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サラエボ事件・なぜ皇太子妃は暗殺されたのか〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-29 | 軍艦

ウィーン軍事史博物館のサラエボ事件関係の展示について、
前半では事件が起こるに至った背景と、事件そのものの経緯を
絡めながらご紹介してきました。

後半では、博物館展示の写真から、もう一度事件発生前に戻ります。

フランツ・フェルディナンド皇太子夫妻の訪問を迎えるため、
大きな花束が用意され、贈呈係の少女が受け取っているところです。

サラエボ側の役人たちは全てトルコ帽を着用し、フラワーガールも
トルコ風のバルーンのようなシルエットのパンツを履いています。
どういう関係で抜擢されたかわかりませんが、可愛いですね。

皇太子夫妻の車列に手榴弾が投げ込まれましたが夫妻は難を逃れ、
皇太子の車はスピードを上げて現場から走り去ったため、歓迎のために待っていた
これらの人々が、事件の発生によって待たされることにはなりませんでした。

市庁舎前に博物館に今日展示されている車が到着しました。
運転席にいる運転手は、動画によるとこの後車を降りて、
爆発の影響がないか車体を調べていたようです。

比較のためもう一度車の写真を上げておきます。
今回確認のために「映像の世紀」の車の映像を見たところ、
ただ車がポツンと隅に置いてあるだけで、今のような演出は
全くありませんでした。

現場では気づかなかったのが痛恨の極みですが、この車体には
後部に弾痕の跡が残されています。

その後フランツ・フェルディナンドは、爆弾によって負傷した人々を見舞うため
歓迎会の後の予定を変更して病院に向かうことにしました。

このことが、皇太子本人が射殺されるきっかけを作ることになります。

視聴者の階段を上っていく皇太子夫妻。
運転手は点検のために運転席から立ち上がっています。

歓迎会が終わり、サラエボ側は先ほど起こったばかりの暗殺未遂に対し
なんの危機感もなく、対処しないまま、皇太子は出発することになりました。

博物館に展示されていたこの写真には、ドイツ語で

「暗殺の5分前、市庁舎を退去」

とあります。

DER MOMENT DES ATTENTATES「暗殺の瞬間」

とキャプションがありますが、犯人の姿は写真では確認できません。

右からゾフィー妃、隣がフランツ・フェルディナンド皇太子、
その左がこの直前車を停めさせたポティオレク総督。

運転手にコースの変更を伝え忘れたのは他ならぬこのおっさんだったのですが、
前の二台が川沿いをまっすぐ行ってしまったのに、この車だけが右折したため、
車をバックさせて二台のあとを追いかけるように伝えていました。

車は完全に停止した状態で、この近くのカフェで食事をしていた犯人にすれば
まさに天佑天助とでもいうべき千載一遇のチャンスだったのです。

もう一度写真をみてください。

近くに立っている人の中には、まだ異変に気づいていない人もいますが、
至近距離の二人の紳士が凝視しているのは犯人の姿であろうと思われます。

おそらく犯人のプリンツィプは今まさに車に銃を持って駆け寄り、
ステップに足をかけようとしているのに違いありません。
それを思わせるのが、総督の被っている帽子の房で、激しく揺れており、
これは総督が不審者の接近に気付いて反応したことを意味しています。

弾痕のありありと残る車のフロントガラス、そして犯人が使った銃。
制帽と真ん中のものは何かわかりません。
(説明部分の文字がぶれていて判読不可能でした)

博物館HPより。

フロントグラスを取り外したのは、おそらくですが、
移動の際にガラスそのものが破損してしまう可能性を考慮してのことでしょう。

過去何度か飛び石事故でフロントガラスを取り替えたことのある経験からいうと、
亀裂の入った面の大きなガラスは、少し車体がねじれたくらいの圧がかかっても
いとも簡単に全損してしまうものなのです。

プリンツィプが撃った銃弾は一発は妃の腹部、二発目は皇太子の頸部を傷つけ、
本人はそのあと自分を撃って自殺するつもりが取り押さえられたとありますが、
車体左側、そしてこのガラスに残る弾痕から見る限り、犯人は
銃を撃ちながら車に近づいていったということかもしれません。

博物館では公開されていないようでしたが、HPにこんなものもあります。

暗殺されたときに皇太子が身につけていた白いシャツです。
袖口以外は白いところがないくらい血で染められています。

関連画像

前回見ていただいた軍服の血のシミは、年月を経て薄れてしまっていますが、
事件直後に撮られた写真によると、こんな状態でした。

事件でほぼ即死したゾフィー妃、そしてしばらくは意識を保っていたものの、
次第に混濁し、死亡に至った皇太子、二人の遺体は、総督公邸に安置されています。

二人とも清拭され、衣装も着替えさせられて、まるで寝ているようです。
皇太子が着替えるための代わりの軍服も即座に用意されたのでしょう。
その胸には、暗殺の時と同じ勲章が清拭されて付けられています。

ゾフィー・ホテク(1868〜1914)

は、チェコの貴族出身で、ハプスブルグ-テシェン家の妃の女官でした。
二人がチェコのプラハで出会ったとき、フランツ31歳、ゾフィー26歳。

恋に落ちた二人がテシェン家の別荘でこっそりと逢っていた頃、
ちょうど帝位継承者であった
彼の父親、カール・ルードヴィヒが病死してしまいました。

順序からいって次の帝位継承順位はフランツ・フェルディナンドとなるのですが、
ちょうどこの頃、内緒にしていた二人の恋愛は、テシェン家の妃に怪しまれ、
フェルディナンドが時計の裏に仕込んでいたゾフィーの写真を見つけられてしまい、

「おのれ、わたしの娘を狙っていたと思っていたのに、よりによって女官とは!」

と大騒ぎになってしまいます。

ゾフィーの身分を問題視したヨーゼフ一世は、フェルディナンドに向かって

「帝位か結婚か、どちらかを選べ」

と迫ったそうですが、彼は、どちらも手放さない、と断言しました。

もしこのとき彼が帝位を諦めていたら、その時は彼の弟に話がいったはずですが、
フェルディナンド、どうもこの弟が嫌いだったらしく、
(自分の宮殿より弟の方が大きな所に住んでる!あいつムカつく、とか、
本人が帝位に野心はないといったのに、それを鼻であしらうとか)
弟への対抗心から帝位に執着したと言う考え方もできますね。


結局彼は、ゾフィーがダメなら誰とも結婚しない、といって意志を貫き、
1900年6月28日、結婚を強行しました。

ところで、6月28日といえば、1914年のこの日はなんだったでしょうか。
そう、サラエボで二人が暗殺されたまさにその日です。

 二人は結婚記念日に共に命を絶たれたことになります。


さて、皇帝のヨーゼフ一世は結婚を許したものの、結婚式への出席を拒否し、
彼の側の親族にもそれを禁止したため、結局二人の結婚式は、写真の通り、
ゾフィー側の関係者だけの、あまりにもささやかな式となりました。

しかも、彼らはヨーゼフ一世から、結婚は許すが、ゾフィーを皇族扱いしないこと、
生まれた子供には決して帝位を継がせないこと、という約束をさせられていました。
皇太子夫妻としての公式行事に参加することも禁止です。

 

そんなヨーゼフ一世が事件について第一報を聞いたときの第一声は、

「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。
余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」

というものであったといわれています。

つまり、彼らの貴賤結婚は「神に対して逆らうこと」と同等であり、
二人揃って殺されたことは、その「報い」であると皇帝は言い切ったのです。

さらには、身分の低いゾフィーとフェルディナンドが結婚することによって
古い秩序が破壊され、自分はそれを止めることはできなかったが、
神の下した罰によって彼らは破滅し、古い秩序は取り戻されたのだ、と、
聞きようによってはまるで暗殺を喜んでいるようにも取れる発言です。

たとえそうでなくとも、彼らの道を外れた行いに対し天罰が降った、
とヨーゼフ一世が考えていたことは確かなところでしょう。

 

ちなみにフェルディナンド大公が死亡することによって次期皇帝の座には、
彼が毛嫌いしていた(に違いない)弟のカール一世が指名されました。

詰め寄る兄に『自分は帝位への野望はない』と言ったのに、信じてもらえなかった
このカール一世ですが、本当に野望どころかやる気もなかったようで、
ヨーゼフ一世崩御後、オーストリア=ハンガリー皇帝になるも、すぐに国事不関与を宣言し、
その日のうちに自ら宮殿を去り、
最後のハプスブルグ皇帝となってしまいました。

ハプスブルグ家がオーストリアから去っていく絵の最後には
ヨーゼフ1世に続いてカール一世が振り返りながら退場していく姿が・・。

ただしこれはカール一世のやる気の問題ではなく、時代の趨勢ということでもありました。

もしヨーゼフ1世がフランツ・フェルディナンドの貴賤結婚を許し、
その子どもたちに帝位を継がせる可能性を与えていたとしても、
遅かれ早かれハプスブルグ家の帝国は、世界の帝国主義とともに崩壊していたのです。

ゾフィー妃の私物もいくつか展示されています。
手書きのメモが添えられたかつては色鮮やかだったであろう押し花。
白いレースはハンカチでしょうか、スカーフでしょうか。

 

これも説明を撮影しなかったので何かわかりませんが、手編みのレースで作ったものです。

ところで、ゾフィーがフランツ・フェルディナンドと結婚する条件の一つに

「公の場に二人で出席してはいけない」

というものがあった、と先ほど説明しましたね。

身分の卑しい彼女が夫の一族からはまるでいない人のように扱われるのは既定路線でしたが、
それでは今回、なぜ二人は公的行事に一緒に現れたのでしょうか。

本来ならばゾフィーの帯同は許されなかったのですから、暗殺があったとしても
少なくとも彼女は死ぬこともなかったはずなのです。

 

ヨーロッパ貴族の常として、フランツ・フェルディナンドは軍人でもありました。
この日も、サラエボに赴いたその理由は、軍人の立場で軍隊を閲兵することです。
彼はこの頃、ヨーゼフ一世に代わって軍の最高指導者の立場にいたのです。

そして、暗黙の了解というか、抜け穴と言うべきなのか、ゾフィーは
皇太子としての大公とは同行出来ませんでしたが、ただ、

「夫が軍人として公務に参加するときだけ」

一緒に歩き、共に並んで立つことがなんとか許されていたのです。


わたしの想像ですが、二人は結婚記念日に当たるこの日、煩いウィーンを離れ、
晴れて夫婦揃って
公務に出席することを心から喜んでいたに違いありません。

そして、昼間の公務が終了した後には、14回目の結婚記念日を祝うための
二人きりの祝宴を囲むつもりをしていたのではなかったでしょうか。

二人は晩年まで仲睦まじい夫婦でした。
この時、ゾフィー妃は46歳でしたが、懐妊していたとも言われています。

海軍の軍服を着用した皇太子

軍人としてのフランツ・フェルディナンドは、当時の陸軍優位の帝国軍で
唯一海軍の増強を提唱していた人物で、そのこともあって、暗殺された後の遺体は

戦艦フィリブス・ウニティス (SMS Viribus Unitis

に乗せられ、海路でイタリアのトリエステまで運ばれました。

そのあとは特別列車でウィーンまで運ばれているので、海路を乗せたのは
全くの遠回りとなるのですが、海軍が彼に敬意を表したということなのでしょう。

事件の後のことについても少し書いておきます。
この写真は、日本のウィキでは暗殺直後に撮られたもので、捕まっているのは
犯人のガブリロ・プリンツィプであるかのように説明されていますが、
軍事博物館によると、これは後日、プリンツィプの学校の友人である
フェルディナンド(フェルド)ベーアが逮捕されているところだそうです。

犯人グループのうち、5名が絞首刑の判決を受けましたが、
皇太子夫妻を撃ったプリンツィプはまだ20歳になっていなかったlこともあり、
懲役20年の刑を科され、テレジェンスタットで獄死しました。

オーストリア=ハンガリーから見ると殺人者ですが、セルビアから見ると
彼らの行為は英雄的で、今でもプリンツィプの記念碑がどこかにあるそうです。

これも我々日本人には既視感のある光景ですね。

暗殺事件が起こって数時間後から、反セルビア暴動が連鎖的に発生しました。

暗殺当日の夜は、セルビア系住民に対する虐殺も行われたと言いますが、なんと
それらの暴力行為は、直接間接的に暗殺を後押ししたとわたしが断言するところの

ポティオレク総督本人によって組織され、また扇動されていた

と言われています。

このおっさん、最初から最後まで怪しすぎね?

さらに、サラエボ市の警察は暴動を抑制するために何一つ動きませんでした。
そのためサラエボ市では暴動初日に2人のセルビア人が殺害され、
1000件に及ぶ住宅、店舗、学校、施設は破壊されるがままでした。

ベルタ・フェリツィタス・ゾフィー・フライフラウ・フォン・ズットナー
(Bertha Felicitas Sophie Freifrau von Suttner, 1843- 1914)

は、オーストリアの小説家です。
急進的な平和主義者で、ノーベル平和賞を受賞した最初の女性でした。

ズットナーは1889年に小説「Die Waffen nieder!(武器を捨てよ!)」
を発表し、平和活動の先駆者となりました。

このコーナーでは、急進的な平和主義者だった彼女が死んだのは、
サラエボの事件の
わずか一週間前だったこと、ゆえに彼女は
それが世界的な大戦につながることも
知らずに世を去った、とあります。

 

サラエボ事件が、つまり一発の銃弾が世界大戦のきっかけとなった、とは
よく言われることですが、それは具体的にどういうことなのでしょうか。

 

次回は、少し視点を変えて、我が日本の海軍が第一次世界大戦に参加した
という歴史的事実を、ある資料をもとにお話ししてみたいと思います。

 

続く。




サラエボ事件・なぜ皇太子夫妻は暗殺されたのか〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-27 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウィーン軍事史博物館の中でもっとも有名で注目を集める展示、
それは間違いなくサラエボ事件関連のものでしょう。

「サラエボ」と名付けられたこのコーナーには、皇帝の後継者だった
フランツ・フェルディナンド皇太子が皇太子妃と共に暗殺されたときに乗っていた、

1911年式グラーフ&シュティフト 28/32 PS
「ドッペルフェートン」

が展示されています。

車は石畳を模した展示スペースに、壁全体を当時の写真で囲まれた状態で
展示されており、誰もが足を止め食い入るように説明文を読んでいました。

わたしも、あの、第一次世界大戦のきっかけとなった重大事件が
この車の上で一瞬のうちに行われたことが、何か信じられない気持ちで
タイヤの汚れやどこかに傷がないかなど、細部を凝視しました。

さて、サラエボ事件が皇太子夫妻暗殺事件で、それが第一次世界大戦の
引き金となった、ということはどなたもご存知だと思いますが、
そのディティールについて、展示物をご紹介しながらお話ししていくことにします。

そもそも、オーストリア皇太子夫妻はなぜ暗殺されなくてはいけなかったのでしょうか。

オーストリア皇太子夫妻、フランツ・フェルディナンドとゾフィー・ホテク。
先日お話しした「最後の皇帝」ヨーゼフ一世(エリーザベトの夫)とは
弟の子、つまり伯父と甥という関係になります。

これもお話しましたが、ヨーゼフ一世の息子は30歳にして自死、つまり
女性と無理心中してしまったため、ヨーゼフ一世の後の皇位継承者は、
皇帝の弟であるカール・ルードヴィヒに指名されました。

ところが、カール・ルードヴィヒは、皇太子になって7年後に病死したため、
その息子であるフランツ・フェルディナンドが皇太子になったのです。

 

ここで、当時のオーストリア=ハンガリー帝国と、事件の起こった
現ボスニア=ヘルツェゴビナの
関係はどうだったかについて触れておきましょう。

まず、ハプスブルグ帝国軍の最高司令官にして天才軍人、プリンツ・オイゲンは、
1697年にこの地を襲撃の末制圧しており、ほとんど壊滅状態になった国土は、
長らく復興することさえできない状態が続いていました。

これだけでもオーストリアに対する反感が育つには十分な理由ですが、
1850年台には正式に?オーストリア=ハンガリー帝国に統治されています。

ボスニア=ヘルツェゴビナは民族的にスラブ系で、どちらかというと
ゲルマン系よりオーストリアの天敵であるロシア寄りになっていたので、
火種がくすぶる原因はもともとあったのです。

帝国側から見ると路面電車を敷設するなどのインフラ整備を行ったり、
融和的な政府によって、併合は表面上うまく行っているようでしたが、

軍隊も議会も取り上げた状態がテンプレである統治という形態について、
された方が全面的にそれを良しとするとは限リません。

いまだに統治した国のうち一つに絶賛一千年恨まれ中のわたしたち日本人が
身につまされている歴史のあるあるですが、それだけではありません。

フランツ・フェルディナンドは、即位後にボスニアをハンガリーと同じく帝国にして、
オーストリア=ハンガリーの「二重帝国」を「三重帝国」にしたい考えだったので、
反オーストリアの民族派にとっては、抹殺すべき人物と目されていたのです。

皇太子夫妻がサラエボ訪問を行ったのは、ヨーゼフ一世の命にによるもので、
予定されていたボスニアでの軍事演習を視察するのが目的でした。

このとき、皇太子である大公が「軍人として」軍事演習の視察に行った、
ということはこの事件を知る上で重要な情報ですので、頭に置いておいてください。


この写真は、夫妻がセルビア市庁舎に到着した時のものです。
この後、市庁舎内で何事もなかったかのように歓迎会が行われたのですが、

実は、この直前、皇太子暗殺を目的としたテロはすでに起こっていたのでした。

英語でも説明してくれているので助かります。

皇太子夫妻を乗せた車は画面左手から市庁舎に向かい緑色の矢印の通りに進んで、
10分後、
画面左手の「チュムリヤ」という橋の黒丸の地点に差し掛かったとき
待機していた暗殺グループが車列に向かって爆弾を投げました。

皇太子夫妻の車を狙って、民族主義者の暗殺グループのうち、
チャブリノビッチという20歳の青年が(のち獄死)投擲したもので、
狙いは外れましたが爆発し、後続の車に乗っていた人が負傷します。

皇太子夫妻の車はそのままスピードを上げて現地を離れ、
残りの暗殺グループは何もすることができませんでした。
車はその後赤で印された市庁舎に向かい、予定通り歓迎式典が行われました。

式典では何事もなかったかのように祝辞が始まったため、当然ながら皇太子は
なんでこんなことがあったのに普通に祝辞などやっているのか、という調子で
市長の挨拶を遮ってテロに言及したそうですが、ゾフィー妃に
耳打ちされて黙ってしまったということです。


歓迎の式典が終わりました。
ここで、皇太子が爆弾事件の負傷者を見舞うと言い出したため、

黄色の線を通って病院に行くというルートに変更されました。

ところが、皇太子夫妻の車の運転手にその連絡をするのを忘れた人がいて、
車は
本来のコース(紫)に右折して行ってしまったのです。

それが運命が決まった瞬間でした。

皇太子夫妻の車に同乗していたセルビア軍総督が、それに気づき、
車を停めさせたのが、
運の悪いことに、暗殺グループの一人だった

ガブリロ・プリンツィプ

が諦めて食事をしていたカフェの前(🔴地点)だったのでした。

 (ちなみに食べていたのはサンドウィッチだったということです)

ここでもう少し時間を戻します。

この写真は、市庁舎から出て車に乗り込もうとしている大公夫妻ですが、
先ほどのテロ未遂の後なので、表情は堅いことが見てとれます。

ここで、不幸につながる偶然の連続と見えるこの事件が、
ある意味防げた事故であり、人災であったと思われる部分について述べます。

 

このとき、ボスニア側では、帝国に融和的な国民を刺激するとして、
もともと要人警護を目に見えて手薄にしていたとうことがありました。

しかし現実に皇太子を狙うという凶悪なテロが起こったのですから、本来ならば
そのあとの予定は全部中止にして残党の暗殺計画に対処するべきだったのです。

ところが、このとき、ボスニア側のポティオレク総督は、事件の再発を心配し、
市庁舎に止まるべきだと進言した大公の侍従に、

「サラエボは暗殺者だらけとでもお思いですか?」と言って議論を終わらせた(wiki)

というのです。

Potiorek oskar fzm 1853 1933 photo2.jpgポティオレク総督

それにしても、このオスカル・ポティオレクという総督なんですが、
どうも、の人のやることなすこと事件の発生を後押ししているんですよね。

どういうことかというと、

● 皇太子夫妻の訪問に対して厳重な警備を行おうとしなかった

● 最初のテロ事件が起こった後も、警備を増援しなかった
理由は、「演習の途中なので兵士がちゃんとした制服を着ていない」というもの

● 車のルートが変更になったことを運転手に伝えるのを忘れた
前の二台を追いかけさせるため車を停めさせたらそれが犯人の前

 

最後のは偶然というか至極当然の行動だとしても、これだけ重なると、
この人の責任も問われてしかるべきでは、って気がしませんか?

総督が何か一つ危機管理に留意していただけで、この事故は起こらず、
従ってその後の世界の運命は全く違ったものになっていたことになります。

事件が起こった瞬間を描いた当時の新聞の挿絵です。
皇太子が首を抑え、ゾフィー妃の腹部に銃弾が当たった瞬間を描いたものです。

犯人のプリンツィプが、車に駆け寄って発砲していますが、
目の前で停止した車の踏み板に乗って、
まさに至近距離からー
外しようのないくらいの距離からー銃撃したという説もあります。

皇太子の着ていた軍服は絵のような白ではなく、青色です。

博物館には、暗殺当時皇太子が着用していた軍服が一式飾られています。

暗殺は6月であったことと、すぐに上がった写真が白黒だったため、
挿絵画家は色を判別することができず、とりあえず夏服を描いたのでしょう。

首を抑えていたことからもわかるように、銃弾は皇太子の頸静脈に当たりました。
軍服の内側のカラーには頸部からの出血の跡がはっきりと見え、さらに
銃弾がかすったと思われる傷と血のシミがまだ残されています。

犯人は続いて皇太子妃ゾフィーの腹に一発を撃ちましたが、これは意図してではなく、
同乗していた総督を狙ったが外れたものだと裁判で述べたそうです。

博物館公式HPより。
軍服の裂け目は袖にまで至っています。

軍服だけでなく、皇太子が身につけていた装飾品のほとんどが展示されています。
左にある緑色の羽は、大公が被っていた帽子の飾りですが、
百年以上経ってこれだけ色を残しているということは、当時は
鮮やかな緑色をしていたのでしょう。

そして、透明の板に乗せられた軍服の下の寝台ですが、これは
皇太子が銃撃を受けた後、寝かされ、息を引き取ったものです。

赤い生地なのでよくわかりませんでしたが、おそらくはここにも
血液の染みが見られるのに違いありません。

それを見せるため、このような展示方法を取っているのでしょう。

大公が着用していたのはK.u.K アーミー、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍の
将軍の軍服となります。

わたしが驚嘆したのは、寝台の足元に置かれた皇太子着用の靴。
その皮がなんとも滑らかそうな、
仕立ての良さがありありと表れているブーツで、
今でもちょっと手入れしたら普通に履くことができそうなくらいです。

皇太子は銃弾を受けたのが静脈だったせいで即死せず、銃弾を腹部に受け、
すぐに意識を失った妃に向かって、

「ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ」

と声をかけて、自分自身については

「大したことはない」

となんども答えていたそうですが、総督公邸に到着してから10分後、
意識混濁のまま亡くなりました。

ということはこの寝台の上でまさに息を引き取ったのかもしれません。
そして、もしかしたら皇太子は自分が亡くなるとは最後まで
思わないまま、二度と意識が戻らなかったのではないでしょうか。

 

さて、次回はゾフィー妃のことについてもお話ししてみたいと思います。

続く。

 

 


レルヒ少佐のスキー〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウィーン軍事史博物館はホールごとにテーマが決まっており、
それでいうとナポレオン戦争に次いでハプスブルグ家の三代に亘る資料、
その次には、

「ラデツキーのホール」

があります。
ただし、わたしはここでなぜか呆然としてしまい、写真を全く撮っていません。
これだけ膨大な資料があると、取捨選択にも大変な集中力がいるのですが、
ナポレオン戦争で緊張が途切れてしまったものと思われます。

なので、ちょっとだけ説明しておきますと、ラデツキーというのは
あの「ラデツキー行進曲」のラデツキーです。

どちらかというとこのシュトラウスの行進曲ばかりが有名ですが、
ここオーストリアでは東郷平八郎並みに知られた軍人なのです。

いや、陸軍だから乃木希典か。

Radetzky-von-radetz.jpg

ヨハン・ヨーゼフ・ヴェンツェル・フォン・ラデツキー伯爵

ヨハン・シュトラウス1世が1848年に作曲した『ラデツキー行進曲』は、
北イタリアの独立運動の鎮圧に向かうラデツキー将軍を称えて作曲されました。

また、ウィンナーシュニッツェルは、ラデツキーがミラノから持ち帰った
「ミラノ風カツレツ」が元になっているんだとか。

このホールには、ラデツキーの退位証明書などが展示されています。

 

続いては「フランツ・ヨーゼフ1世のホール」です。
ヨーゼフ二世についてお話しした日に挙げた絵に登場していた少年、
覚えておられますか。

白馬に乗ったのがヨーゼフ二世、左端の灰色のジャケットが、
のちのフランツ・ヨーゼフ一世です。
このヨーゼフ一世の子供、フランツ・カールを父親として生まれたのが
フランツ・ヨーゼフでした。

つまり、ヨーゼフ一世の孫なので、最初はフランツ・ヨーゼフ二世と名乗りましたが、
皇帝の座についてから1世とあらためました。

えらくイケメンですが、オーストリアの青年にはこういうタイプが多い(マジ)
のを今回確認した私に言わせると、本当にこんなだった可能性は高いです。

ただし、前にも書きましたように、オーストリア青年の美貌は
歳をとると割と跡形も無くなって普通になってしまう、いわば
瞬間芸みたいな儚いものである模様(ロシア女性もこんな感じかも)。

Emperor Francis Joseph.jpg

晩年のフランツ・ヨーゼフ一世。
息子のルドルフは30歳で愛人と心中してしまいますし、皇位継承者であった
フランツ・フェルディナントはサラエボ事件で暗殺されています。

このフランツ・ヨーゼフ一世の嫁というのが、あのエリーザベトでした。
この肖像画家はデッサン力に少々問題があるような気がするのですが、
まあ、それはさておき、皇帝夫妻は誰もが認める美男美女のカップルだったわけです。

このエリーザベト皇后も後年無政府主義者にやはり暗殺されていますから、
もうフランツ・ヨーゼフ一世、お祓いが必要なレベルで周りの人が
次々と、しかも普通でない理由で死んでいったことになります。

戦争には負け続け、皇太子にも皇后にも先立たれ、民族問題にも悩まされ・・。
しかしその忍耐と不屈の精神、そして温厚にして誠実な人柄から、
晩年には帝国内のすべての民族に慕われ、治世期間が長かったことから、
「最後の皇帝」と呼ばれています。

フランツ・ヨーゼフ時代のK.u. K、つまり
オーストリア=ハンガリー帝国軍の双眼鏡とケースです。

ヨーゼフ一世の時代、ウィーンは大改造計画によって都市から
旧城壁が撤去され、国内では大々的な鉄道敷設工事が行われました。
これは1896年に撮られた敷設工事現場です。

軍隊で使用していたであろう当時の携帯電話。

ちなみに、フランツ・ヨーゼフ一世という人は、18歳で戴冠し、
長い間帝国のトップにあったとせいなのか、保守的で、新しいもの、すなわち
「文明の利器」である機械にアレルギーを示し、拒否し続けました。

自動車については77歳の時に、イギリス王エドワード7世の求めに応じて
1度だけ彼と同乗したことがあるそうですが、電話は1度も使っていません。

今ならさしずめどんなに言われても携帯を持ちたがらなかったり、
インターネットを拒否する爺さん婆さんみたいなものですか。

ただし、電信機だけは気に入ったのか、どのようなことも電報で通信し、
シェーンブルン宮殿の他の部屋への連絡にも使っていたとか。

1900年当時の最新型カメラです。
フランツ・ヨーゼフ一世には写真による肖像が残されていますし、
なんなら亡くなってベッドに横たわっている写真もあるくらいなので、
写真は全く拒否していなかったようですが。

こうなるとどこからOKでどこからダメなのか、基準がわかりませんね。

自動車もダメなら、きっと飛行機などは機会があったとしても
決して乗ろうとはしなかったでしょう。

説明の写真を撮り損なったのですが、この時代にオーストリアでも
飛行機の開発が行われていたようです。

いきなり現れたのがスキーの展示。
なんとなく興味を惹かれて近づいていくと、わたしたち日本人にとって
馴染みのある名前が写真に記されていました。

Major Theodor Edler von Lerch

このスペルでぴんと来なければ、

レルヒ少佐

ではどうでしょうか。

 

右側にあるレルヒ少佐の写真の下には、

「Instruktionsoffizier in kaiserl, japanischer Army.」

「Er fuhr in japan den modernen schilauf ein.」

とあり、日本陸軍のスキー指導員として日本に行き、
近代スキーを指導した、と書いてあります。

左側のスキーを履いた四人は全員が日本女性であり、写真の説明によると、

「レルヒの生徒だった陸軍将校の妻たち」

だそうです。
皆スキーを履いて、ストックは一本だけ構えていますが、
レルヒ少佐が日本に伝授したのは、この一本杖の手法でした。

Theodor Edler von Lerch.jpg

レルヒ少佐がなぜ日本でスキーを教えることになったかというと、
そもそものきっかけはあの

八甲田山雪中行軍遭難事件(1902年)

でした。

日露戦争で大国ロシアに勝った日本の軍事力には、当時世界中が注目し、
オーストリア=ハンガリー帝国でも、日本陸軍を研究するため、
交換将校という形でレルヒ少佐は日本に滞在していたのです。

レルヒ少佐がインスブルックの部隊で参謀をしていた頃、スキー術の研究をしており、
本国では有名なスキーヤーであることを知った陸軍は、彼を教師に陸軍に
スキーの技術を導入することを企画しました。

当時、八甲田山事件ののショックがまだ陸軍内に尾を引いており、
あのような事故が再び起こったとき、スキーを活用すれば何らかの形で
最悪の状況は防げるかもしれない、と考えたのです。

そして1912年、1月12日。

日本で初めてのスキー教室がこの日に開催されました。

場所は現在の新潟県上越市、生徒はのちに日本スキー連盟の会長になる
鶴見宜信大尉はじめ、14名の陸軍軍人で、この14名はその後
指導員となって
レルヒ少佐直伝のスキー技術を陸軍に伝授しました。

ウィーン軍事史博物館には、レルヒ少佐が実際に使用していたスキー用具が
このように展示されています。

日本に教えたのは一本杖の方法でしたが、それは地形を考慮した結果で、
レルヒ少佐本人は二本のストックを使って滑っていたようです。

束ねたロープの左側にあるのが一本杖スキーで使う道具ですね。
日本で言うところのカンジキ、雪上履があります。

面白いのは、このカンジキ、日本では縄文時代から使われていているそうですが、
その原理と形はオーストリア製と全く違いがないことです。

スキー靴を止める器具の部分を拡大してみました。

こちらスキー靴。
レルヒ少佐の足は結構大きかったようです。
スキー板と靴は、布のベルトで止めたんですね。

これはオーストリア陸軍のスキー部隊のフル装備。
スキーを持ち、背中にはカンジキを背負っています。

というわけで、意外なところで日本に関係のある人物を見て嬉しくなったのですが、
さらに今回調べてみて、驚愕の事実が判明しました。

2009年、スキー発祥100周年を翌年に控えたこの年、
新潟県観光キャンペーンのゆるキャラ、レルヒさんが爆誕していたのです。

レルヒさんオフィシャルサイト

身長は270センチメートルで、各地のゆるキャラの中でもっとも背が高く、
キモカワイイをウリにして結構グッズも売れているそうです。

100周年記念キャンペーン終了後は、「元祖スキー天国新潟」である
新潟県PRキャラクターとして日本国内各地で宣伝活動も行うレルヒさん。

また、2012年2月に新潟市内在住の小学生女子3人組からなるユニット、
「シュプール音楽隊」によるCD「レルヒさんのうた」も生まれました。

レルヒさんのうた

全部真面目に聴いたら脳髄が溶けそうなゆるさですが、
途中に、オーストリア式ということで、男性はチロリアンハット、
女性は矢絣の袴姿でスキーを履いて一本杖を持っている写真があり、
これなどは歴史を忠実に再現している(つもりだ)と思われます。

ちなみに、レルヒが初めて日本でスキーを教えたことになっている
1月12日は、「スキーの日」となっていて、イベントも行われているようです。

 

というわけで日本スキーの父でもあるレルヒ少佐ですが、
帰国した後の消息も少しお伝えしておきましょう。

レルヒ少佐、まず帰国後勃発した第一次世界大戦に陸軍軍人として参加します。
しかし西部戦線に向かう途中の戦闘で負傷し、退役を余儀なくされ、
その後は日本を題材にした公演を行ったり軍事評論などをして
糊口をしのぎますが、やはり敗戦国となったオーストリアでは
軍人の恩給も出ず、晩年は貧困に苦しんだ、というのです。

日本はまさかレルヒ少佐がそんな状態になっているとは夢にも思わず、
昭和5年、レルヒ少佐が最初にスキーの指導を行なった高田で

「スキー発祥記念碑」を建立する運びになり、本人を除幕式に招待したのですが、

「身体の具合が思わしくなく、日本に行くのは財政的に厳しい」

という理由で来日を断って来たのです。

驚いた日本人、関係者にお見舞金を募り、同年、当時の金額で1600円
(現在の貨幣価値で600〜800万円相当)をレルヒに寄付しますと、
レルヒからは、礼状とともに自筆の油絵と水彩画が送られてきました。


日本では恩人として尊敬され、慕われていたのに、本国に帰ってから
特に評価されずに不幸な晩年を送ったというのは、横須賀のドック建設に
尽力した、フランソワ・レオンス・ヴェルニーを思わせます。


レルヒ少佐が(最終階級は少将)日本に滞在していたのは、
長い76年の生涯のたった3年間でした(41歳〜44歳)が、
その短い期間に受けた恩義を日本はそれからもずっと忘れず、
100年経ってもゆるキャラまで作って()功績を讃え続けているのです。

もし時空を超えて、レルヒ少佐の名前が「レルヒさん」として
今でも日本人に愛されていることを知ったら、彼は一体どう思うでしょうか。

 

続く。

 

 

 


喧騒のモーツァルトコンサート〜ウィーン・ムジークフェライン

2019-09-24 | 音楽

夏のヨーロッパ旅行ではヨーロッパらしさを味わえない、
とはよく言われることです。

なぜかというと、夏の間ヨーロッパはいわゆるバカンスシーズンで、
皆こぞって避暑地に民族大移動してしまい、地元はいわば抜け殻状態で
本来の雰囲気を構成する要素である地元民の数が激減するからだとか。

我が家ではアメリカ在住の間、夏が来るとパリにアパルトマンを借りて
月単位で住んだものですが、Airbnbもない時代、なぜその間家が借りられたかというと、
住人が留守の間、サブレットなる住居を貸し出すシステムが昔からあったからです。

パリ市内に住んで街を存分に味わうことができた貴重な体験でしたが、
いかんせん、お目当の飲食店に行ってみたら張り紙があって、

「バカンス中なので一時閉店しています」

ということが多く、何度もがっかりさせられたものです。


ウィーンは観光で成り立っている街なので、飲食店に関しては
そのようなことは一度もありませんでしたが、こと文化面、特に
せっかく音楽の都にきたのだからコンサートをぜひ、などと考えていると、
音楽が好きな人ほど、失望することになります。

夏はオフシーズンなので、そもそもまともな演奏会は行われないのです。
超有名どころは、ザルツブルグ音楽祭に集結してしまっていますし、
そうでない人たちもほとんどが絶賛バカンス中で地元にいません。

しかし、今回、そんな夏のウィーンのコンサートにあえて行ってきました。

ウィーンでガイドをお願いした日本人のガイドさん(ウィーン音大卒声楽家)が、
歩いてインペリアルホテルまで案内してくれた時、話の流れで、
楽友協会で行われるコンサートのチケットを取ってくれることになったのです。

ウィーン楽友協会(ヴィエンナ・ムジークフェライン)

はヨーゼフ一世の時代、音楽家の団体の請願によって爆誕したコンサートホールで、
ウィーン・フィルハーモニーのホームグラウンドであります。

映画「のだめカンタービレ」では、演奏会シーンのロケが行われましたから、
記憶にある方もおられるでしょう。

 

というわけで、このコンサートに行くことになりました。
繁華街で客引きがチケット売っているような演奏会、逆に興味が湧くではないですか。

バウチャーを見ると、そこには

「モーツァルトコンサート」

としか書かれていません。
誰が演奏するのかというと、全くのノーバディです。

つまり、寄せ集めオケであることは火を見るより明らかってことですね。

プログラムは何かも全く告知されません。
とにかくモーツァルト、なんだそうです。

もう聴く前から観光客向けの見世物コンサートであることがわかり、
いつも演奏会の前に必ず感じる心地よい緊張感など皆無の状態、むしろ
怖いもの見たさでとりあえず会場に向かいます。

この日は朝からマルクト、三つ星レストランシュタイレレック、軍事博物館、
そしてコンサートと地下鉄のチケットがフル活躍です。

ウィーンの地下鉄の優先座席のマークは・・・わかりやすい。

少し早めに現地に着きました。
買ってもらったのはバウチャーなので、これを座席表と変えなくてはいけません。

それにしてもこのコンサートホール前の人々の色彩がですね・・・・。

昔ウィーン留学中の友人が楽友協会の写真を見せてくれたのですが、
冬のコンサートということで、友人も毛皮など着込み、周りの人々にも
なにやらゴージャスでハイブロウなかほりが漂っており、当時のわたしには
大変敷居の高い場所であるようなイメージだったその同じ場所が、
幾星霜を経て、今ではこんなチープ<チーパー<チーペストな世界に。

めげずに周りを歩いてみることにしました。

楽友協会の同じ建物の一角にはあのベーゼンドルファーのショールームが。
世界のコンサートピアノの趨勢はいつの間にかスタインウェイとヤマハですが、
ここウィーン生まれのベーゼンドルファーを支持するピアニストは多く、
あのフランツ・リストがご愛顧していたという話は有名です。

確かリストはベーゼンドルファー家の誰やらの愛人だったとか
どこかで読んだ記憶がありますが、それだけが理由でもないでしょう。

こちら、ウィーンフィルハーモニーコーナー。
もう営業?は終わっていたようですが、外側に向けてウィンドウがあり、
演奏家の写真などが見られるようになっています。

いつまでも歳を取らないリッカルド・ムーティ。
もう80歳近かったと記憶しますが・・・。
彼が現在のウィーンフィルの実質首席指揮者です。

12月のチケットをもうこの時期に発売していますね。

舗道には、ハリウッドよろしく楽友協会にゆかりのあった
著名な音楽家の肖像とそのサインが刻まれた星のプレートが。

アントン・ブルックナーは1896年ウィーンで亡くなりました。
シュタッドパークの銅像にもなっていましたね。

指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

「フルトメンクラウ」
なんて使い古されたシャレを知っている方はここにはまさかいませんね?

ベルリンフィルの指揮者だったがためにナチス政権時代、うっかり
ヒットラー総統の誕生日コンサートで第九を振ってしまって、
戦後ナチス協力者なんて糾弾されたという気の毒な経歴がありましたが、
彼はナチスに心酔していたわけではなく、むしろヒンデミット事件を境に
ナチスと対立する立場からベルリンフィル音楽監督を辞任しています。

何処かの誰かの評論で「政治的には全く無知だった」という実に無責任な
人物評を読んだことがありますが、この人物には、お前ならあのナチス政権下で
ゲッベルスに楯突いて自分の地位を投げ出すことができたのかと聞いてみたい。

最終的にフルトヴェングラーはナチスの弾圧を逃れスイスに亡命しています。

そしてフルトヴェングラーは、ウィーンフィルハーモニーにとっては命の恩人。
アンシュルスのあとナチスによって解散させられそうになったのを阻止したのは
ドイツ最高の指揮者であった彼だったのですから。

オーストリアの作曲家ゴットフリート・フォン・エイネム
この人の名前を知っている方は相当のクラシック通です。

ご存知フランツ・シューベルト
楽友協会の資料室には、シューベルトの交響曲の交響曲の自筆楽譜が
第五番以外全て所蔵してあるそうです。

そのまま建物の周りを一周してみました。

「ゲイゲンバウマイスター」はヴァイオリン職人のことで、
ウィーンフィルの弦楽器の修理などを一手に引き受けている
ヴィルフレート・ラムザイアー=ゴルバッハ氏の名前であり、
その工房がここにあるということのようです。

一周回って正面玄関に戻ってきました。
このポスターは、ムジークフェラインが建造された1870年から
ちょうど150年目の節目が来年やってくるという予告でしょう。

観客が入場を始めました。
予想通り、ウィーン在住のクラシックファンなどおそらく皆無。
観客の全てが中国人主体の観光客というこの異様な光景です。

夏のコンサートに来るのはお上りさんだけだよ、とウィーン留学組から
聴いて知っていたつもりでしたが、ここまでとは。

そのほとんどがこういう出で立ちです。
そういえば三越お得意様限定旅行で防大見学をしたとき、
ツァーで同行した三越おばさまが、このムジークフェラインで毎年行われる
ニューイヤーコンサートにやはり三越の企画で行かれた話をされていましたが、
正装でドレスアップしているヨーロッパ人や日本人の中で、
(わたしの知り合いの銀行会長の奥様はとっておきの着物で臨んだらしい)

「中国の方達だけがラフな格好で来ますのよ。ジーンズとか」

とえらくお怒りでした。

かのごとくTPOをわきまえないのが中国人の中国人たるところですが、
最近は
SNSの発達もあって少しは彼らも自覚があるのか、たまには
コンサートらしくドレスアップしたつもり
で来る人もいました。

ただし、彼女らのほとんどが残念ながら「ツーマッチ」。
ロングドレス、結い上げた髪にシルバーのパンプスとか。

いや、これはニューイヤーコンサートではありませんから・・。

まあ、ヨーロッパからの観光客も似たようなものです(写真参照)
観客をできるだけ詰め込むため、ステージの両後ろ側に、観客からも見られる
特別席がありましたが、どうもここは安い席らしく、そこに座る客は
服装はもちろん態度がラフすぎるのが気になりました。

別名「黄金のホール」とも言われているこの大ホール、開演前は写真もOK、
とホールの係員に確かめ、
わたしも安心して内部を撮影しました。

「黄金の」という言葉には、あのブルーノ・ワルターも絶賛したという
音響の素晴らしさへの賛辞が込められているということです。

東京オペラシティのタケミツメモリアルはここと同じシューボックス型ですが、
まさにムジークフェラインをお手本にしたのではないでしょうか。

全く確かめていませんが、おそらくそう間違ってないと思います。

ここではバルコニーですら音響を計算して設置してあるのだそうです。
高い天井の裏にも空間が設けてあり、床も木でできていて、まさに
巨大なヴァイオリンのなかで音楽が奏でられているような感じです。

こういう、人間が柱の役目をして頭でエンタブラチュア
(柱頭の上部へ水平に構築される部分)を支えているような装飾を
カリアティード(caryatid)といいますが、ここではこの
女神たちもまた、音波を理想的に反響させるために存在しているのです。

そういえば、日本は明治時代に西洋風建築の手法を取り入れて
各地に趣のある建物を作りましたが、西洋と決定的に違うのは、
この「人体および頭部使用率」であろうかと思われます。

日本は神話の根付いた土壌ではないので、西洋風の人間は
建築の装飾としてフィットしないと判断されたのでしょう。

何もかもが金色。オケの譜面台も椅子も全て金です。

始まる前には皆会場の中を撮ったり、記念写真を撮ったり、自撮りしたり。
そして、いくら観光客向けのお手軽なコンサートといえども、
コンサートが始まったら撮影禁止、と各国語で放送されました。
携帯電話の電源を切るように言われるのも世界共通です。

そして、オケが入場してきました。

これはS席チケットを買った人にもれなく付いてくるCDジャケですが、
出演者は全員、男性はもちろん女性も、モーツァルトのようなカツラをかぶり、
この写真と同じようにあの時代の服装に身を包んでおります。
コートの色は一人ずつ違い、全体で見ると実に大変華やかで目を楽しませる趣向です。

プログラムは怒涛のモーツァルト攻撃。抉りこむようなモーツァルトのラッシュです。

観光客相手ということでその選曲もポピュリズムモーツァルトの極地で、
例えば「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」なども一楽章だけ。

たとえ有名でも緩徐楽章をじっくりやるというようなかったるいこともしません。
そして何をやっても速い。超速い。

なんでも速すぎと言われていたカラヤンもびっくりの超スピードで、
もはやそれは速さをサーカスのように見せびらかしているだけの演奏でした。

メンバーにはこの道一筋、みたいな年配の奏者もいましたが、見たところ、
各首席は固定メンバーで、後はほとんどエキストラで固めた感じ。
そのトラは一夏の契約でウィーン音楽大学から学生がバイトで来ている、
というような若い人が多く、そのせいか女性の混入率が大変高かったです。

しかし、「のだめカンタービレ」でのだめもやっていましたが、若い女性が
モーツァルトの格好をしているのはとても可愛らしいものでした。

 

ただし彼らの名誉のために言及しておくと、彼らはある意味プロ中のプロなので、
エンターテイメントとしての質の良い
音楽を景気よく提供するという姿勢は
ビシバシ伝わってきました。

トルコ行進曲をオケに編曲してやったり、男女の歌手がちょいちょい現れて
おなじみのオペラのアリアを歌ったり、素人を飽きさせない工夫満載です。

次から次へと矢継ぎ早に(本当にそうとしか言いようがなかった)演奏される
全ての曲はこの日の観光客にとっても馴染みのあるものばかりだったのではないでしょうか。

いかにモーツァルトがその短い人生で名曲を書きなぐったかということですね。

 

さて、わたしたちの座ったS席の前列の通路前の席は、
楽友協会の係員に案内されてくる特別招待客用だったのですが、

そのど真ん中の二席の客が二、三曲遅れて入って来ました。

男性は高級そうな黒スーツを着ていましたがものすごい猪首のプロレスラー体型で、
女性はモデル並みに背が高くすらっとして真っ黒黒助に日焼けしており、
側頭部の髪の毛を剃り込んだアバンギャルドなヘアースタイルに、
むき出しの肩には見事な刺青がびっしりと入っているという、どう見ても
カタギではない人々に思われました。

「どういう人たちだろうね」

「マフィアの用心棒とその情人(おんな)」

「またそんな身も蓋もないことを断言する」

特別席の客は休憩時間に特別なご招待があるらしく、案内されて
どこかに消えていましたが、帰ってきたとき、わたしの予想は
当たらずとも遠からずではないかというちょっとした出来事がありました。

帰ってきた用心棒は(決めつけてるし)なんとさっきまで自分が
どこに座っていたかわからなくなったらしく、しばらく椅子を黙視していましたが、
二つ隣の席に間違えて腰を下ろしたのです。

彼の情人も彼の間違いに全く気付かず、間違った席に腰を下ろしたので、
本来の席の人が係員に連れられて帰ってきたときに、

「あの、お客様の席は一つ向こうなんですが」

と注意されて二人で席を移動する羽目になっていました。
さっきまで自分が座っていた席を忘れるほどの知能って一体・・・。

というわけで、やっぱりマフィアの用心棒(レスラー出身)というのは
間違いないところでは、と内心勝手に決めつけてうなずいていた次第です。

 

休憩時間にトイレを利用しましたが、そこでは案の定中国人が
人の頭越しに大声で会話するといったような喧騒を繰り広げており、
日本のコンサート会場での
整然とした静かな列が本当に懐かしかったです。


そして、中国人といえば!

わたしたちの左隣は中国人の一家(小学生の女の子二人)でした。
S席前列を4席取るくらいですので富裕層に属するらしく、
全員が見るからに高価な衣服を着用し、奥方は美人でセンスもよかったのですが、
こいつらが、演奏中大人しくしてないんだよ。

女の子二人はトルコ行進曲が始まると自分が知っている曲だとはしゃぎ、
母親に話しかけて母親はそれに答えてやり、情操教育に余念がありません。

てか演奏中にしゃべるなよ。情操教育は後にしようよ。
一緒に歌ったり指揮のふりをするのもやめさせてくれ。

それでなくても、禁じられているのに入場してきたオケの写真を撮ったり、
演奏中喋ったり、お菓子の袋を開けたりという聴衆に囲まれて、
一体なんなのこの人たちは、と呆然としていたわたしたちですが、
この中国人一家には演奏中ずっとかなりイライラさせられました。

しかし、もっと驚いたことに、休憩が終わって後半が始まったら、

その一家は戻ってこなかったのです。

「戻ってこなかったし」

「多分飽きたんでしょうな」

「しかし勿体無いことをするねえ」

どんなお金の使い方をしてもそれは人の勝手ですが、いくら観光コンサートとはいえ、
S席のチケットは決して安くもないのに、散々騒いだ上、飽きたから後半はもういいや、
と帰ってしまう、こんな浪費をしてはばからない人の心は実に貧しく下品に思え、
他人事ながらなんだか情けない思いをしました。

いくらお金を落としても中国人が嫌われるのは、こういうところなんだろうな。

というわけで、ほとんど動物園を見ているような観客席模様でしたが、
エンターテイメントとしてのモーツァルトコンサートが終わりました。

「いやー、なかなか面白かったよね。いろんな意味で」

というと、MK、

「でも俺、自分がモーツァルトが好きじゃないことはよくわかった」

と身もふたもないことを・・・。

まあ、よく考えたら、わたし自身、モーツァルトはもちろん嫌いではありませんが、
そもそも好きか嫌いかなんて、
この人生で考えたことはなかったかもしれません。

何故なら、モーツァルトとは太陽や月のように「そこに在る」ものだから・・?

「死とはモーツァルトが聴けなくなること」

といったのはアインシュタインですが、そのアインシュタインだって、
モーツァルトが好きで好きでしょうがないっていう意味でいったんじゃないと思う。
知らんけど。


しかしMK、この日のモーツァルトをもってモーツァルトを語るなよ(笑)

 



 


”エンリステッド・バーシング”〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-09-23 | 軍艦

また久しぶりに空母「ミッドウェイ」の話題に戻ります。


「ミッドウェイ」博物館、ハンガーデッキから入館して右手に向かって進んでいくと、

「ミッドウェイ・ユニバーシティ」

と書かれた階下に続くハッチが開いているコーナーがあります。

これはCOXという私企業がスポンサーになっている教育センターで、
アメリカでは6月から9月までの間、ちゃんと数学、理科、社会科、歴史など、
授業をしてくれるサマースクール(小2〜中2対象)が運営されたり、
週末のお泊まりプログラムを企画したり(対象は家族やグループ)、
また、学校の先生に勉強してもらうためのセミナーも開いているようです。

こういうのを普通に軍艦でやってしまえるあたりが羨ましいですね。
まあ、日本の場合そもそも軍艦というレガシーがほとんど残っていないので、
横須賀の戦艦「三笠」の館内がセミナーなどに貸し出されるくらいですが。

レガシーといえば、「レガシーの始まり」として、「ミッドウェイ」が
爆誕した時の写真がパネルにしてありました。

このパネルを読んでちょっと驚いたのは、1945年3月20日、
進水式の際にシャンパン瓶を割る儀式を行なったバーバラ・コックス嬢は
先ほどの企業COXの創立者の娘であったということです。

コックスは現在でも、自動車、そしてメディアに進出している
アメリカのコングロマリット企業です。

彼女の右側に立っている軍人はジョージ・ゲイ海軍大尉、
1942年のミッドウェイ海戦で全滅した部隊の唯一の生還者です。

第二次世界大戦の太平洋戦線における重要な勝敗逆転のきっかけとなった
ミッドウェイの名を受け継いだこの新鋭空母は、しかしながら
デビューから一週間前にその戦争が終わってしまいました。

そこで何をいうのかと思ったら、

「コックス社はミッドウェイととも国家に対する奉仕を行い
伝説を作ってきました」

つまりコックス社の宣伝だったんかい。

しかし、よく考えたら「ミッドウェイ」、そのサービスのほとんどを
かつての宿敵日本で過ごすことになり、その艦体は「ほぼ日本製」というくらい
どっぷりと染まって、ついでにたくさんのアメリカ軍人が
日本から妻を娶って帰っていったわけですから、縁は異なものです。

さらに進んでいくと、ハンガーデッキ中央に、艦名の元となった
ミッドウェイ海戦を解説するムービーが観られるシアターが現れます。

入り口には当時の戦闘機などを配し、ついでにミッドウェイ海戦時の
帝国海軍航空隊の搭乗員の実物大人形などを飾っておりますが、
この搭乗員、日本人から見ても

「どうしてこの人なの」

と言いたくなるような微妙な風貌なのがモヤっとします。
アメリカでよく知られている坂井三郎氏のイメージかもしれません。

このシアターで終日繰り返し放映されている映画

「ボイス・オブ・ミッドウェイ」

は、ほぼ全部youtubeで閲覧することができます。

Voices From Midway, Destination Point Luck (Pt 1 of 9)

日本からの見学客が来ることも考えてか、決して「アメリカ万歳」的、
かつ敵国を貶めるようなものになっていないのが評価できます。

日本軍のあまり知られていない映像を観ることもできて、大変興味深いものです。

 

ミッドウェイ海戦に投入されたSBDドーントレスが、

「四隻の日本の空母を沈めた航空機」

として展示されています。
翼の下のパンチング穴がいまいちラグジュアリー感がありませんが、
これは、鈍足のドーントレスが精強なダイビングを行うための

「ダイブブレーキ」

だと現地では説明されていました。
この反対側にはF4Fワイルドキャットがいます。

 

さて、シアターを左に見ながら右舷側に沿って艦首に向かって進んでいきますと、
前回お話ししたカタパルトの動力を作る蒸気アキュムレーターのタンクが現れ、
続いてクルーのバンクなどがある階におりて行く階段があります。

そこにあるのが売店。
営業は年中無休で、1100から1300まで、1600から2000までと
乗員の勤務時間を考慮しているのか、実に変則的です。

にこやかに接客をしているのはトンプソンさん。

ここに売っているのは、レジスターの後ろにもあるような石鹸や髭剃り、
櫛や靴墨、咳止めドロップなどの日常トイレタリーなどはもちろん、
ちょっとしたスナックやタバコ、時計なども買えたりします。

もちろんアメリカ人には必須のチューインガムもね。

それから、昔は今と違って女性乗員はいなかったので、男性御用達の
写真多めな雑誌なら買えたそうです。

それから、ここには在庫はないようですが、テレビやステレオなどの
家電製品も買うことができたようです。
(テレビなんか買ってどこで見るんだろう)

彼の後ろには「インディアナ・ジョーンズ」の第二作目、「魔宮の伝説」
(1984年公開)のポスターが見えます。

おそらく売店はレンタルビデオ屋も兼ねていたのではないでしょうか。
当時主流だったVHSビデオが棚に並んでいますね。

ポスターも貼ってあるコメディ映画、

「裸の銃を持つ男」

の他には、

「ホットショット」「フットルース」「シャレード」「ポリスアカデミー」
「ロクサーヌ」「The Story Of Jazz」「クリスマスストーリー」
「007ダイヤモンドは永遠に」「ドクター・ノオ」「ボディ・ダブル」
「007は2度死ぬ」「ミックスドナッツ」(クリスマス映画)

「ミッドウェイ」クルーは007がお気に入り?

戦争ものは思ったよりも少なく、

「硫黄島の砂」(ジョン・ウェイン主演)

「ダウン・ペリスコープ(インザネイビー)」

「Men of the fighting lady」

くらいしか見当たりません。
ただなぜか

「パットン将軍」「グリーンベレー」

はあります。

インザネイビーはここでもお話ししたようにトンデモ映画ですが、
本職がみんなで観ながら

「こんなんねーよwww」

とか笑うのが正しい鑑賞法だったりしたんですよね。
最後の「ファイティングレディ」は、朝鮮戦争時代のF9Fの話のようです。

「ホットショット」は、優秀なパイロットだった主人公が、
父親に対する負い目と度重なる軍規違反で除隊処分となり、
とあるネイティブアメリカンので静かに暮らしていたある日、
重要な作戦の為に軍への復帰を求められるが、
集められた他のメンバーは一癖もふた癖もある連中で・・・

という話なので、一応軍隊ものです。

「アンディフィーテッド」というタイトルがあったので戦争ものか?
と思ったら、アメリカンフットボールのノンフィクションだそうです。

タイプライターは軍仕様で重そうです。
壁にはタバコのポスターが各種。

タバコが悪とされているアメリカ社会では、喫煙率が自殺率にも関係する、
という調査が出て以来、軍の中での喫煙も減らして行く傾向にありますが、
「ミッドウェイ」全盛の頃はまだそこまでではありませんでした。

それどころか当時はフライトデッキ、ハンガーベイ、そして通路以外では
どこでもタバコを吸うことができたのです。

今でも禁止というわけではないと思いますが、士官は吸わない人の方が多そうです。

何度かご紹介していますが、バンクのある兵員用寝室です。
呉の「てつのくじら館」のあきしおのベッドより気持ち大きいかなという感じ?

体の大きなアメリカ人は、よくベッドから脚が丸ごとはみ出していたそうです。

バンクとバンクの隙間には、寝台に書かれているのと同じ番号の
ロッカーがあって、そこに私物をしまっておきます。
縦型ロッカーはハンガーになっていて、服をかけておくのですが、
この薄さなので、衣装持ちさんは入りきらずに困ったそうです。

たまにロッカーにエレキギターを内蔵している文字通り
「ロッカー」もいたそうですが、ギターを入れたとしたら、おそらく
他のものは全く収納できなかったのではないでしょうか。

向こう向きに寝ている人がいました( ˘ω˘ )

「ミッドウェイ」ではこの寝室区画を

「エンリステッド・バーシング」=Enlisted Berthing

別名「棺桶ロッカー」と呼んでいました。

自衛隊でもそうですが、カーテンを引いて眠ることができます。
自衛隊では、夜中のワッチ交代の時にカーテンに頭を突っ込んで

「ワッチでーす」

という人がいるそうですが、アメリカではどうなんでしょう(笑)

艦内では一人になれる場所というのがほぼトイレの個室以外皆無なので、
カーテンを閉めて「自分だけのスペース」ができると、クルー達にとっては
大変嬉しいものだったのだそうです。

手紙を書いたりヘッドフォンで音楽を聴いたり、それからポータブルDVDプレーヤーで
映画を観たりできましたが、ただし好きな姿勢でくつろぐのは
一番上のベッドの人の特権でした。

コンパートメントは基本食事時間以外は電気が消され暗くされていました。
赤色灯だけが点いていて、誰かが必ず寝ていたからです。

各コンパートメントにはテレビが設置されていましたが、
赤色灯が付くと同時に消されました。
ということは食事時間しかテレビは観られなかったってことですね。

ベッドの下は各自の収納庫にもなっています。
愛犬を抱いた写真はこのバンクの主でしょうか。
荷物が少ない割に、靴クリームが二個もあったりしますが、日本同様
アメリカ海軍では(というより世界中の海軍が基本そうかな)身だしなみ、
靴の磨き方に異様にうるさかったりするので、減りも早いのでしょう。

また、寝室にはいざという時に持ち出す

Emargency Escape Breathing Device (EEBD)

透明のフード付きで顔を覆うようになっていて、
15分間だけ酸素が吸える火災時の脱出用コートのようなものが
オレンジの箱に入れて人数分用意されていました。

潜水艦よりはマシですが、それでもやっぱり軍艦の内部は狭い。
こんな通路で人がすれ違うことはできませんし、起床時間など
皆どのようにして混乱を解消していたのでしょうか。

何しろ「ミッドウェイ」には同じ船の中で4500人が生活していたのです。

ところで今この写真を見ていて突如気がついたのですが、この兵員用バンク、
どこを見ても上に上がるためのはしご的なものがないのです。

考えられるのは、一番下のバンクにある吊り下げ型の赤い手すりのようなものに
第一歩目をのせ、しかるのち上のベッドの縁を掴んで体を持ち上げ、
さらに真ん中のバンク縁に設置された赤いところに2ステップ目を乗せ、
一番上に体を横たえるという方法です。

だいたいベッドの割り当ては、一番下は背の低い人、上は高い人、
となっていたそうですから、脚の長さ次第では上に登るのに
結構大変、というケースを考慮したものと思われます。

もちろん一番人気のあるのは真ん中の段だったそうです。

 

わたしが大変気になったのは、靴を寝るときだけ脱ぐ彼らが、
いつどこで靴を脱いでベッドに上がったかと、脱いだ後の靴は
持ち主が寝ている間どこにあったかです。

いくらアメリカ人でもベッドに靴のまま上がったとか・・・。

そうではなかったと言ってくれ。

 

続く。

 

 


シナゴーグ襲撃事件の起こった街で考えたこと〜ピッツバーグ

2019-09-21 | アメリカ

ピッツバーグを走っていて、シナゴーグ(ユダヤ教会)の前を通り過ぎた時、
MKが、

「今の教会で銃撃事件あったんだよね」

と言い出したのでかなり驚きました。

「いつ?」

「去年の10月」

あまりにも頻繁に起こるので、またかと思ってニュースを
聞き流していたのですが、その銃撃事件はなんと、今回借りた
Airbnbのあるユダヤ人コミニュティのなかで起こっていたのです。

シナゴーグ銃乱射事件

 

家から息子がインターンシップをしている大学までの道沿いには、
いくつもシナゴーグがあって、土曜日になると、
朝から猛烈に暑い日でも
黒いスーツに白いシャツをネクタイなしで着て
頭に丸い帽子を乗っけた男性、
正装した女性、その子供たちが
家族で教会に向かう姿が見られました。

スクウェレル・ヒルの繁華街にあるスターバックスの窓には、ユダヤ人の象徴、
ダビデの星が大きくペイントされ、流石の異教徒であるわたしたちも
到着して二日目には、ここがユダヤ人街であったことに気がついた次第です。

「やっぱり同民族で集まって住むと何かと便利なのかな」

「人が先に住み着いたのか、教会があるから住み着くのか・・・」

そこでふと、わたしはふとこんなことを考えました。

「やっぱりあれかな。
ドイツ系の人なんか、こういうところには近づかなかったりするのかな」

アメリカ社会は、明文化されてはいませんが、どの地域も
かなりセグリゲート化していて、民族ごとのコロニーができているのが普通です。

サンフランシスコだと、サンセットには中国系、サードストリートには黒人、
ミッションにはゲイ(これは民族じゃないか)といったように。

しかし、今までわたしはユダヤ人街というのはニューヨークにしかないと思っていたので、
ピッツバーグでたまたま選んだ場所がそうであったことに驚きました。

この街に到着した直後から、わたしは家々の窓に掲げられている

「NO PLACE FOR HATE」

という文字が書かれたボードの存在に気が付いていました。

事件を知る前は、これもまたユダヤ教の教義に類するメッセージと思っていたわけですが、
実はこれ、デモに使われたプラカードで、昨年の銃撃事件を受けて行われた大々的なデモで、
参加者が持って歩いたものだったことがわかりました。

 

猫の後ろに写り込んでいるのがそのプラカードです。

ちなみにこの家は子供二人のいる若い夫婦が住んでいて、
父親は仕事を終えて家に帰ってくると、毎日裏庭で子供の遊具を
手作りするため大工仕事を熱心にするような良きパパでした。


このシナゴーグでの銃撃事件では11名もの人命が失われ、
戦後最大のユダヤ人憎悪事件となったわけですが、連鎖するように
つい最近の4月26日にも、
シナゴーグでユダヤ人を狙った銃撃事件が起きています。


そして、たまたまこの身近で起こっていた事件について調べていたところ、
わたしは例によって、アメリカのメディア、それを受けた日本のメディアが、

これらのユダヤ人に対する憎悪犯罪が起こったことを、なぜか
トランプ政権のせいにしている、ということに気がついたのです。


日本では朝日新聞を筆頭としたメディアがスクラムを組んで森友加計問題で大騒ぎし、
むしろ国会議員を焚きつけるようにして倒閣運動をしていましたが、

アメリカのメディアも、トランプを弾劾するためにロシアンゲート事件を焚きつけ、
結局「なんの証拠も出てこなかった」というところまで同じということがありました。


アメリカ在住の友人によると、こちらも今やトランプを表立って支持すると
袋叩きにあいかねない雰囲気がメディアによって醸成されているのだそうで、
そのメディアはとにかくファクトなど御構い無しに、

「トランプ批判に繋げられれば嘘でもなんでもいい」

とばかりになりふり構わない印象操作とレッテル貼りの報道を行います。

この事件についても、事実報道に続いて行われたのがこの手の印象操作でした。
例えばある西海岸の地方紙がこの事件についてこんな記事を書いています。

事件が起きた時、真っ先に思い浮かんだのが、
移民らを非難し憎悪を煽るようなトランプ氏の発言だ。

デモに参加したユダヤ人にインタビューして書かれた記事の冒頭です。
一人の白人が「ユダヤ人は死ね」と言いながら銃を乱射したという事件なのに、
いきなり移民排除発言のトランプを思い浮かべてしまうんですね。
日本の「アベガー」な人たちを彷彿とさせます。

どれだけトランプ好きなんだよっていう(笑)


祖父母が欧州で経験したホロコースト (ユダヤ人大量虐殺)
と同じことが、今、米国で起こりつつあると感じる。

うわ、出たよ。

日本でも先日、日韓友好を呼びかける集会で、在日三世の女性が、

「日本産まれ日本育ちで韓国語は喋れません。
なので韓国に帰れと言われても帰れません。(中略)
在日は資産を凍結されて収容所に送られる事も想像してるし、
ナチスみたいにガス室に送る事もきっとこの国はやると思ってます」

とスピーチしたということがありましたが、そっくり同じ匂いがしますね。

 

言論の自由が保障されているこの国で、在日三世が何を思いどう言おうと
それは人の自由ではありますが、それでもこの発言を聞いたとき、
むしろこれは日本に対するヘイトスピーチというものではないかと思いました。

一方、いくらホロコーストが歴史的事実だったからと言って、
今のアメリカで「ホロコーストが起こりつつある」とは、
こちらもまた、どこの並行世界にお住まいですかと聴きたくなります。

しかもトランプ氏の移民排除の政策のせいでホロコーストが起こるかもしれない、
と心配しているのは、ユダヤ人ではなく、全く第三者である新聞記者なのです。

 

さらに不可思議な記事の続きをどうぞ。

「トランプ氏は移民を侮辱し、銃保有の権利を擁護するが、
犯人は移民ではなく、誰も必要としないライフル銃を持っていた」

と憤る。

わかりにくい文章ですが、元々が稚拙なのですみません。
これはインタビューに答えた人が憤っていた、ということでしょうか。

もしこの記者が嘘をついていないのなら、インタビューされた男性は、
犯人が移民でなく、かつ銃を持っていただけで、
これがトランプのせいで起きた犯罪だ!と憤っていたことになります。


そもそも、今回の犯人の憎悪対象は「ユダヤ教徒」に絞られており、
トランプ大統領が排除しようとしている「不法移民」ではありません。

それをいうなら、移民大国であるここアメリカにおける全ての人種は
もともと何処かの国からの「移民」なんですけどね。

つまりこの筆者は、何が何でも

「この事件の犯人は、トランプの移民排除などの発言に触発されて
このような憎悪犯罪を起こした。つまりトランプが悪い」

という結論に持っていきたいあまり、間違いを故意犯的に放置しているのです。

メディアリテラシーのない層や、トランプ憎しの民主党支持者などが
やはりこの間違いを見てみないふりをして怒ってくれることを期待して。


銃撃犯のロバート・バワーズは、トランプの信奉者どころか、
SNSでトランプ発言についてあれこれと激しく非難していたということも、
メディアは「報道すれども言及なし」でスルー状態です。

都合の悪いことは報道しない自由を駆使するマスコミ、何やら日本と似ています。


報道はさらにこのように続きます。

ユダヤ系の人権団体によると、トランプ政権1年目の昨年、
ユダヤ人に対する嫌がらせなどは前年比で6割近くも増えた。

随分はっきりと言い切っていますが、これだけ断言するからには
その相関関係についてもう少しファクトに基づいた考察が欲しいところです。

それでは、ここピッツバーグでも、トランプ政権発足後、
ユダヤ人に対する嫌がらせとやらは増えたということなのでしょうか。

それが、次を読んでびっくりですよ。

だが、住民によると、多くのユダヤ人が暮らすピッツバーグでは
宗教が異なる人々が共存し、これまで目立ったヘイトクライムは
起きていなかったという。

前文と全く論旨が繋がっていません。

トランプの発言が民族ヘイトクライムを誘発したという事実はなく、
ただ一人の反ユダヤ主義の男が個人的な嫌悪犯罪を起こした、
というのがこの事件の実相だと報道自体が証明しているのです。

なのにどうして一人の反ユダヤ主義の男の犯罪責任を大統領に押し付けるのか。


そして案の定、このピッツバーグのユダヤ人社会にも反トランプ派がいて、
どうしてもトランプの一連の発言が
この事件を引き起こしたことにしたいらしく、
弔問に訪れたトランプに抗議するため、大挙して押し寄せました。

それを朝日新聞が嬉々としてこのように報じています。


事件を受け、トランプ大統領は30日、メラニア夫人や
ユダヤ教徒の長女イバンカ氏と夫のクシュナー氏を伴い、
現場の礼拝所を訪れ、犠牲者を追悼した。

一方で礼拝所の周辺では、数千人の住民らが訪問に抗議した。

集まった人たちは、口々にトランプ氏の排外主義的な言動が事件を誘発した、
などと批判。

「あなたには事件の責任がある」

「大統領、白人ナショナリズムを非難せよ」
「我々は壁ではなく、橋をつくる」

といったプラカードを掲げた。
11月6日の中間選挙に向けて「投票しよう」という声も上がった。

礼拝所近くに住むユダヤ教徒の元技術者ボブ・ウィーナーさん(78)は

「米国民を引き裂こうとする人たちに結束を見せるために来た」
という。
トランプ氏の訪問は

「政治的で、彼のうぬぼれを増幅させるものだ」

とし、

「中間選挙は自分たちを守るために極めて重要だ」

と語った。

 

トランプ大統領はこの事件を受けて、すぐに犯人に対する非難声明を出し、
さらには「死刑の法律を強化」すべきだと述べ、

「こういう連中は究極の代償を払うべきだ。
こういうのはもう終わりにしなくては」

と強調したというのですが、それでもこの人たちは大統領に対し、
弔問に訪れたことを含めて憤らずにはいられないようです。


ところで気がついておられましたか?

トランプ氏の娘婿って、ユダヤ教徒なんですよね。

トランプ氏を非難するユダヤ人たちは、そのこととユダヤ人排斥との間に
どういう整合性を見出すのでしょうか。

 


今回アメリカに住んでいる友人と話したところ、メディア、特にCBSなどは
それこそ反トランプの運動体のようになっているそうで、そのためには
日本とこれも同じく、トランプのすることなすこと否定し、
ストローマン理論や報道しない自由など、ありとあらゆる方法を駆使して
とにかくトランプを非難することしかしていないということでした。

「他の国の報道写真なんか見ると、トランプの写真がまともで驚く。
アメリカのメディアはわざとだろうってくらい写りの悪い写真しか使わないから」

「そこまでするんだ」

「いじりやすいというか、悪口が言いやすいからだと思う」

「是々非々ってのはないの」

「誰もやれなかった対中国に対する経済戦争については、
内心喝采しているアメリカ人も多いと思うけどね」

「あー、チャイナマネーが入っているメディアほどトランプを叩くんだ。
で、誰も表立ってトランプがいいと言わないけど、大統領になった・・。
多分次の大統領もトランプになるんじゃないの」

「そうなんじゃないかな。
表面上見ていると一体だれが支持しているのかわからないのにね」


奇しくも日米で全く同じような、国民が選んだ指導者に対するメディアの
「打倒運動」が起こり、反政府活動が
もはや現象のようになっているというわけです。

日本でも現政府への支持率は50パーセント位を維持しているようですが、
この現象とメディアの論調との乖離は一体何を意味するのでしょうか。

 

ところで冒頭画像は、モールの中の「As Seen On TV」という、
テレビの深夜番組で紹介していたおもしろ&便利グッズの店で撮ったものです。

テラコッタの像に水をかけていたら、髪の毛(何かの芽)が生えてくるのです。
サンダースはともかく、トランプこんな髪型してねーし、と思いながら
ここで紹介するためにこっそり写真を撮っていると、
お店の人が話しかけてきたので、何か言わなければいけない気がして、

「こういうの買う人ってどんな人なんでしょうね?
好きだから買うのかアンチだから買うのか」

というと、お店の人(多分中国系)は

「わたしは嫌いな人にお勧めしています。
生えてきたら思いっきりむしってやってくださいと言って」

あまり英語が上手でない彼はおそらく移民一世なのだと思いますが、
案の定、その最後に

「わたしは嫌いなんですけどね、トランプ」

と付け加えるのを忘れませんでした(笑)




 


アスぺルンのライオン〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

「ナポレオニックウォー」と英語で訳されるところの、
ウィーン軍事史博物館の展示物をご紹介しています。

 

◼️フランス革命軍航空部隊の航空兵器

フランス革命後、ナポレオンがヨーロッパの覇権獲得のために起こした
一連の戦争を「ナポレオン戦争」といいますが、この博物館には
そのときに用いられた武器なども展示されています。

銃や火砲などはもちろんですが、特に目を引くのがこの気球です。

ところで皆さん、世界で初めて航空部隊を所有したのはどの国で
それはいつのことだったと思われますか?

それは人民革命時のフランスで、発明されたばかりの気球を使う
「compagnie d'aérostiers」(カンパーニュ・ダエロスティー)
という偵察を目的とした航空部隊を所有していたのです。

新しい発明があると、軍事利用によって技術は昇華され、発展していく、
というのは世の常ですが、フランスもまたこの新機軸の気球を自在に操縦し、
意のままに動かして軍利用することを考えました。

そして企画者は、ジャン・マリー・ジョセフ・クーテルという化学者を
プロジェクトのために軍に派遣しますが、軍司令官

ジャン=バティスト・ジュールダン

は、

「オーストリア軍の攻撃が差し迫っている時に
必要なのは気球ではなく大隊である」

これを嘲笑し、導入を拒否しました。

しかしその後、関係者の熱意によって、実験はそれなりの成果を出したため、
1794年、ついにフランスは航空部隊を創設する法律を作るまでにこぎつけ、
化学者クーテルとその助手は、自動的に陸軍将校になりました。

ここでウィーン軍事史博物館所蔵の気球を改めて見てみましょう。

よくまあこんなものが空を飛ぶことができたなという重々しさに満ちているのですが、
これでも一応空に浮かんだのは、炉で発生させた水素を浮力にしたからです。

開発責任者が科学者でなく化学者だったのは、つまりそういうことだったんですね。

さて、というわけでフランス航空隊の航空兵器、気球は完成しました。
いよいよ実戦投入です。

1794年5月、フランスの航空部隊は、かつて気球のプロジェクトを嘲笑した
あのジュールダン司令の部隊に気球とともに合流しました。

現場で水素を発生させる炉を建設し、敵の砲撃の偵察に投入するのです。

ただし合流するまでがもう大変。
気球は20人ばかりの兵士に引かれて50kmほどを陸上移動し、運ばれました。
その様子が絵に残されています。

気球移動中。

左下の横顔のおじさんが、開発者の化学者クーテルさんですね。
今や肩書きは「コマンダン」となっているのにさりげなく注意。

これ、もしかしてというかもしかしなくても、50キロという距離を
こんな感じで運んでいったってことですよね。

しかも、運んでる人、皆走ってませんか?
いつの時代も兵隊は辛いものだのう。

50キロ歩こうと思ったら、平均時速5km/でも10時間。
きっと朝早く出発して着いたのは深夜だったんだろうと思います。

現地に着くと、気球は三日間にわたって上空から敵地を観察しました。

四日目に戦闘が始まると、クーテルと助手は気球に乗って敵地の偵察を行い、
それをメモして地上に落とし、連絡を行いました。

気球の偵察は9時間にわたって続けられたということです。

気球戦闘参加中。

気球は無事に上がり、偵察も首尾よく行うことができて、デビュー成功、
そしてこのフリュリュスの戦いにフランス軍は勝利しました。

しかし、

その勝利が気球のおかげだったかどうかは、微妙なところでした。
具体的に偵察報告がどう戦果に寄与したかどうかの記録がないので、ここは
現場の意見を聞いてみましょう。

ルイ・ベルナール・ギトン(化学者)

「 大変効果はあったと思います。
でも、私ならもっといい気球が作れます」

ジャン・バティスト・ジュールダン(司令官)

「あんなものなくても我が軍は勝てた。
大した効果はなかったし、偵察で役に立った情報もそんなになかった。
最初から私は胡散臭いと思っていたんだ」

ちなみに、ギトンは戦闘が終わってから円筒形の気球Martialを製作し、
航空部隊に与えたが、不安定で使えなかったというオチつきです。

 

航空部隊は、その後本隊とともにベルギーに転戦しましたが、
運用の労力の割に大した活躍はできなかったといわれています。

しかし、航空隊関係者は地道に航空隊の拡張を続け、
補充兵を訓練する学校も組織されるなど、地道に努力を続けました。

 

ところで、ここまでお読みになって、どうしてフランス航空部隊の気球が
ここウィーンにあるのだろう、と思われませんか?

 

1796年9月に行われたヴュルツブルクの戦いで、フランス軍は
オーストリア軍に敗北したのですが、その際、一緒にいた航空部隊も
捕虜になってしまたので、自動的に気球も鹵獲されてしまったのです。

というわけで、この気球mL'Intrépideは、それ以来
ウィーンの軍事史博物館で大事に保存され展示されています。

会場の気球模型の横には、綺麗な状態の気球が畳んで展示されています。

航空隊はその後、1798年にナポレオンのエジプト遠征に参加しましたが、
気球の設備を積んだ輸送船がナイルの戦いで沈んでしまったので、
航空部隊は何かはわかりませんが、別の仕事をしていたということです。

この件で、運用が大変な割に役に立たないという評価が固まったせいか、よく年
気球部隊の解散をさせる法律が作られ、エジプト残存部隊が帰国した3年後、
気球を使った航空偵察部隊は解散することになりました。

 

◼️カストラム・ドロリス

あまりにも展示物が多く、その全てを写真に撮るわけにいかないので、
なんとなく目についたものだけをご紹介しています。

このランプのような髑髏をあしらったものは、説明によると

「カストラム・ドロリス」

という葬祭用の装飾のようなもので、元々は霊廟のように
中央に遺体を安置するものから始まったということです。

「1814年と1815年、ライプチッヒとドレスデンで戦って死んだ者のために」

とあり、ナポレオン軍を迎え撃ったライプチヒの戦いの戦死者を
顕彰して制作されたことがわかります。

 

◼️ナポレオン二世

この右側の絵は流石にナポレオンで間違いないとおもっていましたが、
ドイツ語でも「ナポレオンと息子」と書いてあったので安心?しました。

ナポレオンはウィーンにとって敵、前回そのように書いたわけですが、
平沼首相の言うように欧州情勢の複雑怪奇なところで、ナポレオンの息子は
ハプスブルグ家の血を引いており、敵の息子でありながらオーストリアの皇子。

ナポレオンそのものの彫像や絵画はありませんが、ナポレオン2世のだけは
このように展示があるというわけです。

 

ところで単純な疑問ですが、ナポレオンはなぜ、マリア・テレジアのひ孫にあたる
オーストリアの皇女と結婚したのでしょうか。

その理由は単純で、まず古女房のジョゼフィーヌに子供が生まれなかったこと。
そして、ハプスブルグ家と血縁になって血統に箔をつけたかったからでした。

もちろんハプスブルグ家の方はナポレオンを毛嫌いしていたはずですが、
戦争で勝った勢いでメッテルニヒを味方につけ、彼を仲介にして
ナポレオンはマリー・ルイーズを差し出せと迫ったため、彼女は
泣く泣くかつての敵の嫁になってフランス皇后の座に着いたのでした。

ところが、男女の仲というのはわからないもので、結婚してみれば
この二人、相性が良かったのか、愛し合うようになり、
大変仲の良い夫婦に(いっときとはいえ)なったというのです。

そんな二人に生まれたのが、このナポレオン二世、フランソワでした。

ただし、マリー・ルイーズ、ちゃっかりしているというのか、ナポレオンが
落ち目になってエルバ島に流されてしまうと、あっさり彼を忘れ、ついでに
その息子のフランソワにも、全く関心がなくなってしまいました。

パルマ公国の統治者として再婚し、子供まで作った彼女は、実の息子フランソワが
21歳で結核に罹って死んだときも、周りが頼むまで顔を見にもきませんでした。

一般的にこと終わった恋愛に関しては女性の方が切り替えが早いといいますが、
自分が産んだ子供にも関心がなくなるものかねえ、という気がします。


フランソワ・ボナパルトが亡くなったのは、シェーンブルン宮殿の一室で、
亡骸はウィーンにあるハプスブルグ家の霊廟であるカプツィーナー寺院に
納められていたのですが、1940年になって、ナポレオンに心酔していたヒトラーが、
ゲシュタポを寺院に送り込んでかなり強引に、フランソワの遺体を強奪していきました。

ナポレオンの遺体が亡くなったセントヘレナ島からパリに返還されて
ちょうど100年経ったので、親子を一緒に葬ってやろう、という
ヒトラーの「好意」から出たことで、フランソワはその後も
父の傍らで永遠の眠りについています。

カプツィーナー寺院公式サイト

ちなみに、ウィーンのカプツィーナー寺院は観光名所にもなっています。
今回行けなくて少し残念だったのですが、ほぼなんの知識もなく見るより、
今回ハプスブルグ家についてある程度調べて知識を得てから
見学した方が、ずっと意味があると思うことにしました。

このホールには、シュバーロフのコートと言われる展示があります。

パヴェル・アンドレイエヴィッチ・ シュバロフ
はロシアの外交官です。


絶頂期を極めたナポレオンがマドリードで初めての敗戦をしたのを見て、
オーストリアは巻き返しを図り、抵抗を強めていく一方、
ロシアが封鎖令を破ってイギリスと貿易を始めたので、
ナポレオンは怒ってあのロシア侵攻を決行します。

ロシア軍の司令官は隻眼の老将・ミハイル・クトゥーゾフ
老獪な彼は、いまナポレオンと直接戦えば確実に負けると判断したため、
広大な国土ひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧を
すべて焼き払う焦土戦術を取って、フランス軍を疲弊させ、敗退に追い込みます。

それを見たパリではクーデターが起こり、各国はここぞと反ナポレオンに動きました、

ライプツィヒの戦いではナポレオン軍は同盟軍に包囲されて大敗し、
フランスへ逃げ帰ったのです。

しかし、同盟軍がフランス国境を取り囲む大包囲網を築き上げ、
1814年ついにパリ陥落。

ナポレオンは将軍連に反乱を起こされて、結局エルバ島に追放になりました。
このとき、フォンテーヌブローからエルバ島までナポレオンを護衛したのが
このシュバロフ将軍でした。

シュバロフは、ナポレオンが人目につかないようにロシア軍の将校のコートを
彼に着せて、移送を行なったのですが、そのコートがここに展示されています。

 写真を撮り忘れましたが、ここにはウィーン郊外の
アスペルンという街にあるライオン像のオリジナルがあります。

"Löwe von Aspern" (アスペルンのライオン)

と呼ばれているこの像は、ご覧のように横たわるライオンがモチーフなのですが、
このライオンの表情をアップで見てください・

このライオン像は、1809年の5月20日、21日にここで繰り広げられた
"アスペルンの戦い"で亡くなった戦士たちを
追悼するために建造されました。

フェルナン・コルモン005.jpg

破竹のナポレオン軍をオーストリア軍が初めて破った戦いであり、
ナポレオンにとってもフランス皇帝の座に就いて最初の敗北でもあります。
この戦争の指揮を執っていたのが、先日お話ししたあのカール大公でした。

この戦いの戦死者は、たった二日間で4200人という激しいものでした。
負けたフランス軍の死者は5631人に上ります。

このライオン像は、戦争から40年ほど経ってから、カール大公の息子、
アルブレヒト大公が父のために制作を行ったものです。 

このライオンは、一説によるともう生きておらず、戦いに斃れた
亡骸となってなお、このような苦悶の表情を浮かべているのだそうです。


  

続く。

 

 

 

 


カール大公とその息子たち〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-18 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウィーン軍事史博物館の展示、ハプスブルグ家の次のホールは

「NAPOLEONIC WAR」

と名付けられています。
この「ナポレオニック」という英語はもちろん「ナポレオンの」
という意味であり、ナポレオン戦争を意味するのですが、同時に

「ナポレオン1世のような野心満々の」

という形容詞にもなっています。

というわけでこのホールに現れた堂々の巨大な像、わたしはてっきり
帽子の形から、ナポレオンだと思い込んで写真を撮りました。

しかし、帰ってきてからあらためて写真を見て、
これナポレオンに全く似てなくね?と思ったわけです。

そこで今更のようにハッと気がついたのですが、ここはオーストリア。
ナポレオンはオーストリアにとって英雄ではなく「敵」でした><

 

「ナポレオン戦争」(1796-1815)とは、ナポレオンによって起こされ、
展開された一連の戦争をいいます。

革命後のフランスは混乱に乗じてイギリスとオーストリアが干渉してきたので、
総裁政府はこれを迎え討ち各地で戦争が始まりました。

この段階ではフランスの戦争は防衛戦争であったことは間違いありません。

ナポレオンはこの戦争に最初から加わり、指揮官として頭角を現していきます。
この戦争の一環、イタリア遠征で真っ先に彼が叩いたのがオーストリアでした。

その後、ナポレオンがフランスで最高権力者となり、戦争による領土拡大に
野心を燃やすことで、次第に侵略戦争の様相を呈してきたのは歴史の語る通り。

つまりナポレオン1世はフランスにとっては英雄ですが、オーストリアにとっては
侵略者であり憎き敵側だったわけです。
当然こんなどでかいナポレオン像を大事に飾っているわけありませんよね。

それではこの像は誰のものなのでしょうか。

そこで同博物館所蔵のこの絵をご覧ください。
描かれた人物、ブロンズ像にそっくりじゃありませんか?

彼の名は、ナポレオン戦争時に活躍したオーストリアの軍人であり皇族、

カール・フォン・エステンライヒ= テシェン(1771-1847)

カール大公

として有名な軍人です。
(説明はありませんでしたが、状況証拠からこの人だということにします)

 

カール大公は早いうちから軍事に興味を示し、軍人の道を選びました。
そして20歳でフランスとの戦いに従軍し際立った働きを見せました。

25歳で神聖ローマ帝国陸軍元帥となり、ライン方面軍司令官として
フランス軍相手にドイツでは連戦連勝の戦果をあげます。

一方、イタリアではナポレオンのフランス軍が連戦連勝でした。

これを食い止めるためにカール大公の部隊が派遣されると、ナポレオンは
こう述べたといわれています。

「これまで私は指揮官のいない軍隊と戦ってきたが、
これからは軍隊のいない指揮官と戦わねばならない」

そう、ナポレオンにもこれだけ実力を認められていたカール大公こそは、
ナポレオンの同世代における最大の敵であり、そしてライバルでもあったんですね。

1800年から9年間、二人は敵国同士で対峙し、お互いの国を相手に
勝ったり負けたりしたわけですが、ガチンコの直接対決は1809年。
結果は初戦こそカール大帝の勝利でしたが、最終的にはナポレオン軍が
ワグラムの戦いで勝利をおさめ、シェーンブルンの和約によって終戦に至ります。

このナポレオン戦争の期間、カール大公はその働きに付随して

 

神聖ローマ帝国宮廷顧問会議の軍事首席拝命

帝国会議が「ドイツの救世主」の称号を授けようとしたが辞退

1805年

全オーストリア軍総帥ならびに陸軍大臣を拝命

1808年

スペインと西インドの王座に招請されるが、辞退

軍人として最高の栄誉とされる地位に上り詰めましたが、
赤字で示したように、単に肩書きが立派になるとか、王位に就くとか、
そういったことは軍人としての美学が許さなかったのか、
きっぱり断っているあたりが実に男前です。
 

しかしカール大公は、宿敵ナポレオンとの戦いで敗北したのみならず
撤退する際負傷したことを武人として自分で許せなかったのでしょう。

軍隊の指揮とすべての役職を辞してウィーンに帰還してしまいました。

 

確かに歴史的知名度はナポレオンに霞んでしまった感はあるものの、
指揮官としては多少運に恵まれなかったとはいえ超優秀で、
軍事思想家としてもその著書は高く評価されています。

ちなみに、軍事を語る人が必ず一度は口にするあのクラウゼヴィッツ、
(中にはクラウゼヴィッツ言いたいだけ違うんかいという使い方をする例も)
彼と同時代並び称される軍事思想家でもありました。

その軍事思想は、

「古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在」wiki

アメリカのアルフレッド・マハンの海軍戦略思想は、むしろ
クラウゼヴィッツよりカール大公の影響を受けているといわれます。

ナポレオンから野心と功名心を取ったらカール大帝になる、というのは
わたしの個人的な感想ですが、そう外れていないと思います。

 

ところでこの騎馬姿のカール大公の絵の構図、どこかで見覚えがありませんか?

言わずと知れた、このナポレオンの肖像に似ていません?

もちろんこちらを描いたのはあのダヴィッドですし、ドラマチックさで
圧倒的に(本人と同じく)こちらの方が有名なのですが、実はこの構図、
カール大公の騎馬像に影響を受けたといわれているそうです。

「カール大公のアレをもう少しカッコよくアレンジしてくれないか」

とナポレオンがダヴィッドに頼んだかどうかは定かではありません。

このホールにあった特大の肖像画、もちろんこれもナポレオンではなく、
カール大公とその家族の肖像でした。(後で知りました)

所得wikiにもこれが「カール大公とその家族」としか書かれていないのですが、
注意深く見てみると、この絵には彼の妻はいません。

最初、カール大公が肩に手をかけている女性を妻だと思い込んで、

「おお、さすがは高名な将軍、若い美人の奥さんをもらったんだな」

しかしそれにしても子供が大きい割に奥さんが若すぎます。
そこでさらに探してみると、奥さんらしいのが後ろの彫像となって
ちゃんと家族の肖像に参加しているではありませんか。

 

そこで調べてみたところ、妻ヘンリエッテは、末の男の子(左端)を生んで
2年後に亡くなっていたことがわかりました。

この肖像画はもしかしたら、ヘンリエッテが亡くなったあと、彼女を偲ぶ
彫像が完成したので、その記念に描かせたものなのではないでしょうか。

そう思ってあらためてみると、カール大帝の表情には心なしか憂いが見られ、
周りの子供たちは失意の父をいたわるように彼を見つめています。(末っ子除く)

というわけで、ここからはカール大帝の子供たちについてお話ししていきましょう。

美形の長女、

マリア・テレジア(1816年 - 1867年) - シチリア王フェルディナンド2世妃

は、母が亡くなってから、5人の兄弟の母親がわりになって面倒を見ました。

黒コートの少年、
アルブレヒト(1817年 - 1895年) - テシェン(チェシン)公

Albrecht Austria Teschen 1817 1895 marshal.jpg

のちにオーストリアおよびドイツ帝国の陸軍元帥になりました。

画面右端でひざまづいている、

カール・フェルディナント(1818年 - 1874年)

Albrecht&Karl Ferdinand Austria.jpg左は兄アルブレヒト

も、兄と同じく軍人に。
ちなみに息子のフリードリヒは第一次世界大戦時の陸軍最高司令官です。

そして、皆様、お待たせいたしました。

本日冒頭画像のイケメンはだれ?とお思いになった方、

この少年、カール大公の三男である

フリードリヒ・フェルディナンド・レオポルド(1821年 - 1847年)

の海軍士官姿なのです。

彼の父カール大公は、オーストリア陸軍の最高指揮官の大権をもってして、
帝国軍の再組織と予備軍ならびに国民軍の強化に取り組みました。

つまり、オーストリア帝国陸軍の基礎を作ったといってもいいかもしれません。

そしてこの若者は、オーストリア海軍軍人になりました。
二人の兄が陸軍に行ったので、ちょっと違う道を選んでみたのかもしれません。


16歳で海軍に入り、すぐに指揮官となって、19歳の時には
ムハンマド・アリ・パシャの「エジプト-トルコ戦争」における
イギリス軍共同作戦に参加し、その指揮ぶりは際立っており、
その功績に対しマリアテレジア勲章を授けられました。

この画像の制服にはたくさん勲章が下がっていますが、
マリアテレジア勲章は右上から二番目に見えます。

月並みですが、蛙の子は蛙ということなんでしょうか。

関連画像

男前なのでついサービスで次から次へと画像を上げてしまいたくなります(笑)

この、短いメスジャケットに白いズボン、というのは
のちの世界の海軍の制服にも見られるパターンですね。

この凛々しい海軍士官姿を、父カール大公は目を細めて見たのではないでしょうか。

1844年には、フリードリヒ、

23歳で海軍最高司令官・海軍中将に

昇進します。
カール大公の息子だからということももちろんあったでしょうが、
本人が優れていないとこの年齢でこの地位はまずありえないでしょう。

オーストリアには18世紀の終わりまで、正式の海軍はなかったのですが、
彼は最高司令官になるや数多くの改革と、当時のヴェネツィア志向だった
オーストリア海軍を変革し、その基礎を築きました。

これなど、父がかつて陸軍で行ったことそのままです。

1845年、24歳の彼はマルタ主権勲章を授けられました。

しかしながら、ここまで彗星のように人生を駆け抜けた彼は、
わずか26歳で結婚もしないまま
病死してしまう運命にありました。

若くしてこれだけの才覚があり、地位もあり生まれも良く、
ついでに美青年のフリードリッヒ、もし長生きしていたら、
父のような軍事指導者になったことは間違いなく、
その後のオーストリア海軍の形は
変わっていたかもしれません。

死因は黄疸だったということですが、黄疸は徴候の一つなので、
すい臓がんとか劇症肝炎とかいう病気だったのでしょうか。

何れにしても惜しい若者を失くしたものです。


さて、絵に戻りましょう。
この肖像画には描かれていない子供もいます。

ルドルフ

1822年に生まれ、夭折しました。

マリア・カロリーネ(1825年 - 1915年)

彼女はわずか4歳で母を亡くしました。
彼女はのちにいとこのレイナー大公と結婚しますが、二人の間には
子供が生まれなかったこともあって慈善事業など社会活動に一生を費やし、
国民からは夫妻ともに大変人気があったということです。

レイナー大公夫妻

最後にこの末っ子君です。

ヴィルヘルム・フランツ・カール(1827年 - 1894年)

彼は父と長兄二人に同じく、陸軍軍人になりました。
そして、このウィーン軍事史博物館の熱心な後援者でもありました。

当博物館は1856年からアーセナルの建物として存在し、
1869年に初めて一般公開されましたが、1880年代には、
皇室コレクションの再分類に博物館は混乱します。

その後博物館の新しい内容を担当する委員会が構成され、
彼はその副議長として尽力しました。

ヴィルヘルムは皇帝を始め、彼の家族、貴族、ブルジョアジー、
そして戦争省の支援をバックに博物館のためのコレクションを行い、
その熱心さのおかげで、蒐集物がたくさん集められました。

1891年、新しく陸軍博物館が開設されましたが、これは、
彼の仕事なしでは不可能だったと言われています。
つまり、当博物館の生みの親といっても過言ではない人物だったのです。

つくづくカール大帝の一族超有能。

続く。

 

 


No Wi-fi, No Life〜ピッツバーグ雑感

2019-09-17 | アメリカ

今回ピッツバーグで滞在したのは民泊であるAirbnbだったので、
到着してしばらくは生活を快適にするためにどうしてもいろんなものを
買い集めなくてはなりませんでした。

一番困ったのが、wi-fiがない家だったことです。

契約するとき、まさか今時wi-fiの設備が全くない宿泊所があるとは思わず、
ことさらチェックしなかったのですが、到着してすぐ、それに気づきました。

早速オーナーの「おばあちゃん」に連絡を取ったところ、

「Airbnbにはwi-fiはないって書いておいたんだけど・・・・」

何事につけてもインターネットで調べることが当たり前になっているため、
例えばそのwi-fiを調達するのにもwi-fiが必要だということに気づき、
わたしたち家族は初日にして呆然としてしまいました。

No wifi, no life とはよく言ったものです。

初日の仕事は、とにかくインターネットを繋がる状態にすることでした。
幸いアメリカというところは、スーパーマーケットやカフェ、デパートやモールに至るまで
サービスでインターネットが使えるので、そこでどうするか作戦を練り、
いくつか携帯会社のショップを回ってみましたが、わたしたちのニーズに
ぴったり合うようなものはどこに行ってもありません。

 

試行錯誤の末、最終的にBestbuyというこちらの大型殿下ショップで
モバイルwi-fiを購入し、オンラインで契約することで問題解決しました。

ただ、問題があって、かつては取り扱っていた無制限プランがなくなり、
ギガ数が少ないので、三人で使っていると気が狂うほど遅く、
画像をアップロードするのに異様に時間がかかるくらいなので、
動画は当然観られません。

今はTOも日本に戻り、MKは学校が始まったので、わたし一人で
持ち歩き用に使っていますが、おかげでレンタカーのナビゲーションは
自分のiPhoneで行えるため、大変便利です。

最初にwi-fi問題を解決し、ようやく街に買い物に出ることができました。

ピッツバーグ市内を走っていて見つけた古いビルには、ここがかつて
「ベル テレフォン」出会ったことを表す表示がありました。

現在のAT&Tがベル電話会社を買収したのは1899年の12月だったので、
このビルはベル社が発足した1877年から22年間の間に建てられたことになります。

wi-fiを調達したBestbuyで最初に買った、ダイソンの空気清浄機付き送風機。
到着したときにあまりのピッツバーグの暑さに、暗澹たる思いをしていたのと、
Airbnbの部屋が古いので、少しでも空気を良くしようと買ってしまいました。

1ヶ月の間、三つの寝室を転々としてフル活動してくれましたが、
ピッツバーグ滞在が終わったときに日本に送りました。

アメリカという国は、アラスカでもハワイでも、巨大チェーンが展開していて、
初めて行った場所で例えば電化製品を買おうと思ったらベストバイ、
ベッドやキッチン周りのものは「バスビヨ」こと「Bed bath & beyond 」、
それらを合わせて、洋服、家具、食料品全てが揃うのはターゲット、と
困らないようになっています。

ターゲットはダーツの的のような赤い二重丸がシンボルで、
最近特にどこにでも新しく出店している勢いのあるスーパーです。

今回もサンフランシスコで新しく出店したターゲットを二店舗目撃しました。

ピッツバーグのこのターゲットは、特に新しくて他の店舗より敷地が広く、
マスコットの「スポット」くんこと「ブルズアイ」の人形が飾ってあります。

いわゆるインスタ用というか、並んで写真を撮ってください的な、
これが本当のスポットなのですが、お行儀の悪いアメリカ人は、
持ち歩いていた商品をぽいっと置いて行ったりする場所にしてしまっています。

可愛いので本物の写真を貼っておきます。
ペイントに使われている塗料は無毒であると説明されています。

アメリカのお店はどこでも「ナウハイヤリング」として、
常に従業員を募集していて、ターゲットも例外ではありませんが、
ここは従業員を「チームメンバー」と称しているようです。

ディズニーリゾートの「キャスト」みたいなものでしょうか。

ターゲットは独自ブランドの洋服も出しており、大抵は素材もペラペラで
冬物などほとんど安っぽすぎる傾向があるのですが、夏物、
特にデニムやシンプルなワンピースなどは掘り出し物が見つかります。

最近ターゲットではデブ、じゃなくて「ウーマンサイズ」
(日本でいうところのクィーンサイズ)の方々にも心置きなく、
堂々と買い物していただこうということか、ご覧のように
マネキンにウーマンサイズボディを登場させました。

マネキンだからちょっと違和感がありますが、実はアメリカ人の半数が
こういう体型だったりするので、実にプラクティカルというか商売上手。

アメリカではSサイズはむしろ少数派です。

「バスビヨ」に行ったときに見つけた変な商品。
良く見たわけではないので仕組みはわからないのですが、
マッサージ機能のある軽石付き機のようです。

足くらい自分で洗えよ、と思ったのですが、これも良く見ると
「フレッシュフィート」というこの商品のすぐ下に、

「足を洗うのに体を曲げたりストレスを感じなくて済みます」

つまりこれもアメリカならではで、体を曲げることさえできないくらい
太っている人のためのものなんじゃないでしょうか。

去年か一昨年、「 Emoji Movie」という、全く面白くなさそうな映画が
アメリカで上映されていましたが、その後すっかり市民権を得た
「Emoji」の・・・わからないので調べてみたら、Bluetoothスピーカーだそうです。

しかも商品名「jamoji」って何なんだよ。ジャパニーズの絵文字か?

ちなみにこの邪文字、いちいち名前がついていて、
左から「トラブル」「LOL」「JUST KIDDING」「KISS」
そして「チョコレートスウィール」なんだそうな。

チョコレートスウィールがプランジャーとなって登場。
プランジャーというのは、トイレが詰まったときに使う、日本では
ラバーカップと呼ばれているあの道具です。

商品名「Poo plunger」・・・・あのさあ・・。

アメリカには、地域に必ず一つはモールがあります。
露天型と室内型があり、全天候型のモールは人気があり、アメリカ人は
休みになると何となくモールに行ってわけもなくぶらつく習慣があるようですが、
必ず一つのモールに最低でもデパートが二軒、大型専門店なども入っていて、
レストランの他にご覧のようなフードコートを備えています。

このモールにはルイヴィトンとかTUMI、Apple、そしてテスラのショールームと
アメリカ人の考えるところの「この辺りでもっともグレードの高いモール」。

でもフードコートはしょせんアメリカ、謎のジャパニーズフードとか
ファイブガイズなんていうどうでもいい食べ物屋が基本だったりします。

「それにしてもこのジャパニーズ、サークって何?」

「まさかとは思うけどSakuraが何かの間違いでこうなったとか」

「まさかー」

まあ、経営にも日本人は全く関わっていないことは確かです。

ファイブガイズといえば、先日、どこかのファイブガイズで、
二人連れと三人連れ、合計5名のファイブガイズが大げんかになり、
警察沙汰になったということが話題になっていたそうです。(アメリカ限定)

心の汚れたわたしはその話をMKから聞いて即座に

「それヤラセだと思う。
ファイブガイズがファイブガイズで喧嘩。
実際話題になったしすごい宣伝効果だよね」

と決め付けました。

「でもその五人、実際に警察に捕まったんだよ?
ヤラセでそこまでする人がいるかなあ?」

確かに、それがバレたときのリスクを冒してまでファイブガイズが
宣伝のためにそこまでするかというと大いに疑問ですが。

日本でのタピオカブームは終息したんでしょうか。
タピオカランドなるものができて黒い丸いバッジを売っている、と
聞いたとき、わたしはブームの終わりを確信したのですが。

ここアメリカでは、日本にも出店しているらしいチャタイムがあって、
それなりに流行っていますが、何時間もの列ができることはありません。

ここには滞在中なんどか行ってしまいましたが、必ず注文するのは
ほうじ茶(ローストティ)の砂糖なし、タピオカ入りミルクティでした。

昨日スタンフォードに行って友人とランチを食べたのですが、
同じモールに人がえらく集まっている一角があるので何かと思ったら
boba(タピオカ)の店で、ここは結構行列ができていました。

アメリカの友人によると、ブームはアメリカの方が早かったということです。

日本式ラーメンもアメリカで今人気です。
ここサンフランシスコにも雨後の筍のようにラーメン屋ができていますが、
そのほとんどは中国人がやっているのではとわたしは踏んでいます。

ピッツバーグのダウンタウンで見つけたラーメン屋の店構えに
ちょっと期待してしまい、よせばいいのに入ってしまいました。

『トンコツ』なんてのも今や日本語で通じる時代、トンコツラーメンを頼んだら
出てきたのがこれ。
チャーシューにナルト、メンマ、もやしにゆで卵とまともでしょ?

しかし、一口食べてわたしはおごそかに宣言しました。

「これは・・・・ラーメンではない。中華そばだ

日本式ラーメンのつるっとした感じが皆無な、粉っぽい感じ、
舌越しがモゴモゴするような麺で、全く美味しくありません。

気が付いてみれば店で働いているのは全員が中国人で、
店内のBGMは中国語のポップス。

シェフ?は客が途切れたのか、店内の空いた椅子に行儀悪く座って
何か食べながらスマホを見ています。

「全く隠す気がありませんなあ」

「わたし、こういうインチキが一番許せないんだよね」

腹が立ったのと不味かったこともあり、わたしは食べる気をなくし、
ほとんど食べずに残して店を出ました。

ちなみにMKの食べた担々麺は割と美味しかったそうです。
そりゃそっちはもともと中華ものだし。

その点、他のアジアンの料理などだと、おそらくは
間違いなくその国の人が作っているはずなので、安心です。

ここは、フォーが食べたくなって行ったベトナム料理屋さん。
たっぷりのもやしが添えられているのが嬉しい。
アメリカの普通のスーパーで売っていない野菜の一つがもやしです。

あと、しそや大葉、ミョウガも売っていません。
ついでに、豆腐はどこでも買えますが、納豆は日本食スーパーにしかありません。

滞在中二階行ってしまったヌードル専門店、「ヌードルヘッド」。
MKによると、この「ヘッド」はクレイジーのような意味があり、
「ヌードルヘッド」で「麺キチ」みたいなイメージだそうです。

いつ行ってもたくさんの人で賑わっていて、人気があるのは、
基本的にどこの料理、と国籍をくくらず、いろんなヌードルが食べられるからでしょう。

インド風カレーのスープにヌードルとか、タイ風とか、ベトナム風とか。

これもラーメンですが、味はフュージョンだったそうです。

わたしがここで滅法気に入ったのがパッタイ。パッタイは正義。
量が多いので、大抵アメリカのレストランで食べたら、パッケージをもらって
持ち帰ることができるのですが、このパッタイ、持って帰って
野菜を足して加工してもなかなかの美味しさでした。

みなさま、お待たせしました。
「ザ・アメリカのケーキ」でございます。

クリームに24色全ての色を使用してしまうという感覚がまず、
我々日本人には(多分他の国の人も)受け入れられないものですが、
不思議なのはブルーとか紫とか黄色で飾り付けられたケーキを見て
彼らが「美味しそう」と思っているらしいこと。

わたしがよく行くホールフーズやTrader Joe'sには置いていないので、
今回パッキングに必要なペンを買いにピッツバーグの「ゴールデンイーグル」という
大型スーパーに行ったとき、ここぞと撮ってきました。

真ん中四つのケーキは実はカップケーキを集めた上にクリームを乗せて
四角いケーキ風に見せているんですね。

なるほど、これならわけて食べやすい・・・ってそういう問題か?

土壌の真ん中が空いているケーキは、注文の時に名前を入れてくれるのでしょう。
それにしても、男の子の誕生日用にミニカーを乗せた芝生と道路を模ったケーキ、
どうしてケーキでこれを再現しなければならなかったのか。

というか、このミニカー、ちゃんと綺麗に洗って使ってる?

アメリカというのは、ケーキ屋さん、パティスリーがありません。
あってもせいぜいベーカリーといったところ。

「アメリカには、日本みたいにフランスで修行してきたパティシエが
自分のお店を持つ、みたいなビジネスモデルはないの?」

わたしが聞くと、彼女は

「たまにセンスのいい個人がそういうティールームを開いても、
アメリカ人には人気がなくてすぐに潰れてしまうのよ」

と身近な例を二件挙げて答えました。

まあ、こういうセンスのものがケーキだと思っているのが大多数なら
それも致し方ないのかなという気がします。

陸自のパーティなら右下の迷彩柄ケーキなどあれば盛り上がりそうですが、
これらは全て「卒業おめでとうケーキ」というわけで角帽があしらってあります。

しかし、こういうのを見ると、アメリカ人にとってケーキは
「味わうもの」ではなく「見て楽しむもの」なのがわかりますね。

ところでこれを撮ったのは8月だったわけですが、2019年の卒業シーズンは
もうこの時にはとっくに終わっていたという・・・。

最後に、ピッツバーグの家ではキッチンが充実していたので、
よく凝った料理をした、と書きましたが、その一つ。
MKがネットで探してきたレシピなのですが、このチキン、一晩
バターミルクに色々とスパイスを混ぜ込んだものに漬け込んで
味を染み込ませてから焼き上げたものです。

 

MKによると、バターミルクを使ったフライドチキンというのが
アメリカでは割とポピュラーな料理なのだそうですが、流石に
ディープフライはできないということでオーブンローストに切り替えました。

日本ではバターミルクなどふんだんに使うことができないので、
私にとっても初めての試みでしたが、一晩マリネードしたチキンは
味が深く染み込んで柔らかく、わたしたちはこのチキンに舌鼓を打ちました。

 

続く。

 


映画「地球防衛軍」〜第二ベータ号発進!

2019-09-14 | 映画

 

映画「地球防衛軍」、最終日です。

今日は本作で「防衛軍」と呼ばれているところの自衛隊的組織に属する
軍人たちを描いてみました。
制服はいずれも実在しない軍なので映画の衣装部が用意したものです。

藤田司令らが着用しているサンドベージュの通常服なのですが、過日、
市ヶ谷に海幕長の表敬訪問に行ったら、幕僚長がこれとほぼ同じ格好をしていました。

「これが噂の新しい制服ですか」

実際見ると、本当にこの映画のにそっくりです(笑)
陸自チックに思えましたが、幕僚長によると、米海軍を意識しているのだとか。
ネットでは不評のようでしたが、米海軍と言われると、確かにその通りで、
途端になかなか宜しいような気がしてきました。

 

さて、従来の攻撃法では今のミステリアンに勝つことはできないことを
いやっというほど思い知らされた
地球防衛軍ですが、
国連の方から来た科学者のご指導ご鞭撻と、
アメリカ軍が本土より
巨大戦略輸送機で運んできた物資のおかげで、
なんとか互角に戦うことができる光明が見えてきました。

防衛軍司令部では、地下要塞の完成を阻止するために、とりあえず
マーカライトファープで攻撃を実施することが決定されました。

ただ、ここでわたしは大変なことに気がついてしまいました。
すでに何人か女性が人質に取られ、昨日も二人拉致されたばかりだというのに、
彼女らの身の安全の担保について言及する関係者が一人もいないのです。

民間人の安達博士ですら冷酷にもこんなことを言い放ちます。

「江津子さんや弘子さんを犠牲にするには忍びないが、かといって
助け出すことは不可能じゃないかな」

これはあれかな。
米軍の捕虜がいるのがわかっているのに広島に原爆を落としたアメリカ的な?

半径120キロの住民(静岡県、山梨県、神奈川県一部)が
続々と避難を始めました。

実に空気抵抗の多そうなイケてないデザインですが、これが
噂のマーカライトファープを輸送するマーカライト・ジャイロです。


英語では、

Marker-light FAHP(FAHP は Flying Attack Heat Projector )

何しろこの兵器、有効射程がたった1.5キロしかないので、これを
近くに持っていくロケットとセット販売されているのです。

本体は中央に組み込まれていて、設置する上空にきたら
ロケットのように部品を切り離してファープだけを目標に落とします。

「攻撃開始!」

旗艦α号に座乗した司令官とインメルマン博士。
なぜかインメルマンがファープ切り離しのスイッチを入れます。
α号とファープはデータリンクしてるってことなんですねこれはすごい(棒)

切り離されたファープは、自力で着地しました。

光線が発射されるディッシュ部分がターゲットに照準を当てます。
それはいいんですが、特撮の仕事が甘くて、このディッシュの形状が・・。
ハンダ加工がうまく行っておらず、エッジがデコボコしていて手作り感満載。

飛来するこの謎の物体に、ミステリアンたち、顔を見合わせています。

マラカートファープ、ドームに攻撃開始。
もちろん従来の攻撃ではドームを破壊することはできません。

この武器の特徴は、相手の撃ってきた光線をレンズで反射させることにあるのです。

ここで、科学者の一人渥美博士がとんでもない暴走を始めました。
「人も二本脚、ミステリアンも二本脚」という独自理論に基づき、
生身で基地に潜入し、単身人質を救い出す決心をしたのです。

確かミステリアンドームの地下道への入り口は本栖湖の湖底から
繋がっていたと記憶しますが、渥美博士はなんの道具も使わず、
あっさりここまで潜入することに成功しました。

畳み掛けるように地球防衛軍、略して地防軍は実在の武器、
MGR-1「オネスト・ジョン(正直者ジョン)」を撃ち込みます。

ドーム付近の地面が穴だらけになるほどふんだんに。
あーもうこれ、ドームは無事でも地下要塞は陥没してるかも。
当然捕虜の命は全く考慮していないようです。

ミステリアン部隊に非常呼集がかかりました。
しかし、ドームが意思を持って勝手に戦っている設定のミステロイド軍で、
この雑兵たちがなんのために集められ、これから何をするのか全く謎です、

思った通り、ミステリアンは科学力は高いけれども、個人の能力は大変低く、
渥美ごときの力でもあっさりと
警衛を(と言っても立ち話してただけ)倒し、
武器を奪って深部に潜入を許すほどでした。

これにはちゃんとした理由があって、彼らは地球より重力の軽い火星で
幾世代にもわたって生活してきたせいで、地球上では人類より動きが鈍いのです。 

攫われてきた地球人女性たちは、とりあえず今のところ、
結婚させられた
(婉曲表現)様子もないようで何よりです。

そこに一人のミステリアンがやってきました。

「わたしと一緒に来なさい」

白石の妹さん、この声に聞き覚えはないんですか?

白石の元婚約者さん、あなたも、この声聞いたことありませんか?

この時、地上では地防軍とミステロイド軍の激しい攻防が行われているのに、
地下は嘘のように静かで、防音設備は完璧。
流石の技術力の高さを感じさせます。

オネストジョンとマーカラートファープの波状攻撃を受け、
苦し紛れにミステロイド軍はα号を攻撃しますが、おっと残念、
α号の機体にはマーカライトが塗布されており、光線を跳ね返すのでノーダメージです。

ただしですね。

「マーカライト半減」

映画でこのセリフだけを聞いた人は、きっと意味がわからなかったことでしょう。
劇中説明もされませんが、マーカライトの有効時間は75分だけなのです。

一体どういう物質やねん。

そもそもα号は巨大なので、マーカライトを塗り始めてから塗り終わるまで
余裕で75分くらいかかりそうなんですが。

しかし出演者は大真面目です。

「アトニジュップン!」

マーカライトの効き目が切れる時間をカウントするインメルマン博士。

「トゥエンティミニッツ!」

東京裁判の日本側弁護士だったジョージ・ファーネス。
もう少しちゃんとしたセリフを喋らせてやれよって思いました。

膠着状態をなんとか逆転せんと、司令は前回撃墜されてしまったβ号の後継機、
第二β号の発進を命じますが、まだ電子砲が装着できていないとの答え。

防衛軍技研、仕事が遅いよ仕事が。

ドームが沈んだり浮いたりしているのは苦しんでるという表現?

「すぐに攻撃中止の要請をスル。
攻撃中止しない場合は報復手段をトル」

ミステロイド軍の不思議なところは、戦っている現場が全く映らないことです。
ドームから光線を出す指令を出しているのは一体どこなのか。

それはともかく、日本側が攻撃中止するから即時退去せよ、と迫りますと、
ミステロイド軍司令兼大統領兼王は片手をかるーく上げました。

次の瞬間海底が持ち上がり、本栖湖の水が溢れ出すではありませんか。

唖然。これで捕虜が生きていると思う方がおかしいというものです。

大量の水は村々を襲い、なぜか此の期に及んで避難していなかった
(買い物かごを下げて歩いている人あり)人々を飲み込んでいきます。

橋を渡って逃げている人も。

東京電力の看板がなぜか何回も登場します。

その様子を見て楽しんでいるミステリアンの皆さん。
ふっふっふ、と笑っている様子が肩の動きに表れています。

ところが突然館内が停電しました。

その原因は渥美博士。
ミステリアンから奪った銃で辺り構わず破壊行動を起こしておったのです。

ミステリアン基地に忍び込むのにチロリアンハットをかぶって、襟には
イカしたスカーフまで覗かせているあたり、お洒落へのこだわりが見られます。

この直後、銃が弾切れ(光線切れ)を起こし、あっさり捕まってしまいました。

マーカライトの効果あと5分、という時になって、ようやく
第二β号が発進しました。

先端のレドームには電子砲を搭載しています。

渥美一人がちょっと紛れ込んだくらいでもう基地内はてんやわんや。
科学技術が発達しているという割に身近な危機管理ができていない組織と見た。

こちら謎のミステリアンに導かれた拉致乙女たち。

「皆を連れて早く逃げろ」

その声にようやく婚約破棄された元婚約者が気づいて

「亮一さん!」

気づくのが遅いよ。

「兄さん!」

だからあなたたち、今まで元婚約者と兄の声にどうして気づかなかったの。

「俺は絶対に帰らない」

白石は渥美に研究の残りの論文を託しました。

「ミステロイドの研究は完成したよ」

ミステリアン体験のみならず、連中のスポークスマンまでしたんだから、
そりゃかなりのことがわかったでしょうさ。

「この大要塞が完成すればボタン一つで大東京が灰になる。
俺はミステリアンに騙されていたんだ」

学者って、基本世間知らずのせいか、とりあえず目の前の人の
いうことを聞いて信じ込んでしまうような人が多いそうですね。

騙されていることに最後の最後まで気づかないみたいな。

ほら、誰とは言いませんけど元首相経験者にもそういう人がいるじゃないですか。
元学者のあの人も、実際に会って話した人は皆いい人なんですよって言うもんなあ。
きっと人が良すぎて周りに利用されまくってるんだろうなあ。

「俺にはまだやらなければならないことが残っている。さよなら!」

そういって基地に戻っていく白石。
ああ・・・と皆が見送っていると、

「早く逃げろ!ここはすぐにぶっ壊されるぞ」

じゃみなさん逃げましょうか、と言う雰囲気になったら、その時、

「ミステリアンの悲劇は地球にとっていい教訓だ。
高度な科学もその使用を誤ると悲惨だ」

え?まだなんか言ってるよと皆が思った時、

「地球はミステリアンの悲劇を繰り返すな!」

いいから早く行けよ。

ようやく白石の姿は消え、書き割りの奥からは爆発のような光が!

何をやった白石。

β号の機長は、電子砲を考案した科学部隊の隊長(右)です。
どうやら地球防衛軍の制服は、空軍がグレー、陸軍がサンドベージュ。
個人的に残念ながら、海軍は全く作戦に参加しておりません。

この時代にはクロスドメインという概念はまだ防衛軍には無いようです。

ところでこの隊長、電子砲で相手にダメージを与えたとわかった時、

(よっ)しゃあ!」

と叫んじゃったりして、なかなかかっこよろしい。
自衛官なら絶対こんなこと言わないと思いますが。

マーカライト効果はあと1分で消滅です。
間に合うのかβ号。

その頃基地内は反乱を起こした白石のせいで惨憺たる有様に。

電子砲がドームに照射されました。

地下からはモゲラが出てきました。(生きとったんかい)
マーカライトファープを足元から掬って地道に
倒していく作戦です。

ちなみにこのモゲラの中の人、中島春雄というスーツアクター兼俳優は、
本作でミステリアン幹部/防衛軍幹部/戦車から飛び出す自衛隊員と
一人4役をこなして演じているそうです。

中島さんはゴジラの中の人をやったことでも有名です。

ミステリアンは今や寝返った白石に次々と虐殺されていきます。
最初から味方を裏切るような奴を信用するからこんなことになるんですよ。

ミステリアンの肉体は核戦争の後遺症で異常を来たしており、
顔面にはケロイドが浮いているのが標準なのです(wiki)

電子砲の攻撃はドームの基幹部を破壊し、それだけでふらふらになった
基礎体力のないミステリアンたちは、宇宙ステーションに退避を始めました。

洞穴から外界に脱出した拉致乙女らと渥美は、大きなキノコ雲のあと、
何処へともなく飛び立つ数機の円盤を目撃しました。

β号の勇猛な隊長は、去っていく円盤を2機撃ち落としますが、
残りの5機は夕暮れの空に消えていきました。

安達博士は呟くのでした。

「彼らは永遠に宇宙の放浪者です。
我々は決して彼らの轍を踏んではならない。

「妖星ゴラス」にも同じ映像が登場したという人工衛星の図。
これが、アメリカが打ち上げたという偵察衛星のようです。

「彼らは二度と地球に近づくことはできないだろう」

終わり。

ところで、白石亮一はその後一体どうなったの?
ミステリアンを撃ち殺していたので、今更仲間になって
円盤に乗って行ったとも考えにくいし・・・・・。

やっぱり基地を破壊された時に死んでしまったのでしょうか。

 

それから、どうしても突っ込んでおきたいことが一つ。

α号、β号の動力は原子力ということなんですが、第一β号が撃墜され
空中で木っ端微塵になってしまうという展開において、
特殊な原子炉を保護するカプセルでも発明されていなければ、
原子炉も同時に破壊されたかもしれなかったのです。

それについて何も言ってないので多分大丈夫だったんだと思いますが、
それにしても安達博士のいう、

「彼らの轍」

とは、核が地球を滅ぼす危険性にのみ仮定が限定されていて、その実、
自分が今まさに乗っているところの原子力兵器については問題意識を持たず、
その兵器が破壊されてもかけらも影響について心配していないらしいのは、
博士自身の科学者としての資質について懸念すべき点でしょう。

って、真面目に心配するなって話ですが。

終わり。

 


映画「地球防衛軍」〜空中戦艦アルファ号登場!

2019-09-12 | 映画

「地球防衛軍」で検索すると、映画より先にゲームが出てくるので、
最近同名のゲームが大変人気なのだと知ったわたしです。

さて、この映画で「防衛軍」と呼んでいるところの自衛隊が
総力をあげてミステリアンのドームを攻撃しましたが、
逆にドームからの攻撃によって、航空機は撃墜され、戦車や高射砲は
ことごとく熱によって溶かされてしまいました。

周りを火事にせず鋼鉄の武器を溶かしてしまうとは、
一体どのような仕組みの武器をミステリアンは使用したのでしょうか(棒)

当然勇敢に戦った自衛隊じゃなくて防衛軍の軍人たちはほぼ全滅に近い
打撃を受け、君の瞳に完敗状態です。

しかし、さすがは自衛隊、こんな日のために若い人たちが科学兵器を
考案し形にしていたことがわかりました、

設計図?を見せられた統幕長藤田進は、

「電子砲?」

と呟きますが、一切の説明はありません。
サイクロトロンという字が見えるので、加速器を使った砲の一種のようです。

日本は自分たちだけではとてもミステリアンに対抗することはできないと知り、
国連を通じて世界に協力を呼びかけることにしました。

なぜかそれを呼びかけているのが防衛大臣でもない一科学者の安達博士です。

「ミステリアンは地球の生活に見通しがつけば大挙して移住してくるに違いありません」

それで地球人の女性、しかも人間の目から見て美人ばかりを拐われたら、
もう地球人の滅亡は必至ですね。
つまり、ミステリアンに居住を許した瞬間、地球を乗っ取られることは確定です。

こちらミステリアンドーム。
一番偉い赤マントが黄色マントを伴って登場。

「富士山麓に500時間あれば基地が完成する。
これさえ完成すれば東日本は我々の意のままダ」

ふーん、東日本だけかー。案外欲がないのね。

ミステリアンの姿に身をやつしていても、鼻筋だけで
平田昭彦だとわかってしまうのだった。

さて、ここでわたしには大変興味深いシーンが始まります。

日本政府が国連の方から招聘した科学者二人、リチャードソンとインメルマン両博士。
このリチャードソンを演じているのがですね。
前にも当ブログで一項を割いてご紹介した、東京裁判の日本側弁護士、

ジョージ・ファーネス

なのです。
ファーネス弁護士についてはご関心がありましたらリンク先の
当ブログをお読みください。
そもそもわたしが「地球防衛軍」のDVDを購入した理由は、
ジョージ・ファーネスが出演しているのを確認するためでした。

藤田司令とファーネスの間にいる通訳の役は大川平八郎、別名ヘンリー大川です。

燃える大空で31歳にして少年兵を演じていた大川ですが、
若き日にコロンビア大学に留学し、ハリウッドで飛行機のスタントをしていた、
という経歴を持ち、英語が堪能なため、この役に抜擢されたようです。

ヘンリーとジャック

セリフは、リチャードソン博士の言った

「将軍、アメリカはアリゾナから人工衛星を打ち上げました。
かなりの貴重な情報を期待できるでしょう」

という通訳を行なっているのですが、なぜか後半の音声が消されています。

今やミステリアン側についた白石をジュネーブの会議で見たことがある、
というのはインメルマン博士。
これを演じているのはハロルド・S・コンウェイという俳優で、
その経歴はわかりませんが、日本に住み、多くの映画に「外人役」で出演した人です。

同じ本多猪四郎の「宇宙大戦争」にもインメルマン博士役で出ていますし、
「狂った果実」「グラマ島の誘惑」「月光仮面」「モスラ」「日本海大海戦」
「トラ!トラ!トラ!」テレビでは「キイハンター」などにも。

渥美博士、

「白石と話をしたくありませんか」

と立ってテレビのスイッチを入れます。(リモコンのない時代)

するとテレビにはよりによってこんな番組が。

「オー!ジャパニーズエンゲイ、ファンタスティーック!」

とかいっていると(嘘)

すぐに白石の姿がテレビに映し出されました。
白石、いつ呼ばれてもいいようにテレビの前でずっと待っているのか?

白石はいいます。

このままでは原水爆で20年もすれば地球は亡くなってしまう。
同じ経緯で自分たちの星ミステロイドを失ったミステリアンが
地球人に変わって地球を支配すればそれを回避できると。

「そんなアホな」

「地球を征服するのはミステリアンか?地球人か?
いえ、科学です。
ミステリアンはすでに宇宙の制空権を握っているのです」

科学者の白石は、ミステリアンの科学力に心酔し、すでに自分を
名誉ミステリアンと思い込んでいるようですが、こういう裏切り者は
得てして侵略が成功した暁には真っ先に粛清されちゃったりするんですよね。

急遽東京都内の国会議事堂が見える場所に、地球防衛軍司令部が爆誕しました。

ダッジでやってきたのはアメリカ代表。

イギリス代表はジャグワー?(適当)
降りてくるのは全員軍人です。

ソ連代表はビュイック。

このあと乗り付ける国の旗がどうも台湾に見えるのですが・・。

そうか、この頃日中はまだ国交正常化してなかったんですね。

世界会議で演説する防衛軍総司令、藤田進。

ミステリアンが熱に弱いのでそういう攻撃をする、とか、
現場で司令官が命令するようなことを演説しています。

こういう会議では軍人ではなく、政治家が演説するのが筋なのでは?

こちら富士山麓のミステリアン基地。
地中に潜っていたドームがまた再び地表に現れました。

セイバーが整列している向こうに見えるのは、我が地球防衛軍が所持する最新鋭機、
アルファ号。(ベータ号もいるよ)
こんなんもってるなら最初から使えばいいのに、って気もしますが。

アルファ号はいわば「空中戦艦」で、翼のないロケット型の航空機です。
翼なしでどうやってコントロールするのか、とかあまり追求しないようにしましょう。

動力は原子力。(なので滞空時間は無制限ってこと?)
武装はこの巨大な機体のノーズに一つだけついた速射砲です。

それでは内部をご覧いただきましょう。

アルファ号はVTOL機のように垂直にゆっくり上昇するので滑走路いらず。
内部は非常にゆったりしていて、機内は完全与圧式らしく、
パイロットに耐圧スーツの類は全く不必要のようです。

コクピットの下の階は観覧デッキになっていて、そこにはサロンのような
ゴーヂャスな椅子が置いてあり、ここから外の眺めを楽しむことができます。

って、遊覧船なのかこれは。

「円盤は現れませんなあ〜」

安達博士、川波博士と一緒に乗り込んでいるのは防衛軍空軍司令、杉本空将。
α号が旗艦だからということらしいですが、フネならいざ知らず、司令部は
こんな危なそうなものには乗らず地上から指揮を執るものではないでしょうか。

ベータ号は護衛に現れた三機の円盤にまず攻撃を行い、
搭載したミサイルをミステリアンドームに投下しますが、
その攻撃でダメージを受けたのは地下壕に待機していた渥美博士御一行様。
地盤が沈下して地下壕が崩れてきたのです。とほほ。

「攻撃を続行せよ」

杉本空将の命令に従い空中を飛来していたベータ号に、
ミステリアン基地から攻撃が行われました。

ベータ号撃破。防衛軍無念の殉職です。

「3000度の高熱で叩いてもビクともしない。
一体あのドームは何でできているんだろうか」

ベータ号を失い、わかりやすく全員悲痛な表情に。

もう地球防衛軍になすすべなし。
っていうか、ちょっと聞きたいんだけど、国連の協力を取り付けたのに、
相変わらず
日本だけで戦ってるってどういうこと?

ミステリアンは、地球人が自分たちを攻撃したことを逆手にとって、
半径3キロといった当初の要求を大幅にエスカレートさせてきました。

「半径120キロの土地を占領スル」

軒を貸してもいないのに母屋を取りに来ようってか。

もう原水爆の使用しかないか?というところまで追い詰められた日本。
120キロ占有されれば、首都陥落は目の前です。

その時、インメルマン博士が

「Good news!Good news!ミナサンヨロコンデクダサイ!」

と言いながら駆け込んできました。

この二人の国連の方から来た科学者は、これまで何もしていなかったのですが、
ここに来てやっと役に立ったということになります。

この新兵器、マーカライトファープは、直径200mの巨大なパラボラを付けた装置と
キャタピラ付の高さ140mの4脚によって構成されており、
ミステリアンドームの破壊光線を反射して相手に撃ち返せるだけでなく、
同等の光線を照射することが可能。

目標地点までは専用のロケット、マーカライトジャイロによって輸送され、
空中で投下された後に下部のロケットエンジン4基を用いて降下します。
無人兵器であり、α号からの電波で遠隔操作されます。(Wikipedia)

欠点は射程は1.5キロメートルで、作動時間が75分間のみに限られていること。
これはちょっと使いでが悪すぎませんかね?

こでいきなりアメリカ空軍のC-124C戦略輸送機が登場しました。
通称グローブマスターというどでかい奴ですね。

軍事航空輸送部所属の機体で、何をしているかというと、
マーカライトファーブや第二β号の建造に必要な物資を搭載しているのです。

これから材料を運んで間に合うのかという気もしますが、何、
空母「ミッドウェイ」の改修を半年で完璧にやり遂げた当時の日本の技術陣なら
死ぬ気でやれば一週間くらいでなんとかなるでしょう(適当)

すげー!

物資の搭載のため、機首下部と機体後部の両カーゴドアを開放しています。

撃墜されてしまったβ号の後継機もあっという間に完成しました。
さすがは高度成長期に突入した頃の日本の技術陣です。
機体には「ワールドエアフォース」と書かれています。
α号にはマーラカイトと同じ塗装を施し、相手の攻撃を防ぐ仕様にして臨みます。

こちら、地球存亡の危機だというのに、呑気に夕食の支度をし、
楽しげにお膳を運ぶ渥美の彼女と白石の元婚約者。

二人ともミステリアンに花嫁候補として指名されたにも関わらず、
全く危機感もなさそうです。

というかこいつらどうしてこの二人にそんなにこだわるのか。
東京には他にも綺麗な女性はいっぱいいるよ?

ひよひよひよ〜という音とともに静かに庭に降りてくるミステリアンその1。

驚く弘子さん。

上空にUFOが飛来しているのに、門の前の警官は全く気付かず。

「異常ありません!」

って、相手がミステリアンだとわかっているならちょっとは空を警戒しろよ。

ミステリアン1号、まず白石の元婚約者を円盤に拉致。
この人は、白石の婚約者だったのに、白石がミステリアンに帰依したため、
突如フラれてしまったという辛い過去があるわけですよ。

そのお嬢さんを拉致するということは、そうか!
ミステリアンとなった白石ともう一度結婚させてやろうとか、そういう考え?

「弘子さん?」

宇宙人に狙われているのに窓を開けっ放しで食事するか普通。
あっさりと一人さらわれ、残る江津子さん(白石の妹)も、

後ろから見ると大きめのヘルメットをかぶった作業員にしか見えない
ミステリアン2号にやすやすとさらわれてしまいます。

宇宙人に狙われているのに簡単に庭に出るから(略)

こちらもよく考えたら、彼女は白石の妹なわけですよ。

ということは彼女を拉致したのは、もしかしたら白石に再会させ、
弘子とともにミステリアンの嫁になって皆で幸せに暮らせばいいよね、というような
良かれと思っての拉致だったとは言えませんでしょうか。

だとしたら、なかなか味なことをするなあミステリアン。

なすすべもなくその様を見守る家族と警察。

この拉致シーン、ロープで吊った二人を持ち上げて撮ったようですが、
なんというか、今ならこんな間抜けな絵にはしないだろうな。

でも、60年前にはこれが超画期的でショッキングな映像だったのに違いありません。
今のCG技術で「地球防衛軍」「海底軍艦」のリメイクしたのを見てみたい(笑)

 

続く。

 


映画「地球防衛軍」〜ミステリアン登場!

2019-09-10 | 映画

いつかは取り上げようと思っていた日本の戦後SF作品、
「地球防衛軍」です。

前回そのつもりで鑑賞したところ、パッケージに同梱されていた
「海底軍艦」に本作以上のショックを受け(笑)、どうしても
そちらについてお話しせずにいられなかったため、
先送りになっていたのですが、ようやくその時がやってきました。

色々とツッコミがいのある作品なので、前置き無しでとっとと始めましょう。

ここは富士山麓にある村。
ここでは夏祭りが行われていました。
(提供:森永チョコレート)

祭りの人混みをそぞろ歩く美男美女。
天体物理学者の白石亮一(平田昭彦)、その同僚の渥美譲治(佐原健二)、
女性は白石の妹で渥美の恋人江津子(白石由美)、それから
白石の婚約者だった岩本弘子(河内桃子)。

白石はこの村に住んでおり、妹は東京からわざわざ富士山麓まで
浴衣姿でやってきたようです。

実は、この直前、白石は弘子との婚約を破棄したいと公言していました。
ならなんでダブルデートしてるんだって話ですが。

弘子はまだ諦めておらず、浴衣姿でアピールすればワンチャンあるかも?
と思って張り切っていたのかもしれません。知らんけど。

その時対岸火事が起こりました。

火を消そうと駆けつけた村の衆を引き止める白石。
彼はそれがただの火事でないことを知っているようでした。

その後火は燃え広がり、村は全滅してしまいます。

天文学者白石が研究していたのはミステロイドという星の存在でした。

白石の恩師、科学者の安達博士(志村喬)は今更論文を見て訝ります。

「あの自尊心の強い男が論文を投げ出しているよ」

その時、白石の住む村に大きな山崩れが起こったと知らせが入りました。
少々の地震では倒れないはずの鳥居もいとも簡単に崩れていきます。

この時に崩れていくジオラマがはっきりそうとわかるくらいちゃちい。
特技監督は円谷英二で、当時の最高技術のはずなんですが・・・。

そして、白石はその日を境に行方が知れなくなってしまったのでした。

「現場に強い放射能の反応が見られるんです」

「え・・・ほんとですか」

「何しろあっという間に一全滅し、犬一匹助かっていません」

それでは白石も助からなかったということなのでしょうか。

左にいる人はどう見ても自衛隊員なんですが、ここでお断りしておくと、
この日本に自衛隊なるものは存在しておりません。
じゃあなんなのかというと、名称は「防衛軍」なんですよ。

中丸忠男が演じているこの人、役名は山本二尉となっていますが、
つまり、防衛軍二尉ってことなのです。こりゃ驚いた。

ということは「地球防衛軍」って、つまり自衛隊のことだったんかい。

ところがとここには「富士防衛隊」などと書いてあったりして、
軍なのか隊なのかどっちやねん!と思わず問い質したくなります。

富士山麓からいきなりこんなんでましたー。

この巨大な生物は実はロボットで、「モゲラ」というそうです。
そういえばちょっとモグラ的な風貌をしているかな。

光線を出して車を破壊するという特技あり。

わかりにくいですが、これがこの世界の警察官の制服です。
警察と渥美(なぜこんな若造の一天文学者がここで出張ってくるのかわからず)
は、いよいよ「防衛隊」への派出要請を決めました。
この頃も非常時の出動要請は知事が行うことになっていたはずですが。

その時、モゲラが静岡県の市街地に出現したという知らせが入りました。

タイミングよくお風呂に入っている白石の妹江津子さん。
モゲラが送電線を切りまくったのでお風呂は真っ暗に。

これもサービスシーンってやつでしょうか。
彼女は兄の身を案じて東京からやってきて旅館に宿泊していたのです。

「江津子さん、早く着替えて!」

夜になって暴れ出すモゲラ。
なぜか火事があちらこちらで発生し、消防署が出動してモゲラに放水しますが、
蛙の面に水、いやモゲラの面に水、逆にこちらに迫ってくるので
消防隊員はホースを捨てて逃げ出し、ここで防衛隊の出動となりました。

そのとき伊福部昭先生作曲の名曲「地球防衛軍マーチ」が高らかに始まりました。

【30分耐久】地球防衛軍マーチ【伊福部昭】

おそらく、富士、板妻、滝ヶ原からの防衛隊であろうかと思われます。

本物の銃を撃つシーンを陸上自衛隊、じゃなくて防衛軍は撮らせてくれたんですね。
そのほかにも無反動砲をトラックから下ろすシーンが見られます。

しかし彼らはすぐに、銃ぐらいではこの怪物に太刀打ちできないことを
思い知るのでした。
怪物の出す熱線は、防衛隊の装備をも無残に破壊していきます。

それでもめげず、迫撃砲、M2火炎放射器で対抗する自衛隊、じゃなくて防衛軍。

防衛線である陸橋から全て人々を避難させた後、
防衛軍は陸橋ごと爆破するという方法でようやくモゲラの脚を止めました。

やったね防衛庁。

早速召集された非常国会で、一天文学者である渥美がなぜか
一連の事件について発表しております。
いやそこは師匠である安達博士だろう、と思いますが、
この世界では学者村も超リベラルということのようです。

一連の事件については何もわかっていないことを発表する渥美。
わかったことは、怪物はロボットであり、地球で作られたものではないことだけ。

「それでは宇宙から来た地球外生物の仕業ってことですか」

「それもわかりません」

その頃安達博士は。

「白石報告書のいう通りだ。月の裏側に不思議な現象が起きている」

ソ連が人類初めて月の裏側の撮影に成功したのは1959年。
つまりこの映画発表の2年後なんですが、この頃日本の一科学者が
どうして望遠鏡で月の裏側が見られたのだろう、と思ったらそうではなく、
不思議な現象とはUFOが月の裏側から現れていること。

「とにかく写真を撮ってくれ給え」

月の裏側から出てくるUFOを捕らえることができる写真機って?
この研究所はハッブル望遠鏡でも持っているのか?

しかしいとも簡単に研究所員は暗室で現像したフィルムを持ってきて

「できました!」

うーん、超有能。

安達博士は早速全世界にそれを発表しました。
日本の田舎にくすぶっていた一科学者が世界的にその名を轟かせた瞬間です

全身白のスーツでキメた安達博士が白石報告書の円盤発着現場となったらしい
湖を訪れたその時、

謎の構造物がなぜか地中から盛り上がって出現しました。
これぞミステロイドと白石が名付けた星からきた地球外生物の宇宙船だったのです。

ミステリアンはいきなり放送で要求を始めました。曰く、

安達博士、渥美、野田博士(左)幸田博士(右)川波博士の五人を
宇宙船に招待して話し合いをしたい。

「どうして我々の名を」

それはこちらもぜひ知りたい(笑)
山本二尉が

「五人の安全を保証するか」

と肉声で尋ねると、

「アンシンシテ ドウゾ」

これで相手を信用するというのも日本人のおめでたいところなんですが。

しかし山本二尉、本部に連絡を取るや否や、

「直ちに攻撃体勢に入ります!」

M4A3E8中戦車、通称シャーマンかしら。

その前方に待機する可愛らしいM24軽戦車。
あー、この既視感、まるで総火演を見ているような・・・。
ロケ地は東富士演習場ですかね(棒)

五人に何かあったら、その時には総攻撃をかけるぞ、という威嚇のつもり。

さてこちら科学者五人組。

「中は寒いですからマントを着てください」

といわれて大人しく変なマントを羽織り、お互いを見て吹き出すことも無く
長い廊下を進んでいきます。
わたしはここで「注文の多い料理店」的展開を期待したのですが、
耳にクリームを塗ることもなく、彼らは中にたどり着きました。

途中に立っているミステリアンが、「こちらへどうぞ」という
地球人しぐさをちゃんとマスターしているのに感動です。

おもてなしの精神は今や宇宙ワイドまで。

ドームの住人登場。
ドームが寒いのは彼らが冷涼な気候でないと生きていけないからなのですが、
それならマントとか脱げばいいのにと思うのはわたしだけ?

早速地元民に与えた被害について幸田博士がついつい嫌味を言うと、
ミステリアンの親玉は

「あれは戦争を避けるための小さな犠牲デス」

と言い放ちました。
あーなんだろうこの既視感再び。

「9条を守る為には戦いも辞さない」

って言うサヨクフレーズ?

「我々の科学力を示し戦うことの愚かさを知ってもらいたかったのデス」

抑止力ってことですかい。
すでに行使したものを抑止力とはいわないと思うがどうか。

彼らの要求はシンプルっちゃシンプルで、半径3キロの土地を貸して欲しい、
ということなんですが、問題はもう一つの要求。

「ミステリアンと地球人の女性の結婚を認めていただきタイ」

つきましてはこの女性を・・・とどこで撮ったのか祭りの写真を。

ミステリアンはストロンチウムのせいで生まれてくる子供の80%が
異常児で捨ててしまうので、地球人との間に子供を作りたい、
と無茶苦茶なことを言います。

ツッコミどころ多すぎ。

●異常の原因はミステリアンの男性にもあると思うが、地球人と交われば
まともな子供ができると思うのはなぜか

●ミステリアンに女性はもういないのか

●そこまで科学が発達しているのに、どうして異常児を捨ててしまうのか
染色体を操作するなり、生まれた後にケアする方法をどうして模索しないのか

だいたい、異星人との間に子孫を残さなければ、もう未来はないという
この切羽詰まった状態で、女性の外見を選り好みしてんじゃねーよ。

しかも、この祭りの行われた村って、あんたたちが殲滅させたんじゃなかったっけ。

ここで呆れるのはまだ早い。

ミステリアンのスカウト、しっかり白川由美と河内桃子という
二人の美人にも目をつけてピンポイントで名指し。

優秀な子孫って、つまり外見だけのことだったんですね。

防衛庁長官の会見が行われ、地球人としてはミステリアンの要求は
とても受け入れることはできないので、これを排除すべしとなりました。

緊急ミステリアン防衛対策は決定され、野戦特科部隊は東富士演習場に集結。
当時の105ミリ榴弾砲や迫撃砲がバンバン映ります。

こちら東京の白石の実家。
こんな事態だというのに、テーブルにはお紅茶とケーキが並んでいます。

「驚かないでください。
ミステリアンはあなた方を指名してきました」

その時茶の間のテレビに襟付きマントを着た白石が現れ、
彼らに話しかけてきました。

白石はいつの間にかミステリアンの手先になっておったのです。
その恐ろしさについて警鐘を鳴らすべき人物がなぜ?

これがこの映画のもっとも不可解なツッコミどころなんですが、
どうも白石、ミステリアンの高度な科学力に魅せられ、心酔し、
すっかりシンパになって変なマントを着るまでになってしまったようです。

「どうやっても地球人の科学では勝てっこないんだし、わずか3キロ半径の土地を
彼らに貸すくらいなんでもないじゃないか、攻撃はやめろ」

しかし、今現在進行形で中国がやっている「サラミ戦術」を知っている人は
その「わずか3キロ」の要求がどんどん侵略の度合いを深めていくのを
よくご存知ですよね?

しかし地球防衛軍の攻撃は始まってしまいました。
防衛軍航空隊の偵察機が偵察を行います。

「攻撃開始!」

防衛軍総司令(藤田進)の攻撃開始の命令が降りました。

要塞と化したミステリアンドームに雨あられ砲弾が撃ち込まれます。

シャーマンはこのシーンでは模型に変わっていました。

これは本物。もう今は退役した当時の装備だと思われます。

百里からF8Fセイバーが発進。

迫撃砲の装填は本物です。

その様子を見守るミステリアン(可愛い)
真ん中の赤いのが一番偉くて、黄色がその次、青は下っ端です。

こんなもので我々に勝てるかい、とほくそ笑むミステリアン。

セイバーが爆撃を行うも、逆にやすやすと撃墜されてしまいました。
その中の一機は火を噴く機体ごとドームに特攻を行います。
なるほど、自衛隊といわず防衛軍とした訳はこれか・・・・。

MGR-1オネスト・ジョン地対地ロケット弾まで。

最新鋭機のスターファイターも火を噴きました。

果敢に突き進んでいく一台の戦車も・・・・

地滑りを起こされ地中に消えました。

現在の日本の国力ではこれが限界ということがわかり、(´・ω・`)とする司令部。
この時、ミステリアンの爆弾の威力を「関東大震災の破壊力と同じ」
というのですが、これって少し変な例えじゃありませんかね。

「原子爆弾の」とは当時の世情では言えなかったのかな。

かさず宣撫工作を行うミステリアンの飛行体。

「我々の要求はわずか3キロメートルの土地です。
ミステリアンは地球の平和を願うものです」

散々やらかしておいて今さらどの口が言うのかって話ですが。

さてどうなる日本。

(提供:森永チョコレート)

 

続く。


カクタス・コリジョン〜USS「ミッドウェイ」博物館

2019-09-09 | 軍艦

空母「ミッドウェイ」博物館、巨大な右舷側のアキュムレーターを見ながら
艦首に向かって進んでいくとこんなコーナーに出ました。

アキュムレーターほどではありませんが、ここにも大きなタンクがあります。
「リクィッド・ナイトロジェン」とあり、ニトログリセリンのタンクです。

ニトロのタンクはO2N2タンクを構成する一部で、酸素とニトロは
空母艦載機や地上サービスなどに使用されるためにあります。

ニトロは空母艦載機のタイヤを膨らませるためや、例えば非常時に
キャノピーを吹き飛ばす時などに使用されます。

液体酸素は何に使うかというと、高高度飛行中のコクピットへの酸素供給です。

写真のグリーンシャツは別名「トラブルシューター」とも呼ばれており、
艦載機部隊の整備員です。

フライトオペレーションになるとそれぞれの部隊から一人ずつ
フライトデッキに待機していて、機体にトラブルが発生するとすぐに対応するのです。

足元の緑色のタンクは液体酸素の貯蔵ボトルで、航空機に注入され、
代わりに溜まった呼気ガス(汚れた空気)と交換するのです。

さて、今日は「ミッドウェイ」がその艦歴上見舞われた最悪の衝突事故で、
この液体酸素のタンクが破壊され、乗員の命が犠牲になったという話をします。

前にも少しだけ触れたことがありますが、「ミッドウェイ」は
軍艦の割には比較的平穏だったその人生で、一度だけ衝突事故を起こしています。

1980年7月29日、フィリピンのパラワン島とボルネオ北部の海岸の間を
「ミッドウェイ」は、いつも通りの訓練を終えて航行していました。

そのとき、EMCONアルファと呼ばれるレーダーも無線も切った状態の
商船が「ミッドウェイ」に近づいてきていました。

前方の船はパナマ船籍の貨物線「カクタス」で、そのデッキには束ねた木材が
搭載されていました。

そして、ミッドウェイのEMCONが一連の誤った解釈をしたため、
そのため2隻の船はどちらもが回避行動を取らなければならないほど接近したのです。

2000少し過ぎ、「カクタス」の船首が「ミッドウェイ」のフライトデッキの
大きくせり出したところに滑り込んでいきました。
この際「カクタス」の上部構造物の高いところは完璧に破壊され、
フライトデッキにあったファントムII3機と、プラットホームにあった
フレネルレンズが破壊されて落下しました。

最悪だったのは、LOXプラント(液体酸素プラント)でした。

それは「ミッドウェイ」のサイドから張り出しているようにあったため、
衝撃によって完璧に破壊され重いプラントの基礎部分が裂けて、
液体酸素とニトロが噴き出してしまったのです。

運悪くちょうどここにいた機関兵のダニエル・マーシーとクリスチャン・ベルガンは、
この時に液体酸素を被って死亡、三名が負傷しました。

二隻の衝突した船を引き剥がすとき、「ミッドウェイ」の乗員は、
漏れたジェット燃料を確保し、液体ガスを回収するために迅速に働きました。
もしこの二つが混じることがあったら、大爆発によって何百人もの命が失われ、
そしておそらくは「ミッドウェイ」を破壊したでしょう。

引き剥がした後の「カクタス」。

「ミッドウェイ」は修復のためにスービック湾に着岸し、
そしてその修理は何日かで完成したということです。

 この事故の時、17歳で「ミッドウェイ」乗員だった人がこんな回想を残しています。

 

私が鮮やかに覚えているのは、明らかにミッドウェイで経験した最も暗い日だった。
1980年7月29日。なんてひどい夜であったことか。

その日の早い頃、私たちはスービック湾を出て、ゴンゾー・ステーションを航行していた。

(ゴンゾーはセサミストリートのキャラ。ミッドウェイの俗語で北アラビア海のこと)

夕方の2200年頃までに、私たちはマラッカ海峡を通過していた。
聞いたところ、船のレーダーもまたオフだったということだった。
私はVA-115下の停泊区画の乗組員のラウンジにいたことを覚えている。
故郷への手紙を書いているところだった。

その時艦体の真下でまるで地震が発生し、艦体のあちこちが震えているような感覚があった。
突然、艦内に衝突警報が激しく響き渡り、それに続いて
一般警報とそれに続く指示が続いたが、それはいつもとは全く違っていた。

"GENERAL QUARTERS! GENERAL QUARTERS!
ALL HANDS MAN YOUR BATTLE STATIONS!

- THIS IS NO DRILL!" 

皆が固定するものをボルトで固定し、自分の持ち場に駆けていくのが見えた。
ハンガーデッキに到着したとき、金属同士がこすり合わされるような音が聞こえた。
私は音がどこから来ているのかを注意深く探ってみた。
それは航空機エレベーター3の近くの左舷側の後部エリアからだった。

その時のことだ。

私は実際にミッドウェイの下を通り過ぎる別の船を見た。
当時、私のGQマスターステーションは、船の前部のフライトデッキの真下の
VA-115パイロットの士官室と同じところにあった。
私と他の何人かがそこに着くとすぐに、士官が私達に

「ハンガーデッキに戻って皆と一緒にいるように」

といい、また、総員退艦命令の可能性もまだあると告げた。

ハンガーデッキレベルに到着したとき、私は恐ろしい光景に凍りついた。
死んだ二人の男のうちの一人の体が灰色の海軍毛布で覆われていたのだった。

私を怖がらせ、そして私の脳にその瞬間から今日まで植えつけられた恐怖の理由は、
そのストレッチャーに乗せられた毛布の形だった。
毛布に包まれているのが通常の人間なら、デッキの上のそれは
頭から脚に向かって傾斜を描いているはずだが、それはただ真っ直ぐだった。

今に至るまでなぜそんなことになっていたのか確かめる術はないが、少なくとも
このかわいそうな男の頭が通常の形をしていなかったから、としか思えないのだ。

遺体を見て凍り付いていた私の後ろにいた仲間が、

「レオナルド、見るな!止まらずに歩け!」

と叫んでいたことも、今でもはっきり覚えている。


その後ハンガーデッキに着くと、そこにいた全てのものがカポックを着ていた。

 開いている航空機のエレベーターのドアから、いつ来たのか護衛艦が四方を囲んでいて、
ミッドウェイは觀照燈で明るく照らされているのが見えた。

そこでわたしたちは、被害者がもう一人いたが、死んだということを聞かされた。
ミッドウェイが受けた被害はあまりに大きなものだったのだ。

事故は、ミッドウェイと同じ方向に向かっていたパナマの貨物船、
「カクタス」に
艦体の左舷側後方エリアに衝突されたというものであったが、
そのとき、その衝撃で航空機エレベーター3機が軌道から外れ、

文字通りそのケーブルだけでぶら下がっているのを私は目撃した。

「カクタス」のの船体はミッドウェイによって完全にスライスされており、
ウォーターラインの下の左舷側に50フィートの亀裂が生じていた。
貨物船の船首が激突した左舷のキャットウォーク、LSOプラットフォーム、
そして左舷のフレネルレンズも損傷していた。

フライトデッキのコルセアとファントム(VF-161のほぼ全ての航空機)
のいくつかは完璧に破壊され、何機か
は単に姿をーフライトデッキから海にー消した。
しかし、これだけならまだミッドウェイの被害はましだっただろう。

最悪の被害は、ほぼ中央部、左舷側のハンガーデッキで発生した。
ミッドウェイの 5000ガロンの液体酸素(LOX)プラントが破裂し、
内容物が外に漏れてしまったのだ。

さらに、左舷側を走っていたディーゼル燃料ラインも切断され、
そこから燃料も漏れていた。

LOXは、熱、他の化学薬品、またはディーゼル燃料など、
その他の石油剤と接触すると、非常に揮発性が高くかつ可燃性の薬剤であり、
この時にもこれらは大惨事を引き起こしていた。

 

ダメージコントロールチームは、すぐさま動いた。
2つの装備の間に、
通常は構造火災に使用される軽量フォームのバリアを張り
作業域を確保して両者が混じらないようにした。

考えられる最悪のシナリオは、5000ガロン液体酸素が爆発を引き起こし、
水密区画をも破壊して艦体に回復不能なダメージを与えることだった。

もしそうなれば、文字通りミッドウェイは真っ二つに破壊され、
それは「ミッドウェイ」の死を意味しただろう。

私は今でもあの時のミッドウェイのダメージコントロールチームに感謝している。
彼らがその夜、彼女達に乗っている私達全員を救い、伝説を築いたのだ。

 

その後、艦長が

「現在ミッドウェイは周りの駆逐艦によって牽引されている。
我々はこの後スービック湾に戻って、少なくとも1ヵ月の間海軍艦船修理施設に入る」

と発表を行い、歓声が艦内のいたるところで沸き起こった。

艦長はまた、悲劇的な死を遂げた二人の乗員に対しお悔やみを述べた。
乗員たちの噂によると、そのうち一人はやはり頭部を失っていたそうだ。
私は自分が見た毛布の形を思い出し、やはりそうだったかと思った。

しかし、ああ、もう一人の運命については、噂が真実でないことを願いたい。
プラントが破裂したとき、彼はたまたま液体酸素タンクのすぐ近くにいたため、
彼は液体酸素をもろに被ってしまったと言われていた。

液体酸素は温度がマイナス300度。
それを被った彼の体がどうなったか、考えるのも恐ろしいが、
本当ならば彼の体は瞬間で結晶化してしまったと思われる。

ミッドウェイが着岸したあと、乗組員の多くは損害を見るために上に上った。
まるで戦争映画の直後のシーンのような惨状だった。
左舷のキャットウォークはもうそこには存在しなかった。
アングルデッキの左舷から伸びる着陸灯は、LSOステーションと共に消え、
三番エレベーターはハンガーデッキレベルから下に落ち、その巨大な、
油っぽい吊り上げケーブルによってのみ、かろうじて艦体にぶら下がっていた。


フライトデッキと格納庫デッキで撮影することは厳しく禁じられた。
実際、
被害を撮影しようとした人は皆カメラを没収というペナルティを課せられた。

私たちがスービック湾に戻るまでの数日間、記憶がないわけではないが、
これが実際に
ミッドウェイに起こったと信じるのは困難なことだった。
乗組員全員とミッドウェイ自身がショックを受けているかのようだった。

そんな彼らが、誰いうともなく、この悲劇的事件の数週間前、
乗組員の間でしきりにささやかれていた予言の的中を再び口にしだした。

それは全米でも有名な霊能者、ジーン・ディクソンの予言で、

「1980年代にアメリカ海軍の艦番号41の軍艦が
海上で悲劇的な事故を起こす」

 というものだった。
もちろんUSS ミッドウェイのサイドナンバーは、41である。

我々の身に現実に我々に起こったこの悲劇と、ディクソン女史の予言が
偶然の一言済ませることは誰にもできなかった。

ただし、彼女の予言には最後に続きがあって、それは

「この時事故によって失われた軍艦は同じ名前でもう一度建造される」

というものだったが、こちらははずれ、これからも実現しないだろう。

私は心から神に感謝せずにはいられない。


数日後、私たちは海軍の修理施設で入港期間に修理を完全に済ませるため
にスービック湾に戻った。
約5週間後、船は完全に修理され、すべての破壊された航空機は交換された。
そしてミッドウェイはゴンゾー・ステーションでの長い3ヶ月の滞在を終え、
WESTPACに向かうための航海に出発したのだった。

 

 

 

続く。


アップルウォッチ(とBOSEのサングラス)でピッツバーグを歩く

2019-09-08 | アメリカ

日本でも出来るだけiPhoneの歩数を気にしていたわたし、
アメリカに来てから、アップルウォッチデビューをしました。

日本でもそうかと思いますが、こちらのAppleでは、製品を買うと
パッケージを自分で開けさせてくれます。
アップル製品の箱はものすごくよくできていて、開けたり
製品を取り出したりするときになかなか気持ちがいいのです。

どこまでもきっちりと収まっている感じ、滑らかな材質、
シャープな箱のエッジ、全てがある種の快感を呼び起こすのです。

今まで携帯を持っているときにしか歩数が測れなかったのですが、
これなら一日の総歩数がわかる上、このリングモードにすると、

赤→ムーブメント(総歩数)
緑→エクササイズ時間(基本設定は30分)
青→スタンディング時間(12時間)

が完成すると輪がつながり、チャリーン!と音がして、
時計がメダルをくれたり、メッセージで褒めてくれたりします。

どういうセンサーなのか知りませんが、座っていると時々、

「立ち上がって1分動きましょう」

と教えてくれますし、やはりじっとしていると、

「1分間深呼吸しましょう」

などと言ってきます。
一度、呼吸アプリを押して何か用事があってやらなかったら、
あなたやってませんね、みたいなメッセージが来てビビりました。

というわけで、すっかり時計に支配される生活になっているわけですが、
これがなかなか快感で、やめられません。
今のところ買ってから連続リングをつなげることに成功しているので、
それでモチベーションが維持されているという感じです。

というわけでピッツバーグでも恒例のウォーキングが捗ります。
MKを大学に送って行ってから、早速学校の近くの公園に歩きに行きました。

 

もちろん音楽は欠かせません。
Apple Watchは、iPhoneに入っている音楽とリンクしていて、
いちいち携帯を取り出さなくても音量やスキップが手元できて便利。

加えて、今回、わたしは散歩のお供としてこんなに心強い奴はいない、
というくらいよくできた、BOSEの新型サングラス型イヤフォンを手に入れました。

これはウィーン空港から出発する直前、空港のショップの前を通りかかって
見つけた瞬間お買い上げを決めた運命の商品ですが、今まで愛用していた
オークリーのサングラス型イヤフォン(イチローが使ってたやつ)が
生産中止になって、今持っているのが壊れたら修理もままならないのでは、
という状況だったため、飛びつきました。

買ってみるとこれがなかなかの優れものです。

サングラスを裏返して置いたツルの部分です。
ゴールドのボタンをぽちっとすると、

「バッテリ−100%、コネクテッドトゥNYAN CAT'S PHONE」

と聴こえ、電源を切るには、サングラスを外して裏返しにするだけ。
ちなみにNyan cat's phoneはわたしのiPhoneの名前ですが、
このメガネ、これを

「ナイヤン・キャッツ・フォン」

と発音します。

耳にかける部分にイヤフォンが付いていたオークリーと違い、
サングラスのフレーム部分に小さなスピーカーの穴が空いていて、
ここから聴こえてくるのですが、近くにいる人には全く聴こえませんし、
何より耳の穴を塞がないので、サングラスをしたまま人と普通に会話できるのです。

ピッツバーグの中心部には、シェンリーパークという広大な緑があり、
その中はいたるところにトレイル(散歩用の小道)が設けられています。
到着してから1週間は、毎日歩きやすくて日陰が多く、
森の中を通るコースを探して色々歩いてみましたが、あまりに選択肢が多く、
これぞというコースを極めたのは最後の日でした。

どこを歩いても、だいたい1時間で車を停めたところに帰って来られます。

管理はしっかりできていて、トレイルの整備もしょっちゅう行われますが、
こんな感じに倒れたような木は基本放ったらかしのまま朽ちさせています。

あくまでも自然のままに任せる方法で森を維持しています。

最後の日に極めた「至高のコース」は、こんな道をずっと通って
木陰を歩き、一周して帰ってくるというものでした。

公園の中には川が流れ、こういう池があったりします。

ピッツバーグも最近は雷を伴う土砂降りが多く、地元の人は
今までこんなことはなかった、と訝っているそうですが、何か
地球規模でそういう傾向にあるようで・・・何が起こってるんでしょう。

この日は前日の雨で池が泥に濁っています。

公園のあちらこちらには、古めかしい雰囲気の橋や階段があり、
そのどれにも

WPA 1939 

と刻印があります。

今ではトランプの悪口などが落書きされていますが。

WPA( Works Progress Administration)

は、あの大恐慌で失業した人たちに対する救済プログラムで、
ここピッツバーグでは1938年から1939年にかけて、
公園内の橋や階段を設置する工事に人が集められました。

「昨日まで葉巻をくわえてガウン着てた人たちが、
ツルハシ持って頑張って作ったんだね」

 恐慌後の失業者対策で、特にアメリカ東部には各地に
このような公共事業によって作られたものが点在するそうです。

WPAの事業一覧

公園の中にはサッカー競技場、陸上トラック、テニスコートやゴルフコース、
ありとあらゆるスポーツの施設が含まれます。

この時には女子サッカーのチームが練習をしていました。

冒頭写真は公園の高みからピッツバーグ大学の塔を望んだところ。
塔を見下ろす丘には、いくつかのこのようなメモリアルがありました。

この「フロー・ジェイミソン・ミラー」という女性は、
南北戦争時代に結成された

「ナショナル・ウーマンズ・リリーフ・コーア」

という愛国団体のプレジデントだった人物です。
戦争に女性が参加しなかった時代なので、彼女らの任務?は
戦死した兵士の墓に飾る花輪を子供たちと一緒に作ることなどでした。

公園のいたるところには銅像がありますが、この後ろ向きの像は、
発明家ジョージ・ウェスティングハウスの若い頃です。

またそのうち取り上げますが、エジソンと同時代の発明家で、
ライバルでもあった彼は、のちにエジソンと電気椅子を使った処刑を巡って
反対の立場から対立したことでも有名です。

福島の原子炉がウェスティングハウスであったことは皆さんご存知ですよね。

車をいつも停めるところにあるネイティブアメリカンのメモリアル。

カテカッサ(ブラックホーフ、黒い蹄)1740–1831

は、ショーニー インディアンの酋長でした。
イギリス系アメリカ人の入植者とショーニー族との戦いで、
勇者として知られた人物です。

現地の碑には、ブラックホーフが、白人に宥和政策を取り、最終的には
同士となったようなことが書いてあり、確かにそれで戦闘を止めたようですが、
実際は1812年の戦争の直後に実施したインディアン排除の方針に抵抗し、
条約に署名せず、1831 年にオハイオ州で死ぬまで部族を率い続けました。

最終的には西側への移住を余儀なくされたということなので、なぜここに
碑があるかというと、モノンガヒラの戦いで戦ったから、ということらしいです。

碑の上の丘に(周りはゴルフコース)ポツンとある家。
まさかインディアンが住んでたってことはないと思いますが、
1800年代からあるのはおそらく間違いのないところでしょう。

街の外れにあって、誰でも立ち寄ることができ、車を停めさえすれば
延々と広がる緑の芝やこんな眺めを楽しむことができる広大な公園。

お金をかけずに自然を身近に感じることができる公園がどんな都市にも
必ずあって、散歩できるトレイルが整備されているのがアメリカのいいところです。

 

 


ハプスブルグ家の皇位継承と男系断絶(2)〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、前回に続き、ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しながら
ハプスブルグ家の皇統問題について語っていきたいと思います。

男子が生まれなかったので、自分の娘であるマリア・テレジアを
実質的なハプスブルグ家の「施政者」にしようとしたカール6世。

念のため、カール6世のwikiを引いてみたところ、こう説明がありました。

「ハプスブルク家最後の男系男子であり、
狭義には同家最後のローマ皇帝である」

カール6世はも血の繋がった娘に神聖ローマ皇帝の地位を譲るために、
自分を最後に男系を断つことを選択したのでした。

しかしこれを、皇帝ではなく一人の父親のしたものと見た場合、
婿となったフランツ・シュテファンのことは息子同然に気に入っており、
さらにフランツは、娘と相思相愛の仲だったわけですから、
この時の選択は公より私を選んだ人間的なものであったと解釈されます。

その後、マリア・テレジアは待望の男児を産み、その子は
のちのヨーゼフ2世となりますが、彼はハプスブルグの血ではなく、
ロートリンゲン家の男系男子として皇帝になったということになります。


◼️オーストリア皇位継承戦争

しかしながら、カール6世の選択は、諸国に反対理由を与え、それがきっかけで
全土に飛び火し8年にわたる戦争に発展することになります。

これがオーストリア皇位継承戦争(1740ー1748)です。


このオーストリアの継承戦争における諸国の反対理由は、
日本で女系天皇も女性天皇も一緒くたにした人たちが声高に叫ぶような、
「女性差別」などではありません。

もちろん、女性に基本的人権はなかったかもしれませんが、そもそも
「人権」などというのは、誰のに限らず、つまみにしたくとも
どこにもない時代です。

ジャン・ジャック・ルソーらの天賦人権説が生まれたのはやっとこの頃で、
この思想はやがてフランス革命に繋がっていくことになります。


諸国の女帝継承への反対理由は、ズバリ、男系が終了するからです。

ただし、それはハプスブルグ家の存続と弥栄を願ってのことなどではなく、
常にすきあらば権益を凌ぎ合う当時のヨーロッパ諸国にとって、
いちゃもんをつけあわよくば国益をかすめるための建前に利用されたのです。

この件を最大に利用して、ハプスブルグ家の弱体を狙ったのがフランスでした。

そして、一歩間違えていたら彼女が結婚していたかもしれないプロイセンの
フリードリッヒ2世は、マリア・テレジアの夫が即位することを認める条件に、
シュレージエン(シレジア)地方のいくつかの領地の割譲を求めてきました。

オーストリア宮廷がもちろんこれを拒否すると、プロイセン軍はバイエルン、
フランス、そしてザクセンなどの支持を準備して、1740年12月16日、
オーストリアの不意を突き、シュレージエンに侵攻を行いました。

マリア・テレジアはフリードリヒ2世の侵略に激怒します。

Friedrich2 jung.jpgフリードリッヒ2世

 

ちなみにこの時マリア・テレジア32歳、フリードリッヒ2世38歳。

前回なぜこの二人の婚姻が実現しなかったか、理由を説明しましたが、
改宗問題とマリア・テレジアに想い人がいたという阻害原因さえなかれば、
この結婚は成立したでしょうか。

答えはナインです。(一応ドイツ語で)

フリードリッヒ二世は若い頃、イギリスの王女と結婚させられそうになって
脱走を図ったことがあるのですが、この時に逃亡を手伝い一緒に逃げたのが
近衛騎兵少尉、ハンス・へルマン・フォン・カッテという人物です。

フリードリッヒ2世の側近であり「親友」でもあったという青年で、
この二人は同性愛であったとも言われています。

つまり、プリンツ・オイゲンに続き?このヨーロッパの武人として名高い
フリードリッヒ二世にも限りなくゲイ疑惑があるのです。

その後も結婚はしましたが、相手の女性には全く関心を示さなかったとか、
ヴォルテールに入れ込んでたとか、部下に膝枕してもらったとか、
目をつけられた部下はお声がかかったらお相手しないといけなかったとか、
本当かどうかはわかりませんが、そんな話はたくさんあったそうです。


ところで、息子の脱走事件に激怒した父フリードリッヒ・ヴォルテール1世は、
カッテ少尉を処刑し、それを見ることをフリードリッヒ二世に強要しました。

「許してくれ、カッテ!」

「私は殿下のために喜んで死にます」

窓から手を伸ばしているのがフリードリッヒ2世です。
その後、彼は父帝の命令で長らく幽閉されていました。

しかし、こんな父子の仲を取り持って、最終的に
息子が父の後継となれるようにしたのは、何を隠そう、
マリア・テレジアの父カール6世だったのです。

要するにマリア・テレジアの父もフリードリッヒ二世が
どういう性癖かよく知っていたことになるので、そんな男と愛娘を
結婚させるつもりは万に一つもなかったに違いありません。


とにかく、そんな二人を首長とする二つの国がぶつかり合うことになったのです。
マリア・テレジアは2万の兵を出兵させますが、結果はプロイセンの圧勝。

バイエルン、フランス、スペインの三国に加え、プロイセン、ザクセンが
同盟を組んで、オーストリアは八方塞がりになってしまいました。 

◼️オーストリア=ハンガリー帝国爆誕

ハンガリー女王マリア・テレジア

そこで彼女がどうしたかというと、ハンガリーに救いを求めたのです。

兵力を出してもらう代わりに自分が女王となって特権を与える、
というのはいまいちよくわからない同盟ですが、とにかくこれで
オーストリアは精強なハンガリー軍の兵力を手に入れることになりました。

そして 特筆すべきは、マリア・テレジアはこの頃、第4子である
カール2世を出産していたということです。 

 

オーストリア継承戦争は1748年のアーヘンの和約によって終結しました。

その結果、オーストリアはハンガリーと組んだのが幸いして、各国に勝利し、
侵攻された土地はすべて奪い返しました。
これによってマリア・テレジアは実質的な神聖ローマ皇帝位も確保したのです。

この時、フランスはここぞと相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やして
オーストリアの弱体化を図ったわけですが、逆に失敗し、それが
フランス革命で自らの滅ぶ遠因を作ることになりました。

イギリスなどもこの戦争において利益を得ることはなく、最終的に
一人勝ち状態だったのが
プロイセンのフリードリヒ2世です。

彼はこの戦争でシェレージエンをオーストリアから奪うことに成功した上、
数々の戦闘で軍事的才能を発揮し「大王」と謳われることになりました。

 

個人的にちょっと好きなので()もう少し書いておくと、フリードリッヒ二世は
哲学者でもあり、ヴォルテールと親しく、哲学書を著したのみならず、
芸術にも秀で、あの音楽家クヴァンツに薫陶を受け、サロンには名だたる音楽家を集め、
バッハ親子とも知り合いで、フルートをプロ並みに吹き、自分の楽しみのために
たくさんのフルート曲などを作曲したという才能の塊のような人物で、
ついでに大変な美食家でもありました。

ちなみに、セバスチャン・バッハの有名な「音楽の捧げ物」という曲集は、
バッハがフリードリッヒ大王に謁見した時にもらった「お題」をもとに
作曲されたものを集めています。

 

 

◼️ ヨーゼフ二世

いわずとしれたマリア・テレジアの長男。
神聖ローマ帝国皇帝です。

ヨーゼフ二世というとわたしが思い出すのが、映画「アマデウス」です。

「ヨーゼフ二世というと思い出すのが、映画「アマデウス」」の画像検索結果

これが似てるんですよね。本物に。 
映画は英語のセリフでしたが、特に皇帝が

「ふん・ふん↑?」

と鼻で返事するのが、なんとも皇帝っぽくて(英語ですが)最高でした。

ヨーゼフ2世とレオポルト2世

衣装はこの絵を参考にして同じデザインで作っていますし、
俳優は絶対この絵に似た人を選んでると思います。

ヨーゼフ二世に対する後世の評価は、

啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうともした
啓蒙専制君主の代表的人物であった。
その政策と思想はヨーゼフ主義と呼ばれ、その急進的改革ゆえ
「民衆王」「皇帝革命家」「人民皇帝」などのあだ名がある。(wiki)

など、決して悪くありません。

ただ、何がきっかけはわかりませんが、彼はフリードリッヒ2世の熱烈なファンで、
よりによって母親の天敵をヒーローのように崇拝していました。

マリア・テレジアにしたら、これは決して許せないところだったでしょう。



ところで、この大作には、下に一人一人の名前が全て記載されており、
全員が実在の人物であったことを表します。

右からハンガリー軍のアンドラス・ライヒスグラフ・フォン・フタク伯爵
エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン元帥
白馬に乗っているのがヨーゼフ二世
フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー伯爵(元帥)、
フランツ・ヨーゼフ1世リヒテンシュタイン公。

そして、一番左の少年は、のちの神聖ローマ皇帝フランツ2世です。

ヨーゼフ二世にも男子が生まれなかったため、甥にあたる
トスカーナ大公の息子である彼をフィレンツェから呼び寄せ、
後継者として教育していました。

フランツ2世は、のちにオーストリア帝国を再編し、自らを
フランツ1世と改名しております。

彼の業績で特に有名なのが、あの「ウィーン会議」を開いたことであり、
メッテルニヒを採用したことでしょうか。


 

◼️ヨーゼフ二世の命を奪った澳土戦争のマラリア

ヨーゼフ二世の時代、オスマン帝国との間に澳土戦争が起こりました。

オーストリアがなぜ度々トルコと戦争しているかというと、
地図を見ていただければお分かりのように、こ国土が隣り合っていたからなんですね。

この時、最前線のオーストリア軍はマラリアなどの病気に襲われ、
「エピデミック」の様相を呈し、軍の半分が罹患していました。

この時ヨーゼフ2世は戦時中は最前線にいたため病気に罹り、
これがもとで1790年2月20日に死亡しました。

澳土戦争時代に使われていた槍の各種。

軍楽隊の楽器も展示されています。

そしてここに展示されていた絵の一部。
前線になぜ女性や子供がいたのかはわかりませんが、
兵士が銃剣を突きつけているのは間違いなく平民です。

 

◼️ もう一度皇統継承問題

ハプスブルグ家

オーストリアハプスブルグ家の系図を改めてご覧になってください。
神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に始まった家系は、
マリア・テレジアとその夫フランツ1世で途絶えています。

彼ら二人のなした子供たちは、すでにハプスブルグ家の血を弾いておらず、
フランツの家系であるハプスブルグ=ロートリンゲン家に属することになり、

つまり彼らをもってハプスブルグ家は終わり、彼らから新しい家系が始まった

ということが一目でわかるでしょう。

 

最後に。

我が国の皇位継承問題について、特に現行の継承順位に物申す人たちに
ぜひ伺ってみたいことがあります。

現行の制度を改革し、

「男系論者を排除・打倒する」

というのは具体的に何をなさるおつもりなのでしょうか。

マリア・テレジアの時代なら戦争も辞さない不穏さです。
何しろ「打倒」ですから。

たとえそれが言論という手段を意味していたとしても、彼らが好む
まるで階級闘争のような物言いは、少なくともこの問題を論じるに相応しくありません。

政府見解として出されたのに同じく、

「皇室についての議論は静かな環境で行うべきではないか」

 と、わたしは臣民の一人として彼らに提言したいところです。

 

 

続く。