ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

自衛隊殉職者慰霊式 於呉地方総監部

2016-10-30 | 自衛隊

毎年防衛省では、任務に殉じて亡くなられた自衛隊員のための
自衛隊殉職隊員追悼式を、自衛隊記念日の時期に行います。


先日、自衛官の殉死と、その命を捧げるべき大義について、
元海将の書かれた一文を元に少しお話しする機会がありましたが、
殉職隊員の慰霊に関しては、一般国民に膾炙しているとは言い難い、
とこのとき私見を述べさせていただきました。

しかし防衛省ならびに政府がこれを疎かにしているというわけではなく、
毎年、市ケ谷の防衛省慰霊碑前に於いて、殉職隊員のための追悼は
内閣総理大臣ならびに歴代防衛大臣が出席してこれを執り行います。

今年顕彰された御霊は全部で31柱。
その内訳は、

陸自7柱 海自12柱 空自10柱 防大1柱 防医大1柱

というものです。



1年に31名の殉職、という数字を皆様は多いと考えられますか?


国会で民進党の阿部知子議員の質問に(もちろんこの人も慰霊式は欠席)

答えた安倍首相の答弁書から、平成15年以降の殉職者の数を書き出してみます。

その他で色分けをしています。

平成15年 48 17 10 16

平成16年 64 16 14 6

平成17年 64 15 14 8

平成18年 65 19 9 8

平成19年 48 13 12 6

平成20年 51 16 9 7

平成21年 53 15 12 6

平成22年 55 10 12 6

平成23年 49 14 15 

平成24年 52 7 20 4

平成25年 47 16 13 6

平成26年 43 12 11 3

これを見てどう思われましたでしょうか。
全員で31名というのがむしろ少ないほうだと知って
驚かれた方もおられるのではないでしょうか。

あと特筆すべきは各自衛隊での殉職者の数が
これによると毎年ほぼ一定していると言うことですが、これは
危険の多寡ではなく、隊員数比によるものだと思われます。

あと、自殺は殉職に含まれるのか、ということについても
書いておくと、

「 自殺は、自衛隊員の自損行為による災害のため
原則として公務災害とは認められないが、
公務の負荷により精神疾患を発症し、当該疾患が原因で自殺した場合は、
公務に起因して死亡したものと認めている」

とされています。
この自殺だけに特定した資料によりますと、1年に自殺した自衛官の数と、
一般の国家公務員の10万人あたりの自殺者の数を比較したものがあります。


年度    自衛隊 一般(単位人)
 
平成15年      31.4    17.1

平成16年      39.3    19.0

平成17年      38.6     17.7

平成18年      38.6     23.1

平成19年      36.0     20.3

平成20年      33.3     21.7

平成21年      34.9    23.6

平成22年      33.8     22.7

平成23年      34.2     20.7

平成24年      35.2     15.9

平成25年      33.7     21.5

平成26年     29.1    (調査中)


一般職と比べてやはり自衛隊は自殺者の割合が高いのがわかりますが、
どちらもどちらもその比率にさほど増減はありません。

自衛官の総数は22〜3万人なので、10万あたりの割合から類推すると
実際に自殺する隊員数は年間7〜80人ということになります。


そこで気になったのですが、この自殺者の「自殺理由」が
「公務の負荷であるか否か」についての認定はどうなっているのでしょうか。


テロ対策にもとづく勤務従事における自殺者の内訳は

海上自衛隊 25人 航空自衛隊 0人

イラク措置法に基づく勤務における自殺者内訳は

陸上自衛隊 21年 海上自衛隊 0人 航空自衛隊 8人

でしたが、その個々の理由には借財、家庭関係なども含まれます。
実際にこれが派遣との因果によるものだと認定はできませんが、
このうち公務災害と認められたのは

陸上自衛隊 3人 航空自衛隊 1人

となっています。




さて、ところでこれだけの隊員が任務中に亡くなっていることを、
国民のどれほどが
認知しているかというと、そもそも全ての事故が報道されず、
慰霊式が行われることすら全く一般に知らされない(もちろん報道もほとんどない)
という現状を考えると、皆無に等しいのではないでしょうか。

ただ、今年は少し事情がいつもと違いました。
産経新聞がこのような記事を出し、それがネットで広まったからです。

殉職自衛官追悼式、野党議員で参列したのは1人だけ 
安倍晋三首相が追悼「国民の命と平和を守り抜いていく」

 

防衛省は22日、平成28年度の自衛隊殉職隊員追悼式を行い、
安倍晋三首相らが参列した。
しかし、国会で安全保障関連法の施行に伴う
自衛官のリスク増大を批判する野党議員の姿はほとんどなかった。

追悼式では新たに31柱の名簿を慰霊碑に奉納。
首相は「ご遺志を受け継ぎ、国民の命と平和を守り抜いていく」と追悼の辞を述べた。

追悼式に出席した現職の国会議員は13人で元職は5人。
このうち現職の野党議員は民進党の大野元裕参院議員だけ。

民進党や共産党など野党は今国会で、南スーダン国連平和維持活動(PKO)
に派遣される陸上自衛隊部隊をめぐり、安保関連法で認められた
「駆け付け警護」任務などを負わせる政府方針を批判。

民進党からは自衛官の安全を心配する質問も出た。


防衛省は国会議員に関し、元首相と同省の元政務三役に
追悼式の招待状を出している。

また、自ら出席を申し出た場合、席に余裕があれば受け入れている。


衆参両院事務局によると、今国会の予算委員会で

自衛官のリスクに関する質問をしたのは民進、共産、社民各党の計8人。
この中で出席したのは元防衛政務官の大野氏だけだった。



産経新聞は、ここで野党議員のダブルスタンダードを非難しています。

追悼式の報道に関しては毎年ほとんど行われることはありませんが、
今年は産経以外には毎日新聞社がほんの少しだけ報じています。
しかしそれは

「安保法制に伴う危険の増大に対しても、変わらず
任務を全うすることを自衛隊に要請し期待する安倍首相」

という図式を補強するための通り一遍な記事に過ぎず、
野党議員の欠席についてはもちろんスルーでした。

 

前にも書きましたが、現職の自衛官の口から

「あの人たちに自衛官の命の心配をしてもらうことになるとは
夢にも思いませんでしたよ」

と苦笑まじりに実際に聞いたことがあるわたしとしては、
この産経新聞の記事を読んでもまったく驚きません。

そこであらためて防衛省のホームページを確認したところ、
記事にもあるように防衛省は出席者を

「現職総理大臣と元防衛大臣」

と決めており、それに従って招待状も出しているということです。
そこには追悼式が始まった昭和32年の岸総理をはじめとして、
出席した歴代総理大臣の名前が記録されているのですが、
たった一人、出席しなかった総理大臣がいました。

民主党政権時代、総理を務めた野田佳彦、あの菅直人ですら
(野田総理は2年連続で出席している)出席しているというのに、
史上唯一、鳩山由紀夫だけは追悼を頑として拒んだのです。

なんでもその日、無理やりなにか予定を入れたという話ですが、
それが追悼式以上に優先すべきことであったとは誰しも思わず、
つまりは観閲式同様、「逃げた」のだといまでも言われています。

おそらく、自衛隊最高指揮官であることからも逃げたかったのでしょう。



さて、先日呉地方総監部で執り行われた地区における
殉職隊員追悼式に、今回はわたしも参列させていただきました。



参加が決まったのは直前のことであったので、
わたしは出欠のやり取りをファックスで行い、当然ながら
当日どこにどういう風に赴けばいいのかもわからないまま、
朝一番の飛行機に乗り、空港バスで呉まで辿りついてからタクシーで
呉地方総監部を目指しましたが、ここで痛恨のミスがありました。

本来、こちらから入場することになっていた慰霊碑近くの門を、
こちらには来たことがないため通り過ぎてしまったのです。



江田島の旧海軍兵学校と同じで、呉総監部もこの港が
「正門」であり、あとは「裏門」であるそうです。



この港を望む開けた場所に、殉職隊員のための慰霊碑があります。
本日の慰霊式のために献花台と花が飾られているのでした。
参列者はこの前に設えられたテントの名前の書かれた場所に座ります。 



ところがファックスでやり取りしたわたしにはそんなことはわからず、
来たことのあるこちらの庁舎側の門から入って行ってしまいました。

入り口で聞くと、「坂を下りていったら慰霊碑があります」

今にして思えば慰霊式出席者ならタクシーでそのまま下に行くように
指示してくれても良かった気もしますが、まさかこんな間違いを
する参列者がいるとは警衛の隊員さんも思わなかったのでしょう。

初めて見る赤煉瓦の横の坂を下って行くと、慰霊碑とテントが見えました。
そこで警衛の隊員に止められました。

「招待状を見せてください」

仕方なくファックス用紙を見せると

「これはファックスですね(だからダメですの意)」

わたしはもう今にも式が始まりそうなのに、ここで
隊員と押し問答をしている時間はない!と判断し、
出席が急に決まったことと、招待者の名前を告げてそこを突破しました。



そのときには追悼式開始までまさに10分といったところです。
これらの写真は全て式典終了後に撮りましたので念のため。



これは式が終了したあとですが、献花台に続く専用の道を
挟んで、白いベルトの隊員が護るように直立していました。



自衛隊の殉職隊員追悼式に参列するのは2度目です。
1度目の前回は掃海隊殉職者であったため、
殉職隊員の遺族は年配の方が多く、しかもその参列者は
年々減っていっている、という話をそのとき伺いましたが、
呉の担当区における殉職者の遺族の方々には、
亡くなった隊員の若さを表すかのように、まだ若々しい両親、
そして
新婚であったのかもしれない若い女性や母親に抱かれた幼児、
そしてまだ月齢の赤ちゃんを抱いた母親もいました。

弔銃発射のとき、自動車のおもちゃを抱えて抱っこされていた
男の子がその音にびっくりして泣き声をあげ、それをなだめるために
母親が彼を抱きしめる様子には、思わず涙を誘われました。


続いての献花では、一人ずつ名前を呼ばれ祭壇前に進み出、
白菊を霊前に捧げて御霊のご冥福を祈ります。

そのあと行われた呉地方音楽隊による追悼演奏では、

「海をゆく」

「ふるさと」

「海ゆかば」

の三曲が奏楽されました。

この日最後に遺族代表の方がされた挨拶全文です。



追悼式を執り行っていただきまして心から厚くお礼申し上げます。
私ども遺族にとりまして、何ものにも代えがたい大切な肉親を失った悲しみは、
崇高な使命のためとはいえ、言葉に尽くせないものがありました。
この深い悲しみを乗り越え、今日まで頑張ってくることができましたのも、
歴代の呉地方総監を始め、隊員の皆様方の温かい励ましや
親身な支えがあったからこそと心から感謝しております。

私たち遺族は、これからもお互いに手を取り合い、故人、
そして残された者のためにも、そして残された者のためにも明るく、
さらに力強く生きていくことを、ここにあらためてお誓い申し上げます。

近年全国で続発する大規模な自然災害における救援活動、及び、
諸外国におきましても活躍され、国の期待がますます高まっていく昨今、
どうか隊員の皆様にはくれぐれも健康に留意され、
わたしたちの夫や子供、父、そして兄弟たちが果たせなかった
国防の任務を全うされますよう祈念申し上げますとともに、
今後とも私たちを末永く見守っていただきますようお願い申しあげます。
本日は、平成28年度呉地区殉職隊員追悼式を、かくも厳粛に挙行していただき、
またこうしてお招きいただきましたことに、重ねてお礼申し上げ、
遺族代表の挨拶とさせていただきます。



あらためて、任務に殉じて尊い命を捧げられた隊員の方々の
ご冥福を心より祈ります。




 


オスプレイと抗議デモ〜平成28年度自衛隊記念日 観閲式

2016-10-29 | 自衛隊

続いて、車両部隊の行進となるわけですが、その前に
この音楽隊の写真を見ていただけます?



音楽隊の写真なんですが、この中に歌手の三宅三曹がいると
教えていただきましてね。
この写真ではそうなのかなあという感じですが、
少し検索してみたら楽器も演奏されるようですね。

公式のプロフィールにはそういう経歴はないので、
もしかしたら音楽隊の誰か(偉い人)が、楽器を
やってみることを最近彼女に勧めたのかもしれません。

それにしても、この時の音楽隊ですが、写真でもおわかりのように
全員暗譜、つまり楽譜を見ないでで全ての曲を演奏しています。
自衛隊の音楽隊であれば頻繁に演奏する曲ばかりとはいえ、
これはさすがプロだなあと一人感心していた次第です。



それではまた車両部隊の説明に戻りましょう。
まずは国際協力平和活動派遣部隊からです。
この時に流れるのが「祝典ギャロップ」。

この曲を作った須摩 洋朔(すまようさく)は、陸軍戸山学校出身、
陸自中央音楽隊の生みの親ともいうべき人です。

このほかにも「順閲の譜」、空自のテーマソング「大空」、
「起床」「点呼」「食事」「会報」「課業(状況)開始」
「課業(状況)終了」「消灯(弔銃)」 などの陸自ラッパ譜を作りました。

個人的に「順閲の譜」は悪くないと思いますが、陸自の「分列行進曲」
海自の「軍艦」と比して「大空」ははっきり言ってテーマからして軽すぎ。
(第2テーマはちょっとマシですが)正直全く評価できません。 

この祝典ギャロップもこの作曲者特有のセンスが発揮されていて、
なんというか、芯のないキャベツみたいなスカスカした印象の曲です。
(感想には個人差があります)

ただ、スピード感だけはあるので(笑)、車両行進にはぴったりかと。



続いて偵察部隊。
指揮官は二等陸佐です。



偵察隊はオート(バイク)含め27両で編成されていました。



89式装甲戦闘車中隊。
自衛官妻Hさんは、これらのものが全て「戦車」にしか見えないと言っていました。



 
89式装甲戦闘車は、平成26年の御嶽山噴火の際、
救援活動に出動し活躍しています。



ところで、このトラックで行進している部隊なのですが、
(予備自衛官部隊だったと思います)
この手前の後ろ向きの人と向こうに女性が座っています。
よくよく見たら、ほかにも女性らしき隊員の姿が。


即応予備自衛官と予備自衛官の違いは、召集されて
前者は現職自衛官とともに第一線の任務に就き、
予備自は 第一線部隊が出動した時に、駐屯地の警備を実施する等、
後方地域で任務につくというところだそうです。



水か燃料タンクかな?と思ったら違いました。
施設科のこの車両は92式浮橋

なんと、この上に乗っているものをぽちゃんと水に落としたら
それがぱかっと開いて浮橋になるという・・・

92式浮橋展張


ご存知でなかったらぜひどうぞ。
橋の展開は1:50からです。 



化学科部隊のNBC偵察車。
放射能で汚染された地域での情報収集を行います。
NBC とは「核」「生物」「化学」を意味しています。



おなじく化学防護車。

車内の密閉度を上げ、空気浄化装置を装備することによって
乗員を外部の汚染から守りながら、
車外の放射線の測定や毒ガスの検知を行うことができます。



これもおなじく除染車。
2500Lの水槽と加温装置を搭載しており、
地域、施設等の大規模な除染作業を行います。

地下鉄サリン事件でも出動しました。

 

需品科部隊の浄水車。



このまま上に乗っているものが伸びて行き、タケコプターのように
くるくる回るのではないか、という形状をしていますが、
情報科部隊の通信車で、稼働時にはこれがひっくり返って
「ディッシュ」、つまり受信装置になります。


衛星単一通信可搬局装置 JMRC-C4。 

 

こちらも通信科。
85式地上レーダ装置1号(改) JTPS-P23


機甲科に配備されているとwikiにはありますが、これも
ブルーのマフラーの通信科車両として行進していました。



後ろに乗っているドローンに目が釘付け(笑)
今年はなぜか車両行進をしました。
これも通信科です。



前にも説明しましたが、揚陸用のゴムボートは彼らの中心となる「武器」。
西部方面普通科連隊。
指揮官は1等陸尉です。

日本版海兵隊 自衛隊水陸機動団



空自迷彩にブルーのスカーフ。
空自ペトリオット部隊です。

実を言うとなぜ空自に高射部隊があるのかいまだに謎なんですよね。
もともと陸自にあったみたいだし、部隊も習志野にあるし・・。

空自も少しは地上でのミサイル迎撃負担してもらわんと!
みたいな感じで創設されたんでしょうか。



弾道ミサイルを撃墜する能力を持つペトリオットPAK3の
レーダー装置や発射装置が続きます。




アンテナ・マスト・グループ(AMG)

あーまーげー(笑)とか読まないように。




総火演でおなじみ高射特科部隊。
対空戦闘部隊として侵攻する航空機を要撃するとともに、
広範囲にわたり迅速かつ組織的な対空情報活動を行います。



この発射を撮るのが好きです(弾速が遅くて撮りやすいから)。
93式近距離地対空誘導弾。





射撃用レーダー「信号処理部」。
地対空ミサイルセットの一部です(適当)



87式自走高射機関砲中隊。
航空機を撃ち落とすから付けられた愛称スカイシューター。
でも現場ではガンタンクとかハエたたきと呼ばれたり。


 

レーダー部分は装備展示のとき可愛らしくくるくる回っていましたが、
行進のときにはぢっとしていました。



野戦特科部隊の88式地対艦誘導弾。
総火演のときにはいつも

「沿岸に迫る敵舟艇を撃破します」

と画面で説明されるだけで実際には射撃は行いません。
普段はどこでどんな実弾練習をしているのでしょうか。 

 

155mm榴弾砲・FH70中隊指揮官。
シキツウに乗っての行進です。

 

155mm榴弾砲のノーズはこんな風にして支えていたんですね。 
総火演では富士山を描く高射を行ったりします。

一両あたりの調達価格が9億6,000万円と高額なため、
年間の調達数は数両に留まっている

ということです。 

 

榴弾砲の上で銃を構えながら観閲行進する隊員たち。



そして最後に戦車隊です。
おなじみ10戦車。
前回の観閲式における装備展示では人が群がっていましたが、
今年は動いているとき以外は誰も関心を払っていませんでした。
それだけみんな見慣れてきたってことなんでしょうね。



毎回、戦車の行進は思ったより進むのが速いので、周りに

「速い!」「速い!」

という嘆声が起こります。



そして90式。

前回ちらっと書いたのですが、なぜか今回74式の行進は行われませんでした。
総火演では普通に活躍していたのですが。
残念ながらそろそろ引退が近づいているということなんでしょうか。



陸自隊員の敬礼は明らかに海自のそれとは違います。
「今はあまり違わない」(防大で皆同じだから)という話もありますが、
こうしてみるとやはり肘を張って上げ、真横に突き出していますね。



ここまでで一応車両部隊の観閲行進は終わり、前にも書いたように
海外からの祝賀部隊が行進をします。



アメリカ陸軍ストライカー旅団のストライカー装甲車。
そして・・・、



海兵隊の機動展開部隊、MV-22、オスプレイです。



実は今回、こちらが比較的静かになったときだけ、
遥か向こうで拡声器の音がしているなあと思っていたんですよ。

「もしかして、なんか抗議してる?」

「なんかかすかに聞こえるね」

この程度だったんですけどね。

実際にオスプレイが通り過ぎたとき、彼らが石を投げたり
凧をあげたりするんじゃないかとワクワクしていたのですが、
それらしい報道もなかったのでメディアにも無視されたようです。

唯一自分たちであげてたHPによると、
朝霞駅から駐屯地近くまで抗議デモをやってたみたいですね。

「やめろ!軍事パレード 行っちゃだめ!南スーダン」

だそうです。



ところで、ストライカー装甲車のこのデコデコした装備は一体?
なんかわからないけどいろんな機能がありそうだなあ。



名前だけでなく、車体の横もやたらデコラティブで、
やたら強そうに見えるストライカー装甲車です。



続く。


女性徒歩部隊の秘密兵器〜平成28年度自衛隊記念日 観閲式

2016-10-28 | 自衛隊

観閲感訓示、部隊表彰式に続き、観閲感の前を行進する
観閲行進が始まります。



シルクハットを胸に当てて立つ総理大臣、そして胸に手を当てる防衛大臣。
これは世界的基準で言うところの「閲兵」ですが、
わが自衛隊においてはこのような言葉で言い表しています。

6年前の民主党政権下の悪夢の観閲式では総理大臣が出席せず、
なぜか財務大臣だった菅直人が代わって出席し、
北沢防衛大臣はどういうわけかこれも出席をしなかったので、
本来防衛相の立つべき場所にいたのもなぜか外務副大臣の福山哲郎でした。

自衛隊最高指揮官が出席を拒否したのみならず、代理で出席した男は
自分がなるまで総理大臣が自衛隊最高指揮官であることを知らなかったという。

今考えたらものすごい観閲式だったですね(遠い目)



まず、全部隊に先立って陸海空合同音楽隊が行進。
向こう側の定位置について全部隊の行進音楽を演奏する関係上最初になります。

というわけで一番最初に観閲を受けるのは各音楽隊の隊長ということになります。
音楽隊のタクトはオケのものより長いみたいですね。



陸海空はそれぞれ中央音楽隊、東京音楽隊、中央音楽隊。
この三音楽隊が防衛省の直轄部隊となります。



一番後ろの、体に巻きつけて行進するのはスーザフォン。
その手前がチューバです。
いずれも低音を担当する楽器ですが、観閲式では最初から最後まで
この楽器と共に立ち、歩き続けなければなりません。
貧血を起こしている場合ではありません。

音楽隊に次いで行進するのは観閲部隊本部ということでした。
英語では「Commander of Unit」となっています。

続いて防衛大学校学生隊。
蛍光色の目立つベストを着せられているのは報道陣。
前回はこのようなものは着ていなかった気がしますが・・。



防衛医科大学学生隊の先頭は、医学科と看護学科が同時に行進します。



この集団は医学科のはず。
はやりクラスヘッドは女子学生のようです。



高等工科学校学生隊の向こうに空挺部隊、その向こうに海空の徒歩部隊。
さすがに木の向こうがわは少しリラックスしているように見えます。



腰に吊るしているのは銃のホルダーだそうです。(知ったばかりの情報)



普通科部隊指揮官。



旗を片手でまっすぐ支えるのはかなり難易度が高そうです。普通科。



うーん、これは、強い(確信)
空挺部隊の指揮官なんてどんな化けも・・いやなんでもない。



行進のときには脚絆を巻いていた旧海軍の伝統を引き継いで、
海自は足元に白いチャップス(というのかどうか知りませんが)
を着用しますが、これがまたいいんですよねー。



士クラスの制服はなんといっても海自のセーラー服が一番です(断言)

旧軍の昔、神宮球場で行われた陸海合同の式典で、
スタンドにいた女子学生が海軍軍人にばかり声援を送って陸軍憮然、
という逸話を聞いたことがありますが、今でも一般的に

「海自の制服が一番かっこいい」

とされているとのことです。
その割には「(就職先として)一番人気がない」そうですが。



で、一番人気があるのはというと、実は空自らしいんですね。

海自が「伝統墨守 唯我独尊」で、
陸自が用意周到 頑迷固陋」だとしたら戦後生まれの空自は

「勇猛果敢 支離滅裂」


この支離滅裂がフリーダムに通じるといいますか、悪く言えば適当、
よく言えば窮屈そうでない闊達な感じが、若者の職場として
好まれるのではないかとも思っております。

(全て印象で語っておりますので念のため) 



続いて陸海空女性自衛官部隊です。
そんな部隊、いったいどこで活躍しているのか?
とあまり自衛隊に詳しくない方は思われるでしょうか。

それもそのはず、この女性部隊は観閲式前に結成される
「観閲式行進のための部隊」であるからです。



例えば海自の女性部隊ですが、全国の海士クラス約100人を9月下旬に招集し、
横須賀で約1か月かけて行進の動作を訓練しています。

この晴れ舞台において一糸乱れぬ行進を披露し、二日後の25日、
彼女らは横須賀の海自横須賀教育隊で解散式を行ったそうです。



これを今回讀賣新聞は

「観閲式の立役者」…女性自衛官徒歩部隊が解散


というタイトルで報じています。

解散式では、同教育隊司令の池田秀人1佐が

「高い練度で観閲式の立役者となった」とたたえ、海士を代表して
鈴木菜央1士が「無事終えることができた」

とあいさつした。
指導した教育第2部長の飯塚真由美2佐は、

「3自衛隊の中で最も目立つ行進を披露してくれた」

と喜んだ。

讀賣新聞がなぜ海自女性部隊だけを記事にしたのかはわかりませんが、
横一列で同じような記事ばかりの報道のなかで、
女性部隊の解散式にまで触れたのは讀賣一社でした。



あ、余談ですが、空自人気の理由の一つに

「美人の隊員が多いから」

という俗説があるそうですね。
実際は知りません。

 

ところで、スカートにストッキング、パンプスでの行進。
靴が脱げてしまうということなどないのだろうか、とわたしは
女性の視点から大変気になっていたのですが、今回写真を
ここまで拡大してみて初めて合点がいきました。

彼女らは靴の上から透明の靴バンドを着用していたのです。
男性の方はおそらくこんなものが世の中にあるとは
全く気づかないまま今日まで生きて来られたと思いますが、
この靴バンド、夏のサンダルやミュールの脱げ防止に、
女子の間では普通に認知されている秘密兵器でもあります。

やっぱりこれ、自衛隊がまとめて購入したりするんでしょうか・・。 




さて、これをもちまして徒歩部隊の行進は終了。
続いては航空観閲である観閲飛行です。

プログラムには観閲飛行部隊指揮官として、
第1ヘリコプター団長、田尻祐介陸将補が紹介されていました。
おそらくですが、このCH-47のどれかに乗っていたのだと思われます。



偵察ヘリOH-6D、カイユース。



AH-1Jコブラ。



多用途ヘリコプターUH-1Jヒューイ。 



AH-64Dアパッチロングボウ。
映画「シン・ゴジラ」では大活躍しました。
アパッチに限らず、陸自の装備はフル出演の感がありましたが。



続いて LR-2。
ビーチクラフト社の多用途機で、 連絡・偵察任務のほか、
災害派遣としての緊急患者輸送も行います。



P-3Cオライオン。
わたしの隣の自衛官妻Hさんのご主人はこれに乗っていたそうです。
このP-3Cは鹿屋から来たとのことでした。



U-36 A。
これも海自の飛行機です。
訓練支援機なので、曳航標的やチャフポッドなど、
小柄な機体のに多様な装備を吊下して飛ぶのだとか。
うーん、見てみたい。

コールサインは「キューピッド」だそうで、雰囲気出てますね。
ちなみに、コールサイン「YAMATO」というのがあるそうですすが、
これなんだと思います?



ここからは空自機。
輸送機C-130。



そこであらためてこちらを見ると、輸送機にスマートさなど必要ねえ!
と力強く言い切ってもいいような気がしますね。



F-2もFー15も来ましたが、いつもうまく撮れません。
特にF-2は色も「あれ」なので、逆光になると全くダメです。


さて、というところで、続いては車両行進となります。

続く。 


安倍首相訓示はどう報道されたか〜平成28年度 自衛隊記念日 観閲式

2016-10-26 | 自衛隊

朝霞で10月28日に行われた自衛隊記念日の観閲式についてです。
観閲式が本当に始まるのは、徒歩部隊が入場し終わって、
観閲官たる内閣総理大臣が臨場する瞬間です。



車から降りた安倍総理が観閲を行うことを宣言した後、

「こちらへどうぞ」



皆で団子状態になって移動(笑)
紫の旗はもちろん内閣総理大臣旗です。



第302保安警務隊の前に立ち、儀仗隊の栄誉礼を受けます。 
この後 紅白の台の上で国旗掲揚されるのを見届けた後、
オープンカーに乗り込みます。



車のフロントガラスに掲示していある5つの星は総理大臣の印。
自衛隊の最高指揮官たる内閣総理大臣の旗と同じです。



巡閲のためには徒歩部隊の一番端までまず移動するのですが、
それには観客席の近くを車が走行することになります。
安倍首相はその間ずっと観客に座っている人々に視線を向けていましたが、
これは政治家としての習い性とでもいうのか、

「どこか見ているように見えるが実はどこも見ていない」

という状態だったのではないかと思われます。
それにしても最近安倍さん、父親の安倍晋太郎に似てきましたね。

 

みなさんここぞと写真を撮りまくり。



オープンカーを先導する白い車にはSPが乗り込んで
厳しい視線を四方に注いでおります。
エンドまで行った車はここでUターンして帰ってきます。



そして部隊の巡閲を行うわけです。
総理の後ろの車には「防衛大臣旗」が付けられています。
後ろ座席に乗っているのはもちろん稲田大臣。



近くに座っていた人が、

「”晋ちゃんと稲田姫”っていうお菓子があったけど、
すぐ無くなってしまいそうだから買っとこうかしら」

と会話していましたが、おいおい(; ̄ー ̄A 

稲田大臣の隣は森山陸将です。



で、この安倍首相の隣の青マフラーは誰っ?!
職種はこの色だと通信科ということになるのだけれど、
安倍氏の隣に座るからにはボディガード兼用ですよね?
確かに強そうでは、ある。



合同音楽隊の演奏は、曲によって指揮者が交代します。
このとき「巡閲の譜」を演奏していたのは海上自衛隊
東京音楽隊の隊長樋口2佐でした。




さて、準閲が終わり、観閲間の訓示が行われました。
毎年毎回、マスコミというのはこの安倍首相の訓示の中から
安倍政権の目指すところを指し示すような象徴的な部分だけ
取り出して報道してきましたが、今回の訓示はどう頑張っても
マスコミ的に「美味しい」内容とは言えませんでした。

つまり全編自衛隊への感謝に終始していたのです。
ここで安倍首相のこのときの訓示を要約してみます。 


大災害が起きたとき被災者にとって自衛隊はまさに「希望の光」です。
台風10号での被害、熊本地震、いずれにおいても自衛隊は
危険も顧みず、夜を徹して、懸命の捜索・救助活動にあたり、
被災者の不安な心に寄り添いながら、生活支援に全力を尽くしました。
 「真に国民のための自衛隊たれ」
自衛隊創設以来のこの素晴らしい理念を、その身を持って、実践し、
今、国民から揺るぎない信頼を勝ち得た、諸君たちを誇りに思います。

 

カンボジアPKOに始まる、自衛隊の国際貢献の歴史は、20年を超え、
南スーダンでは世界の60を超える国々ととも国連PKO活動に従事しています。
 
首都ジュバで共に活動しているカンボジアの部隊の若い女性隊員が、
ある時、自衛隊員にこう話しかけてきたそうです。
 「約20年前、日本は、私の国を支えてくれた。」
内戦に苦しんだカンボジアが、国連PKOの下、平和への道を歩み始めた90年代初頭、
まだ幼い少女であったその隊員はこういったそうです。

「かつて日本が私たちにしてくれたのと同じことを、
わたしたちは今南スーダンの人たちにしている。
日本の人にこの姿を見てもらえて嬉しい」

自衛隊が撒いた「平和の芽」はカンボジアに花を咲かせ、
今また南スーダンに種が植えられているのです。 

危険の伴う、自衛隊にしかできない責務を立派に果たしてくれている諸君に、
心から敬意を表すとともに、今後も、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、
国際的な舞台で活躍してくれることを期待しています。

戦後、日本はひたすらに平和国家としての道を歩んできたし、
今後も、その歩みが変わることは決してありません。

 

国際情勢が激変する時代にあって、国際社会と手を携えながら、
平和国家として歩んでいくために平和安全法制はあるのです。
 

平和安全法制により日米は、一層緊密に、協力できるようになりました。
のみならず世界、フィリピンを始め、東南アジアの国々、豪州やインド、
欧州の国々、ASEANやEUからも、強い支持を得ています。

この法制によって、諸君には、尊い平和を守り抜き、次の世代へと引き渡す
新しい任務が与えられるでしょう。
隊員諸君には、かけがえのない平和の守り神として、
精強なる自衛隊をつくりあげてほしいと願っています。
 

今この瞬間にも、我が国の領土、領海、領空を断固として守り抜くため、
自衛隊の諸君は任務に当たっています。



一人の海上自衛官が、5日前、31年に及ぶ自衛隊人生に幕を下ろしました。

 「父は、ほとんど家にいなかった。たまにいても、ゴロゴロしていた。」

高校2年生となった彼の息子さんは、そんな父親に反発した時期もあったそうです。
しかし今月、同じ艦(ふね)の仲間が開いた送別会に招待された息子さんが
そこで見た写真には、家では見たことのない厳しい表情で、
真剣に任務に打ち込む、若かりし日の、制服を着た父の姿がありました。
イージス艦一筋だった父がミサイル防衛の最前線でいかに重要な役割を果たしてきたか、
どれだけ多くの後輩たちから尊敬を集めてきたかを聞かされた息子さんは、
送別会の最後、マイクを握り、こう言ったそうです。

「父の背中が、今日ほど大きく、偉大に見えたことはありません。
僕も、お父さんのように、立派な自衛官になります。」
 

隊員たちの御家族の皆様、どうか、誇り高き彼らの姿をよく御覧ください。
国民の命と平和な暮らしを守るというこの崇高なる任務を、
高い使命感と責任感で全うする彼らは、日本国民の誇りであります。

御家族の皆様。
大切な伴侶やお子様、御家族を、隊員として送り出して下さっていることに、
最高指揮官として、心から感謝申し上げます。
皆さんの支えがあるからこそ、彼らは、全力を出し切り、
国民の命と平和な暮らしを守ることができる。本当にありがとうございます。
彼らの任務遂行に万全を期すことを、改めてお約束いたします。
 

隊員諸君。
私と日本国民は、常に、諸君を始め全国25万人の自衛隊と共にある。
その誇りと自信を胸に、それぞれの持ち場において、
自衛隊の果たすべき役割を全うしてください。
常に自らの職責の重要性に思いを致し、日本と世界の平和と安定のために、
益々精励されることを切に望み、私の訓示といたします。


あまり要約になっていませんが、つまりはそういうことです。
自衛隊員とその家族への感謝、彼らを誇りに思う気持ち、
安倍首相が自衛隊式典で行う訓示の主眼は常にそれなのですが、
各マスコミのタイトルはこうです。
 


朝日 安倍首相、自衛隊観閲式で訓示「平和の守り神として」

NHK 安倍首相 自衛隊観閲式で訓示 新任務に万全期すよう指示

毎日 「国際的な舞台で活躍を」首相、観閲式で訓示

時事 新任務への備え指示=安倍首相、自衛隊観閲式で

産経 安倍晋三首相「平和の守り神として精強なる自衛隊を」 
   観閲式で訓示 安保関連法の意義訴え
 
どうも、マスコミというのは、自衛官へのねぎらいの言葉などは
訓示の「基礎部分」なのでニュースにする価値もないと思っている模様。


続いて、安倍首相は各自衛隊の中で特に功労に価する任務を果たした
部隊に特別表彰を行いました。

陸自 第101不発弾処理隊

沖縄県における不発弾処理に対する表彰です。

海自 護衛艦「こんごう」「きりしま」「ちょうかい」「みょうこう」  

お分かりのように、北朝鮮からのミサイル防衛のために出動した
イージス艦隊です。

空自 警戒航空隊

領空侵犯に対するスクランブルなど功おけるの功績として。
 


このあとは観閲台の前を徒歩による観閲行進を行うため、
部隊は皆左手、中央から退場していきます。



国旗も退場。



そのとき、ほぼなんの前触れもなく航空機から
自由降下が行われました。
金色のパラシュートで行う降下は落下地点を操作しにくく、
さらに落下速度も速いため、二本足で地面に立つのは難しいのですが、
自由降下だとピンポイントで降りる場所を決められます。



三人の降下員は、選び抜かれたベテランに違いありません。
風のない日とはいえ、高高度から観閲台の正面に間違いなく着地し
二本足でアスファルトに降り立つ姿に観衆は惜しみない拍手を送ります。



瞬く間に傘をたたみ、集合して観閲官に向かって敬礼。
簡単に見えて実は大変な訓練と個人技の賜物なのでしょう。


ここまでで式次第のほぼ半分が過ぎました。
いよいよ観閲行進が始まります。


続く。

 

防衛相のストームヒールパンプス〜平成28年度自衛隊記念日 観閲式

2016-10-25 | 自衛隊

さて、それでは当日の朝から振り返ってみます。

今回のチケットは某所からやってきた二枚。
別口で手に入れたチケットを持っていた人の主導で
午前5時半に最寄駅集合、それから歩いて現地着、
開門を待つというスケジュールとなりました。

わたし一人で行っていたらまずこんなこと、自分でそう決めていても
時間通りに実行できるとは思えません。
前回のイベント総火演でも牽引車となって無茶な計画を立ててくれた
この主催者にわたしは心から感謝しております(笑)

わたしのチケットは、この主催者を通じてある方に渡ったのですが、
世間は狭いというのか、彼女の夫は元自衛官でわたしの知っている
自衛官の同期であるだけでなく、他にも共通の知り合いがいました。

この日わたしは早く入って彼女のために隣の席を取っておいたのですが、
こういう二人なので観覧中も話が尽きず、わたしは主に

「自衛官と結婚したらこんなことがある」

というテーマで興味深い話をたくさん聞かせていただけました。



入場する門は二箇所。
どの席に座りたいかでどちらからはいるかが決まるのですが、
今回わたしは中央に向かって左側のシートの上段に座りました。
驚いたのは、開門前(6時くらいだったかも)だというのに
すでに100人くらいの人が並んで待っていたことです。

しかも手荷物検査を終えたら皆走る走る。
グループで、単独で、子供の手を引いて・・・。

実際に入場行進が始まるのは9時半ということでしたが、
8時までにこないと席がなくなると言われており、
わたしの座ったスタンドは7時には下2列を残して埋まっていました。 

その頃やってきた一人のおじさん、上まで上がってきて
空いている席がないかを鋭い視線で物色し、隣の
大臣招待の白いシートが敷いてある部分(誰もいない)に行って

「ここは座れないの」

とわざわざ自衛官に聞いて回っていましたが、
座れないから誰も座っていないんだとなぜ気づかない(笑)



観閲代の向う正面にも赤、黄色の席がありましたが、こちらは
一定の時間が経過するとこちらに来る通路を閉鎖するので、
それ以降に入場した人を詰め込む?ための一角となっていました。
こちら側のいい席は報道関係者専用になっていたようです。



入って少し経つと、会場の準備らしきことが始まります。
前の方は防衛省とか武官など、バスで入場する人たちの席ですが、
名簿と席の名札を照らし合わせて確認しているようです。 



陸自主催なのでOD軍団が主ですが、とりあえず陸海空全ての制服が勢ぞろい。



観閲台正面の席も埋まり始めました。
ちなみにこちらを向いて立っている警衛の隊員たちは、開門直後から
ずっとこんな感じで身動きせず、首も動かさずに立っていました。



観閲官が立つ台を点検しているようです。
床とかパイプイスの裏側などにも不審物がないかチェック。

向うとの往来が止められる前に装備を見学に行く人もいましたが、
わたしは買ってきた朝ごはんを食べたりして過ごしました。



そして、陸自音楽隊員のスネアドラムに合わせて、
9時半に徒歩部隊の入場が始まります。 



この入場の時に、隣の自衛官妻、Hさんに

「この間連休のときみなとみらいのホテルに泊まったのですが、
防大の学生さんが彼女のカートを引いて歩いているのを見ました」

というと、

「それは1年生ですね」

なんでも防大では1年生の間はどこにいくのも(もちろんデートも)
制服を着て外出すべし、と決まっているそうです。
なぜ1年生だけなのかわかりませんが、目立つ制服では自ずと
行く場所もすることも限られてしまいます。
防大の制服の彼素敵!ということで好きになった場合は
彼女の方もなかなかおつなデートなのかもしれませんが。

ちなみにHさんはたまたま知り合ったのが防大生だったということで、

「防大って、灯台守の養成所?」

という認識だったそうです。
わからないでもないがその間違いはおかしい。 



防衛大学校の学生隊は、4つの大隊に分かれて行進します。
これは日頃の学生生活がこの大隊単位で行われるからで、
防大を見学したときに知ったところによると、生活する校舎も
大隊ごとに分かれているのです。

これは第1大隊が静止したところですが、指揮官?は女子学生。
やっぱり優秀な学生が選ばれるのでしょうか。



こちらは第4大隊の隊列ですが、こちらの指揮官も女性でした。
女子が髪を伸ばすことは禁じられていないようですが(そりゃそうだ)
こういうときには帽子の中に髪を入れてしまうようです。 
さすが指揮刀を構える姿勢がビシッと決まっています。



防衛医科大学校の旗は緑色。
意匠が桜を中心に陸海空を表すものとなっています。
防衛医大の行進の先頭が女子学生である率が高いのですが、
女子が初めて入校したのは1985(昭和60)年のことです。 
防衛医大自体、開校は昭和48年と決して古くはありません。



確か前回、3年前の行進では防衛医大と看護学校は別でした。
今年看護学校は廃止になり、防衛医大に看護学科が開設されたので、
そうなってから初めての行進ということになります。 

つまり先頭の女子学生は看護学科の指揮官かもしれません。



続いて高等工科学校の入場。

開門前に道路脇に列を作って待っていたとき、
前にいた女性の息子は工科学校の生徒でした。
なぜそれがわかったかというと、彼女がその前に並んでいた男性に
有無を言わさない関西弁トークで話しかけ、

「うちの子、列の何番めのここにいるから見たってー」

とスマホの写真を見せたりしていたからです(笑)
そんなん知らんがな、ともいわず、会話に付き合ってあげていた
若い男性の優しさにわたしは猛烈に感動していました(T_T)

そんな「おかん」も息子娘の晴れ姿を楽しみに全国からやってくる、
それが陸自の観閲式なのだと改めて思いました。
観艦式では自分の関係者のフネに乗れる確率は低いですし、
空自も息子の「晴れ姿」を見ることができる家族はほんの一握りです。 

 

防衛大学校、高等工科学校、そして普通科部隊が同時に写っている構図。
ちなみに陸自の迷彩服ですが、採用されたのは昭和48年です。

それまではレンジャー部隊ですらただのOD色の戦闘服を着ていました。



ここで立てられている旗は陸上自衛隊の自衛隊旗です。
四方に金色?のトリミングがされているのが戦前と違うところ。
左のほうの旗は普通科の赤をあしらった大隊旗です。



ちょうどそのとき、来賓の中に存じ上げている陸自関係の、
しかも普通科出身の方発見!

 

普通科の赤もいいですが、空挺部隊の白もいいですね。



空挺部隊の旗は浅葱色の横線が「空」を想像させます。
全員の敬礼の瞬間、旗も敬礼を行います。
大隊旗の敬礼は地面に平行に竿を出し、
大きな自衛隊旗の敬礼は斜めに捧げ持ちます。 



敬礼をされているのは観閲部隊指揮官たる第1師団長。
されている側なので師団長旗はまっすぐ立ててあります。

 

指揮刀での敬礼は捧げ刀というようです。
これは旧軍の昔から正式なものとして変わることはありません。

このポーズ、結構刀を固定させておくのが難しそうです。



防衛大学校学生のメガネ着用率高し。



見よこの整然とした隊列の醸し出す統制美。
旗を持っている人はどんな状態になっても、頭を振ったり
首を傾げたりして位置を直すことはできません(笑)



抜刀したままの「休め」の姿勢がこれ?



そのとき整然とした隊列に異変が起きました。
防衛医大の列の中から三人が同時に抜け出し、後ろに向かって歩いていきます。



一応足並みをそろえて行進をしていましたが、これは一体・・・?

わたしの周りにはどうも息子娘が自衛官という人が多かったような気がしますが、
その人たちの中から、

「今の子は体力ないわねえ」

「前のあのときも途中で退場した子が何人か」

みたいな会話が聞こえてきました。
ということは、この三人は貧血でも起こしたって言うのでしょうか。
防大時代に観閲式の徒歩部隊に参加した方が、

「最初の方に位置についてずっとそのまま立っていることになるので、
鼻が痒くなっても掻けなくて大変辛かった」

ということを言っておられましたが、鼻の痒さどころか
立っていることもできなくなったということなんでしょうか。

それにしても同時に3人揃って行進していくのはどうにも解せません。

部隊の隊員でも防大生でもなく、彼らが防衛医大生であるというあたりで
「貧血説」も納得出来る気がしないでもないですが・・。

ちなみに少し後にもう一人しゃがみ込んでしまった人がいましたが、
それも防衛医大の生徒でした。
我々が思っているよりずっと、このような状態で直立し続けるのには
体力が要るということなんじゃないかと思われます。



次に執行者の森山陸将(東部方面総監)に敬礼。
海自の旗は超特大なので旗手は捧げ持つのも大変です。



頭左。
正面から右下に抜刀した刀をおろすのが「刀の敬礼」。



高等工科学校の先頭に立つ生徒は銃のホルダーを着用しているようですが、
もしかしたら着剣用かもしれません。



この頃には正面のスタンド席は全部埋まっていました。
実はこの右側に向かってずっと観客席が続いていて、
「緑」のチケットの席は芝生のスロープだったりします。
おそらく観閲台など全く見えないのではないかと思われますが、
それだけこの式典を見に来る人はたくさんいるということです。



全員同時に敬礼などの動きを統制するために、スタンドより高いお立ち台に立つ
この旗持ちインカム着用の係が旗を振って合図しているらしいことがわかりました。

こういう台は幾つかの場所に設置してあり、彼らはインカムの指令によって
旗を上げたり下げたりして合図を送ります。



奥から総理大臣旗、防衛大臣旗、防衛副大臣旗、
陸海空の各幕僚長旗となります。



そこに執行官をお迎えするための保安警務中隊がラッパの音色とともに登場。
後ろの儀仗隊は男性隊員だけですが、ラッパ隊には女性もいるように見えます。
第302保安警務中隊儀仗隊とは頭一つ背の高さが違いますね。



警務中隊の特別儀仗隊には「容姿端麗」という条件がある、
という噂もありますが、重視されるのは身長体重で、
全体的に見たときにそこだけ違和感を感じさせる、というような
風貌でさえなければ十分ではないかと思われます。 

しかしまあこの写真だけを見てもイケメン率は高そうですね・・。



安倍首相は黒塗りの車で入場しましたが、黒塗りの車は何台も並走していて
どれに乗っているのか車が止まるまで全くわかりませんでした。
結局他の黒塗りに囲まれているようにして走っていた車がそうでした。

おそらくこれらは全てゴルゴ対策だと思われます。



安倍さん、なんか言ってますね。

わたしは稲田防衛相の腰の水色のリボンが

スーツに付けられたデザインなのか、わざわざ後から付けたのかが
個人的に大変気になりました。

この人のファッションセンスには、特にジブチ視察のときには、
疑問の声が世間に渦巻いたと記憶しておりますが、そのことも踏まえ、
今回、就任後初めてとなる自衛隊式典にあたり、防衛大臣としては
何を着るかについてさぞ頭を悩まされたことであろうと察します。

結果白を選ばれたのは賢明というか、華やかで目立ちながらも
清廉な雰囲気のこのスーツ(水色リボン付き)に全く異論はございません。
ただ、この色のパンツスーツに10センチのストームヒールを履くなら、
黒はちょっとおやめになった方がよろしかったのでは、と思いました。

わたしのところからは見えませんでしたが、ヒールが高いので
台に上がるときに大臣は手を添えて支えてもらっていたようです。

わたし個人は稲田氏の思想には同調する部分も多く、むしろ国会答弁では
陰ながらがんばれと応援しながら見ている立場ではありますが、
こういうところを一般人に見られてしまうと、
答弁の途中で涙ぐんでしまったことまで合わせて囁かれてしまうので、
つい、心の中でこんな風に彼女を叱咤してしまいました。

「防衛相なんだから見かけだけでも”強い女性”を演じきらなきゃあ」



続く。



 


平成28年度自衛隊記念日 観閲式 概要

2016-10-24 | 自衛隊

観艦式が行われたのが一年前というのが信じられないくらいです(笑)
あっという間にやってきた自衛隊記念日の観閲式に行ってまいりました。

今日はともかく式典の最初から最後までを
さっくりとご紹介するために写真だけを貼っていきます。
当日3時に起きて4時に家を出、帰りは2倍の時間をかけて
やっと家にたどり着いたたため、写真を貼るのが精一杯。

詳細については
明日からまた改めてお話ししていきたいと思います。



観閲感が臨場するまでに準備として観閲行進部隊が入場します。
一番最初は防衛大学校学生隊。
第一大隊の隊長は女子学生でした。



防衛医科大学校学生隊。
女子学生が先頭を歩く率が大変高い気がします。



グレーに赤のトリミングの制服、普通工科学校学生隊。
とてもそうは見えませんが皆高校生です。



赤いマフラーは普通科部隊。歩兵です。



大きな旭日旗を先頭に立てた、海上自衛隊部隊。

座った位置の関係で、これ以降の入場部隊は写真が遠くなってしまったので割愛。



最後に陸海空合同音楽隊が演奏位置につきます。
防衛大学校の横に行進していく先頭には三音楽隊の隊長。
一番向こうは先日東京音楽隊隊長になったばかり、
樋口好雄二等海佐。 



観閲部隊指揮官、第1師団長の西浩徳陸将。
立てられている旗は師団のものではなく団長旗のようです



陸海空自衛官によって正面に運ばれる国旗



自衛隊の式典は、必ず執行者を伴います。
本日観閲式の執行者(conductor)となるのは東部方面総監、
森山尚直陸将



旗に向かって敬礼する普通科部隊



内閣総理大臣旗(紫)防衛大臣旗(海老茶)防衛副大臣旗(旗)
と陸海空団長旗が登場。
この警備の物凄さをご覧ください。




儀仗隊である第302保安警務中隊。
ちなみにここまでが観閲式の準備段階です。



プログラムの1番、つまりここからが観閲式。
観閲官臨場で車から降りた安倍総理大臣。
後ろにいる白いスーツ青ベルト&ストームヒールは稲田防衛大臣。
安倍総理のシルクハット&モーニングに格を合わせたようです。



儀仗隊の栄誉礼を受ける観閲官。
この後開式の辞によって正式な観閲式の開始となります。



その後、オープンカーの上に立ち、まずは順閲。
安倍総理は観客席の前を通り過ぎるとき、ずっと観客を見つめたままでした。



車は方向転換して、ここからが順閲です。



順閲のとき、部隊は顎を上げて車列を見守ります。
高等工科学校の生徒たちが持っているクラッチバッグの中には何が?



プログラムにはありませんでしたが、祝賀降下が行われました。
フリーフォールによる落下傘降下です。



こちらも祝賀飛行として飛来した空自の新型輸送機C-2。
向こうはC-1・・・でしょうね。



さて、これからは徒歩部隊の観閲行進が始まります。
まずは一番端にいた音楽隊が行進を始めます。



第1師団長は観閲部隊指揮官というだけあって「シキツウ」での受閲。



今回少し残念だったのは、敬礼の瞬間が後ろからしか撮れなかったこと。



先ほどの順番で観閲行進が行われます。
防衛大学校学生隊。



防衛医科大学校学生隊。



看護部門は医科大学校に統合されたようです。



高等工科学校生徒隊。



普通科部隊。



空挺部隊の団長は兒玉恭幸陸将補。



白いマフラーにグレーの鉄帽の空挺部隊。



音楽が「陸軍分列行進曲」から「軍艦」に変わり、
海上自衛隊部隊。



航空自衛隊部隊。



陸海空の女性部隊が続きます。
陸自主催なので、陸上自衛隊の指揮官が先頭に立ちます。



海上自衛隊女性自衛官部隊。



女性部隊を写真に撮ろうと待ち構えるメディア(笑)



続いては観閲飛行です。(展示飛行ではありません)
受閲されるので、編隊を組んで次々と現れました。



CH-47がこういう編隊で飛ぶのは珍しい気がします。



続いてP-3Cオライオンが2機。
鹿屋から来たそうです。



観閲式でしかお目にかかることのないU-36A 。
なぜこんな目立つ色をしているかというと、これは
艦艇部隊の対空訓練支援専用機だからです。



続いて車両の観閲行進が始まりました。
まず最初に国際派遣部隊。
南スーダンに派遣されていた部隊(と言っていたような気がします)。



偵察部隊のオート(バイク)隊。



普通科部隊。
全員が顔を出して観閲行進を行います。



89式装甲戦闘車は普通科のトレードマーク?



トラックの後ろに乗ったまま行進する歩兵。



即応予備自衛官と予備自衛官部隊が続きます。
こちらの指揮官も82式指揮通信車での行進です。




施設科部隊の重機類も行進。
この後ろに牽引されているものをよく覚えておいてください。



予備自衛官を乗せた車両。



こちらも施設科部隊。
92式地雷原処理車も施設科の装備です。



無線搬送装置第1号で行進する通信科部隊。



大きな赤十字はもちろん衛生科部隊。



情報科部隊。
いわゆるインテリジェンス部隊ですね。
ドローンによる航空写真もこの部隊の任務です。



西部方面普通科連隊。
水陸機動団なのでトレードマークの戦闘強襲偵察用舟艇。



空自ペトリオット部隊は今回総理大臣に表彰されました。
対北朝鮮のミサイルにおける任務の遂行に対してだそうです。



高射特科部隊の最初にやって来たのは87式自走高射砲。



155mm榴弾砲も、総火演ですっかりおなじみです(わたし的に)。



オレンジの旗は野戦特科部隊。



99式自走155mm榴弾砲。



最後に観閲行進するのは戦車部隊。
まず最初に10式戦車が軽やかに登場。



そして90式先輩。



90式の上で敬礼する車員。
戦車はこれで終わりです。

・・・・え?これで終わり?

と思う人と何も思わない人がこの世には二種類存在しますが、
わたしはもちろん思った人でした。



アメリカ陸軍から特別参加の祝賀部隊、
米陸軍ストライカー旅団。



実は単なる?歩兵装輪装甲車ですが名前がいいじゃないですかー。
ストライカー装甲車。ストライカー旅団。実に強そうです。



こちらも出血大サービスの祝賀飛行。
米軍のヘリは物々しい武器を装備しての飛行です。



そしてこの不可思議な機影は・・・・!



なんと、ブルーインパルスの演技までが行われました。
前々回は問題外としても、前回より内容が格段濃い観閲式でした。



閉式に際して儀仗隊の栄誉礼を受ける安倍首相と稲田大臣。



観閲官が退場してからは工科学校の儀仗隊によるファンシードリル演技が。



今度はベレー帽で見事な演技を披露しました。



そしてこちらも恒例、自衛太鼓の迫力ある演武。



本日の観閲式は、わたし個人に取っても過去最高のものとなりました。
最後の陸自東部方面合同音楽隊演奏で、一度は生で聴いてみたいと思っていた
「あの曲」がついに聴けたのです。




ヒント:120mm迫撃砲 


さて、それでは明日からしばらく見学記にお付き合いください。


 


パウダー・ハンドリング・ルーム〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-10-22 | 軍艦

シックベイ、つまり医療施設の集まっている区画があるからには
ここも結構艦の下の方だと思ったのですが、このあと、
またしても下に続く階段がありました。





 
ここで艦内断面図を見てみましょう。
った写真をすべて遡ってみると、兵員食堂やゲダンクはセカンドデッキ、
つまり甲板の下の階にあり、同じ階にシックベイもあったということになります。
シックベイはいざという時にけが人の救護所となるので、
あまり下の階にないのが普通なのかもしれません。

さらに、「バーベット」という砲塔の外側のカーブが2つありました。
このことから、シックベイは艦橋から艦首よりの甲板下にあったということになります。

というわけで、これからサードデッキに降りていくということになります。



階段をの途中から見えるドアの上部のプレートには

「16インチ 火薬庫と火薬取り扱い室」



火薬室やその取り扱い室まで見学客に公開するという
展示を行っていたのは、後にも先にもここだけでした。
そういう意味では皆様にも貴重な報告ができる、
この通路を歩いていきながら思わず期待で胸がドキドキしました。



そのまえに、ここは「TBXエキップメント・ルーム」。
equipment=機材とこの場合訳したらいいでしょうか。

TBXというのはこのころ使われていたトランシーバーで、
このコンパートメントで管理されていました。

TBX6

小さなポータブル式でバッテリーとアンテナが内蔵しており、
上陸時に携行していくためにここにストックされていました。

この部屋ではまた、無線機器各種の修理も行われました。



まえにもお見せしたと思いますが、このレールで火薬を移動させます。
この写真の右側にある壁はわずかに弧を描いていますが、ここが
主砲の機構を取り囲む「バーベット」と呼ばれる部分です。

バーベットの定義は「ターレットの機能を取り囲むシリンダー」で、
非常に堅牢に作られており、敵の攻撃からも中が守られるようになっていました。

このレールは電動式ではなく、単にコロの上に弾丸を乗せ、
押して滑らせて移動させたようです。



火薬タンクだったキャニスター。
中に火薬が残っていないことを示すために
缶の蓋には「エンプティ」と印が付けられているものもあります。



コロのあるレールの右側に真四角のハッチがありますが、これを
下に向かって覗き込んでみました。

かつてはここは火薬専門のリフトのハッチであったようです。



火薬タンクとラック。



この通路の壁もバーベットになります。
向こうには弾薬が並べられていました。



ここで下の階に降りていきます。
さっきハッチから覗き見た下の部分につながっています。
長年砲員たちが駆け上り駆け下りた階段は角がすり減ってしまっています。



灯油缶のようなキャニスターのラックとなっている通路。

 

ふと上部を見上げれば、ここにモノレールの終点がありました。 



よく見るとレールは扉のあるところを通っているのですが、
いざといときにどうやって戸を閉めるつもりだったのでしょうか。



おお、こここそ「バーベット」の内部!
つまり砲塔の一番根っこの部分に来たというわけです。
右側が外郭、そして左が内郭で二重構造になっています。
ここを「パウダー・ハンドリングルーム」(火薬取り扱い室)といいます。



赤い印の入り口から見た様子が、二つ上の写真です。

パウダーバッグと言われる16インチ砲の弾薬は、「スカットル」と言われる
ドアを通じてこの部分に運び込まれたのち、ここからホイスト(巻上機)
上部の砲塔に運ばれます。

上の写真で言いますと、右側のゴミ捨て場みたいなところで受け取って、
左側の別のスカットルに移すわけですね。
図でいうと、輪を貫く6つの長方形がありますが、それが
受け取りスカットルとホイストに載せるスカットルです。


安全性のために必ず一つのホイストには一人が就き、持ち上がった先にも
一人が専属で降ろす作業を行います。 

安全性といえば、火薬と弾丸は砲に装填されるその瞬間まで
決して一緒に扱われることはありませんでした。

もし火薬がハンドリングルームにこぼれ落ちるようなことがあった場合や、
火薬の悪化がわかった場合には、それらはすぐさま廃棄処分となり、
水の入ったタンクに入れられました。


 

説明がありませんでしたが、消火器のような形です。



これがパウダー・ハンドリングルームの内側。
上の図でいうところの二重丸の一番内側になります。
ここには立ち入ることはできず、外側からガラス越しに写真を撮りました。

一番向こうにスカットルが見えています。
床は黄色い線が引かれていて、その内側の床はもしかしたら
シリンダーの回転に伴い動くのではないか?と思われました。
(違っていたらすみません)




そこでスカットルなるものがどれかなんですが、



これ。
説明によると「扉が素早く開き、素早く閉まる」ということですが、
どこに扉があるのかよくわかりませんでした。
パウダーバッグは、外部のスカットルから運び込まれ、、プラットフォーム上を
転がされてハンドリングルームに到達します。
ホイストには人の手で乗せられます。

スカットル内部はパウダーバッグにぴったりフィットする大きさで、
カミソリの刃のような薄い、防火扉(写真に見えているもの)で
覆われたのち、稼動して上部に運ばれていきました。


スカットルは「フラッシュ・プルーフ」、即ち金属を扱うときに起こる
火花を防ぐ仕様となっていました。





この写真には、バーベットの二重になっている壁のそれぞれの扉が写っています。
なぜわざわざ二重にするのか?というと、一にも二にも安全性。
「バーベット」はこのようにして、主砲を保護する役目を持っているのです。




そのとき、わたしは細くて狭い階段があり、
ここを登って上に行くことができるのに気がつきました。

つまり、バーベットの内部を登っていく階段です。

上にはいったい、何が・・・・・?!



続く。


祝賀会と鳥人幸吉の話〜潜水艦救難艦「ちよだ」進水式

2016-10-21 | 自衛隊

三井造船において行われた潜水艦救難艦「ちよだ」進水式。
一番大事なことを書くのを忘れていましたが、進水の瞬間、
呉音楽隊が演奏したのは行進曲「軍艦」でした。

そしてその瞬間、沖合には花火も上がったことを書いておかねばなりません。

当たり前といえば当たり前ですが、世の中に
これ以上の曲があろうか、
というくらい、「軍艦」は、色取り取りのテープを靡かせ紙吹雪を撒きながら
「鋼のその城」が滑り出していく瞬間に相応しいと思いました。

ところで、海保や民間船の場合はどんな音楽が進水式に使われるのでしょうか。

いくつかの動画を当たってみたところ、 「錨を上げて」がポピュラーですが、
特に何にするかについてはっきりと決まっているわけではないようです。
北日本造船の「ジェニューイン・ビーナス」はなぜか「軍艦」でした(´・ω・`)


さて、進水式が終わり、華やいだ気分のまま、参列者はそれぞれ

バスに乗って、式典の後の祝賀会会場へと向かいました。
迎賓館となっているこの建物は、入ってすぐに映画館のようなクロークがあり、
皆そこで荷物を預けてパーティに参加します。



自衛隊関係者が集まるので壁際には「帽子置き」と書かれたテーブルが。

いつ見てもこの正帽は、色も形も千差万別だと思います。

右のほうに陸自の地元駐屯地の司令の帽子がありますが、
ならんでいる二つの帽子にはあまり違いがないように見えます。
その後ろには空自の帽子がひとつだけ。
これは他と比べようがないのでなんとも言えませんが、
これほど個体差があるのは
海自だけではないかという気がしました。

刺繍の金色の色調とか、錨の部分の刺繍の濃さ、縁飾りの密度、
どれひとつとして同じように見えるものがありません。

手作りならではですが、なぜ海自だけがこうなのかはナゾです。



この迎賓館は内部が大きく二つに分かれており、左の部屋には
招待客の中でも議員とか三井造船の経営陣などの席です。

前回わたしは畏れ多くも偉い人にくっついてここに紛れ込み、

若宮けんじ氏の挨拶を真横で聞いていたりしたわけですが、
今回は知り合いの偉い人は式典に参加せず、ついでにTOも
その人と一緒に別の会合に行ってしまったので、会場では
一人で話す相手もなく、こちらでおとなしくしておりました。

皆が揃ったころ、奥から本日の命名者、防衛政務次官の宮沢氏が、
海幕長と一緒に入場してきたので、皆拍手でお出迎えです。

この方の風貌と「宮沢」という名前から、宮沢喜一氏の関係者かと思ったのですが、
全く関係ありませんでした。

宮沢博行

レストランの厨房、貿易会社の営業、塾講師、工場の派遣社員等、
多様な職種を経験した

とありますが、わたしそういえば、東大を出て某放送局に入るもやめて、
パチンコ屋の店員になって、床にこびりついたガムを剥がしていた、 
という人を一人知っていましてね(笑)

その人はその後弁護士になり政界に進出し、今は某市の市長さんです。



そんなことはどうでもよろしい。
やはり皆さんには、この日のお料理をお見せせねば。
進水式の写真を撮れなかった分、張り切ってテーブルのご馳走を撮ってきました。

まず、前にもご紹介した国旗と海上自衛隊旗がクロスした
テーブルの上専用の飾り。
これは、戦前からここにあって、海軍の艦艇が進水や引き渡しされたとき、
同じ旗が立てられて卓を飾ったのと同じものはないかとわたしは思っています。

ビールはサッポロ。
お酒を飲まないから知りませんが、アサヒでもキリンでもないというのは
やはり大人の事情でそういうことに決まっているんでしょうか。




向こうのローストビーフは大変結構なお味でした。
手前の帆立貝のグラタンも一つ頂いてみましたが、
こちらは暖かかったらもっとおいしかっただろうなと思いました。



前回は気が付きませんでしたが、灯籠を設えた庭があって、
タバコを吸いながら談笑したい人たちが外に出ていました。
館内は控え室も含めすべて完全禁煙です。




屋台のうどんが出ています。
これも本館を出た外の屋根の下にありました。
雨が降っても一応営業できる場所です。



揚げたてのてんぷらが食べられるコーナーも。
うどんを頼んで、ここでてんぷらを乗せてもらい、「てんぷらうどん」
にしている人がいて、おお!と感心したのですが、わたしは食べませんでした。

実は胃の調子があまり良くなく、今週に胃カメラを予定しているのです。
夏みかんを大量にいただいたので毎日一つ食べていたら、
ある日胃が痛くなってしまい、それ以来時々それがぶり返しておりまして。
みかんの酸って胃壁に悪いんですってね。



伊勢海老の爪の部分がありましたが食べている人はいませんでした。
わたしも基本甲殻類は苦手なのでこれもスルーです。



そのとき、上座で宮沢政務官のスピーチが始まりました。
その中で、面白いお話があったので少し書いておきます。



船には全く関係ないのですが、ここが岡山ということで宮沢氏は
この話題を披露することを思いついたのでしょう。


ライト兄弟が1902年に人類による動力飛行を行うより前、

あらゆる方法で人々は空を飛ぼうとした、という話については
このブログでも何度か扱った記憶がありますが、その一人が
なんと、ここ岡山出身の日本人であったというはなしです。

サンマテオのヒラー航空博物館には、この絵のような飛行機が
実物や復刻版を含めて多数展示されており、それによって
命を失った人少なくなかった、という内容でここでも書いたことがありますが、
この飛行機はまさにこれはヒラーに展示してあったのと同工異曲のもの。
しかもこの飛行機の原型、ヒラーにあったどの飛行機よりも

昔に発明され、実際に空を飛んでいるのです。

ある一人の愛すべき「丘の上の愚か者」"Fool On The Hill"の手によって。

彼の名は鳥人幸吉
本名を浮田幸吉といい、1757年、ここ備前に生まれました。

幼い頃から空を飛ぶ鳥に興味を持っていた幸吉は、
鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究し、

「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。
それを人間の体に相当する翼を作れば
人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」

と結論付け、奉公先の表具店の道具を使って翼を作りました。
絵を見ると、障子のような翼ですが、彼が飛ぶために奉公先を
ここに決めたのか、それともただの偶然かはわかりません。 

1785年夏、幸吉28歳。ついに川にかかる橋の欄干から初飛行します。
風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したともwikiにはありますが、
地元に伝わる伝説はこれと少し違っていて、

「ちょうど宴会をしているところに空から降りてきて、
皆が逃げたあと宴会の料理を飲み食いして顰蹙を買った」

どうもこちらは眉唾っぽいですが、ちゃんと飛べたということみたいです。

気の毒なのはこの後で、幸吉はこの後藩士(武士)によって取り押さえられ、
世間を騒がせた罪で「所払い」(ところばらい)の処分になってしまいます。
つまり県外追放ですね。 

「そのあと幸吉は、わたしの出身地である駿河の国、静岡に行きまして」

さすが政治家、すかさず自分の選挙区をアピール。



八浜というのはここ玉野にあり、いまではこのように

「鳥人幸吉の里」

として観光資源にもなっているようです。
鳥人間コンテストも本来ここで始めるべきだったのかも・・。

幸吉の最後はよくわかっていません。
ここでも空を飛んで死罪になった、という噂もあるようですが、
亡くなったのが90歳らしいので、その可能性は薄いでしょう。




さて、こういう昼の宴会は概してダラダラ行わないもので、
小一時間後には
おひらきになり、皆はバスに乗り込みました。

黒塗りの車も連れ合いもいなくなってしまい、このあといったいどうやって
岡山空港まで行こうと途方に暮れていましたが、なんと、
出席者のためにバスが岡山駅と空港にも行ってくれるとのことです。



バスは約1時間で岡山駅前に到着しました。
ここでわたし以外の客が全員降りてしまい、慌てました。
たった一人残っていた三井造船の社員さんらしき方に、

「皆降りてしまいましたが、わたしも降りた方がいいのでしょうか」

と聞いたところ、

「大丈夫ですよ。私も空港ですから」

たった二人を乗せた大きなバスは空港に向かいました。



岡山空港には台湾や中国、韓国からの乗り入れをしているので、
そのせいで市内にはアジア系、とくに中国人のの観光客が多いと感じました。
昔なら外国人客などまず見ることもなかったであろう児島のホテルすら
インド人や中国人、白人系の外国人客がいたので少し驚いたものです。



「いせ」に乗った時に、着岸に思ったより時間がかかり、飛行機に遅れそうになって
呉から空港までタクシーに乗ったことがあったので、
今回は余裕を見て最終便を押さえておきましたが、さすがに空港に着いたのは2時。
4時の飛行機に繰り上げてかえることにしました。

ついでにプレミアムクラスが空いていたのでこちらも繰り上げ。



小さなサンドイッチにサラダといった軽食と焼き菓子は持って帰れます。



夕焼けが照らす雲の下に瀬戸内海の島が見えています。

おまけ:



この日自衛隊の方からいただいた記念品を自慢してしまいます。
メダルとともにうちの家宝決定。


初めての進水式は、色々な意味で大きな収穫を得ることとなり、

まさに至福の体験と成りました。



 


進水式の支綱切断〜潜水艦救難艦「ちよだ」進水式

2016-10-20 | 自衛隊

10月17日に行われた潜水艦救難艦「ちよだ」の進水式。
無事に支綱切断は行われ、巨大な艦体は音を立てて滑って行きました。

「ふゆづき」のときに出席された方が、「ものすごい音だった」
と言っていたのでちょっと身構えていたのですが、実際は
騒音についても考慮されているのか、意外なほど静かなものです。

切断をする台が下から見えたわけではないので、どのような部分を
どうカットするのかわかりませんでしたが、槌が降ろされると
同時にあれよあれよとくす玉が開き、そこからシャンペンの瓶が
自動的に舳先に叩きつけられ割れる仕組みになっているようでした。

たった一枚とった写真を最大活用(笑)

これはシャンパンを破るためだけに考案された仕掛け。
切断とともに紐が切れ、紅白の布で包まれたシャンパンの瓶は
振り子のように振り下ろされて、舳先に付けられた
「シャンパン割り場所」ともいうべき部分に当たります。
人間の手でやるのと違って、まずこれだと失敗することはありえません。

シャンパンが割れた瞬間、艦体に叩きつけられたように見えましたが、
ちゃんと瓶を受ける場所があったのをこれで知りました。
シャンパンの瓶のかけらも布で包んであるので飛び散ることはありません。

昔は進水のときに艦体に叩きつける酒は赤ワインでした。
これは「いけにえの血」を意味していたのだそうです。
いつの間にかめでたい酒であるシャンパンを用いるようになりましたが、
この瓶が割れなければ不吉、とは大昔から言われていたことです。


「ちよだ」の進水を寿ぐ儀式についてのブログでなんですが、
その吉兆を占う儀式に失敗した進水式というのも過去ありました。

シャンパンの瓶を破るのに失敗し、そのせいか不運ばかりが続いた、

というので有名な例はなんといってもロシアの原潜K-19ですね。
映画「K-19 ウィドウメーカー」では進水式でこの失敗をしたのが
女性だったことになっていましたが、実際は男性が行ったそうです。

K-19が不運だったのは、本来女性がやることになっている洗礼を
このときに限って男性が行ったからではないか、と後々まで言われたそうです。

あの映画では原子力事故だけしか描かれませんでしたが、
実際のK-19が「ウィドウメーカー」(後家作り)と言われたのは、
原子力事故(1961年)の後、米潜との衝突事故(69’)、さらには
火災事故(72’)と次々と大事故を起こしたからでした。

最後は91年にもう一度原子炉のトラブルを起こし退役していますが、
よくまあこんな潜水艦を30年も使い続けたものです。

結局「原子炉事故では8名が被曝して1週間以内に全員死亡、
火災事故では28人も亡くなった」というのに・・・。



最近ではミシェル・オバマが潜水艦「イリノイ」の進水のときに
艦体にボトルを叩きつけても割れず、やっと3度目に
自分自身がびしょびしょになって破ることができた、
というアクシデントが起こったばかりです。

First lady Michelle Obama christens Navy submarine
named after her home state of Illinois


「イリノイ」に今後何か起こったら「あの失敗のせいだ」
なんて言われてしまいますから、ぜひ無事故でいって欲しいものですね。


さて、今回の支綱切断からシャンパンが割れるまでの見事な
「ピタゴラ装置」を見る限り、日本の進水式では
あまり失敗というか事故は起こらなさそうなのですが、
この日同行した方は、進水式の失敗を目撃したことがあるそうです。

石原慎太郎が都知事であった時代、小笠原への交通手段として
高速客船「テクノスーパーライナー」が就航することになりました。
進水式ではその船には石原夫人

「スーパーライナーオガサワラ」

と自ら名付け、テープカットも彼女が行ったということです。
おそらく、石原夫人は「こういうこと」をやってみたかったんでしょうね。

本来銀行や企業(つまり船会社のスポンサー)の妻か娘か姪が
行うことになっている進水式の命名&支綱切断。

夫がその決定者である都知事なら、自分にはこれをする権利がある!
とばかりに夫の職権を濫用したという批判もあったようです。
(週刊ゲンダイとかゲンダイとかゲンダイとかで)


まあわたしも自分がそういう立場になったとしたら、嬉々として
やらかさずにすむ自信はまったくありませんから、ここで
石原夫人を非難するつもりはありませんが、問題は本番です。



ここからはどこを探してもそういう記事が出てこないので、
現場でで見ていた方の目撃談となるのですが、とにかく、
このときのテープカット、1度目は失敗してしまいました。
とたんに、

「造船会社の社長が顔色を変えてすっ飛んできました」

オバマ夫人の失敗は周りのみんながニコニコと見守っており、
三回目の成功したことで終わりよければ全てよし、という感じですが、
縁起を担ぐ日本の企業としては顔色を変えてしまったわけですね。

そのせいかどうかわかりませんがね。
この客船、結局就航しないまま船はドックに繋留してあるそうです」

「それはどこの・・・」

「玉野ですよ」

え、ということはその進水式が行われたのはここだったのね。

実際は、この運用にあたり10億〜20億の赤字が見込まれることになり、
しかも都はその援助を行わないことになったので、
船会社としてはとてもそんな事業に手を出せないまま計画は頓挫。

鳴り物入りで進水させた船も、ドックで無聊をかこつだけの存在になりました。

ところがそんなある日、東日本大震災が起こります。
彼女はこのとき進水以来初めての実質稼働となる航海を行い、そればかりか
宮城県石巻市の石巻港に停泊し、被災者に無料で1回当たり最大181人、
延べ2,400人程度を受け入れ、1泊2日でバイキング形式の夕食、
およびシャワーなどを提供する支援活動を行って人々の役に立ったのでした。


わたしにこの話をしてくれた方は「まだ玉野にいる」
とおっしゃっていましたが、調べたところ彼女はその後
江田島の解体業者に身柄を引き取られて現在内部から解体中だそうです。

まあ、とにかく一度は役目を果たし、有終の美を飾れてよかったですね。
建造費115億円がほとんど還元されなかったのは勿体無かったですが。



玉野では皇太子殿下のご臨席を賜り、進水式を行ったこともあります。
うーん、雅子妃殿下の姿がお見えにならないようですが(棒) 



このとき進水した船は「大成丸」といい、 東京海洋大学海洋工学部
(旧東京商船大学)、神戸大学海事科学部(旧神戸商船大学)、海技大学校、
商船高等専門学校及び海員学校の学生・生徒の航海実習訓練を目的として
建造された練習船です。




さて、あっという間に終わってしまった進水式。
沖を見ると、滑り出した艦体は、タグボートが二隻寄り添って向きを変え、
艤装のためのドックに運んでいくところでした。
(こういうシーンを撮りたかったんですけどね)

あとはここまで乗ってきたバスに乗って元来たところに。
控え室となった建物に隣接したこちらが祝賀会場となります。



ところで控え室の建物は昭和初期にできただけあって、
当時から内装を変えただけで使い続けている大変風格のあるものです。
階段の向こうをふと覗いてみると、そこはまるで昔の学校の
宿直室のようなコンロのある台所があったりしました。



入ってすぐのところに飾ってあったディーゼル機関の模型。
海上自衛隊の駆潜艇のエンジンとして採用され、昭和31年に
初号機が完成した

Mitsui B&W 635VBU-45 ディーゼルエンジン

です。
「かもめ」「つばめ」「みさご」などのかもめ型駆潜艇
「うみたか」「おおたか」「わかたか」「くまたか」
などのうみたか型駆潜艇などに搭載されました。

この二階には前回来た時に写真を撮って皆さんにお見せした
三井造船の資料室もあります。
待ち時間に少し開けてくださったのですが、わたしは
靴を脱がなければいけないと知って(紐靴だったため)
脱いだり履いたりが面倒なのでパスしました。 



というわけで、次回は祝賀会の様子などについてお話しします。
さすがは造船会社の祝賀会、しかも海上自衛隊が執行者となっての進水式。
出されたお料理はどれも大変美味しかったですよ。


続く。


進水台の仕組み〜潜水艦救難艦「ちよだ」進水式

2016-10-19 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、平成28年10月17日に三井造船玉野で行われた
潜水艦救難艦
「ちよだ」の進水式。
ウルトラ離れ業で無理くり出席させていただいたまでは良かったのですが、

式典前に言われたのは

「内部での写真はご遠慮ください」

という非情のお達し。

それにもかかわらずこの写真は何事か!?
と色をなす人がいるかもしれないので、なぜわたしが
岸壁から飛び降りる思いで撮ったこのたった一枚の写真を
挑戦的にもここに発表することにしたのか、説明いたしましょう。

控え室からバスで現地に向かう間にエスコートの1佐から聞いた

「工場内に入った瞬間から撮影禁止」

という無情のお言葉。
工場敷地の写真は「いずも」の引き渡し式が行われた
横浜のJMUでも禁止されていたのでそれはわかるとしても、
一般に許されている進水式の撮影までがなぜ?

あとから思い当たった理由があります。

お節介船屋さんの送ってくださった産経のニュース写真には、
玉野市が一般に広報して当日集まった市民の姿が写っていますが、
わたしたちの席は船を挟んで彼らの反対側にありました。

まず艦首の正面には執行者(この場合呉地方総監)始め、命名者、
テープカットを行うための台がビルの三階くらいの高さに設えられており、
右舷側が別の門から入ってきた一般客、そして左舷側にはテントが並び、
執行台に近い方から音楽隊、自衛隊・防衛省関係者、そして三番目が
わたしたちの見学場所となっていました。

周りにはこれまで防衛団体関係の会合でお会いしたことのある方、
それからやはり防衛団関係でご挨拶させていただいた顔見知りの
元将官の方々などもおられました。

(その中のお一人に、『いやー、どこにでも出没しますねえ』
とからかわれて顔を赤らめたのははここだけの話)

つまり、ぶっちゃけ(ぶっちゃけなくても)我々は賓客です。
要は、賓客が来賓席から身を乗り出して、あまつさえ大きなカメラで
写真を撮りまくるのは式典の格というか見た目にいかがなものか?
ということで敢えて「禁止」となっていたのではないでしょうか。

わたしがこれを確信したのは、周りの人たちが小さなデジカメや携帯で
艦の写真を撮っていても、全く制止されないのを見た時でした。



実は招待客の中に、これまで何度か自衛隊のイベントで見かけた、
いつも馬鹿でかいカメラ持参のアマチュアカメラマンがおられました。
この人はどうしていたのだろうと思っていたら、どうやら彼はなんと、
紅白の台の下に降りて進水式の一部始終を独自に撮影していたようです。

おそらく参加目的が撮影ということで独自に交渉したのでしょう。
この方が撮影を許されていたからには、進水式そのものが
撮影禁止の特定秘密事案でもなんでもなかったってことです。よね?

というわけで、皆がカメラを出して撮り始めた時に、わたしは
スパイがマイクロフィルムにこっそり資料を収めているときも
かくやというくらい緊張しながら、たった一枚写真を撮りました。

それがこれです。 


さて、皆が定位置に着き、周りの人たちと名刺交換などしていると、
顔見知りの元自衛官(偉い人)が話しかけてこられました。

「今日の進水式が見られるのはラッキーですよ」

なぜなら今日は進水台から滑り落とす本来の方法で行われるから、
ということなのですが、進水式ってそんなもんなんじゃないのかしら。
しかしながら地元経済界の重鎮氏によるとそうとも限らないようです。

「今は進水台から落とすのではなく、ドックに注水して浮かべるのとか、
簡単なのになるとくす玉が割れて終わり、というのもありますからね」



ちなみにこの日の進水式について説明しながらまいりましょう。
これは「ふゆづき」ですが、進水は同じ仕組みで行われます。

式典そのものは大変短いものです。
艦を引き渡ししたり、旗を艦長が受け取って全員が艦に乗り込み、
さらには防衛省関係者の訓示があったりその後出航したり、
という作業が全部行われる引き渡し式などと違い、進水式というのは

「艦名が発表される」

「支綱切断する」

「船が進水する」

これだけの式典です。
この三つを続けてやったとしたら正味3分もかかりません。 



呉音楽隊の演奏が場を華やかに盛り上げる中、
人々が日の丸と自衛隊旗を一旒ずつ渡されて席に着きます。
席といっても、時間が短いのでパイプ椅子はほんの少しあるだけで、
皆立ったままの見学となります。
 
式典はまず君が代の奏楽が行われます。
日本の国旗はすでに掲揚されています。
式台の上に立って、海上自衛隊東京音楽隊の歌手である
三宅由佳莉三等海曹がアカペラでの独唱を行いました。

彼女が岡山県出身なので参加していたのか、それとも

先日の神戸、この日の岡山、20日(あ、今日だ)の長崎と、
進水式の
君が代独唱のために「君が代特別ツァー」
を行っているのかはわかりませんでした。


ちなみに、三宅三曹の君が代を聴くのは二回目ですが、確か2年前、
空自主催の観閲式のとき歌ったときとは段違いに声量も増え、
声に深みが出ており、さらにはフレーズとフレーズの間の間合いに
絶妙とも言える巧みさが聴いていて感じられました。

東京オリンピックでの彼女の君が代独唱も決してありえないことではない、
とわたしは実は思ったりしたのですが、さてどうなるでしょうか。



続いて、玉野市の市長(たしか)が挨拶し、その後、支綱切断を行う

防衛政務官の宮沢博行氏による挨拶が行われました。

わたしがこの日ご一緒した重鎮氏によると、進水式の支綱切断は、
慣例的に女性が行うことが多く、

出資銀行頭取や関係企業CEOのの姪か令室

などだそうです。
これを聞いたとき、わたしが進水式のテープカットをする可能性は
今生ではまずないものと思い知ったわけですが(泣)

ちなみに重鎮氏は”そういう立場の方”なので、奥方は何本もの「槌持ち」。

「夫婦げんかになった時にはかなり不利な状況です」

「それは凶器的な意味で__?」

「はっはっは」

あー、こんな冗談を言える(言わせる?)立場になってみたかった。



艦番号の「404」の上には紅白の幕で隠されている艦名が。
艦名は宮沢防衛政務官が

「ちよだと命名します」

と言った瞬間にするすると幕が上がりお披露目となります。
(ン?ということは誰か乗ってたってことか・・・)

それまで雑談していた元自衛官に

「艦名ご存知なんですか」

と聞いたところ、あっさりと

「知ってます。ちよだです」

とおっしゃったので、わたしは内心

(またまた〜、”ちよだ”ってもうあるじゃないー。
きっと勘違いしておられるんだわ)

とツッコミを入れていたのですが、元自衛官は間違っておらず、
つまり今回の救難艦は「ちよだ2号」であったことが次の瞬間わかりました。
 



会場に着くと、胸まである防水ゴムを着た造船会社の社員が
4人から6人くらい艦体の横の波打ち際に立っていました。

一連の作業を行うための係です。

挨拶が終わった後、巨大な艦隊を支えているのが「支綱だけ」
という状態にまで持っていくための作業が行われます。

まず、ピンを抜くとその上の砂が下に落ち、盤木が船底から離れます。
艦の重量は全て滑走台にかかっている状態。



滑走台の行き脚を止めるための支柱が
ジャッキを下ろして外されると、いよいよ艦体を止めているのは
トリガーだけ、という状態になります。
トリガーを固定しているのは安全ピンです。

ちなみに滑走台は鑑底にくっついたままボールの上を転がり落ちます。

 

そのトリガーを止めている安全ピン(本当にピンという感じ)を
外すと、艦体を支えているのは今やトリガーを固定している
支綱一本、という状態になります。

準備の段階でここまで行うので、式典の時間の半分がこれに費やされました。

しかるのち、宮沢政務官が合図とともに式台の中央に設けられた
テーブルのようなものを槌で叩きます。

 

すると、紅白のくす玉が割れ、中空からシャンパンの瓶が
艦体に叩きつけられ、失敗なく割れます。
同時に支綱が切断される、といった具合にまるでピタゴラスイッチ状態。 


支綱が切られると、支えていたトリガーが、この図によると、
「青」「赤」「黄色」の順番で下に落ちて外れ、これによって

支えるものがなくなった滑走台ごと艦体は重力に従い、
スロープを海に向かって滑り降りていくというわけ。 


 

実際は紙テープとともに紙吹雪が舞い、大変華やかです。

ところでですね。

写真が撮れないということでこの瞬間を見逃すまいと、
息を詰めてみていたところ、船台から船が滑り落ちる瞬間に
後ろから

「こっちみてくださーい!」

という声が。
そう、進水していくフネをバックにみなさんの記念写真を、
と気を利かせてくださったらしいアテンド係の自衛官が
カメラをまさにこちらに向けているではありませんか。


いや、はっきり言ってわたし、自分の写真なんてどうでもいいんですけど。
写真に撮れないのならせめてその瞬間をこの目で見たいんですけど。

そんな内心の叫びとは裏腹に、おそらくカメラを見ない人がいると
彼もシャッターが押せないであろうと、無理してそちらを向くわたし。
しかし、ああっ、後ろが、後ろが気になるうううう! 

誰かが

「早く見ないと行ってしまいますよ」

といい、次に振り向いた時には、艦首から色とりどりのテープを靡かせ、
「ちよだ」は埠頭から思いがけない速さで遠ざかっていくところでした。



続く(泣) 


潜水艦救難艦「ちよだ」進水式に出席

2016-10-18 | 自衛隊

いつかは見てみたいと思っていた進水式ですが、夢が叶いました。
三井造船玉野で行われる潜水艦救難艦の進水式に、
なんと直前の2週間前に参加させていただくことになり、
この度岡山県玉野まで足を運んできたのです。

なぜそんなウルトラ離れ業で参加が決まったかについて、
いつもならばここで微に入り細に入り説明するところですが、
大人の事情によりそこのところはさっくりと省略。


実はこの直前にも自衛艦は潜水艦「せいりゅう」が(清流ではなく
清瀧権現から取っているとか) 神戸で、今週には三菱でDDの進水式が
行われており、進水ラッシュの海上自衛隊であります。



三井造船玉野には、わたくし「ふゆづき」の引き渡し式のときに参加し、
土砂降りの中の感動的な船出を見届けたというご縁があります。
そのときに控え室になった三井造船の迎賓館?のような社屋にあった
社の資料館で見学したことどもを当ブログで取り上げたのですが、



一項を割いて三井造船建造の403「ちはや」について話したとき、
すでにその頃決定していた404の潜水艦救難艦の名前を

「城の名前だからあおばに違いない」

と締めくくりました。
艦名をかなり前に予想していた艦の進水式に出ることになろうとは。
ただならぬご縁に興奮してしまいますね。

まあ、タイトルですでにおわかりのように、艦名は「ちよだ」でしたが。
(あおばもいい線いっていたと思うけどな)


今回は飛行機で行ったので、岡山には前日入りしました。
岡山駅からマリンライナーで児島まで楽々ノンストップでいきます。
児島で降り損ねたらもう次は四国に行ってしまうと聞いて大変緊張しました(笑)

岡山駅にはこの「アンパンマン電車」が停まっていました。



児島駅からタクシーで20分くらい?
温泉もあるというリゾートホテルが一番近い宿泊所です。
タクシーの運転手さんが話好きで、領収書の裏に自分の名前を書き、

「指名してくれたら観光案内しますよ」

と熱心に売り込んでこられましたが、観光に来たんじゃないしな。

朝起きたらホテルからはこんな素晴らしい眺めでした。
三角のおにぎりのような島が「鬼ヶ島」かな?



おお、はるか向こうに瀬戸大橋が見える!



四国の金比羅宮で行われた掃海殉職者慰霊式のあと、わたしは
この瀬戸大橋を渡って帰ってきたのですが、そのとき何の気なしに

「地震が起きたら海に落ちるのでは」

と書いたところ、大変詳しくその安全性についてご教授くださった方あり。
それ以来、わたしは瀬戸大橋のファンです。



このボートは釣り用かな?

それにしてもみなさん、お天気が非常に怪しいと思いませんか?
前日にSiriさんに聞いてみたところ、彼は暗い声で(わたしのSiriは男性)
あまりお天気は良くないでしょう、と言い放ったので、
あの「ふゆづき」引き渡し式のときの悲惨な天気を思い出し、

もしかして、わたしが玉野に行くから雨が降るのか・・・?

と大変申し訳ない気持ちになったものです。
とりあえず午前中だけ保ってくれるように祈りながらホテルを出ました。



ところで、自衛艦の誕生に行われるセレモニーについておさらいしておきましょう。
まず、順調な工事と建造中の無事を祈って神事を行うのが起工式。

英米の艦船について書いたときに「キール・レイド」、つまり
キール(船の背骨になる部分)を最初に敷設するのが起工式である、
と知ったのですが、現代の艦船では少し違うようです。

なんかすごーく地味なことをしているように思うのですが、これは
制服を着ている防衛省の代表がスイッチをぽちっとする瞬間。

この瞬間溶接が開始されて、これをもって建造の開始とされます。



若宮けんじ氏が出席しているのでこれは「ふゆづき」のときです。

右側が三井造船の社長で、防衛省の代表である若宮氏が証書を受け取っています。

造船所で進水式の後艤装が完了し、海上公試を行った艦船は
その後会社から防衛省へと引き渡しされ、
関係者一同が見守る中、造船所の岸壁を離れて旅立っていきます。



その「ふゆづき」のときの進水式。
定義としては

「組み立てられた船体がほぼ完成した段階で水に浮かべる作業」

というのが進水式です。
まず防衛省代表によって「命名式」が実地され、それまで隠されていた
艦体の名前の部分の覆いがはずされてお披露目されます。

船の誕生にまつわるセレモニーの中で最も重要なものといえます。

「進水式って船の誕生日なの?」

同行したTOが聞くので、

「誕生日は起工式だから・・・なんだろ、元服ってところかな」

「上手いこと言うね、元服」

それでいうと、引き渡し式は出陣式というところでしょうか。



見覚えのある三井造船正門前に到着。
看板の向こうのポールには国旗を中心に社旗と自衛隊旗が
翻っています。
奇しくも紅と白2色の旗が三旒靡く様子は大変美しいものでした。



戦前からある趣のある迎賓館の前では、社員が並んで
次々とやってくる来賓をエスコートしていっています。



この右側にはテントがあり、ここで受付を行います。
実はわたしたちは地元経済界の重鎮!みたいな方の車で
ホテルまで迎えに来ていただきこれで一緒にやってきたのですが、
いくら黒塗りの車で偉い人と一緒に行っても、ランクが上がるわけではないので、
重鎮は偉い人の控え室に行ってしまわれました。
(前回はわたしひとりだったのでどさくさに紛れてチートした)



我々の控え室はこちらでした。
部屋にはエスコート係として1佐がアテンドしてくださり、
その方が皆の写真も撮ってくれました。

そう。

ここでわたしは悲しいお知らせをせねばなりません。
進水式の写真を撮るために、わたくし、32Gのメモリーカードを二枚買い、
Nikon1には広角と30-70mmのレンズ二本持ち、そしてデジカメと
万全の用意をして来たというのに、この1佐に念のため聞いたところ

「工場の中に入ったら写真撮影禁止」

だというではありませんか。
思わず目の前が真っ暗になったわたしです。

「その分わたしがみなさんをお撮りしますから」

とおっしゃるので、そんなものかーと思っていたら、
向こう側にいる一般客も、こちら側の客も、なんか写真撮ってるんですけど。
ちなみに今、玉野市のHPで本日の進水式見学情報というのを見てみたら

進水式以外の撮影は禁止です。」

書いてあるではないですか。

ってことは、進水式なら撮ってもよかったってことなんじゃあ・・。

わたしの周り(もと自衛隊の将官とか防衛団体の人たち)でも、
進水式も禁止だよ、とまことしやかに牽制し合う人たちがいて、
それにしては皆携帯やデジカメで撮ってるけどなあ、と思っていたのですが。

まあ、この1佐が写真を送ってくださるとのことなので、
それを待つことにいたしましょう。




ちなみにこれが三井造船の建造した自衛艦たち。
4段目の一番右に先代の「ちよだ」がおりますね。

こちらは1985年の就役で、もう退役しているはずなのですが、
まだウィキペディアの情報が書き換えられておらず、

本日進水した「ちよだ」のことも

後継艦としてDSRVを搭載するASR-404「ちよだ」(5,600トン型)
の取得が表明されている


などとなっています。

・・・ん・・・?「ちよだ」?・・・「ちよだ」の取得?

これってつまり、すでに名前はこのころから
「ちよだ」であることは決定していた、ということになりますね?


なんだ、わたしが知らなかっただけか(がっくり)



掃海隊の訓練の時にお世話になった「ぶんご」。
ここ三井造船玉野の出身だったんですね。


というわけで、撮った写真をもとにいろいろ説明できないのが

大変辛いところですが、引き続き進水式の様子をお話ししていきます。




シック・ベイ〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-10-16 | 軍艦

さて、戦艦「マサチューセッツ」、どんどんと下の階に進んでいきます。
といいながらもうすでにわたしは自分がどこにいるのか、
甲板の何階下なのか、艦首側か艦尾側かわからなくなっておりました。

まあこれは乗組員であってもすぐには覚えられないのが普通だそうですから、
あまり悲観するようなことではないのですが、戦艦の医療施設である
「シック・ベイ」が、どこにあるか全く覚えていないのは如何なものか。

と悩みつつも進めてまいりたいと思います。


 

前回ご紹介した「暗号ルーム」など、CICのあった階に、
ずらりと並んだ計器なんですが・・・。

上から「A-50V」「A-54V」などの電圧、その下は水位を表し、
(EMPTYからFULLまで)その下は0から500までの目盛り。

この情報からは「バラスト水の注入」くらいしか思いつきません。

なお説明は近くになかった模様。 



さて、それではどんどんと艦尾に(艦首かも)向かって進みましょう。
CICのところもそうでしたが、この階は扉の高さが異常です。 



いきなり何の説明もなく現れた病室。
なるほど、ここからが医療エリアですか。

奥はバス、浴場だそうですが、アメリカなのでもちろんシャワーだけ。
当時からそうだったのかどうかわかりませんが、浴場にドアがありません。
病院のベッドなのにやたら広く、もしかしたら病室にも
士官用の特別室があるのかと思われました。



通り過ぎてから知ったのですが、ここは安静室でした。



執務机があったり小さな洗面台があったり、ということで
ここもかつては安静室の一つであったと考えられます。

「マサチューセッツ」は戦後一度モスボール化されていたので、
その間、ベッドなどは全部艦内から出してしまい、
必要とする別の軍艦に移してしまっていたそうです。



タイプライターを組み込んだ事務机、日付スタンプ。
医療事務を行う部屋であったと推測。



調剤室
奥には薬棚があります。



同じく調剤室。
処方箋などの入っていたカードボックスと壁一面の薬棚。
奥にあるたくさんドッグレバーのついたドアには「X」マークがありますが、
これはわたしの記憶に間違いがなければ、

「航海・停泊いずれの場合でも常に閉鎖または停止する」

という印であったと思われます。
閉めておかなくてはならないドアの向こうになにがあるのかと、
警告表示を読んでみたら、

「コニング・スペース」

つまりこの向こうには操舵コーナーがあって、ここは
火災のような非常時以外は使わないこと、とあります。 



机の上に包帯などを煮沸するような圧力鍋状のものがあります。
左側のドラム状のものは医療廃棄物を捨てるところでしょうか。



シックベイと手術室があるという表示。

シックベイには常時3人の医師、2人の歯科医師、そして下士官である
看護師(Enlisted Medical Corpsman)が勤務していました。
すべての医療設備が整っており、乗員の日々の健康を支えました。
メガネを新しく作ることさえできたということです。



SICK CALL LINE というのは、おそらく診察や定期検診を待つ列だと思うのですが、

「バーベットの周りに列を作ってください。
通路に並ばないでください」

とあります。
バーベットというのは主砲の機構が内包されている部分(というかそのもの)
大きな筒状の壁のことで、そこに沿って並ぶこと、と言う意味です。

そして現場の説明に

”シックコール”が鳴ると、治療を要する水兵がが列を作って医師と
メディックの診察を待ちます」

とあったのを見ると、どうやら彼らはいつでも病院に行っていいわけでなく、
シックコールとやらが鳴るまでは、不調でも我慢しなければならなかったようです。

病気の程度が深刻だと判断された場合には、「運が良ければ」
その水兵は

「体の楽な任務に就かせるように」

という手紙をもらうことができましたが、
まあ基本戦艦ですので(笑)大抵のものは治療をさっさと済まされて、
すぐさま持ち場に戻るのがデフォでした。

戦闘時には当然ここはメインのバトルドレッシング・ステーション
(応急手当て室)となります。



病室の入り口に来ました。
ドアがなく、天井には目立つ赤い色のレールが通っています。



前にも言いましたように、艦内にはいたるところに天井のレールが通っており、
これで重量物を吊り下げ式モノレールの機構で運搬しました。
狭い軍艦も、これで運べば階段を通らずにすみ、また事故も起こりません。

今ならそういったものはすべてエレベーターで運ぶと思うのですが、
そういえば他の軍艦でも、空母以外に艦内エレベーターは見たことありません。

試験艦「あすか」では滑車で荷物を階段から吊り下げると聞きましたが、
そういえば艦橋に重い荷物をどうやって運んでいるのでしょうか。



この部屋にも、モスボール化する前までは、ベッドが並んでいたに違いありません。
中央部に点滴を吊るすポールが集中しているところから類推すると、
ここには最低でも20床くらいのベッドがあったと思われます。

ところで、部屋の向こう側に先ほどのと同じ計器がありますね。
バラスト注入をまさか病室でやらないだろうしなあ・・・。


ちなみに計器のつけられたむこうの壁が「第1バーベット」、つまり主砲の真下です。
この部分がシックベイの始まりに当たります。




さて、いよいよ手術室までやってきました。
部屋の入り口にはスピーカーが備え付けられています。



オペ室です。

無影灯が5つ、床は洗い流せるようにここだけタイル敷き。

テレビの画面ではかつてここでオペをしていたという
Dr. オーリン・ダナが写っていますが、現場に医師の姿なし。
これから手術が始まるのに違いない。



と思ったらすでに開胸してるし。

肋骨を押し広げるための開胸器が見えてます。
この患者さん、しかも白眼をむいておられます。
はっ、これは「今から手術を始める」のではなく終わったのでは?
そしてなぜ彼が白眼かというと・・・((((gkbr))))(AA略)


こういう、髪の毛も描いてあるタイプのマネキンって、むかーし、
田舎のバス道沿いの洋品店のウィンドなんかにあった気がしますね。
(ここで『海と毒薬』の冒頭を思い出してしまうわたし)




というような不吉な話はここまでにしておいて。

どちらも入ることはできませんでしたが、左のドアは

「ダイエット・キッチン」

療養食を用意する台所です。



中を見てみますと・・・。
キッチンとか言っても、あまり美味しいものが作れそうではありません。
一応兵員用のチャウ・トレイなんかも置いてあったりしますが。

奥にはここにも「X」のドアがあります。


ところでアメリカの療養食というのは、日本のおかゆに相当するのが
オートミールだったりするのですかね。

アメリカの病院食画像

全てではないですが、なんか随分酷いのもありますね。↑を見たところ、
ましな方でもチキン胸肉のバーガーだったり、
ボテトにベーコンとか、
中には全く普通の機内食と見分けがつかないものも・・・。


アメリカで入院するようなことがなくてよかった、とあらためて思います。

右側の部屋は

「STERILIZING ROOM」(殺菌室)

 

包帯やガーゼ、リネン、白衣などを殺菌するためのスチームがあります。
奥のハンドルが付いたものは包帯巻き取り器ではないかと思うがどうか。



おそらく水兵用のシャワー室がバーベット(右側)のスペースにありました。
右側の車椅子は、背もたれが籐でできています。



作り付けのベッドはそのまま残されていました。
比較的軽傷の病人怪我人はここに。
病室にはどこにも右下のような赤い非常ランプがあります。
総員退艦なんかの時に点灯するんでしょうね。



ISOLATION ROOM(隔離室)

安静室とはまた違う、もうこれは超シリアスな患者のための部屋。
面会謝絶とかいうときのですね。



一隻の戦艦に歯医者が二人、というのはアメリカ人の
一般的な口腔衛生に対する考え方を
よく表していると思います。
診察台は一部屋になんと3台ありました。



歯科医師二人、下士官の助手、フルで患者を診ることができます。
この治療に士官と下士官が同じように並んだのか、それとも
士官は優先ラインがあったのかどうかはわかりませんでした。



頭を支えるヘッドパットがあり倒れる椅子、照明器具と
洗口器のついたスタンド。
現在の歯医者と仕組みは昔から変わっていないみたいですね。



ところで、アメリカの軍艦を見学してこんなディティール(はっきり言って
軍艦そのものにとっては割とどうでもいいことではある)を見るといつも、
日本の軍艦において、たとえばシックベイにあたる部分がどんなのだったのか、
とか歯医者はいたのか、という「どうでもいいこと」を知る術は、全ての旧軍艦が
三笠を除いてアメリカの手で全て廃棄されてしまったために

永遠になくなってしまった、ということを考えずにはいられません。

「こんなに何から何まで当時のまま残っている国もあるのに」

戦争に負けたせい、ということは重々わかっているのですが。
一瞬去来した苦々しさを振り払い、
艦内をさらに進んでいきました。


続く。



 


海の騎士道〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

2016-10-15 | アメリカ

帆船「コンスティチューション」については、中に入っていかないまま
総火演シリーズに突入し、
随分昔に話をしたような気がします。
一つのテーマについて書いているときにはそれなりに知識がつき、
資料を読むのも数字を調べるのも当社比で随分楽なのですが、
いったん中断してしまうと
記憶からさっぱり細部が消えてしまい、
もう一度調べるのが二度手間ですね。
(単なる愚痴)



二度目に家族と一緒に来たとき、前回は立ち入りを禁止されていた
甲板下に降りられることに気づきました。
見学客用に手すりが付いて滑り止めが施されたラッタルで下へ。



これがラッタルを降りた下の階部分。
ここから下に行く階段も同じところにあります。



今いるのが上甲板の一階下ですから、ここより下にまだ船底まで3階ありますが、
一般に公開されているのはここまででした。




ついにやってきたコンスティチューションの第2甲板。
この時代の船もそういうのかどうかはわかりませんが。

天井は大変低く、日本なら3m置きに「頭上注意」の指導が入るところですが、
コンスティチューションは海軍の記念鑑でまた現役鑑ですから、
この鑑内で起こることすべては見学者の自己責任となっています。

2mおきに立っている柱は結構新しいものに見えました。
当時このようなものは多分ですがなかったと思います。
左側の窓から砲口を出し、相手を攻撃する場所だというのに
こんな邪魔なものを作ったりするわけがありませんね。



こちらは左舷側の砲門というか砲眼。
大砲の砲口を出すところです。

コンスティチューションは「フリゲート」という艦種で、
このフリゲートには

小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された船

という定義があります。
バトルシップ=戦艦、クルーザー=巡洋艦、デストロイヤー=駆逐艦、
と翻訳した日本ですが、どういうわけかフリゲートは訳さなかったので、
未だに「フリゲート」とそのまま呼んでいます。

フリゲートの語源は「フレガータ」(fregata )という小型のガレー船
(人力で櫂を漕いで進む軍艦)で、イギリスで発祥しました。
帆船時代の海戦においては、索敵などを行うのがフリゲートの役目です。
艦隊戦では主に戦闘を行う戦列鑑 (ship of the line )の外側に就きました。
ちなみに中国海軍ではフリゲートを「護衛艦」と翻訳しているそうです。

 
この戦列鑑というのもまた、同じように砲で戦闘を行う軍艦ですが、
帆船時代の砲が甲板ではなく艦内の「砲列甲板」(ガンデッキ)にあるのは
甲板は帆船の帆を張るための舫だけでいっぱいだからじゃないでしょうか。


帆船時代の軍艦による海戦はすなわち船腹の撃ち合いでした。

大変脆弱な弱点だった船首と船尾を敵の攻撃から守り、
船腹に沢山並んだ砲口を相手に向けるのです。

舷側には重い砲が並んでおり、砲門の穴が開いているので
ただでさえ強度は落ちますし、さらには発砲の衝撃が凄まじいため、
「オールド・アイアンサイズ」(鉄の船腹)ならずとも、一般に
軍艦の船腹はもっとも強度が考慮されていました。




コンスティチューション・ミュージアムにあったカロネード砲と
砲門を模したもの、そして拳を固めなにやら言っている人。


この写真で砲につながっている索を「タックリング」と称します。 

右側に赤い柄のモップみたいのがありますが、これは「スポンジ」で、
大砲の筒の中を掃除することは、砲員たちを危険にさらさないためにも
大事な作業の一つでした。
大砲は、撃つ都度、新鮮な火薬を詰め変えなくてはならないのですが、
古い火薬が残っていると、火花から暴発する危険性がありました。

ちなみにこの乗組員のフキダシには

「鍛錬は完璧を生む(Practice makes perfect)」

毎日俺たちは、我らが「ビッグウィル」で弾込め、照準、発砲の
正確さ、速さなどのスキルを磨いてきた。
砲の周りには9人のメンバーがいて各々の任務を行う。
お互いにエキスパートとして協力し合うことで
俺たちは(戦いのあと)生き残ることができるのだ。


事故の危険性以上に、相手を殺らなければ全員一緒に死ぬわけですからね。



この人の言っている「ビッグウィル」とは、9人の砲員が自分たちの
使っている砲につけていた愛称です。
各砲門は専用になっていたらしく、この「ブリムストーン」のように
名札が付けられていました。

 

こちらはバンカー・ヒル。
もちろん独立戦争以降の命名だと思われます。



10インチの弾丸実物がミュージアムに飾ってありました。
19世紀に用いられた砲丸には穴が空いていてボウリングの玉みたいです。

まず底に火薬、続いて砲丸を入れて、ヒューズに火をつけて爆発させます。
当時の大砲というのは、物理的に弾丸を飛ばしてぶつける、という仕組みで、
当時の技術では筒と砲丸の間に隙間ができてしまうため、発射効率が悪く、
そんなに遠くにまで弾丸を飛ばせたわけではありません。

したがって、戦闘とは常に至近距離で行われました。

 

大砲周りのグッズいろいろ。
手前のものはわかりにくいですがグレープショット=ぶどう弾といいます。

白いものは帆布製の袋で、ここに子弾を9発詰めてあります。
帆船における近接戦闘で索具類破壊と人員殺傷を目的に考案されました。
名称は小弾が詰まっている様がブドウに似ていることに由来しています。

向こうの筒状のものは「キャニスター爆弾」



手前右の丸いのは「ラウンドショット」。
これがいわゆる普通の弾丸ですね。
その上の鉄アレイみたいなのは「ダブルヘッデッドショット」。

棒が繋がったみたいなのが「バーショット」(ショットバーではない)
あと、熱くして使う「ホットショット」なんてのもあったようです。

木製の金魚すくいの枠みたいなのが、丸い弾丸を載せるもの。
これを持って走り、一番早い人が勝ち・・ってそれは玉すくい競争だ。

手前の「match stick 」はその通り火をつける棒だと思います。



ところでこの博物館には、いたるところに当時衣装をつけた人のパネルがあり、
それぞれのフキダシによるセリフから色んなことを知る仕組み。
漫画的ですが、こういう展示は外国人や子供にもわかりやすくていいですね。

例えば手前の人は

「”ブリッツ”に勝ったからバケツにいっぱいお金をもらったぞ!」

と言いながら政府から発行された褒賞の証明書を掲げており、
奥のカップルの女性の方は

「もし船乗りに志願したら、この人酒場でクダ巻く時間もなくなるわね」

飲んだくれダンナを水兵にして長期間外に放り出す(もちろんお金も稼いでくる)
ことを考えております。




ここには敵であったイギリス海軍についての展示もあります。
その場合はパネルの人に当時の英国国旗をつけてくれているのでわかりやすい。


銃の手入れをしているこのシーマンは、
これまで長い長い時間沈黙に耐えて待った結果、やっと敵が見えた、
さあ戦いの準備だ、と言っております。 



こちらもイギリスの場合。

当時、同じ船乗りになるとしても、セイラーとマリーン(海軍士官)が

待遇面でどう違っていたかを表にしてあります。

面白いのは、セイラーには身長制限がありませんが、マリーンは
身長170cm以上ないとダメだったということ。(音楽隊は別)
セイラーが要実務経験に対し、マリーンの方は「経歴不問」。

制服もセイラーが「自分で調達」に対し、マリーンは

「たいへん目を引く(アイ・キャッチング)デザインの軍服が支給される」

うむ。 



こちらコンスティチューションの乗員。
なにやらシリアスです。


戦争の恐怖

初めての出撃で僕が見て感じたことを想像できるか?
ぞっとするようなうめき声と傷つき死んでいく人の姿・・。

イギリス船と戦ったあとの甲板の上には、血と脳みそ、
歯や骨のかけら、指、そして肉片で覆われていたんだよ。

これは、実際にコンスティチューション乗員だった人の回顧です。

彼の後ろにいる白衣の人物は医師。

「人間性が非人間性の後を付いていく」

として、戦闘後、倒れている人々から敵味方を問わず
生きているものを見つけて手当てをした、と言っております。



かし、手当てといっても船の上でできることは限られていました。
当時、命に関わるような大怪我の場合、傷を負った手足は
腐敗しないように切り落とすしかなかったのです。


ここに展示されているのはそれを行ったといわれる大型のナイフ。
医師はさらにのこぎりで骨を切ったわけですね。


左上は、コンスティチューションの艦長であった
アイザック・ハル(Captain Isaac Hull)の述懐です。

「 戦いの日々にあってもわたしは冷静で、むしろそれに心沸き立ったが、
何より恐ろしいのは、日が経っていくことだった。
それにつれて傷つき苦しむわたしの部下が増えていくのを見ることになった」

右下は命と引き換えに脚を切られてしまった乗員のリチャードさん。

「あんたらまるで肉屋みたいだな」(意訳)

ためらいもなく怪我した手足を事務的に切り落としていく医者に、
ついついこのように言ってしまった模様。 


まあ、さっきの医者などは、切り落とした手足の骨で椅子を作った、
なんてことも言ってたみたいですから・・・。gkbr(AA略)




こちら旗を見てお分かりのようにロイヤルネイビーのキャプテン・ダクレス。

降伏

わたしは、ハル艦長の指揮とその乗組員たちの勇気について
言及する義務があると感じる。

わたしの部下たちは最も少ない犠牲で最大限の敬意と手当てを受けることができた。

おお、ここにも海の武士道ならぬ「海の騎士道」が存在したと。

しかも騎士道といえば、ハル艦長は、ロイヤルネイビーの士官に

捕虜になった後も帯刀することを許したという話がここに書いてあります。

降参するにあたって自分のサーベルをその印として
ハル艦長に渡そうとしたHMSゲリエール艦長。
それに対して、ハルはこう言いました。

「貴官は降参されるとおっしゃる。
そしてご自分の刀を本官に渡そうと・・・・。
いやいや、いけません。
本官はその使い方をわたしよりよく知っている人間から
それを取り上げるつもりはありませんよ」


いや、どちらもイングリッシュスピーカーで話が早くて良かったです。



しかし、勝てば官軍、負ければプリズナー。
勝ったコンスティチューションの乗員たちには栄誉が与えられます。

ハル艦長は敵を敬意を持って扱いましたが、ただしそれはマリーン(士官)のみ。
ゲリエールの水兵たちはその後、
ボストンに帰るまでずっと甲板に繋がれたままですごし、
アメリカでもまるで罪人のような処遇を受けたのでした。

ただ戦闘に負けただけなのに。




ゲリエールの乗員。

「負けた・・・・」


海の男同士響き合うものがあったとしても、戦争は過酷で勝負は現実。
当博物館の展示はそんな戦士たちの悲哀にも光を当てております。(適当)


続く。




 


コヨーテポイントのアシカ〜カリフォルニア・サンマテオ

2016-10-14 | アメリカ

先日、サンマテオのコヨーテポイントで偶然見つけた
商船アカデミー跡のことを調べ、ここに戦争中だけ
カデットを育成する教育機関があったことを知ったわけですが、
その時に思ったのは、あの戦争はアメリカも本気だったんだなということです。

ベトナム戦争は知りませんが、911のときにボストンにいた者として、
あの事件直後の異様なアメリカ全体を覆い尽くしたショック、
それに次いでパトリオティックな空気が醸成され、音を立ててそれが
国民全体を包み込んでいく様子を見ていました。

ですから、ブッシュ大統領がその後「不朽のなんたら作戦」と称して
アフガニスタンに侵攻したときに、アメリカ国民がその攻撃を
パパブッシュの湾岸戦争のときほど支持していなかったのを、
外国人なりに少し不思議なことに思ったわけです。

今にして思えば、アメリカ国民もブッシュのこのときの性急さから
なにか胡散臭いものを感じていたのかもしれません。

少なくともこの戦争がアメリカ社会を大きく変えることはなかったし、
ましてや国民が一丸となって、なんて気配は全くありませんでした。


しかし日本との戦争で本気になったアメリカは、太平洋の戦場に必要な船に
乗せる船員(戦闘行為も有り)を、民間から徴用するのではなく、 
教育機関をパッと作ってしまったりしたわけです。

その気になったらこれくらい簡単にやってのけるアメリカという国は
やはり底力があったし、変な自負かもしれませんが、そのアメリカに
ここまでさせた日本もまた大したものだった、などと思ってみたりもします。



さて、そんな話はともかく、今年の夏もここに行ってみました。
今回は日本から休暇で来ていたTOと一緒です。



アメリカのいいところは、公園として解放しながら、
変に整備したりしないこと。
道沿いに柵くらいはつけますが、あとは放置。



商船アカデミー跡のシンボル、ソルティー・ザ・イーグルの像。
ここにアカデミーがあった証に、永遠にここに残されます。

ここでひとしきり調べたことをTOにレクチャーするわたしでした。



アカデミーがあった時代に作られたらしい人口の洲がありました。
左のほうの、かつてのアカデミーの港は、今ヨットハーバーです。



岩を積み上げただけの洲。



これまで歩いてきたところを振り返る。
右のほうにサンフランシスコ空港があります。





さて、このときわたしは望遠レンズとカメラを持ってきていました。
このコヨーテポイントからは、サンフランシスコ空港に着陸する寸前の
ギアを出した飛行機が間近に見えるのです。

この機体はアメリカン航空。



こちらもアメリカン。
こちらは3年前に導入された新デザインのボーイング 737-800らしい。
フライトアテンダントの制服もこのときに一新したそうですね。
全く乗らないのでどう新しくなったのかも知りませんけど。

あ、昔ここのエコノミーに乗ったとき、消灯後に、ものを落として
拾うためにかがんでいたら、体重1トンのプロレスラーみたいな
がさつなFA(男)に頭を思い切り蹴飛ばされたことがあったなあ・・。
よく脳震盪にならなかったもんだ。

「アーユーオーケー?」

とか聞いてたけど全然オーケーじゃなかったわい。 



いつもお世話になっております。
ユナイテッド。



去年乗ってなぜ皆が「デルタ、サックス!」というのか
わかった気がするデルタ航空。

そういえば、我が家はクリスマスにボストンからフロリダに行くのに
やる気のないカウンター職員がでれでれやっているためなかなか列が進まず、
予約したフライトに乗り遅れて最終便まで待たされたことがありました。



アメリカ国内だけを飛んでいる格安航空、ジェットブルー。
日本のエアドゥとかソラシドエアみたいなもんですね。
日本のは機内サービスの簡略化で節約?しているようですが、
アメリカの格安航空もまあ似たような感じです。

というか、どんなエアラインも大したサービスはしないので、
同じなら安い方がええやろ、と考えるむきもあるようです。

ジェットブルーは格安航空の中でお値段比較的高めですが、
レガシーキャリアと変わらないサービス、そして何と言っても
大容量の衛星通信導入によって国内他社の8倍の通信速度で
インターネットができるというのが売り。



イギリスのバージン・アトランティック・エアーが設立した、
これも格安航空のバージンエアー。
バーリンゲームといいますから、このコヨーテポイントの隣に本社があります。



ノーズ部分に”#nerd bird" と書かれているのを発見。

ナードバード、オタク鳥・・・・?

バージン・アトランティックエアは、機体に
ティンカーベル、マドモアゼル・ルージュ、ドリームガール、アップタウンガール、
ホットリップス、ピンナップガール、クィーンビー、ダンシング・クィーン、
などと「女の子」の名前をつけていることで有名ですが、こちらも
本家に倣って、鳥シリーズで名前をつけているのかもと思いました。

サンフランシスコとオースティンを往復する便の名前のようです。




鳥といえば、ここにはアジサシ鳥が頑張って漁をしていました。
飛んでいたかと思うと果敢に垂直降下して獲物を狙うやりかたで、
見ていて飽きません。

「アジサシ母さん頑張れ」

「あーだめだった」

などとわたしたちもつい応援してしまいます。



ブラックバードのメス。
メスとオスで色が違います。 



これは珍しい。
デンバーの格安航空会社、フロンティアの機体です。
アメリカの民事再生法に当たる倒産法を申請しましたが、営業してます。
アロハ航空とかは経営破綻してなくなってしまったのですけどね・・・。

 


飛行機を撮る合間に水鳥を撮ろうと思いまして、
ふと海面に目をやれば、遠目になにか黒い丸いもの発見。



肉眼ではわたしもTOも全く確認できなかったのですが、
優秀な望遠レンズで撮って、拡大してみて初めてそれが
息継ぎに出てきたこんなものであることを知りました。

「アシカ?」

「アザラシ?」

「オットセイ?」

言われてみれば、その違いなどを深く考えたこともありませんでした。
調べてみると、アシカにもオットセイにも「耳がある」そうですから、
穴が空いただけの耳のこれは消去法でアザラシということになります。

ちなみにカリフォルニアには「カリフォルニアアシカ」というのがいて、
モントレーなどでは海沿いを歩くと岩場にごろごろしています。



ぷはー、と目を閉じてるアザラシ。
ちなみにアシカは「シーライオン」、アザラシは「シール」、
(イアーレス・シールが正式)オットセイが 「ファーシール」です。

アザラシとオットセイが同じ「シールズ」とは知りませんでした。



空気を吸い込んでいるところなので思いっきり鼻の穴を広げております。
潜水のとき、この鼻の穴は自然にぴったりと閉じてしまいます。

ちなみにアザラシの目は色を見分けることができないそうで、
白黒の世界を見ているんだそうです。
アザラシに聞いたわけでもなかろうに、なんでわかるのだろう、と思ったら、
網膜に色を識別する錐体がなく、桿体だけしか持っていないため、
明るさは感じるけど色の概念がないということらしいです。

犬や猫も錐体が少なく、青と黄色しか見分けられないとか。

ほんの少しの間、こうやって空気をすーはーすーはーしてから、
アザラシは潜ってしまい、それっきり姿を見ることはありませんでした。







釣りに来ている人もいました。
楽しみでやっているのかもしれませんが、ちょっと真剣な感じです。



そんなあなたのために、「フィッシュ・スマート」。
いや、この場合スマートかどうかを問われるのは人間でしょう。

食べてもいいのはカレイにカニ(レッドロッククラブ)、
メバル(煮付けにすると美味しい)、ジャックスメルトという名前の
イワシ系の魚、そしてアトランティックサーモン・・・
ってこんなところで獲れるのか。

だめな魚はストライプバス、サメ、白チョウザメ、ヒラマサ、
そしてウミタナゴ。

ヒラマサがなんでだめなのかわかりませんでした。
日本じゃ刺身で食べますよね?

なお、左の看板の2番目は中国語で書かれている模様。



帰りにやっと全日空が来ました。
アメリカで機体の日の丸を見ると無条件でうれしくなります。



子供が二人で一つのスマホを見ながら歩いていました。
まだこのときには発売されて間もないポケモンゴーをしていたようです。
わたしがアメリカにいたときにはこのブーム、すごかったですが、
今では少し落ち着いているのでしょうか。






 


試験艦「あすか」見学その2

2016-10-12 | 自衛隊


横須賀にある開発隊群の直属試験艦である「あすか」見学記、
二日目です。
実はわたしは「あすか」の見学は全く初めてというわけではありません。
去年の観艦式、わたしは本番でイージス艦「ちょうかい」に乗ったのですが、
「ちょうかい」の出航する木更津港には他に「こんごう」「あすか」が泊まっており、
前日には一般公開していたのでホテルチェクイン前に見学をしたのです。

そのときに、彼女らの舳先が並んでいる様子を撮り、「あすか」だけが
前に突き出したシャープな先端をしていることを確認しました。

こうやってイージス艦と並んでみると、違いは歴然です。
これは何度も説明していますが、艦首・底には新水上艦用ソーナー(OQS-XX)
を設置しているため、投錨したときに当たらないようなデザインなのです。
それは砕波発生装置からソーナーを遠ざけるためでもあります。

このことについて、後に艦長を囲んで歓談となったとき話題にしたのは、ひとえに
「実際に見たので知ってまっせー!」ということを言いたいがためでした(笑)


一般的に自衛隊装備の見学にやって来る一般人、特に女性に対し、
案内の自衛官は「この人はどの程度知っているのだろう」ということを
会話のリアクションから察知し、相手のレベルに合わせて説明してくれます。

それでいうと、わたしはまあそれなり、もう一人の女性はわたし以上に
現場主義?で見学をしょっちゅうしている人、男性は元中の人。
というわけで終わる頃には艦長も

「これはおそらくご存知だと思いますが」

といちいち説明の頭につけておられました。

試験艦「あすか」はいわば「お試し専用艦」なので、
搭載して実験した装備はほとんど
外してしまうのですが、面白かったのは
イージスシステムのフェーズドアレイアンテナが
はずされた跡のある、
今は何もないブリッジ外側の眺めでした。


写真を撮るのを忘れたのが残念です。




食堂階から艦橋に上がっていくことになりました。
「あすか」のこの階のラッタルはこのように上り下りが別の
広いタイプで、わたしは一度このことを

「技官などが乗ることも多いので船乗り以外に優しい仕様になっているのでは」

と推理してみたのですが、実はそれより重要な意味があったのです。



艦長が指差している先には、ロープが通せる穴の空いた部分があります。

「この階段が広いのは、ここから機材を搬入するためで、モノによっては
ここに通したロープで引き上げたりするんです」


 
さて、艦橋に上がってきました。

「広いですねー!」

同行の女性の第一声がこれ。
「ぶんご」「うらが」など掃海母艦よりは少しだけ小さく、護衛艦よりはかなり広め。
 
 

艦橋よりの眺め。
鑑番号116は「てるづき」、その向こうは「ちはや」でしょうか。



米軍基地には

ベンフォールド( USS Benfold, DDG-65)

が見えます。
ベンフォールドというのは朝鮮戦争で戦死した衛生兵の名前だそうです。
2015年10月、アメリカのアジア重視戦略「リバランス」の一環により

配備先のここ横須賀基地に到着し今日に至ります。



右舷側にチャートを広げるデスクがあるのはDDと同じ配置です。
「世界の艦船」「世界の国旗」などと並んで「日本漁具、漁法解説」という辞典が。




信号旗、信号灯と通信関係のファイルらしきもの。



ここに立つのは自衛艦の場合ベテラン海曹というイメージがありますが、
たとえばロナルドレーガンなどの空母では「操舵するだけなら若くてもできる」
と、平均年齢18〜9歳の水兵に任せているというので驚いたことがあります。

自衛隊は海軍時代下士官が操舵をしていたという慣習を受け継いでいるのしょうか。

 

決して特定秘密保護法には抵触しない事例と思われるので、
何が書いてあるかここで発表させていただきましょう。

この日行われた練習艦隊出航時の見送りについての注意点です。

わたしたちは岸壁から見送る人だけが練習艦隊の見送りだと思っていましたが、
実は同じ港内の自衛艦でも、それなりに艦隊見送りを実施していたらしいのです。

この通達によると、

「整列の人員は艦所定(当直員対応)艦首(右)〜艦尾(右)間
手前のマーキング」

「雨天時の雨衣着用の有無は0930のCOMM CKに続き示す」

この下にある、各艦に送られてきたらしい練習艦隊見送りの件は
宛先がたとえば「あすか」だと航海長、副長、当直士官となっていました。

「当日の当直・副直士官、航海科当直員、マイク員等等事前教育を
実地するとともに、
整列位置の確認など事前準備をしておいてください」

という通達となっており、艦隊見送りという一事に対しても、上から下に
申し送ってきっちりと行われるものなのかと結構びっくりした次第です。 




デッドオアアライブ・・・ゲームのあれとは違いますよね。



OPA-6Dはレーダー指示器です。
先の繋がってないヘッドフォンをしている鳥さんにまた遭遇。 



後甲板をずっと映しているモニター。



艦橋デッキ。
望遠鏡の横に「見張り要領」が書かれている艦は初めて見ました。
それによるとこの望遠鏡の「眼高」は(海面から)14・6m。
図で方向角および方位角の判定と、注意事項などが記されています。



外に出ました。
他の艦ではみたことのないくらい広いスペースです。
観艦式の時には人がさぞ詰め掛けたのでしょう。
「あすか」は人員積載量が多いのと階段が前述の理由によって広かったりするので
観艦式などには必ず観閲艦として参加しています。

このもう少し上を撮っていれば、フェーズドアレイの跡が写っていたはずなのですが・・・。



ここも他の艦にはない独自のスペースです。



たくさんの人がシャワーを一度に浴びるためのホース・・・ではありません。
(ってかまじでなんだっけ(; ̄ー ̄A )海水を吸い込むホース?)



艦の性質上、将来的に何かを据えるためのブランクスペースというのもあります。



というわけで艦長曰く「駆け足で」見学を終了しました。
あと、写真を撮れなかったのですが、「あすか」の女性乗組員の
区画に、女性だけが入らせてもらいました。
中にいた女性乗組員の方は今から上陸ということで準備をしていて、
見学者が部屋に入るのに少し戸惑っておられるようだったのですが、
了解を得て少しだけ中を覗いてすぐに外に出ました。

中は自衛艦(というか自衛隊の敷地内)ではほとんど感じたことのない、
いかにも女性の居室ならでは空気が漂っておりました。
目をつぶって入っても、女性の部屋であることがわかるような。


「他ではありえない、いい匂いがしますね」

そして、士官室でお茶をいただきながらもう少しだけ話をして、

わたしだけが艦長自らのお見送りで退艦した次第です。



しかし、そこから出口までが遠かった(笑)
さらに、わたしは車を横須賀駅の向こう側のコインパーキングに停めたので、
舷門を降りてから横須賀を出発するまでたっぷり30分はかかった気がします。

帰りながらほかの船で行われている作業の写真を撮ったりしたし・・・。
これ何をしてるんでしょうか。

向こうに「いずも」らしき艦影が見えます。



艦番号111は「おおなみ」。



「あすか」を降りた時から、ラッパの音が聴こえていました。
見れば、イージス艦の誰も来ないこんなところで、おなじみ「出航ラッパ」から
「総員起こし」「かかれ」など、ラッパを順番に練習している信号員がいました。

やっぱりちゃんと吹けるようになるまでこうやって練習するんですね。


何かとてもいいものを見せてもらったお得な気持ちになりながら、
彼のラッパの音に送られて、横須賀地方総監部を後にしたわたしでした。


終わり。