ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

HOARDERS~「汚部屋物語」再び

2013-07-31 | アメリカ

またアメリカで妙なテレビショウをウォッチングする季節がやってきました。

この「Horders」は、以前「hording」というタイトルのときに紹介したことがあります。
今回アメリカに来てみたらこの「ため込み」を意味するタイトルが
「貯めこむ人たち」になっていました。
題名は変われども相変わらずゴミ収集業者がスポンサーになっていて、
周りの「見かねた親族」が番組に通報し、精神科医が訪れてカウンセリング後、
ゴミ収集車が三台表れてみんなで部屋をカラにしてしまうというパターンは同じ。



以前と少し雰囲気が変わり、ミステリーまたは幽霊屋敷探検番組みたいな
おどろおどろしいロゴが多用されています。

Hoarderとは、「貯めこみ、それをしまいこんでいる」という意味です。

「300万人以上が『貯めこみ』に囚われている。
これはそのうち二人の物語である」

こんな字幕の後始まる「汚部屋(というか汚家)」ストーリー。
毎回二人の貯めこみ屋さんが取り上げられます。



いきなり波乱を感じさせる黒猫の映像。
これはいわば「伏線」というやつです。

 

今日の貯めこみ屋さんは、「生理的にも落ちるところまで落ちた」タイプ。
全てのものが堆積して腐り、腐臭を発して近所から苦情が出たのです。

 

今回「通報」してきたのはこの娘ではありません。
娘は、母親に愛想を尽かし、10年前に縁を切ってそれ以来です。
自分が引っ越した後母の世話を祖父に任せたといいますが・・・。

 

その祖父、つまり貯めこみ屋さんの父親ですが、娘がこんな生活をしているのを
全くケアしてこなかったようです。

彼は自分の妻、すなわち当事者の母を病気で亡くしました。
彼女が「片付けられない人間」になったのはそれからだと言います。



今日の貯めこみ屋さん第一号、ロビン。
「母が死んだときわたしも死んだの」などと言っています。
この、「大事な人」(大抵母親)の喪失感で、生きる意欲を失くし、
その結果として身の回りを片付けることができなくなったとする人は、
この番組にほとんど毎回と言っていいほど登場します。

「片付けられない」というのが精神の異常であることを端的に語る例です。
そして、その欠損を過食などで補おうとする人もいますが、
この人の場合は・・・



その辺の野良猫にたんまりと餌をやり「猫おばさん」となることで
心の空洞を埋めていたと思われます。

 

別の日の「Horaders」より。
こういう、動物に愛を注ぎすぎるタイプと「貯めこみ」は時として両者を兼ねます。



これは「犬を貯めこみすぎた人」の回。
犬はネコより鳴き声が大きく匂いが強烈なので、周りが通報するのも早いようです。
こういう例は動物愛護協会に通報されることも。

 

続いて今日の二人目。
何回に一回かは男性が登場します。

 

見ようによっては男前と言えなくもないこの男性。
50歳で名前をケンといいます。
彼は近所からの通報で、市から

「二週間以内に自宅を完璧に清掃すること、
もしできなければ6か月牢屋入り」

と通達されてしまいました。
ひえー。
アメリカの行政って、厳しいんですね。

 

ケンには32歳と若い奥さんがいて、ちいさい子供までいますが、
奥さんは彼が何でもかんでもため込むので嫌気がさして出て行きました。
50歳の男にしては結婚が遅いのでは、と思ったら、

 

やっぱり。
別れた妻がいて、彼女との間に娘もいます。
やたら明るいこの娘、今回はお父さんを助けに出てきました。
牢屋に入らなくても済むように、一緒に片づけをするつもりです。(涙)

 

方や猫おばさん、ロビン。
次に出てくるのが「ホーダーズ専門」の(そんなのがいるのね)精神科医。
10年ぶりに母の家に足を踏み入れるという娘を伴って、ロビンのうちに訪れますが・・・・。

 

娘はあまりの惨状にショックを受け、パニックを起こして叫び、
ドアからUターンして外に出て泣き崩れます。

 あd

ドクターも、マスクをせずに家に入ることができないほど。
それでも彼女はこういう患者を山ほど見てきているらしく、
マスクをする前に「わたしの唯一のアクセサリーなのよ」と冗談を・・・。



パニクる娘を何とかなだめ、本日の「お掃除隊」が集まり、
「やるぞ!」おー!」と気勢を上げて片付け開始。

 

「これがダイニングテーブルです」

って、テーブルなんか影も形も無いだろっていう。
百戦錬磨のお掃除隊隊長をして
「いままでこんな匂いを嗅いだことが無い」
なんて言わせるほどの立派な汚家。
そしてこのあと、お掃除隊はさらにショッキングなものを発見した!

 

 

アウチ。

こっ、これは・・・・・・猫の骨?
そして気のせいか、猫の形をしているような物体が・・・・・。
ガクガクブルブル(AA省略)



スタッフは気を遣って猫のご遺体を集め、箱に入れてロビンに
「ほら、あなたの猫たちの骨だから」

そういうことを気にするような人であれば、今まで何匹もの猫が
家の中で死んでいるのを放置しているわけはないのですが・・・。

しかし、彼女はいとおしそうに箱を抱きしめて
「庭の隅に埋めてやるわ」

うーん。なにかが間違っている。


 

・・・・・・・・・・。

ということです。
意味が分からなければ、是非にとは奨めませんが調べてみてください。

 

娘さんは10年間放置していたにもかかわらず、この惨状に怒り心頭。
何度も文句を言ったのに彼女は聴いてくれなかったことと、
もうこのままこの家ごとどこかに捨ててしまいたい、と語ります。

母親ならもう少し何とかするべきでは、というのは第三者の考えで、
いくら言っても言うことのきかない家族に手を焼いて、
あるいは見放してしまうというようなことはどこにでもあることなのです。

といいながらもサクサクと仕事は進み、

 



使用前、使用後。
それでもかなり汚いですけどね。
取りあえずダイニングテーブルが出てきました。

 

でも、このやる気のないロビンの態度。
アフターケア基金というのが出るにもかかわらず、
セラピーを受けることには興味がないと。

これでは元通りは時間の問題では・・・。

家のリペアのために7万5千ドルの予算が無ければ、
市は家を取り壊すしかなく、しかもその予算ほぼ1万ドルがロビンに請求されると。

その1万ドルも出せなかったら、さて、どうなるのでしょうか。


 

かたやこちらはケンの家。
ケンを訪れたのは偶然ですがロビンという同じ名前の精神科医。
この人も、「汚家のひと」専門だそうです。

 

こちらは蜘蛛が捕食中。
ケンは「片付けなければ牢屋入り」ですので、本人もどうしようもないことはわかっています。

しかしこの人、やたらに前向きというのか頑固というのか、
これだけ散らかしていても自分は間違っていない、という態度を崩しません。

ドクターに対しても「これはカビじゃないよ。ぜったいカビじゃない」
などとカビだらけの食べ物を見られてもこんな風に強弁します。

「寝てたね」と言われるとなぜか「寝てない!」と怒る人みたいです。



貯めこむことに取り付かれる人は、自分の行動や自分自身を正当化しようとする
傾向がある、と一般論を語る精神科医。
ケンもまたその傾向ありありです。



ただこちらは娘に慰められ、また、このままでは牢屋入りなので、
ようやくやる気を起こして、片づけ隊を受け入れることを受け入れました。

 

お掃除隊の隊長と隊員たち。
ケンが従順なので今回はやりやすそうです。

 

 

しかし、なんのためにこんなものを?
というようなものを山のように買って、ケンさん使わずに貯めこむようで。
食べ物も同じ調子なので、冷蔵庫の中で野菜が悲惨なことに・・・

 

お掃除隊の隊長も、牢屋に入るかもしれなくなったということが、
いわば「良い選択」へとケンを追い込んだ、という風に語っています。

ただ、その選択は自分の意志ではない、ということが今後どう彼に作用するかは、
神のみぞ知る・・・・・というか、はっきり言ってあまり期待できないという気はしますが。

 

言い訳したり怒ったりしながら、何とか部屋は片付いて、

 

こちらもビフォーアフター。

ケンは週明けには裁判所に行かねばならなりません。
つまりこの片付けが終了したのは市の決めた二週間の猶予期限ぎりぎりだったわけです。

 

一応そんなこんなで牢屋に入ることを逃れたケンですが、
奥さんと子供は戻ってきてくれません。

どう見ても愛想を尽かされています。
というか、もともとこの女性はケンのことを本当に愛して結婚したんでしょうか。

もしかしてこのフィリピン系女性の永住権狙いとか・・・そんなことをつい勘繰ってしまいます。



さて、このシリーズにはよく言えば「夢追い人」、実は「オレ様の世界」に浸ったまま
現実世界に戻って来られない男性の話もありました。

 

ピンボールのような懐かしのレトロなゲーム機ばかり集めた
アミューズメントパークを開きたい、というのがこの男性の望み。

 

そのために、ゲーム機、そしてなぜかこのような人形を大量に集めています。
しかし、一応「アミューズメントセンター」をオープンしているにもかかわらず、
この店には誰も訪れることはありません。
そりゃそうだ、だれもいないだだっ広い空間にレトロなゲーム機と同じ人形が林立する店。

だいたい怖いよこの人形怖いよ。


 

 

この人形は彼自身を象って彼が作ったもので、彼の名前を取って
「ランディ人形」。
ゲーム機と自分のアバターを、体育館のような広い部屋にスペースもないほど
「貯めこんで」いるのです。

若いころは彼もこんな青年だったのでしょうね・・・。
誰も来ないゲームセンターを「ユニークなわたしの特別の場所」と誇らしげに語り、
100人もの「自分の若いころの姿をした人形」に囲まれて暮らす男性。

どう考えてもあなたには精神科医が必要だ。

 

と思ったら、来ました。
ランディの精神科医。
まあ、ただこの人、分析するばかりで結局何もアドバイスしないまま
番組は終わってしまうんですけどね。

つまりテレビ用の「やらせカウンセリング」というやつです。

 

もう、ランディ、自分の世界に浸りきっています。
目を輝かせて精神科医に向かって自分語りをするランディ。
もしかして精神科医、苦笑いしていませんか?

 

そして自分の夢の実現のために機械でほとんど床が見えないくらいの今の
「ユニークな」店から、さらに広いところに引っ越したいのだそうです。

右は今までの場所からゲーム機を運び出す片づけ隊ですが、
この店構えと入りにくそうな雰囲気をご覧ください。
これじゃお客は入ろうという気になりませんよね。

モノ好きな人が好奇心で一歩足を踏み込んだこともあるでしょうが、
きっと店主につかまって延々とこの店の「ユニークさ」を語られたりしたんですよきっと。
同じ人形に周りをぐるりと囲まれてね。


「片づけられない人のゴミを片付ける」ストーリーがほとんどのこの「Hoarders」。
この人がどうしてこの番組に出ているのか、いまいちよくわからないのですが、
番組としてはこれも立派な「貯めこむ病気」、彼本人にすれば
「テレビで店の宣伝してもらえて、引っ越しの運送代をもってもらえる」
という下心があって出演を引き受けたのかと思われます。

しかしこの案件、片づけ隊がもう重労働。
隊長さんはあまりにも重たいゲーム機を何往復も運んで、
手を機械とどこかで挟んで怪我してしまいましたし、



こんなものどうやって運べっていうのよ、な大物。
台車が重みで潰れたりして搬送現場は阿鼻叫喚。

 

その後、ランディはこの場所でアーケード、つまりゲームセンターを始めましたが、
新しい店にもやっぱりお客さんは来なかったようです。



あらあら。

おまけにセラピーを受けたり、アフターケアを受けることを辞退してしまったと。
今日もランディは懐かしのゲーム機をコレクションし続けているということです。

それにしてもこの人、何をやってコレクションを買う収入を得ているのかしら。




それでは最後にトリとして強烈な方を。

 

このヴィッキーさん。
部屋を散らかすのは基本形。

 

それだけではなく、息子を車に乗せているときにも、粗大ごみ置き場を覗いては
めぼしいものを漁って、持って帰ります。

 

「ほんとに恥ずかしくて・・・。
ゴミ置き場にダイビングしているお母さんなんてうれしいわけないだろjk」

思わず助手席で顔を伏せる息子。



息子にストレス与えてどうするよ、お母さん。
しかし、そんなお母さんにもこんな時がありました。

 

このころはまだ人生に絶望していなかったヴィッキーさん。
太ってはいますが、決して醜くはありません。
太った人の多いアメリカでは「こんなタイプが好き」という人は多いと思われます。
それが今や・・・・・。
何が彼女をここまでにしたのか。

批難されると、ベッドカバーをめくらないまま、顔まで隠して
ミノムシのようになってに寝てしまいます。

 

先ほどのロビン博士またしても登場。
彼女に説得され、別居中の夫や娘息子にも懇願されて、
ようやくものを捨てることに同意したのですが・・・・

 

言いたいことを言わせていたら、少しトーンダウンしたので、
娘さんがまた懇々と説得にかかります。

こりゃ大変だ。



でも、ほとんどを拒否の姿勢。



この娘というのが、髪を7色に染めて唇にピアス。
こういう風体の人に大正論で説得される実の母親って・・・・。

ここで事件発生。
片づけの手伝いに来ていた別居中の夫が、一応作業を中止して
ヴィッキーを説得しようとしていた一同を差し置いて、
彼女がその場を外したすきにバンバンとトラックにモノを投げ込み始めたのです。

 

飛び出してきて夫を怒鳴りつけやめさせようとするヴィッキー。
しかし夫も負けていません。
「お前が機嫌を直すのなんぞ待っていられるかあああっ!」

 

慌ててトラックからものを取り戻そうとする妻。

 

夫はお構いなしにその辺のものを放り込み、二人はもみあいに。
もう、修羅場です。
逆上して周りのスタッフに「出て行け!茶番はもうたくさんだ!」と叫ぶヴィッキー。

 

彼女の弟もしっかり母の血を受け継いで、部屋がちらかっているので、
この際一緒に片付けようとしていたようですが・・・。

 

あの。

どうでもいいんですが、どうしてここに軍艦旗が・・・・。
まあ、とにかくこれがヴィッキーの部屋で、右は片づけ後の息子の部屋。


 

外に出されたものをどんどんまた運び込むヴィッキー。
まあ、観葉植物は置いておいてもいいように思いますが・・・。
娘はもうどうしていいかわからない様子で泣きだしました。

しかし、娘息子がどうしてこのお母さんからまともに育ったのか。

昔々、子供たちが小さいころには彼女も「普通」だったということでしょうか。




結局、ヴィッキーはすべてのものを部屋に戻してしまい、
夫とは離婚してしまいました。
夫はなぜか片づけに来たオーガナイザーと一緒に働いていて、
セラピストを探していると言いますが・・・。
もしかして、元妻のごみをバンバン捨てることでこの仕事に「目覚めた」のかな。

こうやって「貯めこみに憑りつかれた人々」を見ると、
「片付けられない」は真に精神的な病気なのだということが良くわかります。
その精神が病む原因が取り除かれ、治癒しないことには
どんなに周りが強制的に彼女なり彼なりの身の回りをきれいにしてやったところで
何の解決にもならないということなんですね。



この一連の物語にそういう「虚しさ」を感じずにはいられなかったのですが、
一番印象的だったのが、この旭日旗。

こんなのアメリカで買えるのね・・・・。

ってツッコみどころはそこじゃないだろ。





オークランド航空博物館

2013-07-30 | 航空機

興味を持っていなかった頃には、そんなものがあることすら知らなかったが、
一旦関心を持つと今まで知らなかった世界がすぐそこにあったことに気付く。

皆さまはそんな経験をされたことはありませんか。

わたしにとって旧海軍の興味から広がっていった世界は、自衛隊の航空祭や基地祭、
観艦式に各基地の広報館などを教えてくれました。
そして、ここアメリカにも当然のことながらその気になればそのような世界があることを。


というわけで、大仰な出だしですが、ボストンにいるときにデイトンの航空博物館について
教えていただいたことから、西海岸でもそのようなものがないか調べてみた結果、
まずこのオークランド・アビエーション・ミュージアムに行ってみることにしました。

アメリカは基本長距離移動を航空に頼る国ですので(カリフォルニアだけでも日本より広いですからね)
国際空港以外にも個人のオーナーが離発着するための小さな飛行場がそこここにあります。
このオークランド空港もその一つで、住民は国内線の移動を皆ここから行います。
というか、この空港でも伊丹なんかよりずっと広かったりするんですが。

この空港の一部に、この博物館はあります。

 


こちらのGPSは、文字入力に時間がかかるうえ、勝手に解釈して他の選択を許さない、
実に使えない代物なのですが、珍しくこの時は順調に到着。

近くの道路は「(アメリア)イヤハート・ロード」「ドゥーリトル・ドライブ」など、
有名な航空人の名前を付けた道があります。

ドゥーリトル、という名前は日本人にとってネガティブな響きを持っています。
あの東京襲撃の実行部隊を率いたからですね。

アメリカ人というのは、自分の国で戦争が起こらないものだから、自分の国の軍隊が
他所でどんな残虐なことをしていて、たとえその証拠が写真として残っていても
あくまでもそれを正義のために行う正当行為とし、他人事のようにそれを見る傾向があります。

最近、イギリスの科学ジャーナリストが東京大空襲(ドゥーリトルではなくルメイの指揮した方)
で、10万人もの非戦闘員が死んでいることを知らなかった!と発言したというニュースを読みました。

「何を今さら」と日本人は思ったりするわけですが、
考えればこういった都市爆撃は明らかに国際法にも違反した攻撃なんですよね。
しかし、原爆もそうですが、こうした市民殺戮に対し日本は決してアメリカに謝罪を求めたりしません。

「戦争だったから」
「負けたから」

日本人のあきらめの良さと人を簡単に許すお人好しさからくる許容です。

しかし、最近韓国系米人の煽動に乗って、アメリカ国内に、日本軍を辱め、
批難するための「(捏造)慰安婦の像」を建てようとしているアメリカを見ると、

「日本ももうすこし言ってやっていればこんなことにはならなかったのではないか」

とすら思ってしまいますね。
だいたい、慰安婦を20万人拉致して殺害したなんて非現実的な話を
いったいどこの誰が信じるのか。

ああ、そうか。

アメリカとしては、でたらめでもなんでも「日本軍が慰安婦20万殺した」「南京で30万殺した」
という訴えを容認することによって、それで自分たちの一般市民虐殺と相殺できるなら
認めてしまうに越したことはないと、そういう考えなんでしょうかね。


終わったことだから、戦争だったからと日本人は全国の都市空襲で亡くなった市民の数を
アメリカに対してつきつけるようなことはしないで今日まで来ました。

だけど、日本を貶めるためにホロコーストまで捏造するような民族の行為に加担するならば、
温厚な日本人も、いつあの時の米軍の残虐行為を蒸し返すかしれませんよ?



・・・・いかんいかん、こんな話になると本題を忘れてしまって。


話を戻しますが、そんなわけでドゥーリトルはアメリカ人にとって英雄。
わたしも個人的に、軍人としてのこの人物はたいしたものだったと思っています。
因みにここにはドゥーリトル記念室もありました。

ところで、この冒頭写真の博物館の佇まいを見て、

「ただの格納庫なのでは?」

と思った方、あなたは正しい。
この博物館、アメリカに大量にある航空博物館の中では小規模な方で、
ひとつの格納庫と外部に何機か展示してあるだけなのです。



エントランスからふと見やると、このような残骸が・・。
室内にはこういう機体をメンテナンスする部屋もありましたが、
何しろ1981年に非営利団体によって設立された博物館ですから、
日本のそれとは展示方法もずいぶん趣がちがうのかと。
どんなぞんざいな飛行機展示がここでは見られるのでしょうか。

これは、別の意味で期待が高まりますね(笑)



Glasair SH-II FT 

うわー、ほんとにぞんざいだわ。
アメリカでは自家用車のようにこういう航空機が使用されるので、
このGlasair IIも、HPを見ると、まるで自家用車のようなノリで宣伝しています。

昨日の夜、ポールニューマンの「華麗なる賭け」をテレビでやっていたのですが、
ボールニューマン扮する実業家(実は大泥棒)クラウンがこんな飛行機で宙返りしていたような。



VARI EZE 

これもなんて読むのかわかりませんでした。
正式名がRutan VarlEze、「ルタン ヴァリーズ」でしょうか。

あてずっぽうで調べたら、アメリカの航空宇宙エンジニアで実業家でもある
「バート・ルータン」という名前が出てきました。

ボイジャーなどもこの人の製作なんですね。

この「バリ」シリーズは、いずれもルータン制作の組み立て式小型飛行機です。

繊維強化プラスチックを使用した航空機体としてさきがけとなったという意味で
歴史的価値があるそうですが、とりあえずここでは子供の遊び場になっております(笑)

というわけで、いよいよ中へ。
入口に「大人10ドル」と書かれたカウンターが、売店と同じ場所にあり、誰もいません。
奥に向かって声をかけてみましたがやっぱり誰もいないので、そのまま入っていきました。



ピンボールのゲーム台とパイロットおじさんがお出迎え。
せっかくなのでおじさんアップ。



おじさん、歯が一本欠けています。
かつて飛行機事故で九死に一生を得た名残りでしょうか。なんちゃって。
おじさんの持っている「Welcome Aboard」は、「御搭乗歓迎」という意味。

この写真を撮っていたら、入口に巨大な人影発見。
縦も横も大きな、ここの管理人さんでした。

「さっき入ったときに誰もいなかったので・・・」と言って、10ドル払いました。
ちなみにこのとき、わたし以外に見学しているのは男性が合計三名。



このあたりには「ボーイングストリート」というのもあります。
この「ボーイング・飛行学校」は、
「ライト兄弟のライト飛行学校」( Wright brothers' Wright Flying School)、
サンディエゴの「カーチス飛行学校」に対抗して、ここオークランドに1929年に作られた養成校です。



このころの航空学校で使われていた道具、教科書、卒業写真。

文句を言うわけではありませんが、(言ってるか)解説が全くないので
これが何をする道具か全くわかりませんでした。
右側はリモコンスイッチ(コード付き)、左はパイロット用の非常便利ツール。
(たぶん違うと思います)

 

この写真は誰か著名な人物というわけではなく、ここから第一次世界大戦のコーナーに
入るため、その概要を記した上に飾られていました。
最後の文章曰く、

第一次世界大戦には6千5百万人の兵士が投入され、双方の被害数は
2千890万人が負傷、捕虜、行方不明、戦死者850万人である。
アメリカは440万人が参戦し、負傷者22万4千人、戦死は12万6千人となる



まったくねえ・・・。

自分の国を護るための戦争ならともかく、このときのアメリカの参戦理由というのが

ドイツ潜水艦がアメリカ艦船を襲ったから
英仏への売掛金の回収を確保するため

というものですから・・・。(おおざっぱ)
どんな理由でも戦争に行かせられるものはたまったものではありませんが、
こんな理由でアメリカ国民は果たして納得して戦争に行ったんですかね。



第一次世界大戦と言えば・・・・?
連想ゲームではありませんが、こういうガスマスクが思い浮かびませんか?

化学兵器としてガスが使われ出したのがこの第一次世界大戦。
呼応してそれを防ぐためのマスクも兵装として出てきたわけですが、
このころの戦争というのは初期には馬がおおきな機動力になっていましたから、
人間だけではなく、馬のマスクも開発されています。

 

ついでに、海外サイトで拾った各種ガスマスク映像をどうぞ。

 

犬。
この毛並みはテリアかしら。



これは馬ではなくロバですね。
軍馬ならぬ軍驢馬。

馬用マスクを流用したのだと思われますが。
驢馬も戦争従事させられていたとは・・・・。


えーと・・・・これなんですか?



ミッキーマウス用。じゃなくて、小さな子供用。
これは第一次大戦のものではなく、アメリカが日本と戦争することになったときに
大量に出回った市民用ガスマスクではないかと思われます。



そして、なぜかアメリカ軍使用機のモデルが唐突に。

下の段は、左からアベンジャー、P51ムスタング、P-38ライトニング、
そして上の段には水上機のヴォート・キングフィッシャーとP-40ホークに挟まれて・・・・・・



ひっそりと零式戦闘機52型が。
日本機に関するものは、この小さな模型だけでした。
まあいいですけどね。






この辺の展示の仕方も実にぞんざいです。
左下のF‐4Uコルセアなんか、傾いたままだもの。



当時のヘルメットに軍服。



ヨーロッパに送られたアメリカ将兵たちの集合写真。
それにしても、このころこんな写真を撮る技術があったんですね。
(写真は長い一枚で、つぎあわせたものではありませんでした)

このたくさんの人々のうち、生きて大西洋を渡り祖国の土を踏むことができたのは何人だったのでしょうか。



この初期の飛行機ですが、どうもこの、

 

銅像の人物、ファン・”ジョー”・グゥエイという、オークランドの中国人が
1909年当時において製作し、自分で乗ってしまった、というものらしい。

日本語でどれだけ検索しても、この人物のことは出てこなかったのですが、
当時の中国系アメリカ人の英雄的存在だったようです。

それにしても「モンゴリアン」・・・。
アメリカで中国人の店に行くと、わたしはときどき
「Are you Mandarin?」と聴かれてしまうのですが、
チャイニーズというと国籍も含むので、「マンダリン」とは「中華系(アメリカ人)」
というときに使うようです。
この場合は「モンゴル系アメリカ人が」という意味でしょうか。

いずれにせよ、当時の中華系アメリカ人でこれだけのことができたというのは
彼が持っていたのは並みの知力財力ではなかったということでしょう。



籐で編まれた気球のかご部分。



しかし、この気球、ガスバーナーで空気を暖めて上昇させるって、
もうこの時点で不安だらけですよね。

つい先日も群馬で気球の墜落事故があり男性が亡くなっていますし、
2月におこったルクソールの気球事故では人災により気球が燃え、高度300mから墜落して
気球の事故としては最悪の19人が死亡、日本人観光客も4人亡くなっています。

こういう原始的な仕組みで飛ぶものって、いざというときに対処しようがないから
わたしは決して乗りたくないですね。



エンジンだけを展示してあるコーナー。



これはライト型エンジンです。



ニュージャージー、パターソンのライト航空機で作られたと書いてありますね。



Wright EX Vin Fiz (replica)

実にオールドファッション。
これも気球どころではない事故ったときの怖さがあります。
これはレプリカで、1972年に製作されています。

空冷エンジンを動力として飛ぶライト型の飛行機でした。



本当に飛んだわけではないのかな。
しかし、こんなシートベルト一本つけて空を飛ぼうというのがすごい。



1911年当時の初飛行の瞬間。
皆成功に喜んで手に手に帽子を振っているのが微笑ましいですね。

この「Vin Fiz」というのは、スポンサーだった飲料会社の出したドリンクの名前。
Vinはフランス語のワインですから、「ワイン・フィズ」をお洒落に言ってみた風でしょうか。



おそらくこれはその瓶に貼られたラベルだったのでしょう。



Monocoupe 110

1920年半ばごろ、若い広告マンのドン・ルスコムは、オープンコクピットの
「ジェニー号」に乗る機会があったのですが、そのときにこう考えました。

「もし飛行機のキャビンが部屋のようだったら、
ゴーグルやらヘルメットなしで、
そう、ビジネススーツのまま飛行機に乗って
移動することができるんだがなあ」


彼がすごかったのは、このアイデアを実際に形にしてしまったことです。
自分のアイデアでそういう飛行機を作ることを決め、デザイナーを雇って、
かれはこの「モノクーペ」を作ってしまいました。

どうも、これはさりげなくすごい「歴史的発明」だったみたいですね。

それまで飛行機というのは外気にビュービュー吹かれながら乗るものでしたから。



Glasair Lycoming 10-360

この辺になると、ほとんど自家用車のノリ。
グレーサー社で検索すると、この機種の操縦マニュアルがダウンロードできたりします。




Ercoupe 415 C


これも戦後の「自家用飛行機」ですが、この飛行機の広告が一緒に展示されていました。



”車の運転ではハンドル操作に加えて脚での操作をせねばなりませんね。

しかしエアクーペの操縦では、ハンドルに手を置くだけでいいのです。

世界一安全なエアクーペには「スピン防止」機構があり、脚を使う必要がありません。”

これが宣伝文句として有効なのか?
と現代のわれわれは思わず考えてしまうような宣伝文句が書かれています。
まあ、このころ自動車がオートマチック以前のコラム式マニュアルが基本で、
クラッチ合わせなどが非常に煩雑であったことを考えると、
これでも「じゃ飛行機買おう」となる人がいたのかもしれないとは思いますが。

こういった自家用機でここにあるものはほとんどが篤志家の寄付によるものです。
買い替えたりするときにこういう博物館に愛機を寄付するというのも、
アメリカの飛行機愛好家の一つの「名前の残し方」なのかもしれません。


オークランド航空博物館シリーズ、他の話題を挟みながらまたしてもでれでれと続きます。



記念艦三笠~三笠の食事

2013-07-29 | 海軍

海軍で使われていた陶磁製の食器です。
当ブログでもお伝えしましたが、横須賀の軍港めぐりツァーをしたときに、
お土産ショップでこれとそっくりの丼を見つけ、購入しました。



復刻版で、当時と同じ深川製磁が造っています。
また、兵員が使用したと思われるホーローの食器は



このようなもの。
このブルー、とてもいいですね。
桜に錨のマークが真ん中に入っていないあたりも味わいがあってよろしい。



さて、明治のころ、戦艦「三笠」の艦内に佐世保からの特派員が
その食についてレポートするため乗り込んでこんな記事を書きました。

この文章を現代語に訳してみます。
美文調なので少し苦労しました。


軍艦内の食事(佐世保特派員)

艦内ではどんな食事が一般的に取られているんだろう?
それを知るためにある軍艦を訪ねてみた。
案内されて士官室に入り、軍医長と大尉に来意を告げると、
ちょうどそのとき時間は三時。
夕食の三十分前だ。
ちょうど兵員の夕食を見ることができた。

厨房が献立を決め、軍医長が点検したこの日の夕食は

白米と割麦を混ぜ合わせたご飯に一皿の煮込みと
大根漬け二切れを添えたものだった。
煮込みは生イワシとレンコンである。

聴くところによると、陸軍の食事よりずっといいらしい。
「いつもこんないいものを出しているんですか」と聞くと、
軍医長は

「無論そうです。
海上権を掌握している我が海軍兵員に、
規定のものより落ちるような食事など出したことはありませんよ」

と笑って答えられた。
そのご自慢の献立とは?

十月一日

昼食 飯(乾パン、砂糖 黍粉) 
    煮込み(牛肉、馬鈴薯、タマネギ)
    汁粉(小豆、黍粉《トウモロコシ粉》砂糖△)

夜食 飯(白米 割麦 焙麦)
    煮込み(牛肉 サトイモ 菜漬け△)

朝食 飯(白米 割麦 茶)
    煮込み(味噌 干し魚△ ナス大根漬け)

十月二日(一日と比較してください)

昼食 汁粉をのぞく

夜食 牛肉の代わりにシイラ
    菜漬けの代わりにナス漬け 

朝食 大根漬けの代わりに菜漬け


この表で△の印の在るのは嗜好品に属する。
他は官給品。

嗜好品とは兵員各自が好みにより官給以外に購入するものなのだが、
実は官給品と同じなのだ。
これはどういうことかというと、艦艇では毎日兵員の一割に対し、
一人いくらいくら、というような俸給以外の手当てがあり、
これで嗜好品を購入することになっている。

しかし、名義は自費でも実質官給の一部みたいなものである。
それで毎日各自の好きなものを食べられるのだから、便利なものだ。

たとえば十月一日。

献立表にもあるように、この日、黍粉(ひきこ)と小豆の官給はあったが、
砂糖が無かったので嗜好品として特別に買い足したのだ。


さて、食事の時間は夏と冬では少し変わってくる。
冬季は朝食午前7時、昼食11時45分、夕食午後3時45分となっているが、
この日兵員が食卓に就くまでを実況してみると、

まず、主計長の指揮によって厨房はこのような規定によって献立表を作る。

一、パン185g以上 一、白米375g以上 一、魚肉150g以上
一、貯蔵獣肉150g以上 一、割黍150g以上 一、乾物75g以上
一、茶2g以上 一、焙黍3.7g以上 一、砂糖22g以上 一、その他

(註:数字が半端なのは匁から換算したからです)

献立表ができたら、艦長、主計長、軍医長で材料と献立表を詳しくチェック。
厨房は料理にかかり、まずは一人分、軍医長のために調理する。
軍医長はこれをまず目でチェック。
次に箸を取って味のチェックをするのである。

この日軍医長が鰯の肉と御飯を味わって「うまいうまい、上出来上出来」と褒め称え、
「検食の手続き、終わり!」と告げると、人数分の食事が食卓に並べられ、
さらにそれを副長、軍医長、主計長が巡検して回る。

そこでラッパの号令があり、兵員が食卓につくのだ。

こんな風に軍艦内の食事は丁寧な順序を経て、規律厳正のもとに行われるが、
なんだってこんなに夕食が早いのかというと、
停泊中に半舷員が夕食後に上陸するのでその便宜を図ってのことだと知った。

軍医長の話によると、食事量において十分考慮したつもりでも、
心身健康で血気盛んな若猛者ともなるとたちまちお腹が空いてしまう。
これを補うために小休憩のときには艦内の酒保が大繁盛となるのだ。

もっとも、夜間の仕事のためには夜食も勿論用意される。
とにかく、何百人もの健児にとって、艦内における唯一無二の快楽は

喰うことのみ!(笑)

こういう兵員たちの無邪気な様子は実に可愛い限りである。








California, Here I Come~カリフォルニアにやって来た

2013-07-28 | アメリカ

冒頭ですが、皆様にご報告があります。

このgooブログ、全登録ブログ数が190万飛んで8465です(本日現在)。
その星の数ほどのブログ中、開設1200日にしてランキングページの1ページ目、
「くるねこ大和」や「でぶアメショと愛の無い生活。」と同じページ、つまり50位以内に
ついに当ブログがランキング入りする日がやってまいりました。

当ブログ、ランキングを上げることを目的でやっているわけではないので、ブログランキングの
クリックを皆さまに押させるお手間をかけさせるなど畏れ多いことは夢にも考えもせず、
一度嫌がらせにあってからはコメントも承認制にして、表向きは非常に静かにやっております。

しかし大型掲示板や他ブログにURLが貼られたりすると、そのたびに順位が跳ねあがり、
しばらくすると沈静化するのですが、その前よりは少しずつ上のレベルで落ち着く、
ということを繰り返して、現在に至ります。

勿論、読者数イコール賛同者、あるいは好意的な読者であるとは全く思っていませんが、
多くの人々の目に触れることで、考えを共有して下さる方が一人でも増えるのは嬉しいことですし、
逆にそうだからこそ、内容には責任を持たねばならないと気を引き締める思いです。

というわけで、いつも読んでくださっている方、ご意見ご指示その他コメントをいただいた方、
この場をお借りして心からお礼を申し上げる次第です。


さて、本日タイトルを見てジャズのスタンダードナンバーを思い出す方のために、
ビル・エバンスの「California, Here I Come」を貼っておきます。

ボストンでの予定を終え、東海岸から西海岸へと移動してきました。
文字通り「カリフォルニアにやって来た」です。

例年、かつて住んでいたサンフランシスコで夏の間過ごしていたのですが、
息子が成長すると共に、今までのサマーキャンプの内容が物足りなくなってきたので、
去年から、思い切ってサンフランシスコから南に30分行ったところにある
スタンフォード大学のキャンパスでのITキャンプに参加させることにしました。

このあたりはシリコンバレー地域で、ごく近接してグーグルとアップルがあります。

冒頭写真は、今朝散歩した野生動物保護区域にある池ですが、
ここからはグーグル本社のビルが見えます。
中央の赤いビルディングがグーグル(もちろん一部)。




ボストンからサンフランシスコまでは7時間のフライトです。

昔子供用のチェロを持ち運んでいたころは、クローゼットの中にこれを入れてもらうため、
何が何でもファーストクラスに乗っていましたが、去年から楽器レンタルを利用することになり、
エコノミーを利用することができるようになりました。

しかし、この、アメリカ国内線エコノミーのシートピッチというのが、狭い。

「100キロくらいではデブとは呼ばない」という国で、日本の国内線より下手すると狭く感じるほど。
二席分買わなくてはいけない客はさぞ多かろうと思われます。

しかし、実はこれ、経営的観点で「料金ヒエラルキー」を作り出すための
意図的なものであることが今回はっきりと判明しました。

それがわかったのはフライトの少し前にユナイテッドからメールが来たときです。
メール曰く

「エコノミーからアップグレードしませんか?ファーストの席がまだ空いています」

どれどれ、と見ると、追加料金一人7万円。
なんか全然安くなってない気がするんですけど。
わたしも息子も体が小さいし、別にエコノミーでいいです。
ファーストで出してもらう食事だって、大したことないし。


しかしさらにメールを見ると、さりげなくこんな文句が。

「少しピッチの広い『プラスシート』 にも変えられますよ」

二人で140ドル出せば、とりあえず座ったときに膝頭が前のシートにくっつくことのない、
そしてトイレに並ぶ人が自分の横に立っていることもない、比較的快適な席に変えられると。

まあ、考えたら、7時間は長いしね。
日本から西海岸に行けてしまうくらいの距離だものね。
というわけで、まんまとUAの戦略に乗ってプラスシートにアップグレードしました。


いつもそうするように通路側の席を取ってから、「しまった!窓側にするんだった!」
もしかしたら、アシアナ事故の跡が見られるかもしれなかったのに・・・・・・・残念。


というわけで、サンフランシスコ空港に無事到着。
そこでまたもや問題が。

レンタカーを借りるハーツ・ナンバーワンクラブの掲示板に、案の定名前がありません。

何度も何度も同じことをここで書いてきた気もしますが、ここ何回かの渡米で
まともに名前が見つかったことの方が少なかったような。

しかも数人だけの列で済んでいたボストンと違い、ここは
建物から人が溢れるくらいの列ができているではありませんか。


ハーツナンバーワンクラブというのは、オンラインで車を予約し、
空港に付いたらカウンターに寄らずに、ただ、掲示板に示されている自分の名前を探して
指示されているロットに行けば、予約した車が停まっているのでそのまま乗っていくことができる、
という本来大変便利なシステムです。

時間の節約にもなるし、カウンターでいろいろと交渉するわずらわしさも無く、
だからこそ皆、わざわざメンバーになって利用しているのだと思うのですが・・・。

この日のハーツには、他の普通のレンタカー屋と同じくらい、いやそれ以上の人が
自分の名前を見つけられずに長い列を作って並んでいます。
おまけに一人一人にやたら時間がかるのに対し、係員はたった二人で対応しています。

こういうことには決して黙っていないアメリカ人、まず隣同士でお互いに

「わたし、予約しておいたはずなのに、なんで名前がないんでしょう」
「みな予約してたのに並んでるんだよ。全く時間の無駄だよ」

などとぶつぶつ会話を始め、そのうちなかでもとくに気の短い人がが係員に

「こんなに並んでるのにあんたたちたった二人って、どういうことだ」

なんて怒りだすのです。
まあ、それでも決して列を崩したり係員に暴力を振るわないのが中国人との違いです。

カウンターでこのとき対応していたのは中国系のおばちゃんとヒスパニックのおばちゃん。
中国おばちゃんがその客に向かって

「人がいないんです・・・・」

と悲しそうに告げ、客はそれで黙ってしまいましたが、
すぐにもう一人(黒人おばちゃん)が出てきたのには笑いました。
客に言われて初めて一人増やすなら、最初から三人でやれっつーの。

そんなこんなで気の遠くなるくらい待たされ(40分)、やっと順番がきました。

「どうしてわたしの名前、無かったんでしょう」
「予約の時間よりお客様の到着が遅かったからですね」

・・・・・・って、そんなこともありますよ。飛行機なんだから。

ようやく割り当て車の駐車番号をもらって、山のような荷物を積み込み、エンジンをかけました。
しかしその車は・・・・・・

カーナビが壊れていましたORZ

その辺をうろうろしている中国人のおっちゃんを捕まえて
「ナビ壊れてるんだけど」というと
「車代えてもらって」
「いや、40分カウンターに並んでようやく車をゲットしたばかりなんだけど」
「もう一回並ぶしかないアルよ」

もう・・・あんたたち何のためにここにいるの。

仕方がないのでもう一回、一から並びましたよ。きっちり40分。
同じタイプの車に変えてもらってパーキングを出たのは予定の一時間半後。
これじゃ普通のレンタカー会社の方がずっと早かったわ。



ボストンからの飛行機代を節約したので、今年もメルセデスを借りることにしました。



ホテル到着。
キッチン付きの長期滞在型ホテル、レジデンスイン・マリオットです。
これも去年と同じ。



ここでもまた一難。

部屋に入るなり息子がトイレに行ったのですが、いきなり水が逆流し床がびしょびしょ。

そういえばちょうど目黒の技術研究所の記事で「プランジャー」の説明をし、
「五つ星ホテルでもプランジャーが要ることもある」と書いたばかりでした。
ましてや長期滞在型三ツ星ホテルにおいてをや。
さっそくそのような状態になってしまったわけです。

しかしこれはひどい。
ハーツで気力を使い果たして、自分で何とかしようという気には全くなりません。
そのまま電話を取り上げて、

「トイレから水が溢れたから、部屋変えてください」
「本日、他にはもう部屋ありません。すぐに人をやります」

あわててフロント係は、アメリカには珍しく5分以内に対処をしてくれました。
本当に部屋が無かったのかどうかは激しく疑問です。
単に仕事が増えるのが面倒だったのだとわたしは思っていますが。



取りあえずお腹が空ききっていたので、晩ごはんを食べに、ホテルから車で1分の
オーガニックレストラン、ホールフーズに行きました。



アメリカのスーパーマーケットはどこも体育館くらいの広さがあります。
ここも、右全部がジュースの棚。左は全部シリアル。



このあたりは中国人も多いので、「テリヤキボウル」「スシ」コーナーにいるのは皆中国人。
皆日本の「大漁はっぴ」みたいなのを着ています。

「テリヤキボウル」は、ご飯を玄米、白米から選び、その上に野菜(青梗菜など)が乗っていて、上には
ダークミートかホワイトミートのチキン、サーモンのテリヤキソース掛けを乗せます。
ソースやゴマをかけるかどうかも聞いてくれます。

ホテルでは、朝ごはんは勿論、月曜から木曜までは、夜、ちょっとした一品にサラダ、デザート、
ワインやジュースなどといったものもコンプリメンタリーで提供され、
基本一日二食のわたしは、朝自分でサラダを用意するくらいでほとんど料理もせずにすみます。



週末には野外でバーベキューです。



建物のところにはバーベキューグリルがあり、テーブルにサラダや果物などがならんでいます。
皆好きなだけ取って、屋外のテーブルでディナーを楽しんでいます。

これは6時半くらいなのですが、このあたりは8時過ぎまで太陽が沈まないので、
晩ごはんと言ってもさんさんと太陽の明るいところで食べることになります。

プールでは子供たちがまだ遊んでいて、プールサイドに食べ物をせっせと運んでいました。



月曜からはスタンフォードでのキャンプも始まりました。
初日は保護者も車から降りて、サインアップします。
一度登録が済んだら、あとの日はロータリーに子供だけ降ろすドライブスルー方式です。


ボストンと違って、ここでは雨が決して降らないので、登録のテーブルはいつも屋外にあります。

このあたりは、朝起きるといつも曇っているのですが、8時くらいになると太陽が出てきて
日中はずっと猛烈な日差しが照りつけます。
しかし、湿度がとても低いので不思議と汗はかきません。
息子は室内は「寒いから」と、二日目から長袖シャツで行くようになりました。

陽が沈むと同時に気温がガクッと下がり、外にいると震え上がるほどになります。



キャンパスに行く途中の道沿いにある、

「石にされていたが、魔法が解けたと思って『いえーい』と喜んでいるときにまた石にされた」

と我々が名づけたわけのわからない彫塑も健在。
左端の子が、花かご持ってますね。

「もしかして、なんか事故で亡くなったこの町の子供とかだったりして・・・」

今回、この子供たちの正体をぜひ確かめてみようと思います。



キャンプの終了は5時。
今年は去年の倍くらいはいるのではないかと思われるほど、迎えの車が多いので驚きました。
ピックアップの時間は「5時から6時までの間」です。
こうやって並んで、朝車から降ろしたポイントまで行くと、スタッフがインカムで
子供の名前を呼び出してくれます。
子供は親が来るまでの間、芝生でスタッフや同じクラスの友達と遊んで待っています。



週明けにはチェロを借りることもできました。
ボストンでもここでも、借りることのできる最小単位が3か月なのですが、背に腹は代えられません。
今回、どちらもわりといい楽器をかりることができて、わたしも息子も非常に練習が捗っています。



先日、用事があってサンフランシスコまで行ってきました。
これはサンフランシスコの向かいのオークランドからベイブリッジを渡っているところ。

オークランドには小さな空港があるのですが、ここに航空博物館があるので見学してきたのです。
そのご報告はまた後日。



サンフランシスコのチャイナタウン近く。
人々のいでたちをご覧ください。
ロングコートの人物がいますね。
7月の下旬なのにセーターに背広、これがサンフランシスコです。
体感温度としては日本の11月くらいの感じでしょうか。
陽射しはそれなりに強いのですが、何しろ風が冷たいのです。



これもサンフランシスコ名物、急な坂。
バスが通るような道でもこのありさまです。

こんなところなのに、というかこんなところだからか、この坂の多いゾーンには
ほとんど信号はありません。
交差点では、車は必ず一旦停止することが義務付けられており、対向車がいたら
先に来ていた車が優先で、そのあとは基本的に時計回りの順番で通行します。
たまに「自分の方が先に来ていた!」とばかり順番を抜かす人がいて、
(たいてい男なんですが)非常に危ない思いをすることがあります。



ところで、去年から感じたのですが、アメリカの経済はシェールガスのこともあって、
そんなに悪くないらしく、あちこちに新しい建物が立ち、お店がオープンしていて、
去年空き地だったところが今年いきなりアパートになっていたり、なかなか活気があります。

去年工事が始まって、書き割りのような板がぺらっと一枚だけ立っているとおもったら
今年はなんと「セーフウェイ」という大型(皆大きいですが)スーパーになっていたり。

キッコーマンの醤油などはホールフーズには置いていないので、一度セーフウェイに
買い物に行ったのですが、そのとき、例によってケーキコーナーで足が止まりました。



出た。黄色いケーキ。

たとえばバナナケーキとか、マンゴームースとか、
黄系統の色のケーキも日本に無いわけではありませんが、このようなまっ黄色ではないですよね。
左下のブルーは、なんというのか・・・・・・・ラピスラズリの色?
フェルメールが絵具に混ぜて青に使った、というあの鉱石みたいな色。

いずれにしても体には思いっきり悪そうです。



緑にブルーの色鮮やかなクリームを乗せたカップケーキ。
だから、ブルーのケーキは食欲をそそらないと何度言ったら(略)



おおお、蛍光色で目がちかちかする!
というか、これ、クリームというより絵具にしか見えないんですけど。
・・・というケーキです。

カリフォルニア、特にこのあたりはシリコンバレーでありスタンフォードのお膝元。
スタンフォードというのは単に大学のことではなく、街一つぶんの広大な地域ですから、
ここにかかわる人々、インテリと呼ばれる人種も多いのですが、それとこれとは全く別。
どんなインテリでも、カロリー0のコークを飲みながら寿司を食べたり、
こんな絵具のような色を付けたケーキを喜んで食べたりするんですよね。

だからこそ100キロ超える人が普通にその辺を歩いていて、心臓病で死ぬ人が多いわけですが。

日本の大学や研究所みたいなところでは肥満の人はまずいないものですが、
スタンフォードのキャンパスはアメリカにしては明らかな「百貫デブ」はあまりいないとはいえ、
どう見ても「ゴールドバーグ教授」(仮名)みたいな人が、大きなおなかをゆすって歩いています。

アメリカとかかわりを持つようになって、もっとも不思議に感じたのが
「総じて食べ物に対する意識が低い。というか無茶苦茶な人が多い」ということでもありました。
知的層でもそうなのですから、ましてや普通それ以下の人々においてをや。


テレビのニュースキャスターなんかも、顔はきれいなのにウェストが結構太い人が多い。
皆がこうなのでまったく気にならないのでしょうけど。
確かに日本のテレビなどに出てくるような人は、痩せすぎという気もしますが、
ちょっとアメリカ人は全体的に「太目」の基準が高すぎる気がします。


というわけで、ここカリフォルニアで8月末まで過ごします。








目黒・防衛省~秋山真之像のあれこれ

2013-07-27 | 海軍

「秋山真之像」を画像検索すると、いくつかの写真が出てきますが、
それは記念艦三笠内か、あるいは愛媛県松山市秋山兄弟生誕の地のもので、
いずれもレプリカということになっています。
松山には「坂の上の雲ミュージアム」というのがあるそうですが、
ここにこの彫像のレプリカがあるかどうかはわかりません。


この「坂の上の雲」人気にあやかったと思われるミュージアムですが、
ミュージアムグッズ販売もしているのでどれどれ何が買えるんだろう、と
覗いてみたら、マグネットや携帯ストラップ、図録に絵葉書、
司馬遼太郎ゆかりのものはわかるとして、なぜか

安藤忠雄オリジナルハガキセット

いやまあ、ここが安藤忠雄大先生の建築で、それがウリというのはわかりますが。

わたしは、東京駅の駅舎がオリジナルの復刻というコンセプトで改築されたことを
心の底から評価する人間の一人で、そのことを話すときには

「安藤忠雄に依頼していたら、きっととんでもないことになっていただろう」

とつい逆説のマクラとして名前を出してしまうような認識しかこの人に持っていないので、
このミュージアムも、

「安藤忠雄に頼むお金があれば、レンガ造りの兵学校風にすればいいのに」

などとつい意地の悪いことを考えずにはいられないのですが、
行ったことも見たこともないので建物そのものに対する評価は控えます。


閑話休題。

今回目黒の防衛省地区に潜入し、といっても堂々とご招待を受けて
内部に立ち入ったわけですが、それはこの秋山真之像を含む、
防衛省所蔵の海軍ゆかりの品を拝見させていただくのが目的でした。


この秋山真之像は、三笠内にあるのと違い大変大きなものです。
四国松山の秋山兄弟出生の地にあるものは、

「許可を得て複製させていただいた」

という説明がされているようでしたが、大きさは同じではないかと思われました。


この胸像ができた由来について少しお話ししておきましょう。
日露戦争に第一艦隊参謀として参加、あの旅順港の閉塞作戦には
第一次、第二次共に指揮官として参加した、兵学校20期の

斉藤七五郎中将(1870~1926)

が、尽力し、秋山真之が海軍大学で教えた卒業生が中心となって
大正14年(1925年)にこの胸像を完成させました。

斉藤中将は秋山中将の兵学校は三期下。
日露戦争でも閉塞作戦でも参謀として参加した「同僚」でした。
大正7年(1914)、秋山真之が49歳の若さで病死してのち、
この偉大な天才参謀のよすがを残そうと胸像の建造に踏み切ったものと思われます。

そのときイタリア駐在武官であった都留信人(海兵33期・朝日特務艦長)は
海大では甲種15期卒で、やはり秋山の薫陶を受けた教え子ですが、
彼が窓口となって、イタリア人の彫刻家リナルディに制作を依頼します。


「リナルディ」としか名前が伝わっていないので、この彫刻家がどの程度
イタリアで評価されていたかはわかりません。
リナルド・リナルディという彫刻家がいたのは確かですが、彼は1873年に死亡しています。
もしかしたらこのリナルディはこの有名な巨匠の息子で、
当時はそれなりにイタリアでは活躍していたのかもしれません。

とにかく、都留駐在武官はリナルディに秋山真之の写真を二枚渡し、

「これで実物より大きな銅像を造ってくださいヘペルファボーレ」

困ったのはリナルディ。

「たったこれだけの写真で胸像造れって?
これはウンポーコ、ってかモルトモールト困りっシモ。シニョール・ツル」

「しかし写真しかないのですマエストロ。本人はモルトつまり死んじゃったから。
これが本当のモルトモルト。誰がうまいこと言えと」


というわけで、仕方ありません。
大変苦労しながらマエストロ、秋山像を完成しました。




写真でしか見たことはないけど、これ、似てるんじゃないですか?
まあ、写真に似せたから似ている、とも言えますかね。

しかし、リナルディも写真だけとはいえ、目鼻立ちのはっきりした美男である
秋山を彫塑することは、さして難しいことではなかったのではないでしょうか。

日本人には昔からこのようなくっきりした顔立ちが結構な確率でいますが、
秋山家もどうやらこの系統であったようです。
真之の兄の好古を演じたのは「ザ・濃い顔」代表の阿部寛ですが、今までの実在の人物に比べると
最もこの好古役は違和感を感じずに済むキャスティングだったと思います。

(しつこいようだけど、阿部寛に山口多門を演じさせた
『聯合艦隊司令長官山本五十六』をわたしは決して評価しません)

現存する好古の写真は晩年のものが多く、若いときにその容貌を称えられたという
美男ぶりは残念ながら想像するほかありません。
ただ、画像検索していると必ず出てくる、片目に包帯を巻いた写真、
これがもし秋山好古だとしたら、これは男前度は映画俳優レベルだったと思われます。

本人は「男、ましてや軍人に容貌の良しあしなどまったく論ずる必要なし」
という、これもどこまで本当かはわかりませんが、司馬遼太郎によると
どうもそういう質実剛健を絵に描いた男だったようです。

きっと女性は謹厳で酒席でも融通の利かなさそうな好古を敬遠したでしょうし、
弟は弟で、兄より若干やわらかかったとはいえ、こちらはかなりの変人で、
立小便したその直後、その手でアメリカ人女性に握手したり、出物腫れ物所構わず、
人前で平気で放屁し恥じる様子もなかった、という伝説から察するに、
容貌の割にはモテてモテて仕方がないというわけではなかったのではないでしょうか。
いざとなると女性がどんびきするようなことを言ったりやったり空気読まなかったり、
一般的にこういう男性がモテるなどということはあまりないものです。




・・・という与太話はともかく、彫像は完成。
1914年、六月にははるばるイタリアから日本に到着した秋山像。
その年の10月に、軍令部における贈呈式が、企画立案者の斉藤中将によって
行われ、秋山真之の未亡人が受取人となりました。

ただ、受け取ってもこの巨大な彫像、自宅に置くには忍びなかったのか、
その日のうちに改めて未亡人はこれを海大に寄贈することに決めました。



海軍大学は関東大震災によって罹災し、その後上大崎に移転しました。
戦前戦後を通じてこの像は海大と共にあったわけですが、
1945年5月には、おそらく戦局の悪化のため、海大は機能そのものを停止しており。
さらに終戦とともに廃止となりました。

そして、終戦後の嵐のような「軍パージ」が始まるわけです。

海軍大学関係者は、この像がGHQによって取り壊しを命じられたり、
あるいは混乱の中で遺失することを危惧し、その結果、
もとの所有者である秋山真之未亡人に依頼し、逗子の秋山家に密かに移管させました。

旧軍人が連合軍によってどのように自分が処せられるのか戦々恐々とする中、
日露戦争の功績者とはいえ、すでに死去している軍人の家に隠すとは、海大も考えたものです。

というわけで、戦後しばらくこの胸像は秋山家のどこか、人目に付かないところに
ひっそりと秘匿されていました。

そして昭和38年、ふたたび秋山家から自衛隊に彫像は返還され、
その後かつての海大であるここ海上自衛隊幹部学校が所蔵しているのです。


・・・・という大変に歴史的価値のあると思われるこの秋山像。
しかしそれにしては、なんだか落ち着きのないところにあるなと思われませんでした?
そう、ここは・・・・・・・・

エレベーターホールなのです。

倉敷に行ったときに当地の美術品収集で有名な地銀を見学したとき、
各界のエレベーターホールに必ず小さな彫塑が飾ってありましたが、
まさにあんな感じの場所です。
大変広いスペースには違いないんですけどね。

所有が幹部学校で、しかも幹部校は見たところこのビルのワンフロアを
使っているという規模であったので、これが一番妥当な場所であったのでしょうが。

実はここ幹部学校を訪れる訪問者は本来ならばこのエレベーターでこのフロアに上がり、
まず真っ先に秋山中将像を目にするはずなのです。
しかし、わたしが見学に訪れたこの日には正面のホールが強風のために閉まっており、
別の入り口から案内していただいたため、この像を見たのは他の所蔵品を見学した後でした。

全体が海上自衛隊だけの所有ではなく、
このときも1階のフロアにはカーキの軍団がたむろしていましたし、
正面玄関にどーんと、というわけにはいかないのかと思われますが、
他でもない、今や海軍を象徴する人物となっている秋山真之の、
しかも、海大関係者が進駐軍から守ったこの胸像、
もう少し改まったところで観ることができればという気がしないでもありません。

この日見せていただいたいくつかの所蔵品と共に、
まさに倉敷で観たような独立した資料室にして展示できないものかとふと考えた次第です。









ボストン美術館~わたしの好きなコレクション

2013-07-26 | アメリカ

ボストン美術館のコレクションで、とくにわたしが好きな絵をご紹介します。

これは、「ボストンコモンの黄昏」Boston Common at twilightという、
ハッサムの作品。
雪の積もった冬の景色なのに、なぜか観ていると暖かさを感じるという・・・。

わたしはこの絵が大好きで、ボストンに住みだしたころ美術館のアートショップで
この額を買い求め、以来ずっと寝室に飾っているほどです。

夕暮れの逆光に鳥に餌をやる女の子、それを見守るファッショナブルな若い母親。
これだけでも好きなモチーフですが、なんといってもこの景色は、
いまだに全く同じところで見ることができることも好きな理由。
後ろにトロリーバスの走る通りはトレモント・ストリートといい、このあたりに
免許センターがあったりします。

このあたりの建物はおそらく法律で保存することが決められているので、
1880年に描かれたこの絵と同じ街並みがそのままであるのです。

まあ、なんといってもここは地震が決して起こらないところですからね。
レンガ造りの建物は、マグニチュード3レベルでも跡形もなく崩壊するに違いありません。



題名も作者も知りませんが、いいなあと思ったので。

アツアツです。

恋に耽溺している二人は、世界から切り離されたような二人だけの世界に
彷徨ているように感じるものですが、
そんな恋人たちの情熱が見ているこちらにも伝わります。

男性は画家なのか、画板を膝に置いて一応仕事をしてるふりをしていますが、
女性が不自然なくらい顔をくっつけて、どう見ても邪魔してます。
男性はまったくそんなことはお構いなしで、片方の手で彼女の手を握ったりしています。

しかし、こういう奇跡のような時期は、あっという間に終わります。(断言)

だからこそ恋は美しい。
BUT BEAUTIFUL というジャズのバラードを思い出します。

Love is funny or it's sad.
Or it's quiet or it's mad.
It's a good thing or it's bad.
But beautiful.

命短し恋せよ乙女、ってところですね。



おそらく、ヘロデ王の幼児虐殺を逃れてエジプトに逃亡した
ヨゼフとマリアとイエスキリストの話だと思います。

マリアの抱く幼子イエスが自然発光しているわけですが(笑)
それにしても、ヨゼフはどこに行ったのでしょう。



好きな絵、ということは決してありませんが、懐かしい絵です。
小さいときにうちにあった画集には、このマネの「マキシミリアン皇帝の処刑」
の完成版(ここにあるのは下絵)がありまして、



これですね。
マキシミリアンとやらがどうしてこんなに色黒なのか、とか、
一人を処刑するのにどうしてこんなにたくさんで撃つのかとか、
幼心にいろいろと考えてしまったものですよ。

マキシミリアン皇帝はメキシコの海軍少将だった人で、皇帝になってから
クーデターを起こされ、処刑されてしまいました。



今回調べていたらこんなドラマチックな「処刑執行の朝」のシーンが見つかったので、
まったくボストン美術館とは関係ありませんが、貼っておきます。

処刑告知された本人が冷静に周りを慰めるの図。



ミレーの「種まく人」。

これも小さいときは怖かったですね。
どうして農作業をしているのにこんな真っ暗なのかとか、
どうして顔が見えないのかとか。

この「種まく人」、世界に二枚あるのですが、そのうち一枚がこれ。
もう一枚は何と我が日本の山梨県立美術館が持っているのだそうです。
知らんかった。

これまでなんどか、この二つの「種まく人」、両美術館の計らいで
並べて展示されたことがあったそうです。

どちらが本物、というかサロンに出品されたものであるかは、最近の科学調査で
「山梨のものが本物である」ということがわかったそうですよ。




おお、どなたかは知らぬがお美しい。
美術的価値とかなんとかより、モデルがきれい、もうこれだけで説得力ありまくり。

バラ色の肌、黒髪に知的なまなざし、
白のタフタのドレスには、ブルーのサッシュがとてもお洒落。
黒のレースを斜め掛けしたのは、彼女の黒髪に合わせたのでしょうか。

こんな美女がいたのだなあ、と思わず眺めてしまう魅力に満ちた作品。



そうかと思えば(笑)

ここまで(おそらく)リアルに表現せねばならんかったのか?
もう少し美化してあげてもよかったのではないか?
と、ついリアリストの彫刻家を心配してしまう出来。

フランス革命の大物、ミラボー卿。

あばたで有名だったその月面状のお肌と、大きなイボまで克明に再現。



なぜかいきなりここで現れたストラディバリ。
どうしてボストン美術館に展示されているのだろうか。

と思ったら、これはナポレオンの息子にプレゼントされたものだそうで。

ナポレオンはかなりの音痴だったという話があるので、このヴァイオリンを弾いた
ナポレオンの子息も、大して練習もしなかったのではないかと思われます。
せっかくのストラディバリも、猫に小判だったわけですね。

楽器は弾かないともう鳴らなくなってしまうので、このかつての名器も
おそらく今はただの飾りとなってしまっているのでしょうが・・・・

・・・・もったいない・・・・。



これも好きって絵じゃありませんが、目を惹きました。

肉の解体屋なんですね。
左の下の方に固まった毛皮のようなものは、剥いだ牛の皮。
上のテーブルには牛さんの耳の無い頭がどーんと乗っています。

おかみさんは作業中。
飼い犬は牛の下にある血を受ける皿を舐めております。

牛の胸郭部分に掛けられた紙か布は何のためでしょうか。

この時代、こんな風に個人が解体屋として生業としていたことが、
画家のおかげで詳細に後世に残ることになったのです。



今まではヨーロッパの部分でしたが、ここからはアメリカ芸術。
ボストン美術館は当然ですが、アメリカ芸術の収集も充実しています。



この絵の周りには実は子供がいっぱい床に座り込んでいて、
先生の説明を受けながら一生懸命何か書いていました。
今の季節ですから、サマースクールでアートを専攻した子供たちかもしれません。

ドラマチックな内容ですが、これはボストン生まれの画家コープリーが、
船乗りの少年ブルックワトソンが海に落ちて鮫に襲われた様子を描いた

「ワトソンと鮫」。

どうしてワトソンは何も着ていないのか、
そしてこのあとワトソンの運命はどうなったのか。

前に立って口を押えながら観ているこの女性も、同じようなことを考えているに違いありません。



いかにもアメリカ人らしい男の子。
この壁紙や、一緒に展示されている家具の類いも時代を統一しています。



この女性も、決してヨーロッパではない、アメリカ人ならではの顔ですね。
ニューベリーストリートを歩いていそうな女性です。



この真ん中の絵も、この美術館の有名作品。
アメリカ女性らしい赤毛と、淡いピンクのドレスがふんわりとして、
とても気持ちのいい絵です。

 

どちらもかけてある壁の色とのマッチングが素晴らしい。

左はミュシャの影響を受けているような。
右はアールデコっぽい。



夕焼けを見ていて「この美しさを永遠にとどめたい」
と思われたことはないでしょうか。
きっとこの画家も同じように思ったのでしょう。

どこかで見た夕焼けの景色。



月夜に船を走らせる人々。
明るい満月と、岸に見えるたき火の光の色の違いが幻想的な夜の景色です。



晴れているのか曇っているのか、朝か昼か夕方か、
全くわからない不思議な天気。
まるで夢の中のシーンのようです。

ヨットが見えるから荒天ではないのですが、妙に黒々とした
海の色と、いきなり海岸近くで砕ける波が不穏な雰囲気。



こういう棺を制作させられるだけの力を持った人物の、
おそらく若い妻が病気で亡くなったのでしょう。
どうしてこの棺が使われないままここにあるかまではわかりませんでしたが、
美しさに見入ってしまう女性です。

スリーピング・ビューティを思い出しました。



このボストン美術館ではサージャントの絵を見られるのが一つの大きな目玉となっています。
わたしはこのサージャントの絵も大好きで、




テートギャラリーが東京に来たときに、この
「カーネーション・リリー・リリー・ローズ」という絵のポスターを買い、
これも「ボストンコモン」と共に寝室に掛けています。

ところで、この上の「エドワード・ボイトの娘たち」という絵ですが、
絵の前に飾ってある壺、よく見てください。
絵の中に、全く同じかたちの壺が・・・・。



なぜかあった、ディートリッヒとガルボの写真。



一心に模写していた・・・美術大学の学生、でしょうか。

最後になりましたが、正面入り口を入ってすぐにある彫刻二体。

この横にチケット売り場があるのですが、そこの女性は、
さすがはこういうところのフロントにいるだけあって美人。
「メンバーシップにはいりませんか?」
と勧誘してきたので、「ここに住んでいないので」と断ると、
「ではどちらから?」
「日本です」というと、まるでサージェントの描く女性のような表情で
「Welcome to Boston!」
とにっこりと微笑みました。




旅順港閉塞作戦~その後の有馬参謀

2013-07-25 | 海軍

NHKドラマ「坂の上の雲」から、旅順港閉塞作戦に失敗し、
傷心の有馬良橘聯合艦隊参謀(加藤雅也)です。

秋山真之と、いわばこの「チーム・参謀」のボスであるところの
島村速雄(舘ひろし)が、

「有馬中佐は体を壊して大本営付きになったそうだ」
「閉塞作戦の失敗が堪えたのでしょう」

などと、まるで有馬中佐が、作戦失敗の責任を取らされ、
しかし表向き、聯合艦隊を去ることに病気を口実にしているかのような印象を
与えかねない調子で、二人がひそひそ噂をするシーンです。


確かに作戦は結果的に失敗でした。

あくまでも「慧眼秋山、凡愚有馬」という構図で語りたいらしいHNK(司馬)は、
この作戦を有馬が発案したとき、秋山が全くこれに賛同せず、
むしろ失敗を予期して大反対した、というストーリーを加味しています。

最初に言っておきますが、これ、全くの創作ですからね!

「坂の上の雲」によるところの「旅順閉塞作戦」について経緯を述べると、
この作戦を有馬はかなり前から計画しており、
さらに秋山は、かつて米西戦争のサンチャゴ閉塞作戦について詳細なレポートを出し、
軍令部を感嘆せしめたことがあるという設定です。
それが本当にそうだったのかどうかは今は置いておいて、
秋山は先任参謀有馬がこれを発案した時に

「敵の火力は1000倍で、鎮遠のようなフネを持ってこないと無理だ」

と反対するのですね。
しかしながらそこは昔も今も上司に逆らえない階級社会。

この時は有馬は先任参謀であったので、その異議も却下された、というのが
どうやら司馬遼太郎の描くところの事情であるようです。


というわけで、この冒頭写真のシーンの二人の会話は、わたしには

「あんなに反対したのに、あのおっさんがごり押しするから・・」
「やっぱり失敗だったな。だからいわんこっちゃない」
「まあ、左遷人事らしいけど自業自得っすよ」
「体を壊したっていうのは、あれは表向きだな」

という風に聞こえたのですが、(皆さんにもそう聞こえましたよね?)

だがしかし待ってほしい。
このドラマで描かれたように有馬は本当に詰め腹を切らされたのか?



有馬良橘は確かにこの後聯合艦隊を去りますが、彼のバイオグラフィーを見る限り
その理由は本当に「体を壊したため」であったと思われます。

実は有馬は、この作戦の一年前に体を壊し「待命」扱いになっています。
これほどの病気をしたからには決して作戦時も「体調良好」というわけではなかったはず。
それにもかかわらず、有馬は第一回、二回と閉塞作戦の指揮を取るため参加しているのです。

「坂の上の雲」によると、反対する秋山に

「発案者自らが指揮官となって出撃すればいいんじゃろう」

とか言って、秋山に有無を言わせなかった、という風に描かれています。

実際には閉塞作戦への参加は、もともと体を壊したばかりの有馬中佐にとって
「背水の陣」ともいうべき決死の作戦であったはず。

ちなみに第三次閉塞作戦の指揮官林少佐は、作戦遂行中戦死しています。


そもそも、立案した作戦が失敗(というか効果僅少)だったからと言って、
決死作戦に自ら体を張って参加した指揮官を、この頃の聯合艦隊がそう無下に扱うでしょうか。



ここに一つの資料があります。

日露大戦後15年以上経って「聯合艦隊反省会」といった対談が
財部彪大将などが中心となる軍令部の面々によって行われ、各自が
「あのときどんなことがあった」と日露戦争の思い出を語っているのですが、
その模様を聞き書きして文書にした当時の部外秘文書です。(防衛省所蔵)


その中から、この旅順港閉塞作戦についての回想部分を抜き書きしてみます。


■中島少将 戦史の方には有馬大将が常盤副長時代、
明治36年10月上旬に第一回の意見を出されたことが明記されている。
これが艦隊長官から、おそらく中央にまわってきているのではないか、
という風に考へます。

また一説には既に早く中央にもさう云ふ思想があつたやうに言ふ人もあります。

作戦計画の第一計画案、第二計画案と云ふものを見ますと、
36年の11月上旬にお書きになった第一計画には、
閉塞のことが載っていないのであります。

第二計画の37年の1月のものには、閉塞のことが書いてあるにはあるが、

其れが朱で消してある。
是で見ると、どうも

時日の関係上、有馬閣下のお出しになった意見が

動機ではないか

と思ふ。


■財部大将 私はこう云ふ風に考へる。
今のやうな事の御話を総合して考へますと云ふと

書いたものは、
どうしても出て居らん

と思ふ。

出て居らんが、伊集院(五郎)次長が艦隊から軍令部次長に再び帰って来られたのが、
あれは何日になって居りませうか。
9月か、10月じゃないでせうか。
伊集院次長なんか艦隊で直接に話をして、其の話があった。
矢張り是は次長(伊集院)の考でやつたものと思ふ


長々と引用しましたが、何が言いたいかというと、対談の行われた
1919年以降(財部彪が大将になるのは1919年のことです)
のこの時点、戦後15年以上経ってから軍令部の要人は、よってたかって

閉塞作戦が誰の案だったかを推測している

という事実。

中島(たぶん中島 與曽八中将)は有馬の発案だといい、財部大将は伊集院五郎大将
(伊集院信管の開発者で、月月火水木金金と言われた猛訓練を行った功労者)
が考えたものだ、と言っていますね。

しかも、財部大将はこの話題の最初に

「閉塞計画の起源ならび作戦計画のとの関係」に就いてでありますが、
閉塞計画のことも詰まり戦史通りに載っていることのほかは、
あまり私は知らんのであります。

と重大発言をしています。

つまり、閉塞作戦は、有馬良橘が発案したのかどうか、戦後すぐならともかく
日露戦争戦後15年以上経っている時点で実は歴史的にも明確になっておらず、
それまでに書かれた戦史にも、当然このことは記されてもいなかった、ということなのです。


さらにこれはどういうことを意味するかというと、「坂の上の雲」で描かれた、

「有馬が閉塞作戦を発案し、秋山の反対を押し切って決行したが、
失敗したので
発案者であるところの有馬は左遷された」

という司馬の一連のストーリーには、全く根拠がない、ということになります。


誰も言ってくれないのでこの際自分で言ってしまうけど、エリス中尉ってすげー!


「講談師 見てきたように嘘を言い」

という文句がつい浮かんできますが、この、まるで見て来たかのような司馬遼太郎の創作を、
さらにNHKがああやって映像化することで、すっかり有馬良橘は、「株を下げた」
ということになってしまっているわけです。

そこで、これをもう一度見てください。



これを見てもお分かりの通り、その後の有馬は決して「窓際族」などではありません。
どうも持病でもあったらしく、52歳のときには人生三度目の病気療養につき
またもや「待命」という扱いになっていますが、その直後に中将に昇進、
60歳で予備役に編入される2年前には、大将になっています。

帝国海軍の歴史で77名の海軍大将の一が「窓際」であるはずはありませんね?
有馬の兵学校の卒業成績は19人中の16番で、恩賜の短刀とは無縁ですから、
彼の出世はひとえにこの閉塞作戦の功績の賜物だったと考えられます。

さらにこの説明にもあるように、退役後は終生明治神宮の宮司職を務めたことからも、
「坂の上の雲」で喧伝されたような「肩たたき」はなかったのです。


つまりあれは徹頭徹尾、司馬遼太郎の考えに基づく表現であったということです。
もっと簡単に言うと、司馬が有馬という軍人を全く評価していなかっただけ、ということですね。


なぜ司馬が有馬を「窓際」と決めつけたのかは、
ただ単に閉塞作戦の結果が今一つだったからでしょう。
のみならず司馬は、ちゃっかり我らが秋山真之に作戦を反対させて、
逆にこちらの株をあげることに利用しています。

さらに、この会談において、閉塞作戦の発案については財部が

「ちゃんと準備がしてあったと云ふことは能く知って居ります。
知って居りますが、誰が初めに云ひだしたのであるか、其は知りません。
尤もこれは米西戦争の時メリマツクの話があるものですから、
さうオリジナルものではないと思ひます。

と言っており、少なくともこの資料によると、当時の軍人たちには、
閉塞作戦に秋山が反対したことどころか、
秋山が米西戦争について書いた論文の存在すら、
全く認知されてなかったということになります。


そして、実際の有馬の世間的な評判は当時如何であったかというと、
二回に亘る閉塞作戦に司令官として参加していたこともあり、
国民にはその名は英雄として好意的に称えられていたとされています。

司馬によると閉塞作戦の失敗面だけがクローズアップされますが、
広瀬少佐などの英雄を生み、国民はむしろ聯合艦隊の勇猛さを称賛し、それがひいては
戦意高揚となったという一面はどうしても否定できません。


それにしても、これらの断片的な資料をあれだけの話に仕立てた司馬遼太郎の想像力と、
その構成力、詐話、いや創作能力には、さすがとうなってしまいますね。

いや決して嫌味などではなく。



というわけで、「坂の上の雲」は史実に基づいているものではなく、伝記でもなく
単に歴史の断片をつなぎ合わせてこのように創作されたものであることが、
皆さまにもお分かりいただけたのではないかと思います。

そしてこの部分のみならず全編にわたってこの調子であることは想像に難くありません。
因みに、わたしがもっとも個人的に怪しいと思っている部分は、


秋山は軍人としては不適格なくらいに他人の流血を嫌う男で、

この日露戦争が終った後、 「軍人を辞めたい」 と言い出した。
僧になって、自分の作戦で殺された人々を弔いたい、と言うのである。

海軍省はあわてて真之に親しい人々を動員して説得にかかったが、
真之はきかず、一時発狂説が出たぐらいであった。

ともかくしかし海軍省としては、真之に坊主になられては迷惑であった。
彼のいうことを海軍が道理として認めれば、
一戦争が終るたびに大量に坊主ができあがることになる。

そういうところがあるだけに、彼は閉塞作戦の唯一の権威でありながら、
これを計画化することについては弱気で、時にははっきりと、
「運と兵員の大量の死をはじめから願って立てるような作戦なら、策戦家は不要である」
と、言ったりした。


というところだったりするのですが
最後の閉塞作戦の部分が今回全く裏付けのないことであるのがわかった以上、
文章全体にもあまり信憑性は無くなってしまいましたね。

しかし、この一文のおかげで、NHK好みの秋山像が現代の日本人に植え付けられてしまいました。
これがいわゆる「司馬史観」によって造り上げられた秋山像だろうなあ、
と、今回わたしは確信した次第です。

もし、この部分はちゃんとした史実としての裏付けがあって描かれている、
つまり司馬の著書以外の客観的歴史資料にこう書かれていた
という情報をご存知の方がおられたら、ぜひご一報くだされば幸いに存じます。


というわけでみなさん、とりあえず、この閉塞作戦における有馬中佐の扱いと、
有馬良橘そのものの描き方については、
「全く似てないじゃん。男前すぎるし」と思わずツッコんでしまう配役も含めて、
全て眉に唾を付けながら観てあげてくださいね。


有馬良橘大将を普通に評価してあげたいエリス中尉の、こころからのお願いです。




「坂の上の雲」~旅順港閉塞作戦の「広瀬少佐たち」

2013-07-24 | 海軍

この春、横須賀の米海軍スプリングフェスタに行ったときに、
初めてではありませんが、ついでに記念艦「三笠」の見学もしてきました。
上甲板にある部屋では常時映像が放映されており(これも前は無かった)
そのときは旅順閉塞作戦について詳しく説明するドキュメンタリー番組が流れていました。

フェスタの客が流れてきて、毎回部屋が満室になるくらいで、さらに
入れ代わり立ち代わり人が訪れていたのですが、これもまた「坂の上の雲」効果でしょう。

たとえばですが、日常会話において「リョジュンコーヘーソク」と口にしても
「何語ですか」
と聞かれることも無くなった(に違いない)今日この頃です。

ですので特にこのブログを読んでくださる方にとっては、知ってる知ってる、
ということばかりになるかもしれませんが、あらためてこの三次に亘る作戦について書いてみます。

ところで、冒頭の超のつく男前はいったい誰?

これは、かつてメンズノンノのモデルから俳優としてデビューした・・・

・・・・・じゃなくって、聯合艦隊参謀の有馬良橘(りょうきつ)
この旅順港閉塞作戦の立案者です。

まあ、別に映画だからいいんですけどね。
当時44歳の有馬参謀を加藤雅也が演じたって。

何しろ、山口多聞を阿部寛が演じるなんてことが許される世界ですからね。



こうして見るとそんなに似ていないってわけでもないし・・・。(無理やり)


さて。


日露戦争開戦後、ロシア艦隊はヨーロッパからの増援を待って
旅順港内にほとんど籠城の状態にありました。

聯合艦隊は二次にわたる旅順総攻撃を行いますが、戦果は上がりません。




こういう状態ですね。
周りの大砲マークは、それだけ陸が要塞で固められているという意味。

この旅順港から艦隊をおびき出して決戦を挑み、一挙に壊滅して
制海権を確保するつもりだった聯合艦隊は事態の膠着に次第に焦燥を深めます。
そこで、


ええい、おびき出すのがだめなら、この狭い湾口を塞いでロシア艦隊を外に出られなくしてしまえ!


という作戦を立案したのが、この有馬参謀だということになっています

・・・・・ここで少しお断りです。

実はエリス中尉、防衛省の資料と照らし合わせて
どうやらこの辺のいきさつ一切合財が
司馬遼太郎の「推測」「創作」ではないのだろうか
ということを勝手に突き止めたのですが
このあたりのことは、また別の日に稿をあらため、
ここでは「坂の上の雲」のストーリー通りに説明します。


さて、それではどうやってこの湾口を物理的に塞いでしまうかです。

有馬参謀の案とはこういうものでした。

老朽船に決死隊員が乗組み、夜間旅順港口に侵入した上で
船を自沈させ、
脱出した隊員を水雷艇によって収容する。


地図に見える湾口で大型船が航行できるのはわずかその幅91mでしたから、
上手くやればロシア艦隊を湾内に閉塞させ、バルチック艦隊の入港も不可能になります。

「坂の上の雲」では、これを説明する有馬中佐に向かって秋山真之が異論を唱えています。

「鎮遠くらいの大きなフネでないと無理ではないか」

これに対して、有馬は

「サンチャゴ湾閉塞作戦をレポートして、戦わずして勝つことのできる
効率的な方法やと秋山参謀も書いていたやないか」

と秋山が留学時代に見聞きした「米西戦争」の作戦を評価していたことを言い返すのですが、

「私はそのレポートで乗組員の生還率の低さも問題にしていたはずです。
旅順のロシア軍は100倍以上の火力を持っている。
やれば必ずようさんの人が死にます」

やたら「人を死なせない作戦を立てろ」と強調する秋山。
まあ、いいんですけどね。


くどいようですが、これはすべて司馬遼太郎とNHKの「創作」です。






こうして写真に撮ると、CG丸出しの旅順港(笑)

確かにこの狭さが現実のものであれば、横向きに3隻沈めれば
もう湾口は塞がってしまうと思われます。

この作戦が発令されたとき、生還を期し難いこの決死作戦に、
応募者が殺到しました。

 

血書をしたためる閉塞作戦の志願者とそんな彼らの志願書。

技量優秀、品行方正で家族の係累が少ないなどの選考基準を設け、
2千人のなかからようやく77人が選抜されました。

この志願者数の多さを見て、有馬が作戦の成功を確信した、
「坂の上の雲」ではそういうことになっています。
しつこいようですがこれはすべて司馬りょうたr(略)


■第一次閉塞作戦(1904年2月24日)


発案者有馬中佐自らが指揮官として乗り込む嚮導船、天津丸始め5隻の艦艇が出撃しました。
このうちの「報国丸」には、あの広瀬武夫少佐が部下15名と乗り込んでいます。

閉塞部隊は探照灯で照らされたうえ、山上の砲台の攻撃を受け、方角を失います。
自沈させてもそこは湾口から遠く離れていたり、
またそれを見てそこが湾口だと勘違いしたフネが後に続いて自沈してしまったり。

つまり、ほとんど探照灯と砲台の砲撃に敗北した、という状態です。
しかもこの攻撃を迎え撃ったロシア艦艇は「レトウィ」たった一隻だけ。


かろうじて湾口に自沈したのは広瀬率いる「報国丸」だけでした。
全作戦通じて、この「報国丸」だけが、湾口に沈められた日本側の艦船です。
しかし、小さな輸送船を、しかも一隻湾口と並行に沈めても何の役にも立ちません。

つまり、失敗です。

しかしこの作戦で戦死したのはわずか一名でした。


■第二次閉塞作戦(1904年3月27日)


輸送船4隻、隊員68名で組織されました。

このとき、第一次作戦の参加者の大半が再志願しましたが、
東郷長官の発令によると

「唯士官以上は其の請願の極めて切なると、
前回の経験により行動に利する」

つまり、指揮官は事情を良く知る経験者がいいだろうということになり、
士官は広瀬少佐を含む、第一次作戦従事者がもう一度参加することになりました。

そして、下士官兵については

「同一人を用ふるに忍びず」

つまり同じ人間を危険にさらすわけにはいかないとの考えから、
二等兵曹・林紋平を除き再任は却下されました。

林に関しては

「決心牢として抜く可らさるものある」

という報告書が残されています。

そして、その際新たに採用された下士官にあの杉野孫七兵曹がいました。


第二次作戦は千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の順で旅順港口に突入開始。
この後、やはりロシア軍に発見され、砲撃を受けます。



第二次作戦で、探照灯に照らされる日本の輸送船の図。
第一次でもそうであったように、ロシア軍は探照灯を効果的に使い、
閉塞部隊の目をくらますことに成功しました。

またまた「坂の上の雲」では、広瀬少佐に

「探照灯に照らされると何もみえんようになって、
方角や距離も測定できんかった。
みんな自らの位置がわからんまま自沈してしもうた」

と述壊させています。

この作戦でもやはり単縦陣で侵入した4隻は、聯合艦隊の援護もかなわず、
第一次よりもはるか湾口から離れて爆沈されてしまいました。

唯一自沈させた船は広瀬少佐の「福井丸」でしたが、
ご存知のようにいざ退艦になったときに16名の部下の内の一人、
杉野孫七上等兵曹の行方が分からなくなります。
杉野兵曹を探すために最後の最後まで艦内を探した末、
退艦したのち福井丸は起爆装置で自沈させ避難する水艇に砲弾が炸裂。

広瀬少佐は「一片の肉塊を残して」海中に没し、
この作戦で戦死した四人のうちの一人となりました。



第三次閉塞作戦(1904年5月2日)


第一次、第二次の失敗にもめげず、東郷司令長官は
12隻もの閉塞船を用いて第三次作戦を決行します。

4隻で何とかいけそうだったのだから、12隻ならなんとかなるだろう、
いやなんとかせねば、そんな聯合艦隊の「焦り」のようなものが覗えます。

しかし、第一次、第二次と同じような作戦を尽く迎え撃ってきたロシア軍が、
この間それに備えて何らかの対策を取っていないわけはありません。
聯合艦隊の閉塞船の数が増えるであろうことも予想していたでしょうし。


というわけで、エリス中尉ですら「これはあかんのではないか」
と思える三度目の閉塞作戦、案の定結果からいうと失敗でした。



このブロンズ像の人物、林三子雄(はやし みねお)大佐。(戦死後)

「坂の上の雲」で、秋山真之がアメリカに、そして広瀬武夫がロシアに留学したとき、
他にも三人が同時に留学を命じられていたのを覚えておられますか?

その一人が広瀬と同期のハンモックナンバー1番、
財部彪(イギリス留学)、そしてこの林三子雄(ドイツ留学)でした。

この林中佐が総指揮を取り、出撃した閉塞部隊ですが、なんといきなり
悪天候に見舞われます。
一隻が機関故障のため帰投し、11隻で進んでいましたが、
林大佐は、作戦の成功もさることながら、この悪天候では

作戦決行後の人員の収容が困難になると判断し、

作戦中止を命じ、反転します。

しかし「行動中止」の連絡は荒天下のしかも深夜で行き渡らず、
中止の命令に従ったのが3隻。
閉塞船八隻及び収容隊は攻撃に向かってしまったのです。

林中佐はは後続船が少ないのに気づき、反転し他艦隊のあとを追います。
しかし中佐の乗った「新発田丸」は舵機が故障していました。

そしてこの後の熾烈なロシア軍の地上砲台からの砲撃と、
艦隊からの砲撃を見舞われた「新発田丸」で林大佐は戦死します。

享年39歳の若さでした。

このブロンズ像は、林中佐の乗っていた「新発田丸」の乗組員が、
中佐の家族に送ったものなのだそうです。



第三次閉塞作戦で攻撃に向かった八隻の乗員158名は戦死、行方不明
負傷及びロシア軍の捕虜となったものの合計は115名に及び、
無傷で生還した者はわずか43名でした。

しかも、ほとんどの船が第一次、第二次よりはるかに湾口より外で
皆爆沈させられてしまっています。


このとき一旦林中佐の「作戦中止」を聞いて帰投の路に就いていたのに、
僚船が向かったのだからと再び旅順港に向けて反転した船がいます。

戦前は船首に美しい女性を象った船首飾りを持っていた、「朝顔丸」です。
向菊太郎少佐率いる17名の部隊で、果敢にも単独突入を図りますが、
陸海からの集中砲撃を一身に受けて船は沈没。
結局「朝顔丸」の乗員は、向少佐始め全員が戦死しました。


この作戦後、東郷司令長官は

「第三次閉塞作戦ハ概ネ成功セリ」

と打電し、国民は閉塞部隊の勇敢さ、ことに部下を気遣って戦死した
広瀬中佐の物語に熱狂しました。
広瀬中佐は軍神となり、軍歌「広瀬中佐」でその勇を称えられます。

他にも「閉塞隊」「決死隊」などという、閉塞隊を称える歌も生まれました。

それにしても、指揮官として部下の命のためにあえて危険に飛び込み、
その末に自らが戦死した、という点において、この林大佐は広瀬武夫中佐と
全く同じであるのにもかかわらず、全く名前が残っていないのはどう言うわけでしょうか。

「朝顔丸」の向少佐もそうです。
当時はそれなりにその勇敢な戦死を謳われていたのでしょうが、いまとなっては
歴史を知ろうとする者にしかその名が目に留まることもありません。

思うに、この広瀬中佐は「勇敢なる水兵」の三浦虎二郎のような、
国民の士気鼓舞のために特に喧伝された「ヒーロー」だったのでしょう。
民衆はいつも、わかりやすく熱狂できるシンボルとしての英雄を求めているのです。


だからといって、広瀬中佐の「英雄的な死」と、万人に認められた人間的な魅力に
いささかの傷がつくわけではありませんが。



さて、これらの経緯を見る限り、当時の国内の熱狂とは裏腹にその実相は、
沈んだ閉塞船は艦隊を閉塞するに至らず、つまり多大な犠牲を出しながら、
閉塞作戦は失敗に終わった、ということになります。

しかしながらついでに言うと、

この作戦がはっきりと「失敗」ということに歴史認定されたのは、「司馬以降」である

と、ある当時の資料を読んで以降、わたしは思っています。(予告編)









ボストン美術館~ミイラ・コレクション

2013-07-23 | アメリカ


ボストン美術館、というのは正式名が

Museum Of Fine Arts, Boston

というので、カーナビに「Boston Museum」と入れてもでてきません。
このことをすっかり忘れていて今回も戸惑ってしまいました。

世に言う世界の四大(なぜ4なのかわかりませんが)美術館とは

「ルーブル美術館」
「大英博物館」
「エルミタージュ美術館」
「メトロポリタン美術館」

ということになっているようです。
勿論、この「●大」は何を以てそういっているのかは曖昧で、
4大の中に故宮博物館プラド、ウフィツィなどが入ってくる場合もあります。

どんな収集品があって、それが人類の遺産として貴重であるかということを
厳密に鑑定し、それによって順位を付けることなど不可能であるとは思いますが、
取りあえず「入場者の数ランキング」などを見ると、アジアのトップになぜか
「韓国国立美術館」(12位)「朝鮮民族博物館」(15位)が、
ウフィツィやオルセー、エルミタージュすら抑えてランキング・インしてきてます。


まあ、いいんですけど・・・・・ところでここにはいったい何がありましたっけ?(笑)






このボストン美術館は、そういう「何大」や、ましてや入場者数ランキングには
ほとんど入ってくることはありませんが、非常に専門的な評価の高い美術館です。

門外不出のゴーギャン作
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
あるいはミレーの「種まく人」、モネの「ラ・ジャポネーズ(日本娘)」のほかは
海外ではもっとも日本美術の収集が優れているとされています。

前回ご紹介した「サムライ!」もその一環です。

そしてそれ以外でとくに充実していると言われるのがご当地アメリカ美術と
このエジプト美術。



何しろここは、見学を始めると最初にこの古代コーナーから始まるので、
時間配分を考えないと、肝心のヨーロッパ、アメリカ美術を見ずに終わってしまいます。

でも、どうしても食い入るように見てしまうんですよね・・・・。

よく見るこの三人単位の彫像ですが、このころの肖像画みたいなものでしょうか。



出土された副葬品。
左が「パンを焼く女」
右が、洗濯をしているのかと思ったら「小麦を挽く女」だそうです。
毎日こんなことをエジプトの主婦はしないといけなかったんですね。
このころは家事労働だけで一日が終わってしまっていたんだろうなあ。
古代エジプトに生まれなくて本当によかった。(真剣)

ついでに「パンのマーチ」という歌を思い出してしまいました。

♪パンパンパンパンパンパンパンパンパン パン パンパカパンパンパン

昔 パンを焼いたのは 6000年も前のこと
小麦を粉にして こねあげて こねあげて
エジプトの母さんたちが おいしいパンを焼きあげた♪


というあれ。
今調べてみたら、歌っているのはペギー葉山だったんですね。



左は陶器製の棺。
その右側奥は実在の人物の「フィギュア」だそうです。

仰臥するミイラの奥に並んでいる動物を模した「内臓入れ」。

内臓は麻布に包まれてここに収納されたそうですが、個人が亡くなると、
まずミイラ製造者は内臓を取りだし、ナトロンという水分吸収剤に包み、
乾燥させてからこの壺に納めたのだそうです。

実際には遺体の中で一番腐敗の原因になるのが内臓だから、という理由です。



因みに、一番右の人間の顔のツボに入っているのが肝臓、
マントヒヒに入れるのが肺。
ジャッカルのツボはドゥアムテフといい、胃を収納、
ケベフセネエフという鷹のツボには、腸を入れることが決まっています。

古代エジプト人がミイラとともにこういう臓器をも保存したのには、
彼らが来世を信じていたからで、そのために体を保存しておく必要があるとしたからですが、
他の臓器と違って心臓は摘出されず、それだけが体に残されました。

来世にも死者に必要な重要な臓器だとみなしていたから、ということですが、
他の臓器を取りだして心臓だけを残す理由はいまいちこの説明ではわかりませんでした。


その他、脳も他の内臓と同じくダメージを受けやすいので、摘出していました。
鼻から鉤を入れて、内容物を掻き出したそうです。



今はエックス線だけでなくMRIのシステムで内容が調査できますが、
こういうのを見ていつも思うのは、発掘当時の学者たちが中身を見るために
これらの外側をよく壊してしまわなかったなあということ。

ツタンカーメンのDNAを調査することによって、他のミイラとの関係、
家系図などもほぼ完ぺきに突き止めることができ、さらには出土された香水壺から
当時の香水を再現するなど、科学の進歩によって新たに分かったことが多くありますが、
発掘した当時の研究者たちが「いつか科学が発達したらわかることもあろう」
とあえて封印したこともたくさんあるのだろうなあ、と・・・・・・・。



ボストン美術館は収集物の保存に適した空調によって各部屋ごとに
体感温度が全く違うのですが、この部屋は特に寒かったです。

ミイラだし、これ以上劣化しようがないような気も素人にはするのですが、
やはり湿度というのは保存の敵なのかもしれませんね。



大英博物館やルーブルのミイラ・コレクションも見たことがあるのですが、
ツタンカーメンのような王家のミイラだけでなくいわゆる庶民のミイラになると
はた目にも実にぞんざいに包帯が巻かれていて、よくこんなので何千年も残っていたなあ
と感心してしまうくらい雑な作りだったりします。

これもおそらく庶民の(といっても裕福な家ではあったのでしょうが)ミイラで、
顔のところにご本人の似顔がはめ込んであるのが珍しいですね。


ところで、ある「見える方」が大英博物館でミイラのコレクションを見たとき、

「ミイラの主がいろいろ自分の生前の『自分語り』をする気配が実に騒がしかった」

とおっしゃっていましたが、そういうのを感じてしまう能力も全く考えものですね。
本当でも嘘でも別に構いませんが、少なくとも自分に備わっていなくてよかった、
とこのひんやりと人気のないコーナーでミイラを見ていてつくづく思いました。




最初に来たときにはこの肖像をまじまじと見てしまいました。
かなり若くして亡くなった人にも見えます。

包帯の巻方が非常にアーティスティックなので、かなりの名士であったのかもしれません。


こんなことを夢想しながら佇んでいると、このコーナーであっという間に時間が過ぎてしまいます。



このタイプのミイラは同じエジプトのものでもすべてA.Dのもので、紀元前のものとは
かなりミイラの在り様も変遷していると言った感があります。

やはり「流行」というのがあったのでしょうね。



ここで心温まるアニマルミイラコーナー。
ちうか、何でもかんでもミイラにするんじゃねーよ、と思わず突っ込んでしまう品揃え。

シルエットクイズです。これらは何のミイラでしょうか。

右のコケシ状のミイラはネコ。
左上、犬。下がキジ(だったかな)で、




三日月型のジョエルロビュションの食事パンみたいなとんがっているのが
トキ(鳥の)の頭部。
左奥、やたら目つきが悪いですがこれはわかる。ワニ。
手前は・・・・なんだっけ。トカゲかな?



右、ネコ耳を付けているのが子ネコ。
わざわざ生きてる子ネコをミイラにするな!動物愛護協会に言うぞ。

左は・・・確かお猿さんだったような。


ところで、この古代エジプトの収集が最も充実しているのは言わずと知れた
カイロのエジプト考古学博物館であるわけですが、ここが、大英博物館始め海外の
博物館に

「もともとエジプトにあったものだから、ミイラとか返せ」

と主張していたんだそうです。
ところが、2011年にエジプト争乱が起こった際、略奪者が侵入し、
収集品が奪われる、という騒ぎが起こりました。
その後盗品は発見されたものの、騒乱の影響で博物館は一時閉館されており、
返還を要求していた国からは

「ほれみろ。政情不安な国にあるよりイギリスやフランスにある方がずっと安心だろ」

と言われてしまうことになったという話です。

民主政権時代に朝鮮王室儀軌(ちょうせんおうしつぎき)を、韓国の返還要求に応じて
とっとと返してしまったという話がありましたが、同じように韓国政府は
フランスにも返還を要求、フランスはこれを拒否しています。

まあ、世界でも有数の入場者数を誇る美術館を持つような文化的な国ですから、
まさか修復と称して上から全く違うものを描いてしまうようなことはしないですよね?

自分たちの主張する歴史と違うことが書いてあっても、抹殺したりしませんよね?
・・・・・あ、漢字が読めないんでしたっけ。
なら安心。ってちょっと違うか。



もともとどこにあったという「所有権」にこだわるより、人類共通の遺産として、
恒久的に保存するだけの技術文化がある国がこれを次世代に伝えたほうが、
ずっと後世のためになるとわたしは考えます。

こうやって守られ保存されている大量のエジプト美術品やミイラコレクションを見ると、
人類の遺産に対して国だの所有だのを主張することがいかに愚かしいことかと思わずにいられません。

それにしても、そういう技術も文化も、安定した経済も持てない国に限って、
こういう主張を声高にするというのはいったいどういうことなのでしょうか。











参院選の結果に思う~聯合艦隊解散の辞・東郷平八郎

2013-07-22 | 海軍

目黒の防衛省内にある海上自衛隊幹部学校は
海軍大学時代からの所蔵だった貴重な歴史的資料を見ることができます。

もっとも、誰でも見られるわけではなく、許可を得てこの目黒地区に入り、
幹部学校の関係者が同伴しなくてはいけません。

わたしは幸運なことにあるご縁を得て幹部学校見学の許可を戴き、
こうやって海軍軍人たちの墨跡を実際にこの目で見ることができ、感激の至りでした。

ただ、どんな歴史資料を見ても思うことですが、いざその場にいるとただ茫然と
目の前をとんでもない貴重なものが次々通り過ぎていくがままに、
ほとんど無心の状態で過ごし、あとになって写真を見ながら、
「こんなことが書いてある」
「こんなものが写っている」
と、思い返してはもう少しちゃんと写真を撮るべきだったとか、別の角度でも撮っておくべきだったとか、
軽い後悔に苛まれたりするものです。

なかでもこの東郷平八郎の「聯合艦隊解散の訓示」。

こんな物凄い資料を、一部光って字が読めない状態の写真一枚しか撮ってこなかったとは。
そして何より、もう少しちゃんと肉眼で細部を記憶に刻んでおくのだったと思ってしまいました。

この一部をアップにしてみましょう。



「ナイル」と「トラファルガー」に二重線がついているのは、
勿論東郷元帥自身の筆によるものでしょうか。

少し前に記念艦「三笠」に展示されている東郷元帥の手帳の字が
「あまりきれいじゃない」という話になったことがありますが(わたしが言ったんじゃありませんが)
この書を見る限り、実にきっちりとした、折り目正しい筆使いで、
やはりあの手帳の字の乱れは揺れる艦内で書いたせいか、などと思います。

それにしても、これだけの長文を筆で書くにあたって、よくこれだけ真っ直ぐに、
文字の大きさも全く同じに、何よりも間違えずに書けるものだと感心しました。

この頃の人は正式な文書をみなこの調子で作成していたので、慣れているのでしょうが、
それにしても、途中で間違えてやり直し、というようなことになったとき、それがほとんど
最後の方だったら嫌になったりしなかったのでしょうか。

ところで、この「聯合艦隊解散の辞」ですが、残念ながら原書ではありません。
昭和31年と言いますからもう60年近く前に複製が寄贈されています。
当時のコピー技術でよくこれだけのものができたなあということを考えると
これはこれで非常に貴重ではないかと思ってみたり。

その原本ですが、横須賀の記念艦「三笠」で見ることができます。

この内容は発表されるや否や世界中に発信され、翻訳されて
各方面に感銘を与えました。


ここで、その内容を、非常に長いのですが僭越ながら現代語に直してみました。

二十か月以上にわたった戦いもすでに過去のこととなり、
わが連合艦隊は、今やその任務を果してここに解散することとなった。

しかしそのためにわが海軍軍人の務めや責任が軽減するということではない。
この戦役で収めた成果を永遠に生かし、さらに一層国運を隆昌せしめるには、
平時であっても、まず外敵に立ちむかう海軍がその武力を海洋において保全し、
ただちに、その危急にあたる覚悟が必要とされる。

武力というものはつまり、ただ艦船兵器だけを言うのではない。
これを活用する無形の実力のことでもある。
百発百中の砲は、百発打っても一発しか当らない砲なら百門と対抗できるのであり、
この理に気づくなら、われわれ軍人は武力をただ形而上のことに捉えてはいけない。

日露戦争でわが海軍が勝利を得たのは、天皇陛下の霊徳に頼るとこころ大であるが、
将兵の平素の練磨によってあの結果を得たともいえる。
実際に起こったことから将来を推し量るとすれば、たとえ戦いは終わっても
安穏と休んでいるわけにはいかないと思われる。

考えるに武人の一生は戦いの連続であって、平時であれ、戦時であれ、
その責務が軽くなったり重くなったりするものではない。
事が起これば武力を発揮するし、無いときには涵養につとめ、
終始一貫その本分を尽くすことにある。

過去一年半の間、風波と戦い、寒暑に耐え、しばしば強敵とまみえて
生死の境にあったことは、もちろんたいへんなことではあったが、
考えてみると、これもまた長期の一大演習であって、これに参加し、
多くの知識を啓発することができたのは、武人として、この上もない幸せであったと言え、
これを戦争の労苦などと言えたものであろうか。

武人が太平に安心してしまったら、兵備の外見がいかに勇ましく見えても
それはあたかも、砂上の楼閣のようなもので、
ひとたび暴風一過すれは、たちまち崩壊してしまうであろう。

まことに戒めるべきことである。

むかし神功皇后が三韓を征服されて後、韓国は四百余年間わが支配の下にあったが、
一たび海軍が力を失うと、たちまちこれを失い、また近世に至っては、
徳川幕府が太平に安んじて兵備をおこたると、数隻の米艦の応対にも国を挙げて苦しみ、
またロシアの軍艦が千島樺太を狙ってきてもこれと抗争することができなかった。

翻って西洋史を見ると、十九世紀の初期、ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、
祖国を世界の頂点に置いたばかりでなく、それ以後、後進がこれを受け継ぎ、
よくその武力を維持し、世運の進歩に遅れを取ることが無かったからこそ、
今日に至るまで永く国益を守り、国権を伸張することができたのである。

考えるに、このような古今東西の戒めとすべき例は、為政によっても違ってくるけれども、
主として武人が平にあっても、乱を忘れないでいるかそうでなかったかということの結果なのだ。

我等戦後の軍人は、深くこれ等の実例に顰(ひそ)み、
これまでの練磨の上に、実戦における体験を以て、さらに将来の進歩を図って、
時勢の発展におくれないように努めなければならない。
そして常に聖諭を泰戴してひたすら奮励し、実力の満を持して放つべき時節を待てば、
乞い願わくば、永遠に護国の大任を全うすることができるであろう。

神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授けると同時に、
一勝に満足して治平に安ずる者からこれを取り上げてしまわれるであろう。

古人曰く、「勝って兜の緒を締めよ」と。

一言で無理やりまとめると、

「平時に国防に対する軍の備えとその心構えの無き国は隆盛しない」

と言っているわけですね。
「勝って兜の緒を締めよ」がすべてを言い尽くしている内容です。

こうやって現代語に直しながら読んでいると、全く現代にも通用する不変の真理であると言えます。
アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領(テディ・ベアのセオドア)がこれに感激し、
直ちにこれを英文に翻訳して全軍に布告させただけのことはあります。

東郷長官の訓示は録音されレコード盤に残されており、現在それがyoutubeで聴けます。

聯合艦隊解散之辞(上)
聯合艦隊解散之辞(下)


しかし、この文体でこの読み方。
せっかく素晴らしいことを言っていても、このお経のような抑揚のない読み方では
その場で聴いている将兵たちには、畏れながら玉音放送のごとく
あまり意味がストレートに伝わらなかったのではないかと思ってみたり・・・。

因みに、この英訳文によると、最後は

"Tighten your helmet strings in the hour of victory."

となっています。
紐の無いヨーロッパの兜しか知らない者に、どの程度この最後の文章が
感覚として「ぴんときた」かどうか興味があります。



戦後一発の銃砲も撃ったことのない「軍隊」を持ち、平和を享受し続けてきた日本は
東郷平八郎の言うところの「平時」において「乱」を忘れてきた状態にあります。

しかしその中でも、軍隊たる自衛隊はたゆまぬ鍛錬によって力を維持せんとし、
何よりその精神性のうえに専守防衛を貫いてきました。

東郷平八郎が全海軍に布告したこの精神が現在にも自衛隊に受け継がれているのは
疑いようのないこととしても、問題は日本という国そのものが、平和の長きに甘んじてきた結果、
国家主権を他に移譲しようと公言するが如き輩を首長に戴くような政権を生むまでに
「平和ボケ」を拗らせてしまったことです。

死期の近づいた野生動物の周りに嗅覚鋭く近づくハイエナのように、
そういう国にはこれを利して益を得ようとする勢力が元気づくものです。

まさしく東郷長官の言う

治平に安ずる者から勝利の栄冠をを取り上げてしまわれ」

ようとする神が、平和に安んじた日本をあたかも試すかのように。


4年前、民主政権が誕生したときには、中国も韓国も歓迎ムードであったと記憶します。
しかしそれはあくまでも日本が「与し易い相手」となることへの期待であり、
事実その後両国からは「付け込まれた」としか言えないような外圧が相次ぎました。

そして、このたびの参院選での自民公明圧勝に対し、中国はさっそく

「安倍政権の長期化は、日本がアジア太平洋地域、
ひいては世界の不安定化の源になることを意味する」

と警戒感を示す論評をだし、両国の「関係悪化」を憂慮しているということです。

この傾向は国内のメディア始め左派にも顕著で、安倍政権はまず
国内におけるこの戦いに直面しなければならないことが明らかとなりました。

「日本はどこへ行くのか」

と言ったようなアジテーションめいたメディアの「煽り」を何回目にしたでしょうか。
しかし、この「圧勝」は、どのようにメディアが言い募ろうと国民の民意です。

勿論4年前の結果も民意であることには変わりありませんが、
前回と今回の結果において、国民の意識は全く性質を異にしている感があります。
つまり、すっかりメディアの煽動に乗って「信じて、そして裏切られた」有権者の
いわば自己嫌悪が反動となって表れたのが今回の参院選の結果でしょう。

そしてまた、中国の示威行動、韓国の挑発的行動と侮辱的反日行為に対し、
危機感も勿論ですが、国が誇りを傷つけられるということが
いかに屈辱的と感じるかを思い知った日本人が多かったか、ということなのです。

この国民の意志は当分メディアの先導によっても覆ることはないでしょう。


「聯合艦隊解散之辞」は平時にも武力を、そしてそれを維持する精神こそが
国体を護持するために必須であると説きます。


為政は国民の幸福のためにも常に矜持を伴った平和を追求するべきで、その真理は不変です。

しかしながら平和を支えるその根底には、武力の弛まざる琢磨があってこそだということを
この書は今日もわたしたち日本人に説いてやみません。







 


すずめ食堂、乗っ取られる

2013-07-21 | すずめ食堂

ベランダにお米を置いてやってくるすずめを写真に撮る
究極の隙間企画、「すずめ食堂」。

渡米前にはすずめたちもすっかりその気になって、
一日に一合のペースで喰いつくし、さらには無くなってからも
偵察隊がなんどもおとずれるので、こちらもすっかりそのペースにはまり

「あ、今日はまだ出してませんでしたね。ごめんなさい」

といそいそ台所にお米を取りに行くというありさま。
しかし、6月21日に出国して以来、補給は途絶え、
今までさんざん楽をして銀シャリを貪ってきたスズメどもは
仕方なく元の自給自足の生活に戻っているのであろうと、
こちらの頭の灰色なアメリカスズメを見るたびに思いを馳せていました。

そんなある日、日本で留守宅を守る(といっても出張が多くてあまりいないらしいけど)
TOが、写真を送ってきました。

「すずめ食堂はどうなってるかな」

そう思ったTOがカーテンを開けると、そこには・・・




ど~~~ん。

すずめ食堂が乗っ取られている。
このうちに住んでもう10年。
このガーデンテーブルとチェアはサンフランシスコから持って帰ってきたものですが、
今までこのように使用されているのを見たことがありません。

TOいわく

「高床式住居みたいなものだから涼しいんじゃない?」

TOはこの後の動画も送ってきたのですが(暇?)
テーブルの上で大きく伸びをして今度は椅子の上に移動し、
そこでさんざん毛づくろいをしたのち、そこでお休みになりました。
実に猫の生活というのは気楽そうで羨ましいです。

それはいいけど、たとえ留守の間TOがお米を追加したところで
お客が帰ってくることは当分なさそうですね。

ところでこの黒ネコ、お腹を見ると避妊手術の痕があります。
ということはどこかの飼い猫なのでしょう。



これもTOがうちの近所を歩いていたときに「猫集会」を見つけて
写真を撮ろうとしたら、一匹が立ち去ってしまった瞬間。

どうもこのネコがスズメ食堂占拠犯人のようです。


海軍技術研究所~防衛省技術研究所目黒試験場

2013-07-21 | 自衛隊

というわけで、目黒の技研に潜入してきたエリス中尉です。
とは言っても技研の内部まで見たわけではないので、外からの写真だけです。

しかし、2013年、このハイテクの時代、しかも軍事周辺技術については
トップと言わないけど世界の先頭集団にある日本の技研にしては
あまりにもしみじみとした風情のある建物ではありませんか。

この目黒防衛省エリアには、

防衛省防衛研究所
技術研究本部
統合幕僚監部
陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊

が共同使用という形で存在しています。

これからお話しする技術研究本部は

艦艇装備研究所
先進技術推進センター

を含む防衛省の一部です。



グーグルアースもう一度。
300mの屋根を持つ大水槽の周りが技研が集中しているところ。



表札も真新しい艦艇装備研究所の入り口。




この大水槽を研究設備としているわけですが、ここで大水槽の気になるスペックを。

長さ 247m

幅  12m

深さ 7m

なんと。
300mの長い長い建物は、もしかしたらそうではないかと思っていましたが、
ほとんどが水槽だったんですね。あたりまえか。

 

 

 

 

 

 

 

 


そこでもう一度出してくる大水槽の写真。
こういう水路のようなのが延々247mにわたってあるわけですね。
うーん。これ、一度見てみたい。

このプールは、電動プランジャー型の造波機を備えています。
プランジャーとはポンプのこと。

ところでトイレが詰まったときに使う先にゴムの付いたあの道具、
英語では「プランジャー」と言います。
これから英語圏を旅行する人、海外では必要になる場合もありますので、
覚えておくと便利かもしれません。
こういう事態は5つ星ホテルでも時々起ります。(経験あり)
まあもっとも、5つ星なら自分でプランジャー使わなくてもいいですけどね。


というのは全くの蛇足ですが、とにかくここはそういうシステムで波を造ります。
規則波、不規則波とタイプの違う造波が可能で、作ることのできる波長は
1メートルから最大20メートル。

これらのシステムはすべて赤外線によって遠隔操作されます。



森閑として全く人気のないこの一角。
おそらくこの日、どの設備も稼働していなかったのかもしれませんが、
いったいこれらの設備は年にどれくらいの日数使われるのでしょう。



怖いよこの表札怖いよ。

それはさておき、海軍関係で「耐圧」といえば?
そう、潜水艦関係です。

ここでは主として、耐圧試験タンクを使用しての

潜水艦用耐圧構造模型に対しての圧壊試験

を実地しています。
そのためにここに設置されているのが

フローノイズシミュレータ

というものなのですが、これは

「艦艇や水中航走体の流体性能、音響性能について試験・評価することを
目的に建設された極低背景雑音の大型キャビテーション水槽」

をいいます。

キャビテーションとは「空洞現象」とも言われ、液体の流れの中で、
圧力により短時間に泡の発生と消滅が起きる物理現象ですが、
それを人工的に起こす装置ということのようです。


なにか具体的に分かるものは無いかと調べたところ、
艦艇装備研究所の防衛技官、大本理沙氏の論文を見つけました。
独立法人所有の航海練習船、「青雲丸」の模型を使ったキャビテーション観測です。
図解で非常にわかりやすいですので、興味のある方はどうぞ。

「フローノイズシミュレータにおける流体計測技術について」



入口に麒麟草とか生えてるし・・・・。
そういえば小学校の時の鉄筋校舎がこんな感じだったわ。



ここが信管実験棟。

砲弾、誘導弾、ロケット弾が目標への弾着時に最適作動条件を果たしているか、
そして設計通りに作動しているかを確認するための実験装置があります。

これが

信管衝撃シミュレーション試験装置

です。
これは、窒素ガスを圧縮した減圧槽内に射出し、各種の弾着環境を模擬して
それらのデータを得る装置です。
火砲の発射衝撃のシミュレーションを実地することもできます。

それらは瞬間X線撮影装置で弾着の瞬間および破壊システムが記録されます。
そうして得られたデータから、耐弾性に優れた材料や構造が研究開発されるのです。


ところで皆さん、防衛省がこういった「武器研究」をしているのは当たり前ですが、
どこでその実験しているのか疑問に思ったことはないですか?



それが、ここ。「衝撃実験棟」。

ここには砲弾模型を使って砲弾の飛翔状況を作りだし、各種現象を計測するための

非定常高速過渡弾着シミュレーション試験装置

というものがあります。

試験にあたっては、砲弾の模型をマッハ1.5から3で高速落下させます。
同時に高温・高圧ガスを作用させることにより、室内において
砲弾の非定常な飛翔状況を作り出すことができるのです。

因みにブラストウェーブ(爆風)の最大持続時間は5ms(5/1000秒)、
直径50ミリ以下の供試体を試験対象にしています。



防衛省公開資料より。


この装置を使った研究が防衛省のことだから発表されていないかと調べたら、
技研の論文集のタイトルだけ集めたPDF文書が見つかりました。

どれどれと読んでみると・・・・・・・・・・・これ、興味深い、というか面白いです。


寄り道になりますが、この論文のタイトルを淡々と挙げておきますので
読みたくなったら最後のリンクをクリックしてみてください。
ただし、すべて「概要」ですので念のため。


●FPR掃海艇(えのしま)の構造強度

●空力弾性風洞試験技術・・・横転中の航空機の空力弾性現象の把握

●CBRN(放射能汚染地域)対応遠隔操縦作業車両システム

●軽量戦闘車両システム・・・・コンパクトで火力、防御力、機動力を有する戦闘車両の成立性

●ヘルメットの耐弾性能評価技術について(陸上装備研究所による)←おすすめ!

●船首砕波解析への粒子法応用・・・・・コンピュータで水しぶきをリアルに再現

●CFD用い舶用ぷ色ペラの流体性能の予測技術・・・より静かなプロペラを目指して

●見にくいものも見つけ出す・・・・2波長赤外線センサー

●撃てば即当たるマイクロ波兵器・・・・ライト・スピード・ウェポン←おすすめ!

●粒状物質の爆発飛散シミュレーション

●跳躍技術・・・ロボットやパワーアシストが走るなどの動作を行うために必要な跳躍技術

●戦闘機操縦者のマルチタスク能力に関する研究(航空医学実験隊による)

●金属ナノ粒子を用いた医用材料等に関する研究・・・抗ウィルス性材料

●コンポジット推進薬の高性能化・・・・誘導弾の燃料

●防災用ヘルメットアンテナの開発・・・・無線機月ヘルメットの開発

●ニュートラルネットワークを用いた艦隊防空システム

●遠距離加熱赤外線サーモグラフィ法による非破壊検査・・・
               地雷の遠隔探査、航空機、艦船などの非破壊検査のための方法

●非常用飲料水貯水槽の開発・・・災害発生時に水を確保できる貯水槽

http://www.mod.go.jp/trdi/research/abstract_s.pdf


いかがですか?
直接軍事に拘らない、実にあらゆる方面の「あったらいいな」を研究していますね。
これがもう少しマニアックに、さらに斜め上に進んでいくと、アメリカの
DARPA(国防高等研究計画局)になったりするんですね。違うかな。


またこの衝撃実験棟は

対銃弾耐弾性評価装置

火力に対する各装備品等の脆弱性解析装置

などを備えています。



この付近にはさらにまるで昔の工場のような謎の建物多数。



空き地には新しい設備が増設されるとどこかで読みましたが・・・。
その気配全く無し。

これだけの研究と、そのための実験が行われているにしては
あまりに時代から取り残されたような古めかしい建物が立ち並ぶ空間。

この建物に一歩はいるとそこには最新設備のハイテク実験装置が並び、
さらに技術立国日本の軍事周辺技術がここで実験され作り出されるのだと思うと、
つくづく技術とは「人の頭の中の世界」なのだなあという妙な感慨が浮かんでくるのでした。



今回このようなところに侵入して、あらためて調べなければわからなかったことばかりです。

誰もいない(人ひとりにすらすれちがわなかった)この空間だけが都会の喧騒から切り離されて
まるで異次元にあるような気すらした、目黒の技術研究所でした。





ボストンのスシ・ゴー・ラウンド(回転寿司)再び 

2013-07-20 | アメリカ

去年「アメリカ・スシ事情」というエントリで、ここアメリカのスシについてお話ししたのですが、
この時に初めてここボストン郊外のあるショッピングモールにできた
回転ずしの「ジャパニーズレストラン」に行った感想を書いています。

この時にこのスシレストランを美味しいと思ったから、では決してなく、
単に一年経ってここのスシがどうなっているかを確かめるため、
というか「ネタ」ゲットのためだけに今年も行って参りました。



このモールには、この一年の間に以前からあったアップルストアの一軒置いて隣に
マイクロソフトショップができるという変化を見せていました。

関係ないのですが、どうしてアップルショップの近くに
アメリカというところは必ずマイクロソフトショップを持ってくるのか。
しかも必ず間に一軒別の店を挟んで。

スタンフォードのモールも全く同じ配置だったので何か不思議に思いました。



この「スマーテスト・スシ」には、下にこう書いてあります。

「・・・・そう、コンベアーベルトに乗ってくるんです。

ワサビ、わたしたちは新鮮"geek"(オタク)です。
わたしたちは「ラジオ・コントロールド・スシ」を思いつきました。本当です。
ベルトの上のリングはすべてラジオ波IDチップが搭載されており、
自動的にわたしたちのスシ・シェフが、皿を管理するタイミングを知らせます」

ほう。

寿司ネタがカピカピに乾いて、すし飯が米に戻るということがないように
コンピュータ管理をしていると。
さすがはボストンのシリコンバレーといわれるこの地域にあるすし屋だけのことはある。
ついでに、店の前にアップルと、一軒置いてマイクロソフトショップががあるだけのことはある。

ところでこのスシ・ゴー・ラウンドという言い方。
回転寿司のことを「ベルト・コンベアード・スシ」とも言いますが、
メリーゴーラウンドみたいなこちらのほうが気が利いていますね。

さて、それでは一応お品書きも見てみましょうか。



ここでいちいち突っ込んでは話が進まないけどとりあえず言わせてもらう。

味噌汁にハラペーニョ(メキシコの青唐辛子)を入れるな。

酢の物にアボカドを入れるな。

去年のエントリで、「だし昆布を一度くぐらせただけで変わる味噌汁の味が、
日本人以外にはどうやらまったく知覚できないらしい」

と書いたわけですが、だし昆布どころかハラペーニョ・・・。
舌がしびれるほど辛いハラペーニョを入れたら、だしの味もなにも全くわからないだろうがっ!

ところでここは「ジャパニーズ・レストラン」ですから、一品もの、
たとえば日本のすし屋ではお目にかかれない「チキン」などもあります。
息子が食べたいというのでチキンを注文してみたのですが、
ウェイトレスのお姉さん

「テリヤキか”あんてぃくちょ”かどちらになさいますか」

わあーーーーっつ?(ディスピカブル・ミーのミニヨンの声で)

アンティクチョってなんですか?
メニューを見ていただけれはお分かりですが、これは「レモン・チリソース」。
すでにジャパニーズとは地球半回転近く離れてるし。

ハラペーニョと言い、あんてぃくちょと言い、メニューのSUNOMONOの前に付けられた
JO(意味は分からないけどたぶん”ホー”と発音する)と言い、断言するが

オーナーはメキシコ系である。

とスルドくプロファイリングしている間にも、一皿撮ってみることにしました。



キュウリ巻。
これは文字通り「撮っただけ」。
見たところ日本のものと変わりありません。

しかし、どちらにしても味は予想の範囲(というかもう知ってる)ので、
エリス中尉がここで最初に取ったお皿は・・・・



ベトナム風春巻きチリソース添え。

どこがジャパニーズレストランなんだ、と日本人なら思うわけですが、
メキシコ人から見ると、ベトナムも日本も同じような場所にあるのかと。
なぜこれを取ったかというと、こちらのスシはやたらご飯部分が多いので、
炭水化物の取りすぎにならないように&前菜代わりです。

中には紫キャベツ、普通のキャベツ、カニカマ(ここが日本風)入り。

そしてその間にベルトに乗って流れてくるスシ(とそうでないもの)を撮りまくります。



和代ロール。加寿代ロールかもしれません。
カズヨって誰?

蓋が曇っていてよく見えませんが、アメリカ寿司特有の
内側にノリを巻き込んだ巻きずしの上にサーモンを乗せています。

なんかこう、素材があんまりなので、いろいろ足してしまうんでしょうか。



だからドラゴンというネーミングは日本のセンスではないと何度言ったら(略)
巻きずしにさらにネタを乗せるというのはどうやら基本形になってしまっていますね。



このあたりで、もう一つ取ってみることにしました。
ご覧のとおり、ウナギ。

日本ではシラスウナギの捕獲量が激減していて、近々日本産ウナギは
養殖であっても食べられなくなるのではないか、というニュースが最近ありましたが、
アメリカの鰻がどこから来ているのかは謎です。
まあ、おそらく中国産の気味の悪いあの「ウナギモドキ」だと思うんですが、
一回くらいは何ともなかろうと、死んだ気になって取ってみました。

掛けられたタレが超濃厚だったせいで、正体がわかりにくい味でしたが、
取りあえず鰻らしく全体的にまとまっていました。



しかし、少し箸をつけただけで御飯がボロボロ崩れるのは・・・。
ノリで巻いてあるのは「崩れ止め」のためでもあるようです。



トーキョー・サラダ。

サーモンとマグロをきゅうりとレタスと海藻の上に乗せ、ドレッシングをかけて出来上がり。



ここで、息子が頼んだ「テリヤキチキン」が来ました。

盛り付けがなっとらん。

なんというんでしょうかね。
大したレストランでなくても、どんなコンビニ弁当でも、
日本人ならこうは盛り付けないんじゃないかな。
息子によるとチキンそのものは美味しかったということですが。



Bajaとは、これもスペイン語で、「バハ」だと思うのですが、
「高い」とか「長波」など、たくさんの意味があるようでよくわかりませんでした。



フィラデルフィア・ロール。

カリフォルニア・ロールなら知っているが、とおっしゃる方、
あなたはクリームチーズの「フィラデルフィア」をご存知でしょうか。
そう、このロールには、クリームチーズがアボカドと共に巻き込まれています。

うえー、なんだそれ。

と決めつける前に、エリス中尉、清水の舞台から飛び降りたつもりで(←嘘)
一皿取ってみました。

うむ・・・・。

なんといいますか・・・・ご飯にバター掛けたみたいな意外なマッチング。
悪くありません。

銀座の次郎さんは後頭部に筋立てて激怒しそうですが。



息子が「洗濯でもするのか」と突っ込んだ、この「センザイ」。
どこかで聞いた日本語を使用してみたのでしょうが、
日本語で「センザイ」というと、「洗剤」「潜在」「線材」「先在」「千載」、

可能性がありそうなのは・・・・・・・・「前栽」?

確かに、上に乗せられた緑の物体は「前栽」(植え込み)に見えないこともない。
それにしてもこの緑の物体の正体はは、何なのでしょう。



ラッキーロール。

おそらく、具が四種類巻いてあるからだと思われます。
しかし、どうしてアメリカのスシというのはノリを内側に巻くかね。



それにしても、ワサビ、大繁盛である。
スシは最近珍しいものでもなくなってきて、このように普通のショッピングモールに
必ずスシレストランが一つは入っているのですが、
昨日観に行った映画「ディスピカブル・ミー2」(怪盗グルーの月泥棒の続編)でも、
モールに怪しげな名前のスシ屋がありましたし、サメがビーチのスシカウンターに
爆発のショックでどーん!と乗って、板前と客が皆で「いえ~~~!」と
叫ぶというシーンがあったように、アメリカ人の生活には普通に溶け込んでいます。

ゴーラウンド型のショップは、フロア従業員の数を減らせるし、子供も喜ぶし、
食べたいものを取ってすぐ食べる(しかも座ったまま)と、アメリカ人が好む要素が満載なので
きっとこれから増えていくのではないでしょうか。



スィートボテト・天ぷら。
どこが天ぷらでどこがスィートポテトなのかは謎です。
向こうの軍艦巻きに乗った真っ赤な物体は、着色したトビコです。



季節のお奨めは・・・プチトマト乗せ。
内容物はわからず。



去年も突っ込んだ「レインボウ・ロール」。
因みに去年のバージョンは「レインボー巻」と称するものです。
比較のために去年の映像をどうぞ。



一応ネタがグラデーションしていますね。
今年は手間がかかるので簡易化されたようです。



ネームバンドがひっくり返っておる。

しかし、突っ込みどころはそこではないでしょう。
キャタピラー、つまり「アオムシ」「イモムシ」です。

確かにここアメリカは、エリックカールの「はらぺこあおむし」を生んだ国で
あおむしくんは子供にはおなじみのキャラクター。
もちろん日本でも「はらぺこあおむし」はほとんどの幼児が読んで育つのですが、

「あー!あおむしくんだー!」
「マミー、あおむしくん食べたい!あおむし取って!」
「あら、ほんとねー、かわいいわねー。はい、エリック」
「わーい。あおむしくん美味しいなあ」

というほのぼのした親子のやり取りがアメリカならありうるというのであろうか。
あおむしくん、たしかに絵本では可愛いですが、
何もここまで形態を食べ物で再現しなくてもとおもうのはわたしだけでしょうか。
しかも外側みんなアボカドだし。



Oishiii Cake。おいしいケーキ。

息子とわたしが一番ウケたのがこれ。

ここは一歩突っ込んで
「Maa-maa no Cake」「Bochi-Bochi no Cake」「Oshii Cake」
など、いろんなバージョンがあるといいと思いました。

因みにメニューには「Fijiyama Cake」もありますが(どんな形か想像はつく)
残念ながらパティシエが作っていないらしく、流れてくることはありませんでした。



というわけでドキドキのお勘定。
お皿の色で値段が決まっているというシステムは日本と同じ。

Thank you!という字と共に、アンダーラインを引いているのは、
15パーセントチップなら4.58ドル、20パーセントくれるなら6.10ドルだからね!
あんたたち、英語がアヤシイからおそらく観光客だと思うけど、ここはアメリカだから
チップはちゃんと払ってね!
わたしはチップで生活してるんだから、ということを訴えているのです。

「ママ、チップいくらにするの」
「40ドルでお釣り無し、でいいんじゃない」
「7ドル36もチップか・・。多くない?」
「チップっていうのはね。『いかに楽しませてもらったか』ということの表れなの。
だからいいのよ。これだけ楽しませてもらったんだから多くない」

わたしの場合、ブログのネタにさせてもらうわけだしね、という言葉を飲み込んで、
毎年一度はここを訪れ、アメリカのスシ事情をチェックすることを心に誓ったエリス中尉でした。


決して美味しくない、というのが問題と言えば少し(かなり?)問題ですが。










アシアナ航空機事故に思う・真の英雄とは

2013-07-19 | 日本のこと


「差別的な名前を放送したとしてアシアナ航空がテレビ局を訴えた」

ことに対し、一般の声のみならず、アメリカ大手新聞も軒並み非難の声を上げだしました。

ワシントンポストではEric Wempleの意見としてこのような記事を掲載しています。

There’s little question that the KTVU report disparaged Asians
and conveyed false information. That’s unfortunate.
It doesn’t, however, give Asiana Airlines a cause of action against KTVU.

残念だがKTVUがアジア人の名前を間違って報道したことが馬鹿にしているとして、
アシアナがKTVUに対して訴訟をしようとしていることに少々疑問がある。


To win a judgment against the television station,
the airline must prove that the false report so injured
its reputation that it resulted in the loss of business.
That, it will never be able to do.

この裁判に勝つには、航空会社は虚偽の報道がその評判を傷つけ、
どれだけの企業損害を被ったかを証明しなければならない。
そかし、それは不可能であろう。

If Asiana Airlines suffers a loss of business these days,
what will have been the cause? We’ll throw out two options:

1) A crash after an Asiana aircraft approached
San Francisco International Airport too slowly, leaving three people dead.

2) A roughly 30-second report on a local TV station
using fake pilot names for the flight.

Tough call there.



もしアシアナ航空の収益が何日か以内に激減したとしても、
その原因は何だろうか?
我々は二つの選択肢を挙げてみたい。


1)サンフランシスコ空港でアシアナ航空機があまりにも低速で侵入し、
その後墜落して三人が死んだこと

2)地方テレビ局が偽のパイロットの名前を約30秒報道したこと

難しい問題だ。

Consider, too, that the KTVU report in question made no allegations
about how the airline operated; it merely read off four names —
‐wrong names, to be sure, but names! What’s defamatory about names?
The racial insensitivity in the broadcast, too, is fully protected under U.S. law,
notes attorney Jeffrey Pyle, a partner in the Boston-based firm Prince Lobel Tye LLP.
“There’s no legal claim that you have against somebody
for being unintentionally racist or intentionally racist,” says Pyle.

考えても見てほしい。
KTVUの報道はどのように航空機が操作されたかという点で全く疑問の提示にもならない。
ただ4人の間違った名前を、繰り返すが名前を読んだだけなのだ!
この名前のどこが中傷的だというのだ。
報道における人種的区別をしないことももまた、米国では法の下で完全に保障されている。
ボストンにある弁護士事務所のパートナー弁護士ジェフリー・パイル氏は云う。

「確信犯的レイシストか確信してのレイシストかに対して訴える法律はない」


つまり、法に訴えても勝ち目はない、と弁護士が言っているわけです。
またロスアンジェルス・タイムズの社説は

"It's not going to change anything in the minds of passengers or
in the minds of the flying public," he said.
"As offensive as what the TV station did was, and unacceptable,
we're talking mountains and molehills here —
people dying versus people getting offended."

こんなことをしても乗客や航空関係者の心証はまったくかわらないだろう。
テレビ局のしたことを不適当だとして攻撃的になればなるほど、
我々は人が死んだことと腹が立つということのあいだには大きな違いがあると思うだけだ。


事故が起こったほとんどその直後に、以前にもお伝えしたようにアシアナ航空は
一人のCAをテレビの前に立たせ、インタビューさせました。
事故の概要もまだ判明していないこの時点で得々と自分の活躍を語り、
韓国と日本のメディアが「英雄」とこれを称えました。

確かに「ここアメリカのメディアにも「小さいCAが自分より大きな乗客を背負っていた、
という証言が報じられているのは事実です。

しかし、一面こんな証言も「公平に」取り上げられています。

Flight crew seemed surprise by crash
(乗務員は墜落に動転していた)

というヘッドラインの記事では、生存者のアメリカ人がこのような現状を語りました。

「彼らは一言で言って『完璧に圧倒されてしまっていた』。
わたしの言う意味は、彼らがこの事故を全く想定外だと思っていたらしいということだ。
つまり、動ける者とそうでない者、(乗客は)お互いが助け合わなばならなかったということだ。

多少の混乱はあった。
しかし我々は極めて早くお互いを落ち着かせ合って、実際に脱出を始めた。
押しあう者も、倒れた誰かを踏んでいくようなこともなかった。
物凄く敏速にことは行われたという気がする」

「わたしはサンフランシスコ空港には何度も訪れているが、あの時思ったのは
いつもより異常に海が近いなということだった。

海は見えたが滑走路は全く見えず、機首が上を向いているのがわかった。
おかしいとは思ったが、パイロットがそういうつもりでやっているのだと思っていた。
でもそれがおかしかったってことだね。
そのあと駐機場にぶつかったんだから」

「最後の人々が脱出を始めたときに煙と火が起こった。続いて爆発も。
死者が少なくて済んだのは、ただ幸運だっただけとしか言いようが無い。
火が出るのが遅く、私たちは迅速に行動した、理由はそれだけだよ」


勇気あるアシアナ航空のCAの働きについては全く触れず、ただ

「彼らは呆然としていた」
「わたしたちは彼らの助けではなく自分たちで協力し合って助かった」
「死者が少なかったのは出火が遅かったから、それだけだ」

と言っているわけです。

前回「アシアナ事故でCAの英雄譚はどのように報じられているか」で、
CAを英雄と称える声もある、が、実際には機内の最後の負傷者を助けたのは
地元の消防局の隊長(日本の報道では警察となっているが、インタビュ―されたのは消防士)
であったという事実についてお伝えしたところ、
「美談としてCAの話を大々的に報道した日本のテレビ局に怒り心頭」
というお便りもいただきました。


「90秒ルール」では、事故後90秒以内に機内から全員を脱出することが
航空業界では定説になっているというのに、この事故で全員が脱出したのは
なんと5分経ってからだったと言います。

しかも乗客によるとCAたちは終始動転して何の役にも立っていなかったと。

乗客生命の安全を確保するのが乗務員の存在意義であり任務であるのに、
実情は決して彼らが乗客にとって心強い存在にもなっていなかったということであり、
上のインタビュイー、ベン・レヴィ氏の発言には、役に立たなかった乗員たちへの
明らかな「苛立たしさ」が含まれているのがおわかりでしょう。

いざ事故が起こったとき、乗務員が傍目にも全く想定外であるかのように動転していたら、
乗客はどんなに不安な気持ちになるものでしょうか。



アシアナ航空が補償金を巡る責任問題を少しでも我が方に利するように

「差別発言を捉えてテレビ局訴訟」
「80人強の乗客が(アシアナ航空ではなく)ボーイングを集団訴訟」

という信じられない「あの手この手」に余念がないということはいまや世界中の認識するところです。
これらは常識を超えて、もはや「捜査の妨害」としか見えません。

このような会社ですから、乗客を背負って逃げたCA(おそらく彼女だけだったのでしょう)
に早々にインタビューさせ、あたかも彼女が勇敢なヒーローであるかのように印象操作したのも
はっきりとこのような意図のもとに計画されたことだったと言われても仕方ありません。



さて。

話は全く変わりますが、わたしは夏前、作家の北康則氏の講演を聴く機会がありました。
北氏は「白洲次郎」の著者でもあるノンフィクション作家ですが、
この日の講演中、自分の任務を、命を賭けてまっとうするのが昔から日本人というものであった、
という話を、幾多の先人の例にひもときながら、北氏はいきなり涙声になりました。

「すみません・・こういう話をしていると、自分で感動してしまって・・・・。
わたしは・・・本当に、こういう日本人が好きで好きでたまらないんです」

自分の任務を果たすのに、そして他者を生かすためにときとして人は、ことに
日本人は自分の命の危険を顧みず行動します。

入間川の河原に墜落したT-33練習機のパイロットたち、
雲仙普賢岳の火砕流に、マスコミを保護するために残って殉職した警察官や消防団員、
踏切に進入した女性を助けて電車にはねられた派出署の警官、
そして何より自分の命が後世の日本人を救うと信じて往った特攻隊の方々。

北氏がこの日名前を挙げて思い出させてくださったそんな英雄の存在がありました。


遠藤未希さん。

東日本大震災で、津波に襲われた南三陸町の庁舎内から、
最後まで避難を呼びかけるアナウンスを続け、その後死亡が確認された女性です。

地震発生の直後から放送が始まり、サイレンに続いて、
危機管理課の職員だった遠藤未希さんは

「震度6弱の地震を観測しました。
津波が予想されますので、高台へ避難して下さい」

と呼びかけていました。
この時点で大津波警報は出ていませんでしたが、
町は独自の判断で津波への警戒呼びかけを行っていたのです。

周囲にいた人の声も収録されていて、大津波警報が出たあと、
津波の高さについて「最大6メートルを入れて」と指示され、未希さんは、
6メートルという情報と「急いで」とか「直ちに」という言葉を呼びかけに付け加えていました。
また、周囲の「潮が引いている」という言葉に反応して
「ただいま、海面に変化が見られます」と臨機応変に対応していたそうです。

津波を目撃したとみられる職員の緊迫した声のあと、未希さんの呼びかけは
「津波が襲来しています」という表現に変わっていましたが、高さについては
「最大で6メートル」という表現が続き、最後の4回だけ「10メートル」に変わっていました。

当時、未希さんたちと一緒に放送を出していた佐藤智係長は
「水門の高さが5.5メートルあり、防災対策庁舎の高さも12メートルあったので、
6メートルならば庁舎を越えるような津波は来ないと思っていた」と話しています。

音声は、なおも放送を続けようとする未希さんの声を遮るように

「上へあがっぺ、未希ちゃん、あがっぺ」

という周囲の制止のことばで終わっていました。
呼びかけは62回で、このうち18回は課長補佐の三浦毅さんが行っていました。
男性の声でも呼びかけて、緊張感を持ってもらおうとしたということです。
三浦さんは今も行方が分かっていません。

この南三陸町の役場には、津波が来たとき屋上に51人が避難し、
膝まで浸かりながらも皆で身を寄せ合って耐えていました。
その後建物は12mの波に飲まれ、波が退いたときに残っていたのは
一段高い非常階段につかまっていた10人だけでした。


この音声を初めて聞いた未希さんの母親の遠藤美恵子さんは

「この放送を聞いて、本当に頑張ったんだと分かりました。
親として子どもを守ってあげられなかったけど、
私たちが未希に守られて、本当にご苦労さまというしかないです」

と話したということです。

未希さんの遺体は震災から約2か月後の5月2日になって、
ようやく確認されました。
結婚したばかりの夫がプレゼントしたミサンガが確認の決め手になりました。

もし、自分の危険も顧みずに任務を果たすことが英雄の条件であるならば、
このような女性を英雄と言わずして何というのでしょうか。

そして、我が子を失いながらその子が職責を果たして死んだことに対し
「ご苦労様」
という言葉を投げかける母親もまた。

アシアナのCAが、実はどのくらい職務に忠実だったかは、
アメリカ人のいくつかの証言によるとかなり疑問が残るのは事実です。
しかも本来乗務員として当然の義務でありながら、それをしたことを
わざわざカメラの前で強調し、またそれをもてはやすメディア。
このような「操作」された美談からは見たくもない裏側の「魂胆」が透けて見えます。


事実このアシアナCAの「英雄譚」は、一部メディアの持ち上げ方とは全く反対に、
アメリカでも、特に今は冷淡に扱われているとわたしは感じています。
「ハドソン川の奇跡」のサレンバーガー機長などと比べても扱いの差は明らかですし。



我が日本には、先日の辛坊氏救出に活躍したUS-2のクルーや
この遠藤未希さんのような、真の英雄と呼ぶべき素晴らしい日本人がいます。

比べるのも失礼な話ですが、そんな方たちを知っているわれわれ日本人は
どんなにメディアが煽ってもこの「英雄」に対してある種の匂いを嗅ぎ取ってしまい、
とても素直に称賛する気になれないというのが本当のところではないでしょうか。






目黒・防衛省潜入記~「技術報国」

2013-07-18 | 海軍

というわけで、目黒の防衛省潜入記、といっても敷地内を廻って
写真を撮ってきただけですが、続きです。

こういう写真が貴重なのは、本来ならば関係者と所用のある者しか立ち入れない
この公的施設が、ほとんど戦前の、旧軍時代に使用されていたままに
そこにあることで、わたしもここにこうやって立つことで初めてそれを知ったわけです。

戦後、ここに設置された技術研究本部は、旧海軍時代の既存施設をほとんどそのまま
基本として展開してきたからです。


目黒の海軍技術研究所が空襲に遭ったというのは確かですが、
水槽にはどうやら壊滅的な被害は受けなかったようです。

ただ、連合国に接収されている期間の約10年間、施設は放置されて荒れるがままでした。
昭和30年以降、接収が解除になると同時に日本はこの施設を復旧、修復します。
自衛隊法の施行が昭和29年のことですから、これを受けて「海軍技術」
をすぐさま復活させようと関係者が動いたというのがわかります。

すぐさま機能は完全に回復し、またその他の施設については恒久的かつ堅牢な建物で、
当面使用に耐えるものであったので、研究の必要に応じ個別的にその内部に
必要な機械を設置、あるいは所要の設備を投入してきて今日に至るのです。



いまだにこの中には時の止まったような、往時のままの景色が存在しますが、
これはここがかつて海軍の所有であり、現在は一般私企業のように
「老朽化して使い勝手が悪いから」などとという理由では簡単に費用を投じて
建て替えしてしまうことのできない防衛省の管轄であるからなのでしょう。

現在ここにある実験設備についてお話しする前に、
かつてここにあった旧軍の海軍技術研究所についてお話しします。


戦時期に入ると、海軍技本には五部門が置かれることになります。

理学部
科学部
造船部
材料部
実験心理研究部

人員の陣容については高等官・同待遇者が73名、
臨時の高等官待遇者と嘱託が計28名、
そして、雇い人、傭人、職工、が800名。

職工、職夫といっても、要するに技術者のことですから、
高等官が実際の研究を牽引することになっていても、

工員の多くは「当時の築地の工手学校,神田の電機学校,
早稲田の工手学校など今日の工業高校に相当する学校の各科卒業予定者で,
成績がトップから二番,三番までの人を試験のうえ毎年継続的に採用しており,
「技研には所員と呼ばれた高等官(大学の教授・助教授に相当)
が三十人程いて研究の中心をなしていたが,その研究の推進力は
この優秀な工員グループの努力に負う所が大であった

つまり、全体が非常に優秀な技術者集団であったということになります。

1930年に新装相成った技研に天皇陛下の御行幸がありました。

この御行幸終了後、伊藤孝次所長は所員を慰労するとともに

「当所ノ如キ研究機関ガ其ノ任務ヲ遺憾ナク達成シマスルニハ
一ニモ人,二ニモ人,三ニモ人デアリマス」

として人員の強化充実を訴えたということです。

それでは、ここではどのような実験研究が行われていたのでしょうか。
アジア歴史資料センターの、大正15年の資料から抜き書きしてみます。

このなかでも最も海軍らしい、航海兵器では

1.駆逐艦用須式(第六型)轉輪羅針儀の実験
2.潜水艦用安式航跡自画器図面板改良
3.「バリスチツク」誤差修正器試験
4.航海兵器実験研究
5.測深儀に関する研究
6.経線儀誤差の研究
7.六分儀精度に関する研究
8.内地製飛行機用速力計比較試験
9.艦船の原基磁気羅針儀装飾位置に於ける磁場指力測定用計器の試製研究

この他、めぼしいところでは

火工品として

1.煙薬類
2.艦尾波隠蔽装置
3.煙幕展張装置
4.魚雷発光器
5.潜水艦用発煙信号筒及薬包


おもしろいと思ったのはここにあった実験心理研究で

1.掌電信兵志願者適性検査ニ関スル件
2.舞鶴要港部軍需部女工採用適性検査ニ関スル件

どういう適性検査をするか、ということを研究するのも「心理関係」とされているようです。
航空機志望者に対する適性も、この時とは別に研究されていたようですが、
結局大西瀧治郎の肝煎りで、黙って座ればぴたりと航空適性を当てる、
八卦見ならぬ人相見に頼っていたというのは有名な話。


3.手旗信号法ノ研究
4.「モールス」符号ノ研究

どこの組織が「ノギトーゴー」「アーイエバコーイウ」などという記憶法を考えたんだろう、
とかねてから不思議でしたが、ここだったのですね。
わたしはてっきり、先にツートンのパターンを決めておいて、あとから
「ウメエウメエナ」「ロジョーホコー」などとうんうん呻りながら(?)
こじつけたのだと思ったのですが、実際はもしかしたら、先に言葉ありきで
ツートンが決まったのかなと、いまふと考えました。

5.操舵練習機ノ考案
6.艦船ノ機関科作業ニ於ケル疲労程度測定ノ理論並ニ実施ニ関スル基礎的研究

今でいう「産業医学」、労働環境と人体の疲労と効率の関係を
このように科学するのも、ここで行われていたようです。

7.瓦斯「マスク」ノ装着ガ機関科諸作業ニ及ボス影響ノ実験的研究ニ関シ
  其ノ方法ノ案画並ニ実施ノ指導
8.瓦斯「マスク」ノ装着ガ人体機能ニ及ボス影響ノ実験的研究

こちらはどちらかというと化学的な実用実験ですね。
産業医学で言うところの「化学的環境」の研究です。

9.航空生理並ニ心理ニ関スル実験研究

航空生理学の分野については、これがどのようなものかがわかる現代の資料、
空自が出した

「航空生理訓練及び飛行適応検査の実地に関する達」

という通達を見つけたので、興味のある方はどうぞ。
減圧訓練の証明書や、航空訓練時に起きる症状、
耳痛、副鼻腔痛、腹部痛、歯痛、関節痛、低酸素症などについてのレベルや、
あるいは空自パイロットが飛行のために受ける「生理訓練」
などが書かれていて非常に興味深い内部文書です。

訓練の中には「騒音」「夜間視訓練」「射出座席訓練」などが見えます。



いちいち看板の古さに反応してしまうのですが、これももしかしたら
当時使われていた看板を新実験棟設立の際に引っ張り出してきたのかと思ったり・・・。

この耐圧実験については次回でも述べます。


こういった軍の機関による科学研究というのは、つねに国が最高の頭脳を投入して
「相手を凌駕するための」技術を得るために行われます。



この目黒海軍技術研究所の跡地には、そのまま戦後の「防衛技術」につながる
技術研究所が継続して今もあるわけですが、その片隅には、このような碑が置かれていました。

技術報国。



この文字を揮毫した都築伊七中将とは、横須賀海軍工廠で、
工廠長を務めた機関将校の一人です。

海軍工廠であるから機関将校の工廠長が多いと思いきや、歴代25人のうち
機関将校は都築中将を含めてたった三人です。

東郷平八郎が評判を落としたことの一つに、機関将校の地位を兵科将校と
統一しようとしたいわゆる兵機一系科問題のとき、

「窯焚きども風情に今後一切口を出さすな」

と言い放ったということがあるそうですが、その話はさておき、
兵科と機関科の将校の間にヒエラルキー対立が起こるまで
機関科将校は兵科将校より「下」ということになっていたため、
工廠長なのに兵科将校がほとんど、ということになってしまっていたのですね。

今考えると非常に不可思議な構図ですが、ともかくそんな実情にもかかわらず
機関将校でありながら工廠長を務めた都築中将はさぞどこからも文句のつけようのない
実力のある科学者でもあったのでしょう。


この碑は紀元2600年の記念として建てられたもののようですが、
10年間の連合国接収の間も取り壊しに遭わなかったのですね。
もしどこかに隠されていた、というのでなければ、この碑が撤去されなかったのは
技術を以て国に報いる、という言葉が、一点の曇りもない真実であったせいではないかと、
連合国の良識に対し多少の希望的推測を持ちます。

先日述べた造船官の徳川武定などもそうですが、実際は多くの技術者が
公職追放によって何年間かは技術職に就くことができなくなっていたわけです。
これもまたGHQの占領政策であったことはいまさらいうまでもないことですが。


それにしても、日本という国が独立しここまでの大国になれたのも、
すべては日本の技術者が戦後も持ち続けた「技術報国」の気概あってゆえでしょう。


かつて海軍技術研究所に働いた技術者たちは、
技術報国の精神を以て、また自らが世界一の技研であろうとしました。

なぜなら彼らの国は戦争をしていたからです。
戦争をしているからには、技術において相手に勝つことを目指すのが当然です。


しかし、平和となった現代の世にあっても、技術において勝ち続けることは必要です。
この点においては戦前戦中とまったく変わりはありません。
パワーバランスの観点から言っても、平和を行使するには、逆説のようですが「力」が必須なのです。

「二位じゃだめなんですか」

とかつて言った帰化人の政治家がいましたが、この国の技術はこの国にとって
戦時と全く本質的に変わることなく、最も強力な武力であることを、
おそらく精神的にも日本人でない彼女には全く理解できないのでしょう。

かつて世界一を目指して凌ぎを削った技術者の末裔であるからこそ、
日本の技術者は名実ともに世界のトップでありたいと願い、今日もまた勝利を目指し続けるのです。