ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

開設1000日記念シネマギャラリー(一般映画編)

2013-09-30 | つれづれなるままに

当初この1000日記念シリーズは、去年の年末の企画で「年忘れシリーズ」の
一環のつもりだったのですが、なんやかんやで後回しになってしまい、
きりのいい日にちの時に小出しにすることにした結果、
1000日記念と言いながらもう1260日になろうというところです。

そこまでして出してくるのは、せっかく一生懸命描いた絵を再利用しようという
浅ましい思いがこめられているのです。

心して見よ。じゃなくて見てください。お願いします。




「点の記」

エリート登山家、小島鳥雨を演じた中村トオル。
かれの登山スタイルがなんとも素晴らしいコーディネートです。
この映画の衣装担当に敬意を表して。

ひたすら映像を楽しむ「山岳映画」。
音楽もビバルディの「四季」はじめクラシックを使って良し。
フジテレビ的「んなあほな」というような詰めの甘さは残りましたが、
あわや遭難という過酷な環境の中で映画を撮影したスタッフに敢闘賞の映画。




今年の三月閉館したテアトル銀座で最後に観た映画、
「サラの鍵」。主人公を演じたメリュジューヌ・マヤンス。
超絶美少女でした。

強制収容所という体験を経て成長した彼女の選んだ悲しい道。
そして「何のために知るのか」と真実を追うことの苦しみを
自分に問いかけるジャーナリストの姿を描いた秀作。

衝撃と感動のラストはぜひ観て確かめてください。(宣伝風)




これもどういうわけか毎日のようにヒットする人気ページ。(なんで?)
「クヒオ大佐」における堺雅人。
最近、この堺雅人さんが半沢直樹で大人気だからかしら。

以前、「中年以降の白洲次郎が演じられる俳優」をあれこれコメント欄で想像して
楽しんだことがあり、そのときにちらっと、この人はどうかな・・・・・と思ったのですが、
あの顔で

「日本人は戦争は負けたが奴隷になったわけではない!」

とか言われてもねえ・・・、ってことで推薦取り消し。



「戦火の馬」モブシーン。

この絵を描いていた時のことですが、この画像のほぼ三倍の大きさのものが
ほとんど仕上がっていた段階で無慈悲にもブルースクリーンになり、
数時間の努力が一瞬にして消えたという悲劇がありました。

虫の知らせか、このときかろうじて保存していたこの部分に手を加え仕上げました。
この事件がきっかけになってパソコンを買い替えたという、
エリス中尉にとって記念ともいえる作品。

って、全然映画と関係ないし。



この原作が舞台演劇にもなっていると聞いて、
このようなシーンを想像してしまいました。
実際は「作り物の馬」でやったというのですが・・・。
しかもこの作り物の馬、演技をしたそうなんですよ。
観てみたかったかも。

この記事を書いたときには、自分が数か月後乗馬を始めているとは
夢にも思っていませんでした。
なんとなく流れと勢いで始めてしまい、今日に至ります。

一番大きな原因は、「バロン西」のコメント欄なんですよね。

って、これも映画と関係ないし。



The Iron Lady 「鉄の女の涙」

マーガレット・サッチャーを演じるメリル・ストリープ。
あのサッチャーがボケ老人になってしまっていたのもショックですが、
それよりこの日本タイトルは何とかならんのか、と思いました。

その後サッチャーは亡くなり、例によってその日だけこのエントリに
アクセスが集中して「ああ、亡くなったんだな」と実感することになりました。

イギリスでは何でもサッチャーが亡くなって喜ぶ人たちがデモをしたとか。

日本ではどんな国賊でも「死ねば神様」になってしまうので、
このようなことは起こりません。





絵を作成する過程をアップした、
「ナポラ」
竹宮恵子やら萩尾望都の世界か?とこれを観て思う向きもありましょうが、
その辺は「話の成り行き上」どうしても絡まってきた、という感あり。

むしろ、時代に蹂躙された青年たちの純粋な魂の蹉跌を描くのに、
彼らの疑似恋愛を語らない方が不自然、と思われました。
個人的には非常に評価したい映画です。




「善き人のためのソナタ」

ドイツ映画で、原題は「他人の生活」と言います。
こういうのを観ると、「アメリカ人にはこういう映画は作れない」
と思ってしまいますね。
ましてや日本人においておや。

自国の歴史、しかも黒歴史を描きつつそこに起こった限りなく美しい
魂の救済を語るなんて芸当、やはりヨーロッパ人にしかできないのか、
と少し考えさせられてしまいました。
何と言っても「哲学」が精神史を作ってきた場所ですからね。

日本人はねえ・・・。

アメリカ人などにも典型的ですが、「全くの空想世界」の中では
いかようにも精神性を語れるんですが「実の歴史」を突っ放すには、
あまりにもメンタルが全体的にマチュアでないというか、幼い気がするの。

偏見?

本日挙げた映画の中で、エリス中尉が個人的に一番お勧めしたいのが、この映画です。



「9日間」

この映画でも思いましたね。
日本人にはこういう映画は作れない!
若いナチスの少尉(元宗教家志望)のアイデアで、ある大司教が行っている
ナチスへのレジスタンスをやめさせる説得を命令され、
その間収容所から一時自宅に戻ることを許されるユダヤ人司祭。

彼らの間に行われる心理戦ともいうべき宗教論は、その善悪の彼岸や人間の業、
さらには宗教家の心にすら潜む生への欲望とそれに執着する弱さ、
そんなものとともに、実に深い部分を描き出して息詰まるようなスリルを感じました。

しかし、この稿で述べたのはなんのことはない、

「どうして世間はナチスに異常なほどの美を感じるのか」

皆さんの心に潜む「制服フェチ」っぽいものについての考察だったりします(笑)






「レッド・バロン」。

震災でしばらくブログをお休みしていたのですが、再開に当たって
久しぶりに筆を取って描いたのがリヒトホーフェンを演じた
マティアス・シュバイクへーファー。
ドイツ青年らしい硬質の美貌が実にリヒトホーフェンぽくてよかったです。

この映画は一応戦争映画なのですが、一般映画編に入れました。


しかしこうしてみると、一般映画の並びもなんとなく傾向が「戦争」ですね。
「点の記」ですら主人公は陸軍だし、「アイアンレディ」も、
クライマックスはフォークランド島への出兵の決定だったりする。


どんな映画を観るか、というのはその人の嗜好性癖を見事に表すのです。

あ、でも「話題の新作」はとりあえず別ですよ。
「ウルヴァリン・サムライ」(日本編)面白かったです!

芝の増上寺を走り出たらすぐに新宿で、次の瞬間上野にトリップして、
九州に向かう東北新幹線の屋根の上にナイフを立ててしがみつき乱闘、
というようなところがとても楽しめました。

これから観に行く方は、エンドロールの最後まで席を立たないようにね。






空母ホーネット~「イオー・ジマ」艦載機に扮したシーキング

2013-09-29 | 航空機

SH-3 シーキング(SH-3 Sea King)

艦載することを重視しすぎて極限まで翼を折りたたみ、居住性を無視したため
搭乗員にはめっぽう評判の悪かった「チョクトー
(しつこいようだが菅直人ではなく、ネイティブインディアンの部族の名前)
の後継機で、対潜哨戒の役割を持ち、米海軍が配備したいちばん最初の全天候型ヘリコプター。

戦闘機に「全天候型」があるという話が少しばかりこのブログ的に話題になったところですが、
ヘリは戦闘機以上に天候に左右されるので、これは画期的な機種だったわけですね。

シーキングはアウトリガータイプ
(船舶用語で安定性をまし転覆を防止するために舷外に突き出して固定される浮き)
スポンソン(燃料やギアを収納する空間)を持ち、安定性が確保されています。

そして後続距離の長さもこのヘリの大きな特徴です。

1965年、シーキングはサンディエゴに停泊中のこのUSSホーネットから飛び立ち、
15時間52分で3400キロ離れたフロリダ・ジャクソンビルのUSSルーズベルトに到達し、
初めてこれだけの長距離を一挙に飛んだヘリコプターとなりました。

日本のウィキペディアで検索してもスペック程度の説明しか出てきませんが、
実はこのシーキングは、アメリカのヘリコプター史においてもっとも成功したヘリと言われています。
その性能を買われて対艦攻撃、捜索救難、兵員輸送、通信、要人輸送、そして早期警戒など、
実に様々な用途に活躍をしてきました。

「ファイヤーキング」という名前で民間爆撃機として任務を負っていたこともあります。



しかしその中でも最もシーキングが有名になったのは、何と言ってもアメリカ宇宙計画の
ジェミニ、アポロ、スカイラブのミッションに参加したクルーを揚収したことでしょう。



1969年、アポロ12号の揚収でゴムボートの上に載っているのがこのカプセル。
次々とパーツを切り離していき、最後にこの部分だけが大気圏に突入し、
海面にパラシュートで到達、彼らを揚収し移送するのがヘリコプターです。

このとき揚収の任務を負ったNo.66の機体は、1975年、サンディエゴ沖数百マイルの高度から
墜落し四散したため、この歴史的に貴重なシーキングは永遠に失われてしまいました。(-人-)

「この写真のヘリが墜落したって?
ここにある機体も同じ66をつけているんだが」

と気づいた方、あなたの洞察力はすばらしい。
しかし、写真のヘリとここにあるヘリは全く別物なのです。
その理由をお話ししましょう。


ここにある機体はNo.148999で、1965年のジェミニの揚収などで活躍したのち引退が決まり、
1995年、彼女にラストミッションが与えられました。


それが、モーションピクチャー制作の映画「アポロ13」への出演で、
帰還してきた飛行士たちを揚収する今は亡きヘリコプター「No.66」としての「演技」だったのです。

そこで、この機体、冒頭写真をもう一度見ていただきのですが、
機種にカプセルのマークが5つ描いてありますね。
これはどうやら揚収したカプセルの数だと思われます。

ちょいと余談ですが、今回アメリカで遭遇したたくさんの飛行機の中で
たとえば古い軍用機の機体に撃墜した敵機の数が誇らしげに描かれていると
この国と戦争した国民としては、何とも言えない複雑な気持ちになったものですが、
こういうマークならいいですね。
何のわだかまりもなく見られるといいますか。

それはともかく、この機体No.148999は5基ものカプセルを揚収しておりません。

さらにこれ。



USSイオー・ジマ。

もちろん硫黄島のことですが、アメリカ人が「いおうとう」と言えないもので、
勝手にイオージマ呼ばわりした結果、あそこは英語ではイオージマになってしまいました。

それはともかく、このウィキの写真をご覧ください。




アポロ13のジム・ラヴェル船長始め三人を揚収したのは揚陸艦イオー・ジマだったんですね。
No.66がもしこの時に健在であれば出演したのでしょうが、それがならなかったため、
引退予定のNo.148999に白羽の矢が立ったというわけです。


この機体はほかのものに比べて妙に塗装がきれいです。
つまり映画の出演時にイオージマ搭載のシーキングNo.66に扮するために塗り替えられて、
その塗装のまま展示されているというわけです。

ちょうど映画の計画があった時に引退が決まっていた、というのでこの機に白羽の矢が立ったのでしょう。



こういう部隊のマークもしっかりと描いてあります。
おそらく、というか絶対に画面には映らないと思うのですが、細かいですね。

映画「火垂るの墓」では、戦艦「摩耶」の舷窓やラッタルの数まで本物通りに作画したのに、
実際は黒く塗りつぶされていてこだわりの部分は全く見えなかった、という話を思い出します。

ちなみにこの映画、船長のジム・ラベルがトム・ハンクス、メンバーにケヴィン・ベーコン
病気が疑われて直前にメンバーから降ろされた飛行士にゲイリー・シニースが出ております。
管制室長のエド・ハリスビル・パクストンなど、良い俳優がたくさん出ているので
その内容もあってわたしの好きな映画の一つで、DVDも持っているのですが、
今度はこの揚収シーンのシーキングに気を付けて観てみようと思います。
 
 





女流パイロット列伝~アメリア・イアハート「クィーン・オブ・ジ・エアー」

2013-09-28 | 飛行家列伝

サンカルロスの「ヒラー・エビエーション・ミュージアム」に行ったとき、

「アメリア・イアハートだわ!」

と言って、この有名な女流飛行家の写真の前に立ち、
連れの男性に自分の写真を撮ってもらっていた女性がいました。

チャールズ・リンドバーグをしらないひとがいないように、
アメリア・イアハートのことを知らない者は世界でありません。
日本での知名度はそうたいしたことはありませんが、アメリカ本国では
彼女はいまだに国民的な英雄なのです。

単独による大西洋温暖飛行を女性で最初に達成したほか、輝かしい記録を次々と打ち立て、
かつその素顔は知的でシャイな面を持つチャーミングな女性飛行家。
その謎に包まれた最後はさまざまな憶測を呼び、神話を生み、
こんにちもその足跡を追って熱心な研究を続けている人たちがいるほどです。

ここで彼女の樹立した主な記録を一覧にしておきましょう。
 

  • 女性による達成高度の世界記録:14000フィート(1922)
     
  • 女性として世界初の大西洋横断(1928年)
     
  • オートジャイロで飛行した最初の女性(1931)
     
  • 世界で最初にオートジャイロで米国を横断(1932)
     
  • 女性初の空軍殊勲十字章授与者(1932)
     
  • 女性としては最初に東海岸から西海岸までを飛行(1933年)
     
  • 女性による大陸横断最速記録(1933年)


ここに挙げたのは「女性として」という冠が付くものが多いですが、
彼女は 

ホノルル(ハワイ)‐オークランド(カリフォルニア)
ロサンゼルス(カリフォルニア)‐メキシコシティ(メキシコ)
ニューアーク(ニュージャージー)‐メキシコシティ(メキシコ)

間の単独飛行を男性女性関係なく最初に達成しており、なお、

オークランドからホノルルまで、イースト・トゥ・ウェストの最速記録(1937)

を持っていました。

「女としてはすごい」ではなく、真に実力のある飛行家だったということです。
その飛行は繊細で、天性のカンを持ち、

『飛ぶために生まれてきたかのようにデリケートなスティック捌きだ』

と一緒に飛んだプロの男性パイロットは皆、彼女を激賞したそうです。




1897年、アメリア・イアハートはカンサス州のドイツ系アメリカ人の家庭に生まれました。

幼いころからお転婆だったアメリアは、野山を虫を取ったりして走り回るような子供で、
7歳のある日、納屋の屋根から通りにトタンを渡して自家製の「ジェットコースター」を作り、
それをすべり降りた・・・・と思ったら、乗っていた箱は地面に激突して潰れてしまいました。
しかし彼女は唇を怪我しながらも爽快な顔つきで箱から現れ、見ていた妹にこう叫びました。

「ああ、ピッジ、 まるで飛んでるみたいだったわ!」


理系少女だったアメリアはコロンビア大学で医学を学ぶために入学しますが、
肌が合わなかったのか一年で退学し、第一次世界大戦では看護助手をしています。

たまたま友人と訪れたカナダ・トロントの博覧会でアメリアは
第一次世界大戦時のエースの展示飛行を見、すっかり飛行機に魅せられます。
それが一時代を築いた「テキサコ13」乗りの飛行家、フランク・ホークスでした。
彼の飛行学校で操縦を習い、10分10ドルの飛行代と彼女自身の飛行機を買うために、
カメラマン、トラック運転手、電話会社での速記などでお金を稼ぎます。



負けず嫌いなアメリアにはこんな面もありました。

レザーの航空ジャケットを購入した彼女は、他のエビエイターの目を意識して、
ちょっとでもベテランらしい印象を出すために、三日間ジャケットを着込んで寝たそうです。
そして、イメージのため髪の毛を短く切ってまるで少年のようなスタイルに変えました。
そして、最初の飛行機、黄色いKinner Airsteの複葉機を手に入れます。

前回、映画スターでもあった飛行家、ルース・エルダーについてお話しした時、
チャールズ・リンドバーグが大西洋を横断するや否や、「最初にリンディに続く女性」
になるため次々と女流飛行家が名乗りを上げた、という話をしましたが、
この「名乗り」というのは、どうやら「これは商売になる」と踏んだ「仕掛け人」が、めぼしい女の子、
つまり出資する企業のイメージにぴったりな女性の飛行機乗りを探しに探して
これを成し遂げさせようとするコマーシャリズム紛々の「イベント」であって、
ほとんどの女性はこれに「乗った」という構図らしいことがはっきりしています。

アメリアに声がかかったのも、そもそも最初にエイミー・フィップスゲスト(1873~1959)
に白羽の矢を立てたものの、彼女では実力不足、ということで、
エイミーの代わりを探していたからです。


1928年の4月、アメリアはヒルトン・R・ライリー大尉と名乗る人物から電話を受けます。

「大西洋を飛んでみませんか?」

これが飛行家アメリア・イヤハートの始まりであり、後に夫となる出版業者であり、
彼女のコーディネイター、ジョージ・P・パトナムと出会うきっかけでした。



アメリア・イヤハートのことを調べていて初めて知ったのですが、
どうも最近、彼女の映画ができていたようです。

このパトナムを演じているのがリチャード・ギア


つくづくこの俳優は、こういう
「プリティー・ウーマンの王子様役」みたいな、女性をあれこれドラマチックに変える、
「マイフェアレディ―」のヒギンズ教授みたいな役がぴったり、と思われているらしいですね。
そしてギアはともかく、このアメリアを演じている女優が、写真を見る限り本人そっくり。

アメリアのその他についてはこの映画を観てから書くことにします。

ともあれ彼女はこの誘いにより

「初めて大西洋を横断した女性」

の称号を獲得したわけで、これ以降輝かしい飛行家人生を、
その謎に満ちた死を遂げる日まで歩み続けるのです。

しかし、ここでひとつ疑問が。

やはりルース・エルダーのときにお話ししたようにこの時の「横断」とは、
即ち男性パイロットの横に乗っているだけだったんですよ。

「それの何が快挙なのだろう」

と現代の私たちには奇異にすら思われるわけですが、当時の女性が
旧式秩序の因習に満ちた世界で女性らしさのステロタイプを要求されていたことを考えると
「女だてらに飛行機が操縦できる」
というだけで世間的には十分センセーショナルなことだったのです。
ですから、おかしな話ですが、

「飛行機の操縦ができる女性が

飛行機に乗って(操縦しなくても可)


大西洋を初めて横断する」


ということそのものが、競うに十分意味のある栄光だったということのようです。

さて。

19286月17日、ニューファンドランド島からウェールズを目指したフォッカーF.VIには

正操縦士、副操縦士兼エンジニア、そしてアメリア・イアハートが

チームとして乗り組んでいました。
そう、アメリアは副操縦士ですらなかったのです。

着陸後のインタビューで彼女はこのように語りました。

"Stultz did all the flying—had to.
I was just baggage, like a sack of potatoes.

”シュトルツ(正操縦士)が皆操縦したの・・・・しないといけなかったの。
わたしはただの荷物よ。ジャガイモの袋みたいなものよ”

ジャガイモの袋みたいな立場で「世界初」とか言われても、みたいな
彼女の小さな自嘲と反骨精神が垣間見える発言です。

この時に「仕掛け人」から声をかけられて「レディ・リンディ」の栄誉を目指した女性は
何人かおり、ことごとく失敗しているのですが、前述のように、自分が操縦しないまでも
命の危険のある飛行にか弱い女性の身空で挑む、ということに挑戦の意義があったわけです。

ですから彼女たちにとっては「芋の袋」となって飛ぶことそのものがゴールであり、
その結果得られる栄光が目標であったと思われます。

しかし、アメリアが「クィーン・オブ・ジ・エアー」アメリア・イアハートとなることができたのは、
こういう「女としての特別扱い」に甘んじず、むしろ反発し、
「次を目指す気持ち」を持っていたからこそでした。


彼女は自嘲的な「芋の袋」宣言の後、こう付け加えています。

"...maybe someday I'll try it alone."

「いつかわたしは自分一人で挑戦するわ」

その言葉通り、この飛行から5年後の1932年5月20日、アメリアは
チャールズ・リンドバーグのパリへの単独飛行と全く同じルート、
ニューファンドランド島のグレース湾からロッキード・ベガで出発します。

機械の故障でパリに到着することはできず、アイルランドの牧場に着陸したのですが、
ともかくこれは女性による初めての大西洋単独横断飛行となったのです。









NIKON1で撮ったシリコンバレーの鳥たち

2013-09-27 | すずめ食堂

シリコンバレーのマウンテンビュー、ここにはグーグル本社があるところですが、
「バーズ・サンクチュアリ」(鳥たちの聖域)のある、自然保護区域があります。

ここに散歩に行き、水路に向かってカメラを構えていると、
比較的遠くではあるのですが、ペリカン軍団が、離着陸をします。

あたらしくカメラをNIKON1にして、おりしも練習真っ最中のわたし、
ここであたかも航空祭で離着陸する飛行機を狙うように、鳥にシャッターを切る練習。


今日はこの時に撮った写真を淡々と貼っていきます。
会心の出来、というのはありませんが、去年のデジカメよりは少しましかな。



ペリカンは基本水上艇なので、あたかもUS-2のように、水上にしか降り立つことをしません。
しかし、翼が意外なくらい大きく、一瞬で軽々と飛び立ちます。
いつも、離水するときにはどうやっているのだろうと不思議なくらいです。





カモメと違って脚は収納しないようです。
というか、これはもうじき着水なので水かきを出しているんですね。

 

後ろで羽つくろいしているのもペリカンですが、
飛ぶとき以外は内側にある黒い羽毛は見えません。
着物の裏地みたいなもので、普段は隠していると。
なかなか粋なセンスですね。




この画面だけ5種類の鳥が写っているのが確認されます。
観ていると、微妙に縄張りはあるものの、多種間でケンカになるようなことは全くないようです。
基本水鳥は穏やかなんでしょうかね。

 

離水した瞬間。
羽をはばたかせると、このようにコの字に羽が曲がるんですね。



なぜか、道路工事の時に使うコーンが落ちています。
ここでは彼らは基本羽づくろいしかしていません。
魚はここにはあまりいないらしく、おなかがすいたら水路を飛び立って、
もっと水のたくさんある場所で魚を取って食べ、終わったらまた帰ってきます。

面白いのは、必ず離着水の方向が同じであること。
左手から侵入し、右手から離水する、というのは暗黙の了解で決まっているようです。



一羽がかえってきて着水しようとしています。
一番先に水かきで降り立つんですね。



水面に対してできるだけストッパーがかかる角度に水かきを調整しています。

 

着水。
このペリカンは比較的静かに着水していますが、

 

派手に斜めから着水するペリカンもいます。
ペリカンとはいえ性格出るのかもしれませんね。 

 

一羽が飛び立つと、つられるのか、何羽かがお付き合いで一緒に飛んでいきます。
結構団体行動をする鳥みたいですね。
みんなで餌場に行って、一緒に仲良く帰って来ているようでした。



滑走路?の左端からは時々左に向かって飛んでいく「へそ曲がり」もいます。







バードウォッチングをしている人がいました。



去年ここで買った「ローカルバード早見表」をどこかにやってしまって、
これらの種類を特定することができません。
顔つきから、鵜の種類ではないかと思われます(適当)。
しかし、喫水値の高い鳥だなあ。



 

一羽だけで所在無げに歩いていた鴨。
仲間とはぐれてしまったのでしょうか。
カメラを向けると大慌てで向きを変え、水に入ってしまいました。

 

去年もここにいたダイサギ発見。
はっきりと婚姻色を持っています。



水の中を歩きやすい仕様の脚ですね。

 

こうやって一日魚を探して歩いています。



ちょっとこちらを見ていますが、まったくあわてる様子はありません。
人間にはあまり警戒をしていない感じでした。



たくさんのシギ。
この日こんなにたくさんいたのに、次に行ったら一羽もいませんでした。
何を基準にここに来るのでしょうか。



こういう、便利なのかそうでないのかわからない形状のくちばしをしています。
魚は捕まえにくそうですが・・・・。





これは、レンズの遠近を切り替える実験(笑)をしていました。
すると、足元で動くものがあります。



二羽の小鳥さんたちがいちゃいちゃ?していました。
結構長い間こんなことをしていたので写真を撮っていたら・・・

 

ふと視線に気づき、



な、何見てんだよ!向こう行けよっ!///

(ほんとーにそう言っているようだった)

と睨まれてしまいました。
お邪魔しました。

 

 

 


キャッスル航空博物館~キャッスル准将のB17と「頭上の敵機」

2013-09-26 | 航空機

アメリカ、カリフォルニア州にあるキャッスル航空博物館は、
このあたりの航空博物館の中でももっとも軍用機の展示が充実しています。 

ここでは軍用機―英語ではwarbirdというのですが―第二次世界大戦以降の戦争鳥が、
なんと現在56機、いずれもレストアされて実に整然と展示されています。

ここを訪ねると、15ドルの入場料で一枚の紙のパンフレットがもらえますが、
さらに詳しい資料がほしければ、1ドル50セントで20ページの全航空機の写真(白黒ですが)に、
ちゃんとした説明が付けられた小冊子を購入することができます。

このパンフレットにはまず、

Brigater General Frederik W. Castle  1908~1944

つまりこのキャッスル基地の名前となったフレデリック・キャッスル准将の説明があります。 



フレデリック准将の海軍兵学校(ウェストポイント)時代ご尊顔。
うむ。激しく男前である。実によろしい。

もともとここ、アトウォーターにあったキャッスル空軍基地は、
このキャッスル准将を顕彰する意味で名づけられました。


フレデリック・ウォーカー・キャッスル准将は、1908年、フィリピンのマニラで生まれました。
ウェストポイント士官学校を卒業後、エアコーアに着任。

その後航空士官としてのトレーニングを済ませてから、
一端は軍籍を残したままニューヨークのナショナルガードに出向していましたが、
空軍に再び戻ってきたときに、あのアイラ・エーカー准将



この「空爆の神様」(今勝手に命名)がイギリスで組織し指揮する第8空軍のメンバー、
8人の士官のうちの一人に指名されます。
やたら8ににこだわっていますが、やはり八は末広がりで縁起がいいからですね、きっと。

この8人は「 エーカーのアマチュア」と呼ばれていたそうです。
なぜそう呼ぶのか意味は分かりませんでした。
おそらく、エーカーがプロフェッショナルなので、部下はアマチュアでいいという意味でしょう。(適当)

エーカーは、昼間「精密爆撃」をあくまでも主張する、どこぞのルメイに爪の垢でも
煎じて飲ませてやりたいような軍人だったようです。

まあ、エーカーならずとも当時のヨーロッパ戦線では「白昼精密爆撃」が基本だったそうで、
このことも別に書きますが、大戦末期になってくるとアメリカはそういった
「正義」をかなぐり捨てることになり、たとえば日本に対してあくまでも「精密攻撃」を主張した日には、
左遷させられてしまったりしたわけですけどね。(嫌味)




その後数多くのミッションに参加し、准将に昇進したキャッスルは、1944年12月、
―それはちょうど彼の30回目のミッションに当たる日だったのですが― 
ベルギーのリーニュ上空で乗っていたB-17が撃墜され、戦死しました。

彼の乗っていたB-17は目的地に向かう途中4つのうちのひとつのエンジンの出力を失い
編隊からはずれたところをドイツ軍のME‐147に攻撃されたのです。
運悪く、悪天候のため爆撃隊の掩護に当たるはずのP-51はまだ到着していませんでした。

機は失速していきましたが、そのとき友軍の上空を飛んでいたため、
彼は機体を軽くするために爆弾を投棄することを拒否しました。
全てのクルーはせめて准将が機が爆発する前に脱出してくれることを祈るしかありませんでした。

キャッスルが機を必死で立て直している間、B-17のクルーは9人のうち7人が
パラシュートで脱出を試みました、

パイロットは脱出したもののノーズにパラシュートが引っ掛かってしまいます。
最後までキャッスルは操縦席で機をコントロールし続けましたが、その時B-17は
右翼の燃料タンクが爆発をおこしてそのまま墜落しました。

結局9人の乗員のうち、生還できたのは5名でした。




ここキャッスル航空博物館に展示されているB-17フライングフォートレス

実際に見ると、あまりの大きさに言葉を失ってしまうくらいで、まず感想は

「よくこんなものが空を飛べるなあ」

でした(笑)
でも、よく考えたらこの飛行機が飛び回っている映画があったんですね。
しかも、白黒映画で当時まだ健在だったB-17が多数出演しており、
第二次世界大戦のルフトバッフェとの空戦と空爆の模様がばっちり観られる映画が。(←前振り)


しかしこのB-17は、ボーイングの爆撃機の中で最も有名なものでしょう。
B-17は、キャッスルの所属したエーカー准将の第8空軍が使用していたことからもわかるように
おもにイギリスに配備されて使用されました。

第15空軍には6機のフライングフォートレスが配備され、こちらはイタリアでの運用が主です。



このドームには上部旋回銃手兼航空機関士が配備されます。

冒頭写真の尾翼に描かれたAは、ABCという風に編隊のにつけられた認識文字です。

機体には、第8空軍の第3航空支隊、第94爆撃グループの印があります。
ペイントされているのは「ヴァージンのお楽しみ」みたいな?
意味わかりませんけど。



ところで、もう一度キャッスル准将が「エーカーのアマチュア」として
第8空軍に赴任したところに話を戻します。

選ばれたほかのメンバーと同じく、キャッスルは戦闘指揮を望んでいましたし、
彼自身のためにも、エーカー准将のためにも昇進を希望していました。

1943年6月、キャッスルは94爆敵隊の指揮を任せられるのですが、
ここではある種の「モラル崩壊」がおきていたそうです。
それも不運とと度重なる出撃がもたらす戦死の多さからデスペレートに陥り、
やる気と戦意が著しく低下していることからくるものだったのですが、
キャッスルは隊長としてこの事態を何とかしようとします。

本質的にキャッスルという人間は孤高のタイプで、他の士官に仕事をまかせてしまうような
そういう指揮官としては「弱点」と呼ぶべき部分がないでもなかったようで、
こういう部隊を任されて部下の士気を高めることの難しさを実感したとと思われますが、
自分が嫌われても部下を強いリーダーシップで引っ張っていこうとする姿は
次第にいい結果につながっていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


はて、どこかでこの話を聞いたことがあるぞ、と思われた方。
いるでしょ?そこのあなたとか、あなたとか。

そう、グレゴリー・ペックの主演した「頭上の敵機」Tweleve O'clock highですね。
いかにも戦後の「アメリカバンザイ」みたいな国威発揚映画なら観る気がしない、といったわたしに

「そうではなく、これは学級ならぬ部隊崩壊を起こしている軍隊に来た、
 熱血教師ならぬ熱血隊長の涙と感動の(ただし暗い)映画である」

と観ることをお勧めくださった婆沙羅大将としんさん、ありがとうございました。
これを見ていたおかげで、キャッスル准将の話とこの映画が見事につながりました。



もともと「Tweleve O'clock high」は実在の第306爆撃隊を指揮した、
フランク・A・アームストロング少佐が経験したことが ベースになっています。
キャッスル准将の体験した第94爆撃隊のモラル崩壊はこれほどひどくはなかったそうですが。

アームストロングの話はこれより少し早い時期の話ですが、つまりは
それもこれもヨーロッパ戦線での戦況と、いわば「アメリカの良心」、つまり、
前述の「メンフィス・ベル」でも「頭上の敵機」でも描かれた、「白昼ピンポイント攻撃」、
不必要な市民殺害を避けようとするこの方法が逆手に取られて、
ドイツ軍には非常に「撃退しやすい」攻撃法だったことが関係していると思われます。

このことについて、少しお話ししたくなったので、別エントリで「頭上の敵機」を取り上げます。


そんなある日、キャッスルはドイツのオシャースレーベンにあるフォッケウルフ製造工場を
重爆撃するという任務を指揮します。
気象条件が悪く、爆撃隊の編隊を組むことすらできない状態で、ごく少数の落伍機を残し、
キャッスルの爆撃隊は、目標の工場だけをピンポイント爆撃することに成功し、
この戦果を以てキャッスルにはシルバースター勲章を授与されています。

そして、この作戦が、サイ・バートレットの手による「Tweleve O'clock high」
の中で、グレゴリー・ペック率いる918爆撃隊が行った重爆撃として描かれているというわけです。

 

30回目のミッションで戦死したキャッスル准将は名誉勲章を与えられ、その名は
アトウォーターの空軍基地に彼の栄誉をたたえて残されました。
准将は、撃墜されたベルギーのリエージュにあるアメリカ人墓地に今も眠っています。







 


目黒・防衛省~西郷従道の「いいかげん」

2013-09-25 | 海軍人物伝

およそ帝国海軍に興味を持つ者ならこの西郷従道の名を一度は見たことがあるでしょう。

西郷従道(さいごう・じゅうどう)。
天保14年、1843年、薩摩の国鹿児島の生まれ。
陸軍、海軍軍人、政治家、元老。
西郷隆盛を「大西郷」と呼び、こちらは「小西郷」と呼ぶ。

陸軍軍人だったり海軍大将だったり、こんなことがありうるのか?

とついこの経歴を見て思ってしまうわけですが、それもこれも西郷は
維新期に尊王攘夷に身を投じ、勤皇倒幕の志士から維新幕府の立役者、
という超大物で、軍制を渡欧して視察し、日本にその基礎を敷いた人物。
陸軍も海軍もその手で作ったようなものですから、当たり前と言えば当たり前なのです。


というわけでこの、幹部学校所蔵の西郷従道の揮毫です。

何が書いてあるのか全くと言ってほどわからんのですが(笑)
こんなこともあろうかと幹部学校によってつけられた説明を見てみると

「幾歴辛酸志始堅 丈夫玉碎愧甎全
      一家遺事人知否 不為兒孫買美田」 侯爵 西郷従湘 書

とあります。

ろくに筆も持てない者が言うことではないですが、この書・・・。
少々崩しすぎではないでしょうか。
闊達で自由自在な筆運びにはリズムがあり、実に芸術的であるということは
素人目にもはっきり理解できるのではありますが。

この書が、西郷従道という人物の、どこか人を食ったような、小事にこだわらない
「超大物ぶり」の片鱗を伝えているという気がするのは、この人物の
いろいろと「突き抜けた」逸話のせいでしょうか。


それはともかく、この書の意味です。

「甎全(せんぜん)」という意味が分かれば、だいたい理解できる内容ですね。
というわけで、幹部学校のHPによると、

甎全:何等世のため尽くすことなく生き長らえること。
瓦のようにつまらぬものとなって生命を全うする意。(瓦全)

つまり、実際の西郷従道の一生とは真逆です。


幾歴辛酸志始堅・・・・・幾度か辛酸を経て、志始めて堅し。

丈夫玉碎愧甎全 ・・・・丈夫玉砕して甎全(せんぜん)を恥ず。

一家遺事人知否・・・・・一家の遺事人知るや否や。

不為兒孫買美田・・・・・児孫(じそん)のために美田を買わず


最後の一文が有名なこの文は、従道のお兄さんである南洲公、西郷隆盛の
西郷南洲遺訓 五条 です。

人は幾度か人生の辛酸を嘗めて初めて、その志を堅くすることができる。
男子たる者は玉と砕けるを旨とすべきで、その辺の瓦のような生き方は恥とすべきである。
家への遺訓を人は知るかどうかはわからないが、
子孫のために巨額の遺産を残すようなことはすべきではない。

もう少し上手い訳もあると思いますが、とりあえずこんな感じでしょうか。

富というものは世界的な常識として子々孫々に受け継がれるべきものです。
しかし、武士道の言うところの「御家繁栄」は、決して資力資産のことではない、
ということがこの「児孫のために美田を買わず」という一言に集約されています。


こういう一文に触れると、改めて日本の武士道とは即ち求道の精神であり、
そんな精神を受け継ぐ日本人であることが誇らしく思えます。


ところで、話は変わりますが、横浜市中区に森林公園という広大な公園があります。
ここは昔根岸競馬場があったところで、今でも往時のスタンドの一部がツタに覆われて建っています。
そしてかつてレーストラックだった公園のその一角には、「馬の博物館」があります。

馬に関する歴史的な資料を公設、臨時と合わせて見ることができる博物館で、
少し前はここで余生を送っている馬に乗らせてもらったりするサービスもありました。

この史料館に飾られている一枚の「ポンチ画」をご覧ください。



馬に乗っているのが、本日主人公の西郷従道。

横浜には居留地があり、在留外国人のために文久年間から競馬が行われていたのですが、
1866年、ここ根岸に本格的な競馬場が作られました。
完成と同時に各国の公使館員や民間人が「レースクラブ」を結成し、
競馬が恒常的に行われるようになったのです。

外国人ばかりであったクラブに西郷は1875年(明治8年)、日本人として初めて
会員となり、また馬を4頭所有する「馬主」になります。
当時は馬主が騎手を兼ねることもしばしばだったのですが、なんと西郷従道、
何の酔狂か、ある日愛馬にのって800mのレースに出場し、見事優勝をさらってしまいました。

このころ西郷は陸軍中将になったばかり、とはいえ若干32歳の血気盛んな若者です。
ポンチ画にされるほど驚くことでもないような気もしますが、
やはり日本人がジョッキーを初めて務めた、というところにニュース性があったのでしょうか。

それにしても、この西郷の顔、なんでこんな風に描かれているのだと思います?
新聞のタイトルは

「Mikan wins!」

つまり、西郷のこの時に騎乗した愛馬の名前が「ミカン」であったということから、
外国人絵師が面白がってこのようなポンチを制作したのです。

この、眉毛の太い、くっきりした顔立ちの特徴をよく捉えていますね。


ところで、西郷従道、本名は隆興(りゅうこう)です。
昔の人は名前を変えるのが通例だったとはいえ、どうして成人名を変えることになったのか。

西郷は維新後、明治維新政府の太政官(国会議員のようなもの)に名前を登録することになり、
登記係に「りゅうこう」と口頭で告げました。
しかし、お国訛りの薩摩弁のアクセントのせいか「じゅうどう」と係員は聴きとったのです。

ここからが問題です。

登記係はそのとき「じゅうどう」に「従道」という漢字を当てはめ、西郷も
「なら従道でいいや」
と言って、それ以降自分の名を「従道」にしてしまったというのです。

どういう漢字を書くのか聞きもしないで勝手に人の名前を書いてしまう係も係ですが、
また書かれた間違いをそのまま自分の名前に採用してしまう西郷も西郷です。

思わず眉に唾をつけてしまいそうなこの話の真偽は、もはや正すべくもありませんが。


この頃は、大層な紙に大層な筆でこう言った名簿を作成していたので、

「え?間違い?困るなあ~。他の人の名前も書いてある名簿なのに、朱墨いれるわけにいかんでしょ~」

みたいなプレッシャーを与えられ、

「あ、それならもうそれでいいです。ってか、結構気に入ったからこの名前で行きます」

と弱々しく応えてしまったとか・・・・・この人に限ってそれはないかな。
むしろ、この話からは小事に拘らない(拘らなすぎる?)西郷のおおらかさというか、
いい加減さが垣間見えます。


西郷は、最初にも言ったように少し人を食ったようなところがあったようです。

ある会議で閣僚の一人がわかりきったことをくだくだとしゃべるので場は行き詰まり、
皆がうんざりしていたとき、その隣にいた西郷は、件の閣僚が腰かけようとしたときに
椅子を引き、尻餅をつかせてしまいました。
一同笑いに包まれ、尻餅をつかされた閣僚も苦笑いして空気はすっかり変わったということでした。

こんな小学生のようなことを、いいおっさん、しかも国家指導者がするというのも驚きですが、
逆に言うとこのようなことをされても怒る気になれない、西郷にはそんな憎めなさがあったのでしょう。

大西郷である兄の西郷隆盛が人格の器の大きい人物であったことは知られるところですが、
小西郷の従道も、上に立つ人間としては非常に鷹揚で「人に任せる」ということを知っており、
たとえば山本権兵衛を信頼したらとことんすべてを任せ口は出さず、
それがあって山本は日清日露戦争でその腕を振るい海軍の基礎を強固にすることができた、
と言われています。

山本権兵衛の甥にあたる山本英輔(海軍大将)は、

「あんな悍馬(かんば、暴れ馬、山本権兵衛のこと)を乗りこなす大臣はめったにいないからね」と、

西郷の「手綱さばき」を称賛していたということです。

「人を使う」ことにも、西郷はいい意味の「いいかげん」を発揮したのでしょう。
これはと思った人物に全てを任せ、任せたらあとは自分の眼力を信じて好きにさせる。
山本権兵衛という暴れ馬を(ミカンのように)乗りこなし、西郷は日露戦争というレースに勝つことができたのです。


その日露戦争を勝利に導いた旗艦「三笠」ですが、まさに日清戦争後、ロシアの脅威に備える形で
「六六艦隊計画」の一環としてイギリスに発注されたものでした。

請け負ったのはヴィッカーズ社です。
ところが発注の段階で海軍の予算が尽き、ヴィッカーズからは手付金を払わないと発注を取り消す、
と催促してきたという経緯がありました。

そのとき困った山本権兵衛が西郷に相談したところ、西郷と樺山資紀は一緒になって、

「別の予算を流用して三笠を造れ。咎められたら三人で腹を切ればいい」

と、いいかげんなことを言いだしたということです。
いつの間に俺まで腹を切る仲間にしてんだよ、と山本は内心思ったに違いありません。

それはともかく、このいい加減な対処を本当にやってしまった結果、三笠は
日露戦争に間に合い、旗艦として日本海大戦を勝利に導いたのは皆さまもよく知るところです。


西郷のように「自分を捨石とする覚悟を持つ者」は、ある意味「怖いものなし」です。
幕末から維新の時期に、為政の中枢にいて、偉大な兄の遺志を継ぎ日本を作ってきた男。
己を捨て、富を求めず、なにかを為す人生を常に全力で追い求めた男。

そのような人間の「いいかげん」はしばしば「良い加減」となって
本人も思わぬ結果を生むものかもしれません。













空母ホーネット~F-8「ラスト・チャンス、ラスト・ザ・ガンファイター」

2013-09-24 | 航空機

生まれて初めて空母の甲板に立ったエリス中尉、何よりもまずその広さに驚きました。
空母らしきものとしては護衛艦「ひゅうが」に昨年乗ったわけですが、
それは観艦式で甲板には大勢の人が林立していたため広さがわからなかったんですね。

ホーネットはなんといっても現在ただの浮かぶ博物館。
平日ともなると人が少ないので、甲板上の視野に人っ子一人入らない、
という状態で、その広さを心行くまで実感した次第です。



どうよこの広さ。
甲板の一番端に立って撮ったものですが、あの大きな艦橋が・・・・小さいです・・・・。 
まるでアンテナのように見えますね。
しかし、これくらいでないと艦載機が甲板に着陸することはできないのだろうと思われます。

甲板には全部で4機の艦載機が展示されているのですが、どこにあるのかわからないくらいですね。



Vought F-8 Crusader

クルセイダーは艦上機としては世界初の超音速戦闘機で、
海兵隊と米海軍のためにヴォート社が製作しました。

「最後のガンファイター」"Last the Gunfighters"

まずこのような呼び名が与えられました。
しかし「最後の」というのは、逆翻訳すれば「The last Gunfighter」という意味ですね。
しかしよく見てください。
"Last the GunfighterS"
とは、
「多くのガンファイター(複数形)の最後」
となり、つまり

「ガンファイターの最終形」

という訳が最もふさわしいと思われます。


20ミリ機関銃を4丁搭載し、機動性に優れたクルセイダーは、ヴェトナム戦争に投入され、
ここでまたもや

「ミグ・マスター」(Mig Master)

というあだ名が与えられます。
日本のウィキだとどういうわけかこれが「ミグ・バスター」となっているのが可笑しいですね。
語呂だけ合っているって言う。

「マスター」ではたいていの日本人はぴんと来ないのですが、この「マスター」、
英語だと「He is master」(彼が勝者だ)というように、「相手に勝てる者」 の意味があります。
その名が表す通り、ヴェトナムでは機動性を生かしてミグ17を多く撃墜しています。

ratioというのは比率という意味で、さらにKill Ratioというと、軍事用語で
空戦の際の「勝率」、つまり「撃墜対比撃墜比率」となりますが、
このクルセイダーのキル・レシオはヴェトナム戦争において最も高く19:3。
19機のうち3機がミグ21、16機がミグ17ということです。

いや、よく言われることですが、アメリカンってこのあたり全くスポーツ感覚ですね。
撃墜した飛行機の数を挙げただけで、不謹慎だの人が死んでるだの、
はては戦争に行った方はそんなもの見るのもいやだからやめろの命懸けの戦いを語って欲しくないだの、
事象を事象として見られずヒステリックに大騒ぎする日本の「自称良識派」にもいい加減うんざりですが、
撃墜を「キル」として比率順位をやっちゃうアメリカというのもなかなか突き抜けてます。

(この一文、どうも説明っぽいな)

しかし、この際だから、ちょこっとこういうことについて話しておきますか。

たとえ「人を殺した」というとんでもない業績であっても、
彼らアメリカ軍のパイロットは、かつての旧日本軍のパイロットがそうであったように
敵機撃墜したことを称揚され、彼もまた軍人としてそれを生涯の誇りにするんですよ。

なぜなら彼らは軍人で、戦闘機パイロットなんですから。

広島に原子爆弾を落とした「エノラ・ゲイ」の機長が

「(あの結果を知っても)もしもう一度同じ命令を受けたら
わたしはもう一度原子爆弾を落とすだろう。
なぜならわたしは軍人だからだ」

と言ったのと同じことですね。

もちろんのこと原爆を落とされた日本人からすれば、とんでもなく許しがたい発言ですが、
東京空襲を敢行したドゥーリトルがいまだにアメリカ人にとっての英雄であるように、
あるい彼らが、日本の「撃墜王」、坂井三郎を「エース・サカイ」と呼んだように、
「なぜなら軍人だからだ」
というのがつまりこの問題における最終結論だと思います。

いったん戦争が始まってしまったら、ミグを一機でも多く「殺す」のも、
原子爆弾を投下するのも、すべて命令通りにするのが軍人というものです。

軍人として義務を果たすのは当然であり、その成果は称揚されるべきである。
さらに翻って、それでもし命を落としたものがいれば顕彰されるのは当然ではないですか。

戦争が間違っていたから、それを戦う軍人までもが間違っていた、などという理由で
戦死者の慰霊(たとえば靖国参拝)を反対する人種と、この
「戦果を称揚するなど不謹慎」とかいう人種って、ベクトルは同じですよね。
戦ったものたちの「遺志」や「業績」を認めようとしないという意味で。


こういうことを言うと「右寄り」なんていう人がいそうですけれども、

お断りしておきますがわたしは戦争は絶対に反対ですよ。絶対にね。
いかなる場合も、国際紛争の解決手段としての戦争は断じて選択するべきではありません。



さて、このF-8E、まだ「キャッチフレーズ」があります。
ヴォートという会社の営業戦略的観点からはこのように呼ばれていました。

"Vought's Last Chance"(ヴォート最後の頼みの綱)


ラストはラストでも、こちらは当初こんな背水の陣という意味のラストだったのです。
切羽詰まった感じを出すために「ラスト・チャンス」を「頼みの綱」としてみましたが、
このネーミングには、ヴォート社が先代のF7U「カットラス」(CUTLASS、長剣の意)
で、テスト飛行で4人、配備されてから21人もの殉職者をだし、安全性の点で
大失敗であったことが反映されているのです。

しかもF7Uはエンジンが弱く

「ヴォート社製のトースターの方がよっぽど熱が出せる」とか、

「カマキリ」(蟷螂の斧って感じですか)とか、

「CUTLASS(長剣)じゃなくてGUTSLESS (根性なし)」だとか、

特に最後の「誰がうまいこと言えと」感は半端ないのですが、
世界共通で口の悪いパイロットにはさんざんな評判だったので、ヴォート社としては文字通り
今回の新型機は「社運を賭けた戦闘機」だったというわけです。

社運を賭けた甲斐がありました。
この「クルセイダー」は、ヴォート社自身にとっても「救世軍」(誰がうま略)となったのですから。



実はハンガーデッキにも、「クレメンタイン」というネームのF8のノーズだけがありました。

これは、先日もお話しした「サンダウナーズ」ペイントを施されたレストアです。
フロリダのジャクソンビルで墜落したまま長年放置されていた機体を回収し、 
このホーネット上でボランティアの手によってこのように生まれ変わりました。

この機はサンダウナーとしてヴェトナム戦争に参加したものです。
ここにあった説明版にも誇らしげに

「ヴェトナム戦争では6機のミグ撃墜がクレジットされている」

「サンダウナーズのトニー・ナージ大尉は最後にミグを公式に撃墜した」

と書いてあります。
そして、



この星は、つまり撃墜したミグの数ですよね。
レストアしたボランティアが、ヴェトナム戦争でクルセイダーが公式に撃墜した18の星を
(実数は19機なので、もしかしたら最後の一機はなにか数のうちに入らない理由があるのかも)
わざわざ修復にあたって描きいれたというわけです。



F-8乗りのパイロット記章。

「F-8を降りた時が戦闘機を降りる時だ」
=「俺はF-8にしか乗らない」

かれらの気概と誇りが感じられます。




 


女流パイロット列伝~ルース・エルダー「アメリカン・ガール」

2013-09-23 | 飛行家列伝

男の世界、と言われてきた航空パイロットの世界ですが、
黎明期からこれに挑戦する女性はたくさんいました。

現在は日本でも民間機の機長に10数名の女性パイロットがいますし、
回転翼や小型機、輸送機のパイロットは自衛隊に多数います。
よく考えるまでもなく、女性が飛行機の操縦において男性に「女性だから」と
不利になる原因というのはありません。

「資質」を言うなら、それは個人差であり、決して性差ではないのですから。

ただ、なりたいと思うものの母数が少ないと、希少さゆえ珍しがられて
一般のパイロットより過大に評価されがちという点はあったかもしれません。


そういえば、わたしがグランドキャニオン観光をした時の行きのセスナ、
この機長が(コパイではなく)女性でした。
まるで、のちにお話しするアメリア・イヤハートのような金髪で背の高い、
ほとんど青年のように見えるボーイッシュな「ハンサム・ウーマン」で、
あまりのかっこよさにほれぼれしたついでに、降りた後は一緒に写真を撮ってもらったほど。

発進の様子を見ていると、天井から下がったギアを二人で同時に手を重ねて前に押すときに
かなりの力がいるらしく、どちらの腕にもものすごい筋肉が浮いているのを見て、

「やはり操縦士というのは力仕事の部分もあるのだな」

と思った覚えがあります。



今一度アメリカで操縦士と思しき女性を目撃したのは、なんとサンフランシスコ動物園。
ここに、当時幼稚園児の息子を連れてきたときにトレインの順番を並ぶ列の前にいた二人組。

この片方がパイロットで、もう一人は彼女の”ガールフレンド” でした。

なぜこの、やはり背の高い筋骨隆々の女性がパイロットだとわかったかというと、
彼女の着ていたTシャツに、彼女の所属であるらしいヘリ部隊の記章とナンバーが書かれていたからで。

当時サンフランシスコに来て間もなかったので、白昼堂々このようなレスビアンのカップルを
しかも間近で見ることは初めてのことで、物珍しさについ観察してしまったものです。

そして面白いと思ったのは、このカップル、男役と女役が実にはっきりとしていて、
女性役のほうは髪を長く伸ばし、女らしい恰好をして、男性役の腕にぶら下がるようにしていたこと。

同性愛のカップルは、特に男性同士のそれはその後いやっっっというほど見ることになるのですが、
総じて言えるのは、こういう同性同士のカップルというものは、
必ずどちらかが「異性役」を務めて成り立っていることです。

完璧に対等な同性同士の「付き合い方」というのはもしかしたら存在しないんじゃないか。
「ゲイの聖地」であるところのサンフランシスコ生活でわたしが発見した一つの真理です。


話が脱線しましたが、ともかく、この女性同士のカップルにおいて男役の女性がパイロット、
しかも軍人である、ということは、女性役(って女性ですが)にとって「惚れるポイント」
であったのではないか、という気がしました。

とにかく、パイロットが女性にとって「男性に比して」「ハンディを克服する仕事」であるのは間違いありません。


と こ ろ で 。


冒頭の超美人、どうですか?
まるで映画女優みたいじゃありませんか。

もっとも女優みたいもなにも、この女性は事実女優でもあったんですね。
おそらく美人がパイロットとして有名になったから、映画会社がオファーをしたのだと思われます。



見よこの蓮舫を凌ぐ高さを持つ襟の屹立する様を。

いかにも仕立てのよさそうなエビエーションジャケットに、襟の大きなシャツ、
ネクタイがきりりと彼女のフェミニンな美貌に凛々しさのアクセントを与えています。

コクピットから嫣然と微笑む彼女は、1902年生まれ。
このファッションを見てもわかるように、非常に裕福そうに見えます。
しかし、彼女は元はと言えばただきれいな顔をした、23歳の歯科助手にすぎませんでした。


1927年、25歳の時に彼女は大きな賭けに出ました。

女性として初めてスティンソン SM デトロイター機で大西洋横断飛行に挑戦したのです。
やり手であったらしい彼女は野望を達成するために「投資家チーム」を構築し、
そのなかに航空機制作会社の「スティンソン」が関連した人物もいたようです。

これは男性パイロットの操縦で、とありますから、単に横に乗っていただけということです。
操縦できるとはいえ、ただ横に乗っていただけなのに、なぜそれが快挙になるかわかりませんが、
なにしろそれまで誰もしたことがなかったのだから「初」は「初」です。

この挑戦には実は訳があって、その5か月前の1927年5月、チャールズ・リンドバーグが
こちらは正真正銘初の飛行機による無着陸大西洋横断に成功したため、

「太平洋無着陸横断した史上初の女性」
「レディ・リンディー」 


を目指して、何人かの女性パイロットがこれを目指したわけですが、ルースはこの
先陣を切ったというわけです。
彼女の回想によると

リンドバーグがパリに着いたとき、素晴らしい、と思ったの。
それでわたしがそれに続く最初の女性であろうと決心した。
でも一人でそれを行うことができなかったので、副操縦士ではなく、
乗客として行くことに決めたの」

” If I win, them I'm on top.
If I lose – well (with a shrug of her shoulders),
I have lived and that's that.”

 「もしわたしが勝てば、わたしはトップよ。
もしわたしが負けても・・・・そうね(肩をすくめて)わたしは生きてる、それはそういうこと」 


しかし、これを見ると思いますが、少なくともアメリカにおいて女性は、
こと航空の世界においては男性とほぼ同時にスタートを切っているのです。
「名誉を目指す」
ということに女性が意義を見出しそのように何人かが行動したのも、
これがアメリカだったからでしょう。

しかしながら、この挑戦は失敗に終わりました。

ニューヨークの空港からパリを目指して飛び立った(この目的地もリンドバーグと同じです)
ルースとパイロットのジョージ・ハルドマンの乗った愛機「アメリカン・ガール」ですが、
あと300マイルというところでオイル漏れと悪天候のため、不時着を余儀なくされます。


このハルドマンというのはルースの操縦の教官で、彼女はこのときに

まだ免許を取ってもいなかった

まだ免許を取ってもいなかった

まだ免許を取ってもいなかった

ことから、「女性初」の快挙をこの美人に遂げさせ、
あわよくばわが社の新型航空機の宣伝を、という、デトロイター社の「企画」
であったとの説が有力です。


まあ、いつの時代にもありがちですが、女性、特に「美人すぎる」女性を
宣伝に利用するのは、衆目を集めるという意味で非常に有効な手段なのです。

ルースを先陣として、その後何回かのチャレンジが行われましたが、あの
アメリア・イヤハートがフォッカー F.VII、「フレンドシップ」に搭乗して成功したのは、
なんと1928年6月。

リンドバーグの成功からわずか1年後のことです。

開拓者の血でしょうか。
アメリカの女性というのは実にチャレンジ精神に溢れていると思うのはこういう点ですね。
 
彼女の挑戦はかくして失敗に終わりましたが、彼女はアメリカ国民を魅了しました。
ライバルのイヤハートが内気で取材を受けるのを恥ずかしがるような人物だったのに対し、
彼女は自信に満ち溢れ、自分の魅力を知りつくし、自己プロデュースに長けてもいたのです。

帰還後すぐに彼女には映画へのオファーがあり、

「海兵隊のモラン」(Moran of the marines)
「翼の騎士」( The Winged Horseman)

などの無声映画に立て続けに出演します。
いずれも彼女の飛行シーンをふんだんに含むと思われる題ですが、
どんな映画か知ることはできませんでした。

しかしながら彼女にとって残念なことに、ちょうどこのころから世に出始めたトーキー、
即ちセリフ入りの映画に、彼女は全くと言っていいほど向いていませんでした。
理由は、アラバマ出身の彼女の強い南部訛りです


彼女は映画女優の道をわずか一年であきらめ、また飛行へと戻っていきます。
 
アメリア・イヤハートなど、20名の当時の全米の女流飛行家ばかりで行われた
エアー・ダービー、サンタモニカからクリーブランドへの飛行競争に参加し、
14人の完走者の一人になりました。

このレース中、一度彼女は牧草地に着陸を余儀なくされたのですが、
地面に降りていく間、彼女は

「ああ神様、どうかあれがブル(牡牛)ではなくただの牛ですように!」

と祈っていた、と自伝で述べています。
この時のダービーは「パウダー・パフ・ダービー」(お白粉パフ・ダービー)という
全く女性をおちょくったタイトルのものですが、これに出場した20名の女性パイロットの
顔写真を掲載しているページを見つけました。
綺麗な女性も何人かいますが、やはり洗練さの点でルースはダントツです。


当時、メディアのもてはやしはあったとはいえ、一般には女性というものは
家でオーブンの番をしているものだ、という考えは根強くありました。

彼女が最初の挑戦をした時に、彼女の声明をアイルランドのある新聞はこう酷評しました。

「空を飛ぶのは女性の仕事ではない。
飛行のための準備に関する彼女の声明は、若い女のおしゃべりとでもいうべきもので、
彼女の愚かな虚栄心を満足させるために危険を負いかねない完璧に馬鹿げた仕業である」

まあ・・・・確かに、彼女の人生、一介の歯科助手が企業をパトロンにしたり、
何が理由かはわかりませんが、6回も結婚していたり、演技もできないのに映画に出たり、
「虚栄心」「功名心」といった野心をたっぷりと持っていた女性であることは確かですが、
しかしそれではどんな理由なら「空を飛ぶ」ことに挑戦するのにふさわしいといえるのでしょうか。

リンドバーグが大西洋を横断した、その挑戦にはもれなく栄光が付いてきたわけですが、
リンディは「ただ飛びたい」と思っただけで、その栄光を全く求めなかったでしょうか。

綺麗な女性だからといって持てはやされもすれば、このようにその動機を必要以上に
矮小化される、これも「美人税」というものかもしれません。
彼女だって、リンディのように「飛びたい」と思ったから飛んだ、それじゃダメだったのかしら。


彼女はその後、パイロットとして腕を磨き、デモンストレーションなどで大活躍。
1929年には全米の女性パイロットのトップ5の中に入っており、少なくとも
女優業よりはずっとパイロットが彼女の適性に合っていたらしいことがこれからもわかります。
また女性パイロットの国際クラブ、Ninety-nine Clubの創設に携わるなど
女性パイロットの発展に寄与し、
1977年、6番目の夫の腕に抱かれ、サンフランシスコの自宅で72歳の生涯を閉じました。



 


 


「われは海の子」~我は護らん海の国

2013-09-22 | 海軍

先日、海上自衛隊東京音楽隊の定例演奏会に行き、
会場で無料のCDをいただいてきました。

収録されている曲は次のようなものです。

1、君が代

2、イージス~海上自衛隊ラッパ譜によるコラージュ

3、われは海の子

4、ブルー・サンセット

5、アンヴィル・コーラス(ヴェルディ)

6、幻想交響曲「断頭台への行進」

7、幻想交響曲「ワルプルギスの夜」

8、行進曲「軍艦」 

2番と4番は東京音楽隊隊長である作曲家の河邉一彦二佐の作曲。
幻想交響曲は、言わずと知れたベルリオーズの名曲です。

これを手に入れてから車の中で聴いていますが、
選曲の妙で、何回リピートしても飽きません。
特に、河邉作品は、どちらも心憎いほど「いい曲と感じるツボ」をおさえた名曲です。


そして、今話題の海自の歌姫、三宅由佳莉三曹はこのCDで一曲だけ、
「われは海の子」で参加していました。

「浜辺の歌」や「ふるさと」のような、自衛隊音楽隊のレパートリーの中の
日本の唱歌の一つとしてこの曲が選ばれ収録されているのだろうと、
わたしは何も考えずに当初彼女の気持ちのいい声に耳を傾けていました。

・・・・と。

今まで聞き知った一番と二番に続き、間奏を挟んで三番になったとき、
「もしかして・・・これは・・・・」

と耳をそばだて、もう一度この曲だけをリピートしました。
三回繰り返して聴いたとき、不覚にも鼻の奥がつんとして、
運転しながら涙で視界がぼやけました。
最後の歌詞はこうだったのです。


いで軍艦に乘組みて

我は護らん海の國。



ああ、「海の子」とは、そういう意味だったのか。

そして、彼女が歌い、海上自衛隊東京音楽隊を紹介する曲の一つとして
ここに収めることを決めた自衛隊の「誰か」に感謝したのです。


「われは海の子」は、1910年、明治43年に尋常小学読本唱歌に発表されました。

長年、作詞者不詳とされてきましたが、1989年になって、児童文学者であり翻訳者でもある
宮原晃一郎の娘が、宮原が文部省の新体詩懸賞に応募し、佳作当選した「海の子」
であると主張し、宮原の故郷である錦江湾には碑が建てられました。
しかし国文学者で学士会院の芳賀矢一の義理の娘もまた義父の作であると主張し、
結局決定的な証拠がないことから、いまだに作詞者不詳のままになっています。

2007年には、それまで「とまや」「ゆあみ」などの言葉が難解であるとされ、
姿を消していたのですが、この年に「日本の歌100選」に選ばれています。 


皆さんがなじみがあるのはおそらく二番までではないでしょうか。

一、
我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。

二、

生まれてしほに浴(ゆあみ)して
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の氣を
吸ひてわらべとなりにけり。



とまや(苫屋)とは苫で屋根を葺(ふ)いた、粗末な家のことです。
この二番までは小学校で習った方もおられるかもしれません。

三、

高く鼻つくいその香に
不斷の花のかをりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき樂と我は聞く。




「不断の花」とは、「フダンソウ」と呼ばれる花のこと。
自分の育った海の情景描写が続きます。

四、

丈餘(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて
行手定めぬ浪まくら
百尋千尋海の底
遊びなれたる庭廣し。

五、

幾年こゝにきたへたる
鐵より堅きかひな(腕)あり。
吹く鹽風(しおかぜ)に黒(くろ)みたる
はだは赤銅さながらに。




海を庭のように櫓をこぎ成長した彼は、
赤銅色に日焼けし、鉄のようなたくましい腕の持ち主に成長しました。

「丈餘(じょうよ)のろかい」とは一丈(3メートル)あまりの櫓のこと。 

この4番以降は、1947年以降、教科書から姿を消しました。

六、

     浪にたゞよふ氷山も

來らば來れ恐れんや。
海まき上ぐるたつまきも
起らば起れ驚かじ。



このあたりから、戦後の「自虐派」が眉をひそめる表現が出てきます。

海辺に育ち、海を住処としてたくましい腕を持つ青年に成長した彼は、

「氷山も竜巻も、来るなら来い、恐れはしない」 

とその蓄えた力を誇示するかのように豪語します。
そして最終段の

七、

いで大船を乘出して
我は拾はん海の富。
いで軍艦に乘組みて
我は護らん海の國。 



に、彼の人生は集約されています。
波の揺り籠で育ち、巨大な櫓を操って鍛え上げた鉄の体は、
即ち海の国である日本の護りに捧げるためのものであった、
というのがこの「海の子」の大意であったというわけです。


戦前は、この歌詞は当然のように7番までが歌われ、
教科書にもそのように書かれていました。

当然です。

「海の子が海の国を護る」

これが作詞者のこの歌で言いたかったことだからです。

ところが、戦後GHQが全ての軍歌を禁止し、そして唱歌であっても
「軍国主義的」とみなされたものは歌詞を代えるなど、
徹底的な「旧軍色パージ」を行いました。

たとえば「めんこい仔馬」という歌は、もともと陸軍省選定の映画
「馬」(ストレートなタイトルありがとうございます)の主題歌でしたが、
愛唱歌として普及していたため、作者のサトウハチローは、
GHQ的に問題のあった、

紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか
    遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を

    ハイド ハイドウ お話を

明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ
    軍馬になって行く日には オーラ みんなでバンザイしてやるぞ

    ハイド ハイドウ してやるぞ


という部分だけを改変させられています。

そしてこの「われは海の子」の7番もまた、どういうわけかついでに削除された
4番以降とともに、世間からは姿を消すことになります。


しかし、これらを見て思うのですが、

「仔馬との別れを惜しむ」
「国を護る」 

という歌詞の意の、いったいどこが軍国主義的だというのでしょうか。 
いずれも「軍馬」「軍艦」という「禁止ワード」だけをガイドラインに、
ともかく「軍の付くものはみんなダメ」ということにしてしまった感があり、
あの時代のGHQの行ったことは、じつに性急で雑駁な、
そして荒々しい「思想弾圧」にすぎなかったとの認識を新たにします。 


しかも、これらの作業をすべてアメリカ政府の代行であるGHQがやったのか、
というと、わたしは非常に残念ながら「そうではなかった」と言わざるを得ません。

微にいり細にいり、このような重箱の隅をつつくばかりの言葉まであげつらって、
それに対してこまめに「禁止」「改変」「削除」という作業をしたのは、
実は昨日までの敵であるアメリカの手先となることを良しとした当の日本人だったのですから。

昨日まで教壇に立って「お国のために」「兵隊さんありがとう」と言っていた教師が
次の日には「日本は悪いことをしました」と、自分もずっとそちらに立っていたかのように言い、
国民は国民で「日本人は騙されていた」と刷り込まれた頭で、何も自分で判断することもなく、
情熱をこめて昨日までの日本人を糾弾し罵倒する。
戦争に行った軍人を「戦犯」と呼び、特攻で死ななかった人を「特攻崩れ」と蔑み・・・。

日本は戦争に負けたときに国を分割されたり植民地になることはありませんでした。
戦勝国から「見せかけの独立」を与えられ、それでもその勤勉と精勤で見事に経済と国力を復興させ、
奇跡ともいえる発展を遂げ、繁栄を満喫してきました。

しかし、実はその代償として、もっとも大切な「日本人であることの誇り」
を見事に抹殺されてしまったのです。
極端な言い方をすれば、それは精神的なジェノサイトでした。


「われは海の子」の7番は、1949年以降なかったものにされ、さらに、
「7番だけを削除するという不自然を糊塗するため」だと思われますが、
さしたる不都合もなさそうな4番以降をすべて割愛してしまいました。


しかし、いったん人の口端にのせられ歌われた歌は、そして、
海軍軍人を歌ったこの歌詞の「言霊」は、この世から消えてしまうことはなかったのです。


自衛隊を理解し、感謝し、その音楽を愛してくれる人々、という限定で配られる
このCDに、まことに「ひっそりと」、収められている、この7番。

「われは護らん海の国」

この一節がこれほど胸に迫ったのは、その演奏が日本の海を護る
海上自衛隊の一員によるものであるからだったにほかなりません。



 





 


映画「ライト・スタッフ」~世界最高のパイロット

2013-09-21 | 映画


やっとのことで映画の最後のシーン、チャック・イェーガーの高高度の限界挑戦まで漕ぎつけました。
監督のフィリップ・カウフマンが、最後になぜこのシーンを持ってきたか、なんですが、
わたしが考えるに理由は一つ。

今まで「音速の壁」を破って記録を達成してきたこのイェーガーが、この時は

「どこまで天高く、宇宙に近づけるか」

という挑戦をしたからです。

戦闘機がどこまで上昇できるか、ということには実用的な意味はほとんどありません。
「高高度飛行」とは通常50000フィート(15.24km)以上を言いますが、
高く飛んだからと言ってミサイルは高度20キロくらいまでの対象物は撃ち落とせますし、
それより高高度に上昇していくことそのものが機体にとって危険極まりないことだからです。

イェーガーのこの挑戦は、この時に使用したNF-4の性能限界を試すためであり、

まさに「挑戦のための挑戦」としか言いようのないものでした。



イェーガーの妻、グラニス。

「飛行機なんて嫌いよ」

「パイロットは不安を取り除く訓練をするけど、だれも妻の不安など気にかけない」

彼女は夫の命を奪うかもしれない任務を受け入れることはできませんが、
しかし、その一方もし夫が挑戦することをやめてしまったら夫を捨てる、というような女。

「わたしはあなたがもし昔話にすがって生きていく男になったら、家から出ていくわ」

うーん。この男にしてこの妻あり。
言ってはなんだが、マーキュリー7の妻、特にジャッキーに会えないからと言って
それでなくても任務に失敗し失意の最中にある夫をなじったりするガス・グリソムの妻に、
爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわ。

グリソムの妻が本当にガスをなじったかどうかは知りませんがね。

そんなオトコマエの妻に、この最強のパイロットは言うんですね。

「俺は死を恐れたことはないが、いつもお前が怖い」

この妻に意気地のない男として軽蔑されることは死ぬより怖いと。


そもそも、この二人、最初の登場の時も変なんですよ。

夫が飲んでいるパンチョの店に女一人でやってくるグラニス。
お、いい女!
マッハ2を突破したあのクロスフィールドが(パイロットって、もしかして女好き?)
目を輝かせて彼女を見たりするんですが、実はとっくにチャックの妻なんですね。

夫婦なのにバーで初めて会ったような顔をしてダンスしたり、あるいは

「私の馬に追いついた男はいないわ」

などと挑発して夫に追いかけさせたり。
これ、もしかしてプレイの一種かい?

ともかくその挙句、テスト飛行の前の日に落馬して肋骨を折ってしまう夫。
あまりにも生活臭がないので、最初に見たときには本当に
これが二人の出会いだったのか?と思ってしまいましたよ。
 



このときイェーガーは40歳。
NASAと空軍のパイロット養成学校の校長を務めていました。

しかし、そこいらのパイロットと違って「生涯現役」のイェーガーですから、
普通の人間がそろそろ引退を考えだす年齢に、限界に挑んじゃったりします(笑)



かっこいいのでもう一度出してくる、スターファイターとサム・シェパードのシルエット。
実際のイェーガーはそんなに背が高くは見えませんが、もしこれが
本当のイェーガーだったら、マーキュリー計画の飛行士採用担当はまず身長で失格させるでしょう。

カプセルは小さいので、身長制限が180センチと決まっていたそうです。 



派手な壮行会も世間の注目も何もない、テスト飛行への出発。



観ているのは関係者と妻、そして女流飛行家で「パンチョの店」のオーナー、
フローレンス・”パンチョ”・バーンズ。

このおばちゃんについては、そのキャラ立ちまくりの人生と活躍についてエントリを制作しております。
また後日お読みください。

さて、この映画、この伝説のパイロットが「宇宙を目指して飛んでいく」のと同時に、
宇宙飛行士たちを招いて行われたジョンソン副大統領主催のパーティがオーバーラップするのですが、



その席上、ジョンソンがわざわざ「宇宙飛行士たちのために捧げます」
として上演される、この「ファン・ダンス」。

このダンサー、本当にいたらしいんですよ。



なんちゅうキャッチフレーズだ、とお読みになった方は思われたでしょうか。
バーレスク・ショウ(お色気ショウ?)の立役者、実物のサリー・ランド嬢でございます。

この映画のおかげで、こんなどうでもいい知識まで得てしまいました。
この、大きな羽を二枚使って巧みに隠すところを隠しながら踊るダンスは、
一世を風靡して、日本にも当時このようは「チラリズム」が輸入されたようです。

そして、このダンスを観る宇宙飛行士たちの顔を以前ご紹介しましたが、
最初は唖然と観ていた彼ら、下を向いて首を振りため息をついたりし始めます。

そして、ただ茫然と観ている風の夫人たちの傍らで、飛行士たちは次第に
互いの目を見やり、互いの目と目でその心情を語り合うのでした。


そして。

彼女の体を包む白い羽は、まさに空に、いや宇宙に疾走していくイェーガーの機が
切り裂いていく純白の雲にいつのまにか置き換わり、いまや全く別の世界、
目指すものもそれによって得られるものも、何もかもが違ってしまった
テストパイロットと宇宙飛行士たちを交互に映し出していくのです。




栄達も世間の喝采もない、たった数人の見送りによる挑戦。
それによって彼に与えられるのは、ただ挑戦したという事実のみ。



彼の乗ったスターファイターは、ただどこまでも真っ直ぐ、成層圏を突き進み
宇宙へ向かって駆けていきます。
そしてひとりごちるイェーガー。

「まだ行ける・・・・・もう一息で4万3000メートル」

しかしその瞬間、機は失速して今まで登ってきたところを錐もみしながら墜落していきます。
あたかも舞台でくるくると舞うサリー・ライドのように(笑)



煙が出ているのはイェーガー自身が燃えてるんだろうか?(郷ひろみ禁止) 
これは、ベイルアウトの時に炎が座席から噴出し、彼に燃え移ったということのようです。



それにしても、これらを見守る空軍の同僚、リドレー大尉がまたいいんですよ。

いつもイェーガーに

「ガムあるか?帰ってきたら返すから一枚くれ」

とミッション前にねだられ、いつも

「いいよ」

と快く渡してやる、二人三脚の相棒。
実際にもイェーガーとリドレー大尉はこのようにコンビでともに記録に挑戦してきたそうです。
このときも、救急車で現場に駆けつけるんだけれども、全然心配してないの。
もう、イェーガーが死ぬわけない、と心の底から信じきっている人の気楽さで、 

「ほら、生きてた」



このリドレー大尉の役をしたのはリヴォン・ヘルムと言いまして、なんとあの伝説のロックバンド
”ザ・バンド”のギター&ヴォーカルなんですよ。
”ザ・バンド”はイギリスのグループですが、このリヴォンだけがアメリカ人なんですね、

俳優としても活躍し、たくさんのドラマに出演したようですが、喉頭癌のため、
2012年つまり昨年の4月、72歳で亡くなりました。

合掌。



そして、このリドレー大尉本人ですが、空軍の航空エンジニアとして
テストパイロットの経験を生かし、イェーガーの飛行に協力しました。

そして、この人物のことを検索していてこんな事実を知ってしまいました。
「在日米軍機の墜落事故」というページを見ると、

1957年3月12日羽田空港を離陸したC-47輸送機が10時40分頃に新潟市の上空から
位置報告したのを最後に消息を絶つ。
この飛行機は後日長野県の白馬岳
に墜落しているのが発見され乗員4
名全員が死亡しているのが確認された。
(ウィキペディア)

とありますが、この4人のうち一人が、リドレー大尉だったということです。

ですから、1963年にイェーガーが高高度に挑戦した時には、
リドレー大尉はとっくにこの世にいなかったということになります。

ですがまあ、これも映画上の創作というやつです。
しかし、テスト飛行ではなく輸送機での墜落死は、さぞ無念だったでしょうね・・・。

合掌。 




そして、事故現場から意気揚々とすら見える風情で生還するイェーガー。
まるで花道を引き揚げる千両役者のように傲然と顔を上げて歩いてきます。
凡人ならスターファイター一機ぶっ潰しておいて、まずこんな堂々とは帰ってこれませんな。

劇中「テスト機を失ったらテストパイロットはクビだぜ」
という会話があったりするのですが、このころのチャックはすでに「伝説の男」
ですから、多分おとがめなし。たぶんね。

いずれにしてもこちらも渋さ満点です。 
 


映画は、この後、「ホットドッグ」ゴードン・クーパーの乗った「フェイス(Faith)7号」が、
人類で初めて一日以上の宇宙滞在を果たす飛行のために打ち上げられるシーンで終わります。

屈託なく大口開けて笑う無邪気さ、やんちゃ坊主のようで微笑ましいこの「ホットドッグ」
を演じるのはデニス・クェイド。
黒沢の「七人の侍」でいうと、三船敏郎の役どころですかね。

打ち上げ前のカプセルの中でグースカ居眠りをしてグレン飛行士に起こされたりします。




この打ち上げが実質「マーキュリー計画」最後のミッションとなりました。



この報道レポーターは最初からかなり宇宙飛行士の取材で活躍?していましたが、
最後にこんな大役をもらっています。
関係者かしら。



この、ガス・グリソムが4年後アポロ1号の火災で死亡するということ、そして

「つかの間の一瞬
彼は文字通り世界最高のパイロットだった」

というナレーションが入ります。


パイロットが「世界最高」になれるのは、たとえどんな功績でもつかの間の一瞬。
それにもかかわらずその頂点を目指す男たちを称えて、映画は終わります。



世の中には、自分の義務を果たし結果を出すことが
金銭よりも、栄達よりも、ときには自分の命よりも大切なことであり、
だからこそ挑戦する意義がある、と考える人間がいます。

イェーガー自身は自分の功績についてこう語っています。

「その飛行機が音より速く飛ぶかどうかなんて私には関係なかった。
私はテストパイロットとしてその飛行機を飛ばすように命じられ、
自分の義務を果たしただけだ。」


わたしは、この「宇宙に行くことを拒んだテストパイロットたち」のことを考えると、
つい、生物の進化の段階で最初は海にいた、特に進んだ知能を持つ二種類の生物の話を思い出します。

「陸に上がることを決めた人類、そして海に残ることを決めたイルカ」です。

海に残って太古のままの暮らしをしているイルカと、陸に上がって文明を築き上げた人類、
どちらの選んだ道が幸せだったのか。

そんな問いに決して答えが出ないように、
テストパイロットとして歴史に名を刻んだ男たちと
宇宙飛行士として歴史に名を遺した男たちの
どちらの功績が人類にとって偉大で、どちらをより褒め称えるべきだったかなどは、
それを問うことそのものが全く意味をなさないことなのです。


チャック・イェーガーは2013年現在、90歳。
2012年10月14日には89歳でF-15Dに乗り、65年前の音速突破の再現を果たしています。




 


映画「ライト・スタッフ」~空に挑んだ男たち

2013-09-20 | 映画

唐突ですが、わたしはアメリカという国が嫌いです。
毎年訪れ、住んでいたこともあり、ほとんどのアメリカ人には好意を持つことの方が多く、
なによりもあれだけの国を築き上げたパワーと知力には心から賞賛を惜しまないのですが、
あの正義の側に立ったふりをして、実は利権と大国の驕りが全ての行動原理となっている、
あのアメリカという国家が大嫌いです。

この映画「ライト・スタッフ」に描かれる、当時の副大統領リンドン・ジョンソンの、
宇宙計画を利用して国力を高揚させるとともに自らの政治宣伝に利用しようとするあさましい姿は、
ある意味「忌むべき大国アメリカ」の象徴であり、7人の宇宙飛行士たちが戦ったのも、この
「国家の欲望」からくる不条理であったと言っても過言ではないと思います。

さて、当初は互いを牽制しあい、空軍海軍海兵隊の枠の中から互いを批難しあっていた彼らですが、
ある時から「敵はお互いではない」ということに気づきだします。

宇宙に行くのに「正しい資質」(ライト・スタッフ)を持っているのは、言われたことを間違いなくやり、
しかも従順で逆らわないチンパンジーである。

従って人間より先に猿をマーキュリー計画に使う、
という噂がたったとき、一番反発したのが当の飛行士たちでした。

そりゃそうでしょう。

「俺たちがさせられるのはサルにもできることなのか」

誰だってそう思いますよね。当事者なら。


このころアメリカが後れを取っていたソ連においても最初にスプートニクで
打ち上げられたのは犬でした。
アメリカが「サル」を選んだのは、犬より高度な作業を教え込むことができたからですが
まったくソ連と同じことをしたくない、という意地からではなかったかという気がします。

「犬猿の仲」って言うくらいだし・・・・いや、英語では犬猿の仲のことを
cats-and-dogs
ていうのよね。
猫を宇宙に射ち上げたのはアメリカじゃなくてフランスか。

その話はともかく、アラン・シェパード飛行士の弾道飛行に先立つこと4か月、
アメリカはチンパンジーの「ハム」を、マーキュリーカプセルに乗せて弾道飛行を行います。

「ハム」の写真はライフ誌の表紙を飾り、世間は大喜びでしたが、
宇宙に行くことを良しとせずテストパイロットに留まったチャック・イェガーの周囲は、
この結果と「猿に先を越された」宇宙飛行士候補たちを嘲笑します。

しかし、自らが何回も死の淵のミッションから生還しているチャックはこういうのでした。

「命を捨てる覚悟で任務に就く男は立派だよ」


アメリカという国は嫌いですが、アメリカにはこういうカッコいい男を生み、
こういったカッコよさを素直に英雄として称える、いい意味での単純さがあります。

これがわたしの好きな「アメリカ」です。

チャールズ・”チャック・イェーガー。

ウェストヴァージニアの貧しい家の出で、航空整備士から空軍准将まで登りつめ、
「世界最速の男」と呼ばれた伝説のパイロットです。

このイェーガーを演じるサム・シェパードが、
孤高の一匹狼のような殺気と哀愁を漂わせ凄味すらあって大変よろしい。

このサム・シェパード、こう見えて?俳優は副業、本業は脚本家。
あの名作「パリ・テキサス」なども手掛けています。 



最初の回にお見せした、女流飛行家パンチョ・バーンズの店。
ここに、NASAの採用担当の「凸凹コンビ」(この二人、最高!)がやってきます。

イェーガーも、そして元エースで後にマッハ2を破るテストパイロットの
スコット・クロスフィールドも、宇宙飛行士になることを

「人間ミサイルや人間の缶詰になる気はない」

とにべもなく断った、というのもお話ししたと思いますが、



「イェガーはダメだ。学歴がないし、クロスフィールドも民間人だから身元がどうたらこうたら」

こんなことをこそこそ言い合う二人に後ろから忍び寄る目つきの鋭いオヤジ。
これが、なんと特別出演の

チャック・イェーガー本人。

イェーガーはテクニカルアドバイザーとして参加していたそうですが、画面では

「ウィスキーを付き合うか」

それが昔人類で最初の秒速を破った男のセリフです。




そして、スコット・ウィルソン演じるアルバート・スコット・クロスフィールド

D-558-IIで人類で始めてマッハ2を記録した、イェーガーのライバルです。
クロスフィールドはその後X-15でマッハ2,98、ほぼマッハ3に迫っています。

ちなみに、このクロスフィールドは2006年に84歳で亡くなりました。
彼の操縦していたセスナは雷雨に見舞われ消息を絶ちましたが、
ジョージア州で機体の残骸の中にその遺体が発見されたということです、

84歳にして自分で飛行機を操縦していたというのにも驚きますが、
それも彼の生涯を思えば以て瞑すべしとでもいいますか。

誤解を恐れず言えば、空の男は空で死ねて本望だったのではないでしょうか。



空で死ぬといえば、この「ライト・スタッフ」には、
最初にX-1のテストで殉職したパイロットの告別式のシーンがあります。

実写のX-1の映像に続き、そのテスト機が墜落し、パイロットは殉職。
黒い服の陰気な顔をした空軍の「まずいこと宣告係」(従軍牧師かも)
が彼の妻を訪ねてくるのですが、若い妻はすぐにそれを悟り

"No.........! Go away!"

と叫びます。

この陰気なおじさん、映画の要所要所で顔を出しているんですが、
イェーガーの飛行前や、あるいはマーキュリー計画の打ち上げの前にその不景気な顔を見ると、
どうも縁起が悪いというか、すわ、フラッグか?と思ってしまいました。

思わせぶりに登場して、いたずらに観ている者を不安にさせないでいただきたいと思います。



実際はX-1のテストで殉職者は出ていないので、映画上の創作です。





その上空を飛来する航空隊が「ミッシングマン・フォメーション」と呼ばれる
葬儀や追悼イベントで行われる航空運動を見せてくれます。

これは「ミッシングマン・フライバイ」とか「フライパスト」(Flypast)とも呼ばれ、
夕刻、編隊の一機が離れて上昇していくとき、その一機は離脱後、
夕日に向かって消えていくのが正式の行われ方であるということです。

この映画では構図を考慮した結果だと思うのですが、夕日とは逆に飛んで行っています。


ところで冒頭の絵は、白黒写真を参考に描いた、イェーガーと彼が音速を超えたベルXS-1

XS‐1の色は映画から類推しましたが、ヘルメットの色とか、エビエイタースーツの色等、
全くの想像ですのでご了承ください。

機体に描かれた「グラマラス・グラニス」は、彼の最初の夫人の名前です。
グラニスさんが本当にグラマラスであったかどうかというより、
単に語呂がいいのでこうした、という感じのネーミングですね、

イェーガーは74歳になる97年の10月14日、「グラマラス・グラニスIII」と描かれたF-15Dに乗り込み、
50年前に音速記録を打ち立てたのと全く同時刻の10時29分に、
史上最年長のイーグルドライバーとして音速を突破しています。

ちなみにこのときにはすでにグラニス夫人は亡くなっていて、イェーガーは67歳のとき
36歳下の当時31歳の女性と再婚しています。
歳の離れた女性と結婚してあらゆる面で悲惨な目に合っている(らしい)コメディアンと違って、
きっとイェーガーなら、名声遺産目当てなどではない女性と結婚した・・・・と思いたい。

いくらなんでも前夫人が亡くなって一年で再婚ってどうよ、と思う向きもおられましょうが、
この年齢になると「自分に残された時間の少なさ」を考えずにはいられませんからね。




さて、この「ライトスタッフ」で、宇宙飛行士になったテストドライバーたちのその後と、
イェーガーの「空への挑戦」は、ほぼ並行して語られます。


オリンピックの標語ではありませんが、つねにより高くより強く、そしてより速くを求める
アメリカにおける当時の航空界の最大の目標は、

「世界で一番先に音速の壁を破ること」

でした。

有人飛行機で音速の壁をやぶるX-1での高速飛行計画を、
NASAの前身であるNACAが立ち上げます。

それでまず、”スリック”、チャルマーズ・ユベール・グッドリンに白羽の矢を立てたのですが、
映画でも描かれていたように、彼は危険を理由に空軍に15万ドル、さらに、
マッハ0.85以上で一分飛ぶごとに加算金額を要求しました。

映画ではこのスリックの金銭要求を決して否定的には描いていません。

「そこには悪魔が住み、レンガの壁が存在する(らしい)」

と言われていたマッハ1の世界は、それこそ当時の宇宙並みに
生身の人間が到達するには困難なものと考えられていましたから、
スリックの要求は彼が家庭を持ちパイロットであると同時に夫であり父であれば
当然のことであると誰にも思われるからです。

むしろ、

「空軍から給料を(月285ドル)もらってるからいらないよ」

と、危険をむしろ歓迎し挑戦することそのものに価値を見出すチャックのような人間は
ほんの一握りであるといえます。


「危険なのか?それなら志願する」

NASAの採用担当に、宇宙飛行士に志望した海軍パイロットのシェパードもこう言いましたが、
即ちこの映画は、人類の経験したことのない危険だからこそ挑戦する意味がある、という、
まことにアメリカ人らしい価値観を持った一握りのアメリカ人たちの物語と言えましょう。



さて、チャックの「無欲さ」にほっと胸をなでおろした(笑)空軍幹部、
さっそくテスト飛行の交渉に入りますが、

”When?"「テストはいつする?」
”Tomorrow."「明日」
”I'll be there."「行くよ」
"I'll see you there."「じゃそういうことで」 


これはさすがに映画上の創作で実際はそうではありません。 

しかし、初めて音速を突破するためのテスト飛行の前日、彼は落馬して肋骨を骨折しており、
同僚のジャック・リドレイ大尉が箒の柄を切って渡し、

「これで中からドアをしめれば前かがみにならなくてもいい」

とアドバイスするシーンがありましたが、こちらは実話です。
グレニスを馬で追いかけて落馬した、というのは多分創作だと思いますが。

そして、劇中なんども、華やかに脚光を浴びる飛行士たちの報道を
物言いたげな風情で聞くイェーガーの姿があります。

宇宙飛行士とテストパイロット、命の危険に置いてはどちらも同じですが、
テストパイロットが死んでも
せいぜい「パンチョの店」に写真が貼られるだけ。
逆に成功したところでパンチョがステーキを奢ってくれるくらいのものです。



しかし、「ヒーロー」である宇宙飛行士たちには、
危険な任務に対する有形無形の報酬が与えられます。
それだけでなく、彼らを利用せんとする有象無象が周りに群がってくるというわけです。

たとえばこの映画で描かれた、野心に満ちた政治家、ジョンソンが
自分の政治的権力顕示のために開いた欲望の渦巻くバーベキューパーティ。

ここで、宇宙飛行士(この時点で宇宙に行ったのは三人だけ)とその妻が、
怪しげなダンサーの踊りに唖然としているそのとき、

またしても「空の壁」に挑戦しようとしているイェーガーの姿がありました。



「数年前にあれがあったらな」

とイェーガーが言う、この「見たことない飛行機」。



これは・・・・・なんですか?





見たことない機種だ。

いや、わたしは見たことあります。
これはロッキードF-104スターファイターですよね?

ジョン・グレンが地球を弾道ロケットで三周したのは1962年。
映画によるとその翌年行われたパーティのさなか、イェーガーが乗り込むこの飛行機がNF-104。

これは史実に照らしても正しく、このときイェーガーは音速ではなく「高度記録達成」に挑戦しました。

しかし空軍のかれが1954年に初飛行のスターファイターを1963年現在「見たことがない」というのは
なんだか時期的におかしいような・・・・・。


・・・・・・・・ま、まあいいや、これは映画。そういうこともあるよね。





とんだところで映画のセリフのおかしなところに気づいてしまいましたが、
とにかく、挑戦が始まります。


・・・・というところで前回も前々回も終わり、次回に引っ張ってしまったのですが、
このイェーガーの挑戦と、イェーガー夫妻のこと、
そしてやっぱり宇宙飛行士のことをもう少し書かねば、終わるわけにいかない!


・・・・ええ。すっかり気に入ってしまったんですよ。この映画。


というわけで本当の最終回に続く。

 


映画「ライト・スタッフ」~妻たちのマーキュリー計画

2013-09-19 | 映画

夫が宇宙飛行士に選ばれた後、彼らの妻には

「宇宙飛行士の妻」

という役割が与えられます。

夫と同じように関心を持たれ、夫の栄光を協力者として分かち合うのが
何事も夫婦という単位で人を見るアメリカ人の考えるところの「英雄の妻」なのですから。


ところで、昔、「かわいい魔女ジニー」というドラマがあったのをご存知でしょうか。
このドラマは、宇宙飛行士のアンソニー(トニー)が、カプセルで着水し、
流れ着いた南の島でひろった魔法の壺にはジニーという魔女が入っていて・・・、
という内容のホームコメディ?ですが、このネルソン少佐が劇中、
航空宇宙局にお勤めしているという、当時の「最新流行の」シチュエーションでした。


このドラマが制作された1965年ごろは、アメリカはジェミニ計画を着々と進め、
ケネディが言ったように「1960年代には人類を月に送る」ための準備をしていました。
「マーキュリー計画」のときに物珍しい存在だった「宇宙飛行士の妻」は、
このドラマ制作時には「憧れの職業の夫を持つセレブリティ」という風に若干変わっており、
だからこそこのような設定のドラマが制作されたのかと思われます。

彼女ら「ミセス・マーキュリー・セブン」は、こうやって一堂に集められ、
全員の写真をメディアに広められるなど、有名人の扱いだったわけですが、
全員が全員とも、高く盛り上げたヘアに何人かは流行のパールのネックレス。

これは、当時絶大な人気のあったケネディ大統領夫人、ジャクリーヌが流行らせた

「ジャッキー・ルック」

です。
この映画でも、夫の栄達の「ご褒美」として、ジャッキーに会えるというセリフが出てきます。 


この映画「ライト・スタッフ」(適正な資質)は、空に、宇宙に、
映画のアオリでいうと「人類の限界への挑戦に命を懸ける男たち」が主人公ですが、
映画導入部は、テスト飛行の実写に続き、そのパイロットが事故死し、
若い妻がその報せを聴くという悲劇から始まります。

つまり、この映画のサイドテーマは

「死を顧みぬ任務に出かける夫を待つ妻たち」

でもあるのです。



「救急車の音や大きな衝撃音のたびに、身がすくむ思いがするわ」

空軍のテストパイロット、ドナルド・スレイトンの妻。
まだ宇宙飛行士に夫が選ばれる前です。



「同窓会に行ったら企業勤めの夫を持つ友達はこんなことを言っているけど、
彼女らに聞いてみたいわ。
夫が生きて帰らない確率が4回に一回だったらどうするかって」

タフな男、あだなが「ホットドッグ」で、口癖が「最高のパイロット?目の前にいるぜ!」
ゴードン・クーパーの妻。

ちなみにこの「ゴードン」という名前は、「サンダーバード」にトリビュートされて使われています。



「男なんて・・・・・As〇H〇leよ!」

思わずダーティ・ワーズを口にして首をすくめる、ガス・グリソムの妻。

彼女の夫、ガスは最初のミッションで、アメリカで2番目の弾道飛行を成し遂げたものの、
司令船リバティベル7の着水時ハッチが開くのが早すぎたために、
海水が船内や宇宙服の中に入り込んでしまい、溺れかけ、ヘリに救助されるという
「失態」を犯してしまいます。



ハッチは彼の誤操作ではなく、ひとりでに飛んだ、というグリソム飛行士の訴えは
受け入れられず、彼のミスとして片づけられてしまった結果、



その勲章授与式は寒々としたわびしいものとなります。

アメリカとNASAは彼を実に冷淡に扱ったのでした。
授与式のためにあてがわれた貧乏くさいモーテルの一室で、妻の怒りが爆発します。



「ワシントンのパレードは?」「ない」
「ケネディ大統領の勲章授与は?」「ない」
「ホワイトハウスの晩さん会は?」

「んなもんあるかいぃぃぃっ!」




「わたしだってジャッキーとおしゃべりしたかったのおお!」

アラン・シェパードの妻と比べて我身の不幸を涙ながらに訴えるグリソム妻。

おいおい、夫が無事で帰ってきてくれればそれでいいんじゃなかったのかよ。
それじゃ命を賭けて任務に就き、技術ミスで挙句の果て溺れかけた夫の立場がないよ。

宇宙飛行士に夫が選ばれた時から、メディアは妻たちをクローズアップし、
写真を撮ったり、手記を求めたり。
「朝起きたら有名になっていた」というような「持ち上げられ方」をされて、
彼女たちにも「欲」が出てきた、というところでしょうか。

それにしても、この「ハッチ事件」は、ある不幸な結末につながっています。

後年、このガス・グリソム飛行士はアポロ1号計画の訓練中、
爆発炎上による火災で、アメリカ宇宙計画最初の犠牲者になったのですが、
最初のリバティベル7の水没事故を受けて、NASAはそのあと、
宇宙船の内部からハッチが開かないように機構を変更しました。

結局この変更が、グリソム自身の命を奪う一つの要因になったのです。

「即死した」
というNASAの発表に対し、ベティ・グリソム夫人は法廷で
遺族が独自で行った調査からその報告が虚偽であること、
夫は火災の中で少なくとも15分は生存していたことを証言しています。



さて、海兵隊出身のカタブツ男、ジョン・グレンの妻、アニー。
彼女は重度の吃音で、人前でしゃべることができません。
しかし、そのことを知らないゴードンの妻は、当初、彼女に話しかけて
返事がなかったのに気を悪くし、

「変わっているわ、なんてスノッブなの!」

と陰で非難したりします。

しかし、幼馴染で結婚した、重度の吃音症であるこの妻を、
マッチョで頼もしい夫であるグレンはこよなく愛しているのです。



ソ連のチトフがまるまる一日の弾道飛行を成功させたため
焦ったアメリカは、準備不足のままグレンを打ち上げることを決定。

打ち上げの決まった飛行士の自宅にはなぜか全員の妻が集まり、
そこでテレビの放映を見るというお約束が用意されています。
詰めかけた報道陣はその家に来るおむつの配達人まで追いかけまわす、
というような狂態ぶりを見せるのです。

まあ、洋の東西を問わずマスコミはマスゴミであるということですね。

アニーはカメラの前での副大統領ジョンソンとの会見を拒みます。
吃音で人前で話したくないアニーにはとんでもないことだからですね。
最初こそ「お高くとまって」などとアニーを非難していたゴードンの妻トルーディですが、
今やすっかり妻同士で団結し、グレン家のドア越しに報道官をぴしゃりととはねつけます。

「ノー、よ!」

このころになると、夫たちがNASAの上層部に対してパイロット同士で結束していたように、
妻たちもスクラムを組んでお互いを守りあっていた、という表現です。

ところが、ここは何としてでも全国放映で自分の姿を国民にアピールしたい
ジョンソン副大統領、



・・・・と激昂し、NASA上層部に圧力をかけて
グレンから妻を説得させようとします。

汚いさすがジョンソン汚い。

打ち上げ中止になったその悲劇を慰める図を撮らせてまで
自分の政治宣伝に使おうをするジョンソン。
打ち上げ中止になったカプセルから降りてきたグレンに
妻を説得させようとします。

こんなときになにをやっているんだ、という感じですが、
そうまでしてもこの機会をなんとか利用しようとするんですね。

やっぱり政治家ってAs〇H〇leですよね。うん。

この映画制作時、ほとんどのマーキュリー・セブンの飛行士たちはまだ生存していて、
しかしリンドン・ジョンソンはその少し前に亡くなっていますから、
カウフマン監督は心置きなくジョンソンを「悪役」にすることが出来たのでしょう。



それはともかく、ジョングレンの妻、アニー。

「ジョンソンが・・・・・わたしを・・・・テレビに;;」

切れ切れに夫に訴えます。

彼女を説得させるために電話に呼び出される夫。
ところが・・・・



さすがは愛妻家のマッチョ男。

「グレン飛行士がそう言ったといってやれ!」

怒りを隠せないNASA最高責任者。

「言うことを聞かせないと飛行の順番を後回しにするぞ!」

ついつい脅迫めいたこともいっちゃったりするものの、途端に
7人に周りを囲まれ、

「おう、おもしれえな」
「やれるならやってみろよ、え?」

とすごまれ、すごすごと引き下がります。


いや、このエド・ハリスはかっこいいですよ。
女から見てこんな頼もしい男はいない、という感じ。
こんな旦那さんだったら、奥さんはもう頼り切っちゃいますね。

それに、このアニーという奥さんであれば、たとえジャッキーとおしゃべりできなくても、
夫が無事で帰って来てくれさえすれば、それだけでいい、って感じです。
いかにも欲がなさそうだし。

こんな女性だからグレンは何をあっても守ってやりたかったのか、
人一倍タフで男らしい男だったから彼女のような女性を選んだのか。 

どちらが先かはわかりませんが、いずれにせよ、
こんな二人は実にお似合いだと思ってしまいました。
夫婦の形は夫婦の数だけありますから、

「吃音で対人恐怖症の妻など、社会生活もろくに営めないに決まってるから
どんな美人でも俺は御免こうむるよ」 

とおっしゃる男性も世の中には少なからずおられるとは思いますがね。

さて、いよいよフレンドシップ7号によるグレン飛行士の初飛行が始まります。



地球を弾道に乗って7周する、というミッションでしたが、
二周目に耐熱シールドがはがれかかっていることが判明し、
三周回ったところで再突入することが決められました。

それがねえ・・・。

NASAが本人に故障を伝えようとしないんだよ。

管制室では皆顔を真っ青にして大騒ぎしているのに、
本人はのんきに「きれいだ」とか「一日が早い」とか、
シールドから出る火花を「生物体か?蛍みたいだ」なんて言ってるんですよ。

同僚のシェパードが

「かれは飛行士だぞ!なぜ知らせないんだ」

と怒りまくるんですが、三周で再突入を命じた後理由を尋ねるグレンに

「こちらの判断だ」

って、もうまるで飛行士をチンパンジー扱いなんですよ。
しかし、これがもしチンパンだったら、再突入の際の手動操作などできなかったわけ。
つまり、サルには決してできないミッションだったということなんですけどね。

今でこそ宇宙飛行士は、心技体バランスのとれたスーパーマンのような
優秀な人物にしかなれない究極の憧れの職業ですが、
このころの宇宙技術者というのは、「人間にできること」を
実に過少に評価していたとしか言いようがありませんね。




息をのんで電離層間の断絶状態を見守るNASA管制室。
このときの世界の注目度は第一回、第二回を大きく上回るものでした。

この任務達成を以て、アメリカは後れを取っていたソ連に追いつくという
歴史的快挙ともなったのです。



順番とはいえ、グリソム飛行士のときとのこの違い・・・・。
グレン飛行士とその妻は一躍アメリカのヒーローです。
あちらこちらに引っ張りだこ。

そして、ヒューストンのあるテキサスは、あのジョンソンのおひざ元。

グレンを中心とした飛行士メンバーを、「大バーベキュー大会」ご招待。
 


わ・た・し・が この地に招待しましたあ!」


全くこのオヤジはよお・・・(笑) 

そこで、いろいろと飛行士の名声を利用せんとする有象無象が彼らにまとわりついてきます。
飛行士の家庭は地元建築会社によってもれなく無料で家を建ててもらえ、
さらに地元デパートが全て内装をあなたのお好み次第に。

まあこれ、奥様的にはもう願ってもない役得じゃなくって?

そして、この宣伝臭紛々の、欲望に塗れた、そう、まるで応援集会のようなパーティ、
佳境に入って、なんとこんな妖しい出し物まで・・・



大きな二枚の羽で巧みに体を隠しながら踊るヌードダンサー。
いくら隠してもそこはそれ、時々チラリズムもあり。



どん引きする飛行士その1。カーペンター飛行士。
マーキュリー計画の飛行士の中で最も有名になった人物です。



どんびきする飛行士その2。シラー・Jr.飛行士。
彼は結局、マーキュリー、ジェミニ、アポロの宇宙計画すべてに参加した
たった一人の飛行士となりました。

シラー飛行士は海軍出身だったので、2007年に亡くなった後、
海軍の補給艦に功績を称えて「ウォリー・シラー」と名付けられています。




どんびきその3。空軍のテストパイロット出身、ドナルド・スレイトン。
このあと心臓の欠陥が見つかり、マーキュリー計画では宇宙に行っていません。

しかし、航空宇宙局で新人飛行士の訓練に当たってきたある日、
自分を指名して、アポロ・ソユーズテスト計画のパイロットとして初めて宇宙に行きます。

最初に宇宙飛行士に指名されてから実に26年後の初搭乗。
これは宇宙計画の一つの「新記録」だそうです。

でも、願えばいつかそれはかなう。よかったよかった。



あまりのことに固まっている夫人と、そんな彼女に気を遣うグレン飛行士。
全く、彼女のような女性には耐えられない出し物だったかもしれません。

この変な出し物だけではありません。
誰一人この奇妙なパーティをこころから喜んでいるわけでもないのです。

彼らがそのミッションの成功(まだ成功させてない飛行士が半分以上ですが)
に対して手に入れた名声の正体とは、いったいなんだったのか。
この世界はいったいどうなっているのか。



彼らの得た「宇宙飛行士」という肩書にまとわりついてくるものの正体の不可思議さに
ただためらいつつこのエロチックなショウを眺めているちょうどそのとき、

一人の男がまた人類の限界を破るべく空に挑戦しようとしていました。





(終わらなかったので、最終回に続く)


 


映画「ライト・スタッフ」~空の男のRight Stuff(資質)とは

2013-09-18 | 映画

ここのところ、アメリカの航空博物館で展示されていた女流飛行家たちの写真に
いろいろと触発されて、しばらく「女流飛行家列伝」シリーズを制作しています。

その中で、日本では全く無名であるがアメリカでは知らぬものはない女傑、
飛行家パンチョ・バーンズを取り上げました。

日本語で検索してもフィギュアの宣伝くらいしか出てこないので、英語で検索していると、
もれなく「ライトスタッフ」という映画の検索に辿り着くのでさらに調べたところ、
この、「最初の宇宙飛行士たち」の映画にパンチョ・バーンズが実名で描かれていることが判明。

しかもこの映画、

実話がベースになっている
男たちが皆で何かをやり遂げる
登場人物が実在のパイロットである

と、エリス中尉の好きな映画のパターンをことごとく押さえているのです。
こりゃあもう観るしかないじゃないか!

いやー、渋かったですよ。名作です。
このブログに来られる方ならきっと感動すること請け合いです。

映画はまず、「音速の壁を破ろうとしているテストパイロットの飛行」
から始まります。



ね?

・・・・ってなにが「ね?」なんだって話ですが、ベルX-1の実写ですよ。

このテスト機のパイロットでこの映画に登場するのがご存知チャック・イェーガー。
後に空軍の准将にまで上り詰める「音速の壁を最初に破った男」です。

アメリカの宇宙開発の黎明期、最初に宇宙飛行士になった男たちを描くのに、
どうしてチャック・イェーガーが出てくるのか。

そこがこの映画の奥の深いところです。
両者を結ぶのが元女流飛行家で、アメリカで最初に飛行スタントをした女性である
パンチョ・バーンズの酒場、というわけなのですが、宇宙と音速の壁という違いはあれど、
同じ「パイロット」と呼ばれる彼らが命を賭けてまで目指したのが「初」という称号であること、
ここにこそ作品のテーマがあるのです。

パンチョの酒場、「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」に集うテストパイロットたち。
皆腕に自信のある若者ばかりですが、いくらいきがっても、パンチョにかかっては



ひよっこ扱い。

テストに成功したパイロットはパンチョのおごりによるステーキが振る舞われます。
しかし、一枚の写真が壁に追加されるとき、そのパイロットは殉職したということなのです。


アメリカの野望、それは「宇宙」でした。
冷戦構造の中でソ連と宇宙開発競争を繰り広げていたアメリカは、
ソ連が人類初の無人による人工衛星を打ち上げることによってこの競争の先を越され、
なんとしても有人飛行を成功させようとしていました。

それではどんな人間をその「飛行士」にするかです。
そもそもどんな人間が宇宙に行くのに「正しい資質」(ライト・スタッフ)を備えているのか。


スプートニク打ち上げのショックの中で、そこでは宇宙飛行士に相応しい能力を
どんな職業の者が持っているか、という話し合いがもたれていました。
今聞けば笑い話にしかならないのですが・・・・・・・・。

サーファー(着水が巧み)
レーサー(メカに強くヘルメットを所有、炎に包まれるのも慣れている)
綱渡り芸人(平衡感覚に優れ中耳が発達して性格が穏やか、従順である)
空中ブランコの芸人(上に同じ)
ロケットから打ち上げられるサーカスの男女ペア(欲求不満がない)←
炎のプールに飛び込む芸人(今月はヒマ)←

こんなのを見ていると、初のロケットに乗せる人間は運動能力さえあれば
あとは何でもいい、つまり「チンパンジー代わり」
という観点で選ぼうとしていたらしいという気がします。

このフザけているとしか思えないプレゼンを見て当然
ワシントンは渋い顔をし、
「テストパイロットを使え」と指示するのですが、 
当初反対したのは技術陣でした。


その理由は・・・・・・扱いにくいから

しかし、いくら扱いにくかろうが、最も宇宙飛行士の「資質」を備えているのは
間違いなくテストパイロットであろう、というところで技術者は折れ、
彼らを使うことに話がまとまります。
そこでパンチョの店「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」に現れるNASAのスカウトたち。

最初に秒速の壁を破る男チャック・イェーガーと、後にマッハ2を破る民間パイロット、
アルバート・スコット・クロスフィールドは、彼らに徹底的に反発します。




「人間の缶詰やモルモットになる気はないぜ」
とばかりチャックとこのスコットは宇宙飛行士への道を頭からはねのけます。



頭からつれなくされるスカウトマンですが、彼らにとっても「トップエース」はお呼びではありません。

「イェガーはダメだ。学歴がないし、クロスフィールドも民間人だから身元がどうたらこうたら」


しかしこの酒場にいたテストパイロットで、「それも悪くない」と考えた三人が、
飛行士の選抜試験を受けることになります。



ガス・グリソム、”ホットドッグ”ゴードン・クーパー、ドナルド・スレイトン。
つまり空軍代表選手です。



そして、海兵隊代表の無着陸大陸横断の勇士、ジョン・グレン少佐。(エド・ハリス)



そして海軍代表。
海軍兵学校卒、母艦乗りの戦闘機ドライバー、アラン・シェパード中佐
海軍では「パイロット」と言わず「ドライバー」というらしいです。
この時のスカウトマンが船酔いでゲロゲロになりながら言ってました。




空軍三人組に「海軍はダサい」と言われて彼らをにらむ、
ウォルター・シラー海軍中佐
F‐84でミグ15を撃墜したこともある母艦戦闘機乗りです。



そして、海兵隊のグレンとは「おつむの硬さ」では一二を争う、
M・スコット・カーペンター少佐
ただしこの「硬いおつむ」は非常に優秀な頭脳でもありました。
カーペンターは海軍大学で航空士官としての訓練を受けた後、
名門コロラド大学で航空工学を治めた秀才です。

この映画ではあまり出番はありませんが、このマーキュリー計画の
7人の宇宙飛行士の中では、後年最も有名になった人物です。
2013年8月現在、88歳で、92歳のジョン・グレンとともに健在です。


集められ50人の候補者から選ばれるのは7人なのですが、その選抜の様子、

これが面白い!
実に映画的な面白味があります。



この肺活量競争で最後に残るのがグレンとカーペンターなのですが、
この二人が奇しくも現在まで生き残って健在であるという・・・・・・・。

ほかの皆も比較的最近まで生存していたようですが、肺活量の強さって寿命と関係あるんですかね。

また、本人にはまったく何のためにされるのかわからない医学的実験もあります。

直腸になにやら薬を注入され、その器具を持たされたまま、全裸にエプロンで、
大男のメキシコ系看護人に廊下を首根っこつかまれて連れまわされる「それなんてプレイ
」状態。

エリートの自尊心ズタズタです。




とくに左のアラン・シェパードは当時はやりの芸人ビル・ドナの持ちネタである
「ホセ・ヒメネスの真似」をしているところをこのゴンザレスに睨まれたばかり。

よりによってこんなぎりぎりの場面でこの相手に全てを委ねなければならんとは。

「あのときはどうもすみませんでしたあ~ああ許してもうダメ!」状態。



「ホセ・ヒメネス」は、いわば1950年代、今ほど差別問題にピリピリしていなかった
アメリカで流行った、要するに「訛り」を面白がるという人種差別ネタですから、
当のメキシコ系はさぞかし不愉快に思っていたんでしょうね。

でも、シェパードが、トイレに行きたいのをこらえながら、ここでなぜか

「おれの成績は?」

と聞くと、ゴンザレスは

「あんたは宇宙飛行士になれるよ」

と太鼓判を押してくれます。
ゴンザレス、お前はいいやつだ。


このシェパードを演じるスコット・グレンが好演です。
名優ぞろいのこの映画の中でも特にユーモアで光っています。
シェパード飛行士は、アメリカ人で初めてカプセルによる宇宙飛行をしました(16分)。
スコットは「浣腸事件」に続き、このときも
たった15分の予定なので誰も想定していなかった尿意を催すという
「下ネタ」続きの役なのですが、宇宙服の中でしてもよろしい、と許可を得たときの
何とも気持ちよさげな至福の表情や、我慢の限界の苦衷の表情が何とも・・・。

しかしながら、同僚が宇宙に行くときに管制センターで声をかける時のきりりとした表情。



かっこいい。

そういえばスコット・グレンは「羊たちの沈黙」では、思いっきり7・3分けにして
ジョディ・フォスター演じるスターリングの上司を演じていましたが、覚えていらっしゃいますか?

ゴンザレスに連れまわされているのを見ると小男みたいですが、
実は一番7人の中で背が高いんですよね。

ちなみに、カプセルの中に入るというミッションのため、
身長が180cm以上、体重82キロ以上のものは検査ではねられました。

ここで、最終決定までの過程を書いておくと、

●当初、110もの軍関係の飛行士の集団からアイゼンハワー大統領の意向に沿って
大学卒の候補者を69人選抜。

身長が大きいので6人脱落。(最初から外してやれよ・・・)

33名が第一検査で失格。

●体位変換台、ウォーキングマシン、氷水に足を長時間浸すといった試験を拒否した
4人(宗教上の理由かな)が失格になる。


●第一検査でさらに8名が脱落

●残りの18名の中から最終的に7人が選抜される



こうして「正しい資質」(ライト・スタッフ)を備えた7人が選抜されたのでした!パチパチパチパチ


ちなみに、当初マーキュリー計画は飛行士を6人と決めていました。
69人の参加者の中から選抜していき、最終的に7人が残った時、
もう一人脱落させようとしてふと気づけは、この時のメンバーは、

海軍三人、空軍三人、海兵隊一人。

つまり、どこを削ってもバランスが、ということで、ここで三軍の面子が重んじられ、
この7人に決定したという経緯があるようです。

しかしどこの国でも、軍の間っていろいろとあるんですね。いろいろと。 
我が陸海空自衛隊は、お互いうまくいっているのであろうか。

ふと心配になってしまうエリス中尉であった。 




そして宇宙飛行士お披露目の記者会見で、ほかのメンバーがおずおずする中、
一人目をキラキラさせて清く正しく美しい大正論で演説をぶちかますグレン。

ほかのみんなは最初こそ毒気を抜かれてぽかーんとしていますが、
グレンの演説が大うけなのでだんだんその気になって・・・・・

「誰が最初に宇宙へ?」



「は~い」「はい俺」「俺俺」「わたし」「拙者」

世間が自分たちに何を期待しているかがようやく理解できたと言ったところです。

ちなみに、このジョン・グレンは、後に上院議員になりました。
この時の「演説」は、その未来を彷彿とさせます。

また、グレンは1998年、77歳でスペースシャトルディスカバリーに乗って
もう一度宇宙に行き、最年長記録を作っています。
この時のディスカバリーには、日本の女性宇宙飛行士、
向井千秋が乗り込んでいました。

そしていまだ健在。全く元気な爺さんですこと。

そして、アメリカの「ヒーロー」となった彼らは、メディアの前に
そのように振る舞うことを要求されます。












しかしながらこのころアメリカのロケット打ち上げは失敗につく失敗続き。
ソ連に先を越されて焦る一方で、数か月ロケットが上がらないのを
飛行士たちはじりじりと見守るのみ。

 

気持ちも盛り下がる一方です。

妻とも引き離される生活の中で、無聊を託ち、ロケットは飛ばないばかりか、
NASAの科学者とはその扱いを巡って衝突ばかり。
そんな生活におかれた若い血気盛んな男のすることは・・・・・・・。



「(7人のうち)4人は陥落よ。あと3人」
などと、地元の遊び人のターゲットにされて喜んじゃったりとか。

そこで、カタブツのグレン飛行士が
「貴様らはたるんどる!」とか言い出して険悪に。
それでなくても海軍空軍間のいろいろや、性質の違いによる齟齬、
それに焦りと苛立ちが加わって、一即触発です。



さて、冒頭にもお話ししたように、アメリカの宇宙計画そのものが「ソ連に負けまい」として
政治主導で起こされた国力の顕示であったわけです。
そして、この宇宙開発の実績をあわよくば自分の政治基盤に役立てようと
なりふり構わず利用しようとする政治家の欲望が渦巻いていました。

この映画には当時副大統領で、ケネディ暗殺を受けて大統領になったジョンソンが、
実名であちらこちらに「暗躍」している様子が描かれています。

「わたしは共産主義者の月の光で寝付く気はないね」

「人工衛星を上げたのは抑留されたドイツ人科学者か」
「違います。我が国のドイツ人の方が優秀です」

「共産主義者の奴らはロケット開発をしてそのうち我が国に核爆弾のを降らせる気だ
彼らに先を越されるとは何事だ」

「我が国は航空機で国威を上げた。これからは宇宙を支配する者が世界を制する」


これがジョンソンのセリフとして語られるのです。

つまり、純粋な科学発展や真理の追究なんてものではなく、この計画の根底にあったのは
ただ大国アメリカの国威とプライドのかかった競争、という構図だったというわけです。


アメリカ人初の宇宙飛行士になるという夢を持って集まってきた彼らは、
その準備の段階で、垣間見える政治家の欲望、そして自分たちに課された任務の意味に疑問を持ち、
だんだんとバラバラの状態から一致団結して、それらと「対決」していくことになるのですが、
このことについては後半でお話しすることにします。


それにしても、「モルモット」になることを拒み、あくまでも自分の目標である
「音速の壁を破ること」への挑戦を続けたチャック・イェーガーは、
彼ら宇宙飛行士を見てどのように思っていたのでしょうか。

そして、すっかり忘れがち(笑)ですが、チャック・イェーガーの空への挑戦は・・・。



 

 


記念艦三笠~海軍音楽隊かく戦へり

2013-09-17 | 海軍

週末は海上自衛隊音楽隊の演奏を堪能したわたしですが、
続けて、今日は旧海軍時代の軍楽隊の話題と参ります。


かねてから読者の方から日本海海戦に三笠乗組で参戦した
元海軍軍楽隊長・河合太郎氏の「軍楽隊員かく戦えり」
という手記を戴いていたので、これをご紹介させていただきましょう。

河合太郎氏は明治17年生まれ。
日露戦争当時、三笠乗り組みの三等軍楽手としてコルネットを吹いていました。
朝8時と日没に君が代を演奏し、戦闘中は戦闘員として無線助手をしたり、
伝令を務めていたそうです。

それではどうぞ。




「軍楽隊員かく戦えり」

5月27日、全艦隊は根拠地鎮海湾を出発、対馬海峡へ向かった。
私たちは出陣の晴れ着にと、戦闘服から褌にいたるまで、
みな新調品に取り替えた。
原籍と自己の戦闘配置を記した小型の木札を肩から掛け、
少量の毛髪と爪とを私用の小箱に納め、死を覚悟して戦いに臨む準備をした。

艦隊は対馬海峡を南下しつつあった。
正午過ぎ「総員甲板に集合」の号令が艦内に伝わった。
揺れ狂う甲板の上では足を支えることも困難なくらいであったが、
みな緊張して後甲板に走った。

「一同に訓示する」

館長伊地知大佐は12インチ砲塔の中段から、
やがて声を新たに厳然として訓示を始められた。
67年を経た今日でも、私はこれを暗唱できる。

「本官は最後の訓示をする。
諸子もすでに承知の通り、今から一、二時間の後には待ちわびた敵
バルチック艦隊といよいよ雌雄を決戦とするのである・・・」


艦長の癖であった右指一本で小鼻を撫でてはにじむ涙を拭き、つづけた。
その終わりの言葉はこうだった。

「諸子の命は本日ただいま、本官が貰い受けたから承知ありたい。
本官もまた、諸子と命をともにすることはもちろんである。
いまからはるかに聖寿の無窮を祈り、あわせて帝国の隆盛と
戦いの首途(かどで)を祝福するため、諸子とともに万歳を三唱したい」と―。




艦長伊地知大佐の訓示が終わってから数時間後、
煙突を黄色に塗った敵艦が姿を現した、
そのとき一人の水兵が大きな声で叫んだ。

「おい、金玉はだらりとしているか。硬くなっている奴は臆病者だぞ」

みな自分のものを点検して大丈夫だといったが、わたしのは平常より
ややという気がしないではなかった。

間もなく戦闘ラッパがなり、もうこれで逢えないぞ、元気で頑張れと
各自の配置に飛んで行った。
いまでもときおり想い出しては、独り笑いをすることがある。



そしていよいよ戦いが間近に迫ったとき、

「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」

この訓示が私の伝声管に響いてきた。
すぐ砲塔無いはもちろん、各伝声管に伝令した。
下甲板の弾庫で鬨の声があがった。
今こそ命を、国に献(ささ)げるときが来たのだ。
いいあらわし難い感激が若い私の総身をふるわせたことを忘れられない。



太陽は没し暗夜の海を全艦隊は追撃を続けていた。
いたるところ弾痕の刻まれた上甲板で、私は無事であったことを不思議に思った。
中、下甲板は負傷者であふれていた。
浴室に運ばれた戦死者が、まるで鰯でも積み重ねたように見える。
合掌して、冥福を祈った。

水兵たちは明日の戦闘の準備に余念がない。
私たち軍楽隊の健全なものは、負傷者の看護に夜を徹した。
私は二人の重傷者を受け持った。
一人は東北出身の福岡二等水兵。
彼は右足を膝から下と左足首を失っていた。
艦内の温度が高いため折り重なった肉体からはすでに臭気が発している。
耳元で「しっかりしろ。何か言うことはないか」と叫んだが、
彼は目を閉じたまま「遠い、遠い」とつぶやいただけであった。
何が遠いのか、敵艦との距離か故郷か旅路か、今でもわからない。

もう一人は岐阜県出身の吉田菊次郎一等水兵で、
上甲板右舷6インチ砲の射手であった。



激戦中敵弾が命中し、村瀬水兵以外は全員死傷。
彼は両脚をひざ下からもぎ取られ、おびただしい出血で死を約束されていたが、
ときどき大きな声で

「なにくそこの野郎、あっ、命中!弾を早く持ってこい」

と怒鳴った。
それも次第に弱くなり青ざめていた。
「何か言うことはないか」
と聞いても、相変わらず戦いのうわごとである。

急いで軍医長を迎えに行くと、鈴木軍医総監が来た。
色を失った彼の唇がヒクヒク動き、かすかに

「テッ、テッ、テッ・・・・」

ときこえた。
砲撃のうわごとかと思った。
しかし、かれが言いたかったのは

「天皇陛下万歳」

の一言だったのである。
息絶えた骸(むくろ)に私たちは暗然として頭を垂れた。



バルチック艦隊は全滅した。
が、まだ戦時体制である。
聯合艦隊は九州方面の沿岸警備についていた。
9月9日、第一艦隊は佐世保に入港。
東郷長官は秋山参謀その他の幕僚とともに陸路上京された。
兵員は予定作業を終えると、夕刻から半舷上陸外泊を許された。

ひさしぶりに土を踏む喜び。
10日は残りの兵員。
在艦の兵員は、昨夜の思い出を語り合った。
その夜、十時過ぎ、大音響とともに火薬庫が爆発、三笠は爆沈した。


三笠軍楽隊の先任下士官一等軍楽手河野定吉は
九日上陸し佐世保の自宅へ戻った。
かれは大のウナギ好きであった。
夫人はそれを良く知っていたが、満足してくれそうな鰻が見つからず、
明後日の上陸番にはおいしいものをたくさん買っておくことを約束した。
いささか不満ではあったが、かれは夫人の気持ちを察し、山海の珍味で祝杯を挙げた。

翌日帰艦し、その夜、かれは爆死した。

生き残ったかれの親友が自宅を訪れたとき、夫人は真っ赤に泣き腫らした瞼をおさえ、

「ごめんなさい、どんなにか鰻が食べたかったことでしょう。
こんなことになるんだったら諫早まで出かけても買ってくるのでしたのに、
勘弁してください」

と遺骨の無い仏前に泣き伏してしまった。
仏前に供えられたたくさんのかば焼き、その匂いと立ち昇る香の匂いとが混じりあい
悲惨だった、とその友は話してくれた。

三度の爆発で水中に沈んだ三笠は、
満潮時に煙突の半分、干潮時になると上甲板が見えた。
艦の引き揚げ作業に従事しているたくさんの船には、
『三笠引揚御用船』と書いた立札がたっていたが、
何回引き揚げようとしても沈んでしまうので、口の悪い兵隊スズメは、
三笠引揚御用船ではなく三笠引揚用船(ようせん、よう出来ないの意)
とやじった。

その三笠も、いまは横須賀港の岸壁に記念艦として保存されている。

(文芸春秋臨時増刊 昭和47年11月号)



河合太郎氏は戦後呉に在住し、
昭和51年に92歳で亡くなるまで吹奏楽の普及に尽くしました。

91歳の時に瀬戸口藤吉作曲「日本海海戦」を指揮して、
レコード録音を残しています。

現在海上自衛隊呉音楽隊が練習室として使用されているのは
「桜松館(おうしょうかん)」といい、旧海軍が下士官兵集会所に隣接して建てたものです。
ここには小さいながら「河合太郎のコーナー」があり、
河合太郎が使用していたタクトや叙 勲の勲記・勲章、著作物などが展示されているそうです。


亡くなる直前、「日本海海戦」という瀬戸口藤吉の楽曲の録音に
91歳の河合はタクトを取りました。
しかしそのときの演奏が気に入らず、ついには「だめだ!」と叫んで
椅子から立ち、楽団員をはたと睨み据えました。
そのときの河合の姿は海軍軍楽隊長そのもので、軍楽隊の経験を持つ何人かの隊員が
昔を彷彿とし、かつ威儀を正さずにはいられない気迫に満ちていたそうです。




海上自衛隊東京音楽隊第48回定例演奏会 後半の部

2013-09-16 | 自衛隊

9月14日、東京はすみだトリフォニーホールで行われた。
第48回海上自衛隊東京音楽隊定例演奏会についてお伝えしています。

プロコフィエフのピアノ協奏曲3番という「渋い」演目で前半を終了し、
後半には打って変わって、というか自衛隊音楽隊の本領発揮というべきプログラムが
ゲストを迎えて息つく間もなく演奏されました。

INTO THE LIGHT~光へ~/河邉一彦二等海佐

これは、プログラム三番の

BLUE SUNSET ブルーサンセット

とともに 「自衛隊作曲家」である河邉二佐のオリジナル作品です。

ともに、まったく先入観なしで聴いても「海」を感じさせるテーマを内包しており、
以前ご紹介した「イージス」
が、ラッパ譜のモチーフがメロディとオブリガート、
あるいは通奏低音のように絡んでくるという、「自衛官にしか書けない曲」であるように、
これらもまたそういう意味では特異なジャンルに属するのではないかと思われます。


ところでわたしは、この日ロビーで三宅由佳莉三曹のアルバムを購入しました。
このCDを聴いても、たとえば久石譲などの聴いても 思うことですが、
「ああ、日本人の曲だなあ」
とすぐ分かってしまう佇まいの音楽があります。

たとえば息子が聴いている、ゲーム音楽ばかり集めたアルバムでも、
明らかに日本人の手による音楽には「日本人らしさ」が節回しにはっきりとあって、
すぐにそれとわかってしまうのです。
たと西洋音楽の理論によって書かれ、ジャズやサンパのリズムであっても、
メロディだけは不思議と「日本人らしさ」を隠せないことが多いのです。

一昔前、それこそ1970年代ごろ書かれた軽音楽には、この「日本人らしさ」が、
どちらかというと洗練されていない臭味のように感じられるものが結構あるのですが、
昨今ではそれらはソフィスティケートされているうえに、
その日本らしさこそがユニークな味付けとして世界にも受け入れられているといった感があります。

河邉二佐の手による曲にはこの「日本人の血あるいはDNA」の存在が非常に濃く感じられ、
たとえば「交響組曲《高千穂》」のように、民族情緒と西洋音楽が融合し、
そこに「大衆に膾炙するポビュラリティ」がほどよく塗されていると言えましょう。

しかも(笑)

東京音楽隊には、「最終兵器」である歌手、三宅由佳莉三曹がいて、
ヴォーカルを曲のごく一部にだけ加える、ということが可能なのです。

本日演奏されたこの二曲でも、曲の途中で彼女が登場し、一節歌って引き上げる、
という、普通なら考えられない贅沢な?構成がなされていました。

皆さまもすでにご存じ、この三宅三曹は、4年前に自衛隊初の歌手として入隊した、
今注目のヴォーカリスト&自衛官ですが、彼女をソロ・ヴォーカルとして歌わせるだけでなく、
ヴォーカルをこのように楽団の一つのパートとして扱うという、ある意味非常にユニークな音楽形態を
日本国海上自衛隊は新境地として編み出したといっても過言ではないでしょう。

曲の途中に、すらりとした彼女が爽やかな風のようにステージに現れる。

それだけで会場の空気さえさっと変わるほどの存在感は、
最近彼女に対する世間の注目が非常に高いことと無関係ではないでしょう。
それは「時の人」の持つ独特なオーラと言ってもいいものでした。


ココベリ /エリック宮城(みやしろ)



ここでゲスト登場。

出てきた途端、空気が変わったのはこの人も同じでしたが、それはなんというか
「自衛隊」とこの、金髪を肩まで垂らした堂々たる体格のトランペッターの
「違和感」によるとことが多かったのではないかと思われます。

しかし、この金髪おじさんが、凄かった(笑)

上の経歴を見てもその実力がお分かりだと思いますが、
トランペットの演奏はもちろんのこと、この「ココベリ」という、
アメリカ先住民族の精霊の名をつけたオリジナル曲や、

ロッキーのテーマ/ ビル・コンティ

の編曲の巧みさにも唸ってしまうほどでした。
ロッキーのテーマは、ご存知のように冒頭の

「パー パーパパパーパパパーパパパ パー パーパパーパーパパーパーパパパ

パーパパパーパパーパーパーパー パーパパパパーパーー」

のあと(分からない人すみません)メロディに入るわけですが、
ここをメロディに入る!と思わせて古典ファンファーレ風終止をするようなアレンジをしており、
「おお、やるな」と思わせました。

エンターティナーとしてもキャラの立った人で、見ていて本当に楽しいステージ運びをします。
アンコールでは、

「マリア」ウェストサイド・ストーリー/ レナード・バーンスタイン

をしてくれたのですが、作曲者のバーンスタインから直接聞いた話として
作曲におけるバーンスタインのこだわりを聞かせてくれました。
少し専門的な話になるのですが、面白かったので書いておきます。

「まり~あ~」

というこの曲のメロディは、Bフラット、変ロ長調のキイで

「シ♭ミ~ファ~」

という音を充てます。
B♭の基本三和音というのは、シ♭・レ・ファでできていますから、「マリーアー」は、
第一音と第五音のシ♭とファに、不協和音をなす「ミ」の音が入っているわけです。

バーンスタインに言わせると、この

「シ♭はトニー、ファはマリアを表す」

では、この、B♭の和音でいうと減5にあたる「ミ」の音は何かというと、
「二人の間に横たわる障害」を表すのだそうです。

エリック氏もこの時に言っていましたが、昔、古典の時代、音楽そのものが
神に対する讃歌であり貢物であった時代には、不協和音というのは「悪魔の響き」であり、
それを使うことは「異教」にも通じる罪悪だとされたのです。

ちなみに、いまメジャー7と呼ぶところの第七音なども厳禁されていました。
その「悪魔の音」である♯11th(第11音)
を、全く禁じられていない現代において、

バーンスタインは「ネガティブなもの」の象徴としたというわけです。


一音一音に実は宗教的な意味があった昔はもちろん、近代、現代の作曲家が
音列や音名にある「意味」を込めることは珍しくありませんが、この「マリア」に
そういう意味があったことは知りませんでした。


フォー・ブラザーズ/ジミー・ジェフリー

この曲を、男女4人のジャズ・コーラスグループ、マンハッタン・トランスファーの演奏で知った、
という方もおられると思いますが、もともとはビッグバンドのための曲で、
この「四人兄弟」とは、ソロを取るサックスのホーンセクションの粋な兄さんたちのことです。

ビッグバンドジャズではそれぞれのボックスがあってそこに立ち上がってソロを取るのですが、
海自音楽隊においては、いちいち前に出て来てアドリブ演奏をします。

アドリブはコーラスパートをワンコーラスずつ受け継いでいくのですが、終わった時
観客はソロ奏者に対してねぎらいの拍手を送ります。

しかしこの日の観客は、その拍手のタイミングが「始まるのが遅く、終わるのが遅い」
つまり、皆が拍手するのを聴いてから拍手を始めるため、
次の奏者のソロが始まっているのに拍手が続いてしまっている状態でした。

こういうのを見ると

「ジャズ”も”あまり聞き慣れていない客層なんだな」

と考えずにはいられませんでした。
しかしそれは決して否定的な意味ではなく、クラシックにおける「楽章間の拍手」の件でも言ったように、
「そのジャンルに精通していない人たちにももれなく楽しみを提供する」
という本来の音楽隊の使命がちゃんと果たされていることでもあると思った次第です。

この曲が始まった時、小柄な、しかしネクタイの激しく「玄人っぽい」(つまり派手)、
年配の男性が、団員に混じりました。



日本のビッグバンド界の長老というこの方が、自衛隊音楽隊に、ビッグバンドのレパートリーを
アレンジ提供し続けてきた方のようです。

この後演奏された

フリーダム・ジャズ・ダンス/エディ・ハリス

スペイン/チック・コリア

など、ジャズのナンバーの編曲はこの方の手によるものだということがわかりました。
このスペインは、フュージョンのプレイヤーならずとも、ジャズプレイヤーならおそらく
一度は演奏したことがあるのではないかと思われるスタンダードとなっています。
わたしもセッションではよく取り上げたものです。

ところで、この際だから少し言っておきたいことがあります。

自衛隊演奏の「スペイン」、これ、違うんですよ。オリジナルと。
いつも思っていたのですが、そしてオリジナルを知っていて、かつ実際に演奏する人間には
とても気持ち悪く聞こえるのですが、



 

これがオリジナルの譜面です。
おせっかいにも数え方を赤で記しておきました。

「出だしのユニゾンに続く二回の『たーたったー』
この数え方は、本来「3拍+4拍」(+一拍休み)なのですが、自衛隊の演奏は、
わたしがitunesでも持っているものもこの日の演奏も、ここのところが

「タータッターーー」(4拍)
「タータッターーー」(4拍)

なんですよ。
普通というか、安易というか、当たり前のリズムに変えられてしまい、オリジナルの
この激しい変拍子の緊張感が全く無くなってしまっているんですね。

ちなみに後のユニゾンのところ、




ここのところも、オリジナルとは微妙に違うのでいつもキモチワルイです。
面倒くさくなったので解説は省きますが、譜面の読める方はこれと自衛隊演奏の
リズム(一部メロディも違う)を比べてみてください。

海上自衛隊「スペイン」

パイレーツオブ・カリビアンの「彼こそが海賊」の2拍3連の演奏でもそうですが、
海自音楽隊の演奏レベルを考えれば、ここを安易にする必要も全くないのに、
簡単な(しかもつまらない)リズムにしてしまっているのはなぜだろうと、
わたしはかねがね不思議&不満に思っていたのですが、この日、謎が解けました。

↑この方のアレンジがそうなっているってことだったんですね。

もしかしたら、この方は、これをアレンジした時にオリジナル譜面からではなく耳コピーして、
そのためリズムを勘違いしたのか、という疑惑すら芽生えてしまった次第です。

その疑惑がさらに深まったのは、この方が隊員の中で演奏していて、そのスペインで
一回だけアドリブ・ソロを取ったときでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

いや、ここで何かを言明してしまっては、自分の耳で判断できない方々が
「そうなのか」
とこのときの演奏に対して簡単に手厳しい評価を加えてしまいそうなので、これを言うにとどめますが、
つまり、なんというか、「日本の」「古い時代」のジャズの人、なんですね。
アレンジャーとかビッグバンドのバンマスとしては多分力のある方なんだとは思いますが。

以上です(笑)

でも、もし自衛隊音楽隊がこのおじさんに「義理立て」してこの譜面にこだわっているのなら、
ご本人が健在のうちにオリジナル通りに直してもらった方がいいと、わたしは個人的に思います。

そしてどんな理由があったとしても、原曲のメロディをこんな風に変えちゃいけないと思うの。


それから、パンフレットにももうひとこと言わせてもらえば、
「日本のビッグバンドの水準を初めて国際レベルに引き上げた」のは、この人ではなくて
シャープス&フラッツの原信夫ではないでしょうか。
ニューポートジャズフェスティバルで「また日本軍が攻めてきたぜ!」とディジー・ガレスビーに言わせた
海軍軍楽隊出身の原信夫を、海上自衛隊ともあろうものが忘れていただいては困る。


さて、この日の記念に、わたしはロビーで販売されていた三宅三曹のCDを買って帰りました。
特典として超特大ポスターが付いてきましたが、これ、どうしよう(笑)





とにかく今、これを聴きながらタイピングしていますが、いいですよ~。
まだ購入されていない方は是非。(ステマ)

中でも、河邉二佐が、三宅三曹のヴォーカルを想定して作曲した
記念すべき最初の作品である「交響組曲《高千穂》」の一曲、

仏法僧の森

は、いい曲過ぎて鳥肌がたってしまいそうです。
そして、以前このブログ中「歌のためのメロディではない」と酷評した
某公共放送の応援ソングも、この人が歌うとあら不思議、何の違和感も、
何の無理も感じさせず、原曲の不備を補ってあまりあるすてきな曲に。

「世の中に駄作はない。どんな曲も演奏家によって名作になる」

という言葉はある程度本当だと納得させられてしまったほどです。

彼女が歌手として人気が出たのは、その声ののびやかさと透明感のある音色によるところが
大きいのですが、それだけでなく、何と言ってもご本人の魅力でしょう。

なんというか、出てくるだけで目が釘付けになり、歌が始まったら文句なしに耳を惹きつけ、
そして歌い終わった彼女に対してつい笑いかけずにいられないスター性、もっと言えば
カリスマ性すら持っていると、実際ステージの彼女を見て思いました。

なんといっても、一緒に演奏している団員がみな彼女が歌い終わる度に口元を緩め、
ニコニコと見守っているんですよ。
ああ、これはきっと、一緒に演奏している隊員たちも彼女が好きなんだな、
と彼女の愛される人柄まで見ているだけでわかるような気がするのです。

このCD、発売に際しては結構大きなニュースになり、さらには今現在、クラシックの
CD売上が第一位なのだそうですが、海上自衛隊はまったく得難い人材を得たと改めて認識しました。


彼らはもちろん位置づけとしては「プロオケ」なのですが、この日のコンサートを見て思ったのは、
プロにしてはあまりに彼らは音楽をすることそのものが楽しくて仕方がないようです。
もちろんどんな音楽家も音楽をすることが楽しくないわけがないのですが、
いわゆる普通のプロオケにはない、そう、例えればアマオケとか、学生オケのような、
晴れ舞台に対し、構えたところや衒いの一切ない素直さが溢れだしているというか。

それは聴いているものにも十二分に伝わり、それゆえ演奏会が終わった後、
自衛隊音楽隊の大ファンにならずにはいられないというくらい、その演奏の魅力を倍増させていました。



そして、昔から国民に音楽を通じて貢献してきた自衛隊の姿。



「肩のこらないコンサート」に少しウケてしまいますが。
いや、あなた方のコンサートで肩の凝るものってあるのかしら、みたいな(笑)



1964年の東京オリンピックの写真を見て思い出しましたが
2020年の東京オリンピックが決まりましたね。
ファンファーレはもちろん東京音楽隊がするのでしょうし、
各場面で自衛隊音楽隊が陸海空問わず大活躍するのだと思われます。

そこで!

開会式の国歌独唱は
、ぜひ7年後の三宅三曹(そのころは一曹かな)にしていただきたい。

みなさま方もそう思われませんか?