戦艦「マサチューセッツ」の艦内で、西澤広義海軍中尉のイラストに遭遇し、
おおお!と思わず嬉しくなってしまった日本人のわたしです。
展示に当たってはアメリカ人のブラマンさんという人が
サインペンかなんかで描いたらしく、サインがしてありました。
「マサチューセッツ」艦内の展示区画には、「敵国軍コーナー」もあり、
このようにドイツ海軍将校のマネキンがひときわ人目を引いていたりします。
この軍服は少尉のもので、海軍独特のダブルブレスト、(今でもそうらしい)
右のボタンの上から二番目に斜めにあしらわれた赤と白のリボンがおしゃれ。
世界で最もそのデザインを高く評価されていると言われるナチスドイツの制服、
陸空だけでなく海軍もさすがのスマートさです。
ドイツの洋服製造業者フーゴ・ボスがナチスドイツのためにデザインした
突撃隊、親衛隊、ヒトラー・ユーゲントの制服は当時のドイツの青少年や
女子などの憧れを誘い、それは未だに「最も成功した軍服」の地位を縦にしており、
フーゴの会社は現在も紳士服のブランドとして名高い「ヒューゴ・ボス」として
ファッション界で評価を得ています。
アメリカでは日本より少し安価で流通していて、わたしもアウトレットで
薄い夏用の皮のワンピースを買ったことがあります。
フーゴ・ボスが海軍の軍服まで手がけたかという話は
どこにも言及されていずわかりませんでした。
さらに彼の周りには艦の模型もあったのですが、急いでいたので省略。
日本軍コーナーで詳細な説明をされていたのが、海軍の零式戦闘機。
感心なことに、「zero」ではなく、ちゃんと
MITSUBISHI A6M REISEN
と表示されています。
この下にある説明には
「A6Mがアジアに出現したのは1941年のことであり、
これはイギリス、中国軍にとっては全く嬉しくない驚きとなった」
続いて
「同じ驚きがパールハーバー以降のアメリカ軍を待っていた」
零戦の初陣は1940年の9月、重慶ですから、しょっぱなから
年号が間違っていてることになります。
それと、実際に戦っていないとはいえ、中国大陸での零戦のデビュー、
少なくともフライングタイガー界隈は知ってたと思うんですけどね。
残りも訳しておくと、
「A6Mは駆動性にずば抜けて優れ、火力も強く、スピードのある戦闘機で、
経験豊かなパイロットたちが操縦し満州上空での優位を誇った。
これほど衝撃的な航空機は戦争中に零戦をおいて現れることはなかった。
1600kmの航続距離を誇り、その最盛期には太平洋においてほぼ無敵であった。
この図の零戦は210航空隊所属のA6M5であり、戦争最後の年に製作されたものである。
このころの日本はA7M「烈風」の製作に腐心していた(desperately clear ) が、
同時に多くのA6Mがカミカゼ特攻攻撃によって、敵艦船のデッキや
その周りの海でその生命を終わらせていった。
A6Mの総生産数はその派生型も含め11,291機であり、
そのうち6,897機が中島製である」
並んで「隼」。
「NAKAJIMA Ki-43 HAYABUSA
1930年代、日本空軍の主力飛行機はNakajima Ki-27、
ランディングギア固定式の飛行機だった」
あのー、日本に空軍ってなかったんですけど・・・。
うちの軍事音痴のTOという人は、少なくとも5年前は
旧日本軍に空軍がなかったことを知りませんでしたがね。
「この後継型として1939年に中島が世に出したのが
Ki-43であり、その敏捷性を引き継ぎながら速度は大幅に増した。
7.7mmと12.7mmの2種類の機関銃の搭載が検討され、
結局後者が選ばれている。
隼という愛称で呼ばれたこの戦闘機は、デビュー当初
熟練された搭乗員たちによって操縦され、シンガポールにおいては
RAFのブリュースター・バッファローを一掃した」
バッファローというのはアメリカ軍では何かと評判が悪く、
日本側に熟練の搭乗員は殆ど残っていなかったとされるミッドウェーでも
19機のうち13機が零戦に撃墜されてしまっています。
「Ki-43は東インド洋でも勝利を続けたが、シェンノートの
フライングタイガース出現後は敗色が濃くなり、
その後次々と現れてくる敵の新型航空機の前に陳腐化していった。
この隼はKi-43-IIIで、1945年、満州の第48戦隊の所属である。
5,919機が生産され、そのうち2,631機が立川で製造された」
零戦を配したジオラマがありました。
アーサー・ドルモンドさんというモデラーの作品で、題して
"SAIPAN SURPRISE"
サイパンにアメリカ軍が上陸して1ヶ月後、日本軍は玉砕しました。
おそらくその後、島に不時着していた零戦を発見した米軍の部隊が
驚いてその操縦席を覗き込んだりしているシーンを再現したのでしょう。
飛行機の傍らには燃料の入っていたドラム缶が転がり、
日の丸の旗が地面に打ち捨てられています。
このコーナーには日本機の模型も幾つか展示してありました。
Kyusyu J7W1 "SHINDEN"。
局地戦闘機「震電」・・・・んんん?どれが?
wiki
もしかしたら「震電」はこの右側にあったのか?
その右側。全然違くない?
ちなみに現存する唯一の「震電」の機体はスミソニアンにあるそうです。
Nakajima A6M2 "Rufe"(左)
”ルーフェ”ってなんだよ。
連合国のコードネームをちゃっかり名前にしてんじゃねー。
と一人静かに突っ込んでしまった二式水上戦闘機。
Aichi M6A1 "Seiran"(右)
伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、
浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、攻撃に使用されるために
計画された 水上機「晴嵐」。
伊四百が見つかったときのアメリカ人の興奮は大変なものだったと言いますが、
その潜水艦に折りたたみ式の戦闘機を載せてしまうなんてクレージー。
ということでこちらもアメリカ人的には大受けした「晴嵐」。
どちらもとんでもない変態兵器であることには変わりありません。
万が一日本がお金持ってたら戦争勝てたんじゃないかとこういうのを見ると思います。
いや、そもそも日本にお金があったら戦争起こしてないか。
奥のジオラマのタイトルは
"Totaled Zero"(完全なゼロ)
戦地にそのままの形で残されていた零戦を再現。
ここにアメリカ人パイロットの写真が一枚ありました。
ALFRED・B・CENEDELLA Jr.(セネデラ?)中尉
この戦艦「マサチューセッツ」に乗り組んでいた予備士官で、
本艦から発進する「キングフィッシャー」(ヴォート)のパイロットでした。
戦後は「マサチューセッツ」をフォールリバーに展示するために
大変な尽力をしたということで感状を受けたそうです。
この名前で検索すると、彼の息子と思しき「三世」が、
この夏(2016年)マサチューセッツで亡くなったという告知が出てきます。
B-29スーパーフォートレスの模型もありますね。(投げやり)
「震電」の正しい写真がこの後ろにあったりするんですが(笑)
旧日本軍機の写真がこのように展示されているケースに、
「〜の飛行士●戦死者の霊に捧げ」
という部分が見えた襷状のものがありました。
日本人が書いたのは間違いないですが、なぜ逆さまに置いてある。
この、軍艦旗の模様も怪しい海軍搭乗員に捧げているつもりで
向こうを向けてあるのかと善意に解釈してみたのですが。
それにしてもこれ、誰?怖いんですけど。
さて、それでは最後に、「ニシザワ・エキジビット」とされている
西澤広義中尉の説明を訳しておきます。
ヒロヨシ・ニシザワ
海軍中尉
1920年1月27日〜1944年10月26日
長野県の山間の村に、造り酒屋の5人の息子の末っ子として生まれた。
小学校卒業後は織物工場で働いていたが、1939年、海軍航空訓練生に応募し、
71人の卒業生の16番で卒業した。
卒業後は大分、大村航空隊、ついで千歳航空隊に入隊した。
彼の最初の敵機撃墜は1942年3月、ラバウルにおいてであり、
乗機は三菱A6M4タイプ96式戦闘機(コードネームはクロード) だった。
42年の2月から彼は第4航空隊に所属しており、米空軍第7戦闘機隊の
P-40を共同撃墜している。
4月1日、第4航空隊は台南航空隊と合併する。
台南航空隊はラエから発進しポートモレスビー攻撃を行った。
西澤の最初の勝利はポートモレスビーにおけるPー39撃墜であり、
これは1942年の5月のことである。
1942年8月7日のアメリカ軍のソロモン諸島進出を受けて、
西澤はガダルカナル攻撃に従事し、同日の間に
4機のワイルドキャットを撃墜したと報告している。
(連合国側の記録ではこの日喪失した機体は12機である)
10月の終わりまでに彼の空中戦における撃墜記録は30機となった。
台南航空隊はラバウルでの戦闘によって搭乗員がほとんど失われ、
解散して帰国後251空に改編されたが、彼はその生存者の一人であった。
1943年6月には、帝国海軍は撃墜数を個人記録ではなく、
隊全体の記録として申告するようにという布告を出したため、
西澤の記録は公的には正確なものが残っていない。
家族に出した手紙には、彼は147機を撃墜したと書いており、
のちに彼が死亡したとき、それを報じる新聞記事では150機となっていた。
彼は最後の直属の上司には撃墜数を86機だと申告しており、
おそらくこれが確実な撃墜数に近い数字であろうと現在考えられている。
彼は大分の航空隊での教官となったが、この仕事を嫌悪しており、
最後には忍耐の限界にきていたようである。
1944年10月24日、アメリカ軍のフィリピン上陸を機に
彼は戦地に戻ることを決意し、特攻隊を志願した。
しかし、彼の技量を高く評価していた上層部はそれを拒否し、
その代わりに最初の神風特攻隊の援護を任命した。
1944年10月25日、関行男大尉を隊長とする5機の特攻隊を
突入する敵艦隊のいるレイテ湾まで援護する任務である。
5機の特攻機は4隻の護衛空母に突入し、そのうちの1隻、
セイント・ロー CVE-63を沈没せしめ、ホワイトプレインズ、
カリーニンベイ、キトカンベイにいずれも大打撃を与えた。
西澤の援護隊はさらに2機のF6Fヘルキャットを撃墜し、1機を失っている。
翌日、西澤は他の搭乗員とともにセブに向かうため爆撃機に乗った。
彼らはルソン島のマバラカットで飛行機を受け取ることになっていた。
西澤が乗った爆撃機は、ミンドロ島上空で爆撃機は待ち伏せしていた
第14航空隊の2機のヘルキャットの攻撃を受け、
ハロルド・P・ニューウェル中尉の操縦するヘルキャットに撃墜された。
その魅力的な人生において、彼は自分が絶対に空戦で
撃墜されることはないと信じていたし、その通りになった。
自分が操縦者ではなく乗客として飛行機に乗るという、
彼にとって滅多にない機会に敵に襲われることになったため、
いかに天才の彼も自分を救うことはできなかったのである。
第二次世界大戦では、日本軍は個人の戦闘機搭乗員の
戦功を広く告知するということをしなかった。
いかに英雄的な行為も単に任務の一部であり、
それ以上でもそれ以下でもないと考えられていたようである。
しかし戦争も末期になって本土攻撃が激しさを増すと、このポリシーは変化して、
搭乗員の功績を広報するようになってきた。
西澤の功績は1943年の時点で全軍布告され、草鹿任一海軍大将より
軍刀を授与され、中尉に昇進している。
明らかな間違いには線を引いておきました。
西澤が中尉に昇進したのは、戦死して2階級特進になったからです。
この大きなイラストと丁寧な説明にも見られるように、西澤広義は
日米両軍を通じたトップエースとしてアメリカで認識されていました。
「マサチューセッツ」シリーズ、次回いよいよ最終回です。