拡大の一路をたどります。

このような事業展開は、高い技術力、柔軟性を持った組織を構築し、
品質の高い新製品や改良品の開発に成功したこと、そして、
厳格な冶金管理による高い生産方式を鋳造の手法に応用したこと、
それらによって可能となりました。

高度に複雑な合金鋳鉄や鋼鉄鋳物の製造を専門とするCWCにとって、
新しい、これまでになかったアイデアは常に挑戦であり、ゆえに
多種多様な製品の鋳造に成功した最初の鋳造所になったのです。

現在、CWCの6つの鋳物工場は、1日に1600トン以上の合金鉄と
鋼鉄の鋳物を生産する能力を有しています。


戦時中、CWCは国際連合に不可欠な機器の生産に100%従事し、
1940年には事業を拡大してアメリカ合衆国最大の鋳鉄所となり、
1941年からカムシャフトの大規模な製造を開始しました。

マスキーゴンに本社工場を持ち、
年間1,200万本のカムシャフトを生産しているだけでなく、
4大陸に6,000人以上の従業員を擁しています。

事実、北米で生産される自動車の実に30%近くが、
マスキーゴン工場で生産されたカムシャフトを搭載しているのだとか。

さて、そのCWCが製造したシャフトですが、
クランクシャフトの製造法は、大きく分けて3種類あります。

1、鍛造(たんぞう)クランクシャフト

鉄の棒からロール鍛造で作る。
現在では、軽量・コンパクト・高減衰の点から
鍛造クランクシャフトが好まれる傾向にある。


2、鋳造(ちゅうぞう)クランクシャフト

ダクタイルからクランクシャフトを鋳造することである。
鋳鉄製クランクシャフトは、現在では
負荷の少ない安価なエンジンに多く見られる。


ダクタイルとは、グラファイトを球状にして、
強度や延性を改良した鋳鉄のことです。

3、機械加工クランクシャフト

高品質の真空再溶解鋼の棒であるビレットから機械加工する方法。
通常鍛造が困難な高級鋼を使用できる。
旋盤やフライス盤で削る量が多いこと、材料費が高いこと、
さらに熱処理が必要なことから、1本当たりのコストが非常に高いが、
高価な金型が不要なため、初期費用をかけずに少量生産が可能である。



C.W.Cが治金学や鋳造実戦に先駆けて残した影響のない鋳鉄所は存在しない、
とその世界の第一人者たる技術者なら、そのように述べるであろう。

というのがこのコーナーの最初の文言です。

その施設は戦時につけ平和時につけ、いつもアメリカの産業にとって
非常に重要かつ先進的な開発をおこなってきました。

C.W.Cの治金工学は、「鋳造クランクシャフト」「鋳造カムシャフト」
「遠心鋳造シリンダーライナー」「遠心ブレーキドラム」「遠心鋳造」
を生み出し、戦車の装甲から航空機の着陸装置のコンポーネントに至るまで、
さまざまなバリエーションを持ちました。

そして、戦争遂行に不可欠な、前例のない量の生産を、
最大の経済性で可能にしました。




クランクシャフトの鋳造技術はC.W.Cオリジナルの開発です。

戦前は民間生産で賄われていましたが、真珠湾攻撃後、
従来の鋳造方法では、潜水艦や護衛艦、貨物船など、
軍需品に欠かせない大型エンジンのクランクシャフトに足りません。

C.W.Cの独自技術は、1年間に合計7,500基の
ディーゼルエンジンクランクシャフトの製造の達成を可能にしました。


オートマチック・スピードシリンダー
6分でクランクシャフトの金型を打ち込むことができる


鍛造クランクシャフトと比較して、鋳造クランクシャフトの最大の利点は、
設計上の制約がないことでしょう。

鋳造の場合、金型は設計者が希望する通りの仕上がりにすることができます。

この金型で10,000ポンドのクランクシャフトができる



金型に注ぎ込まれてできたクランクシャフトの塊



さまざまな用途別の各種クランクシャフト



パワーグラインダーとクランクシャフト 洗浄中



ゴンドラ鉄道車両に積載して出荷される、
潜水艦に使用される予定のティーシリンダーエンジンのクランクシャフト。

第二次世界大戦中、CWCは55万トンもの鋳造による製造を行いました。

余談ですが、戦後すぐCWCは航空機製造会社TEXTRONに買収され、
事業拡大を達成し、2003年にKAUTEXという
ドイツの自動車部品メーカーと合併し、現在に至ります。




■ マスキーゴン・クロニクルのヘッドライン



地元紙である「マスキーゴン・クロニクル」の、
戦争中の象徴的な第一面が並んでいます。

真ん中の
「エクストラ!エクストラ!」
「号外!号外!」でよろしいでしょうか。

日付の古い順に挙げていきます。

【1941年12月7日】

アメリカ陸軍輸送船魚雷攻撃さる

アメリカと日本交戦状態に入れり!

日本の飛行機と艦船がハワイとマニラに大規模な攻撃を開始

最新レポートではアメリカ軍が新しい世界紛争で
敵との最初の戦いに勝利したと示す


【1941年12月8日】

議会合同で召集される

米国側の死者数多数

日本警告なしに太平洋の米海軍基地を攻撃

敵による空襲の報告でホワイトハウスが仄めかした黒い知らせ



【1941年12月8日】

?隻のアメリカ戦艦日本軍によって沈む

米国議会戦争布告

米軍は3,000人の死者、負傷者

東京はアメリカ海軍艦艇に大きな損害を与えたと声明

世界の呪いはルーズベルトにかかっているという

下院と乗員が大統領の対立の呼びかけを応援

【1942年2月26日】

アメリカの潜水艦が4隻の日本艦艇を撃沈

マッカーサー元帥の軍隊が攻勢に出る

敵軍は不意の突撃に後退
ナチスの軍艦に重大な損傷を与えたとの報告
日本機を21機撃墜

【1942年5月9日】

ジャップ艦隊は撃退された!

珊瑚海海戦は「一旦停止」として日本艦隊撤退

【1942年6月6日】

ミッドウェイ海戦 大勝利!

8隻の大型日本艦に損傷を与える

【1945年8月14日】

平和!
日本はビッグ4によって定められた降伏条件を受け入れる

敗北した敵は国連の厳しい要求に頭を下げる

ワシントン 8月14日
トルーマン大統領は中央戦時今夜、日本が降伏条件を受諾したと発表。
準備が整い次第、ダグラス・マッカーサー将軍に承認される予定。

トルーマンは日本の指導者がポツダムにおけるビッグ3会議によって
定められた条件による降伏を受諾した、という
スイス政府を通じて中継された正式なメッセージを読み上げた。

トルーマンは次のメッセージを発表した。

「8月11日に国務長官から送られたメッセージへの返信として
本日午後日本政府のメッセージを受け取りました。
その返答は、日本の無条件降伏を明記した
ポツダム宣言の完全な受諾であるとみなされます」

ちなみに冒頭の紙面左下の顔写真は、
以前もここで扱ったことがある、
ジョナサン・M・ウェインライト少将のもので、

戦争初期、英雄に与えられた拷問

というタイトルで、高級将官が日本の捕虜になって酷い目にあった、
ということを報じています。

マッカーサーはここぞとかつて自分が蹴落としたこの少将を
調印式に担ぎ出し、痩せ細った体を抱き寄せたりしていましたっけね。
(悪意ありまくり)


【1945年9月1日】

日本降伏調書サインの準備が整う

ミズーリ艦上で7時に降伏;8:30より放送

東京湾は大忙しに;
アメリカ人は策を弄することを良しとせず

「ルーズベルトが呪われている」とか、
ちょっとわけのわからないタイトルもときどきありますが、
まあだいたい日本人にはお馴染みの文言ばかりです。

アメリカ人は策を弄することを良しとせず、
というのもあまり意味が分かりませんが、これは
おそらく記事を読めば納得のいく内容なのかもしれません。

さすがにそこまでは文字が読めなかったので、
さすがのわたしも解読は諦めました。


続く。




「ウルヴァリン」「セーブル」2隻のコーンベルト艦隊〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-21 | 軍艦

USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示より、
個人寄贈のものからご紹介します。


説明がないのですが、男性用のコートだと思います。
軍帽のトップにバッテンの模様があるので、
海兵隊のヘビーウールのトレンチコートでしょうか。


この全身白の軍服が、前回紹介した海兵隊パイロットの
ウォルター・スプロール中佐のものであることから、
コートも同じ人の寄贈であると想像します。

それにしても、海兵隊グッズを何から何までここに寄贈したのですね。

海兵隊というと、黒に赤のトリミングの入ったジャケット、
パンツはブルーに赤いストライプというのが典型的なスタイルですが、
ちゃんとドレスホワイトも用意してございます。

海軍だけにドレスホワイトでいいカッコさせてたまるか、
という意味ではないと思いますが、やっぱり
白の詰襟は各方面から人気が高かったのだと思います。

海軍のドレスホワイトとの違いは、肩章も白であること。
海軍は黒に金線で階級をあらわしますが、海兵隊は
白の肩章のネックにボタン、そして葉っぱのようなマークがつきます。

そして、ネックから前ポケットに向かって斜めにダーツが2本入ります。

スプロール中佐パイロットだったので、胸には
ウィングマークが誇らしげに飾られているのでした。


これも説明が一切なし。
イギリス軍ぽいの(最上段左)とか、陸軍の(上から二段目)とか、
これもしかしてドイツ軍の?(上から三段目左)とか。



R・ロバートソンと名前の書かれたシーマン制服一式。

こうしてみると、ダンガリーシャツにジーンズ(ベルボトム)という、
日本では戦後のヒッピー文化以降根付いたファッションも、
実はアメリカではこれが原点だったらしいことに気付かされます。

右側の水兵用ピーコートも、いまではこのスタイルのまま、
なんなら女子も着用できそうな変わらないスタンダードですが、
実はピーコートの「pea」は豆と言う意味ではなく、
錨の爪部分の呼称が「pea」(これは豆が語源でしょうけど)
だからそうなったといわれているのです。

これ豆知識ね。←誰うま

トレンチコートも塹壕戦のファッションが起源だし、
詰襟、セーラー服はもちろんのこと、ミリタリーがその時代のファッションに
与えてきた影響は非常に多いものです。

最近どこぞの共産党議員(女)が、
「自衛隊員は街中を迷彩服で歩くな」
と発言したというニュースを目にしましたが、
サヨク系子育てママさんの、
子供にカモフラージュ柄を着せないで、なんて発信を見ると、

セーラー服は娘に着せないんだな?トレンチコートを夫に着せないんだな?
あなたはチノパンツ(イギリス陸軍の作業着由来)も履いたことないの?
そしてモッズコート(米軍のM-51,MK-65シェルパーカのデザイン)
を子供の送り迎えに着たりすることもないんだな?

と、こまめにつっこんでやりたくなります。

■ 海の男たちの戦争協力



戦時プロパガンダポスター(バナーなので曲がってしまってすまん)
は、船舶事業者、漁業事業者たちの協力を求めるもので、

アメリカは船を欲している
敵に戦争を与えるために
さあ行こう!


とあります。
ここから先は、戦争に協力した海の男を讃えるものになっています。



ここマスキーゴンからミシガン湖丸沿いにちょっと下がると、
そこはサウスヘブンという漁港だったところがあります。

「魚はファイティングフードだ!」

というこの戦時ポスターは有名で、今でもプリントが取引されています。
なぜ魚が「戦いの食糧」なのか。

ポスターの啓蒙するところは、つまり自給自足でした。
当時のアメリカ政府は、同じ理由で園芸や缶詰を奨励していましたが、
戦争を遂行するため、日本政府が
「贅沢は敵だ」(敵の前に『素』を落書きした人がいたそうですが)
と言ったのと方向性においてはおなじような理由で、
各家庭が自給自足に励めば、それだけ戦争遂行に費用が回せるという訳です。


「仕事を済ませようぜ!」

というこのポスターは、熟練のシーマン募集用。
それにしてもこの手のポスターの黄色使用率高し。

やっぱりアイキャッチーな色とされているからですかね。



「呼びかけに応えて」

というテーマで紹介されているこの人物は、ミシガンの
サウスヘブンで漁業を営んでいたクリストファー・ジェンセン。

愛国者のジェンセンは、早速政府の呼びかけに応答して行動を起こしました。

彼にできるのは魚を採ること。
そして広くそれを配布することです。
その対象は一般家庭にとどまらず軍隊にも及びました。

デンマークからの移民だったジェンセンは、
元々ここマスキーゴンで事業をしていましたが、
政府の呼びかけに応えてサウスヘブンで商業漁業を始めました。

最初は家族でタグボートによる釣りをして、
嵐によりそれを買い替えたりしていたとき、偶然ミシガン湖では
トラウト(マス)が大量に揚がるようになったのです。

このビッグウェーブに乗るしかない、とジェンセンは
戦時中の国に食糧を供給する事業を拡大させていきました。

1942年当時の彼の写真の前には、
彼が漁で使ったフックや擬似餌、トラウトの標本が飾ってあります。


葦の漁網を作るジェンセン

しかし戦争が進行するにつれ、ミシガン湖の商業漁師は
次第に漁獲量が減少していきました。
レイクトラウトを捕食するウミヤツメ(うなぎに似ている)が増え、
そのため大規模にトラウトが減ってしまったのです。

しかし、ジェンセンは業界を離れることを全く考えず、
戦後も数十年に渡り漁を続けました。


「アンサー・ザ・コール」シリーズ二人目。

1940年、ルイス・アベルはミシガンのロビンソンマリーンに入社しました。
彼がここでやった仕事は、「船が欲しい」という国の声に答えて、
プレジャーボートやタグボートを戦時仕様へ改装する工事でした。

彼は、同じ時代、同じように国のために立ち上がり、
自分の仕事で奉仕しようとした多くの若者たちの一人です。

1920年、カナダに生まれたアベルは幼少期に家族と米国に移住し、
家族はミシガン州のハーバーで果樹園を経営しました。

ロビンソン社ではサブチェイサーを建造するチームに加わりましたが、
彼はリギングの仕事にをエキサイティングだと感じ興味を持ちます。

リギング=索具の係はクレーンとウィンチを使用して
それだけで大きな船をシップヤードで動かし、
完成したボートをミシガン湖に出して対岸のシカゴに届け、
その後はバスか列車でまた戻ってくるのです。


1942年初頭、アベルはロビンソン社の向かいにあった
タスコットボート製造会社に就職(よかったのかこれ)し、
ここでも柵具作業員として働きました。

彼はここで今までの会社では見なかった、
女性のシップビルダーを見ることになります。

そのときまでにアメリカは戦争に突入しており、
すでに男性が入隊したり徴兵されたりして抜けた職場に
女性が必要され、実際に現場に投入されていたのでした。



この造船工具の数々は、当時の造船会社で使われていたものです。
左上から時計回りに、

●両刃のリーミングフック

●メタルホイール刃 木製ハンドル

●カーブのあるところをコーキングするアイロン

●リーミング(拡孔)リッピング(縦引き)フック

●パンチ穴あけ

●コーキング(小さな部分用)ツール

●ベントコーキングアイロン




戦線に送る物資を積み込むドックワーカーたち。
ミシガン湖のここマスキーゴンの港での光景です。




湖をパトロールするコーストガード。




今日のメインテーマは、「コーンベルト・フリート」です。
この写真は、そのテーマに深く関係しています。

この写真でミシガン湖で建造されているのは、五大湖で稼働する、
2隻目の航空母艦になる予定です。

そして海軍は、その2隻の航空母艦で艦隊を形成しようとしていました。

その名も「コーンベルト・フリート」。
コーンベルトは読んで字の如く、トウモロコシ生育地帯。



本来海がないコーン生育地域に不自然に存在する艦隊、
それが、五大湖で建造された2隻の空母(だけからなる)艦隊でした。



そこでこんなコーナーが現れます。
まず、左側の「スチームボートが空母に」と言うのを見てみます。

サイドホイール蒸気船『シーアンドビー』



1912年、デトロイト造船会社が建造した「C&Bとして知られる
この500フィートの蒸気船は、510室のプライベートキャビン、
24のパーラー、正式なダイニングホールを備え、定員は1500人、
という豪華客船として稼働していました。



彼女は最初から最後まで「淡水生まれの淡水育ち」。

現役時代は、オハイオ州クリーブランドとニューヨーク州バッファローの間、
つまりエリー湖の中をぐるぐる周航していましたが、
1940年にシカゴに転勤することになりました。

そのときには、エリー湖からデトロイト経由でヒューロン湖、
それからミシガン湖を下るというコースを辿ったでしょう。

その後、客船として働いていた「シーアンドビー」に
とんでもない話が持ち込まれるのです。


航空母艦「ウルヴァリン」への転身

なんと、蒸気汽船を空母に改造するという、海軍の計画です。
この作業は、1942年5月10日に始まりました。

「亀の甲の虫のように、千人以上の労働者が
シーアンドビー号を空母として完成させようと急いでいる。
これは五大湖を航行する史上初の空母である」

「この巨大な旅客船は、湖で最も速く、
内陸の水路ではおそらく最も速い蒸気船で、
改造作業が始まってから約70日で完成し、
海軍のために準備されるだろう」


船体が大きすぎて乾ドックでは作業ができないので、
異例ですが、停泊させたまま改造が行われました。
ピーク時には1,250人の船員たちが24時間体制で作業したといいます。

バッファローの住人たちは、この造船所で
何か特別なことが起こっていることを知っていましたが、
現場には沿岸警備隊の駐屯地があり、周辺は武装した沿岸警備隊員であふれ、
車は近寄れないし、歩行者は誰何されるという厳戒態勢でした。

ところで、なんだって海軍はこんな戦争と関係のない湖に
外洋に持ち出すつもりもない空母など作ろうとしたのでしょうか。



工事が完了し、8月12日に就役した空母「ウルヴァリン」

全長550フィート、艦隊空母の約3分の2の長さの飛行甲板を持っていました。
格納庫、エレベーター、カタパルトまではありませんが、
調理室と寝室はありました。(これって当たり前のような・・)

就役式は一般に非公開で、乗組員とともに数人の要人が出席したのみ。
初代艦長ロス・P・シュラバック少佐は、
乗組員に向かってこんなスピーチをしました。

「もし、君たちがこの船を改造するために働いてくれた人たちと同じように、
一生懸命に、そして断固として働いてくれれば、
我々海軍は究極の効率を手に入れることができるだろう」


しかも、アメリカ海軍は、もう一隻同じ空母を調達しようとしていました。

この就役式の少し前のことです。
喫水線から80フィートもある3層のデッキをそのままにした
SS「グレーター・バッファロー」号が造船所に到着しました。

「グレーター・バッファロー」号

「グレーター・バッファロー」は、「シーアンドビー」号より少し若く、
少し大きな船で、1923年に建造され、2,127人の乗客を乗せることができ、
625の客室が備えられて車両を103台デッキに搭載することができました。

海軍はこの船で鋼鉄製の甲板をテストすることを希望し、
そのため、就役の準備に時間がかかりましたが、工事が完了すると、
「グレーター・バッファロー」は「セーブル」と名前を変え、
8本のアレスティングケーブル、主甲板の講義室、21人の飛行士の寝台、
病室、手術室、洗濯室、仕立屋、乗組員室、
乗組員のためのカフェテリア式調理室、士官食堂が完備していました。

ちなみに「セーブル」に配属された乗組員の中には、
珊瑚海海戦で大破して廃艦となった
USS「レキシントン」の生き残りが何人もいたということです。

「セーブル」を建造する作業はその優秀さを認められ、
E賞を与えられましたが、その式典で海軍提督はこう訓示しました。

「かつて、五大湖で外洋の船乗りを訓練することを提案した大胆な男は
皆に笑われたものですが、しかし、今、そのアイデアは
戦争で最も偉大なものの1つであることが証明されようとしている」


引き渡される「ウォルバイン」


USS「ウォルバイン」

バッファローを出港した「ウォルバイン」は、
石炭焚きのボイラーから煙を上げて、
飛行士と水兵の訓練を待つシカゴに向かいました。

その横櫂船型航空母艦は、異様な光景を作り出していました。

そして、アメリカ海軍念願の「コーンベルトフリート」は始動しました。

そう、すっかり言い忘れていましたが、コーンベルト艦隊の使命は、
海軍の艦載機パイロットの訓練育成だったのです。

ミシガン湖に到着した2隻で早速パイロットの訓練が行われます。
海軍はこの2隻を、空母パイロットの離着艦訓練のために作り、
外洋より安定した練習場と思われたミシガン湖に据えたのです。

さすがアメリカ、やることのスケールが違う。

訓練中のパイロットは、近くのグレンビュー海軍航空基地から離陸し、
空母に着艦して再び離陸、という行程を繰り返します。

空母パイロットの資格を得るには、10回の離着陸成功が条件でした。
これは後に8回に減らされています。
訓練は夜明けから夕暮れまで、もちろん厳しい冬も行われました。



このときの訓練で空母のパイロットになった17,800人の中には、
後に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュも含まれていました。





当時海軍で最年少でウィングマークを取り、最初の任務に就くブッシュ父。
子ブッシュに似てる・・・って親子だから当たり前か。

ブッシュの語る、コーンベルト艦隊訓練の思い出とは。

「あの冬のオープンコクピットでの五大湖の飛行はよく覚えている。
人生で一番寒かった


普通に地面にいるだけでも死ぬほど寒いのに、
五大湖の上をオープンコクピットで飛ぶって。
当時の空母着艦(特に訓練中)はウィンドウが閉められなかったのね。


そして、空母への着艦訓練では、事故も当然起こります。
墜落で命を落としたパイロットもたくさんいました。



今から墜落します



この頃、激しい訓練が日夜行われたミシガン湖には、
軍用機が多数墜落して、長年そのままになっていました。

1980年台にある篤志家が、ミシガン湖の軍用機を回収する、
というユニークなビジネスを思いつきました。

その結果、彼らは訓練が行われていた南側の流域で
数十機の墜落機体を特定し、引き揚げの作業にかかりました。

海軍はこれに、民間の寄付者が関連費用を払うならば、
軍用機の回収、さらにその機体の復元展示を許可するとしました。

「ウルヴァリン」と「セーブル」。

この2隻の空母が全く戦史において注目を集めたことがないのは、
彼女らが淡水戦闘艦であり、会敵したことがなく、怒りの発砲もなく、
ただパイロットの訓練だけで終わったからです。

しかし、何千人もの海軍飛行士に、実戦に出る前に
ピッチングやローリング中の飛行甲板に着艦するというような
限りなく本番に近い状況を作り訓練の場を与え、
彼らの育成に寄与したことは、海軍から高く評価されています。

続く。





空母打撃群 タスクフォース〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館展示

2023-03-19 | 軍艦

シルバーサイズ潜水艦博物館の展示より、続きです。

■ 機動部隊模型


USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示の中では
その大きさでは群を抜いていると思われたのが、
空母打撃群(キャリア・ストライク・グループ)を説明するための模型。

空母打撃群(CSG)は、アメリカ海軍の空母戦闘団の一種です。

空母1隻、巡洋艦1隻以上、駆逐艦またはフリゲート2隻以上で構成され、
そrに65~70機の空母航空団を加えた約7,500人規模の作戦編隊です。

空母打撃群はアメリカの戦力投射能力の主要な要素であり、
スーパーキャリア1隻で一国の空軍に匹敵する火力を有するとされます。

第二次世界大戦の頃は空母戦闘団と呼ばれましたが、
現在では「エンタープライズ打撃群」などのように、
中心となる空母の名前が冠されることが多いようです。

現在の空母打撃群は、

1、「カール・ビンソン」
2、「ドワイト・D・アイゼンハワー」
3、「アブラハム・リンカーン」
4、「ロナルド・レーガン」
5、「ハリー・S・トルーマン」
6、「セオドア・ルーズベルト」
7、「ジョージ・H・ブッシュ」
8、「ニミッツ」
9、「ジェラルド・R・フォード」


の9つが存在し、こうして並べてみて改めて、
空母の名前に大統領経験者が多いのに気がつくわけです。
(ニミッツは海軍枠、カール・ビンソンは海軍への貢献枠)



さて、この展示は、大きな機動部隊の模型の四方に説明があり、
ボタンを押すと「戦艦」「巡洋艦」「駆逐艦」などが
点灯される仕組みになっています。

まずは4面のうちこの面の説明から見ていきましょう。

■ ファストキャリアフォース


1945年、沖縄におけるタスクグループ58.1


このプロットボードに描かれているのは、1945年3月と4月、
日本に向けて航海した偉大なアメリカ海軍太平洋艦隊の一部です。

タスクグループ58.1であり、コンパスローズの中心に描かれている旗艦は
USS「ホーネット」(CV-12)です。

TG58.1はタスクフォース58Fast Carrier Forceの一部でした。

任務部隊は第二次世界大戦中、艦隊組織にたいし、
変化していく戦争状況に対応する柔軟性を提供するために創設されました。

第58任務部隊は攻撃空母を中心に編成され、
他の任務部隊は沿岸砲撃、軍隊の輸送、および兵站支援を担当しました。

タスクフォースはタスクグループ58.1のようなグループに分割されました。

タスクフォース58から選別された他のTG58.2、TG58.3なども、
「ヨークタウン」「エンタープライズ」「レキシントン」
などの空母を中心に組み立てられます。

それぞれのグループが担当の責任を担うことになっており、
たとえば二つのタスクグループが島を別方向から攻撃したりします。
また別の艦船は水上艦を「ハンティング」することもあるでしょう。

また、支援船を擁する任務グループは、高速空母部隊に燃料を補給し、
装填や修理を行うために待機しているかもしれません。

タスクグループはさらにタスクユニットに細かく分割されることがあります。

戦闘前に特定の任務を実行する必要があった場合、または
状況が変化した際に対応するためですが、それを決定するのは
現場の部隊またはグループの司令官です。

具体例では、マーク・ミッチャー中将が指揮する機動部隊58
(高速空母部隊)
から任務群58.1が編成され、このグループは
ジョセフ・クラーク少将が指揮を執りました。

一つの任務群(TU58.1.3)が編成されると、
そのユニットの上級将校によって指揮されることになり、
海兵隊の上陸作戦などに対する任務支援で海岸砲撃を行なったり、
損傷した艦船を牽引したり、特定のエリアを偵察したりします。

■空母と「戦場」


USS「キトカンベイ」を攻撃中撃墜されて落ちる日本機。
1944年6月、マリアナ諸島沖




まずブルーの部分をご覧ください。
中央のUSS「ホーネット」、その周り三方に位置するのは

「ベニントン」CV20
「ベローウッド」CVL24
「サンジャシント」CVL30


いずれも航空母艦(CVLは軽空母)です。

空母が機動部隊の焦点になるにつれて海戦は変化しました。
最も顕著な変化は、戦場が拡大したことです。

かつて艦隊の主力艦であった戦艦は、有効射程が約24マイルでしたが、
航空母艦は200マイルの範囲で攻撃することができるようになりました。

日本の空母搭載航空機は軽量でかつ脆弱ではありましたが、
その分航続距離を100マイル伸ばすことができました。

これは、もし4隻の空母を使用すれば、日本艦隊は太平洋で
約47,000平方マイル(またはミシガン州の約半分のサイズ)
をカバーすることができたという意味でもあります。


日本の艦隊が自国の空母から約60マイルの距離で活動している
アメリカの戦闘航空哨戒隊に遭遇したとしたら?

そう、実際の戦場は劇的に拡大することになります。

たとえば、レイテ湾では、日本軍は最大800マイルの距離をとって
活動する三つの機動部隊を使って戦い、
また陸上ベースの航空機もこれに加えていました。

対するアメリカ海軍が使ったのは、二つの艦隊です。

この結果、戦闘が行われた範囲はフィリピン列島のほぼ全域にわたり、
それは緯度10度、経度12度の約43万2000平方メートルでした。

これは、アメリカ大陸で言うと、ユタ州、アリゾナ州、
ニューメキシコ州、コロラド州全域で行われたと言うことになります。

■ 戦艦ーバトルシップ


続いてこのサークルのブルーで示された艦に注目します。
左から時計回りに

「インディアナ」
「ミズーリ」
「ウィスコンシン」
「マサチューセッツ」
「ニュージャージー」

の5隻。
そう、戦艦です。


前方から「マサチューセッツ」「インディアナ」
巡洋艦「シカゴ」(CA-136)「クィンシー」(CA-71)、
1945年7月、日本本土の製鉄所への砲撃のため単縦陣で航行中


このときに彼女らが攻撃した「製鉄所」というのは、
かつてわたしが「マサチューセッツ」艦上で見学した資料によると、
釜石の製鉄所だったということになっています。

このときに「楽器会社を攻撃した」という文章があって、
なんのこっちゃと思ったのですが、今にして思えば
インストゥルメンタル=装備製造所ですよね。<(_ _)>


さて、まず、「バトルシップ」の説明から見ていきます。

この任務群は、2つの異なった級からなる5隻の戦艦を含んでいました。

「インディアナ」(BB58)と「マサチューセッツ」(BB59)は
「サウスダコダ」級戦艦、
「ニュージャージー」(BB62)「ウィスコンシン」(BB64)
「ミズーリ」(BB63)は「アイオワ」級という具合です。

「アイオワ」級戦艦は戦争のために建造された最後の級であり、
結果としてこれがアメリカ合衆国が建造した最後の戦艦級ともなりました。

しかしながら、戦艦は非常に優れた軍艦であったといえます。

その数がそもそも非常に少なかったため、
クラスごとに識別されることはめったにありませんでした。

それぞれに独自の名前があり、
これら5隻もその例外ではありませんでした。


【インディアナ】

「インディアナ」は1942年4月に就役し、
その秋遅くに太平洋に向けて出航しました。
1943年の年間ほとんどを通じて南太平洋で活動した後、
中部太平洋に移動し、そこでギルバート諸島、および
マーシャル群島での作戦に参加しています。

「インディアナ」は1944年には空母を護衛する任務に加わり、
カロリン諸島、そしてマリアナ沖での戦闘を支援しました。

1945年には硫黄島侵攻を支援し、続いて
日本本土の島々を攻撃しました。


これらの戦争中の活動により、「インディアナ」は
合計で9つのバトルスターを獲得しています。

【マサチューセッツ】


さて、ここで「マサチューセッツ」の説明になったので、
実際にその現物を見学したわたしとしては、
すかさず写真を出してきてしまうわけです。

「マサチューセッツ」は1943年に太平洋艦隊に参加する前に、
北アフリカのヴィシー・フランスに対して16インチ砲を向けました。


このことについては、現地のレポをもとに考察しております。
そのときに撃ったという砲弾も展示されていますので、
思い出しがてら見ていただければ幸いです。

カサブランカ海戦の”真実”

その後彼女はソロモン諸島とフィリピンでのキャンペーンにも参加。
レイテ湾で激しい戦闘を目の当たりにし、終戦まで
日本本土への攻撃に参加し、日本近海で終戦を迎えています。

「マサチューセッツ」は11個のバトルスターを獲得しました。



【アイオワ級三姉妹】

このタスクグループに代表される「アイオワ」級戦艦は
おそらく最もよく知られているものです。

「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」

彼女らは戦争の最後の2年間に、それぞれ9、5、8個の従軍星、
バトルスターを獲得しました。

これらの3隻の「バトルワゴン」は、結局戦争の終結につながった
日本への最後の攻撃で際立っていました。

「ニュージャージー」は第五艦隊の旗艦を務め、
「ミズーリ」はその甲板で日本の無条件降伏文書の調印式が行われました。

「サウスダコタ」級の核艦艇とは異なり、
各戦艦は大戦後も活躍し、その後の朝鮮戦争、そして
最終的には湾岸戦争までの紛争に出動し続けました。

「マサチューセッツ」と同様、これらの「アイオワ」級戦艦たちは
それぞれ博物艦となって一般に公開されています。

■ 巡洋艦 クルーザー

1945年6月5日、艦首を失った状態でグアムに帰投する
巡洋艦「ピッツバーグ」(CA-72)

巡洋艦は戦艦と駆逐艦の間のギャップを埋める存在でした。

攻撃部隊を率いて艦隊を守るのに十分な強さを持ち、
主力感を航空機から遮蔽するための多用途性も備えています。

第二次世界大戦中の巡洋艦には二つのサイズがありました。
軽巡洋艦(CL)と重巡洋艦(CA)です。

その区別は、排水量よりも、最大砲の大きさで決められました。

軽巡洋艦には5インチ38口径の砲が、そして
重巡洋艦には8インチ55口径の砲が装備されていました。

ここに示されたタスクグループは、異なるクラスの重巡洋艦と
軽巡洋艦の両方で構成されています。

これらの中で最も古く、おそらく有名なのは

USS「インディアナポリス」CA35

に違いありません。
1932年に就役し、条約により重量は1万トンに制限されていましたが、
5インチおよび20ミリ対空砲に加えて、
8インチ55口径の砲を9門搭載していました。

1945年3月31日、この機動部隊の一員として、
「インディアナポリス」が見舞われた爆弾は、
メインデッキを貫通し艦体を貫き、これによって
そこにいた9名の乗員が死亡しました。

メアアイランドでの修理が終了すると、「インディアナポリス」は
のちに広島に投下する予定の原子爆弾の部品を輸送するという
秘密の任務に着手することになります。

荷物を届けた後、「インディアナポリス」は敵の魚雷を受け沈没しました。

彼女お1200名の乗員のうち、生き残ったのはわずか320名未満で、
そのほとんどの死因は漂流中の衰弱とサメの襲撃によるものでした。


USS「ボルチモア」(CA 68)
USS「ピッツバーグ」(CA 72)


は、空母を援護するために設計された新しいクラスの巡洋艦です。
彼女らには9基の8インチ砲が備えられていましたが、
それだけでなくより強力な対空兵器も装備していました。

「インディアナポリス」のように、水上飛行機を発射して回収することができ
偵察や捜索救助に役立ちました。

「ボルチモア」級巡洋艦は17,000トンでしたが、
「インディアナポリス」より速度は1節早く33節でした。

このタスクグループに5隻の軽巡洋艦が含まれていますが、
そのほとんどが「クリーブランド」級です。

重量が約14,000トンの

USS「ヴィンセンス」
USS「ヴィックスバーグ」
USS「マイアミ」


は航続距離が長く、亜対空防御がより強化されており、
魚雷攻撃にも耐える設計がなされた巡洋艦最大のクラスです。

しかし、「クリーブランド」の船体設計の多用途性は、
「インディペンデンス」級軽空母への改造によって示されました。

そのうちの2隻は、これら3隻の巡洋艦が掩護していました。

USS「ベローウッズ」(CVL 24)
USS「サンジャシント」(CVL 30)

これらはジェラルド・フォード大統領が現役時代勤務していた空母、

USS「モンタレー」(CVL  26)

の姉妹艦となります。



巡洋艦を示す青い艦船をご覧ください。
これも時計回りに、

「セントルイス」 CL 49
「ボルチモア」CA 68
「ヴィックスバーグ」CL 86
「マイアミ」CL 89
「ヴィンセンス」CL 64
「サン・ジュアン」CL 54
「インディアナポリス」CA 35

となります。
文字通り、戦艦と戦艦の間を埋めるように配置されており、
「インディアナポリス」が特別というか、
これだけが旗艦「ホーネット」の前に配置されています。


■ 駆逐艦



「ホーネット」の後ろ三方には

「ベニントン」CV 20
「ベローウッド」CVL 24
「サンジャシント」CVL 30


という軽空母が位置します。

四隅にはレーダーピケット艦として、

「シュローダー」DD 502
「クッシング」DD 797
「マッドックス」DD 731
「フランクス」DD 554


の駆逐艦群が50マイル外側を守っているというわけです。

レーダーピケット艦は、レーダーによる索敵を主目的に、
主力と離れて概ね単独で行動し、敵を警戒する役目です。

太平洋戦争末期、機動部隊におけるレーダーピケット艦の任務は
おもに日本軍機の空襲(とくに神風特別攻撃隊)を探すことでした。

青の艦が駆逐艦です。
最も数が多い駆逐艦は、多用途のプラットフォームでした。

彼らは航空警戒、交戦のほか潜水艦の捜索、上陸の支援、
人員を艦と艦の間で移動させたり、予備部品を配ったり、
艦隊の郵便物の配達などという「平凡な」タスクも行いました。

駆逐艦の中で最も数が多かったのは「フレッチャー」級です。

1942年から44年までの間に175隻が建造され、排水量は2,500トン、
36.5ノットで波間をかっ飛ばしました。

5基の5インチ単装砲、ファンテール(艦尾)から投下する爆雷、
10基の21インチ魚雷発射管によって独特でありまた強力でした。

もちろん航空機と戦うための40ミリと20ミリ銃のマウントも備えています。

タスクグループの駆逐艦のうち9隻は、
第二次世界大戦のために開発された最後のクラスと言われる
「アレン・M・サムナー」級でした。

58隻が建造され、操縦性を向上させるための二重舵、
最大34ノットの高速性、航続距離の向上が身上でした。

「サムナー」級駆逐艦にはより優れた高性能レーダーと、
火器管制装置が装備されており、40ミリ砲12門、
20ミリ砲11門を備えた大変優れた対空プラットフォームでもありました。

その5インチ砲架は2連装で、前方に二つ、後方に1つありました。

戦争後半になり、日本軍の水上艦艇は減少していきましたが、
それに伴って、「サムナー」級駆逐艦は、
魚雷発射管を40ミリ砲に置き換えていったと言うことです。

潜水艦の恐怖はもうない、と判断されたということでしょう。


続く。





思い出の極東みやげ おまけ:潜水艦と喫煙〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

「シルバーサイズ潜水艦博物館」の展示には
少しだけですが日本との戦争で兵士が持ち帰ったものがあります。

今日はそんな遺品から紹介します。

■ 兵士たちの「極東土産」

太平洋戦域に出征している間アメリカ軍の兵士たちは
現地でさまざまな記念品を手に入れ、持ち帰りました。

ミルトン・モッカーマンはUSS「スプリングフィールド」
三等機械兵(Machinist's Mate 3)として勤務した人物です。

「スプリングフィールド」というと、あの
「シンプソンズ」を思い出す人もいるかもしれませんが(わたしだけ?)
イリノイ州の州都から取った伝統的な艦名であり、
この名前を持つ艦は、現在の原子力潜水艦を含めると4隻あります。


軽巡洋艦「スプリングフィールド」CL-66迷彩仕様

1944年に就役してから、戦争中のほとんどを太平洋で過ごした、
軽巡洋艦「スプリングフィールド」の経歴をざっと書いておきます。

1945年、西太平洋に向けて出発した「スプリングフィールド」は、
ウルシー環礁に到着し、高速機動部隊に加わります。

3月18日、19日と九州と本州を空襲した後、沖縄に上陸。

空母が沖縄の防衛力を弱めるために航空機による攻撃を行い、
その間軽巡も敵航空攻撃を阻止しようとしました。

1945年4月1日以降は沖縄攻撃を行う空母を支援。

頻繁に「ジェネラルクォーター!」(総員配置)のコールがかかり、
日本の「神風」がアメリカの戦闘航空隊と水上対空網に対し
自爆攻撃をかけてくるのを時には見守り、時にはそれと戦いました。

彼女自身は少なくとも3機の特攻機を破壊した、と記録されます。

例えば4月17日、特攻してきた日本軍機を1機撃墜した直後、
別の機体が「スプリングフィールド」に突撃を試みましたが、
多くの姉妹艦と同じ運命をたどることを、すんでのところで逃れています。

ラッキーだったのか、それとも操舵でそれを回避したのかはわかりませんが、
その神風特攻機はわずか40メートル先の海に墜落しました。

5月、「スプリングフィールド」はレイテ島に寄港し、
日本本土を攻撃する空母と共に東京を目指します。

そして7月13、14日、本州本部と北海道を目標とし、
17日からは東京と横浜を攻撃しました。

7月18日には戦艦「長門」と「榛名」を爆撃し、
7月24、25日(呉大空襲)には呉を、28日には神戸、
そして再び東京を攻撃しています。

終戦となってから「スプリングフィールド」は機動部隊と相模湾に入り、
その後1946年1月の上旬まで極東にとどまりました。

この3ヶ月間に、佐世保、横須賀、中国の上海、青島など、
そして朝鮮半島の仁川を訪問しています。

つまり、モッカーマン三等水兵は、戦地というより、
戦後の極東滞在期に手に入れたものを持って帰ったのでしょう。

そして、冒頭にある日の丸の旗です。

これは陸軍第43師団第103歩兵連隊に所属していた
デビッド・ケネディが持ち帰ったものです。

寄せ書きがない日の丸は、南方で戦死した日本兵から奪った、
というようなストーリーを感じさせないので、なんとなくホッとしますね。

そんなふうに感じるのは日本人だけだと思いますが。

現地の解説には、

「日本の国旗の中央にある赤い円は太陽を表しており、
日本の天皇は神道による伝説で太陽の女神天照の子孫である、
という信念のために重要なモチーフです」

と書かれています。




五重塔に大文字焼が描かれた絵葉書。
このことから、これらはいずれも京都で手に入れたものと考えられます。

で、手前の「優雅のみやこ」というのは、
もしかしたら何かの包装パッケージの一部だったのでは?
と考え、下にある絵の器に書かれている文字を解読したところ、

「二軒茶屋」

と読めました。
これ、八坂神社の二軒茶屋のことではないでしょうか。
この絵に描かれたものも、名物の田楽なのでは・・。
これのことね

二軒茶屋HPより田楽豆腐

自分で言うのもなんですが、多分当たっていると思います。
現在も営業されているようなので、お店に教えてさしあげようかな。


これはどう見てもメイドインチャイナ。
いや、でも、刺繍が施されているのは米海軍縫製の水兵服じゃないですか?

ということで、説明によると、これは現地で刺繍してもらったのだそうです。

中国に上陸すると、モッカーマンとその仲間たちは、
衣服にドラゴンを刺繍して欲しくてたまらず、
請け負ってくれる現地の女性を熱心に探しました。

制服にエキゾチックなドラゴンの刺繍。
誰かが始めたこのおしゃれが、当時極東にいた水兵さんの間で流行って、
現地の中国人もいい商売にしていたのでしょう。

海軍の上の方は、この「流行」を苦々しく思い、
こんなことに浮き身をやつす水兵たちに不満だったらしいのですが、
彼らはそんなおっさんたちの文句は聞き流し、
最終的にドラゴンを制服に刺繍することに成功しました。

まあ、それもこれも戦争が終わっていたからこそ。
上もなまじ彼らが激しい戦闘を耐えぬき生きてここにいる、
と思ってそれくらい大目に見よう、となったのに違いありません。


ピンクの扇子も、デビッド・ケネディが持ち帰ったものです。

5円、10銭、50銭の日本札が並んでいますが。
これは強襲揚陸隊のメンバーで、第二次世界大戦中太平洋戦線で勤務した
ポール・エーブリー・ニールセンが帰還時に故郷に持ち帰ったものです。

軍事円は香港やフィリピンなどの占領地で使用されました。
占領時に、被占領地は通貨を軍事円に交換することを余儀なくされました。

残念なことに戦後日本の軍円は全く価値がないとみなされ、
全ての軍円は破棄することが推奨されました。

現在は香港賠償協会という団体が、
かつて保有した軍円の補償を求めて戦っているそうです。

■ TBTターゲット方位送信機


ターゲット・ベアリング・トランスミッター
Target Bearing Transmitter、通称TBT


この機器が活躍したのは主に夜間の水上攻撃のときです。
TBTは通常各艦船に2基装備されており、一つがブリッジの前部、
もう一つはブリッジ後部のシガレットデッキに装着されていました。

この「シガレットデッキ」と言う名称を聞いたことがなかったのですが、
乗員がタバコを吸ってもいいデッキということでしょうか。

■ 潜水艦と禁煙

ここでタバコがでてきたので、ちょっと寄り道して喫煙の話をします。

世の中の公式な場所はほとんどスモークフリーが進んでも、
「兵の士気」にタバコが欠かせなかった軍隊では
世間一般よりもその動きは鈍かったといえます。

しかしそんなアメリカ海軍でも、ついに潜水艦の喫煙が禁止されました。

とはいえ、これはすでに10年以上前の話となります。

「2010年、海軍は受動喫煙の害についての医学的テストを受け、
潜水艦が水面下に展開されている間は艦内での喫煙を禁止するとした」


いや、逆に驚いてしまったのですが、
艦内での喫煙はそれまで許されていたってこと?

ディーゼル艦では何度も潜航中の煙草は禁じられていた、
と書いたものですが、原子力潜水艦になってから
艦内の換気に気を配る必要がなくなったので、
こんな最近まで艦内喫煙が許されていたんですね。

しかし、この措置をよしと思わないアメリカ人も(当時は)いて、

「この決定は第二次世界大戦時の映画で超クールに描かれた、
海上での厳しい一日の後にタバコを吸う乗員のイメージを崩しかねない」


という意見もあったようです。
イメージ重視か。

前述のように、喫煙は長い間、海軍(他の軍隊も)文化の定番でしたし、
何十年もの間、救命ボートに積まれた非常食の中には、
食料や水と一緒にタバコも入っていました。

ノーフォークの海軍潜水艦部隊司令官、マーク・ジョーンズ中佐によると、
世がいかにスモークフリーの動きを見せても、海軍ではそうではなく、
実に潜水艦乗員の約40パーセントがこの時点で喫煙者だったとか。

第二次世界大戦中が95%だとすれば、もちろんこの数字は
世間の趨勢を受けて激減していたということなんでしょうけど、
それでも40%は多いですよね。

サブマリナーに喫煙者が多い理由を、あるベテランは、
「ストレスに満ちた環境だから」と言います。

そんな彼らに、この決定は大きな変化を強いるものになるだろうとも。

この決定を知らされた喫煙派乗員の意見は、

「潜航したら、皆イライラして怒りっぽくなるかもしれない」

また逆に、22年間非喫煙者だった人は、

「いいことだと思う。何と言っても閉ざされた環境ですからね」

とまあ、当たり前のことを言っています。

しかし、これだと、原子力潜水艦は通常一度に60日間、
時にはもっと長い期間「パックアウト」するので、
喫煙者は何ヶ月もタバコを吸う機会がなくなります。

「シガレットデッキ」という名称が示すように、
昔は喫煙所は堂々と公的に存在しました。

2010年までは、潜水艦の喫煙所は艦長の裁量で指定されていました。

しかし、2006年、ついに副流煙の悪影響についての報告が上がってしまい、
海軍は独自の調査を依頼せざるを得なくなったのです。

その方法は、9隻の潜水艦で非喫煙の乗員を対象に医学的検査を行うもので、
やはり副流煙の医学的影響があるという結果が出たのです。

いや、原子力潜水艦は換気システム完備なのに?
とその結果に驚く人もいたかもしれません。

しかし、実際には、換気システムは副流煙を環境から取り除くのに
必ずしも有効ではなく、どうしても非喫煙者は
呼吸器感染症、心臓発作、癌のリスク増大の影響に曝されます。

また、潜水艦のような空間では、非喫煙者も、
「サード・ハンド・スモーク」と呼ばれるところの、
喫煙者の衣服に付着する微粒子状の煙の影響を受けるとされます。

狭い環境ではどうしても塵は時間とともに蓄積され、行き場がなくなります。

この後、海軍はニコチンパッチやガムを配布するとか、
禁煙外来を開設したりして禁煙したい人の支援を始めました。


TBT=高性能双眼鏡



さて、TBTに話を戻します。

TBTが取り付けられているのは「ペロラス」というコンパスで、
ベースには電気送信機が組み込まれていました。
方位角360度回転することができ、
オペレーターが方位を読み取るためのスケールが装備されています。

目標の相対方位をコニングタワーにある
魚雷データ・コンピューター(TDC)に送信するのです。

双眼鏡は圧力硬化素材でできていて、潜水艦が潜航中も
取り付けたままにしておくことができました。

■リフレクター・テレスコープ(屈折望遠鏡)



屈折望遠鏡は、レンズを対物レンズとして使用し画像を取り込みます。

屈折望遠鏡の原理は元々スパイグラスや天体望遠鏡で使用されていましたが、
双眼鏡やカメラの望遠レンズなどのデバイスでも用いられます。

対物レンズと目に近い方の接眼レンズの組み合わせを使用して、
人間の目が単独で収集できるより多くの光を集め、
焦点を合わせて、より明るく、鮮明で拡大された画像を表示します。

屈折望遠鏡は光を屈折させ、それを利用して結像します。
この屈折により、平行光線は焦点に収束しますが、
平行でない光線は焦点面に収束します。

簡単にいうと、筒の先にある対物レンズの凸レンズでできた像を、
接眼レンズで拡大するという仕組みです。

■ ラジオ・トランスミッター



なんの説明もなく隅っこに置かれていました。

GE製のタイプQG-52241ラジオ・トランスミッター、
Model TAJ-18
とあります。
信号を伝えるラジオシステムの1部分である送信機だそうです。

まさかと思って型番で検索してみると、


   Preliminary Instruction Book for 
Navy Model Taj-18 Radio Telegraph Transmitting Equipment.
 (Manufactured by General Electric Company, Schenectady, N.Y.)  
 
U. S. NAVY DEPARTMENT. BUREAU OF SHIPS

  海軍モデルTaj-18無線電信送信装置 予備 取扱説明書
(ニューヨーク州スケネクタディ ゼネラル・エレクトリック社製)。

アメリカ海軍船舶局

という本が話が日本の国会図書館で閲覧できることを知りました。
いやさすがのわたしもそこまではしませんけどね。

それより、アメリカ海軍の船舶局とやらが、博物館見学で行ったことがある
ニューヨーク州スケネクタディという変な名前の街にあったことが驚愕です。

■ 電話




今日最後にお見せする展示は電話です。
なんでここにあるのかはわかりませんが、潜水艦関係ありません。

中には昔のタイプの電話がありますが、貼り紙にはこうあります。

「このアンティーク電話ボックスは現在
清掃&改装実施中です。
今のところ、好きなだけご覧になっていただいて結構ですが、
どうかお手を触れずにお願いいたします」


なにを清掃&改装していたんだろう。


続く。

フリートサブマリンvs.原子力潜水艦〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

タイトルとはあまり関係のない海軍軍人の肖像ですが、
もしこの人の官姓名を知っていると言う方がいたら、
あなたはかなりの潜水艦通だと言っていいかと思います。

今日はマスケゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館展示から
興味深いいくつかの展示をご紹介します。

■ アメリカ海軍潜水艦隊の英雄 チャールズ・ロックウッド中将

チャールズ・ロックウッドは1943年から45年まで
アメリカ海軍太平洋潜水艦隊の司令官だった人物です。

第二次世界大戦中の太平洋戦域で
サイレント・サービスこと潜水艦任務を勝利に導いた

COMSUBPAC=太平洋艦隊潜水艦部隊司令官

として、その名は永遠にアメリカ海軍の潜水艦史に刻まれることでしょう。

バージニア州ミッドランドで生まれたロックウッドは、
1912年に海軍兵学校を卒業しました。

1914年に潜水艦USS「A-2」SS-3の乗組から軍歴を開始し、
1919年の3月から8月までは、元ドイツ潜水艦だった

SM UC-97

の指揮を執っています。

SM UC-97は、第一次世界大戦中、
ドイツ帝国海軍(Kaiserliche Marine
に所属したドイツのUC III型機雷潜水艦=Uボートでしたが、
前年度ドイツが降伏したため、アメリカが戦利品として取得した一隻です。

アメリカ海軍はロックウッドを含む12名の将校を遠征させ、
この鹵獲潜水艦で大西洋を横断し、その後は
リバティボンド(国債)集めのための見せ物にしようとしました。


トロントに寄港中のUC-97

ロックウッドのUC-97は他3隻とともにニューヨークまで回航。
彼の指揮のもとニューヨークから水路を通り、五大湖を制覇する、
ということになりましたが、UC-97だけが色々と反応しなくなったので、
ロックウッドはこの艦長を別の人間に任せて他の新造艦に転勤しています。

アメリカがUボートを取得した目的は見せ物にするだけだったので、
こののちUC-97はミシガン湖で標的となって沈みました。

湖底の艦体が1992年に発見されています。

そして第二次世界大戦が始まりました。

ロックウッドは1941年から1年ほど駐英米海軍武官を務め、
その後南西太平洋の潜水艦司令官として活躍しました。

1943年2月にトーマス・イングランド少将が亡くなると、
ロックウッドは後任として旗を真珠湾に移し、
太平洋艦隊の潜水艦隊の指揮を執ることになります。

任務中、ロックウッドは潜水艦を最も効果的に運用するための戦術を
ほぼ即興で作成し、海軍の艦船兵器局に、可能な限り有用な
潜水艦とそして魚雷を現場に提供することを働きかけました。

彼は初期のアメリカ海軍の魚雷に技術上の問題があり、
運用における信頼性が低いと言う報告を受けると、
自らが現場で性能証明の試験を監督し、1944年と1945年に
魚雷の徹底的な改良を行わせました。

これは、当ブログでも何度も別角度から取り上げている
あの「魚雷不発問題」のことです。

ぷすぷすと日本軍の艦船に魚雷が命中して突き刺さっていくのに、
一向にそれが爆発せず、日本艦は魚雷を刺したまま帰国し、
かんざしを刺した花魁のようだと笑われたというあの話ですね。

アメリカ海軍の潜水艦は、第二次世界大戦期に
1,100隻以上の商船と200隻以上の軍艦を含む、
560万トン以上の敵船を沈めました。

敵船に対するアメリカ潜水艦の攻撃は、
戦争中に喪失した敵船の50パーセントを占めたといわれています。

しかしながら、戦争中、16,000人のアメリカの潜水艦隊人員のうち、
52隻の沈没により375名の将校と3,131名の下士官兵が失われました。

この数字は、各国の戦闘潜水艦による死傷率の中で
最も少ないことから、米国潜水艦隊の任務は成功だったとされます。

ロックウッド中将の強力なリーダーシップと、
彼の海軍に対する献身は、彼自身に勝利をもたらしました。

「アンクル・チャーリー」

とサブマリナーたちに敬愛を込めて呼ばれた彼は、
1943年に少将から中将、副提督に昇進し、1967年に亡くなりました。



このコーナーは「太平洋戦争のリーダーたち」。
左から、

フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領

ハリー・トルーマン大統領

チェスター・W・ニミッツ提督

ダグラス・マッカーサー将軍

ウィリアム・D・リーヒ提督

アーネスト・J・キング提督

ウィリアム・J・ハルゼー提督

とまあ、誰でも知っている面々となりますが、
このうち他の人ほど日本人には名前の知られていない
ウィリアム・リーヒという人について説明しておきます。



ウィリアム・ダニエル・リーヒーは、第二次世界大戦中、
現役のアメリカ軍最高幹部として活躍したアメリカ海軍将校です。

複数の称号を持ち、第二次世界大戦中のアメリカ軍において、
すべての主要な軍事的決断の中心にいた人物だったのですが、
皆さんはご存知だったでしょうか。

アメリカ海軍将校として初めて五つ星の階級を保持した人物で、
戦争中、米国の外交・軍事政策に影響を与えたことから、
ある歴史家は彼を「世界で2番目に力のある男」と評したくらいです。
(一番はアメリカ合衆国大統領ってことでよろしい?)

1897年アナポリスを卒業したリーヒーは、米西戦争、
フィリピン・アメリカ戦争、義和団の乱、バナナ戦争、
第一次世界大戦にと参加しました。

その後は海軍作戦部長=米国海軍の上官として戦争の準備に携わります。
彼はここで海軍を退役するのですが、ルーズベルト大統領が親友だったことで
プエルトリコ知事、駐仏大使と政治の道を歩み始めます。

駐仏大使時代はヴィシー政権をドイツの支配から解放しようとしますが、
それはあまり成功しませんでした。

1942年、大統領の個人的な参謀長として現役に呼び戻された彼は、
第二次世界大戦中、軍人としてルーズベルトの懐刀の役目を務めました。



彼の地位は事実上の初代統合参謀本部議長というべきものでした。
戦争中、リーヒは主要な意思決定者であり、
権限と影響力において大統領に次ぐ存在であったといわれます。

ルーズベルト死後はハリー・S・トルーマンに仕え、1949年に引退するまで、
戦後の米国の外交政策の形成に貢献し続けました。
1942年から引退するまで、リーヒーは現役の米軍兵士の中で最高位であり、
彼が報告をしなければならない存在は、唯一大統領だけというほどです。

■ フリートvs. 原子力潜水艦



フリート=ディーゼルボート対原潜
ってことですね。
(フリートタイプは第二次世界大戦中のディーゼルボートと同義)

あの映画「ダウン・ペリスコープ」的な?と期待するタイトルですが、
なにが説明されているのでしょうか。

第一次大戦以前、アメリカの潜水艦は低速で、
潜航する深度も非常に浅かったため、その活動は沿岸防衛に限定されました。

第一次世界大戦が終わると、戦後処理を決めたベルサイユ条約の一環として
ドイツは所有していたUボートを連合国に引き渡すことを余儀なくされます。

この頃のドイツの技術優位は明らかで、アメリカは
大型で高速のUボートを手に入れることによって、
自国の潜水艦技術を格段に進歩させるきっかけを得ることになりました。

そうやって再設計された潜水艦は、従来のものよりも

10ノット速く進み

100フィート深く潜ることができ


このため、アメリカ海軍の水上艦隊を維持し、保護する、
という設計目的を十分に満たす仕様となったのです。

そしてこのときなされた設計は、1920年台から第二次世界大戦中、
全ての潜水艦のプロトタイプとなったのです。



クラスとしてほぼ同じ大きさの「ガトー」「バラオ」「テンチ」
この3タイプは、第二次世界大戦中、約600万トンの輸送船を撃沈しました。

フリートタイプの潜水艦が最後に退役したのは、1983年です。
この頃にはもう原子力潜水艦が主流でしたが、
「ダウン・ペリスコープ」でも、「ディーゼルボートフォーエバー」
という機関室の爺さんが言うように、「ディーゼル派」は根強くいて、
つまりそれはそれだけ機能に信頼性があったということです。

しかしながら、

フリートサブマリンには限界がありました。
ディーゼルエンジンを使ってバッテリーを充電するという機構の関係で、
どうしても空気を吸うために頻繁に浮上しなくてはならなかったのです。

これは水中で隠密行動をするのが身上の潜水艦にとっては
ある意味致命的かついつかは克服すべき欠点だったといえます。

ディーゼルボートが水中に滞在することができる時間は、
水中でどれだけエネルギーを使用したかによって決まってきます。

第二次世界大戦中、そして1950年代初頭の多くのミッションで、
ディーゼルボートの乗組員は、敵水上艦によって水中に閉じ込められ、
往々にして窒息寸前になっています。

その宿命的な欠陥を補うべく生まれたのが原子力推進でした。



1953年、世界初の原子力潜水艦、USS「ノーチラス」が進水しました。

原子炉はわずか28フィート幅のコンパートメントに詰め込まれていました。
(え、原子炉のせいで居住区が狭いんだと思ってたけど違うのか)

水を加熱して蒸気を生成し、タービンと全てのシステムを動かす仕組みです。

これだとエンジンを稼働させるために浮上する必要がなく、
なんなら潜水艦は独自に空気と水を作り出すこともできるので、
ほぼ無制限、半永久的に水中に留まることができるようになりました。

前にこのブログの「ノーチラス」シリーズで書いたことがありますが、
彼女は北極海の氷の下を横断した最初の潜水艦でした。

呼吸するために頻繁に浮上しなければならなかった時代から、
「ノーチラス」はのちの機密記録にその名があるはずの後継者たちに先んじて
水中を世界一周し、60日間を潜水したまま過ごした潜水艦になったのです。

原子力潜水艦は今でもアメリカ海軍の主力潜水艦です。



「ターミノロジー」は用語という意味です。
潜水艦用語をここで解説してくれているわけですね。
アメリカ人なら英語を見るだけでわかるかと思ったらそうじゃなかったのか。
なんかちょっと安心してしまった。

Bow 船首:潜水艦の前部または艦首

Stern 艦尾:潜水艦の端または尾部

Starboard 右舷:艦首から見て潜水艦の右側

Port 左舷:艦首から見て潜水艦の左側

Length 全長:潜水艦の艦首から艦尾の端までの距離

Beam ビーム:潜水艦の左舷から右舷までの距離で最大の長さ

Draft 吃水:水面と潜水艦の艦体の最下点との間の距離

Displacement 排水量:潜水艦が浮いている水の重量

Complement 補完:働いている人の数

Armament 武装:潜水艦の武器又は防御システム

Knot ノット:nautical mile の略で、およそ1.15マイル、又は1852m

これらの条件は、全ての海上船舶に適用されます。


■ パッシブソナーとアクティブソナー

潜水艦について多角的にお勉強できるこの展示ですが、
博物館にありがちなこととして、その時前を通過し、
文字列を認めるだけで数分後には忘れてしまうのがほとんどなのに対し、
極東の日本から来た一日本人女性であるわたしが、過去の見学者の中で、
おそらくほとんどのアメリカ人の誰よりも、
特にその内容を理解しようというその熱意において抜きん出ていたはずです。

と無意味に威張ってみたところで、続きです。

パッシブソナーとアクティブソナーについての解説がありました。



パッシブソナーは、特別な水中マイク「ハイドロフォン」を使用して、
水中生物、船、地熱事故によって水中で生成される音を聴きます。

これらの水中聴音器は非常に敏感であるため、
何百マイルも離れた場所で生成された音であっても、
たとえばエビや珊瑚が餌を食べているような微妙な音を聞くことができます。

ただし、パッシブソナーは、水中の山岳地形、難破船、
ぶら下がっている漁網などの音を聴くことはできないため、
潜水艦は利用できうる最高の性能を搭載した水中マップで
ソナーレポートを使用する必要があります。

これは依然として危険な水中移動方法です。

つい最近である2005年まで、潜水艦は
海底地図に記録されていない水中の地形に衝突・座礁したり、
あるいは放棄された漁網にスクリューを絡めたりして
深刻な損傷を受けるか、最悪喪失するということがありました。

水上艦もパッシブソナーで聴音を行い探索しますが、
潜水艦は静音性の設計をされているうえ、
艦体が黒でコーティングされていて、それが音を反射せず、
逆に吸収する仕組みを持つので、他の船からほぼ探知されません。

潜水艦はというと、このイラストにも見られるように、
全ての海洋生物の立てる音、人が水中を泳ぐ様子、
岸に打ち寄せる波や水上にある船の音を聴くことができます。
会食崖や漂流する網で沈没した船は見えません。

そして大事なことは水上艦は潜水艦が見えないということです。



アクティブソナーは「ピンPing」と呼ばれる調整音を水中に送信し、
それが跳ね返ったときに生成されるエコーを聴くものです。

これらのエコーは、潜水艦の周るの全ての形状と位置を示し、
水中の山、沈没船、水上艦艇、そして
潜水艦を危険に晒す可能性のあるものを含む、
その周囲の全体像を取り込み、情報として取得することができます。

欠点はこの「ping」そのものです。

これを発信していると、水上艦やソナーを実行している
他の潜水艦に簡単に音が聴こえるため、
これによって潜水艦の位置は明らかになってしまいます。

このため、潜水艦がアクティブソナーを使用することはめったにありません。
使用する状況というのは極々かぎられてくるということです。

このイラストにも見られるように、潜水艦は
跳ね返る「ping」を送信します。

海食崖と海底の沈没船がはっきりと見えており、
これによって潜水艦が敵の探索から逃れる可能性がありますが、
海上の空母と巡洋艦は潜水艦が水中にいることを認識しており、
アクティブソナーによって「ハント」捜索することができます。

水上艦はそのものの位置を隠すことはできないので、
自衛として潜水艦よりも頻繁にアクティブソナーを使用します。

アクティブソナーは前述の理由から非常に危険と考えられているため、
一部の弾道ミサイル搭載潜水艦には装備されていません。


初心者にもよくわかるいい説明だと思います。
必要以上に子供目線でもなく、それでいて
平易な言葉で解説されているのが、さすがだと思いました。

もちろんわたし自身にとっても大変勉強になりました。


続く。





バッファローの青いハーケンクロイツ〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-13 | 航空機

マスキーゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館は、
もちろん潜水艦についての展示がメインですが、
地元のベテランの遺品などを後世に遺すという役割も担っています。

今日は、何人かのベテランたちの制服と、
また展示に寄せられた模型などをご紹介していこうと思います。

■ある海兵隊パイロットの記念品



まずは海兵隊パイロットの保護ベストです。
ライフジャケットですが、パイロットの場合、
搭乗時に着用するものだと思われます。

船と違って、何かあってから着込む時間の余裕はないですから。

ベストの右胸に見えるのは「サメよけ」。
ベストを膨らますのに息を吹き込むためのホースとか、ダイマーカーとか、
会場に落ちた時に広げる簡易筏とか、
とにかく全てが誰にでも瞬時にわかるように、
(海上で説明書広げるわけにいきませんから)
実物に大きく用途と使い方が書いてあるのが特徴です。


同じ海兵隊パイロット、ウォルト・スプロール中佐の軍服一式。



スプロール中佐、大尉時代のメダルその他。
この一角、この人が寄贈したグッズで作る思い出コーナーみたいですね。

彼は愛称「デス・ラトラーズ」(死のガラガラヘビ)、
VMF 323航空隊でF4U-4コルセアにのっていたパイロットだったようです。

軍籍にあったのが1944年から56年とあるので、
朝鮮戦争にも出撃して、中佐で退役したと思われます。



ちょうどライトで見えませんが、
結婚式で海兵隊の制服を着たスプロール氏と花嫁の写真もあり。

下の航空母艦における発着シーンの写真ですが、艦番号から
この人がエセックス級「レイテ」の艦載部隊にいたことがわかります。

「レイテ」は就役46年、退役したのは1959年なので、
ほぼスプロール中佐と「同期現役」の艦と言っていいでしょう。

■ ジークとコルセア


零戦とコルセアがまるで空戦をしているかのような模型展示。
この展示は、マスキーゴン出身で最も成績をあげた、
コルセアパイロットの「アイク」ケプフォード大尉に因んだものです。



マスキーゴン出身のアイク・ケプフォード大尉は、
第二次世界大戦でアメリカ海軍のトップ6位のエースでした。

彼の撃墜記録は対日戦において16機とされており、
その成績は1943年から4年までの間、南太平洋の
ブーゲンビルとラバウルで、F4Uコルセアで立てたものです。

彼は、ラバウルの日本軍基地への攻撃を行った
あの有名な「スカルアンドクロスボーンズ」(骸骨と交差した骨)
というニックネームの飛行隊所属で、
1944年3月に日本がラバウルでの作戦を事実上放棄するまで、
79日間の空戦で154機の日本機を撃墜したとされます。

この時代の撃墜記録なのでおそらく正確ではなく、
多い方に修正されているとは思いますが、だとしても凄い数です。


1944年2月19日、ケプフォード大尉は多数の敵機から集中砲火を受け、
燃料をほとんど使い果たしながらも、緊急注水ブースターの助けを借り、
低高度であまつさえ追跡機を撃ち落とし、ギリギリの生還を果たしました。

終戦までに彼は3つの主君飛行十字章、2つの海軍十字章、
シルバースター、航空勲章を獲得していましたが、
まわりはこれでも勲章もらい足りないと思うほど、
彼の活躍は目覚ましかったようです。

戦後の彼は、有名なドラッグチェーンのCEOとして活躍しました。

模型のコルセアはケプフォード大尉機を再現しています。
これには、コルセアという機体は特に技術のあるパイロットにしか
乗りこなすことができない特別な操作性を持っており、
さらに駆動製に優れた零式艦上戦闘機に対抗しうる機体だった、
と書かれています。

■ USS「マイアミ」



ジョン・ロバート・ヴェーニエというベテランが製作した模型で、
博物館に寄付したのはこの人の家族だそうです。

ご本人は亡くなったので、その遺品として、ということでしょうか。
解説がありますので、翻訳します。



USS「マイアミ」(CL-89)
「クリーブランド」級軽巡洋艦

USS「マイアミ」は1万トンの「クリーブランド」級軽巡洋艦で、
ペンシルバニア州フィラデルフィアで建造されました。

1944年4月、「マイアミ」は対日本戦を開始するため太平洋に向かいます。

サイパン進行と6月のフィリピン海海戦で、
空母の護衛として初めて戦闘に参加し、
テニアン島、グアム島、パラオ島、その他敵が占有する島々に上陸し、
その役割を継続しました。

1944年10月、「マイアミ」は高速空母機動部隊の一員として
沖縄、台湾、フィリピンにある日本軍基地を攻撃し、
レイテ沖海戦に参加しました。

10月26日には6インチ甲板砲によって駆逐艦「野分」を撃沈した、
とここには書いてあります。


陽炎型駆逐艦「野分」

ちなみに、「野分」を撃沈したのは「マイアミ」単独ではなく、
ハルゼーの高速戦艦部隊にいた軽巡「ヴィンセンス」
「ビロクシー」駆逐艦「オーエン」「ミラー」
との共同です。


「野分」はサンベルナルジノ海峡手前で高速戦艦部隊に捕捉されましたが、
アメリカ軍は野分を巡洋艦もしくは大型駆逐艦と判断したためか、
よってたかって砲撃され、大破。

最後駆逐艦の魚雷を受けて沈没し、艦長以下272名全員が戦死しました。
「野分」には救出された「筑摩」の乗員120〜30名が乗っていましたが、
やはり「野分」と同じ運命をたどりました。

このとき、アメリカ軍に救助され、生き残った人が一人だけいたそうですが、
その人のその後の人生はどんなものだったのでしょうか。


1944年から1945年の終戦までの間、
「マイアミ」は空母機動隊に同行し、フィリピン、アジア、台湾、
そして日本の本土に攻撃を行いました。

1945年3月から1945年4月まで、敵の特攻機による絶え間ない攻撃に耐え、
沖縄を占領するキャンペーンに参加しました。

戦後は西海岸に戻り、海軍予備役の訓練に参加して1947年退役。
その後は太平洋予備役艦隊に配属され、
そこで14年間「モスボール」されて過ごしました。

最終的に1961年9月に海軍名簿から除籍され、
翌年スクラップとして売却されて生涯を終えました。

■ 航空機模型展

アメリカの戦争博物館には、必ず有志の寄贈した模型がありますが、
潜水艦博物館にも関わらず、航空機模型を寄付した人がいたらしく、
説明を添えて展示してありました。

せっかくですので、ちゃんと翻訳しておきます。



🇯🇵 中島飛行機 一式戦闘機 隼 Ki-43🇹🇭

日本軍のKi-43は翼荷重が軽く、空中回転半径が小さい戦闘機で、
1941年10月に導入されました。

残念ながら、火力が小さくて速度が遅かったため、
日米両国が12月に開戦を迎えたとき、
P-38、P-40、P-47による上空からの攻撃に対しては脆弱でした。

そしてアメリカ軍にP-51マスタングが導入されると、
Ki-43は低速飛行時、低空旋回飛行時をのぞく、
あらゆるシナリオで劣勢に立たされることになります。

つまり勝てなくなってしまったのです。



この模型の尾翼には白い象の徽章があしらわれていますが、
これはタイの軍隊によって運用された同機を再現しています。

1940年のフランス領インドシナのように、日本による併合のあと、
タイ王国は占領に直面することがありませんでした。

このKi-43はそんな関係下日本からタイ軍に支給されていたことを表します。



🇯🇵 三菱 零式水上観測機 F1M

1941年にデビューしたF1Mは、当初戦艦や重巡洋艦で運用するための
カタパルト発射式観測機として設計されました。

ただし、ポイント迎撃、船団護衛、沿岸哨戒、対潜哨戒、軽輸送など
さまざまな役割で使用されていました。

F1Mは11,000フィートで230mphの最高速度と
460マイルの航続距離を持っていました。
日本は第二次世界大戦中1,118機を生産しましたが、
これはこの時代の服用機としては異常に多い数でした。

🇯🇵 中島 Ki-44 二式単座戦闘機 鍾馗 Shoki

ki44は旧式のキ43の後継として1942年1月導入されました。
機体には12.7ミリ機関銃が4門装備されており、
最高速度は時速360マイルでした。

その、より強力なエンジンはki-43を凌駕していましたが、
Ki-44は航続距離の不足により、P-51マスタングのような
アメリカの航空機に対しては依然としてわずかに不利でした。

それにもかかわらず、機体は終戦まで使用されていました。

このモデルは、第二次世界大戦中に
大日本陸軍航空隊が使用したマークを再現しています。


🇮🇹 マッキ C-202 フォルゴーレFolgore



C.202は1941年イタリア空軍で配備され、1944年まで生産されました。
最高速度は時速375マイル、航続距離は475マイルに制限されていました。

これは、アメリカのP-40やイギリスのホーカー・ハリケーンと比較して
ハンドリングと攻撃能力がわずかに優れているだけの、
短距離のポイント防御機としてのみ有用でした。

Macchi C.202 Folgore footage - Regia Aeronautica in ww2 [AI, 60fps, Colourized]

とはいえ、北アフリカではメッサーシュミットBf109
ほぼ互角の性能を発揮したと言われます。


🇺🇸 ブリュースター バッファローF2A-2🇫🇮

アメリカのレンドリース政策とその他の戦時兵器協定の一環として、
アメリカ製のブリュースター「バッファロー」のうち44機は
フィンランドに売却されたことがあります。

そののち、機体は装甲を外され、翼から機銃が外されて軽量化され、
機動性が向上することになりました。

フィンランド空軍は、1939年と1940年のロシアに対する
冬戦争で証明されたように、他の国よりも
このバッファローをうまく運用したことで有名です。

ここにあるモデルは、第二次世界大戦中に
フィンランド空軍が使用したいくつかの塗装のうちひとつを再現しています。



白い背景にFAFの青いハーケンクロイツは、
このシンボルがナチスのイデオロギーに教化される前のものです。

🇳🇱フォッカーD.XXI 🇫🇮🇩🇰



オランダで設計製造されたD.XXI のプロトタイプは、
1936年3月に初飛行、1938年に現場に投入されました。

最高時速は時速286マイル、航続距離は578マイルで、
また、7.9ミリ機感銃を4門搭載していました。

戦前に生産されたフォッカーは146機あり、
オランダ、デンマーク、フィンランドで運用され、
最も効果的に使用されたといわれています。

フィンランド空軍の最後のフォッカー航空機は、
1951年まで運用されていました。

ここにあるモデルも、ナチスがシンボルを制定する数年前に導入された、
FAFの誇り高い鉤十字の徽章をつけています。



 メッサーシュミット Bf-109G



BF-109GはメッサーシュミットBf-109の後継モデルで、
1942年2月以降に生産されたバージョンです。

機体の翼の下には特にアメリカの銃爆撃機、
B-17を撃墜するためのロケットを装備していました。

Bf-109Gは爆撃機の搭載している.50口径マシンガンの範囲を超えて
攻撃を加えることができました。
ロケット弾が命中すれば空中で大型の爆撃機を爆破することもできたのです。

Bf-109はすぐさまドイツルフトバッフェ武器のバックボーンになりました。

この武器を形作る部品の一部は、あの悪名高い強制収容所で
強制労働によって作り出されていました。

フォッケウルフ FW-190D-9



1941年に就役したFW-190は、Bf-109とともに
ドイツ空軍の装備の不可欠な存在であり続けました。

フォッケウルフの2,240hpエンジンによって、航空機は
21,000フィートで426mphまで加速が可能です。

また、機種に13ミリ機銃2門、翼に20ミリ機関砲2門を装備していました。


ここにあるモデルのマーキングは、

Luftwaffe Jagdverband 44(JV-44)
第44戦闘団

を再現しています。

これらの航空機は、メッサーシュミットのMe262戦闘機を収容している
ドイツ空軍基地を防衛する任務を担っていました。



Me262ジェット戦闘機「シュヴァルベ」は、
空中での最高速度は速いにもかかわらず、
プロペラ機のような加速力を欠いていたため、
フォッケウルフの迅速な応答能力が不可欠だったのです。



続く。



「タートル」から「ミシガン」まで 歴史の断面図〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

潜水艦「シルバーサイズ」博物館の展示をもう少し続けます。

■ 潜水艦はどうやって潜航し浮上するのか?

潜水艦は「浮力」Buoyancy と「変位」Displacementという
二つの主要な力によって潜水および浮上します。

【アルキメデスの原理】


全体的または部分的に流体に浸された物体は、
物体によって押しのけられた流体の重量に等しい力によって浮上します。

あなたは海やプールでビーチボールを水中に押し込んで
そのまま保持しようと試みたことはありませんか?

深くボールを押し込めば押し込むほど抑えるのは難しくなります。
何かが深く水中で抑えられると、水はそれを押し上げようとします。

これが「アルキメデスの原理」ですが、これは
変位などの他の力にも依存します。

【変位】



沈む物体は、オブジェクト(物体)の体積に等しい量の流体を押し退けます。
(アルキメデスがこれを発見したきっかけが、
お風呂から溢れ出る水だったことを思い出してください)

コップ一杯の水に大きなビー玉を落とすと水が溢れ出しますね。
水に何か入れるとその体積に等しい量が押しのけられるのです。

例えば100トンの頑丈な鉄の棒を水中に投げると、体積がずれて沈みます。
しかし、その鋼鉄の棒が空のスペースを持つ船の形をしている場合、
同じ堆積の水を押しのけるというのは棒の場合と同じですが、
ただしこちらは内部の空のスペースがあるので、浮くことができるのです。

この際、浮いている船の変位と浮力は必ず等しくなければなりません。
ここで潜水艦の潜水の仕組みを図解で示します。

1浮上中     2潜入    3潜航中    4浮上中    5浮上完了

1. 潜水艦が潜水するとき、上部と下部の通気孔が開きます。

2.空気が上部から排出されると、水がバラストタンクの下部に入ります。

3.潜水艦が必要な深度に達すると、上部の通気孔を閉じますが、
そうするとバラストタンク(および圧力艦体)に十分な空気が残り、
潜水艦は水中に浮いたままの状態を保持します。

4.潜水艦が水中に留まるために十分な水を移動させると、
アルキメデスの原理によって艦体は下から押し上げられ、浮上します。

5.浮上すると、底部の通気孔が開かれ、艦内の圧縮空気の特別なタンクが
空気をバラストタンクに送り込み、中の水を押し出します。

すると潜水艦はアルキメデスの原理で押し上げられて水面に浮かびます。

潜水艦が水面に到達すると、外気から空気を吸い込み、
バラストタンクへの充填を完了することができるのです。


自分の過去ログを見ていたら、呉で「あきしお」を見学した時の
自衛隊による同じ原理の説明がみつかりました。

日本語のせいだけでなく、こちらの方がわかりやすいですね。



さて、冒頭のパネルには、かっこいいタイトルが付けられています。

Relative  Size: Cross Section of History
大きさ比較:歴史の断面図

独立戦争時代の小さな潜水艦「タートル」から、
今日の巨大な攻撃型潜水艦まで、
アメリカ海軍の潜水艦の長さ、幅(ビームと呼ばれる)および
その外観は時代につれ変化していきましたが、
必ずしも時代が下れば艦体が大きくなるというわけではありません。

ここではUSS「タートル」から最初の公式海軍潜水艦「ホランド」、
そして海洋をパトロールする最新クラスの潜水艦旗艦、
USS「バージニア」にいたるまでの、かつて存在した
いくつかのクラスの潜水艦の断面が実物大で示されています。

■ アメリカン・タートル American Turtle




巨大な円の中心となっているのは、独立戦争時代に
エズラ・リーとデビッド・ブッシュネルが考案した一人乗り潜水艦、

「ブッシュネル・タートル」Bushnell Turtle

という「潜水可能な」=submersible 船の艦体です。

ブッシュネルの亀は、「潜水艦の故郷」ともいわれる
コネチカット州グロトンの潜水艦部隊基地に併設された潜水艦博物館に
実物大のレプリカが展示されていたことから、当ブログでは
結構微に入り細に入りお話ししたことがあります。

ブッシュネルの亀〜アメリカ潜水艦事始め

興味のある方はぜひご一読ください。

ここに記された潜水艦の最も大きな部分の「輪切り」ですが、
そのほとんどが「縦切り」による輪切りなのに対して、
この「タートル」だけは横に切っています。


一人が内部に自転車を漕ぐような形で乗るため、
どうしても縦長の樽状にせざるを得なかったんですね。
スペックは、

【American Turtle】
1775年
乗員:1
潜航深度:ほぼ水面
速度:3mph(時速4.8km)


そして「タートル」からは格段に大きい群青色の輪は、


USS「ホランド」Holland SS-1



このいちばん手前のブルーの物体が「ホランド」です。
可愛らしいですね。



これも立って乗るのか・・。

艦の発明者であるジョン・ホランドの名前にちなんで命名された、
SS-1つまりアメリカ合衆国最初の公式潜水艦ということになります。

この「公式」は最初に艦番号が与えられたという意味であり、
実際の「最初のアメリカ海軍潜水艦」は、
フランス人技術者が開発した「アリゲーター」でした。

「ホランド」の性能諸元は以下の通り。

USS Holland SS-1
1900-1910

全長:19m
ビーム:3m
潜水深度:3m
最大速度:水上航走時 8
潜航中 5
乗員:7
推進:ガス/電気

 USS「シルバーサイズ」Silversides SS-236 
「ガトー」Gato



いきなり3倍くらい大きくなった茶色い円は、
当ブログで説明してきた潜水艦「シルバーサイズ」を表します。

第二次世界大戦中活躍した「シルバーサイズ」については
今までお話ししてきましたので、説明は省きます。

性能諸元

USS「シルバーサイズ」1
1941ー1946
「ガトー」「バラオ」「テンチ」級潜水艦

全長:95.02m
ビーム:8.31m
乗員:士官654
試験深度:90m
最大速:水上 時速37km 水中 時速16km
推進:ディーゼルエンジン


「シルバーサイズ」は「ガトー」級ですが、
艦体の大きさがほぼ同じである同時代の「バラオ」「テンチ」も
輪の中に一緒に名前が記されています。

 USS「シルバーサイズ2」SilversidesII
「スタージョン」級原潜 SSN-679



緑色で表されている潜水艦は、
原子力潜水艦2代目「シルバーサイズ」です。



進水式のときと思われます。
セイルのところに立っている一団は乗員(予定)でしょうか。
日本では引き渡し式を経るまで正式にはまだ自衛隊のものではないので、
進水式の時にはまだ乗り込んでいないと認識していますが、
アメリカではこのへんがちょっと違っているのかもしれません。

ディーゼル機関から原子力潜水艦に移行して、
いちばん変わったのがなんといっても艦体の大きさだと思いますが、
実は「シルバーサイズ」」のガトー級と「スタージョン」級は
いうて5mしか全長が違いません。

確かに艦体の輪切りを見る限り、かなり大きくなっていますが、
しかし、居住性が良くなったかというとそれは疑問です。

「シルバーサイズ」2が生まれたグロトンの潜水艦博物館には
史上初めての原潜「ノーチラス」が展示されていて、見学しましたが、
ディーゼルボートと比べても決して居住区は広くありませんでした。

これは、見学者には立ち入りを許されなかった艦の後部、
原子力機関の区画にスペースが割かれているからと考えられます。

乗り込む乗員数もほぼ2倍に増えているせいもあって、
艦内のコンパートメントはやたら細かく区切られており、
閉所に弱い人は確実に精神をやられそうに見えました。

原子力潜水艦はその気になれば永久に潜航可能
(これが本当のスティル・オン・パトロール)ですが、
人間がそれでは「もたない」ので、必ず適度に上陸させるのだそうです。

余談ですが、「スタージョン」級の命名基準は、
ディーゼル式の頃からの伝統を受け継いで魚の名前となっていますが、
3隻だけ、海軍出身上院議員の名前を冠した艦が存在します。

「ウィリアム・H・ベイツ」SSN-680

「L・メンデル・リヴァース」SSN-686

「リチャード・B・ラッセル」SSN-687

らがそれです。

性能諸元

USS「シルバーサイズII
「スタージョン」級
1969-1994

全長:90.8m
ビーム:9.7m
潜航深度:396m
最大速度:25
推進:原子力 蒸気タービン
乗員:士官 14 兵員 95


■ USS「バージニア」Virginia SSN-774
「バージニア」級攻撃型原子力潜水艦



薄いブルーに塗られた潜水艦です。

旗艦「バージニア」が海軍に引き渡された2004年10月12日は、
かつてUSS「ホランド」が就役したのと同じ日だったそうです。


いかに「バージニア」級が大きいかは、上に人が乗っている状態でないと
よくわからないでしょう。(写真はUSS『ノースカロライナ』)

性能諸元

USS「バージニア」Virginia SSN-774
2004-

全長:114.9m
ビーム:10.3m
乗員:士官 兵員 113
最大潜航深度:250m
最大速度: 水上時速 46 km 水中 59 km
推進:加圧水型原子炉 蒸気タービン



USS「ミシガン」Michigan
SSBN-727/SSGN-727

「オハイオ」級原子力潜水艦



そしていちばん外側の最大の輪で表されたのが「ミシガン」。
実は「バージニア」級より20年も前に就役したタイプです。

「必ずしも時代が下れば大きいというわけではない」

というのはこのことを言うのですね。
原子力推進を得てどんどん艦体を大きくしていき、
「オハイオ」級では大きさの限界に挑戦しました的になりましたが、
潜水艦ってこれほど大きくする必要ある?と自制&自省した結果が、
「バージニア」級のサイズダウンだったのでしょうか。

ちなみに、「ホランド」級と比較すると、

全長 9倍
ビーム 4.3倍
乗員数 22倍

となります。



続く。


「灰色の淑女とダンス」潜望鏡今昔物語〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-09 | 歴史

前回に続き、潜水艦「シルバーサイズ」プレゼンツ、
「潜望鏡の歴史」についてです。


第一次世界大戦の終わりまでに、潜望鏡のほとんどの問題は解決しました。

初期の、取り込まれる映像の見にくさという問題については、
大きな筒の中に2本の望遠鏡やレンズを挿入することで、
画像を拡大したり明るくしたりして解決がなされます。

大きな安定した筒を使うことによって、画面の安定性と、
表面の画像の乱れを軽減し、小さな潜望鏡ヘッドで先端を補足して
画像のバランスを取るというふうに改良されていきました。

レンズとミラーの調整の際、位置合わせをしやすいように、
潜望鏡は二重の筒芯で構成されていました。

外側は圧力と伸縮に耐える厚みを持った素材で、
そして光学系は内側の筒に収容することで衝撃を受けにくくなります。

■ 潜望鏡の発展

潜望鏡には、

反射型(リフレクティング)Reflecting
と屈折型(リフラクティング)Refracting、

leとra、ちょっと違いで全く違う二つのタイプがあります。


   反射型潜望鏡            屈折型潜望鏡

「反射型潜望鏡」は単純に鏡を使用して、
筒の長さの方向に光を反射するものです。

右は屈折型潜望鏡ですが、こちらは鏡の代わりにプリズムを上下に置きます。

上部のプリズムは映像から光を集め、その光を
潜望鏡の筒の長さをつなぐ一連のレンズと2本の望遠鏡を通して、
2番目のプリズムに跳ね返すことで像を送ります。

このプリズムが光を反射して、2枚のレンズからなる二次鏡筒に入り、
接眼レンズで見ることができるのです。

プリズムは反射面にコーティングを施す必要がなく、
鏡より頑丈であるため、鏡よりこちらの方が重用されました。

しかし、入ってきた光がチューブを通る段階で、
どうしても暗くなってしまう
という問題がありました。

潜望鏡開発者たちはこの解決策を見つける必要がありました。


潜望鏡の中で映像が暗くなる理屈はこういうことです。


懐中電灯のビームが、照らした面から遠ざかるにつれて光の輪は大きくなり、
それに従って明度は落ち、暗くなります。

潜望鏡の中で起こるのがこれと同じ現象です。
取り込まれた画像はチューブを降って移動するうち、
距離があればあるほど、ぼやけてかすかになり、見えなくなるのです。

これを解決したのがアイルランドの光学設計者、


ハワード・グラッブ卿(Sir Howard Grubb)1844−1931

という人でした。


これは手持ち用の接眼機ですが、
彼の工夫は赤い部分に内面が銀色に塗装された板ガラスを仕込むことで、
凸面ガラス(Concave)によって取り込まれた像を明るく保つことです。





こちらが、初期の潜望鏡のアレンジメント。
チューブの端にはミラーもプリズムもないことに注意してください。
Lは「レンズ」、Iは画像です。

最初の潜望鏡はレンズだけだったのに驚かれるでしょうか。



こちらがグラッブ卿のアイデアによるのちの改良版。

潜望鏡では、一連のレンズをチューブの正確なポイントに挿入し、
光の焦点を合わせたり、最焦点を合わせたりすることで問題を解決しました。

レンズのさまざまな曲がりが収縮、拡大、反転を繰り返し、
人の目に入る前に画像が出来上がっていることに注目してください。

これにより、画像を明るいまま焦点を合わせることができ、
潜水艦を安全に水中に保つために必要な長さまで
潜望鏡を伸ばすということができるようになったのです。

しかし、筒の中にこれだけのレンズがあるのも大概じゃね?

と思われたあなた、あなたは正しい。
その後、この連続したレンズの組み合わせは、
我々が知るポピュラーな仕組みへと発展していったのででした。



その後、引き込みの仕組みができ、潜望鏡は
使用していない時には潜水艦内深くに引き込むことができ、
波の上でそれが発見されにくいようになっていました。


それから第二次世界大戦になっても、潜望鏡は
「シルバーサイズ」に搭載されているような古典的な外観のまま、
何十年もの間、ほとんど変更されず、実質同じ仕組みが使われていました。



もちろんその何十年もの間、テクノロジーの発達により
倍率などレンズの性能に関わることは向上しましたが、
この第二次世界大戦時の潜水艦「マッケロー」の写真のように、
潜望鏡を手で引き下ろし、ハンドルを握りながら覗き込み、
潜水艦が沈降していく時には、ギリギリまで外を見るために
潜望鏡を引き下げながら自分の体を床に屈めていったりするのです。

それは、奇しくもアメリカ海軍の潜水艦員たちが
「潜望鏡を覗く」の同義語として使う、
"Dancing with the Grey Lady"
(灰色のレディとダンスする)


そのものであり、それは潜望鏡が発明されてから
ディーゼル潜水艦、原子力潜水艦と動力が変わっても
それだけは全く変わることがありませんでした。


USS「ペンシルバニア」で灰色淑女とダンス 1990年代

「ダウン・ペリスコープ」「アップ・ペリスコープ」

という命令は、潜水艦映画で何度も聞くフレーズです。
"Dancing with the gray lady "
とは、潜望鏡を覗きながら見張することそのものなのです。


■ ニュータイプのペリスコープ


コンセントが邪魔〜

ところが時代は進みました。

潜望鏡が「灰色の淑女」ではなくなったのは、
「バージニア」級潜水艦と共に最新鋭型の光学機器がデビューした時です。

「バージニア」級とロイヤルネイビーの「アストゥート」級潜水艦
いずれも潜望鏡を搭載していません。

その代わり、使用しているのが
フォトニック・マスト(Photonics Mast)であり、
水面上に持ち上げるのは潜望鏡ではなく電子画像センサーキットです。

わたしも、「そうりゅう」クラスの潜水艦を初めて見学した時、
すでに潜望鏡という、あのおなじみの「灰色のレディ」は影も形もなく、
外の画像を皆で画面を見ることで認識するようになっていたので、
それこそ価値観がひっくり返るような衝撃を受けたものです。

ところでここでちょっと考えてみましょう。

技術の進歩の過程で真っ先になくなると言うことは、
それなりに変えていかなくてはいけない大きな理由があったはずです。
従来の光学式潜望鏡には、2つの問題がありました。

1つは
潜望鏡を格納するための潜望鏡井戸のスペースの確保

それは艦の高さいっぱいいっぱいが必要なので、その大きさゆえに
セイルや内部のコンパートメントの配置が制約が生まれます。

もう1つは、レディと親密にダンスをできるのは一人だけ、ではなく、
=潜望鏡は一度に一人しか見られない
という、地味に深刻な問題です。



海軍は、この2つの問題を解決するために、
AN/BVS-1フォトニクス・マストを開発しました。

2004年にデビューした「バージニア」級攻撃型潜水艦が、
フォトニクス・マストを搭載した史上最初の潜水艦となりました。

フォトニクス・マストは、艦体を貫通せず(つまり格納されない)
昔の車のアンテナのように、伸縮自在に伸び縮みし、
従来の光学式潜望鏡の画像処理、航法、電子戦、
通信の機能を全て変わりなく提供する機能を持ちます。

フォトニクス・マストには、光学式潜望鏡のプリズムやレンズの代わりに、
電子画像処理装置が使われるのが大きな違いです。

センサーユニット、複数の電気光学センサーは、
回転するヘッドに設置されて、海面から突き出しています。



マストの中には、カラーカメラ、高解像度白黒カメラ、赤外線カメラ
3つのカメラが搭載され、それぞれがイメージを捉えます。

また、耐圧・耐衝撃構造のコントロールカメラと、
正確な目標範囲を提供し航行を支援する
アイセーフレーザーレンジファインダーもマストに搭載されています。




以前ならセイルの先から艦底まで必要だったペリスコープウェル(井戸)も、
これならセイルの中だけで収納ができます。




ペリスコープウェルが小さくなると、ボートの制御室の位置を
より自由にレイアウトすることができるようになります。



従来のレイアウトはまず潜望鏡ありきなので、
潜望鏡を必要とする制御室は狭い上甲板に置かざるを得ませんでした。
ここしか井戸を設置するのに必要な深さがないからです。

左、「バージニア」以前、右、「バージニア」
紫が「ペリスコープ井戸」

「バージニア」級では、制御室はより広い2階デッキ(第2甲板)
に配置され、より開放的なレイアウトになったというわけです。



これは見つかりにくい?
「バージニア」級潜水艦の潜望鏡



さて、フォトニクス・マストが取り込んだ画像は、光ファイバーで
2台のワークステーションと司令官用コントロールコンソールに送られます。

「バージニア」級に2本備わっているフォトニクス・マストは、
これらのどのステーションからでもジョイスティックで操作できます。
ジョイスティックたらあれですよね。
ゲームのコントローラーみたいな。
なんでも「もがみ」型の操縦もこれだと最近聞いたな。

各ステーションには、2台のフラットパネルディスプレイ、
標準的なキーボード、トラックボールインターフェイスが設置されています。
画像は全て媒体に記録されます。

(この辺りの技術も日進月歩なので、iPhone並みに
アップデートが加えられていっているでしょう)



ちなみに現在フォトニクスマストを搭載した潜水艦を建造する国は
米国の他はロシア、英国、日本、フランス、中国のみとなります。


■ エンドスコープ Endoscopes 内視鏡



エンドスコープというと聞き慣れませんが、要は内視鏡です。

この偉大な発明のおかげで、今回わたしも、
一昔前ならたいへん痛みを伴った副鼻腔炎の手術を
快適かつ安心して受けることができたわけです。

そして今回調べてみてちょっと嬉しかったのが、この内視鏡が、
ある意味ペリスコープの一つの発展形と考えられていることです。


胃の内視鏡検査のための先端機器

その恩恵を激しく被ったばかりで全く他人事ではないので、
わたしの受けた歯科性副鼻腔炎による炎症除去手術で説明します。

たった10年前まで、わたしのような症状の患者に対しては、
「経上顎副鼻腔手術」と言って、歯肉(上唇の裏)部を切開し、
上顎骨の一部をノミで除去、上顎洞を中心として粘膜を極力除去、
という、読んだだけで痛くなるような術式が用いられました。

アメリア・イヤハート(頬に膿を排出するためのパイプを出していた)
の頃の手術ほどではないにしろ、10年前のこのやり方だと
術後の痛み、顔の腫れが強い、術後に頬部のしびれ感が残ることがある、
出血が比較的多い、入院期間が長い(両側で2~3週間)、
副鼻腔が本来の生理機能を失う可能性がある、
将来的に膿や粘液が貯まる術後嚢胞という別の病気が発生する事がある、
と、受けるかどうか選択の余地を迫られるものだったのです。

ところがESS(内視鏡下副鼻腔手術)だと、鼻の穴から手術操作を施行、
鼻腔と各副鼻腔の隔壁を開放、病的粘膜のみを除去するだけなので、
術後の痛みが少なく顔の腫れはほとんどなし。

出血が比較的少なく入院期間が短い(両側で1~3日間)、
副鼻腔の生理機能が比較的保たれ、術後嚢胞の発生頻度がきわめて少ない、
とありがたいことばかり。

術者は手術野をはっきりと見ることができ、
手術に必要な切開量は10年前と比べても遥かに小さくなっています。

この10年での変化ですらこれくらい進歩しているように、
内視鏡を使用して行われる医療処置はますます増えていくのでしょう。


内視鏡で見たウサギの肺
最近は獣医も医師と同じくこのテクノロジーを用いて治療する

画像はレンズではなく、デジタルケーブルを介して伝送されるため、
内視鏡は、従来の潜望鏡よりも、どちらかというと
フォトニック・マストとの共通点がより多いと言えます。



それでも、ペリスコープのように、
直接見ることができない部分を見ることができる点は同じ。

内視鏡の発展のその最初の地点には潜望鏡があった、
というのはあながち間違いではありません。

ありがとう潜望鏡(迫真)

続く。




「ゴルフ場の潜望鏡」ペリスコープ今昔物語〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

一応「シルバーサイズ」本体の紹介が終わったので、
あとは博物館の潜水艦に関する展示を取り上げていくことにします。

今回のお題はペリスコープ=「潜望鏡」

海面下を航行する潜水艦の全てのステルス性、そしてその圧倒的強さ。
人類が武器として潜水艦を求めたのも当然でしょう。

しかし当初、そこには、明らかな問題が一つありました。
それは、潜水艦は一旦水の中に入ると、ほとんどの視界を失うことです。

それに対して発明された潜望鏡という解決策は、
おそらく最もよく知られた潜水艦を潜水艦たらしめるものですが、
初期の単純なチューブと鏡の組み合わせから、
今日の複雑な複合的機器に至るまで、
そこには長く険しい道のりがありました。

今日ご紹介するのは、潜望鏡という機器を生むため
人類が知恵を絞り格闘してきたその歴史(の一部)です。

■ グーテンバーグの潜望鏡



潜望鏡が初めてその形を記録に残したのは、

ヨハネス・グーテンベルグ
(Johannes Gutenberg)1397年頃 - 1468年

によって「売り出された」時でした。
彼は1430年代、印刷機を発明した人物として知られています。

金細工師であった彼は、印刷機械のみならず多数の発明をしているのですが、
その中の一つにペリスコープがありました。
これは宗教祭において群衆を見渡すことができるようにする筒で、
宗教巡礼者のために発明したものでした。

彼はこの発明を売ろうとお金を借りてたくさん商品を作りましたが、
この機械の利便性が伝わるには当時はちょっと時代が早かったようで、
機械は売れず、これが彼を破産させることになってしまいました。


■ マリー-ダヴィの潜望鏡



博物館の潜望鏡の歴史、いきなり話は1800年代に飛びます。
フランス人科学者であり、発明家だった、

エドム・イポリット・マリエ・ダヴィ
Edme Hippolyte Marie-Davy1820-1893


は、潜水艦に搭載する、鏡を45°に傾けた光学チューブを発明しました。
それは二つの鏡を使って作られた世界初の海軍潜望鏡でした。

子供でも思いつきそうな、と言って終えばおしまいですが、
まあこれもコロンブスの卵ってやつです。




この潜望鏡は1880年代に実験的なフランスの潜水艦、
「ジムノート」Gymnote に搭載されてデビューしています。

意外と近未来的なシェイプの「ジムノート」

彼は電磁モーターを発明しており、それをもとに
電気駆動プロペラを持つ潜水艦の提案も行っています。

■ サイモン・レイクの発明


潜水艦に少し詳しい方なら、ホランド型潜水艦に名前を残す、

ジョン・ホランド John Phillip Holland

の存在を知っていると思います。
しかし、この写真はホランドではありません。
彼のライバルであった、

サイモン・レイク Simon Lake 1866-1945

なのですが、残念ながら歴史的には無名と言ってもいいかもしれません。
その理由は、単に海軍が最初に採用した潜水艦がホランドのだったからです。

サイモン・レイクはクェーカー教徒のエンジニア、海軍建築家で、
アメリカ海軍の最初の潜水艦を作るために、
ジョン・フィリップ・ホランドとガチンコで競い合っていました。

そして1893年にアメリカ海軍から潜水魚雷艇の要請を受けています。

しかし、その後海軍は彼との契約を打ち切ってしまいました。
何があったのかはわからないのですが、レイクは発明を続け、
1894年に最初の潜水艦であるアーゴノート・ジュニアを建造しています。


Argonaut Jonior

これを潜水艦と呼ぶとは誰も思いますまい。
しかしこれが彼の開発した最初の「サクセスフル」な潜水艦でした。

アーゴノート、アルゴノートの語尾がアストロノーと同じ
"naut"であることから想像できるように、この言葉には、
ギリシャ神話に登場する巨大な船「アルゴー船」の乗員の意味があります。

三角形で木製、船底の車輪は「船の底が海底に付かないためのもの」。
これは船というより「海底探査車」に近いものだったようです。

ゴム長靴を履いて乗り、船体を中から押しながら海底を歩いて移動し、
なんなら海底に落ちているものを拾い上げることも可能でした。

空気はどうするかというと、密閉された船内の上部に溜まった空気を
極限まで吸うというデンジャラスな仕組みとなっていました。

大きな洗面器をかぶって中の空気を吸う的な。



流石にここで終わるはずもなく、レイクは1900年になると、
今度はアーゴノーという実に潜水艦らしい形のものを開発しました。

このアルゴノートも、その次の「プロジェクト」という潜水艦も、
レイクの潜水艦は、なぜか海軍に採用されることはありませんでしたが、
彼が潜水艦のために発明したものの多くは、
その後の潜水艦が標準的に備える装備となっていきました。

ダイバーが潜水艦を離れる時に必要なロックアウトチャンバーの設置。
司令塔の前方と後方に合計4つ搭載された潜舵、フラットなキール。
これでバラストタンクのレベルを変えることなく深度を維持できます。
バラストタンク搭載の二重構造による船殻。

そして、潜望鏡です。
このアルゴノートの図には「U」として潜望鏡が描かれています。

ところでこれだけの発明をしていたのに、
なぜ海軍はレイクの案を採用しなかったのでしょうね。

特に、「アーゴノート」の後継型、「プロテクター」潜水艦の導入を、
海軍と議会から拒否されてしまったレイクは、
腹立ちまぎれに設計図ごとそれをロシアに売却し、
腹立ちまぎれにロシア海軍にメインテナンスのやり方を兼ねて
手取り足取り乗組員の訓練もしてやったそうです。

レイクはロシア以外に日本にも売り込みをかけていたといいますが、
日本海軍も結局ホランド型を購入しています。
この時「プロテクター」を買っていたら、レイクが日本に来て
あれやこれやを指導していた可能性もありますね。


ところで、海軍がなぜレイクの潜水艦をなぜ買わなかったかというと、
潜水艦そのものに対する安全性への懸念だったのではないでしょうか。

結局導入を決めた「ホランド」型の開発についても、
何度も計画が変更してうまくいかなかったという事実が示す通り、
潜水艦という兵器はいかに発想が魅力的でも慎重にならざるを得ず、
従って、消去法で懸念材料が多かったレイク案が消えた、
ということにすぎなかったのかもしれません。

結局海軍が完成した「ホランド」号を購入したのは3年後でした。
ただし、肝心の潜望鏡という観点で言うと、

USS「ホランド」には潜望鏡は搭載していませんでした。

ホランドが潜望鏡を開発しなかったからです。
「ホランド」で当初どうやって外を見ていたかというと、

「ポーポイズ運動」

を行うという方法でした。


具体的にこんな感じで

失敗した魚雷が、海面に浮いたり沈んだりしながら進むことを
ポーポイズ(ネズミイルカ)と呼ぶことはご存じでしょうか。

「ホランド」の見張りは、数フィートごとに水面に浮上して、
強化ガラスを貼り付けたタワーの覗き窓から外を見ていたのです。

絶賛ポーポイズ運動中

これだとどうしても艦体が波間に見え隠れしますし、
写真でもわかるように大きく白波が立ってしまい、
潜水艦のステルス性は全く意味をなさなかったといえます。

何のための潜水艦か、って感じですね。

■ 潜水艦 USS「アッダー」Adder SS-3



まるでひっくりがえったボートに乗っているようですが、
これはよく見ると潜水艦なのです。

「アダー」は「ホランド」SS-1に続くアメリカ海軍の潜水艦であり、
歴史的にはこれが最初に潜望鏡を搭載した潜水艦と言われます。

ちなみに「Adder」というのはクサリヘビのことで、
「プランジャー」級の2番艦です。
「プランジャー」というのは「潜水夫」を表す言葉ですが、
潜水艦に水棲生物の名前をつける慣習は「プランジャー」級3番艦の
USS「グランパス」(シャチの種類)から始まっていたようですね。


しかし、潜望鏡。



これを見る限り、「アーゴノート」のように
はっきりと潜望鏡とわかる装備らしきものは見当たりません。

写真で、右から2人目と3人目の間に立っているのがそれかもしれません。

ちなみに写真の左端に見切れている大きなパイプは吸気用です。


■ 潜水艦以外に利用された”潜望鏡”


日本語だと潜望鏡は字面から見て水中使用専門のイメージですが、
英語の「ペリスコープ」は、必ずしも水中での使用を意味しません。

第一次世界大戦でペリスコープの必要性は激増しました。
塹壕戦が主流となり、身体を出さずに敵の様子を窺うためです。


この写真で使われているのと全く同じタイプの
「トレンチペリスコープ」はamazonで買えないこともないようです。



また、ペリスコープは第一次世界大戦の戦車にも大いに活用されました。

ガンドラッハ・ロータリー潜望鏡
(Gundlach Rotary Periscope)

はポーランドの軍人ルドルフ・ガンドラッハが1936年開発し、
360°の視界を可能にした回転式潜望鏡で、
戦車の中から戦車隊長などの観察者が座席を移動することなく、
前方(写真上)や後方(写真下)を見ることを可能にした。


後方を見る


この採用は観察者の快適性を大きく向上させ、視野も広くなるため、
1940年以降に製造されたほぼすべての戦車に採用されています。

戦前のポーランドとイギリスの軍事協力の一環として、
この特許はヴィッカース・アームストロング社に売却され、
すべてのイギリス戦車(クルセイダー、チャーチル、バレンタイン、
クロムウェル
など)に搭載されることになりました。

日本の戦車にも同じ機構が採用されていますし、アメリカに伝わり、
M6ペリスコープとしてすべてのアメリカ戦車
M3/M5スチュアート、M4シャーマンなど)に搭載され、
第二次世界大戦後、全世界で採用される技術となりました。


■ゴルフコースにペリスコープ

カナダのオンタリオにあるゴルフコースのペリスコープ

『ジョークではありません』

1933年に発行されたポピュラーサイエンスマガジンには、
ペリスコープがあなたのゴルフボールをグリーンに運ぶのに役立つだろう、
と、まるで冗談のようなことが書いてあります。

ゴルフコースのペリスコープ。
低い場所を見渡せます。

おそらく世界でも最も珍しいゴルフ場の設備の一つが、
カナダのブリティッシュコロンビア州ビクトリアのコースにあります。

このコースの9番ホールと10番ホールの間には小さな丘があって、
プレーヤーはどこにボールを打つかを肉眼で確かめることができません。

この問題を解決するために、この写真に見られる
高さ12フィートのペリスコープが9番ホールに設置されたのです。

見えない10番ホールに向かってショットを打つ前に、
プレーヤーは潜望鏡を通して丘を見渡すことによって、
自分のボールを打つ方向を確認できるというわけです。

また、実際の潜水艦の潜望鏡を使っているゴルフコースもあります。

The Golf House Club, Elie

スコットランドにあるというこのクラブのスターターハウスには、
1966 年に HMS 「エクスカリバー」から引き揚げられた潜望鏡があります。

これはまさしく・・・

こうしてみると潜水艦の潜望鏡の実際の長さが実感できますね。

この潜望鏡のおかげで、スターターは1番ホールの丘を見渡すことで
前の組が順調に進んでいるかどうかを確認することができますし、
賢明なゴルファーは、これからプレイする2番グリーンのホールが
どこに切られているかをばっちり見ることもできるというわけです。

HMS「エクスカリバー」とその姉妹船HMS「エクスプローラー」は、
英国海軍が建造した高濃度過酸化水素(HTP)を動力源とする潜水艦でした。

1950年代半ばに進水しましたが、潜水艦の動力源に使うには、
HTPは不安定であることがわかり、1968年末には両艦とも退役しています。


HMS「エクスカリバー」


HMS「エクスプローラー」

高濃度過酸化水素は閉鎖系エンジン(非大気依存推進)の酸素源として
利用が検討され、ヴァルター機関などにも検討されました。

大戦後、戦勝国がその成果を持ち帰った技術で、イギリスではこの
「エクスプローラー」級潜水艦が試作されたのですが、先ほど述べた理由で
潜水艦の水中動力源としては実用化されませんでした。

ただし、ロケット飛行機であるメッサーシュミット Me163のエンジンや、
日本の「秋水」の特呂二号原動機ベル ロケット ベルト、X-1、X-15、
ブラック・アローの推進剤
としては使用されています。

ロケットエンジンとしてもV2ロケット、ヴァイキング、レッドストーン、
ソユーズロケット
でターボポンプの駆動ガスの発生にも使用されました。


ロシア海軍は魚雷の推進剤に過酸化水素を使っていたのですが、
2000年、潜水艦「クルスク」で過酸化水素が不完全な溶接箇所から漏れ、
爆発し、魚雷の弾頭が誘爆したことが不幸な沈没事故を引き起こしています。


続く。


海上自衛隊横須賀音楽隊第57回定期演奏会@横浜みなとみらいホール

2023-03-05 | 音楽

先日海上自衛隊第4航空群のニューイヤーコンサートで
大和市芸術文化ホールにおける横須賀音楽隊の演奏を聴いたばかりですが、
あまり間をおかず、今度は定期演奏会にお誘いいただきました。

今回は「関東地方の音楽隊の追っかけ」をするほどの熱烈なファンから
チケットを分けてもらったという方からの、さらにお裾分けです。

会場は横浜のみなとみらいホール。

気がついたら、コロナ騒ぎになってからここにくるのは初めてです。
クィーンズスクエアの様子もすっかり様変わりし、
特に昔は長蛇の列ができていたタピオカドリンク店が潰れていたり、
みなとみらい駅のコンコースにランドセル屋さんができていたり、
何より驚いたのがみなとみらいホールそのものがリニューアルしていたこと。

どこがどう変わったかも記憶にないくらいですが、
とにかく変わったことだけは入った瞬間に気がつきました。

催し物がキャンセルになって会場がただの空間になっていた時期、
このめったにない機会を奇貨として、大々的に
リノベーションを決行した施設は多かったのかもしれません。

プログラムによると、この改修には1年半以上をかけたということでした。

お誘いくださった方と会場前で待ち合わせ、席に着きましたが、
今まで体験したことがない2階からの観覧です。



演奏会に先立ち、横須賀地方総監乾悦久海将の挨拶が行われました。

改めて気がついたのですが、先日のニューイヤーコンサートは主催者、
そして今回も、『主催者』として、直轄部隊の指揮官が挨拶するのが
地方隊の慣例となっています。

東京音楽隊の場合はそれはありませんが、その理由は、
同隊だけが防衛大臣直轄部隊であるからであり、
地方隊は地方総監の指揮監督下にあるという違いによるものです。

地方隊は東京音楽隊とは異なり、防衛事務官は置かれません。

この日の観客はみなとみらいホールの大ホールが大きいせいか、
特に2階席は空席が目立ったように感じました。

■ 第一部 吹奏楽オペラの世界

♪ 喜歌劇「軽騎兵」序曲 フランツ・フォン・スッペ

喜歌劇「軽騎兵」序曲

けいきへい、という言葉をわたしはこの序曲でしか知らないわけですが、
基本的に重装甲を帯びる重騎兵の反対で、(そらそうだ)
最小限の装備で後方撹乱や奇襲を主とした攻撃を行う兵のことです。

しかし、オペラ(オペレッタですが)と言いながら、
この「軽騎兵」という劇が上映されることはまずありません。

なぜかというと、台本が現存していないからです(笑)

というか、もしかしたら序曲の出来の割に、
あまり本編は評判がよくなかったのかもしれません。

さて、この、おそらくは誰もが一度は耳にしたことのある
軽快な序曲で軽やかに幕を開けた第一部。
指揮は前回のニューイヤーコンサートと同じく、
副隊長(自衛隊なのでもしかしたら副長?)の岩田知明一尉が行いました。

この日の司会は音楽隊員ではなく、フリーアナウンサーの石川亜美氏
(自衛隊での講習講師であるとか)が受け持ちました。

残念ながらわたしの座っているところからは
司会者はまったく死角になっていてお姿は見えませんでしたが、
元々軍楽隊に端を発した日本の吹奏楽シーンでは、当時から
オペラ音楽の再現がよく行われた、という前回と同じ解説がありました。

前半はそのオペラを中心としたプログラムです。

♪ 歌劇「椿姫」セレクション
ジュゼッペ・ヴェルディ 

歌劇「椿姫」セレクション  Giuseppe Verdi’s  “La traviata“Serlection

東京音楽隊では、アンコールに「乾杯の歌」を二人の歌手が歌いましたが、
それを含む「椿姫」の有名な曲をメドレーにした吹奏楽アレンジです。

アレンジは、オペラ開始の前奏曲で始まり、
第1幕の幕開けの豪華な夜会のシーンに続き、
続いて第2幕の「闘牛士の合唱」、ヴィオレッタのアリアと
第2幕2場のキャスト、合唱大勢で歌われる音楽を合体させており、
最後は第1幕1場の合唱音楽で盛大なフィナーレを迎えます。

♪ 歌劇「蝶々夫人」より「ある晴れた日に」

やまと芸術文化ホールでのニューイヤーコンサートで、
歌手の中川麻梨子三等海曹が歌ったのと同じプログラムでした。

全く同じ演奏者によるパフォーマンスでしたが、
今回は正直なところ、聴いていた場所の関係で、とくにボーカルは、
上に音が飛んで来ず、ニューイヤーコンサートのときよりも
何か「他人事」感がある、聴いていてもどかしい響きに感じました。

これは横須賀音楽隊にも中川三曹にも全く責任はなく、ただ、
会場の音響の調整があまりうまくできていない結果という気がしました。

気軽に楽しむ自衛隊コンサートなので、小難しいことを言う気もないし、
最終的に受けた満足感からいうと何の文句もありませんが、
せっかく良い演奏なので、どうせならもうすこしいい音響で聞きたかったな。


♪ 歌劇「サムソンとデリラ」より「バッカナール」
カミーユ・サン=サーンス
吹奏楽 歌劇サムソンとデリラ より バッカナール

これを聴くと、MKが高校のオーケストラで演奏していたことを思い出し、
当時の学校のオーディトリウムの独特の匂いまでが蘇ってくるのですが、
そんな個人的すぎる話はともかく。

歌劇の音楽ですが、吹奏楽のレパートリーとしては
それこそ中学生から取り上げるくらいポピュラーな曲です。

アラブ風の旋律と打楽器の奏でるエキゾチシズムが癖になる名曲といえます。



■ 第二部 吹奏楽による「日本の調べ」

この日の構成は第一部オペラ、第二部日本人作曲家による吹奏楽作品、
とはっきりと二分されていました。

そして第二部の多くが、全日本吹奏楽コンクールの課題曲です。

ここで少し司会者がこのコンクールについて説明しましたが、
わたしも驚いたことは、この第一回コンクールは、
朝日新聞社と一般社団法人全日本吹奏楽連盟の主催で、

第1回全日本吹奏楽競演会
紀元二千六百年奉祝 集団音楽大行進並大競演会


というのが正式名称であった由。
しかもこれ、朝日新聞が大阪にあった関係で、奉納演奏は橿原神宮、
大行進は中之島公園から御堂筋を経て道頓堀、千日前、
最後に生國魂神社参拝という流れでした。

後援は陸軍・海軍省、文部省、厚生省。

課題曲は大行進曲「大日本」斎藤丑松。
審査員には海軍軍楽隊長内藤清五、堀内敬三がいたという・・。

大行進曲「大日本」/斉藤丑松(Grand March "Great Japan" : Ushimatsu Saito)

まあ、こんな感じで続いていたわけですが、
3回やったところで戦争のため中断。
戦後再開されたのは1956年、昭和31年のことでした。

そして2020年に新型コロナウィルス感染症の収束が予測できないため、
中止されるまで毎年何らかの規定変更を加えながら継続し、
その間課題曲として吹奏楽の重要なレパートリーが生まれてきました。

ただ、一般公募の課題曲については、専門家から

「間違った音が多すぎる」

「和声的な誤りが多い」

「オーケストレーションに明らかな問題がある」

「旋律から作曲して無理やりリズムと和音を当てはめるので
戦慄との兼ね合いで音が濁る」

「構成がない作品に(参加者が)触れていると、
形式美や様式美という観点の存在すら失せてしまう危険がある」

などの苦言が呈されている模様。
ノリとか雰囲気で選ばれがちな一般曲を、
正規の音楽理論から論じると、こういう意見も出てきがちです。

ただ、音楽の場合は、「理論に外れる」ことは、
一分の例外もなくむしろ「聞いて変」という結果にしかならないので、
わたしは検証するまでもなく赤字の意見を後押しするかな。

聴いていて自然と思われる音楽は必ず音楽理論に則っています。(断言)


♪ 吹奏楽のための「風之舞」福田洋介

第二部からは横須賀音楽隊隊長北村義弘一等海尉がタクトを取りました。

2004年度課題曲(Ⅰ) 吹奏楽のための「風之舞」

聴いたことがあるなあと思ったら、かつてどこかの
(東音か横須賀か呉音楽隊)が取り上げたはずです。

それくらい、レパートリーとして重用されている曲なのでしょう。

第14回朝日作曲賞受賞作品であり、
2003年度全日本吹奏楽コンクール課題曲Ⅰとなった
この作品の作者、福田洋介氏は、作編曲を独学という人で、
海上自衛隊東京音楽隊のためにその名も

海の歌 The song of the sea

を作曲しています。
The song of the sea / Yosuke Fukuda 海の歌/福田洋介

♪ 土蜘蛛伝説〜能「土蜘蛛」の物語による狂詩曲
松下倫士

自衛隊音楽隊の演奏会で、木管八重奏を聴いたのは初めてです。
木管八重奏はピッコロ&フルート、クラリネット、それから
アルト、テナー、バリトンのサキソフォーンという構成でした。

[WW8] 土蜘蛛伝説 ~能「土蜘蛛」の物語による狂詩曲/松下倫士/ Tsuchigumo Legend by Tomohito Matsushita

作曲者自身の内容解説は以下の通り。

病気で臥せる源頼光のもとへ、召使いの胡蝶が、
処方してもらった薬を携えて参上します。
ところが頼光の病は益々重くなっている様子です。
胡蝶が退出し夜も更けた頃、突然雲霧が沸き起こり、
頼光の病室に見知らぬ法師が現れ、病状はどうかと尋ねます。

不審に思った頼光が法師に名を聞くと
「わが背子(せこ)が来(く)べき宵なりささがにの」
と『古今集』の歌を口ずさみつつ近付いてくるのです。
よく見るとその姿は蜘蛛の化け物で、
あっという間もなく千筋の糸を繰り出し、
頼光をがんじがらめにしようとしますが、
頼光は枕元にあった源家相伝の名刀、膝丸を抜き払い、
斬りつけると、法師はたちまち姿を消してしまいました。

騒ぎを聞きつけた頼光の侍臣 独武者は 、大勢の部下を従えて駆けつけます。

頼光は日頃の病もすっかり忘れた様子で、
名刀膝丸を「蜘蛛切」に改めると告げ、斬りつけはしたものの、
一命をとるに至らなかった蜘蛛の化け物を成敗するよう、独武者に命じます。

独武者が土蜘蛛の血をたどっていくと、
化け物の巣とおぼしき古塚が現れます。
これを突き崩すとその中から土蜘蛛の精が現れ、
土蜘蛛は千筋の糸を投げかけて独武者たちをてこずらせますが、
大勢で取り囲み、ついに土蜘蛛を退治します。

これだけの話を5分間の音楽にまとめるのですから大変ですね。

土蜘蛛の不気味さはバリトンサックスのくぐもった低音や、
フルートのブルブル震えるフラッターなどで遺憾無く発揮されています。

♪ 火の伝説 櫛田胅之扶

火の伝説(2018年・平成決定版)/櫛田てつ之扶 Ritual Fire by Tetsunosuke Kushida COMS-85133

この曲はコンクール課題曲ではありませんが、櫛田氏本人は
1981年、1994年の課題曲を作曲しておられ、さらに
陸上自衛隊中部方面音楽隊のために、

「万葉讃歌 〜ソプラノと吹奏楽のための」

を委嘱作品として作曲しておられます。
また、京都の八坂神社、大文字などの四季を通じた
京都における火の神事、祭事を描いたこの曲は、
吹奏楽コンクールでも自由曲としてよく選ばれるようです。

♪ 日本の四季
21世紀に歌い継ぎたい日本の歌メドレー


ここでまた中川麻梨子三等海曹が歌を披露しました。

「朧月夜」〜菜の花畑に入り日薄れ

「夏は来ぬ」〜卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて

「我は海の子」〜我は海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に

「里の秋」〜静かな静かな里の秋 

「冬景色」〜さ霧消ゆる湊江の 船にしろし朝の霜

「故郷」〜うさぎ追いしあの山 小鮒釣りしかの川

これらの曲がメドレーで一気に聴けました。

最初の歌詞を書いておいたのは、わたし自身、
「朧月夜」「冬景色」の題名がすぐに出てこなかったからです。



♪ 三つの音詩〜暁の海〜白の海〜蒼の海 
樽屋雅徳

【参考演奏】 吹奏楽 自由曲

海上自衛隊横須賀音楽隊委嘱作品。

作曲者のライナーノーツより。

眺める場所、時、季節により全く違う表情を持つ、
時には恵みをもたらし、時には猛威をふるう海。
この曲では、そんな海の表情を大きく三つの場面に分けて表現しています。

夜明けの静かな海辺に、打ち寄せては引いて行く波を歌った冒頭、暁の海。
時には波がしぶきをあげて荒れる様子を描いた白の海。
そして日が沈み、海は何事もなかったかのように落ち着きを取り戻す。

ピアノから木管楽器そしてクライマックスへ受け継がれていくメロディーが、
すべてを包み込むほど深く壮大な、美しい蒼の海を表現しています。

私達のすむ日本は海に囲まれた国であり、たくさんの人々が、
毎日水平線から昇る朝日や大きな海に希望を感じてきたのではないでしょうか。
そんな想いから、海の表情を和の音色を用いながら詩っています。
(樽屋雅徳)

この平成23年委嘱作品をラストに持ってくるために、
後半は日本人作曲家の「日本の風景」を集めたのかもしれません。


♪ 花 滝廉太郎

この日のアンコールは、中川三曹による滝廉太郎の「花」独唱でした。

アンコールに歌手とピアノだけで楽団員が全員そちらを見ているの図。
これもわたしのこれまでの音楽隊鑑賞歴でも初めてです。

しかしまたしても残念なことに、独唱が響いてこないうえ、
わたしの席からはピアノを誰が弾いているのか全く見えませんでした。

このウィングからは、最前列の人も身を乗り出して
下を覗き込まないとピアノすら目に入らなかったのです。

この日は三月三日、雛の節句だったのですが、
少し早めに「花」が選ばれたのかなと思いました。


最後は海上自衛隊音楽隊恒例の「軍艦」でお開きになりましたが、
同行していた方が、退出しながら

「陸自は『抜刀隊』最後にやらないんですか」

と聴いてこられたので、
先日中央音楽隊行きましたがやらないみたいですねー、というと、

「空自も『空の精鋭』やらないんですか。あれいい曲なのに」

陸空がやらないというより、海自音楽隊は海軍軍楽隊直系で
ヒューマンリソースと伝統がそのままそっくり継承されてきたので、
軍楽隊の慣習も途切ず受け継がれたんじゃないかと思います。

「軍艦」然り、自衛隊旗もある意味然りですよね。

というわけで、春の予感を感じさせるこの宵、横須賀音楽隊の
日頃の研鑽の成果である良質な音を堪能させていただきました。

最後になりましたがチケットの手配をいただきました方々に
心よりお礼を申し上げる次第です。









アメリカ海軍の大西洋発横断飛行(史上初)〜スミソニアン航空博物館

2023-03-04 | 飛行家列伝

「大西洋横断飛行」

大西洋とは縁もゆかりもない我々日本人にはピンときませんが、
欧米の国々にとって大西洋は「横断すべきもの」でした。

少なくとも、航空機というものが発明されて以降、欧米の人々は
ヨーロッパ、アフリカ、南アジア、中東から北米、中米、南米へ、
またはその逆方向へ大西洋を横断することに夢中になりました。

大西洋を横断する=トランスアトランティックという「造語」ができ、
達成のためのコンテストが行われ、実業家は賞金を出し、
野心のある飛行家たちが名を挙げようと次々とこの課題に挑戦しました。

太平洋横断飛行には、固定翼機、飛行船、気球などが用いられたわけですが、
初期の航空機のエンジンは信頼性に乏しく、無給油で何千キロも続く
特徴のない海域を航行するのは困難を極めました。
特に北大西洋の天候は予測不可能で危険でもありましたが、
科学技術の発展と何人かの勇気あるパイオニアたちのおかげで、
20世紀中頃から、商業、軍事、外交などの目的で
大西洋横断飛行が日常的に行われるようになりました。


さて、スミソニアン博物館の、ミリタリーエアのコーナーを飾る
黎明期の軍パイロットたちの写真を今一度見てみましょう。

ベッシー・コールマンを除く全員が軍人であるわけですが、
(というかなぜここにコールマンがいるのか謎)
上の段の真ん中の6人のパイロットたちは陸軍航空隊メンバーで、
彼らは1923年に大西洋横断を成し遂げたということで有名です。

が、軍で言うと、大西洋横断を先に達成したのは海軍なのです。

なのになぜ、世界初の太平洋横断飛行を行った海軍ではなく、
陸軍の写真なのかはよくわかりませんが、
このパネルに収める軍人の陸海の数のバランスの関係でしょうか。



■ 大西洋初横断

リンドバーグが大西洋単独無着陸横断に成功する8年前に、
海軍は水上機による大西洋横断飛行を史上初めて成功させていました。

その二週間後、イギリスのジョン・アルコックとアーサー・ブラウンが、
今度は航空機による史上初大西洋ノンストップ横断に成功しました。


アルコックとブラウンの像

ちなみにアルコックはこの年1919年の12月に参加した航空ショーで
飛行機が墜落し、若くして死去しています。

命の危険を重々承知で飛んでいたとはいえ、
世界記録を出した直後に死ぬというのは何とも気の毒です。

ともかく史上初めて航空機と名のつくもの、水上機で大西洋横断したのは、
アルバート・クッシング・リード中佐率いる3機のNC-4海軍チームで、
ニューヨークからプリマスまで23日で到達しているのですが、
かかった時間と横断に複数の飛行機を使用したということで、
「大西洋横断」と言う公式記録にはカウントされませんでした。

しかし、このときの海軍は、記録を作ると言うよりは、
大洋横断兵器としての飛行機の性能と技術を証明するため、
軍を挙げて大西洋横断に挑戦したのだといわれています。


という意気込みの割に驚くほどのんびりとした出撃風景なんですが・・・。

1919年5月8日、ロングアイランドのロッカウェイビーチ。
(どこから撮った写真なんでしょうか)

この挑戦は6名の乗員を乗せたカーチス飛行艇3機で行われました。
使用されたのはNC-1、NC-3、NC-4でと番号が振られた
カーティスNCと言う最新式の水上飛行機でした。




大西洋横断メンバー

当時の海軍の軍服が全く陸軍風なのに驚かされます。
長靴に乗馬のジョッパーパンツなんて海軍要素ゼロですよね。

NC-4艇のメンバー、左から右に向かって:

操縦士;エルマー・ストーン中尉Lt. Elmer F. Stone, 沿岸警備隊

機関士;ユージーン・ローズ上等兵曹Eugene S. Rhodes


機関長;ウォルター・ヒントン大尉Lt. Walter Hinton

副操縦士;ハーバート・ロッド少尉 Ensign Herbert C. Rodd

通信&機関長;ジェイムズ・ブレッセ大尉 Lt. James L. Breese,

司令官;アルバート・リード 中佐Lt. Cmdr. Albert C. Read

アゾレス諸島海軍司令官;リチャード・ジャクソン少佐
Capt. Richard E. Jackson, Commander U.S. Naval Forces Azores

アゾレス諸島は、彼らが大西洋横断の際に中継点として離陸した
大西洋の島であり、ジャクソン少佐は現地司令官です。

先にフライトエンジニアとしてE・H・ハワードというメンバーがいましたが、
5月2日、ハワードは回転するプロペラとの距離を見誤り、
手を失ったため、ローズ上等兵曹が代理で乗り込むことになりました。

超余談ですが、この中の唯一の沿岸警備隊からの参加者、
ストーン中尉(左端)は、のちに海軍の飛行船「アクロン」の沈没事件の時、
沿岸警備隊の飛行艇のベテランとして、嵐の中、外洋に着水し、
果敢にも救助活動を行ない、賞賛されることになります。

この時の「アクロン」の生存者は76名の乗員のうちたった3人でした。



このときのリード隊のコースが図になっています。

ニューヨーク・ロングアイランド
マサチューセッツ・チャタム(アメリカ)
ハリファックス、セントジョンズ・ニューファンドランド(カナダ)
ホータ、
ポンタ・デルガーダ(アゾレス諸島)
リスボン、フィゲイラ(ポルトガル)
フェロル(スペイン)
プリマス(イングランド)


(赤字は予定外の緊急着陸地)

水上艇での横断というのが記録として公認されなかったのは、
固定翼機と違い、墜落による命の危険がない乗り物だったからでしょう。

おまけにこのとき、海軍は作戦成功のためにルート上に駆逐艦を配備して、
逐一カーチス飛行艇を誘導していたと言いますから、
のちのリンドバーグやイヤハートと違い、言うては何ですが
比較的イージーモードな挑戦だったから、と言えるかもしれません。


1919年5月8日、アメリカ海軍の大西洋横断飛行探検が始まりました。

参加したカーチスはNC-4はNC-1とNC-3と言いましたが、
なぜ2がないかというと、この出発前、NC-2は、NC-1を修理するため
重要なスペアパーツを取られて飛べなくなったからです。

3機はロッカウェイ海軍航空基地から出発し、一週間後となる
5月15日には、ニューファンドランドのトレパシーに到着しました。

カーチスNCの航行支援と万が一の際の乗員救出のため、
アメリカ海軍の軍艦8隻がアメリカ東海岸北部と大西洋カナダに配備され、
全軍挙げて成功させる気満々です。

USS「アルーストック」

支援のための全艦艇の旗艦である「ベース・シップ」は、
カーチスNCの飛行直前に海軍が水上機テンダー(補給船)に改造した
旧機雷掃海艦USS「アルーストック」でした。

「アルーストック」は排水量3,000トン強で、
大西洋横断飛行支援に配備された海軍のどの駆逐艦よりも大型です。

「アルーストック」は、カーチスNCがニューヨークを離陸するより前に、
ニューファンドランドのトレパシーに待機していました。

NC-1、NC-3、NC-4が到着すると、給油、再潤滑、整備作業を行い、
のみならずその後、大西洋を横断してカーチス隊を追いかけ、
イギリスに到着した一行と合流して至れり尽くせりの援護を行いました。

海軍全面支援ならではのゴーヂャスなバックアップ体制です。


5月16日、3隻のカーチスNCは、ニューファンドランドを出発しました。
大西洋中部のアゾレス諸島までは今回最も長い距離飛ばなくてはなりません。

しかし、ご安心ください。

先ほども言いましたように、この航路には、主に駆逐艦からなる
22隻の海軍艦艇が約50マイル(80km)間隔で配備されていました。

この過保護っぷりよ

この駆逐艦配置をして「真珠の首飾りのよう」と評されたと言います。

配置されたすべての駆逐艦は「ステーションシップ」として機能するべく、
夜間には煌々と光を放って、迷える飛行艇を導きました。

乗員はサーチライトを空に向けて照らし、また、
飛行士が予定した飛行経路を外れないように、星空弾を発射しました。


NC-4の乗員

が、

ここまでやったのに、やはりアクシデントは起こり、
三機全部、というわけにはいかなかったのです。

NC-4は、翌日の午後にアゾレス諸島のファイアル島のオルタに到着し、
約1,200マイル(1,900km)の飛行を無事に終えることができましたが、
この、15時間18分の夜間飛行の間、一行は濃い霧に遭遇し、
水平線を見失う状態に見舞われたため、危険回避のために
NC-1とNC-3は大西洋に着陸せざるを得なくなりました。

飛行艇だからよかったものの、飛行機なら墜落ですね。

しかもNC-1は荒波にもまれ、再飛行が不可能となり、
NC-3はメカニカルトラブル(操縦線断裂)で棄権を余儀なくされます。

このNC-1には、後に提督となるマーク『ピート』ミッチャーが乗っており、
ミッチャーら乗員6名は、配備された駆逐艦ではなく、
通りすがりのギリシャの貨物船SS「イオニア」号によって救助されました。

NC-1には「ナンシー」と言う愛称がつけられていましたが、
「イオニア」に発見されるまで、ミッチャーらは波に揺られる
「ナンシー」の翼の上にずっと座っていたということです。


当ブログではおなじみ、ミッチャー

若き日、イケイケの飛行機野郎だった頃のミッチャー

「イオニア」号は、乗員を「アルーストック」に移乗させた後、
NC-1を曳航していたらしいのですが、気の毒に、3日後に沈没し、
深海で行方不明となってしまいました。

もし飛行艇の曳航などしなければ、というか、たまたま
駆逐艦より先に遭難した飛行艇を見つけていなければ、
「イオニア」もきっとこんな目に遭わずに済んだと思われます。
(-人-)

さて、もう1機の遭難艇NC-3には、やはりのちに提督となる
ジャック・タワーズが乗っていました。

グレーの矢印(見にくくてごめん)というか
一人だけズボンに皺のないのがタワーズ

さて、タワーズを乗せたNC-3は、約200海里(370km)を航行して、
(つまり飛ばずに船のように海路を進んで)アゾレス諸島に到着し、
そこからアメリカ海軍の艦船に本国までドナドナされていきました。


NC-4はアゾレス諸島に到着して3日後の5月20日、
リスボンに向けて再び離陸しましたが、機械的な問題が発生し、
わずか240km飛んだところで、アゾレス諸島のサン・ミゲル島、
ポンタ・デルガダに着陸を余儀なくされました。

スペアパーツと修理のために数日滞在後、(これってセーフ?)
NC-4は5月27日に再び離陸しました。

そして、またしても海軍は、特に夜間の航行を助けるために
艦艇をみっちりと配備して備えました。
アゾレス諸島-リスボンのルート上には13隻の軍艦が配置されています。

当時は戦間期で、海軍も暇っちゃ暇だったのでしょう。


その後は大きなトラブルもなく、9時間43分でリスボン港に着岸成功!

この瞬間、NC-4は、「初めて大西洋を横断した航空機」
また、「初めて『海洋上』を横断飛行した航空機」となったのです。

また、マサチューセッツやハリファックスからリスボンまで飛んだことで、
NC-4は「北米やヨーロッパの本土から本土まで飛んだ初めての飛行機」
というタイトルを得ることにもなりました。

かかった日付のわりに、実際の飛行時間は26時間46分でした。

ついでに言えば、リスボンからスペインのフェロール、
そしてフェロールからプリマスという最後の飛行区間には、
さらに10隻のアメリカ海軍の軍艦が航路上に配置されていました。

結局、ニューヨークからプリマスまでのルートのために、
合計53隻のアメリカ海軍の艦船が配備されていたことになります。

やっぱり暇(略)

ヨーロッパ(のどこか)を意気揚々と滑走するNC-4


NC-4の乗員ははプリマスでNC-1、NC-3の乗組員と再会し、
成功組失敗組、一緒に列車でロンドンに向かい、そこで歓迎を受け、
次にフランスのパリを訪れ、そこでも熱烈に喝采を浴びました。



しかし、そのわずか二週間後、最初にも書いたように、
ジョン・アルコックとアーサー・ウィッテン・ブラウンが
ニューファンドランドからアイルランドまで
ヴィッカーズ・ヴィミー複葉機による初の大西洋無着陸横断飛行に成功。

所要時間も16時間27分と海軍の飛行艇の時間を大幅に上回り、
この壮挙にはちょっと曇りが生じることになります。

せめてこの何ヶ月か後ならもう少し勝利感に浸れたと思うのですが。


この成功によって、アルコックとブラウンは、
『デイリー・メール』紙がスポンサーとなって出した条件、

「アメリカ、カナダ、ニューファンドランドのいずれかの地点から、
イギリスまたはアイルランドのいずれかの地点まで、
飛行中の飛行機で72時間連続して初めて大西洋横断を行った飛行士。
各試行に1機のみを使用できる」

をクリアし、1万ポンドの賞金を獲得しましたが、そもそも海軍は
このコンペに参加して賞金を得ることには全く無関心でしたから、
時間制限とか、1機使用などというルールを守ろうなどとは
ハナから思っていませんでしたし、また守る必要もなかったのです。


アメリカに輸送するためプリマスで解体されるNC-4
この後機体は「アルーストック」に積み込まれた

しかしこの壮挙は賞金には変えられない栄光を海軍にもたらしました。
1929年2月9日、議会は公法を可決し、

「最初の大西洋横断飛行を考案し、組織し、指揮した」

ジョン・H・タワーズ中佐と、

「1919年5月にアメリカ海軍飛行艇NC-4に乗り、
最初の大西洋横断飛行に成功したという驚くべき業績」


を挙げた搭乗員の6名に連邦政府金メダルを授与し、
海軍は新たにNC-4勲章という軍事勲章を創設することになったのです。

これはミニチュア版の議会ゴールドメダルでしたが、
海軍や軍服への着用が許可されるメダルは非常に稀なものでした。


本作戦指揮官を務めたリード中佐は搭乗員番号25、
つまり海軍始まって以来25番目に資格を得たパイロットです。

1919年、挑戦を終え、アメリカに帰国したリードは、こう予言しました。

「まもなく人類は、高度6万フィート、時速1,000マイルの飛行機で
世界を一周することが可能になるだろう」


現代の我々には、そりゃそうなるよね、くらいにしか思えない発言ですが、
翌日のニューヨークタイムズ紙は、社説で真っ向から反発しています。

「飛行士の資格と預言者の資格は全く別物だ。
中佐の予測を裏付けるものは、今となっては何もない。
6万フィートの高さにある飛行機は、
真空の中でプロペラを回しているようなもので、
星間空間の凍てつくような寒さの中では、
どんな飛行家も長くは生きられないだろう 」

と。

NYT紙といえば、預言者となったロケット工学の父、
ロバート・ハッチングス・ゴダードに対する当時の暴言を
人類の月着陸の翌日誌面で大々的に謝罪したことで有名ですが、
この暴言に対しては誰をも責任をとっておらず、
少なくとも誰もリードに謝っていないように思われます。

アルフレッド・リードは1967年まで生きていましたから、ジェット機の登場も
音速超えの飛行機も、人類が宇宙に行ったことも当然知っていたわけです。

彼は自分の預言というより、実体験からの「予測」を貶したNYTに対し、
後年そらみたことかと思っていたに違いありません。

History of Naval Aviation - NC-4, Aircraft Carrier 21720 

前半はつまらないので8:00くらいからご覧になるとよろしいかと思います。
この時代の水蒸気カタパルトが結構すごいのに驚かされます。



NC-4は、帰還後に海軍からスミソニアン博物館に寄贈されたため、
スミソニアン博物館の所有物ということになっています。

しかし、この機体は大きすぎて、ワシントンD.C.にある
ここ旧スミソニアン芸術産業館にも、その後継で1976年に完成した
国立航空宇宙博物館本館にも収容することができません。

というわけでNC-4の小型模型は、
国立航空宇宙博物館のマイルストーン・ギャラリーに
1903年の初代ライトフライヤー、
1927年のチャールズ・リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス」
1947年のチャック・イエーガーのグラマラス・グレニスX-1ロケット機、
X-15ロケット機とともに、名誉ある機体として展示されています。

模型ですが。



1974年現在、組み立てられた本物のNC-4はスミソニアンから
フロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館へ貸し出されています。

このままスミソニアンに帰ってくることはなさそうです。


続く。