ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ペンタゴン・ペーパーズ〜ハインツ歴史館 ベトナム戦争展

2021-06-30 | 歴史

ハインツ歴史センターで行われていた「ベトナム戦争展」から、
展示品を紹介しています。

■ POW/MIA ブレスレット

捕虜の家族と市民有志は捕虜の釈放のための活動に何年も費やしました。
あるグループはこういったブレスレットを製作し、捕虜にされた、または
行方不明になっている男性の名前を刻印して身につけました。

 

■ ジェンキンス曹長

第5海兵隊の第1大隊、D中隊所属だったチャック・ジェンキンス曹長は、
1967年から68年までベトナムで従軍し、その間戦闘で負傷しました。

上から右回りに:

●ピッツバーグの家族に負傷して入院しているベトナムの病院から送った手紙
国際郵便用の封筒で料金は当然無料

●海兵隊の軍服襟の徽章

●ジェンキンス曹長のジッポーライター
ライターには名前と階級、所属の裏側にこのように刻印されている

”When I Die Bury Me Face Down So The Whol(ママ) World Can Kiss My Ass."

「俺が死んだらうつ伏せに埋めて皆でケツにキスしやがれ」

● Marine Corps Good Conduct Medal(いわゆる善行章)

無頼すぎる言葉とそのイメージを裏切る?善行章。
彼がどんな曹長だったか、なんとなく窺える気がしないでもありません。

■ 議員への陳情用クーポン

「これらのクーポンを使えば、”モロトフ・カクテル”が一層強力になります」

「モロトフ・カクテル(Molotov Cocktail)」とは火炎瓶のことです。
フィンランドとソ連が戦った「冬戦争」で、物資不足のフィンランド軍が
対戦車用にビンにガソリンなどを入れた原始的な武器にこの名をつけたのが始まりです。

当時のソ連の外務大臣、ヴァチェスラフ・モロトフが、フィンランドに対する空爆について

「資本家階級に搾取されているフィンランド労働者への援助としてパンを投下した」

と発言したのに対する、フィンランド側の「意趣返し」的ネーミングです。

それはともかく、クーポンはそれぞれをハサミで切り取って使うようになっており、
上院議員や地方の代表者(市長や知事など)の宛名が「導火線」になっています。

クーポンを切り抜いて実際に使用された例です。

「戦争を終わらせるため、わたしは$5、$10、$15、その他を同封します。
名前:(ニューヨークタイムズ内、考える婦人のグループ)
住所:

寄付は22ドルとなっており、「レシート送ってください」と書いてあります。

こちらはダイレクトに活動資金を募るクーポン。

ところが、この赤字で書いたコメントをよこした人は、

「戦争を終わらせるために、私は」

の後を横線で消して、その代わりにこう書いています。

「あなたにお金は送りません。
てか、ニクソン大統領にお金を送ってください。
彼はとても信頼できる仕事をしているのですから💢」


戦後のアメリカという国がどんな時代も決して一枚岩ではなく、
主流とされる声が必ずしも大多数ではなかった、つまりニクソンのいう、

「サイレント・マジョリティー」

の存在を表しています。

 

■ ペンタゴン・ペーパーズ

1971年6月、ニューヨークタイムズ紙は、

「ペンタゴン・ペーパーズ」

の一節で読者を驚かせました。
そして他の新聞もそれに追随しました。

このレポートは、ジョンソン大統領の国防長官だった
ロバート・マクナマラのために数年前に作成されたものでした。

ペンタゴン・ペーパーズ、正式名称「国防長官室ベトナムタスクフォース報告書」は、
1945年から67年までのアメリカのベトナムへの政治的・軍事的関与に関する資料で、
これによってジョンソン政権が、

「国民だけでなく議会にも組織的に嘘をついていた」

ことが証明されることになりました。

最初に告発したのは研究者だったダニエル・エルズバーグ(写真左)という人物で、
彼は当初
ニクソン政権から共謀罪、スパイ罪、政府財産の窃盗罪で起訴されましたが、
その後ホワイトハウスが彼の信用を落とすため、彼の精神科医に工作したり、
配管工を抱き込んで盗聴器を仕掛けようとするなどの工作命じていたことがわかり、

結局、起訴は取り下げられることになりました。

ちなみにこれらの工作には、のちにウォーターゲート事件で複合施設にある
民主党全国大会の本部を盗聴するための手法が含まれていました。

これがニクソン辞任につながったのは歴史の記す通りです。


■ マクナマラ国防長官の「中国封じ込め」

国防長官のロバート・マクナマラは、1967年6月17日に
「ベトナム戦争の百科事典的な歴史」を編纂する研究部門を立ち上げました。

しかし不思議なことに、マクナマラは、この立ち上げについて
ジョンソン大統領にもディーン・ラスク国務長官にも知らせていません。

 36人のアナリスト(半数は現役の軍人、残りは学者と連邦政府の文官)が
この任務に携わりましたが、結果についても極秘に収められました。

研究結果は、3,000ページの歴史的分析と4,000ページの政府文書の原本47巻からなり、
「トップシークレット-センシティブ」(=正式な機密ではなくアクセスを管理すべき)
に分類されていました。

■ ベトナム戦争への介入

そしてその内容です。

ジョンソン大統領は、ベトナム戦争の目的は

「独立した非共産主義の南ベトナムを確保すること」

だと公表していましたが、その根底には

「友人(南ベトナム)を助けるためではなく、中国を封じ込めるため」

であるということが書かれていました。

マクナマラは、中国がナチスドイツやかつての大日本帝国のような、
帝国的野望を抱いており(1917年のドイツのように、30年代後半の日本のように、
そして1947年のソ連のように)世界におけるアメリカの重要性と優位性を低下させ、
より間接的に、より脅威的に、アジアを包括しようとする大国であるという考えでした。

(それから半世紀後の中国の覇権と世界の状況について、マクナマラは
おそらく草葉の陰で『そらみたことか』と言っているかもしれません)

そして、中国を包囲するために、アメリカは「中国を封じ込める長期的な努力」の一環として
「3つの戦線」を確立することを目指していました。

三つの戦線とは、

 1、 日本・韓国戦線。

 2、インド・パキスタン戦線

 3、東南アジア戦線

ベトナム戦争はこの3番目の戦線に相当します。

それでは、ベトナム戦争期間、それに各政権がどう関わったか、
ペンタゴンペーパーではどう包括(という名の糾弾)しているかですが、

● ドワイト・F・アイゼンハワー

1954年に「駆け出し」の南ベトナムを支援し、
共産主義国である北ベトナムを秘密裏に弱体化させることで、
「ジュネーブ協定の最終的な崩壊に直接的な役割を果たした」

●ジョン・F・ケネディ

ベトナムに対する政策を、限定的な「ギャンブル」から
広範な「コミットメント(介入)」へと転換した

● リンドン・ジョンソン

アメリカ政府は南ベトナムを守るためと称して共産主義の北ベトナムに対し
秘密裏に軍事作戦を展開し始めた


ペンタゴン・ペーパーズの

「ケネディの介入(コミットメント)とプログラム」

と題されたセクションでは、

「我々は、南ベトナムが(東南アジアの他の国とは異なり)
基本的には
アメリカの創造物であり、それが介入の理由である」

と今では誰でも知っていることが書かれています。
まあ、なんちゅーか、歴代大統領全員黒じゃね?という結論ですな。

そして、アメリカの果たした「役割」として、

「米国の支援がなければ、ゴ・ディン・ディエムの南部の支配はなく、
ベトミン軍に即座に制圧され、南ベトナムが生き延びることはできなかっただろう」

とあります。

■ゴ・ディン・ディエム大統領暗殺クーデターの黒幕

暗殺されたディエム

また、ペンタゴン文書には、その

ディエムを暗殺した軍事クーデターの陰には
アメリカ政府がいた

こともしっかりと書かれています。

アメリカ政府がクーデターを計画していたベトナムの将軍たちと
「秘密の連絡」を取り合う一方で、ディエム大統領への援助を打ち切り、
クーデターを承認し、実行後は後継政権を全面的に支援していたということは、
後世の我々には今更の「知ってた速報」ですが、それもこれも
ペンタゴンペーパーズによって初めて明らかになったことでした。

ちなみにこのクーデター側と連絡を取っていたのは
CIAのルシアン・コーネインという人物であることがわかっています。

Lucien Conein.JPGLucian Cobein

ペンタゴン・ペーパーズによると、介入前からアメリカ側は
北ベトナム並びにベトコン地域に対しての空爆と、それが起きたときの
北側共産勢力の軍事的反発をシミュレーションしていました。

そして、米海軍の哨戒艇を北ベトナムの海岸に接近させるなど、
「挑発」の方法についても検討していたと書かれています。

 

■ エルズバーグの『動機』

ダニエル・エルズバーグは、補佐官として研究に携わっていました。

彼は最初から反戦の立場から研究を公開するつもりでコピーを取り、それを
国家安全保障顧問であるヘンリー・キッシンジャーや上院議員のフルブライト、
ジョージ・マクガバンなどに連絡を取りましたが、彼らのうち誰も
この件に関心を持ちませんでした。

そこで彼はニューヨーク・タイムズ紙にリークしたのです。

「ペンタゴンの研究では、米国の関与が増大した3年間を追跡している」

というタイトルの記事は、「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれるようになりました。

この文書について、エルズワースはのちに

「歴代の大統領による違憲行為、大統領の宣誓違反、
大統領側近以下一人一人の公務への宣誓違反を証明している。
アメリカ人は歴代大統領が彼らをいかにして誤解させたかを知るべきだと思った」

と語り、さらに彼が「不当な戦争」と認識したものを終わらせるために
文書をリークしたと付け加えています。

 

50年後の2011年6月、ペンタゴン・ペーパーズを構成する文書が
米国の秘密開示法によって機密解除され、公開されました。

会見を行うエルズワースの写真の右側にディスプレイされているのは、
オンラインで公開された
ナショナルアーカイブの
「ペンタゴン・ペーパーズ」を全てダウンロードしたもので、

全部でおよそ7000枚になります。

 

 

続く。

 


ジョニーが凱旋するとき〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

2021-06-28 | 歴史

いきなりですが、皆様は

■「ジョニーが凱旋するとき」(When Johnny Comes Marching Home)

という歌を聴いたことがあるでしょうか。

Mitch Miller - When Johnny Comes Marching Home (HD)

うちには父の趣味でこの曲を含む「戦争映画のマーチ」というアルバムがあって、
この曲がかかると父が必ず”When Johnny Comes Marching Home”の部分を

「誰がばっちい子〜」

と『空耳アワー』して娘をからかったのですが、総じて小さい子供というのは
親のそういうからかいを嫌うもので、わたしもこの曲が鳴ると
必ずはじまる「それ」が嫌で仕方がなかった記憶があります。

それはともかく、その時父が所有していたアルバムに、この曲が
どの映画のテーマとして入っていたのかはわからないままです。

 

「ジョニーが凱旋するとき」は南北戦争が行われていた1863年、
北軍のバンド指揮者であったパトリック・ギルモアが、北軍で歌われていた酒宴の歌
(Johnny Fill Up the Bowl)のメロディに歌詞をつけてバンド用に編曲したものです。

この歌で歌われている「ジョニー」は正確には
「ジョニー・レブ(Johnny Reb)といい、
南軍の一般兵士を擬人化し象徴的にした名前です。

「ジョニー・レブ」とその相棒「ビリー・ヤンク」(Billy Yank)
の二人の名前は南北戦争以降、一般兵士を意味する言葉として盛んに媒体に登場しました。

南北戦争というのも不思議な?戦争で、同じアメリカ人同士の戦いであるゆえに、
たとえばピケットラインの反対側同士、互いに挨拶する習慣などもあったらしいのですが、
北軍の兵士はその際、南軍兵士に向かって

 「ハロー、ジョニー」

「ハウディ、レブ」

と呼びかけることが多かったのがこの起源と言われています。

一般的な南軍兵士

これが一般的な「ジョニー・レブ」のイメージです。
グレーのウールの制服を着た南軍兵士として描かれることが多く、
丸みを帯びた平らなトップ、綿の裏地、革製のバイザーを備えた
ウールのブロードクロスまたは綿のジーンズクロスで作られた
典型的なケピスタイルの帽子を被っているます。

彼は武器を持っているか、南軍の旗を持っているか、
時には両方を持っているように描かれることも多かったようです。

When Johnny comes marching home again
(ジョニーが凱旋行進するときには)
Hurrah! Hurrah!
(フラー!フラー!)
We'll give him a hearty welcome then
(心からの歓迎で迎えよう)
Hurrah! Hurrah!
The men will cheer and the boys will shout
(男たちは喝采し、少年たちは叫ぶ)
The ladies they will all turn out
(ご婦人方は迎えに出てくるだろう)
And we'll all feel gay
(皆が陽気になる)
When Johnny comes marching home.
(ジョニーが凱旋するときには)

4番まで歌詞は大体同じ調子で、戦地から帰ってきたジョニーを
歓迎し、称えるだろうという内容になっています。

「ジョニーが凱旋するとき」は南北戦争当時非常に人気があり、
北軍のみならず南軍でも歌われていました。

ということを踏まえた上でこのポスターをご覧ください。

戦没者慰問委員会のポスター写真に写っている片足のベテランは、
ニュージャージー州出身で、その名も

「ジョン・ドラコヤニ」John Dlakoyani

つまり「ジョニー」です。
ポスターの文句と歌の違いは、「again」が加えられていること。
この「また」が入ることで、

「別のジョニーが帰ってきた」(こんな姿で)

というニュアンスになるのかと思われます。

Stop the Crippling. Stop the killing. Stop the war.

クリップリングというのは、肢体が不自由になるような怪我のことで、
ジョニーのようになる怪我、要するに戦闘のことを指しています。

「傷つけ合うのを止めろ 殺し合いを止めろ 戦争を止めろ」

そして、その後に

「地元の地方議員に今日すぐに手紙、電報、電話をしてください」

とあります。

■ THE CONGRESS 議会

戦争反対者は、彼らの地元で選出された政治家に戦争を終わらせ、
軍事活動の認可と資金提供に行使する彼らの憲法上の役割を果たすように
圧力をかけ続けました。

1970年、超党派の上院議員グループが戦争を終わらせるための修正案を提出しました。

George McGovern bioguide.jpgマクガヴァン議員

このとき、民主党のジョージ・マクガヴァン上院議員は、法案を広く宣伝するための
テレビの放映権を買うのに家を抵当に入れることをやっています。

この名前を紹介するのはシリーズ2回目になります。
ロバート・ケネディを大統領選で応援していたら暗殺されたので、
自分が代わりに立候補したものの、結局ハンフリーに候補を奪われた人です。

このときに彼らが提出した修正案はどこかにいってしまったのですが、
両院はラオスとカンボジアへのアメリカの爆撃を禁止する法案を
可決することに成功しています。

その後も空爆作戦は継続されました。

そして、1972年11月、ニクソンは再選を果たしました。
ニクソンは、この選挙で新たに選出された反戦派議員を擁す議会が、
戦争への予算を遮断することを恐れました。

この状況は、ニクソンをしてハノイと和平を結び、さらに
南ベトナムのティウ大統領を説得するもう一つの大きな理由を与えました。

冒頭にも挙げたこのポスターは、議会に意見を送るための
テンプレートがベトナムで戦死した兵士と一緒に写っているブラックなもので、
内容を訳しておくと、

TO (あなたの議員の名前)

衆議院御中 ワシントンDC 20515

私は反対します・・・・

□ アメリカ人のさらなる殺戮と殺傷を
□ 民間人への爆撃や焼夷弾投下を
□ 人々を家から強制的に退去させることを

□ 何百万エーカーもの森林破壊を
□ 腐敗した闇市場の支援を
□ 戦争によって引き起こされるアメリカの分裂を
□ 世界のアメリカに対するイメージの失墜を

□ 一家庭あたり何百万ドルもの浪費を

それぞれの理由にチェックを入れましょう!
そしてこの行動によって1971年の12月31日までには戦争を終わらせよう!

戦地で行われている「メモリアル・サービス」(慰霊祭)。
亡くなった兵士のヘルメットを地面に刺した銃剣に乗せています。

■ PARIS PEACE ACCORDS パリ平和協定」

「1973年1月27日に南ベトナム全土で停戦が観測されることになるだろう」

1973年1月、戦争当事者がパリで合意に署名し、米国の戦争への関与を終わらせました。
協定は停戦、米軍の即時撤退、そして南ベトナムが自身で政治決定を許可される、
という合意を成立させました。

写真は北ベトナムのレ・ドク・ト( Lê Ðức Thọ, 黎德壽)と握手する
国家安全保障問題担当大統領補佐官、ヘンリー・キッシンジャー

1973年、ダナンから撤退するために行進するアメリカ兵たち。
彼らの向かう先には「ボン・ボワイヤージュ」、フランス語で「良い旅を」
というバナーが掲げられています。


条約締結後、サイゴンの大使館をまもるために残ったのは海兵隊の小規模の海兵隊分遣隊だけでした。
また、条約によって591名の捕虜になっていたアメリカ人の帰還が可能になりました。

これらの戦争捕虜(POW)の80%はMIA,ミッシングインアクション、すなわち
ベトナム北部で乗っていた航空機が撃墜された空軍の将兵でした。

彼らの帰還には大変な手続きと関係者の尽力が必要で、
何人かは捉えられて8年もの間捕虜生活に甘んじることになりました。

POW、MIAの家族はこのようなブレスレットを身につけていました。
ブレスレットには捕虜になった、あるいは行方不明になった人の名前が刻印されています。



こちらは運良く救出された兵士。
北ベトナムの捕虜収容キャンプで早速タバコに火をつけてもらっています。

飛行機がハノイの地上から離陸した瞬間、機内の元捕虜たちは
思わず大歓声を上げて喜びを表すのでした。

捕虜になっていた海兵隊員の夫たちが帰還することになり、
基地でプラカードを持って到着を待ちわびている妻たち。
見るからに表情に喜びが溢れています。

これらPOW&MIAの救出プロジェクトを、アメリカ軍は

「Operation Homecoming」(お家に帰ろう作戦)

と名付けました。

■ 平和条約締結後の

条約が締結された後、ニクソン大統領は、アメリカ国民に

「合意は名誉を持って平和をもたらした」

と自信たっぷりに語り、南ベトナムのティウ大統領が
和解を指示したことを国民に向かって保証して見せました。

しかし、彼はサイゴン政府と反政府勢力の両方の軍隊が停戦後も
まだ残されていることを説明しませんでした。

そしてそれらはそれぞれが南ベトナム領土を一時的に支配することになります。

ニクソンが正直でなかったことはもう一つあります。

ティウ大統領が認めなかったにもかかわらず、南ベトナムに大量に
大規模の北ベトナム軍が残されていたのを隠したことで、このため
せっかく条約がベトナムの将来的な統治を平和的に行うと決めたあと、
わずか数ヶ月で戦闘は再開されてしまったのでした。

ちなみに余談ですが、一瞬両国が平和合意に漕ぎ着けたことで、
その尽力に対し、
キッシンジャーとレ・ドゥク・トには
1973年度のノーベル平和賞が授与されることになりました。

しかし、レは、

『ベトナムにはまだ平和が訪れたわけではない』(`・ω・´)

と述べて、賞を辞退しました。

まあ、こんな経緯となればそれも当然かと思うわけですが、
昔から選考基準に非常に問題があり、これをもらった人物にろくなものはいない、
とまで言われているノーベル平和賞ですので(小浜、マザーT、スッチーなどなど)
レレレのおじさんの辞退はむしろ彼の株を上げまくったといえませんか。

レはノーベル平和賞を辞退したただ一人の人物であり
ノーベル文学賞を辞退した
ジャン=ポール・サルトルとともに、
自発的にノーベル賞を拒否した史上二人のうちの一人です。

一方キッシンジャー先生は、相方が拒否したにもかかわらず、
(しかも平和条約の後戦争が始まっているのに)

自分だけしれっと賞を受けたということになりますが・・・・。

 

続く。

 


イースター攻勢とラインバッカー作戦のその後〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-26 | 歴史

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」から、
今日は撤退への直接のきっかけとなった出来事をご紹介しましょう。

■ 「行動を起こす時が来たのだ」ニクソン大統領1970年4月30日

ベトナム戦争時に流行った「ピースマーク」を掲げるラオスの砲兵部隊。
正規の軍の旗ではありませんが、まるでそのように扱われています。

ピースマークは、円の中に鳥の足跡を逆さまにしたようなデザインなので、
平和の象徴であるハトの足跡とされることがありますが、それは間違いで、
ベトナム戦争より前の1958年、イギリスのアーティスト、ジェラード・ホルトム
平和団体の核軍縮キャンペーンのためにデザインしたものです。

この隠された意味には、手旗信号をご存知の方ならお気づきになるかもしれません。

Nuclear Disarmament(核軍縮)の頭文字、

「N」(両腕を斜め45°で下ろした形)

「D」(右手を真上に左手を真下にした形)

を表したものを合体させ、これを円で囲んだものなのです。
ってまじか。今知ったよ。

さて、このピースマークがなぜラオスで挙げられているかです。

ニクソン大統領がベトナム近隣諸国に軍隊を派遣するという決定を下したのは、
敵軍を追跡するためでした。

1970年、米軍と連合軍はカンボジアに進駐し、
翌年1971年には米軍と米国の支援を受けたARVNがラオスに侵攻、
両作戦において敵を攻撃し敵の「サンクチュアリ」と補給線を破壊しました。

しかしながら、どちらの作戦も戦争の流れを変えることはできず、
その結果軍と民間人の死者は増えるだけでした。

 

 

■ニクソンの思惑とフリーダムトレイン&ポケットマネー作戦

ところで、ニクソン大統領はそれまでに例の「ベトナム化政策」として、
北ベトナムとの戦いを次第にベトナム共和国軍(ARVIN )に移譲しつつあったのですが、
1971年、ARVINが失敗し、このイースター攻勢でも劣勢となりました。

北の当初の優勢を見ると、ニクソン大統領は空爆の大幅な拡大を命じました。

これは、当時ソビエトのブレジネフ首相との首脳会談を控えていたニクソンが
アメリカの威信を保つ必要があったためと考えられています。

この作戦を支援するために、アメリカ第7空軍は大量の

F-4ファントムII

F-105サンダーチーフ

などの航空機を継続的に導入し、海軍のタスクフォース77は空母4隻態勢に増強。
そして米軍は4月5日、

フリーダム・トレイン作戦(Operation Freedom Train)

として、20度線の北側の航空機による目標攻撃を開始しました。

それまでも、米軍とARVINの航空機は、天候が良好である時に限り、
USS「コーラルシー」「ハンコック」の2隻の空母から飛び立った
艦載機による防戦の支援をおこなっていました。

ただし、天候に左右されがちなので、アメリカ軍は航空戦力の増強を速やかに開始し、
146機のF-4戦闘機、2機のF-105戦闘爆撃機を追加配備しました。

海軍は空母「キティホーク」「コンステレーション」に加え、
USS「ミッドウェイ」「サラトガ 」を艦隊に追加、最終的に
第7巻隊の投入する艦艇は54隻増えて138隻になりました。

「フリーダムトレイン」作戦ではB-52による大規模爆撃が行われ、ニクソン大統領は
ハノイやハイフォンへの直接爆撃を含む大規模な包括的空爆作戦を許可します。

その頃、アメリカとの関係を悪くすることを嫌ったソ連のブレジネフは
北ベトナムにアメリカとの交渉を迫り、キッシンジャーと北ベトナム首相の
パリでの会談が実現しますが、勝利を確信していた北ベトナムの特使は、
交渉に応じようとせず、キッシンジャーを侮辱するような態度をとったりしました(´・ω・`)

怒ったニクソンは、さらに北ベトナムの海岸に地雷を敷くよう指示し、
5月8日、「ポケットマネー作戦」として、米海軍機がハイフォン港に侵入し、
地雷を敷設しました。

(地雷は安価で簡単で、ポケットマネーで敷設できる、という意味でしょうか)

 

1972年3月30日。
北ベトナムはベトナム全土で大規模な軍事作戦を開始しました。
これをイースター攻勢(The Easter Offensive)といいます。

10月まで続いたこの攻撃は、朝鮮戦争の鴨緑江の戦い以後最大の規模であり、
明らかにそれまでの北ベトナムの攻勢とは基本的に異なるもので、
南ベトナム軍の崩壊までには至らぬまでも、パリ講和会議のとき、
北ベトナム側の交渉力を大幅に拡大すること=決定的な勝利を見据えていました。

 

1968年のテト攻勢以来、北ベトナム側の初めての南方侵攻となったこの攻撃は、
双方とも最新の技術を駆使した兵器システムを駆使し、
重砲を背景にした通常の歩兵・装甲の攻撃が行われることになりました。

最初のフェーズで北ベトナム軍は南ベトナム軍を制圧し、南下していきますが、
いずれの戦線においても、初期の北ベトナム軍は、多数の死傷者、無能な戦術、
そして米軍と南ベトナム軍の航空戦力の増大によって遮られることになります。

イースター攻勢を受けて発動したのがあの、

■ラインバッカー作戦(Operation Linebacker)

でした。

 

「ラインバッカー作戦発動中」

1972年、A-37戦闘爆撃機でアン・ロクの敵地に空爆を行う
ゴードン・ウェード中佐(Lt. Col. Gordon Weed)。

多分この人

「イースター攻勢」に1ヶ月少し遅れて発動したこの作戦は、
北ベトナムの防空網の制圧に加えて、貨物貯蔵所、貯蔵施設、積み替え地点、
橋、鉄道車両などの航空機による破壊を目的としていました。

ジョン・ヴォクトJr.将軍指揮する第7空軍のタスクフォース77が414回の出撃を行い、
最も激しい空中戦で、4機のMiG-21と7機のMiG-17を撃墜、2機のF-4が撃墜されました。

この作戦の初期に、アメリカ海軍のランディ・"デューク"・カニンガム中尉と、
彼のレーダー・インターセプト・オフィサーであるウィリアム・Pドリスコル中尉は、
MiG-17を撃墜してアメリカ人初のエースとなっています。

カニンガム中尉(左)とドリスコル中尉。
この人たちについては以前空母「ミッドウェイ」シリーズで取り上げたことがあります。

 

「ラインバッカー作戦」では、精密誘導弾が史上初めて広く使用され、
これがある意味空中戦の新時代の幕開けとなりました。

その結果、北ベトナムへの物資の到達量は30〜50%減少し、
北ベトナム政府は話し合いを再開して譲歩の姿勢を見せ始めました。

ニクソン大統領は10月23日に爆撃を中止するように指示し、
「ラインバッカー作戦」は事実上この日終了しました。

しかし、

北ベトナム軍を追放するために残されたアメリカ軍戦闘部隊はあまりに少なく、
終戦に向けた交渉が再開された時でさえ、10万人もの敵に囲まれている状態でした。

その間にも、ニクソン大統領の戦争政策への挑戦は続いていました。

幹部は彼に戦争を終わらせるように圧力をかけていました。

ラオスにおけるARVIN (南ベトナム軍)の敗走は、(ラインバッカー作戦の成功に関わらず)
「ベトナム化政策」に対する疑問を国民に投げかけ、軍隊の士気は地に落ち、
悪いことに軍の中での人種問題は紛争が激化していきました。

G.I.平和運動は急激に拡大し、国内の退役軍人たちは
メダルを捨てるというパフォーマンスを行いました。

The Throwing of the Medals - Operation Dewey Canyon III

捨ててます

1971年4月、

「Vietnam Veterans Against the War(戦争に反対するベトナム退役軍人)」

という新たに結成された組織のベトナム退役軍人数千人が、
ベトナム戦争の終結を求めてワシントンD.C.に集結しました。

このイベントは、退役軍人たちによって

「デューイ・キャニオンIII作戦」

と作戦名で呼ばれていました。
そして、

"議会の国への限定的な侵攻 "

として、アーリントン墓地を皮切りに、首都圏の象徴的な場所でデモを行いました。

歌、ゲリラ・シアター、モニュメントやオフィスの占拠、
当局への積極的なロビー活動、連邦政府の敷地内でのキャンプなど。

これらの戦略の中で最も象徴的だったのは、最終日に退役軍人たちが
連邦議会に賞状とメダルを「手渡す」ために連邦議会議事堂に向かったときでした。

その日の朝、約1,000人の退役軍人が国会議事堂に到着すると、
建設されたばかりのフェンスが建物に近づけないようになっていました。
しかし、フェンスくらいでは退役軍人たちを止めることはできませんでした。

「ベトナム戦争に反対する退役軍人は裏切り者だ」

「戦死した仲間や連隊に敬意を払っていない」

「共産主義者のシンパだ」

彼らにこんな声を向ける人々もいました。

しかし退役軍人たちは、共産主義の立場に立ったのではありません。
むしろ、政府を批判するという行為は民主主義の原則であり、
民主主義だからこそできることだったということもできます。

国会議事堂前の銅像に「TRASH」と書かれた看板をかけた後、
退役軍人は一人ずつ、デモ隊や野次馬の前に立ち、自分の名前、
それから階級、連隊、そしてベトナムからもらった賞の種類を言いました。

その後、彼らは振り向きざまに、賞状、メダル、リボン、表彰状など、
戦争で得たものを銅像の足元にあるフェンスの上に投げ捨てていきました。

彼らに言わせると、この行動は愛国者だからこそとった行動であり、
「国を愛すること」は必ずしも「政府に従うこと」と同義ではなかったのです。

 

また、軍の指導者たちは、軍隊そのもののにとで不足と士気の低下が、
彼らの任務達成能力をすでに脅かしていると報告しました。

「塩とかココアとか、あるいはコーヒーが残っている人は皆で分けたよ。
地獄の穴にいると、皆が一つになれた」

「ジェームズ・ブラウンが

♫Say it Loud-I'm Black and I'm proud
『大声で叫べ-俺は黒人 それが誇りだ

を出してから、俺たちは空に握り拳を振り上げないとどこにも行けなくなったよ。
それが『やあ』という挨拶だった」

(`・ω・´)○ yo !! yo!○(・∀・○(・∀・)yo!

"Say It Loud It Loud ~ I'm Black & I'm Proud"

「故郷に帰って戦争を支持する者のビッグスローガンは、
だいたいが『軍隊を支援する』だ。
でも、ここにきて戦争に賛成する兵士なんて、
せいぜい手と足の指で数えられるくらいしかいないのさ」

「ベトナムにいる時、目に見えるもの全てを憎んでいた。
でも、酔っ払っている時だけ、この国の美しさを堪能することができた。
全てがとても平和に見えたんだ」

「戦闘中は頭の中が真っ白になる」

いずれもベテランたちの回顧録から抜粋した一節です。

 

続く。

 

 


東に沈む夕日〜映画「グリーンベレー」3日目

2021-06-24 | 映画

ジョン・ウェインのある意味国策映画、「グリーンベレー」最終回です。

さて、カービーは上官のモーガン大佐(ブルース・キャボット)
ARVNのカウンターパートであるカイ大佐(ジャック・スー)と会い、
彼らが計画する極秘の任務について説明を受けました。

その計画というのは、現在北ベトナムにいるPha Son Ti 将軍という、
ベトコンと北ベトナムの総司令官を​​誘拐するというものでした。

ベトコンのリーダーである将軍を確保することによって、
南ベトナムに有利な条件で終戦交渉を行うことが目的だというんですが、
計画もお粗末なら、そんなことで終戦交渉に持っていけると思うなら考えが甘すぎ。

しかも、ティ将軍は過去一度逮捕したものの、政府に圧力をかけられて
逃げられてしまっているっていうんですが、じゃ今度は政府の圧力はどうするつもり?

だいたい、一度そんな目に遭ったら向こうも厳重に警戒しているでしょう。

そこで女ですよ(笑)
トップモデルであるこの美女を使ってハニトラを仕掛けようというわけです。

ハニーの名前はリン(アイリーン・ツー)

父親があまりにおめでたすぎて弟共々殺されてしまったので(本人談)
復讐を果たすため計画に協力する、といいます。

彼女と街角のカフェで目を合わせずに会話したあと、カービーがカイ大佐に

「信用できるのか?」

「もちろん。彼女は俺の弟の妻だ」

つまり親族ってことですが、それをハニトラ要員に差し出すか。
だいいち弟の了解は得たのか?

 

彼女とティ将軍とは幼なじみで、お互いまんざら知らない仲ではなく、
さらに将軍は彼女にご執心なので、北ベトナムの奥深くにある
フレンチコロニアル様式のティ将軍邸宅に入り込み、
油断して無防備になった瞬間を精鋭部隊が急襲する作戦だというのですが。

 

精鋭部隊は、このティ将軍一人を捕まえるために、空挺降下による敵地侵入を試みます。
わたしはこういう作戦についてどうこう言えるほどの軍事知識はありませんが、
それでもここで空挺降下を行うというのは、ちょっと違うような気がします。

費用対効果の面で言うとちょっと大げさすぎやしませんかね。
しかもハニトラ現場ですぜ。

ここで「ジャンプマスター」(陸自でどう言うのかは知りません)である
カービー大佐は、降下を指示するわけですが、まず、

「ポートサイド(左列)立て!スターボードサイド(右)立て!」

といい、

「フックアップ!」(フック掛け)

「ドアの前へ!」

「ゴー!」

で降下が始まっています。

おっと、カービー大佐、各々の装具を点検する指令を行なっておりません。
久しぶりなので忘れてしまったのかもしれません。

「ジャンプマスターに突き落とされるまで降下できない」

と噂のあったピーターソンですが、大佐が案ずるまでもなく、
意を決した様子で自発的に降下を行いました。

降下してしまえば邪魔なだけの落下傘などは埋めてしまいます。
ただし、流石の金持ちアメリカ軍もあとで回収するつもりらしく、
捻挫した兵を荷物番に一人残して行きました。

ポイントマン(先遣兵)という言葉も、「ベトナム戦争シリーズ」で知ったばかりです。
そのポイントマンとして本隊より少し先に出発した(一人で)コワルスキですが、
地元敵民兵と格闘になりました。

一人目を倒し、二人目を枯れ枝に百舌の速贄のように突き刺したとき、
3人目に後ろから襲われて・・・・。

ところでどうでもいいんですが、この時の上海雑技団みたいなBGMはいかがなものか。

「ブルドッグ!・・・ブルドッグ!」

とカービー大佐のコードネームを呼びながら息絶えました(´;ω;`)

カービー様ご一行はその後橋を渡ってコロニアル風邸宅の近くに到着。
警備が厳重なはずなのに、易々と近くに忍びこめてしまう不思議。

ティ将軍はリン嬢をエスコートし、捧げ銃衛兵の間を邸宅に入って行きます。
こういうとき(女性を連れ込むとき)に軍隊は捧げ銃はしないんじゃないかな。
しらんけど。

一行はあまりにも簡単に邸宅の歩哨をやっつけてしまいました。
ARVINの兵士が弓矢で木の上の見張りを静かに抹殺し、
誰にも気づかれることなく将軍の寝室に近づいていきます。

さて、こちらハニトラ要員のリン、今まさにお仕事に取り掛かるところ。

意中の女性を前に、ティ将軍、すっかり舞い上がっております。
しかし、ベトコンのリーダーで将軍にしては若すぎない?

ワインを女性に勧めるムード派の将軍ですが、リンは「後で」と断り、
手っ取り早くターゲットを無防備な状態にしてしまうために
とっとと電気を消し、サクサクと服を脱いでいくのでした。

そしてこんな時に限って家の中には見張りがおらず、
兵隊たちは控え室で全員トランプして遊んでおります。

半開きのそのドアの前を一行は通り過ぎ、階段を登って寝室まで難なく侵入。
音ひとつさせずに鍵をベテランの泥棒のように解除し、
ベッドまで匍匐前進で近づいていってターゲットをあっさり確保します。

そこではっ!と見つめ合うリンとカイ大佐。

そうそう、この二人そういえば義理の兄妹の関係なんでしたっけ。
どちらにとってもカナーリ気まずい瞬間かもしれません。

カイ大佐はなぜか左手に持っている黒い服を投げつけるのですが、
仮にもハニトラ要員としてご協力いただいた相手に、なんなんだその態度は。
もう少し労るべきじゃないのか?え?

とにかくこれでターゲットは確保しました。
半裸の間抜けな男を眠らせて、コロニアル風の二階からリペリングで運び出し、
(さすがは空挺隊ですね)車のトランクに詰め込んで脱出。

こちらはマルドゥーン率いる別働隊。
前夜から橋を爆破するために爆薬を仕掛けて待っていました。

検問所を簡単に突破し、爆発させた後、橋の爆破にも成功。

やったぜはっはっは、とふりむいてみたら、一緒にバイクに乗っていた
医療担当のマギー曹長が銃弾を受けていました。

さて、こちらは将軍誘拐グループ。
トランクから引き摺り出したティ将軍に赤いフライトスーツ?を着せて、
何をするのでしょうか。

日の丸?
じゃないよね。

目立つように赤をあしらった曳航用のバルーンを用意し、
まず、こちらをヘリウムガスで空に飛ばします。

あらかじめロープの先にティ将軍を結んでおきます。

バルーンを飛ばしますと、ティー将軍も一緒に空に飛んでいきます。

そこに飛行機がやってきて、ロープを引っ掛けて運んでいけば完成です。

なーるほど!うまいこと考えたね。

と言いたいところですが、これ、ひっかけると同時に風船は切れてしまっており、
どうやってティ将軍を中に収容するつもりなのか謎。

目的地まで人間一人翼に引っ掛けたまま運んでいけるとも思えないし、
よしんば奇跡的に目的地まで行けたとしても、着陸すると同時に地面に激突:(;゙゚'ω゚'):

まあそんなことはどうでもよろしい。よろしくないけど。

ハニトラ成功の功労者なのに、誰も労るどころか声もかけないので、
まるで罪人のように黒い服を着てションボリしているリンさん。

見かねてカービー大佐がカイ大佐に声をかけます。

「彼女は君の義妹なんだろう」

「そうだ」

「彼女の将来も、自尊心も・・君の手の中にあるようなものなんだ」

「そんなことは・・・」

言いかけたカイですが、思い直して

「ありがとうマイク」

そして、

「リン・・・君は勇気のある女性だ」

するとリンは気怠げに

「いいえ、ただ、一族が許してくれるように祈っている女がいるだけよ」

つまりカイ大佐の一族ということでしょうか。
いったい彼女が夫の親族に何を謝るというのでしょうか。

ハニトラ要員になったことかな?

それなら謝るべきはそれを命じたカイ大佐で、謝る相手はむしろリンと弟なのでは?

しかし、そういった反省は一切ないまま、カイ大佐は上から目線で

「許すことなど何もないよ」

許されたと思ったリンは義兄の腕に飛び込み、嗚咽するのでした。

 

そしてこの映画、最後に衝撃シーンが待ち受けております。(ネタバレ注意)
作戦を成功させ、いざ帰還のヘリとの合流地点に近づいてきたというとき、

たまたま、ほんのたまたま一番先頭をあるいていたピーターソンが
パンジスティックの罠に足を取られてしまったのでした。

「わあああああ!」

((((;゚Д゚)))))))

流石にそれを見て叫び声をあげたのは女性のリンだけです。

直後にカービーは「動け!」と命令を下し、ピーターソンの荷物を拾い上げて
最後に罠にかかった(多分だけどまだ生きてる)ピーターソンを一瞥します。

次の瞬間、場面はダナンの飛行場です。

帰還するヘリを迎えるために、新聞記者のベックワースと、
ベトナム人の孤児ハムチャックが駆けつけてきていました。

少年のお目当てはもちろん彼の友だち、ピーターソンです。

兵士が行進して行きます。
彼らはこれから前線に向かうのです。
ベックワースは少年を見送っていましたが、くるりと向きを変え、
兵士たちと一緒に歩いて行きました。

ODカラーの陸軍の制服を着て。

「成功したな」

「ああ、しかし高くついた」(犠牲は大きかった)

そう司令官と話すカービーの後ろでは、少年が

「ピーターソン!」「ピーターソンいる?」

とヘリを覗き込んでは聞いています。

後ろのヘリからは負傷したマギーが運び出されました。

ヘリパイに「もう誰も乗っていないよ」と言われ、
半泣きで全部のヘリの中を覗き込む少年。

「ピーターソン!」

「ノー!ノー!」

 

周りから子供のケアを頼まれてしまったカービー大佐、
水平線を眺めている彼に近づいていって声をかけました。

「ハムチャック、戦争だから仕方ない」

「でも、そうなって欲しくなかった」

「誰もそうなってほしい人なんていない」

子供は涙でびしょびしょになった顔をふり仰ぎ、

「僕のピーターソンは勇敢だった?」

子供と話すときは同じ目線でね。

「とっても勇敢だった・・・君もそうなれるか?」

「なれるかな」

「なれるさ」

そう言ってカービーはピーターソンのグリーンベレー を子供にかぶせてやり、

「”君の”ピーターソンは、君に持っていてほしいと思うだろう」

うーんそうかな?
ピーターソンの遺族はそう思わないと思うけど。

映画で戦死者の遺品を遺族に返さず勝手に人にあげてしまう人多すぎ。
(例;『怒りの海』の海軍少佐)

そして、君もグリーンベレーだ、と決め台詞を吐いて、
実際はダナンからは地理上決して見ることのできないはず
水平線に沈む夕日を見ながら、手を繋いで歩いていくのでした。

これはあれか?東に沈んでるのか?

それから、おーいカービー大佐、子供をどこに拉致するつもりだー!

 

というわけで、映画は終結するわけですが、この映画は一言で言って、
ジョン・ウェインの単純な正義対悪の戦いをベトナム戦争に当て嵌め、
まるで西部劇のような構図で表している・・「ベトナムウェスタン」だと思います。

南ベトナムはアメリカが共産主義から守るために庇護すべき存在で、
共産主義とはつまり絶対悪であるから当然こちらは「悪玉」という位置づけ。

「庇護すべき存在」を象徴するのが、このハムチャックという子供であり、
間接的にではありますが、リンという女性だったりするわけです。

もちろん現実のベトナム戦争はそんな善悪説でカバーできるほど、
単純なものではなかったことは歴史が証明しています。

 

往年の名スターがメガホンをとって何がなんでも作りたかった映画。
本作は興行的には大成功で、ウェイン自身の作品では最大となる、
2千177万と27ドル(端数がリアル)の興行収入を記録しました。

これは、ウェインが政治家ではなく映画人であったことを考えれば、
彼の圧倒的な「勝ち」であり、かつ「成功」であったということでもあります。

彼自身は、否定的な「左翼の」非難がおそらくこの興行成績に役立った、
と豪語し、さらに批評家は作品そのものではなく戦争自体を攻撃していると述べました。

この映画が国民のベトナム戦争への理解を深めたかというと、おそらく、
全く意味がなかったと思われますが、純粋にエンターテイメントとして見た場合、
例の西部劇、活劇としての要素を持つ本作品が面白かったのは事実です。

 

ウェインはベトナム兵役を逃れるために国外脱出をしたティーンエイジャーを、
「臆病者」「裏切り者」「共産主義者」と非難しましたが、ところがどっこい、
そのウェイン自身は第二次世界大戦には参加していません。

そのこともあってか、ベトナムに出征している多くの兵士は、
この映画に対し、非常な不快感を示したと言われてます。

 

この映画が制作され始めた1967年当時、ジョン・ウェインは
ベトナム戦争に勝つことができると本気で信じていました。

グリーンベレーに勝手に認定した子供の手を引いて、
南ベトナムには存在していない海岸線を、

彼はどこまで歩いていくつもりだったのでしょうか。

終わり

 

 


ダナンの「ラ・セーヌ」〜映画「グリーン・ベレー」2日目

2021-06-22 | 映画

映画「グリーンベレー」2日目です。

キャンプに偵察隊が帰還してきました。
担架で運ばれてきた隊員もいます。

彼らの隊長は、政府軍のニム大尉(ジョージ・タケイ)

ウェインが直々にオファーした日系人俳優タケイは、当時
「スタートレック」に出演しており大変人気がありました。


撮影開始直前、彼はウェインに向かって

「自分はベトナム戦争には強く反対している」

と表明しています。

これはウェインも承知の上で、というか、ウェインはこの映画クルーの半分が、
(ピーターソン軍曹役のジム・ハットンを含め)反対派であることを知っていましたが、
スタッフがプロとして演技と演出に力を注いでくれれば十分だ、と考えていたようです。

幸か不幸かこの映画は良くも悪くも当時大変な話題を集め、
賛否が真っ二つに分かれるような事態となったため、
(つまりそれは当時のアメリカのベトナム戦争に対する世論そのままでした)
出演を引き受けた、イコール、ウェインに同調しベトナム派兵を支持するものと、
世間の多くが彼らを見なしたとしても全く不思議ではありません。

前述のジム・ハットンなども、映画に出演したというだけで、
賛成派だとみなされて、詳しくは知りませんが色々あったようです。

それにしても、ジョージ・タケイのベトナム人役、なんと違和感のないことよ。

タケイはさすがプロらしく、一旦撮影が始まるとこの役に集中するため、
「スタートレック」の出演エピソード9回分を辞退しています。

この件でハッピーだったのは、「スタートレック」のチェコフ少尉役、
タケイの友人でもあったウォルター・ケーニッヒでした。
なぜなら、ヒカル・スールーが出ない分、出番が増えたからです。

 

て、カービー大佐は早速ニム大尉をねぎらいますが、大尉は

「敵地に11日間いる間に部隊はかなり消耗して人員が足りないのに、
山岳部族は自分たちのこともベトコンのように見ていて、協力してくれない」

と答えます。

さらにニム大尉は、問われるままに

「自分の故郷はハノイなので、いつか帰りたいが、
その前にベトコン(Stinking Cong)を皆殺しにする」

と語り、周りのアメリカ人は彼の気迫に思わずたじろぐのでした。

「部屋に星のマークをつけてるんですよ。
今年はもう52個になったとか・・。
来年はこれを倍にするとか言ってます」

ニム大尉に何があったのかは尺が足りなかったのか、語られないまま終わります。
気を取り直すように、だれともなく話題を変えて、

「ところで一夜にして奇跡のように現れたトタン板のことなんだが」

海軍からピーターソンが盗んできたあれですね。

「便利なやつがいるもんだ」

「ピーターソン軍曹はどこから持ってきたと言ってた?」

「”いい妖精さんが置いていってくれた”と」

「”いい妖精さんが置いていってくれました、サー!”と言わなきゃだな」

字幕ではここは簡単に

「敬語を使うように言っとけ」

となっていて、good fairyは妖精さんではなく「天」となっています。

その夜、皆がまったりしていると、1発だけ砲撃がありました。
この攻撃は一晩おきに行われ、要するに安眠妨害をして心理戦を行なっているのです。

しかも、確実に狙う場所が決まっていると・・・。
内通者がいるということなのでしょうか。

この夜は一人の米軍大尉が運悪くその砲撃の犠牲になりました。
大尉は任務を交代して明日帰国する予定でした。

 

北ベトナムに設営したキャンプが砲撃を受けた次の日です。
ベックワース記者が、ニム大尉に現在進行形で行われている作戦について聞いています。


「ヘリで森の上を低空ギリギリで飛んで、ベトコンの銃撃を誘うんです」

「ベトコンがこんなに近くにいるということですか」

ニム大尉は白い歯を見せつつ快活に笑って、

「ベックワースさん、ベトコンは私の隊の中にもいるんですよ」

昨夜の爆撃が内通者の情報に基づいていたことを確信しているようでした。

ところで、マルドゥーン軍曹は「横流し屋」ピーターソンの「お道具」に目を見張りました。

仕事柄?やたら物持ちです。
ティーセット、ギター、お酒にコーク。

「任務中だというのにまだ娑婆っ気がぬけないのか」

「軍曹、わたしゃ海兵隊じゃないんでね。好きにさせてください」

トタンを調達してきたという功績があるので、マルドゥーンは下手に出て、

「今度は50口径を調達してくれないかな」

ピーターソン、軽ーく、

「いいっすよ。次にね」

「・・・どうやって?」

どこそこの誰々がバーボンを欲しがっているのでそれと交換する、
と得々と語るピーターソンに、マルドゥーン、驚いて、

「バーボンなんかどこにあるんだ」

「それは・・・」

蛇の道は蛇を地で行く抜け目ないこの男に、教会に通い、
ボーイスカウト出身という真面目な軍曹は呆れ返ります。

「俺はイーグルスカウト(ボーイスカウトの最高レベル)までいったんだ!」

でっていう。

ちなみに、マルドゥーン軍曹を演じたアルド・レイは特にジョン・ウェインと険悪で、
のちにインタビューでウェインを軽蔑的に語ったということです。

その理由はともあれ、なんで出演引き受けたのって気がしますが。

ある日、マルドゥーン軍曹が、ベースキャンプ周辺のジャングルの一部を片付ける
海軍シービーズの作業をを監督していると、一人の兵士が怪しい動きで
どうやらキャンプの中を歩測しているらしいのに気がつきました。

ニム大尉が捕らえて尋問すると、この不審な男は、最近ベトコンによって殺害された
アメリカ軍救護隊員の私物であるジッポーライターを持っていました。 

裏には妻から贈られたものであることを示す文字が。

彼はカービーの友人で、山岳部族の出産を手伝った帰りに行方不明になり、
確認が難しいほど無残な遺体で発見されたのでした。

ベックワースは、ニム大尉が容疑者を殴打したのを見ていて、

「あれは拷問じゃないか!どうして裁判しないんだ」

と平時の理論を持ち出して大佐に食ってかかるのですが、
大佐は今回の容疑者はいかなる種類の保護にも値しないと切り捨てます。

「それとこれとは」

「大声でそれをコールマン大尉に言ってやれ。
ここからアーリントン墓地まで聞こえるようにな」

(´・ω・`)

キャンプでは付近住民の医療ケアなども行われます。
山岳部族の酋長がパンジスティックを踏んで怪我をした孫を連れてきました。

ベックワースは愛らしい孫娘に自分のペンダントをプレゼントします。

米軍は、敵攻撃に備えて民間人キャンプ内にを避難させようとしていたので、
ここぞと村長に交渉しますが、どうもピンときていない様子。
大佐が明日の朝迎えに村に来てくれたら従う、といって帰っていきました。

ご指名とあっては致し方なし。

カービー大佐は深夜から老骨に鞭打って部下と山中を村に向かいます。
道中にはパンジスティックの仕掛けなんかがてんこ盛り。

この道をじっちゃんや担架の女の子はどうやって帰っていったのか(´・ω・`)

「あの村長、敵の回し者とかじゃないんですかね」

ついそんな疑問が湧いてくるほどです。

しかし、村に到着した一行が見たのは累々たる死体でした。

村長の遺体の上には「グリーンベレー どもへ」と札がかかっていました。
(というのも何だか違う気がするんですが。普通『アメリカ人へ』とかよね)
村長がベトコンの募兵命令を断ったため、男たちは全員虐殺されてしまったのです。

 

村長の娘は山中に連れ込まれて無残にも殺されていました。

なぜか危険なミッションに付いてきていたベックワースは、
女の子の遺体がつけていたペンダントを渡され、愕然とするのでした。

そんなベックワースにカービー大佐、ダメ押し。

「だから言っただろう。現地を見ないとわからないと。
別の村では村長を殺さず木に縛り付けてな。
十代の娘二人を彼の目の前で切り刻んで、40人で彼の妻を(以下略)・・・」

ベックワースを説得するくらいならこれで十分かもしれませんが、
間の悪いことに、映画公開直前にはアメリカ軍の戦争犯罪と言われた
「ソンミ村虐殺」が起こり、米軍自身の残虐行為が問題になっていました。

残虐な敵からこちらの味方を守ってやるべきだ、という立派なお題目を唱えても、
その守るべき相手に対し身内がそれ以上のことをやっちまったわけですから、
お前がいうなというツッコミも当然起こってくるわけですよね。

 

ちなみにベックワース役のデビッド・ジャンセンもまたベトナム戦争反対派でした。

登場人物のベックワースはこのシーケンスを通じて、米国の戦争関与に納得していくわけですが、
それを演じたジャンセンは、全く自分の考えを変えることはなかったようです。

ちなみに、ジャンセンもまたウェインとうまくいっていませんでした。
彼は、撮影中にウェインがアジア人の子供(ハムチャックのことと思われる)に腹を立て、
叱りつけたのが原因で、撮影中のセットでウェインに食ってかかり、口論になりました。

結果、彼はそのキャリアで後にも先にもこのときだけ撮影現場を放棄することになりました。

しかしこうして列挙してみると、出演俳優のほとんどが映画の意図に反対しており、
あまりにもたくさんの俳優がウェインを嫌っていた、という構図が見えてくるのですが、
もうこの頃のウェインは「映画界の天皇」状態で、何があっても意に介さずだったのでしょうか。

 

この辺で、殺伐とした画面に飽き飽きしてきた人のために、
ダナンのクラブシーンが挿入されます。



ステージでは歌手が英語とフランス語で、シャンソンの

「La Seine」(セーヌ川)

を歌っています。
ベトナムはフランス領だったこともあり、フランス語が通じます。

そこにベトナム人の美女登場。

思わず目を見張るスーツ姿のカービー。

同行のカイ大佐によると、このトップモデル、リンという女性は郡長の娘で、
その郡長はベトコンの協力を拒んで弟とともに虐殺されたとか。

実は彼女、カイ大佐の義理の妹なのですが、なぜかこのとき
彼はそのことをカービーに告げません。



その夜、特殊部隊のキャンプは、数千人のベトコンと北ベトナム軍による
大規模な夜間攻撃を受けることになります。

パンジスティックと鉄条網の上に梯子をかけて侵入してきます。

こちらも迫撃砲で応戦。
ベックワースも怒鳴られて砲弾運びを手伝い始めました。

カービーとマルドゥーンは状況を評価するためにヘリで出撃するのですが、
彼らのヘリコプターは敵の砲火によって撃墜されてしまいます。

地面に激突する直前に飛び出したので全員無事、犠牲者はパイロットのみでした。
(そんな簡単にいくかなという気もしますが)

すぐにパトロールによって救助され、包囲されたキャンプを支援するための
「マイク・フォース」として(その心はカービーのファーストネーム)
フィールドを確保しました。

ここで問題発生。
チムチャックの犬、チマンクが壕から出てしまったのです。
そして・・・。

(-人-)ナムー

戦争映画の犬はフラグ、と言い続けてきましたが、犬そのものが死んだのは初めて見ました。

この非常時に、しかもこんなところ(土嚢の上)に墓を作り出す子供。

ピーターソンがやってきて、

「かわいそうに、友達がいなくなったな」

「君がいる」(Except you.)

「そうだな」

そのとき空軍機の支援がきました。
この「ブルー編隊長」が爆撃位置を確認してきます。
空爆で敵を叩いてからマイクフォースが突入することに。

この戦闘で多くのアメリカ人と南ベトナム軍と民間人が死亡しました。
プロボは南ベトナムの兵士を装ったスパイに銃撃されて重傷です。
ニム大尉はクレイモア対人地雷を仕掛けている途中、砲撃を受け戦死しました。

いたるところに地雷を仕掛けたのち、民間人を誘導し、退去を行います。

ピーターソンは、子供ハムチャックを抱き抱えてヘリに乗せ、
パイロットによろしく頼む、と後を託しました。

おそらくこのヘリパイは本物だと思われます。(演技が下手すぎ)

キャンプ内ではベトコンと北ベトナム軍の兵士による略奪が始まっていました。
倒れている遺体からめぼしいものを盗んでいくという浅ましさ。

靴や時計を剥ぎ取られているこの遺体は・・・なんとニム大尉ではないですか。

そして占領の証に意気揚々と旗をあげるのですが・・

あげ終わるか終わらないうちに「マジックドラゴン」(C-47)
が機上から掃射を満遍なく行い、瞬く間に敵を殲滅してしまいました。

全てを見たベックワース記者に、カービー大佐が尋ねます。

「見たことをどのように書くんですか」

すると記者は、

「もしどう感じたかをそのまま書いたら仕事はクビでしょうね」

そのときカービーは戦闘で重傷を負ったプロボ軍曹の臨終に呼ばれました。

いくら死ぬこと確定でも、顔の血ぐらい拭いてやれよ。
と思ったのはわたしだけでしょうか。

プロボ軍曹、何やらカービーに重大なことを頼みたい模様。

 "Would you take a touch with me?"

この場合の「タッチ」は、ちょっと飲んだり食べたりする何か、と解釈します。

「ちょっと一緒にやってくれませんか?」

というところでしょうか。

「いいとも」

カービーはウィスキー瓶をいきなり瀕死の人の口に押し込んで、
そのあと同じ飲み口から自分もぐいっと一口飲み干すのですが・・・。

だからその前に口の血をふいてやれよって!

他人の血痕のついたボトルから直飲みなんかして、戦争で死ぬ前に病気で死ぬぞ。

「もう一つお願いが・・・」

「なんだ」

彼の変わった名前を残すのに適切な施設。
それは、PRIVY(屋外簡易トイレ)でした。

PROVO PRIVY

うーん、確かに語呂「だけ」はいいかもしれん。

これで彼も後顧の憂いなく旅立ったわけです。
めでたし・・・いや、めでたくはないか。

 

続く。


「グリーンベレーのバラード」〜映画「グリーン・ベレー」

2021-06-20 | 映画

ハインツ歴史センターのベトナム戦争シリーズが続いているので、
何か映画もベトナム戦争ものを取り上げてみたいと思い、検索していたら
あのジョン・ウェインがいい歳をして現役の大佐を演じた

「グリーンベレー」

なる映画を見つけました。
ジョン・ウェインといえば、当ブログでは第二次世界大戦における
米海軍の太平洋対日戦を描いた

「危険な道」(In Harm's Way)

を扱ったことがあります。

そのときも彼は全く現役軍人らしくない体型を駆使して海軍大佐を演じていましたが、
本作はそれよりさらに3年後の1968年、61歳でなんと空挺隊の司令官という、
・・・まあはっきり言って、前回にも増して無謀ですぜ旦那、という役どころです。

61歳の軍人はもちろん現実に存在しますが、グリーンベレーは特殊作戦群なので、
彼の年ではありえず、しかも、ベトナム戦争当時、大佐は30代というのが相場でした。

いかに往年の大スターでも、こんな無謀なキャスティングまでして、
どれだけジョン・ウェインという大物を担ぎたかったんだろう、などとわたしは、
年齢以前に、弛緩しきった顔の贅肉やら、横から見たら
特に著しい、
肥大した腹部やらを悲しい気持ちでうち眺め思ったものですが、

後から調べてみると、なんとこの映画、彼が人生で監督した
たった二本の映画のうちの一本だったということが判明しました。

ジョン・ウェインを担ぐための映画ではなく、ジョン・ウェインが作りたかった映画。
つまりそういうことになるわけです。

それでは彼は、そんなにしてまで何を映画で訴えようとしたのでしょうか。

データによると、まず、原作は1965年にロビン・ムーアが発表した小説です。
ウェインは、この着想を1966年にベトナムに行って思いついたとされ、
彼はベトナム戦争当時のアメリカを席巻していた反戦感情に危機感を抱き、
この映画を作って当時のアメリカの世の論を動かそうとしたのだと考えられます。

まず、ウェインは民主党のリンドン・ジョンソン大統領に手紙を書き、
戦前の映画に対するような「軍事援助」を要請しました。

日本もそうでしたが、アメリカも「硫黄島の砂」「東京上空30秒前」
「史上最大の作戦」のように、国防総省協力による映画を制作しており、
つまりウェインはベトナム戦争においてもそのような映画が必要だ、と説いたのです。

ジョンソン大統領の特別補佐官でありロビイストだったジャック・ヴァレンティは、


(ちなみにこの写真の最左壁際の人)

大統領にこう進言したそうです。

「ウェインの政治的立場(タカ派と言われていたこと)は間違っているが、
ベトナムに関する限り、彼の見解は正しいと思います。
もし彼が映画を作ったら、我々が言って欲しいことを代わりに言ってくれるでしょう

かくして、ウェインは、第36代大統領リンドン・B・ジョンソンとアメリカ国防総省に
全面的な軍事協力と資材の提供を要請し、それを得ることに成功しました。

ただし、この話にはちょっとした裏があって、当時ペンタゴンは
原作者のロビン・ムーアを、情報漏洩の疑いで告訴しようとしていたところ、
ウェインは情報ごと原作をの版権を大枚で買い叩いて、(3万5千ドルと利益の5%)
その結果、原作の内容とは全く関係のない内容となる脚本を別人に頼んでいます。

これによって、ウェインはペンタゴンを自分の味方につけようとしたと言われています。

そしてその後、彼はこの、

「史上最も評価の分かれる、物議を醸したジョン・ウェイン作品」

の制作にのりだすことになったのです。

こんなに小さくともわかってしまう、ジョン・ウェインが老骨に鞭打って走る姿。
タイトルに流れるのは「グリーンベレーのバラード」です。

The Ballad of the Green Berets

グリーンベレーという精鋭部隊をご理解いただくためにぜひご覧ください。
この映画のタイトルソングにはあまりに古臭くないか、という意見もあったそうですが、
ジョン・ウェインはここにこの曲を使うことに強くこだわりました。

グラウンドを上半身裸で「ミリタリーケイデンス」を唱えながら走るグリーンベレー。

「フーアーユー?」(貴様たちは誰だ?)

と尋ねると、皆で声を揃えて

「エアボーン!」

「ハウ・ファー?」(どこまで行く?)

「オール・ザ・ウェイ!」(どこまでも!)

ここはノースカロライナ州のアメリカ陸軍フォート・ブラッグ。

特殊部隊グリーンベレーの訓練キャンプにある、
ガブリエル・デモンストレーションエリア(ベトナムで最初に戦死したグリーンベレー、
ジミー・ガブリエル軍曹にちなんで名付けられた)におけるブリーフィングで、
ベトナム戦争に参加した理由説明とデモンストレーションが行われています。

壇上で士官たちがいきなり外国語で話し始めるのは、語学能力をアピールするためです。
ちなみに向こうの人は独語とノルウェー語、こちらの人は独語とスペイン語が話せます。

この説明会は、つまりプレスの質問を受け付ける機会ですが、
記者たちは、なべてベトナム戦争参加に懐疑的です。

「何故合衆国がこの無慈悲な戦争を行うのです?(直訳)」

そんな質問に対し、説明係のマルドゥーン曹長

「それは政府が決めることで、我々は命じられるところへ行くだけです」

そりゃごもっともです。
そんなこと、ここで聞いて納得のいく答えが得られるはずがないですよね。

すると皮肉な新聞記者のジョージ・ベックワース(デビッド・ジャンセン)が、

「それに賛同するってことは、グリーンベレーというのは、
ただの
個人的感情のないロボットってことですかい?」

とかいやみったらしく聞くわけです。

それに対しマルドゥーン軍曹は、

「我々にも感情も意見もあるが、現地では指導者層や女子供まで虐殺されている。
もし我が国で同じ事態になれば、
残された人々が立ち上がることは
当然支援されるべきでしょう」

と説明します。

ベックワースは意地悪くまた絡み、軍曹が歴史を紐解きつつ
見事に論破し、それに
満座が拍手すると、またしても

「でもベトナム戦争は内戦、所詮内輪揉めじゃないか」

負けじと言い募ります。



すると軍曹は、「そう思いますか?」と聞き返して、
北ベトナムの兵士とベトコンのゲリラから捕獲された武器と装備を
一つ一つ手に持って説明します。

それらはソビエト連邦、チェコスロバキア共産党、中国共産党で製造されており、
(S.K.S カービン銃、
チャイコムK 15)ベトナム戦争が単なる「内輪揉め」ではなく、
敵が共産主義そのものであることを如実に証明していました。

しかし負けず嫌いなベックワースったら、今度は勝てると思ったのか、
マイク・カービー(ジョン・ウェイン)大佐を見つけて食い下がります。
しかし今回も、

「あなたはベトナムに行ったことがありますか」
(現地を見たことがないのに何がわかるんですか)

と言われて返す言葉をなくしてしまいました。

さて、カービー大佐の部隊がベトナム行きを控えたある日、自分もぜひ
ベトナム行きに参加させて欲しい、と思い詰めた様子で頼んでくる男がやってきました。

兵器の専門家であるプロボ軍曹です。

かと思えばこの男。
別の隊から毎日この部隊の宿舎にやってきてはうろうろしています。

「また同じ時間に来てますな」

「変なやつです。
朝鮮とベトナムにも1年ずつ行ってるんですがね。
三か国語喋れるんですが・・・空挺隊員としてはどうかと」

「どういう意味だ」

降下のたびに先任が突き落とすまで飛ばないんです」

「いいじゃないか。気に入った」

「は?」

「多分そんな奴なら簡単にやめないだろう」

そこで周りを取り囲んで何をしているか調べてみたら、こいつは
この部隊の補給処からの「物品調達」を独自にやっておったのです。
つまりは横流しの現行犯ってやつですな。

「今回は見つかったけど、それは100回に1回です」

と豪語するこのピーターソン伍長を、カービー大佐は
軍曹に昇格させて連れて行くことにしました。

こんな図太い奴なら何かの役に立つだろうということか?

ところがピーターソン、軍曹になっても自覚が全くできておらず、
出発の朝にギターで(物持ちです)殴られて起きる始末。

次の瞬間、部隊は空自のC-130H的な輸送機でダナンに到着しており、
5音音階によるアジア風旋律をとりいれた勇ましいBGMが流れます。

全体的にこの映画の付随音楽はなかなか良くできていると思います。
担当は「ベン・ハー」などを手掛けたロージャ・ミクローシュです。

当初、ウェインはスコアを友人エルマー・バーンスタインに頼んだのですが、
彼は自分の政治信条とこの内容が合わないとして断ってきたということです。

バーンスタインの代表作は「十戒」「荒野の7人」「ゴーストバスターズ」など。

翩翻と翻る星条旗と南ベトナム国旗。

駐屯地名はアメリカ軍の慣習として戦死者の名前が付されます。
マギー軍曹はこのアーサー・フラーという男に会ったことがあるといいます。

しかし調べても第一次世界大戦のベテランの名前しかでてこなかったので、
おそらく架空の兵士名ではないかと思われます。

この看板を物思わしげに眺めていたのは、プロボ軍曹でした。

カービー大佐に打ち明けたところによると、彼は万が一自分が戦死したら、
自分の名前、「
プロボ」が通りや基地の名前になることを心配していました。

「プロボストリート」「プロボカンティーン」「プロボバラック」

どれも語呂が悪くてピンとこない、というのが彼の目下の心配事なのです。
(”語呂が悪い”は英語では”doesn't sing"と言っている)

カービー大佐は前任の司令に現地の南ベトナム軍の「できる男」( outsutanding)、
カイ大佐を紹介され、さっそく打ち合わせを始めました。

カービー大佐は、今回、精鋭の特殊部隊2チームを連れてきたわけですが、
1つのチームはモンタニヤール(山岳部族)と特殊部隊からなるキャンプを
南ベトナム軍に置き換える任務にあたることにしました。

そんなとき、例の新聞記者、ベックワースが到着しました。
彼はカービー大佐の対応にカチンときて(笑)、そんなにいうなら
現地を見てやろうじゃないの、と勇んで乗り込んできたのです。

まあ、粗探しするつもり満々ってところですな。

早速任務に同行してほしいと頼むのですが、これから行くところは
危険だから、と大佐が断ると、このおっさん、

「我が社はベトナムにアメリカがいるべきではないという考えですが、
わたしがそれを裏付けるものを見てしまうのが怖いんですか」

とか挑発するのでした。

そう言われちゃ乗せないわけにはいきませんよね。

カービー大佐はベックワースをヘリに押し込んでから、
よっこいしょういち、とヒューイに最後に乗り込みました。

さすがに足を高く持ち上げるのがかなり大変そうです(涙)

彼らが到着したのは北ベトナムのど真ん中に設置したキャンプです。
当然ですが毎日のように北ベトナム軍の攻撃を受けています。

到着するなりベックワースはパンジ・スティックに目を止めます。
(一連のシリーズで何度か扱っておいてよかったと思った瞬間)

「これは罠か?」

「そうです。チャーリー(ベトコン)から教わったのです。
まあ、彼がやってるのと同じブツに浸したりはしてませんがね」

これも、何度か扱ったため、そのブツが糞尿であるとわかってしまうのだった。

ベックワース、さらにいきなりおしかけたせいで
自分のベッドが現地隊長の二段ベッドの上だと知ってさらに憮然とします。

だからあんたが無理やり来たがったんだからね?

 

横流し軍曹のピーターソンは、キャンプで孤児のベトナム人少年、
ハムチャックに妙になつかれてしまいました。
お約束ですが、彼は迷い犬をペットにしています。

ここでいきなり「錨を揚げて」が鳴り響きました。
ご存知我らが海軍シービーズ(工兵隊)のお仕事現場です。

隊長(妙に年寄り)が、卒塔婆のように転々と直立した水兵の間を、

「この地域の司令官は全てを規則どおりに行うことになっている!
私は司令官のやる通りにするつもりである!
これらの機材には全てひとつずつ塗装をほどこし、ひとつづつ番号を振って、
その上で全て・・・」

と力一杯演説していると、

物資の調達を命じられたscrounger(ごまかして手に入れる人、という意味合い)
のピーターソンが、白昼堂々海軍の物資を運んでいくではありませんか。

帽子をとって挨拶をしながら去って行くヘリに、拳を振り上げて悔しがる海軍さんたち。
こんなやつがいるから、いつまでたっても陸海軍は仲良くなれないんですよ。
しらんけど。

続く。

 


反対者たちと支持者たち(と反対の反対者たち)〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-18 | 歴史

かつてマサチューセッツ州の共和党知事、フランシス・サージャント

"The war ιs costing American it's soul. "
(戦争が犠牲にしたのはアメリカの魂そのものだ」

といいました。

■ DISSENTERS(反対者たち)

というコーナーで紹介されているのは、文字通り戦争反対者たちが
どのような活動を行ったかです。

冒頭写真は1972年サンフランシスコで行われたデモの様子です。

雨の中アメリカの旗を傘がわりに?行進するのはベトナム帰還兵たちで、
車椅子の青年は
戦地で負った負傷が元で歩けなくなったベテランでしょう。

1969年に行われた大規模な反戦キャンペーンとデモ行進を
「モラトリアム」と呼ぶことはすでに当シリーズでお話ししましたが、
このモラトリアム行進に参加したアメリカ人の数は200万人にも上りました。

全米各地で人々は仕事や学校を休んで、「沈黙の警戒運動」、討論、そして
行進に参加することで反戦の意思を表明しようとしました。

Silent Vigil=沈黙の監視を行う人々。
これはMLK、キング牧師暗殺に対する静かな抗議活動です。

あかちゃん本人はまだ何もわかっていませんが、ベビーチェアの背中に

「ぼくを平和の中で成長させてください」

というメッセージが貼られています。
これはモラトリアムデーが行われた1969年10月、
シンシナティのガバメントスクエアの光景です。

モラトリアム行進に参加したのは、戦争に嫌気が差した一般人が多く、
さらにそのほとんどが平和活動を行うのが初めてという人々でした。

1969年の秋から数年間にわたって起こった反戦デモは、ニクソン政権が
国民の幅広い層からその戦争政策を支持されていないことを示していました。

「ベトナム・モラトリアム」

「今すぐ爆撃を止めろ!撤退せよ!」

「今!平和を」

「労働者行進 ワシントン11月15日 戦争をやめよ」

「徴兵制を終わらせ、戦争を終わらせよ

「5月5日行進 闘争」「ブロンクスを戦争から解放せよ」

「平和のためのアジア系アメリカ人団体」

「10月13日 今すぐ撤退」「反戦退役軍人 サポート」

こんな「ポリティカルバッジ」のコレクションです。

「平和のための労働」のモラトリアムポスター。

いつものように仕事をやめなさい

上院議員に手紙を書きましょう

議会に手紙を書きましょう

大統領に手紙を書きましょう

大統領への公開書簡に署名してください

10月25日の行進に参加しましょう

今すぐ戦争をやめてください!

行動すること、それ以外の現実はありません

その名も「モラトリアム」という機関紙です。

1969年11月号の「THE ALLY」は、陸軍将校が兵士たちを「騙している」と非難し、
モラトリアムに共感するGIたちに焦点を当てました。
この雑誌は世界中にある米軍基地に2万部発行部数があり、皆がこれを読んだことになります。

ここに展示されている手紙の中で、南ベトナムのチューライというところにいる軍人は、
100部の「The Alley」配布を要求しています。

「The Ally」は1968年いカリフォルニアのバークレーで発行され、
反戦のいわゆる「ホットスポット」となっていました。

軍の駐屯地に配られる新聞や雑誌で、堂々と反戦が語られていたのです。

「ハードハット」と呼ばれる抵抗者たちは、「反戦者に対する抵抗者」でした。

1970年4月30日、ニクソン大統領はカンボジアでの軍事作戦を発表しました。
8万人の米軍とARVN軍が、敵の根拠地と補給線を破壊することを命令され、
多くのアメリカ人たちはこれを戦争の拡大と見做しました。

そして全国の大学で抗議運動が炎上し、5月4日、ついに
オハイオのケント大学で銃撃による学生の死者が出ました。

反戦団体はウォール街で集会を行いました。
正午過ぎ、200名の旗を振る建設労働者たちが彼らに相対する形で
抗議運動に対する抗議を行い、この「ハードハット暴動」
七十人以上が負傷するという惨事になりました。

この抗議活動によって、ヘルメットは

「戦争を支持するブルーカラー」

「抗議運動への反対の象徴」

になったのです。
(日本では正反対の学生たちの象徴でしたが)

このとき、アメリカの世論はより複雑な状況となっていました。

1970年までに、大学の学位を持たないアメリカ人たちは、
大学教育を受けたものより、戦争に反対する傾向にあったと言われています。


■ SUPPORTERS 支持者たち

何度もいうように、反戦運動が盛り上がっていても、アメリカという国は
全く一つの意見でまとまることはほぼないといっていいでしょう。

「北ベトナムはアメリカ合衆国を打ち負かしたり屈辱を与えることはできない。
それができるのはアメリカ人だけなのだ」

1969年11月、ニクソン大統領は反戦運動についてテレビ出演し、

「わたしの支持者である、偉大なサイレントマジョリティーの皆さん」

に向かって演説を行いました。
有名な「サイレントマジョリティ演説」です。

さりげにトリビアですが、「サイレントマジョリティ」という言葉が
一般的になったきっかけは、このときのニクソン演説なのです。
(最初にその言葉を使ったのはクーリッジ大統領演説だった)

具体的にはニクソンの演説の一節、原文はこうです。

"And so tonight—to you,
the great silent majority of my fellow Americans—

I ask for your support."

この言葉は、当時のベトナム戦争反対の大規模なデモに参加せず、
カウンターカルチャーにも参加せず、言論活動にも参加しない層を指しました。

ニクソンは、他の多くの人々とともに、このミドルアメリカンのグループが、
声高な少数派の人々とメディアの影で「沈黙」していると考えていました。

1969年10月15日、第1回目の「ベトナム戦争終結のためのモラトリアム」のあと、
 自分の状況が「包囲されている」と感じたニクソンは、この反論演説を行い、
ベトナムでの「戦争を終わらせるための私の計画」を説明しました。

このときに使われた言葉が、前回出てきた

「ベトナミーズ」=ベトナム化政策

です。
南ベトナム軍に戦争の責任を負わせることでアメリカの損失を減らし、
北ベトナムが南ベトナムを承認することを条件に、アメリカが妥協すること、
もしそれでも戦争が継続するならば北ベトナムに対して

「強力で効果的な措置」

を取る、と言ったわけです。

強力で効果的な措置って何かしら。原子爆弾かな(棒)

しかし、戦争が始まるように仕組んでおいて、片方に責任を負わせ、
自分たちが分割した国が戦争をやめなければ核を使うぞ、(たぶんね)
とは、なんたる言い草でしょうか。

わたしがアメリカという国に嫌いなところがあるとすれば、
軍産複合体
(とくにウォール街や経済界)のしがらみで戦争を始めては、
その尻拭いをこのときのように
放棄し、知らん顔して、
「名誉ある撤退」などとしれっと言い放つその体質にあります。

そんな戦争をしたい連中から見れば、任期中一度も戦争しなかったトランプ大統領は
さぞかし自分たちの「商売」に邪魔な存在だったんだろうな、とも。

さて、ニクソンはこんな言葉でスピーチを締めくくりました。

「そして今夜、わたしは偉大なるサイレントマジョリティである
アメリカ国民の皆さんに、支援をお願いしたいのです。

我々は平和のために団結しよう。
敗北に対して団結しましょう。

なぜなら、私たちは理解しているからです。
北ベトナムは米国を敗北させたり、辱めたりすることはできない。

それができるのはアメリカ人だけなのです」

このスピーチは、いつものようにスピーチライターの手によるものではなく、
特に「サイレントマジョリティ」の言葉を始め、
すべてニクソン本人が書いたものだといわれています。

ともあれ、「全てのアメリカ男性を故郷に戻す」ということについての
ニクソンの言葉は、聴衆の心を打ったのは事実です。

彼の「忍耐」についての呼びかけもそうでした。

大統領の支持者は、たとえ戦争そのものについてどのように考えていたとしても、
そのほとんどが、敗北を回避しようとする彼の努力を支持しており、
一方で、反戦運動については否定的だったということになります。

沈黙を忠誠心と同一視し、反対意見の声を忠誠心のなさと同一視した
この大統領の演説は、アメリカ人たちを、敵対する二つの陣営に分けたのでした。

リチャード・ニクソン大統領とH・R・ハルドマン国務長官

山と積まれているのは、「サイレント・マジョリティ」演説の後

送られてきた(主に激励と賛同の)手紙です。

ホワイトハウスの前で1970年に行われた「ビクトリーマーチ」
ワシントンDCを行進する彼らは

「神はベトナムに勝利を与える」

という旗を掲げていました。

彼らを率いたカルヴァン派の神学者、カール・マッキンタイアは、

「わたしたちは、モラトリアム行進や、即時全面撤退という
”ヒッピーの概念”に挑戦しているのである。
それは降伏を意味する。

このイベントは、キリスト教徒と愛国者のための行進である」

とも述べています。

「ベトナムにいる息子たちを支援せよ」

「誇りを持って」

「それ(降伏)をハノイに言ってやれ」

などというバッジに混じって、右下に

「カリー中尉を即時釈放せよ」

というのがあります。
カリー中尉とは、他ならぬソンミ村虐殺事件で命令を下した責任で起訴され、
一度は有罪判決になっていた

ウィリアム・カリー中尉(William Laws Calley)

のことです。

マッキンタイア牧師と彼の支持者は、カリー中尉の無罪を訴えていました。
戦争犯罪に関する22の罪状でウィリアム・カリー中尉が起訴され有罪判決を受けたのは、
ベトナムにおけるアメリカ政府の「勝ち目のない政策」のせいだという理由です。

■ 政府の監視

ニューヨーク市警察は、反戦活動家たちを監視していました。

このファイルは、平和のための婦人運動の更新に関する報告書です。
調査員はまた参加者の特定を行うためにデモを写真撮影していました。

こういった監視はニクソン政権下で大幅に強化されました。

この増加に加担したのは州および地方の警察署、大学のセキュリティオフィス、
FBI、CIA、NSA、そして陸海空軍の諜報機関などでした。

諜報活動員は盗聴を行い、手紙を開封し、情報提供者を募りました。
彼らはまた、反戦活動を撹乱するために個人的な信用を失墜させる工作を行いました。

具体的な工作は、その人物について嘘を広め、結婚を破壊する、
職場を解雇させる、そして損害を与えるような競争を誘発することなどが含まれます。

1971年、ある反戦活動家がFBIのオフィスに強盗に入り、監視や妨害行為など
工作の証拠を明らかにするファイルを見つけました。

1975年、フランク・チャーチ上院議員が率いる超党派の上院委員会が
この件について調査を行った結果、

「実質的に不正である諜報活動が行われたことは事実であり、
これらの工作は、アメリカ人の憲法上の人権保護に反する」

と結論づけています。

 

 

続く。

 

 


ニクソン大統領の「ベトナム化」と映画「パットン」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-16 | 歴史

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、次の展示は
先頃終了した同じピッツバーグの「兵士と水兵の記念博物館」のシリーズで
ご紹介した、タイムの特集、

ONE WEEK'S DEAD(1週間の死)

が紹介されていました。

おそらく、これがライフ誌が掲載した全ページだと思われます。

「ベトナムで死んだアメリカ人の顔 一週間の数」

One Week 's Toll

というここでのタイトルに使われた言葉ですが、「Toll」には

「死者を弔って鳴る鐘」

という意味もあります。
このコーナーのタイトルは

「RISING  DEATH TOLL」

で、「増加する死者数」という意味となります。
ライフ誌は、この一人の青年の顔と11の単語からなる厳しい言葉の表紙の、
いまだに物議を醸している特集記事を掲載しました。

 

リチャード・ニクソン大統領は、アメリカの威信と南ベトナムの非共産主義化を
守り、維持するための戦いを続けました。

しかしながら、アメリカ人のベトナムでの死者数の増加につれて
高まっていく厭戦のムードは、大統領にそれを終わらせるように圧力をかけました。

「我々は立ち止まり、
その人々の顔を直視しなければならない。

何人が亡くなったのか、だけではなく
『誰が』亡くなったのかを知るために」

このように書かれた1969年6月27日発行のライフ誌の記事は、
国民の受けた衝撃をさらに具体的な形にしたものとなりました。

しかしながら、ここで大変重要なことを書いておかなくてはなりません。
わたしは前回「兵士と水兵のための記念博物館」展示の紹介で、
当然ながらライフ誌のこの「顔」は、全員が1週間で死んだ兵士である、
と信じ切っていたのですが、どうもそれは違っていた、つまり
これはライフ誌の「暴走」というか「印象操作」であったらしいのです。

そのことについてはちょっと後に回すとして、アメリカ国民に
この記事が衝撃を与える前に、別の衝撃的な作戦がベトナムで行われました。

それが1969年5月の「ハンバーガー・ヒル」と呼ばれた
(第一次世界大戦風にいうなら)「肉挽き機の戦い」でした。

■ ハンバーガー・ヒルの戦いを受けて

「ハンバーガーヒル」の戦いとは1969年5月10日から20日にかけて行われた戦闘です。

主に歩兵同士で行われたこの戦いで、米空挺部隊は、鬱蒼としたジャングル、
二重三重となった竹の茂み、腰まで届くエレファントグラスに覆われた荒野で
強固な部隊と対峙し、直接攻撃で丘を奪い、PAVN軍に多大な犠牲者を出しました。

この地で戦った米兵は、朝鮮戦争の「ポークチョップヒルの戦い」になぞらえて、
この丘で戦った者が「ハンバーガーの肉のように挽かれた」という意味で
「ハンバーガーヒル」と呼んだのでした。

終了後、「ハンバーガー・ヒル」の戦いは「アパッチスノウ」なる作戦の拙劣さと
その結果に対し、議会では、特にエドワード・ケネディ、ジョージ・マクガバン、
スティーブン・M・ヤングの各上院議員が、軍のリーダーシップを厳しく批判しました。

そして、6月27日発売の『ライフ』誌に、

「ベトナムで1週間に殺された242人のアメリカ人の写真」

が掲載され、これが結果的に、ベトナム戦争に対する
否定的な世論の分岐点になった、と考えられています。

ここで一つの大きな問題は、

掲載された241枚の写真のうち、
実際の戦死者の写真は実は5枚だけだった

と一部では言われていることでしょう。

ちょっと待ってください。

てっきり「開戦から1週間でこれだけが死んだ」ってわたし思い込んで、
以前にもそう書いてしまったんですけど。

そこではっと気づいてハンバーガーヒルでの米軍戦死者数を調べたら、

10日間で72名(行方不明者7名)

って全然数が違うんです(困惑)

勘違いさせられたのはもちろんわたしだけでなく、当時、多くのアメリカ人は
雑誌に掲載された写真はすべて戦死者であると認識していたのでした。

「タイム」の記事から、もう一度(前回と同じ部分になりますが)
翻訳しておきましょう。

「ベトナムでの戦争に関連して殺されたアメリカ人男性の顔である。
242名の名前は、5月28日から6月3日(1969年)までに発表されたもので、
メモリアル・デーを含むことを除けば、特別な意味を持つものではない。

死者の数は、戦争中の7日間としては平均的なものである。

この記事は、死者を代弁することを意図したものではない。
彼らが世界を駆け巡る政治的潮流をどう考えていたのか、正確に伝えることはできない。

何人かの手紙からは、彼らがベトナムにいるべきだと強く感じていたこと、
ベトナムの人々に大きな共感を抱いていたこと、
そして彼らの膨大な苦しみに驚愕していたことがうかがえる。

自発的に戦闘任務の期間を延長した者もいれば、帰国を切望していた者もいた。

これらの写真のほとんどは彼らの家族から提供されたものであり、
彼らの多くは息子や夫が必要な目的のために死んだという感情を表していた。

しかし、この戦争で死亡したアメリカ人の数が3万6,000人で、
ベトナム人の犠牲者にははるかに及ばないものの、朝鮮戦争の死者数を上回っているとき、
国民は毎週のように、国中の何百もの家庭で直接的な苦悩に変換される
3桁の統計にしびれを切らし続けている。

私たちは立ち止まって顔を見なければならない。
何人なのかを知る以上に、誰なのかを知る必要があるのだ。

家族や友人以外には知られていない1週間の死者の顔が、
このアメリカの若者の目のギャラリーでは、誰もが突然認識できるのである」


確かに、ベトナムで亡くなったのは膨大な数の人間です。
しかし、亡くなってもない人の写真を死んだと思わせるように編集し、
掲載するというのは、ジャーナリズムにあってはならないことでしょう。

この号には

"写真を見ていて、昔の知り合いの笑顔を見てショックを受けました。
彼はまだ19歳でした。
19歳の若者が死ななければならないなんて考えてもいませんでした”

という手紙が寄せられたといいますが、その知り合いの19歳の青年が
本当に死んでいなければ、タイム誌はこの人に何と説明するつもりだったのでしょうか。

しかし、このことに言及しているのは「ハンバーガーヒル」についての
英語のWikipediaのみで、他からの確証を得ることもできず、このベトナム展でも

「ハンバーガーヒルの数日後、ペンタゴンは1週間の間に前線で亡くなった
242名のアメリカ人の名前をリリースしたので、ライフ誌が彼らの写真を掲載した」

とされ、241名(1名数が合わない)が戦死者だということになっています。

これ以上わたしにも調べようがないので、この話はここまでしか言及できません。

■  WINNING AMERICA'S PEACE(アメリカの平和を勝ち取る)

タイムの「顔」はこのようなコーナーの一部分にあります。
そして、その中に、

「アメリカ軍の撤退とベトナミゼーション」

というサブタイトルがありました。
「ベトナムゼーション」とはどのようなことでしょうか。

1969年6月、ニクソン大統領は国民の不満を鎮めるために
徐々に米軍をベトナムから撤退させ始めました。

12月には彼はついに徴兵ドラフトを「くじ制」に変更しました。

徴兵がロータリー(くじ)に代わるというニュースをラジオで聴く
サンフランシスコ大学の学生三人。

徴兵局(セレクティブサービス)はまた、1971年に学生の徴兵延期を排除し、
草案をより公平なものへと変更し、大統領が、国防長官のメルヴィン・レアードとともに

『ベトナミゼーション』(ベトナム化)

と呼ばれた政策とアメリカ軍の撤退を結びつけました。
米軍その他外国の軍隊は手を引いて、北ベトナム対南ベトナムといったように、
戦争をベトナム人同士でお好きにやってくださいな、というわけです。

まあ、なんのことはない、テト行勢のあと、勝利の可能性がなくなり、
国内の不満が高まったため、ニクソンは戦争を南ベトナムに押し付けて
自分はもう手を引く気満々だったということですね。

いったい何処のどいつが始めた戦争だ、と誰もつっこまなかったのは、
世間のムードがすっかり撤退一色になっていたからだと思われます。

冒頭に挙げたのと同じ「タイム」の表紙には、帰国する米兵と
「帰国開始」という文字があしらわれました。

これが「顔」の号より1週間前の発売なのです。

トマホーク火力支援基地の米軍旗が後納され、代わりに
南ベトナム政府の旗が掲揚されるという象徴的な儀式の様子。

基地は第101空挺団からARVINの第5大隊に移譲されます。
1971年の写真です。

■ AIR WAR (空爆)

 

「アメリカの飛行機は700万トンもの爆弾を
戦争の期間南東アジアに投下した」

何かと評判の悪い()アメリカ軍のベトナム空爆です。

前記のように、地上部隊の数が急激に減少する中、アメリカ軍は
ベトコンと北ベトナム軍を打ち負かすために空軍力に多くを頼りました。

攻撃場所は南ベトナムとラオスが対象でした。

1969年、ニクソンは密かにカンボジアを襲撃し始めました。

このカンボジア作戦は、ベトナム戦争とカンボジア内戦の延長線上で、
1970年に南ベトナムとアメリカが、公式には中立国であった
カンボジア東部で行った短期の一連の軍事作戦です。

この作戦の目的は、カンボジア東部の国境地帯にいたベトナム人民軍(PAVN)と
ベトコン(VC)の約4万人の部隊を敗北させることでした。

アメリカは繰り返すようにベトナム化と撤退の方針を打ち出しており、
国境を越えた脅威を排除することで南ベトナム政府を支えようとしたのです。

W・エイブラムス将軍は、ニクソン就任直後にカンボジアの軍事地域を
B-52ストラト・フォートレス爆撃機で爆撃することを勧告しました。

ニクソンは当初拒否しましたが、1969年のテト攻勢で限界が訪れ、決心しました。

結局彼はこの秘密の航空作戦を許可し、14ヶ月間に3,000回以上の出撃が行われ、
計108,000トンの爆弾がカンボジア東部に投下されることになります。

国家安全保障顧問だったヘンリー・キッシンジャーによると、1970年初頭には、
ニクソン大統領は非常に包囲されていると感じており、

「自分の失脚を企てている世界に対して暴言を吐きたかった」

のだそうです。

ニクソンは1969年11月1日までにベトナム戦争を終結させることを誓ったのですが、
それが果たせず、1969年秋には最高裁への指名が2回も上院で否決されることになりました。

そして、1970年2月、ラオスでの「秘密の戦争」が明らかになったのです。

 政府がラオスで戦って死んだアメリカ人はいないと発表した2日後、
27人のアメリカ人がラオスで戦って死んでいたことが明らかになり、
ニクソンの国民の支持率は急激に下落することになります。

 

ところで冗談のような話ですが、当時ニクソン大統領は、
ジョージ・S・パットンJr. 将軍の伝記映画『パットン』にハマっていました。

Patton | #TBT Trailer | 20th Century FOX

この作品でパットンは孤独で誤解された天才であると描かれているのですが、
ニクソンはそんなパットンを自らに擬え、世間から評価されていなかったパットンに
異常に感情移入して、この映画を何度も何度も何度も何度も繰り返し見た挙句、側近に
我々も映画の主題を理解しそうなるべきだと実際に言ったのだそうです。

特にニクソンは、

「我々はまだベトナムでのコミットメント(関与)に真剣である」

ということを証明する壮大な軍事行動を起こすことが、アメリカの利益にかなう形で
パリ和平交渉を終結させるかもしれないと考えていたことが、この
秘密の攻撃を起こすことにつながりました。


結局、アメリカが南東アジアに戦争中投下した爆弾は、
第二次世界大戦の時の3倍とも4倍とも言われる量となりました。

「絨毯爆撃」などという言葉も、この戦争で生まれたものです。

この合計の半分以上が南ベトナム上空から落とされました。

「国中の人に死をもたらす戦争がありました。
田んぼや野原、村で働いていた人々が空爆を受けました」

ラオスで空爆を経験し、生き残った人が描いた絵です。

■ クラスター爆弾

各2000ポンドのクラス爆弾一つには、対人断片爆弾が665個含まれています。
内蔵されているのは600個の鋼片に加えて爆発物と信管でした。

爆弾は衝突時、またgは衝突後の事前に設定された時間に、
地上30フィートで爆発するように設計されていました。

ここに展示されている爆弾は訓練のために作られたもので青色は不活性を意味します。

 

続く。

 

 


「ケント州立大学事件」ピッツバーグにおける反戦の歴史〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-14 | 歴史

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展から、まず
反戦運動と同時に起こり、ジョンソン政権の基盤を危うくした
公民権運動の象徴、「ブラック・サリュート」についてお話ししました。

今日は、ここピッツバーグで繰り広げられた反戦活動を取り上げます。

「サイゴンでの路上の処刑」はアメリカの全国民に、戦争の大義に対する疑問を与えました。
反戦運動が激化するきっかけになった一つの写真です。

息子たちを戦場に送っている母親たちの反戦デモ。

1967年、母の日に彼女らはワシントンに手紙を書くというキャンペーンを行いました。

「今年の母の日にわたしは花は欲しくない。
殺害を終わらせてください」

彼女らはロビー活動や座り込みやスーパーマーケットや教会でのチラシ配りと
どこでも現れて反戦を訴えました。

1967年、ムハマド・アリが徴兵を拒否しました。
彼は良心的兵役拒否者の地位を主張しましたが、政府は彼を起訴し、
懲役刑を言い渡し、ボクシングのタイトルを剥奪しました。

「何故彼らはわたしに軍服を着せて1万マイル離れたベトナム人に
爆弾を落としたり弾丸を撃ち込むことを頼まなければならないのに、
「ニグロ」と呼ばれるルイビルの人々は犬のように扱われるのでしょうか?

もし戦争に行くことが彼らのいうように自由をもたらすならば、
そしてそれが2,200万人に平等ならば、彼らはわたしを徴兵する必要などないのです。

わたしは明日にでも入隊するでしょう」

彼はこの姿勢を称賛され、あるいは罵倒されました。
彼が再びボクシングに戻ることができたのは3年を待たなくてはなりませんでした。

彼は最終的に最高裁の訴訟で勝利しています。

「サポート・アワ・メン」(兵士支援)は、

「戦争賛成ではなく、アメリカ賛成」

という考えの人たちの運動です。
反戦運動家たちに腹を立てているのではないが、戦争に反対することはアメリカ人ではない、
あるいは

「アメリカを愛せないのなら出て行きなさい」

という考えで、主に在郷軍人会などに支持されました。
写真左上は車のバンパーに付けるメッセージで、

「我々の息子たちをベトナムに戻せ」

と書いてあります。

 

■ピッツバーグでの反戦活動

まず「STOP THE WAR」という巨大なバナーが登場しました。

ピッツバーグの活動家、デイビッド・ヒュージスは、パイレーツの試合の始まる
スタジアムが、最も効果的に彼らの主張を伝えることができる場所と考え、
バルコニーからバナーを落としたのですが、たちまち警備員がやってきて
止めるようにと言われたそうです。

やっちまった証拠

ヒュージスはその後も熱心な反戦活動家として、たとえばピッツバーグ大学が
戦争に協力したという証拠がないかと文書を調べるなどということもしています。

ピッツバーグでは、かつて労働組合のために戦った多くの労働者、
(社会主義者)が市民運動の背後に集まり、拡大するベトナム戦争に反対し始めたときが
いわゆる「ターニングポイント」となったといえます。

 

1940年代の労働組合のリーダーかだ1960年代の活動家リーダーへと移行した
チャールズ・オーウェン・ライス(Charles Owen Rice)ほど、
この変化を象徴する存在はありません。

1967年のデモで、マーチン・ルーサー・キングJr.博士の右側にいるのが
ライスで、彼はカトリックの司祭であったため、教皇庁の上級クラスに対する敬称、
「Monsignor」(モンシニョール)が付けられてモンシニョール・ライスとなっています。

ピッツバーグ教区で司祭に叙階されたライスは、社会的な活動、特に
アメリカの労働運動に傾倒し、「カトリック急進同盟」のリーダーとして、
H.J.ハインツ社に対するストライキに参加したこともあります。

(そしてこれが展示されているのはハインツの資産であった歴史センターです)

わたしは少し驚いたのですが、カトリック教会の組織に
「カトリック労働組合員協会」を結成したのも彼の貢献があってこそです。

ベトナム戦争について、反戦活動家の連合体である

「ベトナム戦争を終わらせるための全国動員委員会」

の初期の組織者であり、貢献者でもあり、1967年4月にニューヨークで開催された

「ベトナム戦争を終わらせるための春の動員」

の最初のデモに参加しました。
MRKと一緒の写真はこのときのものです。

しかし、一説によると、司祭が組合の労働者ではなく、反戦と
公民権運動のムーブメントを受けて人種不平等を説き始めると、
彼の最も熱心な支持者であった、白人労働者階級のカトリック教徒たちは
彼に裏切られたと感じ、離れていったとされます。

ピッツバーグでの反戦運動は大学や草の根組織に根ざしており、
白人労働者階級のメンバーはほとんどおらず、彼の信者のほとんどは
ベトナム戦争と共産主義の封じ込め政策を支持する立場でした。

もちろん中には戦争について個人的に疑いを抱いている人もいたでしょうが、
そんな彼らもライス司祭の反戦活動については懐疑的でした。

当時、戦争に反対することは軍隊に反対することと同等であり、
実際にベトナムで死んでいくのはほとんどがカトリックと黒人労働者階級の息子でした。

戦争で23人の戦死者を出したマッキーズポートの町は、
1966年、国内で初めてとなるベトナム戦争の慰霊碑を建立しています。

1969年、ピッツバーグのダウンタウンで行われたデモ行進で、
リードするモンシニョール・ライス。(眼鏡の人物)

写真の「平和と正義のための行進」の開催を告知するチラシ。

こ日曜日の午後、ヒル地区のフリーダムコーナーから
ダウンタウンを通って、ポイント州立公園までを歩くということが書かれています。

モンシニョール・ライスと弁護士のバード・ブラウンらが行進の共同議長を務めました。

フィフスアベニュー(MKが以前住んでいたアパートのある通りです)
で、ベトナムの少年たちの写真を掲げて戦争反対をスピーチする
ピッツバーグ地元の活動家、テッド・ジョンソンとビル・アーチャー(右)。

「こんなことのために戦う価値があるのか!」

と書かれた大きな文字の下には、

「ベトナムにいる我々の息子たちを返せ」

という反戦運動の定型句となった言葉が書かれています。


おお、これは誰が見ても一眼でわかる、ピッツバーグ大学の「学びの塔」。

「僕の従兄弟は行った 

僕たちはどうすれば?」

「行った」が「逝った」という意味であるらしいことは、
墓石の絵によって表されています。

写真に写っているデイビッド・ワルドはピッツバーグ大の学生でした。

「貧困のために戦え!ハノイのためにではなく」

1968年、ケネディ大統領が決定したベトナムへの武力行使に反対する
ピッツバーグのコミュニティアクションとしてのデモです。

JFKはリベラル派には特に支持されて人気のある大統領で、暗殺される1カ月前に、
1963年までにアメリカ軍将兵1000名を撤退させる計画を承認していたことから、

「彼が暗殺されていなければ、アメリカ軍はベトナムからもっと早期に撤退していた」

といかにも彼がリベラルだったように印象操作されていますが、
ロナルド・レーガン政権の誕生以前に、軍拡を歴史上最大の規模で押し進め、
1961年に失敗したキューバ侵攻計画、「ピッグス湾事件」を後押ししたのも彼だし、
ベトナムに武力を送る決定をしたのは他ならぬケネディだったわけですから、

「彼がもう少し早く暗殺されていたら、
ベトナムへの派兵は無かったとは言わないが、
逆にもっと遅かったかもしれない」

ということもできるわけです(いじわる?)。

そもそも白人のエスタブリッシュ出身で、第二次世界大戦では
PTボート艇長として死にかかった元軍人が左翼になるか?

とわたしなどうっすら思っていたりするわけですが、
当人もはっきりと、
自分はリベラルではないと断言していたようですね。

したがって、公民権についても、社会状況と立場上そうせざるを得なくなって、
渋々というか仕方なく任期最後に推し進めた、といわれております。

「テッド・マーシュをサポートしよう!」

というチラシです。


1968年1月、宣教師の息子であったテッド・マーシュは、戦争を
「非人道的、不公平、違法」であると講演で述べました。

彼は1967年に徴兵カードを受け取ったとき、他の8名とともに、それを
徴兵局ではなく、モンシニョール・ライスに提出?し、徴兵拒否を表明しました。

2月、彼は兵役拒否の摘出起訴されましたが、のちに「技術的な理由で」
起訴は取り下げられることになり、彼は最終的にその年の10月陸軍に入隊しました。

そのときの彼の発言です。

「信念は愛国心の欠如を意味するものではありません」

彼の徴兵拒否をサポートした人たちはこの発言をどう思ったでしょうか。

ピッツバーグのアフリカ系アメリカ人、ロン・サンダースは反戦運動家でしたが、
「良心的兵役拒否者」カテゴリ1-O-Aとして陸軍に徴兵入隊を行い、
フォート・サム・ヒューストンに駐屯しました。

メキシコオリンピックの「ブラックパワー・サリュート」の再現でしょうか。
高々と拳をあげるサンダース。

彼は公民権運動に共感する黒人とラテン系GIの戦争抗議者を組織し、
「フォートサム7」と名乗っていました。

ロン・サンダースと「フォートサム7」のメンバーたち。
6人しか写っていませんが、一人がシャッターを押しているのでしょう。

 

■ 反戦デモばかりではなかった

1969年9月、ピッツバーグのある高校で起きたデモについて、
このような報道が残っています。

突然、約100人の州外から「ヒッピー系」の少女たちが車で侵入し、
ベトナム戦争に抗議するデモを始めたため、校内は混乱に陥りました。

「"Jail break!  学校を閉鎖しろ!」

と皆は口々に叫び、生徒を授業から解放して
反戦運動に参加させようとしたのです。

彼女らはなぜかベトコンの旗を振り、教師を殴り、半裸で走り回りました。

その結果、20人の若者が逮捕されましたが、このとき
なぜサウスヒルズがデモの対象になったのかは最後まで不明でした。

 

ピッツバーグでの反戦デモは、ワシントンやニューヨーク、そして
サンフランシスコほどの人数を集めることはできませんでしたが、だからといって、
「スチールシティ」の住民がベトナム戦争に対し沈黙していたわけではありません。

1960年代から70年代初頭にかけて、何千人ものピッツバーグ市民が様々な形で声を上げ、
ピッツバーグのダウンタウンや地元の大学キャンパスで行進や抗議活動を行いました。

しかし、これらの反戦運動がベトナム戦争に従事する人々を
ある意味不快にさせていたのも事実のようです。

あるピッツバーグ出身のベトナム戦争従事者は、戦地からの手紙にこう記しました。

「わたしや他の多くの人々を苛立たせているのは、わたしたちアメリカ人が
ここにいることに抗議するデモが国内で公然と行われていることです」

彼もまた 他の兵士と同様に、ピッツバーグがアメリカの他の都市ほど
積極的に戦争反対の声を上げていないことをむしろ評価しており、
つまり、アメリカの反戦感情には「心を痛めていた」ということになります。


このように、当時行われたデモが、必ずしも反戦を表明するものばかりではなかった、
ということはここで書き留めておかなくてはならないでしょう。

共産主義の戦いのために海外の軍隊を派遣することを支持し、
現実に出征している軍隊への賞賛を表明しようとするデモもあり、
これらは反戦デモとしばしばにらみ合いになっていました。

■ ピッツバーグ最大の反戦デモ

1969年10月、ピッツバーグのダウンタウンで行われた大規模な反戦デモ。
数多いですが、拳を振りあげたり大声で叫ぶ様子もなく、
中には隣の人と喋りながら歩いている人もいるようです。

BLMの暴動の時、多くの商店が略奪され、破壊されていたにもかかわらず、
当時のBBCニュースが、その映像に対し

「平和的なデモです!」「平和的なデモです!」

と連呼しているのをリアルタイムで見ていて、

「どこが平和的やねん!」

と思わずツッコミ担当になってしまいましたが、こういうのが平和的なデモっていうんだよね(棒)

それはともかく、これがピッツバーグにおける最大の反戦集会となりました。
何千人もの人々が、注目を集めることを期待して、
わざわざ夕方のラッシュアワーにダウンタウンの街に繰り出したのです。

写真を見ていただければわかりますが、構成人員はいかにも大学教授のような人、
主婦、髭を生やしていない学生、退役軍人などです。

ピッツバーグ周辺で反戦デモの先頭に立っていたのは、サウスヒルズ高校のような
若い「ヒッピー系」だけではないことがおわかりいただけるでしょう。

 

■ ケント州立大学銃撃事件

「ストップザウォー」のバナーの左上に見える、
赤い拳のうえに「ストライク」と書かれたTシャツは、

「ストライクTシャツ」

といいます。

Allison Krause.jpg
1970年、ニクソン大統領がカンボジア侵攻を発表したあと、
多くのピッツバーグの大学生が復活された反戦抗議に加わりました。

ピッツバーグの住人でオハイオのケント州立大学生だったアリソン・クラウス
カンボジアへの侵攻や大学のキャンパスでの州兵駐留への抗議活動中、
オハイオ州陸軍州兵の兵士に他3名の学生とともに射殺された

「ケント州立大学銃乱射事件」

を受けてのことです。


ピューリッツァー賞を受賞した銃撃直後のシュローダーの写真

このとき州兵は非武装の学生グループに約100mの距離から、
13秒間に67発の銃弾を発射し、この銃撃事件でアリソンの他、
ジェフリー・グレン・ミラー、サンドラ・リー・ショイヤー、
ウィリアム・ノックス・シュローダーが亡くなり、9名が負傷しました。


左から、ミラー、クラウス 、リー、シュローダー

この銃乱射事件は、抗議行動や全国的な学生ストライキを引き起こしました。
ベトナム戦争の時には比較的静かなデモを行ったピッツバーグでしたが、
この事件に対してはピッツバーグ大学、カーネギー・メロン大学、カーロー大学、
ポイント・パーク、ロバート・モリス大学、アレゲニー・コミュニティカレッジ
つまりピッツバーグのほとんど全ての大学が授業をボイコットし、
ストライキに参加し、
連邦ビルでの行進と抗議を行いました。

 

 

続く。

 

 


ブラックパワー・サリュートと忘れられた銀メダリスト〜公民権運動 

2021-06-12 | 歴史

 

ピッツバーグのハインツ歴史センター「ベトナム戦争展」は、
決してベトナムにおける戦闘そのものに焦点を当てていません。

むしろ、発生に至る経緯から戦争継続中の世論、大統領選、
そして反戦運動など、アメリカ国内がそのときどうだったか、
という面から語っていることの方が多いと感じました。

というわけで、国内を席巻した学生運動や公民権運動など、
全米を巻き込んだ反政府運動の色々から、今日は
来月本当に行われるかどうかさえわかっていないものの、
もうすぐ東京オリンピックなので(なんか変な響きだな)
冒頭写真の、
オリンピックの表彰台で起きた事件についてお話しします。

ちなみに昨日所用で六本木に行きましたが、ガイジンサンの姿が多数観られ、
近隣のホテルには関係者がすでに宿泊しているとのことでした。

ほんとにやるみたいですね。

■  BLACK POWER SALUTE

1968年10月16日。

メキシコシティのオリンピックスタジアムで行われたメダル授与式で、
200メートル走で金メダルと銅メダルを獲得したアフリカ系アメリカ人選手の
トミー・スミスジョン・カルロスの二人は、
アメリカ国歌の演奏中に、それぞれ黒い手袋をはめた拳を上げ、
表彰台でアメリカの国旗に向かって、国歌が終わるまで手を上げ続けました。

おそらく皆さんも一度はこの写真をご覧になったことがあるでしょう。

そしてぜひ心に留めておいて欲しいのは、このとき銀メダルだった
オーストラリア選手、ピーター・ノーマンもまた、スミスとカルロスが
ユニフォームに付けているのと同じ人権バッジを胸につけていたことです。

約30年後に出版された自叙伝『Silent Gesture』の中で、
スミスは、あのジェスチャーは「ブラックパワー」そのものではなく、
「人権」のための敬礼だったとしています。

「ブラックパワー・サリュート」は、近代オリンピックの歴史の中で、
最もはっきりした政治的主張ののひとつとされています。

 

この競技でトミー・スミスは19秒83の世界記録を出して優勝しました。
オーストラリアのピーター・ノーマンは20秒06で2位、そして
ジョン・カルロスは20秒10で3位となりました。

レース終了後、3人は表彰台に上がり、メダルが授与されました。
スミスは「ブラック・プライド」(黒人の誇り)を表す黒いスカーフを巻き、
カルロスはアメリカのブルーカラー労働者との連帯を示すために
トラックスーツのジッパーを開け、

「リンチされたり、殺されたり、誰も祈ってくれなかったり、
吊るされたり、タールを塗られたりした人たちのために」

という意味を持つビーズのネックレスを見せるようにしました。

公民権運動を受けて、メキシコオリンピックでは
黒人選手に大会のボイコットを呼びかける運動家もしました。
彼らの行動は、彼らのに触発されたものだと言われています。

■ 表彰台

両選手はアピールのための黒い手袋を持参するつもりでしたが、
カルロスは手袋を忘れてオリンピック村に置いてきてしまいました。

そこで彼にスミスの左手用グローブをつけることを提案したのが、
オーストラリアの銀メダリスト、ピーター・ノーマンだったのです。

この「黒い敬礼」は世界中で一面のニュースとなりました。
スミスはこういっています。

「もしわたしが勝てば、勝ったのは黒人ではなく『アメリカ人だった』と言われ、
逆にもし何か悪いことをしたら、そのときは『黒人だった』と言われるでしょう。

我々は黒人であり、黒人であることを誇りに思っています。
ブラック・アメリカは我々が今夜やったことを理解してくれるでしょう」

 

■  国際オリンピック委員会の対応

国際オリンピック委員会(IOC)の会長であるエイブリー・ブランデージは、
自身もアメリカ人であることから、このデモンストレーションは
オリンピックという非政治的で国際的な場にふさわしくない政治的主張であると判断し、
両選手の競技参加停止とオリンピック村への立ち入り禁止を命じました。

米国オリンピック委員会がこれを拒否すると、ブランデージは

「米国のトラック競技チーム全員を追放する」

脅しした。
これにアメリカ側は屈し、2人のアスリートは大会から追放されました。
ただし、このときIOCはメダルの返還を強制していません。

このときIOCに寄せられた非難の一つに、

「ブランデージは 米国オリンピック委員会の会長を務めていた
1936年のベルリンオリンピックの際、ナチスの敬礼に対して
異議を唱えていなかったではないか」

というものがあります。
しかし、彼は

「ナチスの敬礼は当時の国家の敬礼であり、国家間の競争では許容されるが、
彼らのパフォーマンスは国家を代表したものではないため許容されない」

と主張しました。

ナチスが戦後絶対悪とされたという歴史を考慮したとしても、わたしには
正直ブランデージのこの理屈はそんなに無茶なものではないと思えます。

国内の政治主張をオリンピックで行ってもそれが罰せられない、
という前例を作れば、我も我もと表彰台をアピールの場に利用する選手が
後を絶たない、という結果になるのは誰が見ても明らかだからです。

しかしながら、人権派から見て、このブランデージという人物は、

第二次世界大戦勃発後もアメリカで最も著名なナチスシンパの一人として告発された

つまり「戦犯」であり、彼をIOC会長から解任することは

「人権のためのオリンピック・プロジェクト」

の目的のひとつになっていたくらいですから、彼らには
この主張も受け入れられるはずがありませんでした。

■ 余波

スミスとカルロスは、アメリカのスポーツ界からほとんど追放され、
激しい批判にさらされました。

1968年10月25日付の『タイム』誌は、

「『より速く、より高く、より強く』がオリンピックのモットーであるはずなのに、
メキシコシティでは『怒り、悪意、醜さ』が表された」

と彼らの行動を強い口調で非難しました。

故郷でもスミスとカルロスの二人は罵倒の対象となり、
彼らとその家族は殺害の脅迫まで受けることになりました。

「黒皮を被ったストーム・トルーパー・カップル」

「無節操で」「幼稚で」「想像力に欠けている」

こんな非難が公的に浴びせかけられたのです。

ちなみに、いまどき「ストームトルーパー」というと、皆さんは
スターウォーズのあの人(?)たちというイメージしかないかもしれませんが、
スターウォーズが誕生するのはこの10年も後のことであり、この時この言葉は、

ナチスの突撃隊(Sturmabteilung=SA)

を意味していました。


オリンピックでの競技資格は剥奪されたものの、スミスはその後も陸上競技を続け、
フットボールのNFLのシンシナティ・ベンガルズでプレーした後、
桜美林大学の体育学の助教授を務めていましたが、1995年には、
コーチとして世界室内選手権でアメリカチームに復帰しています。

彼が一時期日本に渡ったのは大変賢明で、その間に世界の人権状況も代わり、
アメリカでも彼個人は非難の対象にならなくなっていました。

1999年には、

「カリフォルニア・ブラック・スポーツマン・オブ・ザ・ミレニアム賞」

を受賞。
現在は講演活動を行っています。


カルロスのキャリアも同様の道をたどりました。

オリンピックの翌年には100ヤード走の世界記録に挑戦し、
彼もプロフットボールの選手としての道を模索しました。

その後、家庭内の問題から鬱になったりしましたが、1984年のオリンピック、
ロサンゼルス大会の組織委員会で職に就くことができました。

その後高校のチームコーチを経て同校のカウンセラーを務めています。

オリンピック直後こそ非難の矢面に立った二人ですが、時代の変遷を経て
世論も代わり、2008年のESPRY賞で、彼らの表彰台での行動を称える

アーサー・アッシュ・カレッジ賞

を受賞しました。

BLMムーブメントが左に振れ切った現在では、彼らを非難する者など
少なくともアメリカには皆無になったと思われます。

 

■ もう一人の「抵抗者」ピーター・ノーマン

さて、メキシコオリンピック200メートル走で銀メダルを獲得したノーマンは、
先ほども少し触れたように、スミスとカルロスの主張に共鳴し、彼らに助言を行い、
同じようにシンボルを身につけて表彰台に立ちました。

あまり言及されることはありませんが、彼はあの瞬間傍観者ではなく、
二人の抵抗者の側に立った「当事者」だったのです。

1968年のオリンピックの200メートル競技は、10月15日に始まり16日に終了しました。
ノーマンは、準々決勝では優勝、準決勝では2位となりました。

決勝でノーマン選手はアメリカのジョン・カルロス選手に追いつき、
最終的には追い越して、20秒06のタイムで2位になりました。

ノーマンのタイムは自己ベストであり、現在もオセアニアではこの記録は破られていません。

この時ノーマンが表彰台で
「オリンピック・プロジェクト・フォー・ヒューマンライツ(OPHR)」
を支援するバッジをつけるに至った経緯は以下のようなものです。

決勝戦の後、カルロス選手とスミス選手はノーマンに、セレモニーで
自分たちが何をしようとしているのかを話しました。

彼らはノーマンに、人権を信じているか、と尋ね、ノーマンが

「信じている」

と答えると、さらに続いて神を信じているかと尋ねました。
救世軍にいたこともあるノーマンは、

「強く信じている」

と答えました。
カルロスは後年、このときのことをこう語っています。

「わたしたちがやろうとしていることは、どんなスポーツの偉業よりも
はるかに大きなものだとわかっていました。
そして彼は我々に『君たちののそばにいるよ』と言ってくれました。

わたしは彼が感じているかもしれない恐怖を予想して
その目を覗き込むと、そこには愛だけがありました」

メダル授与式に向かう途中、ノーマンはアメリカボートチームの白人メンバーである
ポール・ホフマンが、OPHRバッジを付けているのを見て、ホフマンに
それを貸してくれないか、と頼んでいます。

カルロスが手袋を忘れたことを聞いて、スミスとカルロスに、
二人がそれぞれ右拳と左拳に手袋を付け、その手を挙げてはどうか、

と提案したのも、他ならぬノーマンでした。


しかしながら、「ブラック・サリュート」に加担したノーマンのキャリアは、
その後困難にさらされることになりました。

このイベントの "忘れられた男 "でありながら、非公式の制裁と嘲笑を受け、
「パリア」(インドカーストの最下層民、嫌われ者の意)として帰国したのです。

そして彼は二度とオリンピックに出ることはできませんでした。

メキシコの次、1972年のミュンヘンオリンピックでは、ノーマンは
幾度か予選タイムを記録していたにもかかわらず代表に選ばれず、
後述しますが、30年後のシドニー大会でも歓迎されませんでした。

 

ノーマンの運命について、カルロスは後に、

ピーターは国家に立ち向かい、たった一人で苦しんでいた」

と述べています。

 

ただし、ノーマンがミュンヘンオリンピック選手選考に漏れたことについて、
オーストラリアオリンピック委員会は、その理由を、

オリンピックの予選基準(20.9)と同等かそれ以上のタイムを出し
国内陸上競技選手権で信用できる成績を収めた選手でなければならない

という選考基準が満たされていなかったからだと主張しました。
ノーマンが記録を出したのは規定の大会ではなかったから、という理由です。

 

こんにち、ノーマンがミュンヘンに出場できなかったことについて賛否が分かれます。

しかし、選手権で事実ノーマンは勝てなかった(3位)わけですから、
選考委員会としても選びようがなかった、というのが真実だったのだろうと思われます。

彼はもともとサッカーチームのトレーナーの仕事をしていましたが、
選考に漏れた1972年以降は選手として67試合に出場し、その後はコーチになりました。

しかし1985年、チャリティーレース中にアキレス腱を断裂して壊疽を起こし、
危うく脚を切断するかもしれないという事故にみまわれ、その後しばらく、
鬱病、大量の飲酒、鎮痛剤の中毒に苦しみました。

 

2000年にシドニーでオリンピックが開催されたとき、
不調から立ち直ってスポーツ管理者となっていたノーマンは、
オーストラリアのオリンピックチームに貢献したにもかかわらず、
シドニーで行われた祝賀会に招待されませんでした。

このことを知ったアメリカの選手団は、ノーマンを
シドニーで行われたアメリカチームの祝賀会に招待しています。

 

2006年、ピーター・ノーマンはメルボルンで心臓発作のため死去しました。
64歳でした。

米国陸上競技連盟は、彼の葬儀が行われた10月9日を

「ピーター・ノーマン・デー」

とすることを宣言しました。

三人の男たちが表彰台に立って歴史に名を残してから38年後、
トミー・スミスとジョン・カルロスの二人が残る一人の葬儀の喪主を務めました。

2012年、オーストラリア下院はノーマンへの謝罪を正式に可決し、
アンドリュー・リー議員は議会で、ブラック・サルートを

「人種的不平等に対する国際的な認識を前進させた、
ヒロイズムと謙虚さの瞬間だった」

と評価しました。

また、2018年、オーストラリアのオリンピック委員会は、抗議活動に関与したことに対し、
ノーマンに、AOC功労勲章を授与し、ジョン・コーツAOC会長は

「当時彼が果たした役割を認識していなかったのは我々の怠慢だった」

と述べました。

しかし、こんにちスミスとカルロスについては、英雄化され、例えば
サンノゼ大学のキャンパスにはこのような像が建てられたりしているのに対し、
この誰もいない表彰台が象徴するように、ノーマンの存在はないことになっています。

この理由が、「ノーマンが白人だったから」ということに起因するなら、
それは現代のBLMにある「逆差別」「逆特権」、つまり黒人のみが人権を主張し
間違ったことも間違っていると言わせない「おかしさ」に通じるものがあるような気がします。

ちなみに、これをわたしが発言できるのはわたしが日本人だからであって、
もしこういうことをアメリカで発言すると、社会的バッシングを受けるでしょう。
それもまた普通に「おかしい」んじゃないの、と誰も言えなくなっているのが現代のアメリカです。

ちなみに、1972年のミュンヘン大会で、金・銀を獲得した
アメリカのアフリカ系選手、ウェイン・コレットヴィンセント・マシューズは、
国歌が流れている間、落ち着きなく不遜な態度を取り、これを咎められると
「わざとじゃない」と言い訳し、二人ともオリンピックからの永久追放となりました。

ちなみにこれがそのときの映像。

Premiazione Matthews e Collett

こんな態度に対しても、「ブラックパワー・サリュートだ」という
弁護の声があったというんですが・・いくらなんでもだめだろこりゃ(呆)

 

続く。

 

 


「いちご白書」 コロンビア大学騒乱と公民権運動〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-09 | 歴史

 

■ 1968年大統領選挙とは

大統領選挙はアメリカの社会的、政治的、人種的緊張を表面化させました。
戦争の侵攻に対する国民の不満と、テト攻勢不利の衝撃は、
ジョンソン大統領と彼の政権に大いなる危機をもたらしたのです。

ジョンソン大統領は、ベトナム派遣軍司令官ウェストモアランド将軍
20万人以上の派兵要求を拒否し、その後将軍を解任しました。
ジョンソン政権の国務長官、クラーク・クリフォードが、増兵は成功を保証しない、
と主張したためでもあります。

後任にはクレイトン・エイブラムスJr.将軍が充てられました。

3月31日、JBJはベトナムにおける一部爆撃停止を命じ、
和平交渉へのアメリカの関心を表明しました。

そして自身の再選を放棄することを発表して国内を驚かせました。

マーティン・ルーサー・キングJr.博士と、ロバート・F・ケネディ上院議員の暗殺です。

人権問題のシンボルと、反戦運動の担い手になろうとしていた若い議員、
彼らの死は、全米の民衆に悲しみと怒りを残しました。

特にキング博士の殺害は、各地で市民の不安を引き起こしました。
1968年の「エレクション・イヤー」に起きた暴動の数々は、
無秩序と無法が耐えがたいレベルに達したことを多くのアメリカ人は確信したのです。

人気抜群だった反戦派のケネディ。

「アメリカを和解の席に着かせるために大統領選挙に立候補します」

彼はこういって立候補表明を行い、ベトナム停戦を願う人々に
熱狂的に支持されました。

前回お話しした、反戦派のハバート・ハンフリー候補の支持者によって、
シカゴで行われた民主党大会の様子です。

こういうことから、民主党=平和主義、共和党=好戦的、というイメージが
かなり色濃くアメリカ人に刷り込まれているようですが、
そもそもベトナムに派兵を決めたのはロバートの兄ちゃんだったんですよね。

のちに撤退を決めたからとJFKを評価する向きも多いようですが、
そもそもベトナムで評価を落としたジョンソンだって民主党だったということを
アメリカ人はどう考えているのか、大変興味があります。

■ マッカーシーと「クリーン・フォー・ジーン」キャンペーン

「マッカーシズム」

という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

1950年代、アメリカで巻き起こった共産主義取り締まり運動で、
共和党員マッカーシーによって推進された「赤狩り」のことです。

ところが、この選挙から、マッカーシズムはむしろ
前者とは正反対の意味、つまり「ベトナム戦争反対」になったのです。

民主党のユージン・マッカーシー(1916−2005)は、
詩人であり、退役軍人であり、ベネディクト会の修道士であり、
ジョンソン大統領の再選に最初に異議を唱えた議員でした。

今回の「マッカーシズム」は

「クリーン・フォー・ジーン」(遺伝子のためにきれいになろう)

に賛同する1万人の若い支持者を魅了することになります。

その彼の大統領選立候補に際しての宣言はこのようなものでした。

「わたしは、この挑戦が、他の上院議員や政治家から支持されることを望んでいます。
この挑戦が、政治的な無力感を和らげ、多くの人々に
アメリカの政策に対する信頼を取り戻すことになると期待しています」

ニューハンプシャー州の予備選挙に向けて、マッカーシーは、
マスコミにはほとんど無視されていましたが、それにもかかわらず、
全米から反戦支持者と大学生らの多くの支持を集めていました。

彼らは1968年の選挙戦に、誰も想像しなかったような影響を与えることになります。

ニューハンプシャー州でマッカーシーに投票した多くの人々は、
「ヒッピー=抗議者」というイメージを払拭するために、
長髪、ひげ、口ひげを剃ってアピールを行いました。

これが「クリーン・フォー・ジーン」、つまりわかりやすくいうと、

「戦争をストップさせて未来に遺伝子を残すために
今、見かけを綺麗にして世論に訴えよう」

という意図を持つ選挙運動だったのです。

いざ選挙となったとき、気まぐれな反戦候補者と彼の「子供十字軍」は、
マスコミやジョンソンの代わりを探す民主党員にとってすでに重要視されず、
結果的に得票率は42%、ジョンソンの得票率49%も勝てませんでした。

しかしながら、マッカーシー=民主党内の反体制派がジョンソンを弱体化させた、
あるいは弱体化していることを明らかにしたのは事実です。

「身綺麗になった普通の若者たちによる反戦運動」によって、反戦運動は
ヒッピーや左翼の活動家の専売特許ではなくなっていることも明らかになりました。

多くの人々が、アメリカが東南アジアで何をしているのかを率直に検証し始めたのです。

 

これによってジョンソンは党内の自分の信頼が急速に失われていることを知り、
次の任期を求めないことを発表しました。

そして、その弱点を見抜いたもう一人の男、ロバート・ケネディが、
予備選の3日後に立候補を表明したというわけです。

マッカーシーはいくつかの予備選を勝ち抜きはしましたが、6月に
カリフォルニア州でケネディに敗れることになります。

もっともその直後にケネディは暗殺されてしまい、そのまま
民主党の人気者、ハンフリーと戦って敗れ、そのハンフリーもニクソンに敗れました。

マッカーシーの「全盛期」はおそらく「遺伝子キャンペーン」のときだったでしょう。
彼はその後一度として政治の檜舞台に躍り出ることはありませんでしたが、
一瞬燃え上がった火花が、盛り上がり、支持されて、現職大統領を追い詰め、
ある意味歴史を変えることになったのは確かです。

■ 1968年、騒乱の民主党大会 Democratic National Convention

現に、この「ナショナル・コンベンション」で、候補者を選ぶために
シカゴに終結した民主党員たちは、戦争をめぐって真っ二つに割れました。

これ以上開けられるだろうかというくらい大きく口を開いて、
おそらく政治主張を叫んでいる女性の形相と、ロールカラーに花柄の
ミニスカートのワンピース、そして髪を結んだリボンという当時フェミニンな流行が
なんとも言えないミスマッチな感じでゾクゾクしますね(笑)

この集会で、反戦派の代表団は、後述するユージーン・マッカーシー候補
そして泡沫候補のジョージ・マクガヴァンのいずれかを支持しました。

ジョンソン大統領の支持自社たちは、ハバート・ハンフリー候補を支持しました。

この政治的な葛藤は熱狂を伴い自然に大声の罵り合いに発展したわけですが、
結果、ハンフリーの指名が決まり、「反戦部隊」の失望は膨れ上がりました。

会場の外にいた反戦派の抗議者たちが暴動に発展するのを阻止するため、
シカゴのリチャード・デイリー市長は、催涙ガスと警棒をふるう武装した警察、
州警察、そして国家警備隊員をデモ隊に対して送りました。

バナーに「今日は、民主党員の皆さん」と掲げられた帽子には、
その下の警察隊を送ったデイリー市長の名前が・・・・。
なんと皮肉な取り合わせでしょうか。

そのシーンはテレビカメラに捉えられていて、抗議者たちの
繰り返されるチャントを全世界に映し出しました。

「全世界が見守っている!」

1968 Riots at the Democratic National Convention in Chicago | Flashback | History  

■ コロンビア大学のストライキ

1968年、ニューヨークのコロンビア大学で起きた一連の抗議行動は、
その年に世界各地で起きた様々な学生デモの一つでした。

この抗議活動では、学生が大学の多くの建物を占拠し、最終的には
ニューヨーク市警が抗議者を暴力的に排除したというものです。


1967年3月初旬、学生活動家であるボブ・フェルドマンが、国際法図書館で
コロンビア大学がアメリカ国防総省傘下で兵器研究を行っている、
という文書を発見したのがきっかけです。

文書の発見をきっかけに、大学の一部有志による反戦キャンペーンが展開され、
大学側に防衛分析研究所の資格を辞退することを要求しました。

大学側は活動家6名を保護観察処分にしました。

もう一つの理由は体育館建設の計画です。

建設予定地は公有地であるにもかかわらず、学校側は
当初計画された二箇所の出入り口のうち、黒人が多く住むハーレム側の入り口を
作らないという計画に変更しました。

しかも、1958年以来、大学所有地である予定地から大学側は
7,000人以上のハーレム住民を立ち退かせてきましたが、
そのうち85%はアフリカ系アメリカ人かプエルトリコ人でした。
ハーレムの住民の多くは、大学に家賃を支払っていました。

コロンビア大学の「人種政策」は学内の学生にも及び、黒人学生だけが
身分証明書を常にチェックされ、黒人女性は難しいコースに登録させない、
また、元黒人のフットボール選手を全員同じ位置に配置する
「スタッキングシステム」なるものまであったということです。


最初の抗議活動は、キング牧師の暗殺の8日前に起こりました。

学生の抗議者はコロンビア大学の体育館の建設現場まで行進し、建設作業を邪魔して、
建設現場を警備していたニューヨーク市警の警官と揉み合いを始めました。

その後デモ隊はキャンパスに戻り、教室とコロンビア大学管理局のオフィスを占拠しました。

しかし、デモの目的をめぐって活動グループは黒人と白人学生の間で分裂し、
別々に占拠を行い、自らデモ参加者を分離してしまったのです。
連帯どころか、内部が人種によって真っ二つに分かれてしまったのでした。

内輪で揉めているあいだに、ニューヨーク市警が催涙ガスでデモ隊を激しく鎮圧し、
約132人の学生、4人の教員、12人の警察官が負傷し、700人以上が逮捕されました。

暴力は翌日も続き、棒で武装した学生が警官と乱闘を行いました。

1968年5月17日から22日にかけては第二次抗議行動が行われ、
前回と同じホールを占拠しました。
警察はさらに177人の学生を逮捕し、51人の学生に暴行を加えたとされます。

■ コロンビア争議の余波

とはいえ、デモ隊は二つの目的を達成しました。

コロンビア大学は兵器研究につながるIDAとの提携を解除し、体育館の計画を破棄し、
代わりにキャンパスの北端の地下にフィジカルフィットネスセンターを建設しました。

この抗議活動の結果、少なくとも30人の学生が行政側から停学処分を受けています。

しかしながら、大学側にも学生に同情を示す教授がいたことも確かです。

ある教授は、

「座り込みやデモに理由がないわけではない。
抗議者たちは確かな理由もなく行動したのかもしれないが、
大学が学生を刑事告発することには反対だ」

と述べました。

コロンビア大学のキャンパスで起きた学生のデモは、大学というものが
実際には大学を取り巻く社会的・経済的な争いの影響を受けやすいことを証明しました。

歴史家のトッド・ギトリンは、

「想像力を競い合う派閥の間で、過激さが増し、
各自の孤立が深まり、憎しみが深まった」

と述べています。

数千人が参加した建物の占拠とそれに伴うデモは、大学全体の運営を麻痺させ、

「現代アメリカ史において最も強力で効果的な学生の抗議活動」

となりましたが、カリフォルニア大学バークレー校ケント州立大学での抗議活動の方が
はるかに世間に大きな影響を与えたことは論を待ちません。

コロンビアの学生運動は、ベトナム戦争の終結と同時に緩やかに収束に向かいました。
たまたまこのとき、ベトナム戦争と従前から起こっていた公民権運動が
相乗的に作用したことが、運動を激化させたという専門家もいます。


そしてコロンビア大学はその後よりリベラルな政策をとるようになりました。
今ではリベラルが度を越して左に振れすぎてえらいことになっています(笑)

このときコロンビア大学の学生だったジェームズ・クネンは、
1966年から1968年までの抗議行動および学校占拠について本を著しました。

 

『いちご白書』 Strrawberry Statement

という題名は当時のコロンビア大学の学部長ハーバート・ディーンが、

「大学の運営についての学生の主張する意見は、
彼らが苺の味が好きだと言うのと同じくらい意味がない」

と言い放ったとされることから来ています。
もっともディーン氏は事実が曲げられて引用された、として、

「彼にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、
もし理にかなった説明がなければ、彼にとっては
苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない」

という意味だ、と弁明したそうです。

まあ、確かに違うっちゃ違いますが、「自分にとって意味がない」、
つまりその意見は「彼らが苺の味が好きだというのと同じくらい意味がない」
といっているのとほぼ同じなのではないかと(´・ω・`)

「いちご白書」はその後映画化されました。
テーマに使われた「サークルゲーム」
Buffy Sainte-Marieは名曲です。

 

大学のストライキの直後、FBIの防諜捜査官は、学生の反戦抗議者をリストアップし、
彼らに対する監視と「嫌がらせ」(博物館の意見ですので念のため)を強化しました。

 

続く。

 

 


アメリカ大統領選挙1968年〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-07 | 歴史

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」、
まず当時の大統領選挙に使われた投票機が現れました。
もちろん票集計機ではありません。
ド〇〇〇ンパワーフォーエバーでもありません。

説明がないのでどうするかわかりませんが、
候補者の名前を押すとそこで一票が投じられるようです。

え〜、こんな機械で不正しようと思ったらやり放題だよね?

とつい思ってしまいますが、その話はさておき。


今日はベトナム戦争真っ只中に行われたジョンソン大統領の次を選ぶ
アメリカ合衆国大統領選挙についてです。

■ LET US VOTE!  選挙年齢の引き下げ

Old Enough to Fight, Old Enough to vote〜L.U.V
「戦うのには歳をとりすぎ、投票するのにも歳をとりすぎ」

 

ベトナムで戦闘を行なったり、あるいは候補者を支持するような立場の人は
それまで若すぎて投票することはできなかった、という意味です。

この「矛盾」を解決するため、アメリカではそれまでの投票年齢を
21歳から18歳に引き下げ、これによって政治的な関心が高められました。

「LET US VOTE」(LUV=投票させろ)

として知られた団体は、全米3,000の高校と400の大学に支部を持ち、
大ヒット曲「デイドリーム・ビリーバー」で有名な、あの
ザ・モンキーズ(The Monkees)は、LUVの「アンセム」を作曲しています。

探してみたら「モンキーズ」ではありませんでしたが、モンキーズのメンバー、
トミー・ボイスとボビー・ハートのクレジットでそれがありました。

Tommy Boyce and Bobby Hart - L. U. V. (Let Us Vote)

「僕たちは援助の手を伸ばすのにもう十分な年齢なのさ
だから、一緒に手を取り合っていい国を作ろうよ」

ポップなリズムに乗せて、このような歌詞が謳われています。
(♫エール・ユー・ヴィー♫というコーラスはお約束?)

1976年、キャンペーンは憲法第26条改正の採択につながり、
このときから18歳が最低投票可能年齢になりました。

日本が投票年齢を引き下げたのは、この時から40年後のことになります。

 

 

■ リチャード・ニクソン候補

 

パネルの始まりである左上には、こんな言葉があります。

「ニクソンは『薄利多売』の勝利を収めた
国家統一を提唱して」

2020年のアメリカ大統領選挙。

これをきっかけにアメリカの選挙制度について妙に詳しくなる人が増えましたが、
それはあまりにもこの選挙で不思議なこと、異常なことが起きたからですが、
この大統領選挙によって、これまでも、そしてこれからも、誰が大統領になるかがアメリカの、
ひいては世界の運命が変わるという現実に変わりはありません。

特に、ベトナム戦争が継続していた1968年の大統領選は、それによって
戦争の行方が変わるかもしれないのですから、世界中が注目していました。

改めて言うまでもありませんが、ニクソンは1952年の大統領選で、
民主党のケネディと選挙戦を行なって敗北し、その後は弁護士活動をしながら
カリフォルニア知事選に出馬するも敗北、「負け犬ニクソン」と呼ばれていました。

しかし、弁護士活動を通じて着々と地盤固めを行い、共和党候補にまで返り咲きました。

アイゼンハワー大統領の副大統領として、ニクソンは
アメリカのベトナムへの関与を熱心に支持する立場でした。

彼の選挙運動は民主党の戦争への対応を攻撃し、

「名誉ある平和」

を達成することを訴えるものでした。

当時国内を席巻した破壊的な公民権運動と反戦抗議運動への国民の不安と不満に乗じ、
ニクソンは「法と秩序」についてキャンペーンを行いました。

ニューヨーク知事選では共和党のリベラル派であったネルソン・ロックフェラーを支持し、
これらの選挙戦を通してついに8月の党大会で共和党の指名を勝ち取っていました。

 

■ 民主党ハンフリー候補とニクソンの「秘密の取引」

選挙が近づくと、共和党の候補者リチャード・ニクソンの支持率は先行しましたが、
ベトナム停戦を訴える民主党のハバート・ハンフリーに追い上げられてきました。

「ハート・ヒューマニティ・ホープ」

ハンフリー副大統領は、ジョンソンが大統領選に出ることを辞退した翌月、
選挙レースに参加しました。

かつて公民権と社会改革に関してリベラルな主張を行なっていたハンフリーは、
今や穏健で保守的な民主党員のお気にいりとなっていたため、
予備選挙に出馬せず、党内の支援に頼ることで民主党員の指名を受けています。

彼は北ベトナムとの即時交渉を主張していましたが、ジョンソンの副大統領だったため、
「戦争の賛成派」であるという国民の認識を克服するのに苦労していました。

そのときおりしも、大統領だったジョンソンが、

「ベトナムでの北爆は停止され、4党の平和交渉が始まるだろう」

と発言したのです。
これが、ハンフリーの支持率急増の追い風となったのです。


そこでニクソンはこの発言が選挙に影響を与えることを恐れ、
選挙対策として、南ベトナムのティウ大統領との接触をある方法で試みます。

でたー!

ここで登場するのが、あのドラゴンレディ、アンナ・シェンノートです。
クレア・リー・シェンノートの後妻で、政界に進出していた彼女は、
共和党議員といいながら、もっぱらの仕事は政界のロビイストでした。
彼女はニクソンを支持するため、ティウ大統領に近づき、

「ジョンソンの和平交渉を拒否すれば、ニクソン大統領のもとで
より有利な条件で交渉妥結することを保証する」

と吹き込み、ティウ大統領は彼女の言葉に乗ってLBJとの和平交渉を拒否しました。
このことで、ハンフリー候補への世論支持の急増は抑えられる結果になりました。

 

■ 独立党候補 ジョージ・ウォーレス候補

「インデペンデント・キャンディデート」、つまり「独立党」の候補です。

アラバマ州前知事のジョージ・ウォーレスは、1968年2月になって
「サードパーティ」独立党の候補者として大統領選に立候補しました。

今の基準で言うと、熱心な「人種差別主義者」であったところの彼は、
法と秩序を回復し、つまり、学校、バス、その他の公共の場所における
人種統合の案に反対する立場を取りました。

ポリコレ文化大革命の今のアメリカでは考えられない候補ですが、
ところがどっこい、この考えに賛同する人々も少なからずいたということなのです。
公民権運動に不快感を持つ、南部の白人層の代表、それが彼でした。

ベトナム戦争については、全面的な勝利かさもなくば迅速な終結、
どちらかにするべき(つまり強硬策)であるという考えでした。

我々にとって驚くべきは、副大統領候補に、あの日本本土無差別爆撃を指揮した
元空軍参謀総長、我々にとっては「鬼畜」カーチス・ルメイを指名したことでしょう。

彼の支持は南部を超えてアメリカ中に広がり、それまで民主党支持者だったはずの
北部の都市部ブルーカラー労働者や白人移民らが同調したといわれています。
いずれも公民権運動によって恩恵を受けない層でした。

思い切った彼の政策は意外とアメリカ人の支持を受けたということになります。

余談ですが、彼は1972年の大統領選にも立候補し、遊説中に
売名目的の男に銃撃され、下半身付随になって民主党の指名選挙に敗退しました。

その後、彼は黒人への差別は誤りであったと殊勝に認めたため、
知事に就任して公約通り黒人を政府に登用し、晩年には経験なキリスト教信者となりました。

現在も彼の評価はアメリカでは真っ二つに分かれているそうです。
「二大政党制にこだわらず草の根の民意を反映することに尽くした」
これが、彼を肯定する層の評価です。

■ 反戦派、民主党 ユージン・マッカーシー候補

それでは、代表推薦を得られなかった候補者を紹介していきます。

ユージン・マッカーシー上院議員は、1967年11月には大統領選挙に名乗りを挙げ、
さっそくジョンソン大統領のベトナム政策に反対する立場に立ちました。

マッカーシーの協力の反戦メッセージは、リベラルな有権者や若い活動家たちに
多大な影響を与え、これが彼のキャンペーンメッセージの中心になりました。

シカゴでの民主党員への演説で、マッカーシーは戦争に対する嫌悪感をこのように述べました。

「ベトナム戦争はアメリカの全ての問題の中心である。
それは道徳的に間違っている戦争である」

反戦派にはウォーレス、ニクソンはもちろん、ハンフリーもダメってことですね。
「プロ戦争へのチケット」を発行する彼らに投票するな、と言っています。

■ ジョンソン現大統領

ところで、当初、1968年の大統領選挙では、現職のジョンソンが
民主党の予備選を勝ち抜き、指名を獲得することは確実と見られていました。

しかしながら、一般的に彼の大統領としての地位はベトナムをめぐって危機に瀕していました。
テト攻勢は誰の目にも勝利が程遠いことが明らかになったからです。

マッカーシー

マッカーシーはジョンソンに勝つために反戦をテーマにし、学生や運動家を中心とした
草の根キャンペーンで指示を広げていき、予備選ではジョンソンの得票率
49%に対し、42%と肉薄するという結果になります。

「賢者」と呼ばれる年長の政治家たちでさえ、ジョンソンに
平和交渉を進めるように進言をしていました。

ジョンソンは身内である民主党員の支持を失っていることを知り、
大統領再選を断念して選挙戦からの撤退、本選不出馬を表明しました。

1968年、彼がテレビで再選に立候補しないことを表明した時、
国民は衝撃を受けたと言うことです。


■ 民主党 ロバート・ケネディ候補の暗殺

マッカーシーのキャンペーントレイルは、国民の目にも「成功」と映りました。
このムーブメントに感銘を受けた、ニューヨークの上院議員、
ロバート・F・ケネディは、1968年3月、ジョンソン大統領に挑戦すると発表しました。

ケネディ上院議員は、

「南ベトナムに対し無関心に土地が破壊され人々が死んでいくのを
喜んで見ていることができるなら、そもそもなぜそこにいるのか」

と強い言葉でジョンソンを糾弾する立場を取りました。

彼はまた、貧困、人種差別、およびその他の社会問題に焦点を当てることで
マッカーシーよりも幅広い指示を集め、世論調査では群を抜いていました。

 

もし彼が暗殺されなかったら、もしかしたら民主党候補は
人気抜群のロバート・ケネディになっていたかもしれません。

彼が大統領選立候補を表明して約3ヶ月後の6月5日、真夜中過ぎ、
ロスアンジェルスのアンバサダーホテルで集会を済ませた後、
ホテルのキッチンを通り抜けようとしたRFKは銃撃され暗殺されました。

RFKはカリフォルニア州での予備選挙で勝利したばかりであり、
大統領に勝利するのに最も可能性のあると見られていた反戦候補者でした。

彼の弟であるエドワード・ケネディ上院議員は、RFKの葬式で次のように語りました。

「かれは、間違っていることを見てそれを正そうとし、
苦しみを見てそれを癒そうとし、そして
戦争を見てそれを止めようとした、
善良で正しい人としてのみ記憶されるべきです」

 

■ ピッツバーグの大統領選1968

1968年の大統領選におけるここピッツバーグの得票です。
アメリカ全体の得票率とほぼ同じ割合になっています。

しかし、この三人以外はゼロですが、ピッツバーグでゼロレベルの候補者でも
全米レベルだと4〜5万票も入ってしまうのか・・・。

アメリカという国の巨大さを実感しますね。

 

続く。

 


「GET WELL 'N STUFF」 ドーナツ・ドリー〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-05 | 歴史

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、医療関係者の証言に続き、
その他の任務についた人々について紹介していきます。

その前に、医療関係者たちが格闘した兵士の傷、彼らにそれを負わせた
ベトナム戦争の武器について、実物を見ていくことにしましょう。

■ ベトナム兵士の武器

これはこのベトナム戦争展では

RPG (Rocket-propelled grenade)launcher

という名称になっています。

先日まで紹介していたピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館所蔵で、
特別展のために貸与されたということでした。

正しくはRPG-7РПГ-7)といい、ソ連の携帯対戦車擲弾発射器です。
ベトナム戦争から使用されているものですが、安価、簡便であるため、
いまだに途上国の軍隊や武装勢力によって世界中で使用されています。

ここではRPGを「Rocket-Propelled Grenade(ロケット推進擲弾)」
の略だとしていましたが、これはいわゆる「バクロニム」backronym、
つまり、ロシア語の

Ruchnoj Protivotankovyj Granatomjot」対戦車擲弾発射器)

の頭文字からむりやり英語の単語を当てはめて作った言葉になります。

実態は、ロケット式ではなく、発射と同時に後方からのガス噴射で反動を相殺する
クルップ式無反動砲ということになります。

 
構造が単純で取り扱いが簡単、しかも安価。
そのわりに威力があるため、発展途上国のゲリラ御用達の武器です。

海保が対峙した北朝鮮工作船の工作員もこれを使っていたという記録があります。


九州南西海域工作船事件で、沈没した北朝鮮の工作船付近の海底から回収されたRPG-7発射器(上の2挺)
 

 

ベトナム戦争で北ベトナム軍やベトコンはRPG-7をアメリカ軍や南ベトナム軍の
装甲車、ヘリコプター、駐屯地への攻撃に使用しましたが、戦争そのものが
主にゲリラ戦だったので、対戦車兵器として使われる例は多くなかったようです。

北ベトナムとベトコンによって使用された武器です。
まず、

SKS 歩兵銃

中国製のソ連モデルで、北ベトナム軍が使用していたものです。
プラスチックと木材でできており「ジャングルストック」と呼ばれました。
10連発でセミオートマチック製です。

AK-47ライフル

ミハイル・カラシニコフ将軍が1948年に設計したAK-47は、
1分間に爆発を伴う40連発(100連発まで可能)で完全な自動式です。

コルトAR-15

コネチカットのハートフォードにあるコルト特許銃火器が1965年製造したもので、
セミオートマチックですが、Mー16ライフルより性能は劣りました。

さて、ここからはピッツバーグ近郊出身のベテランの寄贈品です。

■ 海軍軍人と戦艦「ニュージャージー」

ジョン・ヴォイシク(John Voycik)の海軍Pコートです。
彼は1967年海軍に入隊しました。

彼の説明でわたしはものすごく混乱してしまったのですが、そのわけは
ここにこう書いてあったからです。

彼はフィラデルフィア海軍工廠で最後にCommissioned(引き渡し)された
USS「ニューオーリンズ」でベトナムに運ばれました。

 

フィラデルフィア海軍工廠は1800年代に稼働が始まり、
アメリカで初めて槌型クレーンを装備した工廠で、
第二次世界大戦にはその最盛期を迎え、この期間に

戦艦「ニュージャージー」(USS New Jersey, BB-62)

戦艦「ウィスコンシン」(USS Wisconsin, BB-64)

が建造されましたが、戦後規模は縮小され、1970年に建造された

揚陸指揮艦「ブルーリッジ」(USS Blue Ridge, LCC-19)

が、ここで生まれた最後の新造艦になりました。
・・・・というのがWikipediaによる情報なのです。

スミソニアンが何か勘違いしているらしいことは、このヴォイシクなる水兵が
「ニューオーリンズ」でベトナムに派兵されたというのは1967年なのに、
フィラデルフィア 海軍工廠は少なくとも1970年までは稼働しており、
その年に建造されたのが「ブルーリッジ」であることは間違いないことから明らかです。

さらに、もっとまずいことに「ニューオーリンズ」は戦艦であって、
建造されたのはニューヨーク、しかも1957年に除籍されていて、
ベトナム戦争の時には影も形もありません。

まあ、スミソニアンも木から落ちることがあるってことか、と思いつつ、
なんとなく「ニュー」つながりで「ニュージャージー」の経歴を調べてみたところ、

ビンゴ!

「ニュージャージー」は1968年、近代化されて三度目の就役を
フィラデルフィア海軍造船所でおこなっており、

世界で唯一現役任務にある戦艦

として砲撃任務のためベトナムに向かっていたことがわかりました。

6ヶ月間ベトナム沖で定期的な艦砲射撃と火力支援を行い、
最初の2ヶ月で10,000発に及ぶ砲弾を北ベトナムに撃ち込んだといわれます。

そう、

スミソニアンは
「ニュージャージー」を
「ニューオーリンズ」と間違えていた


のです。

いくらニューがついてるからって間違えてんじゃねーよスミソニアンのくせに。
ととっくに特別展が終わった遠い日本で鋭くつっこむわたしでした。

「ニュージャージー」は、ベトナムであまりに派手にドンパチやりすぎて、
終戦になっても南ベトナム解放民族戦線の方が、

「ニュージャージーの砲撃を中止しなかったらパリ和平会談に出席しない」

と主張して、不活性化が決まったといわれています。
まあなんというか、戦艦としてここまで敵に言わせられたら本望というものでしょう。

予備役入りに際して、最後の艦長は、乗員に、

「よく休め。
ただし眠りは浅く。
そして、呼ぶ声を聞いたならば、自由のために火力を提供せよ」

と訓示したそうですが、その言葉の通り、のちにレバノン内戦にともない
「600隻艦隊構想」を受けて彼女はまさかの再々再々再就役を行っています。

■ 初の女性航空管制官

ドナ・ジョルダーニ(Dona Jourdani)は二つの理由で入隊しました。
航空の技術を学ぶため。そして大学に進学するためです。

彼女は陸軍に入隊し、クラスでたった二人の女性のうちの一人として
航空管制官になるための訓練を行い、どちらの夢も叶えました。

管制室のドナ(左)

彼女は第一空挺団で最初の女性航空管制官となり、
その任務でブロンズスターを授与されました。

彼女が着用していたデザートハットと、ヘミングウェイ将軍と握手するドナ。

プライベートルームも特別に作ってもらいました。

■ アフリカ系女性士官

巷では公民権運動が盛んだった頃でも、軍隊では
任官するのに人種性別は問われませんでした。

冒頭写真左の白いナースコートは、
パトリシア・タッカー中佐 Patricia Tucker(右)が
ベトナムで着用していたものです。
この写真の頃、彼女と左側のシャーリーン・マイナーCharlene Minorはどちらも大尉でした。

■ Donuts Dolly(ドーナツ・ドリー)

ケネディ大統領のファン?だった
ローズ・ガントナー(Rose Guntner)は、

親戚の入隊をきっかけに「ドーナツ・ドリー」としてツァーに参加し、
軍隊にレクリエーションゲームやアクティビティなどを提供しました。

任務として、彼女らはたとえば夜間、負傷した兵士を見舞い、
医療チームの手伝いをしたり、彼女自身のスキル(心理学者)を生かして
兵士のPTSDを緩和するような活動を行いました。

「ドーナツ・ドリー」については以前一度説明したことがありますが、
彼女たちは必ずしも戦争に賛成しておらず、むしろベトナムには
反戦の立場を取る者も多くいたと言うことです。

写真は、ベトナムでサンクスギビングの御馳走を微笑みと共に兵士に配るローズ。

ローズと彼女のパートナー(ドーナツドリーは必ず二人ペアで活動を行う)、
ギニー・ルスブリンク(どちらもペンシルバニア出身)が、
難民キャンプのベトナムの子供たちにクッキーを配っているところです。

彼女らが行ったアクティビティの一つで、「ウルフテスト」。
つまり心理テストのことですが、こういう単純なことが
戦地では楽しく感じるものなのかもしれません。

「デートはどこでしますか?」

a. ナイトクラブ  b.スポーツイベント c. 演奏会

「デートの時あなたの話題は」

a. 自分自身のこと b. 相手の興味のあること c. 世界情勢

こういった質問を元に性格判断をするわけですが、
むしろこれはレクリエーションに属するゲームだった気がします。

こっちは簡単なクイズですね。
右と左の関係のある言葉を結びなさい、みたいな。

このいかにもベトナム戦争当時の雰囲気のイラストは、
ローズさん自身が病院の壁に飾るために描いた絵なのだそうです。

GET WELL 'n Stuff

これは、日本語では「お大事に」といったところでしょうか。
アメリカでは医療関係者が患者にかける言葉のようです。

彼女とドーナツドリーとして派遣された5名の女性たちは、
毎日ヘリコプター、戦車、ジープで戦地を訪問して回りました。



ある兵士がローズにプレゼントしたもので、彼女はいつも携帯していました。
彼女自身はタバコを吸いませんでしたが、兵士が火を必要とする時
(ベトナム戦争ではほとんどの兵士がタバコを吸っていた)
彼女はいつでもそれを出せるようにしていました。

The Donut Dollies Documentary - Trailer

ドーナツ・ドリーたちのドキュメンタリーが制作されています。

 

続く。

 


映画「第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」 

2021-06-03 | 映画

 

当作品は2015年リリースなので立派な新作の範疇に入るのですが、
わたしにはこれが公開された時どころかDVDリリースの記憶が全くありません。

これは、この映画がハリウッド制作ではなくイタリア映画で、しかも
ハリウッドが蛇蝎のように悪魔視するナチス 、しかもSS隊員の視点から語られた、
「ある方面からは非常に不愉快な映画」
だからではないかと思います。

美しい音楽、愛する妻に送る手紙の淡々とした朗読、最強の部隊と言われながらも
殺す殺されることに苦悩する一人の人間として彼らを語ること。

これら全てをタブーとしてきた戦後の全ての媒体を思うとき、
この映画の意義はたいへん大きなものであると断じざるを得ません。

■ ロシア戦線

さて、師団はイタリアでパルチザンとの戦いに参加したのち、
情勢がさらに悪化したロシア戦線に送られることになりました。

またしても彼らのいうところの「イワン」とのおわりなき戦いが始まるのです。

背嚢には飯盒炊爨のセットとともに髭剃りセットも入っています。

本作で重要な要素として語られるのが捕虜の扱いです。
戦闘中はともかく、基本的に捕虜は取らないとなっている状況下で
不幸にして敵が生き残っていた場合・・・。

相手を一人も許さないと決めたシュタイナーは捕虜を殺すのに逡巡しません。
しかしヘルケルは、手袋を取り上げられ、必死で命乞いするロシア兵を
新兵に射殺させようとする彼を見ながら心でつぶやきます。

「何かを止める力があるのに 許されないのは辛い」

ライプシュタンダルテの創始者であるディートリッヒが肉屋の息子だったように、
彼らはほとんどが貧困の出であり、食べるために軍隊に入隊しています。

新兵のショルはナポラ(ナチス政権獲得後に民族共同体教育施設として設けられた、
中等教育レベルの寄宿学校《ギムナジウム》)出身ですが、
ナポラは必ずしも入隊を強制しておらず、彼自身

「学業を続ける級友が多いけれど、僕はSSに志願しました」

と説明しています。

つまり彼はナチス的教義に共鳴し入隊を決めたのですが、
どんな思想にもたやすく心酔する十代前半の少年にはありがちなことでした。

ヘルケルも貧困ゆえ入隊しましたが、出征し帰ってこなかった父を
誇りに思うように、自分のことも妻に誇りにしてほしいといいます。

そして、ハリウッド映画はもちろん、現代のドイツ人が決して語ろうとしない
ある事実にさらりと言及するのです。

「そこはドイツではなくなっていた。
母はする仕事が全くなくなった。
それはユダヤ人が経済を握っていたからだ。
当然俺たち(ドイツ人)よりユダヤ人が優遇される。
干し草に寝なければならないこともあった。
そんなときナチスが母に仕事をくれた」

そして出征して死んだ父を初めて国家にねぎらってもらったことが、
「ここにいる理由だ」というのでした。

ヘルケルが率いる小隊は、シュタイナー、ショル、総員4人です。

この映画は戦闘シーンと同じ比重を持って自然の描写がなされます。
兵士と自然が共存する、心がしんとするような構図。

この手法はもちろん本作が初めてではありません。
「シン・レッド・ライン」などに取り入れられたのと同様の試みですが、
あちらが南洋であるのに対し、こちらはロシアの大地という大きな違いがあります。

1943年の12月、師団は東部戦線を西部から攻撃していましたが、
16日まで続いた戦闘でソ連第16軍の大半を壊滅させています。

12月24日、この日は装甲軍団の戦線が突破されたため、
前面で防御線を張っていたときでした。

雪上迷彩を制服の上につけた彼らは、ヘルメットに立てた蝋燭を囲み、
互いに「メリークリスマス」とだけ言い合います。

BGMには各自の脳裏に流れているであろう「きよしこの夜」の歌が・・・。

「兵士に何ができる?
指導者たちを信じ、忠誠を誓ったのだから
今は塹壕を掘って掘って掘るしかない」

■ ノルマンディ

ノルマンディ上陸作戦当時、ヒトラーはこれを陽動作戦とみなしていたため、
ライプシュタンダルテはベルギーに駐留していましたが、その後6月下旬、
陽動作戦でないことが分かった時点で現地に派遣されました。

「イワン」と戦っていた彼らは、英米軍と干戈を交えることになります。

雪の中で凍えていたかと思ったら、こんどはフランスです。
この頃になるとドイツは徴集兵で人員を補填するようになったため、
『SSが徴集兵』というちょっとおかしなことになっていました。

つまり最強も何もあったものではありませんが、
国民総動員体制だったので仕方ありません。

コルベ少尉は、総党本部への異動を断って前線に残ることを志願しました。
ヘルケルはそんな彼を心から尊敬しています。

ノルマンディではイギリス軍が発動した「グッドウッド作戦」に対応するのが使命です。
といいつつ、始まった戦闘シーンにはなぜかアメリカ陸軍の戦車が登場。

そしてこの映画は相変わらずエモーショナルなコーラスによるせつない音楽をそれにかぶせ、
ヘルケルが囁くような声で不安で押しつぶされそうな心情を語り続けるのでした。

痛みで喚く瀕死の兵、逃げようとして後ろから打たれる者、
手を上げて捕虜になる者・・。

超人的で勇敢な兵士も、カリスマ指揮官も登場しません。

戦闘が終わってヘルケルの意識が戻ると、彼は一人になっていました。
森を彷徨していると一人の国防軍兵士、ディートヴォルフと出会います。

彼は偶然ヘルケルと同じ故郷出身で、スペイン人とのハーフでした。

彼はいきなり、ヘルケルをゲルマン民族の代表のように、

「何故ユダヤ人を憎む?」

と聞いてきます。
そして、ナチスが行っているという虐殺のことを語り始めました。

彼はポーランドで収容所に送られるユダヤ人を見て彼らの運命を知ったといい、
妻の父がユダヤ人なので心配だ、といいながらヘルケルに青いリボンを見せます。

彼は脱走してアメリカ軍に投降し助けてもらうつもりでした。

ヘルケルに、コルベ少尉は強制的に休暇を与えました。
前線では誰もが遠慮して自分からは休みを申し出なかったのです。

与えられたわずかな時間を存分に味わおうとする二人です。

「人は責務を免れない」

「しかし愛がなくては人は生きてはいられない」

ヘルケルは、ふと町内にあるというディートヴォルフの妻、エレノアの家を訪れました。
彼が無事だったということだけ伝えたかったのです。

帰ろうとした彼はゲシュタポの二人とすれ違いました。
彼らは夫が脱走したことをうけ彼女を捕らえにきたのです。

彼女は逃げ出したため、撃たれてしまいます。

「ユダヤ人に決まっている」

ヘルケルの中に、自分が属する組織、信奉する大義、
そして命をかけて戦う意味に対する疑問が湧いてきた瞬間でした。

■ アルデンヌの戦い

復帰とともに軍曹に昇進した彼は、部下を率いる手前
そのような気持ちをみせるわけにいかない、と苦悩するのですが、

コルベ少尉にはしっかり見ぬかれていました。
ついヘルケルは言い返してしまいます。

「無駄な戦いです」

特務曹長にもその態度は軍法会議ものだ、と怒られてしまいました。
ここを出発するという特務曹長に、ヘルケルは思わず

「脱出ですか」

と嫌味を言ってしまい、

「何様のつもりだ」

と激怒されます。

その晩、コルベ少尉は昼間叱責したことを謝ってきました。
そして、少尉自身が体験した民間人の虐殺について語ります。

大佐の査察に同行していて、武器を摘発した家の家族(おそらく無実)を
射殺することを命じられたのでした。

そこでヘルケルはこういいます。

「戦争が終わったら世界は我々をどう思うでしょう」

コルベ少尉はそれに対し、

「戦争に負ければ我々は永遠に呪われる」

これはある意味この映画の核心たる言葉です。
負ければそれは犯罪となる、しかし負けなければ。

戦争である限り、どちらかだけが残虐だったなどということはあり得ません。
ユダヤ人虐殺のような計画された戦争犯罪こそなかったとはいえ、
このころのアメリカ軍はノルマンディで投降した捕虜を全員射殺していました。

しかし、米軍の「戦争犯罪」は告発されることはありませんでした。
なぜなら、アメリカは戦争に勝ったからです。

そんなとき、ヘルケルの部隊にアメリカ軍の捕虜が連れてこられました。
チラッと見える彼の腕のマークから、彼はレンジャー部隊であり、
偵察隊の唯一の生き残りだという説明がされます。

アメリカ捕虜の検分を命じられたヘルケルは、彼がおそらく殺したのであろう
ドイツ兵の認識票とともに、青いリボンを見つけました。

米軍に投降すると言っていたディートヴォルフを、彼らは殺したのでしょうか。
それとも戦闘後、死体から略取したものなのでしょうか。

逆上した彼はアメリカ兵に詰め寄り、皆が驚く中
振り向きざまに何発も銃弾を浴びせて殺してしまいます。

「エレノア、ディートヴォルフ。
ひとりは敵に、ひとりは我々に殺された」

 

斥候中、ヘルケルはばったり遭遇したアメリカ兵(この顔を覚えておいてください)を、
至近距離であったにもかかわらず撃つのを躊躇い、見逃してしまいました。

  

そしてこのアメリカ兵の反撃によって、部下であり戦友でもあるシュタイナーを失うことに。

その晩彼とショルは幻想を見ました。
何事もなかったかのように帰ってきたシュタイナーと3人で酒を組み交わす幻想を。

コルベ少尉も次の行軍であまりにも呆気なく戦死してしまいます。
ついさっきまで「妻と祖国のために戦う」と言っていたのに。

少尉のお悔やみに言いにきた上官に、ヘルケルは突っかかってしまいます。

「何故戦うんですか」

するとこの高官はその態度に怒ることなく、

「わたしは祖国を愛しているからだ。
もう政治などはどうでもいい。愛するもののために戦う」

そして彼の肩を叩いて去ります。
彼はすぐに捕虜になって処刑される運命です。

そして、そんな彼の最後がやってきました。
あまりにも唐突に。あまりにもあっけなく、まるで日常の続きのように。

彼とその小隊を取り囲んだのは、ヘルケルが射殺したアメリカ兵の部隊でした。

「愛するマルガリーテ

何が真の務めか見出せないなか、僕は最善を尽くした」

「兵士の模範になろうと努め 苦境でも諦めなかった」

「君に会って抱きしめたい
僕は全力を尽くしたと伝えたい」



「僕は君のため 家と故郷のために戦った
心から愛してる」

彼が自分を殺す男の顔を凝視すると、相手も自分を凝視していました。

見覚えのある顔。
かつて自分が撃った敵が最後に見たであろう兵士の顔でもあります。

ところで、最後にナレーションが女性の声で流れるのですが、
この女性は誰なのでしょうか。

「わたしたちは自由のため独裁と戦った
だが彼らは自分の命と祖国のために戦った
多くは2度目の敗戦を恐れた
敵が自分の街や家に踏み入るのを恐れたのだ
だから戦うしかなかったのだ」

「朝起きて小銃を手にし 指導者が始めた戦いに臨む」

「ドイツ指導部は非人道犯罪に問われた
だが罪人はドイツ軍人だけだろうか
彼らは手を尽くさずにはいられなかった
悲しみと 絶望と 必死の思いで」

「彼らの名誉は忠誠
将軍たちは総統のために命をかけ兵士たちは家族や戦友のために命をかけた」

「政治はときとして道を誤る 
だが兵士たちは祖国に忠誠を誓った」

「わたしの夫と同じように」

この映画には二人の「妻」が出てきますが、これが
ヘルケル軍曹の妻ではないことは確かです。

「わたしたちは常に安全な位置に立とうとする
原子爆弾投下の是非も問おうとはしない
多くの命が失われ続けていても何もしない」

「歴史は勝者が作る
何が起き 何が悪いのか勝者は世界に語ることができる
敵軍の犯罪を暴き 自軍の罪を隠せる

わたしたちは知らないことも批判する
常に悪者探しをして安易な道へ逃げる

だがそんな”邪悪な”独軍兵士のおかげで 夫は命拾いしたのだ」

1946年、ミネソタで一人の女性がこれを書いています。
彼女を迎えに現れた男性の顔は映画を見て確認していただくとして、
女性が・・・どうもあのエレノアと同一人物に見えます。

この正誤は観る人の解釈に委ねられているのでしょう。

アルデンヌの森を最後に生き残っていたショルが匍匐しています。

彼を迎えにきたのはヘルケル軍曹とシュタイナーでした。

「伍長、精一杯やりました もうダメです」

ヘルケルは優しく微笑んで彼を引き起こし、3人で歩いていきます。

どこまでも。

美しい自然を共に描くことによって、戦争という人間が行う行為の無意味さ、
虚しさと対比させ、さらにこれまで省みられなかったナチス親衛隊の兵士の視点から
彼らがどう戦ったかを後世に残そうと試みた作品。

そこにはやや平凡ではありますが、細やかな人物描写とともに
決してこれまでの定型にはめずに戦争を描こうとする努力があります。

ほとんどがイタリア人のキャストによるドイツ軍ものなので、
ドイツ語の吹き替えはこの映画に多少の雑さを与えていますが、
低予算ながらクォリティの高い映像は観るべき価値があります。

そうまでしてペペ監督が描きたかったものはなんだろうかと考えると、
それはやはり最後のナレーションに集約されていると思うのです。

「歴史は勝者が作る」

第二次世界大戦を扱った他の映画に欠けている決定的な視点を表すこの一言ゆえ、
この作品はこれまでほぼ話題にならなかったのでしょうし、残念ながら、
アメリカの配給業界ではすぐに消えていく運命だと思われますが、
この作品に哀しい共鳴を覚えた鑑賞者は、決してわたしだけではなかったと信じます。


終わり


映画「第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」

2021-06-01 | 映画

日本の映画配給会社のタイトル詐欺ともいえるネーミングセンスのひどさを
常日頃熱く訴えている当ブログ映画部ですが、今回はちょっと虚を突かれました。

今回も結論から言うとそれはいつもの「タイトル詐欺」と言えないことはないのですが、
・・・なんと言うか、難しいケースです(笑)


最近日米に加えて意識的にドイツの戦争ものを紹介している関係で、
今回、「ドイツ戦争映画」という検索に引っかかってきた映画の中からチョイスしたのが、

「アイアンクロス ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」

でした。

大抵の場合わたしはろくに内容を確かめず直感で購入を決めます。

タイトルだけを手がかりにこんなDVDを選択する人間はあまりいないかもしれません。
いわんや女性においてをや。
言い切るつもりはありませんが、少なくない購買層はいわゆる
ゴリゴリの「パンツァーオタ」に属する男性ではないかと思う次第です。

 

さて、届いたDVDを手にしてみると、パッケージには大きな鉄十字をバックに疾走する戦車、
その前で7人の兵士達が迷彩服で武装してヒーロー戦隊もののようなポーズを決めています。

さらにパッケージには、

「ナチス最強の部隊 最後の戦い」

という文句。
さらにパッケージをひっくり返してみると、

「”悪魔”と恐れられたナチス親衛隊の視点から
戦場の恐怖と真実を暴く衝撃の戦争大作!!」

と❗️二つサービスで煽っているではないですか。

さあ、以上から皆さんはどんな映画だと想像されるでしょうか。

「プライベート・ライアン」や先日紹介した「戦争のはらわた」のように、
緊張した戦闘シーンから始まってもよさそうなものですが、ところがどっこい、
まずこのような言葉で映画の「立場表明」が無音の中行われます。

「この映画は政治的なものではなく 一人の兵士の記録である」

これがオープニングです。

とはいえ、このような始まりを持つ戦争ものは過去の記憶からも決してないわけではありません。


映画制作の意図が反戦であると強調するために、あえてこのように始まり、
その後は戦闘シーンでなければ脱走兵が逃げてきたりするものです。

しかし、タイトルが始まると、戦闘シーンか、あるいはナチス司令部で
制服の高官たちが作戦会議をしているシーンを期待していた人をがっかりさせます。

まず、子供達の合唱によるコラール風の美しい旋律をバックに、
ナレーションが始まります。

「調和と生存 調和は自然のバランス 生存は自然が課す試練
試練は生に目的を与え 生存は魂に深く根付く

樹木の小さな種が光に向かい 上へ上へと伸びるように
生存は生き物に植え付けられた本能

自然も日々生存を賭けて闘う 時に美しい風景を見せる
それは 長年にわたる生存を賭けた闘いの果実

自然は厳しい選択を迫り 人が忘れがちな掟をつかさどる
愛 それは原動力 すべてのものを突き動かす
自然は生存の果実を愛する
すべての生き物もその果実を愛し 自然に従って生きる

これが完璧な調和」

こんなネイチャー系ポエムが、地球から昇る太陽、さかまく波、木漏れ日、
茫漠たる雪山、のびゆく白樺、火山から噴火する溶岩など、
ナショナルジオグラフィックの写真のような大自然をバックに女性の声で語られるのです。

ポエムは後半になって、その「愛」が時代の流れとともに変わり、

「人々は大切なものを見失い始めた」

「人間に対する愛、家族に対する愛、祖国に対する愛」

つまり、クラウゼヴィッツ式にいえば、

「戦争はこれらの愛の現れである・・・”by other means."(形を変えた)

といったところでしょうか。
もちろん、この愛が「大切なものを見失った結果」であるという大前提で。

もうこの時点で、タイトルの「アイアンクロス」に疑問を持ち始めるわけですね。
そこで、原題をあらためて見てみましょう。

My Honor Was Loyalty「我が誇りは忠誠心」

そしてメインとなるタイトルが、

LEIBSTANDORTE

フラクトゥール(亀甲)文字で書かれたタイトル文字を読んだのですが、
aとo、さらにbとdがまったく同じ形なので解読に苦労しました。
これを、

「ライプシュタンダルテ」

と発音します。
ちなみに亀の甲文字はドイツ人にとっても読むのが大変だったので、
これを廃止したことはアウトバーンと並ぶヒトラーの功績といわれているそうです。

そして、このライプシュタンダルテという名詞は、一語で

第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SSアドルフ・ヒトラー
1. SS-Panzer-Division"Leibstandarte SS Adolf Hitler"

という師団名を意味します。

「虚を突かれた」「タイトル詐欺とはいえない」といった意味がお分かりいただけたでしょうか。
少なくとも後半の「ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」は「間違ってはいない」のです。

ただし、「アイアンクロス」てめーはだめだ。

前回取り上げた「戦争のはらわた」の原題は「The Cross of Iron」=アイアンクロスですが、
このときの映画配給会社が何を思ったかこのとっぴなタイトルをつけたため、
「アイアンクロス」はその後の邦題タイトルで使用されたことはなく、いわば

「取ったもん勝ち」

状態だったのです。

そこでこのナチス親衛隊の映画と「アイアンクロス」を短絡的に結び付けた配給会社が
安直に目を引くタイトルとして拝借しちまったということなんだろうと思います。

しかし、「戦争のはらわた」がミスリードであったと同様、こちらも間違っています。
映画を観た方は、この「アイアンクロス」には首を傾げられたのではないでしょうか。

 

そもそも「鉄十字」というものは、「戦争のはらわた」でもお分かりになったかと思いますが、
ドイツ軍の紋章であると同時に、普通は勲章を指すわけですよね。

鉄十字章の歴史を遡れば、ナポレオン解放戦争の頃のプロイセンから始まったもので、
・・・そしてここのところを是非心に留めていただきたいのですが、

鉄十字は現代のドイツ連邦共和国でも正式な勲章として使用されている

のです。

つまり鉄十字はヒトラー時代の専売特許ではないし、ちょうど我が海上自衛隊、
および陸上自衛隊の旭日旗が、現行で世界に認められている軍旗であるのと同様、
(禁止されたハーケンクロイツとは全く違い)ナチスを表すものでもなんでもないのです。

「戦争のはらわた」はアイアンクロス、鉄十字章が欲しくて狂っていく将校と、
そこになんの価値も見出していない下士官の葛藤がテーマに描かれていたので、
これをタイトルにすることは至極当然のことなのですが、
この映画には、鉄十字をもらうのもらわないのという話は一切ありませんし、
そもそも勲章をもらうような英雄的な活躍が描かれているわけでもありません。

その意味ではパッケージの煽りである、

「最強の部隊の最後の戦い」

というのは、ずいぶん内容からかけ離れていると言い切ることができます。

1. SS-Panzer-Division Leibstandarte-SS Adolf Hitler.svg

ちなみにライプシュタンダルテの徽章はこのような鍵のマークです。
創立者のヨーゼフ・ディートリッヒの名前、ディートリッヒには「鍵」の意味があるからです。

おそらくこの映画の邦題を考えた人は、ナチスやドイツ軍について詳しくないのでしょう。

わたしなら素直にこうするけどな。

「ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」

あるいは(どうしてもヒトラーということばが必要なら)

「ヒトラー護衛親衛隊連隊」

そして、じっくりタイトルを吟味してみると、もう一つのことに気がつきます。
サブタイトルの

My Honor Was Loyalty

は、英語圏ではこれがメインタイトルになっているのですが、これは
ライプシュタンダルテを含む親衛隊(SS)の標語(モットー)、

Meine Ehre heißt Treue「忠誠こそ我が名誉」

を、過去形にしたものなのです。

「忠誠こそ我が名誉・・・だった」

というところでしょうか。

さて、タイトルに続いて、戦地に赴く兵士が恋人と別れを惜しむシーンが現れます。
胸に止まったテントウムシのアップ、木陰に隠れんぼしたり、おいかけっこする二人。
いうならばこれも、戦争映画にありがちなテンプレシーンです。

そして彼女は髪を結んでいた青いリボンを彼に手渡すのでした。

観ている人はこの「一人の兵士」が主人公だろうと信じて疑わないでしょう。
ところがそうではないのです。
わたしがこの映画を、ただの戦争映画ではないと思う所以です。

ネタバレ御免で書いてしまうと、この男性は主人公の兵士が戦場で一瞬すれ違い、
わずかの間心を通わせ、その後偶然、彼とその恋人の運命を知らされることになる人物です。

主人公も、この冒頭の兵士も、戦場で華々しく活躍する英雄ではありません。
上官の命令に従い、目を背けるような戦場の酸鼻に慄然とし、死を恐れ、
戦友の死に打ちのめされ、そして敵に復讐心を抱く・・・。

この映画が表現しようとしたものは多層に流れる幾多もの小さな真実です。

主人公たちの体験として描かれていることに、一つとして創作されたものはなく、
全てがあの戦争に参加した兵士たちの体験したことであり、見たものだと監督は言います。


以前、ドイツ制作の映画にナチスを描いたものがないという衝撃的な事実を知り、
それはドイツ人が戦後に置かれた国民総贖罪意識のためだろうか、と書いたことがあります。

そしてこの映画も、吹き替えたドイツ語をメインで使用しているにもかかわらず、
配給会社はUK、監督のアレッサンドロ・ペペも俳優の殆どもイタリア人と言う具合です。

最初に書いておくと、ぺぺ監督は彼らを狂った(と後世のいうところの)
ナチス ドイツ
教義に突き動かされた狂信者ではなく、
むしろ慈愛に満ちた筆致で表現しています。

それは、戦いの彼我にいる双方の戦士たちの個人の内面に分け入り、
ことに、
敗者となったため、戦後一切の擁護や弁明を許されない
ナチスドイツの兵士たちを、
それを放棄させられた(或いは自ら放棄した)
ドイツ国民に代わって語ろうとしているように見えます。

主人公はルードヴィッヒ・ヘルケル

ライプシュタンダルテと改称された第1SS装甲師団は独ソ戦に投入され、
ハリコフで4,500名もの損耗を被ったのち、クルスクに転進しましたが、
1943年になると目にみえて戦況は悪化してきました。

彼は昨日伍長に昇進したばかりですが、森の中で敵と遭遇すると
部下を残して身を隠してしまい、そんな自分を情けなく思います。

たったひとり生き残った彼の部下の名前はシュタイナー。
偶然かか意図的かはわかりませんが、「戦争のはらわた」の主人公の名前です。

行軍しながら兵士が歌う、「ヴェスターヴァルドの歌」

German Imperial song "Oh, du schöner Westerwald"

は「クロス・オブ・アイアン(戦争のはらわた)」にも登場しましたし、
「Uボート」でも劇中で歌われていました。

装甲師団の映画ですから、もちろん戦車も登場します。

メッサーシュミットだと思う

戦車と共に進む彼らの頭上を旋回する味方の飛行機を見て、

「息子はパイロットにしよう」

とつぶやく兵士。

どんなに危険でわずかの間しか生きられずとも、
地面を進んでいる身には飛行士は羨望の的だったのです。

ここでソ連軍との戦闘が始まるのですが、早速わたしは違和感を感じました。
今までの常識から言うと、画面とBGMが全く「別物」なのです。

哀愁を帯びた、センチメンタルなピアノの調べ。
メジャーの心安らぐような美しい音楽が銃声に重なります。

そして、妻に宛てて書いた手紙をヘルケル自身が朗読するかたちで
淡々と「戦況の説明」が行われます。

「最後まで勝つと信じている」「戦友の敵討ちがしたい」

そんな、「良き兵士」であるヘルケルの偽らざる気持ちとともに。

ここには全ての士官を憎む下士官も、傲慢な貴族の士官も存在しません。
フランスの前線からわざわざ危険な独ソ戦線に志願してきたコルベ少尉を、
ヘルケルはその能力と統率力を含めて敬愛しています。

「少尉の指揮を信じています」「ありがとう」

シュタイナーは、負傷した友人を刺されて失ってから、
敵に一切の情けをかけないと決めた男です。

1943年の8月、師団は北イタリアに向かいました。
同盟国ですが、ここではパルチザンの激しい抵抗を受けます。

そして降伏後のイタリア軍の武装解除を手掛けますが、抵抗に遭い、
イタリア軍との交戦の結果制圧するということになりました。

余談ですが、このとき師団はイタリア軍から大量の軍服と、
ドイツがイタリア海軍に供与したUボート乗員用の革のジャケットを押収しています。

ちなみに、正式に師団が、

第1SS装甲師団ライプシュタンダルテ SS アドルフ・ヒトラー
(1. SS-Panzer-Division „Leibstandarte SS Adolf Hitler“)

と改称したのはイタリア戦線の期間のことでした。

 

続く。