ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

" I Think You Will."〜映画「眼下の敵」 後編

2020-02-28 | 映画

映画「眼下の敵」(The Enemy Below) 後半です。

ところでみなさんもお気づきの通り、この映画はゴリゴリに硬派で、
舞台は駆逐艦とUボートの中、そして海の上のみ。
米駆逐艦「ヘインズ」がUボートを見つけ、両者が対決する
24時間の出来事を書いており、回想シーンもいっさいありません。

マレル艦長の妻は、自分が船長をしていた民間船に乗せたがために、
潜水艦に撃沈されて死んでしまったということですが、それも
回想シーンはなく、艦長が静かに物語るだけ。

クルト・ユルゲンス演じるUボート艦長フォン・シュトルベルグの妻も、
写真がちらっと写るだけです。

ちなみにこの写真は、ユルゲンスの実際の妻、女優のエヴァ・ノヴァクで、
ちょうど撮影の時期に結婚していたことから「特別出演」させたようです。

ユルゲンスは生涯に5回結婚していますが、ノヴァクはその中でも
結婚から離婚まで1年という最短記録を誇っています。

 

さて、駆逐艦の足止め作戦が始まりました。

きっかり一時間置きに繰り返される爆雷攻撃に、
すっかり翻弄されるUボートの中の人たち。

攻撃が5回目を超えたとき、中の人の一人がパニックを起こし、
レンチを振り回して無言で大暴れするという事態になってしまいました。

ハッチに近寄っては開けて外に出ようともがきます。

「我々には手が出せません!」

しかしあら不思議、艦長が、

"Komm her, Söhn.”(お節介ながらドイツ語翻訳でお送りしております)

と一言いうと、ナウシカを噛んだキツネリスのように大人しくなりました。

「死も我々の任務の一部だ。しかし我々は死なん」

さすがはカリスマ艦長、言うことが違うわ。

そして何を思ったか、先任伍長のハイニにレコードをかけさせます。
艦長、気でも狂ったかー?

「歌うんだ!」

この曲の元歌は、ドイツの「デッサウア」と言う行進曲で、
「So Leben Wir」( それが私たちの生き方)という歌になっています。

Marsch «Der Dessauer»

「♫友のために、みんなのために、人生に乾杯!
笑って歌おう、高らかに力強く」

「♫ジョッキはビアで満ち、唇には泡
友情に乾杯 叫べ ”ヤボール”!
ローレライの姿に心奪われ 愛に乾杯!命ある限り」

どうだ、聴こえるか、と上を見上げる不敵な艦長。
いつの間にか後ろでマイクを握って歌ってるクンツ少尉(笑)

副長「我々がおかしくなったんでしょうか」

「いや、まともだよ。そうでないことを祈るところだが。
それでは攻撃用意だ、副長。
ワルツの途中で彼らを真っ二つに引き裂いてしまおう」

あのー、お言葉ですが艦長、この曲四拍子なんですが・・・。

字幕では、

「ワルツに伴奏してやろう」

となっていますが、実際の方が容赦ない感じです。

歌に遠慮なく始まった次の攻撃で、Uボート燃料パイプ破裂。

そこでUボート艦長は燃料を捨てて反撃に出ることにします。
爆雷を1度撃つと、必ず駆逐艦は転舵して次の攻撃のために向きを変える。
その数分の間にこちらから攻撃を仕掛けようと言うのです。

「フォイアー!」(お節介ながらドイツ語に翻訳してお送りしています)

いきなり向かってきた四本の魚雷は避けようもありません。
そしていきなり駆逐艦が模型になって映像もチャチに!

前部ボイラー室と機関室浸水!

「1時間も保ちません!」

そこで艦長は、

「マットレスに油をかけ甲板で燃やし火事に見せかけろ」

と命令します。

「こちら艦長、最後の反撃に出る!
敵は必ず浮上してくるから、保全班と第31砲座以外は
総員離艦せよ!」

表から見ると火事を起こしただけのように見せて、
実はもう沈むしかない艦に敵を引き寄せ、
浮上したところをやっちまおうというのです。

反対側では退艦が始まりました。
ホエールボートには10名ほどが乗り込んでいます。

ついにUボートが「餌にかかって」浮上してきました。
Uボート艦橋からは、紳士的に発光信号で、

「5分後に沈めるのでよろしく」

と合図が送られてきました。
駆逐艦の方は卑怯にもこの5分で相手をやっつけるつもりなんですけどね。
それでも一応礼儀正しく、

「了解 感謝する」

と返答します。

準備を整えて撃ってきた駆逐艦に、Uボートも時間を早めて攻撃。

「フォイアー!」(お節介ながら再びドイツ語に翻訳してお届けします)

しかし駆逐艦は真っ直ぐこちらに向かってくるではありませんか。

艦長はしかし真正面から駆逐艦を見据え、逃げようとしません。
彼の「友人」である先任伍長が艦内に爆薬を仕掛けに行って
まだ戻ってきていなかったのです。

駆逐艦はUボートにのしかかってしまいました。
潜水艦が浮力を保っているのが物理的にありえないんですが・・・。

艦内に先任伍長を助けに戻る艦長。

救命ボート上の乗員は、自艦の乗員がボートにしがみついているのに、
Uボートから脱出してきた敵を拾って乗せてやっています。

やさしい世界・・・

そのとき、駆逐艦の艦橋から出てきた艦長と、
Uボート上の艦長が初めて遭遇しました。

一目で互いを認識し、敬礼を送るフォン・シュトルベルグ艦長。(冒頭絵)

アメリカ人らしく投げつけ式答礼をするマレル艦長。
好敵手同士が対峙した瞬間でした。

自分も退避しようとしてふと思い返し、マレル艦長は
Uボート上の二人に向かってロープを投げてやります。

瀕死の先任伍長の体を結びつけ、Uボートから脱出!
急がないと、仕掛けてきた時限爆弾が爆発してしまいます。

自力でロープを伝って駆逐艦上に上がってきたUボート艦長。
撮影では、もうすこし体重の軽そうな人がスタントをしています。

驚異的な体力にマレル艦長が驚きの目で眺めると、再び不敵な目で
傲然と見返してくるのでした。

この後がちょっと笑えるんですが、マレル艦長が

「英語わかるか?」

と話しかけるんですよ。
今までペラペラ英語で喋ってたっつーの。

ホエールボートから助けに来た乗員に担がれて、
文字通りの呉越同舟になったところでタイミングよく時限爆弾爆発。

「ヘインズ」もUボートも爆発炎上して仲良く海の藻屑に。

しかし先任伍長は救出後、亡くなってしまいました。

救出に来た駆逐艦艦上では彼の海軍葬が行われ、フォン・シュトルベルグが
ドイツ語の祈りの言葉を唱え、捕虜となったドイツ軍兵士が歌を歌います。

この歌はIch hatt 'einen Kameraden 」(私の同志)という
フリードリッヒ・シルチャーの曲で、今日でもドイツ軍では、
葬列で演奏される儀礼曲となっています。

Ich hatt' einen Kameraden (German and English Lyrics)

ドイツ語の上に英語訳が出てきますので、良かったら読み比べてみてください。

かつて同志がいた
良き同志が
太鼓は私たちに戦いを呼びかけた
彼は私のそばを同じ歩調で歩いていた

弾丸が飛んで来た
私の番か それとも彼か
彼は倒され 私の足元にいた
まるで私の一部であるかのように

彼はわたしに手を差し伸べていた
わたしが銃に装填をしているそのときも
だから今は彼の手を握ることはできない
同志よ、君は永遠の命にとどまる
私の良き同士よ

その曲がリフレインする中、軍医が艦長にしみじみと語ります。

「わたしは希望を見つけましたよ。
変わった場所、海の中で・・・しかも戦いの最中にね」

Uボートの乗員は捕虜になったわけですが、普通の乗員のように
そのへんをうろうろしております。
いいのか。

マレル艦長は好敵手だったフォン・シュトルベルグ艦長に近づき、
だまってタバコを勧めます。

タバコが「悪」でなかった時代は、こうやって男同士の
「連帯」「友情」「尊敬」いろんなものが表現できたんですよね。

「太陽にほえろ!」でも、タバコとタバコを近づけて火を移す、
と言うシーンがありました。(はずですよね。知りませんが)

しかしフォン・シュトルベルグはマレルからタバコを受け取って
自分で火をつけています。

さっきまで死闘を繰り広げていた二人が顔と顔をくっつけるのは
いくらなんでもやりすぎ、
ってことになったのかもしれません。

そして最後に二人はこんな会話を交わすのです。

「私は何度もしに直面し、その度に生き残ってきた。
今回は君のせい(fault)で」

「知らんがな。
それなら次はもうロープを投げるのはやめておく」

するとフォン・シュトルベルグは煙を吐き出してから、

「君は次もそうするよ」

 

実はこの映画、映画のようなエンディングが元々の著書になかったため、
二通りの結末が考案され、実際に撮影されて、最終的にどちらにするか
モニターに見せ、評判の良かった方が結果全員一致で選ばれました。

それがこの「ハッピーエンディング」だったらしいのですが、
それではもう一つはどんな結末だったのかというと、

マレル艦長は海に転落した(か飛び込んだ)フォン・シュトルベルクを
救出するために自分も海に飛び込み、二人の指揮官はどちらも死ぬ(-人-)

 

わたしがモニターでもこっちは選ばなかったと思います。

 

 

終わり。

 


"KILLER-SUB versus SUB KILLER"〜映画「眼下の敵」中編

2020-02-26 | 映画

映画「眼下の敵」中編です。

本作収録DVDには、映画のオリジナル予告編が収録されていて、
その字幕には

「KILLER-SUB versus SUB KILLER」

「ABOVE OR BELOW THE SEA!」

とあり、誰が上手いこと言えと、というかんじです。

大西洋上で対峙した米駆逐艦「ヘインズ」とUボート。
まだ見ぬ敵との交戦を前に、両者は極度に緊張してそのときに備えます。

 

Uボートが潜航した後、艦長は航行速度を落とすように命じました。
ジグザグ航行もしないという命令に、乗員たちは不満顔です。

「これじゃい相手のいい標的だ

まだ艦長は乗員の信頼を得られておりません。
民間出身ということで、乗員の見方にもバイアスがかかってしまっています。

このマレル艦長の作戦は、海中のUボートに、駆逐艦が去ったと思わせるためでした。

しかし、実際の海戦だとすれば、この件は操舵手らの方が「正しい」のです。
ここが実は脚本の穴というべき部分で、もし、マレル艦長が下命したように

スピードを落としプロペラ速度を下げても、実際に遠ざからない限り、
音が聴こえなくなることにはなりません。

つまり、どんな初心者のソナー員でも、これをもって

「遠ざかっていった」

と騙されることはないので、作戦として成り立たないはずなのです。

しかしこれは映画なので、Uボートはまんまと騙されそうになります。
諦めて駆逐艦が去っていった可能性もなきにしもあらず、しかし
慎重なUボート艦長はそれを確かめるために
じわじわと浮上していきました。

艦長自ら潜望鏡をのぞいて相手の艦影を確認すると、
ほーら、やっぱり駆逐艦まだそこにいるし。

「煙突1、艦首と艦尾に3インチ砲、中央部に対空砲、(魚雷発射)チューブなし

さっそくその目視をもとに艦種を「バックリー級」だと判定します。

しかし実際には「バックリー級」には煙突のすぐ後ろに
トリプルマウントのチューブ(魚雷発射管)が装備されていました。

Uボートは再び潜航し、戦闘を開始することにしました。

こちら駆逐艦上。

艦長はUボートが魚雷を撃ってくるのは潜航10分後だろうと予測します。
そして予想通り、きっかり10分後にUボートが撃った二本の魚雷が向かってきました。

(ただし映画に登場するUボート”タイプVII” には艦尾の発射管は一つしかありません)

艦長はすぐさま取舵いっぱいを命じ、見事魚雷をかわします。

通り過ぎていく魚雷を見送ったあと、右側の男前副長は、
さりげなくヨットマンだった過去を自慢。

「マイアミヨットレースではこんなことは起こらなかったな」

ともあれ、艦長の操艦指示で駆逐艦は魚雷をかわし、
これで艦長の来歴に否定的だった乗員も認めることになりました。

さっきまで文句を言っていた操舵手も手のひら高速返しで褒め称えます。

そして、方や近距離の魚雷を外されたUボートでも、

「相手は素人じゃないな」

ここから、駆逐艦からはソナーを下ろし、潜水艦の中からは
見えない上方を見上げての、おなじみの光景が展開します。

爆雷の深度がセットされ、伝令が行き渡る中、艦尾のローラーローダーでも
投下の準備を始めていました。
爆雷中央にあるストッパーを外していくのです。

いったん深度を掴ませておいて、ギリギリになって
その場から脱出し、空振りをさせようというのがこちらの作戦です。

しかしマレル艦長は相手の動きを読み、即座に爆雷の深度を変えさせました。

リセットされたKチャージ発射管から爆雷が投下されました。
「スレーター」のときに書いたように、爆雷と一緒に
アーバーと呼ばれる支えも一緒に飛ばされていきます。

派手にあがる水しぶきは、撮影の際本当に爆雷を使用したとか。
国防総省と海軍の協力を受けています。

初めての実戦に浮き足立ったらしい後部爆雷配置の水兵、
なんとリリースレバーを解除するのにラックに手を置いたまま・・・・。

しかしその作業をするとき、普通手は上のバーに置かないかしら。

あぶな〜〜〜い!!

このシーン、本当にわざとらしく置いた手の横を爆雷が転がり、
あまりにもリアルで思わず息を飲みます。

そして、

痛い痛い痛い痛い痛い

 

画面では本当に手が挟まれたようになっているので、
意地悪なわたしとしては写真をよくよく確かめたところ、

「掌の部分、ラックに直線の不審な影が見える」

「ブルーダンガリーの袖の折り返しが役者のと全く違う」

「手を置く角度がほんのり不自然」

「その前のシーンでは全くなかった影ができている」

このことから、撮影に際して

「手の模型をラックに固定してその上から本当ににローラーを動かした」

のであろうと想像されます。
手の下に見える不審な影は、模型を固定するためのツールではないでしょうか。

この間も海面では「ホワイトハースト」から発射された爆雷が景気良く
海面に巨大な水しぶきを上げていきます。

これに対しUボートは煙幕を貼って逃げ延びようとします。
なんと大胆にも駆逐艦の真下を逆行し死角に紛れるという作戦。
この辺で駆逐艦にも「やるな」という空気が流れ始めます。

戦闘はしばらくお預けとなり、艦長は負傷した乗員を見舞います。

軍医「指を切断(Amputated)しました」

起き上がろうとする乗員に

寝ていろ、セイラー、君はたった今任務を解除された」

「わたしは重傷ですか」

「君は指を失った。私の責任だ。
ラックをあんなに急いで動かすべきではなかった」

「いえ、私がレールに手をおいてしまったから・・・。
多分興奮してたんでしょう」

「トリニダードに戻り次第飛行機で帰国だ。
そうしたらすぐに元の仕事に戻れるさ」

「時計職人だったんです」

「・・・・・・・・・・・・」

 

駆逐艦とUボート、両者の対決は小休止となりました。
駆逐艦上では、情報部から送られてきたデコーダーを解読しています。

こちらも食事などしながらホッと一息。
相変わらず空気読まないクンツ少尉が

「見事な指揮でした。総統もお慶びになるでしょう」

などといって艦長をイラッとさせております。

間をおかず「ヘインズ」は攻撃を仕掛けてきました。
Kガン、つまりディプスチャージ投下です。

 

どうですこの実弾の上げる派手な水しぶき。

不利と見たUボートは深海での鎮座を決定します。
パイプの継ぎ目から水が噴き出し艦体が軋みますが、
なんとか無事に着底し、

「ドイツの潜水艦って超イケてるよな!」

と自画自賛。
そういえばUボートを乗っ取るという設定の
「U-571」でも、こんな台詞がありましたなあ。

潜水艦が存在を消したので、駆逐艦の方もエンジンを停止、
ここで本格的に両者は睨み合いに入りました。

皆思い思いに(ただし静かに)艦内で過ごしています。
声を出さなくて済む簡易オセロをしたり、本を読んだり。
甲板に出ているものも声を極力出さず、釣りをしています。

つまづいて「いてっ!」と言いかけた乗員には皆で

「シーーーーーッ!」

この、いかにもインテリそうな水兵さんが

「ローマ帝国の興亡」

を読んでいるかと思えば、

機関長は「孤児アニー」(アニーの原作)の漫画を読んでいます。
この人はかつて実際にこの「ヘインズ」を演じている「ホワイトハースト」
の艦長をしていたことがあり、当映画の技術顧問を務めました。

じつはUボート、駆逐艦の乗員がたらした釣り糸のずーっと先、
つまり真下にいたりします。
こちらの方も駆逐艦の行方を見失い、音無の構え。

ナチ信奉者のクンツ少尉はスローガンの前で「我が闘争」を読んでいます。

そんなクンツ少尉を忌々し気に見遣り、先任士官に目で合図。
先任士官は肩をすくめてみせるというのが無言で行われます。

ヒトラー嫌いなのはわかったけど、一応あんたもドイツ軍人なんだからさ

 

「もう敵は行ったでしょうか」

「変だな。わたしには彼らが待ち受けているとわかる」

Uボートは無音先行を開始しますが、「ヘインズ」のソナーマンは
キャビテーション音を鋭く聴きとり、駆逐艦は攻撃を開始するために
エンジンをかけました。

「悪魔みたいな野郎だな」

お互い相手が只者でないことを察知し始めていました。

駆逐艦では艦長が士官とCPOを集めて会議を始めました。

前半で派手に爆雷を使ってしまい、残りは3分の1しかなくなってしまった。
Uボートと合流する予定の敵艦に万が一遭遇したら、装備の上では劣る
この「ヘインズ」ではおそらく彼らに絶対に勝てない。

そこで、1時間ごとに近づいては爆撃、そして退避、また近づいて爆撃、
と相手を足止めして敵駆逐艦とのランデブーを阻止するという作戦が立てられました。

 

このままではUボートの不利は確定ですが、百戦錬磨の
フォン・シュトルベルグ艦長がここで終わるはずがありません。

どんな反撃に出るのでしょうか。

 

続く。


”Manned And Ready !"〜映画「眼下の敵」前編

2020-02-24 | 映画

恥ずかしながらこのわたし、割と最近まで、この
「眼下の敵」を飛行機乗りの映画だと思っておりました。

原題が「The Enemy Below」であると知っていれば、
それはニュアンス的に空中でなく「海面下」であり、
敵は潜水艦のことであると悟ったと思うのですが、
「眼下」って、この映画の内容を知った今でも、
航空機から観た地上というイメージだと思うんですよね。

タイトルで全てを伝えようとして、その結果
たいてい失敗している日本の映画配給会社にしては、この
「眼下の敵」はまあ頑張ったかなという気もしますが。

って、この上から目線何様だよ。

とセルフツッコミしたところで始めます。

マレル少佐(ロバート・ミッチャム)が指揮するバックレイ級(実在)
護衛駆逐艦「ヘインズ」が大西洋に展開しています。

艦上の水兵が日常業務をしているところから始まります。
残飯を海にぶちまけ、

「サメだらけだ」

いやそれは残飯を撒くからでは?

それから仲間内で新しい艦長の噂話が始まるのですが、
マレル少佐が民間人出身であることに不信感を持つ水兵もいます。

「スレーター」シリーズで、アメリカには
マーチャント・マリーンアメリカ合衆国商船組合に所属する
商船海兵隊将校は、国防総省から軍の将校に任命されることもある、
と書いたのですが、マレル艦長はまさにこのパターンだったようです。

士官室でも新艦長の評判は良くありません。
むしろ兵学校出からなる士官たちが民間人の上司を疎ましく思うのは
全く不思議なことではありませんね。

「よそよそしい艦長だな」

「部屋に篭って出てこないのは船酔いかな」

ここで事情を知る軍医が、マレル艦長は乗っていた民間船が
魚雷で撃沈され、25日間漂流して助かったばかりだと説明します。

「楽な船で彼はラッキーだ」

「たまには戦闘してみたいくらいだ」

などと呑気ですが、そんなことを言っているととたんに
レーダーに艦影が発見されました。

その艦影とは、ナチスドイツのダス・アンダーゼー・ブート、
シュトルベルク艦長(クルト・ユルゲンス)率いるUボートでした。

この映画も「K-19方式」というのか、「カピタン」とか「ヤボール」とか
要所要所にドイツ語を混ぜていますが、ドイツ人が全員英語を喋っています。

こちらでもレーダーに敵艦らしき存在を発見していました。

Uボートの任務は味方の艦船と落ち合い、
そこで英国の暗号書を瀬取りするというものです。

こちらアメリカ軍。

レーダーで得られる情報がプロッティングボードに書き出されます。
(スレーターについて書いているとき、この映画はとても参考になりました)

「目標 左舷に変針、20度です」

ここから、相手の動きを読み合う心理戦ははじまっていました。

マレル艦長は、全艦放送で追跡開始を宣言しました。
明日の朝には戦闘となる可能性もあります。

「戦闘となっても慌てないように」

誰もがUボートと戦うのは初めてです。
乗員の間では未知の敵について不安げな会話が交わされます。

マレル艦長の戦略で位置を変えずに動かない艦影について、
Uボート艦長は「ダミーかもしれない」と判断しますが、
それでも油断せず、ジグザグ航行を命じます。

さすがは第一次世界大戦からの古参で叩き上げだけのことはあります。

艦内のダクトには、

「Führer Befiehl Wir Folgen」(総統が命じ我らは従う)

というゲーリングが提唱したナチスドイツのスローガンが書かれていますが、
シュトルベルグ艦長は乱暴に自分の汗を吹いたタオルを
ダクトの文字の上に引っ掛けるというアナーキストぶりを見せます。

特に海軍には実はヒトラー嫌い、みたいな軍人が多かったそうですが、
シュトルベルグ艦長は、真面目にヒトラー式敬礼をする若い少尉を

「新人類だ。機械みたいだ」

と苦々しく言い捨て、ついでに昔のアナクロな潜水艦はよかった、と回顧し、
今の戦争には人間味がない、と嘆き、おまけにこの戦争について

「大義がない」「勝っても意味がない」

ということまで酔った勢いで言っちまいます。

アメリカ人から見た「良心的ドイツ人」というわけですな。

ちなみに日本の資料では一切触れられていませんが、艦長の本名は
フォン・シュトルベルグで、貴族あるいは準貴族という設定です。
第一次大戦の戦功によって騎士叙任されたという設定でしょう。

しかし彼は息子二人を戦争で失い、もはや旧人類の自分が何のために戦うのか、
疑問を感じながら、1日も早く陸に上がる日を待ちかねています。

次に駆逐艦上ではマレル艦長と軍医が会話を始めます。
ちなみにこの軍医は、そういう役割を負わせるためのキャスティングで、
実際の駆逐艦クラスには軍医は乗っていませんでした。

軍医は皆から孤立している艦長を気遣って、彼の人となりを探るため、
機会をうかがっていたようです。

そこで艦長が大西洋航路の先任の出身であること、自分の船に新婚の妻を乗せていて、
彼女が潜水艦の魚雷で真っ二つにされた船の片方と共に沈んでいくのを
なすすべもなく見ているしかなかった、という告白を聞きました。

「だから潜水艦を追いかけるのですか」

という軍医の問いに、彼はそれは私怨ではない、と言い切るのでした。

「私は任務を遂行するだけだ。そのときのUボートの艦長と同じように」

 

映画で「ヘインズ」を演じたのは駆逐艦USS「ホワイトハースト」DE-634です。
「ハースト」はこの後1971年4月に魚雷の標的艦となって沈められました。

映画には実際の「ホワイトハースト」の当時の乗員が出演しています。

原作はイギリス軍の元軍人D・レイナーの小説です。

”All hands, man your battle stations!!

「ヘインズ」では総員配置が発令されました。
食事中や就寝中だった乗員が脱兎の如く跳ね上がり駆け出します。
トリビアによるとここで各配置に登場するのは本物だそうです。

「修理班配置よろしい(manned and ready. condition able.)

「機関配置よろしい。全てのボイラー準備よろしい」

ちなみにこの機関将校を演じているのは「ヘインズ」を演じている
USS「ホワイトハースト」のかつての艦長だそうです。
この人は本作で技術アドバイザーを務めました。

「操舵手キローガ、配置よろしい」

「操舵手スペンサー、表示器に配置よろしい」

これも本名と思われ。

「ソナー配置よろしい」

「弾薬庫(マガジン)」配置よろしい」

危険物を扱う部署のヘルメットは大型で赤。

「スカイワン、第33砲座配置よろしい」

「スカイワン、第32砲座配置よろしい」

以下略

「全ての銃配置よろしい」

「ホワイトハースト」は定係港がパールハーバー、
第二次世界大戦にも出撃したベテラン艦だったということです。

艦長は早速副長に、

「この艦は『スマートでクィック』だな」

とお褒めの言葉を。
それに対し副長は、

「やる気満々の悪童(bunch of boys)がそろってますからね」

艦長はUボートの追跡のために前進全速を命じました。

「ホワイトハースト」は一部ダズルカモフラージュ塗装が施されていなす。

裏話ですが、この映画撮影中、ロバート・ミッチャムは、
ギャングウェイで転落し、重傷を負いました。
撮影は延期され、回復後ミッチャムは背中にコルセットを着用して
再び現場に復帰することになったそうです。

そしてついに両者が対峙する瞬間がやってきました。
こちらはUボート艦内。
アラームが鳴り響き、乗員が潜航のために一斉に動きを早めます。

しかし、この映画のUボート艦内は広くて綺麗すぎで、
いまいちリアリティに欠けます。
1981年の「Uボート」でその実態が世間に膾炙することになりますが、
実際のUボートには通路も個室もなく、さらに壮絶に臭かったそうです。

その理由は、機構上の仕組みで潜水中はトイレを使えなかったため、
乗員はそれをバケツにいたしていたわけですが、(『まるゆ』方式ですね)
魚雷発射などの時にはそれらはほとんど外にこぼれることになり、
狭い艦内は阿鼻叫喚の匂いが充満していたからだとか。

Uボートが基地に戻り、メンテナンスを行う港湾労働者の多くは
この匂いに耐えられず、さらにボートは彼らの吐瀉物に塗れるハメに・・・。

 

続きます。

 


呉鎮守府開庁130周年記念 海上自衛隊呉音楽隊第50回定期演奏会

2020-02-23 | 自衛隊

和2年2月22日という綺麗に2が並んだこの日、呉音楽隊の演奏会が
呉信用金庫ホールにおいて行われました。

タイトルにあるように、去年、平成元年に、呉地方総監部庁舎は、
呉鎮守府として開庁してから130年目を迎え、それにともなう
記念イベントなども去年の秋に行われていたと記憶します。

しかも、令和2年は、呉音楽隊創設以来50年というきりの良さ。

今回のコンサートはそんな節目を記念するため、
特別な企画もあるということで、楽しみにその日を迎えました。

 

今回の懸念は、新型肺炎の流行にともなうイベントの自粛でしたが、
まだ広島地方では一人も発症が見られなかったこともあり、
無事に当日を迎え、開催されることになりました。

その前日、わたしは横須賀音楽隊の定演中止のお知らせを受けていましたし、
そのほかにも幹部学校での海軍大学セミナーの一般聴講、
東部部方面音楽まつりの中止などが伝えられており、
伝わってくるニュースが日々深刻さを増してくるのも相まって
気持ちが暗くなりがちだったので、これは本当に喜ばしいことでした。

 

しかし、コロナ騒動は悪いことばかりでもありません。
今回、ぎりぎりだったにもかかわらず、ホテルズドットコムで
今まで画面にすらでてきたことのないクレイトンベイホテルが取れました。

しかも記憶に残るここの従来の価格よりずっと安価です。
何度も呉にきていながら今までご縁がありませんでしたが、
初めて泊まることができたクレイトンベイホテルは、他の宿泊客も少なかったらしく、
部屋はエグゼブティブフロアの一階下でこの眺望の良さ。

自衛隊基地を含む呉の港が一望できます。
手前は造船所の「パーツ置き場」となっている浮き桟橋。

奥にいるのは輸送艦「しもきた」で、今お食事中です。

支援艦「くろべ」と「てんりゅう」が仲良く並んでいます。
甲板に無人標的機などの道具はどちらも積んでいません。

江田島との間を結ぶ連絡線「古鷹」の乗客も少なそうです。

沖に投錨して停泊しているのは掃海母艦「うらが」でした。

その日の夜は、館内の和食レストランで穴子の御膳を頂いてみました。

クレイトンベイホテルには、温泉風のスパが併設されており、
行ってみたところ、どうも地元の常連らしき人たちが利用しているようでした。

リラクゼーションルームには最新式のマッサージ機があって、
全く待たずに使用できましたが、マッサージチェアというものが
今時の技術ですごいものに進化しているのに驚かされたり。

地元の人たちもきっと空いていて快適だわなどと思っていたでしょう。

 

もともと呉はそれほど多くの外国人観光客がいたとも思えませんが、
これはつまり流行のフェーズが上がり、この日あたりから
週末にもかかわらず日本人も不要不急の外出を控えた結果だったのでしょう。

帰りに乗った広島発羽田便も怖いくらいガラガラで、
ダイヤモンドクラス(最初に乗れる人たち)が3人、
プレミアムクラスも全部で10人足らずで、わたしの取った席は
横並び三列の通路側で、予約の時にはすべて満席だったのに
乗ってみると横二つ空いたまま。乗機率は10%くらいでした。

演奏会は翌日1400からのスタートでした。

気がついたのは、会場のホールの名前が呉文化センターから
企業名を冠した呉信用金庫ホールに変わっていたことです。

昨年の三月末から呉信用金庫がネーミングライツ(命名権)を得て
この名前に(呉文化ホール)をつけることにしたのだとか。

看板や入り口のプレート以外特に変わったところはありませんでしたが、
ただ、館内では携帯電話の電波が強制的にカットされる仕組みで、
間違っても携帯を鳴らしてしまう事故が起こらないようになっていました。

この仕組みは最近音楽ホールなどで増えている

「携帯電話抑制装置」

でエリア内の携帯電話の電波をあえて“圏外”にさせるものです。

専用の機械を設置すると携帯電話の基地局と同じ周波数の電波を
基地局よりも強く出すことで、そのエリア内の携帯電話が
基地局と通信することができなくなるという仕組みのようです。

つまり、空っぽの強い電波を出し基地局になりすまして
強引に圏外にしてしまう、というわけですね。

 

さて、コンサートが始まりました。

いつからでしょうか、コンサートマスターが「コンサートミストレス」、
つまり女性に変わっています。

コンマス(コンミス)はオーケストラなら左側の最前列舞台寄りに座っている
第一バイオリン奏者が務めますが、吹奏楽ではクラリネットです。

 

またプログラムを見て気がついたのは、今回

「呉造修補給所員」「呉基地業務隊員」

いうメンバーが加わっていたことです。
呉基地業務隊は、呉地方隊の敷地内にあり、厚生、会計、給養、
車両、施設及び海上予備員の収容その他の業務をおこなうところです。

楽器の素養のある隊員が特別出演していたのでしょうか。

さあ、それでは一曲目からです。

♫ セレモニアル・マーチ 酒井貴祐

ものすごく聞き覚えのある曲だと思ったのですが、
持っている自衛隊のアルバムに入っていたかもしれません。

本日の記念すべきコンサートの幕開けに相応しく、きらびやかな
ファンファーレから始まるテンポのいいマーチです。

吹奏楽 セレモニアル・マーチ 坂井 貴祐作曲 陸上自衛隊第1音楽隊 Ceremonial March

一曲目が終わって、もう呉のコンサートでは「顔」といってもいい、
司会の丸子ようこさんが出てこられました。

「丸子ようこ」の画像検索結果

前回のコンサートで、音楽童話「ごんぎつね」の
語りを聞かせてくれた記憶はまだ新しいところです。

♫ 風の谷のナウシカ Highlights 久石譲

統計的に?呉音楽隊はアニメ、特にジブリ作品をよく取り上げている気がします。
ところでこの「ハイライト」がなぜわざわざ英語なんだろうとおもったら、
どの演奏でもそうなっているようで、これがオリジナルなのだとわかりました。

風の谷のナウシカ / arr. 真島俊夫

イントロの後ピアノソロで「風の谷」から始まるメドレー、
編曲は吹奏楽曲作曲家の真島俊夫氏が手掛けました。

クシャナの侵略〜メーヴェとコルベットの戦い〜ナウシカ・レクイエム〜
鳥の人(エンディング)

という内容です。
どの曲もすっかり聴き慣れてしまっていて、もはや久石のジブリナンバーは
映画音楽に止まらないスタンダードだと思わされます。

こういう機会でもなければ吹奏楽の生演奏でジブリを聴くこともないので、
心ゆくまで楽しんで聴きました。

♫ 稲穂の波 福島弘和

福島弘和氏は日本の吹奏楽曲作曲家の第一人者の一人ですが、
その数あるナンバーの中から今日選ばれたのは、
群馬県の田園地帯を音で描写したこの曲でした。
今調べてみたら福島氏は群馬県出身で、幼き日にみた稲穂の実る
黄金の田園風景を表したのだと知れます。

年表の一番最初にあり、最初に吹奏楽コンクールで入賞したときの
作品のようですね。

【吹奏楽名演】福島弘和「稲穂の波」〔常総学院:1998年度全日本吹奏楽コンクール〕

そして、その翌年の吹奏楽コンクールの課題曲となり、
優勝したのがこの常総学院の演奏というわけです。

♫ 生業(なりわい)宮川彬良

忘れもしない、昔横須賀音楽隊の演奏会で聴いた曲。
ああー、横音の演奏会、中止になってしまったんだよなあ・・・。
としみじみ思い出しながら聴きました。

宮川彬良氏はご存知宮川泰氏の御子息でおられます。
わたしの息子くらいの年のお子様をお持ちの方でしたら、
「クインテット」というNHK教育の人形劇で、
スコア、フラット、アリア、シャープという四人組のパペットと
ピアノの「アキラ」として共演していたのをご存知かも知れません。

この曲は、

I . 上昇志向

II.  発明の母

III. 易〜生業

から成っていて、見ていてとても楽しいのは第三楽章。
パーカッション奏者が、なんと易者が使う筮竹を使って演奏します。

占う前に、両手でじゃらじゃらと筮竹を鳴らすでしょう?あれです。

 

というところで、第一部は終了。
この日の観客は、招待客も一般応募客も欠席はなく、
会場はほぼ満席となっていたのではないかと思われます。


ファンファーレ「天と大地からの恵み」八木澤教司

この日の特別企画というのは、外でもないこの八木澤氏に
呉音楽隊が委嘱した作品の初演だったわけですが、第二部の最初は
同氏のファンファーレで幕を開けました。

FANFARE - The Benefaction from Sky and Mother Earth

2019年11月9日、天皇陛下ご即位奉祝式典の国民祭典で、
天皇皇后両陛下をお出迎えするときに演奏されたというおめでたい曲です。

組曲「宇宙戦艦ヤマト」宮川泰

組曲『宇宙戦艦ヤマト』 Space Battleship YAMATO

前半では息子さんの、後半ではお父さんの世界的名曲が演奏されました。
このビデオは、指揮者の衣装といい楽団員のネクタイといい、
何かと頑張っているのでそれに免じて挙げておきます。

わたしはこのバージョンを生で聴くのは初めてでした。
いわゆる皆が「宇宙戦艦ヤマト」だと認識しているところの歌が
あまりに早めに出てくるので、どう盛り上がるのか心配でしたが、
後半はゆったりと壮大なエンディングに繋がってさすがの宮川泰でした。

ところで、2007年に宮川氏が逝去した時、本人の遺言によって葬儀には
「ヤマト」が吹奏楽で演奏されたそうですね。

つい先日の話なのでついわたくしごとを話してしまいますが、
先日の親族の葬儀会場では、到着直後から終了までずっと、
アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」がエンドレスで流れていました。

故人と家族からなんのリクエストもない場合、その会場では
これが自動的に流れるらしいのです。

めぐり逢い-アンドレ・ギャニオン

こだわりのない人には受け入れられやすい妥当な選曲だと思いますが、
こと音楽に関しては同じ曲を繰り返されるのが何よりも苦痛に感じるわたしは、
今後人生で何かのはずみでこの曲を聴いたら、自動的にこのときの気持ちを
思い出してしまうんだろうなあと思うと、それだけで気が重くなりました。

その点、ピアノの恩師の葬儀では、バッハの平均律クラヴィーア曲集の第1巻が
最初から流れていて、それは介護施設に愛用のグランドピアノを寄付した彼女が、
まだ元気な頃はロビーで平均律を弾いていたという理由で、遺族が選んだものでした。

宮川泰氏もまた知人の葬式の帰りに、何かを思ったらしく、息子彬良氏に

「俺の時は”ヤマト”な」

と言い遺したそうです。
音楽にこだわりのある人は、自分の葬式に何を流すか、
さりげなく周りに伝えておくというのも終活の一つかもしれません。

余談ですが、何かと不幸の際に登場する名曲のひとつに、
バーバーの「弦楽のためのアダージオ」というのがあります。
サミュエル・バーバー本人は、

「わたしは葬式のためにあの曲を書いたのではない!」

と常日頃ぼやいて?いたそうですが、彼が亡くなったときには
やっぱりこの曲で送られたということでした。

弦楽のためのアダージョ / Adagio for Strings Op.11 / Samuel Barber

大正義サイモン・ラトルとベルリンフィルでどうぞ。

曙光の波をきって 八木澤教司

お待たせしました。
本日最後に演奏されたのは、

日本遺産「呉鎮守府」開庁130周年記念
海上自衛隊呉音楽隊委嘱作品

世界初演となったこの曲は、呉音楽隊長石田敬和一尉から
コンセプトが作曲者に提出され、それをもとに作曲されたそうです。

曲の中には朝夕の自衛艦旗掲揚降下の際に吹鳴される
喇叭譜「君が代」がモチーフとして挿入されそこここに顔を出します。

喇叭譜がモチーフとして使われている曲は今までいくつかありましたが、
今回は「君が代」だけが使われていました。

第1章 街のいしずえ

明治時代の穏やかな海辺、のどかな田園地帯だった呉が、
鎮守府を開くために集まってきた人によって姿を変えていく様子、
そしてその後が描かれています。

石田隊長の

「戦争で破壊され産業も経済も大きな被害が出ましたが、
呉の人たちの弛まぬ努力と助けあいで瀕死の街から活気ある街へと発展しました。
海軍から自衛隊へと変わり、国民を守る防人が住む街になりました」

という言葉から受けたインスピレーションによって作曲されたそうです。

第2章「渚のひかり」は瀬戸内の情景の描写、そして
第3章「造船と職人」では、石田隊長と八木澤氏が実際に
呉の造船所を見学し、間近でみた造船の作業にインスパイアされたものですが、
圧巻はラストに響く「二十一発の礼砲」でした。

八木澤氏の織りなすメロディは、ちょっとだけ専門的に言えば、
係留音とその解決を実に気持ちの良いところで使ってくれるというか、
聴いていてそれが非常な快感なのですが、この曲のクライマックスも
誰が聴いても理解できる安易さを持ちながら、それでいて、
心に食い込んでくるような「八木澤節」が炸裂しておりました。

そして、礼砲を模した太鼓の連打が始まりました。

拍の頭をときどきわざと外し、半拍遅らすことによって、
より一層本物らしさを表すという心憎い演出です。

二十一発の礼砲は、等級で言うと最高級にあたり、
国旗、元首、そして天皇、国王、大統領、皇族にしか用いられません。

曲が終わった後、会場にいらしていた八木澤氏がコールされましたが、
二階からは全く見えなかったので、二つ隣の女性が

あら、どんな人か顔を見てみたかったのに残念」

と本当に残念そうに言っておられました。
ステージに上がっていただいても良かったかも知れません。

 

♫ 行進曲「軍艦」瀬戸口藤吉

海自音楽隊の演奏会では必ずアンコールにこの曲が演奏されますが、
ここ何回か、呉音楽隊に限りそうではないので、このあとにも
何か「しかけ」があるのではないかと期待していたら・・・

♫「パプリカ」米津玄師

わたしは知りませんでしたが、この曲は2年ほど前、ダンスと相まって
「社会現象」になったのだそうです。

「軍艦」が終わると、会場の前2列を締めていた女子高生が
舞台に上がり、袖で楽器を持って登場してきました。

去年は高校生軍団と「宝島」をやったと記憶しますが、
ことしは、この「パプリカ」を、呉高等学校の生徒たちと
一緒に演奏してくれました。

米津玄師 MV「パプリカ」Kenshi Yonezu / Paprika

PVの最初のイラストはまるで昔の呉のようですね。

社会現象になったというダンスは、高校生たちと
音楽隊から有志が前で踊って会場を沸かせてくれました。

会場の出口ではいつものように音楽隊のみなさんが
この日ホールにやってきた人たちを見送ってくれ、
楽しかったコンサートも終了しました。

最後に、今回呉地方隊訪問の記念にいただいた
開庁130周年の記念品です。
ボールペンの柄に海上自衛隊のマークと、呉鎮守府庁舎が
蒔絵風に描かれた大変美しいものです。

最後に、今回の演奏会参加に際してお心遣いをくださった
海上自衛隊呉地方隊の皆様方に心からお礼を申し上げて終わります。

ありがとうございました。

 

 

 


陸上自衛隊中央音楽隊 ビッグバンドジャズコンサート @ さくらホール 後半

2020-02-21 | 音楽

冒頭写真は本日の紅一点、パーカッション奏者ですが、
彼女は一曲目が終わった時からマイクを持ちMCを務めました。

彼女の顔に見覚えがあると思ったら、昨年の音楽まつりで
合同演奏のとき
舞台中央でカホンを演奏していた打楽器奏者、
中間綾美2等陸曹でした。

 

そのときの演奏姿を見ていても彼女の明るい人柄は伝わってきましたが、
この日のコンサートがより一層明るく楽しいものになったのは、
そんな彼女のMCの力が大だったと言っても過言ではありません。

しかも、二曲目に移ろうとしたところ、ギターのアンプにトラブルが発生し、
演奏に入れなくなったのですが、中間二曹は動揺しながらも話でつなぎ、
その場を乗り切って、自衛隊の危機管理力の高さを見せてくれました(笑)

 

さて、前半が終了し、ここで20分の休憩となりました。

ところで、新型コロナウィルスの感染がじわじわと拡大する中、
たくさん人が集まるところには警戒して行かない、という人も
多いかと思ったら、この日のさくらホールはほぼ満席でした。

しかし、バンドマスターの遠藤敬二等陸尉(トロンボーン)によると、
中央音楽隊には本日の演奏会が行われるのかどうか、という
問い合わせが結構たくさんあったそうです。

そしてちょうどこの日、コンサートをご紹介してくださった方から、
東部方面音楽まつりが

「感染拡大防止のために不要不急な集まりをなるべく自粛する動き」

を受けて中止になったというお知らせをいただきました。
また同じ方によると、追浜の海洋研究開発機構(JAMSTEC)での
深海潜水艇公開イベントも中止になりましたし、また、
2月21日現在、翌週に予定されていた横須賀音楽隊の定期公演も、
担当者から中止する旨、直々に電話連絡を受けたばかりです。

目黒の幹部学校で行われる海軍大学セミナーも一般聴講は中止、
セミナーそのものも取りやめになる可能性あり、ということでした。

そういえばこの日コンサート前に、車を停めたセルリアンホテルで
食事をしたのですが、館内が前に来た時と比べ静かすぎて驚きました。

また、昨日は東京駅前を車で通り過ぎ、丸の内を歩きましたが、
なんと近辺にオフィスワーカーらしき人しかいないのです。
広場に原色のパーカーやダウンの集団がいません。
人口密度はまるでフィルムに残る100年前の東京駅みたい。

「うーん・・・・なんて清々しいんだ」

この期に及んでここだけの話、わたしは思わず呟いてしまいました。

そういえば京都も今ガラガラで、地元に住んでいる人はもちろんのこと、
ストーカーやお触りする外国人がいなくなって舞妓さんが喜んでいる、
という噂もありましたが、それどころか日本全体が萎縮していきそうです。
花見までこの状態(感染の拡大ではなく中国人の団体旅行禁止)
が続いてくれれば、ぜひ地元の観光業応援のためにもぜひ行きたい、
なんて思っていましたが、事態はもっと深刻なのかもしれません。

 

 

♫ In The Mood

さて、気を取り直して続きと参りましょう。

後半の始まりも、いわゆるビッグバンドの代名詞的な曲からです。
グレン・ミラーオーケストラの「インザムード」。

ところでみなさん、グレン・ミラー物語って観たことあります?
陸自音楽隊がグレン・ミラーを取り上げるのはある意味ぴったり。

Glen miller.jpg

グレン・ミラーは陸軍軍人として戦没しているのです。

第二次世界大戦の勃発にともない1942年に陸軍航空軍に入隊、
慰問楽団を率いて精力的に慰問演奏を続けていたのですが、
1944年12月、イギリスからフランスへ慰問演奏に飛び立った後、
乗っていた専用機(UC-64)がイギリス海峡上で消息を絶ち、
戦死と認定されたので、昇級して最終階級は少佐となりました。

「ドイツへの爆撃から帰還する途中のイギリス空軍の爆撃機が
上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落した」

「イギリス軍機の誤射で撃墜された」

「無事にパリに着いてから翌日娼婦と事に及んでいる最中に
心臓発作で亡くなったのを隠蔽するために行方不明にした」

いろんな説がいまだに飛び交っているそうです。

2014年、『シカゴ・トリビューン』は、消息を絶った原因として、
上のどれでもない「乗機のUC-64に特有の故障」という説を挙げました。
それによると彼の搭乗したUC-64は、エンジンキャブレターに欠陥があり、
冬期に凍結し、それが原因で墜落する事例が他にも複数発生していたそうです。

 

♫ Old Devil Moon

あなたの瞳の中に「オールドデビルムーン」が見えて、
引き込まれそうになってしまうのアタシ・・・みたいな曲。

「オールド」は「古い」ではなく、「いつもの」「おなじみの」
という意味でしょうね。

「あなたが空から盗んだOld Devil Moon 」

とあるので、怪しいほど神秘的な光が瞳に輝いてるんでしょう。
目力があるというより、一昔前なら「目千両」な役者というか
杉良太郎とか(どういう人選だ)・・そんな感じ?

Frank Sinatra - Old Devil Moon (High Quality - Remastered) GMB

 

♫  I Love Being Here with you

ペギー・リーというと「センチメンタル・ジャーニー」とセットで
名前を記憶している方もおられるかもしれません。

peggy lee/i love being here with you

「ニューヨークのため息」

とあだ名されたのはヘレン・メリルでしたが、この古き良きスタンダードを
生まれも育ちもニューヨークという歌手のアリシア・キャンセル上級空兵が歌いました。

 

♫ It's Only A Paper Moon

「紙に描かれたお月様も、モスリン布の海も、キャンバスに描かれた空も、
あなたがわたしを信じてくれればみんな本物になる」

という歌詞ですが、長年この曲を熟知していると思ったわたしが
知らなかった蘊蓄をこの日のMCで教えていただきました。

1900年代初頭、写真スタジオには紙の大きな三日月があって、
そこに座って写真を撮るのが庶民の間の流行りだった、というのです。

そしてこんなのを見つけました。

It's Only A Paper Moon - Abbie Gardner

当時の流行に乗っかってお月様と写真を撮った庶民のみなさんです。

 

♫ New York, New York(ニューヨーク、ニューヨーク)

同名の映画はこれを歌ったライザ・ミネリとロバート・デニーロの共演です。
これを、陸自のシナトラとアリシア上級空兵がデュエットしたのですが、
二人ともオリジナルキイで完璧に歌い上げて、思わず鳥肌が立ちました。

New York, New York Official Trailer #1 - Robert De Niro Movie (1977) HD

なんなら映画の予告編をぜひご覧ください。
ミネリの絶唱は何度聞いても文字通りの鳥肌ものです。
デニーロも若くてスマートでイケメンですよね。

 

♫ Samba  Del Gringo

手塚治虫の未完作に「グリンゴ」というのがあったのご存知ですか?
グリンゴというのは南米のスペイン語圏で「よそ者」、つまり
彼らに撮っては白人を差す蔑称だったりするのですが、手塚作品では
異邦で戦う日本人を描こうとしていたようで、この場合は単に
ヒスパニックにとっての「よそ者」という意味だったのでしょう。

で、この曲ですが、そんな暗さは微塵も感じさせないキャッチーなサンバです。

Gordon Goodwin "Samba Del Gringo" - JGSDF Central Band

ご本人たち、サージャントエースの演奏が見つかりました。
10年前の演奏なので、ずいぶんメンバーも変わっているのかもしれませんが。

どうも昔から当バンドのキメ曲となっているようですね。
とにかくサビのメロディがかっこよくて、ソロを取る人は
きっと気持ちも張り切ってしまうことでしょう。

この曲でもジェイコブ・ライト上級空兵は確かフルートに持ち替えて
バリッとしたリフを聴かせてくれました。
MCによると、去年のコンサートではライト上級空兵、
「モーニン」で漢(おとこ)っぷりを見せたということです。

自衛隊音楽隊のジャズでは、時々プレイヤーがアドリブではなく
書いた譜面をそのまま演奏していることがあるのですが、
米軍楽隊の奏者は
まず間違いなく、インプロビゼーションが
最初から人並み以上にできる人しかこういうのには出てきません。

それは、アメリカという国がジャズ発祥の地であり、
ジャズという演奏形態における裾野が広いということでもあるでしょう。

 

ところで腕の見せ所といえば、この曲の功労者はなんといっても
パーカッションの
中間二曹だったとわたしは思います。
パーカッションソロそのものもさることながら、観客を巻き込んでの
楽しい演奏、可愛らしい最後の「いえー」という掛け声、
すっかり彼女のファンになってしまった人も多かったのではないでしょうか。

 

♫ Ya Gotta Try Harder

面白いビデオを見つけました。
コンサートの最後に、メンバー紹介を兼ねて演奏されることもある曲で、
これをなんと陸海空合同バンド、

「自衛隊GMOジャズオーケストラ」

がやっています。

これが大盛り上がりのうちに終わり、アンコールを一曲、
(あ、なんだったか忘れてしまった・・・)
終わった頃にはすっかり会場内の空気が上昇したかのように思われました。

会場にはマスク着用の人も多かったのですが、楽しいコンサートを聴いて
心から楽しむことによって、おそらく免疫力もアップしたことでしょう(笑)

個人的には、わたし自身も喪失の傷みからほぼ立ち直れた気がします。

 

「ああでもねえこうでもねえ」と意見を交わしながら、(MC談)
この日のコンサートを
作り上げたというジャズオーケストラの皆さんには、
心からその労に
ありがとうございましたとお礼を申し上げます。

 

なお、次回のジャズバンドフェスティバルは、6月6日、
すみだトリフォニーホールで予定されているそうなので、
興味をお持ちになった方はぜひ申込なさってはどうでしょうか。

その頃には事態が収束していることを祈るばかりです。

 

 

 


陸上自衛隊中央音楽隊 ビッグバンドジャズコンサート @ さくらホール 前半

2020-02-20 | 音楽

先々週末、先週末と続けて不幸があり、告別式に参列しました。

ピアノの恩師の本葬に出席するために関西に出向き、
日帰りで帰ってきた同じ週に義母が逝き、こちらは嫁として
知らせを受けて直ぐにまた関西に飛ぶことになったわけです。

10年以上無沙汰していた恩師との無言の対面に、わたしは
自分で思っている以上に落ち込んでしまいました。

夜中に目が冴えてそのまま寝られない日があったかと思うと、
目が覚めたらいつもの起床時間を二時間オーバーしていたりの繰り返し。
当ブログのアップやコメント管理にも影響は少なからずあったようで、
自分が思っていたよりずっと「死」に不慣れだと実感したものです。

恩師の死でただでさえ鬱々としていたところに、なんと身内が亡くなり、
一連の死者を送るための儀式あれこれに参加することになると知った時、
メンタルダウンどころか崩壊するのではないかと我ながら危惧したのですが、
意外なことに、救いは、会場のスタッフはもちろん、湯灌師からまで、
葬祭業界で働く人たちのプロフェッショナルな仕事ぶりでした。

彼らが職業的な慇懃さのうちに実にてきぱきと物事を進めていくのを
茫然と見るうち、人の死もまた世の常というありふれた真実に気付き、
受け入れる心の準備ができていった気がします。


そんなとき、知人からこのコンサートのチケットをいただきました。
なんと、自衛隊音楽隊で初めてのビッグバンドジャズコンサートです。

場所は渋谷区の文化総合センター大和田、さくらホール。

陸上自衛隊中央音楽隊内にジャズバンドが存在すると知ったのは初めてです。
おそらく、選抜されるか志望者によるジャズの素養のある隊員によって結成されて、
「本隊」とは別に活動しているのだと思われます。

プログラムによると、1951年に陸自中央音楽隊が警察予備隊音楽隊として結成されて
間もなく創設されたのがこの

「サージャント・エース・ジャズオーケストラ」

で、なんと65年の歴史を誇っているのだそうです。
サージャントというネーミングが陸自ですね。

その長い歴史において、

サックスのリー・コニッツ、ツゥーツ・シールマンス(ハーモニカ)
森寿男率いるジャズバンド、ブルー・コーツ、世良譲、笈田敏夫、
日野皓正、歌手は大野えり、チャリート、ケイコ・リー

などそうそうたるメンバーとの共演歴もあります。


♫ Take The A Train

ビッグジャズといえばこれ、という「A列車で行こう」。
カウント・ベイシーのおなじみのイントロから始まるあれです。

ニューヨークは地下鉄の路線にABCと名付けていますが、

「Aラインに乗らないとハーレムに行けないよ」

というのが曲の大意で、なぜハーレムに行くかというと、
そこは「heaven」=ジャズの天国だから、というわけです。

ちなみに「ヘブン」を発車時刻の「セブン」と韻を踏んでいます。

 

♫ Seven Steps To Heaven

一曲目が終わってから次に行こうとした時にトラブルが発生。
ギターのアンプの音が出ないというようなことになったようです。
会場のPA担当が出動してきて、トラブルを解決し、ようやく始まった二曲目は、

マイルス・デイビス以外で聴いたことがないこのbebopの名曲でした。

Miles Davis - Seven Steps to Heaven from 'Four and More'

「♫ソ・ド・ミ・レ・ドードード」

というAリフだけが耳に残りあとは全部アドリブというこの曲、
上島珈琲店にいくとよくかかっていますよね。

ジャズバンドの恒例として、各パートが順番にソロを取るのですが、
短いパートでも実力とセンスがあらわになってしまうので
奏者にとっては腕の発揮しどころであると同時に怖い瞬間でもあります。

わたしが最初から「おお!」と注目していたのは、この日
サージャント・エースと合同演奏をしていた、アメリカ空軍の

パシフィック・ショウケースのサックス奏者、ジェイコブ・ライト上級空兵でした。

「オール・オブ・ミー」を歌った歌手が「陸自のシナトラ」と呼ばれている、
と紹介されていましたが、このライト上級空兵は見た目がシナトラの若い頃と
フレッド・アステアを足して2で割った感じの小柄なタイプで、
演奏以外の時も雑事に全く心動かさないマイペースな雰囲気の人でしたが、
もともとジャズ畑の奏者なんだろうなと思わせる練れた巧みさがありました。

自信もたっぷりという感じで、かっこよかったです。

 

♫ エミリー

女性の名前をタイトルにしたバラードでは、わたしの一番好きな曲です。

多くの名曲と同じくブロードウェイのミュージカル挿入歌で、
「ムーン・リバー」「酒とバラの日々」を世に出したマンデルとマーサー、
二人の「ジョニー」によって書かれました。

Bill Evans "Emily"

「エミリー、エミリー、エミリー」

という名前の連呼に

「ミ↑シ↓ソ〜 ミ↑シ↓ソ〜 ミ↑シ↓ソ〜」

というメロディを持つ歌バージョンも素敵です。

中間二曹がメロディを取ったトランペット奏者に

「奥さんの名前を♫なおみ〜なおみ〜なおみ〜と♫心の中で呼びながら
演奏してたんじゃないですか」

と会場を笑わせていました。
昔トリオで仕事をしていたとき、必ずこの曲をリクエストしてくる男性がいて、
みんなでその人のことを

「エミリーおじさん」

と呼んでいたのを思い出した(笑)
みなさん、「常連」のあなたをスタッフは大抵あだ名で呼んでいます。

 

♫ A Flower Is A  lovesome Thing

「花はすてきなもの」とでも訳したらいいでしょうか。
パシフィック・ショウケースからの参加者は全部で6名、
そのうちの一人はなんと女性歌手でした。

アリシア・キャンセル上級空兵は、ニューヨーク出身、
父や兄もエアフォースという空軍一家で、本人は
歌手として空軍に奉職することを志したということです。

"A Flower is a Lovesome Thing" -Ella Fitzgerald

この曲は、「A列車」の作曲者、ビリー・ストレイホーン(P)の手によるもので、
非常に複雑で高度なメロディラインを持っており、
「ラッシュライフ」とか「チュニジアの夜」がそうであるように、
一度聴いただけでは鼻歌で繰り返せるような曲ではないのですが、
歌手はこの曲をドラマティックに、かつメロディアスに歌いこなしていました。

ところでこの曲のときバンドの演奏が混乱して?と思ったのですが、
気のせいでしょうか。



♫ ALL OF ME 

「一度心を奪ったのだから私の全てを奪ってちょうだい!」

と迫る、まるで映画「海軍」の三田佳子が演じた女性のセリフみたいな歌ですが、
シナトラのバージョンが有名です。

ジャズ歌詞で英語学習 01 "All Of Me" フランク・シナトラ 英語日本語訳

和訳付きを見つけました。

この曲を歌ったのが、バンドのトランペット奏者で、この方も見覚えがあると思ったら、

音楽まつりで歌手を務めた右側の方でした。

で、「陸自のシナトラ」と紹介されていたのですが、
メロディにコブシ風ビブラートが効いていて、シナトラというよりは
「ジャズを歌う陸自の五木ひろし」が近いのではないかと思われました。
(ほめてますよ?)

 

♫ Pomp And Circumstance(威風堂々)

これをジャズで一体どうやって、と興味津々です。
と思ったら、同じバージョンの演奏が見つかりました。

威風堂々第1番 武蔵野ビッグバンド・ジャズ・フェスティバル2013~SPJO

なるほどそうきたか、という納得のアレンジ。
各奏者のソロも堪能できて無茶苦茶楽しかったです。

この曲を知ることができたのは今回の大きな収穫でした。

 

♫ JAZZ POLICE(ジャズ・ポリス)

前半にプログラムされていたのですが、「かっこいいから」という理由で
後回しになっていたこの曲、ジャズポリスって聴いたことあります?

アメリカで正しい寿司を出しているかどうかチェックする機関、
「寿司ポリス」を作ろうという話が昔あったじゃないですか。
コリアンやチャイニーズのインチキすし屋が猛反対して立ち消えになりましたが、
こちらのポリスは、

「ジャズはこうあるべき」

という根拠のない(たいていそう)教条というかドグマに基づき、
巷のジャズシーンを「パトロール」して、演奏スタイルにケチをつけたり、
ライブハウスで奏者をいじめたり文句を言ったりする人のことです。

あーいるよねそんな人。

目の前の演奏者に向かって、マイルスはどーの、エバンスはどーの言ったり、
わかったようでわけのわからないジャズ論をぶってみたり、
相手が絶対できないであろうリクエストをして、できないと馬鹿にしたり。

作曲者のゴードン・グッドウィンは、おそらくそんな人たちを皮肉って
こんなタイトルをつけたんだと思います。

The Jazz Police / Gordon Goodwin

この曲が4ビートではなくジャズロックで書かれているあたりに、
その皮肉が現れているとわたしは思うのですが。

 

長いと怒られてしまったので二日に分けます。
後半に続く。

 


「トリエステの鷲」ゴットフリート・フォン・バンフィールド男爵〜ウィーン軍事史博物館

2020-02-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回、オーストリア海軍の階級について少し説明しましたが、
ドイツ軍とはまた少し違う呼称を採用していることがわかり、
興味をお持ちの方もおられると思いますので、挙げておきます。

Admiräle(アドミリール 将官)

提督(Großadmiral グロスアドミラル)

大将(Adomiral アドミラル)

中将(Vizeadmiral バイゼアドミラル)

少将(Konteladomiral コンテルアドミラル)

短い海軍の歴史ゆえ、オーストリア=ハンガリー帝国海軍には
提督と呼ばれる海軍軍人が5人しかいません。

テゲトフは伝説的な勇将でしたが、若くして40代で亡くなったので
生きていればこの数は6人になったところです。

アントン・フォン・ハウス提督(1851-1917)

18歳で海軍に入隊し、北京の義和団の乱の平定にもきていたという
ハウスは、そこでの功績を認められて中将に昇任。

第一次世界大戦が始まると、同時に勃発した国内の内乱を抑えつつ、
イタリア海軍相手に戦略家ぶりを発揮し、ドイツ海軍から
唯一?その能力を認められていたといわれる軍人です。

彼が提督に任命されたのは1916年で、つまりK.u.K海軍にとって
最後の提督ということになります。

ウィーン軍事史博物館にはハウス提督を讃える絵画、そして
彫像もあったというのですが、そこにいる時にはこの人が
それだけの人物とは思わず、わたしは写真を撮りませんでした<(_ _)>

少将を表す「コンテルアドミラル(Konteladomiral)のコンテルですが、
もともとフランス語の「コントルアミラル」(コントルアミラルで
大将に対する統制を行うというような意味)から来ており、ドイツ語化しています。

繰り返しになりますが、佐官と尉官も挙げておきます。

Stabsoffiziere(佐官)シュタフスオフィツィール

 大佐(Linienschiffskapitän リニエンシッフスカピタン)

 中佐(Fregattenkapitän フレガッテンカピタン)

 少佐(Korvettenkapitän コルベッテンカピタン)

Oberoffiziere(尉官)オーバーオフィツィール

 大尉(Linienschiffsleutnant リニエンシッフスロイテナント)

 中尉(Fregattenleutnant フレガッテンロイテナント)

 少尉(Linienschiffsfähnrich フレガッテンフィンリッヒ)

少尉だけが名称が何度か変わっており、なぜかフレガッテンが付きます。

Offizieranwärter(士官候補生)オフィツィールアンヴェーター

 Seefähnrich(ジーファーリッヒ)

 Seekadett(ジーカデット)

 

以下、下士官兵も。

Unteroffiziere(下士官)ウンターオフィツィーレ

 Oberstabsbootsmann (甲板長  オーバーシュタブスボーツマン)         

 Stabstelegraphenmeister(通信長 シュタッブステレグラフェンマイスター)

 Stabsbootsmann(ボースン シュタッブスボーツマン)

 Stabsgeschützmeister(水雷長 シュタッブスグシュツマイスター)

 Unterbootsmann(甲板員 ウンターブーツマン)

 Untergeschützmeister,(水雷士 ウンターゲシュツマイスター)

 Untertelegraphenmeister (通信士 ウンターグラフェンマイスター)

 

Chargen(兵 )チャーチェン 

 Bootsmannsmaat(甲板員 ブーツマンズマート)etc,

これによると、甲板長、通信長、水雷長は下士官だったことになります。
水兵は配置名の下に「マート」がつきます。

また水兵、つまり船乗りは Matroseマトローズとなります。

マトローズはいわゆる「マドロス」のドイツ語です。

 

さて、と説明したところで、今日のテーマの紹介に参りましょう。

冒頭写真は、このゾーンに展示してあった肖像画です。
背景を見ていただければ、彼らが海軍航空隊に関わる人物だと想像できます。

まず、この真ん中の人物です。

Gottfried von Banfield.jpg

ゴットフリート・フォン・バンフィールド男爵
Gottfried Freiherr von Banfield (1890-1986)

タイトルにFreiherr (フライヘア)とついていますが、これは
神聖ローマ帝国における貴族、「男爵」のことです。

ドイツ語圏ではバロンといわずフライヘアを使うそうなので、
マンフレード・フォン・リヒトホーヘン男爵も、自国では
バロンではなく「フライヘア」をタイトルとしていたはずです。

バンフィールドはオーストリア海軍でもっとも優れた戦闘機パイロットで、
第一次世界大戦では飛行艇で敵機を落とし、エースとなっています。

その飛行技術は、余人をして、

'Eagle of Trieste’(トリエステの鷲)

と呼ばしめたほどでした。

ところで、バンフィールドという名前がどうもドイツっぽくないな、
と思っておられた方、あなたは鋭い。

バンフィールドの名前を持つ父親はイギリス人でしたが、
息子のゴットフリートはモンテネグロにあるオーストリア艦隊の母港で生まれ、
彼自身はオーストリア国籍を取得したのです。

代々祖先が軍人の家系に生まれた彼は本人もその道を志し、
軍事中学を出てフィウメの海軍兵学校に入学しました。

士官に任官したのち、ウィナー・ノイシュタットにあった飛行学校で
パイロットの訓練を開始し、オーストリア海軍が募集した
最初の海軍航空隊に操縦士として入隊を果たしたのでした。

オーストリア海軍の軍港プーラで彼は水上艇の訓練を受けますが、
着陸の事故で足を骨折し、一時現場を遠ざかっていました。

そして第一次世界大戦が始まります。

バンフィールドは戦艦「SMS ズリーニ」の偵察機部隊乗組となり、
ローナー飛行艇E21の搭乗員として、カッタロの基地から出撃して
モンテネグロまでの空中作戦に偵察のため参加しました。

SMS Zrínyi.jpgズリーニ

イタリアが参戦した後はトリエステの水上艇基地の指揮官に就任。

1915年6月からトリエステ湾における伊仏軍との空中戦を幾度か行い、
すぐに初撃墜を記録しています。

この戦争で彼にとって辛かったのは、彼かつて操縦の教えを受けたことのある
フランス人の教師と戦場で出くわすこともあったということでしょう。

飛行士の戦死率が大変高かったこの時期、しかし彼は
負傷しながらも最後まで戦死することはありませんでした。

バンフィールド大尉がこの時乗って撃墜記録をあげたのはこの飛行機です。

Oeffag Mickl Type H
Blaue Vogel

ブラウエヴォーゲルとは「青い鳥」という意味です。

バンフィールドの撃墜記録は確認9機、未確認11機。
最も成功したオーストリア=ハンガリー海軍の航空機搭乗員となりました。

が、このことを、

「彼が空戦したのは北アドリア海上で、そのため本当に相手を
撃墜したか確かめるすべがなかった(=水増しされていたはず)」(wiki)

というのはなんだかちょっと失礼な気がします。
ちゃんと確認した人の名前も残ってるんだし・・・ねえ?

これらの戦功により、彼はマリアテレジア勲章を授けられた
最後の軍人となり、フライヘア、男爵位を叙爵されたのです。

 

冒頭画像の絵画は、

カール・シュテラー(1885−1972)

の作品で、題名は

「ゴットフリート・フライヘア・フォン・バンフィールド大尉と
彼の
トリエステにおける列機パイロット、

フリードリッヒ・ウェルケ少尉とヨーゼフ・ニーダーマイヤー少尉」

となっています。

しかし、オーストリア=ハンガリー海軍は敗戦によって消滅し、
トリエステ基地に勤務していたバンフィールド大尉は、
戦後イタリアによって捕らえられ、投獄の身を託つことになります。

海軍消滅によって、彼もトラップ少佐のようにおそらく
心に深い喪失の悲しみを抱えたことでしょう。

・・というのは余人の考えに過ぎず、なんとこのおっさん、
自由の身になるや、どこでそうなったのか、トリエステの公爵家令嬢である
マリアと結婚して
とっととイギリスに移住を決め、
裕福な嫁の実家の海運会社を経営するという逆玉人生を爆走し始めました。

そして「イル・バローネ」とか「アワ・バロン」とか呼ばれて、
地元では結構な有名人で、もちろん名士ともなったというじゃありませんか。

この男前で海軍軍人、パイロット、しかもエースだったりしたからなあ。
きっと全方位にモテモテで困るMMK人生だったんだろうなあ。

1927年と言いますから、彼37歳の時には、地元のテニス選手権で
優勝したりしていますし、彼らの間に生まれた息子は
のちに有名な作曲家になり(ラファエロ・デ・バンフィールド)、
本人は晩年にレジオンドヌール勲章をもらうなど、
側からはイージーモードに見える人生を送り、おまけに長生き。

彼が亡くなったのは1986年。96歳は大往生といってもいいでしょう。

ただ、ひとつ、不思議なことがあります。
バンフィールド大尉、結婚してイギリスに定住していたはずなのに、
なぜか亡くなったのはトリエステとなっていることです。

 

かつてオーストリア=ハンガリー海軍の最後の海軍士官として空を駆け、
「トリエステの鷲」と呼ばれたことと、ここが彼を最後に呼び寄せ、
彼の終焉の地となったことには、やはり関係があったのでしょうか。

 

続く。

 


グッドウィルに寄付された海軍迷彩の謎〜ニューヨーク滞在

2020-02-16 | アメリカ

今日は昨年の9月から10月までを過ごしたニューヨーク郊外でみたものを
今更ですがなんとなく写真を貼ってご紹介していきます。

ハドソンリバー沿いにあり、南北戦争の時には戦場になったこともあるこの一帯は、
早くから発展し、 19世紀に建てられたいわゆるビクトリアンハウスが残ります。

ビクトリアン様式とは、ビクトリア女王時代(1837~1901)の美術・工芸様式で、
中世回帰の風潮に乗ってゴシック様式の手法を取り入れたもので、具体的には
従来の石や煉瓦(れんが)などに加え、鉄・コンクリート・ガラスといった
当時の新しい工業的材料を積極的に採用しているのが特徴です。

外面的には細かいところに装飾がなされていて、なかなかにロマンチックなもので、
アメリカでは国内に残るこのビクトリアンハウスを、保存維持していこうという団体もあります。

わたしが借りた家は、そんなビクトリアンハウスのアパートの一室。
重い二重扉を内側に押して入ると、一階の部屋と階段があり、
二階にある2室のうちの一つが通りに面した窓を持つ部屋です。

内部はもちろん何度も階層を重ねていますが、木でできた窓のブラインド、
そして居間とキッチンにある暖炉は昔のまま残されています。

今はサーモスタット付のセントラルヒーティングが通っていて、
暖炉はいつのころからか知りませんが使われていません。

ニューヨークの家なので、ドアは自動ロック、鍵の上にラッチがあり
二重に中から施錠できるようになっています。

インターネット環境は最高、ネットテレビも普通に見られます。
わたしはこの滞在中、この画面でyoutubeを見ながら
広々とした居間でヨガを続けておりました。

向こうで買ったマットを持って帰ってきて、日本でも継続しています。

キッチンから見たダイニングと居間。
一人で住むには広すぎるくらいです。

コーヒーメーカーとトースターのある窓の向こうは隣の家の壁。
ニューヨークの家らしく、窓から非常脱出のための梯子が出ています。

この梯子、うまくできていて、上から降りることはできますが、
最後は飛び降りるようになっていて、下から昇って来ることはできません。

隣の家も19世紀のもので、フランス積みの煉瓦建築。
100年以上の風雨に耐えてきた煉瓦の表面はかなり削れています。

隣の家の丸窓はステンドグラスです。
そういえばこの地方のいくつかの教会には、あの「ティファニー」の
ルイス・ティファニーが手がけた窓が現存しているそうです。

キッチンの前にはワゴンを置いてアイランドキッチンにしてくれているのが
大変使いやすく、便利でした。

ベッドルームは一つ、ソファーもベッドになるので、スペック上は
三人が泊まれる部屋、となっています。

オーナーはこの近所に住む白人系の夫婦で、子供が二人。
ビルディング全てを所有して賃貸にしており、わたしの部屋は
借り手がない空室を遊ばせないためAirbnbに出していたようでした。

部屋を出る時に完璧に元どおりに掃除をし、洗濯をして出たところ、

「彼女は部屋に敬意を払ってくれた。今後いつでもお貸ししたい」

とのコメントを頂きました。
Airbnbは、宿泊が終了してから互いに評価を付け合いますが、
自分が評価をしてからでないと相手の評価が見られない仕組みです。

低評価を付けられたので仕返しにこちらもやったる、というような
醜い争いにならないようにという配慮なんでしょうね。

今回初めて知ったのは、「泊まる側も評価される」ということ。
ちょっと調べてみたら、ほんのたまに、

「彼女と彼女のBFは部屋の使い方が汚く食器も全く洗っておらず・・」

と文句を言われているカスタマーがいました。

住んでいる間、ここでも散歩できるトレイルを探しました。
アメリカの凄いところは、こういう広大な空き地に何も建てずに
長年公園として散歩する人のためだけに維持し続けていることです。

道を切り開いてウォーキングのためのコースをいくつか作り、
立木にマークを付けて迷わないようにしてくれているところが多いです。

このコースは野趣溢れすぎてところどころ足元が歩きにくく、
木立の間を歩くと虫が追いかけてくるので一回歩いただけでした。

今回一番気に入って後半はほぼ毎日行っていたのがこの散歩道。
廃線になった線路を塗りつぶして長い歩道にしてしまったというものです。

ここでは近隣の家から遊びに来ていたらしいこの猫さんに数回出会いました。
猫は同じ時間に同じ行動をしていることが多いので、
同じ時間に行くと必ずと言っていいほど同じところにいるのです。

夫婦で散歩している人たちも必ず1日に1組は目撃しました。
このカップルは車を降りてからずっと手を繋いだままで歩いていました。

歩いていると道と渓流が並行して走る部分があり、絶景です。

これが昔線路だった名残りの鉄橋。

列車に乗った人はこの鉄橋を通るときの眺めを楽しみにしていたことでしょう。

歩いているとよく遭遇した毛虫くん。
秋になると大量に出没して道路を横切るのだそうです。
「イサベラ・タイガー・モス」という蛾の幼虫だとか。

この道のさらに上に掛けられているのは高速道路のための橋。

さて、ここでも「宝探し」感覚でよくモールを探検しました。
今までアメリカの各地で見てきた経験から言わせていただくと、
ことファッションに関しては、同じ系列のストアでも、品揃えがよく
良い品質の物が見つかるのは東はボストン郊外、西は米エリアです。
あとはロングアイランドの「お金持ち地域」にある店とか。

住環境がよく、教育レベルが高いピッツバーグはその点いまいちで、
どんな店に行ってもなんだかピンとこないものしか見つかりません。

ここニューヨーク郊外は、ファッションに関してはピッツバーグよりましですが、
ボストンやサンフランシスコほど洗練されていないと言う感じ。

この日は、あるアウトレットファッションストアに行ってみました。

基本的に全シーズンの売れ残りとかサイズがなくなって
有名デパートから流れて来るものがおおいのですが、このように
このセンスはいかがなものか、みたいな変なデザインのものもあります。

まあ、こんな服も金髪のモデルが着ればそれなりなのかもしれませんが。

同じスーパーの男性用売り場にあったNASAのシャツ。
各国の国旗は、これまで宇宙飛行士を輩出した国のようで、
ちゃんと日本の国旗もありました。

ここにも増えてきている(西海岸ほどではないですが)中国系のために
中華チックなデザインを取り入れてみました・・・的な。

ちなみにボストンのアウトレットモールには
「極度乾燥しなさい」のブランドが入っていますが、この間みてみたら
中国人観光客に媚びてか、中国語バージョンが登場していました。

また別の日。
全米最大のリサイクルショップ、「グッドウィル」があるのを知り、
話の種に?行ってみることにしました。

写真の男性はグッドウィル・インダストリーの創始者、エドガー・ヘルムズ牧師。

ヘルムズ牧師は、富裕層の住む地域で廃棄されている使用済みの家庭用品や衣服を収集し、
それらを修復し修理するために失業者または貧困者を雇い、訓練を施しました。
製品は困っている人に再配布されたり、修理を手伝った人に配られました。

現在は、無償で寄付されたものをアズイズ(そのままの形)で欲しい人に売り、
寄付に対しても税金控除の一助にするなどのメリットを持たせています。

今日、グッドウィルは年間48億ドル以上の収益を獲得し、毎年30万人以上の職業訓練と
コミュニティサービスを提供する国際的な非営利団体となっています。

ただし、どれもいらなくなったので(売るのではなく)引き取ってもらう
というものばかりなので、綺麗なブランド品などは絶対に存在しません。

ハロウィンのかぼちゃや変身用ヅラなど、それこそ不用品の山です。

たぶん動かないけど、ディスプレイとしてはどうだろう、
と言う感じの電化製品とか。

なんでこんなソンブレロ買っちゃったかな。
あのユーミンですら安くされてもいらないわと言えたのに。

意外とたくさんあるのがウェディングドレス。
しかもこれ、値札がついているではないですか。

どう言う事情で値札のついたウェディングドレスをドネートしたのか・・・。

本物の毛皮(シェアードミンク)もちらほら。
毛皮はアメリカではアウトオブデートなので滅多にみませんが、
先日シカゴのオヘア空港で、物凄いみるからに成金な黒人の母子がいて、
そのカーチャンの方がやたら嵩張る毛皮のコートを着ていました。
息子はルイヴィトンとひと目でわかるジャケットとか、とにかく
わかりやすく金目のものを持ちたい人たちのようでしたが、
逆に言うと毛皮はもはやそう言う人の選ぶアイテムになってしまったってことです。

こんなところで二束三文で売られていても不思議ではありません。

ハロウィーン用の衣装もここにくれば必ず何かしら見つかります。
多分だけど、これ暗いところで光ったりしそう。

今回のグッドウィル・ハンティング(笑)で一番衝撃的だったのがこれ。
アメリカ海軍では制服を返還しなくていいんでしょうか。

アメリカ海軍潜水艦隊のメイヒュー1等軍曹、(原潜らしい)
なんと退役してから海軍迷彩を名前付きのままグッドウィルに出しております。

アメリカ海軍の迷彩の材質を知るために買って帰りたかったのは山々ですが、
かさばりそうだし、どう言う経緯でここにきたのかわからないものを
家に置いておくのも躊躇われたので、買わずに帰りました。

っていうか、これを買う人って果たしているんだろうか。

 

 


クルー・ヘッド の"トラフ"は流れる〜USS「スレーター」

2020-02-14 | 歴史

ニューヨークのハドソン川流域に係留されている展示艦、
USS「スレーター」の見学記も最終回になりました。
甲板の爆雷投射機の説明を受けてから、わたしたちは
ツァーのコースの最後のパート、

ファースト・プラットフォーム・デッキ

をもう一度別の部分からのアプローチで見学することになりました。

この階のさらに下にあるのは

セカンド・プラットフォームデッキ

です。
ここは見学者の立ち入り禁止になっており、公開されていません。
この階は三つのパートに分かれており、エンジンとモーターの機関部以外は
艦首側、艦尾側には倉庫になっています。

この倉庫の中には果物や野菜などの生鮮品倉庫や、冷凍室もありますが、
多くの面積を占めるのが40ミリ砲の弾薬倉庫です。

駆逐艦の場合は、最下層階を

Hold 4Foot Waterline

と呼び、キールの上に当たります。
一般的に「ビルジ」と呼ばれているところでもあり、
ここもまた「倉庫」「機関部」「倉庫」の三つに分けられます。

ここには水中音響室、ロッドメーター室、ヘッジホッグ収納マガジン、
その他の武器貯蔵用マガジンなどの倉庫の他には
水のタンク、そして爆雷の弾薬倉庫があります。

というようなことを説明している解説のボランティアのおじさん。

まず最初に目に入ったのがダメコン用の素材です。
艦壁が戦闘などで破損し水が侵入してきたときを仮定して
海軍では日頃からダメージコントロールの訓練を行います。

どんな艦船も設計にあたっては一定の安全率が考慮されているので、
浸水があってもある程度の時間は沈むことはありません。

特に軍艦の場合は、船体構造を強固にしたうえで、各種被害を
最小限に防ぐための区画配置が計算されています。

水線下に損傷を受けると、損傷区画位置によっては艦体が傾斜を起こすので、
対側の区画にあえて注水して復元させるということもあります。

正確な記憶ではないのですが、確か戦艦「大和」の最後の戦闘で
片舷側が破孔したので、わざと反対側に魚雷を受けて、
この方法で復元させようとしたところ、意に反してびくともしなかった
(のでこの後に及んで中の人びっくり)という話があった気がします。

 

もし艦体に破孔やクラックが生じた場合、遮防作業が必要となります。
その際、破孔に毛布・マットや箱パッチを当てて、その上から当て板を当てます。
さらに縦方向の支柱を立てて、当て板との間に突っ張りをし、水圧に対抗します。

ここにあるダメコン素材はそのときにこそ必要なものです。
艦内に備えられてある木製の角材を必要な長さに切り出して用います。

特殊な判断として、損傷が小さなクラックであった場合は、
傷の両端にあえてドリルで穴を開けることもあります。
これは艦体が航行によってねじれても割れが拡大しないという効果があります。

つまり、どうすれば1秒でも長く艦を保たせることができるか
それがダメコンの奥義だと思うのですが、それには
まさに現場で正しい判断ができるヴェテランが必要となってきます。

そして、そういう技術を体得し現場で采配を振るうのが
CPOという実力者たちでした。

「スレーター」のタメージコントロールの説明には

「The Invisible Advnattage」(目に見えないアドバンテージ)

として、以下のようにあります。

「スレーター」の乗員は三つのダメコンチームに分けられていました。
自分の艦について知り尽くした名も無きヒーローたちは
それが危機に見舞われたときにはなにをすべきかを知っていました。

ジェネラルクォーターが発動すれば、人々は器具、ポンプ、ジャック、
そしてメンテナンスと補修作業に必要なものを持って動き出します。
彼らは砲弾による破口をふさぎ、裂け目を溶接し、消火活動をし、
そして水を汲み出すのです。

彼らは自らの命も危うい状況であっても、そう、
たとえ水が腰まで来ていたとしても果敢に作業に当たりました。

watertight compartmentation (水密区画)はダメコンにとって
最も重要な要素です。
ジェネラルクォーターによって、全てのハッチは閉鎖され、
一連の水密区画はそれによって密閉されます。

もし戦闘や衝突などの衝撃でそのうち一つや二つの区画が破損しても、
密閉された水密区画が艦体に浮力を与えるので沈むことはありません。

かつて護衛駆逐艦の乗員を構成した男たちは、
現在全てが
祖父の年齢となりました。

彼らのほとんどブートキャンプを経て、そしてその前は
あるものは高校から、あるものは農村から、工場からやってきて
職場では入門レベルの仕事をしていた10代後半の若者たちでした。

そのうち10パーセント弱は生まれてから海を見たこともありません。
そんな彼らを海の男にするために、真の意味の「オンザジョブ」
(現任訓練、
実務をさせることで行う職業訓練)が行われ、
200名の男たちが短期間でチームとして鍛え上げられました。

まあ、ただでさえ命がかかった「仕事」で、おまけに
戦時中とあらば、真剣さが違って当然かもしれません。

「スレーター」博物館が発行した非常時のやることリストが貼ってありました。
今現在のダメコンがここに書かれているというわけです。

1)艦尾側のアラームを切る(赤灯が点灯しアラームが鳴る)

2)すぐに淡水を確実にバルブで船に送る

3)ポンプをアクティベートし、スタートボタンを押して浄化槽から水を送る

4)もし警報ベルが鳴ることでタンクからの組み上げがダウンした場合は、
  淡水バルブを再度開いて出荷し、通常の操作を再開する

5)もしアラームがならなかったら、ポンプも壊れていると過程されます
   洗面所に独立した送水が行われるまで水を確保し続けてください

6)使っていいのは岸壁側のトイレだけ

7)ティムの家に電話してください(電話番号)

ティムというのが責任者のようですが、常勤ではないようです。

クルーヘッド(乗員用トイレ)はこのような有様です。
「你好トイレ」というものが中国には存在しますが、プライバシーの点では
これも似たようなものかもしれません。
少なくとも、神経質な人には耐えられそうにないこのオープンな作りです。

しかし、150名の水兵が皆で一箇所のトイレを使うわけですから、
優先順位はおのずと効率性が先にくるのは致し方ないことでしょう。

しかしご安心ください。
よくしたもので「スレーター」のヘッドは、幸いというかなんというか、
トラフ(桶?)の一方の端から反対の端に、

海水が連続して流れる「自然水洗トイレ」仕組みになっていました。

もちろんこれは当時のアメリカ海軍の駆逐艦の兵隊用で、
ギリシア海軍時代にはもう少し別の仕組みが採用されており、
博物館に改装した際に復元したものと思われます。

しかし、アメリカ軍も兵隊さんはなかなか大変な生活をしていたようで。

ここに再現されているのは「スレーター」の装備そのものではありませんが、
だいたいが2〜3人が並んで腰掛けるトイレが両舷に並んでおり、
それとは別に4つの小便器、そしてたった4つのシャワー(!)、
洗面台が7つ、これが全てでした

アメリカ海軍では起床ラッパのことを

Reveille(レヴェイユ)

といいますが、このレヴェイユが鳴り響くと、一斉に
30〜40名の水兵たちがいちどきに洗面、髭剃り、歯磨きのために
洗面台の前にラインを作ります。
後ろにそれだけ並んでいるのですからゆっくりやっている時間はありません。

シャワーも貴重な真水を使うので、一人3分と決まっていました。
水不足が懸念されるときにはそれも叶わず、体を洗うのは冷たい海水で行い、
最後にバケツいっぱいでリンスすることしか許されませんでした。

南洋に展開しているときは雨が降れば皆大喜び。
甲板に各自が石鹸を持ち出し、思う存分天然のシャワーを浴びました。

シャワー室とトイレはスペースとしても広いものではありません。
ここを水兵たちが全員で使っていたと聞いて、思わず目を見張る見学者たち。

洗面台の鏡の上には

ストレッチャーが掛けられていました。

ここに「エンジニアリング・デパートメント・ログルーム・オフィス」があります。
艦体中央の右舷通路にあるのが普通でした。

ディーゼルエレクトリック推進システム操作法に関する全ての記録が保存されており、
機関部のヨーマン(書記)がログブックとマニュアルを管理しています。

今ではそれら全てがコンピュータ一台で済んでしまうので、部屋は必要ないかもしれません。

ここはまた、海軍工廠や各設備製造会社から送られてきたマニュアルの
ライブラリーとしても機能しており、艦に関することであればどんな小さい部品についても
ここにくればわかるようになっていました。

武器に関するメインテナンス法も、このログルームで管理しています。

かつて乗員にお知らせを貼る掲示板には、戦時中のポスターや、
ネジの種類を図解にしたインデックス(当時のもの)などが貼ってあります。

下の写真は改装前の「スレーター」の姿だろうと思われます。

残念ながらファーストプラットフォームデッキの見学はこれで終わりでした。

ここにはそのほかにもランドリー

カーペンターショップ、サプライオフィスなどがありますし、
医務室=シックベイ

エンジンルーム

メインエンジン

ステアリング・ギア・ルーム

など、見るところがほかにいっぱいあるはずなのですが、今回の見学では
そこまで案内はされず、残念です。

これらの部分も公開されているはずなので、いつか実際に見に行きたいものです。

上に上がってくると、売店がありました。
シャンプー、石鹸、剃刀、ヘアトニック、歯磨きなどの日用品、
べルトや靴紐なども売っています。

アメリカ人大好きチューインガムはミントとフルーツの三種類。
タバコは「キャメル」か「ラッキーズ」(ラッキーストライクのこと)
紙巻きの他にパイプ用、噛みタバコなどもあり。

手紙のセット、靴墨、シャンブレーのシャツやダンガリーズボンも
新しく買う人がいるようです。

メインデッキに上がってきて、ツァー一行は乗艦した左舷側に帰ってきました。
かつて「ジェネラルクォーターズ」を告げたこのスピーカーも、
今はまったく沈黙しています。

ここで最後に「スレーター」と日本との「戦い」について触れておきます。

大西洋における船団護衛の任務が終わると「スレーター」は
神風特攻の脅威が米国と連合軍の船に多大な被害を与えていた
太平洋戦線での新しい敵との戦いに備えて、その兵器に変更を加えました。
ブルックリンでのオーバーホールの後、
日本侵攻に備えて対空兵装の増強を受け、
ニューヨークを出港後はパナマ運河を通過し、サンディエゴに到着。
そしてその3日後、真珠湾に向けて出航しました。
ところが「スレーター」が太平洋に到着したとき、
ちょうど日本に原子爆弾が投下されました
(投下したのはもちろんアメリカですが)

そこで「スレーター」はフィリピンに送られることになりました。
日本が降伏した8月15日、「スレーター」は神風特攻の攻撃を受け、
これを間一髪で避けることができた、といわれています。

ただ、日本側に残る正式な特攻隊員の名簿には
フィリピン方面でその時期特攻隊は出されていないはずなので、
この情報はどこかが間違っていると思われます。

その後「スレーター」は日本とキャロリン諸島への護送団護衛任務を行い、
その仕事を最後にアメリカ海軍を退役することになり、
ノーフォークで不活性化後、予備役となりました。

ギリシア海軍に譲渡されたのはそれからさらに後のことです。

 

まあ要するに日本とは「戦わずに済んだ」駆逐艦なんですね。
日本人のわたしとしてはこれはなんとなくほっとする事実でした。

ちなみにHPには「シップ・ログ」がありますので、
ご興味のある方は覗いてみてください。
マニラなどにおける写真はありますが、日本での写真は
滞在がわずか1泊だったせいか
一枚もないのが残念です。

最後にガイドの方は、かつての駆逐艦の姿をこれだけ完璧な姿で
現在に残すために、関係者各位がいかに努力をしたか熱く語りました。

そこで見学者が退艦となったのですが、わたしたちが降りる前に
寄付を投入するボックスに20ドルを投入すると、ガイドさんは

「おお、ありがとうございます。寄付は大歓迎ですよ!」

と残りのみんなに聞こえるような大きな声で言ったので、
わたしたちの後の人たちはあわててお札を出しはじめました(笑)

見学したときにはそれほどとは思っていなかったですが、
こうやって調べれば調べるほど、博物館として「スレーター」を維持するのに
絶え間ない資金投入が不可欠であることがよくわかりました。

また機会があったら訪れて、彼らの維持の努力に対し少しでも助力したいと思います。

USS「スレーター」シリーズ 終わり


30ミリ、40ミリ砲のターゲット〜USS「スレーター」

2020-02-12 | 軍艦

パイロットハウス(操舵室)とCICのある02レベルを見学し、
さらに最上階に上がった駆逐艦「スレーター」の見学ツァーは、
もう一度スーパーストラクチャーデッキ(上部構造物デッキ)を
歩くことになりました。

下に降りるのは梯子式のラッタルです。

ここにはベントの他、ボートダビッド、中央にスタック(煙突)があり、
両舷には機関銃の銃座が物々しく並んでいます。

中央に見えるのは3インチローディング(装填)マシーンだそうです。
「スレーター」にはもともと、この装填機の後方に
三連装の魚雷発射マウントがあったといわれています。

しかし、第二次世界大戦後期ごろには、水上艦よりも
駆逐艦にとって差し迫った脅威は航空機の攻撃ということになっており、
魚雷発射管は、慣熟航行(シェイクダウン・クルーズ)の直後に
4基の40ミリ対空砲に換装されました。

これは、煙突の後方にある20ミリ連装砲の左舷側マウントです。

真珠湾攻撃前までは、対空防衛に利用できる唯一の重機関銃は
ブローニングM2重機関銃でしたが、射程と火力が不足していました。
これに代わるには火力は高く、しかし手で扱うには十分に軽い銃が必要でした。

このために選択されたのがスイス・エリコン社の20mm砲です。
この砲は当時すでにイギリスで使用されており、戦前の段階で
米海軍での採用が検討されていたものです。
最終的に、1940年11月、米国内での生産が承認されました。

銃座の足元にコードのようなものがぐるぐる巻きになっています。
これがもともとのものなのか、電源コードなのか(違うと思う)
材質を確かめる術がないのでわかりませんでした。

 

20ミリ砲はブローニングの代用品として熱狂的に迎えられました。
しかし、最初の数ヶ月はすぐに置き換えるための生産が間に合わず、
ほとんどの対空戦は古いブローニングに依存せざるを得なかったそうです。

各マウントには、4名の乗員が配置されていました。

「砲手」「サイト(レンジ)」「セッター」「バレル一つにつき一人の装填手」

です。
サイトというのは日本軍でいうところの「照尺手」セッターは「旋回手」でしょうか。

この銃はもともとスイスでエリコン社によって設計されたため、
メートル法で設定されており、アメリカ人のため仕様変更されました。

ちなみにこれが20ミリエリコン銃の図ですが、
砲身根元上に二つのドラムマガジンが装着されていますね。

ドラムマガジンはマウントの後ろにあるロッカーに収納されています。
内部には60発弾薬が装填されています。

20ミリ砲は「スレーター」に搭載された最も小さな対空砲です。
一つのマガジン(バレル)あたり毎分450発射できました。

長時間発射(約240発)したあとは、素手で触れないほど熱くなるので、
アスベストの手袋を着用した装填手がバレルを交換しました。

熱くなったバレルは、銃座の横に溶接された冷却タンクに入れ、
予備のバレルと交換されます。

導入当初、これらは単装で装備され、リング状の照準器で
狙いをつけて撃っていたのですが、1942年以降、
精度が高まり、1945年には連装でのマウントが標準になりました。

 

煙突より後尾をみると、そこには人員輸送用の「鳥籠」がありました。

艦と艦の間で人を送るときにはこれに乗るんですよ。
一応シートベルトはついてますが、座席はツルツルしてそうだし、
海が荒れているときにロープ一本で運ばれるのは怖いと思います。

20ミリ砲のキャリアはそう長くはありませんでした。
1942年から44年半ばまでは、並外れた成功を収めましたが、
その衰退の原因は、意外や彼らが「カミカゼ」と呼ぶところの特攻隊でした。

航空機体当たり攻撃の前には、20ミリはあまり有効ではなかったのです。

たとえば「スレーター」には最初パイロットハウスの前方と01デッキに4基ずつ
単装砲があっただけでしたが、これは、相手を認め発砲したときには、
体当たりするつもりの特攻機はすでに接近しデッキに激突する体勢であったため、
たとえ銃弾がヒットしたとしても何らの防御にもならないであろうとされました。

そして実際に実戦を体験した誰もがそのことを感じていました。
しかし、なぜか20ミリがなくなってしまうことはありませんでした。

理由は偏(ひとえ)にどんな形であってもとにかく、
敵を迎撃しているという乗員の心理的安心感に尽きます。

かつての「スレーター」艦上で敵が現れるのを待って空を見つめる砲撃手。
1944年の写真です。

 

20ミリ単装が効果的ではないということになって、連装と4連装銃が
いくつかの艦に取り付けられました。

1945年のV-Jデイ(対日戦勝利)の段階で、「スレーター」は
これらの連装砲マウントを9基(パイロットハウスの前方に3基、
この01デッキレベルに4基、艦尾に2基)備えた状態でした。

 

「スレーター」上部構造物デッキには、20ミリのほかに
40ミリ連装砲のマウントが左右に1基づつ2基備えてあります。

1944年に引き渡しされたとき、「スレーター」はこの01レベルの
上部構造物階後部にMk51ディレクターとともに40ミリ砲を
1基だけを搭載していました。

最初は煙突のすぐ後ろに魚雷発射管が置かれていました。

1944年6月、慣熟航行(シェイクダウンクルーズ)の直後、
魚雷発射管は取り外され、同じ場所に40ミリ砲のマウントを
4基設置して、対空戦に備えることになりました。

これは1945年に太平洋に進出するに先駆けて
行った訓練で標的艦を務める「スレーター」艦上です。
ここには換装された40ミリ砲マウントが写っています。

コンピュータサイト持つMK51銃統制装置を備えた
2つのツインマウントに置き換えられているのが確認できます。

アメリカ海軍の優れた点は、絶えず問題点を洗い出し、
アップデートを常に繰り返し、
変化する脅威に対応するためには
労を惜しまなかったというところでしょう。

裏側から見た40ミリのマウント。
ラックがあって、そこに40ミリ銃弾が設置されているのがお分かりでしょうか。

弾薬は、鋼鉄の防壁である「ガンタブ」に溶接されたラックに保持されていました。
弾薬が使い果たされると、それらは下階から補充されます。

ただし、40ミリにも多くの特攻機がが標的にダイビングしてくるとき、
それを衝突するのを止めるほどの破壊力があったかというとそれは疑問です。

オリジナルの40ミリ単装砲はスェーデンのボフォース社製です。
おそらく第二次世界大戦中の軍艦が採用した武器としては、
最も効率的で有効な近接防空兵器として評価されるものでしょう。

最初にこれを採用したのはアメリカ陸軍で、1937年に
バレル式の空冷バージョンを検討しました。

1940年、アメリカの三大自動車メーカーの一つである
クライスラーコーポレーションが、アメリカで使用するために
これらの銃の製造を請け負いました。

ツインバレル使用のサンプルはフィンランドを経由して
スェーデンから到着し、イギリス軍とオランダ軍の仕様を踏襲したものを
ヨークロック&セーフ社が海軍ように製造することになりましたが、
どういうわけか1941年6月になるまで、肝心の
スェーデンからの正式なライセンスを受けていませんでした。

その問題は(おそらく)解決され、1942年に、最初の連装ボフォースが
生産を開始し、4月には4連装バージョンも登場しました。

ボフォース銃は瞬く間にアメリカ海軍の艦隊全体に普及し始めましたが、
1944年の中頃までは需要が満たされた状態ではありませんでした。

「スレーター」も、45年5月までそれを待っていたということになります。

 

砲弾を手にして説明する解説員。

連装40ミリのそれぞれは、1バレルあたり毎分160発、有効射程約4000ヤードです。
マウントでは7名の乗員(指揮官、照準、トレーナー、第1装填二人×2)
構成されていました。

 

第二次世界大戦最後の9ヶ月の神風特攻との攻防まで、
40ミリ砲は全ての近接防空先頭に有効であることが証明されました。

装填から射撃までの過程を説明してくれています。

さて、40ミリが特攻に対してそれほど有効ではなかったと書きましたが、
それでは何が効果的であったかというとそれは、VT(近接信管)です。

これは、砲弾が目標物に命中しなくとも一定の近傍範囲内に達すれば
起爆させられる信管のことで、近くで砲弾を炸裂させることで
目標物にダメージを与えることができるというものでした。

これで特攻機への命中率を飛躍的に向上させることができました。

最大の長所は目標に直撃しなくてもその近くで爆発することにより、
砲弾を炸裂させ目標物に対しダメージを与えることができる点にあります。

現在の正式な呼称は "Proximity fuze"といいます。

「VT信管」(Variable-Time fuze) というのはアメリカ軍の情報秘匿通称からきた
名称ですが、

「兵器局VセクションのT計画で開発された信管」

ということからではないかという説もあります。
また「マジック・ヒューズ」という呼称することもあったようです。

40ミリは近接ヒューズの電子回路を処理するには小さすぎたため、
76ミリ銃は破壊的な発射体を処理できる最小の武器でした。

それにもかかわらず、ボフォース40ミリは、日本が降伏する瞬間まで
小型船舶の主要な近接対空兵器として主役だったのです。

この上部構造物階には、もう一つの武器が艦尾に向かって設置されています。
主砲となる50ミリ砲で、使用される弾薬の最大水平範囲は約12,000ヤードで、
最大天井範囲は約21,000フィートです。

「スレーター」の砲の照準器は銃の左側にあります。

ここにあるものは戦後の修正を受けており、上部構造物階上部にある
統制機の制御下で
自動的に移動できるようになっています。

ここにある銃のほとんどは展示の際にどこからか調達してきて
取り付けられたものばかりです。

ですから由来はわからないのですが、どの艦船に搭載されていても
その銃が1945年の終戦までの間、そのターゲットにしていたのが
実はほかでもない日本の特攻機であり、彼らにとってその脅威は
艦体の武器システムを変えなくてはいけないものでもあったということを
今さらながら、アメリカ人の中に混じって考えてしまったわたしでした。

艦尾にたって艦首側を望む。

さて、この後ツァーはもう一度メインデッキに降りていったのですが、
当方のミスからそちらはもうご紹介してしまったので
次がシリーズ最終回となります。

続く。

 


CIC 「主よ 我迷えり」〜USS「スレーター」

2020-02-10 | 軍艦

駆逐艦「スレーター」艦内ツァーは、上部構造物階にある
無線室と艦長室、そして事務室の見学を終え、もう一階上の
ナビゲーティング・ブリッジに上がっていきました。

ここは02レベルとも呼ばれていて、先端には
20ミリ機関銃の銃座が備えられています。
かつての「スレーター」にはここに銃座が二つあったそうです。

その後ろが「パイロットハウス」、操舵室ともいいます。
そしてCIC、そしてシグナルブリッジがあります。

まずはコンバット・インフォメーション・センター、CICから見学です。

CICには対空、そして海上のレーダー装置が備えられています。
写真のテーブルは「プロッティング・ボード」。
その上部にあるスピーカーのついた機器は21MCといって、
インターコムであり別名「スコークボックス」。
右側にはステイタスボードが見えています。

ところで皆さん、レーダー「RADER」という名詞が

RADIO DETECTION AND RANGING

つまり「電波を利用して、目標物の距離・方位を測定する装置」
の頭文字から来ていることをご存知のことと思います。
レーダーは第二次世界大戦時の「秘密兵器」のひとつでした。

ここでレーダーの歴史を紐解くつもりはないですが、歴史的には
イギリス軍がドイツ空軍の空爆を阻止するために使用したのが始まりです。

一部の人々はその信頼性と軍事兵器として使用することに疑問を呈しましたが、
やがてこの秘密兵器は空と海での戦い方の様相を変えることになります。

少々専門的になりますが、説明しておくと、レーダーは
マイクロ波ビームを空中に直線で送信するものです。
これらのビームが物体に当たると、反射エネルギー(エコー)が
レーダーアンテナに戻り、レーダーアンテナで捕捉されます。

サーチレーダーの有効範囲は、マストの上部に
サーフェスアンテナと空中アンテナを配置することにより拡大されます。

目視できないターゲットを補足できるレーダーはまるで「神の目」でした。
この反映された情報は、ターゲットの存在位置をレーダースコープに表示します。
レーダー員はこの情報を「追跡」または分析し、その結果を使用して、
ターゲットのコースと速度など、
重要な情報を判断することができるのです。

戦闘情報センター(CIC)は、この新兵器を採用し、プロットテーブル、
内部・外部通信機能、およびその他のさまざまなステータスボードと
プロットボードを収容する一室として設置されるようになったのが最初です。

今日でも、自衛艦内見学でCICが公開されることはあまりありません。
少人数で身分がわかっている場合、公開されることは皆無ではありませんが、
その際も要所はマスキングされて写真撮影はできないのが普通です。

それだけここには貴重な軍事的情報が密集しているためです。

レーダー室として登場したCICは、名実ともに「情報センター」になりました。
あらゆるソースから収集された情報は分析、評価され、必要な各所に伝達されます。

対空、対水面の対象を追跡し、その進路と速度を報告することに加え、
CICは基地の維持、火災管理、沿岸砲撃、航行、捜索、救助にも役立ちます。

航行中の艦船にとって夜間、昼間、霧、雨、雪、または晴天のときは
常に神経の中枢であり、「艦の目」の役目をはたすのです。

第二次世界大戦当時、CICは

「Christ, I'm confused.」

(主よ、わたしは混乱しています=主よ、我迷えり)

と呼ばれることもあったようです。
迷える子羊たちを導いてくれる聖なる存在だったのですね。

右側の機器がPPI、左は対空レーダーです。

「ミッドウェイ」しかり、「マサチューセッツ」しかり。
展示されている軍艦のCICの中は常に暗くされていました。
これは運用中のCICを再現した状態です。

実際に運用されているCICはノイズの多い機器を多く含むため、
室内はかなりの騒音で満たされていたということです。

 

レーダーマンは海上、空中、補助用のレーダーセットを
装着した機器で情報を常に聞いています。

かれらはまた、ステータスボード上の空中および海面における
コンタクト対象を追跡します。
「JA」音声通信回線に配属されたCIC士官とレーダー員は、
いつもDRT(推測航法トレーサー)と海面プロットテーブルの前で
パネルを見つめ続けていました。

彼らは、CICで収集された情報を分析し、ブリッジの指揮官または
デッキの士官に助言を伝えました。

時折、音声無線トラフィックが、他艦のブリッジの「Squawk Box 」
(スコークボックス)との間で送受信されるのを聞くことができました。

「Squawk Box navy」の画像検索結果

ちなみにこれがスコークボックス。

これが先ほどから話題になっている「プロッティング・ボード」です。
ここにレーダーの海面または空中で接触した相手の情報が記され、
敵か味方かが特定されました。

さて、CICのつぎはパイロットハウスです。
ここにあるのは「ステアリング・ステーション」操舵装置です。

ボランティアの解説員のおじさんが張り切って説明してくれていますが、
彼が手をかけているのは上部が、

「エンジン・テレグラフ」(Engine Order Telegraph)

速力通信機、そしてその下の部分は

「エンジン・ターン・レボリューションズ」
(Engine turn revolutions)

という操舵装置の一部です。

操舵手が立つ足場には必ずこのようなラティス状のマットがあります。
長時間立つので疲れを軽減させるとかいう機能があるのでしょう。

今日自衛艦の同じ場所にはシリコン?のような
衝撃吸収のマットが敷いてあります。

天井にあるのは伝声管だと思われます。

エンジンテレグラフ・レボリューションズの右側の機器は

エンジン・オーダー・テレグラフ・レピータ
(Engine Order Telegraph Repeater)

そしてこの長年の使用でピカピカに磨き込まれたのが、

ヘルム(Helm)操舵

です。
操舵手のことを「ヘルムスマン」といいます。

いま解説員が手を置いているところに

マグネティック・コンパス

があります。
コンパスの内部が見えるように外側をカットしてあります。

操舵手の補助を「The Lee Helmsman」といいます。
リー・ヘルムスマンは、エンジンオーダーテレグラフを使って
正確な1分あたりの回転数を示す「ノブ」を機関室に命令を送ります。

解説員と彼が手を置いているマグネティックコンパスの間に
少しだけ見えているのが「レピータコンパス」です。

あとで大アップにして撮っておきました。

ヘルムスマンのように操舵装置に手をかけて記念写真。
こちらに見えているのが「ノブ」で、
「前進全速」など伝達される速度表示が書かれています。
ここで示される速度の種類を書き出しておくと・・・。

  • Flank ahead (1940-) (USAのみ)
  • Full Ahead(全速前進)
  • Half Ahead(半速前進)
  • Slow Ahead(微速前進)
  • Dead Slow Ahead
  • Standby
  • Stop(停止)
  • Finished With Main Engines
  • Dead Slow Astern(後進)
  • Slow Astern(微速後進)
  • Half Astern(半速後進)
  • Full Astern(全速後進)
  • Emergency Astern ( 1940-)

同じパイロットハウスの前方部分。

パイロットハウスの艦首側にはチャートデスクがあります。
この場所から撮ったらしい写真がありますが、物凄い時化ですね。

今同じところから見えるのは波一つないハドソン川の流れです。

パイロットハウス外側には20ミリ機関銃座が一基設置されています。

外側にあるのがシグナルブリッジです。

シグナルブリッジは、「スレーター」から発信される視覚信号の中心です。
信号は艦長または甲板士官から発せられ、信号機によって他の艦に中継されました。
これらの信号は、3つの方法のいずれかで中継されました。

まずその一つは手旗信号です。
英語ではSemaphore、セマフォといい、コンピュータ用語では全く別の意味です。
手旗信号は昼間しか使用できませんが、最も素早い通信手段です。

二つ目は信号旗を使っての通信。

信号旗はアルファベット順に大きなキャンバス布で覆われて
「フィンガー」と呼ばれるフックに掛けられています。
フィンガーに掛けることで空気を循環させ、カビの発生を防ぎます。

シグナルマンは必要な旗を一緒にクリップしてメッセージを作成し、信号を上げます。

信号旗は、コースと速度の変化を示すために使用されます。
旗艦は指揮官旗を揚げます。

艦隊の附属艦は同じ信号旗を揚げて指令を受け取ったことを示します。
指令が実行されると、旗艦はホイストを落とし、周囲の船は規定の操縦を実行します。

そして三つ目の通信手段が発光信号です。

船舶は、12インチおよび24インチの信号灯を点滅させ、
モールス信号を送信する昼夜システムを使用していました。

これは迅速なコミュニケーションの方法でしたが、夜間は、
自艦の位置を明らかになるためほとんど使用されず、
そのかわり赤外線フード付きレンズで光をマスクしていました。

 

実はこの一階上にはフライングブリッジがあります。

レベル03であるここはキャプテンズブリッジとも呼ばれています。

この前方には「サウンドハット」(サウンド小屋)、別名
ロイヤルネイビーの薬棚(意味不明)があり、そこには
ソナースタック、タクティカルレンジレコーダー、
攻撃プロッターなどがあります。

外側の隔壁には、目標方位指示器、ジャイロコンパスレピータ、
インターコムなどの船舶制御用の計装が搭載されています。

 

さて、このあと、見学ツァーはもう一度メインデッキに降りました。

続く。


"K"砲(ディプスチャージ・プロジェクター)〜USS「スレーター」

2020-02-08 | 軍艦

ハドソン川沿いに係留されて冬期を除き公開されている
USS「スレーター」の見学ツァーで見たものをご紹介しています。

ところでなぜ冬の間見学がクローズになっているかというと、
ここオルバニーは
内陸部で冬は猛烈に寒く、零下14〜5度になるので、
ハドソン川もその時には凍ってしまうからだそうです。

川が凍るくらいなら、軍艦の展示ぐらいできるのでは?
と思ってしまったあなた、あなたはニューヨークの寒さを甘く見ている。

年末に洗濯機を買うために大型電気店を歩いていて、
ついいつもの癖でカメラのコーナーで立ち止まって商品を見ていると、
「零下10度の気温でも大丈夫」という宣伝文句のカメラがありました。

つまりそれは日本のカメラの中では特に寒さに耐える仕様らしいのですが、
零下10度が限界では楽勝でオルバニーでは使えないという意味だとわかり、
ちょっと愕然としてしまったということがありました。

川が凍る、というのは我々のような亜熱帯に住む人間にとって、
肌感覚すら
とても想像できないくらいのバッドコンディションです。
たとえばその間軍艦の上など歩こうものなら、たちまち凍りついた
デッキやラッタルで転倒する人続出は間違いありません。

公開する方も毎日の仕事を氷を割ることから始めなくてはいけませんし、
いかにボランティアでもそんな仕事をしてくれる人がいるとは思えません。

 

たとえばこの部分を制作したのはペンシルバニア州のピッツバーグ、
シカゴ行きの飛行機の出発を待っていたときなのですが、
冬のピッツバーグは夏しか滞在しないわたしには異次元でした。

朝ホテルを出て車に乗ろうとしたら、フロントガラスが
ガチンコに
凍りついているわけですよ。

そのとき、レンタカーの後部座席に置いてあった棒切れ
(片側が小さい熊手、反対側がブラシ)の正確な用途を知りました。

真っ白になっているフロントグラスをまず熊手で掻いてみましたが
細く筋ができるだけで何の役にも立ちません。
反対側のブラシで撫でてみても当然のことながら何も起こりません。

そこで、車内に戻り、パネルを凝視したところ、フロントガラスを温める
スイッチの
「マックス」というのがあるのを見つけたので、

「テー(撃て)!」

とばかりにこのモードのスイッチを乾坤一擲で押すとあら不思議、
凍りついていたグラスがあっというまに溶け、3分後には発車準備OK状態に。

ピッツバーグは五大湖の一つエリー湖に近いだけあって猛烈な寒さなので、
車も寒冷地仕様に工夫を凝らしているようで、たとえば車に乗ると
何もしないのにハンドルの持ち手(手で握るところ中心)が
じわあ〜〜っとあったかくなってくるという体験を初めてしました。

よく、

「日本には四季がある」

ということを日本特有のものとして誇らしげにいう人がいますが、
世界レベルで見ると決してそんなことはありません。

ビバルディの住んでいたイタリアだって、四季があったからこそ
彼だってあの名曲を残したのですし、ボストンもニューヨークも

そしてここピッツバーグも、普通にはっきりと春夏秋冬があるだけでなく、
どちらかといえば大抵が日本よりその寒暖差は激しくてメリハリがあります。

ある程度北にあるのに「四季がない」サンフランシスコのような土地こそが
むしろ珍しいと言ってもいいのではないでしょうか。

さて、上部構造物階後方の20ミリ、そして40ミリ砲座を見学し、
ツァーはガイドに導かれてふたたびメインデッキに降りました。
わたしはラッタルを降りる前にこの写真を撮りましたが、
もし冬だったらこういうところは凍りついていて上がれなかったでしょう。

見学の二人の頭上にある救命ボートは、万が一の場合
緊縛を解いて海上に滑り落とせるようにラックが斜めになっています。

現在、艦と艦が並んで「目指し」に接舷する場合、間に入れる防舷物は
硬化ゴムの風船のようなものですが、そういう便利なものがなかった時代には
このような民芸品の佇まいを見せる舫を編み込んだクッションを使ったようです。

この「スレーター」博物館のすごいところは、どんなディティールも疎かにせず、
こだわり抜いて本物の展示品を集めてきたというところです。
どんな防舷物を第二次世界大戦時に使用していたかなんて、おそらくは
誰も気づきもしないし興味も持たない些末なことに違いないのですが、
それをあえてやってのける、それに痺れる憧れるう(棒)

メインデッキ後方には大きな打ち出の小槌状の武器が
舷に面していくつも並んでいました。
これまでいくつかアメリカで軍艦を見てきましたが、
もしかしたらこれは初めて見るかもしれません。

(わたしのことですので忘れている可能性もありますがそこはそれ)

これは日本語でいうところの爆雷投射機、英語でいうところの
ディプスチャージ・プロジェクターです。
たしかこれの両舷投入タイプが江田島の第一術科学校に展示してあって、
そこで説明したことがあったかと思いますが、ここにあるのは片舷から
爆雷を投入するタイプなので「K型」つまり英語でいう「Kタイプ」です。


MK6ディプス・チャージ・プロジェクターは、一度に発射できる
数を増やすことにより、広範囲を攻撃することができるように開発されました。

艦尾の後部から投下するドロップラック方式の爆雷は、
第一次世界大戦で有用な戦略でしたが、第二次世界大戦の頃になると、
既に潜水している潜水艦は後部からの爆雷を回避できるようになりました。

海面下の見えない敵を爆雷で攻撃するためには、一方からの投下でなく
より広範囲に、様々なパターンでアプローチを行う必要があったのです。

この問題を解決するためには、いわばディプスチャージの「カーペット」で
敵潜水艦を包むような状態を作ることが有効とされました。
そのために、爆雷を多く、できるだけを遠くに投げ込む方法が模索されました。

この目的のために第一次世界大戦の後半開発されたのが

「K砲」(K-gun)

です。

これは左右両舷から同時に2つの爆雷を発射するプロジェクターでした。

従来の「Y砲」は、その名の通りYを形成する2つのバレルで構成されます。
各バレルには爆雷の投射プロジェクターが設定され、艦から数百フィートの距離に、
装薬を装填して投射するというものでした。

これは対潜水艦戦の実に効果的な対策でしたが、欠点もありました。
必ず艦の中心線に機器を備え付けなければならないわけですが、たいてい
そこは何かと装備が多く、スペースを確保するのが難しかったのです。

そのためY型のシングルバレルバージョンである「K砲」の登場となったのです。

メインデッキの両舷に沿っていくつも搭載できるという省スペース型で、
一台につき1発の爆雷を投下することができました。

投射できる爆雷の数が重要なので、一般に駆逐艦ではこれを
メインデッキの両舷に
4基ずつ、合計8基装備されることになりました。

さて、案内のおじさんがかっこよくディプスチャージの前に立ちました。
これから何か実演してくれるようですよ。

まず、腿の高さのところにある蓋を開けます。
普通にあければいいのにわざわざ体にひねりを入れるあたりが
この解説員の美学みたいなのを感じさせないでもありません。

やって見せてくれているのは爆雷投下までの過程です。
投入しているのは「カートリッジ」だと説明していました。

この切り株のような部分は「ブリーチ・メカニズム」という名称です。
銃尾とか砲尾のことを英語で「Breech」(bleachではない)といいます。

カートリッジには標準重量の黒色火薬が装填されています。

下の丸い部分は「エクスパンション・チャンバー」
ここで火薬の爆発を起こしエネルギーに変えるようです。

正確なメカニズムについてはよくわかりませんでしたが、
紐を持つ=蓋を開けている間はカートリッジは支えられているようです。

紐から手を離すと、カートリッジがチャンバーに投下され、
点火されることで爆薬が投下される、ということのようです。

爆雷を支える左のアームの部分は「アーバー」といい、この底部に対する
推進薬の作用により、ディプスチャージが発射されます。

アーバーは円柱状の装薬に取り付けられたままですが、
爆雷はその度にティアドロップモデルから解放され投下されます。
したがって、アーバーは深層装薬が発射されるたびに消費されます。

一回撃つと次の投射にはこの部分を取り付ける必要があるというわけですね。

ふぁいあー!と本当に射撃しているようにみえますが、
これは爆薬をセットしていない空砲です。

この写真を見ておわかりのように、「スレーター」では
このように時々本当に点火してみせてくれるようです。

この写真で実演を行っている人の持っている紐は、
ここで見た点火のふりデモンストレーションの十倍くらい長いものです。

デモを見ている時にはなぜ紐で閉めないといけないのか
わからなかったのですが、これを見て初めて納得いきました。

デモンストレーションであっても紐が短ければ
至近距離で爆発が起こることになり
大変危険だからです。

K砲は、砲尾機構を備えた拡張チャンバーに取り付けられた
滑らかな穴のバレルで構成されています。
砲尾のプラグには、甲板で行う投げ込み式、またはブリッジから制御される
電気的発射によって発射できる発射メカニズムが搭載されています。

プロジェクターは固定されていますが、インパルス電荷の重量を変えることで
爆雷を投げ込む範囲を変更することができます。
範囲は60ヤード、90ヤード、および150ヤードが選択できます。

彼らが爆雷のプロジェクターの説明を聞いているその後ろには
従来型の艦尾から転がして落とす爆雷のラックがあります。

これは駆逐艦タイプの艦で運用されていた戦前の主な対潜兵器で、
このラックは、基本的には爆雷が置かれた傾斜レールのセットであり、
一度に一つのの爆雷を放出するように配置されていました。
典型的なラックは、MK6爆雷の最大搭載数12のものです。

爆雷は自重で後方に転がっていき、後戻り止めに支えられます。
投下の際はリリースレバーを操作すると、後戻り止めが押し下げられ、
最初のチャージがラックから水の中に投下されるというわけです。

1発目の投下と同時に前方の戻り止めが上昇し、2番目以降の爆雷を止めます。
ラックコントロールが元の位置に戻ると、戻り止めが逆方向に移動し、
次の爆雷が落下位置に移動し投下の順番を待つ状態になります。

ところで、帰ってきてからふと思いついて「眼下の敵」と言う映画を観ました。

ドイツのUボート(艦長がクルト・ユルゲンス)と戦う駆逐艦上で、
乗員がこの爆雷の転がるラックに手を挟んでしまうシーンがあり、つい
「痛っ!」
と画面に向かって叫んでしまいましたが(皆さんもそうだったでしょ?)
実際にそんな事故が起こる可能性があるのか、これを実際に見ると
ちょっと不思議ではあります。

実戦中でパニクっていてやらかしちまったということなのかもしれませんが、
この乗員は結局手を切断することになってしまって気の毒でした(-人-)

 

ラック内の爆雷は、油圧操作レバーを介して2つの場所から投下できます。
駆逐艦で最も一般的な場所は、2つのリリースレバーとサージタンクが配置された
フライングブリッジの右舷側からでした。

ディプスチャージは、各ラックのすぐ隣にあるリリースレバーによって
局地的ににリリースすることもできます。
投下する前に、潜水艦の推定深度に基づいて、爆雷の爆発メカニズムを、
ブリッジからの命令に従って手動で事前設定する必要がありました。

また追加のディプスチャージは艦尾ハッチの下に積み込まれ、
人力で引き上げて積み込むことができました。
しかしこれはなかなか骨の折れる労力を要するプロセスだったようです。

それが引き揚げられたのがこの甲板中央のハッチからです。
一階下の武器庫からダビッドで弾薬を吊り上げました。

右側のスピーカーからはジェネラルクォーターズが鳴り響きました。

「ジェネラルアラームがなったら各自の持ち場に行け」

と赤のパネルに書いてあります。

メインデッキの後方、ディプスチャージ・プロジェクターと
ディプスチャージ・トラックの間には、20ミリ砲のマウントが二つ、
背中を合わせるように並んで装備されています。

ディプスチャージは対潜戦のための武器ですが、ここに唯一ある
対空戦の武器ということになります。

アームにぶら下がっているように見える袋は、おそらく薬莢が
自動的に取り込まれるものだと思われます。

 

さて、後甲板にある武器の説明が終わりました。
艦内ツァーの最後は、この一階下にある部分です。
そこには何があるのでしょうか・・・・?

 

続く。

 


送られてきた潜水艦「とうりゅう」の支鋼

2020-02-07 | 自衛隊

先日、わたしには全く覚えのない個人名の不在配達が入っていて、
はて、いったいどなただったかしら、と思いつつ受け取ると、
送り主は昨年秋に命名・進水式に立ち会った
潜水艦「とうりゅう」の艦長でした。

そりゃ名前に記憶がないはずだ。
今まで出席した進水では、潜水艦の名前が刻まれた
しおりなどの小さな記念品が頂けることもあったのですが、
「とうりゅう」の方々は、年が明けてから
何か送ってきてくださったようです。

この記念品をご紹介します。

これは命名式の日もいただいたのですが、記念絵葉書です。

パッケージはクッション入りの封筒だったのですが、
中から出てきたのがこれ。

「潜水艦 闘龍」

とあえて艦名を漢字で表記してあり、

「支鋼」

と書かれています。
木箱の大きさは、へその緒を入れるものと同じ。
外径9cm×7cmの箱の蓋を取ると、蓋側には
冒頭写真のカードが貼り付けてあります。

木箱の内寸にきっちり合わせて縮尺したらしく、
字が明確に写っていませんが、元々ですので念のため。

ここに

「支鋼の由来」

として、説明があります。

志鋼とは、初めて艦を海に浮かべる儀式(進水式)
において直前まで大地に支えておく鋼のことです。

艦の進水式は、人の誕生に等しく、
母なる大地を巣立ち大海にその雄志を現したときから
艦の一生が始まります。

志鋼は、艦にとり「へその緒」ともいうべきものであり、
無事に進水した艦の支鋼は、誕生にもちなんで、
安産のお守りとされております。

ここに納めている支鋼は、令和元年十一月六日に進水した
潜水艦「とうりゅう」の支鋼の一部です。

 

なるほど、まるでへその緒の入れ物みたい、と思ったはずです。
それは偶然ではなかったということだったんですね。

そしてこれがそのときの支鋼(の一部)というわけです。

蓋を開けてみたときにはもやい結びのレプリカかな、
と軽く考えてしまったのですが、とんでもない、
進水式の時に「とうりゅう」を支えていた支綱、
山村海幕長が切断しその艦体が進水台を転がり落ちる寸前まで
あの巨体を支えていた(厳密には違いますがここは空気読んで)
本物の支鋼の一部です。

一度使用した支鋼が再利用されることはないので、それは
しばしば小さく刻んで安産のお守りにすることがある、
という話は今まで調べたなかで知っていたことでしたが、
まさかその実物を実際に頂けるとは!

支鋼は3センチくらいの大きさにしっかりと結んであり、
現物がそうなのかどうかはわかりませんが、まるで
防水加工がしてあるようなロウ引きの感触です。

結んだ一つ一つを紅白の布を貼った台に付ける作業も
きっと手間のかかったことでしょう。

こういう作業は造船会社がしてくれるものでしょうか。
それとも業者が?
もしかしたら乗員の方々が・・・・・?

潜水艦マークの(線描きのマークは初めてみた気がします)
入った「とうりゅう」艤装員長からの手紙も同封されていました。

これもせっかくですので本文をご紹介します。

謹啓

向春の候、皆様におかれましては益々ご清栄のことと
心よりお慶び申し上げます。

さて、第八一二七号艦は、去る十一月六日
川崎重工業株式会社神戸工場において「とうりゅう(闘龍)」
と命名され、
無事進水致しました。

ぎ装業務開始以来、一方ならぬご厚情を賜り、
誠にありがたく謹んでお礼申し上げます。

今後は、皆様のご期待にお応えすべく、令和二年度末の就役に向け、
最高の潜水艦造りに邁進する所存ですので、今後ともご指導、
ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

末筆ながら、皆様益々のご発展と一層のご活躍をお祈り申し上げます。

謹白

令和二年二月吉日 とうりゅうぎ装員長

「最高の潜水艦造りに邁進する」

という言葉が淡々とした定型の挨拶の中で光って見えます。


「とうりゅう」の乗員の方々のアイデアによるものでしょうか。
進水式という艦の誕生の瞬間を幸運にも目の当たりにした者にとって、
この贈り物が
いかに感動的なものであったか。

それを読者の皆様にお伝えしたく、ご紹介させていただいた次第です。

「とうりゅう」乗員の皆様、どうもありがとうございました。
「最高の潜水艦造り」に向けて、頑張ってください。

 

 

 


海に還った「スレーター」艤装艦長〜USS「スレーター」

2020-02-06 | 軍艦

第二次世界大戦中の護衛駆逐艦「スレーター」艦上見学ツァー、
甲板階(メインデッキ)から一階上に上がり、
「スーパーストラクチャー・デッキ」(上部構造物階)にやってきました。

ここを「01レベル」ともいいますが、この艦首寄りには、
ラジオシャックと呼ばれる無線室があり、シップズ・オフィス(事務室)
そこに隣接してキャプテンズ・ステートルーム、艦長室があります。

まずはオフィスをご覧いただきましょう。
ここは「ヨーマン(Yeoman)」と呼ばれる書記下士官と、
「パーソナルマン」ら事務職員たちが仕事を行うスペースです。

パーソナルマン(PN)は、人事スペシャリストであり、入隊した人員に、
海軍の職業、一般教育と職業訓練の機会、昇進の要件、権利と
福利厚生に関する情報とカウンセリングを提供しました。

また、入隊者とその家族が特別な問題や個人的な困難を抱えていたら、
それを解決する手助けを行うのが任務です。

もう一人の事務職員である「ヨーマン」ですが、
米国海軍と米国沿岸警備隊では、陸上・海上に勤務し、
管理および事務作業を行う係です。

彼らはプロトコル、海軍からの指示、勤務評価、士官の健康レポート
(コメントに訂正あり)上層部からのメッセージ、訪問者、
電話と郵便(通常と電子の両方)を扱います。


ファイルを整理し、オフィス機器を操作し、オフィス用品を注文して配布し、
ビジネスレターやソーシャルレター、通知、指示、書類、レポートを書きます。

具体的に言うと、給与記録、訓練記録、未払休暇手当など。
つまり乗組員のすべての人事記録がここで処理されました。

 

ところでヨーマンは、すべての艦乗りが友人になりたいと望む人気者です。
なぜなら、「リバティ・パス」を発行するのは彼だからです。

リバティ・パスってなんですか?
というと、それはあなた、あれですよ上陸許可。

リバティ・パスは、つまり就業しなくていい許可のことです。
パスの種類は二種類あって、まずそのひとつがレギュラーパス

通常の勤務時間後に発動し、翌勤務日の勤務時間の開始時に停止します。

土曜日と日曜日はこれに含まれないので、週末と合わせると
最大4日間まで連休を取ることができます。
(ただし4日をこえてはいけない)

4日の休みをとったときたとえばそれが土日月火だった場合、
月曜日は有給休暇であるとみなされるそうです。

もう一つのパスがスペシャル・パスです。

上司は、有給休暇、再入隊、特別な承認などの理由があれば
このスペシャル・パスを付与します。
このパスの最長期間は3日間または4日間です。

「liberty pass」の画像検索結果

こちら、USS「シアトル」のリバティパス。
最後に

「このカードをなくしたら懲戒対象です」

と怖いことが書いてありますね。

「liberty pass」の画像検索結果

こちらUSS「ノースキャロライナ」

「許可された上陸以外に使ったり、記名されている者以外の使用は犯罪です」

ですって。

「liberty pass」の画像検索結果

なんと不思議な、艦名(USS『カリフォルニア』)が手書きになってる。
このリバティパス、どうも好事家のコレクション対象になっているらしく、
オークションなどでしょっちゅう取引がおこなわれているようです。

「タイコンデロガ」とか「ミズーリ」などのビッグネームだと
同じカードでも値打ちが高くなるとか、そう言う世界かもしれません。

 

ところで乗員がヨーマンからいただいたパスで機嫌よく上陸しているときも、

「リコール(帰隊命令)」「ユニットアラート」「ユニットイマージェンシー」

などの運用上のミッション要件が発生した場合、直ちに帰隊せねばなりません。

これは自衛隊でも全く同じ条件だと思います。
自衛官は許可なく海外旅行をすることはできませんし、
たとえば横須賀勤務だと、いざと言う事態が予想されるときには
東京にすら行かないと決めていた自衛官の話を聞いたことがあります。

そして、これも自衛官の皆様なら常識ですね。

「公務を不在することを許可されているときにも
常に身分証明書を所持している必要があります」

「トッカグン」の「自衛隊の彼女あるある」でいってましたが(笑)
自衛官の彼氏は身分証明書をいつも確認しているんだそうですね。
なくしたりしたら大変なので、パスケースをいつも肌身離さず
鎖などで繋いで持っていたりするんだとか。

 

さて、「スレーター」のオフィスに話を戻しましょう。

艦艇の航路、速度、位置、その他諸々のデータを記録して
それを最終的に決定版として仕上げた「スムーズ・ログ」がここで入力され、
司令官の通信も処理されました。

もうひとつついでに、この「ログ」についても説明しておきます。

まず一般的に航海日誌のことを「ログブック(logbook)」といいますが、
それとは別に「船のログ(ship's log)」には艦艇の運行データの記録として、
天候とか、日常業務の内容、突発的な出来事の記録、乗務員の交代、
寄港した場合などの日時が記されます。
これらは毎日一回以上記入されることになっています。

これらは万一、船の無線通信、レーダー、今日ならGPSが故障しても
航海が続けるために必要な情報となる他、海難事故などの審判があると、
詳細な記録の全てが重要な証拠として提出されることになります。

海軍艦艇も民間船と同様に、まず、航行などに関わるデータを
「ラフ・ログ(rough log)」「スクラップ・ログ(scrap log)」
と呼ばれる下書きに記録し、それを「スムースログ」に書き写して
決定版を作ることになっています。

「スムース・ログ=オフィシャル・ログ」
となる最終版なので、その記述を消去するなどということは許されません。
万が一、変更や修正が加えられる場合には、権限のある者、
たとえば「スレーター」なら艦長が自分の名前の頭文字を入れて
訂正部分や消去した部分がわかるようにして残すのが規則となっています。

もしかしてこのオフィスが艦長室の隣にあるのは、このためかもしれませんね。

ちなみに艦のオフィスはこんな感じで仕事が行われていました。
みなさんいかにも文系武官らしい雰囲気です。

 

また艦内にはサプライ、つまり補給部門事務所が別の場所にありました。
(『スレーター』では展示されていない)
ここでは、補給処が艦上で重要な物流と供給サポートを処理したり、
弾薬やスペアパーツから食料や衣服まで、補給のすべてを管理していました。

 

信号旗、何かわからないけど何かに空気を入れるための器具、
製図道具など、じつにいろんなものがここにありました。

ここは通信室と呼ばれるコーナーだと思います。

これはピッツバーグの「レクィン」の展示をみに行ったときに
展示してあった、信号銃です。
「スモークオンザウォーター」の元になったあれですね。

下にイコンがありますが、ロシア正教の乗員がいたんでしょうか。

 

 

さて、事務室のとなりにあってひとまわり大きな部屋。
もちろんここがキャプテンズ・ステートルーム(艦長室)です。

艦長室はもちろんのこと、全キャビン(乗員居室)中最大の広さです。
自分だけが使えるバスルームと独立した「ヘッド」(トイレ)、
シンクもシャワーもすべて艦長専用です。

その特権は「ウルトララグジュアリー」の貴族階級にも等しいものでした。
とにかく「ヘッド」を独り占め(ベッドじゃないよ。トイレだよ)
というのが羨ましがられる点です。

トイレとバスは残念ながら見学者には見えませんが、
艦長室より艦首寄りに、独立した個室として設置されています。

艦長居室は執務室としても機能しますから、立派なデスクも完備。
デスクには必ずといっていいほど家族の写真が飾ってあります。
キャビネットも制服を収納する大型の洋服ロッカーももちろんあります。

戦時中「スレーター」は6隻からなる護衛隊の旗艦を務めたことがあります。
その際、この個室は艦隊司令によって使われることになりました。

そうなると艦長は選択の余地なく、士官たちを彼らのキャビンから追い払って
自分一人でそこを占有しました。(艦長と他の士官との同居はあり得ないのです)

もちろん追い出された士官たちは再編成され、
あちこちに分散して寝ることになりました。

 

「コマンディングオフィサー」(CO、司令)は通常「キャプテン」と呼ばれますが、
大抵の場合ランクで言うところのキャプテン=大佐ではなく、
少佐(Reserve Liutenant Commander)または大尉(senior Liutenant )でした。

第二次世界大戦中を通して「スレイター」の艦長を務めたのは
ニューオリンズ出身のマーセル・ブランク少佐でした。

Marcel Blancqという名前はフランス語圏がルーツでしょうか。

紹介のページには

「彼はプランク・オーナー(The PLankOwner)であり
1945年秋、『スレイター』が日本勤務になるまで指揮をとった」

とありますが、この「プランクの所有者」の意味は、
アメリカ海軍で艦艇乗務経験があるか、沿岸警備隊で
カッターに乗っていた者に対する尊称のようなものです。

もともとは艦の艤装に関わった乗員だけに適用されましたが、
最近では範囲が広くなり、艦艇に限らず、新しく発足した部隊、
あるいは新しく創設された軍事基地の最初のメンバーを指したりします。

つまり、ブランク艦長はプランク艦長(シャレ?)、
つまり「スレーター」艤装艦長でもあったということを意味します。

 

上の艦長室の写真でベッドの上を見ていただくと、
そこにはブランク艦長に敬意を表して、彼の写真が飾ってあるのが確認できます。

デスクの上の写真はブランク艦長の妻と娘のものです。

戦争が終わった後、ブランク艦長は海軍から
マーチャント・マリーンアメリカ合衆国商船組合
民間商船にキャリアを移し、海の上の任務を再開しました。

マーチャントマリーンに所属する限り、戦時下においても、
彼らは
米国海軍の補助機関となり、
軍隊に兵員や資材を届けることを
義務としています。

また、商船海兵隊将校は、国防総省から軍の将校に任命されることもあります。
ブランク艦長はこの逆コースを行ったわけですね。

 

マーセル・ブランクが亡くなったのは2002年のことです。

家族はブランク艦長の遺灰を「スレーター」の甲板から散骨し、
生涯「海の男」だった彼を海に還してその魂を悼みました。

 

続く。

 


「フォックス」を監視し続けるラジオ・シャック(無線室)〜USS「スレーター」

2020-02-04 | 軍艦

USS「スレーター」の見学が続いています。

いわゆる甲板階から一階下の「ファースト・プラットフォーム」にある
CPOと下士官の居住区兼食堂であるワードルーム、クルーメスを見学し、
もう一度甲板階=メインデッキに上がってきました。

最初に見かけた時にも何かわからなかったこの物体ですが、
クォーターデッキの後方に位置しており、先端から線につながっていること、
「ハイボルテージ」と書かれていることから、電源を後方の装置に
供給するためのコンデンサではないかと想像します。

「クォーターデッキ」は、帆船時代はメインマストの後ろのデッキのことで、
ここで船長が指揮を執り、船旗が揚げられていた場所です。

日本語では普通に「後甲板」と呼んでいますが、これを英語で調べたところ、
なぜか我が海上自衛隊の、いまは亡き「かとり」の写真が出てきました。

わたしはこの部分をいままで「舷門」だと思ってきたのですが、
英語Wikiの説明によると、

Quarterdeck of a Japanese warship.
Note the watchstanders in dress uniforms, the wooden plaque,
and the proximity to the accommodation ladder.

日本の軍艦のクォーターデッキ。
特筆すべきはドレスユニフォームを着用した見張りが立っていること、
木製のプラーク(艦名が書かれた看板)があること、そして
通常のラッタルが近くにあることである。

ちなみに、どういうわけか「Quarterdeck」のWiki日本語はありません。
せっかくですのでこの部分の日本語訳を載せておくと、

今日、 クォーターデッキとは特定のデッキではなく、儀式エリアとなっていて、
艦が港にある時にはレセプションエリアとして使用されます。
帆船の時代からの伝統で、そこでは艦長が特別な権限と特権を持ちます。

港では、クォーターデッキが艦船の最も重要な場所となり、
その主要な活動すべての中心的な制御ポイントですが、航海中は
ブリッジが艦のコントロールを行うため、ここでの重要性は減少します。

クォーターデッキでは清潔さと外観に特別な注意が払われています。
ここに立つ者は、 「ユニフォーム・オブ・ザ・デイ」といって、その日
上級士官によって決定され、指示された制服を着用しますが、彼らは
特に清潔さとスマートな外見を呈している必要があるとされます。

「その日の制服」を着ていない乗員は、任務上必要でない限り、
クォーターデッキを横断することを避けるのが決まりです。
また、このエリアに制服を着た人員が入ると敬礼しなければなりません。

司令官によって特別に許可され流ようなことがない限り、クォーターデッキでの
喫煙およびレクリエーション活動は禁止されています。 

ところで、岸壁に係留されている自衛艦でのレセプションに参加した方は
ご存知だと思いますが、デッキには二箇所ラッタルが掛けられますよね。

このラッタルも名前がついていて、岸壁から見て右側を「starboard」
左側を「port」とアメリカ海軍では呼んでいるようです。

また、ラッタルのような船の乗り降りに使う通路の名称は
「ギャングウェイ(gangway)」なので、左なら「ポートギャングウェイ」と呼びます。

そして右側、スターボードギャングウェイは、通常、
士官とその訪問者専用、左の
ポートギャングウェイは他の全員、
と使用できるラッタルは階級で決まっているのですが、

悪天候の場合は階級に関わりなく全員が風下にある方を使用します。

小さくてギャングウェイが一つしかない場合はこの限りではありません。

その下にあるのが時鐘。
風で鳴らないようにベルを固定してあります。

15世期から船の上では鐘によって時間を知らせる方法を取っていました。
30分おきにひとつづつ鐘の音が増えていく方法です。
たとえば時間区画でいう「モーニング」は0430の1点から始まります。
その後、

2点鐘 0500 

3点鐘 0530

4点鐘 0600

5点鐘 0630

6点鐘 0700

7点鐘 0730

8点鐘 0800

8点鐘が鳴らされる4時間を一塊りとして「モーニング」。
その次は「フォアヌーン」としてまた1点から始まるという具合です。
ワッチを行っている乗員は、8回鳴らしたら仕事は終わりです。

ただし、「ドッグワッチ」と呼ばれる1600から2000までの間は、

「ファーストドッグワッチ」4PM-6PM

「セカンドドッグワッチ」6PM-8PM

と分けられて、この時間にワッチ勤務に当たった人も、
夕ご飯を食べ損なうようなことがないようになっています。

このワッチのシステムがアメリカで法制化されたのは1915年のことです。

それ以降、100総トン以上のすべての米国商船は、法律により、

「乗組員を3つのグループにに分割し、4時間オンと8時間オフで任務につくこと、
そしてドッグワッチを『ワッチ一回分』と数えること」

と決められたのです。

またドッグワッチについては、この時間が1日のうち一番、
人が疲労のため気が緩む「魔の時間帯」で事故が起こりやすいので、

全員の気を引き締めるために変則にしているという話もあります。

我々はそのクォーターデッキ付近を歩いています。
後ろに見えているのは#3の 3″/50口径砲

ちなみにこの砲はまだ生きていて、砲撃が可能です。
展示されているハドソン川河岸で今火を吹く50口径。

軍艦の上にも潤いを。

ここでわたしたちは階段を上がってスーパーストラクチャーと呼ばれる
構造物の2階に案内されました。

メインデッキの一階上にあたるスーパーストラクチャーに設置された
ボートダビッドです。

ホエールボートと呼ばれる作業艇を収納しておくところですが、
この時ボートは仕事を終えたばかりで岸壁にいました。

駆逐艦におけるホエールボートの役割というのはパイロットの救助です。
また、艦同士の連絡や、外側のペンキ塗りにも活躍しました。

もちろん艦が沈む時にはライフボートになります。
スペック上22名が最大積載人員数ですが、それは最悪の場合に限られます。

ボートダビッドの説明を聞くツァーの人々。

HPより。ここにボートが吊られている時の状態。
ご覧のようにたくさんの索を必要とします。

ここに見える索の全てはホエールボートを繋ぐために必要です。
もやい結びかどうかわかりませんが、結び目が無数にありますね。

さりげなく砲弾がありましたが、この形からみて
これは砲弾のラックであった可能性高し。

スーパーストラクチャーの上は、いろんなものがひしめいています。
ダズルカモフラージュの二色に塗り分けられたスタック(煙突)は右。
左は20ミリ二連装マシンガンのシールド(銃座)です。

実はこの手前に、本当は野菜の倉庫があったらしいのですが、
改装後の「スレーター」にはありません。

スーパーストラクチャーデッキの前方にあるのは
レイディオルーム
無線室です。
入ってすぐのところには安全のしおりが貼ってありました。

一般にラジオルームまたはラジオシャックと呼ばれる
メインラジオセントラルは、
無線送信機と受信機を備え、
艦の長距離および短距離の電子通信を行っていた部署です。

通常、3人の乗員(オペレーター2、指揮官)が配置されていました。
一般的に、軍艦は無線沈黙下で運用され、必要な敵情報のみを送信します。

今は知りませんが、海軍本部が全艦隊に向けて送ってくるメッセージを、
「ザ・フォックス・スケジュール」と称していました。
(アメリカのフォックスニュースがこの意味と関係あるのかどうかは知りません)

この、ほとんど絶え間なく流れてくるメッセージを一言も聞き漏らすことなく
捉え続けることを“Guarding the Fox”(フォックス監視)といい、
それは決して終わることのないプロセスでした。

艦船は一般的に電波のない静寂の下で運航されていたため、
メッセージをすべて受信したかどうかの確認は全く期待できませんでした。
しかし、少なくともそれを聞き逃すということは
艦は主要な行動に参加できなくなる可能性があるのですから、
フォックス監視は艦の命運をも握る重要な任務だったのです。

第二次世界大戦中、無線オペレーターはタイプライター、または
「ミル」(mill)に座って、暗号化されたモールス信号で
受信機に届いたメッセージをタイプアウトしていました。

艦宛てのメッセージは通信担当者に引き渡され、通信担当者は
「暗号化」マシンのコードルームで解読し、艦長に渡しました。

それがこれです。

 

昔はもちろんこのようなクリップなどはありませんでしたが。

 

続く。