ハインツ歴史センターで行われていた「ベトナム戦争展」から、
展示品を紹介しています。
■ POW/MIA ブレスレット
捕虜の家族と市民有志は捕虜の釈放のための活動に何年も費やしました。
あるグループはこういったブレスレットを製作し、捕虜にされた、または
行方不明になっている男性の名前を刻印して身につけました。
■ ジェンキンス曹長
第5海兵隊の第1大隊、D中隊所属だったチャック・ジェンキンス曹長は、
1967年から68年までベトナムで従軍し、その間戦闘で負傷しました。
上から右回りに:
●ピッツバーグの家族に負傷して入院しているベトナムの病院から送った手紙
国際郵便用の封筒で料金は当然無料
●海兵隊の軍服襟の徽章
●ジェンキンス曹長のジッポーライター
ライターには名前と階級、所属の裏側にこのように刻印されている
”When I Die Bury Me Face Down So The Whol(ママ) World Can Kiss My Ass."
「俺が死んだらうつ伏せに埋めて皆でケツにキスしやがれ」
● Marine Corps Good Conduct Medal(いわゆる善行章)
無頼すぎる言葉とそのイメージを裏切る?善行章。
彼がどんな曹長だったか、なんとなく窺える気がしないでもありません。
■ 議員への陳情用クーポン
「これらのクーポンを使えば、”モロトフ・カクテル”が一層強力になります」
「モロトフ・カクテル(Molotov Cocktail)」とは火炎瓶のことです。
フィンランドとソ連が戦った「冬戦争」で、物資不足のフィンランド軍が
対戦車用にビンにガソリンなどを入れた原始的な武器にこの名をつけたのが始まりです。
当時のソ連の外務大臣、ヴァチェスラフ・モロトフが、フィンランドに対する空爆について
「資本家階級に搾取されているフィンランド労働者への援助としてパンを投下した」
と発言したのに対する、フィンランド側の「意趣返し」的ネーミングです。
それはともかく、クーポンはそれぞれをハサミで切り取って使うようになっており、
上院議員や地方の代表者(市長や知事など)の宛名が「導火線」になっています。
クーポンを切り抜いて実際に使用された例です。
「戦争を終わらせるため、わたしは$5、$10、$15、その他を同封します。
名前:(ニューヨークタイムズ内、考える婦人のグループ)
住所:
寄付は22ドルとなっており、「レシート送ってください」と書いてあります。
こちらはダイレクトに活動資金を募るクーポン。
ところが、この赤字で書いたコメントをよこした人は、
「戦争を終わらせるために、私は」
の後を横線で消して、その代わりにこう書いています。
「あなたにお金は送りません。
てか、ニクソン大統領にお金を送ってください。
彼はとても信頼できる仕事をしているのですから💢」
戦後のアメリカという国がどんな時代も決して一枚岩ではなく、
主流とされる声が必ずしも大多数ではなかった、つまりニクソンのいう、
「サイレント・マジョリティー」
の存在を表しています。
■ ペンタゴン・ペーパーズ
1971年6月、ニューヨークタイムズ紙は、
「ペンタゴン・ペーパーズ」
の一節で読者を驚かせました。
そして他の新聞もそれに追随しました。
このレポートは、ジョンソン大統領の国防長官だった
ロバート・マクナマラのために数年前に作成されたものでした。
ペンタゴン・ペーパーズ、正式名称「国防長官室ベトナムタスクフォース報告書」は、
1945年から67年までのアメリカのベトナムへの政治的・軍事的関与に関する資料で、
これによってジョンソン政権が、
「国民だけでなく議会にも組織的に嘘をついていた」
ことが証明されることになりました。
最初に告発したのは研究者だったダニエル・エルズバーグ(写真左)という人物で、
彼は当初ニクソン政権から共謀罪、スパイ罪、政府財産の窃盗罪で起訴されましたが、
その後ホワイトハウスが彼の信用を落とすため、彼の精神科医に工作したり、
配管工を抱き込んで盗聴器を仕掛けようとするなどの工作命じていたことがわかり、
結局、起訴は取り下げられることになりました。
ちなみにこれらの工作には、のちにウォーターゲート事件で複合施設にある
民主党全国大会の本部を盗聴するための手法が含まれていました。
これがニクソン辞任につながったのは歴史の記す通りです。
■ マクナマラ国防長官の「中国封じ込め」
国防長官のロバート・マクナマラは、1967年6月17日に
「ベトナム戦争の百科事典的な歴史」を編纂する研究部門を立ち上げました。
しかし不思議なことに、マクナマラは、この立ち上げについて
ジョンソン大統領にもディーン・ラスク国務長官にも知らせていません。
36人のアナリスト(半数は現役の軍人、残りは学者と連邦政府の文官)が
この任務に携わりましたが、結果についても極秘に収められました。
研究結果は、3,000ページの歴史的分析と4,000ページの政府文書の原本47巻からなり、
「トップシークレット-センシティブ」(=正式な機密ではなくアクセスを管理すべき)
に分類されていました。
■ ベトナム戦争への介入
そしてその内容です。
ジョンソン大統領は、ベトナム戦争の目的は
「独立した非共産主義の南ベトナムを確保すること」
だと公表していましたが、その根底には
「友人(南ベトナム)を助けるためではなく、中国を封じ込めるため」
であるということが書かれていました。
マクナマラは、中国がナチスドイツやかつての大日本帝国のような、
帝国的野望を抱いており(1917年のドイツのように、30年代後半の日本のように、
そして1947年のソ連のように)世界におけるアメリカの重要性と優位性を低下させ、
より間接的に、より脅威的に、アジアを包括しようとする大国であるという考えでした。
(それから半世紀後の中国の覇権と世界の状況について、マクナマラは
おそらく草葉の陰で『そらみたことか』と言っているかもしれません)
そして、中国を包囲するために、アメリカは「中国を封じ込める長期的な努力」の一環として
「3つの戦線」を確立することを目指していました。
三つの戦線とは、
1、 日本・韓国戦線。
2、インド・パキスタン戦線
3、東南アジア戦線
ベトナム戦争はこの3番目の戦線に相当します。
それでは、ベトナム戦争期間、それに各政権がどう関わったか、
ペンタゴンペーパーではどう包括(という名の糾弾)しているかですが、
● ドワイト・F・アイゼンハワー
1954年に「駆け出し」の南ベトナムを支援し、
共産主義国である北ベトナムを秘密裏に弱体化させることで、
「ジュネーブ協定の最終的な崩壊に直接的な役割を果たした」
●ジョン・F・ケネディ
ベトナムに対する政策を、限定的な「ギャンブル」から
広範な「コミットメント(介入)」へと転換した
● リンドン・ジョンソン
アメリカ政府は南ベトナムを守るためと称して共産主義の北ベトナムに対し
秘密裏に軍事作戦を展開し始めた
ペンタゴン・ペーパーズの
「ケネディの介入(コミットメント)とプログラム」
と題されたセクションでは、
「我々は、南ベトナムが(東南アジアの他の国とは異なり)
基本的にはアメリカの創造物であり、それが介入の理由である」
と今では誰でも知っていることが書かれています。
まあ、なんちゅーか、歴代大統領全員黒じゃね?という結論ですな。
そして、アメリカの果たした「役割」として、
「米国の支援がなければ、ゴ・ディン・ディエムの南部の支配はなく、
ベトミン軍に即座に制圧され、南ベトナムが生き延びることはできなかっただろう」
とあります。
■ゴ・ディン・ディエム大統領暗殺クーデターの黒幕
暗殺されたディエム
また、ペンタゴン文書には、その
ディエムを暗殺した軍事クーデターの陰にはアメリカ政府がいた
こともしっかりと書かれています。
アメリカ政府がクーデターを計画していたベトナムの将軍たちと
「秘密の連絡」を取り合う一方で、ディエム大統領への援助を打ち切り、
クーデターを承認し、実行後は後継政権を全面的に支援していたということは、
後世の我々には今更の「知ってた速報」ですが、それもこれも
ペンタゴンペーパーズによって初めて明らかになったことでした。
ちなみにこのクーデター側と連絡を取っていたのは
CIAのルシアン・コーネインという人物であることがわかっています。
Lucian Cobein
ペンタゴン・ペーパーズによると、介入前からアメリカ側は
北ベトナム並びにベトコン地域に対しての空爆と、それが起きたときの
北側共産勢力の軍事的反発をシミュレーションしていました。
そして、米海軍の哨戒艇を北ベトナムの海岸に接近させるなど、
「挑発」の方法についても検討していたと書かれています。
■ エルズバーグの『動機』
ダニエル・エルズバーグは、補佐官として研究に携わっていました。
彼は最初から反戦の立場から研究を公開するつもりでコピーを取り、それを
国家安全保障顧問であるヘンリー・キッシンジャーや上院議員のフルブライト、
ジョージ・マクガバンなどに連絡を取りましたが、彼らのうち誰も
この件に関心を持ちませんでした。
そこで彼はニューヨーク・タイムズ紙にリークしたのです。
「ペンタゴンの研究では、米国の関与が増大した3年間を追跡している」
というタイトルの記事は、「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれるようになりました。
この文書について、エルズワースはのちに
「歴代の大統領による違憲行為、大統領の宣誓違反、
大統領側近以下一人一人の公務への宣誓違反を証明している。
アメリカ人は歴代大統領が彼らをいかにして誤解させたかを知るべきだと思った」
と語り、さらに彼が「不当な戦争」と認識したものを終わらせるために
文書をリークしたと付け加えています。
50年後の2011年6月、ペンタゴン・ペーパーズを構成する文書が
米国の秘密開示法によって機密解除され、公開されました。
会見を行うエルズワースの写真の右側にディスプレイされているのは、
オンラインで公開されたナショナルアーカイブの
「ペンタゴン・ペーパーズ」を全てダウンロードしたもので、
全部でおよそ7000枚になります。
続く。